探偵小説アルセーヌ・ルパン
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著者名:ルブランモーリス 

『だって、利益と云った所で、ルパンが壁布‥‥を亜米利加(アメリカ)とかへ売るというだけのものだろう。それなら‥‥』
『それなら、スパルミエント大佐にだって売れます。こんな芝居をやるがものはありません。』
『じゃア。』
『外にもっと金の這入ることがあるんです。』
『金が這入るというと?』
『そら、課長! スパルミエント大佐は初め一枚盗られた時、大損害だと言って騒いだでしょう。そして今度大佐は死んでも、後に妻君が残っているでしょう。そらその妻君の手に入るじゃありませんか?』
『入るって? 何が!』
『何がって? そら、保険金が!』
 聞くと同時に、ジュズイ氏はあまりの驚きにウウとうなった。初めて事件の真相が彼の面前に展開されたのである。

          七

『や、なるほど、そうだそうだ、大佐は壁布を保険に掛けたな。』
『しかも、少々ではありません。』
『いくらだ?』
『八十万フラン。』
『八十万フラン!』
『そうです、五つの会社へ‥‥』
『夫人はもうそれを請取ってしまったか?』
『昨日十五万フラン、今日は私の居ない間に二十万フラン。あとは今週中に請取ることになっています。』
『驚いたなア。』
『私のいない時に勘定をしていますが、折よく帰り道で、私の知っている保険会社の社員に会ったのですっかり話を聞きました。』
 しばし唖然としていた課長は、思わず太息を吐いて、
『実に恐ろしい奴だなア。』
『全くです。ずいぶん巧妙に出来ているではありませんか。四五週間も、誰一人スパルミエント大佐を怪しむものは無いのですから。いかに巧妙な奸策(かんさく)であるかがわかります。驚くの外ありません。世間の疑問、憤怒、探索をルパン一人に背負わせているんです。そして一方あの伝説の中から出て来たようなエジス夫人が泣きの涙でうまく勤めているのですから保険会社などは、てんで損害などは眼中になく、少しでも夫人を慰め得れば満足だとするくらいですから‥‥彼奴の計画は首尾よく運んだものです。』
 二人に互に顔を見合せて呆れ返った。
 やがて課長は口を開いた。
『その夫人は一体何者だ。』
『ソーニャ・クリシュノフ。』
『うむ!』
『あなたが去年逮捕したことのある‥‥』
『露西亜(ロシア)女か! 王冠事件の時、ルパンが逃がしてやった。』
『そうです。』
『うむ、僕も世間並みにルパンの計略にかかってすっかりあの女に気が付かなかったよ。なるほど、こう話が決ってみると思い出すことがある。ソーニャのの奴確かに英国女に化けているのだ。あいつと来た日にゃ、ルパンの事なら、死ねと云えば死ぬくらいに惚れ込んでいるんだからなア。いや、よくやってくれた。感謝する! さすがはガニマール君だ。』課長は固く主任刑事の手を握って賞讃した。
『お褒めに預って恐縮します。まだ拾い物があるんですよ。』
『何だ?』
『例のルパンの乳母‥‥』
『ビクトアル?』
『はい、その婆さんも今スパルミエント夫人のソーニャ・クリシュノフについてこの家に来ていますよ。』
『そのまま?』
『いや、料理人に化けて‥‥』
『そいつは有難い!』
『まだありますよ、課長!』
 ジ[#「ジ」は底本では「シ」]ュズイ氏はいきなり刑事の腕を両手で握って躍り上った。ガニマール刑事の手も震えていた。
『まだある? 何が?』
『何がって、今頃何のためにあなたに御足労を掛けたと思われます。ソーニャやビクトアルの如き小魚なら、何もあなたのお手を煩わしはしません。あんな者ならいつだって縄をかけられます。』
『すると?』
 両人の眼はらんらんと光った。
『わかりませんか?』
『奴が?』
『いますよ。』
『いる?』
『いるのです。』
『隠れて?』
『どうして、ずうずうしく召使に化けて‥‥』
 さすがの課長も、ルパンの飽くまでも大胆なのに茫然として自失せんばかりであった。
 ガニマール氏はほくそ笑みつつ、
『ソーニャがもしヘマをやるかと心配して、第四の役を背負って戻って来たものです。保険金を請取らぬ中(うち)しっぽを見せては折角の苦心も水の泡なので、自分がいて裁配(さいはい)を振らねば心許なかったのでしょう。三週間前から、私の行動を蔭にいて窺っているのです。』
『どうして見極めをつけた?』
『もちろん顔では分りません。彼奴は独特の変装術を心得ていますから、とても見分は付きません。私もまさか召使に化けて入っていようとは思いませんでした。ところが今晩、ソーニャと乳母のビクトアルが、階段の蔭の真暗な所で立話をしているのを盗み聞きますと、乳母が召使を呼ぶに『坊ちゃん坊ちゃん』と言ってるじゃありませんか。その坊ちゃんでようやくハッと気付いたのです。ビクトアルは今でも奴の事を子供のように思って、いつでもこう呼んでいるのです。私は決心しました。』
 何遍追跡しても、かつて手を触れる事の出来なかった強敵が、今現にこの家に潜んでいることを思うと、捜索課長もあわてだした。
『今度こそ逃がさぬぞ! 逃げようたって逃がすものか!』
『そうですとも、女共も一網(いちもう)に!』
『どこにいる?』
『ソーニャとビクトアルは三階に!』
『ルパンは?』
『四階に!』
 ジュズイ氏はふと不安を感じた。
『やア、壁布の紛失した時も、その部室(へや)の窓から落としたじゃないか。』
『そうです。』
『すると、今度もそこから逃げ出すかもしれないよ。その窓はジュフレノアイ街に向いていたから。』
『ええ、だから、その用意はしてあります。お連れになった。部下を四人、すぐその窓下に伏せておきました。窓を逃出そうとする者があったら、容赦なく射(う)ってしまえ。だが、最初は空砲、二度目には実弾を射てと命じてあります。』
『よし、万事抜かりはないな。』
『はい。』
『じゃ夜明に‥‥』
『いや、彼奴に限って油断はなりませんよ。規則だの形式だのと、つまらぬ事にこだわって、そのうちに感付かれでもすると、また馬鹿を見ねばなりません。奴の手品は大変ですよ。ぐずぐずしてはいられません。今すぐ踏み込んで不意を襲いましょう!』
 奮然と立ち上ったガニマール刑事は、意気込すさまじく門外に出て六人の部下を引き入れた。
『よし! 課長! 用意は出来ました。ジュフレノアイ街にはピストルを上げて、すわと云えば一斎射撃、窓々をねらっています。さア、やっつけましょう。』
 人の出入に、少しはざわ付いたけれど、家人の耳にはよもや入るまい。ジュズイ氏は正式の逮捕手続をしていないのを不本意に思ったけれども、事は急だ。千載一遇、この機を逸していつまたルパンを捕え得ようぞ。決然として振い起った。
『よし! やっつけろ!』

          八

 手に手にピストルを握って、ひたすらルパンを捕えることに心奪われつつ、足早に階段を上った。
 ガニマール刑事はもちろんよく勝手を知っていた。スパルミエント夫人の部屋に来ると、扉にのしかかって、叫んだ。
『開けろ!』
 一人の警官は、つと進んで、肩で一突、難なく扉は押破られた。
 が、中には誰もいない。
 隣のビクトアルの部屋へ行った。
 同じく藻抜(もぬけ)のからだ。
『上にいるんだ。ルパンの部屋に‥‥油断するな!』ガニマールは一同に注意した。
 八人一時に四階に馳(か)け上った。しかし、ルパンの部屋は開け放されて、同じく人影もなかった。
 ガニマール刑事は血眼になって馳け廻ったが、どの部屋にも、誰もいなかった。
『畜生! 畜生! どうしやがった?』
 すると、三階へ下りたジュズ[#「ズ」は底本では欠落]イ氏が、ガニマール刑事を呼んだ。三階の窓の扉が一枚締めてはあったが、ちょっと押せば開いたからである。
『そら、ここから逃げたのだ。これが壁布を持ち出した所じゃないか。僕があれほど言ったのに‥‥ジュフレノアイ街の方だ‥‥』
 ガニマール刑事は怒りの歯噛み荒々しく、
『それなら、なぜ射ち留めないだろう? 伏せてある部下が?』
『まだ張込んでない前に、風を喰って逃げ出したのだろう。』
『でも、あなたの所へ電話をかけた時には、三人共ちゃんと部屋にいたんですが。』
『君が庭の蔭で、僕等を待っていた時に飛び出したのだろう。』
『それにしてもなぜ逃げたでしょう?』
『うん、保険金を握らぬ中(うち)に‥‥』
『今夜急に行ってしまうわけは無[#「無」は底本では「無な」]い。』
『どうも不思議だ。』

 いや、実は、不思議でも何でもない。それには明白な理由があった、テーブルの上にはちゃんとガニマール殿という一通の手紙が置かれてあった。それはまさしくルパンの置手紙である。中にはすべての事情こまごまと、しかもそれは、あたかも主人が召使に与える説明書のようなものであった。
 その文章に曰く
 アルセーヌ・ルパン、紳士強盗、予備陸軍大佐スパルミエント、同下男及び前屍体陳列所紛失屍体たる余は、ガニマールと称する者の当邸における勤務ぶりを見て、すこぶる小才あり、かつ頓智ある者なりと考ふ。依ってこれを証明す。全力をあげて職務に勉励し、何等(なんら)の根拠なきによく余の計画を看破し、保険会社をして四十五万フランの損害を妨(ふせ)ぎ得たり。ただし、階下の電話はソーニャ・クリシュノフの部屋に装置されある電話と相通ぜることを知らず、捜索課長へ通報すると同時に、余に一早く事情を報告したる功により、莫大なる保険金の損害を容赦し、かつその機敏なる智能を賞するものなり。もしそれ電話装置を看破し能はざりし如きは大功中の小過、毫(ごう)もその勝利の価を減ずべきものにあらず。ここに感嘆と尊敬との意を表す。以上。
アルセーヌ・ルパン



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