次郎物語
◇ピンチです!◇
■暇つぶし何某■

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著者名:下村湖人 

   一 友愛塾(ゆうあいじゅく)・空林庵(くうりんあん)

 ちゅんと雀(すずめ)が鳴いた。一声鳴いたきりあとはまたしんかんとなる。
 これは毎朝のことである。
 本田次郎(じろう)は、この一週間ばかり、寒さにくちばしをしめつけられたような、そのひそやかな、いじらしい雀の一声がきこえて来ると、読書をやめ、そっと小窓のカーテンをあけて、硝子戸(ガラスど)ごしに、そとをのぞいて見る習慣になっている。今朝はとくべつ早起きをして、もう一時間あまりも「歎異抄(たんにしょう)」の一句一句を念入りに味わっていたが、そとをのぞいて、いつもと同じ楓(かえで)の小枝(こえだ)の、それも二寸とはちがわない位置に、じっと羽根をふくらましている雀の姿を見たとたん、なぜか眼がしらがあつくなって来るのを覚えた。
 かれの眼には、その雀が孤独(こどく)の象徴(しょうちょう)のようにも、運命の静観者のようにも映(うつ)った。夜明けの静寂(せいじゃく)をやぶるのをおそれるかのように、おりおり用心ぶかく首をかしげるその姿には、敬虔(けいけん)な信仰者(しんこうしゃ)の面影(おもかげ)を見るような気もした。
 雀は、しかし、そのうちに、ひょいと勢いよく首をもたげた。同時に、それまでふくらましていた羽根をぴたりと身にひきしめた。それは身内に深くひそむものと、身外の遠くにある何かの力とが呼吸を一つにした瞬間(しゅんかん)のようであった。そのはずみに、とまっていた楓の小枝がかすかにゆれた。小枝がゆれると、雀ははねるようにぴょんと隣りの小枝に飛びうつった。その肢体(したい)には、急に若い生命がおどりだして、もうじっとしてはおれないといった気配(けはい)である。
 間もなく雀は力強い羽音をたて、澄みきった冬空に浮(う)き彫(ぼ)りのように静まりかえっている櫟(くぬぎ)の疎林(そりん)をぬけて、遠くに飛び去った。そして、すべてはまたもとの静寂にかえった。
 次郎は深いため息に似た息を一つつくと、カーテンを思いきり広くあけ、机の上の電気スタンドを消した。そして、外の光でもう一度「歎異抄」のページに眼をこらした。
 机の上の小さな本立てには、仏教・儒教(じゅきょう)・キリスト教の経典類や、哲人(てつじん)の語録といった種類のものが十冊あまりと、日記帳が一冊、ノートが二三冊たててあるきりである。次郎は、どういう考えからか、一月(ひとつき)ばかりまえに、自分の蔵書(ぞうしょ)の中から、それだけの本を選んで座右におき、ほかはみんな押(お)し入れにしまいこんでしまったのであるが、このごろでは、そのわずかな本のいずれにもあまり親しまないで、ほとんど「歎異抄」ばかりをくり返し読んでいるのである。
          *
 次郎が郷里の中学校を追われてから、もうかれこれ三年半になる。父の俊亮(しゅんすけ)が退学の事情をくわしく書いて朝倉先生に出してくれた手紙の返事が来ると、かれはすぐ上京して先生の大久保の仮寓(かぐう)に身をよせた。先生の上京からかれの上京までに二十日とは日がたっていなかったので、かれが着京したころには、先生自身もまだ十分にはおちついていず、運送屋から届けられたままの荷物が、玄関(げんかん)や廊下(ろうか)などにごろごろしていた。次郎は、はじめの十日間ばかりは、朝倉夫人と二人で、毎日その整理に没頭(ぼっとう)した。
「本田さんとは、よくよくの因縁(いんねん)ですわね。同じ学校を追われた先生と生徒とが、また同じ家に住むなんて……」
 次郎を東京駅にむかえてくれた朝倉夫人は、電車に乗って腰(こし)をかけると、すぐしみじみとそういったが、次郎は、荷物を整理しながらも、夫人が心の中でたえず同じ言葉をくり返しているような気がして、うれしくてならないのだった。
 先生は、毎日外出がちだった。帰りも、たいていは夜になってからで、夕食をともにすることもまれだった。たまに家におちつく日があっても、夫人とも、次郎とも、めったに口をきかず、何か考えこんでは、心にうかんだことをノートに書きつけるといったふうであった。
 ところが、荷物もあらましかたづき、階下の六畳(じょう)二間を先生の書斎と茶の間兼食堂に、二階の四畳半を次郎の部屋にあて、夫人の手で簡素(かんそ)ながらも一通りの装飾(そうしょく)まで終わったころになって、先生は、ある夕方、外出先から帰って来て室内を見まわしながら言った。
「せっかく整理してもらったが、近いうちにまた引越すことになるかもしれないよ。」
「あら。」
 と夫人は、めったに先生には見せたことのない不満な気持ちを、かるい驚(おどろ)きの中にこめて、
「やはり、こちらでは手ぜまでしょうか。」
 夫人がそういうと、次郎も、それが自分のせいだという気がして顔をくもらせた。先生は、しかし、笑いながら、
「手ぜまなのは、覚悟(かくご)のまえさ。越したところで、どうせ今度の家も広くはないよ。あるいは、ここよりも窮屈(きゅうくつ)になるかもしれん。実は、はっきり決まらないうちに話して、ぬか喜びをさせるのもどうかと思って、ひかえていたんだが、私がかねて考えていたことが近く実現しそうになったのでね。」
「考えていらしったことといいますと?」
「青年塾(じゅく)のことさ。」
「あら、そう?」
 夫人はもう一度おどろいた。それは、しかし、深い喜びをこめたおどろきだった。
「土地や建物も、あんがいぞうさなく手に入ったんだ。何もかも田沼(たぬま)さんのお力でできたことなんだがね。」
 田沼さんというのは、朝倉先生が学生時代から兄事(けいじ)し崇拝(すうはい)さえしていた同郷の先輩で、官界の偉材(いざい)、というよりは大衆青年の父と呼ばれ、若い国民の大導師(だいどうし)とさえ呼ばれている社会教育の大先覚者で、その功績によって貴族院議員に勅選(ちょくせん)された人なのである。次郎はまだ一度もその風貌(ふうぼう)に接したことはなかった。しかし、朝倉先生の口を通して、およそその人がらを想像していた。先生のいうところでは、「田沼さんは、聖賢(せいけん)の心と、詩人の情熱とをかねそなえた理想的な政治家」であり、「明治・大正・昭和を通じて、日本が生んだ庶民(しょみん)教育家の最高峰(さいこうほう)」だったのである。
 次郎は、「田沼さんのお力で」という言葉をきいた瞬間、何か霊感(れいかん)に似たものが胸にわくのを覚えた。朝倉先生の青年塾の計画については全くの初耳であり、ただ先生が上京以来、普通(ふつう)の学校教育以外のことを何かもくろんでいるらしいと想像していただけだったが、田沼――朝倉――青年塾――と、こう結びつけて考えただけで、近年日本の空を重くるしくとじこめている雲の中を一道のさわやかな自由の風が吹(ふ)きぬけて行くような心地が、かれにはしたのである。
 同時にかれはきわめて当然の事として、かれ自身がその青年塾の最初の塾生になる事を考えていた。朝倉先生に師事しつつ、塾生の立場から塾風(じゅくふう)樹立(じゅりつ)の基礎固(きそがた)めに努力し、しかもしばしば田沼という大人格者に接して親しく言葉をかわしている自分を想像すると、胸がおどるようだった。
 朝倉先生は、そのあと、計画中の青年塾について、あらましつぎのようなことを二人に話した。
 場所は東京の郊外で、東上線の下赤塚(しもあかつか)駅から徒歩十分内外の、赤松(あかまつ)と櫟(くぬぎ)の森にかこまれた閑静(かんせい)なところである。敷地(しきち)は約五千坪(つぼ)、そのうち半分は、すぐにでも菜園につかえる。さる老実業家が自分の隠居所(いんきょじょ)を建てるつもりで、いろいろの庭木(にわき)なども用意し、ことに、千本にも近いつつじを植え込(こ)んでおいたところなので、花の季節になると、錦(にしき)をしいたような美観を呈する。
 隠居所の建築は、老実業家の急死で取りやめになった。相続者はその追善(ついぜん)のために、だれか信頼(しんらい)のできる人で、精神的な事業に利用したいという人があったら、土地だけでなく、相当の建築費をそえて寄付したいという意向をもらしていた。それをある人が田沼さんの耳に入れた。田沼さんは、満州事変以来日本の流行のようになっている塾風教育が、人間性を無視した、強権的な鍛練(たんれん)主義一点ばりの傾向(けいこう)にあるのを深く憂(うれ)えていた際だったので、すぐそれを自分の新しい構想に基づく青年塾に利用したいと考えた。しかし、それには、自分と思想傾向を同じくし、かつ専心その指導に任じてくれる人がなければならない。自分自身でやって見たいのは山々だが、各方面に関係の多いからだでは、それが許されないし、ことに最近は自分が中心になって、憲政擁護(けんせいようご)と政治浄化(じょうか)の猛(もう)運動を展開している最中なので、それから手をひくわけには絶対に行かない。そんなことで、内々適任者を物色(ぶっしょく)していたところだった。そこへ、たまたま朝倉先生の五・一五事件批判の舌禍(ぜっか)事件が発生し、つづいて教職辞任となり、そのことで二人の間に二三回手紙をやり取りしている間に、どちらも願ったり叶(かな)ったりで、朝倉先生が青年塾に専念する約束(やくそく)が成立した。そして先生の上京後、二人で懇談(こんだん)を重ねた結果、具体案を作って寄付者に提示したところ、先方では、その根本方針に双手(もろて)をあげて賛成し、一切(いっさい)を田沼さんの自由な処理に委(ゆだ)ねたばかりでなく、事情によっては年々経常費の一部を負担(ふたん)してもいいということまで申し出て来ている。
「そんなわけで、経費の点では全く心配がないんだ。まるで夢(ゆめ)みたような話さ。実は、私としては、それでは安易にすぎて多少気恥(は)ずかしいような心地がしないでもない。しかし、われわれの塾堂の構想からいうと、経費のことなどでじたばたする必要がないということもまた一つの大事な条件なんだ。むろん勤労はたいせつだし、自給自足も結構だ。しかし教育の機関が金もうけに没頭(ぼっとう)しなければ立って行けないというようでも困るからね。田沼さんもそのことを言って非常に喜んでいられたよ。」
「すると、どんなような塾ですの?」
 夫人がたずねた。
「それはおいおいわかるだろう。どうせお前には寮母(りょうぼ)みたいな仕事をしてもらいたいと思っているし、そのうち印刷物もできるから、それについてみっちり研究してもらうんだな。しかし、おそらく実際に生活をはじめてみないと、ほんとうのことはのみこめないだろうね。」
「何だか、むずかしそうですわ。」
「むずかしいといえは非常にむずかしいし、平凡(へいぼん)だといえばしごく平凡だよ。」
「一口にいって、どんなご方針ですの?」
「友愛感情に出発した共同生活の建設とでもいったらいいかと思っているんだ。しかし、こんな生煮(なまに)えの言葉をそのまま鵜呑(うの)みにされても困る。それよりか、これまでの学校でやって来た白鳥会の気持ちを、塾の共同生活の隅(すみ)から隅まで生かす、といったほうが呑(の)みこみやすいかね。」
「そういっていただくと、あたしたちにもいくらか自信が持てそうですわ。ねえ、本田さん。」
「ええ、ぼく、先生のお気持ちはよくわかるような気がします。」
 次郎は頬(ほお)を紅潮させてこたえた。
「あんまり自信をもってのぞんでもらっても困るよ。白鳥会の精神がいいからといって最初からそれを押(お)しつける態度に出たら、かんじんの精神が死んでしまうからね。お互(たが)いが接触(せっしょく)に接触を重ねて行くうちに、自然に各人の内部からいいものが芽を出し、それがみごとに共同生活に具体化され、組織化される、そういったところをねらうのが、今度の塾堂生活なんだ。」
 夫人も次郎もだまってうなずいた。
「まあ、しかし、こういうことはお互いにゆっくり話しあうことにして、さっそくかたづけなければならないのは、本田君の問題だ。中学校も五年になってからの転校は、どうせ公立では見込(みこ)みがないので、私立のほうの知人に二三頼(たの)んではある。しかし、夏休みのせいか、まだはっきりした返事がきけないでいる。それがきまるまでは、君も落ちつかないだろうと思うが、どうだい、私が紹介状(しょうかいじょう)を書くから、君直接会ってみないか。」
「はあ――」
 次郎は気がすすまないというよりは、むしろ意外だという眼をして先生の顔を見た。
「私立ではいやなのか。」
「そんなことはありません。」
「じゃあ、会ってみたらいいだろう。私立でも、まじめな学校では、やはりいちおう本人に会ってみてからでないと入れてくれないからね。」
「先生!」
 と、次郎は急にからだを乗り出し、息をはずませながら、
「ぼくは先生の青年塾にはいるわけには行かないんですか。」
「青年塾に? 君が?」
 朝倉先生はおどろいたように眼を見はった。
「ぼくは、中学校を卒業することなんか、もうどうでもいいんです。先生が青年塾をお開きになるのを知っていながら、普通(ふつう)の中学校にはいるなんて、ぼくはとてもそんな気にはなれないんです。」
「ばかなことをいうものじゃない。私の計画している青年塾は、学校とはまるでちがうんだよ。現に働いている青年たちのために、ごく短期間の、――今のところながくてせいぜい二か月ぐらいにしたいと思っているが、――まあいわば一種の講習をくりかえして行くようなものなんだ。そんなところにはいって、君、どうしようというんだね。」
 次郎はだまりこんだ。かれは自分が想像していた塾とはかなり性質の違(ちが)ったものだということがわかり、ちょっと失望したようだった。しかし、どんな種類の塾にもせよ、その最初の塾生となって、塾風(じゅくふう)樹立(じゅりつ)に協力したいという希望は、やはり捨てたくなかったのである。
「そりゃあ、私としても、一度は君に一般(いっぱん)の勤労青年と生活をともにする機会を作ってもらいたいとは願っている。しかし、それは今でなくてもいいことなんだ。今のところは、何といったって中学を出て、上級の学校に進むように努力することがたいせつだよ。」
「ぼく、ほんとうは、先生が青年塾をお開きになるんなら、一生先生の下で働かしていただきたいと思っているんですけれど。」
 次郎はいくらかはにかみながらも、哀願(あいがん)するように言った。
「ありがとう。それは私ものぞむところだ。実は、機会が来たら、私のほうから君に願いたいと思っていたところなんだ。しかし、それにはやはり一通り基礎的な勉強をしてもらわなくちゃあ。」
「勉強は独学でもできると思います。それよりか、最初から先生の下でいろんな体験を積むことがたいせつではないでしょうか。」
「塾の大先輩(だいせんぱい)になろうとでもいうのかね。はっはっはっ。」
 と朝倉先生は愉快(ゆかい)そうに笑ったが、すぐ真顔(まがお)になり、
「なるほど、塾の気風を作るには、最初から君のような人にはいっていてもらえば大変ぐあいがいいね。これは、君のためというよりか、私にとってありがたいことなんだが。」
 次郎は、眼をかがやかした。朝倉先生は、しかし、また急に笑いだして、
「ところで、塾はまだできあがっているわけではないんだよ。建築その他に、少なくも三か月は見ておかなければならないし、趣旨(しゅし)を宣伝したり、募集の手続きをしたりしていると、いよいよ塾生が集まって来るのは、早くて半年後になるだろう。あるいは、君が中学校を卒業したあとで、第一回目が始まるということになるかもしれない。とにかく、君の転校の手続きだけは早くすましておくことだよ。何だかお互いに青年塾の夢にすっかり興奮してしまって、現実を忘れていた形だね。はっはっはっ。」
 夫人も次郎もつい笑いだしてしまった。
 こんなふうで、次郎はとにもかくにもある私立中学に通いだした。むろん学校にとくべつの期待もかけていなかったし、したがって大した不満も感じなかった。むしろ、科目によっては、郷里の中学におけるよりも学力のある先生がいたので、勉強にはかえって実がはいるくらいであった。
 そのうちに、塾堂の建築も次第(しだい)にはかどりだした。日曜には次郎もかかさず朝倉先生といっしょに下赤塚の駅におりたが、そのたびごとに、かれは、建物の位置とにらみあわせて、つつじその他の小さな樹木を幾本(いくほん)かずつ植えかえた。先生夫妻の住宅――その一室に次郎も自分の机をすえさしてもらうことになっていた――は、本館とは別棟(べつむね)にして、まず第一に着手されたが、その付近の小さな樹木は、ほとんどすべて次郎の手で整理され、南側には、いつの間にか小さな庭園らしいものさえできあがっていたのである。
 住宅が完全にできあがったのは、その年の十月はじめだった。夫人と次郎とは、それでまた引越しさわぎに忙殺(ぼうさつ)されたが、それはいかにも楽しい忙(いそが)しさだった。荷物を作ったり、解いたりする間に、次郎は、「本田さんとは、よくよくの因縁(いんねん)ですわね」といったかつての夫人の言葉を、何度思いおこしたかしれない。それに夫人は、このごろ、いつとはなしに、かれを「本田さん」と呼ぶ代わりに「次郎さん」と呼ぶようになっていたので、かれは心の中で、「次郎さんとは、よくよくの因縁ですわね」と夫人の言葉を勝手にそう言いかえたり、また、自分はこれから夫人を「お母さん」と呼ぶことにしようか、などと考えてみたりして、ひとりで顔をあからめたこともあった。
 できあがった住宅は、思いきり簡素だった。八畳(じょう)に四畳半、それに玄関(げんかん)と便所とがついているきりだった。開塾後(かいじゅくご)は、食事は朝昼晩、塾生といっしょに本館でとることになっていたので、台所は四畳半の縁先(えんさき)に下屋(したや)をおろして当分間に合わせることになっていた。
 引越し荷物は決して多いほうではなかったが、それでも、この手ぜまな家にはどうにも納(おさ)まりかねた。本だけでも相当だった。本館ができあがると、そこに先生専用の室が予定されていたし、また物置きになるような部屋も当然できるはずだったので、何とか始末のしようもあったが、それまでは極度(きょくど)に不便をしのぶほかなかった。で、結局、四畳半と玄関とは当分物置きに使うことにし、八畳一間を三人の共用にした。その結果、ひる間は一つの卓(たく)を囲(かこ)んで食事もし、本も読み、事務もとり、夜は卓を縁側(えんがわ)に出して三人の寝床(ねどこ)をのべるといったぐあいであった。次郎は、先生夫妻に対してすまないという気で一ぱいになりながらも、心の奥底(おくそこ)では、それが楽しくてならないのだった。里子(さとご)時代に、乳母(うば)の家族と狭(せま)くるしい一室で暮(く)らしていたころの光景までが、おりおりかれの眼に浮(う)かんでいたのである。
 引越しがすんだあとでも、先生はとかく外出がちだった。おもな用件は、講師陣(じん)の編成とか、助手や炊事夫(すいじふ)その他の使用人の物色(ぶっしょく)とかいうことにあったらしく、帰ってくるとその人選難をかこつことがしばしばだった。ことに講師陣の編成について苦労が多かったらしい。
「著書や世間の評判などをたよりにして、この人ならと思って会ってみると、思想傾向と人柄(ひとがら)とがまるでちぐはぐだったりしてね。知性と生活情操(じょうそう)とがぴったりしている人というものは、あんがい少ないものだよ。」
 そんなことをいったりしたこともあった。
 先生が在宅の日には、よく夫人が外出した。それは寮母として参考になるような施設(しせつ)をほうぼう見学するためであった。また、その方面の参考書も、見つかり次第買って帰った。しかし、ふだんは先生の秘書役といったような仕事を引きうけ、また、先生の留守中は本館の工事のほうの相談にも応じていた。
 次郎は学校に通うので、まとまった仕事の手助けはあまりできなかったが、それでも家におりさえすれば、塾堂建設に役だつような仕事を何かと自分で捜(さが)しだして、それに精魂(せいこん)をぶちこんだ。畑も片っぱしから耕して種をまいた。鶏舎(けいしゃ)も三十羽(ぱ)ぐらいは飼(か)えるようなのを自分で工夫(くふう)して建てた。こうしたことには、郷里でのかれの経験が非常に役にたった。そして、その年の暮れには、鶏(にわとり)に卵を生ませ、畑に冬ごしの野菜ものさえいくらか育てていたのである。
 かれは、上京以来、父の俊亮(しゅんすけ)にはたびたび手紙を書いた。それはすべて喜びにみちた手紙だった。恭一(きょういち)や大沢(おおさわ)や新賀や梅本(うめもと)にも、おりおり思い出しては、絵はがきなどに簡単な生活報告を書き送った。乳母のお浜(はま)には、郷里では久しく文通を怠(おこた)っていたが、いざ上京というときになって、ふと彼女(かのじょ)のことを思いおこし、妙(みょう)に感傷的な気分になった。で、くわしい事情はうちあけないで、単に東京に出て勉強することになったという意味のことだけ書きおくったが、それがきっかけになって、上京後も何度か絵はがきぐらいで便(たよ)りをした。そのほかにかれが手紙を書いたのは、正木一家と大巻一家とであった。正木の祖父母には、中学入学以来、自然接触がうすらいでいたが、幼時の思い出にはさすがに絶(た)ちがたいものがあり、ことに二人とももう八十に近い高齢(こうれい)なので、遠く隔(へだ)たったらいつまた会えるかわからないという懸念(けねん)もあった。で、上京前にはぜひ一度会っておきたいという気がしていたが、上京の理由を説明するのに気おくれがして、とうとう会わずに来てしまった。その謝罪の意味もふくめて、とくべつ長い手紙を書いたのである。大巻一家は、郷里では眼と鼻の間に住んでいて、こちらの事情は何もかも知りぬいており、上京前には、運平老(うんぺいろう)がわざわざかれのために「壮行会(そうこうかい)」を開いて剣舞(けんぶ)までやって見せてくれたりしていたので、手紙を書くのにも気は楽だった。しかし、その壮行会の席につらなった人たちの中に、恭一と道江(みちえ)という二人の人間がいて、何かにつけ睦(むつま)じく言葉をかわしていたことは、かれにとって消しがたい悩(なや)みの種になっていた。
「恭一さんは、大学はどちらになさるおつもり? 東京? 京都?」
「東京さ。」
「すると来年は次郎さんとあちらでごいっしょね。うらやましいわ。」
「道江さんは、女学校を卒業するの、さ来年だね。」
「ええ。」
「あと、どうする?」
「あたしも、東京に出て、もっと勉強したいわ。でも、うちで許してくれるかしら。」
「そりゃあ、話してみなけりゃあ、わからんよ。」
「恭一さんは賛成してくださる?」
「道江さんが本気で勉強する気なら、むろん賛成するさ。」
 次郎はそこまで回想しただけで、もう頭がむしゃくしゃして来るのである。しかも、そのあと、道江はだしぬけに、
「次郎さんも賛成してくださる?」
 と、質問をかれのほうに向けた。かれは、その時、
「う、うん、賛成してもいいね。」
 と、半ば茶化(ちゃか)したような調子で答えたが、それがゆとりのある茶化し方ではなく、むしろ虚(きょ)をつかれて、どぎまぎした醜態(しゅうたい)をかくすための苦しい方便でしかなかったことは、だれよりもかれ自身が一番よく知っている。その時、道江の顔にうかんだ変な笑い、それは自分に対する痛烈(つうれつ)な軽侮(けいぶ)の表現ではなかったのか。
 かれは大巻一家を思い出すと、かならず道江を思い出し、道江を思い出すと、かならずそうした対話を思い出す。そのせいか、大巻への手紙はただ一回きりで、その後は父あての手紙に、大巻にもよろしくと書きそえるだけだった。
 道江本人に対しては、かれははがき一枚も書かなかった。道江のほうから、それをうらむようなことをいって来たこともあったが、その返事さえ出そうとしなかったのである。
 さて、塾の本館が落成したのは、翌年の一月半ばであった。それで住宅のほうもずっと楽になり、次郎は四畳半一間を自分の部屋に使うことができるようになった。そして二月はじめにはいっさいの準備がととのい、いよいよ第一回の塾生がはいって来ることになったのである。
 塾名を「友愛塾(ゆうあいじゅく)」といった。
 開塾の日取りが、次郎の中学卒業よりもわずかに一か月ばかり前になっていたのは、かれにとってくやしいことであったにちがいない。しかし、この半年ばかりの生活で、かれにはもう、自分はすでに塾堂とは切っても切れない縁を結んだ人間だ、という確信が生まれていた。そのせいか、最初の塾生になりたいというかれの希望は、今では是が非でもというほど強くはなかった。それに、朝倉先生が、これはむろん主として各方面の事情を考慮(こうりょ)してのことではあったが、いくらかはかれの気持ちをも察して、開塾式の日取りを日曜に選んでくれたおかげで、かれも入塾者の中にまじって式場につらなることができ、またその日じゅう彼等(かれら)と行動をともにし、夜になって最初の座談会がひらかれた際には、自己紹介(しょうかい)まで同じようにやらしてもらったし、なお翌日からも、通学にさしつかえないかぎりは、すべて彼等と生活をともにすることもできたので、ほとんど最初の塾生といってもいいような気持ちで暮らすことができたのであった。
 塾生は、だいたい二十歳(さい)から二十五歳ぐらいまでの勤労青年で、その七八割までが農業者だった。中に三十歳をこした教育者が二三まじっていたが、いずれにしても、各地の青年団員、もしくはその指導に密接な関係をもつものばかりであった。これは、この塾が地域共同社会の理想化に挺身(ていしん)する中堅(ちゅうけん)人物の養成ということにその主目標をおいていた自然の結果だったのである。
 塾生の学歴はまちまちだった。しかし、次郎の接したかぎりでは、かれがこれまで見て来た中学五年の生徒たちにくらべて、常識の点でも、理解力や判断力の点でも、はるかにすぐれていると思われる青年が大多数だった。
 次郎はそうした青年たちに接しているうちに、自分のこれまでの学生生活が、ほんとうの生活から浮きあがったもののように思われて恥(は)ずかしい気がした。朝倉先生は、かつて白鳥会の集まりで、学生が勤労青年を友人に持つことの必要を説いたことがあったが、その意味が今になってやっとわかるような気がするのだった。かれは次第に塾生たちに愛情と尊敬とを感じはじめていた。中学の卒業試験はもう間近にせまっていたが、かれの関心はそのほうの勉強よりも、少しでも多くの時間を彼等といっしょにすごすことに払(はら)われていたのである。
 しかし、かれにとっての最大の喜びは、何といっでも、田沼先生――開塾以来、田沼さんは自然みんなに先生と呼はれるようになっていた――にたびたび接して、直接言葉をかけてもらうようになったことであった。
 田沼先生は、塾財団の理事長という資格で、開塾式にのぞみ、一場のあいさつを述べたのであるが、次郎は、仏像の眼を思わせるようなその慈眼(じがん)と、清潔であたたかい血の色を浮かしたその豊頬(ほうきょう)とに、まず心をひきつけられ、さらに、透徹(とうてつ)した理知と燃えるような情熱とによって語られるその言々句々(げんげんくく)に、完全に魅(み)せられてしまったのであった。
「錦(にしき)を着て郷土に帰るというのが、古い時代の青年の理想でありました。もしそれで、郷土そのものもまた錦のように美しくなるとするならば、それもたしかに一つの価値ある理想といえるでありましょう。しかし事実は必ずしもそうではなかったのであります。錦を着て郷土に帰る者が幾人(いくにん)ありましても、郷土は依然(いぜん)としてぼろを着たままであり、時としては、そうした人々を育てるために、郷土はいっそうみじめなぼろを着なければならない、というような事情さえあったのであります。今後の日本が切に求めているのは、断じてそうした立身(りっしん)出世主義者ではありません。じっくりと足を郷土に落ちつけ、郷土そのものを錦にしたいという念願に燃え、それに一生をささげて悔(く)いない青年、そうした青年が輩出(はいしゅつ)してこそ、日本の国士がすみずみまで若返り、民族の将来が真に輝(かがや)かしい生命の力にあふれるのであります。」
 そんな言葉をきいた時には、次郎は自分の心に一つの革命が起こったかのようにさえ感じたのである。
 その後、かれが朝倉先生に紹介されて親しく接するようになった田沼先生は、ふかさの知れない愛と識見(しきけん)との持ち主であった。かれは、田沼先生のそばにすわっているだけで、自分の血がその愛によってあたためられ、自分の頭がその識見によって磨(みが)かれて行くような気がするのであった。
 朝倉先生の開塾式における言葉もまた、次郎にとって新しい感激(かんげき)の種だった。先生は、人間が本来もっている創造の欲望と調和の欲望とを塾生相互(そうご)の間にまもり育てつつ、何の規則もなく、だれの命令もなしに、めいめいの内部からの力によって共同の組織を生み出し、生活の実体を築きあげて行きたい、といった意味のことを述べた。そうした共同生活の根本精神は、次郎がこれまで白鳥会においておぼろげながら理解していたことではあったが、まだはっきりした観念にはなっていなかったので、非常に新鮮(しんせん)なひびきをもってかれの耳をうつたのである。
 塾生活の運営は、しかし、実際にあたってみると、朝倉先生の理想どおりに進展するものではなかった。次郎は、期間の半ばを過ぎるまで、先生の顔にも、しばしば苦悩(くのう)の色が浮かぶのを見てとって、自分も心を暗くすることがあった。しかし、期間の終りが近づくにしたがって、だれの顔にも次第に明るさが見えて来た。
「塾生の言動に、このごろ、やっとうらおもてがなくなって来たようだね。」
 先生が夫人に向かってそんなことをいったのは、期間もあと十日かそこいらになったころであった。それに対して夫人は答えた。
「ええ、そのせいか、このごろほんとうに心からの親(した)しみが感じられて来ましたわ。それに、塾生同士の話しあいで、いろんないい計画が生まれて来ますし、あたし、もう何にもお世話することありませんの。」
 期間の終わりに近く、全塾生は三泊(ぱく)四日の旅行に出た。朝倉先生夫妻も、むろんいっしょだった。次郎も、それには学校を休んでもついて行きたかったのであるが、あいにく卒業試験の最中だったので、どうにもならなかった。かれはここに来てから、この時の留守居(るすい)ほど味気ない気がしたことはなかったのである。
 終了式(しゅうりょうしき)にもかれはつらなることができなかった。やはり試験のためだった。朝倉夫人のあとでの話では、塾生たちがいよいよ門を出て行く前には、かなり涙(なみだ)ぐましい場面もあったらしかった。次郎はそんな話をきくにつけても、塾生と終始生活をともにする機会が一日も早く来ることを望まないではいられなかった。
 その機会は、しかし、そうながく待つ必要はなかった。というのは、かれが中学を卒業した翌月には、すでに第二回の塾生募集がはじまっていたからである。もっとも、かれにはまだ残された問題が一つあった。それは上級学校への進学の問題であった。このことについては、先生夫妻は、むろん極力かれに進学をすすめた。しかしかれはいつもの従順さに似ず、頑(がん)として自分の考えをまげようとしなかった。
「読書でできるかぎりは、ぼく、どんな勉強でもします。上級学校の講義程度のことなら、それで十分間に合うと思います。それに、上級学校に籍(せき)をおかなくても、それぐらいの知識が得られるということを一般(いっぱん)の勤労青年に知ってもらうこともたいせつではないでしょうか。ぼくは実際に自分でそれを証明してみたいと思っているのです。」
 これがかれの決心だった。この決心は、かれが第一回目の開塾以来考えぬいた結果固めていたことで、朝倉先生がそのために自分を放逐(ほうちく)するといわないかぎり、ひるがえさないつもりでいたのである。
 朝倉先生も、それにはとうとう根負(こんま)けして、
「では、いちおう君のお父さんに相談した上のことにしょう。なお、念のため、田沼先生のお考えもうかがって見るほうがいいね。」
 といって、その場を片づけた。そして、俊亮には手紙で、田沼先生には直接会ってその意見をただしてみたところ、俊亮からは、あっさり、本人の意志に任せる、といって来た。田沼先生も、本人の意志がぐらつきさえしなければそれもおもしろかろう、勤労青年相手の指導者には、そういう人物が必要だから、といって、むしろ賛意を表してくれた。なお、朝倉先生自身としても、まだ助手の適任者が見つからないでいたところだったので、次郎は、はじめのうちは塾生とも助手ともつかない立場で、あとでは一人まえの助手として、その後の塾生活にはいりこむことになったのである。こんなふうで、かれは現在までに、第一回目の中途半端(ちゅうとはんぱ)な体験までを合わせると、すでに九回の塾生活を送って来ており、間もなく、その第十回目の生活にはいろうとしているのである。その間に、かれはその心境においても、助手としての指導技術においても、また読書力においても、めざましい進歩のあとを示して来た。なお、かれについて特記すべきことのひとつは、かれが学校時代に大して熱意を示さなかった運動競技とか、音楽とか、娯楽遊戯(ごらくゆうぎ)とかいったことにも研究の手をのばし、今では技術的にも一通りの心得があり、それが塾生活の運営にかなりの役割を果たすようになって来たことである。
 朝倉先生夫妻が、その真剣(しんけん)な反省と創意工夫とによって、一回ごとに向上のあとを示したことは、いうまでもない。二人には、一般(いっぱん)の塾生活指導者にありがちな自己陶酔(とうすい)ということが微塵もなかった。次郎の眼にはすばらしい成功だと映ることも、二人にとっては常に反省の資料であり、検討の余地を残すことばかりであった。「肝胆(かんたん)を砕(くだ)く」という言葉は、古人がこの二人のために残した言葉ではないかとさえ思われるほど、生活のあらゆる面について研究をかさね、工夫(くふう)を積んだ。それは、はた目には苦悩(くのう)の連続ともいうべきものであった。しかも、それでいて二人の気分はいつも澄(す)みきっており、あせりがなく、あたたかでほがらかだった。次郎は、そうした気分に接するごとに、二人がうらやましくも尊くも思え、同時に自分のいたらなさが省(かえり)みられるのだった。
 ある冬の朝、――それはたしか第四回目の塾生活がはじまろうとする数日前のことだったと思うが、――朝倉先生は、居間(いま)の硝子戸(ガラスど)ごしに、じっと庭のほうに眼をこらし、無言ですわっていた。そこへ次郎が朝のあいさつに行った。すると先生は黙(だま)ってかれに眼くばせした。かれにもそとを見よという合い図らしかった。次郎は、すぐ二人のうしろにすわってそとを見た。葉の落ちつくした櫟(くぬぎ)の林が、東から南にかけて、晴れた空に凍(い)てついている。日の出がせまって、雲が金色に燃えあがっていた。数秒の後、まぶしい深紅(しんく)の光が弧(こ)を描(えが)いてあらわれたと思うと、数十本の櫟の幹の片膚(かたはだ)が、一せいにさっと淡(あわ)い黄色に染まり、無数の動かない電光のような縞(しま)を作った。
「しずかであたたかい色だね。」
 朝倉先生は、櫟の林に眼をこらしたまま、ささやくように言った。夫人も次郎も、言葉の意味をかみしめながら、かすかにうなずいただけだった。
 太陽がすっかりその姿をあらわしたころ、今度は次郎が言った。
「あの櫟林(くぬぎばやし)の冬景色は、たしかにこの塾の一つの象徴(しょうちょう)ですね。ことにこんな朝は。――まる裸(はだか)で、澄んで、あたたかくて――」
「うむ。しかし本館からはこの景色は見られない。惜(お)しいね。」
「すると、この住宅の象徴でしょうか。しかし、それでもいいですね。――先生、どうでしょう。櫟の林にちなんでこの住宅に何とか名をつけたら。」
「ふむ。……空林、空林庵(くうりんあん)はどうだ。つめたくて、すこし陰気(いんき)くさいかな。」
「しかし、空林はすばらしいじゃありませんか。ぼく、すきですね。庵がちょっとじめじめしますけれど。」
「それはまあしかたがない。こんな小さな家には、庵ぐらいがちょうどいいよ。閣(かく)とか荘(そう)とかでは大げさすぎる。はっはっ。」
 すると夫人が、
「いい名前ですわ。すっきりして。あたたかさは、三人の気持ちで出して行きましょうよ。」
 それ以来、この簡素な建物を空林庵と呼ぶことになったが、次郎にとっては、庵という字も、もうこのごろでは、じめじめした感じのするものではなくなっている。それどころか、かれは今では、どこにいても、空林庵の名によって自分の現在の幸福を思い、しかもその幸福が、故郷の中学を追われたという不幸な事実に原因していることを思って、人生を支配している「摂理(せつり)」の大きな掌(てのひら)の無限のあたたかさに、深い感謝の念をさえささげているのである。
          *
 次郎は、今、その空林庵の四畳半で、雀の声をきき、その飛び去ったあとを見おくり、そしてしずかに「歎異抄(たんにしょう)」に読みふけっているわけなのである。
 かれがなぜこのごろ「歎異抄」にばかり親しむようになったかは、だれにもわからない。それはあるいは数日後にせまっている第十回目の開塾にそなえる心の用意であるのかもしれない。あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ法然上人(ほうねんしょうにん)にすかされまゐらせて念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずさふらふ」という親鸞(しんらん)の言葉と、一脈(いちみゃく)相通(あいつう)ずるところがあるからなのかもしれない。さらに立ち入って考えてみるなら、自分の現在の生活を幸福と感じつつも、まだ心の底に燃えつづけている道江への恋情(れんじょう)、恭一に対する嫉妬(しっと)、馬田に対する敵意、曽根少佐や西山教頭を通して感じた権力に対する反抗心(はんこうしん)、等々が、「歎異抄」を一貫して流れている思想によって、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)・罪悪深重(ざいあくしんちょう)の自覚を呼びさます機縁(きえん)となっているせいなのかもしれない。すべてそうしたことは、かれのこれからの生活の事実に即(そく)して判断するよりほかはないであろう。
 で、私は、過去三年半のかれの生活の手みじかな記録につづいて、かれのこれからの生活を、もっとくわしく記録して行くことにしたいと思っている。

   二 ふたつの顔

 次郎は今朝から事務室にこもって、第十回の塾生名簿(じゅくせいめいぼ)を謄写版(とうしゃばん)で刷っていたが、やっとそれが刷りあがったので、ほっとしたように火鉢(ひばち)に手をかざした。しかし、火鉢の炭火(すみび)はもうすっかり細っていた。謄写インキでよごれた指先が痛いほどつめたい。
 塾堂の玄関(げんかん)は北向きで、事務室はその横になっているので、一日陽(ひ)がささない。それに窓の近くに高い檜(ひのき)が十本あまりも立ちならんでいて青空の大部分をかくしている。つるつるに磨(みが)きあげられた板張りの床(ゆか)が、うす暗い光線を反射しているのが、寒々として眼(め)にしみるようである。
 かれは火鉢に炭をつぎ足そうとしたが、思いとまった。そして、刷りあげた名簿をひとまとめにしてかかえこむと、すぐ中廊下(なかろうか)をへだてた真向かいの室にはいって行った。そこは食堂にもなり、座談会や、そのほかのいろいろの集まりにも使われる畳敷(たたみじ)きの大広間なのである。
 事務室からこの室にはいって来ると、まるで温室にでもはいったようなあたたかさだった。午前十時の陽が、磨硝子(すりガラス)をはめた五間ぶっとおしの窓一ぱいに照っており、床(とこ)の間(ま)の「平常心」と書いた無落款(むらっかん)の大きな掛軸(かけじく)が、まぶしいほど明るく浮き出している。
 次郎は、かかえて来た刷り物を窓ぎわの畳の上に置いて、硝子戸を一枚あけた。霜(しも)に焼けたつつじの植(う)え込(こ)みが幾重(いくえ)にも波形に重なって、向こうの赤松(あかまつ)の森につづいている。空は青々と澄(す)んでおり、風もない。窓近くの土は、溶(と)けた霜柱でじっくりぬれ、あたたかに光って湯気をたてていた。
 次郎はしばらく窓わくに腰(こし)をおろしてそとをながめていたが、やがて陽を背にして畳にあぐらをかき、名簿を綴(と)じはじめた。クリップをかけるだけなので、六七十部ぐらいは大して時間もかからなかった。
 名簿を綴じおわると、かれは窓わくによりかかり、じっと眼をとじて考えこんだ。開塾の準備は、これですっかりととのったわけで、天気はいいし、いつもなら、新しい塾生を迎(むか)える喜びで胸が一ぱいになるはずなのだが、今度はどうもそうはいかない。開塾が近づくにつれて、かえって気持ちが落ちつかなくなって来るのである。それは、このごろ、ともすると、かれの眼にうかんで来る二つの顔があったからであった。まるで種類のちがった、そして、おたがいに縁(えん)もゆかりもない二つの顔ではあったが、それが代わる代わる思い出され、全くべつの意味で、かれの気持ちを不安にしていたのである。
 その一つは、荒田直人(あらたなおと)という、もう七十に近い、陸軍の退役将校の顔であった。
 この人は、中尉(ちゅうい)か大尉かのころに日露(にちろ)戦争に従軍して、ほとんど失明に近い戦傷を負(お)うた人であるが、その後、臨済禅(りんざいぜん)にこって一かどの修行をつみ、世にいうところの肚(はら)のすわった人として、自他ともに許している人である。それに家柄(いえがら)も相当で、上層社会に知人が多く、士官学校の同期生や先輩(せんぱい)で将官級になった人たちでも、かれには一目(いちもく)おいているといったふうがあり、また政変の時などには、名のきこえた政治家でかれの門に出入りするものもまれではない、といううわささえたてられているのである。
 次郎がこの人の顔をはじめて見たのは、第七回目の開塾式の時であった。その日、かれは玄関(げんかん)で来賓(らいひん)の受付をやっていた。受付といっても、いつもなら来賓はほんの六七名、それも創設当初からの深い関係者で、塾の精神に心から共鳴している人たちばかりだったので、かれにはもう顔なじみになっていたし、ただ出迎えるといった程度でよかったのである。ところが、その日は、いつもの来賓がまだ一名も見えていない、定刻より三十分以上もまえに、一台の見なれない大型の自家用車が玄関に乗りつけた。そして、その中から、最初にあらわれたのは、眼の鋭(するど)い、四十がらみの背広服(せびろふく)の男だったが、その男は、車のドアを片手で開いたまま、もう一方の手を中のほうにさしのべて言った。
「着(つ)きました。どうぞ。」
 すると、中のほうから、どなりつけるような、さびた声がきこえた。
「ゆるしを得たのか。」
「は。……いいえ。」
「ばかッ。」
 次郎はおどろいた。そして、思わず首をのばし、背広の男の横から車の内部をのぞこうとした。しかし、かれがのぞくまえに、背広の男はもうこちらに向きをかえていた。そして、てれくさいのをごまかすためなのか、それとも、それがいつものくせなのか、変に肩(かた)をそびやかして、玄関先のたたきをこちらに歩いて来た。
 かれは、帽子(ぼうし)をとっただけで、べつに頭もさげず、ジャンパー姿の次郎をじろじろ見ながら、いかにも横柄(おうへい)な口調(くちょう)でたずねた。
「今日は新しく塾生がはいる日ですね。」
「そうです。」
「式は何時からです。」
「もうあと三十分ほどではじまることになっています。」
「荒田さんがそれを見学したいといって、今日はわざわざお出でになっていますが、そう取次いでくだい。」
「荒田さんとおっしゃいますと?」
「荒田直人さんです。田沼(たぬま)理事長にそうおつたえすればわかります。」
「田沼先生はまだお見えになっておりませんが……」
「まだ?」
「ええ、しかし、もうすぐお見えだと思います。」
「塾長は?」
「おられます。」
「じゃあ、塾長でもいいから、そう取り次いでくれたまえ。」
 次郎は、相手の言葉つきが次第(しだい)にあらっぽくなるのに気がついた。しかし、もうそんなことに、むかっ腹(ぱら)をたてるようなかれではなかった。かれは物やわらかに、
「じゃあ、ちょっとお待ちください。」
 と言って、玄関のつきあたりの塾長室に行った。そして、すぐ朝倉先生といっしょに引きかえして来て、二人分のスリッパをそろえた。
 朝倉先生は、いつもの澄(す)んだ眼に微笑(びしょう)をうかべながら、背広服の男に言った。
「私、塾長の朝倉です。はじめてお目にかかりますが、よくおいでくださいました。さあどうぞ。」
 それはいかにも背広の男を荒田という人だと思いこんでいるかのような口ぶりだった。
「はあ、では……」
 と、背広の男は、いくらかあわてたらしく、さっきとはまるでちがった、せかせかした足どりで自動車のほうにもどって行った。そして、
「田沼さんはまだお見えになっていないそうですが、さしつかえないそうです。」
 と、まえと同じように、片手を自動車の中にさしのべた。
「どうれ。」
 うなるようにいって、背広の人に手をひかれながら、自動車からあらわれたのは、縫(ぬ)い紋(もん)の羽織(はおり)にセルの袴(はかま)といういでたちの、でっぷり肥(ふと)った、背丈(せたけ)も人並(ひとなみ)以上の老人だった。黒眼鏡をかけているので、眼の様子はわからなかったが、顔じゅうが、散弾(さんだん)でもぶちこまれたあとのようにでこぼこしていて、いかにもすごい感じのする容貌(ようぼう)だった。
 二人が近づくのを待って、朝倉先生があらためて言った。
「あなたが荒田さんでいらっしゃいますか。私は塾長の朝倉です。今日はよくおいでくださいました。さあ、どうぞこちらへ。」
「塾長さんですか。荒田です。」
 と、老人はかるく首をさげたが、顔の向きは少し横にそれていた。それから、背広の人にスリッパをはかせてもらって玄関をあがり、そろそろと塾長室のほうに手をひかれて歩きながら、
「田沼さんが青年塾をはじめられたといううわさだけは、もうとうからきいていました。わしも青年指導には興味があるんで、一度見学したいと思っていたところへ、つい昨日、ある人から今日の開塾式のことをきいたものじゃから、さっそくおしかけてまいったわけです。ご迷惑(めいわく)ではありませんかな。」
「いいえ、決して。……迷惑どころではありません。……理事長も喜ばれるでしょう。……実は、ごくささやかな、いわば試験的な施設(しせつ)だものですから、各方面のかたに大げさな御案内を出すのもどうかと思いまして、いつも内輪(うちわ)の者だけが顔を出すことにいたしているようなわけなんです。」
 朝倉先生は、べつにいいわけをするような様子もなく、淡々(たんたん)としてこたえた。すると、荒田老人は、ぶっきらぼうに、
「これからは、わしもその内輪の一人に、加えてもらいたいものですな。」
 朝倉先生も、それにはさすがに面くらったらしく、
「はあ――」
 と、あいまいにこたえて、塾長室のドアをひらいた。
 塾長室のドアがしまると、ほとんど同時に田沼理事長が自動車を乗りつけた。次郎が出迎えて、小声で荒田老(あらたろう)のことを話すと、
「そうか。」
 とうなずいて、すぐ塾長室にはいって行ったが、次郎には、気のせいか、そのうなずきかたに何か重くるしいものが感じられた。
 そのあと、いつもの顔ぶれの来賓(らいひん)がつぎつぎに見え、せまい塾長室はいっぱいになった。しかし、廊下にもれる話し声は、これまでの開塾式の日のようににぎやかではなかった。まるで話し声のきこえない時間がむしろ多いぐらいだった。次郎はいやにそれが気がかりだった。河瀬(かわせ)という少年の給仕がいて、茶菓(さか)をはこんだりするために、たびたび塾長室に出はいりしていたので、かれに中の様子をきいてみようかとも思ったが、それも何だか変だという気がして、ただひとりで気をもんでいた。
 定刻になって塾生を式場に入れ終わると、かれは来賓を案内するためにすぐ塾長室にはいって行ったが、その時にも、話し声はほとんどきこえなかった。見ると荒田老は両腕(りょううで)を深く組み、その上にあごをうずめて、居眠(いねむ)りでもしているかのような格好(かっこう)をしていた。ほかの人たちの中にも、頭を椅子(いす)の背にもたせて眼をつぶっているものが二三人あった。あとはみんなめいめいに塾生名簿に眼をとおしていたが、それも気まずさをそれでまぎらしているといったふうであった。
 やがて式場に案内されて着席してからの荒田老の姿は、まさに一個の怪奇(かいき)な木像であった。式の順序は一般(いっぱん)の教育施設とたいして変わったこともなく、何度か起立したり着席したりしなければならなかったが、老は着席となると、必す両手をきちんと膝(ひざ)の上におき、首をまっすぐにたて、黒眼鏡の奥(おく)からある一点を凝視(ぎょうし)しているといった姿勢になった。そして壇上(だんじょう)の声は、理事長、塾長、来賓と三たび変わり、たっぷり一時間を要したにもかかわらず、老は身じろぎ一つせず、黒眼鏡から反射する光に微動(びどう)さえも見られなかったぐらいであった。
 式がすむと、来賓も塾生といっしょに昼食をともにする段取りになっていた。しかし荒田老は式場を出るとそのまま塾長室にもはいらず、すぐ帰るといいだした。理事長が食事のことを言って引きとめようとすると、
「めし? わしはめしはたくさんです。」
 と、そっけなく答え、付(つ)き添(そ)いの背広の男をうながし、さっさと自動車に乗ってしまった。
 朝倉夫人は第一回以来のしきたりで、その日は入塾生のこまごました世話をやいたり、炊事(すいじ)のほうの手助けをしたりしていたため、開式になって、はじめて荒田老の怪奇な姿に接し、非常におどろいたらしかった。そして、午後になって、理事長以下来賓が全部引きあげたあと、次郎に今朝のいきさつを話してきかされ、なお塾長室で、朝倉先生と三人集まっての話のときに、先生から老の人物や、その社会的勢力などについてあらましの話をきくと、夫人はさすがに心配そうに眉根(まゆね)をよせて言った。
「塾の中だけのむずかしさなら、かえって張(は)りあいがあって楽しみですけれど、外からいろいろ干渉(かんしょう)されたりするのは、いやですわね。」
 しかし、朝倉先生はそれに対して無雑作(むぞうさ)にこたえた。
「外からの圧力の加わらない共同生活なんか、あり得ないさ。あっても無意味だろう。そういう点からいって、実はこれまでのここの生活は少し甘(あま)すぎたんだ。これからがほんものだよ。」
 その後は、開塾式にも閉塾式にもきまって荒田老の姿が見えた。こちらからそのたびごとに案内を出すことになったのである。式場における理事長と塾長とのあいさつは、時によって多少表現こそちがえ、趣旨(しゅし)は第一回以来少しも変わっていないので、荒田老も何回となく同じ内容のことをきくわけであった。そして式がすむとすぐ帰ってしまうのだから、何がおもしろくて毎回わざわざ顔を見せるのか、次郎にはわけがわからなかった。世間には来賓祝辞を所望(しょもう)される機会が来るのを一つの楽しみにして、学校の卒業式などに臨(のぞ)む人も少なくはないが、それにしては人がらが少し変わりすぎている。少なくとも、それほど低俗(ていぞく)で凡庸(ぼんよう)な人物だとは思えない。内々心配されているように、指導方針について何か文句をつけたがっているとすれば、すでに最初からがその機会だったはずである。にもかかわらず、いつも黙々(もくもく)として式場にのぞみ、黙々として理事長と塾長とのあいさつをきき、そして黙々として帰って行く。次郎には、それが不思議でならないのだった。怪奇な容貌(ようぼう)がいよいよ怪奇に見え、気味わるくさえ感じられて来たのである。
 しかしこの謎(なぞ)は、このまえの第九回の開塾式の日についに解けた。
 その日、荒田老は、めずらしく式後に居残(いのこ)ってみんなと食事をともにした。そして食事がすんだあとも、いつになく軽妙(けいみょう)なしゃれを飛ばしたりして、他の来賓たちと雑談をかわし、なかなか帰ろうとしなかった。で、いつもなら食後三十分もたてば引きあげるはずの他の来賓たちも、荒田老に対する気がねから、かなりながいこと尻(しり)をおちつけていた。しかし二、三の来賓がとうとうたまりかねたように立ちあがり、その一人が荒田老に近づいて、
「お先にはなはだ失礼ですが、ちょっと急な用をひかえていますので……」
 と、いかにも恐縮(きょうしゅく)したようにいうと、荒田老は、黒眼鏡の顔をとぼけたようにそのほうに向けて答えた。
「わしですか。わしにならどうぞおかまいなく。……今日はわしは午後までゆっくり見学さしてもらうことにしておりますので。」
 それから朝倉先生のすわっているほうに黒眼鏡を向け、
「塾長さん、ご迷惑ではないでしょうかな。」
「いいえ、いっこうかまいません。どうぞごゆっくり。」
 朝倉先生は、みんなの緊張した視線の交錯(こうさく)の中でこたえた。わざとらしくない、おちついた答えだった。
「実はね、塾長さん――」
 と、荒田老はいくらか威圧(いあつ)するような声で、
「式場であんたのいわれることは、毎度きいていて、大よそは、わかったつもりです。しかし、ちょっと腑(ふ)におちないところがありましてな。――これは、理事長のいわれることについても同じじゃが。――で、もう少し立ち入っておききしたいと思っているんです。」
「いや、それはどうも。……なにぶん式場ではじっくり話すというわけにはまいりませんので。で、どういう点にご不審(ふしん)がおありでしょうか。」
 立ちかけていた来賓たちも、そのまま棒立ちになって、荒田老の言葉を待っていた。すると荒田老はどなるように言った。
「わしとあんたの間で問答しても、何の役にもたたん。」
「は?」
 と、朝倉先生はけげんそうな顔をしている。
「あんたがこれから塾生に何を言われるか、それがききたいのです。」
「なるほど、ごもっともです。」
 朝倉先生は微笑(びしょう)してうなずいた。
「今日、式場で、あんたは午後の懇談会(こんだいかい)であんたの考えをもっと委(くわ)しく話すといわれましたな。」
「ええ、申しました。」
「わしは、それを傍聴(ぼうちょう)さしてもらえば結構です。」
「なるほど、よくわかりました。どうか、ご随意(ずいい)になすっていただきます。」
 来賓たちは、あとに気を残しながら、間もなく引きあげた。田沼(たぬま)理事裏もすぐあとを追って引きあげたが、立ちがけに荒田老の肩(かた)を軽くたたきながら、冗談(じょうだん)まじりに言った。
「どうぞごゆっくり、私はお先に失礼します。あとは塾長まかせですが、塾長に何かまちがったことがありましたら、お叱(しか)りは私がうけますから、よろしく願いますよ。」
 荒田老は、それに対してはうんともすんとも答えず、腕を組んで木像のようにすわっているきりだった。
 そのあと、玄関で、塾長と理事長との間に小声でつぎのような問答がかわされたのを、次郎はきいた。
「行事はいつもの通りにすすめていくつもりです。」
「むろん。」
「さけ得られる摩擦(まさつ)はなるだけさけたいと思っていますが……。」
「そう。それはできるだけ。……しかし、それも塾の方針があいまいにならない程度でないと……」
「それは、いうまでもありません。」
 やがて午後の懇談会の時刻になった。合い図はすべて、事務室の前につるした板木(ばんぎ)――寺院などでよく見るような――を鳴らすことになっていたが、次郎がその前に立って木槌(きづち)をふるおうとしていると、荒田老の例の付き添いの男――鈴田(すずた)という姓(せい)だった――が、塾長室から急いで出て来てたずねた。
「懇談会はどこでやるんです。」
「さっき食事をした畳敷きの広間です。」
「あ、そう。」
 と、鈴田はすぐに塾長室に引きかえした。そして、次郎がまだ板木を打っている間に、荒田老の手を引いて広間にはいって行った。
 次郎が板木を鳴らしおわって広間にはいったときには、荒田老はもう窓ぎわに、鈴田とならんでどっしりとすわりこんでいた。次郎が床(とこ)の間(ま)のほうを指さして、
「どうぞこちらに。」
 というと、鈴田はだまって手を横にふり、ただ眼だけをぎらぎら光らした。
 やがて朝倉夫人が炊事場のほうから手をふきふきやって来て、しも手の入り口から中にはいった。ほとんど同時に、朝倉先生もかみ手のほうの入り口からはいって来た。
 二人は代わる代わる荒田老に上座(かみざ)になおってもらうようにすすめた。しかし老は、黒眼鏡を真正面に向けたまま黙々としてすわっており、鈴田は眼をぎらつかせて手を横にふるだけだった。
 塾生はそれまでにまだ一名も集まっていなかった。それからおおかた五分近くもたって、やっと四十数名のものが顔をそろえたが、しかしみんなしも座のほうに窮屈(きゅうくつ)そうにかたまって、じろじろと荒田老のほうを見ているだけである。
「いやにちぢこまっているね。そんなふうに一ところにかたまらないで、もっとのんびり室をつかったらどうだ。」
 床の間を背にしてすわっていた朝倉先生が笑いながら言った。夫人は先生の右がわに少し斜(なな)め向きにすわっていたが、しきりに塾生たちを手招きした。
 塾生たちは、それでやっと立ちあがり、前のほうに進んで来るには来たが、しかし、今度おちついた時には、講演でもきく時のように、みんな正面を向いてすわっていた。しかも、朝倉先生との間には、まだ畳二枚ほどの距離(きょり)があった。
「これから懇談会をやるはずだったね。そうではなかったのかい。」
 朝倉先生が一番まえの塾生にたずねた。
「はあ。」
 と、たずねられた塾生は、何かにまごついたように、隣(とな)りの塾生の顔をのぞいた。
「これでは、しかし、懇談ができそうにもないね。一たい君らは、村の青年団で懇談会をやる時にも、こんな格好(かっこう)に集まるのかね。」
 みんながおたがいに顔を見合わせた。
「懇談会なら懇談会のように、もっと自然な形に集まったらどうだ。塾長と塾生とが川をへだてて相対峙(あいたいじ)しているような格好では、懇談できない。第一、これでは君らお互(たが)いの間の話し合いに不便だろう。そんなわかりきったことにまで一々世話をやかせるようでは心細いね。」
 そこでみんなは、まごつきながらも、もう一度立ちあがって、どうなり円座(えんざ)の形にすわりなおした。しかしまだ十分ではない。不必要に重なりあって、顔の見えない塾生もある。
 すると、先生の左がわにすわっていた次郎が言った。
「だいじょうぶ暴風のおそれはありませんから、そう避難(ひなん)しないでください。」
 とうとうみんな笑い出した。笑っているうちに、円座らしい円座がやっとできあがった。
 そんなさわぎの中で、荒田老はやはり眉(まゆ)一つ動かさないですわっており、鈴田はあからさまな冷笑をうかべて、みんなを見まもっていた。
 座がおちつくのを待って、朝倉先生がおもむろに話し出した。
「けさ式場で、ここの共同生活の根本になることだけはだいたい話しておいたが、これまで諸君がうけて来た団体訓練とはかなりゆきかたがちがっているのではないかと思うし、自然腑(ふ)におちなかった点も多かろうと思うので、懇談にはいるまえに、念のため、もう少しくだいて私の気持ちを話しておきたいと思う。」
 次郎は荒田老の顔の動きに注意を怠(おこた)らなかった。黒眼鏡がかすかに動いて、朝倉先生の声のするほうに向きをかえたように思われた。
「私はまず諸君にこの場所を絶海(ぜっかい)の孤島(ことう)だと思ってもらいたい。偶然(ぐうぜん)にも諸君は時を同じゅうしてこの孤島に漂流(ひょうりゅう)して来た。私もむろん諸君と同様、漂流者の一人である。これまではおたがいに名も顔も知らなかったものばかりであるが、運命は、この孤島の中で、おたがいをいっしょにした。まずそう心得てもらいたい。――
「さて、そう心得ると、おたがいに知らん顔はできないはずである。それどころか、一人ぽっちでなくて、まあよかった、と胸をなでおろし、さっそく言葉だけでもかわしてみたくなるのが自然であろう。多人数の中には、一目見たばかりでいやな奴(やつ)だと思うような相手があるかもしれないが、それでも、絶海の孤島でこれから毎日顔をあわせるように運命づけられた相手だと思えば、好んでけんかをする気にはなれないだろう。できれば表面だけでも仲よく暮(く)らしたいと思うにちがいない。それが自然の人情である。憎(にく)みあうのも自然の人情の一種にはちがいないが、しかし、仲よく暮らすのと憎みあって暮らすのと、どちらがほんとうの人情に合するかというと、それはいうまでもなく前者である。というのは、憎みあって暮らすより、仲よく暮らすほうが愉快(ゆかい)だからである。人情の中の人情、つまりいっさいの人情の基礎をなすものは、愉快になりたいと願う心である。だれも不愉快になりたいと願うものはあるまい。憎みあうのが一種の人情だというのも、もとをただせば、相手が自分を不愉快にする原因になっているからだと思うが、しかし憎みあうことのために、決しておたがいが愉快にならないばかりか、かえっていっそう不愉快さを増すことが明らかである以上、憎みあうのは、いわばとまどいをしている人情で、ほんとうの人情だとはいえないわけである。――
「そこで、まず第一に私が諸君にお願いしたいのは、このほんとうの人情、だれもがまちがいなくめいめいの胸に抱(いだ)いているこの人情を存分に生かしあいたいということである。宗教・道徳・哲学(てつがく)などの理論を持ち出してやかましいことをいえば、いろいろいうこともあるだろうが、愉快になりたいのがおたがいの偽(いつわ)らない人情であり、そしてそのためにおたがいに仲よく暮らしたいというのも人情であるならば、ひとまずやかましい理屈(りくつ)はぬきにして、その人情を生かしあうことに、ここの共同生活の出発点を定めてもいいのではあるまいかと思う。」
 次郎は、これまで、いくたびとなく朝倉先生の話をきいて来たが、今日の表現は全く新しいと思った。塾生を「絶海の孤島の漂流者」に見たてたのもはじめてのことだったし、だれにも納得(なっとく)のいく「人情」に出発して塾の生活を説明しようとしたのも、これまでに例のないことだったのである。かれは先生の言葉にきき入って、いつの間にか荒田老の顔から眼をそらしていた。
 先生は、その澄んだ眼をとじたり開いたりしながら、考え考え、話をすすめていった。
「ところで、一口に仲よくするといっても、仲のよさにも、種類があり、深浅(しんせん)の差がある。そして、どうかすると、仲のよいままに、みんなが堕落(だらく)するということがないとも限らない。みんなが堕落するというのは、実はみんながおたがいに人間を殺しあっているからで、それでは真の意味で仲がよいとはいえない。しかも、そうした仲のよさは決してながつづきするものではない。ほんのちょっとしたはずみで冷たくなってしまうか、あるいははなはだしいのになると、仇同士(かたきどうし)のようになってしまうものである。その結果、非常に不愉快になって、愉快になりたいという人情の中の人情もだめになってしまう。――
「そこでたいせつなのは、おたがいに人間を伸(の)ばしあうようにたえず心を使うということでなければならない。これが諸君に対する私の第二のお願いである。伸ばしあうためには、時にはおたがいに気にくわぬことをいいあったり、尻をたたきあったりしなければならないかもしれない。それはちょっと考えると不愉快なことであり、人情にもとることである。しかし、それを忍(しの)ばなければ、ほんとうの意味で仲よくなれないし、したがってほんとうの意味で愉快にもなれない。つまり人情の中の人情が味わえないということになるのである。――
「仲よく戒(いまし)めあい、仲よく尻をたたきあうということは、決してなまやさしいことではない。それをうまくやっていくには、随分(ずいぶん)とおたがいの心が深まらなければならないのである。ところで、心が深まるためには、やはりおたがいに戒めあい、尻をたたきあわなければならない。それは最初のうちは愉快でないかもしれないが、しかし、ある程度辛抱(しんぼう)してやっていくうちには、かえってそういうことに大きな喜びを感ずるようになるものである。それは心が深まるからである。そしてそうなると、人間が加速度的に伸びていくし、喜びもそれに伴(ともな)っていよいよ大きく、高く、深くなっていくものである。――
「さて、第三にお願いしたいのは、おたがいの生活に組織を与(あた)えるための工夫をこらしてもらいたいということである。それは、むろん、ここの共同生活の体裁(ていさい)をととのえるために必要なのではない。組織のための組織を作るような弊(へい)におちいってならないことは、いうまでもない。おたがいが仲よく人間を伸ばしあうのに最も都合のよい組織を作りあげたいのである。――
「ところで、さっきも言ったとおり、おたがいは、今日ここに漂流して来て、偶然いっしょになったばかりなのだから、どんな組織を作るかということについて、たよりになるような社会伝統というものが全くない。また、過去におたがいと同じような事情のもとに、ここで共同生活を営んだ人たちがあったとしても、その組織がどんなものであったかは、今は全く不明である。要するに伝統は何一つない。すべてはこれからはじまるのである。もっとも、こうした建物があり、森があり、畑があるからには、さがせば過去の漂流者たちが営んだ共同生活の姿をしのぶ材料がいくらかはあるかもしれない。しかし、法律・制度・規則・命令といった種類のものは、何一つ残されてはいない。諸君は私の口からそれを聞きたいと思っているかもしれないが、私もまた今日漂流して来たばかりの人間なのだから、それを知っていよう道理がない。あるいは諸君の中には、私にそうしたものを作ってもらいたいと考えているものがあるかもしれない。しかし、私はただ諸君よりいくらか年をとっているというだけで、この島の生活について無経験であるという点では、諸君と少しも変わるところがない。その点では諸君の先輩(せんぱい)だとさえいえないのだから、まして諸君の指導者でもなければ、命令者でもない。そういうことを私に期待していては、ここの生活は成り立つ見込(みこ)みがない。すべては、諸君自身の努力にかかっているのである。――」
 次郎は、いつもなら、朝倉先生がこの大事な一点にふれると、塾生たちのそれに対する反応を見ようとして、いそがしく眼をうごかすところだった。しかし、その時、かれの視線は、かれ自身でも気づかないうちに、荒田老のほうに引きつけられていた。ところで、かれにとって全く意外だったのは、荒田老がその時めずらしく、その木像のような姿勢をくずし、両手を口にあてて大きなあくびをしたことであった。かれが荒田老に予期していたものは、よかれあしかれ、もっと真剣(しんけん)な表情か、さもなくば全くの無表情だったのである。
 かれは思わず歯をくいしばった。朝倉先生は、しかし、相変わらずしずかに話をつづけるのだった。
「かように、何一つ伝統もなければ、一人の指導者もいないところでは、おたがいがめいめいの知恵をしぼり、その協力によって組織を作りあげていくよりしかたがない。そこで、これからのここの生活にとって非常に大切なのは創造の精神である。諸君の中には、これまで、伝統や規則や、特定の人の指揮(しき)命令に従って行動するようにのみ訓練され、共同生活訓練といえば、だいたいそうした訓練だと心得ている者があるかもしれないが、ここでの生活はそれとは全くちがわなければならない。全くと言っては少し言いすぎるかもしれないが、ともかくも、まずめいめいに自分で考え、自分で判断し、その考えなり判断なりをおたがいに持ちよって、それを取捨(しゅしゃ)し、選択(せんたく)し、総合して行くのでなければならない。共同生活にとって、遵奉(じゅんぽう)とか服従とかいうことのたいせつなことはいうまでもないが、ここでは守るべき法も、従うべき権威(けんい)もまだできていないのだから、もしそれが必要なら、まずおたがいの努力によってそれを創(つく)りあげていかなければならないのである。伝統や、すでにできあがっている規則や、だれかの指揮命令で動くように慣らされた人にとっては、随分勝手がちがうだろう。何だかたよりないという気がするかもしれない。しかし、たよるべき何ものもない絶海の孤島におたがいが漂流して来たと思えば、それよりほかに道はないわけである。とにかく努力して見ることである。あるいは、中には、――これはまさかとは思うが――組織などなければないでいい、強制がなくてそのほうがかえって気楽だ、と考えているものがあるかもしれない。もし、万一にも、諸君のすべてがそう思っているなら、――いいかえると、それが諸君の精一ぱいの知恵を出しあっての結論なら、私はあながちそれに反対しようとは思わない。何事も経験だから、それではたしておたがいの生活が愉快になるものかどうか、ためして見るのもいいだろう。しかし、常識ある諸君が、まさかそんな乱暴な実験をやるだろうとは、私には信じられない。――
「考えて見ると、おたがいが、今言ったように知恵をしぼりあって、おたがいの共同社会を建設して行くという生活は、ただ従順(じゅうじゅん)に伝統や規則や指揮命令に従って形をととのえていくというような簡単な生活ではない。それだけにむずかしくもあれば、またその途中(とちゅう)で、いろいろのつまずきも経験しなければならないだろう。あるいは、最後までつまずきの連続で終わるかもしれない。しかし、それも結構である。それでもおたがいの人間が伸び、心が深まり、したがってほんとうの意味で仲のいい愉快な生活がひらけていくなら、命令服従の関係で形だけをととのえていく生活よりははるかに有意義である。要するに、ここの生活は、与えられたある型にはまりこむ生活ではない。あくまでも創る生活である。おたがいに仲よく愉快に暮らしたいという共通の人情に出発して、その人情をできるだけ高く深く生かすような共同の組織とその運営のしかたとを、おたがいの頭と胸と行動とで創り出す生活、そしてその創り出すということに喜びを感ずる生活でなければならないのである。――
「そこで、最後に言っておきたいのは、おたがいに結果をいそいで自分を偽(いつわ)るようなことをしてはならないということである。形のととのった共同生活の姿を一刻も早くつくりあげようとしていいかげんに妥協(だきょう)したり、盲従(もうじゅう)したり、あるいは人任せにしたりすることは、厳につつしまなければならない。めいめいが正直に、生き生きと自分の全能力を発揮(はっき)しつつ、矛盾(むじゅん)衝突(しょうとつ)を克服(こくふく)し、それを全体として総合し、統一して行く、そういう過程が何よりもたいせつなのである。過程をいいかげんにして、結果だけをととのえてみたところで、諸君は人間として少しも伸びたとはいえない。たとえ結果はどうであれ、その過程さえまじめにふんで行くならば、それで諸君はたしかに伸びたといえるし、ここの生活は、諸君の将来の生活に対して一つの大きな役割を果たすことになるだろう。とかく世間は、形にあらわれた結果だけを見て、いろいろと批評したがるものだが、諸君は世間のそんな批評などに頓着(とんちゃく)する必要はない。諸君はあくまでも純真に、諸君自身の良心の声にきいて、おたがいを伸ばしあうためにはどうすればいいか、それだけに専念すればいいのだ。――」
 朝倉先生の言葉の調子(ちょうし)には、これまでになく力がこもっていた。次郎は、思わずまた荒田老の顔をのぞいた。荒田老は、しかし、その時には、もういつもの動かない木像の姿にかえっていた。その代わりに、鈴田がいかにも自分の気持ちをおさえかねたかのように、唇(くちびる)をかみ、眼をいからしていた。
「そこで――」
 と、朝倉先生は、調子をやわらげて、
「これからおたがいの生活設計について具体的に話しあいたいと思うが、それには、まず第一におたがいに漂流して来たこの島がどういうところであるか、つまり、おたがいは今どういう環境(かんきょう)におかれているのか、それをみんながはっきり知っておく必要がある。客観的な現実、それを知らないでは、理想も信念もどうにもなるものではないのだから。……で、私は懇談に先だって、まず諸君にこの建物の内外をくまなく探検しておいてもらいたいと思っている。あらましのことはもうわかっているかもしれない。しかし、これからの生活にどこをどう利用し、何をどう使ったらいいか、そういう点まで注意してこまかに見てまわった人は、おそらくまだないだろうと思う。遠慮(えんりょ)はいらない。森や畑はむろんのこと、物置でも、戸棚(とだな)でも、押し入れでも、本箱(ほんばこ)でも、どしどし探検してもらいたい。もっとも、本館の一部に炊事夫(すいじふ)の家族と給仕の私室があり、なお向こうに空林庵(くうりんあん)という別棟(べつむね)の小さな建物があって、そこはここにいる三人の私室になっているので、それだけは除外してもらうことにする。こんな除外例を設けると、絶海の孤島という感じがうすらぐかもしれないが、どうもいたし方がない。」
 朝倉先生は、そう言って笑った。みんなも笑った。笑わなかったのは、荒田老と鈴田の二人だけだった。
 次郎が勢いよく立ちあがっていった。
「では、約一時間たったら、また板木(ばんぎ)を鳴らしますから、ここに集まって下さい。それまでは自由に探検を願います。」
 塾生たちは、面くらったような、しかしいかにも愉快そうな顔をして、いくぶんはしゃぎながら、どやどやと室を出て行った。
 塾生たちがまだ出おわらないうちに、朝倉先生が荒田老に近づいて行って、言った。
「長い時間おききいただいて、あうがとうごさいました。しばらくあちらでお休みくださいませんか。」
「いや、もうたくさん。」
 荒市老はぶっきらぼうに答えた。そして、
「鈴田、もう用はすんだ。帰ろう。」
 と腕組みをしたまま、すっくと立ちあがった。黒眼鏡は真正面を向いたままである。
 鈴田はすぐ荒田老の手をひいて歩き出したが、その眼は軽蔑(けいべつ)するように朝倉先生の顔を見ていた。
「もうお帰りですか。どうも失礼いたしました。」
 と、朝倉先生は、べつに引きとめもせす、二人を見おくって出た。朝倉夫人と次郎とは、眼を見あいながら、そのあとにつづいた。
 荒田老は、それから、玄関口まで一言も口をきかなかったが、自動車に乗るまえに、だしぬけにうしろをふりかえって言った。
「塾長さん、あんたは毎日、新聞は見ておられるかな。」
「はあ、見ております。」
「時勢はどんどん変わっておりますぞ。」
「はあ。」
「自由主義では、日本はどうにもなりませんな。」
「はあ。」
「どうか、命令一下(いっか)、いつでも死ねるような青年を育ててもらいたいものですな。」
「はあ。」
 自動車が出ると、朝倉先生は夫人と次郎とをかえりみ、黙(だま)って微笑した。
 次郎は、それ以来、荒田老の顔を見ていない。このまえの閉塾式には、案内を出したにもかかわらず、顔を見せなかったのである。田沼理事長に対して、老がその後どんなことをいい、どんな態度に出ているか、それは朝倉先生にはきっとわかっているはずだが、先生は、次郎にはもとより、夫人に対しても、そのことについて何も語ろうとはしない。ただときどき、何かにつけて、
「われわれの仕事も、これからがいよいよむずかしくなって来る。しかし、そうだからこそ、こうした性質の塾が、いよいよたいせつになるわけだ。」
 といった意味のことを言うだけである。次郎にしてみると、発生が荒田老のことにふれまいとすればするほど、かえって大きな不安を感じ、第十回の開塾式が近づくにつれ、その顔を思い出すことが多くなって来たわけなのである。

 かれの眼の底から荒田老の顔が消えると、それに代わって浮(う)かんで来るもう一つの顔があった。それは道江(みちえ)の顔であった。
 兄の恭一(きょういち)は、現在東大文学部の三年に籍(せき)をおいている。道江は、女学校卒業後、しきりに女子大入学を希望していたが、何かの都合でそれが実現できなかったらしい。次郎にとっては、むろんそれは不幸なことではなかった。かれは、上京後、日がたつにつれ、いくらかずつ過去の記憶(きおく)からのがれることができ、三年以上もたったこのごろでは、恭一にあっても、はじめのころほどかれと道江とを結びつけて考えることもなく、時には、まるで道江のことなど忘れてしまって、愉快にかれと語りあうことができるまでになっていたのである。
 ところが、つい二週間ほどまえ、ちょうど第十回の塾生募集をしめ切ったその日に、道江本人から、かれあてに、全く思いがけない手紙が来た。それには、かれが上京以来三年以上もの間、一度も彼女(かのじょ)に手紙を出さなかったことに対して、冗談(じょうだん)まじりに軽い不平がのべてあり、そのあとに、つぎのような文句が書いてあった。
「近いうちに、父が用事で上京することになりましたので、私もその機会に、見物かたがたつれて行ってもらうことにしました。宿や何かのことは、何もかも恭一さんにおねがいしてありますから、ご安心ください。まだ日取りは、はっきりしません。ついたらすぐお知らせします。お迎(むか)えは恭一さんに出ていただきますから、これもご安心ください。いずれお会いした上で、手紙で言い足りない不平を思いきりならべるつもりでいます。」
 次郎は、この文句を通じて、道江のかれに対して抱(いだ)いている感情が普通(ふつう)の友だち以上のものでないことを、はっきり宣告され、同時に彼女と恭一との関係が、過去三年の間にどんな進展を見せているかを暗々裡(あんあんり)に通告されたような気がして、それを読み終わった瞬間(しゅんかん)、頭がかっとなった。しかし、すぐそのあとにかれの心をおそったものは、めいるようなさびしさであり、虚無的(きょむてき)な自嘲(じちょう)であった。そして、それ以来、これまでほとんど忘れていたようになっていた道江の顔が、しばしば彼の眼底に出没(しゅつぼつ)するようになり、時としては、荒田老の怪寄な顔を押しのけることさえあったのである。

 広間の窓わくによりかかって眼をつぶったかれは、しかし、二つの顔が代わる代わるその眼底に出没するのに心をまかせていたわけでは、むろんなかった。開塾式を明日にひかえた今、何といっても、かれにとっての最大の関心事は、塾堂生活のことであり、朝倉先生夫妻の助手としてのかれの任務を手落ちなく遂行(すいこう)することであった。だから、かれは、これまでにもいくたびとなく反省して来た過去の塾堂生活の体験を、あらためて反省しなおして、新しい工夫(くふう)をこらすことに専念したかったのである。だが、そうであればあるほど、荒田老の怪奇な顔がかれの顔にのしかかり、道江のあざ笑うような顔がかれの胸をかきみだすのであった。
「ふうっ。」
 と、かれは大きな息をして眼をひらいた。そして、さっきとじこんだ塾生名簿の一つをとりあげ、無意識にそれをめくっていった。塾生がはいって来るまえに、その名前と経歴とをすっかり覚えこんでおこうとする、いつものかれの習慣が、そうさせたのである。しかし、かれの眼にうつったのは、塾生の名前や経歴ではなくて、やはり荒田老の顔であり、道江の顔であった。
 かれは名簿をなげすて、もう一度ふかい息をして、床の間のほうに眼を転じたが、そこには、「平常心」と大書(たいしょ)した掛軸(かけじく)が、全く別の世界のもののように、しずかに明るくたれていた。

   三 大河無門・平木中佐

 昼近くになっても、次郎は広間を出なかった。陽(ひ)を背にして窓によりかかったままぼんやり塾生名簿(じゅくせいめいぼ)を見たり、眼(め)をつぶったり、床(とこ)の間(ま)の掛軸をながめたりして、落ちつかない気持ちを始末しかねていたのである。
「あら、次郎さん、朝からずっとこちらにいらしたの?」
 和服の上に割烹着(かっぽうぎ)をひっかけた朝倉夫人が廊下の窓から顔をのぞかせ、不審(ふしん)そうにそう言ったが、
「ご飯はこちらでいただきましょうね。そのほうがあたたかくってよさそうだわ。じゃあ、すぐはこびますから、先生をお呼びして来てちょうだい。」
 と、すぐ顔をひっこめた。
 次郎は返事をするひまがなかった。というよりも、変にあわてていた。かれはいきなり立ちあがって、部屋の片隅(かたすみ)につみ重ねてあった細長い食卓(しょくたく)の一つを、陽あたりのいい窓ぎわにおくと、走るようにして空林庵(くうりんあん)に朝倉先生をむかえに行った。
 二人が広間にはいって来た時には、朝倉夫人は、もう食卓のそばにすわっていた。
「今日はどんぶりのご飯でがまんしていただきますわ。でも、中身はいつもよりごちそうのつもりですの。」
「そうか。」
 と、朝倉先生は、どんぶりのふたをとりながら、
「よう、鰻(うなぎ)どんぶりじゃないか。えらく奮発(ふんぱつ)したね。」
「三人だけでご飯をいただくの、当分はこれでおしまいでしょう。ですから――」
「なあんだ、そんな意味か。そうだとすると、せっかくのごちそうだが、少々気がつまるね。」
「どうしてですの。」
「女にとっては、やはり小さな家庭の空気だけが、ほんとうの魅力(みりょく)らしい。そうではないかな。」
「あら、あたし、つい女の地金(じがね)を出してしまいましたかしら。自分では、もうそれほどではないと思っていますけれど。」
「ふ、ふ、ふ。私もそれほど深い意味でいったわけでもないんだ。」
 朝倉先生はそう言って笑ったが、すぐ真顔(まがお)になり、床の間の「平常心」の軸にちょっと眼をやった。そして、箸(はし)を動かしながら、しばらく何か考えるようなふうだったが、
「むずかしいもんだね。今度でもう十回目だが、私自身でも、いざ新しく塾生を迎(むか)えるとなると、やはりちょっと悲壮(ひそう)な気持ちになるよ。」
 次郎は先生の横顔に眼をすえた。すると、先生はまた、じょうだんめかして、
「やはり、うなどんぐらいの壮行会には値(あたい)するかね。はっはっはっ。」
 それで夫人も笑いだした。しかし次郎は笑わなかった。先生はちらっと次郎の顔を見たあと、
「しかし、うなどんぐらいでごまかせる悲壮感でも、ないよりはまだましかもしれない。元来愛の実践(じっせん)は甘(あま)いものではないんだからね。愛が深ければ深いほど、そして愛の対象が大きければ大きいほど、その実践には、きびしい犠牲(ぎせい)を覚悟(かくご)しなけりゃならん。十字架(じゅうじか)がそれを証明しているんだ。だから、悲壮感は決して恥(はじ)ではない。むしろ悲壮感のない生活が恥なんだ。」
「すると、平常心というのは、どういうことになるんです。」
 次郎がなじるようにたずねた。
「悲壮感をのりこえた心の状態だろう。」
「のりこえたら、悲壮感はなくなるんじゃないですか。」
「そうかね。」
 と、先生は微笑(びしょう)して、
「金持ちが金をのりこえる。必ずしも貧乏(びんぼう)になることではないだろう。」
「ほんとうにのりこえたら、貧乏になるのがあたりまえじゃないですか。」
「じゃあ、知識の場合はどうだ。学者が知識をのりこえる。それは無知になることかね。」
 次郎は小首をかしげた。朝倉先生は、箸をやすめ、夫人に注(つ)いでもらった茶を一口のんでから、
「水泳の達人(たつじん)は、自由に水の中を泳ぎまわる。水はその人にとって決して邪魔(じゃま)ではない。それどころか……」
「わかりました。」
 次郎はきっぱり答えた。しかし、それがいつもそうした場合に二人に見せる晴れやかな表情はどこにも見られなかった。かれはむしろ苦しそうだった。おこっているのではないかとさえ思われた。
「今日は、次郎さんはどうかなすっているんじゃない?」
 朝倉夫人が、不安な気持ちを笑顔(えがお)につつんでたずねた。次郎がむっつりしていると、今度は朝倉先生が、
「やはり悲壮感かな。それにしても、いつもとはちがいすぎるようだね。そろそろ塾生も集まるころだが、何か気になることがあるんだったら、その前にきいておこうじゃないか。」
 次郎はちょっと眼をふせた。が、すぐ思いきったように、
「荒田さんは、このごろどうしていられるんですか。」
 かれの心には、むろんこの場合にも道江(みちえ)のことがひっかかっていた。むしろそのほうが荒田老以上に彼(かれ)をなやましていたともいえるのだった。しかしそれは口に出していえることではなかったのである。
 朝倉先生は、ちょっと眼を光らせて次郎の顔を見つめたが、すぐ笑顔になり、
「なあんだ。荒田さんのことがそんなに気になっていたのか。なるほど、あれっきり、こちらには見えないようだね。しかし、大したこともないだろう。何かあったところで、うなどんで壮行会(そうこうかい)をしてもらったんだから、だいじょうぶだよ。はっはっはっ。」
 朝倉先生は、いつになくわざとらしい高笑いをして箸をおいた。そして、茶をのみおわると、ふいと立ちあがり、そのまま空林庵のほうに行ってしまった。
 次郎は、むろん、にこりともしなかったし、朝倉夫人も今度は笑わなかった。二人はかなりながいこと眼を見あったあと、やっと食卓のあと始末にかかったが、どちらからも、ほとんど口をきかなかった。
 食卓がかたづくと、次郎はすぐ玄関(げんかん)に行って、受付の用意をはじめた。用意といっても、小卓を二つほどならべ、その一つに、塾生に渡(わた)す印刷物を整理しておくだけであった。
 朝倉夫人も、間もなく和服を洋服に着かえて玄関にやって来た。洋服は黒のワン・ピースだったが、それを着た夫人のすがたはすらりとして気品があり、年も四つ五つ若く見えた。夫人は、受付をする次郎のそばに立って、塾生に印刷物を渡す役割を引きうけることになっていたのである。
 二時近くになると、ぼつぼつ、塾生が集まり出した。リュック・サックを負うたものもあり、入塾のためにわざわざ買い求めたとしか思えないような真新(まあたら)しい革(かわ)のトランクをぶらさげているものもあった。たいていは、カーキ色の青年団服だったが、中に四五名背広姿がまじっており、それらは比較的年かさの青年たちだった。
 どの顔もひどくつかれて、不安そうに見えた。これは、毎回のことで、決してめずらしいことではなかった。入塾生の大部分は、東京の土をふむのがはじめてであり、それに一人旅が多い。募集要項(ぼしゅうようこう)の末尾(まつび)に印刷されている道順だけをたよりに、東京駅や、上野駅や、新宿駅の雑踏(ざっとう)をぬけ、池袋(いけぶくろ)から私鉄にのりかえて、ここまでたどりつくのは、かれらにとって、なみたいていの気苦労ではなかったのである。
 次郎は、青年たちのそうした顔が見えだすと、もう荒田老や道江の顔など思い出しているひまがなかった。かれは、かれらがまだ玄関に足をふみ入れないうちに、何かと歓迎(かんげい)の気持ちをあらわすような言葉をかけた。そして、かれらの名前をきき、それを名簿とてらしあわせて、到着(とうちゃく)のしるしをつけおわると、すぐかれらに朝倉夫人を紹介(しょうかい)した。
「この方は、塾長(じゅくちょう)先生の奥さんです。期間中は、あなた方のお母さん代わりをしていただく方なんです。」
 それをいう時のかれの顔はいかにも晴れやかで、得意そうだった。朝倉夫人は、
「よくいらっしゃいました。おつかれでしょう。」
 と印刷物を渡しながら、ひとりひとりに笑顔を見せるのだったが、青年たちのつかれた顔は、夫人の聡明(そうめい)で愛情にみちた眼に出っくわすと、おどろきとも喜びともつかぬ表情で急に生き生きとなるのだった。次郎にとっては、青年たちのそうした表情の変化を見るのが、受付をする時の一つの大きな楽しみになっていたのである。
 到着は午後四時までとなっていたが、その時刻までに、予定されていただけの顔が、全部異状なくそろった。みんなは、ひとまず広間に待たされ、受付が全部おわったところで各室に割りあてられた。総員四十八名、一室六名ずつの八室でちょうどであった。
 朝倉夫人と次郎とは、みんなを各室におちつけてしまうと、事務室のストーヴにあたりながら、あらためて塾生名簿に眼をとおした。これは二人のいつもの習慣で、めいめいに、受付の際に自分の印象に残った青年たちの顔を、その中からさがすためであった。
「次郎さんは、もう幾人(いくにん)ぐらいお覚えになって?」
「さあ、十四五人ぐらいでしょうか。」
「もうそんなに? あたし、まだやっと五六名。」
「今度は、特徴(とくちょう)のある顔が割合多いようですね。」
「そうかしら。あたし、そんなにも思いませんけれど。」
「こうして名簿を見ていますと、覚えやすいのは、比較的年上の人のようですね。やはり、年を食っただけ特徴がはっきりして来るんでしょうか。」
「それだけ垢(あか)がたまっているのかも知れませんわ。ほほほ。……だけど、ほんとうね。あたしが覚えているのも、たいていは年上の人だわ。大河さんっていう方もそうだし……」
 すると、次郎は、急に名簿から眼をはなして、夫人の顔を見つめながら、
「その人、すぐ目につきましたか。」
「ええ、ええ、一目で覚えてしまいましたわ。名前からして、禅(ぜん)の坊(ぼう)さんみたいで、変わっていたからでもありましょうけれど。」
「その人ですよ。ほら、こないだ先生からお話があったのは。」
「はああ、あの、京都大学で哲学(てつがく)をおやりになって、今、中学校の先生をしていらっしゃるって方?」
「ええ、そうです。」
 二人はあらためて名簿を見た。名簿には、それぞれの欄(らん)に、「大河無門、二十七歳(さい)、千葉県、小学校代用教員、中学卒」と記入してあり、備考欄には、「青年団生活には直接の経験なきも興味を有す」と何だかあいまいなことが書いてあった。
「これは本人から書いて来たとおりなんです。先生もそれでいいだろうとおっしゃったものですから。」
 次郎はそう言って笑った。むろんこれには事情があったのである。
 実は、大河無門は、一昨年の春京都大学の哲学科を出ると、すぐ母校である千葉県の中学校に奉職(ほうしょく)したが、もともと、いわゆる教壇的(きょうだんてき)教育には大した興味も覚えず、もっと実生活にまみれた教育をやって見たいという希望を、たえず持ちつづけていた。そのうちに、たまたま友愛塾のことをききこみ、幸い任地から一日で往復できる距離(きょり)でもあったので、ある日曜――それは一か月ばかりまえのことだったが――わざわざ朝倉先生をたずねて来て、塾長室で二人っきりで一時間あまりも話しこんだあと、すぐその場で入塾を決意し、その希望を申し出たのであった。
 もし現職のままでは入塾ができないとすれば、すぐ辞表を出してもいいとさえかれは言ったのである。
 朝倉先生は、話しているうちに、かれの決意がなみなみならぬものであるのを見てとった。同時にかれの人物に一種の重量感を覚えた。その重量感は、決してかれの言葉つきや態度から来るものではなかった。そうした表面にあらわれる言動の点では、かれはむしろ率直(そっちょく)にすぎ、どこやらにおかしみさえ感じられるほどであった。しかし、それにもかかわらず、かれの人がら全体には、何とはなしに、どっしりしたものが感じられたのである。朝倉先生は、それを大河の人間愛の深さや思索(しさく)の深さがそのまま実践力の強さになっているからであろう、というふうに判断したのだった。
 しかし、先生は大河の人物に重量感を覚えれば覚えるほど、かれの入塾について、答えをしぶった。それは、自分の過去の経験から、かれのような人物をながく中等教育にとどめておきたいという気持ちからでもあったが、それよりも当面の問題として、かれを友愛塾の塾生としてむかえることに、ある不安が感じられたからであった。すべての点で一般(いっぱん)の青年とはあまりにもへだたりのある人物が、指導者としてならとにかく、一塾生としてはいって来るということが、塾の性質上、はたしていいことかどうか。みんなが、貧しいながらも、それぞれの創意と工夫とをささげあって、集団の意志をねりあげ、共同の生活をもりあげていこうという、この塾の第一の眼目(がんもく)が、光りすぎた一人物の圧倒的(あっとうてき)な影響力(えいきょうりょく)によって、自然にくずれてしまうのではあるまいか。そうしたことが気づかわれたのである、
 で、先生は最初、大河につぎのような意味のことを答えた。
「君のような人に、この塾の生活を十分理解してもらうということは、学校教育にも何かきっとプラスになることだと信ずるし、その意味で、むろん私としては、大いに歓迎(かんげい)したい。しかし普通(ふつう)の塾生として来てもらうには、君はもうあまりにレベルが高すぎる。こちらとしては取り扱(あつか)いにも困るし、君としても物足りない気持ちがするだろう。で、学校の手すきの時に、おりおり見学といったようなことでやって来てはどうか。ここには君よりも三つ四つ年の若い助手が一名いるが、その助手に協力するといった立場で、見学してもらえば好都合だと思うのだが。」
 大河は、しかし、そのすすめには全然応ずる気がなかった。かれは言った。
「僕(ぼく)はこれからの僕の教育生活の方向転換(てんかん)をする決心でお願いしているんです。そのためには、見学というような、なまぬるい立場では、どうしても満足できません。青年たちが共同生活をやって行く時の心の動きを、よかれあしかれ、その生活の内部からつかんでみたいんです。また、僕自身でも、青年たちと同じ条件で、その体験をみっちりなめてみたいんです。塾の根本方針は、お話で十分わかりましたし、むろん、出しゃばってリーダーシップをとったりするようなことは、絶対にいたしません。僕の学歴や職業が、ほかの塾生たちに何かの先入観を与(あた)えるというご心配がありましたら、ごまかしては悪いかもしれませんが、履歴書(りれきしょ)には何とか適当に書いておくつもりです。青年団生活にはまるで無経験ですし、ついでにそういうことも書きこんでおけば、青年たちに買いかぶられる心配もないだろうと思います。」
 朝倉先生も、そうまで言われると、むげに拒(こば)むわけにはいかなかった。現職をなげうっても、というかれの決意には、冒険(ぼうけん)だという気がしないでもなかったが、一方では、かれほどの人物であれば、将来はまた何とでもなるだろう、という気もして、ついにその希望をいれてやることにしたのであった。
「やっぱり、ねえ。」
 と、朝倉夫人は、いかにも何かに感動したように、名簿から眼をはなし、
「ほかの方たちとは、どこかにまるで感じのちがったところがありましたわ。」
「ぼく、名前がわかっていましたので、とくべつ注意していたんですが、あれですいぶんこまかいことに気のつく人のようですね。」
「そう? 何かありまして?」
「メモ用の紙が一枚、机の足のところにおちていたのを、来るとすぐひろいあげて、ぼくに渡(わた)してくれたんです。」
「そう? あたし、気がつかなかったわ。」
「その時の様子が、ちっともわざとらしくないんです。自分ではそんなことをしているのをまるで意識していないんじゃないかと思われるほど無表情だったんです。ぼく、それでよけい印象に残りました。」
 朝倉夫人は、何度もうなずきながら、
「どうも、そんなたちの人らしいわね。白鳥会でいうと、大沢(おおさわ)さんみたいな人ではないかしら。」
「どこかに共通したところがあるかもしれませんね。見た感じは、たしかに似ていますよ。」
「だけど、――」
 と、朝倉夫人はしばらく考えてから、
「大沢さんのまじめさとは、ちょっとちがったところがあるようにも思えるわ。もっと自然なまじめさ、といったものが感じられるんではありません?」
「自然なまじめさ――」
 次郎は口の中で夫人の言葉をくりかえした。
「こんなふうに言いますと、大沢さんのまじめさは不自然だということになりそうですけれど、それは悪い意味で言っているのじゃありませんの。ただ、大沢さんのまじめさには、いつも意志がはっきり出ていますわね。いい意味の政治性と言いますか、それが人がら全体にはっきり出ていて、無意識にものを言ったり、したりすることなんか、めったにないでしょう。」
「なるほど、そう言われると、大河という人には、政治性といったものがまるでなさそうに思えますね。」
 二人は、その時めいめいに、背のひくい、肩(かた)はばの広い、頬(ほお)ひげを剃(そ)ったあとの真青(まっさお)な、五分刈(が)りの、そして度の強い近眼鏡をかけた丸顔の男が、のっそりと玄関にはいって来たときの光景を思いうかべていた。かれは黒の背広に黒の外套(がいとう)を重ねていたが、まず肩にかけていた雑嚢(ざつのう)をはずし、それからゆっくりと外套をぬいで、ていねいに頭をさげ、次郎に向かって、いくぶんさびのある、ひくい、しかし底力(そこじから)のこもった声で、「千葉県の大河無門ですが」と言い、それから次郎にわたされた塾生名簿をすぐその場でひらいて、自分の名前のところを念入りに見たあと、紹介(しょうかい)された朝倉夫人のほうにおもむろに眼を転じたのであった。
「白鳥会の仲間にも、これまでの塾生にも、あんな型の人はひとりもいなかったようですが、その点から言って、今度の塾生活には、とくべつの意味がありそうで、愉快(ゆかい)ですね。」
「そう。やっぱり一人でも変わった目ぼしい人がいると、それだけ楽しみですわね。……もっとも、そんなことに大きな期待をかけるのは、平凡人(へいぼんじん)の共同生活をねらいにしているこの塾では邪道(じゃどう)だって、先生にはいつも叱(しか)られていますけれど。」
「しかし、先生だって、塾生の粒(つぶ)があまり思わしくないと、やはりさびしそうですよ。」
「それは、何といってもねえ。」
 と、朝倉夫人は微笑した。そして、もう一度名簿をくって、自分の印象に残っているほかの顔をさがしているらしかったが、急に首をふって、
「だけど、こんなこと、いけないことね。受け付けたばかりの印象で、さっそく塾生の品定(しなさだ)めをはじめるなんて。」
 次郎は頭をかいて苦笑した。朝倉夫人はしんみりした調子になり、
「大河さんていう方、無意識に紙ぎれをひろってくだすったとしても、あたしたち、ただその無意識ということだけを問題にしてはいけないと思いますわ。そうなるまでには、どんなに意志をはたらかせ、どんなに苦労をなすったかしれませんものね。」
 次郎は、なぜか顔を赤らめ、眼を膝(ひざ)におとしていた。
 しばらくして玄関に足音がしたが、それは朝倉先生が空林庵(くうりんあん)からもどって来たのだった。
「みんな無事にそろったかね。」
 先生は、事務室をのぞいてそう言うと、そのまま塾長室にはいって行った。二人もすぐそのあとからついて行って、何かと報告した。
 先生は到着のしるしのついた名簿に眼をとおしながら、
「大河も来たんだね。何室にはいったんだい。」
「第五室です。いろんな関係から、それが一番よかりそうに思ったものですから。」
 次郎は、そう言って、室割(へやわ)りを書いた紙を先生に渡した。それには、大河の名を何度も書いたり消したりしたあとがあった。
「大河の室割りには、ずいぶん苦心したらしいね。それほど神経に病(や)むこともなかったんだが。……しかし、まあ、どちらかというと、室長におされたりする可能性の少ないところがいいだろう。」
「ええ、それを考えまして、第五室には、大河より一つ年上で、郡の連合団長をやっている人を割り当てておいたんです。」
「なるほど。」
 朝倉先生は、何かおかしそうな顔をしながら、うなずいた。
 三人は、それから、そろって各室を一巡(いちじゅん)した。朝倉先生は、室ごとに、入り口をはいると、立ったままで無造作(むぞうさ)に言った。
「私、朝倉です。……こちらは私の家内(かない)で、寮母(りょうぼ)といったような仕事をしてもらうんだが、君らに、これから小母(おば)さんとでも呼んでもらえば、よろこぶだろう。……あちらの若い人は、本田君。君らの仲間の一人だと思ってもらえばいい。」
 それから、
「みんな汽車でつかれただろう。今晩は、宿屋にでも泊(と)まったつもりで、のんきにくつろぐんだな。もっとも、郷里にはがきだけはすぐ出しておくがいい。」
 そして、みんなが居(い)ずまいを正し、恐縮(きょうしゅく)しているような顔を、にこにこしながら見まわしたあと、すぐ室を出た。
 その日はそれっきりで、べつに何の行事もなかった。塾生たちは、朝倉夫人や次郎をはじめ、給仕の河瀬や、炊事夫(すいじふ)の並木夫婦(なみきふうふ)に何かと世話をやいてもらって、入浴をしたり、広間に集まって食事をしたり、各室で大火鉢(おおひばち)をかこみながら、各地のおみやげを出しあって茶をのんだりするだけのことだった。就寝(しゅうしん)の時刻についても、十時半になったらきちんと電燈(でんとう)を消すことになっているから、そのつもりで、という注意が与(あた)えられただけだった。何だか塾堂に来ているというより、修学旅行で宿屋に泊まっているという感じのほうが強かった。そして、そうした意味での親愛感なら、各室ごとには、もうたいていできあがってしまっていたのである。
 それでも、いざ就寝という時になって、どの室にもちょっとした混雑(こんざつ)が生じた。というのは、十畳(じょう)の部屋に大火鉢一つと六人分の机とをすえ、そこに六人分の夜具を都合よくのべるのには、かなりの工夫と協力を必要としたからである。
 混雑は申し合わせたように十時ごろからはじまった。それまで、塾生の一人一人に関係したことでは、かゆいところに手がとどくように世話をやいていた朝倉夫人も次郎も、なぜかこの混雑には何の助言も与えず、事務室から、遠目に成り行きを見まもっているといったふうであった。そして、十時半になると、次郎は、予告どおり、一分の遅延(ちえん)もなく廊下(ろうか)のスウィッチをひねり、塾生たちの室の電燈を全部消してしまった。電燈を消されて悲鳴をあげた室も二三あった。
 次郎は、しかし、頓着(とんちゃく)しなかった。かれは電燈を消すまえに、廊下をあるいて、それとなく各室の様子をのぞいてまわったが、どの室よりも早く室員が寝床(ねどこ)についていたのは、第五室であった。そして、大河無門は、その一番はいり口のところに、その大きないが栗頭(ぐりあたま)を横たえ、近眼鏡をかけたまま、しずかに眼をつぶっていたのであった。
 次郎が、それを、その晩の一つの意味深いできごととして、朝倉夫人に報告したことはいうまでもない。
          *
 あくる日は、いよいよ第十回の入塾式だった。二月はじめの武蔵野(むさしの)の寒さはきびしかったが、空は青々と晴れており、地は霜(しも)どけでけぶっていた。
 十時の開式までは、塾生たちはやはり自由に過ごすことになっていた。朝食をすますと、彼等(かれら)は日あたりのいい窓ぎわにかたまって雑談をしたり、事務室におしかけて来て新聞を読んだりしていた。
 八時をすこしすぎたころに、けたたましく事務室の電話のベルが鳴った。次郎が出て見ると、田沼(たぬま)理事長からだった。
「朝倉先生は?」
「塾長室においでです。」
「じゃあ、そちらにつないでくれたまえ。」
 次郎は、何か急用らしいが今ごろになって何事だろうと思いながら、線を塾長室にきりかえた。
 すると、まもなく、塾長室から朝倉先生の声がきれぎれにきこえて来た。
「はあ、なるほど。……それは、むろん、こばむわけにはいきますまい。……ええ、ええ、……承知いたしました。いたし方ないでしょう。……すると、こちらで予定していた来賓(らいひん)祝辞は、……ああ、そうですか。では、時間の都合を見まして適当にやることにいたしましょう。……え? ええ。やはりずいぶん気にやんでいるようです。私からは何も話してはいませんけれど、あれっきり荒田(あらた)さんの顔が見えないので、何かあると思っているんでしょう。はっはっはっ。……ええ。……ええ。……ちょっとむきになるところがありますが、ご心配になるほどのこともありますまい。……ええ、むろん私からも十分注意はしておきます。……はい、では、お待ちしています。」
 電話がすむと、次郎は、すぐ自分から塾長室にはいって行って、たずねた。
「田沼先生は何かおさしつかえではありませんか。」
「いいや、まもなくお見えになるだろう。」
 朝倉先生は、何でもないように答えたあと、次郎の顔を見て微笑(びしょう)しながら、
「今日は、変わった来賓(らいひん)が見えるらしいよ。」
「荒田さん……じゃありませんか。」
「荒田さんもだが、陸軍省からだれか見えるらしい。」
 次郎は、はっとしたように眼を見張り、しばらくおしだまって突(つ)っ立っていたが、
「田沼先生から案内されたんですか。」
 と、いかにも腑(ふ)におちないというような顔をしてたずねた。
「いや、そうではないらしい。荒田さんから、今朝急に、そんな電話が田沼先生のほうにかかって来たらしいんだ。」
 次郎はまただまりこんだ。朝倉先生は、わざと次郎から眼をそらしながら、
「それで、今日の来賓祝辞だが、時間の都合では、その陸軍省の方だけにお願いすることになるかもしれないから、そのつもりでいてくれたまえ。」
「軍人に祝辞をやらせるんですか。」
 次郎はもうかなり興奮していた。
「礼儀(れいぎ)として、私のほうからお願いすべきだろうね。」
「しかし塾の方針と矛盾(むじゅん)するようなことを言うんじゃありませんか。」
「自然そういうことになるかもしれない。しかし、それはしかたがないだろう。」
「先生!」
 と、次郎は一歩朝倉先生のほうに乗り出して、
「先生は、自然そういうことになるかもしれないなんて、のんきなことをおっしゃいますが、ぼくは、それぐらいのことではすまないと思うんです。」
「どうして?」
「これは計画的でしょう。」
「計画的?」
「ええ、荒田さんの卑劣(ひれつ)な計画にちがいないんです。荒田さんは、軍の名で塾の指導精神をぶちこわそうとしているんです。」
 次郎の顔は青ざめていた。朝倉先生は、きびしい眼をして次郎を見つめていたが、
「そんな軽率(けいそつ)なことは言うものではない。」
 と、いきなり、こぶしで卓をたたいて、叱(しか)りつけた。しかし、次郎はひるまなかった。
「軽率ではありません。これはまちがいのないことです。ぼくは断言します。」
「かりにまちがいのないことだとしても、そんなことを言って、何の役にたつんだ。」
「ぼくは、祝辞をやらせるのは絶対にいけないと思うんです。それをやめていただきたいんです。」
「それは不可能だ。」
「こちらからお願いさえしなけりゃあ、いいんでしょう。」
「そういうわけにはいかないよ。陸軍省からわざわざやって来るのに、知らん顔はできない。それではかえって悪い結果になるんだ。」
「すると、おめおめと降伏(こうふく)するんですか。」
 朝倉先生の眼は、いよいよきびしく光り、しばらく沈黙(ちんもく)がつづいた。しかし、そのあと、先生の唇(くちびる)をもれた言葉の調子は、気味わるいほど平静だった。
「本田は、友愛塾の精神が、だれかの祝辞ぐらいで、わけなくくずれてしまうような、そんな弱いものだと思っているのかね。」
 先生の眼には次第(しだい)に微笑さえ浮(う)かんで来た。次郎はこれまでの勢いに似ず、すっかり返事にまごついた。
 すると、先生は、今度は、次郎をふるえあがらせるほどの激(はげ)しい調子で、
「血迷ったことを言うのも、たいていにしたらどうだ。聞き苦しい。」
 次郎は、これまで、朝倉先生に、こんなふうな叱り方をされた記憶(きおく)がまるでなかった。かれは、ながい間の先生との人間的つながりが、それで断絶でもしたかのような気になり、思わず、がくりと首をたれた。
 朝倉先生は、しかし、すぐまた平静な調子にかえって、
「いつも言うとおり、今は日本中が病気なんだから、友愛塾だけがその脅威(きょうい)から安全でありうる道理がないんだ。病菌(びょうきん)はこれからいくらでもはいって来るだろう。いや、これまでだって、すいぶんはいって来ていたんだ、塾生自身が、ほとんど一人残らず、病菌の保有者だと言ってもいいんだからね。今日は、病菌がすこし大がかりに持ちこまれるというにすぎないんだ。むろん、大がかりな病菌の持ち込みは、できれば拒絶(きょぜつ)するにこしたことはない。しかし、拒絶どころか、表面だけでもいちおうはありがたく頂戴(ちょうだい)しなければならないところに、実は、現在の日本の最大の病根があるんだよ。だから、おたがいとしては、病菌はこれからいくらでもはいって来るものだと覚悟(かくご)して、その覚悟のもとに、病菌を無力にする工夫をこらすほかに道はない。むろんそれは、厄介(やっかい)なことではあるさ。しかし厄介なだけに、うまくその始末がつけば、それだけ塾の抵抗力(ていこうりょく)をまし、かえって健康が増進されるとも言えるんだ。とにかく何事も事上錬磨(れんま)だよ。その意味で、私は、今日はいい機会にめぐまれたとさえ思っている。こんなことを言うと、君はそれを私の負け惜(お)しみだと思うかもしれんが、しかし、避(さ)けがたいものは避けがたいものとして、平気でそれを受け取って、その上でそれに対処(たいしょ)するのが、ほんとうの自由だよ。それがほんとうに生きる道でもあるんだ。随所(ずいしょ)に主となる。そんな言葉があったね。じたばたしてもはじまらん。わかるかね、私のいっていることが?」
「わかります。」
 次郎はかなり間をおいて答えた。かれは、しかし、まだ先生の気持ちを正しく理解していたわけではなかった。事上錬磨という言葉を通じて、権力に対する反抗の機会を暗示(あんじ)されたかのような気持ちでいたのである。
 朝倉先生は、次郎の心の動きを見とおすように、その澄んだ眼をかれの顔にすえていたが、急に笑顔になって、
「そこで、変なことをきくようだが、君は今日、軍からの来賓に対して、どんな態度で接するつもりかね。」
 これは、次郎にとって、なるほど変な質問にちがいなかった。かれは、これまで、来賓に対する態度のことまで先生に注意をうけたことがなかったのである。かれはいかにも心外(しんがい)だという顔をして、
「ぼく、べつに何も考えていないんです。あたりまえにしていれば、いいんでしょう。」
「あたりまえ? うむ。あたりまえであれば、むろんそれでいいさ。そのあたりまえが、友愛塾の精神にてらしてあたりまえであればね。」
 次郎は虚(きょ)をつかれた形だった。朝倉先生はたたみかけてたずねた。
「まさか、君は、あたらずさわらずの形式的な丁寧(ていねい)さを、あたりまえだと考えているんではないだろうね。」
 次郎は眼をふせた。しばらく沈黙がつづいたあと、朝倉先生は、しんみりした調子で、
「今さら、君にこんなことを言う必要もないと思うが、友愛塾は、どんな相手に対しても冷淡(れいたん)であってはならないんだ。あたたかな空気、それが塾の生命だからね。お互(たが)いは、それで世に勝とうとしている。勝てるか勝てないかは、むろん予測(よそく)できない。しかし、それで勝とうとする意志だけは失ってはならないんだ。やはり事上錬磨だよ。今日のような場合に、それを忘れるようでは、何のための友愛塾だか、わからなくなる。」
 次郎の耳には、事上錬磨という言葉が異様にひびいた。前の場合には、権力に対する反抗の機会を暗示されたように受け取っていたが、今度の場合は、明らかにその反対のことを意味していたからであった。かれは、しかし、もう何も言うことができなかった。頭も気持ちも、めちゃくちゃに混乱していたのである。
「よくわかりました。気をつけます。」
 かれは、表面素直(すなお)にそう言って塾長室を出た。そして講堂に行き、今日の式次第(しきしだい)をチョークで黒板に書いたが、いつもは何の気なしに書く「来賓祝辞」の四字が、呪文(じゅもん)のように心にひっかかった。
 式次第を書きおわると、かれは事務室にもどり、新聞を読んでいた塾生たちにまじってストーヴを囲んだ。しかし気持ちはやはりおちつかなかった。
(どんな人をでも、平和であたたかい空気の中に包みこむ、それが塾の理想でなければならないことは、むろんよくわかっている。だが、そのためには、実際にどうふるまええばいいのか。先生は、まさか、ぼくに追従笑(ついしょうわら)いをさせようとしていられるのではあるまい。自然の感情をいつわるところに、何の平和があり、何のあたたかさがあろう。いっさいに先んじて大切なのは、自分をいつわらないことではないのか。)
 そうした疑問が、胸にわだかまって、かれは塾生たちと言葉をかわす気にもなれないのだった。
 そのうちに、ぼつぼつ来賓が見えだした。田沼理事長も、いつもよりは少し早目に自動車で乗りつけた。次郎は、出迎(でむか)えながら、それとなくその顔色をうかがったが、友愛塾の精神を象徴(しょうちょう)するかのような、その平和であたたかな眼には、微塵(みじん)のくもりもなく、そのゆったりとしたものごしには、寸分のみだれも見られなかった。次郎は、ほっとした気持ちになりながらも、一方では、何かにおしつけられるような、変な胸苦しさを覚えた。
 最後に二台の自動車が、同時に乗りつけた。その一つは、荒田老のであり、もう一つは、星章(せいしょう)を光らした大型の陸軍用であった。荒田老は、例によって鈴田(すずた)に手をひかれながら、黒眼鏡の怪奇(かいき)な顔をあらわした。陸軍用の車からは、中佐(ちゅうさ)の肩章(けんしょう)をつけた、背の高い、やせ型の、青白い顔の将校が出て来たが、しばらく突っ立って、すこしそり身になりながら、玄関前の景色を一わたり見まわした。
 その間に、鈴田が次郎に近づいて来て、
「田沼さんはもうお出でになっているだろうね。」
「はあ、見えています。」
「じゃあ、陸軍省から平木中佐がお見えになったと、通じてくれたまえ。荒田さんから今朝ほど電話でお知らせしてあるんだから、おわかりのはずだ。」
 次郎は、横柄(おうへい)な口のきき方をする鈴田に対して、いつになく憤(いきどお)りを感じ、返事をしないまま塾長室に行った。
 塾長室の戸をあけると、田召理事長が、すぐ自分から言った。
「陸軍省のかただろう。こちらにお通ししなさい。」
 次郎は玄関にもどって来たが、やはりだまったままスリッパをそろえた。
「通じたかね。」
 鈴田が次郎をにらみつけるようにして言った。
「ええ、通じました。塾長室におとおりください。」
 次郎の返事もつっけんどんだった。
 鈴田が荒田老の手をひいて先にあがった。平木中佐は靴(くつ)をぬぎかけていたが、鈴田に向って、
「今日の式には、勅語(ちょくご)の捧読(ほうどく)があるんじゃありませんか。」
「ええ、それはむろんありますとも。……」
「じゃあ、靴はぬぐわけにはいかないな。ほかの場合はとにかくとして、勅語捧読の場合に軍人が服装規程にそむくわけにはいかん。」
「そのままおあがりになったら、いかがです。かまうもんですか。」
「かまうも、かまわんも、それよりほかにしかたがない。」
 平木中佐は、片足ぬいでいた長靴(ちょうか)を、もう一度はいた。
 鈴田は、その時、じろりと次郎の顔を見たが、その眼はうす笑いしていた。
 その間、荒田老は、黒眼鏡をかけた顔を奥(おく)のほうに向け、黙々(もくもく)として突っ立っていた。事務室にいた塾生たちは、入り口の近くに重なりあうようにして、その光景に眼を見はっていた。
 やがて中佐は、荒田老と鈴田のあとについて、ふきあげた板張りの廊下(ろうか)に長靴の拍車(はくしゃ)の音をひびかせながら、塾長室のほうに歩きだした。
 次郎は、ちょっとの間、唇をかんでそのうしろ姿を見おくっていたが、急にあわてたように、三人の横を走りぬけ、塾長室のドアをあけてやった。

   四 入塾式の日

 式は予定どおり、十時きっかりにはじまった。
 来賓席(らいひんせき)の一番上席には、平木中佐が着席することになった。中佐は最初、その席を荒田老にゆずろうとした。しかし荒田老は、
「今日は、あんたが主賓(しゅひん)じゃ。」
 と、叱(しか)るように言って、すぐそのうしろの席にどっしりと腰(こし)をおろし、それからは中佐が何と言おうと、木像のようにだまりこんで、身じろぎもしなかった。中佐はかなり面くらったらしく、すこし顔をあからめ、何度も荒田老に小腰(こごし)をかがめたあと、いかにもやむを得ないといった顔をして席についたが、それからも、しばらくは腰が落ちつかないふうだった。
 しかし、式がいよいよはじまるころには、もう少しもてれた様子がなく、塾生(じゅくせい)たちをねめまわすその態度は、むしろ傲然(ごうぜん)としていた。
 来賓席の反対のがわには、田沼(たぬま)理事長、朝倉塾長、朝倉夫人の三人が席をならべていた。次郎はそのうしろに位置して、式の進行係をつとめていたが、かれの視線は、ともすると平木中佐の横顔にひきつけられがちだった。かれの眼(め)にうつった中佐の顔には、多くの隊付き将校に見られるような素朴(そぼく)さが少しもなかった。その青白い皮膚(ひふ)の色と、つめたい、鋭(するど)い眼の光とは、むしろ神経質な知識人を思わせ、また一方では、勝ち気で、ねばっこい、残忍(ざんにん)な実務家を思わせた。次郎は、中佐の横顔を何度かのぞいているうちに、子供のころ、話の本で見たことのある、ギリシア神話のメデューサの顔を連想していた。
 中佐の眼は、理事長と塾長とが式辞をのべている間、塾生のひとりびとりの表情を、注意ぶかく見まもっているかのようであった。式辞の趣旨(しゅし)は、二人とも、いつもとほとんど変りがなかった。ただ理事長は、つぎのような意味のことを、特に強張した。
「国民の任務には、恒久的(こうきゅうてき)任務と時局的任務とがある。このうち、時局的任務は、時局そのものが、あらゆる機会に、あらゆる機関を通じて、声高く国民にそれを説いてくれるので、なに人(びと)もそれに無関心であることができない。ところが、恒久的任務のほうは、時局が緊迫(きんぱく)すればするほど、とかく忘れられがちであり、現に今日のような時代では、何が真に恒久的任務であるかさえわかっていない国民が非常に多い。諸君は、友愛塾における生活中、時局的任務に関する研究にも、むろん大いに力を注いでもらわなければならないが、しかし、いっそうかんじんなのは、恒久的任務の研究であり、その研究の結果を共同生活に具体化することである。それが不十分では、時局的任務に対する熱意も、根なし草のように方向の定まらないものになってしまうであろうし、時としては、かえって国家を危険におとし入れるおそれさえあるのである。」
 また、朝倉塾長は、
「これまで、日本人は、上下の関係を強固にするための修練はかなりの程度に積んで来た。しかし、横の関係を緊密(きんみつ)にするための修練は、まだきわめて不十分である。私は、もし日本という国の最大の弱点は何かと問われるならば、この修練が国民の間に不足していることだ、と答えるほかはない。というのは、どんなに強い上下の関係も、横の関係がしっかりしていないところでは、決してほんとうには生かされないからである。そこで、私は、これからの諸君との共同生活を、主として横の関係において、育てあげることに努力したいと思う。むしろ最初は、まったく上下の関係のない状態から出発し、横の関係の生長が、おのずからみごとな上下の関係を生み出すところまで進みたいと思っている。」
 といったような意味のことから話しだし、いつもなら、午後の懇談会(こんだんかい)で話すようなことまで、じっくりと、かんでふくめるように話をすすめていったのであった。
 次郎は、きいていてうれしかった。田沼先生も、朝倉先生も、ちゃんと打つべき手は打っていられる。これでは、中佐も打ち込む隙(すき)が見つからないだろう。そんなふうにかれは思ったのである。
 朝倉先生が壇(だん)をおりると、つぎは来賓の祝辞だった。次郎はさすがに胸がどきついた。かれは、昔(むかし)の武士が一騎打(いっきう)ちの敵にでも呼びかけるような気持ちになり、一度息をのんでから、さけぶようにいった。
「来賓祝辞――陸軍省の平木中佐殿(どの)。」
 平木中佐は声に応じてすっくと立ちあがった。そしてまずうしろの荒田老の方に向きなおって敬礼した。
 荒田老は、しかし、眼がよく見えないせいか、黒眼鏡の方向を一点に釘(くぎ)づけにしたまま、びくとも動かなかった。一瞬(いっしゅん)、場内の空気が、くすぐられたようにゆらめいた。といっても、だれも声をたてて笑ったわけではなかった。笑うにはあまりにまじめずぎる光景だったし、しかも、その当事者が二人とも、場内での最も重要な人物らしく見えていただけに、微笑(びしょう)をもらすことさえ、さしひかえなければならなかったのである。しかしまた同じ理由で、おかしみはかえって十分であった。したがって、それをこらえるしぐさで、場内の空気がゆらめいたのに無理はなかったのである。とりわけ次郎にとっては、それがかれの最も緊張(きんちょう)していた瞬間(しゅんかん)のできごとであったために、そのおかしみが倍加されていた。かれは唇(くちびる)をかみ、両手をにぎりしめて、こみあげて来る笑いをおしかくしながら、中佐の表情を見まもった。
 中佐は、その口もとをわずかにゆがめて苦笑した。それは場内で見られたただ一つの笑いだった。その笑いのあと、かれはほかの来賓たちのほうは見向きもしないで、靴(くつ)と拍車(はくしゃ)と佩剣(はいけん)との、このうえもない非音楽的な音を床板(ゆかいた)にたてながら、壇(だん)にのぼった。
 次郎の気持ちの中には、もうその時には、どんなかすかな笑いも残されてはいなかった。かれは、中佐の青白い横顔と、塾生たちのかしこまった顔とを等分に見くらべながら、息づまるような気持ちで中佐の言葉を待った。
 中佐は、しかし、あんがいなほど物やわらかな調子で口をきった。そして、まず、田沼理事長と朝倉塾長の青年教育に対する努力を、ありふれた形容詞をまじえて賞讃(しょうさん)した。それは決して、真実味のこもったものではなく、いちおうの礼儀(れいぎ)にすぎないものであることは明らかであったが、次郎はそれでも、この調子なら、そうむき出しに塾の精神をけなしつけることもあるまい、という気がして、いくぶん緊張をゆるめていた。
 しかし、中佐のそんな調子は三分とはつづかなかった。かれはやがて世界の大勢を説き、日本の生命線を論じた。そしてその結論としての国民の覚悟(かくご)について述べだしたが、もうそのころには、かれはかなり狂気(きょうき)じみた煽動(せんどう)演説家になっていた。さらに進んで青年の修養を論ずる段になると、かれの佩剣の鞘(さや)が、たえ間なく演壇の床板をついて、勇(いさ)ましい言葉の爆発(ばくはつ)に伴奏(ばんそう)の役割をつとめた。かれはしばしば「陛下(へいか)」とか「大御心(おおみこころ)」という言葉を口にしたが、その時だけは直立不動の姿勢になり、声の調子もいくぶん落ちつくのだった。しかし、佩剣の伴奏がもっとも激(はげ)しくなるのは、いつもその直後だったのである。
 かれの意図(いと)が、塾の精神を徹底的(てっていてき)にたたきつけるにあったことは、もうむろん疑う余地がなかった。かれは、しかし、真正面から「友愛塾の精神がまちがっている」とは、さすがに言わなかった。かれはたくみに、――おそらく、かれ自身のつもりでは、きわめてたくみに、――一般論(いっぱんろん)をやった。そして、なおいっそうたくみに、――もっとも、この場合は、かれ自身としては、たくらんだつもりではなく、かれの信念の自然の発露(はつろ)であったかもしれないが、――「国体」とか、「陛下」とか、「大御心」とかいう言葉で、自分の論旨(ろんし)を権威(けんい)づけることに努力した。
「日本の国体をまもるためには、国民は、四六時中非常時局下にある心構(こころがま)えでいなければならない。恒久的任務と時局的任務とを差別して考える余裕(よゆう)など、少くともわれわれ軍人には全く想像もつかないことである。」
「大命を奉じては、国民は親子の情でさえ、たち切らなければならない。いわんや友愛の情をやである。」
「日本では、国民相互(そうご)の横の道徳は、おのずから、君臣の縦(たて)の道徳の中にふくまれている。陛下に対し奉(たてまつ)る臣民の忠誠心が、すべての道徳に先んじ、すべての道徳を導き育てるのであって、友愛や隣人愛(りんじんあい)が忠誠心を生み出すのでは決してない。」
 およそこういった調子であった。
 次郎はしだいに興奮した。ひとりでに息があらくなり、両手が汗(あせ)ばんで来るのを覚えた。かれは、しかし、懸命(けんめい)に自分を制した。自分を制するために、おりおり、うしろから田沼先生と朝倉先生の顔をのぞいた。かんじんの二人の眼をのぞくことができなかったので、はっきりと、その表情を見わけることはできなかったが、のぞいたかぎりでは、二人とも、すこしも動揺(どうよう)しているようには見えなかった。かれはいくらか救われた気持ちだった。
 かれの視線は、おのずと、朝倉夫人のほうにもひかれた。夫人の横顔は、いつもにくらべると、いくぶん青ざめており、その視線は、つつましく膝(ひざ)の上に重ねている手の甲(こう)におちているように思われた。かれは、朝倉夫人のそんな様子を見ると、つい眼がしらがあつくなって来るのだった。
 かれは、しかし、そうしているうちに、いくらか自分をとりもどすことができ、眼を来賓席のほうに転じた。すると、そこには、当惑(とうわく)して天井(てんじょう)を見ている顔や、にがりきって演壇をにらんでいる顔がならんでいた。しかし、どの顔よりもかれの注意をひいたのは、相変わらず木像のように無表情な荒田老の顔と、たえず皮肉な微笑(びしょう)をもらして塾生たちを見わしている鈴田の顔であった。
 鈴田の顔を見た瞬間、次郎は、自分にとってきわめてたいせつなことを、いつの間にか忘れていたことに気がついて、はっとした。中佐の言葉に対する塾生たちの反応(はんのう)、それを見のがしてはならない。できれば一人一人の反応をはっきり胸にたたみこんでおくことが、これから朝倉先生に協力して自分の仕事をやって行く上に何よりもたいせつなことではないか。
 かれの視線は、そのあと、忙(いそが)しく塾生たちの顔から顔へとびまわった。どの顔もおそろしく緊張している。眼がかがやき、頬(ほお)が紅潮し、唇(くちびる)がきっと結ばれている。中佐のかん高い声と、佩剣(はいけん)の伴奏とが、電気のようにかれらの神経をつたい、かれらの心臓にひびき、かれらの全身をゆすぶっているかのようである。
 次郎の興奮は、もう一度その勢いをもりかえした。しかもその勢いは、かれが中佐の声と佩剣の伴奏とから直接刺激(しげき)をうける場合のそれよりも、はるかに強力だった。で、もしもかれが、塾生たちの顔の間に、ただ一つの例外的な表情をしている顔を見いだすことができなかったとすれば、かれはその興奮のために、すくなくとも、自分のすぐ前に腰をおろしている田沼先生と朝倉先生夫妻の注意をひくほどの舌打ちぐらいは、あるいはやったかもしれなかったのである。
 ただ一つの例外の顔というのは、大河無門の顔であった。かれは半眼(はんがん)に眼を開いていた。それは内と外とを同時に見ているような眼であった。中佐の言葉の調子がどんなに激越(げきえつ)になろうと、佩剣の鞘(さや)がどんな騒音(そうおん)をたてようと、そのまぶたは、ぴくりとも動かなかった。かれは、椅子(いす)にこそ腰をおろしていたが、その姿勢は、あたかも禅堂(ぜんどう)に足を組み、感覚の世界を遠くはなれて、自分の心の底に沈潜(ちんせん)している修道者を思わせるものがあった。
 次郎の視線は、大河無門の顔にひきつけられたきり、しばらくは動かなかった。かれは何か一つの不思議を見るような気持ちだった。
(大河無門は、ぼくなんかにはまだとてもうかがえない、ある心の世界をもっているのだ。)
 かれにはそんな気がした。その気持ちが、しだいにかれをおちつかせた。そして大河無門と荒田老とを見くらべてみる心のゆとりを、いつのまにか、かれにあたえていた。
 かれの眼に映(えい)じた大河無門と荒田老とは、まさに場内の好一対(こういっつい)であった。荒田老は、平木中佐の所論の絶対の肯定者(こうていしゃ)として、怪奇(かいき)な魔像(まぞう)のように動かなかったし、大河無門は、その絶対の否定者として、清澄(せいちょう)な菩薩像(ぼさつぞう)のように動かなかったのである。
 次郎は、これまでの不快な興奮からさめて、ある希望と喜びとに裏付けられた新しい興奮を感じはじめていた。そのせいか、中佐の狂気じみた言葉も、もう前ほどにはかれの耳を刺激しなくなっていたのである。
 中佐は、最後に、いっそう声をはげまして言った。
「諸君にとってたいせつなことは、いかに生くべきかでなくて、いかに死ぬべきかだ。大命のまにまにいかに死ぬべきかを考え、その心の用意ができさえすれば、おのずからいかに生くべきかが決定されるであろう。くりかえして言うが、諸君は、楽しい生活などという、甘(あま)ったるい、自由主義的・個人主義的享楽主義(きょうらくしゅぎ)に、いつまでもとらわれていてはならない。日本は今や君国のために水火をも辞さない勇猛果敢(ゆうもうかかん)な青年を求めているのだ。この要求にこたえうるような精神を養うことこそ、諸君がこの塾堂に教えをうけに来た唯一(ゆいいつ)の目的でなければならない。自分はあえて全軍の意志を代表して、このことを諸君の前に断言する。終わり!」
 塾生たちの中には「終わり」という言葉をきくと同時に、機械人形のように直立したものがあった。その他の塾生たちは、理事長と塾長との式辞が終わったときに、顔をさげただけですました関係からか、さすがに立ちあがるのをためらった。しかし、どの顔も、何か不安そうに左右を見まわした。そして、直立した塾生たちを見ると、それにさそわれて、半ば腰をうかしたものも少なくはなかった。ただ大河無門だけは、そうしたざわめきの中で、その半眼にひらいた眼を、ながい夢(ゆめ)からでもさめたように、ゆっくり見ひらき、しずかに頭をさげて中佐に敬意を表したのだった。
 次郎の眼は、いつまでも大河無門にひきつけられていた。そのために、かれは、中佐がどんな顔をして塾生たちの「不規律」な敬礼をうけ、どんな歩きかたをして自分の席に戻(もど)って行ったかを観察することができなかったし、また、閉式を告げるかれの役割を果たすのに、いくらか間がぬけたのではないかと、かれ自身心配したぐらいであった。
 式が終わると、恒例(こうれい)によって、塾生と中食をともにすることになっていた。今日は朝倉先生の式辞がいつもより長かったうえに、平木中佐の祝辞がそれ以上に長かったため、時刻もかなりおくれていたし、一同式場を出るとすぐ、広間に用意されていた食卓(しょくたく)についた。今日は荒田老もめずらしく上機嫌(じょうきげん)で、「わしはめしはたくさんです」などと無愛想(ぶあいそう)なことも言わず、自分からすすんで平木中佐をさそい、その席につらなったのである。
 食卓では、荒田老がすすめられるままに来賓席の上座(かみざ)につき、平木中佐がその横にならんだ。ごちそうは、これも恒例で、赤飯に、小さいながらも、おかしら付きの焼鯛(やきだい)、それに菜(な)っ葉(ぱ)汁(じる)と大根なますだった。
 朝倉先生の「いただきます」という合い図で、みんなが箸(はし)をとりだすと、平木中佐がすぐ荒田老に言った。
「なかなかしゃれていますね、おかしら付きなんかで。」
 荒田老は、黒眼鏡すれすれに皿(さら)を近づけ、念入りに見入りながら、
「小鯛(こだい)らしいな。なるほどこれはしゃれている。しかし若いものは、これでは食い足りんだろう。」
「ええ、やはり青年には質よりも量でしょうね。」
 二人の話し声は、かなりはなれたところにすわっていた次郎の耳にもはっきりきこえた。かれは、それも塾に対する皮肉だろうと思った。そして、食卓につくとすぐそんなことを言いだした二人のえげつなさに、ことのほか反感を覚えた。
「しかし、気は心と言いますか、こうして祝ってやりますと、やはり青年たちにはうれしいらしいのです。」
 そう言ったのは田沼先生だった。ふっくらした、あたたかい言葉の調子だった。すると朝倉先生が冗談(じょうだん)まじりの調子でそれに言い足した。
「これまでの塾生の日記や感想文を見ますと、そのことがふしぎなぐらいはっきりあらわれていましてね。それで、つい、多少の無理をしても、入塾式の日には小鯛を用意することにしているんです。」
「しかし、お祝いのお気持ちなら、赤飯だけでたくさんでしょう。そうご無理をなさらんでも。」
 中佐も冗談めかした調子で言ったが、その頬(ほお)には、かすかに冷笑らしいものがただよっていた。
「おっしゃるとおりです。」
 と、朝倉先生はしごくまじめにうけた。しかしすぐまた冗談まじりに、
「ただ塾生たちには、おかしら付きの鯛というものが妙(みょう)に印象に残るらしいので、ついそれに私たちが誘惑(ゆうわく)されてしまうのです。それも教育の一手段だという口実もありましてね。はっはっはっ。」
「甘いですな。」
 と、荒田老が横からにがりきって言った。
 まわりの来賓たちが、それで一せいに笑い声をたてたが、それがその場の空気をまぎらすための作り笑いだったことは明らかだった。
「塾長はそうした甘いところもありますが、根は辛(から)い人間ですよ。実は辛すぎるほど辛いんです。甘いところを見せるのは辛すぎるからだともいえるんです。油断はなりません。」
 田沼先生がそう言って笑った。それでまた来賓たちも笑ったが、今度は救われたといったような笑い方であった。平木中佐と鈴田とは変に頬をこわばらせていた。荒田老は相変わらず無表情だったが、無表情のまま、
「田沼さんは、やはり逃(に)げるのがうまい。まるで鰻(うなぎ)のようですな。」
 もう一度笑いが爆発(ばくはつ)した。しかしだれの笑い声も、いかにも苦しそうだった。
「荒田さんにあっちゃあ、かないませんな。」
 と、田沼先生は、そのゆたかな頬をいくらか赤らめて苦笑したが、そのあと、話題をかえるつもりか、急に思い出したように言った。
「それはそうと、荒田さんは、このごろは禅(ぜん)のほうはいかがです。相変わらずおやりになっていらっしゃいますか。」
「ふっふっふっ。」
 と、荒田老は、あざけるように鼻で笑ったが、
「禅は私の生活ですからな。毎日ですよ。」
「毎日だと、おかよいになるのが大変でしょう。このごろは、どちらのお寺で?」
「すわるのに寺はいりませんな。」
「すると、お宅で?」
「うちでもやりますし、どこででもやります。こうして飯を食ったり話したりしている間も、私は禅をやっているんです。」
「なるほど。」
「どうです。塾生たちにも、少しやらしてみては?」
 荒田老はおしつけるように言った。
「坐禅(ざぜん)とまではむろん行きませんが、静坐程度のことなら、ここでもやっているんです。起床後(きしょうご)とか、就寝前(しゅうしんまえ)とかに、ほんの二十分か、せいぜい三十分程度ですが。」
「それでもやらんよりはいい。」
 と、荒田老は、これまでのぶっきらぼうな調子から、急に気のりのした調子になり、
「しかし、指導をうまくやらんと、時間のむだ使いになりますな。時間が短いほど、とかくむだになりがちなものだが、塾長さん、そのへんの呼吸はうまくいっていますかな。」
 田沼先生は、とうとうまた自分たちに矛先(ほこさき)が向いて来たらしい、と思ったが、もう逃げるわけにいかなかった。で、朝倉先生をかえりみて、
「塾長、どうです。これまでのやり方をお話して、ご意見をうかがってみたら?」
 朝倉先生は、ちょっとためらったふうだった。しかし、すぐへりくだった調子で、
「私には、本式な坐禅の指導なんか、とてもできませんし、ただ塾生たちに、朝夕少なくとも二回は、おちついて内省する時間を持たせたい、と、まあ、そんなような軽い気持ちで、静坐をやらしているわけなんです。ですから、べつにそう変わった方法はとっていません。ただ、静坐のあとで、――あとでと申しましても、静坐の姿勢をそのままつづけながらなんですが、――ほんの五六分、なるだけ心にしみるような例話や古人の言葉などをひいて、話をすることにしているのですが。」
「なるほど。」
 と、荒田老はめずらしくうなずいた。そしてちょっと考えるようなふうだったが、
「それはいい。心をすましたあとにきく短い話というものは、あとまで残るものです。だが、それだけに、その話の種類次第(しだい)では、その害も大きい。これまでどんな話をして来られたかな。」
「やはり心の問題にふれた話がいいと思いまして――」
「それはわかりきったことです。だが、その心の問題というのが、このごろでは、どうもじめじめしたことになりがちでしてな。」
 次郎は、きいていて歯がゆかった。――朝倉先生は、これではまるで荒田老に口頭試問(こうとうしもん)でもうけているようなものではないか。屈従(くつじゅう)は謙遜(けんそん)ではない。先生は、どうしてもっと積極的にものをいわれないのだろう。
 朝倉先生は、しかし、あくまでも物やわらかな調子でこたえた。
「たしかにおっしゃるとおりです。で、私は及(およ)ばずながら、いつも塾生たちの心に光を点じ、希望を与(あた)えるような話をすることにつとめて来たつもりなのです。」
「ふん。」
 と、荒田老は、いかにもさげすむように鼻をならした。それから、ずけずけと、
「あんたはやっぱり西洋式ですな。光だの、希望だのって、バタくさいことをいって、生きることばかり考えておいでになる。東洋の精神はそんな甘ったるいものではありませんぞ。東洋では昔(むかし)から、死ぬことで何もかも解決して来たものです。禅道がその極致(きょくち)です。大死(たいし)一番、無の境地に立って、いっさいに立ち向かおうというのです。そこにお気がつかれなくちゃあ、せっかくの静坐のあとのお話も、青年たちを未練な人間に育てあげるだけの結果になりはしませんかな。」
 朝倉先生も、さすがにもう相手になる気がしなかったのか、
「いや、今日はいろいろお教えいただいてありがとう存じました。いずれ私も十分考えてみることにいたしましょう。」
 と、おだやかに話をきりあげてしまった。
 次郎はその時、朝倉先生が、かつてかれに、つぎのような意味のことを、いろいろの実例をあげて話してくれたのを思いおこしていた。
「みごとに死のうとするこころと、みごとに生きようとするこころとは、決してべつべつのこころではない。みごとに生きようとする願いのきわまるところに、みごとに死ぬ覚悟(かくご)が湧(わ)いて来るのだ。生命を軽視(けいし)し、それを大事にまもり育てようとする願いを持たない人が、一見どんなにすばらしい死に方をしようと、それは断じて真の意味でみごとであるとはいえない。」
 次郎にとっては、この言葉は朝倉先生のいろいろの言葉の中でもとりわけ重要な意味をもつものであった。かれは、この言葉を思いおこすことによって、これまでいくたびとなく、かれの幼時からの性癖(せいへき)である激情(げきじょう)をおさえ、向こう見ずの行動に出る危険をまぬがれることができたし、また、かれが日常の瑣事(さじ)に注意を払い、その一つ一つに何等(なんら)かの意味を見出そうと努力するようになったのも、主としてこの言葉の影響(えいきょう)だったのである。それだけに、かれは、朝倉先生が、なぜそのことをいって荒田老を説き伏(ふ)せようとしないのだろうと、それが不思議にも、もどかしくも思えてならないのだった。
 塾生たちは、もうそのころには、とうに食事を終わっていた。来賓もほとんど全部箸(はし)をおろしており、まだすんでいないのは、目が不自由なうえに、何かと議論を吹(ふ)きかけていた荒田老と、その相手になっていた朝倉先生ぐらいなものであった。しかし、この二人も、話をやめると間もなく箸をおろした。
 来賓たちは、畳敷(たたみじ)きの広間のガラス窓いっぱいに、あたたかい陽(ひ)がさしこんでいるのが気に入ったらしく、食事がすんで塾生たちが退散したあとでも、窓ぎわに集まって、たばこを吸い、雑談をまじえた。そのうちに荒田老に付(つ)き添(そ)っていた鈴田が、平木中佐と何かしめしあわせたあと、朝倉先生の近くによって来てたずねた。
「今日も、午後は例のとおり懇談会をおやりになるんですか。」
「ええ、その予定です。しかし今日は、懇談らしい懇談にはいるのはおそらく夜になるでしょう。私から前もっていっておきたいことは、今日はもう大体、式場で話してしまいましたし、午後集まったら、さっそく、ご存じの『探検』にとりかからしたいと思っています。」
 鈴田はすぐもとの位置にもどった。そして荒田老と平木中佐を相手に、何か小声で話しながら、おりおり横目で朝倉先生のほうを見たり、にやにや笑ったりしていたが、まもなく、荒田老の手をとって立ちあがった。すると平木中佐も立ちあがった。
 三人の自動車が玄関をはなれると、ほかの来賓たちの話し声は、急に解放されたようににぎやかになった。しかし、話の内容は決して愉快(ゆかい)なものではなかった。塾の将来に対する憂慮(ゆうりょ)や、理事長と塾長に対する同情と激励(げきれい)の言葉が、ほとんどそのすべてであった。そして、具体的対策については、何一つ示唆(しさ)が与えられないまま、それから二十分ばかりの間に、来賓たちの姿もつぎつぎに消えて行った。
 田沼理事長だけは、今日はめずらしくゆっくりしていた。そして、来賓たちを送り出すと、すぐ、朝倉先生と二人で塾長室にはいって行った。
 次郎は、一人になると、急にほっとしたような、それでいて何か固いものを胸の中におしこまれたような、変な気持ちになり、もう一度広間にはいって、窓によりかかった。今日は式の時間がのびたので、午後の行事は、三十分ほどくり下げて一時半からということになっていた。それまでには、まだ十五六分の時間がある。いつもなら、そうしたわずかな時間でも、ぼんやりしてはいないかれだったが、今日の式場と食卓とでうけた刺激(しげき)の余波(よは)は、かれに小まめな仕事をやらせるには、まだあまりに高かったし、床の間の「平常心」の掛軸(かけじく)は、やはりかれにとっては全くべつの世界の消息をつたえるものでしかなかったのである。
 かれは、荒田老と平木中佐の顔を代わる代わる思いうかべながら、陽を背にして眼をつぶっていた。すると、だしぬけに、
「どうだ、つかれたかね。昨日から、ずいぶん忙(いそが)しかったろう。」
 そういってはいって来たのは田沼先生だった。
 次郎は、目を見ひらき、あわてて居(い)ずまいを正した。
「そう窮屈(きゅうくつ)にならんでもいい。」
 田沼先生は、次郎とならんで窓わくによりかかりながら、
「今度の塾生には、変わったのが一人いるらしいね。」
「ええ。」
 次郎の頭には、すぐ大河無門の顔がうかんで来た。しかし、「変わった」という先生の言葉の意味がちょっとうたがわしかったらしく、
「大河っていう人のことでしょう。」
「うむ、大河無門、さっき名簿で見たんだが、めずらしい名前だね。」
「ええ、名前もめずらしいんですが、人間も非常にめずらしいんじゃないかと思います。」
「私もそう思う。たしかにめずらしい青年だよ。」
「もう本人をご存じなんですか。」
「まだ直接会ってはいない。しかし、式場で眼についたので、朝倉先生にたずねて見たんだ。」
 次郎は、「式場で眼についた」ときいた瞬間(しゅんかん)、何か明るいものが胸の中にさしこんだような気がした。かれはうれしくなって、膝(ひざ)をのり出しながら、
「あの人、大学を出ているんです。」
「そうだってね。」
「年も、ぼくよりずっと上なんです。」
「そうだろう。顔を見ただけでも、たしかに君の兄さんだ。それに――」
 と田沼先生は、ちょっと微笑して、
「精神年齢(ねんれい)のほうでは、いっそう年上らしいね。」
 次郎はそれを冗談だとは受け取らなかった。かれは真剣(しんけん)な顔をして、
「ぼく、あの人が塾生で、ぼくが助手では、変だと思うんですけれど……」
「どうして? それはかまわんさ。本人が塾生を希望しているし、また、君が助手だからといって、大河を先輩(せんぱい)として尊敬できないという理由もないだろう。」
「それはむろんそうですけれど……」
「それとも、大河に気押(けお)されて、やるべきことがやれないとでもいうのかね。」
「そんなことはありません。ぼくはただ朝倉先生のあとについて、仕事をやっていくだけのことなんですから。」
「じゃあ、何も気にすることはないじゃないかね。」
「ええ。」
 と、次郎はこたえたが、まだ何となく気持ちを始末しかねているふうであった。
 田沼先生は、しばらくその様子を見まもったあと、
「やはり気がひけるらしいね。」
「ええ、ぼく、代われたら代わりたいと思うぐらいなんです。」
「代わる? そんなことはできないよ。かりにできたところで、それは小細工(こざいく)というもんだ。そんな小細工をするよりか、与(あた)えられた立場をそのまますなおに受け取って、それを生かす工夫(くふう)をしたらどうだ。君自身のためにも、大河のためにも、塾生たちみんなのためにも、生かそうと思えばどんなにでも生かされると思うがね。私は、ある意味では、むしろ、いいチャンスが、君にめぐまれたとさえ思っている。元来、環境(かんきょう)というものは、それが不合理であっても、無理に小細工をして変えようとしてはならないものなんだ。まずその環境をそのまま受け取って、その中で自分を練りあげる。それでこそほんとうの意味で環境に打(う)ち克(か)てるし、またそれでこそ、どんな不合理も自然に正されていくだろう。私は何事についても、そういう考えから出発したいと思っている。暴力に訴(うった)える社会革命に私が絶対に賛成できないのも、根本はそういうところにあるんだ。」
 次郎はじっと考えこんだ。すると田沼先生は急に笑いだし、
「つい、話がとんでもない、大きな問題に飛躍(ひやく)してしまったね。しかし、真理は問題の大小にかかわらないんゼ。小細工はいわば小さな暴力革命だし、暴力革命はいわば大きな小細工だからね。……大きな小細工なんて、言葉はちょっと変だが。……とにかく君は、君のやるべきことを落ちついてやって行くことだ。大河に気おくれして仕事がにぶってもならないし、かといって、大河に心で兄事(けいじ)することを忘れてもならない。世間には、先生よりも弟子(でし)のほうが偉(えら)い場合だってよくあることだし、それは気にすることはない。大事なのは、そういう関係を先生も弟子も、どう生かすかを考えることだよ。」
 次郎はやはり考えこんでいた。田沼先生も何かしばらく考えるふうだったが、
「ところで、どうだね、今日の気持ちは? 式場では、いつもに似ず、まごついていたようだったが。……」
 次郎は、田沼先生が、わざわざ広間にやって来て自分に話しかけた目的はこれだな、と直感した。同時に、かれの胸の中では、感謝したいような気持ちと圧迫(あっぱく)されるような気持ちとが入りみだれた。かれはすぐには答えることができなかった。自分の感想を、あからさまにいうのが、何となくはばかられたのである。
 それに、今はもう式場や食卓で感じた不愉快な気持ちもかなりうすらいでいて、だれかにそれをぶちまけなければ治まらないというほどではなかった。大河無門が早くも田沼先生の注目をひいているということを知ったことで、かれの気分がかなり明るくなっていたうえに、さっきから二人で取りかわした問答の間から、自分の生き方に何か新しい方向を見いだしたような気になり、そのほうにかれの関心が高まりつつあったのである。
 かれには、これまでとはまるでちがった気持ちと態度とをもって、戦いに臨(のぞ)もうとする意志が、ほのかに湧(わ)きかけていた。むろんそれが決定的にかれの行動を左右するまでには、まだ数多くの試練を経(へ)なければならなかったであろう。しかし、少なくともかれの頭だけでは、そうした意志に生きることの必要が、かなりはっきりと理解されていたようであった。――真の勝利は、相手を憎(にく)み、がむしゃらに相手に組みつくだけでは、決して得られるものではない。自分みずからを充実(じゅうじつ)させることのみが、それを決定的にするのだ。友愛塾の精神を勝利に導く手段もまたそこにある。そして、友愛塾の内容を充実させるために、自分にとって必要なことは、友愛塾の助手としての自分の道を、ただまっしぐらにつき進みつつ、人間としての自分を充実させることであって、いたずらに荒田老や平木中佐の言動を気にし、かれらに対して感情的に戦いをいどむことではない――かれの頭は次第にそんな考えに支配されはじめていたのであった。
 かれが答えをしぶっていると、田沼先生は、その張りきった豊かな頬(ほお)をほころばせて言った。
「軍人にあのぐらいどなられると、ちょっとこわくなるね。大河は別として、塾生たちには、すいぶん強くひびいただろう。」
「ええ――」
 と、次郎はあいまいに答えたが、すぐ、
「それは、かなりひびいただろうと思います。」
「私の話も、朝倉先生の話も、すっかり嵐(あらし)に吹(ふ)きとばされた形だったが、こんなふうだと、今度の塾生は、いつもとは少し調子がちがうかもしれないね。」
「ええ、それはもう覚悟しています。」
「これからは、この塾の生活も、だんだんむずかしくなって来るだろう。しかし、いい試練だね。われわれにとってはむろんだが、塾生たちにとっても、こうした摩擦(まさつ)は決して無意味ではない。どうせ将来は、もっと大きなスケールで経なければならない試練だからね。」
 次郎は眼をふせて、畳(たたみ)の一点を見つめているきりだった。
「軍人のああした話に、盲目的(もうもくてき)に引きずられるのも険呑(けんのん)だが、感情的に反発(はんぱつ)するのも険呑だ。時代はそんな反発でますます悪くなって行くだろう。あんな話を、相手にしない、――といっては語弊(ごへい)があるが、冷静に批判しながら聞くような国民がもっと多くならないと、日本は助からないよ。」
 次郎はやはり眼をふせたまま、
「ぼく、さっきからそんなようなことを考えていたところなんです。」
「そうか。うむ。」
 と、田沼先生は大きくうなずいたが、
「しかし、理屈(りくつ)ではわかっていても、実際問題となると、またべつだからね。せいぜい自重(じちょう)してくれたまえ。今の日本では、青年たちは、何といったって、軍からの影響(えいきょう)を最も多く受けやすいし、そう簡単にはわれわれのいうことを受け付けないだろう。そんな場合に、あんまりあせって、塾生とにらみあいのような形になっては、友愛塾も台なしだよ。」
 塾生とにらみあう。――そんなことは、次郎がこれまで夢(ゆめ)にも考えたことのないことだった。しかし、幼年時代からの闘争心(とうそうしん)が、今でも折にふれて鼬(いたち)のように顔をのぞかせる自分を省(かえり)みると、今度の場合、それが全く起こり得ないことでもないような気がして胸苦しかった。
「ぼく、先生にご心配をかけないように、気をつけます。」
 かれは、やっとそれだけいって、田沼先生の顔を見た。田沼先生もかれの顔をみつめて、かるくうなずいたが、その眼は、仏(ほとけ)の眼のように静かであたたかだった。
「もう時間だね。」
 と、先生は腕時計(うでどけい)を見て立ちあがりながら、
「しかし、今度のような時に、大河のような塾生をむかえたのは、非常にしあわせだったね。多分大河はいい緩衝地帯(かんしょうちたい)になってくれるよ。はっはっはっ。」
 次郎は笑わなかった。そして、田沼先生のあとについて広間を出ると、すぐ板木(ばんぎ)を鳴らしたが、その眼は何かを一心に考えつめているかのようであった。
 午後の行事は、これまでの例を破ってごくあっさりしていた。朝倉先生は、塾生たちが広間に集まると、簡単に「探検」の主旨(しゅし)を説明しただけで、さっそくそれにとりかからせた。また「探検」がすんでもう一度広間に集まった時にも、つぎのようなことをいっただけで、すぐ解散した。
「今日式場で、田沼先生なり私なりから話したこの塾の根本の精神と、たゞ今諸君が実際に見て来た探検の結果とを土台にして、これからのお互(たが)いの共同生活をどう組立てて行くか、それを今から相談したいと思うが、しかし、これだけの人数が、まだめいめいの頭を整理しないうちに、いきなり一堂に集まって相談しあってみたところで、大した収穫(しゅうかく)は得られないだろうと思う。で、ひとまずこの集まりは解散して、各室ごとに集まって、その下相談をすることにしたい。むろん、その下相談にしたところで、急にはまとまらないかもしれない。しかし、まとまらなければまとまらないでも結構だ。それで一人一人の頭に何程(なにほど)かの準備ができればいいのだから。……そのつもりで、ともかくも、いちおう各室ごとに、小人数で意見をたたかわしておいてもらいたい。そして、夕食後にはもう一度ここに集まって、みんなでじっくり話しあうことにしよう。その時には、私も私の考えを十分のべて見たいと思っているが、それはむろん一つの参考意見であって、決してそれを君らに押しつけるのではない。もっとも、あらかじめこれだけは断わっておきたい。それは、毎日朝食から中食(ちゅうじき)までの時間は講義にあててあるということだ。これには外来の講師の都合もあるので、時間を勝手に動かすわけには行かない。それ以外の時間は、みんなの合意によってどうにでも使えるし、なるだけお互いの創意を生かしたいと思う。要するに、ここの生活の根本になるものは、あくまでも友愛と創造の精神なのだから、それを忘れないで、各室で仲よく、しかも活発に頭をはたらかして、夕食後の集まりまでの時間を十分に生かしてもらいたい。」
 次郎の眼は、その話の間にも、注意ぶかく塾生たちの顔に注がれ、その動きからたえす何かを読もうとしていた。とりわけ大河無門はかれの注目の的だった。しかし、どの顔にも、これといって変わった表情は見られなかった。大河無門の近眼鏡の奥(おく)に光っている大きな眼は、特異な眼ではあったが、それもふだんと変わった表情をしているとは思えなかった。みんなは、ただかしこまって朝倉先生の言葉をきいているというにすぎないらしかった。
 次郎の張りつめていた注意力は、いくらか拍子抜(ひようしぬ)けの気味だった。
 かれはその日、田沼先生とふたたび顔をあわせる機会がなかった。塾生たちの「探検」の案内をしている最中に、先生が帰って行ってしまったので、見おくることもできなかったのである。朝倉夫人が、あとでかれに話したところによると、先生は、玄関を出がけに、
「友愛塾の関係者も、今日は軍から正式に自由主義者のレッテルをはられたわけですね。奥さんもその有力なメンバーですから、これからは何かと風当たりが強くなるかもしれませんよ。そのうち、憲兵なんていう、招かれざるお客もたずねて来るでしょう。ご迷惑(めいわく)ですね。」
 と、冗談めかしていい、朝倉先生と二人で、声をたてて笑ったそうである。

   五 最初の懇談会(こんだんかい)

「何だか、だらしがないね。やっぱり自由主義的だよ。」
 次郎が、夕食後、小用をたしたかえりに第一室の前を通りかかると、中から、すこししゃがれた声で、そんな言葉がきこえて来た。かれは思わず立ちどまって耳をすました。
「探検だなんていうから、よほどめずらしい設備でもあるのかと思うと、何もありゃあしないじゃないか。このぐらいの設備なら、どこの青年道場にだってあるよ。」

 同じ声である。次郎は自分の印象に残っている室員の顔の中から、声の主をさがしてみたが、まるで見当がつかなかった。
「そりゃあ、そうだね。」
 と、ちがった声が相づちをうった。それはしかし、大して気乗りのした相づちだとは思えなかった。すると、また、しゃがれた声が、
「探検だの、室ごとの相談だの、まったく時間の浪費(ろうひ)だよ。塾生活(じゅくせいかつ)の設計だなんていったって、はいって来たばかりの僕(ぼく)たちに、そんなことができるわけがないじゃないか。ね、そうだろう。」
「じっさいだね。」
 第三の声が、今度は心から共鳴したらしくこたえた。
 そのあと、しばらくは、がやがやといろんな声が入りみだれた。どの声もいくぶんうわずった真剣味(しんけんみ)のない声だったが、しゃがれた声に相づちをうっていることはたしかだった。おりおり、何かを冷笑するような声もまじっていた。
 そうしたざわめきをおさえつけるように、また、しゃがれた声がいった。
「だからさ、だから、もう相談なんかする必要はないよ。」
 みんなは、ちょっとの間沈黙(ちんもく)したが、すぐだれかが、
「しかし、懇談会がはじまったら、何とか報告はしなくちゃならないんだろう。」
「そりゃあ、報告はするさ。ぼく、やってもいいよ。」
「何と報告するんだい。」
「相談の必要なし、ということに相談できめた。そういえばいいだろう。」
 どっと笑い声がおこった。すると、しゃがれた声が、おこったように、
「ぼく、ふざけていってるんじゃないんだ。じっさいそうだから、そういうよりほかないじゃないか。もしそれでいけなかったら、ぼくいつでも退塾するよ。わざわざ旅費を使って出て来たのが、ばかばかしいけれど、しかたがない。」
 室内が急にしいんとなった。
 次郎は、これまでの例で、この日の室ごとの相談会に大した期待はかけていなかった。また、軽い気持ちでなら、かれらの間にそうした言葉のやりとりぐらいはあるだろう、とも想像していた。しかし、しゃがれた声の調子はあまりにもいきりたっていたし、それを今朝の式場での平木中佐(ちゅうさ)の言葉と結びつけて考えないわけには行かなかった。
 かれは変な胸さわぎを覚えながら、息をころしていた。
「じゃあ、君にまかせるかな。」
 だれかが不安そうにいった。
「ほかの室では、どうなんだろう。」
 べつの声で、これもいかにも不安そうである。
「ぼく、様子を見て来るよ。」
 だれかが立ちあがる気配(けはい)だった。
 次郎は、それであわてて事務室のほうにいそいだ。
 かれは、事務室にはいっていって自分の机のまえに腰(こし)をおろすと、急に、立聞きをしたり、あわてて逃(に)げだしたりした自分のみじめさが省(かえり)みられて、さびしかった。それは、変にいらいらしたさびしさだった。しだいに腹もたって来た。いつもなら、ごく気軽に、いまのことを朝倉先生に報告するところだったが、――そして今日の場合、とくべつその必要が感じられていたはずなのだったが――なぜか、かれは、いつまでも机の上にほおづえをついたまま、動こうとしなかった。
 それでも、七時になると、かれは元気よく立ちあがって、廊下(ろうか)の板木(ばんぎ)を打ち、そのまま広間にはいって行った。夜の懇談会がはじまる時刻だったのである。
 みんなが集まると、朝倉先生のつぎの言葉で懇談会がはじまった。
「では、これから、いよいよおたがいの共同生活の具体的な設計にとりかかりたいと思う。それには、まず、各室で話しあった結果をいちおう報告してもらって、それを手がかりに相談をすすめることにしたい。どの室からでもいいから、遠慮(えんりょ)なく発表してくれたまえ。」
 塾生たちは、しかし、そう言われても、おたがいに顔を見合わせるだけで、だれも口をきこうとするものがなかった。次郎は、第一室のしゃがれ声の発言を、今か今かと待っていたが、それもすぐには出そうになかった。
 かなりながい沈黙がつづいた。
 朝倉先生は、しかし、そんなことは毎回慣らされていることなので、ちっとも困ったような顔を見せなかった。みずから考え、みずから動く訓練よりも、指導者の意志どおりに動く調練をうけることによって、よりよき人間になると信じこまされて来た青年たちにたいして、塾堂の主脳者たる自分から、そんなふうに相談をもちかけることが、いかに場ちがいな感じを彼等(かれら)にあたえるかは、先生自身が、一ばんよく知っていたのである。
 先生は、しんぼうづよく待った。待てば待つほど沈黙が探まった。しかし、こうした沈黙というものは、ある程度以上に深まるものではない。またそうながくつづくものでもない。というのは、だれも自分の考えを深めるために沈黙しているのではなく、ただ沈黙のやぶれるのをおたがいに待っているにすぎないような沈黙でしか、それはないのだから。――このことについても、先生は決して無知ではなかったのである。
 事実、三分とはたたないうちに、沈黙に倦怠(けんたい)を感じたらしい視線が塾生たちの間にとりかわされはじめた。すると、その視線にはげまされたように、ひとりの塾生が口をきった。
「ぼくは第五室ですが、さっき板木が鳴るまで真剣に話しあってみました。しかし、話がばらばらになって、まだ、まとまった案が何もできていないのです。ほかの室はどうでしょうか。」
 いくぶん気がひけるといった調子で、そういったのは、塾生中での最年長者でもあり、郡の連合青年団長でもあるというので、次郎が気をきかして、大河無門と同室に割り当てておいた、飯島好造という青年だった。職業は農業となっていたが、農村青年らしい風はどこにもなく、つやつやした髪(かみ)を七三にわけて、青白い額(ひたい)にたらし、きちんと背広を着こんだところは、どう見ても小都会のサラリーマンとしか思えなかった。
 本人が第五室といったので、朝倉先生もすぐ思いあたったらしく、名簿(めいぼ)を見ながら、たずねた。
「飯島君だね。」
「ええ。」
 飯島は、自分の存在がすでに塾長にみとめられているのを知って、ちょっと意外に感じたらしかったが、つぎの瞬間(しゅんかん)には、もう、いかにも得意らしくあたりを見まわし、自分をみんなに印象づけようとするかのような態度を見せていた。
 朝倉先生は、その様子を見まもりながら、
「そりゃあ、二時間や三時間のわずかな時間で、ここの生活全体についての案をまとめあげるわけには行かないだろう。しかし、部分的なことで、こんなことをぜひやってみたいというような希望なら、何か一つや二つはまとまりそうなものだね。」
「それがなかなかそうはいかないんです。」
 と、飯島は、もうすっかりなれなれしい調子になり、
「何しろ、責任をもって話をまとめる中心がないんでしょう。ですから、ただめいめいにわいわいしゃべるだけなんです。中には、手紙を書いたり、雑誌をよんだりして、話に加わらないものもありますし……」
「なるほどね。」
 と、朝倉先生は、飯島の言うことを肯定(こうてい)するというよりは、むしろさえぎるように言って、眼(め)をそらした。そしてちょっと思案したあと、
「ほかの室はどうだね」
 返事がない。塾生たちの大多数は、ただにやにや笑っているだけである。次郎は、第一室の一団に眼をやったが、気のせいか、どの顔も変に緊張(きんちょう)しているように思えた。
「どの室も、やはり同じかな。」
 と、朝倉先生は微笑(びしょう)しながら、
「すると、わずか六人の共同生活でも、だれか中心になる人がいないと、うまく行かないという結論になるわけだね。」
 みんなの中には、それを自分たちに対する非難の言葉とうけとって、頭をかいたものもあった。しかし、大多数は、それがあたりまえだ、といった顔をしている。とりわけ、飯島の顔にそれがはっきりあらわれていた。かれはいくらか抗議(こうぎ)するような口調で言った。
「ぼくは、中心のない社会なんて、まるで考えられないと思います。おたがいに協力することは、むろんたいせつですが、みんなが平等の立場でそれをやったんでは、どんな小さな社会でも、まとまりがつかなくなってしまうのではないでしょうか。」
「大事な問題だ。そういうことを理論と実生活の両面から、もっと深く掘(ほ)りさげて行くとおもしろいと思うね。平等という言葉なんかも、うかうかとは使えない言葉だし……しかし、そうした研究は、ゆっくり時間をかけてやることにして、とりあえず必要なことは、あすからの生活を具体的にどうやっていくかだ。まがりなりにもその生活計画がたたなくては、まるで動きがとれないのだから、さしあたり必要なことだけでも、きめておこうじゃないか。」
「そんなことは、先生のほうでびしびしきめていただくほうが、めんどうがなくていいんじゃありませんか。」
「めんどうがない? なるほどめんどうはないね。しかし、みんなでめんどうを見るのが、ここの生活ではなかったのかね。」
「しかし、それでは、時間ばかりくって、実質的なことが何もできなくなってしまうと思うんです。」
「何が実質的なことか、それも問題だ。君が時間のむだづかいだと考えていることに、あんがい人間としての実質的な修練に役だつことがないとも限らんからね。しかし、そんなこともおいおい考えることにしよう。そこでさっきの話だが、どの室でもわずか六人の話しあいが、今のままでは、うまくいかないということだったね。」
「そうです」
「各室だけの話しあいさえうまくいかないようでは、これだけの人数の共同生活が成りたつ見込(みこ)みは絶対になさそうだ。だから、まず、第一にその問題から解決してかからなければならないが、それはどうすればいいのかね。」
「室長といったものをきめさえすれば、何でもなく解決するんじゃありませんか。」
 飯島は、いかにも歯がゆそうに言った。
「そう。まあ、そんなことかな。室長というものが、はたしてどの程度に必要なものか、あるいは、六人ぐらいの人数では、これからさき君たちの生活のやり方次第(しだい)で、その必要がないということになるかもしれん。しかし、さっきの話のようだと、少くとも現在のところは、それをきめておいたほうがいいらしいね。で、どうだ、さっそく今夜のうちにそれをきめることにしては?」
 むろん、どこからも反対意見は出なかった。朝倉先生は、しばらくみんなの顔を見まわしていたが、
「では、懇談会が終わったら、すぐ各室で相談してきめてくれたまえ。それがまとまらないなんて言ったら、今度は、君らの恥(はじ)だよ。君ら自身でそうすることにきめたんだから。」
 みんなが笑った。その笑いの中から、
「投票で選挙するんですか。」
「そんなことは、私にきいたってわからない。君らの室長を君らできめるんだから。」
 朝倉先生は、くそまじめな顔をしてこたえた。それから、
「これで、生活設計の大事な一つである組織が、どうなりきまったわけだ。各室が室長を中心に小さな共同社会を作る。それが集まって、塾全体の共同社会ができる。その中心は塾長である私。それでいいね。」
 みんなは、また笑いだした。なあんだ、そんなことが生活設計か、という意味の笑いらしかった。すると朝倉先生は、それをとがめるように、きっとなって言った。
「君らは、そんなことはあたりまえだ、今さら生活設計だの何だのと言ってさわぐことはない、と考えているかもしれない。しかし、これは大事なことだ。だれかにきめてもらった組織と、自分たちでその必要を感じて作った組織とは、全然意味がちがうからね。君らは、君ら自身の幾時間(いくじかん)かの体験によって、室長の必要を感じ、その制度を作り、その人選をすることになった。そうしてできあがった室長は、よかれあしかれ、君ら自身のものだ。したがって室長の言動に対しては君ら自身が責任を負わなければならない。そういったぐあいに、すべてを自分のものにしていくところに、おたがいの生活設計の意義があるんだ。何も世間をあっと言わせるような、珍(めずら)しい生活形式を強(し)いて作りだそうというのではない。形式は、むしろ平凡(へいぼん)なほうがいい。その平凡な形式を、ほんとうに自分のものにして、内容を深めていこうというのが、ここの生活のねらいなんだ。どうか、そのつもりで、奇抜(きばつ)な案でなければいけないだろう、などという考えにとらわれないで、実際君らが、君ら自身の生活に必要だと思っていることを、正直に提案(ていあん)してもらいたいと、私は思っている。そこで、――」
 と、先生は、次第にやわらいだ顔になり、
「組織については、むろんまだほかにいろいろ工夫しなければならないことがあるだろう。しかし、さしあたっては、室長と塾長とがあれば、どうにかやっていける。ところで、さっそく困るのは、明日からの行事だ。何時に起きて何時にねて、その間に何をするのか、とりあえず明日一日のことだけでもきめておかないと、まったく動きがとれない。それについて、君らに何か考えはないかね。」
「先生!」
 と、かなり激昂(げきこう)したような声が、みんなの耳をいきなり刺激(しげき)した。それは次郎の耳にはききおぼえのある、しゃがれた声だった。
「そんなことまで、みんなで相談してきめるんですか。」
 みんなの視線が一せいにそのほうにあつまった。頬骨(ほおぼね)の高い、眉(まゆ)の濃(こ)い、いくらか南洋の血がまじっていそうな顔だちの、二十四五歳(さい)の青年が、膝(ひざ)に両腕(りょううで)を突(つ)っぱり、気味のわるいほど眼をすえて、朝倉先生を見つめている。
「むろんそうだよ。みんなの生活は、みんなで相談してきめるよりしかたがないだろう。」
 朝倉先生はしずかにこたえた。
「しかたがあると思うんです。」
「どういう方法があるかね。」
「ここは塾堂でしょう。そして先生はその塾長でしょう。」
「そうだ。それで?」
「先生には、何もご方針はないのですか。」
「方針はあるとも。それは、今朝ほどから、くりかえし話したとおりだ。」
 青年は、つぎの言葉にちょっとまごついたようだったが、
「ああいうことがご方針なら、それはわかりました。しかし、毎日の行事まで、ぼくたちに相談してきめるなんて、あんまり無責任じゃありませんか。」
「無責任? これはきびしいね。」
 朝倉先生は、そう言って苦笑したが、
「そりゃあ、私のほうでも、一通りの案は作ってあるよ。君らの相談が行きづまったり、あんまり無茶(むちゃ)だったりする時の参考にするつもりでね。だから、君が思っているほど無責任ではないつもりだ。」
「案があったら、そのとおりに実行してください。ぼくたちは、うんと鍛(きた)えていただくつもりで、わざわざ田舎(いなか)から出て来たんですから、先生の案がどんなにきびしくても、決して驚(おどろ)かないつもりです。」
「いい覚悟(かくご)だ。」
 と、朝倉先生は相手の顔から眼をはなして、塾生名簿を見ながら、
「君は何室だったかね。」
「第一室です。」
「名前は?」
「田川大作。」
 田川の返事は、しだいにぶっきらぼうになっていった。
 名簿には、「熊本県、二十六歳、村農会書記、村青年団長、農学校卒」とあり、備考欄に、「歩兵伍長(ごちょう)、最近満州より帰還(きかん)」とあった。塾生たちも、しきりに名簿と本人の顔とを見くらべた。本人は、しかし、それでてれた様子はすこしもなく、相変わらず力(りき)みかえって、朝倉先生の顔を見すえていた。
 朝倉先生は、名簿から眼をはなして、田川と視線をあわせながら、
「君の覚悟は、なるほどいい覚悟だが、しかし、そういう覚悟は、何かとくべつの場合の覚悟で、日常の生活を建設するための覚悟ではないようだね。第一、自分というものをあまりに軽んじすぎている。というよりは、自分の力を惜(お)しみすぎている、と言ったほうが適当かもしれないがね。」
「それはどうしてです? ぼくは――」
 と、田川は、ふるえる唇(くちびる)をつよくかんだあと、
「ぼくは軍隊生活をやって来た人間ですが、自分の力を出しおしみしたことなんか、一度だってなかったんです。これからもないつもりです。ぼくは、今日、平木中佐殿(どの)が言われたように、なにごとにでも死ぬ覚悟でぶっつかるつもりでいるんです。なまぬるいことは、ぼく、大きらいです。」
「よろしい。私は、だから、それはそれとしていい覚悟だと言っているんだ。しかし、君はだれかに鍛えてもらうことばかり考えて、自分で自分を鍛える努力を惜しんでいるんではないかね。」
「そんなことはありません。ぼくは、自分を鍛えたいと思ったからこそ、自分で希望して、わざわざ遠い田舎からこんなところにも出て来たんです。」
「しかし、自分の生活のことを自分で考えてみようともしないで、人に計画してもらおうとしているんだろう。それで自分の力を惜しんでいないといえるかね。」
 田川は返事に窮(きゅう)したらしく、黙(だま)りこんだ。しかし、心で納得(なっとく)したようには、すこしも見えなかった。かれは、それまで膝の上に突っぱっていた両腕を組んで、天井(てんじょう)を仰(あお)いだ。
 朝倉先生は、注意ぶかくその様子を見まもっていたが、
「田川君――」
 と、ものやわらかな、しかし、どこかに重みのある声で呼びかけた。
「君の気持ちは、私にはわからんことはない。大いに鍛練(たんれん)されるつもりで、はるばるやって来て、ちっとも鍛練してもらえないとなったら、そりゃあ腹もたつだろう、無理はないよ。しかし、君がのぞんでいるような鍛練なら、君はもう軍隊生活で、十分うけて来たんではないかね。」
 天井をにらんでいた田川の眼が、やっと朝倉先生のほうにもどって来た。しかし返事はしない。朝倉先生は、すこし考えてから、
「どうも、君と私とでは、鍛練という言葉の意味が、まるでちがっているようで、そこいらに君の不平の原因もあるようだが、自分たちの生活を自分たちで築きあげる能力を養うことも、一つの鍛練だと考えて、ここでは一つ、そういった意味での鍛練に精進(しょうじん)してみる気にはなれないかね。」
 田川の顔には、冷笑に似たものが浮(う)かんだだけだった。
「やはり納得が行かないようだね。」
 と、朝倉先生はちょっと眼をふせたが、すぐ何か決心したように、
「じゃあ、君にたずねるが、君は、私のほうできめたことなら、それにどんな無理があっても、無条件に従う気なんだね。」
「そうです。それがぼくたちの鍛練のためでさえあれば、喜んで従います。」
「もし、私が、明日からの起床(きしょう)は午前三時、就寝(しゅうしん)は午後十一時ときめたとしたら?」
 田川は、かなりめんくらったらしく、眼玉(めだま)をきょろつかせたが、すぐ決然として、
「むろん、その通りにします。」
「よく考えてから、答えてくれたまえ。睡眠(すいみん)時間はわずかに、四時間だよ。」
「いいんです。覚悟をきめたら、がまんできないことはありません。ナポレオンは四時間しかねなかったんです。」
「なるほど。ナポレオンはそうだったそうだね。」
 と、朝倉先生は微笑しながら、
「しかし、一日や二日はがまんできるだろうが、一か月半もの期間、はたしてできるかね。」
「できます。」
「君はできても、ほかの諸君はどうだろう。」
「そうきまったら、その覚悟をするほかありません。それが共同生活です。」
「ふむ、なるほどそれが共同生活か。しかし、そう無理をしては、病人が出るかもしれないね。」
「そんなことで病気になるのは覚悟が足りないからです。」
「かりに君らの覚悟次第で病人は出ないとしても、飯島君がさっき言った実質的なことがお留守(るす)になる心配はないかね。」
「それも覚悟次第です。」
 田川は、追いつめられて、何もかも「覚悟」でかたづけたが、もうすっかりやけ気味らしかった。朝倉先生は、それ以上、深追(ふかお)いすることを思いとまって、しばらくじっと田川の顔を見つめていたが、
「君、片意地(かたいじ)になっては、いけないよ。それじゃあ、ちっとも君自身の心の鍛練にはならない。とかく世間では、意地をはって心にもないやせがまんをするのを、鍛練だと思いがちだが、それは鍛練の本筋(ほんすじ)ではない。鍛練の本筋は、すなおな気持ちになって、道理に従っていく努力を積むことなんだよ。君にはその大事な本筋が、まだわかっていないんじゃないかね。……いや、君だけじゃない。私の見るところでは、今の日本人の大多数に、それがわかっていないらしい。そのために、日本は今、国全体として変に力(りき)みかえり、意地をはって、非常な無理をやっている。国の内でも外でも、意地をはり、無理をやることが、日本の生きて行くただ一つの道ででもあるかのような考え方で、すべてのことが運ばれているんだ。だから、自然、君らも、鍛練といえば、すぐ、意地をはったり無理をやったりすることだ、というふうに考えたがるのかもしれないが、しかし、そうした傾向(けいこう)は、日本にとって決して喜ぶべき傾向ではないよ。私は、そうした傾向から、おそろしい結果が近い将来に生じて来やしないかと、それをいつも心配しているぐらいなんだ。私が、こうして、及(およ)ばずながら、この塾の責任をひきうけているのも、せめては、ここに集まって来る青年諸君だけにでも、すなおな、道理にかなった共同生活の建設に努力してもらって、その体験をとおして、いくらかでもそうした危険な傾向を阻止(そし)してもらいたいためなんだ。わかってもらえるかね。」
 朝倉先生は、しだいに、しみじみとした調子になっていった。田川も、さすがに、それでいくらか心を動かされたらしく、もう、あからさまな反抗的(はんこうてき)態度は示していなかった。しかし、何かまだ腑(ふ)におちないところがあるのか、ちょっと首をふっただけで、やはり返事はしなかった。
 すると、それまで、窓の近くにいて、腕をくみ、眼をつぶり、何か深く考えこんでいるらしく見えていた一人の青年が、急に眼を見ひらいて、言った。
「ぼくは、先生のおっしゃることが、やっと、どうなりわかったような気がします。しかし、すいぶんむずかしい生活ですね。」
 どちらかというと、青白い顔の、知性的な眼をした、しかし十分労働できたえたらしい、がっちりした体格の持ち主だった。
「第三室の青山敬太郎君です。」
 次郎が朝倉先生に小声で言った。
 青山の推薦者(すいせんしゃ)から塾堂に来た手紙によると、かれは二十三歳の若さで、弘前(ひろさき)の郊外に、相当大きなりんご園を経営しており、しかも、そのりんご園の中に、私財を投じて、付近の青年たちのために小さな集会所を建て、毎晩のように、自分もいっしょになって読書会や農業研究会などをやっている、とのことであった。そのせいで、大河無門とともに最初から次郎の注目をひいていた一人だったのである。
 朝倉先生は、青山の青年集会所のことが簡単に名簿の備考欄に書きこまれてあるのに目をとおしながら、何度もうなずいていたが、
「むずかしいっていうと?」
「強制されないでうまくやっていくほど、むずかしいことはないと思うんです。」
「しかし、強制されないとやれないほど、むずかしいことをやろうというんではないよ。」
「ええ、それはわかっています。」
「常識をはたらかせさえすれば、だれにもできる生活をやろうというんだから、こんなやさしいことはない、とも言えると思うがね。」
「しかし、常識をはたらかせると言っても、ふまじめではこまるんでしょう。」
「そりゃあむろんさ。まごころのこもった常識でなくちゃあ――」
「そのまごころのこもった常識というのが容易ではないとぼくは思うんです。常識的な、平凡(へいぼん)なことをやる時ほど、人間はふまじめになりがちなものですから。」
「うむ。」
 と、朝倉先生は大きくうなずいて、
「たしかに、君の言うとおりだ。その点では、ここの生活は非常にむずかしい。これまで、鍛練というと、とかく常識はずれのことばかりが考えられて、まともな日常生活に必要な常識を、まごころをこめてはたらかすための鍛練ということは、ほとんど忘れられていたようだが、実は、一ばんたいせつで、しかも一ばんむずかしいのは、そうした鍛練なんだ。そのたいせつでむずかしい鍛練を、これから君らおたがいの間でやってもらおうというのが、ここの生活の目的なんだから、そういう意味で、君がここの生活をむずかしいと言ったのは、ほんとうだ。しかし、そこに気がついて、そのつもりで努力する気になってさえもらえば、もうほかにむずかしいことはないだろう。特別にすぐれた能力がなくても、常識のある人間なら、だれにだってできる生活なんだからね。ここの生活を甘(あま)く見てもらっても困るが、おびえる必要もないよ。」
 塾生たちの表情は、さまざまだった。次郎は、その一人一人の顔を注意ぶかく観察していたが、先生の言ったことを十分理解したのは、青山のほかには大河無門だけではないかという気がした。
 朝倉先生は、そこでちょっと腕時計(うでどけい)をのぞいたが、
「話がついいろんなことにとんだが、しかし、むだではなかったようだね。ところで、かんじんの明日からの行事計画に、まだちっとも目鼻がついていないが、どうだね、ここいらで話を具体的なことにもどしては? もし君らのほうに特別な案がなければ、私のほうから話のきっかけを作る意味で、それを出してみてもいいが。」
「どうかお願いします。」
 飯島がまっさきにこたえた。つづいて同じような答えがほうぼうからきこえた。飯島はそれにつけ足すように言った。
「はじめからそうしていただくと、むだな時間がはぶけてよかったんですがね。」
 朝倉先生は、あっけにとられたように飯島の顔を見た。それから、ちょっと皮肉らしい苦笑(くしょう)をうかべながら、
「なるほどね。しかし、君らにうのみにされて、あとで腹いたでも起こされては困ると思ったものだからね。」
 塾生たちの中に笑ったものがあった。しかし、それはほんの二三人にすぎなかった。大多数は先生の言った皮肉の意味が、まだ、まるでわかっていないかのような、まじめくさった顔をしていた。飯島もやはりその一人だった。
 朝倉先生は、ちょっとため息をついたあと、
「では、まず起床と就寝の時刻からきめていこう。これは、まさか、午前三時に起きて午後十一時にねる、というわけにはいくまいね。それとも、鍛練のつもりで、やってみるかね。」
「わあっ!」
 塾生たちは、一せいにどよめいて、頭に手をやった。田川も、さすがに苦笑しながら、頭をかいている。
「みんな不賛成らしいね。すると、何時が適当かな。」
「先生の原案はどうなんです。」
 飯島がまた原案を催促(さいそく)した。
「これぐらいは、私から原案を出さなくても、何とかまとまりそうなものだね。」
「しかし、みんなで相談していたら、起床はなるだけおそいほうがいいということになりゃあしませんか。」
「あるいは、そういうことになるかもしれないね。極端(きょくたん)にいうと、十時起床ということになるかもしれない。」
「かりにそうなるとしたら、それでもいいんですか。」
「君自身はどう思う? 私の意見より、まず君自身の意見からききたいね。」
「ぼくは、むろん、いけないと思います。」
「君のまじめな常識がそれを許さないだろう。」
「そうです。」
「そうだとすると、みんながまごころをこめて常識をはたらかしさえすれば、落ちつくべきところに落ちつくんではないかね。」
「そうなればいいんですが、実際は、やはり、なるだけおそくということになりそうに思うんです。」
「その実際を、おたがいに鍛(きた)えあうのが、ここの生活だろう?」
「はあ。しかし、それには、先生のほうからもいくらかの強制を加えていただかないと――」
「やはり強制が必要だというのかね。それじゃあ話はまた逆もどりだ。」
 朝倉先生は、手にもっていた塾生名簿を畳(たたみ)のうえになげだして、腕をくんだ。そして、かなりながいこと、眼をつぶってだまりこんでいたが、やがて眼をひらくと、ちょっと飯島のほうを見たあと、みんなの顔を見まわして言った。
「強制されると、どんな不合理なことにでも盲従(もうじゅう)する。おたがいの相談に任されると、なまけられるだけなまける工夫をする。もしそういうことが人間にとってあたりまえのことだとして許されるとすると、いったい人間の自主性とか良心とかいうものは、どういう意味をもつことになるんだ。いや、いつになったら、人間はおたがいに信頼(しんらい)のできる共同生活を営(いとな)むことができるようになるんだ。」
 先生の言葉の調子は、はげしいというよりは、むしろ悲痛だった。
「私は、君らを、良心をもった自主的な人間としてここに迎(むか)えた。だから、かりに君ら自身が、君らを機械のように取りあつかってくれとか、犬猫(いぬねこ)のようにならしてくれとか、私に要求したとしても、私には絶対にそれができない。私は、あくまで、君らが人間であることを信じ、君らに人間としての行動を期待するよりほかはないのだ。むろん私も、人間の世の中に、強制の必要が全然ないとは思っていない。弱い人間にとっては、やはりそれが必要なこともあるだろう。時には、それが弱い人間を救う唯一(ゆいいつ)の方法である場合さえあるのだ。それは私にもよくわかっている。しかし、私は、君らがこの塾堂の生活にもたえないほど弱い人間であるとは思っていないし、また思いたくもない。だから、私は、君らが何かの強制力にたよるまえに、まず君ら自身の良心にたより、人間として、君らの最善をつくしてもらいたいと思っているんだ。君らが、ほんとうにその気になりさえすれば、少なくとも、この塾堂の生活ぐらいは、何の強制もなしに運営していけるだろうと、私は信じている。君ら自身も、人間であるからには、そのぐらいの自信は持っていてもいいだろう。いや、持っていなければならないはずなのだ。もし君らに、それだけの自信、――人間としてのそれだけの誇(ほこ)りも持てないとすると、私としては、もう何も言うことはない。明日からの行事計画をたてることも、まったく必要のないことだ。……どうだ、飯島君、やはり強制がなくてはだめかね。」
「わかりました。」
 飯島は、いくぶんあわて気味にこたえた。それだけに、いかにも無造作(むぞうさ)な、たよりない答えだった。
「田川君は、どうだね。」
 田川は、それまで、眉根(まゆね)をよせ、小首をかしげて、いやに深刻そうに畳(たたみ)の一点を見つめていたが、だしぬけに自分の名をよばれて、飯島とはちがった意味で、あわてたらしかった。しかし、かれはすぐにはこたえなかった。こたえるかわりに、何度も小首を左右にかしげ直し、するどい眼で畳をにらみまわした。それから、朝倉先生のほうをまともに見て、そのしゃがれた声をとぎらしがちにこたえた。
「ぼく……もっと……考えてみます。」
「もっと考える? ふむ。腑(ふ)に落ちなければ、腑に落ちるまで考えるよりないだろう。自分で考えないで、人の言うことをうのみにする生活なんて、まるで意味がないからね。」
 朝倉先生は、そう言って微笑した。そして、それ以上口で説きふせることを断念した。いずれはこれからの生活体験が、徐々(じょじょ)にかれらを納得させるだろう、というのが先生のいつもの信念だったのである。
「田川君のほかにも、まだよく納得がいかないでいる人がたくさんあるだろうと思うが、そうした根本問題については、これから何度でもむしかえして話しあう機会があるだろう。そこで、それはいちおう未解決のままにして、ともかくも具体的な問題にはいることにしょう。じゃあ、時間もおそくなったし、私のほうから案を出すことにするよ。」
 先生は、そう言って、次郎に目くばせした。次郎は待ちかまえていたように、自分のそばに置いていた紙袋(かみぶくろ)から、ガリ版の印刷物をとり出して、みんなに配布した。
 それには、組織や、講義科目や、諸行事の時間割など、必要な諸計画が一通りならべられていたが、そのどの部分を見ても常識からとびはなれたようなことは一つもなかった。塾堂と名のつくところでは、そのころほとんどつきもののようになっていた「みそぎ」とか、「沈黙(ちんもく)の労働」とか、およそそういった、いわゆる「鍛練(たんれん)」的な行事が全く見当たらないのは、むしろみんなには、ふしぎに思われたくらいであった。五時半起床というのが、二月の武蔵野(むさしの)では、ちょっとつらそうにも思えたが、それも青年たちにとっては、決しておどろくほどのことではなかった。むしろかれらをおどろかしたのは、生活にうるおいを与(あた)えるような行事が、かなりの程度に、織(お)りこまれていることであった。とにかく、見る人が見れば、日常生活を深め高める目的で、すべてが計画されているということが明らかであった。
 相談は安易(あんい)にすぎるほど、すらすらとはこび、ほとんど無修正だった。特異(とくい)な行事を期待していた塾生たちにとっては、多少物足りなく感じられたらしかったが、そのために、これという強硬(きょうこう)な主張も出なかった。最も多く発言したのは飯島だった。しかし、それも、自分の存在を印象づける目的以上の発言ではなく、たいていは原案賛成の意見をのべ、同時に進行係をつとめるといったふうであった。田川は、はじめから終わりまで、一言も口をきかなかった。
 ただ、組織に関することで、室編成のほかに、生活内容の面から、いろいろの部が設けてあり、全員が期間中に、一度はどの部の仕事も体験するという仕組みになっていたので、その運営の方法や、人員の割り当てなどについて、いろいろの質問が出、その説明に大部分の時間がついやされたのであった。
 就寝(しゅうしん)は九時半、消燈(しょうとう)十時ときまったが、懇談会を終わったときには、すでに九時半をすぎていた。
 解散するまえに、朝倉先生が言った。
「これで、ともかくも、ここの生活設計がおたがいのものとしてできあがった。おたがいのものとしてできあがった以上、それがうまくいかなければ、おたがいの責任だ。むろんこの設計は、明日からのすべり出しに、いちおうのよりどころを与えたまでで、これが最上のものであるとは保証できない。だから、だんだんやっていくうちに、不都合な点があれば、いつでも修正しようし、また、新しい案が出て、それがいいものであれば、どしどしとり入れて行くことにしたい。そういうことをやるのも、やはりおたがいの責任だ。あらためて言うが、友愛と創造、この二つを精神的基調として、これからのおたがいの生活を、すみからすみまで磨(みが)きあげ、いきいきとした、清らかな、そして楽しいものに育てあげていきたいと思う。」
 そのあと、就寝前の行事として、最初の静坐(せいざ)がはじまった。塾生たちは、各室ごとに、きちんと縦(たて)にならび、朝倉先生の指導にしたがってその姿勢をとった。
 次郎は足音をたてないように、みんなの間をあるきまわり、いちじるしく姿勢のわるいのを見つけると、それをなおしてやった。
 まっさきにかれの目についたのは、田川だった。田川はいやに胸を張り、軍隊流の不動の姿勢でしゃちこばっていた。そして、次郎が肩(かた)から力をぬかせようと、どんなに骨をおっても、なかなかそうはならなかった。これに反して、飯島は最初から、ごく器用に正しい姿勢をとっていた。もしかれが、おりおりうす目をあけて朝倉先生の顔をのぞくようなことさえしなかったら、かれの静坐は、塾生の中でも、最もすぐれた部類に属していたのかもしれなかったのである。
 静坐は十分足らずで終わった。
 次郎は、いつになくつかれていたが、床(とこ)についてからも、なかなか寝(ね)つかれなかった。

   六 板木の音

 コーン、コーン、――コーン、コーン。
 凍(こお)りついたような冷たい空気をやぶって、板木が鳴りだした。そとはまだ、真っ暗である。白木綿(しろもめん)の、古ぼけたカーテンのすき間から、硝子戸(ガラスど)ごしに、大きな星がまたたいているのが、はっきり次郎の眼に映った。
 かれは、あたたかい夜具をはねのけ、勢いよく起きあがって、電燈(でんとう)のスウィッチをひねった。その瞬間(しゅんかん)、枕時計(まくらどけい)がジンジンと鳴りだした。きっかり起床(きしょう)時刻の五時半である。
 いそいで、寝巻(ねまき)をジャンパーに着かえ、夜具を押し入れにしまいこむと、ぞんぶんに窓をあけた。風はなかったが、そとの空気が、針先(はりさき)をそろえたように、顔いっぱいにつきささった。
 かれは、そのつめたい空気の針をなぎ払(はら)うように、ばたばたと部屋中にはたきをかけはじめた。
 開塾(かいじゅく)中は、次郎は、朝倉先生夫妻だけを空林庵(くうりんあん)に残して、本館の事務室につづく畳敷(たたみじ)きの小さな部屋に、ひとりで寝起きすることにしているのである。
 次郎がはたきをかけおわり、箒(ほうき)をにぎるころになっても、ほかの部屋は、まだどこもひっそりと静まりかえっていて、板木の音だけが、いつまでも鳴りつづけていた。
 かれは、むろん、そのことに気がついていた。しかし、べつに気をくさらしてはいなかった。毎回開塾の当初はそうだったし、時刻どおりに板木が鳴ることさえ珍(めずら)しかったので、今朝の板木当番の正確さだけでも上できだぐらいに思っていたのである。
 かれは、掃除(そうじ)をしながら、根気よく鳴りつづけている板木の音に、ふと好奇心(こうきしん)をそそられた。それは、鳴りはじめた時刻がきわめて正確だったからばかりでなく、その音の調子に何かしら落ちつきがあり、しかも、いつまでたってもそれが乱れなかったからであった。
(最初の朝の板木の音が、こんなだったことは、それまでにまったくないことだ。だれだろう、今朝の当番は?)
 そう思ったとき、自然に、かれの眼にうかんで来た二つの顔があった。それは、大河無門の顔と、青山敬太郎のそれだった。ゆうべの懇談会の様子から判断して、こんな落ちついた板木の打ちかたのできるのは、おそらくこの二人のほかにはないだろう。そして、第一週の管理部の責任をひきうけたのは第五室だったのだ。――そこまで考えると、かれはもう、今朝の板木が大河の手で打たれていることはまちがいないことだと思った。
 かれは、自分の部屋の掃除をすますと、そっと事務室との間の引き戸をあけた。いつもなら、そのあとすぐ事務室の掃除にとりかかる順序だったが、しばらく敷居(しきい)のところに突っ立って耳をすました。それから、足音をしのばせるようにして入り口に近づき、ドアを細目にあけて、板木のほうに眼をやった。板木は、事務室前の廊下(ろうか)と中廊下との角に、斜(なな)め向きにかかっていたのである。
 板木を打っていたのは、はたして大河無門だった。シャツにズボンだけしか身につけていず、足袋(たび)もはいていなかった。しかし、べつに寒そうなふうでもなく、両足をふんばり、頭から一尺ほどの高さの板木を、近眼鏡の奥(おく)から見つめて、いかにも念入りに、ゆっくりと槌(つち)をふるっていた。
 次郎は、思いきりドアをあけ、
「おはようございます。」
 とあいさつして、大河に近づいた。
 大河は、その時、ちょうど槌をふりあげたところだったが、それを打ちおろしたあと、ちらと次郎のほうを見て、あいさつをかえした。
 そして、そのまま、すこしも調子をかえないで、また槌をふるいつづけた。
「もういいでしょう。ずいぶんながいこと打ったんじゃありませんか。」
 次郎が、寒そうに肩(かた)をすくめながら、言うと、
「ええ、でも、まだだれも起きた様子がないんです。」
 と、大河は槌をふるいながら、こたえた。
「しかしもう眼はさましていますよ。」
「そうでしょうか。」
「きっとさましていますよ。どの室にも、眼をさましているものが、もう何人かはあるはずです。」
 大河は、それでも同じ調子で打ちつづけながら、
「いつもこんなに起きないんですか。」
「ええ、はじめのうちは、いつもこんなふうですよ。五分や七分はたいていおくれます。」
「すると、起こしてまわるほうが早いですかね。」
「そうかもしれません。しかし、それはやらないほうがいいでしょう。板木(ばんぎ)で起きる約束(やくそく)をしたんですから。」
「じゃあ、やはり打ちつづけるよりほかありませんね。」
「打ちやめると、それでかえって起きることもありますがね。」
「なるほど。……ふん。……そういうものですかね。……あるいはそうかもしれない。」
 大河は、ひとりごとのように、そう言いながら、やはり打ちやめなかった。そして、相変わらず板木に眼をすえ、
「ぼくたち、学生時代の学寮(がくりょう)生活を自治だなんていって、いばっていたものですが、本気にやろうとすると、実際むずかしいものですね。」
「ええ、結局は一人一人の問題じゃないでしょうか。」
「ぼくもそうだと思います。命令者に依頼(いらい)する代わりに、多数の力に依頼するんでは、自治とは言えませんからね。」
 次郎は大河の横顔を見つめて、ちょっとの間だまりこんでいたが、ふと、何か思いついたように、
「ちょっとぼくに打たしてみてください。」
 大河は板木を打ちやめ、けげんそうに次郎のほうをふり向いて槌をわたした。次郎は、すぐ大河に代わって板木を打ちだしたが、その打ちかたは、一つ一つの音が余韻(よいん)をひくいとまのないほど急調子で、いかにも業(ごう)をにやしているような乱暴さだった。
 大河は、あきれたように、その手ぶりを見つめて立っていた。次郎は、しかし、それには気づかす、おなじ乱暴な調子で、つづけざまに三四十も打つと、急にぴたりと手をやすめた。そして、半ば笑いながら、言った。
「板木を打つのは、もうこれでおしまいにしましょう。これで起きなけれぼ、ほっとくほうがいいんです。」
 ところで、かれの言葉が終わるか終わらないうちに、二三の室から、急にさわがしい人声や物音が、廊下をつたってきこえだした。
「起きだしたようです。もうだいじょうぶですよ。」
 次郎は、そう言って、槌を柱にかけ、事務室のほうにかえりかけた。すると、その時まで眉根(まゆね)をよせるようにしてかれの顔を見つめていた大河が、急に、真赤な歯ぐきを見せ、にっと笑った。そして、
「なんだか、ひどく叱(しか)りとばされて、やっと起きた、といったぐあいですね。」
「はっはっはっ。」
 次郎は愉快(ゆかい)そうに笑って、事務室にはいり、すぐ掃除(そうじ)をはじめたが、その時になって、大河のにっと笑った顔と、そのあとで言った言葉とが、変に心にひっかかりだした。
 塵(ちり)を廊下に掃(は)き出すと、かれはバケツに水を汲(く)んで来て、寝間(ねま)と事務室とに雑巾(ぞうきん)がけをはじめた。窓をすっかりあけはなった、まるで火の気のない、二月の朝の空気は、風がないためにかえってきびしく感じられた。これまでたびたび同じ経験をつんできたかれにとっても、仕事は決してなまやさしいものではなかった。どうかすると、手がしびれるようにかじかんで、雑巾が思うようにしぼれず、また、拭(ふ)いたあとの床板が、つるつるに凍ることさえあるのだった。かれは、しかし、二つの室をすみからすみまで、たんねんに拭(ふ)きあげた。
 もう、そのころには、廊下を行き来する塾生たちの足音も頻繁(ひんぱん)になり、ほうぼうから、わざとらしいかけ声や、とん狂(きょう)な笑い声などもきこえていた。ゆうべの懇談会で分担(ぶんたん)をきめ、かれら自身の室はもとより、建物の内部を、講堂や、広間や、便所にいたるまで、全部清掃(せいそう)することに申し合わせていたので、かれらも、まがりなりにも責任だけは、果たさなければならなかったし、それに、きびしい寒さと、おたがいの眼とが、かれらを、外見だけでも、いかにも忙(いそが)しそうな活動に駆(か)りたてていたのである。
 次郎は、自分の責任である二つの室の掃除を終わると、すぐ便所掃除の手伝いに行った。これは、かれが助手として塾生活をはじめた当初からの、一つの誓(ちか)いみたようになっていたのである。
 かれが、便所に通ずる廊下の角をまがると、一段さがった入り口のたたきの上に立って、何かしきりと声高(こわだか)にがなりたてている一人の塾生がいた。見ると、飯島好造だった。
「おはよう。ここは何室の受け持ちでしたかね。」
 次郎は近づいて行って声をかけた。
「第五室です。僕(ぼく)たちで、最初にここを受け持つことにしたんです。」
 飯島は、いかにも得意らしくこたえた。
 ゆうべの懇談会で、日々の掃除の分担は管理部で割りあて、毎晩就寝前(しゅうしんまえ)に、翌日の分を各室に通告するということにきまったのだったが、その管理部の責任を、最初の一週間第五室が負うことになっている関係上、だれしもいやがる便所掃除を、まず手始めに自分たちで引きうけることにしたものであろう。それはそれで、むろんいいことにちがいない。しかしあたりまえ以上のいいことでもなさそうだ。――次郎は、つい、そんな皮肉な気持ちになったのだった。
 しかし、つぎの瞬間(しゅんかん)に、かれの頭にひらめいたのは大河無門のことだった。かれは、すると、もう飯島の存在を忘れて、大河の姿を便所のあちらこちらにさがしていた。
 左右の窓の下に、小便つぼがそれぞれ七つほど並(なら)んでおり、そこを四人の塾生が二人ずつにわかれて、棒だわしで掃除していたが、その中には、大河の姿は見えなかった。
 つきあたりに、大便所がこれも七つほどならんでいる。そのうちの、右はじの一つだけが戸が開いており、その少し手前の、たたきの上に、水をはったバケツが一つ置いてあるのが見えた。戸の開いた便所の内側は、電燈の光を斜(なな)めにうけているので、よくは見えない。しかし、だれか中で掃除をしていることだけはたしかだった。六人の室員のうち、飯島は入り口に立っており、両がわの小便所に二人ずつ働いているのだから、あとの一人は大河にきまっている。次郎は、そう思って、すぐ声をかけようとした。しかし、なぜか思いとまった。そして、入り口の横の板壁(いたかべ)にかけてあった便所用の雑巾を一枚とり、それをたたきの上のバケツの水にひたして、しぼったあと、大河のはいっているのとは反対のはじの大便所の戸をあけ、中にはいった。
 飯島は、それまで、やはり入り口の階段に立って、何かと指図(さしず)がましい口をきいていた。しかし、次郎が雑巾をもって大便所の中にはいったのを見ると、さすがに気がひけたらしく、指図する言葉のはしばしがにぶりがちになり、何かしら気弱さを示していた。
「こんな寒い時には、ぐいぐいはたらくに限るよ。室長なんかになるもんじゃないね。」
 じょうだんめかして、そんなこともいった。ゆうべ各室で就寝前に行なわれた互選(ごせん)の結果、かれは第五室の室長になっていたのである。
 次郎は吹(ふ)きだしたい気持ちだった。同時に、心の中で思った。
(飯島のような人間はとうてい救えない。それにくらべると、田川大作のほうはまだ見込(みこ)みがある。)
 かれは、窓ガラス、窓わく、板壁、ふみ板と、上から下へ、つぎつぎに拭(ふ)きあげて行きながら、おりおりそとをのぞいて飯島の様子に注意していた。そのうちに、飯島は急に何か思い出したように叫(さけ)んだ。
「あっ、そうだ。僕はここだけにへばりついていては、いけなかったんだ。」
 そして、次郎のほうをちょっとぬすむように見ながら、
「第五室は、管理部として全体の責任を負っているんだからね。僕、一まわりして、様子を見て来るよ。」
 飯島は、そう言うと、いかにもあわてたように、あたふたと廊下に足音をたてて去った。
 朝倉先生は、かつて次郎に、「現在の日本の指導層の大多数は、正面からは全く反対のできないようなことを理由にして、自分たちの立場を正当化したがるきらいがあるが、そうしたずるさは、ひとり指導層だけに限られたことではないようだ。たいていの日本人は、何かというと、表面堂々とした理由で自分の行動を弁護したり、飾(かざ)ったりする。しかも、それで他人をごまかすだけでなく、自分自身の良心をごまかしている。それをずるいなどとはちっとも考えない。これはおそろしいことだ。友愛塾の一つの大きな使命は、共同生活の実践(じっせん)を通じて、青年たちをそうしたずるさから救い、真理に対してもっと誠実な人間にしてやることだ。」というような意味のことを、いったことがあったが、次郎は、便所の中から、飯島のうしろ姿を見おくりながら、その言葉を思いおこし、今さらのように、大きな困難にぶっつかったような気がしたのだった。
 飯島の足音がきこえなくなると、小便所の掃除をしていた四人が、かわるがわる言った。
「すいぶん、ちゃっかりしているなあ。」
「何しろ紳士(しんし)だからね。」
「郡の団長なんかやってると、あんなふうになるもんかね。」
「そりゃあ、あべこべだよ。あんな人だから、郡の団長なんかになりたがるんだ。」
「つぎは、そろそろ県会議員というところかね。」
「ふ、ふ、ふ。」
「そういうと、ゆうべの室長選挙も何だか変だったぜ。」
「はじめから、自分が室長だときめてかかっているんだから、かなわないよ。」
「心臓だね、じっさい。」
「その心臓に負けて、いやいやながら全員一致(いっち)の推薦(すいせん)をやったというわけか。」
「妙(みょう)なもんだね、選挙なんて。」
「選挙なんてそんなものらしいよ。どこでもたいていは心臓の強いのが勝っているんだ。」
「はっはっはっ。」
 次郎は、そんな対話の中にも、友愛塾に課された大きな問題があると思った。そして、かれらの話がどう発展していくかを興味をもって待っていた。かれらは、しかし、笑ったあと、急に口をつぐんでしまった。次郎が大便所の中にいることをだれかが思い出して、みんなのおしゃべりを制止する合い図をしたものらしい。
 次郎と大河とは、間もなく、それぞれに最初の大便所の掃除を終わって、となりの大便所に移っていた。まだだれも手をかけない大便所が、あいだに三つほどはさまっている。次郎は、さっきから、大河に話しかけてみたい気持ちは十分だった。しかし、遠くからのかけ合い話は、この場合、何となくぴったりしなかったし、また、雑巾をゆすぎに出たついでに、そっとのぞいて見た大河の様子が、いかにも沈黙(ちんもく)の行者(ぎょうじゃ)といった感銘(かんめい)をかれに与(あた)えていたので、口をきるのがよけいにためらわれるのだった。
 そのうちに、小便所の掃除が終わったらしく、それにかかっていた四人のうちの三人が、とん狂な笑い声をたてながら、大便所の掃除をはじめ、あとの一人が、たたきに水を流しはじめた。で、次郎は、二つ目の大便所の掃除をおわると、すぐそこを去って講堂のほうに行った。大河とは、ついに言葉をかわさないままだったのである。
 講堂では、掃除はもうあらかた終わって、机や椅子(いす)の整頓(せいとん)にとりかかるところだった。そこは、第一室と第二室の共同の受け持ちだったらしく、田川大作や青山敬太郎などの顔も見えていた。田川は、例のしゃがれた、激(はげ)しい号令口調(くちょう)で、ほかの塾生たちをせきたてながら、自分でも椅子や机を運んで敏捷(びんしょう)にたちはたらいていた。これに反して、青山の態度はきわめて冷静だった。かれは、田川の声には無頓着(むとんちゃく)なように、並(なら)べられていく机の列をじっとにらんでは、そのみだれを正していた。――二人とも、それぞれに室長に選ばれていたのである。
 次郎が入り口に立って様子をながめていると、
「もうここはだいたいすんだようですよ。」
 と、みんなにきこえるような声で言いながら、教壇(きょうだん)をおりてかれのほうに近づいて来た塾生があった。飯島である。次郎は思わず苦笑した。何かむかむかするものが、胸の底からこみあげて来るような気持ちだった。しかし、かれはしいて自分をおちつけ、
「そうですね。」
 と、なま返事をして眼をそらした。そして、そのまま、すぐそこを去り、塾長室のほうに行った。
 塾長室の掃除は、朝倉先生夫妻が、空林庵の掃除をすましたあと、給仕の河瀬(かわせ)に手つだってもらって、自分たちの手でやることになっていたが、次郎も、都合がつきさえすれば、手つだうことにしていたのである。
 中にはいって見ると、もう掃除はすっかりすんでおり、河瀬がストーヴに火を入れているところだった。夫人は炊事場(すいじば)のほうにでも行ったらしく、朝倉先生だけが、まだあたたまらないストーヴのそばの椅子にかけて、手帳に何か書き入れていた。
「どんなふうだね。」
 先生は、次郎の顔を見ると、手帳をひらいたまま、たずねた。
「はあ――」
 と、次郎は笑いながら、
「例によって、指導者がいるようですね。」
「飯島なんかも、そうだろう。」
「ええ、とくべつ露骨(ろこつ)なようです。」
「田川はどうだい。」
「ちょっとその気があるようですが、軍隊式ですから、飯島とは質がちがいます。気持ちはあんがい純真じゃないかと思いますが……」
「そうかもしれないね。……それで、べつにこれまでと大して変わったこともなかったんだね。」
「ええ――」
 と、次郎はちょっと考えていたが、
「今のところ、平木中佐の影響(えいきょう)でどうこうというようなことは、全然ないように思います。」
「そりゃあそうだろう。それがあらわれるのはまだ早いよ。」
 それから、朝倉先生は、何かおかしそうにひとりで笑っていたが、
「それに、今朝はすいぶん寒かったし、平木中佐どころではなかったんだろう。」
 次郎は、すぐには、その意味がのみこめないで、きょとんとしていた。すると、先生は、
「こんな寒い朝に、死ぬ気になってみんながはね起きてくれると、平木中佐に感謝してもいいんだがね。」
 二人は声をたてて笑った。次郎は、しかし、すぐ真顔(まがお)になり、
「けさの板木(ばんぎ)の音、どうでした?」
「最初の朝にしては、めずらしいことだったね。時刻が非常に正確だったし、それに、打ち方がちっとも寒そうでなかった。」
「先生もそうお感じでしたか。」
「感じたとも。あんな落ちついた打ち方は今日のような寒い朝には、なかなかできるものではないよ。」
「僕もそう思って、わざわざ廊下に出て見たんですが、当番は大河君だったんです。」
「なるほど。そうか。――しかし、大河にしちゃ惜(お)しかったね。おしまいごろにはかんしゃくをおこしていたようだったが。」
「はあ――」
 次郎はぎくりとして、うまく返事ができなかった。大河のにっと笑った顔と、その時言った言葉とがあらためて思い出されたのだった。かれはしばらく眼をふせていたが、
「おしまいのほうは、実は僕が打ったんでした。」
 それから、ちょっと柱時計をのぞき、
「その時、実は大河君にいわれたこともあるんですが、あとでゆっくり先生に教えていただきたいと思っています。」
 かれは、そう言うと、すぐおじぎをして、塾長室を出た。朝倉先生は無言のまま、かれのうしろ姿を見おくっていた。
 もうそのころには、塾生たちは、室内の掃除整頓をすべて終わって、最後に、廊下や、玄関(げんかん)や、そのほかの出入り口の掃除にかかっているところだった。むろんそうした掃除も、分担(ぶんたん)は一通りきまっていたが、厳密には境界が定められないために、塾生たちはかなり入りみだれていた。
 次郎は、すぐ、事務室の前から玄関にかけての掃除を手伝った。朝倉先生も、そのうちに塾長室から廊下に出て、みんなの様子を見ていたが、それもほんのしばらくで、すぐまた塾長室にもどり、椅子に腰(こし)をおろすと、そのまま何か深く考えこんでいた。
 掃除がすっかりすみ、洗面その他を終わると、みんなは広間に集まって朝の行事をやることになったが、それまでには、起床からたっぷり四十分ぐらいはかかっていた。次郎が、これまで毎朝、空林庵の寝ざめに親しんで来た雀(すずめ)の第一声がきこえるのは、ほぼその時刻だったのである。
 朝の行事は、まず室内体操にはじまった。それは友愛塾のために特に考案されたもので、その指導も指揮(しき)も次郎の役割だった。体操がすむと、朝倉先生の合い図で静坐(せいざ)に入った。これは就寝前の静坐にくらべると、いくぶんながかったが、それでも、せいぜい十四五分ぐらいだった。次郎は、今朝も足音をしのばせながら、塾生たちの姿勢を直してやった。
 静坐のあとは遥拝(ようはい)だった。――これは皇大神宮(こうたいじんぐう)と皇居(こうきょ)に対する儀礼(ぎれい)で、その当時は、極左(きょくさ)分子や一部のキリスト教徒以外の全国民によって当然な国民儀礼と認められ、集団行事においてそれを欠くことは、国民常識に反するものとさえ考えられていたのである。
 遥拝がすむと、おたがいの朝のあいさつをかわし、そのあと、もう一度静坐に入った。そして、それが三分もつづいたころ、朝倉先生は、自分も静坐瞑目(めいもく)のまま、おもむろにつぎのような話をした。
          *
 越前永平寺(えちぜんえいへいじ)に奕堂(えきどう)という名高い和尚(おしょう)がいたが、ある朝、しずかに眼をとじて、鐘楼(しょうろう)からきこえて来る鐘(かね)の音(ね)に耳をすましていた。和尚は、今朝の鐘の音には、いつもにない深いひびきがこもっているような気がしたのである。
 やがて、最後のひびきが、澄(す)みわたった空に消え入るのを待って、和尚は侍僧(じそう)を呼んでたずねた。
「今朝の鐘をついたのはだれじゃな。」
「新参(しんざん)の小僧(こぞう)でございます。」
「そうか。ちょっと、たずねたいことがある。すぐ、ここに呼んでくれ。」
 間もなく、侍僧に伴(ともな)われて、一人のつつましやかな小僧がはいって来た。和尚は慈愛(じあい)にみちた眼で、小僧を見ながらたずねた。
「ほう、お前か、今朝の鐘をついたのは。……で、どのような気持ちでついたのじゃな。」
「べつにこれと申す心得もございません。ただ定めに従いましてつきましただけで……」
 と、小僧はあくまでもつつましくこたえた。
「いや、そうではあるまい。世の常の心では、ああはつけるものではない。わしの耳には、そのまま仏界(ぶつかい)の妙音(みょうおん)ともきこえたのじゃ。鐘をつくなら、あのようにつきたいものじゃのう。何も遠慮(えんりょ)することはない。みんなの心得にもなることじゃ。かくさず、そなたの気持ちをきかせてはくれまいか。」
「おそれ入ります。では申しあげますが、実は国もとにおりましたころ、いつも師匠(ししょう)に、鐘をつくなら、鐘を仏と心得て、それにふさわしい心のつつしみを忘れてはならぬ、と言い聞かされておりましたので、今朝もそれを思い出し、ひとつきごとに、礼拝(らいはい)をしながらついたまででございます。」
 奕堂和尚は聞きおわって、いかにもうれしそうにうなずいた。そして、まだどこかに漂(ただよ)っていそうな鐘の音を追い求めるように、ふたたびしずかに眼をとじた。
 この妙音をつきだした小僧こそは、実に、後年の森田悟由(ごゆう)禅師(ぜんじ)だったそうである。
          *
 朝倉先生は、この話を語りおわると、しばらく沈黙した。
 塾生たちは、かるくとじたまぶたをとおして、窓のすりガラスに刻々に明るくなって行く朝の光を感じながら、つぎの言葉を待った。軒端(のきば)には、雀がちゅんちゅんと、間をおいて鳴きかわしている。
 やがて先生は言葉をついだ。
「私はけさ、君らの中のだれかが打った板木の音を聞きながら、ふと、この話を思い出したが、それはおそらく、けさの板木が、ここの生活にふさわしい心をもって打たれていたからだと思う。君らの耳にあの音がどう響(ひび)いたかは知らない。しかし、私は、あの音から、この塾はじまって以来のゆたかな感じをうけたのだ。じっくりと落ちついて、すこしも軽はずみなところのない、また、すこしも力(りき)んだところのない、おだやかな、そして辛抱(しんぼう)づよい努力、――心の底に深い愛情をたたえた人だけに期待しうるような努力を、私はあの音から感じとり、これこそここの生活を象徴(しょうちょう)する響きだと思ったのである。――私は、しかし、奕堂和尚のように、だれが、どんな気持ちで、今朝の板木を打ったかを、しいて知りたいとは思わない。それは、もともとここの生活では、だれがどんな働きをして、どんな名誉(めいよ)を担(にな)うかということは、あまりたいせつなことではないからだ。ここの生活でたいせつ一つの卓(たく)を囲(かこ)んで食事もし、本も読み、事務もとり、夜は卓を縁側(えんがわ)に出して三人の寝床(ねどこ)を述べるといったぐあいであった。次郎は、先生夫妻に対してすまないという気で一ぱいになりながらも、心のなのは、名でなくて実である。心である。その心がむだにならないで、共同生活全体の中に生かされていけば、個々の人の名などは、しいて問題にする必要はない。そういう意味で、私は、今朝のような板木の打ちかたをする心をもった人が、君らの中に、少なくとも一人だけはいる、ということを知っただけで満足したいと思う。そして、その一人の心が、おたがいの生活の中に、すこしもむだにならないで生かされていくことを、心から期待したい。……つまり、愛情に出発した、おだやかな、しかも辛抱づよい努力、そういう努力を、単に板木を打つ場合だけでなく、すべての場合に払(はら)ってもらいたいのである。……名を求めず、ひたすらに実を捧(ささ)げるという気持ちに徹(てっ)して、そういう努力を、みんなで払ってもらいたいのである。――」
 朝倉先生は、そこでまた口をつぐんだ。塾生たちの中には、話がそれで終わったのかと思い、そっと眼をひらいて、先生の顔をのぞいて見たものもあった。
 次郎は、しかし、それどころではなかった。かれは、もう、先生のつぎの言葉が、槍(やり)の穂先(ほさき)のような鋭さで、自分の胸にせまっているのを感じ、かたく観念の眼をとじていたのだった。
「ところで――」
 と、先生は、かなり間をおいてから、つづけた。
「私は、率直(そっちょく)に言うと、君らが私の期待を裏切らないだろうということについて、残念ながらまだ十分の自信を持つことができない。というのは、今朝の板木が、あまりにもながく鳴りつづけたからだ。あれほど辛抱づよく、しかも、あれほどおだやかに鳴りつづけたということは、一方では、あれを打っていた一人の塾生の心の深さを物語るが、また、一方では、その一人をのぞいた多数の塾生の心の浅さを物語ることにもなったのだ。君らの大多数は、板木を打った一人の塾生があれほどの誠意を示したにもかかわらず、容易にそれにこたえようとはしなかった。君らにとっては、その誠意よりも、寝床(ねどこ)の中のぬくもりのほうがはるかにたいせつだったのだ。あたたかい寝床の中で、うつらうつらと、できるだけ眠(ねむ)りを引きのばすことを、人間の誠意以上に、たいせつにする心、これは決して深い心だとはいえまい。……もっとも、君らの中には、内心それをいくらか恥じていたものも、おそらく幾人(いくにん)かはあったであろう。気がとがめるといった程度なら、あるいは君らのすべてがそうであったのかもしれない。しかし、それも結局は何の役にもたたなかったのだ。では、なぜ役にたたなかったのか。今、君らに真剣(しんけん)に考えてもらいたいのはこの一点だ。――」
 静かな空気の中を、えぐるような沈黙の数秒が流れたあと、朝倉先生の言葉が沈痛(ちんつう)につづけられた。
「私に言わせると、それは、君らに、ほんとうの意味で自分をたいせつにする心がないからなのだ。言いかえると、君らには、自分で自分をたいせつにする自主性というものがまるでない。さらに言いかえると、君らは多数をたのみ、多数のかげにかくれて、何よりもたいせつな自分の良心を眠らせることに平気な人間なのだ。私は、現在の日本人の大多数がもっている最大の弱点を、君らの今朝の起床の様子でまざまざと見せつけられたような気がして、全く、暗然(あんぜん)とならざるを得なかったのだ。――」
 次郎は、朝倉先生が、開塾最初の朝の訓話(くんわ)で、これほど激(はげ)しい言葉をつかって、真正面から塾生たちに非難をあびせかけたのを、これまでにきいた覚えがなかった。かれは、まだあとに残されている自分への非難が、どんな言葉で表現されるかを、身がちぢまる思いで待っていた。
「君らのそうした非良心的な態度は、君ら自身をますます非良心的にするばかりではない。それがある限度をこすと、ついには、愛情と忍耐(にんたい)とをもって、君らの良心を力づけようと努力している人の心までをきずつけ、その愛情と忍耐とを、憎(にく)しみと怒(いか)りとに代えてしまうものだ。現に君らは、今朝の板木の音の調子が途中(とちゅう)から変わったことで、それがわかっただろうと思う。あの、おだやかで辛抱づよかった板木の音が、おしまいになって、急に怒りだしたとしか思えないような乱調子になったが、あれは、君らのあまりにも非良心的な態度が、板木をうつ人の心をきずつけた証拠(しょうこ)なのだ。……むろん、私は、愛情も忍耐心も失った、ああした乱暴な打ちかたを是認(ぜにん)はしていない。また、それをやむを得ないことだとして弁護しようとも思っていない。怒りや短気は、友愛塾の精神とは根本的に相いれないものなのだから、どんな事情のもとでも、ああした打ちかたは、二度とくりかえされてはならないことなのだ。もし今朝の板木当番が、ついに業(ごう)をにやしてあんな打ちかたをしたとすると、私はその人のために、まことに残念なことだと思っている。しかし、いっそうわるいのは、ああした打ちかたを余儀(よぎ)なくさせた君らの態度だ。君らさえもう少し良心的であってくれたら、板木を打った人も、ああしたあやまちを犯(おか)さないですんだのだろうと思うと、それが私はくやしくてならない。……だが、それはまあいい、それは百歩をゆずってあきらめるとしても、ここにどうしても私にあきらめのつかないことが一つある。それは、愛情で打たれた板木の音では寝床をはなれようとしなかった君らが、怒りで打たれた板木の音では、わけなくはね起きたということだ。その点で、君らは精神的にはまだ奴隷(どれい)の域を一歩も脱(だっ)していないということを証明している。いや、それどころか、君らはよりいっそうみじめな奴隷になることを希望しているとさえ私には思える。これはほんとうになさけないことだ。私は、むろん、こう言ったからといって、怒りに対しては怒りをもって立ち向かえ、と君らにすすめているのではない。ただ私は、愛情に対しては、つけあがり、怒りに対しては、ただちに膝(ひざ)を屈(くっ)するような君らの奴隷根性(こんじょう)が、なさけなくて、じっとしてはいられない気持ちがするのだ――」
 次郎は、先生の言葉がますます激しくなっていくのにおどろいた。先生は、あるいは、昨日の入塾式における平木中佐の影響(えいきょう)から、できるだけ早く塾生たちを救い出そうとしていられるのかもしれない。しかし、それにしても入塾したばかりの青年たちに話す言葉としては、あまりにも激しすぎる。これではかえって逆効果を生むのではあるまいか。
 しかし、かれにとっていっそう不安に感じられたのは、今朝の板木の打ちかたについて、大河無門がぬれぎぬを着せられていることであった。
(おしまいの、あの乱暴な打ちかたをやったのが、自分だということは、すでに先生に言っておいたのに、先生はどうしてそのことをはっきり言われないのだろう。もしそれが助手としての自分の立場をまもってくださるためだとしたら、自分はむしろ心外だ。大河もむろん心外に思っているにちがいない。)
 かれは、そう思って、われ知らず眼をひらき、塾生たちの中に大河の顔をさがした。かれは塾生たちの静坐の姿勢を直したあと、朝倉先生の横に斜(なな)め向(む)きにすわっていたので、よく全体が見渡(みわた)せたのである。
 大河は第五室の列の一番うしろにすわっていた。しかし、ただ静かに瞑目(めいもく)しているだけで、その顔からは、かれの気持ちがどう動いているかは、すこしもうかがえなかった。
 朝倉先生は、それっきり口をつぐんでいる。次郎はいよいよ不安だった。もし先生の話がそれで終わったとすると、大河に対してはむろんのこと、あとでほんとうのことがわかった場合、他の塾生たちに対しても、このままでは決していい結果をもたらさないだろう。
 かれは視線を転じて、そっと先生の顔をのぞいてみた。すると、ふしぎなことには、先生のいつもの端然(たんぜん)たる静坐の姿勢がいくらかくずれている。顔をすこし伏(ふ)せ、その眉(まゆ)の間には深いしわさえ見えるのである。次郎は、先生が気分でも悪くなったのではないか、と思った。
 先生は、しかし、まもなく顔をまっすぐにした。そして、これまでの激しい調子とはうって代わった、沈(しず)んだ調子で言葉をつづけた。
「だが、考えてみると、なさけないのは決して君らだけではない。こんなことを言っている私自身が、今朝は、君らに対して重大な過失を犯(おか)してしまったようだ。私は、さっき君らを非難して、平気で自分の良心を眠らせている人間だと言った。また、君らの奴隷根性がなさけないとさえ言った。こういう言葉は人間に対する最大の侮辱(ぶじょく)の言葉で、心に愛情をもつものの容易に口にすべきことではない。少くとも同じ屋根の下で、一つ釜(かま)の飯をたべながら、これから共同生活をやっていこうとする人たちの間では、決してとりかわされてはならない言葉なのだ。しかるに、私は、つい、自分の感情にかられて、そんな言葉をつかってしまった。それは、私に忍耐心が欠けていたからだ。いや、君らに対する愛情が、まだ十分でなかったからだ。私は、板木当番の乱暴な打ちかたを非難しながら、自分自身で、それとちっともちがわない過失を犯してしまった。私は、いま、それに気がついて、心から恥じている。同時に、私は、今日の私の言葉が、君らを強制して、盲従(もうじゅう)を強(し)いるような結果にならないことを、心から祈(いの)らずにはいられない。……くれぐれも言っておきたいのは、人間にとって良心の自由をまもるほどたいせつなことはない、ということだ。板木の音であれ、先生の言葉であれ、そのほか、そとから与(あた)えられたどんな刺激(しげき)であれ、それがきびしいから従う、甘(あま)いから軽んずるというのでなく、君ら自身の良心の自由な判断に訴(うった)え、従うべきものには進んで従い、従うべからざるものには断じて従わない、というようであってこそ、君らはほんとうの人間だといえるのだ。私は、愛情と忍耐心が足りないために、つい激しい言葉を使いすぎたが、それも、君らに、あくまでも良心的・自主的に行動してもらいたいと願っていたからのことだ。私は私として十分反省するが、どうか君らにも、私のその気持ちだけはくんでもらいたい。そして、その意味で、私の激しすぎた言葉をよいほうに生かしてもらいたいと思う。――最後に、私は君らとともに、永平寺の小僧さんが、礼拝(らいはい)しながら鐘をついたという、あの敬虔(けいけん)な態度の意味を、もう一度深く味わって、けさの私の話を終わることにしたい。」
 みんなは、しずかに眼を見開いた。窓のすりガラスはもう十分明るくなっており、ほのかな紅をさえとかしていた。
 だれの顔にも、何かしら、ゆうべとはちがった感情が流れており、互礼(ごれい)をすまして広間を出て行く時のみんなの足音も、これまでになく静粛(せいしゅく)だった。
 七時の朝食までには、まだ二十分ほどの時間があり、その間に食事当番は食卓(しょくたく)の準備をやり、そのほかのものは、自由に新聞に目をとおしたり、私用をたしたりするのだった。次郎は、いつもなら、こんな時間にも、できるだけ塾生たちに接触(せっしょく)して、かれらの感想をきいたりするのだったが、今日は、広間を出るとすぐ、塾長室に行き、朝倉先生に向かって、なじるように言った。
「先生は、ぼくのやりそこないを、どうしてあからさまに話してくださらなかったんですか。」
「板木(ばんぎ)のことか。あれは、私が直接見ていたわけではなかったのだからね。」
「しかし、ぼくから先生にそう申しておいたんじゃありませんか。」
「うむ。それはきいた。しかし、私が何もかも知っていたことにすると、君の名前だけでなく、大河の名前も出さなければならなくなるんでね。」
「出してくだすってもいいじゃありませんか。」
「出してわるいことはない。しかし、出さないほうがいいんだ。少なくとも、今朝の話には、出さないほうがよかったんだ。」
 次郎はちょっと考えていたが、
「ええ、それはぼくにもわかります。しかし、そのために、大河君がぬれ衣(ぎぬ)をきなければならないという道理はないでしょう。ぼくとしては、それがたまらないほど心苦しいんです。」
「心苦しければ、君自身で何とか始末したらいいだろう。原因はもともと君にあるんだから。……私は、板木の音そのものを問題にしただけなんだ。」
 次郎は、朝倉先生らしくない詭弁(きべん)だという気がしてさびしかった。かれは語気を強めて言った。
「むろん、ぼくは大河君にあやまるつもりでいます。しかし、大河君としては、ぼくがあやまっただけでは、気がすまないでしょう。」
「そうかね――。」
 と、朝倉先生は、まじまじと次郎の顔を見ながら、
「私は、大河をそんなふうに思うのは、むしろ大河に対する侮辱だという気もするんだがね。」
 次郎は、いきなりぴしりと胸に笞(むち)をあてられたような気がした。かれの眼には、大河の、今朝のしずまりきった静坐の姿がひとりでに浮(う)かんで来た。むろん、先生に返す言葉は見つからなかった。先生は、すると、微笑(びしょう)しながら、
「君は大河の思わくなんかを問題にするまえに、君自身のことを問題にすべきだと思うが、どうだね。」
 それは第二の笞だった。しかも、第一の笞よりはるかにきびしい笞だった。
「わかりました。」
 と、次郎は眼をふせたまま頭をさげ、逃(に)げるように塾長室を出た。
 やがて朝食の時間になった。次郎は箸(はし)をにぎっている間も、ときどき眼をつぶって、何か考えるふうだった。
 食後には、みんな卓についたまま、雑談的に感想を述べあったりする時間が設けられていた。次郎は、その時間が来るのを待ちかねていたように立ちあがった。そして、みんなに今朝の起床の板木のいきさつを話し、最後につけ加えた。
「ぼくは、ながいこと友愛塾の仕事を手伝わせていただいていながら、その精神がまだちっとも身についていなかったために、けさのようなあやまちを犯してしまいました。ほんとうに恥(は)ずかしいことだと思っています。しかし、そのあやまちによって、開塾そうそう、大河君のような、友愛塾精神に徹底した、実践家(じっせんか)の魂(たましい)にふれることができたことを思いますと、一方では、かえってありがたいような気持ちもしています。」
 みんなの視線は、もうさっきから大河に集中されていた。大河の顔には、しかし、それでてれているような表情はすこしも見られなかった。かれはただ一心に次郎の顔を見つめ、その声に耳をかたむけているだけであった。
 そのあと、八時から正午まで、「郷土社会と青年生活」という題目で、朝倉先生の講義があり、午後は屋外清掃(せいそう)と身体検査、夜は読書会や室内遊戯(ゆうぎ)などで、開塾第一日の行事が終わった。
 消燈まで、これといってとりたてていうほどの変わったこともなかった。しかし、大河無門が、かれ自身の希望に反して、あまりにも早くその存在を認められ、みんなの注目の的になったということは、この塾にとって、よかれあしかれ、決して小さなできごとではなかったといえるであろう。
 朝倉夫人は、行事をおわって空林庵に引きあげるまえに、わざわざ次郎の室にやって来て、しばらく話しこんだ。その話の中にこんな言葉もあった。

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■暇つぶし何某■

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