サレーダイン公爵の罪業
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著者名:チェスタートンギルバート・キース 

        一

 フランボーがウェストミンスターにある彼の探偵事務所の仕事を一月休んだ時に、彼は撓舟(かいぶね)のように小さい、一艘の小型の帆艇(ヨット)に乗って旅に出た。東部諸州の小さい川を通った時、それはあまりに小さいので、ちょうど魔法船が陸の牧場(ぼくじょう)や麦畑の中を帆走(はし)って行くように見えた。舟は二人乗として快適なものであった。そして必要品を置くに足るだけの場所のみで、フランボーはそこに自分の哲学から割出して必要と考えた品々を蓄えていた。それ等は四つの主要部分に分類することが出来た――食いたい時の用意として鮭の鑵詰(かんづめ)、まさかの場合の用意として装填された何挺かの短銃(ピストル)、気が遠くなるようなことがないとも限らんというので一罎(ひとびん)のブランデー酒、それからヒョコリ死なないともかぎらないというので一名の坊さん。この軽い荷物を積載して彼はノーフォーク州の小川から小川へと、最後には『広沢(ブロード)』地方(英国東部にて河水が湖のようにひろがりたる所)へ達するようにゆるゆると廻って行った、行く行くあるいは水郷の庭園や牧場、あるいは河水に姿をうつす館や村落の画(え)のような景色を賞し、またあるいは池沼幽水(ちしょうゆうすい)に釣糸を垂れて、岸辺に道草をくいながらの旅であった。
 真の哲人のように、フランボーはこの旅行に決して目的を持たなかった。が、真の哲人のように、理由を持った。彼は一種の半目的を持った。それが成功すれば、旅楽に錦上(きんじょう)花(はな)を添えるべきものとして彼はその目的を重大視してはいたが、また失敗しても旅楽を傷つけはしないだろうと考えていた。昔年、彼が犯罪界の王としてまた巴里(パリー)において最も有名な人物として、彼はしばしば多くの讃辞やまたは謝辞、否(いな)恋文さえ受取った。その中に一つ、何等の理由なしに彼の記憶をとらえるものがあった。それは英吉利(イギリス)の消印のある封筒に名刺が一枚封のしてあるきりの簡単なものだった。名刺の裏には緑色のインキで仏文でこう書かれてあった。『もし貴下が職を退(しりぞ)かれて堅気となる事でもあらば、某(それがし)をお訪ね下されたし、某は貴下とお会ひしたき心なり、現代のあらゆる立派な人物にはもはや会ひつくしたれば貴下が探偵をまきて見当違ひの逮捕をなさしむる手際にいたりては、仏蘭西(フランス)史における最も光彩ある場面ならんか」名刺の表には型の如く「公爵サレーダイン、蘆の家(リードハウス)、蘆の島(リードアイランド)、ノーフォーク州」と印刷されていた。
 その当時彼はこの公爵のことを深く気にかけてはいなかった。公爵は南伊太利(イタリー)で有名な社交家だということを知る以上には。彼は若い時にある上流社会の夫ある女と駈落ちしたとの事であった。しかし、駈落ぐらいはこの社会にとってさのみ驚くべきことではなかったが、それに附随して起ったある悲劇のためにこの事件はなかなか世人の記憶から忘れられぬものとなった――侮辱をうけた夫がシシリー島の絶壁の上から身を投げて死んだと云われる自殺事件であった。公爵はその時しばらくヴィエンナに滞在していたが、近年は始終旅から旅へと暮していたように見えた。しかしフランボーが公爵自身のように欧羅巴(ヨーロッパ)をすてて英吉利(イギリス)に定住(じょうじゅう)することになった時、彼はノーフォーク州の広沢(ブロード)地方に住むその名士を突然訪問しようと思い立つに至った。彼はその場所を実際探(たず)ね当るかどうか、それはフランボーにも見当がつかなかった。そして全く、それは人の知らない片田舎ではあったけれども彼はその場所を予期していたよりは早く見出したのであった。
 彼等は一夜、丈なす雑草や短い刈込樹に蔽われた堤防の下(もと)に舟を舫(もや)った。昼の力漕(りきそう)のために眠りが彼等に早くやって来た。そしてまだ暗いうちに眼が醒めた。厳密に云えば、まだ夜のあけぬうちに起出でたのだ。なぜなら大きなレモン色の月が、今やっと二人の頭上に丈なす草の葉影に沈んで、空はまだ夜色を帯びつつも、すがすがしい菫青色(きんせいしょく)に輝いていたからである。二人は思わず、小供時代の憶出(おもいで)に耽った、丈なす雑草が私達の上に森の如くにひろがる時、私達は小鬼(エルフィン)の踊るを見るようなちょっと冒険的な気持になる、二人はそんな気持にも浸るのであった。大きな月に対してすうっと立つ雛菊は実際巨大な雛菊に見えた、またたんぽぽも巨大なタンポポに見えた。なぜかそれは彼等に子供部屋の腰羽目の壁紙を憶出させた。河床がひろいため、二人は凡(すべ)ての灌木や草花の根本よりズッと下方にあったので、仰向いて草を眺めるような形になった。
「やれやれ、まるで仙郷(せんきょう)へでも来たような気がする」とフランボーが云った。師父(しふ)ブラウンは舟の中にすわったまま真直になって十字をきった。彼の動作が余りにだしぬけだったので、相手はどうかしたんではないかと訊ねたほどだった。
「中世の民謡を書いた人々は」と坊さんが答えた。「仙女のことについては君よりもよく進んでいる。仙郷だからとて結構なことばかりあるわけのものではないでな」
「いやそんなことはない!」とフランボーが云った。「こんな淡い月の下では結構なことばかり起るものです。私はこれから大変に躍進して何が飛出すか一つ見ましょう。こうした月やまたはこうした気持にまためぐり合う前に、徒(いたず)らに死に朽ちてしまうかもしれませんからなア」
「それは御もっともじゃ」とブラウンが云った。「わしは何も仙郷へはいるが必ず悪いとはいわん。ただ必ず危険ではあると云うまでの事じゃ」
 彼等は晴々するような流れを静かにさかのぼった。空の菫がかった日光と白金色(はくきんしょく)の月は次第にうすれて行った、そしてかの黎明の色を前触するような渺々(びょうびょう)たる無色の天地に変って来た。赤や金色や灰色の淡い筋がはじめて地平線を涯(はて)から涯まで劃(かく)した時、彼等は川上に横(よこた)わっている町や村かの大きな黒影を見た。万物の姿が目に見えるおだやかな薄明が訪れる頃には、彼等はこの川添(かわぞい)の小村の橋や屋根の下に来ていた。家々は低く屈むような長屋根をいただいていて、巨大な灰色や赤ちゃけた色の家畜が河へ水を飲みに来るように見えた。やがて黎明が刻々と広がり明るくなって、勤勉な朝となった時には彼等は静かな町の荷揚場や橋の上に人間でも家畜でも一々指さす事が出来た。やがて彼等は今しがた沈んだ月のようなまんまるな顔付をした、そしてその下部の弧に赤い頬鬚を光線のように発射させた一人のおだやかな、福々しいシャツ姿の男が、ゆるやかな流の上に上ってる柱にもたれているのを見た。フランボーは揺れる舟の中にいきなり背丈一ぱいに立上りさま、その男に『蘆が島(リードアイランド)』もしくは『蘆(あし)の家』を知っているか、と訊ねた。福々した男の微笑はかすかにひろがった、そして彼はただ川上のうねりの方を指さした。フランボーはそれ以上話す事なしに前方へ進んだ。
 舟は草深いうねりを幾つか曲り、蘆の繁ったヒッソリした岸を幾つかすぎた。そして場所探しがようやく単調になろうとする頃彼等は特に角度の深いうねりを廻って、静かに湛(たた)えた池といおうか湖水といおうか、とにかくその風景に思わず見惚(みとれ)ざるを得ないような場所へ出た。広い水面の真ン中に灯心草(とうしんそう)に四面をかこまれた細長い平たい島が横わっていて、島の上には竹もしくは熱帯産の強い藤で編んだ細長い平たい家が立っていた。縦に竹をならべた四壁は薄黄いろく、屋根の傾斜をなす竹の列は茶褐色を呈しているので、その細長い家は何よりも単調に見えることを免れた。朝早い風は島をめぐる蘆の葉をザワザワとそよがせ、この不思議な家に触れて巨大な蘆笛のようにピーピーと鳴った。
「やあー!」とフランボーが叫んだ、「とうとうここが目的地か! あれがいわゆる『蘆が島(リードアイランド)』だな。あれがいわゆる『蘆の家』だな。頬鬚を生やした肥った男は、仙人だったに違いないな」
「まアそんな所かな」と師父ブラウンが言った、「もし彼が仙人だったら、悪い仙人じゃわイ」
 こう話しながらも気短かなフランボーは小舟をサラサラそよぐ蘆の中に乗入れていた、そして彼等は細長い奇妙な離れ小島の、珍妙な物さびしい家の傍に立った。  

        二

 家は水を背にして立っているので、こっち側には船着の上り段があるきりだった。玄関は向側(むかうがわ)にあって細長い島の庭を見下(みおろ)している、二人の訪問者は低い檐(やぐら)の下に、ほとんど家の三方を縁どっている小径(こみち)について廻って行ったのである。三方にそれぞれ開かれた窓を通して彼等は同じように細長い明るい部屋をのぞいた。同じように壁にはたくさんの姿見をはめ込んだ板壁がはりめぐらされておった。そして軽食(ランチ)の膳立であろう、甘(うま)そうな品々がならべてあった。やがて正面の玄関口に廻ってみると、そこには二つの土耳古(トルコ)青色(せいしょく)の植木鉢が両側に控えていた。しばらくして出て来たのは陰気な型(タイプ)のひょろ長い、胡麻塩(ごましお)頭の気の浮かない、給仕頭で、その男のブツブツ云うところによると、サレーダイン公爵はこの頃ずーッと不在であったが、ちょうど今日まもなく戻って来るはずになっており、室内には彼の帰りを迎えそしてまた不意の来客を迎え支度もととのっているとの事だった。そこで例の公爵から貰った名刺を見せて自分が宛名のフランボーだというと給仕頭の羊皮紙色の陰気な顔にも生命(いのち)の浮動がほのみえて、身体(からだ)をブルブル震わせながらもいんぎんな態度でどうか御ゆっくりして行ってくれといった。「御前様はもうほどなくお戻りで御座います」と彼は云った「せっかくお招き申上げた御客様方にわずかのところで会えなかったとあってはさぞ御残念におぼしめすでございましょう。御前様の御□付で簡単な御食事を御前様と御来客様方の分だけいつでも御用意いたしてございますので、旦那様方にもぜひ差上げろと仰せられるで御座いましょうから御遠慮なく召上って下さいまし」
 フランボーは好奇心にかられて、礼儀正(まさ)しい態度でこの申出をうけた。そして儀式ばって案内されるままに、さきの細長い、明るい鏡板のはりつめられてある部屋へと、この老人に従って行った。室内にはこれといって目を惹くものがなかったが、ただ、細長い腰低の窓が幾つかあって、その合間々々が風変りにも同じく細長い腰低の姿見張りになっているので、部屋全体が調子の軽い、飄々たるものに見えるのだった。何となく庭で軽食(ランチ)を食っているような気がした。隅の方にはくすんだ肖像画が一二枚かかっていた。その一つは軍服姿の非常に若い青年の大きな写真で、今一つは赤チョークで描いてある、毛を垂れさげた二人の少年のスケッチ肖像であった。その軍人が公爵その人であるかとフランボーが訊いたのに対して、給仕頭は無愛相に、違うと答えた。それは公爵の弟に当たる陸軍大尉でステーフィン・サレーダインという人だと云った。がそれだけで老人はプイと口を閉じてしまって、話なんかしたってつまらんといったような渋い顔をした。
 軽食(ランチ)の後で上等の珈琲(コーヒー)とリキュー酒の振舞がすむと二人の客は庭と図書室とそれから家政婦――女は少なからざる威風を備えた、じみなしかし美貌の持主で陰府の聖母というような感じがした――とに紹介された。この女と給仕頭とだけが公爵が本国から連れて来た一族のうち残ったもので、現在家に居る外(ほか)の召使共はこの家政婦がノーフォーク州で新たに募集したものらしかった。家政婦はアンソニー夫人という英吉利(イギリス)名で通っていたが、話の中に少し伊太利(イタリー)訛がまじるところから、フランボーはアンソニーとは疑(うたがい)もなく元の伊太利(イタリー)名をノーフォーク流に呼んだものに相違ないと思った。ミスター・ポウル、それが給仕頭君の名であるが、これもまた幾分他国訛のまじるのが見える。が、しかし英語には実によく熟達していた、現代の貴族に使われる一粒撰(えり)の召使達が多くそうであるように。
 小綺麗で絶品という感じはしたが、この屋敷には、皎々(こうこう)たる陰気さとでもいうような雰囲気がみなぎっていた。一時間が一日のように永かった。長い、体裁のいい窓のある部屋々々は明るさを一ぱいにはらんではおりながら、それは死のような翳(かげ)がこめていた。そして、チョイチョイした物音、話声、硝子器のチリンという音、召使達の足音、そうした物音に混って、二人の客人は家の四方に小歇(こや)みなくザワザワと流れる水声を聞くことが出来た。
「どうも廻り廻って悪い場所に来たもんじゃなア」と師父ブラウンが窓越しに灰緑色の葦(よし)や銀色の川波を眺めながら云った。「しかし心配はいらんて。君子は悪い場所においても正(まさ)しい人間である事によって善い事が出来るものじゃ」
 一体師父ブラウンは無口な方でもあるが変なところに同情をする小男だ。そこでこの短いおそろしく退屈な時間の間に、彼はいつともなく、相手の専門探偵よりも深くこの蘆の家(リードハウス)の秘密の中に想出を沈めていた。ニコニコした沈黙というものは世間話(よけんばなし)上手の秘訣ではあるが、彼はこのこつを好く呑込んでいた。で、今も彼は一語さえほとんど洩すことなく、この家で与えられた智識をもとにして出来る限りの推測をたくましゅうしていた。給仕頭は生来むっつり家であった。彼は主人に対して、ほとんど動物的な愛情を抱いている事を洩した。その云う所によると、公爵は非常に虐待されつつあるらしかった。その虐待の張本人は公爵の弟であるらしくその名を口にする時だけは、さすがにカンテラ形な老給仕頭の顎もグッと寸が延び、鸚鵡(おうむ)の嘴(くちばし)のような鼻にもフンといったような皺が走った。そのステフィーン大尉は手のつけられぬやくざ者で、何百何千という兄公爵の金を干した上、兄にせまって賑やかな社交界をすてて、この片田舎に隠遁させたのであった。これが給仕頭の老ポウルのしゃべった全部で、ポウルは明らかに公爵の味方であった。家政婦の方は前者の様にむっつりやでもなく不平家でもないらしい。ブラウンはこう思った。彼女が主人に対する調子にはどこかに酸味をもっているくらいのところだった。
 もっともある程度の畏敬を交えていないのでなかったが。フランボーと師父とが側(そば)の鏡の前に二少年を描いた赤いスケッチ画を見ていると、家政婦のアンソニー夫人が何か用事でもあると見えて、滑る様に部屋の中に入って来た。で師父ブラウンはふりむいてみる必要もなく、折柄この家の家族について二三の品評をしていたのを途中からばったりやめてしまった。がフランボーの方は顔を画(え)の中にほとんどうずめておったのでアンソニー夫人が入って来たのに気がつかずに既に大声で次のような事をしゃべっておった。「これはサレーダイン兄弟と見えますな、師父、二人共いかにも無邪気な顔附きをしている、いやこれではどちらが善人でどっちが悪人だかわからないて」とここまで話出した時彼は女が背に来ている事を知ったので後はいいかげんな雑談にまぎらわしながら庭の方へ出て行った。けれどもブラウンだけはなおも一心にその画に見入っていた。するとアンソニー夫人の方でも永いこと一心に師父ブラウンの姿を見ていた。
 彼女は大きな悲劇的ともいうべきな茶褐色の眼の持主である。その橄欖(オリーブ)色の顔は変に息苦しそうな驚きに燃え立っていた。この見知らぬ男はどういう素性の男だろうか、そしてまた何んの用があって来たのだろうと考えているように。してまた坊さんの法衣を見、宗派を知って故郷の伊太利(イタリー)で近づきになった懺悔僧のことでも想い出したのか、ただしはブラウンが連れの男よりも物識りらしいと見てとったのか彼女は小声で、その兄弟が揃って悪人だという事をしゃべり出した。「あの御連れ様のおっしゃる事は半分は確かに当たっておりますよ。あなた、あの方はこの兄弟はどちらが善人でどちらが悪人だか見別(みわけ)がつかないとおっしゃいましたが、本当に善人の方を見分けるのはむずかしいんでございますよ」
「はあ! わしには一向にわかりませんが」ブラウンはただこれだけ答えるとそのまま部屋を出ようとした。けれども彼女は一歩彼の方へ身を乗り出した、眉をひそめ、そして、牡牛(おすうし)が角(つの)を低めて身構でもするような獰猛な格好に身を屈めながら。
「いえ、当家には善人など一人もおりませんで御座いますよ」女は吐息を洩らしながら云った。「そりあ大尉さんにしても、お金をしぼりとろうとなさるのは、決して誉めた仕打とは言えませんが、とられる方の公爵様にしたって、そりゃア善くない点があるのでございますからね。何も大尉さん一人で公爵をいじめていらっしゃるんではないんです」
「強請(ゆすり)かな」という一語がつづいた。が、その時女はヒョッコリ肩越しに背後をふりかえってみて、今少しで倒れんばかりに吃驚したのである。その時扉(ドア)がスーッと開(あ)いて、入口に蒼ざめた顔をした給仕頭のポウルが幽霊のように立っていた。場所は鏡の間である。さながら五人のポウルが五つの入口から一時に入込(いりこ)んだかのように、薄気味悪く思われた。
「御前様がお帰りあそばしました」と彼は云った。

        三

 その瞬間、一つの姿が第一の窓の外を通った、続いて第二の窓を通ると、その通行する鷲のような輪廓を幾つかの鏡が炎のように次々にとうつして行った。彼は姿勢が正しく、そしてすきがなかったが、毛髪には霜をおき、そして顔色は妙に象牙のように黄いろっぽい。鼻は禿鷹の嘴のような羅馬(ローマ)鼻で、一般の場合この鼻には附き物の肉のこけ落ちた長い頬と顎を型の如くに備えてはいるが、これ等の道具立ては半ば口髭でおおわれているのでいかめし気に見えた。その口髭は顎髯よりははるかに黒くて、幾分芝居じみていた。彼の服装は、これも同じく芝居がかりで、白い絹帽をかぶり、上衣(うわぎ)には蘭(らん)の花をかざし、黄色い胴衣を着、同じく黄色い手袋を歩きながらパタパタやったり振ったりしていた。やがて彼が玄関の方へ廻ると、鯱鉾(しゃちこ)ばって出迎えるポウルの扉(ドア)を開ける音や、帰着した公爵が、「ア御苦労々々今戻った」という声が聞えた。ミスター・ポウルは頭をさげながら、何事かヒソヒソと主人に答える様子であった。数分間は彼等の対話は聴取(きと)ることが出来なかった。が、やがてミスター・ポウルの「何事もあなたにお任せします」という声がきこえた。サレーダイン公爵はあいかわらず手袋をパタパタとたたきながら、来客達に挨拶するために機嫌のよさそうな顔をして部屋の中にはいって来た。彼等はもう一度かの薄気味悪い光景を眼にした――五人の公爵が五つの扉(ドア)からはいって来たのを。
 公爵は白い帽子と黄いろい手袋を卓子(テーブル)の上に置いて、すこぶる慇懃に手を差出した。
「これはようこそお越し下すった、フランボーさん」と彼が云った。「あなたの事はもうよう存じておりましてな――御令聞‥‥と申上げて失礼でございませんなら」
「いやその御心配には及びませんハハハハハハ」とフランボーは笑いながら答えた。「私は神経質ではないですから。しかし、とかく顕(あら)われんものは善徳ですよ」
 公爵は相手のこの返報が、何か自分の事を云っているのではないかと思って、相手の顔をチラリとぬすみ見た。が、やがて自分も笑い出しながら、一同に椅子をすすめ、自分も腰かけた。
「ちょっと悪くない場所でな、ここは」と彼はくつろいだ調子で云った。「格別珍らしいものと云ってはないが、しかし釣だけは全く名物ですよ」
 坊さんは嬰児のような生真面目な眼付をして公爵の顔に見入っていたが、何といって捕捉する事の出来ない隠微(かすか)な幻のようなものがちょいちょい頭の中で動めいた。彼は綺麗に分けた霜のような頭髪、黄味をおびた色白の顔、きゃしゃな、幾分めかした姿などに見入った。それ等は決して不自然という感じを与えるほどではなかったが、舞台裏の俳優の扮装した姿のように、何となくこってりしたあくどさがあった。名状しがたいような興味はむしろ他の点に、顔の輪廓そのものにあった。この顔の型はどこかで見覚えがあるようだなと思ったが、憶出せないので苛立った。誰か知らん、昔馴染の友達の着飾った姿のような気がした。
 公爵は愛嬌たっぷりな頓智のよい応待振りを発揮しながら、二人の客人の間に心を配って相手を外させなかった。探偵が娯楽が大好きで、大いに保養の実をあげたがっているらしい様子を見ては、フランボーやフランボーの持舟を居廻りの一番よく釣れる場所へ案内するかと思うと、二十分以内には自分だけ先きに自分用の撓舟(かいぶね)で帰って来て、読書室に居る師父ブラウンのそばへ行って、同じようにいんぎんに坊さんの好みの哲学談に話しを合わせるという風であった。彼は釣についても、書物についても、なかなか知識を持っているように見えた。後者の方はすばらしい開発振りを見せもしなかったが、彼は五六ヶ国語を操った。もっとも主として俗語ではあったが、彼は明らかに諸国の変った町々や種々雑多の社会に生きて来た。実際彼の最も愉快な物語の中には地獄のような賭博場、阿片窟、オーストラリアの山賊など、しきりに出没した。師父ブラウンも、かつて名高かったこのサレーダインが最近の数年を旅から旅へと過しつつあるということだけは知っていたが、その旅がかほどに外聞の悪い、もしくはかほどに面白いものだったとはさすがに思いもよらなかった。
 実際公爵は世の事情にたけた人としての品位はあるにはあっても、ブラウン坊さんのような感じの鋭敏な人の眼には、どうもそわそわした、一歩を進めて言えば信用の置けない調子のある人物として見えるのはしかたのない事である。なるほど彼の顔形はいかにもやかまし屋のようには見える。が、その眼光にはどうも荒(す)さんだところがある。彼は酒か薬品かで身体のふるえる人のような神経の傾きがちょいちょいと見える。そして家政上の問題には一度も手を染めたことはないらしい。家の内の事は何から何まで二人の年とった召使にまかせっきりで、殊に給仕頭の方はこの家にとっては大黒柱に相違ないのだ。実際ポウルは給仕頭というよりは一種の家令という方が適切で、もう一歩進んで云えば、侍従ともいいたいくらいである。食事の時にも表立ってこそ食べないが食卓の礼儀は決して主人公爵のそれに負けないのだ。下々の者等も彼をピリピリと怖がっているようだ。そして公爵が彼と相談する時でも、主従の礼儀だけは正しくやるが、どこかに傲慢なところが見えるのだ。むしろ、彼が公爵の法律顧問ででもあるような態度が見えるのだ。それに比べると、陰気な家政婦の方は、まるで日蔭の女である。実際彼女は給仕頭に対しては、己(おの)れを低く屈して、まるで彼の召使か何かのように見える。ブラウンは、彼女が最前公爵の兄と弟について自分に私語したようなあのような猛烈な調子は、あれきり爪の垢ほども聞くことが出来なかった。公爵がその弟大尉……今どこにいるのやら……のために果たしてどれくらいの金を取られたのやら見当がつかなかったが、サレーダイン公爵の様子に何となく胸に秘密をかくしているようなところを見れば、その話はいかにももっともらしく受取られるのであった。
 公爵と師父ブラウンとが再び最前の細長い鏡の間に戻った頃には、水辺や岸の柳に早や黄昏の色が立罩(たてこ)めていた。そして遠くの方でごい鷺が小児の打出す豆太鼓のように、ポコボンポコボンと啼いていた。何となくもの哀れなそして不吉な仙郷を思わせるような妙な情調が、小さな灰色雲のように再び坊さんの心をかすめた。
「ああ、フランボウ先生、早やく戻って来てくれるといいんだがなあ」と彼は独(ひと)り語(ごと)をつぶやいた。
「時にあなたは災禍というものを御信じになりますか」と落着きのないソワソワした態度で公爵は唐突に訊いた。
「いや」とブラウンが答えた。「私は最後の審判日なら信じますがな」公爵は窓から身を起して様子ありげに相手の顔を見た。夕日にそむいて顔を薄暗くくもらせながら言った。「と御っしゃいますとどういう意味ですな。」[#「」」は底本では欠落]
「という意味は、この世に居る吾等(われら)は綴錦(つづれにしき)の裏側に住んでるようなもんじゃという意味です。どうもこの世に起る事というものは、全部の姿を現わしてはおらんもので、本当の姿はどこやら他の世界にかくれているものと思われますが、そうすれば悪業を身にもっているものはその他界で必ず悪果を受けることになるので善い。どうもこの世では途方もない人に悪果が廻り合せて来ますのじゃ」と、突然‥‥公爵は「ウォー」と、獣のような変な叫び声を発した。翳ったその顔には両眼がただならず輝いていた。そこでブラウンの頭にはある新らしい鋭敏な考えが忍びやかにひろがった。公爵が唐突に妙な声を出したり、顔を輝かせたりするには、どのような意味がこもっているのだろう。彼が果して正気であろうか、彼は社交家として自然な驚き方以上に「途方もない人に」「途方もない人に」と何遍も繰返した。
 [#空白は底本では欠落]ブラウンはさらに第二番目の真理に気が着いた。
 ふと前面の鏡の中をのぞくと、そこに扉(ドア)がスーッと開いていてポウルが例の通りの光沢の悪い無表情の顔をして立っているのを見たのだ。
「実は御早やく申上げました方が好かろうと存じまして」と彼は例によって年とった家庭法律顧問のようにいんぎんな態度で云った。
「ただいまボートが一双裏の船着きへ到着いたしましてございます、漕手は六人で、ともの方には御一名の紳士が御乗りの様子で御座います」
「えっボート」と公爵が繰返した。「何一名の紳士」と云いながらスックと立上った。
 しばらく氷のような沈黙が続いた。ただ蘆のしげみで水鳥のキッキッという妙な啼声が聞えるばかりだ。そして誰も無言であったが、早や戸外には横顔をこちらへ見せた一人の男が夕日に輝くこの部屋の三つの窓の外をまわって、最前公爵が通過したように通過するのが見られた。が、彼とこれとは鷹の嘴式の段々鼻の外線が偶然似ている外にはほとんど共通点がなかった。
 公爵の白っぽい絹帽にひきかえこれはまた旧式なというより外国式かと思う、黒の絹帽だ。帽子の下には果断らしく引しまった顎を青々と剃った若々しい、そして非常にきつい顔が控えている。ちょっと青年時代のナポレオンを彷彿せしめるような顔立ちだ。
 それにまた、全身の拵(こしら)えがいかにも風変りに旧式なところがあって、その点で親譲りの型を変えよう等という神経の持合せのない男としか見えない。羊羹(ようかん)色のフロックコート、軍人がするような赤短衣(あかちょっき)、ヴィクトリア王朝の初期の流行で、現代にはいかにも不調和な白ちゃけた、粗末なズボンといった形だ。こうした古式蒼然たる拵えの中からオリーブ色の顔だけが妙に若々しく素敵に真剣らしく、またそっと立っていた。
「エッ糞ッ」と公爵がいった。そして例の白帽を力いっぱいひっ攫(つか)みながら自分で玄関へ出て行って夕日に照りはえている庭の方へとドアーを開け放した。

        四

 この時までにその到来客と従者の一隊は舞台に出る小人数の兵隊のように芝生の上に整列していた。六人の漕手はボートを岸に乗上げさせて、橈(かい)を槍のように押立てながら怖ろしい顔をしてボートを守っていた。どれもこれも色黒く、ある者は耳飾りをつけているが、その中(うち)の一人は若者の前方斜めに直立して、何やら見た事のない大きな型の黒い箱を捧げている。
「おう足下(そくか)がサレーダインだなあ」と若者が云った。サレーダインは鼻であしらうようにもちろんそうだ。と答えた。若者の眼は無表情な、犬の目のような茶眼で、公爵のギロギロと輝く灰色の目とはおよそ反対な眼だ。しかし師父ブラウンは、この顔の型をどっかで見覚えがあるようだなと思ったのだが、憶出せないので腹立たしくなった。
「もし足下がサレーダイン公爵なら申入れるが、吾輩の名はアーントネリだ」と若者がいった。「アーントネリ」と公爵がさも面倒くさそうに繰返した。「どっかで聞いたような名じゃ」「よく見知り置かれよ」と伊太利(イタリー)人が云った。
 [#空白は底本では欠落]そして彼は左手で古代物のシルクハットを取り、右手で公爵の頬をいきなりビシャリとやったので、公爵の白帽が石段の上にコロコロと転がり、一つの鉢植がグラグラと揺れた。しかし公爵とても決して卑怯者ではない。いきなり彼は相手の頸ったまに躍りかかって、今少しで相手を芝生の上に突っ転がすところだった。が、敵はいそがしい中にも礼だけはくずさぬといった様な体の構えをしながら公爵の手をふりとった。
「それでよろしい」と彼はハアハアいいながらよく通じない英語で云った。「吾輩は侮辱をうけた。今その埋合せをしてやる。マールコーさあその箱を開けろ」
 マールコーと呼ばれた箱持の家来が若者の前へ進み出て箱の蓋を開けた。そして中から□(つか)も刀身も共に鋼鉄製のピカピカとひかった二ふりの細長い伊太利(イタリー)剣を取出して芝生にザックと突刺した。怪しい若者は黄いろい顔に凄いほど復讐の色をみなぎらせながら玄関口に面して立った。二本の剣は二本の十字架の墓標でもある様に芝生に立った。夕日はまだ消えやらず芝生を赫々(あかあか)とはでに染めていた。そしてごい鷺もまたしきりにボコポンボコポンと啼いていた。何かしら小さな、しかし怖るべき運命を予告でもしているもののように。
「サレーダイン公爵」とアーントネリと呼ばれる男が云った。「汝は我輩がまだ物心のつかぬ嬰児であった時、我が父を殺して我が母を盗んだ。しかし汝は我輩が今から汝を殺すように手際よくは父を殺さなかった。汝と我が迷える母とは父をシシリア島の人なき路に馬車を連れ出して、絶壁の上から突き落し、その足で高飛した。我輩もまたその手で汝を瞞し撃ちにしてもよいのではあるが、それはあまりに卑劣だ。我輩は世界の隅々まで汝を追廻した。しかし汝は巧みに姿をくらましおった。だが今や遂に世界の涯までいや、汝の涯まで到着したんだ。汝は既に我が掌中にあり。我輩は汝が決して我が父に与えはしなかった機会を汝に与える。いずれなりとこの剣を取れ」
 公爵はしばし眉をしかめてためらう様に見えたが、殴られた耳の中がまだガンガン鳴っているのに気がつき、嚇(か)ッとして一歩前に乗出しながら、一つの剣をつかんだ、師父ブラウンもまた一歩前へ乗出して争いをとめようとした。が彼はたちまちにして、ここで自分が飛出したら事態はますます険悪になるばかりだろうと気がついた。サレーダインは仏蘭西(フランス)流の共済組合員でかつ極端な無神論者である。坊主の説法に耳を貸すような男ではない。更に相手はと見れば、これはまた坊主であろうとなかろうと、頭から人の意見に耳を貸しそうな男ではない。ナポレオン型の顔立ちと茶色の目とは、かの頑固一点張りの聖教徒よりも上手の頑固さをまざまざと物語っている。彼は地球の夜明け時代既に首斬役を開業していた人間のように見える――石器時代の人間――石の人間のような男だ。
 ブラウンは、今は家内の者に急を告げるより外に方法がなくなった。それで彼は家(うち)の中へ駈込んだけれども今日は下々の者が給仕頭の許しによって陸地の方へ遊びに出払(ではら)っていることを発見した、そしてただ陰気な家政婦のアンソニー夫人だけがおどおどしながら部屋々々を駈廻っているのを見た。しかし彼女が蒼ざめた顔をブラウンの方へ向けた瞬間、彼はこの「鏡の家」の謎の一端が見破られたように思った。闖入者アーントネリの陰鬱な茶色の眼とアンソニー夫人(英吉利名のアンソニーは伊太利名のアーントネリ)の同じく陰欝な茶色の眼! 突嗟の間にブラウンはもう話の半分が読めたと思った。
「あなたの息子さんが来てじゃ」と彼は手取り早く云った。「そして息子さんが死ななくば公爵さんが死のうと言う瀬戸際じゃ、ポウルさんはどこに居るかな?」
「あの人は裏の船着きにおります」女は力なげに云った。「あの人は‥‥あの人は‥‥今救(すくい)を求めているのです!」
「アンソニー夫人」とブラウンは真顔になって、「この際、阿呆気(あほげ)な事を云っとられますまい。[#「。」は底本では欠落]わしの連(つれ)は今釣に行って舟がなし、あなたの息子さんの舟は御家来共が番をしている。あるのはあの橈舟ばかりじゃ。ポウルさんはあんなもんでどうしょうというのです?」
「聖母(サンタ)マリア! 私は存じません!」こう答えるなり彼女は気を喪(うしな)ってござ張りの床の上にバタリと卒倒した。
 ブラウンは彼女を抱き起して長椅子にねかせて、水瓶の水をそそぎかけて助けを呼んだ。彼は更に家を飛出して裏の船着きに出てみた。が、一双しかない橈舟はすでに中流に出ていて、老ポウルが年齢に似合ぬ力を出しながら川上の方へ急がせつつあるのであった。
「私は御前様を御救い申すのです。まだ間に合います!」その眼は気狂(きちが)いのように光っていた。
 師父ブラウンは今更どうする事も出来ずに、舟が上流の方へ□(もが)き行くのを眺めつつ、ただ老人が早く例の村へ急を告げてくれるようにと祈るばかりだった。
「どうも決闘などとは善うないこっちゃ」と彼はむしゃくしゃした埃色の頭髪を撫でながら云った。「しかし、この決闘は、ただ決闘としても場違いのようじゃ。どうもわしは心からそう感ぜられてならんが、しかしどうにもならん!」
 そして彼はゆらめく鏡のように夕日に照映える川波を見つめていると、島の向うの岸からある微かなしかしまぎれもない音が響いて来た――劔々相摩(けんけんあいま)する音だ。彼はうしろを振り向いた。
 細長い島の遥かなる岬のような端、薔薇の花壇の向側の芝生の禿げたところに、二人の決闘者は早や劔(けん)を合していた。二人は上衣を脱いで[#「で」は底本では「て」]いるが、サレーダインの黄色い短衣(ちょっき)と白髪頭、アーントネリの赤短衣と白ズボンはぜんまい仕掛の踊人形の色彩のように、夕日の中にきらめいていた。二つの劔(つるぎ)は切尖(きっさき)から□頭まで、二本のダイヤモンド留針(とめばり)のように光っていた。
 ブラウンは一生懸命に走った、彼の短かい足は車輪のように廻った。けれども彼が格闘の場に到着した時はすでに余りに遅くもあり、また余りに早くもあった――橈にもたれてこっちを睨まえつつある家来共の監視の下に、決闘を中止させるには余りに遅く、またその悲惨なる結末を予見するには余りに早かった。なぜといって二人の力量は不思議なほどに互角で、公爵は一種の皮肉的な自信を以て覚えの腕を振いつつあるに対し、アーントネリは殺狂的の用心を以てふるいつつあったからだ。目まぐるしい火花の出そうな激しい手並の内がいつまで経っても優劣をつけがたいので、ブラウンも思わずホット息をついた。その内にはポウルが警官隊を連れて戻って来るに相違ない。それにフランボーが釣から帰って来てくれれば大いに頼みになるのだ。肉体的に云おうなら、フランボーは四人ぐらいの男を一人で引受けられるはずだから。しかし、そのフランボーは一向に引上げて来る様子はない。いや、それよりも怪しい事は、いつまでたってもポウルや警官が姿を見せないことだ。水面には筏(いかだ)さえ、否(いな)棒切れさえも浮んではいなかった。名もない河沼の離れ小島に、彼等はあたかも太平洋上の孤巌(こがん)に取残されたように絶縁されているのだ。
 ブラウンがこんなことを考えている間に、劔戟(けんげき)の音がせわしくせまってカチャカチャという急調に早変りを始めた。公爵の両手は空に放たれ、相手の切尖が彼の背面、左右肩胛骨の中間にヌット顔を突出した。彼は子供が横翻筋斗(よことんぼがえり)[#「横翻筋斗」は底本では「模翻筋斗」]をうつのを半分でやめるような恰好に幾度か大きくキリキリ舞をした。劔(つるぎ)は流星のように彼の手からはなれて、遠くの川にもぐり込んだ。そして彼自身(じみ)は大地をふるわしてドシンと倒れた。その拍子に大きな薔薇の木が押潰され、赤土が煙のように空に舞上った。シシリア人はかくして彼の父の霊に血のしたたる犠牲をささげた。
 坊さんはすぐさま死体の側(そば)に駈寄った。が要するにもはや死骸に相違なかった。彼がなおもしやという望(のぞみ)なき望にひかされて死体をしらべていると、その時初めて遥かなる川上の方から人声がきこえて来た。そして一艘の警察船が、数人の警官、役人や、そして昂奮しているポウルをも乗せて、矢のように船着めがけて走って来た。坊さんは怪訝に堪えないむずかしい顔をして立上った。
「フン、何ぞそれ」と彼は独言(ひとりご)った。「何ぞそれ来たること遅きやじゃ!」
 七分も経つと、その島は村人や警官等で一ぱいとなった。警官等は決闘の勝利者を引捉(ひっとら)えて、型の如く、この際愚図々々いうとためにならんと云いきかせた。
「我輩は何も云いたくない」アーントネリは平静な顔で云った。「吾輩はもう何んにも云わん心算(つもり)だ。吾輩は非常に幸福だ、吾輩はただ死刑に処せられるのを待つばかりだ」
 それから彼は口を堅くつぐみさま、警官等の引立(ひった)てるがままに身体を任した。彼はその後で訊問を受けた時「有罪だ」とただ一言叫んだきり、また口を緘(かん)して語らなかったという事は不思議ながらも確かな事実である。
 師父ブラウンは思いもよらぬ庭の人だかりや、殺人者の拘引される光景や、警察医の検屍のすんだ後死骸を取片づける光景などをじいと見ていた、何かある醜い夢がそのまま姿を掻消すのを見守るもののように、彼は夢魔に襲われた人のようにジッと立すくんだ。彼は証人として住所姓名を名乗った、が、陸地へ行くならと舟を勧める者があるのを謝絶した。そして島の花園の中に立って、押潰された薔薇の木や、何とも名状しがたい突嗟の悲劇の緑なす全舞台面に眼をこらして見入った。夕闇は川面にはらばい、霧が蘆そよぐ岸辺にほのぼのと立(たち)のぼった。塒(ねぐら)におくれた烏(からす)が三つ四つと帰りを急ぐ。
 ブラウンの潜在意識(これがまた非常に活躍した)の中には何やらまだ説明のつかぬものが不思議にありありとこびりついていた。この感じは朝から彼の意識を離れなかったものだが「鏡が島」についての幻想だけではどうしても説明のつきかねるものがあった。彼は何んだか自分が見たものは現実の光景ではなくして、競技か仮面舞踏会のようなものに思われもした。けれども、しかし、遊戯のために突殺されたり死刑に処せられようとする者もないはずではある。

        五

 彼は船着の石段に腰かけながら独り物思いに耽っていたが、折しも上流の方から一つの細長い、黒(こく)ずんだ帆が薄光りに光る川面を下って来るのに気がついた。そして彼はばねのように飛上った。が、感激の反動で泣出さんばかりに胸が込み上げて来た。
「フランボー!」
 と彼は叫びさま、幾度も幾度も友の手をとって堅く握りしめた。驚いたのは釣竿を以て岸辺に上って来たフランボーだ。
「フランボー! アア、やっぱり君は殺されはしなかったのじゃ!」
「なに、殺されるですと? 一体どうして私が殺されるんです?」と釣客は非常におどろいてくりかえし言った。
「なぜって、わし等は今少しで一人残らず殺されるところじゃった」相手はいくらか乱暴な口調で云った。「サレーダイン公爵は殺され、アーントネリは殺してくれという。アーントネリの母親は気絶する。もうわしは生きた心地もなかったがな。しかし、有難いことに、君も無事であった」そして彼は狐につままれたような顔付をしているフランボーの腕を取った。しばらくして二人は船着場をあとにして例の屍の下(もと)に来た。そして朝初めて着いた時の様に一つの窓から室内をのぞいてみた。
 ランプがつけられてすっかり部屋支度がととのっているのがたちまち彼等の眼をとらえた。食堂の食卓にはサレーダインの仇敵(かたき)が島をめざして一陣の突風のように来襲した時既に晩飯の用意が出来ていたのだ。そこで今晩飯が嵐の後の凪のように平和に食われつつあるのだ、家政婦のアンソニー夫人はむっとしたような面持で食卓(テーブル)の足のところにしゃがんでいる。ポウルは御家老様然として美味を食らいかつ美酒を飲みつつあるのだ。夢みるその碧眼はおどろな色をただよわし、面窶(おもやつ)れのした様は何とも名状しがたいほどだが、満悦の気色はつつみかねたと見えた。覚えずその様に腹に据えかねたと見えてフランボーは窓をガタガタガタ鳴らしながらこじあけた。そして義憤に燃えた頭を明るい部屋にスット差し込んで「オイオイ」と呶鳴った。
「なるほど君もつかれただろうから静養を要するのは無理がない。ただ主人が庭に殺されておろうという際に主人の物を横取りするとは実に怪しからんじゃないか?」
「吾輩は愉快なるべき長の生涯の間に莫大な財物を横取りされたんじゃ」怪しい老人はかっとしたように答えた。「この晩食は拙者が横取を免れた無けなしの財産の一つじゃ。フン、この晩食とこの家と庭だけが、どうやら拙者の手に返ったんじゃ」この言葉によってフランボーは何事か思いついたと見えて、顔を輝かした。「では何かサレーダイン[#「ン」は底本では「レ」]公爵が遺言でも」
「わしがサレー[#「ー」は底本では「ン」]ダイン公爵だ」老人は巴旦杏(はたんきょう)をもりもりと頬張りながら云った。
 その時まで鳥の飛ぶ様を見ていた師父ブラウンは弾丸にでも打たれたように思わず飛上った。そして蒼白になった顔を窓に突込んだ。「君はなに、何じゃと」と彼はキイキイ声をはり上げて訊返した。
「ポ[#「ポ」は底本では「ボ」]ウルまたはサレーダイン公爵、いずれとも御意のままにじゃ」やんごとない老人がシェリ酒の杯を唇に持って行きながら叮嚀な口調で云った。「わしはここで召使の一人として天下泰平に暮らしているものじゃ。そして謙遜の意味で、吾が不幸なる弟ミスター・スティーフンと区別をするためにミスター・ポウルと名乗っている。じゃが弟はつい最近、左様あの庭で歿(なく)なったと聞いた。もちろん、敵がこの島まで追撃して来たところで俺が悪いのではない。悲しい事に、弟の生活があまりに自堕落であったからじゃ、あの男は家庭生活に向く男ではなかった」こういって彼は口を閉じてそのまま彼の足元にうなだれている女の頭の真上にあたる壁をジット見つめた。戸外の二人はこの老人を殺されたスティーフンと面だちが似ているのを見て、さては[#「は」は底本では「わ」]と思った。
 やがて老人の双の肩が高まって、咽喉(のど)がむせでもするようにブルブルとゆすれた。が顔の表情は少しも変らなかった。
「ヤッ畜生笑っていやがる。」としばらくしてフランボーがこう叫んだ。「どれこの辺で帰るとしようか」といった師父ブラウンの顔は全く青かった。「なあフランボー君早やくこの地獄屋敷を退散しよう。もう前の正直な舟が恋しくなったよ」二人が島を漕出た時、夜の暗黒の幕は既に岸辺の川面にたれ下っていた。
 [#空白は底本では欠落]二人は闇の中を川下へと下った。二人のすう二つの大きな葉巻(シガー)が舟の中で紅色の舷灯(げんとう)のように燃えた。師父ブラウンはその葉巻(シガー)をちょっと口から取ってこう云った。
「まあフランボー君もはや君にもこれで話しの始終が解ったと思うが、つまりだね、筋はとても簡単なんだ。一人の男が二人の敵を持っていた。その男は悧巧でなあ、えいかね、それでつまり、敵が二人いるのは一人しかいないより結句幸(さいわい)だという事を発見しおったんじゃ」「どうもはっきりしませんなあ」とフランボーが答えた。
「いや、深く考えるから駄目じゃて。いいか極めて簡単なんじゃ、もっとも、ちと無邪気ではないがな。あのサレーダイン兄弟は揃も揃ってろくでなしなんじゃ。しかし公爵、すなわち兄の方が上の方へ[#「へ」は底本では「え」]上がる、ろくでなしなら、弟すなわち大尉は底の方へ沈むろくでなしなんじゃ」
「大尉は零落の揚句、乞食や強請者(ゆすりもの)のまねもした。そしてある日兄公爵をうまくとっちめた。これが、公爵にとっては運のつきだったんだ。平たく云えばスティーフンは文字通りに兄の頸に綱をかけたのじゃ、彼はどうかした拍子でシシリヤ事件の秘密をかぎ知った。ポウルが山中で老アーントネリを虐殺した顛末をお恐れながらと訴出ることの出来得る男となった。大尉はせしめた口笛金で十ヶ年も放埓の限りをつくして、最後に公爵のすばらしい財産もどうやら阿呆臭く見えるまでになった。
「けれども、公爵はこの吸血鬼のような弟の外に今一つの重荷をになわんければならなかった。彼は老アーントネリの息子が殺害事件の当時はホンの幼児にすぎなかったが、だんだん長ずるにおよんで、野蛮(やぼ)なシシリヤ式の道義一点張りの教育で訓練された結果、親の仇(あだ)を、それも絞首台上へ送ろうとはせず昔風に復讐の剣によって、復讐せんために生きとると云う事を知った。少年は剣道を学んでその技神に達したが、もうこれでいよいよという年頃になるとサレーダイン公爵が旅に出た事を新聞で知った。公爵は事件にあらわれた犯人のように逃げはじめた。いかんせん、身は腹背に敵を受けておったのじゃから、アーントネリの追跡をくらまそうとその方に金を使えば使うほどスティーフンの方の鼻薬が薄くなる。弟の方の鼻薬を余計にしようとすればアーントネリ[#「リ」は底本では「ル」]の備えが薄くなる。いいかね、彼が偉人となったのは、そしてナポレオンのように天才を発揮したのは、この時だったんじゃ。
「彼はもはや二人の敵と戦うことをやめて、突然彼等の軍門に降った、彼は日本の力士のいわゆるウッチャリの手のように一とねり体をひねったんだ。ために、両個の敵はもろくも彼の前にのめった。すなわち彼は世界を舞台としての競技を断念し、青年アーントネリには隠れ家を白状しまた弟スティーフンには何もかも引渡したんじゃ。彼はスティーフンに流行の着物をととのえかつ楽な旅のよう出来るだけ金を送って添手紙には簡単に書いてやったんだ。
『これがのこった全部だ。御前は兄を丸裸にした、ただノーフォーク州にしっ素な家があるだけだ、もしこの上も御前が俺から何(な)にものかを絞り取る気なら、この家(や)を取る外はあるまい。望むなら来て占領した方が好い。俺はここに御前の友人なり支配人なりとしてひっそり生活するであろう』
「彼はかの青年シシリヤ人が彼等兄弟の肖像画は見たであろうが、まだ顔は知らないという事を知っておった。兄弟が共に尖った胡麻塩髯をつけておって、幾分似通っている事も知っておった。そこで彼は髯を綺麗に剃落してアーントネリの出現を今か今かと心待ちに待っていた。陥穽が成功した。弟は新調の衣裳にくるまって公爵顔をしながら大手をふって乗込んで来たのが運のつきでついにシシリヤ人の剣に倒れたんじゃ。
「しかし彼の細工にただ一つけっ点があった。それはしかしこの人性のためにかえって名誉としなければならない、サレーダイン如き悪人は往々にして『人の性や善なり』と云う真理に目が届かん故(ゆえ)意外の失敗をやるのだ。彼はシシリヤ人が乗込んで来たら相手を夜中にナイフで刺殺すか、または垣の後から射殺するかして、どっちにしろ一言も音を出さぬように殺すに相違ないと信じておった。がアーントネリが武士の礼を重んじて偽公爵のスティーフンに正式の決闘を申込んだ時のポ[#「ポ」は底本では「ボ」]ウルの慌て方といったらなかった。
 わしはその時彼が舟に乗って逃出したのを見た。
「けれども、いかに彼は慌てても決して希望はすてなかった。彼は山師のスティーフンの気象もよく呑込んでおれば、熱狂児のアーントネリのコツもよく知っておった。だからして、山師のスティーフンが、芝居の一役を演ずる愉快さやら、すわり心地の悪くない俄か公爵の待遇に対する恋々たる執着心やら、悪漢に似つかわしい糞度胸のよい運試し根性やら、剣術にかけての自信やらからして本当の事はまさか打ち明けないと安心しきっておったんだ。更に熱狂児のアーントネリについては、彼もまた堅く口を緘して家の昔語りを他言する事なく、死刑に処せられるであろうと云う事を信じておった。そのためポウルは決闘が終結をつげるまで河中にいてぐずぐずしておった。で見るまに村に急を告げ、警官を同道し、二人の敵が永遠に連行(つれゆ)かれるのを見て、うまくいったとにこつきながら飯を食いおった次第じゃよ。」[#「」」は底本では欠落]
「フン、彼奴(きゃつ)めあんなに笑いやがるとは」とフランボーは、身慄いしながら云った。「でも師父、全体そんなに大それた智慧は悪魔からでも借りて来たものでしょうか」
「その智慧は君から借用したんじゃ」
「エエ、私からですって」
「そうじゃ、あの手紙の文句に何んとあった、「[#「「」は底本では欠落]貴下が探偵をまきて見当違いの逮捕をなさしむる手腕に至りては」とある。これは君は犯罪的偉勲に対する讃辞であったんじゃ、フランボー君、あの先生は全く君の手を応用したんではなかったろうか、腹背両面に敵をうけながら、自分だけサッと体を開いて、前後の二人を衝突させ、そして殺合いをさせたんじゃなかったか。」[#「。」」は底本では「、」]折しもほの白い、暁空にも似た光が、夜空に流れて、草間がくれの月が次第に蒼白く輝き出た。二人は沈黙にふけりつつ流れを下った。「マー師父」と突然フランボーが呼びかけた。
「何んだかこうまるで夢のような気がしませんか」
 だがブラウンは首をふるばかりで唖者(おし)のように黙っていた。夕闇を通して山櫨(さんざし)の匂いと果樹園の匂いとが二人の鼻に迫った。で天気が風ばんで来た事をわかった。次の瞬間、風が小舟をゆるがせ、帆をふくらませた。そして二人は蜿々たる流れの下の方へ、幸福なる土地、善良なる人の子の住む村々の方へと運んで行った。




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