奇巌城
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著者名:ルブランモーリス 

 判事はそれから再び注意ぶかく自分で気長に取り調べた。しかし夕方になってもやはり何の変(かわ)ったことも見つけられなかった。この時もうこの邸へ集(あつま)ってきた多くの新聞記者に向って、
「犯人はもうこの邸内にはいないと思われる。我々が考えたところによれば犯人はもう逃走したに違いない。」と語った。
 しかしなお念のために邸園の警戒を厳重にして、判事は検事と共にひとまず本署へ帰った。
 夜になった。ボートルレは自分のためにつけられた巡査の眼の光る傍(かたわら)で、椅子の上に眠った。外では巡査や百姓や村の人たちが建物の塀と僧院の間を絶え間なく見張っていた。十一時までは何事もなく静かにすぎたが、十一時を十分ばかりすると、一発の銃声が邸の方から響いた。
「用心しろ、二人だけここに残っていろ!他の者は銃声の方角に大急ぎで走れ。」と警部が叫んだ。
 一同は邸の左手へどやどやと走った。この時、闇をついて何者か一人の男が消え去ったと思う間に、たちまち再び起る銃声にみんなはその銃声のした百姓家の方へと突進した。と、葡萄畠まで行きついた時、突然一筋の火の手が百姓家の右手にぱっと立ちのぼった。と同時にまた一箇所僧院の彼方に真赤(まっか)な火柱が立った。焼けているのは納屋らしい。
「畜生! 火を点けやがった。それ追っかけろ。まだ遠くへは行かんぞ。」と警部は呶鳴り散らした。
 しかし風向(かざむき)で見ると火は本邸の方に向っている。何より先にこの危険を防がなければならない。伯爵も出てきてみんな一生懸命で火を消し止めたのは午前二時であった。もちろん犯人の影さえ見えない。
「どうして納屋などに火をつけるのか理由(わけ)が分らない。」と伯爵はいった。
「伯爵まあ私と一緒にいらっしゃい、その理由(わけ)を申し上げますから。」
 警部と伯爵は連れ立って僧院の方に来た。警部は二人だけを残しておいた巡査の名を呼んだ。二人の巡査は出てこなかった。他の巡査たちが二人を探しに行った。と、小門の入口のところで二人の巡査が目隠しをされ、猿轡(さるぐつわ)を嵌められて、細縄で縛られているのを見つけた。
「残念ながら我々は誑(たぶらか)された。」と警部が呟いた。「あの銃声も火事もみんな我々の警戒を破るためだったのです。我々がその方に気をとられている間に、奴らは仕事をしていったのです。」
「仕事とは?」と伯爵が聞いた。
「傷ついた首領(かしら)を運び出すためです。」
 警部はたいへん口惜しがった。そればかりではなかった。夜が明けてから、ボートルレ少年が見張りの巡査に眠り薬を飲ませて、窓から逃げ出したことが分った。

        二 怪中学生
            医学博士の誘拐

 翌日の新聞に次のようなことが発表された。「昨夜、外科医として有名なドラトル博士は夫人や令嬢と一緒に芝居を見に行ったが、その終(おわ)り頃に二人の従者を連れた一人の紳士が来て博士にいった。
「私は警察から参りましたが、ぜひ私と一緒においでが願いとうございます。急に先生にお願いすることが出来ましたのでお迎えに参りました。芝居が終ります頃にはきっと御帰りになれますから。」
 博士はその紳士を連れて劇場を出たが、芝居がお終いになっても帰ってこないので、夫人たちが心配して警察へ電話をかけると、それは全く誰か他の者のしたことで警察では知らないことだと分り、大騒ぎになった。」
 このことは、次の新聞でいよいよ不思議な事実となって現われた。
 朝九時になってドラトル博士は一台の自動車で帰ってきた。その自動車は全速力で行方を晦(くら)ましてしまった。博士の語るところによると、ある手術をしなければならない病人を診察するために連れていかれたということである。それはある田舎の宿屋の一室で、病人はたいへん悪かったそうである。そして博士は一万円のお礼を貰ったそうである。しかしそれ以上はどうしても話さなかった。博士は堅く口止めをされているらしかった。
 警察ではこの博士誘拐事件を、あのジェーブル伯爵邸の事件と何かの繋(つなが)りがあると目星をつけた。傷ついた賊のいなくなったこと、有名な外科医の誘拐、そこに何かあるだろうとは誰でも考えることである。
 調べた結果、その考は間違いのないことになった。馭者に化けて入(い)り込み、皮帽子をとりかえて、自転車で逃げた犯人は、自転車をアルクの森の溝の中に捨てて、サン・ニコラ村へ行き、そこから左(さ)のような電報をパリへ打った形跡がある。
 A(ア)・L(エル)・N(エヌ)・身体悪し、手術を要す、名医送れ。
 これでいよいよはっきりと分った。この電報を受けとった悪漢(あくかん)の仲間は、博士を早速送ったのだ。こちらでは火事騒ぎを起させ、その間(ま)に傷ついた首領(かしら)を救い出して、これを近所の宿屋へかつぎ込んで、手術を受けさせたに違いない。今はその宿屋をつきとめればいい。パリからは特別にガニマール探偵が入り込んできた。近所の宿屋という宿屋は一軒残らず家の中まで調べた。しかしどうしたのか、そんな怪我人を泊めた宿屋は一軒もなかった。
 翌日曜の朝、一人の巡査が、その夜(よ)塀の前の往来で一人の怪しい人影を見たといった。仲間の者が様子を見に来たのであろうか?あるいはまた彼らの首領(かしら)が僧院のどこかに隠れているのであろうか?

            偽物は偽物です

 その夜(よ)ガニマール探偵は小門の外を警戒していた。
 十二時すぎになって果して怪しい一人の男が森から現われて、ガニマールの前を通り、小門から庭へ忍び込んだ。三時間ばかりの間、その男は僧院の近所をあちこちと歩き廻り、あるいは地上に屈んでみたり、あるいは円柱にのぼってみたり、あるいは一つ所に立ち止まって長いこと考えていたりしたが、やがてまた元のようにガニマール探偵の前を通っていこうとした。待ち構えていた探偵たちは突如組みついて捕まえた。曲者は少しも手向いをしなかった。しかしいざ調べる時になると、何を聞かれても答えなかった。判事が来れば分ることだというだけであった。月曜日の朝判事は着いた。ガニマールは曲者を判事の前に引き立てた。曲者はボートルレであった。
 判事はボートルレを見て、非常に喜ばしげに両手を差し出して叫んだ。
「やあ、ボートルレ君!君のことは十分分りました。君はもういないのかと思いましたよ。」
 ガニマールは驚いてしまった。ボートルレは判事にいった。
「判事さん、じゃもうすっかり分りましたね。」
「[#「「」は底本では脱落]十分分りました。第一レイモンド嬢が塀の外の小路で君を見たという時間に、君はたしかにブールレローズにおられた。君は間違いなくジャンソン中学の学生で、しかも優等生であることが分りました。」
「では放免して下さいますか。」
「もちろんします。しかし先日話し掛けて止めてしまった話のつづきをぜひしていただきたい。二日間も飛び廻ったことだから、だいぶ調べは進んだでしょう。」
 これを聞いたガニマールはいかにも馬鹿々々しいというような顔をして、部屋を出ようとした。判事は手を挙げてそれを呼びとめた。
「ガニマールさん、いけないいけないここにいらっしゃい。ボートルレ君の話は十分聞くだけの値(あたい)があります。ボートルレ君の鋭い頭を持っていることはなかなかの評判で、英国の名探偵エルロック・ショルムス氏の好(い)い対手(あいて)とさえいわれているのですよ。」
 ガニマールは苦笑いをしながらとどまった。ボートルレは話し出した。
「僕は調べたことをお話して、知ったか振りをしようとは思いませんが、まず盗まれたもののことからお話しましょう。僕にはこれは一番易しい問題でしたから。」
「易しいというのは?」
「順々に考えてみさえすればいいからです。それはこうです。二人の令嬢の言葉によれば、二人の男が何か持って逃げたということです。そうすると何か盗まれたに違いないのです。」
「なるほど、何か盗まれたのですね。」
「ところが伯爵は何も盗まれてはいないといっています。」
「なるほど。」
「この二つのことから考えてみると、何か盗まれたのに、何も失(な)くなっていないということは、何か盗んだ品物と少しも変らぬ物が本当の物とおき変えられてあるに違いありません。」
「なるほど、なるほど。」と判事は一生懸命になって聞き出した。
「この部屋で強盗の眼につくものは何でしょうか?二つの物があります。第一にあの立派な絨氈です。しかしこんな古い掛物(かけもの)はとてもこれと同じようなものは出来ません。すぐに偽物ということが分ります。次にあるのは四枚のこの名画です。あの壁に掛けてある有名な絵は偽物です。」
「何ですって!そんなはずはない。」
「いや、たしかにそうです。」
「いや、それは間違いだ。」
「まあ、判事さんお聞きなさい。ちょうど一年前ある一人の男が、伯爵のところへ尋ねてきて、あの名画を写させて下さいと申し込みました。伯爵が許されたので、その男は早速それから五ヶ月も毎日この客間に来て写していったのです。ここに掛っているのは、その時写した方の偽物です。」

            怪少年の明察

 判事とガニマールとは驚いて眼を見合わせた。
「とにかく伯爵に聞いてみよう。」と判事はいった。伯爵は呼ばれた。そしてついにボートルレは勝った。伯爵はしばらく困ったような顔をしていたが、やがて口を開いた。
「実は判事さん、この名画は四枚とも偽物です。」
「では、なぜさようおっしゃらなかったのです。」
「私は穏(おだやか)な方法でその絵をとり戻そうと思ったからです。」
「それはどんな方法ですか?」
 伯爵は答えなかった。ボートルレは代(かわ)って答えた。
「この頃、大きい新聞に『名画買い戻す』という広告が出ています。あれがそうです。」
 伯爵は首肯(うなず)いた。またしても少年は勝った。判事はますます感心してしまった。
「君は実に偉いですね。どうぞ先を話して下さい。君は犯人の名前も知っているといわれたはずですね。」
「そうです。」
「誰があのドバルを殺したのでしょう。その男はどこに隠れているので[#「ので」は底本では「での」]しょう。」
「実はそのことについては、一つの間違いがあります。ドバルを殺した男と、逃げた男とは別の人間です。」
「何ですって?」判事が叫んだ。「伯爵や二人の令嬢が客間で見た男、そしてレイモンド嬢が銃で撃って、邸園の中で倒れ、我々が今探している男、それと、ドバルを殺した男とは別の人間だというのですか。」
「そうです。」
「では別にまだ逃げた犯人がいるのですね。」
「いいえ。」
「ではどうもよく分らないですな。誰がドバルを殺したのです。」
「それを申し上げる前に、少しくわしくお話をしないと、私が余り変なことをいうようにお思いになるでしょう。まずドバルが殺されたのは夜中の四時であるのに、ドバルは昼間と同じような着物を着ていました。伯爵はドバルは夜更しをする癖があるといわれましたが、みんなのいうのを聞きますと、それとは反対に、ドバルはたいへん早く寝るそうです。そうしますと話が合わないで少しおかしくなります。それに僕の調べたところによると、あの名画を写させてくれといった画家は、ドバルの知り人(びと)だったということです。それでいよいよ僕はドバルが怪しいと思いました。」
「するとどういうことになりますか?」
「つまり画家とドバルとは仲間でした。それにはたしかな証拠があります。ドバルが手紙を書いた吸取紙の端(はじ)に『A(ア)・L(エル)・N(エヌ)』[#「』」は底本では欠落]という字があったのを見つけました。電報の名前と同じです。ドバルは名画を盗みとった強盗犯人と手紙のやり取りをしていたのです。」
「なるほど、そして……」判事はもう反対しなかった。
「ですから、逃げた犯人が、仲間であるドバルを殺すはずはありません。」
「そうかしら?」
「判事さん思い出して下さい。気を失っていた伯爵が一番初めに叫んだ言葉は『ドバルは生きているか?』ということでした。その後伯爵は『眉間を曲者に殴られて気を失ってしまった。』といわれました。どうして気を失った伯爵が、正気づくと同時にドバルが短剣で刺されたことを知っていたのでしょう。」
 そしてすぐまたボートルレはつづけた[#「つづけた」は底本では「けつづた」]。
「強盗たちを客間へ引き入れたのはドバルです。そして伯爵が目を覚ましたので、ドバルは短剣を持って伯爵に飛びつきました。伯爵はついにその短剣を奪いとってドバルを刺したのです。それと同時に、も一人の曲者に眉間を殴られて気を失ったのです。」

            ルパン?生?死?

 判事とガニマールはまた顔を見合(みあわ)せた。
「伯爵、この話は真実でございましょうか?……」
 判事は尋ねた。伯爵は答えなかった。
「黙っていらしってはかえっていけません。どうぞお話し下さい。」
「今のお話しはみんな本当です。」伯爵ははっきりといった。判事は飛び上って驚いた。
 伯爵は、二十年も自分の家に働いたドバルを賊の仲間だと知らせたくなかった。それにもうドバルは殺されているのでそれで十分だと思った。ドバルは二年前からある婦人と知り合いになり、その人にお金を送るために盗賊をするように[#「するように」は底本では「すやるうに」]なったということなどを伯爵は語った。
 伯爵が室を出ていったあとで判事は今度は犯人の隠れている宿屋のことのついて尋ねた。ボートルレの答えはまた違っていた。ボートルレの答えによると、犯人は宿屋などにはいないというのである。宿屋へ運んだように見せかけたのは警察を誑(たぶらか)す[#「誑す」は底本では「訛す」]陥穽(わな)であった。犯人はたしかにまだあの僧院の中に隠れている。死にそうになっている病人をそんなに運び出せるものではない。あの火事騒ぎをやっている間(ま)に医学博士を僧院の中へ案内した。医学博士が宿屋だといったのは、犯人たちが博士を脅(おどか)して、あのようにいわせたのだとボートルレは語った。
「しかし僧院の中は円柱が五六本あるばかりで……」
 判事は不思議がった。
「そこに潜り込んでいるのです。」とボートルレは力を込めて叫んだ。「判事さん、そこを探さなければ、アルセーヌ・ルパンを見つけ出すことは出来ません。」
「アルセーヌ・ルパン!」判事は飛び上って叫んだ。
 有名なその一言に一座はしばらくしんとしてしまった。アルセーヌ・ルパン!大冒険家大盗賊王、眼に見えぬ彼ルパンは空しい大捜索の幾日間を、どこかの隅で傷に苦しんでいる。不敵の敵は本当にルパンであろうか?判事とガニマール探偵とはしばらくじっと動かなかった。
「ごらんなさい。」とボートルレはいった。「彼らが手紙をやった宛名の略字に何とありますか、A(ア)・L(エル)・N(エヌ)すなわちアルセーヌの一番初めの文字(もんじ)と、ルパンの名の初めと終りの文字をとったのです。」
「ああ、君は実に偉い天才です。この老ガニマールも負けました。」とガニマールはいった。ボートルレは喜びに顔を赤くして老探偵の差し出した手を握った。三人は露台に出た。そしてルパンが隠れているという僧院を見下(みおろ)した。判事は呟くように、
「してみるとあいつはあそこにいますね。」
「あそこにいます。」とボートルレは重々しげにいった。「銃で撃たれた時からルパンはあそこにいるのです。いかにルパンでもあの時逃げ出すことは出来ないことだったのです。」
「そうするとどうして生きているのだろう。食物(たべもの)や飲物も入るだろうに。」
「それは僕にはいえません。しかし彼があそこにいることは決して間違いありません。僕はそれを断言します。」

            探偵の手懸(てがか)り

 僧院の方を指(ゆびさ)したボートルレの指先は空中に一つの円を描いて、それをだんだんに小さくしてとうとうある一点に止(とど)めた。判事と探偵はその一点を見つめつつ胸の慄(ふる)えるのを覚えた。アルセーヌ・ルパンはあそこにいる。有名な巨盗(きょとう)ルパンが独り寂しく、かの暗い地下室の冷たい土の上に死に掛って横たわっていると思えば、一種悲愴な気持がわいてくるのであった。
「もし死ぬようなことがあったら。」と判事が声を潜めていった。
「もし死にでもしたら、その時こそ判事さんレイモンド嬢を警戒せねばなりません。なぜならば、手下の者はきっと復讐するでしょうから。」
 ボートルレはしばらく経つと、学校の休暇が今日でお終いになるからといって、判事が相談相手に引き留めるのも断って、パリへ帰ってしまった。彼はまたジャンソン中学の学生になった。
 ガニマールは僧院の中をすっかり調べたが何の手懸りもないので、彼もまた同じ日の夜行でひとまずパリへ引き上げた。

            不可思議な暗号紙片

 こうしてわずか二十四時間のうちに、たった十七歳の少年の言葉によって、少しも分らなかった事件の糸はほぐされた。首領(かしら)を救わんとする強盗団の計画はわずか二十四時間で見事に破られ、かの巨盗アルセーヌ・ルパンの逮捕は確実になった。新聞紙はボートルレの記事でいっぱいであった。人々はみんなボートルレに驚き、どこででもボートルレを褒める言葉が交(かわ)された。
 しかもまた一方判事の方では、ボートルレが話したことより一歩も先へ進まなかった。レイモンド嬢がボートルレと見間違えた男のことも、四枚の名画のその後の行方も、同じく暗(やみ)に包まれたままであった。僧院の中の捜索も判事は自分自身から毎日出掛けて探したが、どうしても分らなかった。
 ある新聞記者がジャンソン中学へ行ってボートルレに逢って、なぜ探偵をつづけないのかと尋ねた。ボートルレは今ちょうど試験なのであった。彼は試験に落第するのは厭だといった。
「しかし強盗を捕まえるのはたいへんいいではありませんか。」と新聞記者はいった。
「それでは僕は六月六日の土曜日に行きましょう。」とボートルレは答えた。
 六月六日!この日は新聞に一斉に書き出された。「ボートルレは六月六日ドイエップ行の急行に乗る。そしてアルセーヌ・ルパンは捕縛されるであろう。」と。
 その日ボートルレは一人で汽車に乗った。毎日毎夜の勉強にくたびれて彼は眠ってしまった。ルーアンの見える頃にようやく目が覚めたが汽車の中はやはり彼一人であった。ふと前の腰掛覆(こしかけおおい)の上に何やら書いた一枚の紙片がピンで留めてあるのに気がついた。その書いてある字を読んでみると、
「汝は汝の学業に勉めよ。然らずんば汝の上に災(わざわい)あらん。」
「ははあなるほど」とボートルレは両手を擦りながら叫んだ。[#「。」は底本では欠落]「敵の形勢は悪くなってきたなあ、こんな脅迫なんか馬鹿らしい。」
 汽車はルーアンに着いた。ボートルレはその停車場で新聞を見て、驚きの余りさっと顔色を変えた。
「昨夜悪漢数名、ジェーブル伯邸にてシュザンヌ嬢を縛り猿轡を嵌めておいて、レイモンド嬢を誘拐したり。邸より五百米突(メートル)の間は血跟(けっこん)が点々と落ち、なお附近に血染(ちぞめ)の襟巻が捨ててあった。これより見て、不幸なレイモンド嬢は殺害せられたりと信ぜらる。」
 ボートルレは身体を二つに折り、頭を両手で抱えて思いに沈んだ。
 彼はドイエップから馬車を雇った。ジェーブル伯爵邸の前で判事に逢った。判事は何もくわしいことは知らないといった。ただ皺苦茶(しわくちゃ)になった破れた紙片(かみきれ)をボートルレに渡した。それは血染の襟巻が捨ててあったところに落ちていたものであった。
「どうもこの紙片(かみきれ)は何の手懸(てがかり)にもなりそうにありません。」と判事はいった。
 ボートルレはその紙片(かみきれ)を打ち返し打ち返し眺めた。それには次のような記号と点が紙一面に記してあった。


        三 惨死体
            令嬢は生死不明

 判事は書記を連れて、ドイエップへ帰る馬車を待っていた。判事はその前にも一度ボートルレに逢いたいと思ったがその姿が見えなかった。書記も知らないといった。朝から見えないのであった。判事はふと思いついて僧院の方へ行ってみた。ボートルレは僧院の傍の松葉が一面散り敷いている地面に腹這いになって、腕を枕に眠っているような風をしていた。
「君、何をしているんです。眠っていたの?」
「いいえ、僕は考えていたんです。」
「今朝からずっと?」
「え、今朝からずっと。ね判事さん、犯人は初めからレイモンド嬢を殺すつもりだったのなら、なぜわざわざ外まで連れ出して殺したのでしょう? そしてその死体はどうしたのでしょう。」
「さあ、それは私にも分らん。そして死体もまだ発見されてはいない。しかし調べてみると、海岸に望んだあの絶壁まで行った形跡がある。そこは恐ろしいほど切り立った崖で、下を見下(みおろ)すと約百米突(メートル)ばかりの深い絶壁で、その下には大きな巌(いわ)に波が恐ろしい勢(いきおい)で打ちつけている。たぶんそこへ投げ捨てたものと思われる。」
「そうでしょうか?」
「そうだ。ルパンが死んだので、この前に脅迫した通り令嬢を暗殺した。しかしよく考えてみると、どうもおかしい。まだルパンは生きているに違いない。ね、ボートルレ君、いよいよ事件は分らなくなってしまった。それに君、ジェーブル伯爵は、わざわざロンドンから、エルロック・ショルムスを呼んだ。ショルムスは来週の火曜日から来ることになった。ね、君、我々はどうしてもその前にこの謎を解かなければならない。」
「では判事さん、今日は土曜日です。月曜の朝十時にここでお逢いしましょう。それまでに考えておきます。」
 判事はボートルレと別れた。ボートルレは伯爵から自転車を借りて出掛けた。

            漆喰の傑作

 少年ボートルレはまず四枚の名画が運ばれていった道を調べることにした。彼は自分の考と地図をたよって進んだ。そしてやっと四枚の名画は、約十八里ばかり先のある河のほとりで、自動車から舟に積み替えられたことが分った。そしてその舟の船頭に逢うことが出来た。船頭はなかなか初めはいわなかったが、やっと少しずつ話してくれた。それによると、その船頭は名画を運んだ時の一度だけではなく、六遍ばかりも雇われたということであった。
「六遍?……そしていつ頃から。」
「その前から毎日でさあ、しかしいつも品物は違っているようでしたよ。大きな石ころみたいな物や、時には新聞紙に包んだ小さなかなり長い物などがありました。とても大切がって私らには指もさわらせませんでしたよ。」
 ボートルレは思いがけない発見に蹌踉(よろ)めきながら外へ出た。彼が伯爵邸へ帰ってくると、彼へ手紙が来ていた。見ると次のようなことが書いてあった。
「黙れ、然らずんば……」
「やあこりゃ、自分のことも少し気をつけないと危(あぶな)いぞ。」とボートルレは呟いた。
 月曜日の朝判事はやってきた。
「どうです、分りましたか。」
「分りました。とても素晴らしいことが。今はルパンの隠れ家どころではありません。我々が今まで気づかずにいたもっと他の物が失くなって[#「失くなって」は底本では「失くなてつ」]います。」
「名画の他にですか?」
「さよう、もっと大切な物が、しかも名画と同じように替(かわ)りの品物をおいていきました。」
 二人は礼拝堂の前を通っていた。ボートルレは立ち止まって、
「判事さん、あなたはそれを知りたいんですか。」
「もちろん知りたいです。」
 ボートルレは太い杖を持っていたが、突然その杖を振り上げて、礼拝堂の扉を飾っている数個の彫像の一つを発止(はっし)と打った。
「ど、どうした、君は気でも違ったか?」判事は思わず、飛び散った彫像のかけらの方に駆け寄りながら叫んだ。「これは実に立派な物……」
「立派な物!」ボートルレはまたつづいてその次のマリヤの彫像を打ち壊しながら叫んだ。判事はボートルレに組みついて、
「君、馬鹿なことをしてはいけない!」
 その次の老王(ろうおう)の像も、基督(キリスト)の像も飛び散る。

            神秘の土窟(どくつ)

「その上動いたら撃つぞ。」ジェーブル伯もそこへ駆けてきてピストルを差し向けた。ボートルレは声高く笑った。
「伯爵、偽物です!」
「何だって?」二人は叫んだ。
「偽物です、つくり物です、中は空っぽです!」
 伯爵は彫像のかけらを拾ってみた。するとどうだろう、立派な大理石はただの漆喰に変っているではないか。そこにある彫像はまたとない実に立派な彫像なのであった。それがただの石膏細工(せきこうざいく)[#「石膏細工」は底本では「石豪細工」]に変ってしまっていた。
「ルパンです。実に偉いではありませんか。この偉大な礼拝堂はルパンによってみんな奪い去られてしまいました。一個年にたくらんだ仕事はこれです。実にルパンは偉い、何という恐ろしい天才でしょう。そしてこの礼拝堂の中には我々の知らない隠れ場所があります。ルパンは礼拝堂の中で仕事をしている間(あいだ)にそれを見つけ出したのです。ルパンはもし死んでいるとすれば、その隠れ場所にいるでしょう。」
 三人は礼拝堂の扉を鍵で開けて中へ入った。ボートルレはまた調べてみた。礼拝堂の中も立派な物はみんな偽物に変っていた。ボートルレは伯爵の持ってこさせた鶴嘴(つるはし)で階段のところを壊し初めた。ボートルレの顔色は気が引き締(しま)っているためにまっ蒼であった。突然、鶴嘴は何かに当(あた)ってはね返った。この時内側で何か墜落するような音が聞えたが、それと共に鶴嘴を当てた大石が落ち込んで大きな穴があいた。
 ボートルレは覗いてみた。一陣の冷めたい風が彼の顔に当った。下男が持ってきた梯子を掛けて、判事は蝋燭を持って降りていった。伯爵もそれにつづいた。ボートルレも最後に降りていった。穴倉の中は暗黒(まっくら)であった。蝋燭の火がちらちらと動いてわずかに探り見られた。しかし底に降りると恐ろしい胸のむかつくような臭気が鼻をついた。と、突然ボートルレの肩を押えた手があったが、それはぶるぶる慄(ふる)えていた。
「どうしたのです。」
「ボートルレ君、い、居た。何かある!」
「え!どこに?」
「あの大石の下に、あれ、見たまえ!」
 彼は蝋燭をとり上げた。その光は地上に横たわっているある物の方へ投げられた。
「あ!」ボートルレは思わず恐ろしさに声を挙げた。三人は急いで覗いてみた。実に恐ろしい痩せた半ば裸の死体が横たわって[#「横たわって」は底本では「横はたって」]いた。溶け掛けた蝋のような青みがかった腐れた肉が[#「肉が」は底本では「肉か」]、ぼろぼろに破れた服の間からはみ出ている。しかし一番恐ろしいのはその頭である。大石に打ちくだかれたその頭、ぐちゃっと圧しくだかれて、目鼻も分らないほど崩れてしまったその頭……
 ボートルレは長い梯子を四飛びに飛んで、明るみの空気の中へ逃げ出した。
 判事はあの死体はルパンに違いないとすっかり安心してしまった。ボートルレは何事か考え込んでしまった。判事宛に二通の手紙が来た。一つはショルムスが明日来るという知らせであった。一つは今朝海岸に美人の惨死体が浮(うか)び上ったという知らせであった。たいへん死体は傷ついていて、とても顔は見分けられなかったが、右の腕にたいへん立派な金の腕輪をつけているということだった。レイモンド嬢もたしか金の腕輪を嵌めていたはずだったのでその死体はレイモンド嬢に違いないと判事はいった。
 ボートルレはまたしばらくすると自転車を借りて近くの町へ急いだ。そこで彼は役場へ行って何事かを調べた。
 ボートルレは大満足で唱歌を唱いながら自転車でまた元来た道を帰ってきた。と伯爵邸の近くへ来た時、彼はあ!と声を上げた。見よ前方数間(すうけん)のところに一条(ひとすじ)の縄が道に引っ張られてあるではないか。自転車を止める間もなくあなやと思う間に自転車は縄に突き当って、ボートルレの身体は三米突(メートル)ばかり投げ出され、地上に叩きつけられた。しかし全く幸(さいわい)なことに、たったわずかのところで、路(みち)ばたの大石の前で止まった。その大石に頭を打ちつけでもしたら、ボートルレの頭はめちゃめちゃになるところであった。しばらくの間彼は気を失っていたが、ようやくにしてすり剥いた膝を抱えて起き上り、あたりを眺めた。曲者は右手の小さな林から逃げたらしい。ボートルレは起き上ってその縄を解いた。その縄を結びつけてある左手の樹に一枚の小さな紙切がピンで止めてあった。それには、
「第三囘の通告、そしてこれが最後の忠告である。」

            解かんとする謎の記号

 ボートルレは血だらけになって邸へ着くと、すぐ少し下男たちに何か尋ねてから判事に逢った。判事はボートルレを見ると、傍にいた書記に外に出ているようにと命令(いいつ)けた。判事は少年の血のついたのを見て叫んだ。
「あ! ボートルレ君一体どうしたのです。」
「いえ、何でもないんです。しかし判事さん、この邸の中でさえも僕のすることを見張っている者があるんですよ。」
「え! 本当かね、それは。」
「そうです。そいつを見つけるのはあなたの役です。しかし僕は思ったより以上に調べを進めました。それで奴らも本気になって仕事をし出したらしいのです。僕のまわりにも危険が迫ってきました。」
「そんな……ボートルレ君。」
「いえ、とにかくそれよりも先に、あのいつか血染の襟巻と一緒に拾った紙切のことですが、あのことは誰にも話してはいらっしゃらないでしょうね。」
「いや、誰にも、しかしあんな紙切が何か役に立つのですか?」
「え、大いに大切なのです。僕はあれに書いてあった暗号の謎を少し解くことが出来ました。それについて申し上げますが。」
と、いいかけたボートルレは、ふいにその手で判事の手を押えて聞き耳を立てた。
「誰か立ち聞きをしている。」砂利を踏む音に少年は窓に走った。しかし誰もいない。
「ねえ、判事さん、敵はもうこそこそ仕事をしてはいません。大急ぎで申し上げましょう。」
 少年は紙切を卓(テーブル)の上において説明を始めた。ボートルレはこの間からこの紙切について一生懸命考えていたのであった。そして少年はやっとその数字がア・エ、イ・オ、ウ、の字を表(あら)わしていることを考えついた。つまり数字の1は、最初のア、を差し、2は次のエを指しているのであった。それを頼りに、点のところへ、言葉になりそうな字を入れていった。その結果少年は、第二行から(令嬢(ド・モアゼル))という言葉を拾うことが出来た。
「なるほど、二人の令嬢のことだね」と判事はいった。少年はまたその他に、(空に(クリューズ))という言葉と(針(エイギュイユ))という言葉を見つけた。
「空(うつろ)の針、それは何だろう。」と判事がいった。
「それは僕にもまだ分りません。しかしこの紙切の紙はずっと昔のものらしいのですが、それが不思議です。」
 この時ボートルレはふと黙った。判事の書記が入ってきたのであった。書記は検事総長が到着したと告げた。判事は不思議な顔をした。
「何だろう、おかしいな。」
「ちょっと、下までおいで下さいといって、馬車をまだお降りになりません。」
 判事は首をかたむけながら降りていった。この時怪しの書記は室(へや)の中から戸を閉じて鍵を掛けた。

            美少年の重傷

「あ!なぜ戸を閉めるんです!」とボートルレは叫んだ。
「こうすれば話がしいいというもんだ。」と書記は嘲笑った。万事は分った。奴の仲間、それは書記だったのだ。
 ボートルレはよろめきながらどっと腰を下(おろ)して、
「話せ、何が望みなのだ。」
「紙切さ、あれを渡せ。」
「僕は持っていない。」
「嘘をつけ、俺はちゃんと見たんだ。」
「それから?」
「それから。手前は少しおとなしくしろ、手前は俺たちの邪魔ばかりしやがる。手前は手前の勉強をすれやいいんだ。」
 書記に化けた曲者は、ピストルを少年に差し向けながら進んできた。
 ボートルレは動かなかった。恐ろしさに顔は真蒼(まっさお)であったが、しかもなお少年は、この場合どうすればいいかと考えていた。ピストルは眼の前に迫っている。太い指が引金(ひきがね)に掛っている。それを引けばそれまでだ。
「やい!出さねえか、……うぬ!出さねえな!」
「これだ。」と少年はいって、懐から紙入を出してそれを渡した。書記は引ったくるようにその紙切をとった。
「よし、手前は少しは物が分るよ。さあ用がすんだら退却としよう。さよなら。」
 男はピストルを懐へ収めて、窓の方へ歩みを向けた。廊下に判事の帰ってくる足音、男はふと思いついたらしく立ち止まって、渡された紙片(かみきれ)を調べた。
「あ!畜生、あの紙切はない、よくも騙しやがったな!」と室内へ飛び込んだ。と二発の銃声、今度はボートルレが自分のピストルを出して撃ち放ったのだ。
「当るかい、畜生!」
 二人は引っ組んだまま床の上を転がった。
 外からははげしく扉を叩く。二人はすさまじい格闘をつづけたが、とうとうボートルレは次第に弱ってたちまち組み敷かれてしまった。それでお仕舞いだ。さっと振り上げられた手には短劒が閃(ひら)めいた。と発止!打ち下された。激しい痛みを肩に覚えて、少年は思わず握った手をゆるめる。
 上衣(うわぎ)のポケットを探られて、紙切を持ち去られるように思ったが、そのまま気を失ってしまった。
 翌日の新聞は伯爵邸の珍事でいっぱいであった。礼拝堂の隠れ穴、ルパンの死体発見、レイモンド嬢の惨死体発見、ボートルレの災難。
 それと同時にまた驚くべき別のことが知らされた。それはガニマール探偵の行方不明と、ロンドンの真中(まんなか)で、しかも真昼間(まっぴるま)に起った誘拐事件、それは英国の名探偵ヘルロック・ショルムスの誘拐事件であった。
 こうしてルパンの残党は、十七歳の天才少年にすべてを見破られようとする時、この少年を倒し、またルパンの二大強敵、ショルムス及びガニマールは見事に負けてしまった。今やルパンの一味は天下に敵なしとなった。かの大胆不敵のルパンに当ることの出来る者は天下に一人もなくなったのだ。

        四 侠少年対怪盗
            真相発表近し

 ボートルレ少年の負傷は初め幾日かの間は危いとさえいわれた。
 事件はすべてルパンの死んだことによって終ったようであった。しかし少年ボートルレがまだ終ったといっていない以上は、この悲劇はまだ終ったのではないのだ。どんなことがまだ終っていないのかそれは誰も知らない。ただボートルレ少年だけがそれを説明することが出来るのだ。
 世間の人がボートルレ少年の負傷を心配するのは大変なものであった。やっともう心配はないと医者が発表した時には、人々は大喜びをした。
 その後傷はたいへん良くなった。少年が判事に話し出そうとした(空の針(エイギュイユ・クリューズ))の本当のことはまもなく世間に知らされるだろう。エイギュイユ・クリューズ!果してこれにはどんな秘密が隠されているのであろう。
 それはまもなく知れようとしている。ボートルレが近いうちにまた来(きた)るべきことを新聞は書き立てた。闘いはまさに始められようとしている。今度こそ少年は怨みの復讐に燃えて決心が堅い。一つの新聞に大きな字で次のようなことが書いてあった。
「ボートルレ君は、まだどこにも知られていないジェーブル伯邸の事件真相を、明日我が新聞に発表されることを承知せられたり。」

            ルパンの再現

ボートルレは一通の手紙を受けとった。まだ傷が治ったばかりで幾分顔色のよくない少年の顔は、その手紙を読んでいくうちにさっと蒼くなった。彼はしばらく眼をつぶって考えていたが、やがて何事かを決心したようであった。
 その夜少年は、一人の紳士に案内されて一つの部屋へ入った。紳士は一言(いちごん)も口をきかず重々しい態度で室内の電灯をみんな点けた。室内にはたちまち明るい光がいっぱいに流れた。この時二人は始めて眼と眼を見合せた。その眼光の鋭さ、らんらんと燃ゆるような四つの眼は、お互(たがい)の胸の底まで見抜こうとする物凄いものであった。
 その紳士の顔付(かおつき)は逞しく、長い髪の毛は茶褐色で、髯は左右に分れていた。身装(みなり)はちょうど英国の僧侶のように黒い物ずくめで、見るからに自然と頭の下(さが)るような、いかめしさと重々しさとをそなえていた。やがてその紳士は口を開いた。
「ボートルレ君、我輩(わがはい)はまず君に、君が我輩の手紙を見て気持よく逢ってくれたことに、御礼を申し上げなければならない。」
「そして、あなたが?……」とボートルレはいった。紳士はじっとボートルレを見ながら静かにいった。
「そう、我輩です、アルセーヌ・ルパンです。ボートルレ君。」
 アルセーヌ・ルパン!おお彼巨人アルセーヌ・ルパンは再び姿を現わした。かの僧院の陰惨な土窖(つちあな)の中に苦しみ悶え、ついに無惨な死を報ぜられたアルセーヌ・ルパン!彼はやはり生きていたのであった。しかも今見る彼ルパンの元気溢れていることよ!彼はボートルレ少年に逢い、何をしようとするのであろうか。
「我輩は……」とルパンは笑いながらいった。
「我輩はとにかく出来る限り活動するのです。そのためには種々(いろいろ)な手段もとらなければならない。我輩はもう君が、自分の身の危険には構われないということを知りました。残るところは君のお父さんです。……君がまたたいへんお父さん思いであるということを知っているので、だから我輩は最後の手段をとろうとするのです。」
「だから僕、ここへ来たんです。」とボートルレは微笑んだ、「手紙の中にある嚇し文句も、私のことなら何でもないのですが、それが私の父のことなんですからね。」
「まあ、椅子へ掛けましょう。」とルパンはいった。
「とにかくその前にボートルレ君、あの判事の書記が君に乱暴したことを僕は謝らなければならない。」
「いや、実際あれには僕も少し驚きました。だってルパンのやり方ではないんですもの。」
「そう、実際、あれは我輩の少しも知らないことだった。あの部下はまだ新米なので、我輩の命令に背いて勝手にしてしまったことなんだ。我輩はあの部下を厳しく罰しておいた。君の蒼い顔を見てはいっそうお気の毒です。勘弁してくれますか。」
「あなたは今日僕をこんなに信用して下すったんだから、それでもうあの書記のことは忘れましょう。だって僕がそうしようと思えば警官を連れてきて、あなたを捕縛することも出来たんですもの。」とボートルレは笑いながらいった。
 ボートルレは絶えず美しい無邪気な微笑(ほほえみ)を浮べ、親しげな、それでいて丁寧な態度をとっている。少しもその態度には偽りがない。
 ルパンはこの無邪気な愛くるしい少年に対して、少(すくな)からず困っているようであった。彼は自分のいいたいことを、どういう風にいい出そうかと迷っているようであった。
 その時玄関の呼鈴がなった。ルパンは急いで立っていった。
 彼れは一通の手紙を持って戻ってきた。
「ちょっと失礼。」といいながら手紙の封を切った。中には一本の電報が入っていた。彼はそれを読んだ。とみるみるその様子は変ってきた。その顔色は輝き出した。彼はすっくと立った。彼はもはや、常に争い闘い、何物をも支配しようとする巨人、人類の王であった。
 彼はその電報を卓子(テーブル)の上に披(ひろ)げて、拳を固めてどんと卓子(テーブル)を打って叫んだ。
「さあ、今じゃあ、ボートルレ君、君と我輩との相討(あいうち)だ。」

            勝つものは誰か

 ボートルレは改まった態度をとった。ルパンは冷(ひや)やかな厳しい口調で語り出した。
「おい!君、お体裁は止めよう。我々はお互に、どうしたら勝てるかと相争う敵(かたき)同士だ。もうお互に敵として談判を始めよう。」
「え!談判?」とボートルレは吃驚(びっくり)したような調子でいった。
「そうだ、談判さ。俺は君に一つの約束をさせなけりゃ、この室(へや)を出ない決心だ。」
 ボートルレはますます驚いたような調子だった。彼はおとなしくいった。
「僕はそんなつもりはちっともしていませんでした。なぜそんなに怒っているんです。境遇が変っているから敵(かたき)だというんですか、え、敵(かたき)って、なぜです?」
 ルパンは多少面喰(めんくら)った態であったが、
「まあ、君、聞きたまえ、実はこうだ。俺はまだ君のような対手(あいて)に出っ会(くわ)したことがない。ガニマールでもショルムスでも俺はいつも奴らを嬲(なぶ)ってやったんだ。だが俺は白状するが、今は俺の方が君に負けていると見なければならない。俺の計画した仕事は見事に破られた。君は俺の邪魔だ。俺はもうたくさんだ、我慢が出来ん!」
 ボートルレは頭を挙げて、
「では、あなたは僕にどうしろというんです。」
「人は自分々々の仕事があるものだ。それより余計なことはしないようにするものだ。」
「そうすると、あなたはあなたの好き勝手に強盗を働き、僕は勝手に勉強ばかりしていろというんですね。」
「そうだ、君は俺を放っておけばいいんだ。」
「では、今あなたは何がいけないというんですか。」
「君は白(しら)ばっくれるな、君は俺の最も大切な秘密を知っている。君はそれを発表してはならん。君は新聞に約束した。明日(みょうにち)発表することになっている。」
「その通りです。」
 ルパンは立ち上り拳を振(ふる)って空を切りながら呶鳴った。
「そいつは発表ならん!」
「発表させます!。」とボートルレは突然立ち上った。
 とうとう二人は対立した。ボートルレは急に偉大な力が彼の全身に燃えたかのようであった。ルパンの眼は猛虎のそれのように鋭く閃(ひら)めいていた。
「黙れ、馬鹿!」とルパンは吼えた。「俺を誰だと思っているんだ。俺は俺の思った通りにするんだ。貴様は新聞の約束を取り消せ!」
「嫌だ!」
「貴様は別のことを書け、世間で思っている通りのことを書いてそれを発表しろ!」
「嫌だ!」
 ルパンの顔は怒りのために物凄く、顔色は真蒼になった。彼は今まで自分のいうことを断られたことはなかった。彼は始めてこの年若な一少年の頑固な抵抗(さからい)に出会って気狂(きちが)いのように怒った。彼はボートルレの肩を掴んで、
「やい、貴様は何でも俺のいう通りにするんだ。やい、ボートルレ!貴様はあの僧院の土窖の中で発見された死体はアルセーヌ・ルパンに相違ないと書くんだ。俺は、俺が死んでしまったものと世間の奴らに思わせなければならないんだ。貴様は今俺がいった通りにしろ!もし貴様がそうしないな……ら」
「僕がそうしないなら?」
「貴様の親父は、ガニマールやショルムスがやられたと同じように、今夜誘拐されるぞ!」
 ボートルレは微笑した。
「笑うな!……返事をしろ!」
「僕は、あなたの思うようにならないのは気の毒とは思うんですが、僕は約束したんだから話します。」
「今俺がいった通りに話せ!」
「僕は本当のことをそのまま話します。」とボートルレは悪びれもせずに叫んだ。「あなたにはこの本当のことをいう誰はばからずそのままのことを高い声でいう、この喜びこの心持(こころもち)よさは分らないでしょう。僕は僕の頭の中で考えた通りのことをいうだけです。新聞は僕の書いた通りに発表発表されるんです。そうすれば世間ではルパンが生きていることも知ります。ルパンがなぜ死んだと思わせなければならないかも分ります。」彼は落ちつき払って、「そして僕のお父さんは誘拐なんぞされません!」
 二人はお互に鋭い眼光で睨み合って、物もいわず油断なく構えて、今にも血腥(ちなまぐさ)き[#「血腥き」は底本では「血醒き」]ことが起りそうに見えた。ああこの恐るべき闘争に勝つ者は誰ぞ。

            悲痛の打撃

 ルパンはやがて呟いた。
「今夜、午前三時、俺の中止命令がなければ俺の部下二名が、貴様の親父の室へ入り、言葉で欺(だま)すか、力ずくでやるか、どちらにしても親父をさらって連れ出し、ガニマールやショルムスがいる所へ送り込むことになっているんだ。」
と、言葉も終らぬうちにボートルレは高々と笑い出した。
「はははは大盗賊のくせに、僕がそんな用心はもう遠(とお)にしているということぐらい分らんかなあ、ははは、僕はそんな馬鹿じゃありませんよ。はははは」
 少年は両手をポケットへつっ込んで室の中をあちこち歩きながら、鎖につながれた猛獣にからかっているいたずらっ子のように気楽に力んでいる。彼はなお静かにつづける。「ねルパン君、君は君のやることなら間違いはないと思っているんですね。何という己惚(うぬぼ)れでしょう、君がいろんなことを考えるように、他の者だってやはり考えをめぐらしているんですよ。」
 少年は今こそ巨盗のあらゆる憎むべき行(おこない)に対して、痛烈に[#「痛烈に」は底本では「通烈に」]復讐の言葉を浴びせている。彼はなお、
「ルパン君、僕のお父さんは、あんな寂しいサボア県なんかにはいやしないんだよ。聞かせてあげようか、お父さんは、二十人ばかりの友人に守られて、シェルブールの兵器庫の役人の家にいるんです。夜になると堅く門を閉め、昼間だってちゃんと許しを受けないと入ることの出来ない兵器庫の中ですよ。」
 少年はルパンの面前で立ち止り、子供同志がべっかんこをする時のように、顔を歪めて嘲(あざけ)った。
「え、どうです先生!」
 しばらくの間ルパンは身動きもせずに立っていた。彼は何を考えているのであろう。今にも少年に飛び掛るのではないかとさえ思われた。
「え、どうです、先生?」とまた少年は嘲笑った。
 ルパンは卓上にあった電報をとり上げて少年の眼の前に差しつけながら、凄い落ちつきを見せていった。
「ごらん、赤ちゃん、これをお読み!」
 ボートルレは、ルパンのその態度にたちまち真面目になって電報を開いたが、顔を上げて不思議そうに、
「何のことだろう?僕には分らない……」
「電報を打った所の名をよくごらん、そらシェルブールとあるだろう。これでもすぐ分ることじゃないか。」
「え!、なるほど、分る……シェルブールだ、それから?」
「ニモツニツキソッテイク、メイレイマツツゴウヨロシ、もう分ったろう。馬鹿だなあ、ニモツとは君のお父さんのことだ、まさかボートルレ氏父とも書けないじゃないか。二十人の護衛者がついていても、俺の部下の方ではツゴウヨロシといって俺の命令を待っている。え、どうだい、赤ちゃん?」
 ボートルレは一生懸命我慢しようとつとめた。しかしその唇はみるみる慄えてきて、両手で顔を覆ったと見る間に、大粒の涙をはらはらと流して泣き出した。
「ああ!お父様……お父様」
 思い掛けないこの場面、この可憐な、無邪気な、胸から湧き出るような泣き声にルパンは少からず面喰った。彼は一度帽子をとってその部屋から出ようとしたが、また思い返して一足一足少年の方へ帰ってきた。そして身を屈めて静かな声でいい始めた。その声の中にはもう悔(あなど)りの調子も、勝ち誇った調子もなかった。優しい同情のある声であった。
「もう泣くな君、こんな闘争の中に飛び込んでくれば、このくらいのことは覚悟していなければならない。前にもいうた通り我々は敵(かたき)同士ではないのだ。俺は初めから君が好きであった。だから俺は君を苦(くるし)めたくないけれども、君が俺に敵対する以上はやはり仕方がない。ね君、どうだい、俺に敵対するのは止めないか。君は俺に勝てると思っているかもしれない。決して君を馬鹿にするのではないが、しかし君は俺というものを知らないのだ。俺にはどんなことでも、やれないことのないほどの資本(もとで)がある。それは誰も知らないことなのだ。たとえばあの紙切の空の針の秘密(エイギュイユ・クリューズ)、君が一生懸命に探ろうとしているあの秘密の中には、大きな大きな宝があるかもしれない。また人の眼に見えない驚くような隠れ家があるかもしれない。俺の力というものは、そんな大秘密の中から引き出してくるのだ。ね、だから君はどうか俺と争うことを止めてくれ、……そうでないと俺は心にもなく君を苦しめなければならない。ね、どうか止めてくれ。」

            悲劇の真相

 ボートルレはやがて顔を上げた。少年は何事か考えているようであったが、
「もし僕があなたのいうようにするなら、お父様を赦してくれますか。」
「それはいうまでもなく赦す、部下は君のお父さんをある田舎の町へ自動車で連れていくことになっているが、もし新聞に出ていることが僕のいう通りになっていたら、俺はすぐ部下に電報を打って、君のお父さんを赦すように命ずる。」
「では僕はあなたのいう通りにいたしましょう。」とボートルレはいった。
 こうして少年は巨賊(きょぞく)ルパンに負かされてしまった。ボートルレはつと立ち上って、帽子を握りルパンにおじぎをして室を出ていった。
 翌朝の新聞にいよいよ怪事件の真相は堂々と発表された。少年はルパンの言葉通り、ルパンは死んだものとして発表したのであろうか?、否、新聞には次のような意外な[#「意外な」は底本では「以外な」]新事実が発表された。順々に書いてみよう。
 一番初めに、ルパンは銃で撃たれて倒れた時、ルパンは自分が僧院の中で仕事をしている頃見つけておいた例の隠れ穴の土窖の中までどうにかして逃げようとしたのだった。がその時足音がしてレイモンド嬢が現われた。ルパンはもう仕方がないとあきらめたが、彼は早口にドバルを殺したのは伯爵で、自分ではないことをレイモンド嬢にうったえた。レイモンド嬢は同情深い人だったので、初めドバルの仇討(あだうち)をしようと思って銃を撃ったのがドバルの殺害者ではないと分ると、その倒れている男が可哀想になった、すぐルパンの傷口にハンカチを割いて繃帯をしてやり、ルパンの持っていた僧院の鍵で、僧院の扉を開け、ルパンを中へ入れてやって、そして知らない風をして下男たちと他を探し廻っているうちに、ルパンは隠れ穴の土窖の中へ隠れてしまった。それであとになってから僧院の中を探した時には、もうルパンの姿は見つからなかった。
 レイモンド嬢は自分の隠してやった賊を、そのまま放っておいたら飢死(うえじに)をしてしまうだろうということが心配になった。そして彼女はどうにも仕方がなく、それから毎日食事や薬を僧院の隠れ穴へ運んでやるようになったのである。
 思い掛けなく賊の味方をするようになったレイモンド嬢は、判事の取調べの時にも偽(いつわり)をいってしまった。二人の令嬢が犯人の人相のことで、違ったことをいったのがこれで分る。ルパンの傷が重いから手術をしなければならないと、仲間の者に知らせてやったのもレイモンド嬢であった。例の皮帽子をとり替えてやったのもレイモンド嬢である。ボートルレをわざと怪しく思わせるために、その前の日にボートルレを小門の前で見たといったのも、やはりレイモンド嬢の考えた偽であった。しかしこの偽のために、ボートルレはレイモンド嬢を怪しいと思い初めるようになったのだった。
 こうして四十日も掛って、レイモンド嬢はルパンを全快させた。ルパンが死んだら、レイモンド嬢に仇討をするという脅迫の紙切は、やはりレイモンド嬢が考えて書かせたものであった。
 ジェーブル伯邸で起った事件の不思議な一つ、傷ついたルパンがどうしても発見されなかったわけがこれで分った。ルパンはやはり僧院の中にあって、レイモンド嬢の親切な看病を受けて全快したのである。
 それでは何故(なにゆえ)にレイモンド嬢を誘拐したのであろうか? 四十日の間レイモンド嬢の優しい看病を受けたルパンは、レイモンド嬢と結婚したいという望みを持つようになった。しかしレイモンド嬢は、ルパンの傷が治っていくごとに、土窖の中へ訪ねてくるのが少なくなった。ルパンの傷がすっかり[#「すっかり」は底本では「すっから」]治ってしまったら、もうレイモンド嬢に逢うことは出来なくなるであろう。
 それでとうとうルパンは土窖の中を出ると、種々(いろいろ)の仕度をととのえて、レイモンド嬢を誘拐してしまったのであった。
 しかし誘拐しただけではレイモンド嬢を探し出そうとするに違いないと思ったルパンは、レイモンド嬢は死んでしまったように思わせなければならない。
 また一方ルパンも死んでしまったように思わせるために、僧院の土窖の中へ死体をおいた。そしてその死体はちょうど大石が落ち込む下のところにおき、その頭は大石の下になって人相が分らないようにくだけてしまうような仕掛けになっていた。それと同時に海岸にはレイモンド嬢の死体が打ち上げられた。その死体も同じように人相は見分けられないほど腐っていた。ただ腕輪がレイモンド嬢のであったから、レイモンド嬢の死体だろうと思われたのであった。
 この二つの事件からボートルレは考えついたことがあった。それはちょうどその四五日前に、ある宿屋に泊っていた若い夫婦が毒を飲んで死んだことが新聞に出ていた。そしてその二人の死体は、親類の者だという者が出てきて引き取っていったのであった。いつかボートルレが自転車を飛ばしてある村の役場を調べに行ったことがあった。その時に、ボートルレはこれらのことを調べてきたのであった。そしてこの死んだ夫婦の親類というのは、ルパン一味の者に違いないということを、ボートルレはたしかめたのであった。
 こうしてルパンとレイモンド嬢の身替りをつくって、すべての世間を欺いた。
 しかしガニマールとショルムスとボートルレの三人は欺くことが出来ない。でとうとうルパンはガニマールとショルムスを誘拐し、ボートルレに傷を負わせたのである。
 しかしただ一つ分らないことがある。あの不思議な暗号の紙切、エイギュイユ・クリューズ(空の針)の秘密が隠されているあの紙切を、烈しい勢でボートルレの手から奪っていったのは何故(なにゆえ)であろうか? ボートルレの頭の中にはもうあの暗号はすっかり覚え込まれている。それともあの紙切に記してある暗号よりも、あの紙切が大切なのであろうか。
 紙切のことはしばらくそのままにしておいて、ジェーブル伯邸に起った事件の真相はついに発表せられた。ルパンに脅迫されながらもボートルレはとうとう黙っていることが出来なかった。発表された真相は余りに思い掛けないことであった。人々は今更のように驚いた。
 この真相発表のあった日の夕方の新聞に、ボートルレのお父さんが誘拐せられたという記事が出た。
 これにはさすがのボートルレもぼんやりとして、しばらくはどうすればいいのか分らなかった。負けず嫌いのボートルレ少年はとうとうルパンの言葉に従わなかったのだ。しかしあの厳しい兵器庫の中にたくさんの人に守られている父親を、いかにルパンだって誘拐することは出来まいと思っていたのだった。少年の父親は、決して一人では外へ出さないようにし、またよそから来る手紙なども他の人が見てからでないと渡さないことにしてあった。
 その厳しい警戒の中を、どうして誘拐していったのであろうか。ルパンの恐ろしい力にはどうしても勝てないのであろうか。
 やがて少年は、どうしても父親を探し出そうと決心した。少年は兵器庫のあるシェルブールへ向う汽車に乗った。

            不思議な一枚の写真

 シェルブールの停車場には、父を預けておいた兵器庫の役人のフロベルヴァルが、十二三歳になる娘のシャルロットを連れて少年を迎(むか)いに出ていた。
「どうしたんです。」とボートルレはいきなり叫んだ。
「どうも私たちにも分らないんです。」とフロベルヴァルは溜息をつくばかりであった。
 少年は二人を近くのコーヒー店にさそって、あれこれと尋ねた。
 その話によると一昨日は少年の父親は一日部屋にいたというのである。娘のシャルロットが夜の御飯を持っていってやったのだった。それだのに翌(あく)る朝の七時にはもうその姿が見えなくなっていた。寝床も室の中もきちんとなったままであった。
「机の上にはいつも読んでいらしった本がおいてあって、本の中にはあなたの写真がはさんでありました。」とフロベルヴァルがいった。
「どれお見せ下さい。」
 フロベルヴァルから渡された写真を一目見たボートルレは、はっと驚きの色を浮べた。それはなるほど自分の写真には違いない。ジェーブル伯邸の僧院の側(そば)に立っている自分の写真である。しかし少年は僧院の前などで写真を写した覚えはない。
「分りました。」と少年は叫んだ。「この写真は私の知らないものです。きっと判事の書記が私の知らない時に写しておいたのでしょう。そしてこの写真でうまうまと父親をおびき出したのです。父は写真を見てきっと私が外に来ているものと思ったのでしょう。」
「しかし誰が、誰が私の家の中へ入ってきたのでしょう?」
「それは分りませんね、だが父がこの写真で騙されたのはきっと本当です。港へ大急ぎで行って、誰かに尋ねて調べてごらんなさい。」
 フロベルヴァルは全く驚き入ったというような目つきでボートルレの顔を見ていたが、帽子を握って、
「シャルロット、お前も一緒に港まで行くかい?」
「いや。」ボートルレはそれをさえぎって、「僕はお嬢さんに種々(いろいろ)話し相手になってもらいたいことがありますから。」

            少女の罪

 フロベルヴァルは出ていった。
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