明日
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著者名:魯迅 

「どうでしょうね、この子は」
「ウン……」
 王九媽はいずまいをなおしてじっと眺め、首を二つばかり前に振って、また二つばかり横に振った。
 家(うち)へ帰ってようやく薬を飲ませると、十二時もすでに過ぎていた。單四嫂子は気をつけて様子を見た。いくらか楽になったらしいが、午後になってたちまち眼を開き
「媽(マ)……」
 と一声言ったまま元のように眼を閉じた。睡ってしまったのだろう。しばらく睡ると、額や鼻先から玉のような汗が一粒々々にじみ出たので、彼女はこわごわさわってみると、膠(にかわ)のような水が指先に粘りつき、あわてて小さな胸元でなでおろしたが何の響もない。彼女はこらえ切れず泣き出した。
 寶兒は息の平穏から無に変じた。單四嫂子の声は泣声から叫びに変じた。この時近処の人が大勢集(あつま)って来た。門内には王九媽と藍皮阿五の類(るい)、門外には咸亨の番頭さんやら、赤鼻の老拱やらであった。王九媽は單四嫂子のためにいろいろ指図をして、一串(ひとさし)の紙銭を焼き、また腰掛二つ、著物五枚を抵当(かた)にして銀二円借りて来て、世話人に出す御飯の支度をした。
 第一の問題は棺桶である。單四嫂子はまだほかに銀の耳輪と金著(きんき)せの銀簪(かんざし)を一本持っているので、それを咸亨の番頭さんに渡し、番頭さんが引受人になって、なかば現金、なかば掛で棺桶を一つ買い取ることにした。藍皮阿五は横合いから手を出して「そんなことは一切乃公(おれ)に任せろ」と言ったが、王九媽は承知せず、「お前にはあした棺桶を舁(かつ)がせてやる」と凹(へこ)まされて、阿五はいやな顔をして「この糞婆め」といったまま口を尖らせて突立っていた。そこで番頭さんがこの役目を引受けて晩になって帰って来た。棺桶はすぐに仕事に掛らせたから夜明け前に出来上って来るとの返辞。
 番頭さんが帰って来た時には、世話人の飯は済んでいた。前にも言った通り七時前に晩餐を食うのが魯鎮の慣わしだからだ。衆(みな)は家へ帰って寝てしまったが、阿五はまだ咸亨酒店の櫃台(スタンド)に凭れて酒を飲み、老拱もまたほがらかに唱った。
 ちょうどその時單四嫂子は寝台のへりに腰を卸して泣いていた。寶兒は寝台の上に横たわっていた。地上には糸車が静かに立っている。ようやくのことで單四嫂子の涙交りの宣告が終りを告げると、□(まぶた)の辺が腫れ上がって非常に大きくなっていた。あたりの模様を見ると実に不思議のことである。あったことの凡(すべ)てがあったこととは思えない。どう考えてみても夢としか思えない。凡てが皆(みな)夢だ。あした覚めれば自分は寝床の中にぐっすり睡っていて、寶兒もまた自分の側(そば)にぐっすり睡っている。寶兒が覚めれば一声「媽(マ)」と言って、活きた竜、活きた虎のように跳ね起きて遊びにゆくに違いない。
 隣の老拱の歌声はバッタリ歇(や)んで咸亨酒店は灯火(あかり)を消した。單四嫂子は眼を見張っていたが、どうしてもこれがあり得ることとは信ぜられない。鳥が鳴いて東の方が白みそめ、窓の隙間から白かね色の曙の光が射し込んだ。
 白かね色の曙の光はまただんだん緋紅色(ひこうしょく)を現わした。太陽の光は続いて屋根の背を照し、單四嫂子は眼を見張ったままぽかんと坐っていると、門を叩く音がしたので、喫驚(びっくり)して急いで門を開けた。門外には見知らぬ男が、何か重そうなものを背中に背負って、後ろには王九媽が立っていた。
 おお、彼は棺桶を舁いで来たのだ。

 半日掛りでようやく棺桶を蓋(ふた)することが出来た。單四嫂子は泣いたり眺めたり、何がどうあろうとも蓋することを承知しない。王九媽達は面倒臭くなり、終いにはむっとして、棺桶の側(そば)から彼女を一思いに引剥がしたから、そのお蔭でようやくどたばたと蓋することが出来た。
 しかし單四嫂子は彼女の寶兒に対して実にもう出来るだけのことをし尽して、何の不足もなかった。
 きのうは一串の紙銭を焼き、また午前中には四十九巻の大悲呪を焼き、納棺の時にはごく新しい晴れ著(ぎ)を著せ、ふだん好きなおもちゃを添え――泥人形一つ、小さな木碗二つ、ガラス瓶二本――枕辺(まくらべ)に置いた。あとで王九媽が指折り数えて一つ一つ引合せてみたが、何一つ手落ちがなかった。
 この日藍皮阿五は丸一日来なかった。咸亨の番頭さんは單四嫂子のために二人の人夫を雇ってやると、一人が二百と十文大銭で棺桶を舁いで共同墓地へ行って地上に置いた。王九媽はまた煮焚きの手伝いをした。おおよそ手を動かした者と口を動かした者には皆御飯を食べさせた。
 太陽が次第に山の端に落ちかからんとする色合いを示すと、飯を食った人達も覚えず家に帰りたい顔色を示した。そして結局皆家に帰った。
 單四嫂子はひどく眩暈(めまい)を感じ、一休みすると少しは好くなったが、続いてまた異様なことを感じた。彼女はふだん出遇わないことに出遇った。有り得べきことではないがしかも的確に現れた。想えば想うほど不思議になった。――この部屋がたちまち非常に森(しん)として来た。身を起して灯火(あかり)を点けると室内はいよいよ静まり返った。そこでふらふら歩き出し、門を閉めに行った。帰って来て寝台の端に腰掛けると、糸車は静かに地上に立っている。彼女は心を定めてあたりを見廻しているうち居ても立ってもいられなくなった。室内は非常に静まり返った、のみならずまた非常に大きくなった、品物が余りになさ過ぎた。
 非常に大きくなった部屋は四面から彼女を囲み、非常に無さ過ぎた品物は四面から彼女を圧迫し、遂には喘ぐことさえ出来なくなった。
 寶兒はたしかに死んだのだと思うと、彼女はこの部屋を見るのもいやになり、灯火(ともしび)を吹き消して横たわった。彼女は泣いているあの時のことを想い出した。自分は綿糸を紡いでいると、寶兒は側(そば)に坐って茴香豆(ういきょうまめ)を食べている。黒目勝ちの小さな眼を瞠(みは)ってしばらく想い廻(めぐ)らしていたが、「媽(マ)、父(ちゃん)はワンタンを売ったから、わたしも大きくなったらワンタンを売るよ。売ったら売っただけみんなお前に上げるよ」といった。あの時はわたしも紡ぎ出した綿糸がまるで一寸々々皆意味があるように思われた。一寸々々皆生きていた。
 だが現在どうであろう。現在のことは実際彼女に取っては何の想出(おもいで)の種ともならない。――わたしは前にも言ったが、彼女は感じの鈍い女だ。感じの鈍い女に何の想出があろう。ただこの部屋は非常に静かだ。非常に大きい。非常にガランとしているとだけ、感じればそれでいいのだ。
 しかし感じの鈍い單四嫂子も魂は返されぬものくらいのことは知っているから、この世で寶兒に逢うことは出来ぬものと諦めて、太息(といき)を洩らして独言(ひとりごと)をいった。
「寶兒や、わたしの夢に現われておくれ、お前はやっぱりこの土地に残っていてね」
 そこで眼をつぶって早く眠って寶兒に会おうとすると、自分の苦しい呼吸がこの静かなガランドウの中を通過するそれがハッキリ聞こえた。
 單四嫂子は遂にうつらうつらと夢路に入(い)った。室内は全く森閑とした。
 この時、隣の赤鼻の小唄がちょうど終りを告げた頃で、二人はふらふらよろよろと咸亨酒店を出たが、老拱はもう一度喉を引搾って唱い出した。
「憎くなるほど、可愛いお前、一人でいるのは淋しかろ」
「アハハハハハ」
 藍皮阿五は手を伸ばして老拱の肩を叩き、二人は笑ったり押合ったり揉み苦茶になって立去った。
 單四嫂子はもう睡ってしまった。老拱等が出て行ったので咸亨酒店は店を閉めた。この時魯鎮は全く静寂の中に落ち、ただこの暗夜が明日(あす)に成り変ることを想わせるが、この静寂の中にもなお奔(はし)る波がある。別に幾つかの犬がある。これも暗闇に躱(かく)れてオーオーと啼く。
(一九二〇年六月)



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