したゆく水
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著者名:清水紫琴 

お前こそは、二度までも、旦那を途中で遁したは、恠しい了簡、それ聞かふ。おおかたこの間赤坂の、お帰り道が、かうかうと、忠義顔して、いやつたも、何が何やら分りはせぬ。お前一人は、味方ぞと、頼んでゐたが私の誤り。もうもう誰も頼みはせぬ。寄つて掛かつて、この私を、あくまで、馬鹿にするがよい。私は、私の了簡が』と。すつくと立つて、どこへやら、駈出すつもりが、ぐらぐらと、持病の頭痛に悩められ、ばつたり、そこに仆れたる、後はすやすや鼾の声。まさか寝たのじやあるまいな。これが気絶か、馬鹿馬鹿しい、脆いものだが、捨ててもおけまい。どうしてやらふと、水さしの、水を汲んで、奥様と、二声三声じや埓明かぬ。歯を喰ひしばつてゐるからは、詮方がないと、口うつし。ついでに足も温めてやらふと。己れの肌に暖めて、そろそろ撫でし、鳩尾へ、水が通ふて、うつとりと、眼を開いたる鹿子が驚き。これはどうぞと、吉蔵を、振除けたいにも、力なき、片手を、やうやう挙げかけし、ところへお松がうつかりと。はいただ今と顔出して、喫驚仰天(びつくりぎようてん)逃げて行く『あの顔付ではいひ訳しても、とてもさうとは思ふまい。困つた事をしてくりやつた。真実過ぎた介抱が、わしや怨めしい』の当惑顔を。心ありげに吉蔵が『奥様それでは、私も、お怨み申さにやなりませぬ。口から、口へ、口うつし。演劇(しばい)で見ました、その摸型(かた)を、一生懸命、やつとの事で、繋ぎ止めたるお生命を。心の駒が狂ふての、所為(しわざ)と御覧なされたか。下司の悲しさ、吉蔵が、これまで尽くした、御奉公。お気に済まぬと仰しやれば、どうも詮方はござりませぬ。直ぐにもお暇戴いて、お身の明りを立てさせませう』と。すごすご立つを、まあ待ちやと、鹿子は留めて。両頬に、ふりかかりたる後れ毛を、じつと噛みしめ口惜し泣き『かうなるからは詮方がない。お前に暇を出したとて、お松の口が塞がぬ上は、やつぱり嘘が真実(まこと)になる。さうでなうても、この間から、衆婢(みんな)が可恠(あやし)う思ふてゐる、素振りが見えるに、なほの事、腹が立つてたまらなんだも。かうした訳に落ちてゆく、因果の前兆であつたやら。これもやはり旦那のお蔭。お前は怨まぬ、了簡据えた。いふものならば、いはせておき、行くところまでは、行てみるつもり。お前もこれからその気[#「その気」は底本では「そ気の」]になつて。まさかの時の力になりや』と。思ひの外の道行が、お園の方へこれ程に、はかどつた事ならば、とうに成仏しやうもの。やはりこれでは、どこまでも、慾を道連れ、赤鬼の、役目を勤めざなるまいと。肚(はら)に思案の吉蔵が、表面(うはべ)ばかりの喜び顔『それ程までに吉蔵を、思召して下さるからは、滅多に置かぬ、狂言ながら、かうも致してみましうか』と。鹿子の耳へ吹込みし、『工(たく)みは何よりそれがよい。それでは、お園の旧夫(おつと)とやらを、お前が巧手(たくみ)に取込んで。お園を殺すと威赫(おど)させたら、お園が退かふといふのかえ』『もし奥様、お声が高うござりまする。お竹もどふやら帰つた様子。ここ四五日に埓明けずば、こちらが先に破れませう』と。悪の上塗、塗骨の、障子を開けて、こつそりと。庭から長屋へ、下がつて行く。悪事は千里、似た事は、まこと、ありしの噂となりて。明日は婢が口の端を。御門の外へ走りしなるべし。

   第八回

 はいお頼み申しやす。この家に、お園さんと仰しやる[#「仰しやる」は底本では「しや仰る」]がお出での筈。私は深井の旦那から頼まれて、内証の御用に参つたもの。御取次下されませと。心得顔におとのふを。太田の下女が、うつかりと。はいはいさうでござんすか。あすこにお出でなされますると。お園が住居の裏口を、教ゆるままに、しめたりと、跡を、ぴつしやり、さし覗く。障子の影に、お園が一人、もの思ひやら、うつむいた、外には誰も居ぬ様子。ちやうどよかつた、はいこれは、お久し振りでと入来る。顔を見るより、ぎよつとして、逃げむとするを、どつこいと、走り上がつて、袂を捉え『これお園さん、どうしたもの。この吉蔵を、いつまでも、悪玉とのみ思ふて居るのか。先づ落着いて聞くがよい。生命に拘はる一条でも、この己れからは、聞かぬ気かと。嘘と思へぬ血色に。お園も、もしや奥様の、お身の上ではあるまいかと。心ならずも坐に就くに。さこそと吉蔵微笑みて『甘くやつたぜ、お園さん。とうとう正直正銘の、お妾さんと成済ました、お前に位が付いたやら。何だか遠慮な気がする』と。そこら一順見廻はして『かう見たところが、見越の松に、黒板塀は、外搆え。中はがらりと、明き屋の隅に、小さうなつて、屈んでゐるは、旦那に合はせて、お麁末千万。お前もあまり気が利かぬ。これで生命を亡くしたら、冥途でたんと、釣銭が取れ、鬼めに、纒頭(てんとう)が、はづまれよ』と。空嘯(そらうそぶ)いて、冷笑ふ。顔を憎しと腹立ち声『何の御用か知りませぬが、用だけいふて貰ひましよ。お妾なぞと聞こえては、私の迷惑、旦那の外聞。ちとたしなんで下さんせ』と。いふに、ふふつと吹出して『その外聞なら、とうから、たんと、汚れてゐるのでおあいにく。この近所での噂は知らぬが、お邸の界隈では、専らの大評判。旦那の顔が汚れた代はり、お前は器量を上げてゐる。お園さんは腕者(たつしや)だと、行く先々の評判が、廻り廻つて、奥様の、耳へは、大きく聞こえてゐる。やれ孕んだの、辷つたと、どこから、噂が這入るやら。何でもそこらで、見たものが、あるとの手蔓を、手繰り寄せ。己れさへ知らぬ事までも、いつか知つての大腹立ち。己れは一度も供せぬと、いふても聞かぬ気の奥様。今日この頃では、全くの、気狂(きちが)ひを見るやうに、そつちも、ぐるじやと、大不興。知らぬが定なら、これから行つて、どこなりと探し当て、お園をこれで殺してと。まあさ、そんなに、真青な顔をせぬがよい。何の己れがその様な、無暗な事をするものか。生命が二ツあつたら格別、一ツしかない身体では、そこまでは乗込まぬ。小使銭に困つた時、ちよつくら、御機嫌とつたのが、今で思へばこの身の仇。飛んだ事まで頼まれて、迷惑は己れ一人。否といふたら、自分の手で、探し出しても、殺してみせると、いはぬばかりの見幕を、知つてはお前が気遣はしさ。まづはいはいと請合つたも、お前の了簡聞いた上、二度と邸へ帰らぬつもり。まづその事は擱(さしを)いて、奥様が頼んだ証拠これ見や』と。懐探つて取出すは、かねて見知りし、鹿子が懐刀。お園を威赫(おど)かす材料(たね)にと、鹿子を欺き、助三に、与へるものと偽つて、取出したるものぞとは、神ならぬ身の、お園は知らず。よもやと思へど、その事の、ないには限らぬ奥様の、気質はかねて知る上に。動かぬ証拠、もしひよつと。ても恐ろしの奥様と、身顫ひする顔。よいつけ目ぞと吉蔵が『何と違ひはなからふが。ところでお前はどうするつもり。さつぱり旦那と手を切らずば、ここで己れが見遁しても。どこぞで探し当てられて、執念深い奥様に、殺されるのは知れた事。それよりは、今の間に、逃げて助かる分別なら、及ばずながら、この己れが、引請けて世話しやう。憚りながら、かう見えても、仲間で兄いと立てられる、男一匹、何人前。梶棒とつては、気が利ねど、偶(てう)と半との、賽の目の、運が向いたら、一夜の隙に、お絹布(かいこ)着せて、奥様に、劣らぬ生活(くらし)させてみる。えお園さん、どうしたもの。沈黙(だま)つてゐるは死にたいか。それとも己れに依頼(たよ)つてみるか。了簡聞かふ』と詰掛くるに。さてはさうした下心。弱味を見せるところでないと。早速の思案、さりげなく『それはそれは、いつもながら、御深切は嬉しう受けておきまする。したが吉蔵さん、私がかうして、旦那のお世話になりますも、事情(わけ)があつてといふではない。誓文奇麗な中なれど。かうしてここに居る限りは、疑はれても、詮方がない。この身に覚えのない事で、殺されるのは私の不運。覚悟は極めてゐまするほどに、いつなと殺して下さんせ。少しもお前は怨みませぬ。忠義を立てたが、よござんせう。よしない私をかばいだて、お前の身体を失策(しくじ)らせ、私は不義の名に墜ちる。それが何の互ひの利得。世には神様、仏様、それこそは、よう御存じ。どこぞで見ても下されやう。無理に死にともない代はり、生きたふも思ひませぬ。生命は、お前と奥様に、確かに預けておくほどに、御入用なら、いつなりと、受取りに来て下さんせ』と。動かぬ魂、坐つたまま、びくともせぬに、口あんぐり。どこまでしぶとい女子か知れぬ。さうと知りつつ、出て来たは、こつちの未練、馬鹿を見た。よしこの上は、そのつもりと、いふ顔色を顕はさず。わざと心を許さする、追従笑ひ、にやにやと『なるほどそれはよい覚悟、男の己も恥入つた。がお園さん、短気は損気といふ事を、お前も知つてゐやうから、ゆつくり思案するがよい。ここしばらくは、奥様に、在所(ありか)が知れぬといふておく。確かに己れが預つて、滅多な事はささぬから、思案を仕替えて見るがよい。惚れた弱味は、いつの日に、頼みまするといはれても、その事ならば否とはいはぬ。殺す役目は真平御免。いつかのお前の台辞(せりふ)じやないが、外を尋ねて下さんせか。あい……、いやこれはお邪魔をした。いづれその内聞きに来る。色よい返事を頼んだ』と。始めの威勢に引替えて、手持不沙汰に帰りゆく。跡見送つて、張詰めし、心のゆるみ、当惑を、誰に語らむよしもない、疑ひ受けるも無理ならねど。それにしても、あんまりな。この間から旦那のお越を、心で拝んでゐながらも、ここが大事な人の道。踏み違えてはなるまいと、わざとつれなう待遇して、お帰し申すは誰の為。旦那のお為は、奥様の、為ともなつてゐるものを。それ御存じはないにせよ。殺せとは何の事。無慈悲にも程がある。それを、おとりに、吉蔵が、またしても、いやらしい。憎いは憎いが、奥様が、なほの事で怨めしい。とてもの事なら、この後は、嘘を真実にした上で、あくまでものを思はせて、死んだら私も本望か。いやそれが、何の本望、本望が、外にあるので邪魔になる。この母さんは、なぜ私に、たとへ賤しう育つても、心は高う持てとの事、教へておいて下さんした。知らずばともかく、知りつつも、横道へは外れられまい。この一ツでは、私が負ける。あんな奥様勝たして置くが、どうでも私の道かいなと、袂を噛んで泣き沈む。背後の障子の、すらりと開くに。ゑゑまたしても物騒な。誰ぞと見れば、澄なり。嬉しや旦那の御越か。今日は万事を御意のまま、さうさへすれば敵が取れると。胸の痞(つか)えはおろしても、またさしかかる思ひの種子。かうした様に、こんな身が。おお怖わや、恐ろしや、もうもう重ねては思ふまいと。我と我が、心を叱つてうつむく顔『また何ぞ心配か。かうして乃公が出て来るが、気に障つての事なれば、詮方がないが、その外の、苦労は何なりいふがよい。一人で思ふは、身体の毒。乃公も大きに悟つたゆゑ、昨日からの飲み続け。今日は気分が好くなつた。そちにも、少し、裾分けの、品は、何であらふと思ふ。あてて見やれ』と。小(ささ)やかなる、箱取出して手に渡すを。どふやら指輪と受けかぬるに。わざと不興の舌打ちして『そちはそれゆゑ、誠に困る。同じ媼が育てても、乃公は仕入に出来て居る。そちばかりが時代では、乃公に対して不義理であろ。四角張つた挨拶は、もう止せ止せ』と取合はず『いつ来て見ても淋しいやうだが、これではなほさら気が塞がふ。それよりはこの家を、改めて借受けて、話し対手の下女でも置いたら、少しは気分が紛れて好からふ。しかしさうして気楽になれば、乃公がたびたび出て来るゆゑ、それもいやか』と顔見られ『何のまあ勿体ない。否か応かは、よう御存じ、申し訳は致しませねど。はいとお請(う)けの申されぬ、この身の程を弁(わきま)へましては、どうもかうして居られませぬ。御恩を仇に、こんな事、願ひまするは、恐れますれど。やはり似合つた、水仕の奉公、それが望みでござりまする。死にます筈の私が、かうして御恩に預りまするを、さぞ奥様のお腹立ち』と。いひかかるをば打消して『なにその事なら気遣ひすな。乃公もこれまで養父への、義理立てゆゑに、堪(こ)らえてゐたれど。もう堪らえるには及ばぬ一条。乃公が身体は自由になつた。一日二日のその内には、きつと処置を付ける筈。さうした上では、無妻の乃公、誰が何と怒らふぞ。来る正月には、大磯か、熱海へ、そちを連れて行く。奥と見られてよいだけの、支度を直ぐにして置きや』と。跡先ぽつと匂はする、微酔(ほろえい)機嫌も、その実は、いふにいはれぬ、心外の、耻辱の耳に伝はりしに。心はかうと極めながら。恩ある人の娘とて、直ぐその日には出し難き、心の当惑、ここのみを、せめてもの気紛らし。紛らしていふ詞ぞと、知らぬお園は、はあはつと、その身が罪を冒せし心地。御離縁とまで仰しやるを、御酒機嫌とは聞かれまい。堪らえられぬと仰しやるも、奥様のお身に別事が何あらふ。おおかたいつものお悋気も、この身を殺せとまでの事。並大抵ではあるまいに、よくよくお怒りあそばしてか。それに御無理はないにせよ、事の起こりはこの身ゆゑ。あくまでお諫め申さではと。我が腹立ちはどこへやら、鹿子の上をかばひたき、心は急きに急き立てど。思へばこの身がいふほどの、事は疾くより、御存じの方様に、申し上げるは仏に説法。それよりは、この身に愛想を尽かせまするが、何よりの上分別と、打つて替はつた蓮葉風。わざと話を横道へ『それはまあお笑止や。今頃お気注きあそばしてか。私はとうから心待ち、今日は明日はと、御離縁を、お待ち申してをりました。今の奥様ああしておいであそばす限りは、私はどうでも日蔭もの。お妾様といはれまする。それが嫌さに今日までも、謹しみ深い顔を致してゐたを、ほほお笑ひなされて下さりますな。それではいよいよ奥様を、御離縁のその日から、奥様にして下さりますか。その御覚悟が聞きましたい。その場になつて、身分が違ふた。乳母風情の子のそなたとは、祝言出来ぬと仰しやつても、聞く事ではござりませぬ。この間からのお詞を、私は覚えてをりまする。よもや当座の慰みにと、仰しやつたのではござんすまい。もしもならぬと仰しやるなら、世間へぱつとさせまして。外様からの奥様なら、たとへ華族の姫様でも、きつとお邪魔をいたしまする。さうしたならば、あなた様の、お顔がたいてい汚れませう。それお覚悟ならいつなりと、奥様を離縁あそばしませ。直ぐにお跡へ直りまする』と。いつに似合はぬ口振りは、どうでも離縁さすまいの、心尽くしか、不憫やと、思ひながらも、いひ難き、事情の胸に蟠(わだかま)れば。知つても知らぬ高笑ひ『ハハハたいそうむつかしい事をいふではないか。よしよしそれも聞いておく。それでは離縁のその日にも、五十荷百荷の荷を拵らえて、そちを迎える事にしよう。それなら異存のない事か』と。真面目に受けぬもどかしさ。これではやはり正面からの、御意見が好からふと、開き直つて手を支え『それでは、どうでも奥様を、御離縁あそばすお心か』『知れた事を聞くではないか。たつた今、そちは何といふたぞや。後妻にならふといふものが、その物忘れは、実がない。乃公は確(しか)と覚えてゐるぞ。その場になつて、否といふは、どうでもそちの方らしい』と。笑ひを含んで、取り合はぬを。お園はなほも押返して『それ程までのお心には、何故におなりあそばしました』『さあ何故なつたか、乃公にも分らぬ。いづれその内知れやうから、子細の知れたその上で、聞くべき意見は聞きもせう。それまでは、何もいふな、正直者めが。そちの知つた事ではない。安心しやれ』と、笑ふてゐれど。どうでも動かぬ決心は、眉の辺りにほの見ゆるに。もうこの上は詮方がない、せめて最后の御意見に、明日は御恩に背いてなり、ここを走らふ外はなし。さうした上は、これ限り、お目に懸かれぬ事もやと。虫が知らすか、その上の、名残さへに惜しまれて、自づと浮かぬその顔を。澄も憐れと見ながらに、それ程までの心とも、知らねば、いづれその内に、我々よりはいひ難き、噂のよそより伝はりて、思ひ合はする時あらむと。その一ツをば、安心の、頼みにしての高笑ひ。笑ふてお園を慰むるも、半ばは自ら慰むる、心と知らで、白露の、情ありける言の葉を。無分別なる置き所と、賤が垣根に生出(おひい)でし、その身をいとど怨みしなるべし。

   第九回

 もしお園様え、今日は浅草の年の市、まだ暮れたばかりでござんすほどに。私どももこれから下女を連れて参る筈、留守は主翁(あるじ)が致しまする。あなた様も、是非にお出でなされませぬかと。澄が帰りしその跡へ、太田の妻の入来るに。今日はわけてのもの思ひ、そこらではないものをと、いひたい顔を、色にも見せず。愛想よく出迎えて『それはそれは御深切さまに、有難うござりまする。お供をいたしたいはやまやまなれど。今日はちと、気分が勝れませぬゆゑ、せつかくながら、参られさうにもござりませぬ。それよりは、お帰りのその上で、お話を承るが、何よりの楽しみ。お留守は私が気を注けませう。御ゆつくりとお越しなされて』といふを押さえて『さあそれゆゑ、なほの事お誘ひ申すのでござりまする。御気分が悪いと仰しやるも、御病気といふではなし。お気が塞ぎまするからの事なれば。賑やかな処を御覧なされたら、ずんとお気が紛れませう。ただ今も深井様、お帰りがけにお寄りあそばしまして。どうもあなたが、お気重さうに見えるゆゑ。お紛れになるやうに、して上げましてくれとのお詞。てうど幸ひの年の市、私どもは格別の買ものもござりませねど。あなたさまのお供がいたしたさの思ひ立ち。せめて半町でも、外へ出て御覧あそばしませ。きつとお気が替はりませう。その上でよくよくおいやな事ならば、どこからなりとも帰りませう。無理に浅草までとは申しませぬ。さあさあちやつとお拵らえ』と。この細君が勧め出しては、いつでもいやといはさぬ上手。引張るやうに連れ出して『いつお気が変はりませうも知れませぬゆゑ。ちと廻りでも、小川町の方へ出まして、賑やかな方から参りませう』と。先に立つての案内顔。三は後からいそいそと。お蔭で私もよい藪入[#「藪入」は底本では「籔入」]が出来まする。実はこの間から、お正月に致しまする帯の片側を、買ひたい買ひたいと思ふてゐましたを、寝言にまで申して。奥様のお笑ひ受けた程の品。成らふ事なら失礼して、今晩買はせて戴きましたい。お二方様のお見立を、願ひました事ならば、それで私も大安心。在処の母が参つても、これが東京での流行の品と、たんと自慢が出来ますると。いふに、おほほほほと太田の妻が『まあ仰山な、お園様、あれをお聞きあそばしましたか。あの口振りでは、大方片側で、二三十円は、はづむつもりと見えました。それではとても外店の品では三が気に入りますまい。なふ三、それでは越後屋へでも行かうかや』と。何がなお園を笑はせたき、詞と機転の三が受け『はいはい越後屋でも、越前屋でも、そこらに構ひはござりませぬ。私が持つてをりまするは、大枚壱円と八拾銭。後はすつかり奥様が、お引受け下されませう。ねえ御新造様、あなた様も、お口添下されませ』『まあ呆れた、年の行かないその割には、鉄面(あつかま)しい女だよ』と。二人が笑ふに、お園まで、しばしは鬱さを忘れて行くに。いつしか、九段の下へ出たり。あれ御新造様、あの提燈が、美しいではござりませぬかと。三が詞に、義理一遍。なるほどさうでござんすと、お園も重たい頭を挙げて、勧工場の方を見遣りし顔を。横より、しつかと、照らし見て。まあ待ちねえと。大股に、お園が前へ立ちはたかる、男のあるに、ぎよつとして。三人一所に立止まり、見れば、何ぞや、この寒空に、素袷のごろつき風。一歩(あし)なりとも動いて見よと、いはぬばかりの面構え。かかり合ひてはなるまいと。年嵩だけに、太田の妻が、早速の目配(めま)ぜ、お園の手を取り、行かむとするを、どつこい、ならぬと、遮りて『お前はどこの、細君様(かみさん)か知らねえが、この女には用がある。行くなら一人で歩みねえ。この女だけ引止めた』と、お園の肩を鷲握み。はや人立のしかかるに。お園も今は二人の手前、耻を見せてはなるまいと。腹を据えての空笑ひ『ホホホホホ、どなたかと思ひましたら助三さんでござんしたか。全くお服装(なり)が替はつてゐるので、つい御見違ひ申してのこの失礼、お気に障えて下さりますな。御用があらば、どこでなり、承る事に致しませう。連れのお方に断る間、ちよつと待つて下されませ』と。物和らかなる挨拶に、男はおもわく違ひし様子。少しは肩肱寛めても、心は許さぬ目配りを、知つても知らぬ落着き顔。ちよつと太田の奥様えと、小暗き方に伴ふに。三は虎口を遁れし心地。あたふたと、追縋り『交番へ行ツて参りませうか』と、顫えながらの、強がりを。お園は、ほほと手を振りて『なんのそれに及びましよ。あれは私が、遁れぬ縁家の息子株。相応な身分の人でござんしたのなれど。放蕩(のら)が過ぎての勘当受け』と、いふ声、耳に狭んでや『なにの放蕩だと』といひかかるを『お前の事ではござんせぬ。こちらの話でござんす』と。なほも小声の談話を続け『何に致せ、ああいふ風俗に、落ちてをる人ゆゑ。当然(あたりまえ)の挨拶が、ちよつとしても喧嘩腰。さぞお驚きなされたでござんしよが。私は知つた人ゆゑに、お気遣ひ下されますな。おほかたいづれお金銭の無心か。さなくば親へ勘当の、詑びでも頼むまでの事。大丈夫でござんすほどに、私にお構ひなさらずとも、お女中と御一所に、お先へお出で下さりませ』と。いへどもどふやら不安心と、肯(うべな)ひかぬるを、また押して『なんのそのお案じに及びましよ。気遣ひな位なら、私からでも願ひますれど。あの人の気は、よう分つてをりまする。途中で逢ふたが何より幸ひ、家で逢ふと申したら、たびたび来るかも知れませぬ。それよりは、どこぞそこらで、捌くのが、何よりの上分別。一度限りで済みまする。きつとお案じ下さりますな。早う済んだらお後から、もしも少し手間取りましたら、お先へ帰つてをりますほどに、御ゆるりお越なされて』と。心易げないひ立に。太田の妻も安心して。もともと進まぬお外出ゆゑ、これを機会(しほ)のお帰りか。それとも外に子細があらば、なほさら、無理にといふでもなし。どの道、危険(あぶな)げ無い事ならと。念を押したる分れ道。見返りがちにゆく影を。ほつと見送る、安心の、刹那を破る大欠伸『いつまで己れを待たすんだ。早くこつちへ来ないか』と。引張りかかるに『何じやぞえ。私が逃げるものではなし。往来中での大声は、ちと嗜んで貰ひましよ。私に話はない筈ながら、あるといはんす事ならば、詮方がないゆゑ行きまする。人通りのない処で、尋常(じみち)に話すが好ござんせう』と。いふはもとより望むところと『それは天晴れよい覚悟だ。それではそこの公園の、中へ這入つて話すとしやう。さあ歩行た』と、お園を先に、逃がすまいの顔付き鋭く。ちよつと背後を振向いても、ぐつと睨むに、怖気は立てど。心は冴えた、冬の夜の、月には障る隈もなき、木立の下を行き見れば。池の汀のむら蘆も、霜枯れはてて、しよんぼりと。二人が立つた影ぼしの、外には風の音もなし『おいここだ』と助三は、傍の床几に、腰かけて『こりやお園、手前はよく己れの顔へ、泥を塗つてくれたなあ。一体ならば、重ねておいて四つにすると、いふが天下の作法だが。そこは久しい馴染(なじみ)だけ、手前の方は許してやる。その代はりにやあこれから直ぐに、男を殺す手引きをしろ。さうして首尾よく仕遂げたうへは、一緒に高飛びして。どこのいづくの果てででも、もとの夫婦にならなきやならんぞ。それがいやなら、いやといへ。ここで立派に殺してやる。手前を殺したその刃物で、直ぐに男を殺したら、重ねておいて殺すも同様。どの道今夜は埓明ける。さあ死にたいか、生きたいか、返答せい』と、威しの出刃、右手(めて)にかざして、詰め掛くるに。不審ながらも、ぎよつとして『男とは何の事。事情(わけ)をいはんせ、分らぬ事に、返事のしやうもないではないか』『へん、盗人たけだけしい。分らぬとはよくいつた。手前の腹に聞いて見ろ』『さあそれを知つてゐる位なら、何のお前に聞きませう。男呼ばはり合点が行かぬ。私はお前の女房じやないぞえ』と。いはれて、くわつと急き込みながら『なるほど今は女房じやない。離縁(さつ)たのは覚えてゐる。が己れが離縁(さ)らないその内から、密通(くつつ)いてゐた男があらふ』『やあ何をいはんすやら。そんな事があるかないかは、お前も知つての筈ではないか。今になつてそんな事。誰ぞに何とかいはれたかえ』『知れた事だ。天にや眼もある、鼻もある。誰が何といはねえでも、曲つた事をしておいて、知れずに済むと思ふが間違ひ。証拠はちやんと挙がつてゐらあ。いつまで己れを欺せるもんけい。済まなかつたと、詫ぶれば格別。まだこの上に、しらばつくれりやあ、どうでも生かしちやおかねえぞ』と。無二無三に斬りかくる、刃の下を潜りぬけ『まあ待つて下さんせ。死ぬる生命は、どうでも一ツ、生きやうとは思ひませねど。ない名を付けられ、殺されては、私や成仏出来ぬぞえ。今は夫婦でないにせよ、従兄妹の縁は遁れぬ中。無理往生をさせるのが、お前の手柄じやござんすまい。事情(わけ)を聞いたその上で、死ぬるものなら、死にませう。尋常に手を合はさせて、殺すがせめての功徳じやないか。ゑゑ気の短い人ではある』と。白刃持つ手に触られては、もともと未練充ち充ちし、身体は、ぐんにやり電気にでも、打たれし心地。べつたりと、腰をおろして、太息(といき)吐き『それ程事情が聞きたけりやあ、話すまいものでもないが。一体手前は、あの深井と、いつから懇(ねんごろ)したんだい』『知れた事を聞かしやんす。あれは私が母さんの』『そりやあいはずと知れてゐる。乳兄妹といふんだらふ。がその乳兄妹が、乳兄妹でなくなつたのは、いつからだといふ事だい』と。いはれて始めて心付き、やや安心の胸撫でて『それならたんといひませう。それではお前も、深井様と、私が中を疑ふての、この腹立ちでござんすか』『ざんすかもあるめえや。腹が立つのは当然だ』『さあそれが。真実(ほんま)の事ならもつとなれど。何の私が、あのお方と、どんな事を致しませう。なるほどお世話にやなつてゐる。それはお前も知つての通り、母さんの遺言ゆゑ』『ふむこれは面白い。それでは叔母貴(をばさん)が、己れが女房のその内から姦通(まおとこ)せいと教えたかい』『なるほどこれは、よいいひ抜け。死人に口なし、死人こそ、よい迷惑だ』と冷笑ふ『またそんないひ掛り、しまいまで聞いたがよい。それでは何かえ、この私が、お前の家に居た時から。深井様と懇したといふのかえ』『知れた事だ。さうでなけりやあ、己れだつて、離縁(さ)つた女房に、姦通(まおとこ)呼ばはりするもんけい。己れから暇を取つたのも、そこらからの寸尺(さしがね)と、遅幕ながら、気が注くからにやあ、どうでも捨ててはおかれない。これだけいつたらもう好からふ。さあどうする』と。再びもとの、怖い顔して詰め寄るに。さてはあの吉蔵めが、恋の叶はぬ意趣晴し、ある事ない事告げ口して。怒らしたものならむと、瞬く隙に見て取つて。もうこの上は詮方がない。弁解(いひわけ)しても無益(むだ)な事。それよりは、ここ一寸を遁れての、分別が肝要と。思案を極めて、調子を替え『あい、それで合点がゆきました。いひたい事は、たんとあれど。証拠のない事いふたとて、よもやうむとはいはんすまい。なるほど私が悪かつた。悪かつたとしておきまする。そこでお前はどうあつても、深井の旦那を殺す気かえ』『殺さいでどうするものか。今夜は昼から、お前の家に、遊んでゐるといふ事まで、己れはちやんと知つてるよ』『なるほどさうでござんせう。それなら私もお前に相談。手引をさせておくれかえ』『へんそんなお安直(やす)い手引なら、こちらからお断りだ。手引が何だか恠しいもんだ』と。いふ顔じつと、照る月に、雪より白い顔見せて。解けた眼もとに、男の膝。我からわざと身を寄せて『疑ひ深いは女子の性男子がさうではなるまいぞえ。かうして二人が居るところを、人が見たらば、真実(まこと)の恋か、虚偽(うそ)の恋かが知れやうに。お前がそれでは曲がない。元木に勝る、うら木なしと、世間でいふのは、ありや嘘かえ。お前は知つてでござんすまい。そりやもう私が別れてから、よい慰みが出来たであろ。たまたま逢ふた、この私を、斬るの、はつるといふてじやもの。それが分らふ筈がない。さあ斬らんせ、殺して下され。おおかたどこぞの可愛い人に、去つた女房の私でも。生かしておいたら、何ぞの拍子。邪魔になるまいものでもないと、いはれさんした心中立に、私を斬るのでござんせう。さうならさうと有り体に、いふてくれたらよいものを。私にばかり難僻付けて。手引をしやうといふものを。まだ疑ふてならぬといふ、お前は鬼か蛇でござんしよ。さうと知つても、この私は、顔見りや、やつぱり憎うはない、こんな心になつたのも、思へば天の罰であろ。さあ斬つて下され、殺して下され。罰が当つて死ぬると思へば、これで成仏出来まする』南無阿弥陀仏と合はす掌(て)の、嘘か真実を試さむと。やつと声掛け、斬る真似しても。びくとも動かぬその身体は。お門違ひの義理の枷、なつても、ならぬ恋ゆゑに、身を捨鉢の破れてゆく、覚悟としらぬ助三が『心底見えた』と、手を取つて、頼む、喜ぶ顔見ては。さすが欺すも気の毒ながら、いづれ私も死にますると、心の詫びがさす素振。虚偽(うそ)では出来ぬ優しさと、心解けたる助三が『それではきつと、今晩の、十二時を合図にして』『あいあい待つてをりまする。寝間は、門から這入つての、右の八畳、雨戸を細目に中は燈りを点けておく。充分酔はせて、寝さしたら、ついした音では眼は醒めまい。障子の紙を破つて置くゆゑそこから覗いて下さんせ。私が手水に行く振りで、きつと手引を致しませう。その代はりには、お前もここで、二人までは殺さぬといふ、誓言立てて貰ひたい』『うふふ、まア怖がつてゐるのかい。かうして己れに依頼(たよ)つたからは、二人死なしてよいものか。一人は大事な大事な身体。毛ほども恠我はささぬ気だが。もし間違つて、爪でも斬つたら。おおさうだ、博奕冥利に尽きるとしよう』『ほほ博奕冥利もをかしなものだが、お前はそれが第一ゆゑ、そんならさうとしておかふ。きつと違えて下さんすな。もしもそれが嘘ならば、生き代はり死に代はり、たんとお前を怨むぞえ』『七くどいから、もうおきねえ。己れが仲間は義が堅い。昔の侍そこのけだ。かういふ事に、二言がありやあ、誰も取合ふものはない。何なら誰か証拠に立てよか』『なんのそれに及びましよ。それで私も安心しました。そんならもう行くぞえ』と。行きかけて立戻り、思ひ出したる懐中物『ここに少しはお紙幣(さつ)[#「紙幣」は底本では「紙弊」]があるゆゑ、一杯飲んで下さんせ。まだ十二時には三時間(みとき)もあらふ。元気を付けたがよいわいな』と。渡すを、にいやり受取りて『さすがは女房だ、有難てえ。そこまでお気が注かれふとは、思はなんだに忝(かたじけ)ねえ。じやあ行つて来るぞ。待つぞえ』と。離れ離れになる影を。その人ゆゑには惜しまねど。あちらへ行くだけ羨しい。これが自由になるならば、私もあつちの方角へつい一走り。かういふ訳で死にまする。それは嬉しい、忝ない。確かに生命は受取つたの、お詞聞いて死なふもの。これ程までに思ふ気が、後で知れるか、知れぬやら。一筆書いておくつもりも、片便りでは、たんのう出来ぬ。縁(えにし)の糸も片結び、かたみに結ぶ心でも、一ツ合はせて結ばれぬ、西片町のその名さへ、今はさながら恨めしやと。千々に砕くる、うき思ひ。身を八ツ裂の九段坂。百千段に刻んでも、足の運びは、はかどらぬ。もどかしさよと振向けば。人の歎きを知らぬかの、町の賑ひ、電燈の、ほめきは神田ばかりかは。日本橋さへ、京橋さへ、そこと見えるに、片町は、なぜに見えぬぞ。お邸が、せめて湯島の丘ならば、ここから名残惜しめうもの。上野の森に、用のない、松は見えても、お邸の、お庭の松がなぜ見えぬと。なくなく行けば、畏(かしこ)かる、神の御前の大鳥居。ここは恐れの、横道へ、たどり入るこそ不便なる。

   第十回

 その翌朝未明、太田が家にては、下女の報告(しらせ)に、夫婦が驚き『なにお園様が殺されてござるといふのか。馬鹿め、貴様はどうしてゐた』と。叱りながらも半信半疑。見れば真実や、縁側の、雨戸も障子も開け放し。足の跡こそ、付いて居れ。死骸は立派な覚悟の死。襟寛(くつろ)げて、喉笛に、柄(つか)までぐつと突込んだ、剃刀はお園がもの。これが自殺でなからふかと。まだここのみは、明けやらぬ、昨宵のままの燈火(あかり)、掻き立て見れば、口の内、何やら含んだものがある。検死の邪魔にならふか知らぬが、自殺他殺も知らいでは、深井様へのいひわけが、済まぬ済まぬの一心に。口押し破つて、引出せば、子細は何やら、白紙を、くるくる巻いたその中から、からりと見慣れぬ、指輪が一ツ。これはどうじやと呆れて立つ。夫婦の前へ。あたふたと、下女が持て来る、文二通。これが私の寝床の下に。今までちつとも知らなんだを、またも叱つて下さるなと。もぢもぢするを、引つたくり。見れば、一ツは様参る。深井の旦那へ、園よりの、外には太田夫婦宛。当つて砕けた白玉が、何ぞと人の知らぬ間に。露と消えたる身の果てを。金剛石(ダイヤモンド)の指輪と共に、とりとり人の噂しぬ。(『文芸倶楽部』一八九七年二月)




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