次郎物語
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著者名:下村湖人 

 次郎はまた考えこんだ。首をたれ、顔色が青ざめ、眼が凍(こお)ったように光っていた。かれはその眼をそろそろとあげ、じっと朝倉先生を見つめながら、
「先生は、すると、日本の破滅はもう必至だとお考えですか。」
「必至? それはわからない。悪の勝利ということもあるのだからね。しかし、かりにそれで一時的に破滅をまぬがれても、むろん安心はできないだろう。悪の勝利は決して、永遠ではないんだ。」
「そういう意味では、やはり必至だとお考えですね。」
 朝倉先生は沈痛(ちんつう)な眼をして、
「実は、これは田沼先生にうかがったことだが、現在の上層部の人たちで、世界の事情に少しでも明るい人なら、さっきいった悪の勝利でさえ信じているものは一人もないらしい。それにもかかわらず、現在の勢いを阻止(そし)できないというのは、いかにも残念だ。田沼先生もそれで非常に苦しんでいられる。むろんああいう方だから、最後まで努力はつづけられるだろう。しかし、青年指導について、せんだって私にもらされたご意見から察すると、やはり大勢(たいせい)はどうにもならないらしいね。」
「青年指導についての田沼先生のご意見といいますと?」
「勢いを阻止するための指導よりは、最悪の事態を迎(むか)えるための指導が今ではたいせつだ、とおっしゃるんだ。」
「つまり、先生がさっきおっしゃったように、愛情を育てるということなんですね。」
「そうだ。目あきもめくらもいっしょになって地獄(じごく)に飛びこむのが運命だとすれば、その運命をおそれてじたばたするより、その運命の中で生きて行けるたしかな道を求めるほうが賢明(けんめい)だというお考えなんだ。むろんこれは一般(いっぱん)の国民についてのお考えで、先生ご自身としては、まだ決してあきらめてはいられない。おそらく今もどこかで血の出るような努力をつづけていられることだろう。田沼先生という方はそういう方なんだ。蓆旗(むしろばた)を押したてて青年をけしかけるような運動は、血をもって血を洗うにすぎない、というのが先生の信念でね。」
 次郎は、田沼先生が、二月二十六日の事変後に組織された内閣(ないかく)に入閣の交渉(こうしょう)をうけたのを、即座(そくざ)に拒絶(きょぜつ)した、という新聞記事を見たのをふと思いおこした。それと今の話との間には、直接には何の結びつきもなかったが、信念の人としての田沼先生の人柄(ひとがら)が、それでいよいよはっきりするように思えたのである。
「とにかく、田沼先生も、友愛塾をつづけて行くことはもう断念しておいでだ。君としては、一生をかけた仕事が、わすか十回でおしまいになるのは残念だろうが、考えようでは、仕事がいっそう地についた、大きいものになったともいえる。気をおとさないようにしてくれたまえ。」
 朝倉先生がしんみりとなって言った。次郎はもう何も言うことができなかった。かれは泣きたい気持ちだったが、やっと気をとりなおして、
「すると、先生はこれからどうなさるんです。」
「全国行脚(あんぎゃ)だね。」
「講演をしておまわりですか。」
「講演はしない。したいと思っても、おそらくどこでもさせてはくれないだろう。まあ、せいぜい、ここの修了生を中心に、同志の座談会をひらくぐらいなものだね。それも、できるだけ目だたない方法でやらなくてはなるまい。何だか一種の秘密結社みたようになるかもしれないが、しかたがない。しかし、辛抱(しんぼう)づよくつづけていけば、将来の国民生活の底力(そこぢから)にはなるよ。目だたない底力にね。」
 次郎は雲をつかむようで心ぼそい気がした。五百名の修了生があると言っても、それは全国に散らばれば無にひとしい勢力である。それに、そのなかの何人が、そうした運動に真剣(しんけん)に協力してくれるか、それも心もとない。これは朝倉先生の自己慰安(いあん)にすぎないのではないか、とも思った。
「不賛成かね。」
 朝倉先生は、次郎の気持ちを見透(みすか)すように、微笑(びしょう)しながら言った。
「ええ――」
 と、次郎がなま返事をすると、朝倉先生はその澄(す)んだ眼を射るように光らせながら、
「君は、一粒(ひとつぶ)の種をまく、という言葉を知っているだろう。ほんとうの仕事はその一粒からはじまるものなんだよ。ついこないだ読んだ本の中にあったことだが、レドレーとかいう宣教師が中国の西の果てのある土地にはいりこんで、二十年間宣教をしたが一人の信者も得られなかった。ところが、その翌年になってやっと一人の信者ができると、そのあとは年々加速度的にふえていって、今ではその地方の住民がほとんど全部キリスト教徒になってしまっているということだ。私も及(およ)ばずながら、それに学びたいと思っている。実は、白状すると、私もこの話を知るまでは、なかなか決心がつかなかったがね。」
 廊下(ろうか)が急にさわがしくなった。講義が中休みになったらしい。やがて小川先生がのっそりはいって来て次郎の横に腰(こし)をおろし、その鈍重(どんじゅう)な眼で、じっとかれの顔を見つめた。次郎はあわてたように立ちあがって、茶を入れはじめた。すると朝倉先生が言った。
「本田君がなかなか納得(なっとく)してくれないので、弱っているところです。」
「そうでしょう。私もまだ納得がいきません。」
 小川先生は、ぶすりとこたえて、履歴書のたばを自分のほうにひきよせ、
「ほう、こんなに志願者があったんですか」
 次郎は、入れかけていた茶をそのままにして、いきなり両手で顔をおさえ、逃(に)げるように室を出て行ってしまった。
 その日は、次郎にとって、友愛塾はじまって以来の暗い、うつろな日だった。恋(こい)のみか、生命をかけた仕事までが根こそぎになったという意識が、かれの心から考える力をも感ずる力をも完全に奪(うば)ってしまったかのようであった。かれはもう朝倉夫人に慰(なぐさ)めを求めたいという気持ちさえ失ってしまっていた。そのくせ、一ところにじっとしてはいなかった。つぎからつぎに、こざこざした仕事を求めて塾内をあるきまわった。そして、ながい間の習慣に従って、まちがいなく、それらを果たしていった。ちょうど正確な機械ででもあるかのように。
 夕方、べつにする仕事も見つからなくて、寒い塾庭を一人でぶらついていると、大河無門がうしろからかれの肩(かた)をたたいて言った。
「本田さん、ぼくもききましたよ。」
 次郎が虚脱(きょだつ)した眼でかれの顔を見つめていると、
「塾は今度きりで閉鎖(へいさ)になるんですってね。」
「ええ、どうしてわかったんです。」
「小母(おば)さんにききました。」
 次郎は塾が閉鎖になることは、塾生たちにはまだ秘密にすべきことだと思っていた。それを朝倉夫人がどうして大河にもらしたのだろうと、それが不思議でならなかった。大河は、しかし、平気で、
「先生は、これからは、全国行脚(あんぎゃ)だそうじゃありませんか。いいですね。ぼく、もしお許しが出たら、ついて行きたいと思ってるんです。」
 次郎は、しびれた頭のどこかに急に電気でもかけられたような刺激(しげき)を覚え、眼を見はった。
「本田さんも、むろん、ついて行くんでしょう。」
「ぼく、まだ、そんなこと何も……」
「二人でついて行きましょう。友愛塾の運動は、こんな建物の中でやるより、そのほうがほんとうですよ。ぼく、今度講習をうけてみて、つくづくそう思いました。むろん、それもはじめからじゃ無理かもしれませんが、修了生が五百も全国に散らばっておれば、やり方次第(しだい)では相当なことができますよ。一回に五十人やそこいらをここに集めてやってるよりか、運動としては、よっぽどそのほうが効果的だと思いますね。」
 次郎は、朝倉先生と三人で、リュックをかついで全国を行脚してあるく姿を心に描(えが)いて、何か楽しい気がしないでもなかった。しかし、かれの眼は、建ってまだ三年とはたたない本館や、空林庵(くうりんあん)を、無念そうに見まわしていた。かれの胸には、幼いころ、自分の通(かよ)っていた村の小学校が新築され、それがかれと乳母(うば)のお浜(はま)を引きはなす原因になり、お浜と二人で最後に旧校舎の屋根を見あげたときの、あの言いようのない寂(さび)しい気持ちが、しみじみとわいていたのだった。かれは何か言いわけでもするように言った。
「しかし、ぼくらがついて歩けば、それだけ費用もかかりますし、勝手には決められないでしょう。」
「それはだいじょうぶです。小母さんのお話では、その費用なら、田沼先生のお力でいくらでも出るところがあるんだそうです。」
 次郎は、このことについて自分とはまだ何一つ話しあっていない朝倉夫人が、すでにそんなことまで大河に話しているのを知って、おどろいた。そのおどろきにはかすかに暗い影(かげ)がさしていた。塾の建物を見まわして幼いころの寂しかった気持をそそられていたかれは、同時に、そのころ覚えた不快な嫉妬心(しっとしん)をも呼びさまされていたのである。それはかれがとうの昔(むかし)にのりこえていたはずの人間としての弱点であった。かれは、その弱点が今もなお心に巣(す)くっているのに気づいて、ぎくりとした。弱点の反省は不快を二重にする。かれは大河から思わず眼をそらして、返事をしなかった。
 すると大河が言った。
「本田さん、小母さんにあまり気をもませないほうがいいですよ。小母さんは今朝から、あなたのことばかり心配して、しじゅう様子を見ておいでですが、ぼく、気の毒に思うんです。」
 次郎ははっとしてまともに大河の顔を見た。大河はにっと笑って、次郎の両肩(りょうかた)に手をかけ、
「実は、ぼくも、あなたの様子が今朝から変だと思って、小母さんにたずねてみたんです。すると小母さんが、何もかも打ちあけて、ぼくにあなたを慰めてくれ、と言ったんですよ。ははは。」
 大河の笑い声はびっくりするほど高かった。次郎はがくりと首をたれた。大河は、すぐ真顔になり、
「友愛塾は、勝つとか負けるとかいうことを考えるところではないんでしょう。ぼく、それがおもしろいと思うんです。くやしがったりしちゃあ、塾の精神が台なしになるじゃありませんか。やっぱり愉快(ゆかい)に行脚(あんぎゃ)しましょうよ。」
 次郎はいきなり大河に抱(だ)きついた。そしてむせぶように言った。
「ぼく、助かりました。……これから大河さんに、もっといろいろきいてもらいたいことがあるんです。旅行に出たら、すっかり話します。」
 この時、塾長室の窓から、二人の様子をじっと見まもっていた四つの眼があった。それはむろん朝倉先生夫妻の眼だった。次郎も大河も、しかし、それにはまるで気がついていなかった。
 その後、旅行までの二日間は、べつに変わったこともなくすぎた。入塾志願取り消しの電報は、その間にもさらに幾通(いくつう)かとどいたが、次郎はもうそれを大して気にはしなかった。むしろそれよりも、旅行前夜まで取り消しの通知が来なかった幾人かの志願者に対して、こちらから、事情により当分休塾するという意味の、きわめて事務的な通知を発送しなければならなくなったことが、かれの気持ちを割りきれないものにしていたのだった。
 いよいよ旅行の日が来た。全員――といっても朝倉夫人だけはいつも留守番役だった――が門を出たのは、まだ夜が明けはなれないころだった。旅行中のいろんな役割は万遍(まんべん)なく塾生全部にふりわけられていた。出発から帰塾まで、全く役割なしですませる塾生は一人もなかった。きまった役割のないのは、朝倉先生と次郎だけだったが、この二人には、到着(とうちゃく)した先で自然に何かの役割が生じて来るはずだったのである。
 最初の目的地は、静岡県のH村だった。この村にはKという友愛塾の第一回の修了生がいて、村生活に大きな役割を果たしているということが、すでに早くからたしかめられていた。朝倉先生としても、次郎としても、ぜひ一度はたずねてみたい村だったのである。
 みんなは、H村につくと、まず小学校の一室に招(しょう)ぜられた。そこには村の青年たちばかりでなく、村長以下のあらゆる機関団体の首脳者が集まっていて、歓迎(かんげい)してくれた。儀式(ぎしき)ばった歓迎では決してなかったが、顔ぶれがあまり大げさなので、朝倉先生がK青年にそのことをそっとただしてみると、かれはこたえた。
「この村では、一つの機関や団体が何かいい催(もよお)しをやると、他の機関や団体もいっしょになって喜んでくれ、できるだけの応援(おうえん)をしてくれるんです。今日も私のほうからむりにお願いして集まってもらったわけではありません。」
 いちおうあいさつがすみ、お茶のごちそうになると、陽(ひ)のあるうちに村中の諸施設(しょしせつ)を見学した。そのあと、また小学校に集まって、村の青年たちと夕食をともにし、座談会をやったが、ただ場所がちがっているというだけで、気分ははじめから終わりまで友愛塾そっくりだった。この村の青年たちは、すでに友愛塾音頭(おんど)までを、塾生たちといっしょにじょうずにおどることができたのである。
 ふんだんに用意してあった夜具にくるまって一夜をあかし、翌朝早くこの村をたったが、塾生たちのこの村からうけた印象は、なごやかな空気の中にみなぎっている生き生きした創意工夫と革新の精神であった。なお、わかれぎわに、村長が朝倉先生に私語した言葉は、それをはたできいていた塾生たちに、異常な感銘(かんめい)を与(あた)えたらしかった。村長は言った。
「この村をごらんになって、何かいいことがあったとしますと、その半分以上は、実はK君の力ですよ。K君は、自分ですばらしいことを考えだしておいて、それを実施(じっし)する場合には、だれかほかの人を表面に立てるんです。私が村長としてこれまでやって来たことも、たいていはK君の入れ知恵でしてね。ははは。」
 第二日目は、報徳部落として全国に名のきこえた、同県の杉山(すぎやま)部落の見学だった。杉山部落は、歴史と伝統に深い根をもち、すでに完成の域にまで達しているという点で、新興革新の気がみなぎっているH村とは、まさに対蹠的(たいしょてき)だった。明治維新(いしん)ごろまでは乞食(こじき)部落とまでいわれた山間の小部落が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異(きょうい)であった。
 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕(ふゆう)な部落をあちらこちらと見てあるいた。ほとんど平地にめぐまれないこの部落の人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面(しゃめん)を残るくまなく、茶畑と蜜柑(みかん)畑と竹林とにかえてしまったのである。その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに七十歳(さい)をこしていると思われる当主九郎左衛門翁(くろうざえもんおう)の、賢者(けんじゃ)を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神と部落の歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。
 午後、杉山部落を辞し、一路バスで清水(しみず)に行き、三保付近の進んだ農業経営や久能(くのう)付近の苺(いちご)の石垣(いしがき)栽培(さいばい)など見学し、その夜は山岡鉄舟(やんまおかてっしゅう)にゆかりの深い鉄舟寺ですごすことにした。
 鉄舟寺は、朝倉先生と次郎にとっては、もう親類みたようなところであった。それは第一回のときにこの地方に旅行に来て、清水青年団の肝(きも)いりで一泊(いっぱく)して以来、たびたび厄介(やっかい)をかけ、住職の伊藤老師ともすっかり仲よしになっていたからである。
 老師は五尺にも足りない小柄(こがら)な人で、年はもう八十に近かったが、子供のようなあどけない顔をしており、心も童心そのものであった。いつも塾生たちがつくまえから、庫裡(くり)の玄関(げんかん)にちょこなんとすわりこみ、いかにも待ちどおしそうにしていた。そしていよいよ塾生たちの顔が見えると、
「よう来た、よう来た。さあさあ、おあがり。御堂でも庫裡でも遠慮(えんりょ)はいらん。うちのつもりで、すきなところにゆっくりするんじゃ。」
 と、それだけ言うと、すぐ立ちあがって姿を消してしまう。姿を消すのは、塾生たちのため精進(しょうじん)料理をこしらえるためである。老師はその粗末(そまつ)な黒い法衣の上にたすきをかけ、手伝いに来た近所のおかみさんたち二三人を相手に、自分でも、こま鼠(ねずみ)のように台所を走りまわるのだった。塾生たちが、その様子を見て手伝いに行くと、
「おうお、こりゃあ助かる。こりゃあ助かる。でも、お客さまに手伝うてもろうては、仏さまに叱(しか)られるがな。」
 と、いかにもうれしそうな顔をする。こんなふうだから、いつの旅行の時も、老師は塾生たちにとって忘れがたい人物の一人になるのだったが、とりわけ今度の場合は、杉山部落で賢者のような風貌(ふうぼう)をした片平翁に接した直後だっただけに、対照的な意味でも、ふかく印象づけられたらしかった。
 その夜は、精進料理に舌つづみをうったあと、清水の青年たちとおそくまで座談会をやったが、ここにも塾の修了生が二名ほどいて、友愛塾音頭を、一般(いっぱん)の青年たちにも普及(ふきゅう)させていたので、最後にはみんなでそれをおどり、一座に加わっていた老師を子供のように喜ばせたのであった。
 第三日目は人間的交渉(こうしょう)をさけて、ひたすら自然に親しもうという計画だった。未明に鉄舟寺を辞すると、まず竜華寺(りゅうげじ)の日の出の富士(ふじ)を仰(あお)ぎ、三保(みほ)の松原(まつばら)で海気を吸い、清水駅から汽車で御殿場(ごてんば)に出て、富士の裾野(すその)を山中湖畔(こはん)までバスを走らせた。山中湖畔の清渓寮(せいけいりょう)は日本青年館の分館で、全国の青年に親しまれている山小屋風な建物である。ここに旅装(りょそう)をとくと、朝倉先生はみんなに言った。
「自然に親しむには、孤独(こどく)と沈黙(ちんもく)に限るよ。明日ここを出発するまでは、できるだけおたがいにそうした気持ちですごしたいものだね。」
 次郎はその言葉をきいた時、何か悲しい気がした。
 かれは実を言うと、過去二日半をほとんど孤独と沈黙の中ですごして来ていたのだった。心の中では大河に対して道江の問題を打ちあける機会をたえずねらっていながら、そして一度ならずその機会をつかみながら、ついに言いだしそびれていたかれは、それゆえに他の場合にも、とかく孤独と沈黙に自分自身を追いやっていたわけだったのである。こうして今となっては山中湖畔の半日だけが、かれにとって最後の機会になっていたが、その最後の機会に、朝倉先生のそんな言葉をきいたので、それがいかにも自分を運命的に追いつめるように聞こえたのである。
 かれは、しかし、つぎの瞬間(しゅんかん)には、かえってその言葉を機縁(きえん)に、自分を勇気づけていた。寮の前庭で中食の弁当をすましたかれは、すぐ大河をさそって、落葉松(からまつ)の林をくぐり、湖面のちらちら見える空地(あきち)に腰をおろした。木かげにはまだ雪がところどころ溶(と)け残っていたが、陽(ひ)ざしはしずかであたたかだった。かれはいくぶん恥(は)じらいながら、同時にいくぶんの自負心をもって、道江の問題に対して自分のとった態度を説明しながら、いっさいを告白した。大河は、次郎が話している間、眼をつぶっているきりだった。口もきかず、うなずくことさえしなかった。そして話がおわってからも、次郎を気味わるがらせるほどだまりこくっていたが、やがて眼をひらくと、言った。
「ぼくが同じ立場にいたとしたら、ぼくはおそらく無遠慮(ぶえんりょ)に恋(こい)を打ちあけたでしょう。それがぼくにとっては自然なような気がします。むろん拒絶(きょぜつ)されたら、その時にはさっぱりあきらめますがね。もっとも、あきらめるのがぼくにとってはたして自然だかどうだか、それは実際にその場合になってみないとわかりませんが。」
 それから、また、しばらくして、
「朝倉先生だと、どういう態度に出られますかね。今度の友愛塾の問題で見ると、恋(こい)を忍(しの)んでいられるようでもあるし、さっぱりとあきらめていられるようでもあるし、ちょっと見当がつきませんね。」
 次郎の耳には、大河の言葉の調子が、いかにもそらとぼけた、情味のないもののようにきこえた。かれは、しかし、そのために茶化されているという気にはちっともならなかった。大河の眼は、人を茶化すにしては、あまりにも深い光をたたえていたのである。次郎はおびえたようにその眼をうかがいながら、つぎの言葉を待った。すると大河はまた例のにっとした笑顔(えがお)をして言った。
「ぼくは、しかし、あなたのとった態度が不自然だったと言っているのではありませんよ。あなたにはそれよりほかに行き道がなかったとすれば、それがおそらくあなたにとっては自然だったでしょう。ぼくは、人間の心の自然さというものは、その人のつきつめた誠意の中にあると思うんです。」
 次郎はほうっと深い息をした。それは安堵(あんど)の吐息(といき)ともつかず、これまで以上の深い苦悶(くもん)の吐息ともつかないものだった。
 二人はやがて立ちあがって、言い合わしたように富士を仰(あお)いだ。どちらからも口をきかなかった。富士は、三保で見たすらりとした姿とはまるでちがった、重々しい沈黙と孤独の姿を、青空の下に横たえていた。
 次郎は、その沈黙と孤独の奥に、自分の恋と自分をとりまく時代とが蛇(へび)のようにもつれあい、すさまじく鳴動(めいどう)して、自分の運命を刻々にゆさぶっているのを、まざまざと感じるのであった。
   ――――――――――
 次郎の生活記録は、こうしていろいろの問題を残したままその第五部を終わることになるが、この記録は、見ようでは、かれの生活記録と言うよりは、むしろ、満州事変後急速に高まりつつあったファッシズムの風潮に対する、一小私塾のささやかな教育的抵抗(ていこう)の記録であり、その精神の解明である、と言ったほうが適当であるのかもしれない。少なくとも、その叙述(じょじゅつ)の半ばに近い部分がそれに費されていることは、否(いな)みがたいことのように思える。しかし、この私塾での三年あまりの次郎の生活が、道江の問題とからんで、かれの人間形成に及(およ)ぼした影響(えいきょう)は決して小さなものではなかったし、また、それがかれのこれからの生活に対して、よかれあしかれ、重大な意義を持つであろうこともたしかである。その点から言って、この一篇(いっぺん)は、全体として、やはり次郎の生活記録であるにはちがいないのである。
 実をいうと、かれの生活記録としては、この記録のほかに、もっとたしかな記録があることを私は知っている。それは次郎自身の日記である。もし、それをそのままここに収録することができれば、この記録の大部分は無用になったかもしれないが、次郎の現在の気持ちとしては、おそらくその公表を欲していないであろう。で、今は、この記録の不備を補(おぎな)う意味で、わずかにその数節を読者に提供することだけで満足したい。左に抜(ぬ)き書(が)きしたのは、かれがいよいよ朝倉先生夫妻とともに空林庵(くうりんあん)を引きあげることになった前日あたりに書かれたものらしいが、そのころの、明るいとも暗いともつかない、かれの心境をうかがうには、いい資料になるだろうと思うのである。
「ぼくは、中学一年にはいって間もないころ、しみじみと人間の運命というものの不思議さに思い到(いた)ったことがあった。それは、朝倉先生にはじめて接することができた時の喜びの原因を、それからそれへと過去にさかのぼって考えていくうちに、ついに、ぼくがお浜(はま)の家に里子(さとご)にやられたのが、そのそもそもの原因であることに気がついた時であった。ぼくは今またあらためて同じようなことを考えないではいられない。というのは、ぼくが中学を追われたのも、友愛塾の助手になったのも、また、田沼(たぬま)先生の人格にふれ、大河無門という友人を得、全国の青年たちと親しむようになったのも、そしてさらに、悲しみと憤(いきどお)りをもって友愛塾にわかれを告げ、自信のない新しい生活をはじめなければならなくなったのも、すべては朝倉先生とのつながりにその原因があり、もとをただせば、やはり里子ということにその遠因があると思うからである。
 道江の問題を考えて見てもやはり同様である。ぼくが道江を知ったのは、大巻(おおまき)との関係からだが、その大巻との関係は、今の母によって結ばれており、今の母がぼくの家に来るようになったのは、正木の祖父がぼくの将来を気づかって父にそれをすすめたからのことであった。そして、ぼくがその当時将来を気づかわれるような子供であったのは、やはり里子ということにその遠因があったのだ。
 里子! 何という大きな力だろう。それは現在のぼくのいっさいを決定しているのだ。ぼくの生活理想も、恋愛(れんあい)も。……そしておそらくそれは将来にもながく尾(お)を引くことであろう。いや、あるいはぼくの一生がすでにそれによって決定されてしまっているのかもしれないのだ。
 こう考えて来ると、人間の自由というものは一たい何だろう、とぼくは疑わずにはいられない。それは、円の中心から、自分の欲するままに、円周のどこへでも進んでいけるというようなことでは、絶対にない。おそらく、円の中心から円周に向かって、ほとんど重なりあうように接近して引かれた二つの線の間のスペースを、わずかな末広がりを楽しみに進んでいけるというにすぎないのではあるまいか。もしそうだとすると、それは自由というよりも、むしろ運命とよんだほうが適当だとさえ、ぼくには思えるのだ。
 だが、ぼくはまた考える。もしもぼくが、そうした運命観にとらわれて、正しく生きるための努力を放棄(ほうき)するならば、ぼくは円周のどの一点にも行きつくことができないであろう。ぼくにとって今たいせつなことは、運命によってしめつけられた自由の窮屈(きゅうくつ)さを嘆(なげ)くことではなくて、そのわずかな自由を極度に生かしつつ、一刻も早く円周の一点にたどりつくことでなければならないのだ。ぼくには、このごろ、やっと一つの新しい夢(ゆめ)が生まれかけている。それは、円周の一点にたどりつきさえすれば、そこから円周のどの点にも自由に動いて行けるのではないか、と思えて来たことだ。どんな偉人(いじん)にだって運命はあった。かれらがその運命を克服(こくふく)して自由になり得たのは、運命の中のささやかな自由をたいせつにし、それを生かしつつ、円周の一点にたどりつくことができた時ではなかったろうか。ぼくにはそう思えて来たのである。
 ぼくは、ぼくの小学校時代、大巻の徹太郎叔父(てつたろうおじ)につれられて山に登り、岩を真二つに割って根を大地に張っていた松(まつ)の木を見たことを今思い出す。その時、徹太郎叔父に言って聞かされた言葉は、そのままには記憶に残っていないが、たしかに今ぼくが考えているのと同じ意味のことだったのだ。
 ところで、運命の中のささやかな自由を生かすためには、いったいどうすればいいのか。その努力の心棒になるのは、いったい何なのだ。この問題の解決こそ、今のぼくにとっては何よりたいせつなことなのだが、ぼくの頭では、まだはっきりとした答が出て来ない。ぼくは中学にはいって間もないころ、生意気にも、「人に愛してもらうことなんかどうでもいい。これからは人を愛する人間になるんだ」というようなことを考えたことがあった。しかし、今から考えてみると、それは、愛にうえている自分のみじめさに腹がたち、子供らしい英雄(えいゆう)心理で自分をごまかしていたにすぎなかったのだ。むろん、ぼくは、「愛されたい願い」から、「愛したい願い」への心の転換(てんかん)を尊く思わないのではない。だが、それはしょせん人生の公式的教訓でしかないのではないか。だれが現実にそれができるというのだ。朝倉先生? 田沼先生? 大河無門? いや、人を疑ってはすまない。世の中にはすぐれた人もいるのだから、自分の心をもって人の心をおしはかるのはよそう。だが、少なくとも今のぼくにはできない。今のぼくは、正直に言って、やはり道江に愛されたいのだ。また、友愛塾をつぶした権力者や、それをとりまく人たちを心から憎(にく)んでいるのだ。ぼくの心に、そうした気持ちがうずをまいている限り、ぼくは、親鸞(しんらん)のあとに従って、自分を煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)、罪悪深重(ざいあくしんちょう)の人間だと観念するよりしかたがないのではないか。
 ぼくは、しかし、だからといって、決してやけにはなりたくない。またなってもいないつもりだ。ぼくの今の気持ちは、迷うだけ迷ってみたいという気持ちだ。円周にたどりついたあとのほのかな夢だけを抱いて、もがきにもがいているうちには、きっとどこかに道が見つかるだろう。その道は、煩悩熾盛、罪悪深重のままで歩ける道であるのかもしれない。あるいは、公式的教訓にすぎないと思われたことが、次第(しだい)に現実性をおびて来るという形で現われて来るのかもしれない。そう思うと、迷いに迷うことがすでに一つの道である、という気もするのだ。これは自分の自慰(じい)にすぎないだろうか。
 何だか、書くことが矛盾(むじゅん)だらけで、どこに自分の本心があるのか、わけがわからなくなってしまったが、わけがわからないのが現在の自分の姿であるとすれば、それもしかたのないことだ。ぼくは、あるいは疲(つか)れすぎているのかもしれない。今日は、日記を書くのはもうやめよう。」
(第五部おわり)[#改ページ]

   「次郎物語 第五部」あとがき

 この物語の第四部を書き終えたのは、昭和二十四年の三月十八日であった。それからもうやがてまる五年になろうとしている。月日のたつのは早いものである。それにしても、第五部を書くために五年の歳月(さいげつ)はあまりに永過ぎるのではないかと怪(あや)しむ人も多いだろう。事実、多数の読者からは、ずいぶん怠慢(たいまん)だというお叱(しか)りもうけた。第四部の「あとがき」の手前、著者としては、ただ頭を下げるより仕方がない。しかし、言いわけをしようと思えば、その種がまるでないわけでもないのである。
 実をいうと、第五部に筆をとりはじめたのは、第四部を書き終って間もない五月半ばであった。そして七月からは、その当時の私の個人雑誌「新風士」にそれを発表しはじめたものである。ところが翌年の三月、その九回目を書きあげたころになって、私のからだの調子がわるくなり、ついに病床(びょうしょう)に横たわる身となってしまった。病気はさほど重いというほどではなく、二カ月ほどで起きあがるには起きあがったが、主治医からは執筆(しっぴつ)を厳禁され、自分でも、それを押しきってまで書きたいという程の意欲はどうしても湧(わ)いて来なかった。一方、個人雑誌「新風土」も、そのために自然廃刊(はいかん)の余儀(よぎ)なきにいたり、何もかもが当分休止という状態になってしまったのである。
 その後、幸いにして健康が徐々(じょじょ)に恢復(かいふく)し、一冬をこして春になったころには、完全に医者の手をはなれ、執筆の自信も十分に出来、ちょいちょい雑文などを書くようになったが、それでも第五部の続稿(ぞくこう)にはなかなか手がつかなかった。というのは、それに手をつけようとして、すでに書き終った分を読みかえしてみた結果、意に満たない箇所(かしょ)が非常に多く、そのままで稿をつづけることに全く厭気(いやけ)がさして来たからであった。
 こうして毎日重たい気分におそわれながらも、ひと月ふた月と続稿をのばしているうちに、いつの間にやら一年が経過してしまった。知人のたれかれは、はじめのうち、「もう次郎は育てないつもりか」と、詰問(きつもん)するように言って私をはげましてくれたが、あとでは、そういう声もめったに聞かれなくなり、私としては、気重な気分と共に淋(さび)しい気分まで味わいはじめることになったのであった。
 いっそはじめから書き直すつもりで筆をとろう。そう決心して、あらためて構想をねりはじめたのは、一昨年の暮(くれ)ごろであったが、その新たな構想がまだまとまらないうちに、たまたま、宗教雑誌「大法輪」の編集者がたずねて来て、同誌上に第五部を連載(れんさい)したいという希望をのべた。すでに「新風土」に発表した部分があるが、と答えると、それでも差支(さしつか)えない。新春早々にその第一回をもらうことが出来れば幸いだという。そこで私は、構想に多少の修正を加えると共に、毎回新たに筆をとるような気持で書き出す決心をして、話をまとめることにした。
 いよいよ「大法輪」に連載され出したのは、昨年の三月号からで、終回は今年の三月号だから、その完成に、あらためて一年以上を費やしたわけである。
 以上が、第五部出版遅延(ちえん)の言訳である。
 なお、第六部はどうするか、ときかれても、それは第五部の場合のこともあり、確約は差控(さしひか)えたい。ことに、私ももう七十歳をこしてしまったことだし、生命に別条がないとしても、脳味噌(のうみそ)の硬化(こうか)はさすがに争えないものがあるのだから、めったな約束(やくそく)はしない方がいいだろうと思うのである。ただ私の希望だけをいうならば、戦争末期の次郎を第六部、終戦後数年たってからの次郎を第七部として描(えが)いてみたいと思っている。むろんすべては運命が決定することであり、私自身の意志は、次郎がかれの日記に書いているように、運命にしめつけられた、せまい自由の範囲(はんい)においてのみ動くことを許されるであろう。

一九五四年三月四日



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