次郎物語
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著者名:下村湖人 

「やはり悲壮感かな。それにしても、いつもとはちがいすぎるようだね。そろそろ塾生も集まるころだが、何か気になることがあるんだったら、その前にきいておこうじゃないか。」
 次郎はちょっと眼をふせた。が、すぐ思いきったように、
「荒田さんは、このごろどうしていられるんですか。」
 かれの心には、むろんこの場合にも道江(みちえ)のことがひっかかっていた。むしろそのほうが荒田老以上に彼(かれ)をなやましていたともいえるのだった。しかしそれは口に出していえることではなかったのである。
 朝倉先生は、ちょっと眼を光らせて次郎の顔を見つめたが、すぐ笑顔になり、
「なあんだ。荒田さんのことがそんなに気になっていたのか。なるほど、あれっきり、こちらには見えないようだね。しかし、大したこともないだろう。何かあったところで、うなどんで壮行会(そうこうかい)をしてもらったんだから、だいじょうぶだよ。はっはっはっ。」
 朝倉先生は、いつになくわざとらしい高笑いをして箸をおいた。そして、茶をのみおわると、ふいと立ちあがり、そのまま空林庵のほうに行ってしまった。
 次郎は、むろん、にこりともしなかったし、朝倉夫人も今度は笑わなかった。二人はかなりながいこと眼を見あったあと、やっと食卓のあと始末にかかったが、どちらからも、ほとんど口をきかなかった。
 食卓がかたづくと、次郎はすぐ玄関(げんかん)に行って、受付の用意をはじめた。用意といっても、小卓を二つほどならべ、その一つに、塾生に渡(わた)す印刷物を整理しておくだけであった。
 朝倉夫人も、間もなく和服を洋服に着かえて玄関にやって来た。洋服は黒のワン・ピースだったが、それを着た夫人のすがたはすらりとして気品があり、年も四つ五つ若く見えた。夫人は、受付をする次郎のそばに立って、塾生に印刷物を渡す役割を引きうけることになっていたのである。
 二時近くになると、ぼつぼつ、塾生が集まり出した。リュック・サックを負うたものもあり、入塾のためにわざわざ買い求めたとしか思えないような真新(まあたら)しい革(かわ)のトランクをぶらさげているものもあった。たいていは、カーキ色の青年団服だったが、中に四五名背広姿がまじっており、それらは比較的年かさの青年たちだった。
 どの顔もひどくつかれて、不安そうに見えた。これは、毎回のことで、決してめずらしいことではなかった。入塾生の大部分は、東京の土をふむのがはじめてであり、それに一人旅が多い。募集要項(ぼしゅうようこう)の末尾(まつび)に印刷されている道順だけをたよりに、東京駅や、上野駅や、新宿駅の雑踏(ざっとう)をぬけ、池袋(いけぶくろ)から私鉄にのりかえて、ここまでたどりつくのは、かれらにとって、なみたいていの気苦労ではなかったのである。
 次郎は、青年たちのそうした顔が見えだすと、もう荒田老や道江の顔など思い出しているひまがなかった。かれは、かれらがまだ玄関に足をふみ入れないうちに、何かと歓迎(かんげい)の気持ちをあらわすような言葉をかけた。そして、かれらの名前をきき、それを名簿とてらしあわせて、到着(とうちゃく)のしるしをつけおわると、すぐかれらに朝倉夫人を紹介(しょうかい)した。
「この方は、塾長(じゅくちょう)先生の奥さんです。期間中は、あなた方のお母さん代わりをしていただく方なんです。」
 それをいう時のかれの顔はいかにも晴れやかで、得意そうだった。朝倉夫人は、
「よくいらっしゃいました。おつかれでしょう。」
 と印刷物を渡しながら、ひとりひとりに笑顔を見せるのだったが、青年たちのつかれた顔は、夫人の聡明(そうめい)で愛情にみちた眼に出っくわすと、おどろきとも喜びともつかぬ表情で急に生き生きとなるのだった。次郎にとっては、青年たちのそうした表情の変化を見るのが、受付をする時の一つの大きな楽しみになっていたのである。
 到着は午後四時までとなっていたが、その時刻までに、予定されていただけの顔が、全部異状なくそろった。みんなは、ひとまず広間に待たされ、受付が全部おわったところで各室に割りあてられた。総員四十八名、一室六名ずつの八室でちょうどであった。
 朝倉夫人と次郎とは、みんなを各室におちつけてしまうと、事務室のストーヴにあたりながら、あらためて塾生名簿に眼をとおした。これは二人のいつもの習慣で、めいめいに、受付の際に自分の印象に残った青年たちの顔を、その中からさがすためであった。
「次郎さんは、もう幾人(いくにん)ぐらいお覚えになって?」
「さあ、十四五人ぐらいでしょうか。」
「もうそんなに? あたし、まだやっと五六名。」
「今度は、特徴(とくちょう)のある顔が割合多いようですね。」
「そうかしら。あたし、そんなにも思いませんけれど。」
「こうして名簿を見ていますと、覚えやすいのは、比較的年上の人のようですね。やはり、年を食っただけ特徴がはっきりして来るんでしょうか。」
「それだけ垢(あか)がたまっているのかも知れませんわ。ほほほ。……だけど、ほんとうね。あたしが覚えているのも、たいていは年上の人だわ。大河さんっていう方もそうだし……」
 すると、次郎は、急に名簿から眼をはなして、夫人の顔を見つめながら、
「その人、すぐ目につきましたか。」
「ええ、ええ、一目で覚えてしまいましたわ。名前からして、禅(ぜん)の坊(ぼう)さんみたいで、変わっていたからでもありましょうけれど。」
「その人ですよ。ほら、こないだ先生からお話があったのは。」
「はああ、あの、京都大学で哲学(てつがく)をおやりになって、今、中学校の先生をしていらっしゃるって方?」
「ええ、そうです。」
 二人はあらためて名簿を見た。名簿には、それぞれの欄(らん)に、「大河無門、二十七歳(さい)、千葉県、小学校代用教員、中学卒」と記入してあり、備考欄には、「青年団生活には直接の経験なきも興味を有す」と何だかあいまいなことが書いてあった。
「これは本人から書いて来たとおりなんです。先生もそれでいいだろうとおっしゃったものですから。」
 次郎はそう言って笑った。むろんこれには事情があったのである。
 実は、大河無門は、一昨年の春京都大学の哲学科を出ると、すぐ母校である千葉県の中学校に奉職(ほうしょく)したが、もともと、いわゆる教壇的(きょうだんてき)教育には大した興味も覚えず、もっと実生活にまみれた教育をやって見たいという希望を、たえず持ちつづけていた。そのうちに、たまたま友愛塾のことをききこみ、幸い任地から一日で往復できる距離(きょり)でもあったので、ある日曜――それは一か月ばかりまえのことだったが――わざわざ朝倉先生をたずねて来て、塾長室で二人っきりで一時間あまりも話しこんだあと、すぐその場で入塾を決意し、その希望を申し出たのであった。
 もし現職のままでは入塾ができないとすれば、すぐ辞表を出してもいいとさえかれは言ったのである。
 朝倉先生は、話しているうちに、かれの決意がなみなみならぬものであるのを見てとった。同時にかれの人物に一種の重量感を覚えた。その重量感は、決してかれの言葉つきや態度から来るものではなかった。そうした表面にあらわれる言動の点では、かれはむしろ率直(そっちょく)にすぎ、どこやらにおかしみさえ感じられるほどであった。しかし、それにもかかわらず、かれの人がら全体には、何とはなしに、どっしりしたものが感じられたのである。朝倉先生は、それを大河の人間愛の深さや思索(しさく)の深さがそのまま実践力の強さになっているからであろう、というふうに判断したのだった。
 しかし、先生は大河の人物に重量感を覚えれば覚えるほど、かれの入塾について、答えをしぶった。それは、自分の過去の経験から、かれのような人物をながく中等教育にとどめておきたいという気持ちからでもあったが、それよりも当面の問題として、かれを友愛塾の塾生としてむかえることに、ある不安が感じられたからであった。すべての点で一般(いっぱん)の青年とはあまりにもへだたりのある人物が、指導者としてならとにかく、一塾生としてはいって来るということが、塾の性質上、はたしていいことかどうか。みんなが、貧しいながらも、それぞれの創意と工夫とをささげあって、集団の意志をねりあげ、共同の生活をもりあげていこうという、この塾の第一の眼目(がんもく)が、光りすぎた一人物の圧倒的(あっとうてき)な影響力(えいきょうりょく)によって、自然にくずれてしまうのではあるまいか。そうしたことが気づかわれたのである、
 で、先生は最初、大河につぎのような意味のことを答えた。
「君のような人に、この塾の生活を十分理解してもらうということは、学校教育にも何かきっとプラスになることだと信ずるし、その意味で、むろん私としては、大いに歓迎(かんげい)したい。しかし普通(ふつう)の塾生として来てもらうには、君はもうあまりにレベルが高すぎる。こちらとしては取り扱(あつか)いにも困るし、君としても物足りない気持ちがするだろう。で、学校の手すきの時に、おりおり見学といったようなことでやって来てはどうか。ここには君よりも三つ四つ年の若い助手が一名いるが、その助手に協力するといった立場で、見学してもらえば好都合だと思うのだが。」
 大河は、しかし、そのすすめには全然応ずる気がなかった。かれは言った。
「僕(ぼく)はこれからの僕の教育生活の方向転換(てんかん)をする決心でお願いしているんです。そのためには、見学というような、なまぬるい立場では、どうしても満足できません。青年たちが共同生活をやって行く時の心の動きを、よかれあしかれ、その生活の内部からつかんでみたいんです。また、僕自身でも、青年たちと同じ条件で、その体験をみっちりなめてみたいんです。塾の根本方針は、お話で十分わかりましたし、むろん、出しゃばってリーダーシップをとったりするようなことは、絶対にいたしません。僕の学歴や職業が、ほかの塾生たちに何かの先入観を与(あた)えるというご心配がありましたら、ごまかしては悪いかもしれませんが、履歴書(りれきしょ)には何とか適当に書いておくつもりです。青年団生活にはまるで無経験ですし、ついでにそういうことも書きこんでおけば、青年たちに買いかぶられる心配もないだろうと思います。」
 朝倉先生も、そうまで言われると、むげに拒(こば)むわけにはいかなかった。現職をなげうっても、というかれの決意には、冒険(ぼうけん)だという気がしないでもなかったが、一方では、かれほどの人物であれば、将来はまた何とでもなるだろう、という気もして、ついにその希望をいれてやることにしたのであった。
「やっぱり、ねえ。」
 と、朝倉夫人は、いかにも何かに感動したように、名簿から眼をはなし、
「ほかの方たちとは、どこかにまるで感じのちがったところがありましたわ。」
「ぼく、名前がわかっていましたので、とくべつ注意していたんですが、あれですいぶんこまかいことに気のつく人のようですね。」
「そう? 何かありまして?」
「メモ用の紙が一枚、机の足のところにおちていたのを、来るとすぐひろいあげて、ぼくに渡(わた)してくれたんです。」
「そう? あたし、気がつかなかったわ。」
「その時の様子が、ちっともわざとらしくないんです。自分ではそんなことをしているのをまるで意識していないんじゃないかと思われるほど無表情だったんです。ぼく、それでよけい印象に残りました。」
 朝倉夫人は、何度もうなずきながら、
「どうも、そんなたちの人らしいわね。白鳥会でいうと、大沢(おおさわ)さんみたいな人ではないかしら。」
「どこかに共通したところがあるかもしれませんね。見た感じは、たしかに似ていますよ。」
「だけど、――」
 と、朝倉夫人はしばらく考えてから、
「大沢さんのまじめさとは、ちょっとちがったところがあるようにも思えるわ。もっと自然なまじめさ、といったものが感じられるんではありません?」
「自然なまじめさ――」
 次郎は口の中で夫人の言葉をくりかえした。
「こんなふうに言いますと、大沢さんのまじめさは不自然だということになりそうですけれど、それは悪い意味で言っているのじゃありませんの。ただ、大沢さんのまじめさには、いつも意志がはっきり出ていますわね。いい意味の政治性と言いますか、それが人がら全体にはっきり出ていて、無意識にものを言ったり、したりすることなんか、めったにないでしょう。」
「なるほど、そう言われると、大河という人には、政治性といったものがまるでなさそうに思えますね。」
 二人は、その時めいめいに、背のひくい、肩(かた)はばの広い、頬(ほお)ひげを剃(そ)ったあとの真青(まっさお)な、五分刈(が)りの、そして度の強い近眼鏡をかけた丸顔の男が、のっそりと玄関にはいって来たときの光景を思いうかべていた。かれは黒の背広に黒の外套(がいとう)を重ねていたが、まず肩にかけていた雑嚢(ざつのう)をはずし、それからゆっくりと外套をぬいで、ていねいに頭をさげ、次郎に向かって、いくぶんさびのある、ひくい、しかし底力(そこじから)のこもった声で、「千葉県の大河無門ですが」と言い、それから次郎にわたされた塾生名簿をすぐその場でひらいて、自分の名前のところを念入りに見たあと、紹介(しょうかい)された朝倉夫人のほうにおもむろに眼を転じたのであった。
「白鳥会の仲間にも、これまでの塾生にも、あんな型の人はひとりもいなかったようですが、その点から言って、今度の塾生活には、とくべつの意味がありそうで、愉快(ゆかい)ですね。」
「そう。やっぱり一人でも変わった目ぼしい人がいると、それだけ楽しみですわね。……もっとも、そんなことに大きな期待をかけるのは、平凡人(へいぼんじん)の共同生活をねらいにしているこの塾では邪道(じゃどう)だって、先生にはいつも叱(しか)られていますけれど。」
「しかし、先生だって、塾生の粒(つぶ)があまり思わしくないと、やはりさびしそうですよ。」
「それは、何といってもねえ。」
 と、朝倉夫人は微笑した。そして、もう一度名簿をくって、自分の印象に残っているほかの顔をさがしているらしかったが、急に首をふって、
「だけど、こんなこと、いけないことね。受け付けたばかりの印象で、さっそく塾生の品定(しなさだ)めをはじめるなんて。」
 次郎は頭をかいて苦笑した。朝倉夫人はしんみりした調子になり、
「大河さんていう方、無意識に紙ぎれをひろってくだすったとしても、あたしたち、ただその無意識ということだけを問題にしてはいけないと思いますわ。そうなるまでには、どんなに意志をはたらかせ、どんなに苦労をなすったかしれませんものね。」
 次郎は、なぜか顔を赤らめ、眼を膝(ひざ)におとしていた。
 しばらくして玄関に足音がしたが、それは朝倉先生が空林庵(くうりんあん)からもどって来たのだった。
「みんな無事にそろったかね。」
 先生は、事務室をのぞいてそう言うと、そのまま塾長室にはいって行った。二人もすぐそのあとからついて行って、何かと報告した。
 先生は到着のしるしのついた名簿に眼をとおしながら、
「大河も来たんだね。何室にはいったんだい。」
「第五室です。いろんな関係から、それが一番よかりそうに思ったものですから。」
 次郎は、そう言って、室割(へやわ)りを書いた紙を先生に渡した。それには、大河の名を何度も書いたり消したりしたあとがあった。
「大河の室割りには、ずいぶん苦心したらしいね。それほど神経に病(や)むこともなかったんだが。……しかし、まあ、どちらかというと、室長におされたりする可能性の少ないところがいいだろう。」
「ええ、それを考えまして、第五室には、大河より一つ年上で、郡の連合団長をやっている人を割り当てておいたんです。」
「なるほど。」
 朝倉先生は、何かおかしそうな顔をしながら、うなずいた。
 三人は、それから、そろって各室を一巡(いちじゅん)した。朝倉先生は、室ごとに、入り口をはいると、立ったままで無造作(むぞうさ)に言った。
「私、朝倉です。……こちらは私の家内(かない)で、寮母(りょうぼ)といったような仕事をしてもらうんだが、君らに、これから小母(おば)さんとでも呼んでもらえば、よろこぶだろう。……あちらの若い人は、本田君。君らの仲間の一人だと思ってもらえばいい。」
 それから、
「みんな汽車でつかれただろう。今晩は、宿屋にでも泊(と)まったつもりで、のんきにくつろぐんだな。もっとも、郷里にはがきだけはすぐ出しておくがいい。」
 そして、みんなが居(い)ずまいを正し、恐縮(きょうしゅく)しているような顔を、にこにこしながら見まわしたあと、すぐ室を出た。
 その日はそれっきりで、べつに何の行事もなかった。塾生たちは、朝倉夫人や次郎をはじめ、給仕の河瀬や、炊事夫(すいじふ)の並木夫婦(なみきふうふ)に何かと世話をやいてもらって、入浴をしたり、広間に集まって食事をしたり、各室で大火鉢(おおひばち)をかこみながら、各地のおみやげを出しあって茶をのんだりするだけのことだった。就寝(しゅうしん)の時刻についても、十時半になったらきちんと電燈(でんとう)を消すことになっているから、そのつもりで、という注意が与(あた)えられただけだった。何だか塾堂に来ているというより、修学旅行で宿屋に泊まっているという感じのほうが強かった。そして、そうした意味での親愛感なら、各室ごとには、もうたいていできあがってしまっていたのである。
 それでも、いざ就寝という時になって、どの室にもちょっとした混雑(こんざつ)が生じた。というのは、十畳(じょう)の部屋に大火鉢一つと六人分の机とをすえ、そこに六人分の夜具を都合よくのべるのには、かなりの工夫と協力を必要としたからである。
 混雑は申し合わせたように十時ごろからはじまった。それまで、塾生の一人一人に関係したことでは、かゆいところに手がとどくように世話をやいていた朝倉夫人も次郎も、なぜかこの混雑には何の助言も与えず、事務室から、遠目に成り行きを見まもっているといったふうであった。そして、十時半になると、次郎は、予告どおり、一分の遅延(ちえん)もなく廊下(ろうか)のスウィッチをひねり、塾生たちの室の電燈を全部消してしまった。電燈を消されて悲鳴をあげた室も二三あった。
 次郎は、しかし、頓着(とんちゃく)しなかった。かれは電燈を消すまえに、廊下をあるいて、それとなく各室の様子をのぞいてまわったが、どの室よりも早く室員が寝床(ねどこ)についていたのは、第五室であった。そして、大河無門は、その一番はいり口のところに、その大きないが栗頭(ぐりあたま)を横たえ、近眼鏡をかけたまま、しずかに眼をつぶっていたのであった。
 次郎が、それを、その晩の一つの意味深いできごととして、朝倉夫人に報告したことはいうまでもない。
          *
 あくる日は、いよいよ第十回の入塾式だった。二月はじめの武蔵野(むさしの)の寒さはきびしかったが、空は青々と晴れており、地は霜(しも)どけでけぶっていた。
 十時の開式までは、塾生たちはやはり自由に過ごすことになっていた。朝食をすますと、彼等(かれら)は日あたりのいい窓ぎわにかたまって雑談をしたり、事務室におしかけて来て新聞を読んだりしていた。
 八時をすこしすぎたころに、けたたましく事務室の電話のベルが鳴った。次郎が出て見ると、田沼(たぬま)理事長からだった。
「朝倉先生は?」
「塾長室においでです。」
「じゃあ、そちらにつないでくれたまえ。」
 次郎は、何か急用らしいが今ごろになって何事だろうと思いながら、線を塾長室にきりかえた。
 すると、まもなく、塾長室から朝倉先生の声がきれぎれにきこえて来た。
「はあ、なるほど。……それは、むろん、こばむわけにはいきますまい。……ええ、ええ、……承知いたしました。いたし方ないでしょう。……すると、こちらで予定していた来賓(らいひん)祝辞は、……ああ、そうですか。では、時間の都合を見まして適当にやることにいたしましょう。……え? ええ。やはりずいぶん気にやんでいるようです。私からは何も話してはいませんけれど、あれっきり荒田(あらた)さんの顔が見えないので、何かあると思っているんでしょう。はっはっはっ。……ええ。……ええ。……ちょっとむきになるところがありますが、ご心配になるほどのこともありますまい。……ええ、むろん私からも十分注意はしておきます。……はい、では、お待ちしています。」
 電話がすむと、次郎は、すぐ自分から塾長室にはいって行って、たずねた。
「田沼先生は何かおさしつかえではありませんか。」
「いいや、まもなくお見えになるだろう。」
 朝倉先生は、何でもないように答えたあと、次郎の顔を見て微笑(びしょう)しながら、
「今日は、変わった来賓(らいひん)が見えるらしいよ。」
「荒田さん……じゃありませんか。」
「荒田さんもだが、陸軍省からだれか見えるらしい。」
 次郎は、はっとしたように眼を見張り、しばらくおしだまって突(つ)っ立っていたが、
「田沼先生から案内されたんですか。」
 と、いかにも腑(ふ)におちないというような顔をしてたずねた。
「いや、そうではないらしい。荒田さんから、今朝急に、そんな電話が田沼先生のほうにかかって来たらしいんだ。」
 次郎はまただまりこんだ。朝倉先生は、わざと次郎から眼をそらしながら、
「それで、今日の来賓祝辞だが、時間の都合では、その陸軍省の方だけにお願いすることになるかもしれないから、そのつもりでいてくれたまえ。」
「軍人に祝辞をやらせるんですか。」
 次郎はもうかなり興奮していた。
「礼儀(れいぎ)として、私のほうからお願いすべきだろうね。」
「しかし塾の方針と矛盾(むじゅん)するようなことを言うんじゃありませんか。」
「自然そういうことになるかもしれない。しかし、それはしかたがないだろう。」
「先生!」
 と、次郎は一歩朝倉先生のほうに乗り出して、
「先生は、自然そういうことになるかもしれないなんて、のんきなことをおっしゃいますが、ぼくは、それぐらいのことではすまないと思うんです。」
「どうして?」
「これは計画的でしょう。」
「計画的?」
「ええ、荒田さんの卑劣(ひれつ)な計画にちがいないんです。荒田さんは、軍の名で塾の指導精神をぶちこわそうとしているんです。」
 次郎の顔は青ざめていた。朝倉先生は、きびしい眼をして次郎を見つめていたが、
「そんな軽率(けいそつ)なことは言うものではない。」
 と、いきなり、こぶしで卓をたたいて、叱(しか)りつけた。しかし、次郎はひるまなかった。
「軽率ではありません。これはまちがいのないことです。ぼくは断言します。」
「かりにまちがいのないことだとしても、そんなことを言って、何の役にたつんだ。」
「ぼくは、祝辞をやらせるのは絶対にいけないと思うんです。それをやめていただきたいんです。」
「それは不可能だ。」
「こちらからお願いさえしなけりゃあ、いいんでしょう。」
「そういうわけにはいかないよ。陸軍省からわざわざやって来るのに、知らん顔はできない。それではかえって悪い結果になるんだ。」
「すると、おめおめと降伏(こうふく)するんですか。」
 朝倉先生の眼は、いよいよきびしく光り、しばらく沈黙(ちんもく)がつづいた。しかし、そのあと、先生の唇(くちびる)をもれた言葉の調子は、気味わるいほど平静だった。
「本田は、友愛塾の精神が、だれかの祝辞ぐらいで、わけなくくずれてしまうような、そんな弱いものだと思っているのかね。」
 先生の眼には次第(しだい)に微笑さえ浮(う)かんで来た。次郎はこれまでの勢いに似ず、すっかり返事にまごついた。
 すると、先生は、今度は、次郎をふるえあがらせるほどの激(はげ)しい調子で、
「血迷ったことを言うのも、たいていにしたらどうだ。聞き苦しい。」
 次郎は、これまで、朝倉先生に、こんなふうな叱り方をされた記憶(きおく)がまるでなかった。かれは、ながい間の先生との人間的つながりが、それで断絶でもしたかのような気になり、思わず、がくりと首をたれた。
 朝倉先生は、しかし、すぐまた平静な調子にかえって、
「いつも言うとおり、今は日本中が病気なんだから、友愛塾だけがその脅威(きょうい)から安全でありうる道理がないんだ。病菌(びょうきん)はこれからいくらでもはいって来るだろう。いや、これまでだって、すいぶんはいって来ていたんだ、塾生自身が、ほとんど一人残らず、病菌の保有者だと言ってもいいんだからね。今日は、病菌がすこし大がかりに持ちこまれるというにすぎないんだ。むろん、大がかりな病菌の持ち込みは、できれば拒絶(きょぜつ)するにこしたことはない。しかし、拒絶どころか、表面だけでもいちおうはありがたく頂戴(ちょうだい)しなければならないところに、実は、現在の日本の最大の病根があるんだよ。だから、おたがいとしては、病菌はこれからいくらでもはいって来るものだと覚悟(かくご)して、その覚悟のもとに、病菌を無力にする工夫をこらすほかに道はない。むろんそれは、厄介(やっかい)なことではあるさ。しかし厄介なだけに、うまくその始末がつけば、それだけ塾の抵抗力(ていこうりょく)をまし、かえって健康が増進されるとも言えるんだ。とにかく何事も事上錬磨(れんま)だよ。その意味で、私は、今日はいい機会にめぐまれたとさえ思っている。こんなことを言うと、君はそれを私の負け惜(お)しみだと思うかもしれんが、しかし、避(さ)けがたいものは避けがたいものとして、平気でそれを受け取って、その上でそれに対処(たいしょ)するのが、ほんとうの自由だよ。それがほんとうに生きる道でもあるんだ。随所(ずいしょ)に主となる。そんな言葉があったね。じたばたしてもはじまらん。わかるかね、私のいっていることが?」
「わかります。」
 次郎はかなり間をおいて答えた。かれは、しかし、まだ先生の気持ちを正しく理解していたわけではなかった。事上錬磨という言葉を通じて、権力に対する反抗の機会を暗示(あんじ)されたかのような気持ちでいたのである。
 朝倉先生は、次郎の心の動きを見とおすように、その澄んだ眼をかれの顔にすえていたが、急に笑顔になって、
「そこで、変なことをきくようだが、君は今日、軍からの来賓に対して、どんな態度で接するつもりかね。」
 これは、次郎にとって、なるほど変な質問にちがいなかった。かれは、これまで、来賓に対する態度のことまで先生に注意をうけたことがなかったのである。かれはいかにも心外(しんがい)だという顔をして、
「ぼく、べつに何も考えていないんです。あたりまえにしていれば、いいんでしょう。」
「あたりまえ? うむ。あたりまえであれば、むろんそれでいいさ。そのあたりまえが、友愛塾の精神にてらしてあたりまえであればね。」
 次郎は虚(きょ)をつかれた形だった。朝倉先生はたたみかけてたずねた。
「まさか、君は、あたらずさわらずの形式的な丁寧(ていねい)さを、あたりまえだと考えているんではないだろうね。」
 次郎は眼をふせた。しばらく沈黙がつづいたあと、朝倉先生は、しんみりした調子で、
「今さら、君にこんなことを言う必要もないと思うが、友愛塾は、どんな相手に対しても冷淡(れいたん)であってはならないんだ。あたたかな空気、それが塾の生命だからね。お互(たが)いは、それで世に勝とうとしている。勝てるか勝てないかは、むろん予測(よそく)できない。しかし、それで勝とうとする意志だけは失ってはならないんだ。やはり事上錬磨だよ。今日のような場合に、それを忘れるようでは、何のための友愛塾だか、わからなくなる。」
 次郎の耳には、事上錬磨という言葉が異様にひびいた。前の場合には、権力に対する反抗の機会を暗示されたように受け取っていたが、今度の場合は、明らかにその反対のことを意味していたからであった。かれは、しかし、もう何も言うことができなかった。頭も気持ちも、めちゃくちゃに混乱していたのである。
「よくわかりました。気をつけます。」
 かれは、表面素直(すなお)にそう言って塾長室を出た。そして講堂に行き、今日の式次第(しきしだい)をチョークで黒板に書いたが、いつもは何の気なしに書く「来賓祝辞」の四字が、呪文(じゅもん)のように心にひっかかった。
 式次第を書きおわると、かれは事務室にもどり、新聞を読んでいた塾生たちにまじってストーヴを囲んだ。しかし気持ちはやはりおちつかなかった。
(どんな人をでも、平和であたたかい空気の中に包みこむ、それが塾の理想でなければならないことは、むろんよくわかっている。だが、そのためには、実際にどうふるまええばいいのか。先生は、まさか、ぼくに追従笑(ついしょうわら)いをさせようとしていられるのではあるまい。自然の感情をいつわるところに、何の平和があり、何のあたたかさがあろう。いっさいに先んじて大切なのは、自分をいつわらないことではないのか。)
 そうした疑問が、胸にわだかまって、かれは塾生たちと言葉をかわす気にもなれないのだった。
 そのうちに、ぼつぼつ来賓が見えだした。田沼理事長も、いつもよりは少し早目に自動車で乗りつけた。次郎は、出迎(でむか)えながら、それとなくその顔色をうかがったが、友愛塾の精神を象徴(しょうちょう)するかのような、その平和であたたかな眼には、微塵(みじん)のくもりもなく、そのゆったりとしたものごしには、寸分のみだれも見られなかった。次郎は、ほっとした気持ちになりながらも、一方では、何かにおしつけられるような、変な胸苦しさを覚えた。
 最後に二台の自動車が、同時に乗りつけた。その一つは、荒田老のであり、もう一つは、星章(せいしょう)を光らした大型の陸軍用であった。荒田老は、例によって鈴田(すずた)に手をひかれながら、黒眼鏡の怪奇(かいき)な顔をあらわした。陸軍用の車からは、中佐(ちゅうさ)の肩章(けんしょう)をつけた、背の高い、やせ型の、青白い顔の将校が出て来たが、しばらく突っ立って、すこしそり身になりながら、玄関前の景色を一わたり見まわした。
 その間に、鈴田が次郎に近づいて来て、
「田沼さんはもうお出でになっているだろうね。」
「はあ、見えています。」
「じゃあ、陸軍省から平木中佐がお見えになったと、通じてくれたまえ。荒田さんから今朝ほど電話でお知らせしてあるんだから、おわかりのはずだ。」
 次郎は、横柄(おうへい)な口のきき方をする鈴田に対して、いつになく憤(いきどお)りを感じ、返事をしないまま塾長室に行った。
 塾長室の戸をあけると、田召理事長が、すぐ自分から言った。
「陸軍省のかただろう。こちらにお通ししなさい。」
 次郎は玄関にもどって来たが、やはりだまったままスリッパをそろえた。
「通じたかね。」
 鈴田が次郎をにらみつけるようにして言った。
「ええ、通じました。塾長室におとおりください。」
 次郎の返事もつっけんどんだった。
 鈴田が荒田老の手をひいて先にあがった。平木中佐は靴(くつ)をぬぎかけていたが、鈴田に向って、
「今日の式には、勅語(ちょくご)の捧読(ほうどく)があるんじゃありませんか。」
「ええ、それはむろんありますとも。……」
「じゃあ、靴はぬぐわけにはいかないな。ほかの場合はとにかくとして、勅語捧読の場合に軍人が服装規程にそむくわけにはいかん。」
「そのままおあがりになったら、いかがです。かまうもんですか。」
「かまうも、かまわんも、それよりほかにしかたがない。」
 平木中佐は、片足ぬいでいた長靴(ちょうか)を、もう一度はいた。
 鈴田は、その時、じろりと次郎の顔を見たが、その眼はうす笑いしていた。
 その間、荒田老は、黒眼鏡をかけた顔を奥(おく)のほうに向け、黙々(もくもく)として突っ立っていた。事務室にいた塾生たちは、入り口の近くに重なりあうようにして、その光景に眼を見はっていた。
 やがて中佐は、荒田老と鈴田のあとについて、ふきあげた板張りの廊下(ろうか)に長靴の拍車(はくしゃ)の音をひびかせながら、塾長室のほうに歩きだした。
 次郎は、ちょっとの間、唇をかんでそのうしろ姿を見おくっていたが、急にあわてたように、三人の横を走りぬけ、塾長室のドアをあけてやった。

   四 入塾式の日

 式は予定どおり、十時きっかりにはじまった。
 来賓席(らいひんせき)の一番上席には、平木中佐が着席することになった。中佐は最初、その席を荒田老にゆずろうとした。しかし荒田老は、
「今日は、あんたが主賓(しゅひん)じゃ。」
 と、叱(しか)るように言って、すぐそのうしろの席にどっしりと腰(こし)をおろし、それからは中佐が何と言おうと、木像のようにだまりこんで、身じろぎもしなかった。中佐はかなり面くらったらしく、すこし顔をあからめ、何度も荒田老に小腰(こごし)をかがめたあと、いかにもやむを得ないといった顔をして席についたが、それからも、しばらくは腰が落ちつかないふうだった。
 しかし、式がいよいよはじまるころには、もう少しもてれた様子がなく、塾生(じゅくせい)たちをねめまわすその態度は、むしろ傲然(ごうぜん)としていた。
 来賓席の反対のがわには、田沼(たぬま)理事長、朝倉塾長、朝倉夫人の三人が席をならべていた。次郎はそのうしろに位置して、式の進行係をつとめていたが、かれの視線は、ともすると平木中佐の横顔にひきつけられがちだった。かれの眼(め)にうつった中佐の顔には、多くの隊付き将校に見られるような素朴(そぼく)さが少しもなかった。その青白い皮膚(ひふ)の色と、つめたい、鋭(するど)い眼の光とは、むしろ神経質な知識人を思わせ、また一方では、勝ち気で、ねばっこい、残忍(ざんにん)な実務家を思わせた。次郎は、中佐の横顔を何度かのぞいているうちに、子供のころ、話の本で見たことのある、ギリシア神話のメデューサの顔を連想していた。
 中佐の眼は、理事長と塾長とが式辞をのべている間、塾生のひとりびとりの表情を、注意ぶかく見まもっているかのようであった。式辞の趣旨(しゅし)は、二人とも、いつもとほとんど変りがなかった。ただ理事長は、つぎのような意味のことを、特に強張した。
「国民の任務には、恒久的(こうきゅうてき)任務と時局的任務とがある。このうち、時局的任務は、時局そのものが、あらゆる機会に、あらゆる機関を通じて、声高く国民にそれを説いてくれるので、なに人(びと)もそれに無関心であることができない。ところが、恒久的任務のほうは、時局が緊迫(きんぱく)すればするほど、とかく忘れられがちであり、現に今日のような時代では、何が真に恒久的任務であるかさえわかっていない国民が非常に多い。諸君は、友愛塾における生活中、時局的任務に関する研究にも、むろん大いに力を注いでもらわなければならないが、しかし、いっそうかんじんなのは、恒久的任務の研究であり、その研究の結果を共同生活に具体化することである。それが不十分では、時局的任務に対する熱意も、根なし草のように方向の定まらないものになってしまうであろうし、時としては、かえって国家を危険におとし入れるおそれさえあるのである。」
 また、朝倉塾長は、
「これまで、日本人は、上下の関係を強固にするための修練はかなりの程度に積んで来た。しかし、横の関係を緊密(きんみつ)にするための修練は、まだきわめて不十分である。私は、もし日本という国の最大の弱点は何かと問われるならば、この修練が国民の間に不足していることだ、と答えるほかはない。というのは、どんなに強い上下の関係も、横の関係がしっかりしていないところでは、決してほんとうには生かされないからである。そこで、私は、これからの諸君との共同生活を、主として横の関係において、育てあげることに努力したいと思う。むしろ最初は、まったく上下の関係のない状態から出発し、横の関係の生長が、おのずからみごとな上下の関係を生み出すところまで進みたいと思っている。」
 といったような意味のことから話しだし、いつもなら、午後の懇談会(こんだんかい)で話すようなことまで、じっくりと、かんでふくめるように話をすすめていったのであった。
 次郎は、きいていてうれしかった。田沼先生も、朝倉先生も、ちゃんと打つべき手は打っていられる。これでは、中佐も打ち込む隙(すき)が見つからないだろう。そんなふうにかれは思ったのである。
 朝倉先生が壇(だん)をおりると、つぎは来賓の祝辞だった。次郎はさすがに胸がどきついた。かれは、昔(むかし)の武士が一騎打(いっきう)ちの敵にでも呼びかけるような気持ちになり、一度息をのんでから、さけぶようにいった。
「来賓祝辞――陸軍省の平木中佐殿(どの)。」
 平木中佐は声に応じてすっくと立ちあがった。そしてまずうしろの荒田老の方に向きなおって敬礼した。
 荒田老は、しかし、眼がよく見えないせいか、黒眼鏡の方向を一点に釘(くぎ)づけにしたまま、びくとも動かなかった。一瞬(いっしゅん)、場内の空気が、くすぐられたようにゆらめいた。といっても、だれも声をたてて笑ったわけではなかった。笑うにはあまりにまじめずぎる光景だったし、しかも、その当事者が二人とも、場内での最も重要な人物らしく見えていただけに、微笑(びしょう)をもらすことさえ、さしひかえなければならなかったのである。しかしまた同じ理由で、おかしみはかえって十分であった。したがって、それをこらえるしぐさで、場内の空気がゆらめいたのに無理はなかったのである。とりわけ次郎にとっては、それがかれの最も緊張(きんちょう)していた瞬間(しゅんかん)のできごとであったために、そのおかしみが倍加されていた。かれは唇(くちびる)をかみ、両手をにぎりしめて、こみあげて来る笑いをおしかくしながら、中佐の表情を見まもった。
 中佐は、その口もとをわずかにゆがめて苦笑した。それは場内で見られたただ一つの笑いだった。その笑いのあと、かれはほかの来賓たちのほうは見向きもしないで、靴(くつ)と拍車(はくしゃ)と佩剣(はいけん)との、このうえもない非音楽的な音を床板(ゆかいた)にたてながら、壇(だん)にのぼった。
 次郎の気持ちの中には、もうその時には、どんなかすかな笑いも残されてはいなかった。かれは、中佐の青白い横顔と、塾生たちのかしこまった顔とを等分に見くらべながら、息づまるような気持ちで中佐の言葉を待った。
 中佐は、しかし、あんがいなほど物やわらかな調子で口をきった。そして、まず、田沼理事長と朝倉塾長の青年教育に対する努力を、ありふれた形容詞をまじえて賞讃(しょうさん)した。それは決して、真実味のこもったものではなく、いちおうの礼儀(れいぎ)にすぎないものであることは明らかであったが、次郎はそれでも、この調子なら、そうむき出しに塾の精神をけなしつけることもあるまい、という気がして、いくぶん緊張をゆるめていた。
 しかし、中佐のそんな調子は三分とはつづかなかった。かれはやがて世界の大勢を説き、日本の生命線を論じた。そしてその結論としての国民の覚悟(かくご)について述べだしたが、もうそのころには、かれはかなり狂気(きょうき)じみた煽動(せんどう)演説家になっていた。さらに進んで青年の修養を論ずる段になると、かれの佩剣の鞘(さや)が、たえ間なく演壇の床板をついて、勇(いさ)ましい言葉の爆発(ばくはつ)に伴奏(ばんそう)の役割をつとめた。かれはしばしば「陛下(へいか)」とか「大御心(おおみこころ)」という言葉を口にしたが、その時だけは直立不動の姿勢になり、声の調子もいくぶん落ちつくのだった。しかし、佩剣の伴奏がもっとも激(はげ)しくなるのは、いつもその直後だったのである。
 かれの意図(いと)が、塾の精神を徹底的(てっていてき)にたたきつけるにあったことは、もうむろん疑う余地がなかった。かれは、しかし、真正面から「友愛塾の精神がまちがっている」とは、さすがに言わなかった。かれはたくみに、――おそらく、かれ自身のつもりでは、きわめてたくみに、――一般論(いっぱんろん)をやった。そして、なおいっそうたくみに、――もっとも、この場合は、かれ自身としては、たくらんだつもりではなく、かれの信念の自然の発露(はつろ)であったかもしれないが、――「国体」とか、「陛下」とか、「大御心」とかいう言葉で、自分の論旨(ろんし)を権威(けんい)づけることに努力した。
「日本の国体をまもるためには、国民は、四六時中非常時局下にある心構(こころがま)えでいなければならない。恒久的任務と時局的任務とを差別して考える余裕(よゆう)など、少くともわれわれ軍人には全く想像もつかないことである。」
「大命を奉じては、国民は親子の情でさえ、たち切らなければならない。いわんや友愛の情をやである。」
「日本では、国民相互(そうご)の横の道徳は、おのずから、君臣の縦(たて)の道徳の中にふくまれている。陛下に対し奉(たてまつ)る臣民の忠誠心が、すべての道徳に先んじ、すべての道徳を導き育てるのであって、友愛や隣人愛(りんじんあい)が忠誠心を生み出すのでは決してない。」
 およそこういった調子であった。
 次郎はしだいに興奮した。ひとりでに息があらくなり、両手が汗(あせ)ばんで来るのを覚えた。かれは、しかし、懸命(けんめい)に自分を制した。自分を制するために、おりおり、うしろから田沼先生と朝倉先生の顔をのぞいた。かんじんの二人の眼をのぞくことができなかったので、はっきりと、その表情を見わけることはできなかったが、のぞいたかぎりでは、二人とも、すこしも動揺(どうよう)しているようには見えなかった。かれはいくらか救われた気持ちだった。
 かれの視線は、おのずと、朝倉夫人のほうにもひかれた。夫人の横顔は、いつもにくらべると、いくぶん青ざめており、その視線は、つつましく膝(ひざ)の上に重ねている手の甲(こう)におちているように思われた。かれは、朝倉夫人のそんな様子を見ると、つい眼がしらがあつくなって来るのだった。
 かれは、しかし、そうしているうちに、いくらか自分をとりもどすことができ、眼を来賓席のほうに転じた。すると、そこには、当惑(とうわく)して天井(てんじょう)を見ている顔や、にがりきって演壇をにらんでいる顔がならんでいた。しかし、どの顔よりもかれの注意をひいたのは、相変わらず木像のように無表情な荒田老の顔と、たえず皮肉な微笑(びしょう)をもらして塾生たちを見わしている鈴田の顔であった。
 鈴田の顔を見た瞬間、次郎は、自分にとってきわめてたいせつなことを、いつの間にか忘れていたことに気がついて、はっとした。中佐の言葉に対する塾生たちの反応(はんのう)、それを見のがしてはならない。できれば一人一人の反応をはっきり胸にたたみこんでおくことが、これから朝倉先生に協力して自分の仕事をやって行く上に何よりもたいせつなことではないか。
 かれの視線は、そのあと、忙(いそが)しく塾生たちの顔から顔へとびまわった。どの顔もおそろしく緊張している。眼がかがやき、頬(ほお)が紅潮し、唇(くちびる)がきっと結ばれている。中佐のかん高い声と、佩剣(はいけん)の伴奏とが、電気のようにかれらの神経をつたい、かれらの心臓にひびき、かれらの全身をゆすぶっているかのようである。
 次郎の興奮は、もう一度その勢いをもりかえした。しかもその勢いは、かれが中佐の声と佩剣の伴奏とから直接刺激(しげき)をうける場合のそれよりも、はるかに強力だった。で、もしもかれが、塾生たちの顔の間に、ただ一つの例外的な表情をしている顔を見いだすことができなかったとすれば、かれはその興奮のために、すくなくとも、自分のすぐ前に腰をおろしている田沼先生と朝倉先生夫妻の注意をひくほどの舌打ちぐらいは、あるいはやったかもしれなかったのである。
 ただ一つの例外の顔というのは、大河無門の顔であった。かれは半眼(はんがん)に眼を開いていた。それは内と外とを同時に見ているような眼であった。中佐の言葉の調子がどんなに激越(げきえつ)になろうと、佩剣の鞘(さや)がどんな騒音(そうおん)をたてようと、そのまぶたは、ぴくりとも動かなかった。かれは、椅子(いす)にこそ腰をおろしていたが、その姿勢は、あたかも禅堂(ぜんどう)に足を組み、感覚の世界を遠くはなれて、自分の心の底に沈潜(ちんせん)している修道者を思わせるものがあった。
 次郎の視線は、大河無門の顔にひきつけられたきり、しばらくは動かなかった。かれは何か一つの不思議を見るような気持ちだった。
(大河無門は、ぼくなんかにはまだとてもうかがえない、ある心の世界をもっているのだ。)
 かれにはそんな気がした。その気持ちが、しだいにかれをおちつかせた。そして大河無門と荒田老とを見くらべてみる心のゆとりを、いつのまにか、かれにあたえていた。
 かれの眼に映(えい)じた大河無門と荒田老とは、まさに場内の好一対(こういっつい)であった。荒田老は、平木中佐の所論の絶対の肯定者(こうていしゃ)として、怪奇(かいき)な魔像(まぞう)のように動かなかったし、大河無門は、その絶対の否定者として、清澄(せいちょう)な菩薩像(ぼさつぞう)のように動かなかったのである。
 次郎は、これまでの不快な興奮からさめて、ある希望と喜びとに裏付けられた新しい興奮を感じはじめていた。そのせいか、中佐の狂気じみた言葉も、もう前ほどにはかれの耳を刺激しなくなっていたのである。
 中佐は、最後に、いっそう声をはげまして言った。
「諸君にとってたいせつなことは、いかに生くべきかでなくて、いかに死ぬべきかだ。大命のまにまにいかに死ぬべきかを考え、その心の用意ができさえすれば、おのずからいかに生くべきかが決定されるであろう。くりかえして言うが、諸君は、楽しい生活などという、甘(あま)ったるい、自由主義的・個人主義的享楽主義(きょうらくしゅぎ)に、いつまでもとらわれていてはならない。日本は今や君国のために水火をも辞さない勇猛果敢(ゆうもうかかん)な青年を求めているのだ。この要求にこたえうるような精神を養うことこそ、諸君がこの塾堂に教えをうけに来た唯一(ゆいいつ)の目的でなければならない。自分はあえて全軍の意志を代表して、このことを諸君の前に断言する。終わり!」
 塾生たちの中には「終わり」という言葉をきくと同時に、機械人形のように直立したものがあった。その他の塾生たちは、理事長と塾長との式辞が終わったときに、顔をさげただけですました関係からか、さすがに立ちあがるのをためらった。しかし、どの顔も、何か不安そうに左右を見まわした。そして、直立した塾生たちを見ると、それにさそわれて、半ば腰をうかしたものも少なくはなかった。ただ大河無門だけは、そうしたざわめきの中で、その半眼にひらいた眼を、ながい夢(ゆめ)からでもさめたように、ゆっくり見ひらき、しずかに頭をさげて中佐に敬意を表したのだった。
 次郎の眼は、いつまでも大河無門にひきつけられていた。そのために、かれは、中佐がどんな顔をして塾生たちの「不規律」な敬礼をうけ、どんな歩きかたをして自分の席に戻(もど)って行ったかを観察することができなかったし、また、閉式を告げるかれの役割を果たすのに、いくらか間がぬけたのではないかと、かれ自身心配したぐらいであった。
 式が終わると、恒例(こうれい)によって、塾生と中食をともにすることになっていた。今日は朝倉先生の式辞がいつもより長かったうえに、平木中佐の祝辞がそれ以上に長かったため、時刻もかなりおくれていたし、一同式場を出るとすぐ、広間に用意されていた食卓(しょくたく)についた。今日は荒田老もめずらしく上機嫌(じょうきげん)で、「わしはめしはたくさんです」などと無愛想(ぶあいそう)なことも言わず、自分からすすんで平木中佐をさそい、その席につらなったのである。
 食卓では、荒田老がすすめられるままに来賓席の上座(かみざ)につき、平木中佐がその横にならんだ。ごちそうは、これも恒例で、赤飯に、小さいながらも、おかしら付きの焼鯛(やきだい)、それに菜(な)っ葉(ぱ)汁(じる)と大根なますだった。
 朝倉先生の「いただきます」という合い図で、みんなが箸(はし)をとりだすと、平木中佐がすぐ荒田老に言った。
「なかなかしゃれていますね、おかしら付きなんかで。」
 荒田老は、黒眼鏡すれすれに皿(さら)を近づけ、念入りに見入りながら、
「小鯛(こだい)らしいな。なるほどこれはしゃれている。しかし若いものは、これでは食い足りんだろう。」
「ええ、やはり青年には質よりも量でしょうね。」
 二人の話し声は、かなりはなれたところにすわっていた次郎の耳にもはっきりきこえた。かれは、それも塾に対する皮肉だろうと思った。そして、食卓につくとすぐそんなことを言いだした二人のえげつなさに、ことのほか反感を覚えた。
「しかし、気は心と言いますか、こうして祝ってやりますと、やはり青年たちにはうれしいらしいのです。」
 そう言ったのは田沼先生だった。ふっくらした、あたたかい言葉の調子だった。すると朝倉先生が冗談(じょうだん)まじりの調子でそれに言い足した。
「これまでの塾生の日記や感想文を見ますと、そのことがふしぎなぐらいはっきりあらわれていましてね。それで、つい、多少の無理をしても、入塾式の日には小鯛を用意することにしているんです。」
「しかし、お祝いのお気持ちなら、赤飯だけでたくさんでしょう。そうご無理をなさらんでも。」
 中佐も冗談めかした調子で言ったが、その頬(ほお)には、かすかに冷笑らしいものがただよっていた。
「おっしゃるとおりです。」
 と、朝倉先生はしごくまじめにうけた。しかしすぐまた冗談まじりに、
「ただ塾生たちには、おかしら付きの鯛というものが妙(みょう)に印象に残るらしいので、ついそれに私たちが誘惑(ゆうわく)されてしまうのです。それも教育の一手段だという口実もありましてね。はっはっはっ。」
「甘いですな。」
 と、荒田老が横からにがりきって言った。
 まわりの来賓たちが、それで一せいに笑い声をたてたが、それがその場の空気をまぎらすための作り笑いだったことは明らかだった。
「塾長はそうした甘いところもありますが、根は辛(から)い人間ですよ。実は辛すぎるほど辛いんです。甘いところを見せるのは辛すぎるからだともいえるんです。油断はなりません。」
 田沼先生がそう言って笑った。それでまた来賓たちも笑ったが、今度は救われたといったような笑い方であった。平木中佐と鈴田とは変に頬をこわばらせていた。荒田老は相変わらず無表情だったが、無表情のまま、
「田沼さんは、やはり逃(に)げるのがうまい。まるで鰻(うなぎ)のようですな。」
 もう一度笑いが爆発(ばくはつ)した。しかしだれの笑い声も、いかにも苦しそうだった。
「荒田さんにあっちゃあ、かないませんな。」
 と、田沼先生は、そのゆたかな頬をいくらか赤らめて苦笑したが、そのあと、話題をかえるつもりか、急に思い出したように言った。
「それはそうと、荒田さんは、このごろは禅(ぜん)のほうはいかがです。相変わらずおやりになっていらっしゃいますか。」
「ふっふっふっ。」
 と、荒田老は、あざけるように鼻で笑ったが、
「禅は私の生活ですからな。毎日ですよ。」
「毎日だと、おかよいになるのが大変でしょう。このごろは、どちらのお寺で?」
「すわるのに寺はいりませんな。」
「すると、お宅で?」
「うちでもやりますし、どこででもやります。こうして飯を食ったり話したりしている間も、私は禅をやっているんです。」
「なるほど。」
「どうです。塾生たちにも、少しやらしてみては?」
 荒田老はおしつけるように言った。
「坐禅(ざぜん)とまではむろん行きませんが、静坐程度のことなら、ここでもやっているんです。起床後(きしょうご)とか、就寝前(しゅうしんまえ)とかに、ほんの二十分か、せいぜい三十分程度ですが。」
「それでもやらんよりはいい。」
 と、荒田老は、これまでのぶっきらぼうな調子から、急に気のりのした調子になり、
「しかし、指導をうまくやらんと、時間のむだ使いになりますな。時間が短いほど、とかくむだになりがちなものだが、塾長さん、そのへんの呼吸はうまくいっていますかな。」
 田沼先生は、とうとうまた自分たちに矛先(ほこさき)が向いて来たらしい、と思ったが、もう逃げるわけにいかなかった。で、朝倉先生をかえりみて、
「塾長、どうです。これまでのやり方をお話して、ご意見をうかがってみたら?」
 朝倉先生は、ちょっとためらったふうだった。しかし、すぐへりくだった調子で、
「私には、本式な坐禅の指導なんか、とてもできませんし、ただ塾生たちに、朝夕少なくとも二回は、おちついて内省する時間を持たせたい、と、まあ、そんなような軽い気持ちで、静坐をやらしているわけなんです。ですから、べつにそう変わった方法はとっていません。ただ、静坐のあとで、――あとでと申しましても、静坐の姿勢をそのままつづけながらなんですが、――ほんの五六分、なるだけ心にしみるような例話や古人の言葉などをひいて、話をすることにしているのですが。」
「なるほど。」
 と、荒田老はめずらしくうなずいた。そしてちょっと考えるようなふうだったが、
「それはいい。心をすましたあとにきく短い話というものは、あとまで残るものです。だが、それだけに、その話の種類次第(しだい)では、その害も大きい。これまでどんな話をして来られたかな。」
「やはり心の問題にふれた話がいいと思いまして――」
「それはわかりきったことです。だが、その心の問題というのが、このごろでは、どうもじめじめしたことになりがちでしてな。」
 次郎は、きいていて歯がゆかった。――朝倉先生は、これではまるで荒田老に口頭試問(こうとうしもん)でもうけているようなものではないか。屈従(くつじゅう)は謙遜(けんそん)ではない。先生は、どうしてもっと積極的にものをいわれないのだろう。
 朝倉先生は、しかし、あくまでも物やわらかな調子でこたえた。
「たしかにおっしゃるとおりです。で、私は及(およ)ばずながら、いつも塾生たちの心に光を点じ、希望を与(あた)えるような話をすることにつとめて来たつもりなのです。」
「ふん。」
 と、荒田老は、いかにもさげすむように鼻をならした。それから、ずけずけと、
「あんたはやっぱり西洋式ですな。光だの、希望だのって、バタくさいことをいって、生きることばかり考えておいでになる。東洋の精神はそんな甘ったるいものではありませんぞ。東洋では昔(むかし)から、死ぬことで何もかも解決して来たものです。禅道がその極致(きょくち)です。大死(たいし)一番、無の境地に立って、いっさいに立ち向かおうというのです。そこにお気がつかれなくちゃあ、せっかくの静坐のあとのお話も、青年たちを未練な人間に育てあげるだけの結果になりはしませんかな。」
 朝倉先生も、さすがにもう相手になる気がしなかったのか、
「いや、今日はいろいろお教えいただいてありがとう存じました。いずれ私も十分考えてみることにいたしましょう。」
 と、おだやかに話をきりあげてしまった。
 次郎はその時、朝倉先生が、かつてかれに、つぎのような意味のことを、いろいろの実例をあげて話してくれたのを思いおこしていた。
「みごとに死のうとするこころと、みごとに生きようとするこころとは、決してべつべつのこころではない。みごとに生きようとする願いのきわまるところに、みごとに死ぬ覚悟(かくご)が湧(わ)いて来るのだ。生命を軽視(けいし)し、それを大事にまもり育てようとする願いを持たない人が、一見どんなにすばらしい死に方をしようと、それは断じて真の意味でみごとであるとはいえない。」
 次郎にとっては、この言葉は朝倉先生のいろいろの言葉の中でもとりわけ重要な意味をもつものであった。かれは、この言葉を思いおこすことによって、これまでいくたびとなく、かれの幼時からの性癖(せいへき)である激情(げきじょう)をおさえ、向こう見ずの行動に出る危険をまぬがれることができたし、また、かれが日常の瑣事(さじ)に注意を払い、その一つ一つに何等(なんら)かの意味を見出そうと努力するようになったのも、主としてこの言葉の影響(えいきょう)だったのである。それだけに、かれは、朝倉先生が、なぜそのことをいって荒田老を説き伏(ふ)せようとしないのだろうと、それが不思議にも、もどかしくも思えてならないのだった。
 塾生たちは、もうそのころには、とうに食事を終わっていた。来賓もほとんど全部箸(はし)をおろしており、まだすんでいないのは、目が不自由なうえに、何かと議論を吹(ふ)きかけていた荒田老と、その相手になっていた朝倉先生ぐらいなものであった。しかし、この二人も、話をやめると間もなく箸をおろした。
 来賓たちは、畳敷(たたみじ)きの広間のガラス窓いっぱいに、あたたかい陽(ひ)がさしこんでいるのが気に入ったらしく、食事がすんで塾生たちが退散したあとでも、窓ぎわに集まって、たばこを吸い、雑談をまじえた。そのうちに荒田老に付(つ)き添(そ)っていた鈴田が、平木中佐と何かしめしあわせたあと、朝倉先生の近くによって来てたずねた。
「今日も、午後は例のとおり懇談会をおやりになるんですか。」
「ええ、その予定です。しかし今日は、懇談らしい懇談にはいるのはおそらく夜になるでしょう。私から前もっていっておきたいことは、今日はもう大体、式場で話してしまいましたし、午後集まったら、さっそく、ご存じの『探検』にとりかからしたいと思っています。」
 鈴田はすぐもとの位置にもどった。そして荒田老と平木中佐を相手に、何か小声で話しながら、おりおり横目で朝倉先生のほうを見たり、にやにや笑ったりしていたが、まもなく、荒田老の手をとって立ちあがった。
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