無人島に生きる十六人
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著者名:須川邦彦 

 つぎに、毎日三度のたべものは、はじめは、島にいた四頭の正覚坊であった。それは、三日でたべてしまった。
 それからは、魚をつった。つり針は、石油缶のとっ手になっている、太い針金をとって、先をとがらせて、まげたもの、また、缶づめの木箱の釘(くぎ)をぬいて、うまくまげてつくった。
 魚つりなら、十六人のなかには、名人がいくらもいる。ヒラガツオ、シイラ、カメアジをはじめいろいろの魚が、いくらでもつれた。
 魚の料理は、さしみが、いちばん手数がかからなくてよい。焼魚、潮煮、かめの油でいためたのもたべたが、これには、たいせつなたきぎを、使わなければならないから、たびたびはできない。
 これは、すこしあとの話になるが、魚をつりはじめてから、米をたべることは、いっそう節約をした。重湯は、一日おきにし、また二日おきにした。しまいには、魚ばかりたべてくらした。
 米を節約したのは、わけがある。それは、故国日本の人たちが、
 ――龍睡丸(りゅうすいまる)は、いつまでたっても帰ってこない。どうしたのだろう。漂流しているのか、沈没してしまったのか、行方不明になってしまった――
 こういううわさをして――それが東京の新聞にでるのは、秋の末か、冬になってからであろう。
 それから、捜索船を出してくれると考えると、来年の五、六月頃でないと、捜索船は、この島の付近にはやってこない。しかもこれは、私たちじぶんかっての考えで、故国の人たちは、われわれが無人島でくらしているとは、思わないかも知れない。
 龍睡丸は沈没して、乗っていた者は、みんな死んでしまったのだと思って、助け船など、出してはくれないかも知れないのだ。
 だから、米は、最後の食糧として、だいじにとっておかなければならない。それに、病人がでたとき、病人にたべさせるためにも、米は、できるだけ残しておきたかったからだ。

   砂山つくり

 島の生活にも、やっとすこしなれた、四日め。五月二十四日の朝から、一同は、大仕事をはじめた。料理当番のほか、総員、砂運び作業にかかったのだ。これには、つぎのような、大きな目的があった。
 いったいこの島から、われわれが日本へ帰るのには、どうしたらいいだろう。
 ――われらの宝物である伝馬船(てんません)で、ホノルルの港まで行こうか――こんな小さな伝馬船で、太平洋のまんなかを、ホノルルまで、島づたいとはいいながら、千カイリもある航海は、とてもできるものではない。
 ――では、われわれで、もっと大きな、がんじょうな船をつくろうか――それには船をつくる材料も、道具もないではないか。この計画はゆめのような話だ。
 ――それでは、日本から来る助け船を、待っていようか――いや、それこそ、まったくあてにならないことだ。
 ――それなら、この近くを通りかかる船を見つけて、助けてもらったらどうだろう――これならば、運がよければ、できることだ。
 この島は、軍艦や商船が通る航路には、あたっていない。しかし、いつ、どんな船が、こないともかぎらない。その通る船を、見のがしてしまったらたいへんだ。それこそ、いつまでもいつまでも、この無人島にとじこめられてはならない。そこで、通る船を見つけるために、見はり番が立つ砂山をつくることにした。
 砂山などをつくらずに、高いやぐらを組みたてればいいことは、わかっている。しかしそれには、長い太い木材が、少くも三本はほしい。だが、その木材がないのだ。
 島は、いちばん高いところでも、海面上、四メートルぐらいである。あとは二メートルぐらいで、うっかりすると、波をかぶりそうなくらいひくい島であるから、遠くが見えない。それで、島じゅうで、いちばん高い、西の海岸の草地へ砂を運んで、砂山をつくり、見はらしがきくようにするのである。これは、われら十六人が、島からぬけ出して、日本に帰ることが、できるか、できないかの大問題であるから、全員は、熱心に砂山つくりの大工事にかかった。
 砂山つくりは、石油缶(かん)、木のバケツ、かんづめの木箱、帆布(ほぬの)と索(つな)とでつくったもっこ、これらに、シャベルで砂をいれては、高いところへ運んだのだ。
 ところがこれは、たいへんなことであった。というのは、蒸溜水(じょういりゅうすい)をやめて、しおからい、石灰分の多い井戸水ばかりを飲み出してから、十六人とも、おなかのぐあいがわるくなっていたのだ。ひどい下痢をおこして、まるで、赤痢にかかったようになってしまった。薬はなんにもないのだ。どうなることかと、たいそう心配したが、とにかく、砂山は早くつくらなければならない。みんな、元気をだして、作業にとりかかった。
 ひどい下痢にかかっているので、気ははっているが、力が出ない。一、二度運んでは、しばらく休まないと動けない。そして汗がでて、のどがかわいて、水が飲みたい。水は、やっと飲めるくらいの井戸水しかない。その井戸水で、おなかをわるくしたのだ。
 飲み水の不自由は帆船には、つきものであった。昔から船の人は、大海のまんなかで、ずいぶん水にこまって、いろいろのことをした。のどがかわいても水のないときは、着物をぬらして、皮膚から水分をすいこませたり、また小石を口にふくんだり、鉛をなめたり、とうがらしを少しずつかむと、一時は、のどのかわきがとまるといい伝えている。
 それで、われら十六人も、漁業長が、つり糸につけるおもりにしようと持ってきた、うすい鉛の板をなめては、砂を運んだ。
 仕事は、ちっともはかどらない。工事をはじめてから、二日めになった。
「ちりもつもれば山だ。いまに高い砂山ができるぞ」
「重いと、よけいにつかれるから、少しずつ運ぼう」
「車があるといいなあ」
「できない相談は、いわない約束だよ」
「しかし、引っぱると仕事はらくだな。そうだ、いいことがある」
 練習生の浅野が、正覚坊の甲をあおむけにして、索をつけ、これに砂を山もりにして、三人で引く、代用車を考えだした。
 こんなことをして、三日、四日と、こんきよく働いた。みんな、気もちのわるいおなかをさすって、うんうんうなりながらも、
「人間さまだよ、蟻(あり)にまけるな」
 と、たがいにはげまし合った。
 小笠原(おがさわら)老人は、おなかの痛さに、とうとうへたばってしまった。しかし、口だけは、あいかわらずたっしゃだ。砂にどっかり腰をおろして、手まねをしながら、しゃべっている。
「さあ、さあ、わかい連中は、砂を運んだ、運んだ。お山ができたら、そのてっぺんに、おいらが立つね。そうしていちばん先に、帆を見つけるのだ。いい声でどなる。
 帆だよう。船だあ。
 するとおまえたちが、飛び出してくる。まっ白い帆をかけた、まっ白い船が、島へちかよって、ボートをおろすね。ぐんぐん漕(こ)いでくる。おなかがへっているだろうといって、ミルクとバターとお砂糖の、うんとはいったビスケットを持ってくるね。まあ、こんなもんだ。みんな、砂運びにせいをだせよ」
 一同は、思わず笑顔になる。一人が、
「おやじさん、へたばったのか」
 というと、
「なによ、わかい連中に、まけるものか、うんとこしょ」
 小笠原は、砂を入れた石油缶をかかえたが、持ちあがらない。しりもちをついて、赤いもじゃもじゃひげは、砂だらけ。みんな、おなかをかかえて大笑いをする。笑うと、つかれがぬける。こうして、苦しい砂運びを、愉快につづけるのであった。
 私は、先にたって、砂を運びつづけた。五日めには、腹ぐあいが、とてもわるくて、はげしく痛みだした。すこし休んだらよくなるかと、作業場をはなれて、天幕(テント)にはいったが、みんな苦しい思いをして働いているのに、じぶん一人、ごろり横にもなれない。しかたなく、万年灯(まんねんとう)をつりさげてある丸太に、腰をかけた。
 ここから、砂運びをする人たちの、働くすがたを見ていると、みんな病人で、ゆるやかに動いている。しかし、それは、大洋の波が、ゆるやかではあるが一つの方向に、はてしもない強い力でどこまでも進んで行く、あの偉大なすがたとおなじような感じが、せまってくる。それは「力」だ。なんでもやりとげるまでは、おし進む、あたってくだくか、くだけるか、そこしれぬ力だ。砂運びをする人たちは、砂山つくりの目的に、身も心もうちこんで、全員一かたまりとなって、下痢や腹痛に苦しみながら、たださかんな精神力だけで、動作はゆっくりだが、たゆまずに進んでいるのだ。これが、日本の海の勇士の、すがたなのだ。なんというりっぱなすがただ。しぜんに頭がさがる。
 だが、日ざかりの強い日光は、はだかの全身をじりじりとてりつけて、病人からあぶら汗をしぼりださせ、白い珊瑚(さんご)の砂に反射する日光は、きらきらと目をいるのだ。日かげの天幕のなかでさえ、この大自然の熱い熱い息が、ふうっと、砂からふきあがって、私をつつむような気がする。いや、ほんとうに熱い。熱い息が、私の下腹にふきかかってくる。
 私は、ふと下を見た。そして、おや、と思った。熱い息をだしているのは、腰の下の丸太にぶらさがっている、万年灯であった。
 小さな灯明(とうみょう)ではあるが、熱がある。その熱に、四日も五日も、少しずつあたためつづけられて、行灯(あんどん)の上の方と丸太が、あつくなっているのだ。下腹が、だんだんあたたまって、気もちがいいこと。そう思っているうちに、いつのまにか、腹痛が、消えるようになくなっていたではないか。これは大発見である。私は、すっかりうれしくなって、立ちあがって、作業場へ行った。
「腹のひどくいたい者は、万年灯のつるしぼうに、腰かけてみろ」
 そういう私のことばの意味を、ときかねて、へんな顔をしている者もあった。
 しかし、それからは、腹の痛い者は、じゅんじゅんに、万年灯をつるした丸太に、腰をかけたり、またがったりして、腹をあたためて療治した。この万年灯病院にかかってからは、みんなの下痢もとまり、もとどおりがんじょうなからだになった。しおからい井戸水と、魚とかめの常食にも、なれたのであろうけれども。

   見はり番

 砂運びは、朝から晩まで、八日間つづけた。骨折りがいがあって、五月三十一日の夕暮には、海抜四メートルの砂地の上に、さらに、四メートルの砂山ができた。
 この、海抜八メートルとなった砂山をながめて、一同まんぞくだった。病人が、全力をつくして、きずいた山である。
 夕食のとき、砂山ができたとくべつ慰労のために、天幕(テント)の糧食庫から、果物のかんづめ二個を出してあけた。みんなは、おしいただいて、あまい果物を一口ずつたべた。
 私は、練習生と会員に、質問した。
「みんなの骨折りで、海面上、二十五フィートの砂山ができた。この上に立つ人の目の高さを、地面から五フィートとして、ぜんたいで、三十フィート(九・一メートル)の高さとなるが、水平線は、何カイリまで見えるか」
 このことは、だいぶ前に、学科で教えてあったのだ。
「答は、砂に、指で書いておけ」
 みんな、それぞれ、砂の上に計算をはじめた。
「秋田練習生、何カイリか」
「約六カイリであります。海面からの目の高さまでをフィートではかり、これを平方に開いて出た数が、おおよその見える距離のカイリ数をあらわします。これに、一・一五をかけると、いっそう正確な数となります」
「よろしい。それでは、会員の川口。海面から、高さ四十フィート(一二・二メートル)の船の帆は、この砂山から、どのくらい遠くで見えるか」
「はい。四十フィートですと、約七カイリの距離まで見えますから、これに約六カイリを加えて、十三カイリの距離から見えます」
「よろしい。みんなも、今きいているとおり、この砂山に立つと、六カイリの水平線が見えるのだ。船のマストや帆は高いから、もっと遠い、水平線の向こうにあるのも見えるのだ。じゅうぶんに注意して、見はってくれ。夜は、船の灯火(とうか)を見はるのだ。しっかりたのむぞ」
 私がいいおわったとたんに、
「船長。見はりは、今晩からはじまると思いますが、最初の見はり番は、この老人が立ちます。おい、みんな、初の見はりはおいらだよ」
 と、小笠原(おがさわら)が、万年灯の光に、ぼんやりとてらされている一座のまんなかから、いきおいよく名のりをあげて、立ちあがった。
「いや、ぼくが立ちます」
「ぼくです」
 二人の練習生がいうと、わかい連中も、だまっていない。
「老人は、つかれているからむりだ。わしが立つ」
「夜は、目のいいわかい者の方がいい。見はりは、水夫が引き受けた」
 十六人のなかで、いちばんせいが高くて、声の大きい名物男、姓は川口、名は雷蔵(らいぞう)という会員が、
「せいの高い私が、いちばんいい。いちばん遠くが見えるりくつだ。これできまった。私が見はり番だ」
 その名のとおりの、雷声(かみなりごえ)でどなった。
 すると小笠原は、しずかに、
「年よりのいうことをきくものだ。今夜は、おいらがいいのだ。そのわけは、船長が知ってござる。とうぶんは、おいらが夜の見はり番だ。わかい者は、昼間、力仕事がある。夜はよく眠ることだ」
 みんなを、さとすようにいうのであった。
 小笠原のいうとおりだ。夜の見はりは、よほど考えなければならない。たった一人で、あてもない暗い夜の海を見はっているのだ。つい、いろいろのことを考えだして、気がよわくなってしまう心配がある。とうぶんのあいだは、老巧な小笠原と、水夫長と、たびたび難船している、漁夫の小川と杉田がいい。この四人を、夜の当番にきめよう。私は、腹をきめた。
「夜の見はり番は、年のじゅんにきめる。今夜は、小笠原と水夫長に、交代で立ってもらうことにする。それでは小笠原、このめがねを」
 と、私は、天幕の柱にかけてあった、双眼鏡を取って手わたした。双眼鏡を受け取って、首にかけた小笠原は、大まんぞくのように、にこにこして、天幕を出かけたが、みんなの方をふり向いて、
「みんな、安心しておやすみ」
 といって、右手をあげてあいさつして、砂山の方へ、出かけていった。そのすがたは、まるで、昔のギリシャの彫刻の、海の神の像のように、どうどうと、たくましいものであった。
「今夜は、つかれているから、みんなもう、おやすみ」
 私の一言に、全員は立ちあがった。
 炊事のあとしまつも、天幕のせいとんもすんで、一同は横になると、一日の労働のつかれで、なにを考えるまもなく、すぐ、ぐっすり眠ってしまうのであった。

 私は、倉庫の天幕から、一枚の帆布と、一本の細い索(つな)を持ってきた。そして、運転士と漁業長とをつれて、天幕のまわりと、伝馬船(てんません)を見まわってから、砂山にのぼった。
 細い金のかまのような月がでて、海もなぎさも、ものかなしげに光っている。小笠原は、もじゃもじゃひげを風にふかせながら、のしのしと、しっかりした足どりで、砂山の上を、あっちこっち歩いて見はりをしていた。かわいそうに、かれはまだ、おなかのぐあいがよくないのだ。私は、
「小笠原、今夜はありがとう。よくいってくれた。よく見はりに立ってくれた。わかい者たちのためを思ってくれたことは、私には、よくわかっている。これからも、たのむよ」
 こういって、かれの肩をたたいた。
「経験のある者だけに、わかることです。船長に、そんなにいっていただいて、うれしいです」
 かれは、右手をあげて、空を指さしつつ、
「あの細い月がわかい者にはどくです。あの月を見ているうちに、急に心細くなって、懐郷病(国のことを思って、たまらなくなる病気)にとりつかれますから」
「そのとおりだ。それよりも、おまえには、夜の風がどくだ。まだ腹もよくないようだね。夜の見はり当番ちゅうだけ、これを腹にまいておくといい」
 私は、帆布と細い索を、さし出した。
「この老人を、それほどまでに……ありがたいことです」
 かれの目には、細い月の光をうけて、星のように、ちらっとつゆが光った。

   見はりやぐら

 翌朝(よくちょう)、しらしらあけであった。夜中から、小笠原(おがさわら)と交代して、見はり当番をしていた水夫長が、天幕(テント)に飛びこんできた。
「船長。たいへんな流木(りゅうぼく)です」
 浜に、たくさんの材木が、流れついたというのだ。
「みんなを起せ」
 私がいうと、水夫長は、大声でどなった。
「総員、流木をひろえ」
「それ」
 一同は、飛び起きて、浜べに走った。なるほど、いちめんの流木だ。大小の丸太、角材、板、空樽(あきだる)などが、夜のまに流れついていた。これは、われらの龍睡丸(りゅうすいまる)が、くだけて、ばらばらになって、乗りあげた暗礁(あんしょう)から、流されてきたのだ。みんな、かなしい、なつかしい気もちになって、小さな板きれまで、すっかりひろいあつめた。
 なかに、太い円材が、二本あった。龍睡丸の帆桁(ほげた)である。これはいいものが流れついたと、一同はよろこんだ。これと、三角筏(いかだ)の一骨にした円材と、三本の長い円材を、すぐ砂山に運んで、砂山のうえに、見はりやぐらを立てる作業をはじめた。
 大きな円材など、重たい長いものを、船では、ふだん取りあつかっているが、それには大きな滑車や、太いながい索(つな)や、いろいろの道具を使って動かすのである。いまわれわれは、そんな道具を何ももっていない。しかし、運転士と水夫長とは、この方面にかけては、それこそ、日本一のうでまえがあるのだ。いろいろと工夫して、三日がかりで、りっぱな三本足のやぐらを、砂山の頂上に立てた。
 まず、砂の上に、三本の円材を立て、そのてっぺんを三本いっしょに、しっかりと、じょうぶな索でしばった。そして、その少し下に、横木をしばりつけ、この横木に、板と丸太を渡して、見はり番の立つところをつくった。のぼりおりの階段には、横木をしばりつけた。
 やぐらの高さ、四メートル半、砂山の高さと合わせて、海面上からは、十二メートル半である。この頂上に、昼夜、見はり番が立って、通る船は見のがすものかと、ぐるりと島を取りまく、半径七カイリ半の水平線を、一心こめて見はるのであった。

 さて、やぐらから、通りかかった船を見つけても、船の方では、無人島に、十六人が住まっているとは思うまい。そのまま行ってしまうにちがいない。そこで、船を見つけたら、信号をしなければならない。
 こういう場合に、
 ――ここに人がいる。助けてくれ――
 という信号は、煙をあげ、火を見せることで、この信号は、世界中、どこの国の船員にもわかるのである。
 やぐらができると、さっそく、かがり火をたく支度をした。やぐらの下の砂山の上に、魚の骨、かめの甲、かれ草、板きれなどを、三ヵ所につみあげ、雨にぬれないように、帆布をかけた。そしてかめの油を入れた石油缶(かん)を手ぢかにおいて、いざという時、万年灯から火種をとって、大かがり火をたき油をかけて、どんどん、煙と火をあげようと、待ちかまえた。
 こうして、見はりをおこたらなかったが、その間には、雲のかけら、海鳥の飛ぶすがたも、船かと思ったり、また、夜ともなれば、
「あ、船のあかり」
 と、星の光に、胸をおどらせたことも、たびたびであった。
 島を中心とした、まんまるな水平線に、ただ目をこらして、通りかかる船を、一日千秋の思いで待った。だが、船はいつ通ることか。一ヵ月後か、一年後か、あるいは…… しかし、いつかは、きっと通るにちがいない。

   魚の網

 毎日のたべものをこしらえる料理当番も、なかなかの大仕事であった。たきぎを節約して、魚をつって、十六人分の三度の食事の支度をするのである。
 六月のはじめから、魚がつれなくなった。みんな、すき腹をかかえる日もあった。
「網がほしい」
 と、漁業長がいいだした。そこで、さっそく、網を設計した。大きさは、長さ三十六メートル、高さ二メートル。
「網をすく糸は、帆布をほぐしてとった糸に、よりをかけよう。網につけるうきは、木をけずって焼いたもの。おもりは、流木についていた、大きな釘(くぎ)や金物を使い、たりないところは、タカセ貝をつけよう」
 というのである。すぐにはじめることになって、手わけをして、作業にかかった。
 せっせと帆布をほぐす者。ほぐした糸に、よりをかける者。板をけずって、網すき針をつくる者。ずんずん支度ができた。四人の会員は、網をすいた経験があるので、網すき専門にかかって、朝から晩まで、毎日手を動かして、十四日間で、とうとうりっぱな網ができあがった。
 さあ、まちかねた網だ。さっそく、伝馬船(てんません)に網をつんで、海上で働く者、なぎさで働く者、と、持場をきめて、総がかりで、網をたてた。すると、どうだ。とれたとれた、網いっぱいの魚で、どうにもならない。みんなは、長いぼうで、網から魚を追い出すのに、大骨折りをした。われわれは、これから先、いつまでも魚をたべて、生きて行かなければならない。それで、必要なだけの魚をとって、あとはにがした。
 これで、網さえあれば、とうぶん、食糧はじゅうぶんである。しかし、みんなは、いくら魚がとれても、腹いっぱいたべるくせをつけないように、腹八分にたべることを、申し合わせた。それは、冬になって、しけがつづいたり、魚がいなくなる季節がきて、網でも魚がとれなくなるかも知れない。その時の、食糧節約になれるよう、腹をならしておくためであった。
 料理当番は、食器の心配もしなければならなかった。お皿には、クロチョウ貝を、おわんにはタカセ貝、お鍋(なべ)には、シャコ貝を使った。

   海鳥の季節

 島には、一日一日と、海鳥が多くなった。
 海鳥があつまる季節が、やってきたのだ。ついに、島いちめんの鳥になって、それが卵を生みはじめた。
 あひるくらいの大きさの、オサ鳥をはじめ、軍艦鳥(ぐんかんちょう)、アジサシ、頭の白いウミガラス、それから、アホウドリなどが、二メートル四方に、六、七十も卵を生むので、まるで島は、卵を敷石のかわりにしいたようになった。
 鳥は、せまい島の草原や、白い砂の上に、同種類ずつ集まって、けっして、入りまじってはいないのだ。鳥で色わけができていて、それは、国別に色をつけた、地図のようであった。
 卵は、むろん食糧にした。ゆで卵にしたり、また、シャベルにかめの油をたらして、火にかけ、シャベルをフライパンの代用にして、魚肉入りのオムレツをつくるなど、料理当番は、かわるがわるうでをふるって、毎日、卵ばかりごちそうした。

 この鳥の群を見ていると、おもしろい。
 軍艦鳥は、じぶんでえさの魚をとらずに、オサ鳥が海上を飛びまわって、さんざん働いて、うんと魚をのんだころを見さだめて、ふいに飛びかかって攻撃し、ひどくいじめて、のんだ魚をはき出させて、横取りしてしまうのだ。
 軍艦鳥は、鳥の追いはぎだ。
 しかし、われわれもときどき、軍艦島のまねをした。腹いっぱい魚をのんで、海岸にぼんやりしているオサ鳥を、ふいに、大声でどなったり、ぼうで地面をたたいておどかして、四、五ひきの魚をはき出させ、それをひろって、つりのえさにしたこともあった。
 アホウドリは、とても大食いな鳥だ。胃も食道もいっぱいになっても、まだ魚をのんで、大きな魚を半分、口からだらりとぶらさげて、胃のなかの魚の消化するのを待っていることがある。こんなときは、おなかがいっぱいで、よく飛べないらしい。ぼんやり、海にうかんでいるすがたは、まったくのアホウドリだ。
 ゆだんのできないのは、ウミガラスで、じつによく、ふんをする鳥だ。白い頭、目のまわりも、めがねをかけたように白。尾は黒く、全身は、鉄ねずみ色である。それがむらがって飛んでいるので、飛んでいる下は、ふんの雨が降ってくる。天幕(テント)のそとに出ると、われわれのまっ黒に日にやけた全身は、ウミガラスに、ふんの白がすりをつけられてしまう。

 鳥の卵は、じつにおびただしい数で、いくら注意して歩いても、きっと、いくつかの卵をふみつぶすくらいだ。それが、何万というひなどりになったときの、さわぎと、やかましさ。夜が明けるやいなや、日のくれるまで、たえまもなく、親鳥が、かあかあ、げえげえ、ひなどりがぴいぴい、まったく、たいへんなやかましさである。だが、毎日卵をたべさせてくれる鳥だ。われわれは、鳥をいじめはしなかった。
 アジサシのひなは、まだ、羽が生えそろわないのに、よちよち歩いて、ぴいぴい鳴きながら、波うちぎわに、たくさんむらがって、親鳥が、海から魚をくわえて帰ってくるのを、待ちわびている。沖から飛んで帰った親鳥は、まちがいなく、わが子をさがし出して、えさをやっている。まっ黒なはだかの、たくましい男たちが、うで組みをして、じっとこの親子の鳥を見ていた。
 漁業長は、
「おい、親のありがたいことが、わかったろう。これからは、いっそうからだをだいじにして、国に帰ったら、うんと親孝行をしろよ」
 といった。

 鳥が人を攻撃する。といっては、少し大げさだが、夕方、一日の作業を終って、さて一風呂(ふろ)と、太平洋という、大きな自然の風呂にひたっていると、海鳥が、頭をつっつきに来て、あぶない。とがったくちばしで、ずぶり、やられてはたいへんだ。この大風呂にはいっている間、足の方はふかの用心、頭は海鳥の用心をしなければならなかった。
 海鳥は、海面にういているものは、なんでも、たべられると思うらしい。航海中、海に落ちた水夫が、たちまち、アホウドリの襲撃をうけて、ボートが助けに行くまでに、あの大きなとがったくちばしで、頭にあなをあけられたり、殺されたりした話もある。
 海鳥の肉は、たべなかった。ぜいたくをいうようだが、正覚坊のおいしい肉をたべつけていては、海鳥の肉は、まずくてたべられないのだ。
 海鳥のひなは、卵から出ると、おしりに卵の穀をつけたまま、すぐに歩く練習をはじめ、少し歩けるようになると、ろくに羽ものびないのに、もう飛ぶ練習をはじめ、なぎさでおよぐけいこする。こうしてずんずん大きくなって、やがて親鳥といっしょに、島から飛びさって行くのだ。
 こうして、島の鳥は、毎日だんだん少なくなって、いつのまにか、またもとのように、数百羽の鳥だけが島にすむようになった。

   海がめの牧場

 鳥の大群が、島から飛びさったら、まもなく、海がめが、卵を生みに島にやってきた。
 七月になると、海がめが、ぼつぼつ、島へあがってくるようになった。つかまえたかめを、すぐに食べてしまうのは、もったいない。そこで、漁業長に、
「今から、冬の食糧の支度に、正覚坊を飼うことを研究してくれ」
 と、いっておいた。
 そこで、島へあがってきた、五頭の正覚坊をとらえて、大きな井戸に入れて、飼うことにした。この井戸は、われわれが島へあがった第一日めに、一生けんめいほったもので、まだそのまま、ほりっぱなしにしてあったのだ。
 結果がよかったら、かめを飼うための、大池をほるつもりでいたが、翌日見たら、五頭とも死んでいた。きっと、石灰質のたまり水に、中毒したのであろう。これで、かめの生洲(いけす)は、だめなことがわかった。
「それでは、正覚坊の牧場をこしらえよう」
 ということになった。
 海岸に棒杭(ぼうぐい)をうちこんで、じょうぶな長い索(つな)で、正覚坊の足をしっかりしばって、その索を棒杭に結びつけておいた。
 かめは、索の長さだけ、自由におよぎまわって、かってにえさをたべ、時には砂浜にはいあがって、甲羅をほしている。毎日見まわっては、索のすれをしらべ、索がすり切れて、にげて行かないようにした。また前足と、後足としばるところも、ときどきとりかえてしばった。
 そして、前につかまえたかめから、じゅんじゅんにならべて、棒杭につないだが、
 ついに、三十何頭かになって、すばらしいかめの大牧場が、二ヵ所もできた。そして、「かめの当番」をきめた。これは、毎日かめの牧場を見まわり、かめの世話をする、かめの監督さんだ。かめをとらえてから日数の多くなったもの、すなわち、古いものから、たべることにした。

 海がめの産卵がはじまってから、練習生と会員は、漁業長の指導で、これについての研究をはじめた。
 かめは産卵のため、夜、島にはいあがる。そして、砂地を後足で、ていねいにほって、そこに、正覚坊は、一頭が、九十から百七十個ぐらいの卵を生み落し、その上によく砂をかけて、海へ帰って行く。タイマイは、一頭で、百三十から二百五十個ぐらいの卵を生むことが、わかった。
 かめは卵を生みつけてから、ていねいに砂をかけておくけれども、足あとを砂の上にはっきり残しておくので、卵のある場所は、われわれには、たやすく見つかった。
 さて、かめが卵を生みつけた砂の表面は、日中はよく陽(ひ)があたって、砂の中は、ほどよい温度度をたもっているので、卵があたためられて、かえるのである。こうして、三十五日すると、しぜんに孵化(ふか)した、さかずきぐらいの大きさの赤ん坊がめが、くもの子を散らすように、ぞろぞろ砂からはいだして海へ海へとはって行くのだ。
 正覚坊の卵は、うまい。鶏卵より小さくて、丸く、灰白色の殻はやわらかで、中にはきみとしろみがある。そして、いくらゆでても、しろみがかたまらない。
 タイマイの卵も、うまい。しかし、その肉はにおいがあって、食用にならない。そしてこのかめは正覚坊よりは元気があって、よくかみついた。
 正覚坊のことを、一名アオウミガメというのは、暗緑色で、暗黄色の斑点(はんてん)があるからで、大きさも、形もよくにた海がめにアカウミガメというのがある。これは、からだが、うすい代赭色(たいしゃいろ)で、甲は褐色であるからだ。アカウミガメの肉は、においがあって、食用にならない。肉ににおいのあるかめは肉食をして、魚をたべているかめで、正覚坊は海藻(かいそう)をたべているから、においがないのだ。

 われわれは、魚とかめが常食で、卵がごちそうであるが、残念ながら野菜がない。
「青いものがたべたい」
 と、だれもが思った。
 そこで、島に生えている草を、よくしらべてみると、四種類あることがわかった。
 その中の一つは、葉をかんでみたら、ぴりっと辛かった。根をほってかむと、まるでワサビのようであった。
「これは、いいものを見つけた」
 と、それからは、この島ワサビをほって、さしみにそえて、たくさん使った。気のせいか、島ワサビをたべはじめてから、おなかのぐあいもいいようだった。
 おなかのぐあいといえば、鳥の卵と、かめの卵ばかりを、毎日たべつづけたとき、十六人とも、大便がとまってしまった。これには、まったくこまった。下剤がほしいが、そんなことをいったって、薬があるはずがない。しかしどうにもしかたがなくなったとき、目の前に無尽蔵(むじんぞう)にある海水を、おわんに半分ぐらい飲んだ。ずいぶんらんぼうなことだが、そうするとおなかがぐうっと鳴りだして、すぐおつうじがある。まったくの荒療治で、これでは、からだがよわるばかりで、くりかえしては、健康のためによくない。そこで、卵ばかりたべずに、かめや魚をとりまぜた献立を、料理当番に命令した。

   アザラシ

 島には、小さな半島があって、そこに、ヘヤシールという、小型のアザラシのいたことは、前に話したが、それについて私は、
「アザラシのところへは、だれも行くな。アザラシに、人間をこわがらせてはいけない。大病人のでたとき、アザラシの胆(きも)を取って、薬にすることもあろう。また、冬になって、アザラシの毛皮をわれわれの着物にすることもあろう。いよいよ食物にこまったら、その肉をたべよう。それには、いざという時、すぐにつかまえなくてはなんの役にもたたない。われわれは、小銃ひとつないのだ。手どりにしなければならないから、かれらに人間をこわがらせないように、だれもアザラシの近くに行くな」
 と、みんなに、かたくいいわたしておいた。
 ところが、十六人の中に、とても動物ずきな漁夫がいた。それは、国後(くなしり)である。かれは少年時代から、犬ねこはもとより、野の小鳥までもならした。口ぶえでよぶと、野の小鳥が、かれの肩にとまったというのだ。かれが漁夫見習となって、漁船に乗って、カムチャッカに行ったとき、アザラシの子をつかまえて、よくならしたことがあった。この島でも、アジサシのひなが、かれにはよくなついた。
 半島に、二、三十頭、いつでもごろごろしているアザラシを目の前に見て、動物ずきのかれは、じっとしていられなかった。船長の命令は、やぶることができない。しかし、いく日も、がまんにがまんしたあげく、かれは三日月の夜、つった魚をおみやげに持って、一人こっそり、天幕(テント)をぬけ出して、アザラシに近よって行った。まだ人間を知らない、毛皮の着物をきた動物は、はだかの人間と、すぐになかよしになった。
 それからは、夜中や、朝早く、少しの時間、かれとアザラシはいっしょにいた。かれが、この海の友だちの、のどやおなかをなでてやると、アザラシはあまえて、はなをならして、気もちよさそうに眠るくらいになった。
 ところが、帰化人の範多(はんた)も、前にラッコ船に乗っていたとき、アザラシの子を飼ったことがあって、かれも、こっそり、アザラシと親友になっていた。
 ある晩、アザラシ半島で、思いがけなくも、国後と範多とは、ばったり出あった。
「びっくりしたよ。なんだ、国後か」
「わしもおどろいたよ。範多か」
 こうして、アザラシならしの名人二人は、アザラシと友だちになった喜びを、ひみつにしておけなかった。二人は、人間の友だちを、一人つれ、二人つれて行っては、アザラシに紹介した。このことを運転士が知ったときは、水夫や漁夫たちは、たいていアザラシの友だちであった。
「アザラシに近よるな」
 これは、船長の命令である。結果はよかったにしても、アザラシに近づいたのは、たしかに、命令にそむいたのだ。
「規律をまもれ」
 これは、島の精神だ。
「アザラシとなかよしになったことが、とうとう、運転士さんに知れたらしい」
「どうしよう――こまったなあ……」
 アザラシの親友の、国後と範多は、ひたいをよせて、ささやきあった。
「あやまろう。それよりはかにしかたがない――」
 アザラシならしの代表国後は、おそるおそる運転士の前にでた。かれは、かしこまって、うつむいて、ぼそぼそとつかえながらいった。
「船長の命令にそむいて、アザラシのところへ、いちばんはじめに行ったのは、私です。すまないことをしました――ごめんなさい」
 運転士は、国後が、すっかりしおれているすがたに、まっ正直な心が、あふれているのを見た。
「こまったことをしたな。規律はよくまもるんだぞ。こんどのことは、私から船長へ、よくお話ししておこう」
「へい……すみません。お願い申します」
「これからは、気をつけるのだぞ。だが、せっかく友だちになったのだ。アザラシとは、いつまでもなかよくしろよ」
「へえ、ありがとうございます」
 国後につづいて、範多も運転士の前にでて、あやまった。
 こうして、ひや汗を流してあやまったあと、国後と範多は、はればれした顔色で、毛皮の友だちのいる、アザラシ半島をながめた。

   宝島探検

 炊事用のたきぎのたくわえが、日ごとに少なくなるのが目立って、たいそう心細くなってきた。使いつくしたらどうしよう。魚の骨や、かめの甲の代用では、とてもまにあわない。
 島から西の方に、べつの島のあることを、私は前に海図を見て、おぼえていた。それでみんなにそのことを話して、
「その島を、探検しょう」
 といった。探検ときくと、一同、われもわれもと、行きたい者ばかりだ。
 そこで、運転士と水夫長とにるすをたのんで、私と漁業長とは、櫓(ろ)を漕(こ)ぐことの達者な者四人をえらんで、探検に行くことにした。用意は、いちばんたいせつな飲料水として、雨水を石油缶(かん)に一缶。井戸ほり道具、宝物のようなマッチの小箱一個、まんいちの食糧として、缶づめ数個、つり道具。これを伝馬船(てんません)につみこんで、六月二十日の朝、天気のよいのを見きわめて、いよいよ出発した。見送る者も出かける者も、真心をこめたあいさつがかわされた。
 小さな伝馬船で、海図も羅針儀も持たずに、おおよその見当をつけて、なんの目標もない、太平洋のまんなかへ乗りだして行くのだ。こういう場合、羅針儀はなくても、正確な時刻と、太陽の位置がわかれば、おおよその方角はわかる。しかし今は、時計もないのだから、おおよその時刻と、太陽の位置によって、方角をきめ、頭の中にえがく海図とてらしあわせて進むのだ。
 めざす島は、ひくい小さな砂の島だ。三キロメートルもはなれたら、見えはしない。少し方角がそれたら、島はもう見つかるまい。広い広い水の世界から、細い針でついたほどの小さな島を、さがし出そうとするのだ。らんぼうだと思えるだろう。じっさい、こういう航海は、ただ考える力と胆力にたよる、いちばんむずかしい航海術なのだ。しかし、海の上で経験をつんだ、きもったまの太い日本海員は、こういう探検に出かけるとき、どんなことがあっても、きっと島をさがし出す、という強い信念をもって出発するのだ。
 われらは、西だと思う方へ、海流にさからって櫓を漕いだ。二時間も漕いだ。龍睡丸(りゅうすいまる)が難破した岩のところを通りこして、ずんずん進んだ。それから先ははてもない、ただ水と空。伝馬船は、強いむかい潮を正面から受けて、およぐように進んで行った。だが、島はさっばり見えない。
 龍睡丸が難破した岩から、三時間ぐらいも漕いだ。太陽は頭の上にある。正午だ。それからまた二時間。午後二時ごろだ、しかし、まだ島は見えない。
 みんな前の方の水平線を見つめている。からだじゅうの神経が、目ばかりに集まったように、いっしんに見ている。
「もう見えそうなものだ」
 などと、めめしいことはだれもいわない。きっと島が見つかるような顔をして、みんなへいきでいる。なんというたのもしい人たちだろう。私は、みんなをなぐさめるつもりでいった。
「おそくなったら、今夜は見つけた島へとまって、明日(あした)帰ろう」
 すると漁業長が、
「まだ、島は見えないのですから、夜通し漕がなければならないかも知れません」
 水夫の一人が、
「明日の朝までには、島は見えるでしょう」
 この男たちは、今夜一晩中、西へ漕ぐつもりらしい。まったくの海の男だ。しかし、この大洋のまんなかで、日がくれてしまったらたいへんだ。新しい島を見つけるどころか、われらの島へ帰ることもできなくなるだろう。
 だが、日がくれれば星が出る。北極星(ほっきょくせい)は、真北にあるのだから、北極星を見て、方向をたしかめることができるけれども。
 私は、立ちあがって、ぐるりと見まわした。やはり、まるい水平線ばかりで、島らしいものの、かげもない。
 なおも漕ぎつづけて、とうとう午後三時頃になった。
「見えましたっ」
 とてつもない大声で、会員の川口がどなった。
 なるほど、指さす水平線に、ちょんぼり、針の先でついたほどの黒点が見える。まさしく島にちがいない。しめた。これさえつかまえたら、島はもうわれらのものだ。川口はいちばん背が高いので、だれよりも早く、島を発見することができたのだ。
 島に近よると、大きさは、われわれの住んでいる島の、二倍はあろうか。ひくい島で、草やつる草はしげっているが、木は一本もない。海鳥がたくさんいる。
 島にあがってみておどろいた。たいへんな流木だ。島のまわりいちめんにうちあがっていて、その間に正覚坊が、ごろごろしているではないか。
「これはいい島だ」
「宝の島ですよ」
「よし、宝島と名をつけよう」
 私は、宝島と名をつけた。宝島は、できてから、まだ新しいのだろう。表面に砂や土が少ない。
 さっそく、井戸をほりはじめたが、かたい珊瑚質(さんごしつ)の地面で、飲料水の出る見こみはない。そのうえ、島を横切って、川のように海水が流れ通っているのだ。井戸ほりをやめて、流木とかめとを伝馬船につみこんだ。
 漁業長は、魚がたくさんいるといって喜んだ。たちまち大きな魚を六、七ひきつりあげて、流木のたき火で焼いた。夕食の支度だ。
 流木は、よほど古い時代の、日本船のこわれた杉材や、西洋帆船の太い帆柱をはじめ、たくさんの船材で、これからさき、二ヵ年ぐらいのたきものはある。まるで、たきぎと海がめの、倉庫のような島だ。
 流木をしらべていると、その中に、うすい鋼板をはりつけた、船底板があった。これはいいものを見つけた。すぐ、伝馬船につませた。
 日がしずまないうちにと、大いそぎで島を一とおりしらべてから、魚の焼いたので、夕食をすませた。時間はまだ日ぐれまでには、一時間ぐらいはあった。すぐに出発すれば、夜中までには、われらの島へ帰れる見こみはある。私は立ちあがった。
「さあ、いそいで帰って、みんなを喜ばせよう」
「それ。出船だ。つれ潮だぞ」
 つれ潮というのは、潮が船の進む方向に流れることで、つれ潮に乗ると、船は潮に送られて、速力が出るのだ。
「がんばって漕ごう」
 大きな正覚坊六頭と、たきぎを船いっぱいに積んで船足の重い伝馬船は、東へむかって、帰りの航海についた。くたびれてはいるが、宝島の発見で、元気が出て、櫓拍子も勇ましく漕ぎ進んだ。
 夕ぐれとなって、太陽が水平線にしずむと、西の空にうかぶ雲は、レモン色の美しさ、それが煉瓦色(れんがいろ)になり、やがて紅色に、だんだんと鉄色の夕やみになってしまった。西の空も水平線も黒くなると、星が青く赤く、鏡の海にかげをうつしはじめた。水平線に近く、ひくいところに光る北極星をめあてに東に方角をきめて、漕ぎつづけた。この星をたよりに、われらの小さな島を、夜の海に、さがさなくてはならないのだ。

 そのころ、島に居残っていた人たちは、心配しはじめた。日がくれても、探検船は帰って来ない。探検船には、海図も羅針儀もない。だいじょうぶ、たしかに帰ってくるとは思うが、ちょっとでも方角がそれたら、この島を通りこしてしまうかもしれない。そうしたらたいへんだ。それにしても、西の島は見つかったろうか。ある者は、見はりの砂山にのぼり、やぐらにのぼり、また海岸に立って、星空の下の、まっ暗な水平線を、瞳(ひとみ)をこらして心配そうに、何か見えはしないかと、見つめていた。
 しかし、探検船は、帰ってくるけはいもない。時は、ずんずんたっていく。
「火をたけ」
 運転士の号令だ。一同は、さっと緊張した。ばらばらっと、砂山にかけあがり、たちまち、大かがり火をたきはじめた。
 二時間も三時間も、たきつづけた。たきぎがありったけもやそう。かめの甲、魚の骨、かれ草、油、これもありったけもやしつづけよう。見はりやぐらにのぼった者も、海岸に立った者も、やみをすかして、黒い海を見つめるのであった。今にも船が帰って来るかと、いや、どうぞ帰って来ますようにと、心に念じ、全身を目にして……

 一方、われらの伝馬船では、ゆくてのやみの水平線に、かすかな火(ほ)さきを見つけた。
「島で、火を見せている」
「みんな、待っているぞ」
「みやげものに、たまげるぞ」
 たいせつなたきものを使って、火をあげているのを見ては、櫓を漕ぐのにも、しぜんと力がはいる。それに追潮だ。船足ははやい。伝馬船のへさきは、火の方に向いていたから、そのままうんと漕いだ。
 島のみんなの心配のうちに、とうとう午後十時すぎごろになった。
「おお、伝馬船が」
 浜に立っていた漁夫の一人が、大声にさけんで、飛びあがった。
「おうい」
 島に居残った一同は、声をあわせてさけんだ。
 と、海から、
「おうい」
 と、かすかな返事が聞えてきた。つづいて、
「よんさ、ほうさ、ほらええ……」
 櫓拍子にあわせる掛声が、遠くから、だんだんはっきり聞えてくるではないか。
 船が帰ってきたというので、かがり火は、海岸にうつされた、そのかがり火の、あかるい光の中へ、伝馬船は、おみやげを山とつんで、ぶじに帰りついたのだ。
「お帰りなさい。どうでした」
「宝の島が見つかったよ」
「これこのとおり、かめが六つだ」
「流木が満船だ」
「こりゃ、たまげた」
 るす居した者たちは、かめや流木を、やんさ、やんさ、と浜へおろし、伝馬船を砂浜へ引きあげた。さっきまでの心配は、どこへやら、大喜び。それから、かがり火のそばで、円陣をつくって、宝島の話にむちゅうできき入った。
「や、もう夜中だ。ごくろうだった。みんなおやすみ」
 探検もぶじにすんだのだ。全員はそろって元気だ。私は、きらめく満天の星をあおいで、立ちあがった。

 探検の翌日、六月二十一日、朝食後、きのうの探検で発見した島に、「宝島」と名をつけることにきめ、今われわれの住んでいる島を、「本部島」とよぶことにきめた。
 それから、宝島から、たきぎとかめとを運ぶことについて、そうだんをした。
 伝馬船で、宝島と本部島の間を航海するには、天気をじゅうぶんに見きわめて、海のおだやかな時でなければできない。十月になると、海は荒くなって、交通はできない。それまでに、できるだけたくさんの流木(りゅうぼく)とかめとを、本部島に運んで、冬の支度をしなければならない。
 そこで、さしあたって、六人が伝馬船に乗って、宝島に渡ることにする。そして、流木とかめとをつんだ伝馬船は、三人で漕いで帰り、あとの三人は島へ残って、流木を集め、かめをとらえて牧場をつくって、つぎの船を待つ。つぎの船で、本部島から三人が出かけて行き、島の三人と交代して、宝島に残る。宝島には、いつでも三人ずつ残ることにする。
 本部島からは、飲料水を石油缶につめて送るが、宝島でも、天幕の屋根から雨水をあつめて、ためておくくふうをすること。宝島での食物は、魚をつってたべることにして、かめは、まんいち魚のとれない時の用意に、いつでも十頭ぐらいは、食用として残しておき、あとのかめは、本部島へ送ること。
 また、島をよくしらべて、なんでもめずらしいと思ったもの、発見したものは、どんな小さいことでも、かならず本部島へ報告すること。
 伝馬船は、朝早く、まだ暗いうちに出発して、日中の航海をして、夜の航海はしない。けっしてむりをしてはいけない。たとえ出発しても、天気がわるくなったら、すぐとちゅうからひき返して、気長に天気のよくなるのを待つようにすること。
 宝島で、いちばんだいじなことは、通る船の見はりである。宝島には、流木がたくさんあるから島に着いたらすぐに、高いやぐらをつくって、そこから、一人はきっと、四方の海を見はること。信号の「たき火」は、宝島にはたきぎがたくさんあるから、すぐできる。あとは、いつでも火種のとれる、万年灯(まんねんとう)をつくればいい。
 これらのことを、しっかりときめた。
 それから、いよいよ宝島へ行く、水夫長以下をきめた。飲料水を石油缶につめたり、天幕にする帆布、索(つな)、万年灯の油、つり道具、まんいちの用意として、かんづめ十個、マッチの小箱一個をかんづめの空缶に入れ、雨着の布でげんじゅうに包んだものなどをとりそろえて、あすでも天気がよければ、出発できるようにした。

   無人島教室

 きょうの作業は、きのう宝島から持ってきた、流木のなかの、船底板にはってある、銅板をはがす仕事であった。
 うすい銅板を、ていねいに釘(くぎ)をぬいてはぎとり、はがき二枚ぐらいの大きさの銅板を、六枚こしらえた。流木の中の、あつい板きれをより出して、これに銅板を釘でうちつけ、鉄釘の先をとがらせたものを、ペンのかわりにして、この銅板に、「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸(りゅうすいまう)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う。明治三十二年六月二十一日」
 と、私が日本文で書き、また、おなじ意味を、帰化人の小笠原(おがさわら)に、英文で書かせた。この銅板の手紙(流し文(ぶみ))を、海に流そうというのだ。
 みんなで、伝馬船(てんません)を沖に漕(こ)ぎ出して、それを流した。
「銅の手紙よ、はやく、どこかへついてくれ。だれかにひろわれてくれ。たのむぞ――おまえには、十六人の、心をこめた願いがかけられているのだ……」
 一枚、一枚、海に流すたびに、伝馬船の上から見送りながら、みんな祈った。
 しかし、この流し文を配達してくれるのは、海流の郵便屋さんだ。いつ、どこへ配達してくれることか。流したところは、太平洋のまんなかで、横浜へも、アメリカのサンフランシスコへも、おおよそ五千キロメートルはある。しかし、海水のつづくかぎり、いつかどこかへ、流れつくにちがいない。風も手つだって、ふき送ってくれるだろう。流し文に、みんなは、切なる希望をつないだ。

 銅板の手紙は、おひるごろに流した。午後の学科の時間に、私は、「なぜ船底に、銅板をはるか」という話をした。
 陸の人の、ちょっと気のつかない船の底――船の海水につかっている部分――には、海藻類や貝類がくっつく。それがだんだんに成長して、船底いちめんになって、船底板が見えなくなってしまう。ちょうど、地面に雑草や苔(こけ)がいちめんに生えて、地はだが見えなくなるのとおなじだ。こうなるとすべすべした船の底板が、ひどくざらざらになって、すべらなくなるから、船の速力が出なくなる。帆船もこまるが、汽船では、よほどたくさん石炭をたかなければ、船底がすべすべしている時のように、走れなくなる。
 木船だと、またこの上に、船食虫(ふなくいむし)という虫が、船底の木板を食って小さなあなをあけ、その中に住むようになる。そして、船底いちめんにあなをあけて、蜂(はち)のすか、海綿のようにしてしまう。これは、おそろしいことで、船の中へ海水がはいってくるばかりか、あらしのとき、荒波とたたかっていた船が、虫食のために船底がこわれて、沈没したこともある。むかし西洋で、軍艦が木船であった時代には、
「敵の大砲の弾丸よりも、船食虫の方がおそろしい」
 とさえ、いわれたのだ。
 それで、この船食虫をふせぐのには、どうしたらいいか、これには、大昔からずいぶん長い間木船に乗る人たちは苦心したものだ。西洋では、二千年の昔、木船の底を、うすい鉛の板でつつんだ。こうすれば、虫はあなをあけないが、海藻や貝のつくのはふせげない。のちに英国海軍では、軍艦の底を、鉛の板でつつむことをやめてしまった。それは、鉛の板でつつむと鉄の釘や、舵(かじ)の金物が、くさったようにひどくぼろぼろになってしまうからだ。
 そして、今から百八十年ほど前、英国で、一隻(せき)の木造軍艦の底を、銅の板でつつんで試験をしたところ、月日がたっても、速力が少しもへらない。これはすてきだと大喜び。それから木の船は、みんな、銅のうすい板で底をつつむことになったのだ。今日では、銅のほかに、黄銅でもつつんでいる。
 銅の板には、虫があなをあけない。そして、やはり海藻や貝は、くっついて成長する。けれども銅と海水が化合して、銅の板の表面に、硫酸銅や、炭酸銅という、かさぶたのようなものができる。さてこのかさぶたが、だんだん大きくなると、船が走るとき、水が船底にぶつかるいきおいで、かさぶたを、ぽろりとはがしてしまうのだ。
 そして、かさぶたの表面に成長した、海藻や貝が、かさぶたといっしょに落ちて、新しい、すべすべした銅の表面があらわれるので、船の速力がおそくならないのだ。いまでは、各国とも、木船の底は、銅か黄銅の板でつつまなければいけない、という規則ができている。
「船食虫のことは、漁業長から、話があるから、よく聞くように。何か質問があるか」
 浅野練習生は、立って質問した。
「鉄の板で、木船の船底をつつんでは、いけませんか」
「それもいい。だが、船が重くなる。船食虫はふせげるが、海藻や貝は、たくさんつく。そして、銅のように、しぜんにはげて落ちない。だから、鉄や鋼(はがね)の船も、これにはこまっている。ときどき造船所のドックに船を入れて、船底についたものを、きれいにかき落して、鉄のさびないペンキと、海藻や貝をふせぐ、とくべつのペンキをぬるのだ。鉄船や鋼船の底が赤いのは、このペンキがぬってあるからだ」
 秋田練習生も、質問した。
「木船の底にぬって、虫や海藻などをふせぐことのできるペンキは、ないのですか」
「鉄船、鋼船の底にぬるペンキでも、かんぜんに、海藻や貝を、ふせぐことはできない。まして木にぬったり、しみこませたりして、かんぜんに虫や海藻などをふせぐペンキや薬は、まだ世界に発明されていない。どうだ、勉強して発明してみないか」
「はあ――やります」
 会員の川口は、
「ほかに、木船の底をつつむものはありませんか」
「木の板でつつむこともある。つまり、二重張りの板底にするのだ。こうすると、外がわの板は虫が食うが、内がわの板までは食わない。しかし、ときどき、外がわの板をはりかえなければならない」

 つぎには、漁業長が、船食虫の話をした。
「船食虫と一口にいうが、種類は多い。だいたい三つにわけて話をしよう。
 まず、海のなかの木材や、木の船底を、やたらに食ってあなをあける。キクイムシ。これは、長さ三、四ミりぐらいで、ワラジムシのような形をしている。
 つぎにもう一つ、おなじような形で、少し大きい、キクイモドキは、長さ六ミりぐらい。二つともそれぞれ種類が多く、寒い海、暑い海、世界中の海にいて、木や板にむらがって、あなをあけて住みこみ、かたい木を、まるで海綿のようにしてしまう。海中の白蟻(しろあり)のような、害虫だ。
 三番めのは、フナクイムシ。これは、ミミズのような長い虫で、はじめは小さい虫で、木や板の表面にとりつき、あなをあけて住みこむ。だんだん大きく長くなるにつれて、あなを深く大きくして、しまいには、三十センチぐらいにもなり、もっと長くなるのもある。
 いまでは、木船の船底に、銅のうすい板をはって、これらの虫をふせぐことができるからいいが、銅板をはらない木船の底へ、出口のないトンネルのような深いあなを、れんこんの切り口のように、船底いちめんにあけられては、どんな船でもたまらない。まったく、木船にとっては、おそろしい虫だ。
 また、船底につく海藻は、アオサ、ノリの類(たぐい)が多い。貝では、カキ、カメノテ、エボシ貝、フジツボなどで、フジツボが、ふつういちばんたくさんにつく。フジツボは、富士山のような形をした貝で、直径五センチ、高さ五センチぐらいの大きなものもある。これが、船底いちめんにつくのだ。このフジツボは、主人である虫が死んでも、殻だけは船底についている。この空家になった殻のなかに、魚やカニなどの小さな子どもがはいりこんで、船に運ばれて、遠くへ旅行することがある。それで、大西洋の魚が、太平洋へきたりするのだ。
 大昔、西洋人は、
『フジツボは、船の進行をとめるまものだ』
 といった。それは、船長もいわれたように、この貝がたくさん船底につくと、船の速力が出なくなるからだ」
 天幕の中で、流木の丸太に腰かけて、ねっしんに話をきくはだかの生徒。空箱の椅子(いす)に腰をおろして教えるはだかの先生。机も、黒板も、紙も鉛筆も、なんにもない無人島教室に、こうした学科が進んでいった。

   塩をつくる

 食物に味をつけたり、魚をたくわえたりするのに、塩がほしかった。料理当番も、たべる方も、
「魚の塩焼ができたらなあ――」
 と思うのであった。
 これは、できないことではない。
「塩をこしらえよう」
「では、どうしてつくるか」
 みんなのちえをあつめてみた。
 まず、天日製塩法(てんぴせいえんほう)がある。これは、太陽のてりつける砂浜に、海水をまき、水分を蒸発させて、塩をとるのであるが、島の砂は、白珊瑚(さんご)のくだけたものであるから、まっ白である。これに反射(はんしゃ)する日光は、目をぐらつかせるほどであるが、日中、はだしで砂の上を歩いても、足のうらが熱くない。白い色は、熱をすいとらないからだ。この砂の上に海水をまいて、天日でかわかしても、とても塩はとれまい。そこで、
「こんど見つけた宝島の、たきぎを使って、海水を煮つめて塩をとろう」
 ということになっな。
 いろいろくふうして、傾斜した長い大きなかまどを、珊瑚のかたまりできずいた。
 細長いかまどはおくの方を高くして、その先に煙突をつけた。その長いかまどの上に海水を入れた石油缶(かん)を、一列にならべ、かまどの口もとで火をたくと、おくの方までじゅうぶんに火がまわった。
 宝島から運んできたたきぎを、山とつんで、まる一日たきつづけた。ところが、たいせつなたきぎをうんとたく割合に、できる塩がすくない。
「これではしかたがない。――どうしよう」
 ひたいをあつめてそうだんした。漁業長が、いいことを考えだした。
「海綿の大きなのを集めて、海水をかけ、天日にかわかしては、また海水をかける。これを、いくどもくりかえして、しまいに海綿が、塩分のたいへんにこい汁をふくむようになったとき、その海綿からしぼり出した汁を煮つめたら、いいと思う」
 というのだ。
「これは、すばらしい考えだ」
「新発明だ」
「では、きょうの作業は、海綿あつめだ」

 海には、どす黒い、生きた大きな海綿がいる。それをたくさんとってきて、浜の砂をほってうずめておいた。こうしておくと、海綿の虫が死ぬのだ。
 一方、炊事場のかまどの灰をかきあつめて桶(おけ)に入れ、井戸水をいれて、黄色のあくをこしらえた。海綿は、二日間砂にうずめておいてからほり出して、日光にさらし、それからあくでよく洗ったら、オレンジ色のりっぱな海綿ができた。

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