したゆく水
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著者名:清水紫琴 

   第一回

 本郷西片町の何番地とやらむ。同じやうなる生垣建続きたる中に、別ても眼立つ一搆え。深井澄と掲げたる表札の文字こそ、さして世に公ならね。庭の木石、書斎の好み、借家でない事は、一眼で分る、立派なお住居。旦那様は、稚きより、御養子の、お里方は疾くに没落。なにかにつけて、奥様の親御には、一方ならぬ、御恩受けさせたまひしとて。お家では一目も二目も置きたまへど。敷居一ツ外では、裸体にしても、百円がものはある学士様。さる御役所へお勤めも、それはほんのお気晴らしとやら。否と仰せられても、這入つてくる、公債の利子、株券の配当。先代よりお譲受けの、それだけにても、このせち辛き世を、寝て暮さるるといふ、結搆な御身分、あるにしてからが、頓と邪魔にならぬものながら、何とあそばす事であろと。隣家の財宝羨むものの、余計な苦労も、なるほどと合点のゆく、奥様の御贅沢。そんな事は、さらさらこのお邸のお障りとはなるまじきも。先づ盆正月のお晴れ衣裳。それはいふも愚かな事や。ちよつとしたお外出にも、同じもの、二度と召されたる例はなし。そんなのを、どこやらで、見たといふものあるにも。お肝の虫きりりと騒ぎて、截立(きりたて)のお衣裳を、お倉庫(くら)の隅へ、押遣らるるといふお心意気。流行の先を制せむとては、新柳二橋と、三井呉服店へ、特派通信員を、お差立てにも、なりかねまじき、惨怛の御工夫。代はり目毎のお演劇(しばい)行きも、舞台よりは、見物の衣裳に、お眼を注がせらるる為とやら。そんな事、こんな事に、日を暮らしたまふには似ぬ、お顔色(いろ)の黒さ。お鼻はあるか、ないがしろに、したまふ旦那に対しては、お隆いといふ事も出来れど。大丸髷の甲斐もなき、お髪(ぐし)の癖のあれだけでも、直して進ぜましたやと。いつもお外出のそのつどつど、四辺(あたり)も輝くお衣裳の立派さを、誉むるにつけての譏り草。根生ひ葉生ひて、むつかしや。朝は年中旦那様、御出勤のその後にて、きよろりとお眼醒めあそばせど。宵は師走霜月の、いかに日短なこの頃とても。点燈頃まで、旦那様、お帰宅(かへり)なからふものならば、三方四方へお使者(つかひ)の、立つても居ても居られぬは、傍で見る眼の侍女(こしもと)まで。はあはあはあと気を※(あせ)[#「敖/心」、170-6]れど。うつかりお傍へ寄付かば、どんなお叱り受けるも知れぬに。御寵愛の玉なんにも知らず。のそのそお膝へ這い上り、とつて投げられしといふ事まで、誰がいひ触れての噂ばなし。御近所には、誰知らぬものもないこの沙汰に、この身の事も入れられやう。はあ悲しやとばかりにて、お台所の片隅に、裁縫の手を止め、恍惚と考へ込むは、お園といふ標致(きりよう)よし。年齢は廿歳を二ツ三ツ、超した、超さぬが、出入衆の、気を揉む種子といふほどありて。人好きのする好い女子。顰める顔のこれ程ならば、笑ふて家をも傾くるは、何でもない事、お園さん。ちつとしつかりしないかと、水口より、のつしり、のしり、這入つて来るは、吉蔵といふお抱え車夫。酒と女と博奕との、三ツを入れて、三十には、まだも間のある身体。七八置いてもくにせぬといふを、自慢の男なり。無遠慮に、傍近く、安坐(あぐら)かくを、お園は眼立たぬやうに避けて『おや吉蔵さん、お前さんもう、気分は好いの』『気分が好くてお気の毒。のそのそ出掛けて来た訳なれど。今に旦那がお退庁(ひけ)になりやあ、部屋へ下つて、小さうなり、決してお邪魔はしないから、さあ安心をしてるが好い。今日は奥様も、せつかくのお外出(でまし)なりや、随分共に、お留守事。大事がつたりがられたり、旦那へ忠義頼んだぜ。えお園さん、お園の方』と、妙に顔を眺められ。お園は少し憤然(むつ)として『お前までが、そんな事。たいがい知れてゐる事に、朋輩甲斐のない人や。この中からの、奥様の御不機嫌。微塵覚えのない事に、あんなお詞戴いても、奥様なりやこそ沈黙(だま)つてをれ。よしんば古参の、お前でも、朋輩衆に嬲られて、泣く程までの涙はない。退屈ざましの慰みなら、外を尋ねて下さんせ』と。つんと背くるその顔を、吉蔵ば見て冷笑(あざ)ひ『これはこれは厳しいお詞恐れ入る。さすがは旦那の乳兄妹、お部屋様の御威光は、格別なものと見えまする。その格別のお前の口から、朋輩といふて貰へば、それで千倍。この吉蔵、腹は立たぬ礼いはふ。礼のついでに、も一ツ、いはふが。まことお前が朋輩なら、なぜいつか中、奥様が、吉蔵をといつた時、お前は、かぶりを振つたんだよ。それから聞かして貰ひたい』『ほほ改めて、何ぞいの。そんな事も、あつたか知らぬが。私の身上も知つての筈。もう嫁入りは懲りたゆゑ、一生どこへも行かぬつもり。お前に限つた事ではない』『そこでお妾と、河岸を替へたであるまいか』『おほかたさうでござんせう。さういふ腹でいはれる事に、いひ訳をする私じやない。窘(いぢ)めて腹が癒る事なら、なんぼなりとも、窘めなさんせ。どふせ濡衣着た身体。乾さうと思へば、気も揉める。湯なと水なと掛けたがよい』と。思ひの外の手強さに、吉蔵たちまち気を替えて『ハハハ、さう怒られては、談話(はなし)が出来ぬ。今のは、ほんの戯談(じやうだん)さ。邸に居てさへ眼に立つ標致を、人力車夫(くるまひき)の嬶あになんて、誰が勿体ない、思ふもんかといつたらば、また御機嫌に障るか知らぬ。それはそれとしたところで。お前の旧(もと)の亭主といふ、助三さんといふ人にも。この春以来、さる所で、ちよくちよく顔を合はす己れ。未練たらたら聞いても居る。まさかに、そんな、寝醒めの悪い事は出来ぬ。あれは、ほんの、奥様の、一了簡でいつたといふ、証拠はこれまで、いくらもあらあな。六十になる、八百屋の、よたよた爺(おやじ)から、廿歳にしきやならない、髪結の息子まで、およそ出入りと名の付く者で、独身者とある限りは。奥様の悋気(りんき)から出る、世話焼きの、網に罹つて、誰一人。先方(さき)じや知らない縁談を、お前の方へ、どしどしと、持込まれない者はないので、知れてもゐやう。己れもやはりその数に、漏れなかつたは、有難迷惑。とんだ道具に遣はれて、気耻しいとこそ思へ、それを根に持つ、男じやない。その証拠には、お園さん、今日はお前の力にならふ、すつかり、苦労を打明けな。隠すたあ、怨みだぜ』と、手の裏返す口上に、気は許さねど、張詰めし、胸には、胼(ひび)の入り易く。じつとうつむく思案顔。沈黙つてゐるは、しめたものと、吉蔵膝を前(すす)ませて『そりやあ、己れも知つてるよ。いくら奥様が、どんな真似して騒がうとも。真実お前が旦那を寝取る。そんな女子でない事は、それは、己れが知つてゐる。だが此邸(ここ)の奥様の嫉妬ときては、それはそれは、烈しい例もあるんだから、今日は、よほど大事な場合。またここで失策(しくじ)つては、どんな騒ぎが、出やうも知れぬ。その代はりにはまたこの瀬戸を、甘(うま)く平らに超えさへすれば、この間からの波風も、ちつと静かにならふといふもの。悪い事はいはないから、今日はよほど気を注けな』と。善か悪か、底意は知らず。ともかく同情ありげなる、詞にお園も釣出され『それはさうでござんする』『が詮方がないから、沈黙つてゐるといふんかい。それでは己れが、註を入れて見やうか』と。いよいよ前へ乗出して『一体全体奥様の、今日の外出が、奇体じやないか。いつもは旦那と御一所か、さなくば朝を早く出て、退庁前には帰るのが、尻に敷くには似合はない、お定まりの寸法だに。今日に限つて、出時も昼后、供は一婢(ひとり)を、二婢(ふたり)にして、この間の今日の日に、お前ばかしを残すのは、よほど凄い思わくが、なくては、出来ぬ仕事じやないか。これは、てつきり、お前と旦那を、さし向ひにしたところへ、ぬつと帰つて、ものいひを付けるつもりと睨んだから、ここは一番男になつてと。頼まれもせぬ、心中立て。無理さへすりやあ、行かれる身体を。まだ歩行(ある)かれぬと断つて、今日一日を、当病の、数に入れたは、誰の為。みすみす災難着せられる、お前の為を思へばこそ。しかし大きに、大世話か知らぬ。さういふ事なら、頼んでまでも、証拠に立たせて、くれとはいはぬ。お前の心任せさ』と。妙にもたせ掛けられては、お園もさすが沈黙つて居られず。気味悪けれど、当座の凌ぎ、頼んでみむと、心を定め『さういふ事でござんしたか。さうとは知らず、ついうつかり前刻(さつき)のやうなこと言ふたは、みんな私が悪かつた。堪忍して下せんせ。知つての通りの私の身体、身寄りといふては、外になし。やうやくこの邸の旦那様が、乳兄妹といふ御縁にて。この春母さんが亡くなる時、頼(ねが)ふて置いて下さんした。そればつかりで、この様に、御厄介になつてをりまするなれば。さうでなうても術ない訳を、この中からの私が術なさ。一季半季の奉公なら、お暇(いとま)を願ふ法もあれ。そんな事から、お邸を出されうものなら、それこそは、草葉の影の母さんに、何といひ訳立つものぞ、死んでも済まぬ、この身体と思案に、あぐんだ、その果ては、つい気が立つて、あんな言(こと)。憎い女子と怒りもせず、よういふて下さんした。そんなら吉さん、今日のところは、証拠に立つて、おくれかえ』と。頼むは、もとより思ふ坪と、吉蔵、ほくほくうなづきて『それはいふだけ野暮の事。お前がさういふ了簡なら、己れもしつかり腰を据え、一番肩を入れてもみやう。それには、何の造作もない事、己れが腹にある事なれど。いよいよさうと極めるには、ちつと掛合ふ事がある』と。わざわざ立つて、水口の、障子をぴつしやり、しめ来り、極めての小声には『実お前だから、いふんだが。己れはこれまで、奥様の、探偵(いぬ)といふ訳で、三年以来、別段の、手当を貰ふてゐるのだから、今日とてもその通り。己れから証拠を、名乗つて出ずとも、直ぐ、どうだつたと、聞かれるに違ひはない。そこでもつて、ある事にせよ、ないにせよ。あの奥様の、探つてゐる腹へ、はまるやうにいひさへすれば。それはよく知らしたと、まあ、どつさり、御褒美に、有付けやうといふもんだ。それにどうだ。いや、さういふ容子は少しもござりませぬ。それは全くあなた様の、思し召し違ひでと、いつた日には、どうだらふ。安心しさうなものだが、さうはゆかぬ。直ぐ己れが、抱き込まれたであるまいかと、気が廻るのはお定まり。どこのだつても嫉妬家(やきもちや)といふものは、たいがいさうしたものだわな。焚付けて、焼かせる奴を、とかく有難がるものよ。お前とてもその通り、今に好いた亭主を持ちやあ、やつぱりその組になりさうだ。あハハハ』と高笑ひ、気軽く笑へど、軽からず、持込む調子は、重々しく『さういふ都合もある訳なれば、これはよほど、余徳がなくては、埋まらない役廻り。そのところは万々承知だらふか。えお園さん、お園坊。礼はどうするつもりだい』と。味に搦んだ詞のはしばし、いはぬ心を眼にいはす、黄色い声の柄になき、素振りはさうと勘付けど。たやすく解きて、ともかくも、この場を事なく済まさむと、お園は一向気の注かぬ振り『ほほほほ、お前さんにも似合はない。野暮に御念がいりまする。たくわが私の事なれば、碌な事も出来まいなれど。少しばかりは、奥様に、お預け申したものもあり。その内どうとも都合して、出来るだけのお礼は』と。ぬからぬ答に、吉蔵も、こ奴なかなか喰らえぬと。たちまち地鉄を出して見せ『とぼけちやいけない、お園さん。己れも男だ、銭金づくで、お前の、おさきにや遣はれない。注込めといふ事なら、金銭(かね)はおひおひ注ぎ込むが。先づ今日のところでは、働きだけを持参にして、礼はかうして貰ひたい』と。無体の所為に、憤然とはせしが。ここぞ大事と、笑ひで受け、振離す手も軽やかに『ほんにお前も人の悪い。私の馬鹿をよい慰み。さんざん人を上げ下げした、挙句の果ての、悪ふざけ。この上私を、かついでおいて、笑ふつもりと見えました。もしこれからはお前のいふ事、私や真面目に聞かぬぞえ』『真面目でも、戯談でも、己ればかりは、真剣』と、取る手を、つつと引込めて『それ見た事か、私が勝つた。もう瞞されはせぬほどに、止しにして下さんせ。人が見たら笑はふに』と。わざと空々しく外す、重ね重ねの拍子抜けに。吉蔵いよいよ急き込みて『これお園さん、どうしたものだ。ここまで人を乗込ませて、今更笑ふて済まさうとは、太いにも程がある。その了簡なら、この己れも、逆に出る分の事と、さあ野暮はいはないから、まあ温和(おとな)しくしてるが好い。随分共にこの后は、力になつてやらふぜ』と。あはや手込に、なしかねまじき血相に。お園も今は絶体絶命。怒らば怒れと突離し、あれと一声逃げ惑ふを。玄関口まで追詰めて、遣らじと、前に立塞がる。隙を見付けて、突退くる、女の念力、吉蔵は、たぢたぢたぢと、式台に、尻餅搗いて、づでんどう。これはと驚くお園を眼掛けて、己れ男を仆したなと、飛びかからむづその刹那。がらがらがらと挽き込だる、人力車(くるま)は旦那か、南無三と、恠我の振りして畏(かしこま)る。吉蔵よりもお園が当惑。ちやうどよいとこ、悪いとこ、奥様ならば、よいものを、旦那様とは、情けなや。悲しやこれがどうなると。胸は前后の板狭み。破(わ)れて死んだら助かろにと、ただ束の間の寿命を怨みぬ。

   第二回

 旦那といふは、三十一二の男盛り。洋行もせしといふだけありて、しつくりと洋服の似合ふ風采。身丈高く、肩幅広く、見栄(みば)えある身体に、薄鼠色の、モーニングコート。逼(せま)らず、開かぬ、胸饒かに、雪を欺く、白下衣、同じ色地模様の襟飾り。どこに一点汚れのないが、つんと隆い鼻の下の、八字の瑠璃と、照り合ひての美麗(うつく)しさ。これだけにても一廉の殿振りを、眉よ眼と、吟味せむは。年若(わか)き女子に出来まじき事ながら。お園は、この春以来、幾度かに偸み見て。女子の我のさまでにはあるまじきが、卑しき身ながら晴れがましく。憶へば十年のその昔、旦那様まだ角帽召しませし頃。御養家のお気詰りなればとて、をりふし我が方へ入らせらるるを。母様の有難がりたまひ。おすしよ、団子と、坊ちやま待遇(あしらひ)。我はそのお給仕に立ちて、お土産の人形様戴くが、嬉しかりし外、お耻しとは知らざりし身の、今更ながら浅ましく。今はさながら御別人の旦那様なれや。お立派なと思ふにつけ、お優しやと思ふにつけ、これでは奥様のお嫉妬あそばすものもと、この春以来、よそ事の御縺(もつ)れでは、まんざら奥様にお道理つけぬではなかりし身も。我が事となつては、さう悠長な量見も出ず。覚えなき身を疑ひたまふ奥様は、真(まこと)に真にお怨めしけれど。旦那様は、お気の毒とも、勿体なしとも。たとへば、潦水(にわたずみ)に影やどす、お月様踏んだればとて、こんな心地はせまいものと、歎く我が身の不運さは、これに限りて、あやかりものとも思はれる、妙な心地もそれは昨日までの事。今は証拠と頼むべき吉蔵を、思ひの外に怒らせたれば、どんな告げ口しやうも知れず。さらでは、我を試さむとての、奥様のお外出、それといひ、これといひ、心にかかる事のみなるに。あやにくなる旦那のお帰宅(かへり)。一時の難は遁れても、遁れ難きはこの難儀。ああ何となる事やらと。思案に余る仲の間を、幾度かさし覗き。おおそれそれお召し替えは揃えてあれど、まだお帰宅はと油断して、お煙草の火は入れてない。これはどうしたものやらと。し慣れた御用も、今日こそは、迂濶にお居間へ、伺ひ難き身の遠慮。苦しい時の神頼み、悪魔でも大事ない。吉蔵さん吉蔵さんと呼んではみたれど。お長屋へ引下り、返事もせぬ意地悪さ。それもその筈、ああもどかしや、早う奥様帰らせたまへ、お客様でも来てほしや。南無天満宮、天神様も、俄なる信心の、胆に銘する柏手は、ここならぬ、奥の方。ぱちぱちぱちと、鳴るはお召しか、はあ悲しや、救はせたまへを口の裡。おづおづと伺へば。茶を一杯と仰せらるるに、お煙草盆も取添えて、なるたけ手早くさしあげつ、もう御用はと下り際。ちよつと待てとのお詞に、またもや胸はどきりとして、敷居際に畏りぬ。澄は悠然として、紫檀の机に憑(よ)りかかり、片手に紙巻(シガー)を吹かしながら『奥はどこか行つたのか』『はい滝の川へと仰しやいまして』『吉蔵は居たやうだの』『はい、ただ今まで起きてをりましたが、やはり気分が、勝れませぬと見えまして、部屋へ下つて居りまする』『さうか、それはてうどよいところ、汝(そなた)に話す事がある』と。仰面(あをのい)て、例の美麗しき髭を撫で上げ、撫で下ろし、幾度か沈吟の末『誠にどうも、気の毒な訳ではあれど、近い内、邸を出てはくれまいか』と。いひ放ちたる澄の顔には、みるみる憐れみの色動けど。頭を下げたるお園には、声なき声の聞き取れず。はつと思ふか、思はぬに、はや先立ちし、涙の幾行。これでは済まぬも、飲込んで、はいとばかりは、潔く、いひしつもりも、唇の、顫かかるに咬みしめて、じつとうつむく、いぢらしさ。澄は見るに堪えかねて、わざと瞳光(ひとみ)を庭の面に、移せば折しも散る紅葉、吹くとしもなき夕風に、ものの憐れを告げ顔なり。

 表門(おもて)の方には、奥方鹿子、忍びやかなる御帰宅(おんかへり)。三十二相は年齢の数、栄耀の数の品々を、身にはつけても、埓もない、眼鼻は隠れぬ、辛気さに、心の僻みもまたひとしほ。色ある花の一もとを、籬に置くのは気がかりな。床のながめとならぬ間に、どこぞへ移し植ゑたしの、心配りや、気配りも、空(あだ)に過ぎるも小半歳。思へば長い秋の夜の、苦労といふはこれ一ツと。添寝の夢も、団(まどか)には、結びかねたるこの頃に、深い工(たく)みの紅葉狩。かりに行て来て、帰るさの、道はさながら鬼女の相。心の角を押隠す、繻珍の傘や、塗下駄に、しやなりしやなりとしなつくる。途中からのお歩行(ひろひ)は、いつにない図と、二人の女中。訝りながら御門を這入る、まだ四五間の植込みを、二歩三歩と思ふ間に。さしかかつたる仰せ言。あれもこれも、急ぎの買もの、忘れて来たに、気の毒ながら、一走り、ついそのままで行て来てとは。ほんにほんにお人遣ひ、あられもないとお互ひに、顔見合はしても、逆らえぬ、お主の威光に、余儀なくも、西と東へ出て行く。様子を覗ふ吉蔵は、かねてその意や得たりけむ。御門脇なる長屋を出て、木立の影に蹲居(うづくま)るを。鹿子は認めて機嫌よく『おおそこに居やつたか。定めて旦那はもうお帰宅、どんな様子ぞ、見て来てたも。機会(おり)が好ければ、直ぐにも行く』と、いふも四辺(あたり)を憚る声。吉蔵は頭を掻き『それは万々、心得てをりまする。が奥様、今の先まで、それはそれは舌たるい。私でさへ業が沸(に)えて、じだんだ踏んだお迎ひが、これでてうど三度目でござりまする。同じ事なら、あんなとこ、お眼に懸けたふござりましたに。今はどうやらお幕切れ。惜しい事を』と残念顔。鹿子はきよろりと眼を光らせ『それを今更いふ事か、その為の汝(そち)なれば、私が見たも同じ事。それは跡でも聞かふから、それよりは、今の手筈を、早う早う』と急立(せきた)つる『へいへい宜しうござりまする。それでは奥様しばらくここに。私はお先へ参つて御様子を』『ああさうして』と。主従が、うなづき囁き、こつそりと、なほも木立の奥深く、奥庭までも忍び行く。

 かかる工(たく)みのありぞとも、知らぬ澄は、己が名の、澄も、すまぬ心から、自づと詞も優しげに『なあに、邸を出すといへばとて、それでもつて、どこへでも行けといふ意味ではない。そこは少しも案じぬがよい。媼にはいろいろ世話になつた訳でもあり、また頼まれても居る事なれば、どんな事があらふとも、汝(そなた)の保護を忘れはせぬ。だがこの頃のやうな都合では、このまま永く邸に居るは、汝の身の為にもならず、また乃公(おれ)も、妙でないやうに、考へる処もあるなれば、いつそ外家(ほか)へ行つてくれた方が、かへつて世話がしよからふと、思ひ付いたからの事。もつともその外家といふ事もだ。下女に行くといふやうな事では、前途の見込みの立たない訳。さうかといつて、どこへでも縁付く。その危険は既に知れても、をる事なれば。追つて相応な処のあるまで、何か後来の為になる手芸でも、覚えてみる事にしては、どんなものか。実は乃公も最初から、さういふ考案(かんがえ)もあつたのなれど。忙しい身体ゆゑ、つい打遣つておく内に、かういふ仕儀になつて、誠にどうも気の毒であつた。しかしこれがてうどよい機会であるから、ここで一ツその辺の事も、考へておくが好からふ。とはいふものの、さし当つて、何を習はふといふ、考へも付くまいし、乃公もまたさういふ事には、至つて疎い方であるから、その相談は後日(のちのち)の事として、ともかくさしづめ、行くべき処を頼んで遣らふ。それにはてうど、よい処、汝の顔は知らぬから、邸に居たといふには及ばぬ。縁家の者としておくから、乃公が手紙を持つて行つて、万事を頼むといへばよい。乃公もその内尋ねて行つて、この後の事はいつさい万事、その者の手をもつて世話をさす事にするから、少しもその辺は心配をせぬがよい。それでよいといふ事なら、明日にも何とか都合よくいつて、汝の方から、邸を出る事にしてくれ。これは、ほんの当分の手当だ』と。いく片(ひら)の紙幣、紙に包んで、投げ与へ、ついでに手紙も渡して置くぞと。残る方なきお心添へ。なに暗からぬ御身をば、はや、いつしかにほの暗き、障子の方に押向けて、墨磨りたまふ勿体なさ。硯の海より、山よりも、深いお情け、おし載く、富士の額は火に燃えて。有難しとも、冥加とも、いふべきお礼の数々は、口まで出ても、ついさうと、いひ尽くされぬ、主従の、隔ては、たつた、一ツの敷居が、千言万語の心の関。恐れ多やの一言の、後は涙に暮れてゆく、畳の上に平伏(ひれふ)して、ここのみ残す、夕陽影。顔の茜も、まばゆげなる、背後(うしろ)の方に、さらさらと、思ひ掛なき衣(きぬ)の音『たいそう御しんみりでございますねえ』と、鹿子のつつと入来るに。はつと狼狽(うろた)え立上り『あ奥様でござりまするか』とどきどきとして出迎ふる。お園をきつと睨み付け『園何も私が帰つたとて、さうあはてて、逃げるにも及ぶまい。まあそこに居るがよい』と。澄とは、膝突合はさぬばかりに、坐り『園お前は真実に忠義ものよ。私の留守には、なにもかも、私の役まで勤めてくれる。お前の居るのに安心して、今頃までも、うかうかと、久し振で遊んで来ました。たんとお前に礼いはふ。とてもの事に明日からは、私に隠居をさせてくれて、家の事はいつさい万端、お前が指揮(さしづ)するやうに、旦那様へお前から、お願ひ申しておくれでないか。ね旦那様さう致した方が、あなた様も、お宜しいではござりませぬか』と。はやその手しほでも押さえしかの権幕なり。例の事とて、澄は物慣れたる調子『ハハハハつまらない。何がそれ程腹が立つか。馬鹿馬鹿しい』『はい、どうせ私は、馬鹿に相違(ちがい)はござりませぬ。奉公人にまで、蹈付けられるのでござりますもの』『はあて困つた。さうものが間違つては』『大きにさようでござりまする。あなたは少しも、間違つた事をあそばさぬゆゑ』『ハハハハまあ落ち着いて考へるがよい。園用事はない。あちらへ行け』『いゑまだまだ私が申す事がござりまする』と。いひ出してはいづれ小半□(とき)と、澄も今はお園の手前『おお忘れてゐた、夕刻までに、行かねばならぬ処があつた』と。早々の出支度を。いつもは容易に許さぬ鹿子も。今日の敵は本能寺、園さへ擒(とりこ)にしたならばと。良人の方には眼も掛けず、落ち着き煙草二三服、何をかきつと思案の末。燈火(あかり)を点けてと、お園を立たせ。つと我が部屋へ駈入りて、取出したる懐刀。につと笑ふて、右手に持ち、こちへこちへとお園を呼びて、尋常(よのつね)ならぬ涙声『私は折入つて、お前に頼みたい事がある。何と聞いておくれかえ。知つての通りの私の身体、此邸(ここ)で生れた身のふしよう。旦那に愛想尽かされては、行くべき処のない身の上。生きてお邪魔をしやうより、我から死んで見せましたらば。せめて一度や、半分の、回向位はして貰やふと、はかない事を、空頼み。明日ともいはず、たつた今、私は死んで見せるぞや。私が死んだその後では、誰に遠慮が何要らふ。今宵からでも改めて、私の跡へ直つてたも。さすれば先祖もお喜び、世間もお前を誉めるであろ。もしも情けの道知らずが、お前と旦那を譏つたならば、私の頼みといへばよい。その代はりには夢にでも、思ひ出した時あらば、無縁の仏と思ふてなり、香華だけは手向けてや』さらばとばかり立上る。あまりの事に、威しぞと、知つても、さすが転動して。まあ何事と縋(すが)り付き『それは何を仰しやりまする。それほどまでのお腹立ち、この期に及んで、私も、未熟な言ひ訳致しませぬ。さあさあ私を、どうなりと、御存分にあそばしませ』『ほほほ、今更それは遅いぞえ。何のお前は大事な身体。私こそは要らぬもの。旦那のお心変つたからは、生存(いきなが)らえて、何楽しみ。一時も早う、死んで苦患(くげん)が助かりたい。そこ離しや、ゑゑ離さぬか』と、半狂乱の、力任せに振切りて。部屋に続きし、奥倉庫(おくぐら)の、戸を引開けて、中から、ぴつしやり。押せども突けども、開かばこそ。泣くも詑ぶるも、一人芸。ひそみ返りて音もせぬ、あまりの事の気遣はしさ。お園も思案の帯引締め『それでは奥様私は、これでお暇致しまする。私さへに居りませずば、御自害沙汰には及ばぬ事。必ず必ず御短気な事、あそばして下さりまするな。お詑はあの世で致しまする。御機嫌さまで』といひ捨てて、裾もほらほら、気もはらはら、身を飜して走り行く。様子を見済まし、倉庫の戸を、そつと引開け、立出る、鹿子の前へ吉蔵が、急ぎ足に入来り『存分甘く行きまして、お目出たう存じまする』『それはよけれど、もし死んだら、それこそ思はぬ一大事』『そこに、ぬかりはござりませぬ。たしかに左へまだ半町、跡を※[#「足へん+從のつくり」、180-11]けて見届けませう』『必ず共に死なさぬやう』『その御念には及びませぬ。拝領ものを亡くしては、第一私損分』と。鼻蠢(うごめ)かせて、裾端折り、してこいまかせと追ふてゆく。したり顔には引替えて。鹿子はさすが女気の、空恐ろしき成行きに、なりもやせむかと気遣はしさ。重ねて追手出したいにも、広い邸に我一人、払ふた邪魔が、今更に、待遠しくも思はれぬ。

   第三回

 昼はさしもの人通り、本郷神田小石川、三区の塵に埋まる橋も。今は霜夜の月冴えて、河音寒き初更過ぎ。水道橋の欄干に、身を寄せ掛けたる一人の婦人。冷やかなる、月の光を脊に受けて、あくまで白い頸(えり)もとの、これにも霜の置くかと見えて、ぞつとするほど美麗しきを、後れ毛に撫でさせて、もの思はしげに河面を覗き込む様子に『もしお前さん、まさか身投げじやありますまいね』『知れた事さ。今時分、こんな所で、死ぬ奴があるものか』『でもお茶の水の一件から、何だかこの辺は不気味でね』『さうさ、女もお前のやうなのだと、どこであつても大丈夫だが。美(い)い女は凄いものさ』『人をツ、覚えてるから好い』と、戯れながら行く男女のあるに。じつと跡を見送りて。ほんに思へば、世はさまざまや。我は生きるか、死ぬる瀬に、立往生のこの橋を、おもしろをかしふ渡つて行く、人を羨む訳でなけれど。私も一旦夫と定めた助三さんが、真人間であるならば。たとひ始めは従妹の義理で、夫婦にされた中にもせよ。一度縁を結んだからは、見ん事末まで添遂げて、女子の道を立てふもの。あれほどまでの放埓を、私は因果とあきらめても。可愛や親の鑒識(めがね)違ひで、いかい苦労をさす事よと。父様なければ、母さんが、お一人してのお気苦労、せめて私が息ある内にと、取つて渡して下されし、三行半(みくだりはん)も、親の慈悲。まだそれだけでは安心がと、世に頼もしい旦那様に、お願ひ申して下さんしたに。やれ嬉しやとその後は、一生お仕え申す気で、お主大事と勤める内にも。あんまりな、奥様のお我儘。上を見習ふ下にまで、旦那様の御用といへば、跡へ廻してよいものと、疎畧にするのが面憎さ。要らざるところへ張持つて、旦那の御用に気を注けたが、思へばこの身の誤りにて、思はぬ外のお疑ひ、忠義が不義の名に堕ちたも。奥様ばかりが悪うはない。どの道悲しい目に逢ふが、どふやらこの身の運さうな。それを思へばこの後とも、よしんば、生きてみた処で、苦は色かゆる、いろいろの、涙を泣いて見るばかり。泣きに生まれた身体と思へば、死ぬるに何の造作はない。やはり死んで退けやうか。いやいやいや、死ぬるといへば、奥様も、私がお邸出たからは、よも御自害はなさるまい。それに私が死んだらば、今宵の仕儀を御存じなき、旦那様のお思召。あれ程までにいひおいたに、分らぬ女子とおさげすみ。不義の罰よと、奥様の、お笑ひよりは、まだつらい。とはいふものの、もしひよつと奥様のお身に凶事があらば、さしづめ私は主殺し。手は下さねど、片時も、生きてゐられる身体でないに。どの顔下げて、おめおめと、旦那にお目に掛かれやう。それを思へば、この期に及んで、迷ふはやはりこの身の愚痴。どの道死ぬるが勝であろと。覚悟は極めても、どこやらに、この世の名残、西へ行く。月を眺めて、しよんぼりと。どこで死なふの心の迷ひは、それもあんまり気短かの、心の乱れと縺(もつ)れ合ひ。縺れ縺るる生き死にの、途は二ツを、一筋に、定めかねたる、足もとの、運びに眼を注け、気を配り、様子を覗ふ一人の男子。もうよい時分と物影を、歩み出でむとするところへ。飯田河岸の方より、威勢よく、駈け来りたる車上の紳士。何心なく女の顔、見るより車夫に声かけて、小戻りさするに、はあはツと、女は驚き透かし見て『あツ旦那様』といふままに。はつと思ひし気のはづみ。我を忘れて、河中へ、ざんぶとばかり飛び込みたり。

   第四回

 宮柱、太しく立てて、東洋を、鎮護の神と仰がるる、招魂社の片辺りに。小綺麗な黒板塀。主翁(あるじ)は太田彦平とて、程遠からぬ役所の勤め。腰弁当の境涯ながら。その実借家の四五軒ありて、夫婦が老を養ふに、事欠くべくはあらねども。実子なき身は、なまじひの、養子に苦労買はむより。金銭を孫とも子とも視て、気楽に暮そじやあるまいか、なう婆さんとの相談も、物和(やわ)らかなる気性とて。家賃の収入は、月々に、銀行預けと、定めても。どこやら饒(ゆた)かな、生活(くらし)向き、一人二人の客人は、夜毎に絶えぬ、囲碁の友。夜の更けるのも珍らしからねば。慣れたものはこれでもよけれど。お園様はさぞやさぞ、御迷惑であらうもの。ちようど幸ひ、隣の貸家。あれを当分、御用に立てて、お食はこつちから運ばせて、夜分は、三を泊りに上げれば、万事お気楽お気儘で、御保養にならふにと。主翁が注意、行届いたる待遇(もてなし)振り。この日曜を幸ひに、拭き掃きもまあ一順、すむにはこれが第一肝要のお道具、三よお火鉢持つて行け、婆さまは茶道具揃えて上げましや、菓子器に、羊羹忘れまいと、己れは手づから花瓶を据えて。秋の名残の、菊一りん。ひちりんも御入用なら、何時なりと持たせましよ。その外何なり、かなりなものは、たくさんにござりまする。御遠慮なふ仰せられい。お淋しければ、この切戸が、これこの通り開きまする。そこがすぐに手前の前栽、縁側へは、一跨(また)ぎでござりまする。ここから自由にお出這入り、どちらなりとも、お好きな方にお住居なされ。やれやれこれでお座敷も、ちよつと出来たと申すもの。これからは、決して決して、お気遣ひなされますな。ここがすなはち、あなたのお家、他人の家ではござりませぬ。家いつぱいに、おみ足も、お気もお延ばし下されいと。己れも延びた髯撫でて、帰る翁主と入れ違え。婆さまといふは気の毒な、五十二三の若年寄。良人ある身はこの年でも、なほざりにせぬ、身嗜(みだしな)み。形ばかりの丸髷も、御祝儀までの心かや。おめで鯛の焼もの膳『外には何もござりませねど。皆々(みんな)あちらでお相伴、まづ召上がれ』とさし出す『あれまあ、それでは恐れいりまする。いつまでも其様(そんな)に、お客待遇して戴いては、気が痛んでなりませぬ。それよりは御勝手で、お手伝ひなと致したが』と。お園の辞退を引取りて『またしてもそんな事、おむづかしい御挨拶は、もうもう止しになされませ。先夜の今日日(けふび)、お身体も、まだすつきりとはなさるまい。お気遣ひは何よりお毒、当分お任せなされませ。深井様には、いろいろと、御恩に預かる私夫婦。役に立たずの老人が、未だに御用勤まりまするも、やはりお庇陰(かげ)と申すもの。何御遠慮に及びましよ。かうしてお世話致すからは、失礼ながら、私どもは、他人様とは思ひませぬ。娘を一人設けたやうで、どんなに嬉しふござりませう。それにあなたの母御(おやご)様は、継(まま)しい中のあなた様を、この上もないお憎しみ。死なふとまでの御覚悟も、どふやらそんな御事からと、あの晩深井様からあらましは、承つてをりまする。及ばずながらこの後は、私夫婦と、申すほどのお役には立ちませねど。歴然(れつき)としたお従兄の、深井様もいらせられまする。必ず必ず御苦労はあそばしますな。ほほ私とした事が、ついお話に身が入りて、御飯のお邪魔をいたしました。さあさあ早う召上がれ。そして御飯が済みましたらば、お髪(ぐし)をお上げなされませぬか。お湯も沸(わか)してござりまする。あなたのお年齢で、お装飾(つくり)を、大義とばかり仰しやるは、よくよく御苦労ありやこそと、お心汲んでをりますれど。さうばかりでは、なほの事、お気が塞いでいけませぬ。少しなりとも、御気分の引立つよう、無理にもお身体借りまして、お装飾申して見ましたい』と。なにかにつけて、世話好きな、老人気質、あれこれと、進まぬお園を勧め立て、装飾り上げたる、髪容(かみかたち)『嬉しやこれでお美しい、玉の光が見えました。娘があらば、ああかうと、物珍しい心から、余計な世話まで焼きたがる、うるさい婆とお怒りなく。私が申しまする事も、一ツ聞いて下されますか』と。持ち運んだる紙包み、二ツか、三ツか、三ツ襲(かさ)ね『これこのお召のお襲ねは、ちよつとしたお着替えに、この銘仙が御平常(ふだん)着。お帯も上下、二通り、お長繻絆や、なにやかと、さしづめ遁れぬ御用のものは、揃えてあげまするやうと。あの翌日(あくるひ)深井様御越しの節のおつしやり付け。それではお柄を伺ひましてと。申し上げてはみましたなれど。お耳へ入れては、要る、要らぬと、御遠慮がめんどうな、それよりは、万事よきに計らふて、お着せ申してくれとのお詞。それ故の押付けわざ。御寸法は、あの濡れた、お召しに合はせてござりまする。大急ぎの仕立と申し、老人の見立ゆゑ、柄が不粋か存じませど。これでも吟味致したつもりと。ほほ自慢ではござりませぬ。何のこれが私どもから、差し上げるものではなし。深井様のお思召、お心置きなふお召替え。さうでなうては、私が、深井様へのお約束が立ちませぬ。さあさあ早う』と、しつけ糸、とくとく着せて見ましたい。お帯をお解き申しませう。あちらへお向きなされませ。私がお着せ申しますると。勧め上手が勧めては、否といはれぬ、今の身は。着てゐるものも、借りものを、これでよいとはいはれぬ義理。とても御恩に着るからは、他人のものより、御主のものと、思ひ定めておし戴き。着替えしところへ、計らずも、切戸口より主翁の案内『かやうな処でござりまする。ともかく一応御覧を』と。小腰を屈め、先に立ち、澄を伴ひ入来るに。今更何と障子の影、消え入りたい心をも、夫婦の手前、着飾つた、身の術なさを、会釈に紛らし出迎ふるに。さても美麗し、見違えたと見とれて、ふと心付き、たしか従兄の格なりしと、思ひ出しての答礼を。どふやら可恠(おかし)な御容子と、夫婦が粋な勘違ひ。四方山話もそこそこに。妻は母屋へ酒肴の準備、主翁も続いて中座せし、跡は主従さし向ひ。この間とお園は両手を支へ『何からお礼を申さうやら。取詰めました心から、後先見ずの先夜のしだら。お叱りもないその上に、冥加に余る御恩の数々。夫婦の衆まで私を、お従妹と、思ひましての手厚い待遇。どうもこれでは済みませぬ。やはり下女とお明かし下され、召使ひ同様に、致してくれられまするやう』と。いひかかるをば打消して『済むも済まぬもありはせぬ。従妹でも、何でもよい。邸に居るものといへば、かへつて不審を受けるゆえ、継母の為家出とすれば、穏やかでよからうと、思ひ付いたからの事。そこらは乃公に任しておけ。済む済まぬといひ出せば、家内の気質を知りつつも、邸に置いたが、そもそも誤り。それ故互ひに済む済まぬ、それはいつさいいはぬがよし。この后共に、汝に対してする事は、媼に対してする事なれば、乃公に礼をいふには及ばぬ。今日は幸ひの日曜なれば、この家の夫婦に、ゆつくりと、相談もしておくつもり。手芸を習ふか、縁付くか、どちらにしても、確(しか)とした談話(はなし)の纒まるそれまでは、かうして気楽に暮すがよい。たとへば二年三年でも、汝一人をかうして置くが、乃公の痛痒(いたみ)になりはせぬ。つまらぬ事に、気遣ひすな』と。今に始めぬ優しさに。はや涙ぐむお園の顔。いつの憐れに替はらねど。名もなき花の濡れ色と、さして心に止めざりし、その昨日には引替えて。よその軒端に見やればか。瞼に宿す露さへに、光り異なる心地して。今日より後は憐れさの、種を替えしも理や。富貴に誇る我が宿の、心も黒い、墨牡丹。この幾日はとりわけて、悋気の色も深みてし、その花の香に飽きし身は。ほのほの見えし夕顔の、宿こそ月を待つらめと、またいつの夜を来ても見む、心もここに兆せしなるべし。

   第五回

 今日は赤坂八百勘にて、その昔(かみ)の同窓生が、忘年会の催しありとて、澄が方へも、かねてその案内あり。午後五時よりとの触れ込なれど。お園が家出のその後は、鹿子の、僻みいつそう強く、夜歩行(よあるき)などは思ひも寄らねど。これは毎年の例会にて、遁れ難き集会(あつまり)なればと。三日前より、ちくちくと、噛んで含めた言の葉に。ふしようふしようの投げ詞。それ程御出なされたか、御勝手になさるがよい。したが五時といふのが、六時にも、七時にもなり易いは、大勢様のお集会に、珍らしからぬ事なれば。人の揃はぬその内から、お義理立には及ぶまい。ここといふのは、一時か、二時の間でござんせう。それを機会(しほ)に、横道へ、外れぬお心極まつたなら、六時過ぎから、御越と。時計の針も、何分の右と左を争ふて。もう行かねばと立上る、澄を止めて。もしあなた。ここが五分でござんすか。今からお眼が狂ふもの、乃公が時計は違(くる)ふたと、後のお詞聞かぬ為、私が合はしておきますると。ただ一分のその隙も、空(むだ)に過ごさぬ、竜頭巻。竜頭といふも恐ろしや、日高の川にその昔、蛇(おろち)となつたる清姫の、心もかうと。金色の、鱗に紛ふ、金鎖。くるくる帯に巻付けて。私の念力これこの通り、きつと覚えて、ござりませと。牙を包みし紅の唇噛んで、見送りし、その顔色の気味悪さ。ぞつと身にしむ夜嵐に。おお寒いぞと門を出し、その心地には引替えて。飲めよ、歌への大陽気。紳士揃ひも、学生の、昔に返る楽しさを。飽くまで遣つて退けやうと。星が丘とは洒落込まぬ、幹事の心、大盃で、汲めや人々、舞へ紅裙。紳士だなどと気取つた奴は、誰彼なしに肴にすると。洒落自慢の某が、浮かれ立つたるその所へ。思ひの外に遅なはりし、失敬したと入来る、澄を見るより、よい茶番と。思ひ付きの大声音。遅し遅し判官殿。何と心得てござる。今日は正五時と、先達からの案内でないか。それに今頃ぬけぬけと、どんな顔してござつたぞ。なるほど貴殿の奥方は、金満家の娘御といひ、少しも貴殿を、お踏付けになさらぬといふ貞女。あそこはあやかりもの、御来会も、遅なはる筈の事。奥方にばかりお義理立をなされるによつて。朋友(ともだち)の方は、お搆ひないじや。まだも、この中へ鼻垂らしう、これは奥が財産目録でござると、持つてござらぬだけが取り得か。総体貴殿の様な、内にばかり居る者を、蝸牛(ででむし)といふは、どうござらふ。あの蝸牛といふ虫は、どこへ行くにも、首だけちよつと出すばかり、家を背負つて歩行まするが、彼奴(あいつ)なかなか、気の利いた奴ではござらぬか。貴殿もこれからは、家の代はりに奥方をおぶつて、お歩行なされたら。天晴れ朋友への交誼も立ち、奥方へ報恩の道も、欠けぬと申すもの。一挙両全何とよい思案ではござらぬか。うわははははは、この師直(もろなほ)は、鮒侍などと、旧い摸型(かた)は行き申さぬ。当意即妙新案の、蝸牛(くわぎう)紳士は、どでござる。いざ改めて、今宵の肴に、紹介申すと。戯れて、笑はすつもりも、御念が入つては。苦笑さへ出来かぬる、この場の始末に、一坐の面々、顔見合はせて、笑止がる。中にも上坐の某が。これこれ君はどうしたものだ。またまた例の悪酔か。それも好けれど、その様に、人身攻撃に渉つては、一坐の治安、捨ててはおけぬ。衆議に問ふて、予戒令。退去さするといふ筈ながら。酔ふた酒なら、醒めもせう。醒めての上の宣告と、ここは我等が預かるから。まあ深井君坐したまへ。僕が代はつて謝罪いふ。先づ罰杯をくれたまへ、これ女ども酌せぬか。何をきよろきよろ馬鹿吉めが、山の手芸者と笑はれな。腕の限りを見てやらふ。小蝶は踊れ、駒はひけ。追付け春の柳屋糸めも、年末の吉例に、五色の息を吐かしてやらふと。さすがは老功老武者の、持ち直したる一座の興。この図を外さず、全隊が総進撃と出掛けやう。部署を極めるは、野暮の極。思ひ思ひの方面へ、突貫せよと、異口同音。散会ぞとは、いはれぬところへ、虚勢を張つて、途から、そつと、逃げて帰ぬ、粋の上ゆく粋あれど。澄は日頃金満(かねもち)の、細君故の、逃げ足を、知つたか、知つた、遁がすまい、よし来た合点、妙々と。いひ合はさねど、四五人が、ぐるりと四方を、取巻いて。一所に行かふと眼を離さず。前から引くもの、背後(うしろ)から、押しては危険(あぶな)い。帽子が脱げた、下駄が見えぬの、大悶着。おほほまあ、お危険い、そんなにあなたなさらずとも、出口は一ツでござりまする。と女中の挨拶口々に、へい有難う、お静かにと、見送る前へ、挽き出した、四ツ目の紋の提燈は、確かに深井が抱えの腕車(くるま)と。気早き一人が声掛けて。おい君これは帰すがよい。我等は、未だに揃ひも揃ふて、辻車に飛乗りの、見すぼらしい境涯を、君だけそれでは義が立つまい。ぜひそこまでは、交際(つきあひ)たまへ。然り然り大賛成。おい車夫、奥様にさういふてくれ。今夜は旦那を一晩借りる、きつと迷子にささぬやう、明朝は、みんなで送つて行くと。忘れずにいふんだよ。ハハハハハ、さあ君これで、君が身体はこつちのもの。謝罪は我等が引受けた。よしか車夫、さういへと。右左より引張るに、引かれて行くのも本意ならねど。強ひて否まば、前刻の、恥辱を、実にする道理と。酔ふた、頭脳に、ふらふらと、足はいづれへ向きしやら。銀燭眩(まばゆ)き小座敷へ、押据えられしと思ふ間に。奇麗な首が五ツ六ツ。しやんしやんしやんの三味の音も、いつしか遠くなる耳の、熱さに堪えず。ばつたりと、身体を畳に横霞。春の山辺の遊びかや、ほの暖かき無何有(むがう)の郷。囀る小鳥、咲く花の、床しき薫り身にしめて。ふわりふわりと、風船に、乗つたは、いつぞ。あれ山が、海も見えるは舞子に似た。この松原の真中へ、降りたら水があるかしら。咽喉が乾くと、眼を醒ませば。身はいつしかに夜着の中、緑の絹に包まれたり。南無三、これは吾家(うち)じやない。たしかこの宵、おおそれよ。衆人(みな)はどうした、あちらにか。てうどこの間と立つ袖を。もうお遅いと引留むる、女子は誰じや、汝に頼む。跡はよいやう、乃公だけは、是非に帰せと、振り切りて。門を出れば、軒毎の、行燈は、ちらり、ほらり降る、雪か霰か、あら笑止。何はいづこと、方角が分らぬながら行き行けば、赤坂見附、おおここか。つまらぬ処で夜を更かした。車夫頼むと。寒さうに、かぢけた親爺がただ一人。やつこらまかせの梶棒を、どちらへ向けます。さうだなあ、ともかく九段へ遣つてくれ。とても遠くは走れまい。そこらから乗り替えやう。はて困つたと腕車の上。薄汚れし毛布(けつと)に、寒さは寒し、降る雪に、積もつてみても知れてゐる。これから帰宅(かへ)れば三時過ぎ、寒い思ひをしたところで、ようこそお帰りなされしと、喜ぶ顔を見るではなし。冷たい蒲団は、あなたの御勝手。巨燵を入れて待つほどの、お心善しにはなれませぬ。お茶なら勝手に召し上がれ、下女はとつくに寝かせました、今を何時と思し召すと。それからちくちく時計の詮索、尖つた針で突かれても、一言いへば、二言目に。お腹が立たば、お殺しなされ、私は家の娘でござんす。去られる代はりに、死にませう。さあどうなりとして下されと、手が付けられぬに、寝た振すれば。引起こされて、窘められるは知れた事。これ程寒い思ひをして、怒られに帰(い)ぬ馬鹿もない。同じ苦情を聞かふなら、これからどこぞで一寝入。明日の事にしやうかしら。いやそれも悪からふ。薪に油を濺(そそ)ぐは罪、鹿子(あれ)は鹿子(あれ)でも、その親に、受けた恩義は捨てられぬ。はて困つた、三合の、小糠はなぜに持たなんだと、思はず漏らす溜め息に。ヘヘヘヘヘ旦那御退屈でござりませう。若い時分は、随分と、力のあつた男でも、年にはとんと叶ひませぬ。しかしもうそこに招魂社が見えますると。車夫の詞に、おおそれよ。お園は何と、身の上を思ひ続けて、泣いてもゐやう。乃公を力と頼んでも、滅多に訪ふてやられぬ身体。かういふ時に廻つて行かば、宅へも知れず、都合であれど。深夜に行かば、太田の手前。それは脇から這入るとしても、お園のおもわく何とであろ。いやいやかれに限つては、乃公を真底主人ぞと、崇(あが)むればこそ、勝気のかれが、もの数さへにいひかねて、扣(ひか)え目がちの、涙多。ああいふ女子でない筈が、ああなるほどの憐れさを、知りつつ捨てては置かれまい。やはりちよつと尋ねてやろか。たしかこの辻、この曲り、この用水が目標と。幌の中よりさし覗く、気勢に車夫が早合点。こちら様でござりまするか、それではお灯を見せませうと、頼みもせぬに、提燈持ち。案内顔の殊勝さを。無益(むだ)にさすのも不憫とは、どこから出し算用ぞや、ふと決断の蟇口開けて、そをら遣らふと、大まかに、掴み出したる銀(しろがね)は、なんぼ雪でも多過ぎまする。お狐様じやござりませぬか。人間様では合点がゆかぬ、夥しいこのおたから。せめて孫めに見せるまで、消えてくれなと、水涕を、垂らして見ては、押し戴き、戴いてゐるその隙に。澄が影は、横町へ、折れて、隠れて、ほとほとと、板戸を叩く音のみ聞こえぬ。

   第六回

 まあ旦那様、どうあそばしたのでござりますと。訝るお園の不審顔。さこそと澄はにこりとして『よいから跡を閉めておけ。太田へ知れては妙でない』静かにせよと、手を振りて、勝手は見知つた庭口より、お園の居間と定めたる、一間へ通るに、お園の当惑『まあどう致さう、こんなところを御覧に入れては、誠に恐れいりまする』と。外には坐敷といふものなき、空屋の悲しさ、せめてもと、急いで夜具を片付けかかるを『なに搆はぬ、それはさうしておくがよい。今時分来るからは、失礼も何もない。それよりは、その巨燵には火があらふ。寒い時には何より馳走。まづ這入つて温らふ』と。平素は四角なその人が、丸う砕けた炭団の火『掻き分けるには及ばぬ及ばぬ、これで充分暖かい。ああ寒かつた』と足延ばす『それではせめてこの火鉢に、お火を起こして上げましたいにも。火種子は、毎朝太田から、持つて参るを心当。焚付けもござりませぬ、不都合だらけをどうしたもの』と。ひいやり、冷たい、鉄瓶の、肌を撫でての歎息顔『茶などは要らぬ、止しにせい。たしか太田の婢(おんな)とやらが、毎晩泊りに来るとか聞いたが、それは今夜も来てゐるか』『はいそれは台所の方に伏せつてをりますれど。眠い盛りの年頃とて、ついした事では眼が醒めませぬ。ちよつと頼んで参りませう』と。立つを止めて『いや待て待て。知らずばてうどそれでよい。李下の冠、瓜田の沓。這入て見るも可恠(おかし)なものと、思はぬではなかつたが。ついこの外を通つたゆゑ。尋ねてみたい気になつたも、一ツは家へ帰るがいや。汝はなにかを知つてもをれば、少しも隠さぬ、察してくれ。遅刻(おそ)いついでに、今夜はここで、一寝入して行かふ。思ひ出してもうるさい』と。天晴れ男一人前、二人とはない立派なお方が。これほど御苦労あそばすが、おいとをしいとはかねてより、思ふた事も、いはれて見れば。ほんにさようでござりますると、いふてよいやら、悪いやら。ともかく勧めてお帰し申すが、お身の為ぞと、怜悧(さか)しき思案『この身風情がとやかくと、申し上げるも恐れますれど。それでは奥様、なほの事、お案じでもござりましよ。少しおあたりあそばしましたら、お帰りがお宜しかろ。奥様とても、さうさうは、おむつかりもあそばすまい。お寒うないやうあそばして』と。いふ顔、つくづく美麗しい、この心ゆゑ忘られぬ。どふやら乃公は迷ふたさふなと。巨燵の櫓(やぐら)に額を当てて『ああさて困つた、乃公が身は、家で叱られ、外では酔はされ。たまたまここで寝やうと思へば、たらぬと直ぐに突出される。それならばよい、今から行く。ただし家へは帰るまい、泊る処で、泊る分』と。すつくり立つを真に受けて『何のまあ勿体ない。外へお泊りあそばすに、ここを否とは申しませぬ。御恩を受けたこの身体、何のここが私の住居と申すでござりましよ。ただ何事もあなた様の、お心任せを、とやかくと、お詞返し上げますも、お家のお首尾がお大事さ』『ふふむ、それではこの乃公を、とても家内に勝れぬものと、見込を付けての意見かい。汝の目にも、それほどの、意気地なしと見えるのも、思ふて見れば無理はない。かうして苦労をさせるのも、やつぱり乃公が届かぬゆゑ。さあ改めて謝罪(あやま)らふ、許してくれ』との、むつかりは、胸に一物、半点も、足らぬものないこの生活(くらし)。結搆過ぎた、身の上に、させて貰ふた方様に、さういふお詞戴いては。どうでも済まぬこの胸を、割つてはお眼に掛けられず。はつあ詮方(しかた)がない、どうなとなろ。一夜をお泊め申すのが、さうした罪にもなるまいと。顔を見上げて、涙ぐむ、気色をそれと見て取つて『ほう、また泣くか、はて困つた。泣くほど嫌なら達ても行くと、いふてみたいの気もすれど。正直な汝を対手(あひて)に、この上拗(すね)るも罪であろ。乃公から折れて頼むとしやう。さあさあ頼んだ、どこでもよい。そこが否なら、この隅へ、ころりと丸寝をするとしやう。蒲団を一枚貸してくれ、栄耀な事はいふまい』と。はやとろとろと夢心地『それではお風邪召しまする。私はたつた一夜の事、寝ませいでも大事ない』『失礼ながら』と小夜蒲団『さうさう掛けては、汝がなからふ。なに外にまだあるといふか。それならばよし、よい心地。明朝は未明に起こしてくれ。人眼に掛からば、つまらぬ事、疑はれまいものでもない。これでとやかく思はれては、鴉に阿呆と笑はれる。鴉が笑はぬその隙に、せめて、夢なと見やうか』と。何やら足らぬ薄蒲団、身に引纒ひ、すやすやと、寝入らせたまふかおいとしや。せめて来世は、主従の、隔てを取つて、一日でも、かうしてお傍に居てみたい。どふやら、ひよんな胸騒ぎ。また奥様のお肝癪。変はつた事がなければよい。明日の事が気にかかる。どうなる事ぞと、吐く息も、身体も氷るこの夜半が、悲しい中にも嬉しいに。どふぞ明けずにゐてほしい。とてもよい事、ない筈の、この一生を、一夜さに、縮めてなりとも、継ぎ足して、明けささぬやうしてみたい。これがせめての思ひ出とは、よくよく因果な生まれ定。父様母様許して下され。わしや身分が欲しかつたと。蒲団の裾にしがみ付き、はつと飛退く耳もとに。はやどこやらの汽笛の音。ゑゑ忙(せわ)しない、何ぞいの。横に仆(こ)けても居る事か。よその共寝を起こすがよい。こちや先刻にから坐つたままと。起こしともない、明け鴉。かあいかあいの方様を、かうして去なすが後朝(きぬぎぬ)か。あの汽笛めも、奥様に、似たらば、たんと鳴りおれい。ゑゑ腹が立つ、気が狂ふ。耳まで真似して鳴るからは、この身体にも愛想が尽きた。どうなるものぞと、むしやくしや腹も。さすがいとしい顔見ては、耻しさのみ先立ちて、今まで何も思はぬ振り。そつと起こして見送りし、門辺で澄が捨詞。また嫌はれに来やうぞと、顔を見られて、魂は、ふわり、もぬけの唐衣。きつつ空しく行く人の、さこそは我をつれなしと、思ひたまはむ、お後影。お寒さうなが勿体ない。せめて私もこの寒風(かぜ)にと、恍惚(うつとり)そこに佇みぬ。

   第七回

 年の内に、春は来にける、御大家の、御台所の賑はしさ。我等は、いつも来る年を、晦日の関に隔てられ。五日十日と、延び延びの、払ひに年は越させても。身の春知らぬが極まりじやに。あの深井様のお邸は、二度正月が来るさうな。二十日といふに、餅搗きも、やあぽんやあぽんの煤払ひ。払ひたまへの神棚から、払ひをたまふ門口まで、飾り立てたる、注連飾り。しめて何百何十の、到来の数御用の品。お台所まで、ぎつしりと、詰まつた年の暮の内、眼の正月が出来るといふ。宝の山を見がてらに、行くにもこちとは出入方、空手で帰らぬ、その代はり。高いところへ土持ちの、歳暮の品は持つて行く。どうでも我等は貧乏性、土方にならぬが、まだしも、ましかと。出入の左官、大工まで、来る年々の羨み種が。今年ばかりは御様子が、がらりと違ふた淋しさは、恐ろしいもの、諸式の高直(こうじき)。このお邸にも響いたさうなと。外から見えぬ内幕を。幕の内では婢ども、二人三人が、こそこそ話。棚から卸す、針箱や、櫛の道具に鏡立。かうして纒める雑物の、風呂敷包見るやうに、包んで置いては、行つた跡で、隔てがあると怒らんしよ。親の病気といふたは嘘。勤まり悪(にく)いお邸で、年を越すでもなからふと、内証極めた前刻(さつき)の使ひ。忙(せは)しい時に暇取つて、お前方へは気の毒ながら、無理のない訳聞かしやんせ。この四五日の奥様の、あの肝癪は正気の沙汰か。お肝高いは、日頃から、知れてもをれど。なんぼうでも、堪らえられぬは、この間、旦那が泊つてござつた朝。いつもの時刻と、御寝所の、雨戸を私が明け掛けたら。お前も旦那に一味して、寝さすまいの算段か。昨宵(ゆうべ)一夜は、まんじりと、寝ぬのは知れたに、がたびしと、その開け方の訳聞かふ。やつとの事で、とろとろと、今がた寝かけた眼が醒めた。これでは今日も、一日頭痛。まどしやまどしやの、難題も、それだけならば済ましもせう。まだその後で、手水の湯が、温(ぬる)いの熱いの、大小言。かなぎり声で、金盥。替えて来やれと、突出したが、私の着ものに、ざんぶりと。濡れは、濡れでも、あんな濡れ。こちや、神様に頼みはせぬ。吉蔵さんとは、正直が、濡れて見たいの願ひ立に。お薩芋(さつ)を一生断ちますると、頼んでおいたが。なんぼうでも、験が見えぬに、ほつとして。あの前の晩、ほこほこを、喰べて退けたが、出雲へ知れた、罰かと思ふて、堪らえて居たりや。よい事にして大眼玉。着物が大事か、主人が大事か、何まごまごと叱られては、もう神様が対手じやない。堪忍ならぬも私が無理か。まだその上にこの頃は、吉蔵さんが、こそこそと、お部屋へ忍んで行く様子。どうでもこれは、奥様と、事情(わけ)が出来たであるまいの。標致(きりやう)は、どうでも、金づくなら、私が負けるに、極まつた。とても叶はぬ恋故に、辛抱するでもあるまいと、思ひ切つての拵らえ事。親を遣ふて、あれほどの、奥様、うむと、いはた今日、始めて親の有難さが、身にしみじみと分つて来た。お前方も親御があらば、たんと遣ふて暇とりやと。年甲斐もない、頬赤の詞に。白い反歯がさし出口。ほほほほ何の事かと思ふたら、またあの時の復習(おさらひ)かえ。お前のやうに、足引のと、長たらしういひ出しては、私等もいふ事、山ほどあれど。いはぬに極めて、近々に、暇を取らふと思ふたに、魁(さきがけ)られた上からは、親の病気の古手も出せまい。いつその腐れ、逃げやうか。それもなるまい、荷物がある。あのお園さん見るやうに、抑えられては、こちや困る。なふお松さん、そでないか。さうともさうとも三人が、三人までも出て行けまい。替はりを拵え、公然(おもてむき)、暇とるまでは、奥様の肝癪玉を、正月の、餅花位に思ふてゐよう。それにしても、吉蔵だけは、よい事をしやるじやないか。この四五日は、あの人の、工面も、ずんと、よい様子。財布も、ちやらちやらいふてゐる。何でもあの晩、奥様の、癪は、男に限つたさうな。女子は、叱られ、遠ざけられ、吉蔵ばかりがお傍に居たが、可恠なものじやないかいな。按摩ばかりの駄賃じやあるまい。お梅の怒つて、暇とりやるも、これには無理のないだけが、笑止でならぬと。思はずも、笑ひさざめく女部屋。ゑゑ、またしても騒々しい。何がをかしふて笑やるぞ。お梅は親の病気といふたに、まだぐずぐずとして居やるか。松はいつもの仕立屋へ、仕立を急きにといふたのを、もう忘れての冗談か。竹は私が頭痛の薬、今も頭(つむり)が破れさうなに、お医師者様で貰ふて来や。どれもこれも、一人として、私の身になるものはない。旦那のお留守は、女子の主と、侮る顔が見えてゐる、忙しい時には、忙しいやうに、ちつとは、いふ事聞いたがよいと。何やら分らぬ腹立声を、銘々の頭に冠せて、出したる、後は巨燵にあたるより、あたりやうなき、部屋の内。じたいあの、時計めが気に入らぬ。旦那の留守には、それ見た事かと、いはぬばかりに、きちきちと、私の胸を刻みおる。誰が買ふたと思ふてゐる。旦那の力で買ふたにしても、みんな私が親のもの。恩知らずの時計めが、六時を廻つて平気な顔。あのぴかぴかと白いのが、お園の顔に似てゐるやうな。お園も今は、お妾と、誰憚らず、装飾(めか)してゐやろ。今夜も旦那は、またそこにか。いよいよお帰宅(かえり)ないならば、私も腹を極めてゐる。男がようても、器量があつても、深切のない人が、どうなるものぞと思ふても、また気にかかる門の戸が、開いたは確かに腕車(くるま)の音。今夜はさうでもなかつたか。それはそれでも、よい顔を、見せては、たんと、つけ込まれる。知らぬ顔して寝てゐたら、先方から何とかいはんしよと。少しは横に仆(こ)けかけた、腹の中での算段も。がらりと違ふた、吉蔵が、へいただ今と畏る、顔つくづくと、突上げる、痞(つかえ)を抑えて起き直り『旦那はお帰宅ないのかえ』『へい今日も私に、前(さき)へ帰れと仰しやつたは、確かにさうと勘付きまして。腕車をそつと預けて置き、お跡を追※(つけ)[#「足へん+從のつくり」、195-4]てみましたら。やはり例の富士見町、恠しい家でござりまする。何でも近処の噂では、婢も二人居りまして、贅沢な生活向き。今日は帯の祝とやらで、隣近処へ、麗々と、赤飯配つて廻したとは、何と奥様、驚きますではござりませぬか。先月彼女(あれ)が出ました晩、旦那が途中でお待受け、私が口を開かされましたが、恠しいどころじやござりませぬ。お腹に赤児(やや)が居ますもの。とうからちやんとお支度が、出来てゐたのもごもつと。これから何とあそばすお心。うかうかなさるところじやない』と、底に一物、吉蔵が、敷居を超えて、じりじりと、焚き付けかけた胸の火(ほ)に。くわつと逆上(のぼ)せて、顫ひ声『うかうかとは、誰の事。
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