奇巌城
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:ルブランモーリス 

        一 夜半の銃声
            懐中電灯の曲物

 レイモンドはふと聞き耳をたてた。再び聞(きこ)ゆる怪しい物音は、寝静(ねしずま)った真夜中の深い闇の静けさを破ってどこからともなく聞えてきた。しかしその物音は近いのか遠いのか分(わか)らないほどかすかであって、この広い屋敷の壁の中から響くのか、または真暗(まっくら)な庭の木立の奥から聞えてくるのか、それさえも分らない。
 彼女はそっと寝床から起き上(あが)って、半分開いてあった窓の戸を押し開いた。蒼白い月の光は、静かな芝草の上や叢(くさむら)の上に流れていた。その叢の蔭の方には、古い僧院の崩れた跡があって、浮彫の円柱や、壊れた門や、壊れた廻り廊下や、破れた窓などが悲惨な姿をまざまざと露(あら)わしていた。夜のかすかな風が向うの森の方から静かに吹いてきた。
 と、またも怪しい物音……それは下の二階の左手にある客間から響くらしい。
 レイモンドは勇気のある少女であったが、何となく恐ろしくなってきた。彼女は寝衣(ねまき)の上に上着をまとった。
「レイモンドさん!レイモンドさん!」
 境の戸の閉めてない隣りの室から、細くかすかな声が聞えたので、レイモンドはその方へ探り探り行こうとすると、従妹のシュザンヌが室から出てきて腕に取り縋(すが)った。
「レイモンドさん……あなたなの?あなたも聞いて!」
「ええ……あなたも目を覚ましたのね!」
「私、きっと犬の声で起きたのよ……もうしばらくしてよ。けれどももう犬は鳴かないわね……今何時でしょう?」
「四時頃だわ。」
「あら! お聞きなさい。誰か客間を歩いているようよ。」
「でも大丈夫よ、お父様が階下(した)にいるんですもの、シュザンヌさん。」
「でもかえってお父様が心配だわ。」
「ドバルさんが一緒にいらしってよ。」
「でもドバルさんはあっちの端(はじ)よ、どうして聞えるものですか。」
 二人の少女はどうすればいいのか迷ってしまった。声を上げて救いを呼ぼうかと思ったが、自分らの声を立てるのさえ恐ろしくて出来なかった。窓の方へ近づいたシュザンヌは喉まで出た声をかみしめて、
「ごらんなさい…… 噴水の脇の男を!」
 なるほど、一人の男が何やら大きな包を小脇に抱えて、それが足の邪魔になるのを払い払い、足早に走っていく。曲者は古い礼拝堂の方へ走って土塀の間にある小門(こもん)の蔭に消えてしまった。その戸は開けてあったと見えて、いつものように戸の開く音がしなかった。
「きっと客間から出てきたのよ。」とシュザンヌが囁いた。
「いいえ、違うわ。客間の方からならもっと左の方に現(あら)われなければならないはずよ、でなければ……」
と、いいながら二人はふと気づいて窓から見下(みおろ)すと、一挺の梯子(はしご)が階下の二階に立て掛けてあった。そしてまた一人やはり何か抱えた男が梯子を伝い降り、前と同じ道を逃げていくのだった。シュザンヌは驚いてよろよろと膝をつきながら、
「呼びましょう……救(たす)けを呼びましょう。」
「誰が来てくれるかしら、お父様には聞えるわね……だけどもしまだ他の泥棒でもいて、……お父様に飛びついたら……」
「でも……下男を呼びましょう……呼鈴(よびりん)が下男部屋に通じているわよ。」
「そうよ……それはいい考(かんがえ)だわ……でもいい工合(ぐあい)に来てくれればいいわね。」
 レイモンドは寝床の側(そば)の呼鈴を強く押した。……りりっりんりりっりん……と下男部屋の方に鳴った鈴(りん)の音が、しーんとした家の中に響き渡った。二人の少女は抱き合って息をひそめた。あとはまた元の静けさに返って、その静けさは実に恐ろしい。
「私恐いわ……恐いわ。」とシュザンヌは繰り返した。
 その時突然階下の暗闇の中から、にわかに人の格闘する物音が聞えてきた。つづいて物の倒れる音、罵る音、叫ぶ声、最後に喉でも突き刺されたような恐ろしい、物凄い、荒々しい悲鳴、唸声(うなりごえ)がする。
 レイモンドは戸の方に飛んだ。シュザンヌは泣き叫んでその腕に取り縋った。
「いやよ……いやよ……残していってはいやよ。」
 レイモンドは彼女を押し退けて廊下へ飛び出した。シュザンヌもそのあとから泣き声を上げつつよろよろと転ぶように走った。レイモンドは梯子を駆け降りて、大きな客間へ駆け込むと同時に、敷居際に釘づけにされたようにぴたりと立ち止(どま)った。シュザンヌもやっと駆けつけてきた。すぐ目の前に、懐中電灯を持った一人の男が突立(つった)っていた。その男はさっと眼のくらむような強い電灯の光を二人の少女に浴(あび)せかけて、長い間彼女たちの蒼白い顔を眺めていたが、実に悠々と落(おち)つき払って、帽子をかぶり、紙切(かみきれ)と二本の藁くずとを拾い、絨緞(じゅうたん)の上についた足跡を消して露台に近づき、再び少女たちの方を振り向いて丁寧に頭を下げ、つとそのまま姿を消した。
 真先(まっさき)にシュザンヌは父の寝ている客間につづいた小さな書斎へ走った。しかしそこへ入るか入らないうちに恐ろしい光景が、眼の前に現われた。斜めに差している月の光に照らされて、二人の男が並んで倒れている。彼女は一方の死骸に取り縋って、
「お父様!……お父様……、どうなすったのお父様!……」と声を限りに叫んだ。
 ようやくするとジェーブル伯爵は少し身体(からだ)を動かした。そして途切れ途切れの声で、
「心配するな……俺は怪我はせぬ……だがドバルは?ドバルは生きているか? 短剣は?……短剣は?……」

            遺留品は皮帽子一個

 この時二人の下男が手燭(てあかり)を持って駆けつけた。レイモンドがも一人の倒れている男を見ると、それは伯爵の信用していた家令(かれい)のジャン・ドバルであった。顔は蒼ざめてもう息が絶えているようであった。レイモンドはつと立ち上って客間へ戻り、壁に掛けてあった一挺の小銃を取るより早く露台へ走った。曲者が梯子に片足を掛けてから、まだたしかに五六十秒しか経っていない、曲者はまだ遠くへ行かないはずである。果(はた)して彼女は古い僧院の裾を廻って逃げる曲者の影を認めた。レイモンドは小銃を肩に当て、静かに的を定めてどんと一発放った。曲者は倒れた。
「占めた!もうあいつは捕まえたぞ、私が降りてまいりましょう。」と下男の一人が勇み立った。
「あれ、ビクトール、また起き上ったよ。……お前はすぐ壁の小門へ駆けておいで、あの小門より他に逃げ道はないんだから。」
 ビクトールは急いで駆けていったが、彼がまだ庭へ出ないうちに曲者は再び倒れた。レイモンドはも一人の下男に見張りをしているようにいいつけて、自分は再び銃を取り上げて、下男の留めるのも構わずそのまま出ていった。アルベールという見張りをしていた下男は、レイモンドが僧院の本院について曲がるのを見た。そしてまもなくその姿が見えなくなった。五六分経っても彼女の姿が見えないのでアルベールは心配し出した。彼は曲者が倒れたところから目を放たぬようにしながら、梯子を伝って降りていった。そして大急ぎで曲者が最後に姿を見せた場所へ走った。彼はそこでちょうどビクトールを連れて曲者を探しているレイモンドと行き逢った。
「どうしました?」
「とても泥棒を捕まえることが出来ない。」とビクトールが答えた。「俺はちゃんと小門を閉めて鍵を掛けてしまったんだがなあ。」
「他に逃げ道はないのにおかしいなあ。」
「ええ、本当にそうよ。十分も経てばきっと泥棒を捕まえてよ。」とレイモンドもいった。
「この僧院から逃げ出せるはずはないんだから、きっとどこかの穴の隅っこに隠れているに相違ない。」とアルベールがいった。
 小銃の声を聞いて農夫の親子が駆けつけた。その農夫たちの家もやはり土塀の中にあったが、彼らも何人(なんびと)の姿も見なかった。それからみんなは叢という叢を掻き□したり、円柱にからみついている蔓草を引き□(むし)った。礼拝堂(らいはいどう)の扉も調べたがみんな錠が掛(かか)っており、一枚の窓硝子も壊れていなかった。僧院の隅から隅までとり調べたが、猫の子一疋(ぴき)も出なかった。けれどもただ一つ見つけたものがあった、レイモンドに撃たれて曲者が倒れた場所で、自動車の運転手がかぶるたいへん柔(やわら)かな皮帽子を拾った。その他には何一つ無かった。
 翌朝(よくちょう)六時に近所の警察署の警部が駆けつけてきてとり調べた。警部は早速本署へ宛て、犯人の皮帽子と短劒(たんけん)一振(ふり)を発見したから、至急強盗[#「強盗」は底本では「盗強」]首領は捕まえる必要があると報告した。
 十時には検事と、判事と判事の書記と三人を乗せた馬車と、ルーアン新聞の若い記者とある新聞の青年記者を乗せた馬車と、都合二台の馬車がこの邸(やしき)へ着いた。
 この邸は昔アンブルメディの僧侶が住んでいた所であって、仏蘭西(フランス)大革命の戦争の時ひどく破壊されたのを、ジェーブル伯爵が買って手入(ていれ)をしてから二十年も経っている。建物は時計塔の立っている本院一棟とその左右に出張っている二つの建物二棟からから成り立っていて、その周囲には石の欄干が取りつけてある立派なものであった。庭の土塀を越して遥か彼方に、サントマルグリット村とヴァランジュヴィル村との間から、美しい蒼い海が遠く水平線まで見えている。ここにジェーブル伯爵は優しい令嬢シュザンヌと、二年前に両親に死に別れた姪のレイモンドを連れて楽しく平和な生活をつづけていた。伯爵は書記のドバルと二人で、たくさんの財産や地面を監督していたのであった。
 判事は邸へ着くとすぐ種々(いろいろ)調べて廻った。二階の客間へ行くと皆はすぐに、客間は少しも乱れていないことに気がついた。そこは何一つ手を触れたらしい跡もなかった。左右の壁には立派な美しい絨氈(じゅうたん)が掛っており、奥の方には枠入(わくいり)の見事な絵が四個掛っていた。これは有名なある画家の画(か)いた名高い絵であって、伯爵が叔父にあたる西班牙(スペイン)の貴族ボバドイラ侯爵から伝えられたものである。判事がまず口を開いて、
「犯人は強盗が目的であったとしても、この客間を狙ったのではないらしいですね。」
「いや、そうはいわれません。」と検事がいった。「強盗の第一の目的はこの有名な絵を盗み出すことにあったと思います。」
「それではその時間がなかったのですな。」
「この点を我々は十分調べてみようとしているのです。」

            負傷犯人の行方は?

 この時ジェーブル伯爵が出てきて機嫌よく二人の裁判官を迎え客間の次の扉を開けた。この書斎はドバルが殺されてからまだ医者の他何人も入らなかった場所である。室内は大混雑をしていた。二脚の椅子は引(ひっ)くり返り、卓子(テーブル)は壊れ、その他置時計や文具箱などはみんな床(とこ)の上に散らばり、あたりに飛び散っている白紙にはそこここに血潮が垂れていた。医者は死体にかぶせてあった敷布をとり除けた。家令のドバルは平素(いつも)着ているビロードの服を着、長靴を履いたまま、片手を下にして上向(うわむき)に倒れていた。カラーをとりシャツを開けば、胸部に物凄いほど大きな傷が鮮血に染(そま)って現われた。
「短劒でぐさっと一突き、それで殺(や)られたのです。」
「ああ、客間のストーブの上に、皮帽子と並べておいてあった短劒ですね?」と判事が言った。
「そうです。この短劒はここで拾い上げたのです。」と伯爵はいった。
 判事は室内をなお十分調べてから、伯爵に向(むか)って伯爵が見たことや知っていることを尋ねた。
「私はドバルに起(おこ)されたのです。ドバルは手燭(てあかり)を持って、ごらんのように昼間の仕度のままで私の寝台の傍(かたわら)に立っていたんです。もっともドバルは時々夜更(よふか)しをする癖があったのですがね。ドバルはたいへん気が立っている様子で、小声で「客間に誰か来ている。」というじゃありませんか。なるほど私にも音が聞える。すぐ床から起きてそっとこの廊下(ろうか)[#「廊下」は底本では「廓下」]の戸を開けると、その時あの大広間の境になっている戸がさっと開いて一人の男が現われ、そいつが私に飛びつくや否や、いきなり私の眉間を殴りつけたので私はそのまま気絶してしまったのです。それですから私はその他のことは何にも知らないのです。初めて気がついてみるとドバルがこの通り殺されて倒れていました。」
「あなたはその男を御存知ですか?」
「いいえ、少しも見覚えがありません。」
「ドバルは人に恨まれているようなことはありませんか。」
「ドバルですか、仇敵(かたき)ですか? いやあれは実に立派な人間です。二十年この方私の宅にいて正直な男でした。」
「そうするとやはり盗むつもりで忍び込んだのですね。」
「そうです。泥棒です。」
「すると何か盗まれましたか。」
「いえ、何も。しかし私の娘と姪が、二人の曲者が邸園(ていえん)を逃げる時、大きな包(つつみ)を持っているのをたしかに見たのですから。」
「では二人のお嬢さんにお聞きしましょう。」
 令嬢二人は客間に呼ばれた。シュザンヌはまだ顔色も蒼ざめていたが、レイモンドは元気であった。彼女は昨夜自分のしたことを種々(いろいろ)と話した。
「邸園を横切った二人の男は、たしかに大きな包を下げていました。」
「では三番目の男は?」
「何も持っていませんでした。」
「どんな男でしたか?」
「何しろ懐中電灯の光で眼がくらんでいてよく分りませんでしたが、肥って背(せい)の高い男のようでした。」
「あなたにもそう見えましたか?お嬢さん。」と判事はシュザンヌに尋ねた。
「はい……いいえ、あの、」とシュザンヌは考えながら「私には中背で痩せすぎであったように思います。」
 判事はなおも犯人の逃げた道筋について、下男たちも呼んでくわしく調べた。調べる時二名の新聞記者も、農夫親子も、邸内(ていない)[#「邸内」は底本では「庭内」]の人々もその場にい合わせた。判事たちを乗せてきた馭者たちも来ていた。犯人はどうしても邸内から外へ逃げ出すわけはないということになった。その時判事はストーブの上にあった皮帽子をとり上げて、これを調べていたが、警部を呼んで小声で、
「おい、警部、君の部下をすぐバール町のメイグレ帽子店にやって調べさせてくれたまえ、この帽子を買った人間を覚えているだろうから。」

            馭者の残した強迫状

 踏みにじられた草の中に賊の通った跡が判然と分った。黒ずんだ血の塊が二個所ばかりで発見せられた。円柱の角を曲がるとそこは僧院の奥の方で、何事もないらしく、杉葉の散った土の上には身を引きずったような跡もなかった。そんなら傷ついた曲者はどうして令嬢やアルベールやヴィクトールの眼から逃れ去ったのだろうか?巡査や下男たちが藪(やぶ)を分けて探したり、五つ六つある墓石の下を探ったりしたがやっぱり何事もなかった。
 判事は鍵を預(あずか)っている庭番に命じて礼拝堂の扉を開けさせた。その礼拝堂というのは昔から崇められたものでそこにある立派な彫刻の人物などは宝物(ほうもつ)であった。しかしその礼拝堂の中には別に隠れ家もなく、またここへ入るならばどんな方法で入るか?
 それから例の小門を調べたが、判事はそこで自動車のタイヤの跡がまざまざと残っているのを見た。
「ははあ、負傷した曲者はここで仲間の者と一緒になって逃げたんだな。」
「それや出来ません。」とヴィクトールが叫んだ。
「私が見張りしているのに逃げられるはずはないのです。たしかに曲者はここにいます。」と下男は頑張っている。
 判事は暗い顔をして邸へ引き返した。たしかに事件は面白くない、強盗が入って何も盗まれていない。犯人はたしかに内にいて、それが行方不明になっている。
 そのうちに帽子屋へやられた巡査が帰ってきた。
「どうだい、帽子屋に逢ってきたかい?」と判事は待ちかねて叫んだ。
「はい、私は主人に逢いましたが、この帽子は馭者に売ったそうです。」
「馭者に?」
「はあ、何でも一人の馭者が店先に馬車を止めて、御客様が入用だから、自動車運転手用の黄色い皮帽子をくれといって、ちょうどこれが一個あったのでそれを差し出すと、馭者は大きさも調べずに、買いとって出ていったそうです。」
「それは何日だい?」
「何日?何日って今日です、今朝の八時です。」
「今朝?君は何をいっているのか?」
「この帽子は今朝売れたのです。」
「しかしこの帽子は今朝この邸園で発見されたんじゃないか。してみれば、それはとにかくその前に買われていなければならん。」
「しかし帽子屋ではたしかに今朝といっていました。」
 判事は驚いて[#「驚いて」は底本では「驚いた」]しきりに考えていたがふと飛び上って叫んだ。
「馭者だ!今朝我々を乗せてきた馭者を押(おさ)えてこい。早くとり押えてこい!」
 しかしその馭者はもういなかった。口実をつけて自転車を借りて逃げてしまったあとだった。警部はそのことを判事に報告してから、
「これがあいつの帽子と外套です。」
「帽子をかぶらずに出掛けたのか。」
「懐中(ふところ)から黄色い皮の帽子を出して被っていったそうです。」
「黄色い皮の帽子?そんなことがあるもんか、それは現にここにあるじゃないか。」
 検事が傍(かたわら)から薄笑いをしながら、
「実に面白い、帽子が二個ある……一個は我々の唯一の証拠であった真物(ほんもの)で、馭者の頭に乗って飛んでいった他の一個は偽物で、それが君の手にある。やあ!こいつは一杯喰わされたね。」
「馭者を捕まえろ!」と判事は呶鳴(どな)った。
「しかしその前に判事さん、もっと気をつけなければならないことがありますよ。まあこの紙切を読んで下さい。これは外套のポケットから出たものです。」
「外套というのは?」
「馭者の残していったものです。」
といいながら検事は四つ折にした紙を判事の前に出した。その紙切には鉛筆の走り書きがしてあった。
「もし首領(かしら)が死んだら、令嬢に仇(あだ)をするぞ。」

            怪青年記者

 この事件に一同は蒼くなった。
「伯爵」と判事は口を開いて「伯爵決して御心配なさらないで下さい。こんな脅迫(おどかし)があったって我々警察の方で十分警戒しているのですから、令嬢方も決して御心配は入りません。大丈夫です。それから今度は諸君(みなさん)のことですがね。」と判事は新聞記者に向って、「私は諸君(みなさん)方を信用して、この場に諸君(みなさん)たちがおられるのを黙っているのですが……」判事は何か思いついたらしくそのまま言葉を切ってしまって、二人の青年記者の顔を交(かわ)りばんこに見比べていたが、やがてその一人に近づいて、
「君は何という新聞社ですか、身分証明書を持っていますか。」
「ルーアン日報社です。」その記者は身分証明書を出して見せた。判事は次の記者に向って
「そして、君は?」
「僕ですか?」
「さよう、何という新聞社へ勤めているのですか?」
「そうですなあ、判事さん、僕は種々(いろいろ)な新聞に書いているんです……方々の新聞に……」
「身分証明書は?」
「持っていません。」
「すると君の姓名は、何か書類でもありますか?」
「書類なんて持っていません。」
「君は職業を証明すべき書類を持っていないのですね。」
「僕は職業ってありません。」
「すると、君は……」と判事は少し怒った声で叫んだ。「君は偽ってここへ入ってきて我々の調べることをすっかり聞いてしまって、その上姓名までいおうとしないんですね。」
「そうじゃないんです判事さん、だって僕が入ってきた時、あなたは何ともおっしゃらなかったでしょう。だから僕だって断らなかったのです。それにこの通り大勢来ているんですもの、犯人さえ来ているんですもの。」
 彼れは物静かに悠々と話している。この記者はまだ若い青年で、その顔色は少女のように薔薇色で、鼻下(びか)にはちび髯があった。しかしその眼は鋭利そうに光っていた。口元にはいつも微笑が浮かんでいた。
 判事はなお疑い深い眼で彼を睨んでいた。二人の巡査が彼の前に進んだ。青年は愉快そうに、
「判事さん。あなたは僕を犯人の中の一人だとお思いになるんですね。しかしもし僕が本当に犯人の一人なら、さっきの馭者のように、とっくに逃げてしまったでしょう。考えてみても……」
「冗談もたいていにしたまえ!君の姓名は?」
「イジドール・ボートルレです。」
「職業は?」
「ジャンソン中学校の生徒です。」
 判事は驚いたように眼を円くして、
「何、何だって?中学校の生徒……」
「ジャンソン中学です。ポンプ街[#「ポンプ街」は底本では「ボンプ街」]の……」
「おいこら、馬鹿なことをいうな!そんな戯(たわ)けたことをいってもしようがないじゃないか。」
「ですが判事さん、本当なのです。あ、この髯(ひげ)ですね。御安心下さい、これはつけ髯なのです。」
と、いいながらボートルレは鼻下につけていた髯をとって捨てると、その顔はいっそう若くいっそう薔薇色をしていて紛れもなく中学生の顔になった。
「ねえ、これで分ったでしょう?まだ証明が入りますか、じゃ父から寄越したこの手紙を読んでごらんなさい、ほらね、住所に『ジャンソン中学校寄宿舎内イジドール・ボートルレ殿』とあるでしょう。」
 判事はこれを信用したのかどうか分らないが、相変(あいかわ)らず難しい顔で、
「君は何しに来たのです。」
「僕はちょうど学校が休みなのです。僕はそれでこっちの方面を旅行しているのです。父が奨めてくれましたから。」
「つけ髯をなぜつけているのですか。」
「あ、僕たちは学校でよく探偵談をしたり、探偵小説を読んでいるもんですから、ただちょっとつけ髯をつけてみたんです。それで中学生じゃ人が信用してくれませんから新聞記者に化けたんです。一週間ばかり面白くない旅行をしていたところ、ちょうど昨晩ルーアンの友達に逢って、今朝この事件が起きたのを聞いたので、二人で馬車を雇ってきたんです。」
 ボートルレはたいへん無邪気に話すので、聞いているうちに判事はいくらか興味を持ってその言葉を聞いた。そして前よりは少し穏(おだや)かな調子で、
「ところで君はここへ来て面白いと思いますか。」
「素的ですね、実に面白いです。ね、判事さん出来事を一つ一つ集めて、だんだん事件の真相らしいものが出来上っていくのを見ていると実に愉快です。」
「真相らしいというのは、こりゃ面白い、すると君は今度の事件の真相についていくらか分りそうですか。」
「いいえ。」とボートルレは笑いながら答えた。
「ただ一つ、僕には意見をつくることが出来そうです。またそれからその他にもたいへん大切な考が出来そうです。」
「へえ、君から何か教えてもらえるかもしれんねえ、はずかしいが私にはちっとも分らない。」
「それは判事さん、あなたがまだ十分考える時間がないからですよ。僕はこうしてあなたが種々(いろいろ)調べたことから真相らしいものを考え出すんです。」
「偉い!そうするとこの客間から何か盗まれたんですか。」
「僕はちゃんと知っています。」
「なお偉い!この家の主人よりよく知っている。では犯人の名前も知っているでしょう。」
「それも知っています。」
 その場にい合わせた者は皆吃驚(びっくり)した。検事と新聞記者は椅子を進ませ、伯爵と二人の令嬢は、ボートルレの落ちつき払っているのに感心してなおも耳を傾けた。
「すると犯人の名前を知っているのですね。」
「そうです。」
「また隠れている場所も知っているでしょうね?」
「そうです。」
 判事は揉手(もみて)をしながら、
「それは幸(さいわい)だ、で、君はその驚くべき考(かんがえ)を私に話してくれるでしょうね。」
「今からでも出来ます。」
 この時、始めからボートルレの様子をじっと見詰めていたレイモンドがつと判事の前に進み出た。
「判事様……」
「何ですかお嬢さん。」
 彼女はしばらく考えてなおボートルレの顔を見つめていたが判事に向って、
「あの判事様、私は昨日この方が小門の前の道をぶらぶら歩いていらっしたのを見掛けましたが、その理由を聞いて下さいませ。」
 これは思い掛けない言葉であった。ボートルレはすっかり吃驚(びっくり)してしまった。
「僕がですか、お嬢さん!僕がですか!あなたは昨日私をごらんになったのですか。」
 レイモンドは考えながら、重々しげな調子で、
「私は昨日午後四時頃土塀の外の森を散歩していますと、ちょうどこの方くらいの背丈(せいたけ)で、同じ着物を着てお髯もやはり短く切っていた若い方を見掛けました。その人はたしかに人に見られないようにしていたようでした。」
「そしてそれが僕なのですか?」
「はっきりとは申し上げられませんけれど、本当によく似たお方でした。」

            暗中の怪火

 判事は迷ってしまった。さっき一人の仲間に一杯喰わされたばかりなのに、今またこの中学生という男に欺かれるのではあるまいか?
「君は令嬢の言葉にどう返事しますか?」
「もちろん令嬢が間違っています、僕は昨日その時分にはブュールにいました。」
「証明がなければ困る。とにかく調べる必要があるから、君、警部君、この青年を監視させてくれたまえ。」
 ボートルレはたいへん困ったような顔をした。
「判事さん、お願いだからなるべく早く調べて下さい。このことが父に知れて、父が心配すると大変ですから、僕の父はもう老人なのです。」
「今夜か……明朝までに調べましょう。」と判事は約束した。
 判事はそれから再び注意ぶかく自分で気長に取り調べた。しかし夕方になってもやはり何の変(かわ)ったことも見つけられなかった。この時もうこの邸へ集(あつま)ってきた多くの新聞記者に向って、
「犯人はもうこの邸内にはいないと思われる。我々が考えたところによれば犯人はもう逃走したに違いない。」と語った。
 しかしなお念のために邸園の警戒を厳重にして、判事は検事と共にひとまず本署へ帰った。
 夜になった。ボートルレは自分のためにつけられた巡査の眼の光る傍(かたわら)で、椅子の上に眠った。外では巡査や百姓や村の人たちが建物の塀と僧院の間を絶え間なく見張っていた。十一時までは何事もなく静かにすぎたが、十一時を十分ばかりすると、一発の銃声が邸の方から響いた。
「用心しろ、二人だけここに残っていろ!他の者は銃声の方角に大急ぎで走れ。」と警部が叫んだ。
 一同は邸の左手へどやどやと走った。この時、闇をついて何者か一人の男が消え去ったと思う間に、たちまち再び起る銃声にみんなはその銃声のした百姓家の方へと突進した。と、葡萄畠まで行きついた時、突然一筋の火の手が百姓家の右手にぱっと立ちのぼった。と同時にまた一箇所僧院の彼方に真赤(まっか)な火柱が立った。焼けているのは納屋らしい。
「畜生! 火を点けやがった。それ追っかけろ。まだ遠くへは行かんぞ。」と警部は呶鳴り散らした。
 しかし風向(かざむき)で見ると火は本邸の方に向っている。何より先にこの危険を防がなければならない。伯爵も出てきてみんな一生懸命で火を消し止めたのは午前二時であった。もちろん犯人の影さえ見えない。
「どうして納屋などに火をつけるのか理由(わけ)が分らない。」と伯爵はいった。
「伯爵まあ私と一緒にいらっしゃい、その理由(わけ)を申し上げますから。」
 警部と伯爵は連れ立って僧院の方に来た。警部は二人だけを残しておいた巡査の名を呼んだ。二人の巡査は出てこなかった。他の巡査たちが二人を探しに行った。と、小門の入口のところで二人の巡査が目隠しをされ、猿轡(さるぐつわ)を嵌められて、細縄で縛られているのを見つけた。
「残念ながら我々は誑(たぶらか)された。」と警部が呟いた。「あの銃声も火事もみんな我々の警戒を破るためだったのです。我々がその方に気をとられている間に、奴らは仕事をしていったのです。」
「仕事とは?」と伯爵が聞いた。
「傷ついた首領(かしら)を運び出すためです。」
 警部はたいへん口惜しがった。そればかりではなかった。夜が明けてから、ボートルレ少年が見張りの巡査に眠り薬を飲ませて、窓から逃げ出したことが分った。

        二 怪中学生
            医学博士の誘拐

 翌日の新聞に次のようなことが発表された。「昨夜、外科医として有名なドラトル博士は夫人や令嬢と一緒に芝居を見に行ったが、その終(おわ)り頃に二人の従者を連れた一人の紳士が来て博士にいった。
「私は警察から参りましたが、ぜひ私と一緒においでが願いとうございます。急に先生にお願いすることが出来ましたのでお迎えに参りました。芝居が終ります頃にはきっと御帰りになれますから。」
 博士はその紳士を連れて劇場を出たが、芝居がお終いになっても帰ってこないので、夫人たちが心配して警察へ電話をかけると、それは全く誰か他の者のしたことで警察では知らないことだと分り、大騒ぎになった。」
 このことは、次の新聞でいよいよ不思議な事実となって現われた。
 朝九時になってドラトル博士は一台の自動車で帰ってきた。その自動車は全速力で行方を晦(くら)ましてしまった。博士の語るところによると、ある手術をしなければならない病人を診察するために連れていかれたということである。それはある田舎の宿屋の一室で、病人はたいへん悪かったそうである。そして博士は一万円のお礼を貰ったそうである。しかしそれ以上はどうしても話さなかった。博士は堅く口止めをされているらしかった。
 警察ではこの博士誘拐事件を、あのジェーブル伯爵邸の事件と何かの繋(つなが)りがあると目星をつけた。傷ついた賊のいなくなったこと、有名な外科医の誘拐、そこに何かあるだろうとは誰でも考えることである。
 調べた結果、その考は間違いのないことになった。馭者に化けて入(い)り込み、皮帽子をとりかえて、自転車で逃げた犯人は、自転車をアルクの森の溝の中に捨てて、サン・ニコラ村へ行き、そこから左(さ)のような電報をパリへ打った形跡がある。
 A(ア)・L(エル)・N(エヌ)・身体悪し、手術を要す、名医送れ。
 これでいよいよはっきりと分った。この電報を受けとった悪漢(あくかん)の仲間は、博士を早速送ったのだ。こちらでは火事騒ぎを起させ、その間(ま)に傷ついた首領(かしら)を救い出して、これを近所の宿屋へかつぎ込んで、手術を受けさせたに違いない。今はその宿屋をつきとめればいい。パリからは特別にガニマール探偵が入り込んできた。近所の宿屋という宿屋は一軒残らず家の中まで調べた。しかしどうしたのか、そんな怪我人を泊めた宿屋は一軒もなかった。
 翌日曜の朝、一人の巡査が、その夜(よ)塀の前の往来で一人の怪しい人影を見たといった。仲間の者が様子を見に来たのであろうか?あるいはまた彼らの首領(かしら)が僧院のどこかに隠れているのであろうか?

            偽物は偽物です

 その夜(よ)ガニマール探偵は小門の外を警戒していた。
 十二時すぎになって果して怪しい一人の男が森から現われて、ガニマールの前を通り、小門から庭へ忍び込んだ。三時間ばかりの間、その男は僧院の近所をあちこちと歩き廻り、あるいは地上に屈んでみたり、あるいは円柱にのぼってみたり、あるいは一つ所に立ち止まって長いこと考えていたりしたが、やがてまた元のようにガニマール探偵の前を通っていこうとした。待ち構えていた探偵たちは突如組みついて捕まえた。曲者は少しも手向いをしなかった。しかしいざ調べる時になると、何を聞かれても答えなかった。判事が来れば分ることだというだけであった。月曜日の朝判事は着いた。ガニマールは曲者を判事の前に引き立てた。曲者はボートルレであった。
 判事はボートルレを見て、非常に喜ばしげに両手を差し出して叫んだ。
「やあ、ボートルレ君!君のことは十分分りました。君はもういないのかと思いましたよ。」
 ガニマールは驚いてしまった。ボートルレは判事にいった。
「判事さん、じゃもうすっかり分りましたね。」
「[#「「」は底本では脱落]十分分りました。第一レイモンド嬢が塀の外の小路で君を見たという時間に、君はたしかにブールレローズにおられた。君は間違いなくジャンソン中学の学生で、しかも優等生であることが分りました。」
「では放免して下さいますか。」
「もちろんします。しかし先日話し掛けて止めてしまった話のつづきをぜひしていただきたい。二日間も飛び廻ったことだから、だいぶ調べは進んだでしょう。」
 これを聞いたガニマールはいかにも馬鹿々々しいというような顔をして、部屋を出ようとした。判事は手を挙げてそれを呼びとめた。
「ガニマールさん、いけないいけないここにいらっしゃい。ボートルレ君の話は十分聞くだけの値(あたい)があります。ボートルレ君の鋭い頭を持っていることはなかなかの評判で、英国の名探偵エルロック・ショルムス氏の好(い)い対手(あいて)とさえいわれているのですよ。」
 ガニマールは苦笑いをしながらとどまった。ボートルレは話し出した。
「僕は調べたことをお話して、知ったか振りをしようとは思いませんが、まず盗まれたもののことからお話しましょう。僕にはこれは一番易しい問題でしたから。」
「易しいというのは?」
「順々に考えてみさえすればいいからです。それはこうです。二人の令嬢の言葉によれば、二人の男が何か持って逃げたということです。そうすると何か盗まれたに違いないのです。」
「なるほど、何か盗まれたのですね。」
「ところが伯爵は何も盗まれてはいないといっています。」
「なるほど。」
「この二つのことから考えてみると、何か盗まれたのに、何も失(な)くなっていないということは、何か盗んだ品物と少しも変らぬ物が本当の物とおき変えられてあるに違いありません。」
「なるほど、なるほど。」と判事は一生懸命になって聞き出した。
「この部屋で強盗の眼につくものは何でしょうか?二つの物があります。第一にあの立派な絨氈です。しかしこんな古い掛物(かけもの)はとてもこれと同じようなものは出来ません。すぐに偽物ということが分ります。次にあるのは四枚のこの名画です。あの壁に掛けてある有名な絵は偽物です。」
「何ですって!そんなはずはない。」
「いや、たしかにそうです。」
「いや、それは間違いだ。」
「まあ、判事さんお聞きなさい。ちょうど一年前ある一人の男が、伯爵のところへ尋ねてきて、あの名画を写させて下さいと申し込みました。伯爵が許されたので、その男は早速それから五ヶ月も毎日この客間に来て写していったのです。ここに掛っているのは、その時写した方の偽物です。」

            怪少年の明察

 判事とガニマールとは驚いて眼を見合わせた。
「とにかく伯爵に聞いてみよう。」と判事はいった。伯爵は呼ばれた。そしてついにボートルレは勝った。伯爵はしばらく困ったような顔をしていたが、やがて口を開いた。
「実は判事さん、この名画は四枚とも偽物です。」
「では、なぜさようおっしゃらなかったのです。」
「私は穏(おだやか)な方法でその絵をとり戻そうと思ったからです。」
「それはどんな方法ですか?」
 伯爵は答えなかった。ボートルレは代(かわ)って答えた。
「この頃、大きい新聞に『名画買い戻す』という広告が出ています。あれがそうです。」
 伯爵は首肯(うなず)いた。またしても少年は勝った。判事はますます感心してしまった。
「君は実に偉いですね。どうぞ先を話して下さい。君は犯人の名前も知っているといわれたはずですね。」
「そうです。」
「誰があのドバルを殺したのでしょう。その男はどこに隠れているので[#「ので」は底本では「での」]しょう。」
「実はそのことについては、一つの間違いがあります。ドバルを殺した男と、逃げた男とは別の人間です。」
「何ですって?」判事が叫んだ。「伯爵や二人の令嬢が客間で見た男、そしてレイモンド嬢が銃で撃って、邸園の中で倒れ、我々が今探している男、それと、ドバルを殺した男とは別の人間だというのですか。」
「そうです。」
「では別にまだ逃げた犯人がいるのですね。」
「いいえ。」
「ではどうもよく分らないですな。誰がドバルを殺したのです。」
「それを申し上げる前に、少しくわしくお話をしないと、私が余り変なことをいうようにお思いになるでしょう。まずドバルが殺されたのは夜中の四時であるのに、ドバルは昼間と同じような着物を着ていました。伯爵はドバルは夜更しをする癖があるといわれましたが、みんなのいうのを聞きますと、それとは反対に、ドバルはたいへん早く寝るそうです。そうしますと話が合わないで少しおかしくなります。それに僕の調べたところによると、あの名画を写させてくれといった画家は、ドバルの知り人(びと)だったということです。それでいよいよ僕はドバルが怪しいと思いました。」
「するとどういうことになりますか?」
「つまり画家とドバルとは仲間でした。それにはたしかな証拠があります。ドバルが手紙を書いた吸取紙の端(はじ)に『A(ア)・L(エル)・N(エヌ)』[#「』」は底本では欠落]という字があったのを見つけました。電報の名前と同じです。ドバルは名画を盗みとった強盗犯人と手紙のやり取りをしていたのです。」
「なるほど、そして……」判事はもう反対しなかった。
「ですから、逃げた犯人が、仲間であるドバルを殺すはずはありません。」
「そうかしら?」
「判事さん思い出して下さい。気を失っていた伯爵が一番初めに叫んだ言葉は『ドバルは生きているか?』ということでした。その後伯爵は『眉間を曲者に殴られて気を失ってしまった。』といわれました。どうして気を失った伯爵が、正気づくと同時にドバルが短剣で刺されたことを知っていたのでしょう。」
 そしてすぐまたボートルレはつづけた[#「つづけた」は底本では「けつづた」]。
「強盗たちを客間へ引き入れたのはドバルです。そして伯爵が目を覚ましたので、ドバルは短剣を持って伯爵に飛びつきました。伯爵はついにその短剣を奪いとってドバルを刺したのです。それと同時に、も一人の曲者に眉間を殴られて気を失ったのです。」

            ルパン?生?死?

 判事とガニマールはまた顔を見合(みあわ)せた。
「伯爵、この話は真実でございましょうか?……」
 判事は尋ねた。伯爵は答えなかった。
「黙っていらしってはかえっていけません。どうぞお話し下さい。」
「今のお話しはみんな本当です。」伯爵ははっきりといった。判事は飛び上って驚いた。
 伯爵は、二十年も自分の家に働いたドバルを賊の仲間だと知らせたくなかった。それにもうドバルは殺されているのでそれで十分だと思った。ドバルは二年前からある婦人と知り合いになり、その人にお金を送るために盗賊をするように[#「するように」は底本では「すやるうに」]なったということなどを伯爵は語った。
 伯爵が室を出ていったあとで判事は今度は犯人の隠れている宿屋のことのついて尋ねた。ボートルレの答えはまた違っていた。ボートルレの答えによると、犯人は宿屋などにはいないというのである。宿屋へ運んだように見せかけたのは警察を誑(たぶらか)す[#「誑す」は底本では「訛す」]陥穽(わな)であった。犯人はたしかにまだあの僧院の中に隠れている。死にそうになっている病人をそんなに運び出せるものではない。あの火事騒ぎをやっている間(ま)に医学博士を僧院の中へ案内した。医学博士が宿屋だといったのは、犯人たちが博士を脅(おどか)して、あのようにいわせたのだとボートルレは語った。
「しかし僧院の中は円柱が五六本あるばかりで……」
 判事は不思議がった。
「そこに潜り込んでいるのです。」とボートルレは力を込めて叫んだ。「判事さん、そこを探さなければ、アルセーヌ・ルパンを見つけ出すことは出来ません。」
「アルセーヌ・ルパン!」判事は飛び上って叫んだ。
 有名なその一言に一座はしばらくしんとしてしまった。アルセーヌ・ルパン!大冒険家大盗賊王、眼に見えぬ彼ルパンは空しい大捜索の幾日間を、どこかの隅で傷に苦しんでいる。不敵の敵は本当にルパンであろうか?判事とガニマール探偵とはしばらくじっと動かなかった。
「ごらんなさい。」とボートルレはいった。「彼らが手紙をやった宛名の略字に何とありますか、A(ア)・L(エル)・N(エヌ)すなわちアルセーヌの一番初めの文字(もんじ)と、ルパンの名の初めと終りの文字をとったのです。」
「ああ、君は実に偉い天才です。この老ガニマールも負けました。」とガニマールはいった。ボートルレは喜びに顔を赤くして老探偵の差し出した手を握った。三人は露台に出た。そしてルパンが隠れているという僧院を見下(みおろ)した。判事は呟くように、
「してみるとあいつはあそこにいますね。」
「あそこにいます。」とボートルレは重々しげにいった。「銃で撃たれた時からルパンはあそこにいるのです。いかにルパンでもあの時逃げ出すことは出来ないことだったのです。」
「そうするとどうして生きているのだろう。食物(たべもの)や飲物も入るだろうに。」
「それは僕にはいえません。しかし彼があそこにいることは決して間違いありません。僕はそれを断言します。」

            探偵の手懸(てがか)り

 僧院の方を指(ゆびさ)したボートルレの指先は空中に一つの円を描いて、それをだんだんに小さくしてとうとうある一点に止(とど)めた。判事と探偵はその一点を見つめつつ胸の慄(ふる)えるのを覚えた。アルセーヌ・ルパンはあそこにいる。有名な巨盗(きょとう)ルパンが独り寂しく、かの暗い地下室の冷たい土の上に死に掛って横たわっていると思えば、一種悲愴な気持がわいてくるのであった。
「もし死ぬようなことがあったら。」と判事が声を潜めていった。
「もし死にでもしたら、その時こそ判事さんレイモンド嬢を警戒せねばなりません。なぜならば、手下の者はきっと復讐するでしょうから。」
 ボートルレはしばらく経つと、学校の休暇が今日でお終いになるからといって、判事が相談相手に引き留めるのも断って、パリへ帰ってしまった。彼はまたジャンソン中学の学生になった。
 ガニマールは僧院の中をすっかり調べたが何の手懸りもないので、彼もまた同じ日の夜行でひとまずパリへ引き上げた。

            不可思議な暗号紙片

 こうしてわずか二十四時間のうちに、たった十七歳の少年の言葉によって、少しも分らなかった事件の糸はほぐされた。首領(かしら)を救わんとする強盗団の計画はわずか二十四時間で見事に破られ、かの巨盗アルセーヌ・ルパンの逮捕は確実になった。新聞紙はボートルレの記事でいっぱいであった。人々はみんなボートルレに驚き、どこででもボートルレを褒める言葉が交(かわ)された。
 しかもまた一方判事の方では、ボートルレが話したことより一歩も先へ進まなかった。レイモンド嬢がボートルレと見間違えた男のことも、四枚の名画のその後の行方も、同じく暗(やみ)に包まれたままであった。僧院の中の捜索も判事は自分自身から毎日出掛けて探したが、どうしても分らなかった。
 ある新聞記者がジャンソン中学へ行ってボートルレに逢って、なぜ探偵をつづけないのかと尋ねた。ボートルレは今ちょうど試験なのであった。彼は試験に落第するのは厭だといった。
「しかし強盗を捕まえるのはたいへんいいではありませんか。」と新聞記者はいった。
「それでは僕は六月六日の土曜日に行きましょう。」とボートルレは答えた。
 六月六日!この日は新聞に一斉に書き出された。「ボートルレは六月六日ドイエップ行の急行に乗る。そしてアルセーヌ・ルパンは捕縛されるであろう。」と。
 その日ボートルレは一人で汽車に乗った。毎日毎夜の勉強にくたびれて彼は眠ってしまった。ルーアンの見える頃にようやく目が覚めたが汽車の中はやはり彼一人であった。ふと前の腰掛覆(こしかけおおい)の上に何やら書いた一枚の紙片がピンで留めてあるのに気がついた。その書いてある字を読んでみると、
「汝は汝の学業に勉めよ。然らずんば汝の上に災(わざわい)あらん。」
「ははあなるほど」とボートルレは両手を擦りながら叫んだ。[#「。」は底本では欠落]「敵の形勢は悪くなってきたなあ、こんな脅迫なんか馬鹿らしい。」
 汽車はルーアンに着いた。ボートルレはその停車場で新聞を見て、驚きの余りさっと顔色を変えた。
「昨夜悪漢数名、ジェーブル伯邸にてシュザンヌ嬢を縛り猿轡を嵌めておいて、レイモンド嬢を誘拐したり。邸より五百米突(メートル)の間は血跟(けっこん)が点々と落ち、なお附近に血染(ちぞめ)の襟巻が捨ててあった。これより見て、不幸なレイモンド嬢は殺害せられたりと信ぜらる。」
 ボートルレは身体を二つに折り、頭を両手で抱えて思いに沈んだ。
 彼はドイエップから馬車を雇った。ジェーブル伯爵邸の前で判事に逢った。判事は何もくわしいことは知らないといった。ただ皺苦茶(しわくちゃ)になった破れた紙片(かみきれ)をボートルレに渡した。それは血染の襟巻が捨ててあったところに落ちていたものであった。
「どうもこの紙片(かみきれ)は何の手懸(てがかり)にもなりそうにありません。」と判事はいった。
 ボートルレはその紙片(かみきれ)を打ち返し打ち返し眺めた。それには次のような記号と点が紙一面に記してあった。


        三 惨死体
            令嬢は生死不明

 判事は書記を連れて、ドイエップへ帰る馬車を待っていた。判事はその前にも一度ボートルレに逢いたいと思ったがその姿が見えなかった。書記も知らないといった。朝から見えないのであった。判事はふと思いついて僧院の方へ行ってみた。ボートルレは僧院の傍の松葉が一面散り敷いている地面に腹這いになって、腕を枕に眠っているような風をしていた。
「君、何をしているんです。眠っていたの?」
「いいえ、僕は考えていたんです。」
「今朝からずっと?」
「え、今朝からずっと。ね判事さん、犯人は初めからレイモンド嬢を殺すつもりだったのなら、なぜわざわざ外まで連れ出して殺したのでしょう? そしてその死体はどうしたのでしょう。」
「さあ、それは私にも分らん。そして死体もまだ発見されてはいない。しかし調べてみると、海岸に望んだあの絶壁まで行った形跡がある。そこは恐ろしいほど切り立った崖で、下を見下(みおろ)すと約百米突(メートル)ばかりの深い絶壁で、その下には大きな巌(いわ)に波が恐ろしい勢(いきおい)で打ちつけている。たぶんそこへ投げ捨てたものと思われる。」
「そうでしょうか?」
「そうだ。ルパンが死んだので、この前に脅迫した通り令嬢を暗殺した。しかしよく考えてみると、どうもおかしい。まだルパンは生きているに違いない。ね、ボートルレ君、いよいよ事件は分らなくなってしまった。それに君、ジェーブル伯爵は、わざわざロンドンから、エルロック・ショルムスを呼んだ。ショルムスは来週の火曜日から来ることになった。ね、君、我々はどうしてもその前にこの謎を解かなければならない。」
「では判事さん、今日は土曜日です。月曜の朝十時にここでお逢いしましょう。それまでに考えておきます。」
 判事はボートルレと別れた。ボートルレは伯爵から自転車を借りて出掛けた。

            漆喰の傑作

 少年ボートルレはまず四枚の名画が運ばれていった道を調べることにした。彼は自分の考と地図をたよって進んだ。そしてやっと四枚の名画は、約十八里ばかり先のある河のほとりで、自動車から舟に積み替えられたことが分った。そしてその舟の船頭に逢うことが出来た。船頭はなかなか初めはいわなかったが、やっと少しずつ話してくれた。それによると、その船頭は名画を運んだ時の一度だけではなく、六遍ばかりも雇われたということであった。
「六遍?……そしていつ頃から。」
「その前から毎日でさあ、しかしいつも品物は違っているようでしたよ。大きな石ころみたいな物や、時には新聞紙に包んだ小さなかなり長い物などがありました。とても大切がって私らには指もさわらせませんでしたよ。」
 ボートルレは思いがけない発見に蹌踉(よろ)めきながら外へ出た。彼が伯爵邸へ帰ってくると、彼へ手紙が来ていた。見ると次のようなことが書いてあった。
「黙れ、然らずんば……」
「やあこりゃ、自分のことも少し気をつけないと危(あぶな)いぞ。」とボートルレは呟いた。
 月曜日の朝判事はやってきた。
「どうです、分りましたか。」
「分りました。とても素晴らしいことが。今はルパンの隠れ家どころではありません。我々が今まで気づかずにいたもっと他の物が失くなって[#「失くなって」は底本では「失くなてつ」]います。」
「名画の他にですか?」
「さよう、もっと大切な物が、しかも名画と同じように替(かわ)りの品物をおいていきました。」
 二人は礼拝堂の前を通っていた。ボートルレは立ち止まって、
「判事さん、あなたはそれを知りたいんですか。」
「もちろん知りたいです。」
 ボートルレは太い杖を持っていたが、突然その杖を振り上げて、礼拝堂の扉を飾っている数個の彫像の一つを発止(はっし)と打った。
「ど、どうした、君は気でも違ったか?」判事は思わず、飛び散った彫像のかけらの方に駆け寄りながら叫んだ。「これは実に立派な物……」
「立派な物!」ボートルレはまたつづいてその次のマリヤの彫像を打ち壊しながら叫んだ。判事はボートルレに組みついて、
「君、馬鹿なことをしてはいけない!」
 その次の老王(ろうおう)の像も、基督(キリスト)の像も飛び散る。

            神秘の土窟(どくつ)

「その上動いたら撃つぞ。」ジェーブル伯もそこへ駆けてきてピストルを差し向けた。ボートルレは声高く笑った。
「伯爵、偽物です!」
「何だって?」二人は叫んだ。
「偽物です、つくり物です、中は空っぽです!」
 伯爵は彫像のかけらを拾ってみた。するとどうだろう、立派な大理石はただの漆喰に変っているではないか。そこにある彫像はまたとない実に立派な彫像なのであった。それがただの石膏細工(せきこうざいく)[#「石膏細工」は底本では「石豪細工」]に変ってしまっていた。
「ルパンです。実に偉いではありませんか。この偉大な礼拝堂はルパンによってみんな奪い去られてしまいました。一個年にたくらんだ仕事はこれです。実にルパンは偉い、何という恐ろしい天才でしょう。そしてこの礼拝堂の中には我々の知らない隠れ場所があります。ルパンは礼拝堂の中で仕事をしている間(あいだ)にそれを見つけ出したのです。ルパンはもし死んでいるとすれば、その隠れ場所にいるでしょう。」
 三人は礼拝堂の扉を鍵で開けて中へ入った。ボートルレはまた調べてみた。礼拝堂の中も立派な物はみんな偽物に変っていた。ボートルレは伯爵の持ってこさせた鶴嘴(つるはし)で階段のところを壊し初めた。ボートルレの顔色は気が引き締(しま)っているためにまっ蒼であった。突然、鶴嘴は何かに当(あた)ってはね返った。この時内側で何か墜落するような音が聞えたが、それと共に鶴嘴を当てた大石が落ち込んで大きな穴があいた。
 ボートルレは覗いてみた。一陣の冷めたい風が彼の顔に当った。下男が持ってきた梯子を掛けて、判事は蝋燭を持って降りていった。伯爵もそれにつづいた。ボートルレも最後に降りていった。穴倉の中は暗黒(まっくら)であった。蝋燭の火がちらちらと動いてわずかに探り見られた。しかし底に降りると恐ろしい胸のむかつくような臭気が鼻をついた。と、突然ボートルレの肩を押えた手があったが、それはぶるぶる慄(ふる)えていた。
「どうしたのです。」
「ボートルレ君、い、居た。何かある!」
「え!どこに?」
「あの大石の下に、あれ、見たまえ!」
 彼は蝋燭をとり上げた。その光は地上に横たわっているある物の方へ投げられた。
「あ!」ボートルレは思わず恐ろしさに声を挙げた。三人は急いで覗いてみた。実に恐ろしい痩せた半ば裸の死体が横たわって[#「横たわって」は底本では「横はたって」]いた。溶け掛けた蝋のような青みがかった腐れた肉が[#「肉が」は底本では「肉か」]、ぼろぼろに破れた服の間からはみ出ている。しかし一番恐ろしいのはその頭である。大石に打ちくだかれたその頭、ぐちゃっと圧しくだかれて、目鼻も分らないほど崩れてしまったその頭……
 ボートルレは長い梯子を四飛びに飛んで、明るみの空気の中へ逃げ出した。
 判事はあの死体はルパンに違いないとすっかり安心してしまった。ボートルレは何事か考え込んでしまった。判事宛に二通の手紙が来た。一つはショルムスが明日来るという知らせであった。一つは今朝海岸に美人の惨死体が浮(うか)び上ったという知らせであった。たいへん死体は傷ついていて、とても顔は見分けられなかったが、右の腕にたいへん立派な金の腕輪をつけているということだった。レイモンド嬢もたしか金の腕輪を嵌めていたはずだったのでその死体はレイモンド嬢に違いないと判事はいった。
 ボートルレはまたしばらくすると自転車を借りて近くの町へ急いだ。そこで彼は役場へ行って何事かを調べた。
 ボートルレは大満足で唱歌を唱いながら自転車でまた元来た道を帰ってきた。と伯爵邸の近くへ来た時、彼はあ!と声を上げた。見よ前方数間(すうけん)のところに一条(ひとすじ)の縄が道に引っ張られてあるではないか。自転車を止める間もなくあなやと思う間に自転車は縄に突き当って、ボートルレの身体は三米突(メートル)ばかり投げ出され、地上に叩きつけられた。しかし全く幸(さいわい)なことに、たったわずかのところで、路(みち)ばたの大石の前で止まった。その大石に頭を打ちつけでもしたら、ボートルレの頭はめちゃめちゃになるところであった。しばらくの間彼は気を失っていたが、ようやくにしてすり剥いた膝を抱えて起き上り、あたりを眺めた。曲者は右手の小さな林から逃げたらしい。ボートルレは起き上ってその縄を解いた。その縄を結びつけてある左手の樹に一枚の小さな紙切がピンで止めてあった。それには、
「第三囘の通告、そしてこれが最後の忠告である。」

            解かんとする謎の記号

 ボートルレは血だらけになって邸へ着くと、すぐ少し下男たちに何か尋ねてから判事に逢った。判事はボートルレを見ると、傍にいた書記に外に出ているようにと命令(いいつ)けた。判事は少年の血のついたのを見て叫んだ。
「あ! ボートルレ君一体どうしたのです。」
「いえ、何でもないんです。しかし判事さん、この邸の中でさえも僕のすることを見張っている者があるんですよ。」
「え! 本当かね、それは。」
「そうです。そいつを見つけるのはあなたの役です。しかし僕は思ったより以上に調べを進めました。それで奴らも本気になって仕事をし出したらしいのです。僕のまわりにも危険が迫ってきました。」
「そんな……ボートルレ君。」
「いえ、とにかくそれよりも先に、あのいつか血染の襟巻と一緒に拾った紙切のことですが、あのことは誰にも話してはいらっしゃらないでしょうね。」
「いや、誰にも、しかしあんな紙切が何か役に立つのですか?」
「え、大いに大切なのです。僕はあれに書いてあった暗号の謎を少し解くことが出来ました。それについて申し上げますが。」
と、いいかけたボートルレは、ふいにその手で判事の手を押えて聞き耳を立てた。
「誰か立ち聞きをしている。」砂利を踏む音に少年は窓に走った。しかし誰もいない。
「ねえ、判事さん、敵はもうこそこそ仕事をしてはいません。大急ぎで申し上げましょう。」
 少年は紙切を卓(テーブル)の上において説明を始めた。ボートルレはこの間からこの紙切について一生懸命考えていたのであった。そして少年はやっとその数字がア・エ、イ・オ、ウ、の字を表(あら)わしていることを考えついた。つまり数字の1は、最初のア、を差し、2は次のエを指しているのであった。それを頼りに、点のところへ、言葉になりそうな字を入れていった。その結果少年は、第二行から(令嬢(ド・モアゼル))という言葉を拾うことが出来た。
「なるほど、二人の令嬢のことだね」と判事はいった。少年はまたその他に、(空に(クリューズ))という言葉と(針(エイギュイユ))という言葉を見つけた。
「空(うつろ)の針、それは何だろう。」と判事がいった。
「それは僕にもまだ分りません。しかしこの紙切の紙はずっと昔のものらしいのですが、それが不思議です。」
 この時ボートルレはふと黙った。判事の書記が入ってきたのであった。書記は検事総長が到着したと告げた。判事は不思議な顔をした。
「何だろう、おかしいな。」
「ちょっと、下までおいで下さいといって、馬車をまだお降りになりません。」
 判事は首をかたむけながら降りていった。この時怪しの書記は室(へや)の中から戸を閉じて鍵を掛けた。

            美少年の重傷

「あ!なぜ戸を閉めるんです!」とボートルレは叫んだ。
「こうすれば話がしいいというもんだ。」と書記は嘲笑った。万事は分った。奴の仲間、それは書記だったのだ。
 ボートルレはよろめきながらどっと腰を下(おろ)して、

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:122 KB

担当:FIRTREE