中里介山の『大菩薩峠』
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著者名:三田村鳶魚 

     上

 中里介山さんの『大菩薩峠』(普及本の第一巻)を読んでみる。これは最初のところは、奥多摩の地理や生活ぶりが書いてあるので、そこに生れた作者にとっては、何の造作もない、まことに危なげのないところでゆける。しかし例の通り言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。それから武家の生活ということになると、やはりどうもおかしいところが出てくる。これは大衆文芸として、早い方のもののようでありますが、怪しい方でも同じく早いということになるんだろうと思う。
 一二頁のところで、宇津木文之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて来た女がある。その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。文之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方はどういう身柄であったか、書いてないからわからない。道場を持っているし、若先生ともいわれているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分はわかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。「お目にかゝりたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わずかなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。
 それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こんなわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。
「宇津木文之丞様の奥様」ということもここにあるが、千人同心などというものは、三十俵か五十俵しか取っていないのですから、そういう者の妻を、どこからでも「奥様」なんていうはずはない。奥様のことは、実に度々繰り返して言いましたが、大衆文芸というと、申し合せたように、こういう間違いを繰り返しているんだから仕方がない。ここでもまた繰り返しておきます。
 一八頁に竜之助の言葉として、「如何なる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたる事」とある。剣道とか、武道とかいう言葉はあったでしょう。「武術の道」なんていう言葉は、この時代としては不似合である。
 四十頁の御嶽山で試合をするところ、双方の剣士を呼び出すのに、一方の「甲源一刀流の師範、宇津木文之丞藤原光次」はいい。一方を「元甲源一刀流、机竜之助相馬宗芳」という。これは「平宗芳」というべきはずのところだと思う。たしかにこれは間違っている。同じところにある「音無しの構」というものは、撃剣家の方では、何流にもないという話を聞いている。そういうことは、あるいは小説だけに、勝手に拵えてもいいかとも思われるが、氏名を呼ぶ方は、こういう場合に、姓のほかに在名を遣うことは知らない。一方は立派に源平藤橘の藤原で呼んで、他方も平氏であるのに殊更に在名を呼ぶのは、わけが分らない。これは剣術の流名や何かを、いい加減に拵えるのとは違って、折角書いている小説を、わざわざ嘘らしくしてしまうようなものだ。
 四二頁に「呼吸の具合は平常の通りで木刀の先が浮いて見えます」と書いてあるが、「浮いて見える」という言葉は、普通落着かぬ意味に解せられる。これも用例が違っているように思う。
 五二頁になると、場面は江戸のことになって、本郷元町の山岡屋という呉服屋へ、青梅の裏店の七兵衛という者が訪ねて来る。そうして山岡屋の小僧に向って、「旦那様なり奥様なりにお眼にかゝりたう存じまして」と言っている。また奥様だが、これもいけない。「旦那なりおかみさんなり」と言わなければならぬところです。町家で「奥様」というのは、絶対にあるべからざることで、この近所にいくつも「奥様」という言葉が出てくるが、そんなことは江戸時代には決してない。
 五三頁に「以前本町に刀屋を開いておゐでになつた彦三郎様のお嬢様」ということが書いてある。刀屋を開いている、なんていう言葉も、この時代に不相応なものだ。お嬢様もお娘御と改めたい。
 五七頁になって、七兵衛に連れられて来たお松という小娘が、「そんな筈は無いのよ」と言っているが、これもおかしい。もう十一二になっている娘、今こそ零落している様子ですが、以前は相当の町人であったらしいのに、その娘にこういうことを言わしている。これはいずれにも、ごく幼年の者の言う言葉でなければならない。
 ところへこの店に入って来たのが、「切り下げ髪に被布の年増、ちよつと見れば、大名か旗本の後家のやうで、よく見れば町家の出らしい婀娜(あだ)なところがあつて、年は二十八九でありませうか」(五五頁)という女なのですが、これはどうも大変なものだ。何でも旗本の妾のお古で、花の師匠か何かをしている女らしいのですが、「大名か旗本の後家のやう」というのも、ありそうもない話だ。大名の後室様が、供も連れずに、のこのこ呉服屋なんぞへ買物に来るはずのものでなし、旗本にしたところが、同様の話です。しかも「よく見れば町家の出らしい婀娜な処がある」というんですが、そんなものが大名や旗本の家族と誤解されるかどうか、考えたってわかりそうなものだ。江戸時代においては、そんなばかなことは決してない。
 この妙な女が五八頁のところで、七兵衛とお松に声をかけて、「もし/\、あのお爺(とつ)さんにお娘さん」と言っている。これもおかしい。世慣れた女であっても、何か力みのある女らしくみえるのに、こんなことをいう。そうかと思うと、また二人に向って、「お前さん方は山岡屋の御親類さうな」と言っている。いつも買いつけにしている町人の家、その親類に「御」の字をつけるのは不釣合だ。しかるにまたこの女は、「ぞんざいといふのはわたしの言ふことよ」とも言っている。二十八九にもなっている女が、武家奉公をしたことがある者にしろ、ない者にしろ、こんな今の女学生みたいな言葉を遣うはずがない。この「わ」だの、「よ」だのというのは、すべて幼年の言葉で、それもごく身分の低い裏店の子供のいうことです。たとえどういう身柄の者にせよ、二十八九にもなる女が、そういう甘ったるい口を利くのは、江戸時代として受け取ることは出来ない。
 六五頁に「下級の長脇差、胡麻(ごま)の蠅もやれば追剥も稼がうといふ程度の連中」ということが書いてある。「下級の長脇差」というのは、博奕打の悪いの、三下奴とでもいうような心持で書いたんでしょうが、博奕打は博奕打としておのずから別のもので、護摩(ごま)の灰や追剥を働くものとは違う。追剥以上に出て、斬取強盗をするようなやつなら、護摩の灰なんぞが出来るはずはない。作者は護摩の灰をどんなものと思っているのか。要するにその時代を知らないから出る言葉だと思う。
 六九頁になって、文之丞の弟の兵馬という者が、「番町の旗本で片柳といふ叔父の家に預けられてゐた」と書いてあるけれども、三十俵か五十俵しか貰っていない千人同心が、旗本衆と縁を結ぶことはほとんど出来ない。従って旗本を叔父さんなんぞに持てるわけがない。奥多摩で生れた作者は、八王子に多くいた千人同心のことは委しく知っていそうなものだのに、こんなことを書くのはおかしな話だ。
 七六頁に「名主は苗字帯刀御免の人だから、斬つてしまふといふのは事によると嘘ではあるまい」と書いてある。「苗字帯刀御免」というのは、士分の待遇を受けていることである。そういうものはたしかにあったに違いないが、苗字帯刀を許されたからといって、それ故に人を斬ってもいいというわけではないはずだ。帯刀を許すというのは、無礼討をしても構わない、という意味のものではない。無礼討でないにしろ、人を斬っていいということでは更にない。作者はそこのところがわかっていないようにみえる。
 八二頁の、竜之助が侘住居をしているところで、「ほんとにもう日影者になつてしまひましたわねえ」と、今では竜之助の女房のようになっているお浜という女――最初に文之丞の内縁の妻だった――が言っている。奥多摩生れの女の言葉が、「日影者になつてしまひましたわねえ」なんぞは、なかなか洒落(しゃ)れている。時代論のほかに、なおそこに興味を感ずる。「ホントに忌(いや)になつてしまふわ」(八四頁)も同様に眺められる。そのほか、この女は盛んに現代語の甘ったるいところを用いていますが、面倒だから一々は申しません。
 この竜之助が侘住居をしているのは、どういうところかというと、「芝新銭座の代官江川太郎左衛門の邸内の些やかな長屋」と書いてある。そうして竜之助は、江川の足軽に剣術を教えている、というのです。代官の江川の屋敷が、芝の新銭座にあったかどうか、私は知りませんが、代官の屋敷に足軽がいましたろうか。そうしてまたその足軽に稽古させるために、剣客を抱えておくというほどのことがあったろうか。無論聞いたこともないが、何だか非常にそらぞらしく聞える。
 それからまだこの間に、言葉としてわけのわからないのがあるけれども、それは飛ばして九四頁になります。島田虎之助という人の撃剣の道場へ、竜之助が行ったところの話で、「若し島田虎之助といふ人が彼方此方の試合の場を踏む人であつたなら、机竜之助の剣術ぶりも見たり或は其の評判も聞いたりして、疾くにさる者ありと感づいたであらうが、さういふ人でなかつたからこの場合、たゞ奇妙な剣術ぶりぢやとながめてゐるばかりです」――こう書いてある。島田虎之助は当時有数の剣客であったが、方々出歩くことをしないので、竜之助の剣術を見たこともなし、評判を聞いたこともなかった、というのですが、竜之助の剣術が非常にすぐれたものであったならば、ただ奇妙な剣術ぶりだといって眺めているはずはない。構えをみただけでも、これはどのくらいの腕前がある、ということがわからなければならない。それを見てわからないとすれば、島田虎之助はえらい剣客でも何でもないわけだ。
 一〇三頁になると、お松という女が、例の山岡屋へ買物に来ていた、花の師匠か何かのところに世話になっていて、四谷伝馬町の神尾という旗本の屋敷へ、奉公に出る話が書いてある。この四谷伝馬町はどういう町であったかというと、これは市街地で、武家地ではない。武家地でないのだから、大きな大名でありませんでも、旗本衆の屋敷でもそういうところにあるはずがない。これは決してあるを得ないことです。
 例の花の師匠のような女は、この神尾の先代の寵愛を受けたお妾だったので、今は暇を取って、町に住っている。「院号や何かで通るよりも本名のお絹が当人の柄に合ひます」と書いてあるが、大抵な旗本衆は、先代の妾なんぞは、相当な手当をやって暇を出すのが当り前です。この女は髪を切っていますけれども、院号などを呼ばれるというのは、旗本の妾でありましたならば、当主を産んだ人でなければ、そんなことはない。通りがいいから本名のお絹でいるんじゃない、旗本の妾で、女の子や次三男を産んだのでは、みんなそういうふうになるのです。本人の好みでそういうふうにしているんじゃない。
 一〇六頁のところを見ると、神尾の屋敷内では、旗本の次三男が集って、悪ふざけをしている。こんなことはあったでしょう。けれどもここに出て来る女中の名が、「花野」とか、「月江」とか、「高萩」とかいうように、皆三字名だ。旗本なんぞの奥に使われている女どもは、大概三字名でないのが通例であった。
 一一六頁になると、新徴組の話が出てくる。『大菩薩峠』が新徴組のことを書いたので、これ以来皆が新徴組のことに興味を持つようになったらしくも思うが、いよいよここでその新徴組の話になるのです。まずここは、
「新徴組」といふ壮士の団体は、徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関でありました。
と書き出してある。もともと小説だから、善人を悪人に、悪人を善人に書いたところで、悪いわけはないでしょう。しかし新徴組というものを、こういうものだと思う人があったら、それは大変な間違いで、壮士の団体というのはまあいいが、決して「徳川の為に諸藩の注意人物を抑へる機関」だったのではない。浪士取扱いという名目で、浪人を沢山集めた。これは清川八郎の目論見(もくろみ)で、それが新徴組になったのです。こんな歴史は今改めていうまでもない話であるが、諸藩の注意人物を、どうするこうするというようなものじゃない。
 一一七頁に、新徴組の一人が「隊長」と言って呼んでいる。「隊長と呼ばれたのは水戸の人、芹沢鴨」と書いてありますが、新徴組になってからでも、隊長とはいっていない。続いて、「新徴組の副将で、鬼と云はれた近藤勇」ともあるが、副将という名称もなかった。近藤勇が売り出したのは、京都へ行ってから、会津と提携した後の話で、会津の秋月胤永(たねつぐ)に操られて躍り出したのが、近藤勇だ。ここに書いてあるのは、清川八郎を要撃しようという相談のところですが、清川は浪士を集めることについては、発起人である。そうして清川を邪魔にするようになったのは、京都へ行って帰って来てからの話です。その時に近藤は京都へ残って、新撰組が出来たのですから、近藤は江戸にいないはずだ。一一八頁には「殊に清川八郎こそ奇怪なれ。彼は一旦新徴組の幹部となつた身でありながら、蔭には勤王方に心を運ぶ二股者」というようなことも書いてある。これも話が違っているけれども、小説だから逆になっても構わずにやったのかもしれない。
 一二一頁になると、「新徴組は野武士の集団である。野にあつて腕のムヅ痒さに堪へぬ者共を幕府が召し集めて、最も好むところの腕立てに任せる役目」云々とある。これでは相当腕前のある、立派な人間ばかり集めたようにみえるが、事実の方からいえば、大変な間違いで、あの中には、随分いい加減ぶしな人物が入っていて、小倉庵事件では青木弥太郎の下回りを働いて、泥坊をやったやつさえある。それに浪士ばかりじゃない、随分剣道の心得のないやつもいたので、腕前が揃っていたなんぞは、とんでもない話だ。大分向う見ずの奴等が多く集った、というならいいかもしれない。一二六頁に「彼等は皆一流一派に傑出した者共で」などとあるのは、全く恐れ入ったことと言わなければなりますまい。
 土方が大将になって清川を要撃する。ところが駕籠が間違っていて、中にいたのは、当時有数の剣客島田虎之助だから堪らない、皆斬りまくられてしまう。それはいいが、駕籠の中をめがけて刀を突っ込んでも、何の手応(てごたえ)もない。これは島田が「乗物の背後にヒタと背をつけて前を貫く刀に備へ、待てと土方の声がかゝつた時分には、既に刀の下げ緒は襷に綾どられ、愛刀志津三郎の目釘は湿されて居た。空を突かした刀の下から、同時にサツと居合の一太刀で、外に振りかぶつて待ち構へて居た彼の黒の一人の足を切つて飛んで出でたもの」で、外の者は全くそれに気がつかなかったようになっている。いくら名人の剣術遣いでも、そんなおかしなことが出来得べきものではない。
 一二八頁には「島田虎之助は剣禅一致の妙諦に参し得た人です」と書いている。こんなことは全く書かいでもと思う話なので、参禅してどうなったかというと、「五年の間一日も欠かす事なく、気息を調へ丹田(たんでん)を練り、遂に大事を畢了(ひつれう)しました」と書いてある。これでは参禅というのは、気息を調えて丹田を練る、そうして大事を畢了する、というふうに読める。座禅というものが、まるで岡田式みたいなものになってしまう。こんなことは書かずにおく方がいい。もし参禅というものを、そうしたものだと思う人があったら、それこそ大変な間違いを惹き起すことになる。
 一方ではどういう心持か知らないが、「上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)」という心持で小説を拵えているとか称する作者が、こんなことを書いたのを改めようともしないでいるのは、そもそも何の心持があるのか、少年高科に登るということは不仕合せであると、李義山の『雑纂』の中に書いてある。一体作者は奥多摩に生れた、最も素性のいい少年であって、今日立派に成人して、世間でも評判される人になってからよりも、その少年時代というものに、よほど美しい話を持った人だ。いつにも三多摩からは人が出ていない。われわれの知っている人でも、結構な人だと思う人は、多くは故人になってしまわれて、今残っているのは例の尾崎咢堂翁と、それより若いところでは、大谷友右衛門に中里介山さん、ということになってしまった。作者の心がけというものは、決して悪くなかったんだが、少年高科に登ったのが不幸であるように、この『大菩薩峠』の評判がよかったのが、作者にとって幸いであったか、不幸であったか。私はその後も時折作者に会うが、会うたんびに作者はえらい人になっている。それは郷党のために、喜ぶべきことであるかないか、むしろ気の毒なような気もする。
 少年時代のいい話としては、学資を給与するから婿になれ、と富家から求められた時に、それでは学問をした効がないといって郤(しりぞ)けて、独学することにして、長いこと小学校の教員をしておった。こういう心持を持った若い人というものは、現代に求むるに難いところで、この一つの話だけでも、作者の人柄がよくわかると思う。しかるに好事魔多し、『隣人の友』という雑誌を拵えて、時々送ってくれるのを見ると、「大菩薩峠是非」という欄があって、毎号それに賛嘆文を麗々と掲げている。それを眺めて、惜しくない人であれば何でもないが、いかにも惜しい人であるだけに、忍びない心持もする。世間は人を育てて下さって、まことにありがたいものであるが、また人を損ねて下さるものも世間である。近来しきりに作者がいう「上求菩提」はよろしいとしても、「下化衆生」に至っては、作者などのいう文句にしては、少々重過ぎる。それが適当にいえる人が、世界に幾人いるだろうか。礼儀を超えてものを言う。殊に作者に対しては無礼であるかと思うことをも、遠慮なしに言うのは何のためであるか。作者に対する自分の心持と同様の心持の人は、けだし人間にも少いのではないかと思っている。
 余計な話になった。さて一三二頁に「互の気合が沸き返る、人は繚乱として飛ぶ」というのは何のことだろう。散りしく花の花びらででもあったら、繚乱もいいかもしれないが、実に困った言葉だ。この作者もしきりに「平青眼(ひらせいがん)」という言葉を使っているが、大衆作家はどうして揃いも揃って「正眼」を青くするのか。青眼という言葉の意味を、知らないのであろうか。
 それから島田虎之助に向った加藤主税、この両人が斬り合うところに、「鍔競合の形となりました」と書いてある。へぼくたな人間どもなら、かえって鍔競合なんていうこともあるかもしれないが、これは両人ともすぐれた剣客である。殊に島田のごとき、当時の第一人とさえ聞えた人物に、鍔競合なんてばかげたことがあろうはずがない。こういうばかなことを書くのはあさましい。一度作者がこんなことを書き出して以来、その後にめちゃめちゃな剣道、柔道の話が簇出(ぞくしゅつ)した。その俑(よう)を作ったのは恐るべきことである。

     下

 今度は一冊飛んで、第二巻の一番しまいにある「伯耆の安綱の巻」というのを読んでみました。これも甲州の話で、作者の生れたところに遠くない土地の話です。それだからまず間違いのない方になっている。殊に場所が場所だし、誰もあまり知っている所ではありませんから、まことに目立たなくなっていいかと思う。
 ここで第一番に出て来るのが、有野村の馬大尽というものの家のことです。
 この本の頁でいえば、五四四頁のところに、お銀という馬大尽の娘のことを書いて、「着けてゐる衣裳は大名の姫君にも似るべきほどの結構なものでありました」とある。いくら大百姓でありましても、大名の息女に似寄ったなりなんぞをするということが、この時代から取り離れたことでありますし、「大名の姫君にも似るべきほどの結構なもの」というのは、どういうものを着ていたのかわからない。作者もそれが何であったかということを説明していない。この女が髪の美しい女であって、「それを美事な高島田に結上げてありました」とも書いてあるが、大名の姫君というものは、高島田などに結っているものではないはずだ。これはどうしたことか。
 これからこの娘が父親のことを、「父様(とうさま)」といっている。いくら大尽の家の親父にしたところが、その子供が「父様」なんていうことはないはずだ。
 五四九頁になると、この馬大尽の家の女どもが、主人のことを話している。これは甲州の在方の話らしいのに、「なのよ」というような、すこぶる新しいところを用いている。これが文久頃の甲州の女だと思うと、よっぽど不思議な気持がする。ここで、この家の女房のことを、「奥様奥様」と言っているのは、例によっていけません。「変なお屋敷でございますよ」ともあるが、百姓の家をお屋敷というのも何だか変だ。
 五五〇頁になって、「こんな大家の財産と内幕は、わたし達の頭では目当が附きません」ということがある。今日からみると、何でもないようなことであるけれども、この時分の田舎の女が、「わたし達の頭」なんて、「頭」ということを持ち出すのはおかしい。時代離れがしている。ここで前の娘のことを、「お嬢様」と言っているのも、奥様同様百姓家には不釣合である。
 五五四頁に、お銀という娘の言葉として、「あの娘は綺麗な子であつたわいな」ということがある。「わいな」なんぞも、随分変な言葉だと思う。
 それからこの百姓大尽の家に使われている幸内という若い者のことを書いて、「見ると幸内は小薩張(こざつぱり)した袷(あはせ)に小紋の羽織を引かけて」云々(五五六頁)といっている。百姓の家に使われている者などが、小紋の羽織を着るものか、着るものでないか。
 五五七頁に、お銀がお君という女中を呼んで来いと言う。それを傍輩の女中が羨しがって「お前さんばかり、そんなお沙汰があつたのだから」と言っている。こういうことは武士の家でも、よほどいいところでなければいけない。お沙汰という言葉が、どんな場合に用いられているか、少し昔のものを見れば、すぐわかる話です。いかに大尽にしたところが、百姓の家の召使が、「お沙汰」なんていうのは不釣合な敬語である。
 五五八頁に「お君はお銀様の居間へ上りました」とある。「上りました」というなら、「御居間」といいそうなものだが、そこまでは行き届かなかったとみえる。「上りました」も、百姓の家には不釣合だ。
 五六三頁にも、お銀の言葉として「其方(そつち)のお邸へ行つてはなりません」というのがある。この大百姓の家は、主人、姉娘、弟と区切って、住居が拵えてあるらしいが、その一つを指してお邸というのは、他に例のない言い方である。妙に気取ろうとするから、世間無類な言葉も出てくるわけか。そんなに大名めかしい生活をしているのかと思うと、その次の頁には、「三郎様は大きな下駄を引ずつて雨の中を笠も被らずに悠々と彼方へ行つてしまひます」と書いてある。三郎というのはお銀の弟で、「十歳ばかりの男の子」なのですから、子供が大人の下駄でも穿いて来たんでしょう。それは民間によくあることだからいいが、大名めかしい生活の家とすれば、相当に付きの者もいるし、その他にいろんな者もいるはずだから、子供がむやみに大人の下駄を穿いて出るなんていうことは、させもせず、また相当な家に育った子なら、そんなことはしないはずだ。大名・旗本といわず、大百姓・大町人にしても、子供のために別に住居を拵えておくほどなら、その子供が沢山下駄の脱いである出入口へは行かないようになっているはずでもある。要するに作者は、大名生活も知らず、百姓生活もよく知らないから、こんなことを書くのでしょう。
 五六五頁になると、お銀がお君に向って、「まあ、お前、三味線がやれるの、それは宜かつた、わたしがお琴を調べるから其れをお前の三味線で合せて御覧」と言っている。気取った生活をしている人間なら、「三味線がやれるの」なんていう、野卑な言葉を遣うはずがない。しかしこれはもともと百姓なんだから、身分のない娘とすれば、そういうふうに砕けた方がいいかもしれないが、それにしてもこれは砕け過ぎていて、甲州の在方の娘らしくない。それほど砕けたかと思うと、「お琴を調べるから」という。お台所のお摺鉢がおがったりおがったり式だ。おの字の用例を近来の人はめちゃめちゃにしている。めちゃめちゃにしているのではない、御存知ないのであろう。すべてのことを差しおいて、この短い会話だけ眺めても、一方では琴におの字までつけるに拘らず、一方では「やれるの」と言う。一口にいう言葉のうちに、これだけ品位の違ったものが雑居している。百姓の娘が増長して、悪気取りをして、こういうむちゃくちゃをいったとすれば、それでいいかもしれないが、作者はそういう気持で書いたものとも思われない。
 同じ頁で話が替って、神尾主膳という人の家のことになる。ここに「組頭や勤番が始終出入してゐました」と書いてあるが、これは「甲府勤番」とすればいいでしょう。次の頁に、主膳の家で刀の話をしていることを書いて、「貴殿の鑑定並びに並々方の御意見を聞いて置きたい物がある」これは主膳の言葉なのですが、この時分には「意見」という言葉を、こういう意味には遣っていないように思う。もっともこういう言葉にしても、ここの会話が全部現代式であれば、釣合がとれなくもないが、古い言葉と新しい言葉とがごちゃまぜになっているので、余計変なのが目立ってみえる。同時に話が嘘らしくなってくる。
 五八二頁になると、前に出た有野村の百姓大尽のところへ、勤番支配の駒井能登守が来ることが書いてある。しかも先触れも何もなしに、能登守自身でやって来た。「新任の勤番支配が何用あつて、先触もなく自身出向いて来られたかと云ふことは、此家の執事を少なからず狼狽させました」というんですが、これなんぞも、どうしてもこの時代のこととは思えない。明治以後の成上り時代なら知らぬこと、昔の百姓大尽の家に、執事なんていう人間を持ち出すのも、随分変な話だ。
 駒井能登守は遠乗りのついでに立ち寄って、この馬大尽の馬を見せて貰いに来た、というので、「能登守には若党と馬丁とが附いてゐました」と書いてある。そうすれば、その若党なり、馬丁なりが駆け抜けて、自分の主人が来て、これこれのことが所望である、という意味を通じそうなものだ。この時代としては、それが普通の例になっている。しかるにそういうことをさせずに、いきなり駒井が案内を乞うたというのは、またこの話を嘘らしくしている。
 一体この甲府勤番支配というものは、二人ずつ勤めているので、勤番は五百石以下二百石以上二百人、与力二十騎、同心百人、支配は四五千石の旗本が勤める。これはなかなか重い役で、芙蓉の間の役人であった。役高は三千石、役知が千石ある。随分重い役です。そういう重い役でありますから、いくら遠乗りに出た時としても、先触れも案内も何もせずに、百姓家に飛び込むなんていうことはないはずだ。かりに若党と馬丁だけを連れて出たにしても、あらかじめその若党なり、馬丁なりをもって、知らせなければならない。そうして主人のみならず、村方の者まで出てお迎えしなければならないのに、この馬大尽の伊太夫は、一向そんな様子もなく、厩に連れて行って馬を見せている。
 この五八二頁に、「馬を見せて貰ひたいと思つて、遠乗の道すがらお立寄致した次第このまま厩へ御案内を願ひたいもの」とあるのは、能登守の言葉らしいが、甲府勤番支配というものは、百姓に対してこんな言葉を遣ったものでしょうか。伊太夫は厩から牧場へ能登守を案内して「せめて此の中から一頭なりともお見出しに預かりますれば、馬の名誉でござりまする」なんて言っているが、能登守がその中の一頭の乗試しをして、帰って行く時になっても、一向見送りもしていない。横柄といっていいか、ものを知らないといっていいか、こういうことはこの時代に決してあったとは思われない。
 五八六頁になると、お銀がお君の髪を直してやろうといったので、お君が「お嬢様、それは恐れ多いことでございます」と言っている。自分の主人に対してではありますけれども、「恐れ多い」なんていう言葉を、百姓大尽の女中が遣うのは、あまり仰山だ。「恐入ります」というのが当り前でしょう。
 五九〇頁に、駒井能登守の若党の一学という者が、能登守の奥様の病気でおられることをいって、「一日も早く、お迎へ申したいと家来共一同その事のお噂を申上げない日とてはござりませぬ」と書いてある。ここで「家来共一同」ということもおかしい、不釣合だと思う。
 五九五頁になると、甲府の勤番士の剣道指南をしている小林文吾という者が、門人との応対の中に、「遠慮なく云つて見給へ」という言葉がある。これもよほどおかしい。それに対して弟子の方が、「今度御新任になつた新支配の駒井能登守でございます」と言っているのもけしからん話で、どうして「殿」という敬称をつけないのか。
 六一一頁になると、宇治山田の米友という男が、「ならねえ」だの、「知らねえ」だの、「此の八幡様へでえだらぼつちが来るさうだから、それで燈火を消しちやあならねえのだ」だの、やたらに江戸訛を用いる。宇治山田の人だというのに、どうしてこんなに江戸訛があるのか。訛ばかりじゃない。江戸調子で「はゝゝゝ笑あせやがら」なんていう。これが伊勢の言葉かと思うと、不思議でたまらない。
 六一三頁になると、剣道指南の小林が、変装してやって来る。「竹の笠を被つて紺看板を着て、中身一尺七八寸位の脇差を一本差して、貧乏徳利を一つ提げたお仲間体の男でありました」というんですが、お中間体の男が、どうして脇差をさしていたろう。中間というものは、木刀きりしかさしていない。これはきまりきった話です。中間体に化けるのに、脇差をさしたんでは事こわしだ。
 六二六頁になって、お銀とお君とが御籤(みくじ)を取りに来る。そこでお銀が、「この通り八十五番の大吉と出てゐますわいな」と言っている。「わいな」は前にもあったが、どうも甲州人のみならず、誰の言葉にしても「わいな」はおかしい。お芝居のようだ。お君の方は伊勢古市の人だということだが、それが「この八幡様のお御籤が大吉と出ますやうならば、もう占めたものでございますね」と言っている。「占めたもの」なんていう言葉は、どうしても上方の人の言葉とは思えない。
 そうすると、今まで変に片づけていたお銀が、お君のことを「君ちやん」と呼んでいる。作者は折り返して「お銀様はお君を呼ぶのに君ちやんと云つたりお君と云つたり、またお君さんと云つたり色々であります」と言っているが、百姓大尽の娘にしたところで、少し村でも重んぜられているような人の娘ならば、自分の雇人でないように聞かせるために、「お君さん」はまだいいとして、「君ちやん」は少しおかしい。この娘はこのあとでも、「わいな」と現代的の「よ」だの「の」だのを、ちゃんぽんに用いています。この甲州大尽の娘と、伊勢生れの女中との言葉は、江戸のごく軽い暮しをしている人の娘らしく、言葉の上からは眺められる。
 六三六頁になりますと、甲府の御城の門番にかかって、お君が駒井に逢おうとするところがある。「門番の足軽は六尺棒を突き立て」と書いてあるけれども、甲府城に足軽がいたかいないか、これはたしかに同心のはずだ。同心も足軽も同じようなものですが、また決して間違うまじきものであります。
 この門番をしている者が、お君に向って「一応御容子を伺つて来るからお待ち召されよ」と言っている。どうも不思議な言葉を遣うもんだ。「何と仰有るお名前ぢや」とも、「有野村の藤原の家から来たお君殿」ともあるが、百姓の家から使に来た女――これは町人にしても同様ですが、それに対して「お名前」だの「お君殿」だのという言葉を遣うわけはない。足軽にしたところが、同心にしたところが、そのくらいの心得はあるはずだ。それにこういう場合は、やはり八右衛門とか、伊太夫とかいう名前をいうところです。たとい大尽でも百姓だし、かつまたその使に来た女なのですから、それに「お」の字や「殿」の字をつけるはずがない。それでは士分の者から来た使には、何といったらいいか。こういうふうなところから眺めてまいりますと、百姓や武家の生活はどんな状態にあったか、まるで作者は心に置かずに書いたようにみえる。
 まだ委しくこの本を読みましたら、いろいろなことが出て来るでしょうが、二三の例を挙げておけば、十分だと思います。『大菩薩峠』に対して、友達の一人がいうのに、この中に間違ったことがあるにしても、他の大衆小説のように、どうでもいいと思って書きなぐったのでなくて、真面目に書いている、間違ったのを承知して書く、というようなところはない、ということであった。いかにも他のものに比べると、書き方に真面目なところがある。真面目であるから、もっとよく読んで、もっと沢山指摘した方がいいかもしれない。けれども同じようなことを、すでに度々繰り返しているから、もうそれにもたえない。ここらで止めましょう。




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