奇巌城
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著者名:ルブランモーリス 

 ボートルレはバルメラ男爵に縋ろうとしてふと見ると、驚いたことにはバルメラ男爵は、闇黒(くらがり)を忍び忍び先へ進んでいる。しかも番人の男のすぐ近くまで進んでいっている。
 ふいにバルメラ男爵の姿が消えたと思うと、突然一個の黒い影が夜番の男の上におどり掛った。ランプが消えた。格闘の音がする。二つの黒い影が床の上に転がった。ボートルレがはっと跳ね上って近よろうとすると、一声の唸(うめ)き声が起った。一人の男が立ち上って少年の腕を握った。
「早く……行こう。」
 それはバルメラ男爵であった。

            開かれた城の門

 二人は二つの階子(はしご)をのぼった。「[#「「」は底本では欠落]右へ……左側の四番目の部屋。」とバルメラ男爵が囁く。
 二人はすぐにその部屋を見つけた。少年の望みは今遂げられた。父はこの扉一枚の中に閉じ込められているのだ。ボートルレはしばらく掛ってその鍵を破り、室屋(へや)の中へ入った。少年は手探りで父の寝台へ進んだ。父は安らかに眠っている。少年は静かに父を呼んだ。
「お父様……、お父……僕です、ボートルレです。早く起きて下さい、静かに静かに……」
 父は急いで着物を着て、部屋を出ようとする時、低い声で囁いた。
「この城の中に閉じ込められているのは私ばかりではない……」
「ああ、誰?ガニマール?ショルムス?」
「いいえ、そんな人は見たことがない。若い令嬢だ、」
「ああ、レイモンド嬢です、きっと。どの部屋にいらっしゃるか知っていますか。」
「この廊下の右側の三番目。」
「青い部屋です。」とバルメラ男爵がいった。
 すぐに扉を破り、レイモンド嬢は救い出された。
 みんなは元の小門へ出て、学生たちの張番(はりばん)しているのと一緒になり、無事に古城から逃れ出ることが出来た。
 ボートルレは宿へ着くと、種々(いろいろ)とルパンのことを父や令嬢に尋ねた。その話によると、ルパンは三四日目ごとに来て、父と令嬢の部屋を必ず訪ねた。その時のルパンは優しく叮嚀であった。ボートルレとバルメラ男爵が城へ忍び込んだ時には、ちょうどルパンはいなかった[#「いなかった」は底本では「いかなった」]。
 ボートルレは早速警察へ古城のことを報告した。警察からはたくさんの警官が古城へ向った。ボートルレとバルメラ男爵はその案内役になった。
 遅かった!正門は真一文字に開かれて、城の中に残っているものはいくつかの台所道具ぐらいであった。
 ああ、ボートルレ少年はとうとう勝った。レイモンド嬢は救い出され、ボートルレの父もまた救い出された。しかもエイギュイユ(針)の秘密は明らかになった。
 一少年はとうとうルパンに勝った。巨人ルパンもボートルレ少年には兜をぬがなければならなかった。ボートルレは父とレイモンド嬢を連れて、ジェーブル伯とシュザンヌ嬢とがいる別荘へ出掛けた。二三日経つとバルメラ男爵が母を連れて遊びに来た。こうして心から親しみ合っている人々が、平和な日をその別荘に送った。

            戦勝の祝

 十月の初めにボートルレはまた学校へ帰って勉強を始めた。
 こうしてもう何事もなくこのまま静かにすごされるであろうか?ルパンとの闘いはもうこれでお終いになったのであろうか?
 ルパンはもうあきらめてしまったものか、自分が誘拐した二人の探偵、ガニマールとショルムスをまた送り返してきた。それはある朝であった。二人の名探偵は手足を縛られて眠り薬を飲まされ、警察の前に捨てられてあった。それを通り掛りの紙屑拾いに拾われたのであった。八週間ばかりの間二人は全く眠ったままであった。やっと考えがはっきりしてから、その話すところによれば、
 二人は汽船に乗せられて、アフリカ近くを見物して歩いたそうだ。しかし二人は捨てられた時のことは何にも知らなかった。
 それからまたまもなく、ルパンの負けたことがもっとはっきりする事件が起った。それはバルメラ男爵とレイモンド嬢とが結婚することになったことである。世間の人たちは、ルパンがきっと黙ってはいないであろうと思って心配した。果して怪しい男が二度三度別荘のまわりをうろついていた。ある夕方、バルメラ男爵は一人の酔っぱらいに突き当られて、あ!と思う間にどんと一発のピストルで撃たれた。幸(さいわい)なことに弾丸(たま)はバルメラ男爵の帽子に穴をあけただけであった[#「であった」は底本では「あでった」]。そしてとうとうバルメラ男爵とレイモンド嬢は無事に結婚式を挙げた。ルパンが結婚したいと望んでいたレイモンド嬢は、バルメラ男爵夫人となった。
 もはや、何から何までルパンの負けとなった。それだけにまた一方ボートルレ少年の勝利は大変なものである。
 ある日ボートルレ少年の勝利の祝が開かれた。我も我もとその祝の会に集まったものは三百人以上であった。十七歳の少年は今日は凱旋将軍であった。ボートルレの得意と喜(よろこび)はどんなであったろう。
 しかし少英雄ボートルレは、やはり平常の無邪気なボートルレであった。少年は決して自分の勝利を自慢するような風をしなかった。しかし人々の少年を褒める言葉は大変なものであった。ジェーブル伯爵や、ボートルレのお父さんや、またバルメラ男爵なども、少年のこの祝の会に来ていて共に喜んでいた。
 ところが、突然にこの少年の勝利が破られてしまうようなことが起った。会場の片隅がにわかに騒がしくなって、一枚の新聞を振り廻している。新聞は人々の手から手に渡って、それを読む人は、みな驚きの声を上げている。
「読みたまえ!読みたまえ!」と向う側で叫ぶ。
 ボートルレ少年の父がその新聞を受けとって少年に渡した。
 少年は、人々をこんなに驚かせることは何であろうと思い、新聞を声高く読み始めた。しかしその声はだんだんと読んでいくうちに怪しく[#「怪しく」は底本では「怪くし」]乱れて慄えてきた。そのはずであった。少年が苦心した結果、エイギュイユ城が発見されて、紙片(かみきれ)の謎は解けたと思っていたのに、エイギュイユの秘密は、少年の考とはまるっきり違い、少年の勝利は間違ったものとなったのである。巨人ルパンはやはり少年に負けたのではなかった。ルパンはどこかで少年を嘲笑っていることであろう。
 その新聞の記事は、マッシバンという文学博士が書いたものである。博士は歴史の書物を読んでいるうちに、思い掛けなく「エイギュイユ・クリューズ」の秘密は大昔に起ったものであることを発見したのであった。
 それは仏蘭西(フランス)国王ルイ十四世の時であった。(今から二百四十年ばかり前)ある日名も知らぬ立派な青年が宮殿へ来て、重だった大臣たちに一冊ずつ小さな本を渡し始めた。その本の題は「エイギュイユ・クリューズの秘密」としてあった。ようやく四冊だけ配り終った時、一人の大尉が来てその青年を国王の前に連れていき、すぐさま、先ほど配られた四冊の本はとりあげられ、残りの百冊ばかりの本も全部とりおさえられた。そして厳重にその数を調べて、国王だけがその一冊を残しておおきになり、他はみんな国王の眼の前で火の中にくべられてしまった。そして本を配った青年は、鉄の面を被(き)せられて、一生寂しい島の牢屋に閉じ込められた。
 その青年を国王の目の前に連れてきた大尉は、その本が焼かれる時、ふと国王が傍見(わきみ)せられた隙に、手早く火の中から一冊を抜きとって懐中(ふところ)へ隠した。しかしその大尉もまもなく町の真中に死骸となって横たわった。その時大尉の服のポケットの中に、立派な珍しいダイヤモンドが入っていた。
 エイギュイユ・クリューズの秘密は仏蘭西(フランス)国家に伝わる一大秘密なのであった。代々国王がお亡くなりになった時にはきっと「仏蘭西(フランス)国王に与える」という封をした一冊の本が枕元においてあった。この秘密こそ仏王(ふつおう)に伝わる巨万の宝物(ほうもつ)の隠してある場所を教えてあるものなのであった。
 その後百年ばかりすぎて、大革命の時獄屋(ごくや)に閉じ込められた仏王ルイ十六世は、ある日密かにその番人の士官に頼まれた。
「士官よ、……私がもし亡くなったならば、どうぞこの紙片(かみきれ)を我が女王に渡してくれよ。エイギュイユの秘密であるといえば、女王はすぐに分るであろう。」
 そして一冊の本の暗号を写した一枚の紙片(かみきれ)を四つ折りにして封をし、それをその士官に渡された。そしてその一冊の本は焼き捨ててしまわれた。
 その士官は、ルイ十六世が断頭台にのぼせられてお亡くなりになった後、その紙片(かみきれ)を女王マリー・アントワネットにお渡(わたし)した。しかしその時はもはやその巨万の宝物(ほうもつ)は何にもならなかった。女王は「遅かった。」とかすかに呟かれた。そしてその紙片(かみきれ)を読んでいられた聖書の表書(ひょうし)と覆いの間に隠された。そして女王もまもなくまた断頭台の上で亡くなられた。
 その後になって、クリューズ河のほとりで針のように尖った屋根のある城が発見せられた。それはエイギュイユ城という名であった。そしてその城はあの百冊の本を焼かれたルイ十四世が命令して築かれたものであった。このことをよく考え合せてみると、ルイ十四世は国家の大秘密が知れ渡ることを気づかわれて、エイギュイユという城をつくって、エイギュイユ・クリューズ[#「クリューズ」は底本では「クリーュズ」]の秘密はこの城であるかのように見せかけようと思われたのであった。王のこの策略は見事に当った。
 そして二百年以上経った今、ボートルレ少年はその策略に掛ったのである。
 なおまた博士はいっている。きっとこのエイギュイユの秘密をかのルパンは知っているのであろう。そしてまたボートルレ少年の考えを欺くために、エイギュイユ城を借りていたものであろう。仏蘭西(フランス)国家の一大秘密を知っているのは、きっとルパンただ一人であるに違いない。
 祝の会場は大騒ぎになった。ボートルレ少年は新聞の中ほどからもう自分では読むことが出来なかった。少年は自分の負けであったことをはっきりと知った。少年は両手で顔を覆うて沈み切ってしまった。
 バルメラ男爵は傍(かたわら)に立って、静かに少年の手をとってその頭を上げさせた。
 ボートルレは泣いていた。

            火中から拾い出された本

 ボートルレ少年は学校へ帰ろうともしなかった。ルパンに勝てないうちは学校へも帰るまいと決心した。少年は一生懸命に考え始めた。
 あの紙片(かみきれ)の暗号はみんな自分の考え違いであった。エイギュイユ・クリューズはあのクリューズ県に聳え立っているエイギュイユ城ではなかった。同じく「令嬢(ドモアゼル)」という言葉も、またレイモンド嬢やシュザンヌ嬢のことをいっているのではなかった。なぜなら、その紙片(かみきれ)はもっとずっと前に出来たものであったから。
 万事はやり直しだ。
 エイギュイユの秘密を書いてある本が、ルイ十四世の時に出来て、それはまもなく焼き捨てられた。ただ二冊だけ残っている。一冊は例の大尉が盗み出した。また一冊はルイ十四世の御手(おんて)に残り、ルイ十五世に伝わり、十六世の時に獄屋の中で焼き捨てられた。しかしその写しの紙片(かみきれ)が女王に渡された。女王はそれを聖書の中に挟まれた。
 少年はその聖書の行方を尋ねた。聖書は博物館の中に蔵(しま)われてあった。
 ボートルレはその博物館へ行き、見せてくれるように頼んだ。博物館長はすぐに許してくれた。聖書はあった。中に紙片(かみきれ)もあった。それには何か書いてある。少年は慄える手でその紙片(かみきれ)をとり出して読み始めた。
「これを我が王子に伝う。   マリー・アントワネット。」
 読み終らぬうちに、あっと一声少年は驚きの声を上げた。女王の御名(おんな)の下にさらに……黒インキで、アルセーヌ・ルパンと書いてある。
 アルセーヌ・ルパンはもはやこの紙片(かみきれ)を奪い去っていた。少年は決心した。エイギュイユの秘密が仏蘭西(フランス)の国にある以上、どうしても探し出さなければならない。大尉の手によって火の中から拾い出されたもう一冊の本も探し出そう!

            大尉の子孫

 ボートルレはそれから一生懸命、その大尉の子孫を探し始めた。
 ある日マッシバン博士からボートルレ少年に手紙が来た。それによるとヴェリンヌという男爵が、大尉の子孫であることが分ったから、私と一緒にその男爵を訪ねてみようという手紙であった。しかしあとで博士は、用があるから一緒に行けないが、その男爵の家で逢おうということになった。
 少年はそのヴェリンヌ男爵の邸に出掛けた。余り事件がすらすらと運ぶので、もしやマッシバン博士というのはルパンの計略で、自分は恐ろしい敵の計略に掛るのではないかとも思われた。けれども少年は勇気を振(ふる)って出掛けた。
 博士はもう来ていた。ヴェリンヌ男爵も機嫌よく逢ってくれた。そして例のエイギュイユの秘密を書いた本もあるそうである。ボートルレは余りの嬉しさにせき込んで尋ねた。
「その本はどこにございましょう。」
「それ、その机の上です。」
 ボートルレは飛び上った。あるある!小さな本が卓子(テーブル)の上にある。
「ああ、ありましたね。」と博士も叫ぶ。
 二人は一生懸命に読み始めた。暗号の解き方が書いてある。しかし途中で何だか分らなくなってしまった。暗号の解き方ならボートルレがもはや考えたことである。
 少年はどうすればいいか分らなくなった。
「どうしたんです!」と博士は聞いた。
「分らなくなりました。」
「なるほど、分らない。」
「畜生、しまった!」といきなりボートルレが呶鳴った。
「どうしたんです!」
「破ってある!途中の二頁(ページ)だけ破ってある、ごらんなさい。跡がある……」
 少年はがっかりしてしまった。そして口惜しさにその身体はわなわなと慄えている。
 誰か忍び込んでこの本を探し、その大事な二頁(ページ)だけを□(むし)り取ったものである。男爵も博士も驚いてしまった。
「娘が知っているかもしれません。」といって男爵は令嬢を呼んだ。令嬢は不幸(ふしあわせ)な人で夫が亡くなったので一人の子供を連れて、父親である男爵の邸へ来ているのである。
 夫人は昨晩その本を読んだのであった。が、その時は裂かれているところなどはなかったということである。それでは裂かれたのは今日である。邸の中は大騒ぎとなった。しかしその二頁(ページ)の行方は分らない。ボートルレはあきらめた。少年は夫人に尋ねた。
「あなたは、この本をお読みになったのなら、裂かれた二頁(ページ)もお存じでいらっしゃいましょう。」
「ええ。」
「ではどうぞ、その二頁(ページ)のところを私にお話し下さい。」
「え、よろしゅうございます。その二頁(ページ)はたいへん面白いと思って読みました。それは本当に珍しいことで……」
「それです。それが一番大切なことです。エイギュイユ・クリューズは何でしょう。早くどうぞお話し下さい。」
「思ったよりも簡単なことです。それは……」
 夫人が話し出そうとする時、一人の下男が手紙を持ってきた。夫人は怪しみながらそれを開くと、
「黙れ!そうでないとあなたの子供は起(た)つことが出来なくなるだろう。」
「ああ、子供は……子供は……」と夫人は驚きの余り、ただそういうだけで子供を助けに行くことも出来ない。
「嚇(おどか)されてはいけません。ね、奥さん、何でもありません、どうぞ話して下さい。」
 ボートルレは一生懸命であった。
「きっとこれはルパンの仕業だろう。」とマッシバン博士がいった。
 その時乳母が駆け込んできた。「坊ちゃまが……急にお眠りになって……」
 夫人は裏庭へ誰よりも先に駆けつけた。子供は長椅子の上に身動きもせずに横たわっている。
「どうしたの、ああ手が冷たい、早く醒まして!……」
 これを見たボートルレは何を思ったのか、手をポケットに突っ込んでピストルを握り、引金(ひきがね)に指をかけるや、いきなりマッシバン博士に向ってどんと一発撃ち放った。
 あっという間もなく、マッシバン博士は素早く身をかわした。少年はおどり掛って博士に組みつき、驚いている下男たちに叫んだ。
「加勢だ!加勢だ!ルパンだこいつが……」
 組みつかれたマッシバン博士はよろよろと倒れたが、がばとはね返して少年の手からピストルを奪いとった。
「よし、動くな、俺を見破るまでにはかなり時間が掛ったな。マッシバン博士の変装がそんなにうまく出来たかしら?」といいながら驚きあきれている男爵や下男を尻目に掛けながら、
「ボートルレ、君は馬鹿だな、ルパンだなんていうからこの連中は恐れて加勢しなかったんだぜ。でなけれや、俺は負けるところだった。」ルパンは一人の下男に向い、「おいお前だったな、さっき俺が百法(フラン)小切手をやったのを返してくれ。この不忠者め!……」
 一人の下男が恐る恐るそれを返すと、ルパンはそれを破ってしまった。そして帽子を手にとって夫人に向い、叮嚀に頭を下げた。
「どうぞお免(ゆる)し下さい。坊ちゃんは一時間もすればきっと醒めます。どうぞあの本のことだけはいわないで下さい。」
 そして男爵にもおじぎをしてステッキをとり上げ、巻煙草に火を点け[#「点け」は底本では「黙け」]、ボートルレに、「[#「「」は底本では欠落]さよなら、坊ちゃん。」と嘲ったようにいって悠々と出ていった。
 ボートルレはじっと身動きしなかった。しかし少年はもう夫人が決して話してくれはしないということが分ったので、すごすごと男爵の邸を出て考えながら歩いていった。
「おい、君どうしたい?」
と、いいながら、路傍(みちばた)の林の中から出てきたのは、さっきのマッシバン博士、否アルセーヌ・ルパンであった。
「君の来るのを待っていた。どうだい、うまいだろう。しかし真物(ほんもの)のマッシバン博士はちゃんとあるんだよ。何ならお目に掛けてもいいよ。どうだい、一緒に俺の自動車で帰らないかい?」
と、いいながら指を咥(くわ)えてぴゅーと一声口笛を吹いた。
 その勿体ぶったマッシバン博士の格構(かっこう)と、きびきびしたルパンの言葉使いとはまるっきり吊り合わなくて実におかしかった。ボートルレは思わず吹き出してしまった。
「ああ笑った!笑った。」とルパンは大喜びしながら叫んだ。「君のその笑い顔は実に可愛いよ。君はもっと笑わなくちゃあいかん。」
 その時自動車の音が近くで聞えてきた。大形の自動車が着いた。ルパンはその扉を開いた。ふと中を見たボートルレはあっと叫んだ。中に一人の男が横たわっている。その男すなわちルパン、否本当のマッシバン博士、少年は笑い出した。
「静かに静かに、よく眠っているからね。博士がここへ来る途中をちょっと捕(とら)えて、ちくりと一本眠り薬を注射したのさ。さ、ここに博士を寝かせておいてあげよう。」
 二人のマッシバン博士が顔を合わせているところは実におかしかった。一人は頭をだらりと下げてだらしなく眠っているのに、一人は大真面目な顔をしながら、馬鹿叮嚀におじぎをしている。
 二人は博士をその叢に寝かせて自動車に乗った。自動車は全速力で走り出した。
「君、もう好い加減に手を引いたらどうだい、そういったところで君は止めはしないだろう。しかし君があのエイギュイユの秘密を探し出すまでには、まだまだ幾年掛るか分らない、俺だって十日掛ったよ。このアルセーヌ・ルパンだってさ。君なら十年はきっと掛るね。俺と君とはそれだけ違いがあるのさ。」

        五 奇巌城
            三角形をなす都会

「俺だって十日は掛ったよ。」
 自動車の中でルパンのいったこの言葉を、ボートルレは聞き洩(もら)さなかった。ルパンが十日掛ったのなら、ボートルレにもきっと十日で出来ないことはない。いかにルパンだって自分とそんなに違う理由(わけ)がない。もともとこの事件の起りは、あの紙片(かみきれ)をルパンが落したからではないか、ルパンだってそんな大きな過ちをしているのだもの。ボートルレはヴェリンヌ男爵邸で読んだだけの本と、覚えている暗号とを頼りに一生懸命考え始めた。毎日部屋に閉じ籠(こも)って、それより他のことは考えなかった。きっと十日で考えてみせよう。
 しかし十日もすぎ、十一日十二日もすぎてしまった。が十三日目に、少年の頭にさっとある考えが浮んだ。きっとこれはルパンも考えついたことに違いない。それはエイギュイユ・クリューズの秘密が、仏蘭西(フランス)国家に代々伝わった秘密である以上、何かこの秘密をめぐって、一筋の繋がった事件が歴史に表われてはいないだろうか。
 少年は一生懸命歴史を調べ始めた。しかし歴史は種々(いろいろ)で、なかなかそれを調べて一筋の繋がりを探し出すことは難しい仕事であった。しかしボートルレが熱心に調べたところ、種々(いろいろ)の事件の中に一つの繋がりがあることを見出した。
 それはすべての事件が、ルーアン、ドイエップ、ルアーブル……この三つの都会に何かの繋がりがあることである。
 大昔、エイギュイユの秘密を知っていた人々はみんなこの三つの都のうちの、どれかの王であったり、またはそこで殺されたり、そこで戦争をしたりしているのである。そしてルイ十四世の時、あの本を火の中から盗み出して秘密を知り、宝物(ほうもつ)を盗み出していた大尉が、ポケットに立派なダイヤモンドを入れたまま、道の真中に死体となって現われたその場所もまた、ルーアンから、ドイエップから、ルアーブルから、この三つの都会からパリへ行く道なのである。
 ルーアン……ドイエップ……ルアーブル……は三角形をなしている。すべてはそこにある。
 一つは海、一つはセーヌ河、一つはルーアンからドイエップへ通じている一つの大きな谷。
 その時また、少年の頭に一つの光が流れた。それはこの三角形の場所こそ、巨人ルパンがいつも活動する場所だということである。この十年ばかりの間、世間の人たちを驚かせながら活動した場所はいつもここであった。
 しかも今度の事件は?、ジェーブル伯爵のあの僧院のある場所は、やはりルアーブルからドイエップへ通う道にある。きっとルパンは十年ばかり前にエイギュイユの秘密を探り出して、その宝物(ほうもつ)の隠してある場所を知ったに違いない。ルパンの力はそれだからこそ大きかったのに違いなかった。
 少年は意気揚々とパリを出発した。少年は三角形の中のすべてを片っぱしから調べ始めた。
 少年はある朝村の小さな飯屋で、馬方のような男がじろじろと自分を見ているのに気がついた。ボートルレは変な奴だと思ってその飯屋を出ようとすると、その馬方が声を掛けた。
「ボートルレさんでしょう、変装していても分りますよ。」という。どうやらその男も変装しているらしい。
「あなたはどなたです。」
「分りませんかね、私はショルムスです。」
 ああ英国の名探偵ショルムス!ここで逢うということは何という珍しいことであろう。しかしショルムスは少年よりも先に秘密を握ったのではないだろうか。探偵は少年のその顔色を見て、
「いや、心配なさらんでもいい、私のはエイギュイユの秘密のことではない。私のはルパンの乳母のヴィクトワールのいる場所が分ったので、そこでルパンを捕まえようというつもりなんです。」なお探偵はいった。「私とルパンとが顔を突き合せる日には、その時こそどちらかに悲劇が起らないではすまないでしょう?。」
 探偵はルパンに深い恨みを持っている。ルパンとの闘いに、ショルムスは死ぬ覚悟を持っているのだ。二人は別れた。

            ああ奇巌城

 ある日、少年は景色の好い海岸を歩いていた。少年はごつごつした巌(いわ)の上を通ったり、谷を通ったりして岬の方へ進んだ。余り景色が美しいので、ルパンのことも、エイギュイユ・クリューズの秘密も、ショルムスのこともみんな忘れて、ただ眼の前に開けていく美しい景色、真蒼な大空、緑色の渺々(びょうびょう)たる大海、暖かい日の光を浴びて輝いている絵のような景色に見とれて歩いていた。
 まもなく行手(ゆくて)に一個の城のような建物を見た。それは大巌(おおいわ)の岬の上に建ててある。少年はその大巌の上にやっとのぼりついた。その城の門にはフレオッセと書いてあった。別に城の中に入ってみようともせず、小さな洞穴(ほらあな)を見つけてそこに休んだ。少年は疲労(くたびれ)が出てうとうとと眠った。しばらくして洞穴(ほらあな)を吹いてくる風に眼を覚ました。少年はまだすっかり頭がはっきりしないらしく、坐ったままぼんやりしていたがやがて起き上ろうとした。その時少年ははっとしてじっと前の方の一つところを見つめ初めた。
 身体中が慄えて、大粒な汗がにじみ出てくる。少年は夢ではないかと思った。そして急に膝をついた。その床(とこ)の巌の上に、一尺ばかりの大きさに浮彫になっている二つの文字(もんじ)が現われている。それこそDとF!
 DとF!例の暗号の紙切に現われているDとF!忘れもしない第四行目にあるDとFではないか。
 少年はまた嶮(けわ)しい道を降りていった。その時一人の羊飼がたくさんの羊を連れて帰っていく姿を見て、その方に駆けていった。
「ね、君、あの、ほらあそこに見える洞穴(ほらあな)ね、あれは何という名前ですか。」
 少年は唇が慄えてはっきりといえないほどであった。羊飼はちょっと吃驚(びっくり)したが、
「ああ、あの洞穴(ほらあな)は、このエトルタのものはみんな令嬢室(ドモアゼルむろ)と呼んでるだあ。」
 少年は飛び上ってしまった。令嬢室(ドモアゼルむろ)、令嬢(ドモアゼル)、ああ、紙切の暗号の中から見つけた言葉はこれであったのか!
 少年はまた巌の上にのぼっていった。少年は突然地にはらばってしまった。ルパンの部下が見つけでもしたら少年の身体は無事ではいないだろう。少年ははらばいながら岬の端(はじ)へ出て下を覗き込んだ。少年のすぐ眼の下に底の知れない蒼海(あおうみ)の真只中(まっただなか)から、空中につっ立っている一つの大きな大きな巌がある。高さが四十間以上もあり巨大な針のように上の方へ行き、次第にだんだん細くなっている有様は、ちょうど大怪物の牙のようである。ああ針の形をした奇巌城はついに発見された。
 太陽がちょうど海に沈もうとしている。ボートルレは喜びのために死にそうな気がした。――見よ見よ「エイギュイユ」の頂きの方から一筋の煙が洩れている。人が住んでいるのだ。その白糸のような一筋の煙は渦を巻きながら、夕照(ゆうばえ)の空に静かに上っていく。

            神秘の扉

 この奇巌城こそ、仏蘭西(フランス)国家のすべての宝物(ほうもつ)の蔵であり、また唯(ゆい)一つの隠れ場所である。
 ルパンはこの宝物(ほうもつ)と隠れ場所を知っていたからこそ、いかなる仕業もやり遂げたのである。このエイギュイユの巌の中は空になっているに違いない(空の針)である。紙切の謎は解かれた。
 一行目は エトルタの下手
 二行目は 令嬢室(ドモアゼルむろ)
 三行目は フレオッセの砦の下
 五行目は エイギュイユ・クリューズ
 しかし四行目は他の行と違っている。この行がきっと入(はい)り口を教えてあるものに違いない。
  DDF 19F+44357
 四行目はこうなっている。少年は洞穴(ほらあな)へ出掛けて種々(いろいろ)と方法をやってみた。
 少年は考えついて洞穴(ほらあな)のDとFの字に両足をまたがってみた。暗号文字のDとFの上に線が引いてあるのはこれに違いない。少年はそれから十九という長さだけの紐をつくって、それを令嬢室(ドモアゼルむろ)の壁に張りながら歩いていった。すると紐の終りの所の壁に、あったあった浮彫にした十字があった。19F+の暗号の文字はこれで分った。
 少年は慄える手でその十字を握り、ハンドルを廻すように廻してみた。煉瓦が少し持ち上った。占め!、もう一度力を込めて廻したがそれきり動かない。今度は上から力いっぱい圧してみた。と突然がたんと音がして、見る間に右手の壁がぐらりと廻って、魔の口を開いたように暗黒な入口が開けた。
 少年はふらふらと気が遠くなるようだった。少年はよろめきながら外へ出た。
 少年は警察へこれまでのことを手紙で知らせてやり、誰かに来てくれるように頼んだ。
 その返事を待つ間、少年は令嬢室(ドモアゼルむろ)で二夜をすごした。それは実に恐ろしかった。今にも誰か来て自分を刺し殺すんではないだろうかと。
 初めの夜は何事もなかった。次の夜のことである。少年はじっと身を堅くした。例の煉瓦の扉が音もなく開いて、その闇の中から黒い影が現われた。少年は数えた、三人、四人、五人……
 五人の男はそれぞれ大きな荷物を抱えていた。彼らはルアーブルの方へ行く道を進んでいった。まもなく向うで自動車に乗ったらしく、音がしてそれが遠去(とおざ)かっていく。少年は洞穴(ほらあな)を出てこれを見届けたが、引き返そうとしてはっとして樹蔭(こかげ)に隠れた。またも五人の男が荷物を持って出てきた。そしてやはり自動車で走り去った。
 少年は[#「少年は」は底本では「年少は」]恐ろしくなったのでその夜は宿へ帰った。翌朝(よくちょう)ガニマール探偵がやってきた。少年は大喜びで探偵を迎えた。ガニマールは少年のこれまでの働きを褒めた。
 二人はルパンを捕えることを相談した。ガニマールは奇巌城の中へ突撃して、もしルパンがその中にいなかったら、いつか来た時を見張っていて捕まえようといった。
「もしいたら、海からボートに乗って逃げるでしょう。」とボートルレはいった。
「こっちだって十二三艘の漁船を雇って、それに一人ずつ部下を乗り込ませておいて捕まえるさ。」
「ルパンのことだから、その漁船の間だってついと逃げてしまうかもしれません。」
「その時は大砲で沈めてしまうばかりだ。」
「大砲を用意するんですか。」
「そう、水雷艇(すいらいてい)が私の電報一本で、すぐ応援に来てくれることになっている。」

            水雷艇

 次の日になった。二人は約束の時間に逢った。二人とも平気な風を装おっていたが、顔色は真蒼であった。
 まわりにたくさんの警官を見張りさせ、海には十二艘の漁船が待ち受けた。ガニマールとボートルレは十人ばかりの部下を引き連れて、どやどやと洞穴(ほらあな)に入った。ボートルレは例の十字を押した。するとがたっと音がしてこの前のように開いた。
 懐中電灯で照(てら)してみると、中に階段が現われた。ボートルレがその階段を降りながら数えると、四十五段あった。
「畜生!」と先へ進んでいったガニマールが叫んで立ち止まった。一枚の頑丈な扉があって先へ行かれない。少年は暗号の紙切を出した。それには左の端(はじ)に点のある三角形が書いてある。扉を調べると、三角形の鉄の小板(こいた)が四隅にある。そしてその板には大きな釘が打ちつけてある。左の端(はじ)の小板の釘を動かしてみたが、それは違うのか、扉は開かない。少年は数字の44というのに気づいた。自分たちが今立っているのは四十五段目である。少年は探偵に注意して一段後戻りさせて、また前のように三角形の小板の釘を動かした。
 果して重い鉄の扉はぎーと開いた。洞穴(ほらあな)の中に一筋の明(あか)りが差し込んでいる。それは巌の裂目(さけめ)で、そこへ近づいてみると、傍(かたわら)につっ立っている奇巌城が見える。ガニマールは指(ゆびさ)していった。
「ほら!ずっと沖の向うに黒い物が見えるだろう。あれが水雷艇だ。あれがあるんだもの、ルパンの奴逃げ出したが最後、海へ沈み込まれてしまうのさ。」

            意外の招待

 次にまた階段があった。三百五十八段であった。そこにも鉄の扉があって三角形の鉄板が四隅にあった。それは前の方法で難なく開いた。次はたいそう長いトンネルである。天井に吊(つ)るされたランプが薄暗く、中を照らしている。壁はしっとりと濡れてぼたぼたと水が落ちる。おおかた今は海の底を歩いているのであろう。広い洞穴(ほらあな)のところへ出て、それから上へのぼる段があった。
「いよいよエイギュイユへのぼり始めるのだな。」とガニマールがいった。その時一人の部下が、
「こっちにも段があります。」
「ははあ、こっちからのぼれば、こっちから逃げる考えだな。」
 みんなはそこで迷ってしまった。しかし別れて進むのは、みんなの力が弱くなるというので、先に一人だけ調べに行くことになった。
「僕が行きましょう。」とボートルレがいった。
「では、頼む。もしこっちの段から逃げてきたらここで捕まえるから。もし変ったことがあったら知らせたまえ。」
 ボートルレは一人でのぼっていった。段は三十段あった。上に普通の木の扉がある。それはすぐそのまま開いた。
 中の室はなかなか広くて、たくさんの荷物がおいてある。机や椅子や戸棚が、乱暴に投げ込んであるばかりだ。そこにまた左右に段がある。少年は探偵に知らせようかと思ったが、そのまま上へのぼり始めた。三十段あった。扉がある。下の室より小さい。また三十段階段がある。扉がある。今度はまた室が小さくなっている。
 少年は、奇巌城の中の有様を見ることが出来た。奇巌城は先へ行くほど尖っているから、室がだんだん小さくなるのだ。四番目の室はもう電灯も点いていない。穴から見ると、眼の下十米(メートル)ばかりの所に蒼い海が見える。少年は初めて、ガニマール探偵たちと遠去かったことに気づいて心細くなった。もう今度で止そうと思ってまた次の階段をのぼった。そして恐る恐る扉を開けた。この室は他の室とは違っている。壁には肘掛(ひじかけ)の布(きれ)があり、床(とこ)には絨氈が敷いてある。立派な食器を入れた二つの大きな戸棚がおかれ、外へ突き出た巌の裂目には硝子を[#「硝子を」は底本では「消子を」]嵌めて、小さい窓が出来ている。
 室の真中に、美しい食卓があって、レースの卓子(テーブル)掛が掛けてあり、その上には、果物皿や、菓子皿や、お酒の壜や、眼も覚めるような美しい盛花(もりばな)などがおいてある。そしてそこには三人分の皿がおいてある。少年が近づいてみると、その坐る場所に名前を書いた札がおいてある。
 初めのを読むと、「アルセーヌ・ルパン。」
 それと向き合って、「アルセーヌ・ルパン夫人。」
 三人目のを見ると少年はあ!と驚いて飛び上った。驚いたのも無理はない。その名前は、
「イジドール・ボートルレ君!」

            意外、意外、現われたその人は

 その時、さっとカーテンが開かれた。
「やあ、こんにちはボートルレ君、たいへん遅いじゃないか。お昼に一緒に御飯を食べようと思って待っていたんだよ。おや、君はなぜ僕ばかり見ているんだよ。」
 ルパンとの闘いの間にはもう幾度となく驚かされているので、いよいよ最後にはどんなことが起るかと覚悟はしていたものの、これはまた意外にも意外、余りに思い掛けないことである。
 少年の眼の前に現われた人、その人は他ならぬバルメラ男爵ではないか。バルメラ男爵!かのクリューズ県のエイギュイユ城の持主(もちぬし)であったバルメラ男爵!、少年が父を救い出すために力を貸してもらったバルメラ男爵!、その城へルパンを捕えに警察の者を案内したバルメラ男爵!
「あなたが……あなたが……じゃああなたなんですか!」とボートルレはおろおろ声。
「そうさ、今度こそ本物のアルセーヌ・ルパン、どうぞよく見てくれたまえ。」
「では、あの令嬢は?」
「そうそう、たしかにそうだ。」とルパンはまたカーテンを開けて合図をした。すると出てきた夫人は、
「アルセーヌ・ルパン夫人!」
「あ!、レイモンド嬢。」と少年は口もきけない。
「いやルパン夫人だよ。バルメラ夫人でもよろしいがね。立派に結婚式を挙げた我輩の妻だ。それもボートルレ君、君のおかげだよ。」
と、ルパンは少年の前に手を差し出した。
 少年はこの時不思議に、何の腹立ちも起らなかった。少年はルパンの偉さに感心してしまった。二人は親しげに手を繋ぎ合った。給仕が食事の仕度が出来たといってきた。三人は食事をし始めた。少年がレイモンド嬢を見ると、彼女はすっかりルパンを信じ、頼っている。しかし何事か心配しているようだ。下にガニマールが来ているのも知らぬげにと、種々(いろいろ)話していたルパンは、ふと彼女の心配げな顔を見て話を途中で切った。
「ね、下に何か音がしますわね、聞えるでしょう。」
「何、何でもないよ。浪の音だよ。」
「いいえ、違いますわ、あの音は。」
「違っても構わないよ。」とルパンは笑った。そして給仕に向って、「おい、お客様のいらしったあとの扉は、ちゃんと閉めておいたろうね。」
「はい、ちゃんと閂(かんぬき)まで掛けておきました、」ルパンは立ち上った。そして何事か夫人に耳打ちして、給仕と一緒にあのカーテンの影から、夫人を出ていかせた。
            山なす宝
 下の方の音は次第に大きくなってくる。ボートルレは心の中で、「ガニマールがとうとう待ち切れずにのぼってきたな。」と思った。ルパンは平気に落ちつき払って、下の騒ぎなど聞えないか[#「聞えないか」は底本では「聞えなかい」]のように語りつづけた。
「我輩がこの城を発見した時は、そりゃ荒れ果てて、とてもひどかったのだよ。それを修繕するのにはずいぶん骨が折れたよ。」
 叩く音は次第に激しくなった。ガニマールは第一の扉を打ち破り、第二の扉に掛ったらしい。それがしばらくして止むと、いっそう近くでまた叩き始めた。今度は第三の扉だ。もはやあと二つしか残っていない。
「実に喧(やかま)しい!」とルパンが叫んだ。「さあ、上にのぼろうじゃないか。エイギュイユ城の見物も面白いよ。」
 二人は上へのぼった。その室にも扉がある。ルパンは扉に閂を掛けて、
「これは我輩の絵画陳列室だ。」
 壁という壁は絵で覆われている。ボートルレはその絵を見て驚いた。世界に名高い名画ばかりである。それはみんな偽物とおき代えて、ルパンがここへ持ってきた物ばかりなのだ。
「いつかは偽物ということが分るだろう。それらの偽物の絵の裏には、我輩の名前が書き入れてある。これがジェーブル伯爵邸にあった四枚の名画だ。」
 扉を打ち破る音が巌の中に響く。
「喧しくてたまらん。上へ行こう。」
 そこは美しい織物の室である。次は時計の室、書物の室、目まぐるしいほどの宝物(ほうもつ)ばかり積まれてある。これらの物はみんなおおかたルパンが集めた物であった。のぼるにつれて室はだんだん狭くなっていく。
「これがお終いの部屋だ。」とルパンがいった。そこはもう余り高くて誰も覗くものはないので、ちゃんと窓がこしらえてある。日の光が室いっぱい差し込んでいる。その室には王様の金の冠や、世界に二つとない宝石や、実に立派な物ばかりであった。下の音が少しずつ近くなってくる。窓から見ると漁船が盛んに活動している。水雷艇の影も見える。
 少年は口を開いて、
「それでは仏王に伝わった宝物(ほうもつ)は?」
「ああ、君はそれが知りたいんだね。」
と、いって足をあげて床をどんと蹴る。すると床の一部が跳ね返った。それを引き上げると穴がある、中は空虚(から)だ。またどんと蹴る。穴がある。空虚(から)だ。そして三番目もまた空虚(から)であった。

            怪侠盗の真面目(しんめんぼく)

 ルパンは嘲笑うように、
「へん、成ってやしない。もとはこの穴は空虚(から)じゃなかったんだ。ルイ十四世とルイ十五世の時、とうとうこの宝物(ほうもつ)を費(つか)っちゃったんだよ。しかし第六番目は空虚(から)じゃない。ここはまだ誰も手をつけていない。見たまえ!ボートルレ君。」
 と、いいながらルパンは身を屈めて蓋を持ち上げた。穴の中に金庫がある。その金庫をルパンは鍵で開けた。
 見ると目もくらむかと思う、宝石、青い玉、紅い玉、緑色の玉、金色の玉……。
「[#「「」は底本では欠落]見たまえこの宝玉を!みんな女王たちの持ち物であったものだ。しかしボートルレ君、我がアルセーヌ・ルパンは決してこの宝石に手をつけなかった。これは仏蘭西(フランス)王家の宝物(ほうもつ)だ。これは国宝だ。我輩は決してこれを自分の物にはしなかった。」
 階下ではガニマールが急ぎに急いでいる。叩く音が近くに聞えるのから考えると、もうすぐ下に迫っている。
「我輩はこの景色のいい住家(すみか)を捨てていくのは残念だ。我輩はこの奇巌城(エイギュイユ)の頂(いただき)から全世界を掴んでいた。ほらね、その金の冠を持ち上げて見たまえ。電話が二つあるだろう。一つはパリへ、一つはロンドンへ通じている。ロンドンから、アメリカでも、アジヤでも、オーストリーでも思いのままに話が出来る。これらすべての国には我輩の事務所がある。我輩は実に魔法の国の王であった。」
 すぐ下の扉が破られて、ガニマールとその部下が探し廻っている音がする。ルパンはつづける。
「だが我輩は、レイモンド嬢と結婚してから、すべて今までの生活は捨てようと決心した。君がいつか令嬢室(ドモアゼルむろ)で見た通り、部下はそれぞれ宝物(ほうもつ)を配(わ)けて逃がしてやった。」
 ガニマールが階段を駆け上って、どんと扉を打ち始めた、今は一番お終いの扉である。
「喧しい、まだ我輩の話はすまない!」
 扉を叩く音はますます激しくなった。ルパンはどこへ逃げるつもりだろう?レイモンド嬢はどこへ行ったろう?
「ルパンは、もはや盗みをしない、正直な人間となって、静かに日を暮す考えなのだ。」
 ルパンはそういって、赤色の白墨で壁に大きく字を書き始めた。
「アルセーヌ・ルパンは、エイギュイユ・クリューズの中の宝物(ほうもつ)を、全部仏蘭西(フランス)国家に贈る。」

            壮烈な肉迫戦

「ああ、これで我輩は安心した。」
 この時扉の板が破れて、にゅーっと一本の腕が出て、鍵を開けようとする。
「畜生!喧しい、も少し静かにしろ。ところでボートルレ君にもお暇乞(いとまごい)をしよう。君はなかなか偉い、とうとうここまで発見したんだからね……」
 ルパンはそういいながら油絵の右の端(はし)を開くと、小さな戸が現われた。ルパンはその握りを押えながら、
「御苦労々々々ガニマール君、お忙しいところを御苦労!」
 どん!と銃声が響いた。ルパンはすぐ身を引いて、
「あははは、大(おお)べら棒!」
「御用だ!ルパン、神妙にしろ!」
 扉はぐらぐらと揺れている。ルパンはガニマールの扉の方にいるので撃つことが出来ない。ガニマールは呶鳴った。
「ボートルレ君、加勢だ!構わん、撃て!」
 ボートルレはどうすればいいか分らなかった。しかし今となっては撃たなければならないのだろう。少年はピストルをとり上げた。その時いきなりルパンは駆けてきて、少年の身体を軽々と持ち上げた。そして少年の身体を楯にしてその後(うしろ)に自分の身を隠した。
「ほら、こうして逃げますよ。ルパンはいつもちゃんと逃げ道があるんだ、はいさようなら……」
 ルパンは素早く少年の身体を抱えたまま、油絵の陰に入って戸を閉めた。恐ろしく急な坂が眼の前にある。ルパンはボートルレを前に押しやるようにしながら、その坂を駆け降り始めた。
「さあ、陸の方は打ち破った。急いで逃げるんだ逃げるんだ……」
 二人はまるで転がるように坂を駆け下りていく。二人は降りた。降りた。途中でルパンは立ち止まって、岩の裂目から海を覗き、
「ははあ、水雷艇の御出張、わざわざ恐れ入るね、ほう駆け出した。なかなか速いぞ。」
 二人が坂を降りると、下で人声がした。

            潜航艇で海底を逃走

 一箇の人影が飛び出してきた。
「早く、早く、私、ずいぶん心配しましたわ。何していらっしたの?」
「何大丈夫だよ、船は用意したかい?」
「はい、用意してあります。」と部下が答えた。
「じゃあ、出発だ。」
 そこへまもなく船の来る音がした。ボートルレがよく暗(やみ)をすかして見ると、そこはちょうど船着場のようになっている。三人は乗り込んだ。
「よし、出発だ!」とルパンは部下へ合図した。船はすっかり蓋が閉じられた。それは海の底を走る潜航艇である。
 艇は海の底を辷(すべ)るように走る。海草がゆらゆらと動く、長い黒い影がさっと通った。
「あれは水雷艇だ、大砲の音が聞えるぜ。」
 船は矢のように走る。おおかたの魚(うお)は驚いて逃げてしまうが、中には傍へ寄ってきて、硝子のところからぎょろりとした眼玉で覗く奴もある。
「やあ、こいつは面白いや、まるで海底見物だ!」

            魔の黒雲

 艇はもう大丈夫だと思って上へのぼり始めた。そしてドイエップから少し離れた一つの小さな湾へ来てから、静かに浮び上った。
「ルパン湾!」とルパンが叫んだ。
 ルパンは少年とレイモンドを助けながら上陸させ、部下にはエイギュイユ城へ様子を見にやった。ルパンはいった。
「ボートルレ君、我輩はここで農園を開いて、妻と母と共に、バルメラに成りすまして、平和な生活を送ろうと思うのです。紳士強盗はもはや死んだ。紳士百姓として生きるんだ。」
 ルパンには始終つきそっているヴィクトワールという乳母があった。ルパンはその乳母をいつも母と呼んでいたのであった。
 一人の男が向うから来て、叮嚀におじぎをしながら、怪しい英国人がこの町をうろついていたと告げた。
「ショルムスじゃないかな、もしそうだとすると、少し危いぞ、先生まだ怒っている最中だから。」
 少し歩いていくと向うに建物が見え始めた。ルパンがこれから平和な生活を送ろうとする家であろう。その時一人の女が息を切って駆けてくる。
「あら、何か起ったのよ。」とレイモンドが叫んだ。
「何だ、何か起ったのか。」
「男が、今朝の英国の男が来て、……あなたのお母様を……」
 その時あれ!という声がした。レイモンドは苦しげに声を絞って、
「あら!お母様よ……」

            血の雨、血の涙

 ルパンはふとレイモンドに飛び掛るようにして引き立てながら、
「おいで、逃げよう……お前真先に……」
 が、ルパンはすぐ立ち止まった。
「いや、そうは出来ぬ、ちょっと待ってくれ。母が可哀想だ。レイモンド、ここにいてくれ。ボートルレ君、あとを頼む。」
 一人の男が先頭で、その後に二人の男が老婦人を曳いてくる。老婦人は救いを求めている。
 その先頭の男はショルムスであった。老婦人はもう髪の毛は真白(まっしろ)であった。顔色が真蒼である。
 四人は近づいてくる。
 その時、つかつかと現われたルパンはぴたりとその行手に立ち塞がった。
 怪人と巨人!それは物凄い有様である。二人は眼と眼で睨み合った。どちらも動かない。
 ルパンは恐ろしいほど落ちついて口を切る。
「その婦人を放せ!」
「ならん!」
 そのまま二人はまたしばらく睨み合っている。レイモンドはそれを見て、気が狂いそうに心配する。その腕をボートルレはしっかりと押えている。
 しばらくしてまたルパンが繰り返した。
「その婦人を放せ!」
「ならん!」
 もう仕方がない、ルパンはポケットに手を入れてピストルを掴んだ。その時早く、ショルムスもまたピストルをルパンの眼の前に突きつけた。その時ふとショルムスは、傍に立っているレイモンドの姿を見てはっとした。
 この油断を見たルパンは、手をあげたと思うと、撃(ぶ)っ放した。
「しまった!」と叫んだ。ショルムスは腕を撃たれてどっと倒れながら、部下に向って叫んだ。
「撃て!撃て!、あいつを撃ち殺せ!」
 ルパンはその時早くも二人に向ってピストルを撃った。一人は胸を、一人は顋(あご)をくだかれて倒れた。
「さあ、ショルムス、貴様と俺との闘いだ!」
と、いい切らぬうちに、ぱっと身を屈めた。
「あ!畜生!」
 ショルムスが左手にピストルを握って撃ったのだ。
 どんと一発……あ!という声、レイモンドはよろよろと倒れ掛ったが、血の迸(ほと)ばしる喉を押えつつ、ルパンの方に身体を廻して、ルパンの足元に倒れた。
「レイモンド!レイモンド!」
 ルパンは、彼女を両腕に抱き上げたが、
「死んだ!」と一声……。
 ショルムスも今は自分の過(あやま)った手元に困ったような顔をしている。
「うぬ!畜生!」とルパンはショルムスに飛びついて咽喉(のど)を絞(し)め上げた。ショルムスは苦しさに身をもがくばかり。
「まあ、そんな手荒なことを。」と老婦人はうろうろする。ボートルレも驚いて走り寄る。
 この時ルパンは相手から手を放し、その傍に突伏(つっぷ)して、息も絶え絶えに声を呑んで男泣きに泣いた。
 ああ、とうとう悲劇は来た。
 巨人ルパンがすべてを捨てて、平和に日を送ろうという望みは破られて[#「破られて」は底本では「破らてれ」]しまった。
 まもなくルパンは起き上り、死んだレイモンドを軽々と背に負うた。
「行こう!ヴィクトワール。」
「行きましょう。」と老婆がそれに従う。
「さようなら、ボートルレ君!」
 ルパンと乳母の姿は海岸の方へ寂しく消えていった。
(おわり)



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