次郎物語
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著者名:下村湖人 

 しかし、道江の執念を醜いと思う心は、すぐかれ自身にもはねかえってきた。
(道江に何の罪がある。道江はただ自分を信じてすべてを自分に訴えているだけなのだ。それを醜いと思う心こそ、何にもまして醜い心ではないか。我執(がしゅう)と自負と虚偽(きょぎ)とのわなにかかって身もだえしている嫉妬心の亡者(もうじゃ)、それ以外に今の自分に何が残されているというのだ。)
 憎悪(ぞうお)と自責とが恋情(れんじょう)の燈火(とうか)のまわりをぐるぐると回転した。それは際限のない回転だった。
 いっそうかれをみじめにしたのは、道江の手紙が、かれに返事をせき立てていることだった。今度という今度は、これまでのように、まるで返事を出さないでおくというわけにはいかない。もし自分がそういう態度に出たら、道江は自分を人間だとは思わないだろう。それは次郎としてたえがたいことだった。だが、真実を書いた場合の結果を思うと、それは身ぶるいするように恐(おそ)ろしいことだった。それは自分の自尊心を台なしにして、道江をいっそう深い苦悩に追いこむだけのことではないか。――残された道はうその返事を書くことだが、では一たいどんなうそを書けばいいのか。第一、そんなことに心を苦しめて、それにいったい何の意味があるというのだ。
 かれは迷いに迷った。そしてこの迷いにも際限がなかった。
 とうとうその日は決心がつかないままに暮(く)れた。かれはうつろな心で塾の行事を終わり、解決を翌日にのばして、冷たい床(とこ)にはいった。眠(ねむ)られない一夜だった。混迷(こんめい)はやはり翌日もつづいた。また夜が来た。こうして二日とたち三日とたつうちに、かれはもうそのことを考えることさえいやになってきた。そして事実は、結局、返事を書かない決心をしたのと同じ結果になり、それがいよいよかれの気持ちを不安にし、かれを陰気(いんき)な沈黙に誘(さそ)いこんでいったのである。
 道江の手紙を受け取って以来、次郎の関心が、事変後の国情とか、塾の運命とかいうようなことからいくぶん遠ざかっていたことは、いうまでもない。かれはおりおり自分でそのことに気がついて、ぎくりとした。一女性の問題に心を奪(うば)われて公(おおや)けの問題を忘れることは、かれにとっては、人間としての良心の問題であり、少なくとも自尊心の問題だったのである。そしてこの反省は、大河無門の顔がかれの視界にあらわれる時に、とりわけきびしかった。そのために、かれはこのごろいよいよ大河がおそろしくなってきたのだった。
 さて、二月二十六日の事件が始まって十日近くもたつと、新聞の記事もそろそろ平常に復し、友愛塾では、しばらくぶりで日曜らしい日曜を迎(むか)えることになった。その日は天気もよかったので、塾生たちは朝食をすますと、先を争うようにして外出した。事変のあった現場を見たいという好奇心(こうきしん)もかなり強く手伝っていたらしかった。
 次郎は、まだやはり道江の手紙のことが気になって、外出する気にはむろんなれず、かといって落ちついて読書もできず、例によって日あたりのいい広間の窓によりかかって、ひとりで思い悩(なや)んでいた。床(とこ)の間(ま)の掛軸(かけじく)に筆太(ふでぶと)に書かれた「平常心」の三字も、今のかれにとっては、あまりにもへだたりのある心の消息でしかなかったのである。
 塾生たちの出はらった本館の静けさは、気味わるいほどだった。そとには風もなかった。霜柱(しもばしら)のくずれる音さえきこえそうな気がした。次郎は、しかし、あたりが静かであればあるほど、気がいらだつのだった。
 ふと、しずかな空気をやぶって、玄関(げんかん)のほうに人の足音がした。つづいて、
「次郎さん、いらっしゃる?」
 と朝倉夫人の声がきこえ、事務室と次郎の室との間の引き戸をあける音がした。
 次郎があわてて広間にとび出すと、朝倉夫人は、もう廊下(ろうか)をこちらに歩いて来ながら、
「何かお仕事?」
「いいえ。」
 次郎はどぎまぎして答えた。夫人は微笑(びしょう)した眼を次郎にすえながら、
「このごろ空林庵のほうはすっかりお見かぎりのようね。でも、今日はぜひいらっしていただかなければなりませんわ。」
 次郎がいくぶん顔をあからめながら、眼を見はっていると、
「今日は、先生と三人で重大会議を開かなければなりませんの。」
「重大会議? 何でしょう。」
 朝倉夫人は、やはり微笑したまま、それにはこたえず、
「もし大河さんが外出していらっしゃらなかったら、次郎さんとごいっしょに、ご相談に加わっていただきたいんですって。だけど、いらっしゃるかしら。」
「さあ。」
 次郎は大河の名が出たので、いよいよまごついた。「さあ」というかれの返事は狼狽(ろうばい)の表現でしかなかったのである。
「じゃあ、ちょっとお室(へや)をのぞいてみてくださらない? そして、もしいらしったらすぐごいっしょに空林庵のほうにおいでくださいね。」
 朝倉夫人は、そう言って、いそいで玄関を出て行った。
 次郎は、考える余裕(よゆう)もなく、すぐ第五室に行って戸をノックした。
「はあい。」
 にぶい大河の返事がきこえた。戸をあけると、大河は坐禅(ざぜん)でも組んでいたかのように、背筋(せすじ)をのばしてあぐらをかいていた。かれの前の机の上には、何一つのっていなかった。窓の光線をうしろにしてふり向いたその顔には、近眼鏡のふちだけが強く光った。
 次郎が朝倉夫人の言葉をつたえると、
「そうですか。」
 と、べつにふしぎに思った様子もなく、のっそりと立ちあがり、それっきりだまって次郎のあとについて来た。次郎も空林庵の玄関を上がるまで、口をきかなかった。
 空林庵の朝倉先生の書斎(しょさい)は、深く陽(ひ)がさしこんで温室のようにあたたかだった。二人がはいって来ると、先生はすぐ言った。
「やあ、大河君も来てくれたか。いてくれてしあわせだったな。……実は、ちょっとうるさいことがあってね。それが対外的の意味をもっているんで、いつもの通り、いきなり塾生みんなの相談にかけても、どうかと思ったもんだから。……」
 対外的という言葉をきいて、次郎の眼はやにわに光った。それはこのごろにない鋭(するど)い光だった。大河もいくぶん緊張(きんちょう)した顔をして朝倉先生を見つめた。
 朝倉先生は、しかし、笑いながら、
「対外的なんていうと、少し大げさにきこえるかもしれんが、そう大したことじゃない。いわゆる招かれざる客がやって来るだけのことなんだよ。」
 そう言って朝倉先生が説明したところによると、その招かれざる客というのは、小関氏を塾長とする興国塾(こうこくじゅく)の塾生約五十名で、来塾の目的は見学と交歓(こうかん)、日時は今度の土曜の午後一時から夜八時まで、夕食をともにするが、実費は先方の分は先方で負担する、プログラムは当方に一任、ただし、意見交換(こうかん)の時間をできるだけ長くする、というのであった。
「いつの間に、そんなことがきまったんですか。」
 次郎は、話をきき終わると、詰問(きつもん)するようにたずねた。
「つい二三日前。――荒田(あらた)老人から、田沼(たぬま)先生を通じて申し入れがあったんで、そうきめたんだ。こないだ君もきいて知っているだろうと思うが、やはりこれも、私設青年塾堂の全国的連合組織を作るための準備工作だそうだ。」
「どうしてそれをお断わりにならなかったんです。」
「表面、悪いことではないし、それを強(し)いて断わるのは現在の客観的情勢が許さないのでね。」
「しかし、先方の肚(はら)はまるでちがったところにあるんでしょう。」
「むろんちがっているだろう。……まあ昔(むかし)でいえば、道場やぶりというところだろうね。」
 次郎は、そんなことを平気で言う朝倉先生が、ふしぎでならなかった。まさか先生が、時代の重圧に負けてやけくそになるわけがない。そうは思うが、やはり何となく不安である。かれはだまって先生の顔を見つめた。すると先生は、その澄(す)んだ眼をぱちぱちさせながら、
「道場やぶりがこわいかね。」
 次郎はめんくらった。同時に闘志(とうし)に似たものがかれの心にうごめいた。
「そんなことないんです。」
 と、かれはおこったように答え、きっと口をむすんだ。
「こわくなけりゃあ、そうむきになって拒絶(きょぜつ)することもないだろう。受けて立つという法もある。もしこういう機会に少しでもこちらの理想を相手の心に植えつけることができれば、むしろ一歩の前進だ。しかし、それにはけちくさい闘志を燃やしてはいけない。ただこちらのふだんの生活のすがたをくずさないようにすれば、それでいいのだ。人間は、結局、一番自然で、一番合理的な生活に心をひかれるものなんだから、君らがそれをくずしさえしなければ、いつかは必ず相手の心に響(ひび)く時があるだろう。それでいいんじゃないかな。どうだい、大河君。」
「ええ、結構だと思います。」
 それまで眼をつぶって二人の話をきいていた大河は、無造作にそうこたえると、またすぐ眼をつぶった。
「本田君も、いいねえ。」
「ええ、わかりました。」
 次郎の意識の中には、やにわに大河の存在が大きく浮(う)かんでいた。かれは朝倉先生に説き伏(ふ)せられたというよりは、大河の無造作な答えに説き伏せられたといったほうが適当であった。
「じゃあ、プログラムを二人で相談して組んでみてくれたまえ。こまかなことはどうでもいいんだ。どうせみんなにも相談してきめることなんだから、こまかなことは、その折にきめることにして、動かせない大筋(おおすじ)だけを考えておいてもらいたいね。かんじんなのは、ここの生活の空気をこわさないことだよ。できればお客さんをこちらの空気にまきこんでしまいたいのだが、そこまではちょっとむずかしいな。とにかく、そこいらがうまくいきさえすれば、あとは、どうでもいいんだ。」
「大変ね。」
 と、その時、火鉢(ひばち)のはたでみんなのためにコーヒーをいれていた朝倉夫人が言った。
「でも、お二人でお考えくだされば、きっといいプログラムがおできになりますわ。」
 それから、何か思い入ったように、
「あたし、その日は、お役にたつことでしたら、どんなことでもいたしたいと思っていますの。」
 次郎はそのしみじみとした調子が変に気になりながら、コーヒーをすすった。
 大河と次郎とは、それから間もなく本館にかえり、さっそくプログラムをねりはじめた。次郎が大河と二人きりでながい時間話すのは、しばらくぶりだった。かれの気持ちは変に落ちつかなかった。威圧(いあつ)されるような気持ちと、よりかかりたいような気持ちとがたえず交錯(こうさく)していたのである。しかし、一方では、かれのこのごろの暗い混迷した気持ちが、新しい問題を投げかけられたせいもあって、少しずつうすらいでいくかのようであった。
 プログラムを組むのに、二人が最も重要だと思ったのは、意見交換の時間をできるだけながくするように、という先方の申し入れに、どう応ずるかということであった。先方の肚(はら)が、それによって激論(げきろん)をまきおこし、日本精神とか時局とかの名において、こちらを窮地(きゅうち)に追いこみ、あわよくば重大な失言をさせようとしていることは明らかであった。その手に乗ってはならない。かといって、その申し入れを無視するわけにも行かない。そこに二人の苦心があったのである。だが、これは大河の提案によってあんがい簡単に片づいた。それは八つの室に分散して地方別の懇談会(こんだんかい)を開き、それにできるだけ多くの時間を費すことであった。大河は言った。
「小人数にわかれると肩肘(かたひじ)張った演説もできまいし、それに地方別ということが、自然話題を地についたものにするだろうと思います。そうなると、こちらの生活のほんとうの意味が、先方の人たちにもいくらか納得(なっとく)してもらえるかもしれません。」
 このことがきまると、あとはわけはなかった。二人は中食前にだいたいの案を朝倉先生に報告することができた。朝倉先生は一通り案に目を通すと、笑いながら言った。
「地方別懇談会とはうまく考えたね。先方では裏をかかれたと思うかもしれないが、文句をつけるわけにはいくまい。まあ、名案としておこう。」
 それから、しばらく何か考えていたが、
「しかし、こういう細工をやるのは、あまり愉快(ゆかい)なことではないね。」
 その日、塾生たちが外出から帰って来て夕食をすますと、さっそくその問題が相談にかけられたが、ほとんど原案通り決定された。ただ原案になかったことで、こちらの塾生代表と進行係とをだれにするかが問題になり、進行係のほうはすぐ次郎にたのむことにきまったが、塾生代表については、いろいろの意見が出た。室長の互選(ごせん)という意見も出たのでそれに落ちつけば一番合理的なはずだったが、それには室長の多数がふしぎに賛成しなかった。そして結局、青山敬太郎の発言で大河を推(お)し、それがほとんど全部の塾生に拍手(はくしゅ)をもって迎(むか)えられたのであった。
 その晩、自分の室に帰った次郎の気持ちには、ふしぎな変化がおこっていた。かれは机の引き出しの奥(おく)深くしまいこんでいた道江の手紙を取り出して、もう一度しずかに読みかえした。そして読み終わると、すぐ二通の手紙を書いた。一通は道江あて、もう一通は恭一あてだった。恭一あてのには、
「道江からこんな手紙が来たが、僕(ぼく)には返事のしようがない。すべては君の責任において解決してもらいたい。」
 とだけ書いて、道江の手紙を同封(どうふう)した。道江あてのもきわめて簡単だった。
「お手紙拝見。ご胸中同情にたえません。返事が遅(おく)れてすまなかったが、おたずねの人物については、いろいろ考えてみました。しかし、結局僕には見当がつきません。で、思いきって、お手紙をそのまま兄におくり、その返事を求めることにしました。あるいは直接そちらに返事が行くかもしれません。とにかく、この事については、兄自身がすべての責任を負うのが当然だと思います。道江さんもそのつもりで勇敢(ゆうかん)に兄にぶっつかってみてください。切に前途(ぜんと)の光明(こうみょう)を祈(いの)ります。」

   一二 交歓会

 それからの一週間は、次郎にとって、変に矛盾(むじゅん)にみちた明け暮(く)れだった。
 二通の手紙を出したあとのかれの胸には、大きな空洞(くうどう)があいており、その空洞の中を、悔恨(かいこん)と、嫉妬(しっと)と、未練と、そしてかすかな誇(ほこ)りとが、代わる代わる風のように吹(ふ)きぬけていた。しかも、一方では、興国塾(こうこくじゅく)との交歓会をひかえて、その同じ胸が、空洞どころか、重い鉛(なまり)でもつめこんだように心配で一ぱいになっていた。心配といっても、それはむろん、こざこざした準備や、その日の手順などのことについてではなかった。そうしたことは、もうたいてい塾生たちの分担に任しておいても、決して不安はなかったのである。ただ、かれがたえず悩んだのは、ともすると心の底に、朝倉先生のいわゆるけちな闘志(とうし)がうごめくことであった。交歓会とは名ばかりで、その実、戦いをいどまれているようなものであり、しかも、その結果いかんは、ただちに塾の運命を左右するのだ、と思うと、怒(いか)りがこみあげて来て、何くそ、負けてなるものか、という気になる。
 だが、そうした闘志に身を任せることは、決して友愛塾としての真の勝利をもたらすゆえんではない。それどころか、そのこと自体がすでに敗北を意味するのだ。かりに百歩をゆずってそうした闘志をゆるすとしても、その闘志をどう使えば相手を打ち負かすことができるのか、相手はこちらが相手以上に軍国調にならないかぎり、絶対に負けたとは思わない人たちなのだ。そう思いかえしては、自分をおさえるのだったが、おさえればおさえるほど、無念でならない気がして来るのである。
 こうした闘志は、むろん次郎だけのものではなかった。気の強い塾生たちの中には、次郎ほどの反省力や責任感がないせいもあって、あからさまにそれを口に出していうものも決してまれではなかった。それがいっそう次郎をなやました。かれは自分自身の闘志にたえずなやまされつつ、その同じ闘志が他の塾生たちの心にきざすのを注意ぶかく警戒(けいかい)していなければならなかったのである。
 そのために、かれはもうこれまでのように、ひまさえあると自分の室にばかりとじこもっているというわけにはいかなかった。かれは塾生たちの気持ちの動きを知るために、かれらとの個人的接触(せっしょく)の機会をできるだけ多くすることにつとめなければならなかった。このことは、自然かれをいくらか饒舌(じょうぜつ)にし、一見いかにも快活らしく見せた。しかし、それが見かけだけのものであったことは、かれ自身が一ばんよく知っていたのである。
 こうして、ついに約束(やくそく)の土曜日が来た。天気は快晴というほどではなかったが、この季節の武蔵野(むさしの)にしては、風も静かで、割合あたたかい日だった。準備は昨夜までにすっかりととのっていたので、塾生たちの気分には十分のゆとりがあり、午前中は、外来講師小西先生の民芸に関する講義も落ちついてきいた。小西先生は良寛和尚(りょうかんおしょう)を思わせるような風格の人で、その言葉や動作の中に作為(さくい)のないユーモアがあふれ、それが話の内容にぴったりしていて、この日の講義としては、あつらえ向きだった。
 中食後の座談がすむと、民芸に特別の関心を有する二三の塾生が小西先生の帰りを見おくって、門のあたりまでついて行った。そのほかの塾生たちも、そのあとから、ぞろぞろと塾庭に出て、三人五人と、草っ原に腰(こし)をおろしたり、森をぶらついたりしていた。その光景は、いかにものんびりしていた。今日のお客を迎(むか)える前にしてはのんきすぎるようにも思えたが、これも実は次郎と大河とが組んだプログラムの中の、かくれた一コマだったのである。
 一時ちょっと前になると、朝倉先生夫妻も塾庭に姿をあらわした。それとほとんど同時に、自家用車らしい黒塗(くろぬ)りの自動車が一台、正門をすべりこんで来るのが見えた。みんなの眼(め)は、自然そのほうにひかれた。中でも次郎の眼がぎらりと光った。かれはその時、草っ原に腰をおろしていた仲間の一人だったが、いきなり立ちあがって、朝倉先生のほうに走って行き、何かささやいた。
 自動車は、もうその時には、二人のすぐ前まで来ていたが、通りすぎたかと思うと、すぐとまった。そして、その中から出て来たのは、鈴田(すずた)に手をひかれた荒田老(あらたろう)だった。
「あっ、荒田さんでしたか。ようこそ。……あなたがお出(い)でになることは全く存じがけなかったものですから、どなたのお車かと思っていました。」
 と、朝倉先生が歩みよりながら声をかけた。
 荒田老は、和服の上にマントをひっかけ、毛皮製のスキー帽(ぼう)みたようなものをかぶっていたが、帽子には手もかけず、
「やあ、塾長(じゅくちょう)さんですか。」
 と、黒眼鏡を朝倉先生の声のするほうに向け、
「今日は、しばらくぶりで、わしも見学にあがりましたんじゃ。まだ興国塾からは見えませんかな。」
「一時に到着(とうちゃく)という約束になっていますので、もうすぐ、見えるでしょう。」
 そう言っているうちに、正門の外から、「歩調取れ」というかん高い号令の声がきこえ、つづいて、カーキー色の服を着た一隊の青年が、ももを高くあげ、手を大きく前後にふりながら、堂々と門をはいって来た。
 それを見ると、こちらの塾生たちは、ほうぼうから急いで朝倉先生の立っている近くに集まって来た。そして、手を高くあげて叫(さけ)んだり、拍手(はくしゅ)をしたりして、歓迎(かんげい)の意を表した。むろん、みんなの顔は笑いでほころびていた。それはちょうど町の群衆が凱旋(がいせん)の軍隊を迎える時のような光景であった。
 その間、先方の隊はわき目もふらず行進しつづけて来たが、やがてこちらの集まっている前まで来ると、「分隊止まれ」の号令で停止し、「左向け左」の号令で横隊(おうたい)になった。そして両翼(りょうよく)の嚮導(きょうどう)によって整頓(せいとん)を正され終わると、そのあとは壁(かべ)のように動かなくなった。
 同時に、こちらの歓迎のざわめきもぴたりととまり、あたりはしいんとなった。
 すると、それまで隊のあとから見えがくれについて来ていた背広の紳士(しんし)が、つかつかと進み出て、まず荒田老と、つぎに朝倉先生と、あいさつをかわした。年格好(としかっこう)といい、容貌(ようぼう)といい、その人が興国塾長の小関氏であることは、次郎には一目でわかった。
 小関氏は、あいさつをすますと、こちらの塾生たちの群をさげすむように見ながら、朝倉先生に言った。
「どういう順序になっていますかね。私のほうは、もうすべてご予定通りに動くように準備ができていますが。」
「あ、そうですか。これは失礼しました。」
 と、朝倉先生は、すぐそばに立っていた次郎をかえり見て、
「じゃあ、予定どおりすすめてくれたまえ。」
 そこで次郎は双方(そうほう)の中間に進み出て言った。
「僕(ぼく)は、本田という者です。今日の進行係をつとめさしていただきます。実はいちおう皆(みな)さんを舎内にお迎えした上で予定のプログラムを進めるのが礼儀(れいぎ)だと思いますが、幸いに天気もよいし、それにこれからの進行の都合もありますので、双方の最初のごあいさつの交換(こうかん)だけは、この青天井(あおてんじょう)の下でお願いしたいと思います。では、まず友愛塾生代表の歓迎(かんげい)の辞……」
 すると、大河無門がのそのそと進み出て、歓迎の辞をのべた。それはきわめて簡単だった。わざわざ訪ねて来てもらったお礼と、うちくつろいで歓談してもらいたいという希望とをのべたにすぎなかった。それに要した時間も、おそらく一分以上には出なかったであろう。
 つぎは先方のあいさつだった。隊の指揮(しき)をしていた青年が、そのまま先方の代表として進み出た。かれはまず大河をはじめこちらの塾生たちに厳粛(げんしゅく)な挙手(きょしゅ)注目(ちゅうもく)の礼をおくったあと、精一ぱいの声をはりあげて、
「不肖(ふしょう)黒田勇は興国塾生一同を代表して、友愛塾の諸兄に初対面のごあいさつを申し述べる光栄を有します。」
 と叫んだ。それから、およそ五六分間は、十分に暗誦(あんしょう)して来たらしい文句をつらねて、熱烈(ねつれつ)に世界の大勢を説き、日本の生命線を論じた。そして論旨(ろんし)を一転して青年の思想問題に入りかけたが、そのころからかれの言葉は次第(しだい)にみだれがちになり、またしばしばゆきづまった。ゆきづまると、かれの視線はきまって空のほうにはねあがり、血走った白眼が大きく日に光った。そんなふうで、さらに五六分の時間がどうなりすぎたが、そのうちに、いくら空をにらんでも、どうしてもあとの言葉がつづかなくなってしまった。するとかれは、ちょっと肩(かた)をすくめ、右手をあげて耳のうしろをかいた。それからにやりと笑って胸のかくしから草稿(そうこう)を引きだし、大いそぎでそれをめくった。
 そのあと、かれがふたたびもとの厳粛さと熱烈さをとりもどしたことは言うまでもない。それは、しかし、必ずしも草稿にたよれるという安心ができたからばかりではなかったらしい。というのは、かれの演説は決して単なる朗読(ろうどく)演説ではなく、一つの句切りの最初の言葉さえ見つかれば、あとの数行は草稿なしでも自然に口をついて流れ出て来たし、そのあいだに、かれはかれの予定通りの厳粛さと熱烈さとを十分に発揮(はっき)することができたからである。ただかれのために残念だったのは、かれの前にテーブルが据(す)えてなかったことであった。もしそれさえあったら、かれはもっと巧(たく)みに草稿に眼を走らせることができたであろうし、またしたがってかれの演説はいっそう雄渾(ゆうこん)であることができたかもしれなかったのである。
 かれは最後に、草稿をにぎった左手を腰のうしろにまわし、右手で力一ぱい空間をたたきつけながら言った。
「諸君、お互(たが)いの修練の場所はちがっても、等しくこれ日本の青年であります。日本の青年である以上、修錬の目的とするところは全く同一(どういつ)でなければなりません。その意味で、諸君がすでにわれわれの同志であることは、一点の疑いをいれないところであります。ただ、人により、また修錬の場所により、体得するところに深浅(しんせん)高低の差があるのは、おそらく免(まぬが)れがたいところであり、また時としては、自ら知らずして誤まった方向に進んでいる者もないとは限りません。そのことに思いをいたしますと、本日の交歓の意義はまことに深いものがあります。われわれは、この半日の交歓において、われわれの信念と体験の全部をひっさげて諸君にぶっつかるつもりでやってまいりました。諸君もまた全力をあげてわれわれの妄(もう)をひらかれんことを希望します。終わりっ。」
 かれはもう一度挙手の礼を送り、まわれ右をして、駆(か)け足(あし)で隊の右翼(うよく)に帰って行き、そこではじめて「休め」の号令をかけた。
 すると次郎がふたたび進み出て、言った。
「では、これからしばらくの間、皆さんにこの塾の施設(しせつ)を見ていただきたいと思います。それには、小人数にわかれて見ていただくほうが、説明や何かにも便利だと思いましたので、こちらは、九州班とか東北班とかいうぐあいに、地区別にわかれてご案内をすることにいたしております。皆さんのほうでも、そんなぐあいにわかれていただけば、何よりだと思います。そして一通りご覧くだすったあと、夕食までの時間を、お互いの意見交換なり研究なりに費したいと思いますが、それもやはり地区別にわかれてやったほうが、自然親しみもあり、話が具体的にもなって、将来の連絡(れんらく)提携(ていけい)のために非常にいいのではないかと考え、そういうことにプログラムを組んでおきました。ご懇談(こんだん)くださる場所は、いちおう本館の各室をそれぞれ割り当てておきましたが、天気もこんなにいいことでありますし、森蔭(もりかげ)や草っ原をご利用くださるのも一興(いっきょう)かと思います。その辺は各班のご希望によって、ご随意(ずいい)にお願いいたします。夕食は五時半に、本館の広間に集まって、ごいっしょにいただくことにしておきました。そのあと、八時のお引きあげの時刻までは、親交を主としてできるだけおもしろくすごしたいと思います。その進行係は私にお任せ願いますが、あるいは皆さんに隠(かく)し芸(げい)を出していただくようなことがあるかもしれませんから、そのご用意を願っておきます。なお、念のため申しそえておきますが、この塾堂には、秘密の室とか、出入り制限の室とかいうものは一室もありませんし、また了解(りょうかい)のもとにここの門をはいって来た人なら、どんな人でも家族同様の気持ちでお迎えすることになっています。ですから、皆さんもどうかそのおつもりで、今日はお客でなく、もとからの家族だというお気持ちでおすごしくださるようにお願いしたいと思います。」
 次郎がそう言って引きさがると、大河無門がすぐ手をあげて、何か友愛塾の塾生たちに合い図をした。すると、塾生たちは、五人、七人とかたまって、興国塾生たちのほうに近づいて行き、「関東地方の諸君はこちらに」とか、「東北地方の方は私どもがご案内します」とか、いったぐあいに、口々に叫(さけ)びだした。
 次郎は、もうそのときには、塾生たちのほうよりは、荒田老や小関氏のほうに注意をひかれていた。黒眼鏡をかけた荒田老の表情はほとんどわからなかった。ただ気のせいか、そのでっぷりとふとったきずだらけの顔が、いつもよりいくぶん赤味をおびているように見えただけだった。
 しかし、小関氏の表情はたしかに普通(ふつう)ではなかった。骨にぴったりとくっついたような、青白い、つるつるに光った顔面筋肉が、唇(くちびる)を中心にびりびりとふるえており、その眼は塾生たちのほうを見つめて凍(こお)ったように動かなかったのである。
 次郎は二人を見た眼を転じて、朝倉先生と夫人の顔をのぞいた。先生のほうはべつに変わった顔もしていなかったが、夫人はさすがに緊張(きんちょう)していた。先生はしばらくして小関氏に言った。
「では、夕食まで私の室でお休みいただきましょうか。それまでは、私たちは、べつに用もなさそうですし。」
 小関氏はそれには答えないで、ちょっと荒田老の顔を見たあと、詰問(きつもん)するように言った。
「こういう計画はあなたがおたてになったんですか。」
「いいえ、塾生たちに考えてもらったんです。ここでは、なるだけ塾生たちの創意を生かす方針でやっているものですから。」
「なるほど。すると、あなたもこういう計画だということは、今はじめておわかりになったんですね。」
「そうじゃありません。決めるまえには、むろん私にも相談はするんです。」
 小関氏は、もう一度荒田老の顔をのぞいた。それからつめたい微笑(びしょう)をもらしながら、
「じゃあ、今日の計画は、やはり、あなたがお認めになった計画ですね。」
「それはそうですとも。」
 と、朝倉先生は相手の皮肉にはいっこう無頓着(むとんちゃく)なように、まじめくさって、
「創意を生かすといったところで、任せっきりでは、まだ何といってもあぶないことがあるものですから。」
「しかし、あなたにお認めいただいたにしては、今日のご計画は少し変ではないですかね。」
 小関氏は、真正面から切りこむ肚(はら)をきめたらしく、その顔には、もうつめたい微笑も浮(う)かんでいなかった。
「そうでしょうか。」
 と、朝倉先生はやはりとぼけている。
「こんなに、ばらばらになってしまっては、第一、眼もとどきませんし、まじめに意見の交換をやるかどうか、わからないじゃありませんか。」
「それはだいじょうぶでしょう。青年は信じてさえやれば、それほど裏おもてのあるものではありませんから。」
 小関氏の青白い頬(ほお)がぴくりと動いた。が、すぐ、
「かりにまじめな意見交換が行なわれたとしましても、議論になった場合、その黒白はだれがつけてやるんです。」
「青年たちがおたがいの間でつけるんじゃありますまいか。」
「それができれば、言うことはないんです。しかし、万一まちがった結論になった場合、おたがいに、指導者としての責任は、どうなんです。」
「あとで正す機会はいくらでもあるでしょう。私はむしろそのほうが指導が徹底(てってい)するんじゃないかと考えるんですが。」
「それはどういう意味です?」
「このごろの青年たちは、とかく指導者の前では存分にものが言えない。言っても迎合的(げいごうてき)なことを言う。これは指導者があまり急いで結論を押しつけるからじゃないかと思います。私は、青年たちに、自分たちでものを考え、自分たちで意見を戦わして、たといまちがいでもいいから、いちおう自分たちの判断を生み出さしておいて、そのあとで正すべきものを正してやる、というふうにしたい。そうでないと、せっかくの指導がほんとうに身につかないように思いますが。」
「なるほど。つまり自由主義的な指導をなさろうというのですね。」
 小関氏の顔には、ふたたび冷たい微笑がうかんだ。
「自由主義というかどうか、私には主義のことはわかりませんが、しんからまじめで、表裏のない、そして感情に走らない国民を養うのには、そうした指導が必要だと信じています。」
「すると、あなたは――」
 と、小関氏がいきりたった調子で何か言おうとした。が、それより早く、荒田老の、さびをふくんだ、恫喝(どうかつ)するような声がきこえた。
「小関さん、もう問答は無用です。」
 荒田老は、そう言って、数秒の間その黒眼鏡をとおして二人のほうに眼をすえているようだったが、
「朝倉さん、あんたはせっせと小理屈(こりくつ)のいえる青年をお育てになるほうがよかろう。じゃが、言っておきますが、あんたのお育てになるような青年は、もう日本には用がありませんぞ。これからの日本に役にたつのは、理屈なしに死ねる青年だけですからな。」
 それから、すぐ横につきそっていた鈴田(すずた)のほうを向いて、
「どうれ、帰ろうか。せっかく来たが、もう用はない。」
 鈴田はじろりと朝倉先生を横目で見たあと、荒田老の手をひいて、自動車のほうにあるき出した。
 もうその時には、双方の塾生たちは地区別にわかれてほうぼうに散っていた。あとには、朝倉先生夫妻と小関氏と次郎の四人だけが立っていたが、朝倉先生が、
「お帰りですか。」
 と荒田老のあとを追うと、ほかの三人も、だまってそのあとにつづいた。
 自動車の扉(とびら)がしまるまえに、朝倉先生は近づいて行って、言った。
「どうも相すみませんでした。せっかくおいでいただきましたのに。」
 荒田老は、しかし、それには答えないで、
「小関さんは、塾生をほっておいて帰るわけにもいきませんな。お気の毒じゃ。」
 自動車は気まずい沈黙(ちんもく)のうちに動きだした。四人はそれが門外に消えるまで見おくつていたが、その間も沈黙がつづいた。
 やがて朝倉先生が小関氏を見て言った。
「ともかくも中にはいってお休みいただきましょう。ここではお茶も差しあげられませんし。」
「ええ。」
「塾生たちの様子は、あとで、集まっているところをまわってお歩きになっても、大よそわかると思いますが。」
「ええ。」
 小関氏は、にがりきって、ただなま返事をするだけだった。それでも、朝倉先生が歩きだすと、しぶしぶそのあとにつづいた。朝倉夫人と次郎は、二三間はなれてそのあとを追った。二人はあるきながら、何度も顔を見あったが、口はきかなかった。
 玄関をはいるころになって、小関氏が言った。
「せめて夕食後の時間でも、もっと有効に使ってもらいたいと思いますね。」
「もっと有効にとおっしゃいますと?」
 朝倉先生は、靴(くつ)をスリッパにはきかえながら、小関氏の顔を見た。
「全部を娯楽会(ごらくかい)みたいなことに使うのはもったいないじゃありませんか。お任せした以上、いけないとおっしゃればそれまでのことですが、その一部分でも、全員集まっての意見交換に使ってもらいたいと思っているんです。」
「なるほど、いや、よくわかりました。そういうご希望であれば、その通りにいたさせましょう。変更(へんこう)するのは、わけはありません。」
 朝倉先生は軽くこたえて、すぐその場で、次郎にそのことをつたえた。次郎はちょっと不安そうな顔をしたが、承知するよりほかなかった。
 それから夕食までの時間が、四人にとってながい時間であったことはいうまでもない。とりわけ朝倉先生と小関氏にとってそうであった。二人は塾長室にはいって腰をおろしてはみたものの、どちらからもあまり口をきかなかった。朝倉先生は小関氏の「意見」を誘発(ゆうはつ)しないような適当な話題を見いだすのに困難を感じたし、小関氏は朝倉先生にすっかり見切りをつけて、もう自分の欲する話題を提供するのをいさぎよしとしなかったのである。
 テーブルの上には、この塾堂にしては珍(めずら)しい、豪華(ごうか)な洋なまなどを盛(も)った菓子鉢(かしばち)がおいてあったが、それも朝倉先生が一つつまんだきりだった。小関氏は、朝倉夫人がたびたび茶を入れかえにはいって来て、そのたびごとにすすめても、見向こうともしなかったのである。
 二人の沈黙は、それでも、初めの三四十分間は、さほど息苦しいものではなかった。というのは、地域別にわかれた双方の塾生たちが、塾内をくわしく見てまわるのには、少くともそのぐらいの時間が必要だったし、そしてその間は廊下(ろうか)にはたえずさわがしい人声と足音がきこえ、塾長室の戸がひらかれて、中をのぞきこまれることさえたびたびだったからである。
 しかしそのさわぎが治まって、塾生たちがそれぞれ割りあてられた室に落ちついてしまうと、ちょうど、音をたててぶっつかりあっていた浮氷(ふひょう)が急に一つの氷原にかたまったような沈黙が支配した。それはごまかしのきかない沈黙だった。二人はめいめいにテーブルの上にあった新刊の雑誌にでも眼をとおすよりしかたがなかった。
 そのうちに、小関氏はひょいと立ちあがって、一人で室を出た。便所にでも行ったのか、と朝倉先生は思っていたが、そうではなかった。小関氏は、塾長室の窓から見える草っ原に、十人あまりの青年たちが円陣(えんじん)を作っているのを認め、そのほうに出かけて行ったのだった。朝倉先生がそれを知ったのは、かなりたったあと、次郎からの報告によってであった。
「あの班には、大河君がいるんです。」
 次郎はそうつけ加えて、意味のふかい微笑をもらした。朝倉先生はただうなすいただけだったが、それからは、たえず窓ごしに小関氏のほうに眼をひかれていた。小関氏は、青年たちの円陣に加わるのでもなく、かといって遠くにはなれるのでもなく、あたりをうろつきまわったり、急に立ちどまったり、また、たまには腰をおろしたりして、話に耳をかたむけているかのようであった。
 そうして、ともかくもながい数時間が終わって夕食の板木(ばんぎ)が鳴った。
 夕食の食卓(しょくたく)は、これもやはり地域別に配列され、双方の塾生が一人おきに入りまじって座を占(し)めることになっていた。ごちそうはあたたかいさつま汁(じる)だった。食事の作法は、双方のしきたりにかなりなちがいがあったが、郷(ごう)に入っては郷に従ってもらう主旨(しゅし)で、友愛塾の簡単な日常生活の方式、つまり「いただきます」と「ごちそうさま」のあいさつだけですまし、その他は「無作法にも窮屈(きゅうくつ)にもならないように」各自に心を用いてもらうことになった。食事がすみ、食器が片づくと、それに代わって茶菓が運ばれた。友愛塾では、開塾中に先輩(せんぱい)から陣中見舞(じんちゅうみまい)と称して、しばしば各地の名産が送られて来たが、この時も、ちょうど青森のりんごが三箱(はこ)ほど届いていたので、それもむろん食卓をかざった。その色彩(しきさい)の豊かさは、興国塾の塾生たちの眼を見張らせるのに十分であった。
 準備がととのうと、進行係の次郎が言った。
「ではこれからお約束の懇親会(こんしんかい)にはいりたいと思いますが、そのまえに、もし、昼間の意見交換会で論じ足りなかった問題とか、あるいは、全員が顔をそろえたところで論議してみたい問題とかいうようなものがありましたら、ご発表を願います。これは実は興国塾の塾長先生からのご希望もありましたので、茶菓のほうはしばらくお預けにして、まずそのほうから片づけたいと思います。」
 次郎は皮肉を言うつもりではなかったが、言ってしまって、変に自分の耳に皮肉にきこえ、はっとしたように、朝倉先生と小関氏のほうを見た。朝倉先生は、眼をつぶっていた。小関氏はきらりと眼を光らせたが、すぐ塾生たちを見まわしながら、
「時間はできるだけ有意義につかうがいい。茶話会は三十分もあればたくさんだろう。興国塾の諸君は、こういう時に思いきりふだんの抱負(ほうふ)を述べ、十分批判してもらうんだな。」
 しかし、どこからも発言するものがなかった。室内はしんとして、ほうぼうにすえてある火鉢(ひばち)の中で、かすかに、炭火のはねる音がきこえていた。
 すると、窓ぎわの卓についた大河無門が、だしぬけに言った。
「興国塾の塾長先生は、ひる間のぼくたちの話をきいていてくだすったようですが、何かそれについてご注意くださることはありませんか。」
 小関氏の眼がまたぴかりと光った。氏は、その眼をいりつくように大河のほうに注ぎながら、
「それは大いにある。しかし今日は私の出る幕ではない。私の考えは帰ってから私のほうの塾生だけに話せばいいのだ。」
 また沈黙がつづいた。次郎はそっと朝倉先生の顔をのぞいたが、先生はやはり眼をつぶっているきりだった。
「では、問題もなさそうですから、すぐ懇親会にうつります。」
 次郎は思いきって言った。そしてさっさと予定の計画を進めていった。次郎たちの計画では、しょっぱなから、固い気分を徹底的(てっていてき)にぶちこわすことであった。
 そのためには、まず第一に、朝倉先生夫妻をはじめ、友愛塾がわが総立ちになって、例の友変塾音頭(おんど)を踊(おど)るのが、もっとも効果的だと思われた。この予想はみごとに的ちゅうした。小関氏ただ一人をのぞいては、満場笑いと拍手の渦(うず)だった。とりわけ朝倉先生と大河無門の拳闘(けんとう)でもやるようなぎこちない手ぶりが爆笑(ばくしょう)の種だった。中には朝倉夫人のしなやかな手振(てぶ)りに最初から最後までうっとりと見ほれているものもあった。
 つぎは個人のかくし芸だったが、その皮切りにも、大河無門が立ちあがって例の蝉(せみ)の鳴き声をやり、大喝采(かっさい)だった。それにこたえて、興国塾がわからも、その代表である黒田勇が出て詩吟(しぎん)をやった。満面朱(しゅ)を注いでの熱演は大河の蝉の鳴き声とは全く対蹠的(たいしょてき)だったが、節まわしはさすがに堂に入ったもので、これも大喝采だった。
 そのあと次郎は、もう進行係としてほとんど世話をやく必要がなかった。すべては笑いと感嘆(かんたん)と拍手の中にすぎた。そして、最後に相互(そうご)の代表からなごやかなあいさつを述べて解散することになったが、もしわかれぎわになって興国塾の塾生たちがきちんと玄関前に整列し、号令のもとに挙手注目の礼をおくらなかったとしたら、双方の塾生たちの間に、しつけの大きなひらきがあるのを認めることは、困難だったかもしれなかったのである。もっとも、そうであればあるほど、小関氏にとって、この数時間がにがにがしい時間であったことは言うまでもない。
 興国塾の塾生たちの足音が消え、朝倉先生夫妻と次郎とが塾長室にはいると、そのあとを追うようにして五六名の塾生たちがおしかけて来た。その中には大河無門もいた。かれらは口々に言った。
「すいぶん盛(さか)んな連中だったね。何しろぼくたちとは生活がちがいすぎているんだ。こちらの言うことなんか、はじめのうち、てんで聞こうともしないで、自分たちの言いたいことだけをしゃべりまくるんだ。閉口(へいこう)したよ。」
「それでも、食後はいやに愉快(ゆかい)そうだったじゃないか。やはり地区別の話し合いは、それだけ効果的だったと思うね。」
「そういえば、食後には、催促(さいそく)されてもふしぎにだれも理屈を言いだすものがなかったね。ひる間の意気込(いきご)みとはまるでちがっているんで、あの時はぼくも意外だったよ。」
「すると、やはり多少は考えたかな。」
「考えたんじゃないよ。本能だよ。」
 と、大河無門が口をはさんだ。
「あの連中だって、つけ焼(や)き刃(ば)の理屈をならべるよりか、りんごを食ったり、歌をうたったりするほうが実はおもしろいんだよ。ふふふ。」
 それから朝倉先生のほうを向いて、
「今日、ぼくたちの班で話しあってみたかぎりでは、あの連中の生活には、自然で大っぴらな楽しみというものがまるでないらしいんです。やるべき時に、しっかりやりさえすれば、そのほかの時のずぼらは大目に見てもらえるんだから、それで取りかえしがつく、なんて平気で言う者がありましてね。それをきいていて、ぼくは、気の毒になってしまいました。」
 朝倉先生はただうなずいたきりだった。すると塾生同士がまた話し出した。
「最後にどんな気持ちになって帰って行ったかな。」
「大多数はやはり勝ったつもりで得意になっていたんじゃないかな。夜の会で議論が出なかったのも、一つは、そのせいだったかもしれないよ。」
「まあ大多数はそうだろうね。しかし、中にはずいぶん考えこんだものもいるよ。現にぼくの隣村(となりむら)から来ていた青年なんか、帰りがけにいやにさびしそうな顔をして、もっと早く友愛塾のことを知っていればよかった、なんて、こっそりぼくに言っていたんだから。」
「ほんとうにまじめな人は、そうだろうね。しかし、そんな人はめずらしいよ。ぼくたちだってここの生活のいいところがわかるまでには、ずいぶんお手数をかけたからね。」
「まあ、しかし、今日はとにかくよかったよ。興国塾の連中はとにかくとして、ぼくたち自身にぼくたちの生活がこれでいよいよはっきりしたんだから。」
「実際だ。ああいう連中といっしょになってみると、それが実にはっきりわかるね。」
 朝倉夫人は涙(なみだ)ぐんでおり、次郎は何かじっと考えこんでいた。すると朝倉先生が言った。
「そんなふうに自己陶酔(とうすい)に陥(おちい)るようでは、今日は最悪の日だったね。アルコール漬(づけ)になって生きている動物はないよ。はっはっはっはっ。」
 それから急に立ちあがって、窓ぎわを行ったり来たりしながら、
「今日の収穫(しゅうかく)は、あるいはアルコール漬の標本を作っただけだったかもしれないね。そのうち、その標本が瓶(びん)ごと捨てられる時が来るだろう。それじゃ、あんまりみじめではないかね。……こういう時こそ、一人一人が、もっと厳粛(げんしゅく)に……もっと謙遜(けんそん)に、自分を反省してみなくちゃあ。……大事なのは、友愛塾が友愛塾という形で勝つか負けるかということじゃない。かりに友愛塾という容器がつぶされても、君らの一人一人が、まる裸(はだか)でぴちぴち生きているような人間になることだよ。とにかく自己陶酔はいけない。勝ったつもりでいい気になってはおしまいだ。人間は、苦しい時よりも、かえって得意な時に堕落(だらく)するものだからね。……平常心……そうだ、平常心のたいせつなのは、苦しい時よりも、むしろこうした場合なんだよ。」
 朝倉先生が、こんなに、物につかれたように、きれぎれなものの言い方をするのは、まったくはじめてのことだった。みんなはおびえたように先生を見まもった。朝倉夫人と次郎とは、先生の言葉がおわると、すぐおたがいの顔を見あったが、その眼は友愛塾のさしせまった運命について何かささやきあっているかのような眼だった。
 ただ大河無門だけは、その間にも、しずかに眼をとじているきりだったのである。

   一三 旅行

 それから一週間は、表面何事もなくすぎた。次郎は、一方では、塾(じゅく)の将来についての予感におびえながら、また一方では、道江(みちえ)からも恭一(きょういち)からも、その後何のたよりもないのを気にやみながら、ともかくも予定どおりの行事をすすめていった。季節はもう武蔵野(むさしの)名物の黒つむじが吹(ふ)きあげるころで、朝夕の清掃(せいそう)にはとりわけ骨が折れたが、同時に水がぬるみ、雑巾(ぞうきん)をしぼる手がかじかむようなこともほとんどなくなっていた。
 友愛塾では、毎回の講習期間の終わりに近く塾長以下全員そろって三泊(ぱく)四日の旅行をやることになっていた。それは塾の生活を外に持ち出し、特殊(とくしゅ)な教育環境(かんきょう)において練りあげたものを、世間という普通(ふつう)の社会環境において試(ため)そうというのが主目的であったが、また近県在住の第一回以来の修了者(しゅうりょうしゃ)たちと親交を結び、そういう人たちの郷土生活の実際に接したいというのも、重要なねらいの一つだったのである。
 その旅行に出るのは、すでに三日の後にせまっていた。しかし、計画は早くから研究部でねられ、これまでの次郎の経験などを参考にして何もかも決定されていたので、塾生たちはただその日の来るのを待つばかりであった。
 ところで、次郎には、旅行に出る前に果たしておかなけれはならない一つの重要な仕事が残されていた。それは数日前に出願を締め切った次回の入塾希望者の履歴書(りれきしょ)を整備して朝倉先生に提出し、採否の決定を得た上で、それぞれ本人に通知することであった。出願者の数はこれまでの記録をやぶって、ほとんど定員の二倍になっていた。それだけにその銓衡(せんこう)は困難だった。次郎は昨夜までにすっかりその整備をおわり、自分でも採否のあらましの見当をつけておいたが、今朝は、いよいよ朝倉先生にその最後の決定を求めることになっていたのである。
 今日もちょうど小川博士の講義の日だったが、次郎はその講義がはじまるのを待ち、一まとめにした履歴書と推薦書(すいせんしょ)とをかかえて塾長室にはいっていった。
「もうちょっとで百名をこえるところでした。それに、志願者の質もたいていはよさそうです。やはり、これまでの修了者の勧誘(かんゆう)がきいたんだと思います。」
 次郎は朝倉先生の机の上に書類をおくと、そう言って、いかにも得意そうだった。
「そうか。ふむ。」
 と、朝倉先生は、何か考えていたらしい眼でちょっと履歴書のほうを見たが、すぐ机の引き出しをあけて、小さな紙ばさみにはさんだ一束(たば)の電報をとり出し、それを次郎のまえにつき出しながら、言った。
「しかし、残念ながら、この通りだ。」
 次郎はいそいで電報に眼をとおした。おどろいたことには、十五六通の電報が、どれもこれも推薦団体からの志願取り消しの電報だった。志願者の数にして、もうそれだけで五十名近くになっていた。次郎は呆然(ぼうぜん)となって朝倉先生の顔を見つめた。かれは、この五六日、頻々(ひんぴん)と塾長あての電報が来るのを知ってはいた。そしてそれが何か先生の身分にとって重大なことではないかという気がして、不安にも感じていた。しかし、こうした意味の電報であろうとは夢(ゆめ)にも思っていなかったのである。
「おどろいたかね。」
 と、朝倉先生はさびしく笑いながら、今度は一通の封書(ふうしょ)を、同じ引き出しから取り出して、
「あらましの事情は、これを見ればわかる。君にはなるだけ心配をかけまいと思っていたが、もうかくしておいてもしかたがない。読んでみるがいい。」
 次郎は封書を受け取ると、まず発信人の名を見た。杉山悦男(すぎやまえつお)とあった。杉山は現在文部省の社会教育課に籍(せき)をおいて、主として青年教育の事務を担当している人だが、かつての朝倉先生の教え子で、田沼(たぬま)先生とも近づきがあり、自然友愛塾にもしばしば出入りして次郎ともかなり親しい仲になっていた。次郎はある信頼感(しんらいかん)を抱(いだ)いて手紙をよんだ。
 手紙の文面はさほど長いものではなかった。
「……小生としては、立場上、くわしい事情を述べる自由も有しませんし、また述べても今さら何の役にもたつことではなく、単に先生のお気持ちを損(そこな)うだけにすぎないと思いますのでそれは省略いたしますが、とにかく、各府県の社会教育課の青年ないし青年団の方針が、今後はいっそう片寄ったものになるにちがいありません。ことに幹部養成のための施設(しせつ)の選択(せんたく)には、それとなく強い制限が加えられることになり、その結果、残念ながら、友愛塾の志願者もいちじるしく減少するのではないかと予想されます。このことについては、省内にも内々反対の意見を持つものがないではありませんが、それを口に出すことさえできないのが現在の実状です。……」
 内容はそれだけでほとんどつきており、あとはいろいろの感情を盛(も)った言葉の羅列(られつ)にすぎなかった。
 次郎は読みおわると、がくりと首をたれた。かれの膝の上には、もう涙(なみだ)がぼろぼろとこぼれていた。
 朝倉先生は眼(め)をそらして窓のそとを眺(なが)めていたが、
「時勢だよ。」
 と、ぽつりと言って、眼をとじた。
 しばらくして、次郎が声をふるわせながら、
「先生は、もうあきらめていらっしゃるんですか。」
「あきらめるよりしかたがないだろう。じたばたしても、どうにもならない。」
「田沼先生も、もうご存じなんでしょうか。」
「むろんご存じだ。取り消しの電報のことも電話で申しあげてある。」
「それで何ともおっしゃらないんですか。」
「やはりしかたがないだろうとおっしゃる。」
 次郎は、きっと口をむすび、涙のたまった眼で、にらむようにしばらく朝倉先生の顔を見つめていたが、
「ぼく、しかたがあると思うんです。」
「どうするんだね。」
「この中には――」
 と、次郎は履歴書の束をひきよせて、
「これまでの修了生や現在の塾生たちにすすめられて志願したものがすいぶんあるんです。そういう志願者たちは、今から手をうてば、どうにかなると思うんです。」
「手をうつというと?」
「勧誘(かんゆう)の手紙を出すんです。先生からも、塾生みんなからも。」
「どんな手紙を出すんだい。」
「真相をぶちまけて正義感に訴え、同志的な呼びかけをやるんです。」
「それで動くと思うかね。」
「動くように書くんです。旅行までには、まだあと二日あるんですから、みんなで文案をねるんです。」
 朝倉先生はさびしく笑った。が、すぐ深刻な眼をして、
「かりに名文ができて、それに青年たちが動かされたとしたら、あとはどうなるんだい。」
「それで問題はないじゃありませんか。塾生が集まって来さえすれば、あとはどんな圧迫(あっぱく)があっても、これまでどおりにやっていけばいいんです。」
「それで友愛塾はつぶれないと言うんだね。」
「そうです。」
「なるほど。君の言うことはよくわかる。友愛塾をつぶさないためには、成功するかしないかは別として、いちおう手紙を出して見るのも一策(いっさく)だろう。しかし、そうして集まって来た青年たちは、気の毒なことになるね。」
「どうしてです。」
「おそらく村や町の生活から孤立(こりつ)することになるだろう。どうかすると、非国民のレッテルをはられることになるかもしれない。少なくとも公然と何かの役割を果たすことができなくなるのはたしかだよ。」
 次郎は、机の一点を見つめて、ちょっと考えたあと、
「しかし、そうなればそれでもいいんじゃありませんか。どうせ友愛塾の運動は時代への反抗(はんこう)でしょう。今の時勢では、正しいものが孤立するのはむしろ当然ですし、それでこそかえって大きな役割が果たせるとも言えると思うんです。」
「時代への反抗、なるほどね。――」
 と朝倉先生は眼をつぶった。そしてしばらく額をなでていたが、
「なるほど友愛塾の精神は、今の時代では一種の反抗精神だと言えるね。しかし、田沼先生も私も、大衆青年を反抗の精神にかりたてるつもりは毛頭(もうとう)ない。私たちが大衆青年に求めているのは、まず何よりも愛情だよ。愛情に出発した創造と調和の精神だよ。」
「それはわかっています。しかし、今のような時代では、その愛情はまず反抗の精神となってあらわれるのが当然でしょう。それでこそ、ほんとうの意味での創造と調和とが期待されるんじゃありますまいか。」
「それはその通りだ。だからこそ軍部ににらまれるような友愛塾も生まれたんだ。しかし、そういうことをただちに個々の大衆青年に求めるのは大きな冒険(ぼうけん)だよ。大衆青年というものは、どんなに思慮(しりょ)があるように思えても、いったん反抗の精神にかりたてられると、どこにいくかわからないし、たいていの場合、破壊(はかい)に終わるものだからね。それでは世の中はちっともよくならない。青年自身としても不幸になるだけだ。」
「すると、流されるままに放っとくほうがいいとおっしゃるんですか。」
「そう言われるとつらいが、それもしかたがない。やはり時勢には勝てないよ。今は無益な摩擦(まさつ)の原因を作るより、なごやかな愛情を育てるために、できるだけの手段を講ずべきだね。」
「その手段も、友愛塾をつぶしてしまっては、おしまいじゃありませんか。」
「むろん、友愛塾があるにこしたことはない。しかし、それがつぶれたからといって、何もかもおしまいになるというわけのものでもあるまい。全国には塾の修了生がもう五百名近くも散らばっているし、私は、これからは、むしろわれわれの精神をよく理解した修了生たちに事情を訴(うった)えて、各地でこれまで以上に友愛運動を展開してもらいたいと思っているんだ。」
「しかし、そういう人たちも、これからは孤立するんじゃありますまいか。」
「友愛塾の修了者だという理由で?」
「ええ。」
「まさか。……もっとも、その人たちが友愛塾の旗をふりまわすといったふうであれば、その心配もあるだろう。しかしほんとうに塾の精神がわかっているかぎり、そんなばかなまねはしないよ。結局は周囲にとけこんでいく実際の生活がものを言うさ。」
 次郎は考えこんだ。考えれば考えるほど、朝倉先生が敗北主義者になったような気がして腹がたって来た。かれは、もう何もいわないで塾長室を出ようかと思った。しかし、ながい間の先生に対する信頼感(しんらいかん)がかれにそれをためらわせた。
 かなりたって、かれはいくぶん皮肉な調子で言った。
「ぼくにも、先生が愛情をたいせつたいせつにされるお気持ちはよくわかります。しかし愛情の表現をどうするかということについては、問題があると思うんです。先生のように、周囲にとけこんで摩擦を起こさないようにすることに、あまり重きをおきすぎると、修了生たちだって、結局は時代に流されるよりほかないじゃありませんか。」
「ある点では、――いや形の上ではすべての点で、そうなっていくかもしれないね。しかし、時代に流されながらも愛情だけはたいせつに育てていくということを忘れない点で、ただやたらに叱咤(しった)激励(げきれい)する連中とは根本的にちがっているよ。」
「しかし、そんなことが日本の破滅(はめつ)を救うのに何の役に立ちますか。」
「少しは役にたつかもしれないし、あるいは全く役にたたないかもしれない。今の形勢では役にたたないといったほうが本当だろうね。
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