無人島に生きる十六人
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著者名:須川邦彦 

 このたくさんの、きれいな海綿を、砂の上にならべて海水をかけ、半がわきになると、また海水をかけ、何度もくりかえすと、しまいにこい塩分をふくむようになる。
 それを、石油缶にいれた海水の中で、よくもみ出して、しぼり出し、その水を煮つめたら、少しのたきぎで、かなりの塩ができた。まだなれないので、色はねずみ色で、ごみが多かったが、りっぱに役にたつ。
 料理当番は、さっそくこの塩を使って、ぴんぴんした魚の塩焼をつくった。一同は、
「どうだい、このおいしいこと」
 大よろこびである。
「魚の塩づけもできるぞ」
「まずこれで、塩もできた。もっと何か考え出してくれ」
 と、私はいった。

 塩製造当番が、また一つふえた、そして、だんだんやっているうちに、白い大きな結晶(けっしょう)した塩ができるようになった。
 その後、たきぎの関係から、塩の製造所は、宝島にうつされた。

   天幕(テント)を草ぶき小屋に

 ある日、漁業長がいい出した。
「網を作ったので、帆布(ほぬの)を、かなりたくさん使ってしまった。これからも、網を作る材料は、帆布よりほかにない。それに帆布は、大病人や、けが人のできたとき、つり床にも必要だ。冬になれば、見張当番のがいとうになる。そのほか、いくらでも役にたつ貴重品だ。その帆布を、天幕にはっておくのはおしい。このまま天幕にはっておけば、一年もたてばあながあくだろう。二年もすれば、ぼろぼろになってしまう。さいわい、宝島の流木の中には、木材や、長い板、船室の出入口の扉などがある。また、本部島と宝島の両方の島には、草がたくさん生えている。天幕をやめて、草ぶきの小屋にしては、どうだろう――」
 一同は、これはいい思いつきだ、と、大さんせいであった。十六人の多くは、漁村、農村の草ぶき屋根の家で生まれ、そだった人たちだ、なつかしい草ぶきだ。宝島で木材をよりあつめ、葉の長い草をかって、本部島と宝島の小屋は、草ぶきになった。
 水夫長の工夫で、柱と屋根を、丈夫な木の骨組にして、屋根には厚く草をふいた。夜ねるときには、四方に帆布をさげて風よけにし、日中は、その帆布をまきあげておく。雨降りのときは、風よけの帆布を、そとの方へ四方に引っぱって、屋根から落ちる雨水を受けて、石油缶(かん)にためるようにした。そして、たいせつな雨水が、なるたけたくさんたまるようにと、草ぶき屋根のまんなかへ、「水」という字を、草の根で、大きく紋のようにつけた。
 ときどき雨が降るので、たまった雨水を、井戸水にまぜて飲んだ。
 草は、われわれには、たいせつなものである。草の根は、できるだけ保護して、草がよくしげるようにした。

 屋根を草でふいたことから思いついたのであるが、両方の島の葉のながい草を、ジャック・ナイフでかりとっては、日にほして、馬のたべるような乾草(ほしくさ)を作った。これは、冬の支度である。

 乾草をあんで、ござ、むしろのようなものを作って、小屋の中にもしき、また、夜具、腰みの、小屋の風よけなどにしようというのであった。
 いったい、帆船の水夫は、工作が上手だ。
 船にいるときには、古い索(つな)をほぐして、長い毛のようにし、それを糸にとって、その糸をあんで、靴ぬぐい、ござなどを作る。それから、帆や太い索の、こすれるところへあてる、いろいろの形のすれどめを、上手にあむのだ。
 島でもみんな、休み時間に話をしながら、乾草をずんずんあんで、乾草のしき物や、手さげかごなどがりっぱにできた。
 たきぎをたばねる縄も、みんな草縄にした。
 それから、冬になったら、綿の代りに鳥の羽を利用することも、私は考えていた。

   龍宮城の(りゅうぐうじょう)花園

 島から少し沖へ出ると、海はとても深い。いったい、海の深さと山の高さとをくらべると、海の深さの方がまさっている。もし世界一の高い山を、世界一深い海へしずめたとすれば、山はすっかりしずんでしまうだろう。
 世界一の高い山を、ふもとから見あげたけしきは、大きく美しいが、はんたいに、この山を高い空から、軽気球(けいききゅう)に乗って見おろしたら、また、別の美しさ、雄大さを感じるだろう。
 この、われわれの住む空気の世界の高い山を、空の上から見おろしたのとおなじように、私たちは魚の住む水の世界の山を、高いところから見おろすことができた。
 それは、天気のいい、波のごく静かな日に、伝馬船(てんません)を漕(こ)ぎ出して、島から少しはなれた、沖の海をのぞいてみるのだ。すると、海面は、水の世界の高い空で、島は、空の上につきでた高い山の頂上にたとえられる。この山の頂上から急傾斜の深い深い谷が、まっ暗で見えない海底までつづいている。それで伝馬船は、水の世界の空にうかんだ軽気球ということになる。
 日中は、太陽の光がすきとおって、かなりの深さまで見える。島から、深い海の谷底へ下る斜面には、海藻の林がある。この林の間を魚の群がおよいでいる。山の頂上に近いところ、すなわち浅いところには、お花畑がある。ここがいちばん美しくておもしろい。美しい海藻と珊瑚が、いっぱい生いしげっていて、どちらを見ても、青、緑、褐色、黄、むらさき、赤など、目もあざやかな色どりだ。また、その海藻や珊瑚の形は、枝を組み合わせたようなもの、葉ばかりのもの、果実や、キャベツが、いくつもかたまって生えたようなものなどで、陸に生えている、大小あらゆる種類のシャボテンを、うんと大きくしたようなものが、びっしりかさなっていると思えば、だいたい形だけのそうぞうはつく。
 だが、その色の美しいこと、種類の多いことは、とても説明ができない。たとえば、夜明けに、幾千のあさがおが、かさなって咲いているようである。陸上の、どんな美しい花園でも、とてもかなわない。大きなイソギンチャクは、美しいきくの大輪が咲いたのとおなじだ。ウミイチゴは、まっ赤な大きないちごそっくりで、まったく、おとぎ話の龍宮城の、乙姫(おとひめ)さまの花園といったらいいだろうか。
 そして、この美しい、珊瑚石、きくめ石、なまこ石、シャボテン石、海まつ、海筍(うみたけ)、海綿、ウミシダ、ウミエラなど、極彩(ごくさい)色の絵もようの間を、出たりはいったりして、ゆらりゆらりおよぎまわっている、いっそう美しい色どりの魚群がいる。
 これらの魚の色の美しさ、形のめずらしさは、珊瑚や海藻いじょうである。陸上でいちばん美しい動物は、蝶(ちょう)と鳥だといわれているが、この珊瑚礁(しょう)に住む魚の、チョウチョウウオ、スズメダイ、ベラなどの美しさは、私には説明ができない。珊瑚や海藻よりも、いっそう強い色をもっていて、赤、もも色、紅(くれない)、黄、橙(だいだい)、褐色、青、緑、紺、藍(あい)、空色、黒など、まるで、ぬりたてのペンキのように光っている。また、その色のとりまぜがおもしろい。だんだらぞめ、荒い縦縞(たてじま)、横縞をはじめ、まったくそうぞうもつかない色どりをもったのがいる。そして、その形もまためずらしいのが多い。長い尾や、ふしぎな形のひれを動かして、まるで、陸上の蝶や、美しい鳥の群が、咲きほこった花の間を飛んでいるように、およいでいるのだ。
 あまりの美しさに、見とれていると、この美しい魚の色が、急にぱっとかわったりする。何かにおどろくと、色をかえるのだ。すると、大きな魚が、すうっとおよいでくる。この大魚の一群が、またあわてて、矢のように早くおよいですがたを消すと、魚形水雷のような、巨大なふかの一群が、大いばりでやってくる。おもしろいかっこうの頭をしたシュモクザメが、通って行く。このふかの一群には、ゆだんはできない。
 伝馬船のような小船には、おそいかかってくることがある。
 こんな海中のありさまは、天気のいい時は、四十メートルぐらいの深さまで、すきとおって見える。海水がすみきって、きれいなので、二十メートルぐらいの深さも、せいぜい五メートルぐらいにしか見えない。
 太陽が、ずっと西にまわって、夕日が、島にまっ赤なカーテンをおろすと、海もまっ赤になる。やがて、空も島も海も、夕やみにつつまれて、星かげが海にうつりはじめると、今までたくさんおよいでいた魚は、みな、どこかへ行ってしまう。龍宮城の花園も、トルコ玉の青いうろこをじまんした小魚のすがたも見えなくなって、海藻の林の中に生えている、ウミエラ、ウミシャボテンが光ってくると、海の中に、何千、何万という、蛍(ほたる)のような光が、上下左右に動きだす。空の星がうつっているのか。いや、そうではない、夜光虫の群である。
 この光の間を、光る魚が、ぴかぴかした着物をじまんするようにおよぎまわる。これもまた、どんなに美しいながめであるか、口ではいいようもない。しかもこの、うつむいてのぞいて見る、光りかがやく海中の夜光虫は、あおいで見あげる、空気の世界の、星よりも数が多いのだ。
 われわれは、魚つり当番のとき、伝馬船を漕ぎ出しては、この水の世界をのぞいた。そして、龍宮城の花園の美しさや、魚類の美しい色、おもしろい習性に、かぎりない喜びをおぼえた。見れば見るほど、考えれば考えるはど、ふしぎに思われるものが多い。このふしぎに思うことを、少しずつ研究していくうちに、いうにいわれぬ、おもしろさがわいてくるのであった。
 そして、漁業長の説明によって、実物教育と、研究の指導を受けて、たいへんな勉強になった。漁業長と、その助手の小笠原(おがさわら)老人は、この美しい珊瑚礁の海いったいを、われらの標本室(ひょうほんしつ)といっていた。この二人は、太平洋を、じぶんのものと思っているらしい。少なくとも、本部島や宝島付近は、じぶんのものときめていた。
 ここでつった魚は、イソマグロ、カツオ、カマス、シイラ、赤まつ鯛(だい)、白鯛、ヒラカツオ、カメアジなど、多くの種類で、ときどきは、長さ二メートル、太さ人間の足ほどもある海蛇や、尾のなかほどに毒針のある、アカエイも、つり針にかかった。ふかもたくさんいたが、ふかはつらなかった。
 浜べには、貝が砂利(じゃり)のようにうちあげられていた。名も知らぬ幾百種類の貝は、大博物館の標本室いじょうである。そして貝類も食用にした。ウニ、タカセ貝、チョウ貝などをよくたべた。
 島の波うちぎわには、白い珊瑚がくだけてできた、雪のような砂が、ぎらぎらとてりつける日光に、白銀のようにかがやいていた。
 そこには、いろいろの色どりの、大小のカニがいた。珊瑚のかたまりのかげには、緑色のカニで、鯨が潮をふくように、水をふきだすのもいた。静かな夜に、ぐぐぐぐ、と、鳴くカニもいた。いちばん大きなのは、暗くなって、鳥の目が見えなくなったとき、海鳥のアジサシのひなを、大きな釘(くぎ)ぬきのようなはさみでつまんで、せっせとじぶんのあなに運んでいく、匪賊(ひぞく)のようなカニもいた。
 われわれが、この無人島にいた間、さびしかったろう、たいくつしたろう、と思う人もあるだろう。どうして、どうして、そんなことはなかった。
 空にうかぶ雲でさえ、手をかえ品をかえて、われらをなぐさめてくれた。雲は、朝夕、日にはえて、美しい色を、つぎつぎに見せてくれた。とりわけ、入道雲はおもしろく、見あきることがなかった。
 雲の峯(みね)は、いろいろにすがたをかえた。妙義山となり、金剛山となった。それがたちまち、だるまさんとなり、大仏さんとなった。ある時は、まっ黒いぼたんの花のかたまりのような雲が、みるみる横にひろがって、それが、兵隊さんがかけ足をするように、島の方に進んでくると、沖の方にはもう雨を降らし、うす墨の幕がたれさがっている。その雨の幕が、風といっしょに島におしよせて、いい飲み水を落してくれるのだ。
 みんなは、このように、大自然と親しみ、じぶんたちのまわりのものを、なんでも友だちとしていた。
 ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。
 いつくるか、あてにならぬ助け船を、あてにして待っている十六人。何年に一度通るかも知れない船のすがたを、気長に見つけようとしている十六人である。この中に、もし一人でも、気のよわい人があったら、どうなるだろう。
 気のよわい人は、夜ねられない病気になるのだ。夜中に、人のねしずまったとき、空をあおいで、銀河のにぶい光の流れを見つめていると、星が一つ二つ、すっと長い尾を引いて流れとぶ。
「あっ。あの星は、日本の方へ飛んだ――あっちが日本だ……」
 と考える。そうすると、足もとに、ざあっ、ざあっ、とよせてくる波の音も、心さびしくなる。しのびよる涼風(すずかぜ)が、草ぶき小屋の風よけ帆布をゆすぶると、なんだかかなしくなってしまう。月を見ても、ふるさとを思いだす。つくづく考えてみると、待ちわびる帆かげ船も、いつまでたってもすがたを見せない。すっかり気を落して考えこんで、しまいには病気になってしまう。はてしもない高い空の大きさと、海の青さを、心からのろったという、漂流した人の話さえ、つたえられている。
 ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが、いちばんいけないのだ。それでわれらの毎日の作業は、だれでも順番に、まわりもちにきめた。見はりやぐらの当番をはじめ、炊事、たきぎあつめ、まきわり、魚とり、かめの牧場当番、塩製造、宿舎掃除せいとん、万年灯、雑業、こんな仕事のほかに、臨時の作業も多かった。宝島を発見してからは、宝島がよいの伝馬船漕ぎ、宝島でのいろいろの当番もできた。
 これらの作業ほ、どれもこれも、じぶんたちが生きるために、ぜひやらなければならない仕事であった。だれもかれも、ねっしんにじぶんの仕事にはげんだ。
 私が感激したことは、私の部下はみんな、
「一人のすることが、十六人に関係しているのだ。十六人は一人であり、一人は十六人である」
 ということを、はっきりこころえていて、いつも、心をみがくことをおこたらなかったことだ。


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   学用品

 島生活に、だんだんなれて、時間にゆとりができてきた。そこで、六月の中ごろから、学科時間を、午前、午後、一日おきに入れた。
 練習生と会員、それからわかい水夫と漁夫のために、船の運用術、航海術の授業を、私と運転士が受け持った。漁業長は、漁業と水産の授業と、実習を受け持った。このほかに、私が数学と作文の先生であった。
 学用品には苦心した。三本のシャベルを石板のかわりにして、石筆には、ウニの針を使った。島のウニは大きい。くりのいがのような針の一本は、大人の小指くらいもあった。はじめは赤いが、天日にさらしておくと、まっ白になって、りっぱに石筆の代用となった。これでシャベルの石板に、みじかい文章を書き、計算をした。
 習字は、砂の上に、木をけずった細いぼうの筆で書かせた。
 練習生二人には、帰化人三人に、漢字を教えさせ、帰化人には、練習生と会員に、英語の会話と作文を教えさせた。
 だから、なにかのつごうで作業のすくないときは、まるで学校のような日もあった。一週に一度、私が一同に精神訓話をした。

「インキがほしい」
 と、私がいった。
 水夫長が、万年灯(まんねんとう)にたまった油煙をあつめて、米を煮たかゆとまぜて、インキのようなものをつくった。そして、海鳥の太い羽で、りっぱな羽ペンはできたが、インキは役にたつものではなかった。
 漁業長が、カメアジの皮を煮つめて、にかわをつくって、水夫長のインキにまぜて、とうとうりっぱなインキができあがった。このインキは、水に強く、帆布に文字を書いて海水にひたしても、消えない。
 そこで、帆布を救命浮環(うきわ)にはりつけ、その帆布に、このインキで、
「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸(りゅうすいまる)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う」
 と、日本文で書き、おなじ意味を英文で書いて、伝馬船(てんません)で沖にもっていって、
「われらの黒潮よ、日本にとどけてくれ。――救命浮環よ、通りかかった船にひろわれてくれ」
 と念じて、人目につくよう、帆布の小旗を立てて流した。
「インキよ、何年、波風にさらされても消えるな。――文字よ、いつまでも、はっきりしていてくれ。人に読まれるまでは……」
 十六人は、この救命浮環とインキに、大きな望みをかけていた。
 インキができたので、帆布に日記を書きはじめた。女のおびのような、長い帆布に書くのだ。何年かののちには、大きなまき物になる。それから、帆布で読本をつくって帰化人に読ませた。これもまき物だ。

 一日の仕事がすんで、夕方になると、総員の運動がはじまる。すもう、綱引、ぼう押し、水泳、島のまわりを、何回もかけ足でまわる。それから、海のお風呂(ふろ)にはいって、夕食という順序を、規則正しくくりかえした。
 月夜には、夜になっても、すもうをとった。りっぱな土俵も、ちゃんとつくった。
 夕食後には、唱歌(しょうか)、詩吟(しぎん)も流行した。帰化人が、英語の歌、水夫が錨(いかり)をあげるときに合唱する歌などを教え、帰化人は、詩吟を勉強した。
 いよいよねる時間がくると、一日のつかれで、みんなぐっすり眠ってしまって、気のよわいことを、考えるひまがなかった。
 こうやって、みんなが、気もちよくねこんでしまっても、見張当番はやぐらの上で、「船は通らないか」と、ゆだんなく、四方を見はっていたのだ。見張当番は、午後十時ごろまでが青年組、それから夜明けまでは、老年組の当番で、日中は、総員が交代でやぐらにのぼった。

   茶話会

 われら十六人にとって、雨はありがたいものであった。天からたくさんの蒸溜水(じょうりゅうすい)を、すなわち命の水を配給してくれるからである。
 雨の降る日は、みんな、いっそうほがらかで、にこにこしていた。それは、雨水のためばかりではない。ほかにわけがあった。
 雨の日は、午後、小屋の中で、茶話会をすることもあったからだ。茶話会の日には、めったにこしらえないお米のおもゆを雨水でつくって、それを、かんづめのあき缶(かん)や、タカセ貝に入れて、おやつに出すのだ。これは、島いちばんのどちそうで、みんなは、
「ああ、うまい。おもゆというものは、こんなに、うまいものだったのか――」
「舌がとけてしまうほど、おいしい」
 などと、思わずいっては、舌つづみをうつ。そして、雨の日の茶話会は、いつでも楽しく、にぎやかで、余興のかくしげいには、感心したり、おなかの皮をよじって大笑いをしたりして、笑声と拍手の音は、太平洋の空気をふるわせ、波にひびいた。そして、アザラシ半島のアザラシどもをおどろかした。アザラシどもは、人間の友だちのさわぎにあわせて、そろってほえた。
 茶話会の話は、青年たちのためになることばかりで、まことにわれらの無人島に、ふさわしいものであった。やっぱり、海の体験談が多かった。

 小笠原(おがさわら)老人は、よく話をした。かれは、海の上に、四十四年間もくらしている。そして、十六人の中で、いちばんの年長者で、また、いちばん長い年月を海でくらしたのだ。帆船で鯨を追って、太平洋のすみからすみまで航海した。じぶんで、
「おいらは、太平洋のぬしだ」
 と、じょうだんをいうくらいだ。話がすきで、身ぶり手まねをまぜて、話しかたも、日本語もうまかった。
 小笠原老人は、第一回の茶話会に、こんな話をした。

 みんなが、おいらのことを、老人というが、まだ、たった五十五歳だ。このもじゃもじゃひげとふとったからだが、老人に見えるのだろう。
 おいらのおじいさんは、アメリカ捕鯨の本元、大西洋沿岸、北方の小島、ナンテカット島の生まれで、おじいさんも、父親も、おいらも、代々鯨とりだ。おじいさんは、カーリー鯨アンド・アンニー号という百十五トンの捕鯨帆船を持っていて、その船長だった。
 おじいさんが、青年時代、一八二〇年(江戸時代の文政三年)に、太平洋の日本沿岸、金華山沖で、捕鯨船が、まっこう鯨の大群を発見したのだ。
 それはね、何千頭という大鯨が、べたいちめんに、いぶきをしていたというのだ。このことのあったつぎの年から、そのころ世界一さかんであった、アメリカ中の捕鯨船が、金華山沖にあつまって、めちゃくちゃに鯨をとった。なんでもしまいには、各国の、大小七百何隻(せき)の捕鯨帆船が、金華山沖に集まったというのだから、太平洋の鯨もたまらない。
 一八二三年に、そのアメリカ捕鯨船が、小笠原の母島を発見した。小笠原島には、いい港がある。年中寒さしらずで、きれいな飲料水がわき出ている。木がおいしげっていて、いくらでもたきぎがとれる。そのうえ、鯨も島の近くに多い。そして、そのころは無人島だったから、上陸した乗組員は、天幕(テント)をはって休養したが、のちにはりっぱな家をたてて、幾人もの鯨とりが住まうようになった。
 おいらの父親も、小笠原に家をもったのだ。そして、おいらは、一八四五年(弘化(こうか)二年)に、この島で生まれて、フロリスト・ウィリアム、と名まえをつけられた。
 そのじぶん、捕鯨船では、小笠原島のことを、ボーニン島といっていた。なんでも話にきくと、日本のお役人に、
「あの島の名まえは、何というのですか」
 と聞いたら、
「あれは無人島(ぶにんとう)です」
 といったのを、ブニンを、ボニンと聞きちがえて、とうとうボーニン島になったのだそうだ。
 さて、おいらが四歳の年の一月に、アメリカのサンフランシスコのいなかで、砂金がざくざく出るのを発見した者があった。そして、アメリカやヨーロッパのよくばり連中が、シャベルをかついで、さびしいいなかの港、サンフランシスコに、わんさわんさと出かけて行っては、砂金をほった。
 砂金がほしいよくばり病は、捕鯨船の乗組員に、すぐ伝染した。アメリカの、太平洋の港に碇泊(ていはく)中の、捕鯨船の水夫、漁夫、運転士までが、
「鯨よりも、砂金の方がいい」
 といっては、手荷物をかついで、船をおりたり、また、にげ出して行った。それで、何隻もの捕鯨船が、港に錨(いかり)を入れたまま、動けなくなってしまった。それから急に、アメリカの捕鯨船は、だめになった。
 だが、おいらの父親は、生まれつきの鯨とりだった。砂金なんか、見むきもしなかった。気もちのいい小笠原がすきだった。
 さて、おいらの願いがかなって、父親の船に乗せてもらって、太平洋へ鯨をとりに出かけたのは十一歳の春(安政二年)だった。うれしかったね。なんでも、早く一人まえになって、一番銛(もり)をうってやろうと、思ったね。
 はじめは、帆柱の上にある、ほんとうの見張所の下に、樽(たる)をしばりつけてもらって、その樽の中にはいって、見はり見習いをやった。上の方の大人の見はりに負けずに、すばやく、鯨のふきあげる息を見つけては、歌をうたう調子で、声を長く引いて、鯨が息をするように、
「ブロース――ホー」
 と、力いっぱい、どなったものだ。
 あの鯨のいぶき、ふつう潮吹というが、あれを「ブロー」というのだ。そして、うでをのばして、見えた方角を指さすのだ。すると、下では、甲板から帆柱を見あげて、
「鯨はなんだ」
 と聞くのだ。息のふきかたで、鯨の種類がはっきりわかるのだ。
「まっこう」
 とか、
「ながす」
 とか、すぐにいわないと、ひどくしかりとばされるし、まちがったりすると、どえらくおこられたものだ。そのおこって、どなるもんくが、
「このお砂糖め」
 というのだ。ところが、いわれる方では、それこそ、雷が頭の上に落ちたように、うんとこたえるのだ。
 それは、こうなんだ。海の男として、りっぱな一人まえになるまでには、何千べん、いや数えきれないほど、頭から波をかぶっていて、骨の心まで塩けがしみこんでいるはずだ。それで、一人まえの海の勇士が「塩」だ。おいらのような、とくべつの海の男が「古い塩」だ。それだから、塩のはんたいに、「お砂糖め」としかられては、海で男になろうという者にとっては、まったく、なさけなくなるよ。
 鯨のふく息は、一回六秒ぐらいで、十分間に六、七回はふきあげる。水煙がとくべつにこくって、十秒ぐらいも長くふくのは、深くしずむまえだ。鯨が肺の中の空気を、ほとんど出してしまうからだ。
 ふく水煙の高さは、十メートルいじょうのこともある。まっすぐにふきあがって、先の方が二つにわれるのは、せみ鯨。太く一本ふきあげるのが、ざとう鯨。一本で細く高くあがるのが、しろながす鯨。それよりみじかいのが、ながす鯨。いちばんひくいいぶき、それでも四メートルぐらいのが、いわし鯨。前の方に四十五度ぐらいの角度でふくのが、まっこう鯨だ。
 まっこう鯨は、歯があって、強くて元気なやつで、鯨どうしで、大げんかをすることがある。油をとるのにいちばんいいので、どの鯨船でも追いかける鯨だ。銛をうちこまれると、おこってあばれる。あのかたい大頭で、ちょっとつかれても、尾で、ちょっとはたかれても、ボートは粉みじんだ。どうかすると、本船めがけて、ぶつかってくることがある。本船だって、どしんとやられると、ひびがはいって沈没することがある。
 はじめて「鯨とび」を見たときは、うれしかったね。せなかにひれのあるいわし鯨が、なんべんも、つづけてとんだのを見た人は少ないだろう。十五メートルもある、あの大きなのが、頭を上に、ほとんどまっすぐに、海面からとびあがって、尾を海から高くはなしたな、と見るまに、大きな曲線をえがいて、頭の方から海にどぶうんとはいって、またとびあがるのだ。すばらしいなめし革のような白い腹には、縦に幾筋も、大きな深いしわがある。灰色のせなかには、ちょっぴり三角のひれ。鯨ぜんたいが、日光にきらきらするのだ。
 まっこう鯨も、よくとぶ。あの十五メートルいじょうもある大きなのが、はじめは海面すれすれに、たいへんな速力でおよいでいると見るまに、少しずつとびあがり、しまいには、すぽーんと、空中にとび出すのだ。角ばった頭を上に、四十五度ぐらいの角度にかたむけて、あの世界一大きなからだを、すっかり空中に出したすがたのりっぱさ。なんといったらいいだろう、おいらにはいえないね。何しろ地球上の動物の中で、でっかいことでは王様だ。
 それが、水に落ちるときの水煙とひびき、まるで水雷の爆発だ。それも、三つ四ついっしょにね。ぶああんと、遠くまで、海鳴りがして、ひびき渡っていく。こんなことは、まあ、陸では見られない。海は大きいが、動物も大きいと、つくづく思うね。
 また、こんなこともあった。おいらが十五歳のときだ。おとうさんの船に乗って、アラスカのいちばん北のとっさき、バーロー岬から、もっと東の方へ、北極の海を、氷のわれめをつたわって、行ったことがあった。船の上から、氷の上に、のそのそしている白くまを、いくつも見た。
「おとうさん、白くまをとってもいい」
 と聞いたら、おとうさんは、
「鉄砲でうったり、銛でついてはいけない。いけどりにするならいい」
 といった。まだ少年のおいらに、――くまがりなんかおまえにはできないよ。そんなあぶないことをするな――という、ありがたい親心が、今ではよくわかる。だが、そのじぶんには、親のありがたさなんぞは、気がつかない。
「おとうさんは、ぼくの勇気をためすのだ。鯨よりは、ずっとちっぽけな白くまだ。生けどりにできないことはない。――よし、やるぞ」
 こんな親不孝なことを考えた。そして、アメリカの牧童が、あれ馬にまたがって、ふちの広い帽子をかぶって、投縄をぶんぶんふりまわして、野馬や野牛にひっかけて生けどりにするように、白くまを生けどってやろう。おとうさんはじめ船の連中を、びっくりさせて、それから、まっ白い毛皮をおじいさんに、おみやげにして喜ばせてあげよう。ぼくは、いっぺんに英雄になるのだ。こう決心して、さっそく、くまとりの練習をはじめた。
 白くまは、人が近づくと、後足で立ちあがって、前足をひろげて、とびかかって人間をだきこむというから、こっちの方が先に、投縄をくまの首にひっかけるのだ。そうして、すぐに前足にも、その縄をひっかけて、力いっぱい、前の方へ引き倒してやろう。そうすれば、くまが前足にからんだ縄で、じぶんの首をしめるから、生けどりにできると考えた。
 それで、まず長い縄の先に、金の小さい輪をはめ、これに縄を通して、大きなずっこけをつくり、それから、白くまのかわりに、木で十文字をつくって、甲板の手すりに立ててしばりつけ、十文字の横木を、くまの前足に見たてて、十歩ぐらいはなれたところから、投縄の練習をはじめた。
 首にひっかけたら、すぐに、縄にはずみをつけて、輪を送って、右でも左でも、前足にその輪をひっかけて、ぐっと引けばいいのだ。三日も四日も、めしをたべる時間もおしんで、練習した。子どもだって、いっしんは通るよ、上手になったね。おしいことには、いよいよ白くまと対面というときに船は出帆してしまった。おとうさんは、――これはあぶない――と思われたにちがいない。
 この投縄は、いい運動にもなるし、何かの役にもたつよ。みんな、やってどらん、おいらが教えるよ。
 それから、なぜ、フロスト・ウイリアムのおいらが、小笠原島吉(おがさわらしまきち)となったかを、ひとつ話しておこうね。
 おいらが三十一歳のとき、明治八年に、ボーニン島が、日本の領土となって、日本小笠原諸島とはっきりきまったのだ。おいらの生まれた島だ。なつかしい島だ。島が日本の領土となったのだから、おいらも日本人だ。そうだろう。それで帰化して日本人となった。フロスト・ウィリアムが、日本名まえにかわって、島の名をそのままもらって、小笠原島吉。どうだ、いい名だろう。
 漁夫の範多(はんた)のことも、ちょっといっておこう。範多のおやじは、捕鯨銃の射手から、ラッコ猟船(りょうせん)の射手となった。鉄砲の名人だったよ。射手のことを、英語でハンターというのだ。ハンターのせがれの、エドワーズ・フレデリックが帰化して、おやじの職業のハンターをそのままつけて、範多銃太郎(じゅうたろう)となったのだ。
 ここにいる、おいらのいとこの、ハリス・ダビッドが、父島一郎、これも、小笠原諸島の父島に住んでいたので、島の名をそのままつけたのだ。
 このつぎには、もっとおもしろい話をしよう。きょうはこれでおしまい。
 天幕の中は、われるような拍手である。

   鳥の郵便屋さん

 七月のはじめに、宝島で、名刺くらいの大きさの銅の札で、ひもを通したらしいあなのあるものを発見した。その札のおもてに、かすかに英文らしい文字があらわれているといって、運転士が、本部島の私のところへ持ってきた。
 双眼鏡のレンズを虫めがねにして、よく見ると、釘(くぎ)でかいた英文であるが、なにぶんにも長い月日をへたものらしく、ほとんど消えかかっていた。帰化人や練習生など、英語のわかるものが、よってたかって、やっと読むことのできたのは、
「……、……島、難破、五人生存、救助――一八……年……」
 という意味の文字だけで、船の名と、島の名、年月は消えていた。
 それで、この銅の札は、どこかの島で難破した外国船の、生き残った五人が、船底にはってあった銅板に、釘でみじかい救助をもとめる文章をかいて、海鳥の首につけて、飛ばしたものにちがいない。
「どうなったろう、五人の人たちは……」
 みんなの思っていることを、練習生の秋田がいった。
 すると小笠原老人は、
「心配することほない、昔のことだ。こんなことは、助かったものと、きめておけばいいのだ」
 と、いいきった。
「銅の札は、いい思いつきだ、われわれもさっそく、まねをしよう」
 私は、われらの倉庫から、このまえ流し文(ぶみ)に使った銅板の残りが、たいせつにしまってあったのを出させて、十枚の銅の札をつくらせ、ひもを通すあなをあけさせた。それから、釘で、
「パール・エンド・ハーミーズ礁(しょう)、龍睡丸(りゅうすいまる)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う。明治三十二年七月」
 と、日本文で書き、そのうらに、英文でおなじ意味のことを書かせた。日本文は、会員と練習生に、英文は帰化人に書かせた。書く者は、「これできっと助かるのだ」と思いこんで、いっしんこめて書いた。
「国後(くなしり)。この札をつけて飛ばせるのに、役にたちそうな鳥をつかまえてくれ。なるべく元気なやつを、たのむよ」
 鳥と国後とは友だちだと、みんなが思っているのもおもしろい。
 国後がつかまえてきた海鳥の首に、銅板の一枚をじょうずに細い針金でしばりつけて、さて飛ばそうとしたが、札が大きすぎて、重くて鳥は飛べない。そこで、だんだんに札を小さくして、鳥が首につけて飛べるだけの大きさがわかったので、アジサシと、アホウドリと、あわせて十羽の海鳥の首に、その札をつけて、浜に出て、みんなで飛ばせた。
 首に札をつけられて、びっくりした鳥は、一羽一羽かってな方角へ、高く飛んで行った。雨雲がひくく水平線にたれさがって、いまにも降り出しそうな空に、鳥のゆくえを見まもって、浜べに立った人たちは、
「鳥の郵便屋さん、たのむぞ」
「潮の流れの郵便屋さんよりは、鳥の方が速くて、ましかも知れない。どこかの島へおりるからね。無人島じゃ、せっかく配達してくれても、受け取る人がないや……」
「アジサシにアホウドリ、どっちがたしかかなあ――」
 思い思いのことをいった。
 浅野練習生が、とつぜん大きな声で、
「あの鳥がいると、昔話のとおりだがなあ……」
 その声に、水夫長は、びっくりしたような顔をして、ふりむいて、
「なんだい。昔話のあの鳥というのは、わけがありそうだな。教えてくれよ」
 知らないことは、なんでも、だれにでも聞こうとするのは水夫長のいい心がけだ。私がいつであったか、「聞くはいっときの恥。知らぬは末代の恥」という話をしたことがある。それからずっと、私の話のとおりに実行しているのだ。
「話はばかに古くって、長いのだよ」
「じゃあ、みんな、ゆっくり砂にあぐらをかいて、聞かせてもらおう」
 この連中は、このように、おりにふれ、事にあたって、研究したり、わけを知ろうとする心がけの人ばかりであった。
 浜に円陣をつくって、あぐらをかいた人たちに、浅野練習生は話しはじめた。
「ずっとまえに、修身の本で読んだ話です。今から二千年も前、漢の国に、蘇武(そぶ)という人があって、皇帝の使者として、北の方の匈奴(きょうど)という国へ行った。ところが匈奴では蘇武をつかまえてこうさんしてけらいになれといったが、蘇武はきかなかった。そこで、大きなあなの中へぶちこんで、食物をやらずにおいたが、蘇武は何日たってもへいきでいた。これを見て匈奴では、蘇武はただの人ではないと思って、殺さずに、ずっと北の方の、無人のあれ野原に追いやって、雄のひつじを飼わせて、この雄のひつじからお乳が出るようになったら、おまえの国へ帰らせてやる、といいわたした。それでも蘇武はへいきだった。はじめあなに入れられたときは、雪が降ったので、じぶんの着ていた毛織物の毛をむしりとって、雪といっしょにたべて、生きていた。あれ野に追い出されてからは、野ネズミをとってたべたり、草の実をたべたりして、十年も十五年もがんばっていた。
 十九年めに、漢の国から匈奴の国へ使者がきて、蘇武をかえせと申しこんだ。すると匈奴では、蘇武はとっくの昔に死んでしまった、といったが、漢ではスパイの通知で、蘇武の生きていることを知っていたから、たぶんこんなことをいうだろう、そうしたらこういってやろうと、考えていた計画のとおりに、
『そんなことはない。蘇武は生きている。つい先日、私の方の皇帝が、狩に出て、空飛ぶ雁(かり)を矢を放(はな)って射落したら、雁の足に、白い布に墨で書いたものがしばりつけてあった。ほどいてひろげてみたら、蘇武からの手紙で、私は北のあれ野原に生きている、助けてください、と書いてあった。うそをいわないで、蘇武をかえしてください』
 と使者はいった。この計略にうまく引っかかった匈奴は、一言(いちごん)もなく、十九年めに蘇武をかえした。
 このことがあってから、手紙のことを、『雁の使』というようになったのです」
 聞く人も話す人も、たったいま、銅の札に、「助けてくれ」と釘で書いて、海鳥の首につけて、飛ばせたばかりだ。みんなは、蘇武の話に深く感動した。水夫長は、すっかり感心して、
「生徒さん、ありがとう。よくわかった。蘇武という人は十九年もがんばったのだなあ。――わしらは、これからだ」
 龍睡丸乗組員は、海の人として、不屈の精神をもった、りっぱな者がそろっていた。めったなことには、気を落さない。命のあるかぎり、いつかすくわれる、という希望をかたく持っていた。海流に配達してもらう郵便にも、鳥に運んでもらう手紙にも、望みをすてはしない。
 小笠原老人は、みんなにいった。
「いまの話を聞いて、この島はいい島だと、つくづく思うね。あたたかくて、たべ物がたんとあって、人数も多くて、にぎやかだ。そのうえ、いろいろのいい話が聞かれて、勉強になる。ほんとにわれわれはしあわせだよ。いつまでもがんばることだ」
 いつも、料理を指導している運転士は、
「野ネズミや草の実で、十九年もがんばった人もある。さあ、魚とかめの昼飯だ。がんばろう」
 といいながら昼飯に立ちあがった。
 さて、昼飯のこんだては、カツオのさしみに、島に生えたワサビ、タカセ貝のつぼ焼、かめの焼肉である。野ネズミと草の実にくらべると、天と地のちがいがある。
「ありがたいなあ――このごちそうだ」
「何十年でもがんばるぞ」
 だれかれが、思わずもらしたことばだ。これはまったく十六人の気もちをいったものであった。
 一同は、天幕(テント)の中で、船長を上座に、その両がわに、ずらりと二列に向きあって、ござの上にぎょうぎよくすわって、料理当番のくばる食事を、いつもよりは、いっそうおいしく思った。そしてよくかんで、食糧のじゅうぶんなことを感謝しながらたべていると、雨もようだった空は、ぽつり、ぽつり、そしてたちまち、ひどい降りになってきた。
「それっ。水だ」
 みんなは、すぐに箸(はし)をおいて、大いそぎで、雨水をためるように、風よけ幕を、外の方へはり出した。こうして、小屋の屋根に降る雨水が、石油缶(かん)にどんどんたまるのを、楽しく見ながら、また食事が、にぎやかにつづくのであった。

 この日の午後は、雨の日の例によって、茶話会である。漁業長の捕鯨の話、帰化人範多銃太郎(はんたじゅうたろう)のラッコ猟の話、それにつづいて、小笠原老人が、午前中に流した銅板のはがきにつながりのある、船と郵便の話をした。

 おいらたちのわかいじぶん、捕鯨帆船は、一年ぐらいはどこへも船をよせずに、大海原を、あっちこっちと、鯨を追っかけて航海していたものだ。故郷や友だちへ手紙を出すことなんか、だれも考えていなかった。それでも太平洋には、郵便局が一つあった。
 それは、南アメリカのエクアドルの海岸から、西の方へ六百カイリのところ、太平洋の赤道直下に、火山の島々、ガラパコ諸島がある。それは、十何個の島を主とした、六十ばかりの火山島の集まりで、スペイン人が発見した諸島だ。
 ガラパコというのは、陸に住む大がめのことで、このかめは、陸かめのなかでいちばん大きなかめで、こうらの直径一メートル半もあって、人間を乗せてもへいきでのこのこ歩くのだ。ガラパコ諸島には、そのガラパコがたくさん住んでいるから、ガラパコ島というのだ。このかめには、べつに象がめの名がついている。からだが大きいからそういうのでもあるが、また、その足が、象の足によくにているからでもある。なんでもかめは七種類あって、島がちがうと、住んでいるかめの種類も、ちがうそうだ。
 つい近ごろまでこの島々には、まるっきり人が住まっていなかった。それで昔は、船をつけるのにいちばんつごうのいい島は、海賊の巣であったが、のちには捕鯨船が、この島の港に船をよせては、飲料水をくみこんだり、たきぎを切ったり、糧食の補給に、木の実や、野生の鳥、けだもの、それからガラパコをつかまえていた。
 いったい、この島にはめずらしい動物が多く、イグアナという大トカゲの、一メートルぐらいのものがたくさんいるし、飛べない鳥もいた。また小鳥たちは、人間を友だちと思っているらしく、へいきで人の肩にとまったり、靴の先をつっついてみたりした。
 この無人島の港に、百年ぐらいまえから、有名なガラパコ郵便局ができた。そして捕鯨船なかまには、たいへんに役にたった。この郵便局は、一八一二年英国と米国とが戦争したときに、英国の軍艦エセックス号のポーターという艦長が、こしらえたのだ。
 郵便局といっても、船から上陸した人が、すぐ目につく場所にある、熔岩(ようがん)のわれめの上に、とくべつに大きなかめの甲羅をふせて屋根として、その下へ、あき箱でつくった郵便箱をおいたものだ。ただそれだけだ。
 この郵便局ができてからは、捕鯨船の船員は、島に船をよせると、すぐに上陸して、かめの甲羅の下の郵便箱をさがして、じぶんや、じぶんの船にあてた手紙を見つけだす。そうして、じぶんが書いた、ほかの船の友達にあてた手紙を、この郵便箱に入れておくという、おもしろい習慣ができて、それが、ずっとつづいたのだ。
 もう一つ、太平洋の郵便配達では、ふうがわりなのがある。それは、赤道から、もっと南の方、南緯二十度のところに、トンガ諸島というのがある。それは、百個ばかりの小さな島の集まりだが、この中の一つ、ニューアフォー島のことを、水夫なかまでは、「ブリキ缶島」といって、ほんとうの島の名をいわないのだ。
 この小島は、どっちを向いても、いちばん近い島が、三百カイリもはなれているけれども、フィジー島とサモア島の間をかよう、汽船の航路のとちゅうにあたっているので、この島あての郵便物は、汽船が通りがかりに持ってきてくれるのだ。
 しかし、この島のまわりは、波があれくるって、郵便物を汽船から島へおろすことも、島からボートを漕(こ)ぎ出して、汽船に行って受け取ることもできないときが多いのだ。そこで、波の荒い季節中、この島あての郵便物を、ブリキ缶にかんづめにして、島の風上(かざかみ)から、海に投げこんでおいて、汽船はそのまま通りすぎて行く。島からは、これを見ていて、およぎの達者な住民がおよいでいって、このかんづめ郵便物を、波の間からひろってくるのだ。それでこの島が、ブリキ缶島とよばれるようになったのだ。

   草ブドウ

 島にあがってから、われわれは、急にやばん人のような生活をはじめて、飲み水は、塩からい石灰分の多い井戸水。たべ物は、かめと魚ばかり。そのために十六人とも、すぐに赤痢のようになって苦しんだことは、まえに話したが、これにこりてみんなは、病気になったり、けがをしないように、いっそうおたがいによく気をつけるようになった。
 魚やかめは、いくらでもいて、いくらたべても、たべほうだいである。しかし、たべすぎて、からだをわるくしないように、水もやたらに飲むくせをつけないように、また、運動をよくして、からだを強くすることなど、こまかいところまでも注意した。
 われらの領土の宝島には、つる草が生えていた。宝島の当番が、このつる草に、ブドウににた小さな実がたくさんなっているのを発見して、その実を、本部島に送ってよこした。
 見たところ、むらさき色で、光るようなつやがあって、なんとなくどくどくしい感じもあるが、うまそうである。みんなひたいをあつめて、しらべてみたが、だれも何という草の実か、知っている者がない。
「アメリカには、こんな実があるだろう」
 運転士が、小笠原(おがさわら)老人にきくと、
「ここにいる三人は、小笠原島生まれで、アメリカを知りませんよ」
「なるほど、そうだった――」
 と、大笑い。
 ともかくも、うっかりはたべられない。せっかくいままで、艱難辛苦(かんなんしんく)をきりぬけてきたものを、また、これからさきも、命のあるかぎり、働こうというのに、名も知らぬ島の野生の草の実で、命をなくしたり、病気になっては、たまらない。私は、
「毒でないことが、はっきりするまで、たべてはいけない」
 と、いっておいた。
 ところがある日、宝島当番の者が、鳥のふんのなかに、この草の実の種を発見した。これは、まったく大発見であった。つぎの便船で、宝島から、流木やかめといっしょに、種入りの鳥のふんと、草の実とをたくさんに本部島へ持ってきた。
「どうでしょう、鳥がたべるのですから、人間もたべられると思いますが」
 鳥のふんのなかの種をしようこに、たべてもだいじょうぶという者があると、
「動物といっても、鳥と人間とは、たいへんなちがいだから」
 といって、不安に思う者もあった。
 いちばんねっしんに、たべてもだいじょうぶというのは、動物ずきの漁夫の国後(くなしり)である。かれはこういった。
「宝島の草ブドウは、たべてもだいじょうぶと思います。まず私が、みんなのために、たべてみたいのです。五粒か六粒、ためしにたべるのですから、まんいち、毒にあたっても、たいしたことはありません。それに鳥やけだものは、しぜんに身をまもることを、よく知っています。毒なものはたべません。鳥の試験でじゅうぶんです。この草ブドウは、十六人にとっては、なくてはならない食物と思いますから……」
 けなげなかれの気もちは、よくわかる。しかし、もっとたしかめたうえでないと、私は、たべてもいいとはゆるせない。
「とにかく、もうすこし待て」
 と、いっておいた。
 翌日、国後と範多(はんた)の二人が、
「鳥は、毒をよく知っています。人間がたべてもだいじょうぶです、ねんのため、つりたての魚の腹に、この実を入れてアザラシにたべさせてみましょうか」
 と、いってきた。
 この二人が、じぶんたちのきょうだいのように思っているアザラシで、動物試験をしようというのは、たべてもだいじょうぶと、たしかに信じているからだ。
 一方ではべつに、運転士と漁業長とが、実をつぶして、カニの口にぬってみたり、かめの口に入れてみたりして、ともかくも、鳥いがいの動物試験をしていた。
 種入りの鳥のふんが本部島についてから、三日めの朝、範多が、運転士の前にたって、頭をかきながら白状した。
「私はゆうべ、ねるまえに、草ブドウを十粒ほど、ないしょでたべましたが、とてもおいしくて、そのうえよく眠れました。けさは、このとおり元気ですし、腹ぐあいもたいへんいいのです。もう草ブドウはたべてもだいじょうぶです」
 かれはとうとう、みんなのためにたべたのだ。人間の試験は、こうしてすんだ。それから、みんながこの実をたべはじめた。
 うまい。何しろ野菜といったら、島ワサビだけであった。そこへ、草ブドウが発見されたのだ。こんなおいしい草の実は、生まれてはじめてたべるとみんながいった。草ブドウをたべだしてから十六人は、急にふとってきた。ひどい下痢をしてから、ひきつづいてよわっていた、漁夫の小川と杉田も急に元気になって、力仕事もいくらかはできるようになった。
 こうして、草ブドウは、宝島から本部島へ送り出す、重要輸出品となった。つみたての、むらさき色の小さなブドウににた草の実は、飲料水タンクである石油缶(かん)の、からになったのにつめられてかめと流木と塩といっしょに、本部島へ、便船ごとに運ばれてきた。
 この小さなつる草の実、われわれが、草ブドウと名をつけた実は、島ワサビのほかに、植物性食物のない十六人にとって、じつにたいせつな食糧となった。そこで、本部島にこの種をまき、また宝島からつる草をそのまま、根をていねいにほり出して、本部島にうつし植えて、栽培につとめた。それからまた、ほしブドウのように、実をかわかして、冬の食糧にたくわえる工夫もして、いつまでも無人島に住める用意をした。

   われらの友アザラシ

 アザラシと、いちばんはじめに友だちになったのは、国後(くなしり)と範多(はんた)であった。そして、やがてどのアザラシも、人間となかよしになった。いっしょにおよいだり、投げてやる木ぎれを口で受けとめたり、頭をなでてやると、ひれのようになった前足で、かるく人をたたいたり、また、われわれがアザラシ半島に近づくと、ほえてむかえにきたりした。
 二十五頭のアザラシは、いつでも、アザラシ半島に、ごろごろしてはいないのだ。われらがアザラシをたずねても、一頭もいないことがある。そのときかれらは、自然の大食堂、海へ、魚をたべに行っているのだ。およぎの達者なこの海獣は、五、六頭ずついっしょに、島近くの海をおよいだり、もぐったりして、魚をたくみに口でとらえて、腹いっぱいたべると、島へあがって、ごろごろして眠っているのだ。
 そして、眠るときは、きっと一頭だけが、見はり番に起きていて、われらが近づくと、すぐになかまを起してしまう。また、五月のはじめに生まれたらしい、かわいらしい子どもアザラシが、五頭もいた。母親がこれに、およぎかたや魚のとりかたを、教えていることもあった。
 アザラシが島にいないときは、大きな声で、
「ほうい、ほい、ほい、アザラシやあい」
 と、海にむかってさけぶと、この声をききつけて、沖の方から、海面を走る魚形水雷のように、白波を起して、われこそ一着と競泳しながら、何頭も島に帰ってくる。
 そして、私たちが立っているなぎさにはいあがると、頭を、ぶるぶるっと、はげしく左右にふって、毛についた水のしずくをはらいおとし、それから、右と左の前足をかわるがわるふみかえて前へ出し、両方の前足が前へ出たとき、後足をあげて前へ引きよせる、おもしろい歩きかたをして近より、ふうふういって、頭をこすりつけるのである。
「おお、おお、よくきた、よくきた、どうだ魚をうんと食ったか」
 こういって、右手で頭をさすってやると、ほかのアザラシは、私が左手に持っている木ぎれをくわえて引っぱる。
 うしろにまわった二、三頭は、頭でぐんぐんおして、
「さあ、人間のおじさん、いっしょにおよいで遊ぼうよう」
 というような、そぶりをするのだ。
 そこで、立ちあがって、
「そうれ」
 といって、手に持った木ぎれを、力いっぱい、できるだけ遠く海へ投げると、アザラシどもは、たちまち海へとびこんで、しぶきをあげて、木ぎれに突進する。木ぎれをくわえ取ったアザラシは、とくいそうに、頭を高く水から出して、岸にむかっておよぎ帰る。ほかのアザラシは、はずかしそうに海面すれすれに、顔半ぶんを出して、そのあとにつづくのである。こんなに、われらと野生のアザラシとはなかよしになっていた。
 ところが、二十五頭のアザラシ群のなかに、ただ一頭、いつも、ひときわいばって頭をもたげ、りっぱなひげをぴんとさせ、胸をそらしている、雄アザラシがあった。
 このアザラシは、けっして人間をあいてにしなかった。
 お友だちにならなかった。
 国後や範多のような、アザラシならしの名人さえ近づけなかった。
 投げてやった魚は、横をむいて、たべようともしない。
 そして、
「なんだ、人間くさい魚。へん。おいらの食堂は太平洋だよ」
 と、いわぬばかりに、海にはいるとすぐに、大きな魚をつかまえて、口にくわえ、水から頭を高く出して、人間に魚を見せびらかすように、たべるのであった。
 そして、ほかのアザラシとよくけんかをして、きっと勝つのだ。
 この強いアザラシの頭には、かみつかれた大傷のはげがあって、いっそうかれをあらあらしく強そうに見せていた。
 このアザラシが、どうしたことか、いつのまにか元気な大男の川口に、すっかりなついてしまった。
 川口のやる魚なら、手のひらの上でたべた。川口がなでてやると、喜んで大きなひれのような前足で、川口をばたばたたたいた。川口が、どんなに喜んだかは、はたで見る者が、ほほえまれるほどであった。
 かれは、国後にさえなつかなかった、この勇ましい、そして強情なアザラシに、「むこう傷の鼻じろ」という名まえをつけた。それは、頭に大傷のあるこのアザラシは、鼻の上に一ヵ所、一かたまりの白い毛が生えている、めずらしいアザラシであったからだ。
「鼻じろ」は、川口のじまんのもので、まるで、弟のようにかわいがっていた。かれは、ときどき料理当番にたのんで、じぶんのたべる魚の半ぶんを、料理せずに、生のまま残しておいてもらって、「鼻じろ」にたべさせていた。
 ある日、夕食後のすもうで、川口が五人ぬきに勝って、みんなから拍手されたとき、「いや、『鼻じろ』にはかなわない。あいつは、二十四頭ぬきだ。アザラシの横網だよ」
 と、また「鼻じろ」のじまんをした。そしてみんなも、「鼻じろ」は、たしかにアザラシのなかで、いちばん強い王様であることをみとめた。川口はとくいであった。かれは「鼻じろ」のように胸をそらして、
「強い大将には、強いけらいがあるよ」
 と、いった。すると、水夫長が、
「大将さんははだかで、けらいがりっぱな毛皮の着物を着ているなんて、よっぽど、びんぼうな大将だ」
 といった。それでみんな、手をうって、大笑いに笑いこけた。
 これも、ほがらかな無人島生活の一場面だ。だが、「鼻じろ」がいちばん強いということが、あとで川口に、かなしい思いをさせることになった。

   アザラシの胆(きも)

 さて、遭難して島にあがった当時、十六人は、ひどい下痢をしたが、それもじきによくなって、みんなもとどおりのじょうぶなからだになった。しかし、小川と杉田とは、ひきつづいてよわっていた。
 宝島の草ブドウの実をたべはじめてから、一時は元気になったように見えたが、その後少しもふとらないで、だんだんやせてくる。当人は、おなかぐあいがいいといって、力仕事に手を出してはいるが、どうも、たいぎらしい。とくべつにたくさん草ブドウをたべさせ、万年灯(まんねんとう)でおなかをあたため、おなかに毛布をまきつけたり、いろいろと手あてをつくすが、少しもききめが見えない。
 八月も中ごろになって、島の生活も四ヵ月になった。一同は、すっかり島生活になれて、はちきれそうないきごみで、日々の仕事にせいを出してるが、二人の漁夫の元気のないのが、みんなの気がかりであった。
 何かいい薬はないだろうかと、いろいろそうだんしたが、これはたぶん、胆汁(たんじゅう)のふそくからきた病気にちがいない、にがい薬をのませたらいいだろう。それにはアザラシの胆、胆嚢(たんのう)をとって、のませるのがいちばんいい。くまの胆嚢を「熊(くま)の胆(い)」といって、妙薬とされているから「アザラシの胆」も、ききめがあるにちがいない、と話がきまって、さっそくアザラシの胆をとることになった。ところが二人の病人は、「もう少し待ってください。草ブドウをたべはじめてから、じぶんでは、たいへんによくなったと思います。せっかく、あんなにわれわれになついているアザラシを、私たち二人のために殺すのは、かわいそうでなりません。しばらく待ってください。いまに、きっとよくなりますから」
 というのだ。
 じつのところ、だれ一人、アザラシを殺したくはないのだ。しかし、人間の命にはかえられない。
「アザラシだって、人助けの薬になれば、きっとまんぞくするよ。みんなのするとおりにまかせておけ」
 とさとしても、病人は承知しない。
「私たち二人は、そんなに大病人なのでしょうか。見はりやぐらの当番と、宝島当番はできませんが、かめの当番も、小屋掃除も、魚つりもできます」
 こういって、いかにも元気そうに、立ち働いてみせるのだ。その心持は、まったくいじらしい。どうかして、なおしてやりたい。だが、病人にさからって、アザラシを殺したなら、
「あれほどたのんだのに、とうとう、アザラシから胆をとってしまった。してみると、じぶんは、ひどい病気なのだ」
 こんなふうに、考えちがいをされてもこまる。もう少し、ようすを見てからにしよう、ということにしておいた。
 友だちとして、かわいがっているアザラシを殺す、ということは、病人でないほかの者にも、大きな問題であった。口にこそ出さないが、みんなは、
「かわいそうなアザラシ。とうとう、くる時がきてしまったのだ。アザラシよ、われらを、なさけ知らずとうらむな。とうとい人間の命を助けるのだ。魚だって、かめだって、あのとおりお役にたっているではないか……」
「しかし、アザラシ殺しの役目には、あたりたくないものだ」
 と思っていた。けれども、手配は、さすがにりっぱだ。
「いちばんききめのありそうな胆を持っているアザラシを、けんとうをつけておいて、いざとなってまごつかないようにしよう」
「薬のききめの多いのは、強いアザラシがいいのにちがいない。強くて胆の大きそうなアザラシをきめておこう」
 と、いうことになった。そのけっか、しぜんに「むこう傷の鼻じろ」の胆をとることに、きまってしまった。そして、いよいよやる時には、みんなでくじを引いて、あたった三人が、胆とり役を、かならず引き受けることにしてしまった。
「鼻じろ」の胆を薬にしようときまったのは、八月の末であった。この時、小笠原(おがさわら)老人は、
「はっはっは、『むこう傷の鼻じろ』か。何しろアザラシの王様だ。すばらしい胆だろう。どんな病気だって、いっぺんにすっとぶよ。――だがね、あとがこわい。元気がつきすぎて、『鼻じろ』とおんなじに、しょっちゅうけんかか。そうして、おいらがなぐられてよ、『むこう傷のあかひげ』か――あっははは」
 と、じょうだんをいった。するとすぐそばで、流木に腰をおろして、つり針の先を、ごしごしこすっていた川口は、立ちあがって、みんなの方にやってきた。
「いっとう強くて、胆の大きいのは、『鼻じろ』にきまっている。それが人助けのお役にたつのだ。やっぱりえらいや。
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