放浪作家の冒険
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著者名:西尾正 

 なかは一瞥して自分の部屋でないことがわかった。というのは、そこは畳数にしていえば十二畳余のひろさで、つきあたりの壁まで約四間はあり、視野が隙間に応じて底辺三尺くらいの三角形にくりぬかれ、正面の壁際にベッドのなかばがみえ、そのうえで縄でしばられた女の真白な下半身が陸にあげられた魚のようにぴょんぴょんとびはねている。しかも、おれののぞいている鼻のさきにはひとりの黒服をきた男が、女の奇妙なありさまをじいっとみつめているらしく、二本の足が脚立のようにつったったまま微動だにしない。いったいなにごとがおこっているのだろうと、もちまえの好奇心が湧然とむらがりおこり、そっと体をずらせてななめに顔をおっつけ、女の顔をみるために必死の横目をつかったもんだ。ところがどうだ、そのベッドのうえでは殺人がおこなわれているではないか。

 加害者は台上に膝をついて女の首にズボンのバンドをまき、ぐいぐいしめつけているので、確実な身長はわからなかったが、奇型といいたいほどの極端な小男で、しかも兇悪無惨な、おれはあんな人相のわるい男をみたことがない。ドストエフスキイの「死の家の記録」にでてくる兇暴無類の囚人ガアジンという男もかくやと思われるようなやつで、生得の殺人者とはああいう男のことをいうのだろう。眼がぎょろりとしていて、樽柿のようなししっぱなで、唇はあつく前方につんでていて、眉と生え際がつづいていると思われるほど額がせまく、しかも刑務所からでてきたばかりなのか、まだのびきらぬ頭髪を日本の職人のように角苅りにしていて、まことに不調和なことに、柄にもなく衣裳だけはりっぱな、ふとい棒縞のパジャマをまとうている。満面を※々(ひひ)[#「けものへん+非」、126-13]のように充血させ、バンドをしめるたびに、女はううん、ううん、とうめく。半裸の肢体は荒縄でたかてこてにしばられ、髪をみだし、そのうえさるぐつわをかまされているので人相はよくわからなかったが、じいとみつめているうちに思わずあっとでかかる息を力まかせにおさえつけた。
 その女こそさっき迄おれの部屋にいたあいかたじゃないか。いったいこの部屋でなにがおこなわれているというのだ。むろん人殺しだ。眼のまえの脚立のようにつったっている男はだれだろう。どういう料簡で人を殺害させ、それを身動きもせず見物しているのだろう。そういえば部屋の模様もなんとなくへんだ。妙に古めかしい壁かけがさがっていたり、王朝ふうの蒼味をおびた椅子や花瓶がおいてあったりして、――などと、ばくぜんとこんなことを考えているうちに、自分がいま、いかにけんのんな状態にいるかに気がついた。こうしちゃあおられぬ。まごまごしているととんでもないとばっちりをくわねばならぬ。ながいは無用と腰をあげたとたん、部屋のすみからとつぜん男の陰気なバスがこういった。
「そうだ、もっとしめろ、もっともっと」
 室内にはもうひとりの別人物がいたのだ。と同時に、それまでからくもささえられていたななめのドアが、身動きのために、かすかではあったが、――ことん……と音をたてて、五分以上もただしい位置にあいてしまった。しまったとばかり、ぴたりと息をころすと、それまでまばゆいくらいに煌々とかがやいていた電燈が、――ぱちいん……という暗示的なスウィッチの音とともに、まっくらになった。とりもなおさず、やつらはおれの隙見にかんづいたのだ。さあこまった、一刻もゆうよはしていられぬ。たんなる隙見だけでも、こういう家の風習として極端にいやがり、半ごろしにするくらいだから、おそるべき秘密をしられたやつらは、うむをいわせずおれの首にも魔手をのばしてくるに相違ない。よオし、くるならこいという身がまえで、しかし多分にびくつきながら、眼のまえのドアのひらかれるのを今か今かとまった。

 だが、この家でこれ以上のさわぎをおこすことはやつらにとって不利だとでも思ったのか、しいんとしずまりかえって身動きのけはいすらきこえない。やつらも息をこらしているのだ。もはや天国にたびたったのか女のうめきもきえていた。にげればにげられるぞとかんづいたので、蟻ほどの音もたてぬよう全身をよつんばいに凝固させたまま、一進ごとに念をいれて廊下をはえずり、右手の部屋のドアをあけた。そこがおれの部屋だったのだ。気をつけてみると前後に階段があるので、右左が逆になっていたというわけなのだ。大急ぎでみじたくをととのえ、最初の階段をおりて出口へで、ネクタイもむすばずに戸外へとびでた。夜半はいまその高潮にたっしたのであろう、相変らず青水晶のような透明な月が魔窟のてっぺんにのぼって、きた時くらかった路地々々やはげおちた屋根々々をひるまのようにさえざえとてらしている。ああ、この妖街の一隅で、おれのあいかたがころされた、ころされるところをみてしまった、とこう思うと、ばかばかしいことだがぞオっとして、路地を足ばやにかけぬけ、こきざみに表の商店街のほうへはしっていった。
 ところがどうしたことだろう、あながちにさっきの殺人事件と関係があるとは思えないのだが、客待ちのタクシーが一台もみあたらぬ。こうなったらあるいてかえるより道がない。あるいてかえったとて、おれの下宿まで二時間ばかりだからたかがしれているし、それに夜道はなれている。おれは頭のなかで、克明に道順をかんがえつつ、ねしずまった深夜の街衢(まち)をとことことあるきはじめた。ところどころでさびしい灯を鋪道にはわさせている立飲屋で、アタピンをひっかけちゃあ元気をつけてあるいてゆくうちに、さむさはさむいが風がないだけに歩行がらくで、ひととおり背後をふりかえってからせんこくの奇態な殺人事件を、もういちどかんがえてみた。
 まず、なぜあのじごくがあの家でころされなければならないかという理由だ。不愛想で、陰気で、みようによってはなんとなく秘密ありげな女だったが、ふっと、ああいう特殊な社会の脱走者にたいする刑罰が、いかに苛酷をきわめたものであるかに思いあたった。なるほどあの女は、他国にいて、ああいう社会には適さぬ、いかにも脱走すらしかねまじい反逆的な女だ。柔順につとめあげるためには、やけならやけなりに、もっとほがらかでなくてはいけない。脱走がぜったいといってもいいほど不可能なあの社会で、こっちから手をくだしてあやめるというのは損得からいっていかにもあわないはなしだが、同業の女たちへのみせしめから、さきざきあまりかせげそうもない女をことさらねむらせてしまうというはなしはきいたことがある。
 現場に、加害者のほかにふたりの男がいて、なにやら指図をしていたという点からも、こうかんがえられないことはない。たぶん、抱主か土地ゴロに相違あるまい。ああ、とんでもない女にかかわってしまったもんだと、すくなからず腐りつつ夜の街をあるいていった。
 やがて、みおぼえのあるS河にかかるM橋のたもとに、やっとたどりつくことができた。ここまでくればもうだいじょぶだと、おれの足はいっそうはずんできた。

 夜半の洋々たるS河のながめは思ったよりよかった。鏡のようにすみわたった大空にはいつあらわれたのか丘のような白雲がのろのろとながれ、左岸にそびえる騏麟(きりん)の首みたいなE塔の尖端や、河中にもうろうとうかぶN寺院の壮厳なすがたや、点々とちらばる対岸の灯、前後に架せられたあまたある橋のあかりが、青黒い、暗愁の、ものうげにゆれている河面にゆめのような華彩の影をおとし、いまやS河は、奇っ怪千万な深夜の溜息をはいているのだ。おれはそこにたたずんだまま、しばしはせんこくの戦慄もうちわすれ、河よ、いかなれば汝、かくもくるおしくわが肺腑をつくぞ、とせりふもどきでつぶやきつつ、□漫(すいまん)たる水のながれをながめていた。たかい月がおれの頭のうえにあった。するうちに気分がだんだん幻想にひやくしていって、今夜の事件はカルコあたりにはなしてやれば、器用な先生のことだから、“L'homme traqu□”ばりの犯罪夜話をでっちあげるかもしれぬぞと思い、それとなくその散文のアトモスフェエルを、ああでもないこうでもないとかんがえはじめた。人殺しのあった娼家に「その夜の男」がなにか持ちものをおきわすれて容疑者に擬せられる、こういう恐怖心理もトリヴィアルではあるが微細に描出すればすぐれたロマンになるかもしれぬ、その証拠物件にはなにがいいだろう、万年ペンはどうかな、万年ペン、万年ペン、万年ペン……とぼんやりつぶやいているうちに、はっとあることに気づいて、あわてて体じゅうのポケットをさぐった。
 ない、ないんだ、おれの万年ペンが。
 おれはとんでもないしくじりをしでかしてしまった。というのは、ひと月ほどまえクリスチャンである友人の結婚記念に贈呈をうけたイニシアルJ・Jときざまれた総銀製大型の万年ペンを、問題の家におきわすれてきたことをその時はじめて気がついた。いや、おきわすれたのじゃない、それまでどこへゆくにもその万年ペンだけはしょっちゅうもちあるいていたのだが、部屋へおしこまれた時、くれくれとせがまれるのも煩さいと思ったから、相手の気づかぬうちにすばやくべつのポケットにうつしたつもりだったのが、そのぶきような動作がかえって女の注意をひいたらしく、よほどの貴重品と思いこんで故意にまといついたりして、そっとすりとってしまったのだ。場所が場所だけに、神聖な友人夫婦を冒涜したような気がし、こころからすまなく思われ、女にせんをこされたまぬけさ加減に身ぶるいするほど腹がたった。ざまあみろ、そういう手癖のわるいやつは殺されるのがあたりまえだと、はるかM橋の欄干からX街の屍体をむちうったが、こうなると、万年ペンから足がついておれが「その夜の男」にならぬともかぎらぬ。するともう、いてもたってもいられぬ気持で、足ばやに橋をわたり、もはやのんきに夜道をうろついている気分じゃない、タクシーはないかと前後をみすかすがまず絶望だ。あるけあるけと必死にあるいてゆくうちに、道がつきあたってふたまたにわかれ、右手に Postes & T□legraphes と看板のかかった郵便局、左の角が三階建てのくろい事務所、つきあたりが工事中の軽便食堂らしいかまえのところへでた。この食堂の右の道をはいればもうわけなしだと、すたすた闇のなかへもぐりこんでゆくとね、うしろから、とつぜん、陰にこもった底力のあるよび声がおれの耳にひっかかった。
「おい……おい、ちょいとまちな」
 憶病(おくびょう)なはなしだが、ぞオっと水をあびせられたようにうしろをふりかえると、外套も帽子もないずんぐり男が斜めにさしこむわずかな月光のなかに、両手をだらんとたらしたままじいっとこっちをねめつけてつったっている。すかしみて、野郎きやがったな、と思った。その男こそ体にあわぬパジャマをき、まっかになって女の首をしめつけていた例の兇漢ではないか。右手のにぶいうごきにつれ、鋭利なジャック・ナイフがきらきらと月光を反射した。あれからのちのおれの行動を監視していて、口をふさぐためここまで尾行してきたに相違ない。おれだって場数はふんでいるし、剣道には自信がある。喧嘩もまんざらきらいのほうではない。体はもうこれ以上骨がじゃまでやせられないほどの骨皮筋右衛門だが、骨格には自信がある。相手が無手なら三人まではらくにひきうけられるのだが、この場合無手ではなし、しろうとではなし、犯行をしられているだけに必死にとびかかってくるに相違ない。わるくするとおだぶつだ。
 おれはできるだけおだやかに答えた。
「なにか用か」
「…………」
「…………」
「――みたか」
 男はやがて、おしつぶしたような、かさけのある嗄(しわが)れ声で、眼は依然おれをねめつけながら、ゆっくり、念をおすようにいった。
「みた」
 おれがこう答えるのと、男の体がはやてのように体あたりにとびかかってくるのとが、ほとんど同時だった。おれは、まぶたの危険にとずるがごとく、ひらりと体をかわした。と、どすうん、というものすごい音とともに男ははずみをくらって、それまでおれがうしろだてにしていた工事場の材木に骨もくだけよとばかり、空をきって激突した。ふたりは瞬時にしてふたたび二間の距離をおいて相対した。男はいまの空撃でよほどまいったのであろう、とがった口から血をぽたりぽたりとたらしつつ真白な息をはき、胸が波のようにふくれたりちぢんだりしている。あたりは依然として死のような静寂、――十秒ばかりの沈黙があった。
 おれの右手三尺のところに腐ったまるたんぼうがおちている。おれとしてはふたたびきりこんでくるであろう相手の切れものを、なんとかしてはらいおとさねばならぬ。はらえないまでもせめて相手の体の一部分でもうちこまねばならぬ。身をかがめてその棒きれをひろいあげる隙にやつはけもののように突進してくるに相違ないのだが、このままではよほど相手がうぶでなければいっそう敵しがたい。そのうちにもじりじりとせまってくる。もはや一刻のゆうよもない。おれはいちかばちかの骰子(さい)をなげた。案の定敵は、ドスを頭上に晃(ひか)らせつつまえのめりにおっかぶさってきた。おれは体をかがめたまま、まるたんぼうを両手ににぎって力まかせの「胴」をいれた。その手は男のドスよりもはやかった。男がうめきつつ地上によこだおれになるがはやいか、猟犬が獲物にとびつくいきおいで馬のりになり、めったやたらになぐりつけた。「さそい」の一手が効を奏したのだ。
「かん……かんべん……だ、だんな、かんべん……」
 よほどくるしい吐息のしたからきれぎれにこう哀願するやつを、俵でもかつぐようにもちあげて、
「勝手にゆけっ」
 と、前方へつきとばした。男は二三度こけつまろびつ、あたかもはなたれた兎のごとくまたたくまに暗闇のなかへ吸いこまれた。
 それから急遽表通りへで、Q街の屋根裏にかえったのはもはや夜明けにちかく、ほのぼのと白まってゆく空にそろそろ花の都パリがうごきだしていた。途中二度ばかり密行の不審訊問にあったが、どうしてもその夜の事件にふれることができなかったというのは、おれ自身のシチュエエションが非常にきわどいので、へたに口をわればとんだ災難にあわぬともかからぬと思ったからだ。

 さて、その翌日から、おれの新聞をみる眼が局限されてきた。「X娼家街売笑婦殺人事件」という大見出しが社会面のトップにとびでるのではないかと、まいにちの配達がまちどおしいくらいひそかに気づかっていたのだが、どうしたわけか一向に表ざたにならぬ。あんなどじな、しろうとのおれにすら隙見されるような仕事なのだから屍体の始末などもふてぎわで、おそらく発覚されなければフランスの警察制度のこけんにかかわるというわけだが、そうこうして、なんの発展もみずに半月ばかり日がたってしまった。するうちにこんな考えがうかんだ。つまり、ああいう場所のああいう殺人事件は、手口が大っぴらであまりにだいたんであるがゆえにかえって人目にふれず、暗々裡にかずをかさねているのではないか、あるいはまた、当局はすでにかぎつけていて、記事さしとめをめいじているのではないか、という疑いだ。ところが自分がよわみをもっているだけ、どうもあとの場合のほうが可能性がありそうに思われ、いまごろはあそびにんや田舎もんに変装した何十人という刑事が、四ほう八ぽうに暗躍しているのではないかと思うと、じつにむじゅんしたはなしだが、自分が真犯人のような錯覚をおこして、きょうはのがれたがあしたは捕まるといったふうに、一種の強迫観念にせめられるじゃないか。この気持はおれとおなじい状態におかれたものでないとわからぬかもしれぬ。なあに、でるとこへでて逐一事実を陳述すればそうむちゃな結果になるとは思えぬ、とみずからなぐさめるのだが、どっこい、この世のなかにはいろいろな逆がおこなわれている、悪党が善人づらで通用するし、けちな野郎が大きなつらのできる世のなかだ、無辜(むこ)の自分が真犯人にされちまうというくらいの逆は、かくべつめずらしいことではないかもしれぬ、とこう思うと、そこがそれ病気だね、無心で交番のまえがとおれない。そうこうして、病的にいらいらしているうち五日ばかりたって、とうとうおれのおそれている日がきた。

 その日はおれがめずらしくはやおきをして、といってもかれこれひるちかかったが、朝昼けんたいのめしをくっている時だった、みしりみしりと階段の音がして留守番のばあやが、
「ムッシュウ・じゅあん、お客さんですよ」
 といい、よちよち一枚の名刺を眼のまえにさしだした。みるとQ署の刑事だ。きたなっ、と思ったとたん、虚脱された、晩秋のわびしい光をかんじ、いま胃袋におさまったばかりのやす油であげた豚肉のおくびが、すっぱい水といっしょにぐうっとのどもとへ逆もどりをしやあがった。くどくもいうとおり、この浮世はどんな逆でもおこなわれるところだ。ずらかれるだけずらかれ、――こいつはよたもののスロオガンだが、こう決心すると、すばやく寝巻をきかえて、トトトッと裏手のテラスへでた。ところが、哀しい曇影のよどんだ貧乏長屋のたてこむせまい路地々々のそれぞれのぬけ道のまえには、べつの刑事がつったっていて逃げ口をふさいでいる。もうこうなればどうってことはない。ゆうゆうと座にもどってくいかけのパンをむしゃくしゃほおばりはじめた。ところへ山高帽をかぶった黒服のでっぷりふとった男が、官服の巡査ともども、たいへん紳士的な、ものやわらかな物腰ではいってきて、巡査にみはらせておいて自分はなにをするかと思ったら、部屋じゅうの押入れをひっかきまわし、売っても値にならないために詮方なく鼠のかじるのにまかせっぱなしのわずかばかりのおれの蔵書を、てあたりしだいにひんめくった挙句
「ほかにもう隠し場所はありませんかね」
 ときた。ないと答えると、まだ疑わしそうな顔をしていたが、
「食事を終えたら、ではそろそろ、でてくれたまえ」
 といい、ポケットからふとい葉巻をつまみだしてぷいと口をかみきると、隅のがたがたベッドにずしんと腰をおろして、紫のけむりをはきながら、にやにやわらっている。こうしておれは至極順調に、Q署の留置場にほうりこまれてしまった。
 留置場で、ごろつきや窃盗やよっぱらいといっしょに、取調べはまだかまだかといらいらしながらまっていると、官服私服の刑事や巡査がいれかわりたちかわり首をだして、
「じゅあん、君のロマンはおもしろいぞ。くだらんものはかくのをやめにして、ひとつ本格的にいったらどうですかね」
 と、人をばかにしたようなことをいうのだ。こっちとしたらはやく本格的に取調べてもらいたいところだが、なかなか順番がまわってこない。そのままぽかあんとしてまたされたっきり、いったいどうなることかとひやひやしながら小半時もまっているとね、とつぜん、いきおいよくドアがあいて、官服のあからがおをしたえらそうな人がはいってきた。
「やあ、失敬々々、ムッシュウ・じゅあん」
 かれは意外にもてれくさそうな、すまないといった顔つきでいうのだ「――人ちがいでしたよ。真犯人がつかまったのだ。とんだ迷惑をおかけした。だが、君もわるいんだぜ。これからはせいぜい、疑われんようにするんだな。さあさあ、かえってもいいですよ、大威張りでね」
 ――こういうわけで、おれが無事に放免されたというのは、客観的にみて、あたりまえのはなしなんだが、なにしろ狐につままれたようなあんばいで署の廊下をつたってゆくと、こんどはもうすこしなまなましい光景に直面してしまった。というのは、前方におおぜいの人たちがたちどまって、よほどのもてあましものなのだろう、うぉううぉうと虎のようにわめきながらあばれ放題あばれくるっているひとりの男を七八人の巡査がよってたかっておさえつけている、それらの一団をせんとうにうしろからじゅずつなぎで、髪をぺったりわけたジョオジ・ラフトのような伊達者やアルベエル・プレエジャンばりのよっぱらいやアネスト・タレンスのような暴漢が、つまりあの夜の共犯者なのであろう、この三人がこっちにむかっておしこまれてくる。すれちがいざま、せんとうのあばれ坊主をみた時、そいつが例の角苅りの、くらやみでおれとわたりあった「真犯人」なのだ。やつらがおれとおなじ管轄の署内で再会したのも思わぬ偶然だった。やつらにもとうとう年貢のおさめどきがきたのだ、とおれはなるべくふれないようにすばやくはしりぬけて、匆々(そうそう)に署外へとびだしてしまったが、ガアジン先生の怒号は依然として、うぉううぉうとひびいていたよ。

 翌日と翌々日の新聞は、それぞれふたつのちがった結末を報じておれをおどろかせた。というのは、翌日の朝刊は下段にちっぽけな活字で、これらの逮捕された一団が暗黒街にねじろをもつ大規模なある種の、いかがわしい書籍出版の結社であるとつげているのみで、おれはしばしあっけにとられた。
「なんだばかばかしい、殺人じゃなかったのか」
 と思わずつぶやき、あの一夜の場景が殺人にしてはいかにも不自然だというふしぶしをまとめてみた。だいいち殺人にしてはあまりに不用意だ。脱走者に処罰をくわえるのだったら、なにも客のいる時をえらぶ手はない。室内の電気がやけに煌々とかがやいていたことや蒼古なかざりのほどこしてあったのも、写真撮影がほんらいの目的であったと思えばうなずけるし、はたして万年ペンから足がついたのかどうかわからぬが、おれがひっぱられたというのも平常から素行が不良で、おれが日本のポオル・ド・コックだと疑われたわけだ。刑事が蔵書をひっくりかえしたり、本格的なものをかけとからかったのも、あとで考えればうなずける。事実この Pornographie は、“Biblioth□que des Curieux (collection illustr□e) Volume 13.”という標題のもとに、あの夜の演技が挿入されて、いちぶの人士間に流布し、おれもふとした機会からながれながれた品物をげんにこの眼でみたことはみたので、この事実にうそはないらしいが、しかし、こんなたかのしれた犯罪の口ふさぎのためにおれを河をこえてまでつけてきて、ドスをぬいてきりかかってきたというのはいささか大仰ではないかと、なにかまだ腑におちないおりのようなおもくるしい懸念をいだいているうちに、翌々日の新聞が、こんどはまえよりもいくらか大きな活字でこの事件のもうひとつのかくされた面をばくろしたというのは、X街の娼家と娼家とのあいだにながれている幅わずか二三尺のどぶのなかに、ひとりの日本女のふはいした屍体が発見されたというニュウスで、この犯人がまえに逮捕された結社の一派で、余罪を追及してゆくうちになかまのひとりが犯行を自白したというのだ。しかし、かれらの陳述がいっぷうかわっているのだ。つまり殺人はほんらいの目的ではなく写真の効果をできるだけほんとうらしくするために、男のほうにある程度まで本気で力をいれてバンドをしめさせたところ、男は手かげんのわからぬふうてんだから、つい度をあやまってしめつけているうちに、まえまえから悪病でむしばまれよわりきっていた女の心臓がじっさいにはれつしてしまったという次第だから、わるふざけはするもんじゃない。さすがのかれらも可愛いい日本娘がほんとに死んでしまったと気づいた時、屍体をとりかこんでおいおいないたという。屍体の始末にはこまったが、さいわい家の裏の、それでなくとも不潔なたえずなまぐさい腐敗臭をはなっている下水のふたをあけて、そのなかにほうりこんでおいたのがうまくいって、本職のほうで足がつくまで、つまりおれがよばれた日までは殺人のあったことも、屍体すらも発見されなかったというからうかつなだんどりじゃないか。そんなことをしてまでも悪事には不感な変質者であるやつらは、その日その日の酒にことをかくところから、たかをくくって出版してしまい、ために悪運つきていっせい検挙となった次第だ。
 結末として写真に思わぬ凄味が烈々として、もりあがっているのはぶきみだが、殺人のいままさにおこなわれつつあるれっきとした証拠物など、ちょっとめずらしいものだと思ってみた。いま考えると、おれもあぶないところで命びろいをしたわけだが、いい退屈しのぎにはなった。もういちどこういう目にもあってみたいと思うが、健全な日本ではとうていおこりっこはないから、つまらぬ、つまらぬ。

 こう語り了(おわ)ったわが樹庵次郎蔵は、大きく高く両腕を天井に突き出してのびをするように立ち上ると、大ぼらでも吹いたあとのような清々した顔附で、折しも騒擾の極に達した往来へ跳び出して行った。彼は年老りの信者から一挺の太鼓を借り受け、躍り込むように行列に加わると、尺八を逆しまに持ってどんつくどんどんつく南無妙法蓮華経と歌い出し、肩を弾ませ、脚を上げ手を振り腰を揺ぶり、揺れるような人波と一緒にいつかもあんとした群集のなかに、見えずになった。私はこの飄々乎(ひょうひょうこ)たる樹庵の姿を見、持前の感傷癖から、彼のイデヤするものは畢竟(ひっきょう)、淡々たる光風霽月(こうふうせいげつ)の境地なのであろう、と何かこう羨しげな気持で、物凄い音響の律動を夢見心地に、他愛ない冒険譚の節々を、しばし彳(たたず)んだ儘(まま)思い起していた。
(一九三六年十二月)



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