次郎物語
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著者名:下村湖人 

「炉の中に夜具を落したり、足をつっこんだりしないように、気をつけてな。……便所はこちらじゃよ。」
 と、障子をあけて縁側を案内してくれ、しまいに炉火に十分灰をかぶせて部屋を出て行った。
 三人は、床についてからも、老人は何者だろう、とか、自分たちは藁小屋の中で夢を見ているんではないだろうか、とか、そんなことをくすくす笑いながら、かなり永いこと囁き合っていたが、次郎はその間に、ふと、正木のお祖父さんと大巻のお祖父さんのことを思い出し、三人の老人を心の中で比較していた。
 翌朝眼をさますと、もう縁障子には日があかるくさしていた。起きあがってみて、彼らが驚いたことには、畳の上にも、ふとんの中にも、藁屑(わらくず)がさんざんに散らかっていた。彼らは、幸い縁側の突きあたりの壁に箒が一本かかっているのを見つけて、大急ぎでその始末をした。家はずいぶん広いらしく、近くに人のけはいがほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]しなかったが、掃除をどうなりすました頃、三十四五歳ぐらいの女の人が十能に炭火をいれて運んで来た。
「おやおや、お掃除までしてもらいましたかな。ゆうべは、よう寝られませんでしたろ。」
 と、彼女はきちんと坐りこんで、三人のあいさつをうけ、それから、まじまじと次郎を見ていたが、
「お母さんが、心配していなさりませんかな。早う帰って安心させてお上げ。」
 次郎はただ顔を赧(あか)らめただけだった。
 朝飯は、茶の間で家の人たちといっしょによばれた。広い土間の隅の井戸端で洗面を終ると、そのまま食卓に案内されたが、ゆうべにひきかえて、そこにはもうたくさんの顔がならんでいた。
「さあ、さあ。」
 と、七十ぐらいの、品のいい、小作りなお婆さんがまず三人に声をかけた。お婆さんと同じちゃぶ台には、三人の男の子がならんでいて、めずらしそうに次郎たちを見た。昨夜の老人の顔はそこには見えなかった。
 次郎たちのためには。べつのちゃぶ台が用意されていた。大沢がお婆さんにあいさつをしてそのそばに坐ると、恭一と次郎とがつぎつぎにその通りをまねた。さっきの女の人がちゃぶ台にのせてある飯櫃(びつ)と汁鍋の蓋をとって、
「さあさ、めいめいで勝手に盛ってな。」
 と、自分は子供たちのちゃぶ台にお婆さんに向きあって坐った。
 次郎たちには、葱の味噌汁がたまらなくおいしかった。何杯もかえているうちに、顔がほてって汗をかきそうだった。
 食事中に、お婆さんが一人でいろんなことを訊(たず)ね、いろんなことを話した。その話で、三人はおおよそ家の様子も想像がついた。昨夜の老人は村長で、今朝も早く何か特別の用があって出かけたらしい。子供たちの父になる人は、五六里も離れたところの小学校の校長だが、土曜日に帰って来るのだそうである。
「お爺さんは、今日はな、十時頃までに役場の用をすまして帰って来るけに、それまであんたたちに待ってもろたら、と言うとりましたが。……また滝にでも案内しようと思うとりますじゃろ。」
 お婆さんは、そう言って、歯のぬけた口をつぼめ、ほっほっほっと笑った。
 食事がすむと、子供たちは、いかにも次郎たちに気をひかれているような様子で、学校に行った。老人は、それから間もなく帰って来たが、すぐ三人のために弁当の用意を命じ、自分は炉のはたで一通の手紙をしたためた。
「滝まで行って来るでな。」
 お婆さんにそう言って、老人が三人をつれ出したのは、ちょうど十時頃だった。三人はいつものようにお礼の金を置くことも忘れてしまい、渡された竹の皮包みの弁当をぶらさげて、老人のあとについた。
 老人の足は矍鑠(かくしゃく)たるものだったが、それでも三人の足にくらべるとさすがにのろかった。しかし、滝までは三十分とはかからなかった。滝は、老人がみちみち自慢したとおり、世に知られないわりには頗る豪壮[#「豪壮」は底本では「豪荘」]なもので、幅数間の、二尺ほどの深さの水が、十丈もあろうかと思われるほどの断崖を、あちらこちらに大しぶきをあげて落下していた。滝壺に虹があらわれ、岩角の氷柱がさまざまな色に光っていたのが、いよいよ眺めを荘厳にした。名を半田の滝というのだった。
 寒さも忘れて三十分ほども滝を眺めたあと、三人が老人にわかれを告げると、老人は、懐(ふところ)からさっき書いたらしい手紙を出して、
「たいがいにして日田まで下るんじゃ。日田に行ったら、この宛名の人をたずねて行けばええ。中にくわしく書いておいたでな。」
 と、それを大沢にわたした。大沢は、手紙を押しいただいたまま、いつものとおりには言葉がすらすらと出なかったらしく、何かしきりにどもっていた。手紙の宛名には日田町○○番地田添みつ子殿とあり、裏面には白野正時とあった。
 三人は、それから、その日とその翌日とを、やはり無計画のまま、やたらに歩きまわった。その間に、竜門の滝という古典的な感じのする滝を見たり、何度も小さな温泉にひたったりした。そしてふところもいよいよ心細くなったので、白野老人のすすめに従って、それからは、まっすぐに日田町に下ることにした。
 日田町までは一日がかりだった。町について田添ときくと、すぐわかった。りっぱな医者のうちだった。一晩厄介になっているうちにわかったことだが、みつ子というのはその医者の奥さんで、白野老人の末女に当るのだった。この人がまた非常に親切で、歳はもう四十に近かったが、まるで専門学校程度の、聰明で快活な女学生のようだった。筑水下りの船も、前晩からちゃんと約束しておいてくれたらしく、朝の八時頃には、家のすぐ裏の河岸に、日田米をつんだ荷船がつながれていた。船賃も夫人が払ってくれた。
 三人はまるでお伽噺の世界の人のような気持になって船に乗った。船が下り出すと、みつ子夫人は河岸からしきりに手巾(ハンカチ)をふった。
「無計画の計画も、こううまく行くと、かえって恐ろしい気がするね。」
 大沢は船が川曲をまわって手巾が見えなくなると、二人に言った。
 次郎も恭一も、急流を下る爽快さを味うよりも、何か深い感慨にふけっているというふうだった。川幅の広いところには、鴨が群をなして浮いていたが、次郎はそれにもほとんど興味をひかれないらしかった。大沢が、
「鉄砲があるといいなあ。」
 と言うと、彼は妙に悲しい気にさえなるのだった。そして船が巖の間をすれすれに急湍(たん)を下る時にも、叫び声一つあげず、じっと船頭の巧みな櫂(かい)のつかい方に見入り、かつて何かで読んだことのある話を思い出していた。それは、水に溺れかかったある偉大な宗教家が救助者に身を任せきって、もがきもしがみつきもしなかったという話だった。
 船が久留米に近づいて、水の流れがゆるやかになったころ、彼はこっそり恭一に向かって言った。
「無計画の計画ってこと、僕も少しわかったような気がするよ。」

    四 宝鏡先生

 筑後川上流探検旅行が次郎に与えた影響は、決して小さなものではなかった。「無計画の計画」というのは、最初大沢が半ば冗談めいて言い出したことだったが、それは、次郎にとっては、彼がこれまで子供ながら抱いて来たおぼろげな運命観や人生観に、ある拠(よ)りどころを与えることになった。彼は、それ以来、身辺のほんのちょっとした出来事にも、その奥に、何か眼に見えない大きな力が動いているように感じて、ともすると瞑想的になるのだった。それが、著しく彼を無口にし、非活動的にした。学校での一番にぎやかな昼休みの時間にも、よく、校庭の隅っこに、一人でぽつねんと立っている彼の姿が見られた。家で、恭一と二人、机にむかっている時、どうかすると、だしぬけに立ちあがって、恭一の本箱から詩集や修養書などを引き出して来ることがあったが、それは、いつも何かに考えふけったあとのことだった。そして、詩集や修養書を自分の机の上にひろげても、べつにそれを読みいそぐというのではなく、同じ頁にいつまでも眼を据えているといったふうであった。教科書の方の勉強は、こんなふうで、自然いくらかおろそかになりがちだったが、次郎自身それを気にしているような様子もなかった。
 彼のこうした変化が、周囲の人々の眼に映らないわけはなかった。しかし、彼を見る眼は、人々によってかなりちがっていた。俊亮は、「少し元気がなさすぎるようだ。体でも悪くしたんではないか」と言い、お祖母さんは、「次郎もいよいよ落ちついて来たようだね」と言った。お芳は、そのいずれにもあいづちをうっただけだったが、お祖母さんの態度がいくらかずつ次郎に対して柔(やわ)らいで行くのを見て、内心喜んでいるようなふうだった。
 次郎のほんとうの気持を多少でもわかっていたのは、恭一だけだったが、彼自身がどちらかというと非活動的であり、内面的な傾向をもっているだけに、次郎のそうした変化によって、お互いの親しみが一層増してゆくような気さえしていた。
 次郎のことを、最も真面目に心配し出したのは、あるいは大沢だったかもしれない。彼はある日、恭一に向かって言った。
「次郎君が考えこんでばかりいるのを、ぼんやり眺めているのは、いけないよ。あんなふうでは、次郎君の特長は駄目になってしまう。」
「しかし、どうすれはいいんだい。」
 恭一は、大して気乗りのしない調子でたずねた。
「たまには、喧嘩の相手になってやるさ。」
「次郎は、しかし、もう喧嘩はしないよ。しないって誓っているんだから。」
「それがいけないんだ。子供のくせにひねこびた聖人君子になってしまっちゃあ、おしまいじゃないか。」
「でも、うちじゃあ、やっと喧嘩をしなくなったって、みんな喜んでいるんだからなあ。」
「そりゃあ、お祖母さん相手の喧嘩なんか、しない方がいいさ。しかし、兄弟喧嘩ぐらいは、たまにはいいよ。ことに、室崎をやっつけた時のような喧嘩なら、大いにやるがいいと思うね。」
「ふうむ。……しかしあんな喧嘩なら、今でも機会があればやるだろう。」
「どうだかね、今の様子じゃあ。……僕が一つ相手になって試(ため)してみるかね。」
「試すって、どうするんだい。」
「思いきり無茶な事を言って、怒らしてみるんだ。」
「君が何を言ったって、それを本気にはしないよ。」
「本気にするまでやってみるさ。」
「しかし、そんなにしてまで喧嘩をさせる必要があるかね。」
「あるよ。僕は、あると思うね。今のままじゃあ、妙に考えが固まってしまって、どんな不正に対しても怒らなくなるかも知れんよ。」
 大沢は頗るまじめだった。そして、次郎を怒らす機会の来るのを、本気でねらっているらしかった。しかし、その機会が来るまえに、思いがけない事件が次郎を待伏せていて、大沢の苦心を無用にしてしまったのである。

     *

 次郎たちの数学の受持に、宝鏡方俊というむずかしい名前の先生がいた。七尺に近いと思われる堂々たる体躯(たいく)の持主で、顔の作りもそれに応じていかにも壮大な感じを与えたが、気は人一倍小さい方だった。この先生は、はじめての教室に出ると、きまって、先す自分の姓名を黒板に書き、それに仮名をふった。それによると「トミテル・ミチトシ」というのが、正しい読方だった。しかし、生徒たちの間では、誰一人としてそんなややこしい読方をするものがなく、陰ではいつまでたっても「ホウキョウ・ホウシュン」としか呼ばなかった。先生にしてみると、「ホウキョウ」でもいいから、せめて姓だけにしてもらうと、それでいくぶん我慢が出来るのだったが、生徒たちの方では、その下に「ホウシュン」をつけないと、感じがぴったりしないらしく、面倒をいとわないで「ホウキョウ・ホウシュンが……」「ホウキョウ・ホウシュンが……」と言うのだった。
 しかし、何よりも宝鏡先生を神経質にさせたのは、自分に「彦山(ひこさん)山伏」という綽名があるのを知ったことだった。先生の郷里が大分県の英彦山(えひこさん)の附近であることはたしかだったし、また、前身が山伏(やまぶし)だったとか、少くも父の代までは山伏稼業だったとかいうことが、どこからかまことしやかに伝えられていたので、先生は、山伏という言葉がちょっとでも耳に這入ろうものなら、その日じゅう怒りっぽくなるのだった。
 こんな種類の先生については、とかく、生徒間に、あることないこと、いろんな逸話が流布されるものだが、宝鏡先生についてもそれは例外ではなかった。中でも、最も奇抜なのは、――これは小使がたしかに事実だと証言したことだったが――ある雨の晩、先生が校内巡視をして宿直室にかえって来ると、その入口の近くの壁がぼんやり明るくなっており、その前に真黒な怪物が突っ立っている。先生はいきなり「何者だ!」と叫び、巨大な拳でその怪物をなぐりつけたが、怪物というのは、じつは雨合羽を着た電報配達夫だった、というのである。小使がとりわけ念入りに説明したことが真実だとすれば、配達夫は非常に腹を立て、先生を警察に引ぱって行こうとした。すると、先生は土下座をして平あやまりにあやまり、おまけに金一円を紙に包んで配達夫の手に握らせ、やっと内済にしてもらったとのことである。その頃の中学校の無資格教師にとって、一円という金が相当のねうちものであったことはいうまでもない。
 この先生が板書する文字は、その巨大な体躯に似ず繊細(せんさい)で、いかにも綿密そうであり、算術や代数の式が黒板いっぱいに並んだところは、見た目も非常に美しかった。しかし、数学そのものの知識がすぐれているとは、決して言えなかった。というのは、その美しい文字の前で、先生が立往生することはしばしばだったからである。立往生する前には、先生は、きまって、「あの何じゃ」という言葉を何度もくりかえした。生徒たちはよく心得たもので、先生の「あの何じゃ」が頻繁になって来ると、もう黒板から眼をそらし、お互いに鉛筆でつつきあいながら、くすくす笑い出すのだった。そうなると、先生は、いよいよ行詰りの打開が出来なくなるわけだが、しかし時として、先生に、その場合に拠する臨機の妙案が浮かんで来ないこともなかった。それは、くるりと生徒の方を向いて、その大きな掌を、腰の両側に蛙のようにひろげ、
「誰じゃ、笑ったのは。はじめからよく見とらんと、わからんはずじゃが、もう一度最初からやってみせる。ええか、今度はよく注意して見とるんじゃぞ。」
 と、さっさと黒板の文字を消してしまうことだった。
 次郎は入学の当時、はじめてこの先生が教室に現れて来た時には、その容貌体躯の偉大さに気圧されて、息づまるような気持だった。彼は、先生が出欠をとる間、坂上田村麿をさえ連想していたのである。しかし、その印象は、十分、二十分とたつうちに、次第にうすらいで行き、時間の終りごろには、もう失望と軽蔑(けいべつ)の念が彼を支配していた。もっとも、彼が、そうした気持を、教室で言葉や動作に現したことなど、これまで一度だってなかった。ことに、この夏以来、彼の心境に大きな変化が生じてからは、ほかの生徒たちが、わざと先生を怒らすような真似をしたりすると、変になさけない気持になり、何とかして先生に応援してやりたいと思うことがあった。
 ところが、実は、彼のこうした同情が、かえって彼を飛んでもない羽目に追いこむことになってしまったのである。
 それは、三学期も、もう終りに近いころのことだった。宝鏡先生は、まだ寒いのに、額に汗を浮かせながら、代数の問題を解いていた。黒板は三枚つづきで、その問題は真中の黒板から始まって、もうそろそろ右の黒板にうつらなければならなくなっていたが、何だか八幡の藪知らずに迷いこんだといった形になり、答が出るまでには、まだなかなか手数がかかりそうであった。生徒たちの頭もぼうっとなって来たが、先生の頭も、それに劣らずぼうっとなっているらしかった。次郎は、「あの何じゃ」がまた出なければいいが、と心配になって来た。で、それまで先生の白墨について動かしていた視線をそらし、最初からの一行一行を念入りに見直した。すると三行目から四行目にうつるところで、マイナスとあるべき符号(ふごう)が、プラスになっているのを発見したのである。彼は、自分の思いちがいではないかと、二度ほど見直したが、やはりそうにちがいなかった。
「先生!」
 と、彼は、我知らず叫んだ。先生はもうその時には、右の黒板に二行ほど書き進んでいたところだったが、次郎の声で、びくっとしたようにふり向きながら、
「何じゃ、質問か。質問なら、あとでせい。」
「質問じゃありません。あすこに符号が間違っています。」
 次郎は、先生を安心させるつもりでそう答えた。
「何? 間違っている? どこが間違ってるんじゃ。」
 先生のふだんのあから顔は、もうその時までにいくぶん蒼(あお)ざめかかっていたが、それで一層蒼くなった。掌は例によって腰の両側に蛙のように拡がっていた。
「三行目から四行目にうつるところです。」
 先生の眼は、犯人の眼のように、三行目と四行目との間を往復した。そしてその時には、もう方々からくすくすと笑い声が聞え出していたのである。
 先生は、大急ぎで黒板を消した。しかし、今度は、
「もう一度、はじめからやってみせるんじゃ。」
 とは言わなかった。その代りに、――それは生徒たちの全く予期しなかったことだったが――いきなり教壇をおりてつかつかと次郎の席に近づいて来た。次郎の席は、廊下に近い方から二列目の一番まえだったのである。
 次郎の席のまえに立った先生は、精いっぱいの落着きと威厳とをもって言った。
「お前は教室を騒がすけしからん生徒じゃ。」
 次郎には何のことだかわからなかった。彼は驚きと怪しみとで、眼をまんまるにして先生の顔を仰いだ。
「教室を騒がす生徒は、教室に置くわけにはいかん。出て行くんじゃ。」
 先生は、そう言って、むずと次郎の右腕をつかんだ。
「僕が、どうして教室を騒がしたんです。わけを言って下さい。」
 次郎は、このごろにない烈しい声で叫んだ。同時に、彼の左の腕は、しっかりと机の脚に巻きついた。
「先生の命令に背くんじゃな。」
 先生は、ぐっと次郎を睨(にら)みつけ、それから教室全体を一わたり見まわした。
「僕、わけがわかんないです。わけを言って下さい。」
「わけは自分でわかっているはずじゃ。」
「わかりません。」
「わからんことがあるか。先生の書き誤りに気がついていたら、なぜもっと早く言わんのじゃ。」
 先生は、単に「誤り」と言う代りに、「書き誤り」と言った。そして、力まかせに次郎の腕を引っぱった。次郎は相変らず机の足にしがみつきながら、
「僕は、たったいま気がついたんです。気がついたから、すぐそう言ったんです。」
「嘘ついても駄目じゃ。お前には、いつも、先生のあら探しをして面白がる癖がある。ほかの先生も、そう言って居られるんじゃ。」
 次郎は、そう言われると、やにわに立上って、先生に握られていた右腕をふり放した。そして一瞬、飛びかかりそうなけんまくを見せたが、そのまま、わなわなと唇をふるわせて言った。
「僕は教室を出て行くの、いやです。」
 先生は、そのすさまじい態度に、ちょっとたじろいだふうだったが、教室中の視線が自分に集まっているのに気づくと、思いきり大声でどなった。
「何じゃ、貴様は先生に反抗する気じゃな。」
「反抗します。間違った命令には従いません。」
 次郎の声も鋭かった。
 さて、事態がそこまで進むと、先生がこれまで自分の威厳(いげん)を保つために蓄えていたわずかばかりの心のゆとりも、もうめちゃくちゃだった。
「こいつ!」
 と、先生は、自分が先生であることも、対手が自分の三分の一か四分の一しかない小さな生徒であることも忘れ、その大きな両手で、机ごしに次郎の制服の襟のあたりを鷲づかみにして、引きよせた。むろん、もうその時には、ほかの生徒たちの視線など気にかけている余裕はなかったのである。
 次郎の体は襟首をつかまれて、机の上に蔽(おお)いかぶさったが、彼は、何と思ったか、そのまま両腕を机の下にまわして、柔道の押え込みのような姿勢になった。そのはずみに、筆入が床に落ち、鉛筆や、ペンや、メートル尺や、小さな三角定規などが、がらがらと音を立ててあたりに飛び散った。
 先生は、次郎を机から引きはなそうとあせったが、次郎の体は、まるでだにのように机にしがみついていた。むりに引き起すと、机の脚が宙に浮いた。その間に、先生の息づかいは次第に烈しくなり、顔色は気味わるいほど蒼ざめて来た。
 ほかの生徒たちは、もうその時には総立ちになっていたが、ふしぎに、誰も声を出す者がなかった。しかし、次郎の机の脚が三四回ほども宙に浮いたり、床にぶっつかったりしたころ、誰かが、とうとうたまらなくなったらしく、叫んだ。
「頑張れ!」
 すると、つづけ様に二三ヵ所から同じような声がきこえた。
 その声は、先生の興奮(こうふん)した耳にもたしかに這入ったらしかった。その証拠には、先生は、その声がすると、急に次郎を机から引きはなすことを断念(だんねん)し、その代りに、机もろ共、次郎をうしろから抱きかかえて、廊下に出し、戸をびしゃりと閉めてしまったのである。
 次郎は、廊下に出されてからも、暫くは机の上に顔を伏せていた。涙は出なかった。しかし、涙以上のせつないものが彼の胸の底からわいて来るのを感じた。
 彼はその感じで突きあげられたように、むっくり顔をあげた。そして長い廊下の端から端に視線を走らせた。どこにも人影が見えなかった、ただ、自分と自分の机だけがひっそり閑と立っているのが、彼には異様な世界のように思われた。
 すぐ隣の教室からは、英語の斉唱の声がきこえ出した。しかし彼自身の教室は、気味わるいほど静まりかえっている。彼は、ぴったり閉まっている戸口にじっと眼をすえた。そして、自分はこれからどうすればいいんだ、と考えた。しかし、彼の考えはとっさにはまとまらなかった。何も自分に悪いことなんかありゃしない、堂々と教室にはいって行くんだ、とも考えられたし、また、はいって行くのがいかにも未練がましいようにも思えたのである。
 そのうちに、教室の中の気配が変に騒がしくなって来た。言葉ははっきりと聞きとれなかったが、先生が何か言うと、生徒が方々からそれに突っかかっているような様子である。次郎はじっと耳をすました。すると、廊下に面した磨硝子の窓の近くの席から、よく聞きとれる声がきこえた。
「本田は、ふだんから先生のあら探しなんかする生徒ではありません。それは僕がよく知っています。」
 その声の主は、次郎がこのごろ急に親しくなり出した新賀峰雄にちがいなかった。新賀はいつも、ずばずばとものを言う生徒だりた。体格もりっぱで、顔にどことなく気品があり、入学の当初から、おれは将来は海軍に行くんだ、といつも言っていた。
 新賀の声に応じて、「そうです、そうです」と叫ぶ声があちらこちらから聞えた。次郎はそれを聞くと、なぜか急に泣きたくなった。彼は一散に廊下を走って校庭に出た。そして、かつて五年生の室崎を向こうにまわし、必死の戦いをいどんだことのある銃器庫の陰に身をかくして、しきりに涙をふいた。
 鐘が鳴り、更につぎの時間の鐘が鳴っても、彼はそこを動かなかった、無届で早引をしたり、あいだの時間を休んだりすることは、校則でとりわけ厳重に禁じられているのを、百も承知の彼だったが、そんなことは、彼にとって今は全く問題ではなかった、彼は考えれば考えるほど、無念さで胸がふくらんで来るだけだった。夏以来、彼自身でも健気な努力をして来たつもりだったが、それも無駄だったという気がしてならなかった。それで無念さがなお一層かき立てられた。「無計画の計画」という言葉をとおして、いくらか形を与えられかけていた彼の人生観も、そうなると、もう何の役にも立たなかった。
「ちえっ。」
 と彼は何度も舌打をしたあと、やっと一二歩足をかわしたが、しかし、どこに行こうというあてもなかった。彼はただそこいらを行ったり来たりした。彼の靴裏には、白楊の葉にうずもれてまだ新芽をみせない枯草が、ぼそぼそと音を立てた。
 歩きまわっているうちに、ふと、彼の頭に妙な考えが浮かんで来た。それは、
(これからうんと数学を勉強するんだ。そして毎時間山伏を困らしてやるんだ。)
 という考えだった。そう考えた時の彼の心に浮かんでいた先生の名は、むろん、「トミテル」ではなかった。また「[#「また「」は底本では「「また」]ホウキョウ・ホウシュン」でもなかった。それはたしかに「山伏」にちがいなかったのである。
 彼は、われ知らず、もう半年以上も忘れていた皮肉な微笑をもらした。そして、靴のかかとで二三回強く枯草をふみつけたあと、思いきったように教室の方に足を運んだ。足を運びながら、彼は、小学校三年のころ、亡くなった母に、お祖父さんの算盤(そろばん)をこわしたのはお前だろう、とおっかぶせられて、そのまま無実の罪を被てしまった時のことを思い出し、さすがにいやな気持になった。しかし、それは彼の決心をにぶらすどころか、かえって彼を興奮させるに役立つだけだったのである。
 教室にはいると、彼は、
「おくれました。」
 と、ただそれだけ言って、自分の席についた。彼の机は、もうあたりまえに並べてあり、筆入も、中身といっしょに、きちんとその上にのせてあった。
 その時間は、ちょうど学級主任の小田という若い国語の先生の時間だったが、次郎の顔を見てちょっとうなずいたきり、おくれた理由を問いただしてみようともしなかった。次郎は、もう先生は何もかも知ってるんだ、と思った。
 時間は、あと二十分ばかりだったが、授業には、むろんよく身が入らなかった。そして、その時間がすむとちょうど午前の授業が終りになるので、次郎は、早引を願って帰ろうかとも考えていた。ところが、いよいよ鐘が鳴ると、小田先生は次郎の机のそばにやって来て言った。
「飯をすましたら、すぐ私の所に来るんだ。それから、朝倉先生も、君に話があると言っていられる。」
 次郎は、朝倉先生ときいて、急に胸がどきついた。それはこわいともうれしいともつかぬ、そして妙にひきしまるような愛情の鼓動だった。

    五 誤解する人

 小田先生の姿が教室から消えると、生徒たちは、くちぐちに、次郎に同情の言葉をなげかけた。とりわけ新賀は、次郎の机のそばにやって来て、真剣に彼を励ました。
「ホウキョウ・ホウシュンが、きっと自分勝手な理窟をつけて、朝倉先生に言いつけたんだよ。かまうもんか、君にちっとも悪いことなんかないんだから。……朝倉先生にだって誰にだって、びくびくするな。先生の方で君が悪いと言ったら、僕きっと君に応援するよ。」
 次郎は默ってうなずいた。そしてすぐ弁当をひらいたが、彼の気持はかなり複雑だった。
 朝倉先生には、室崎との事件以来、めったに会ったことがない。言葉を交す機会など、まるでなかった。それでも、彼の心に生きている先生は、いつも新鮮だった。たまたま廊下などですれちがったりすると、彼は処女のように顔をあからめて敬礼した。先生は、それに対して、ただうなずくだけだったが、その微笑をふくんで澄みきっている眼が、何かとくべつの意味をもって彼を見ているように彼には感じられるのだった。彼が学校にいるかぎり、彼の意識の底には、いつもその眼があり、古ぼけた校舎もそれで光っていたし、彼の教室に出て来る凡庸(ぼんよう)な先生たちにも、それでいくらか我慢が出来ていたのである。
 それにもかかわらず、きょうは不思議に、今までその眼を思い出さなかった。騒ぎの最中はとにかくとして、室崎との事件のあった銃器庫の裏に、あんなに永いこと一人でいながら、どうしてそれが思い出せなかったのか、彼自身にもわからなかった。彼は、何か罪でも犯したように思って、気がとがめるのだった。
 しかし、一方では、間もなく朝倉先生の前に出て、事実をはっきりさせることが出来るんだと思うと、何か昂然たる気持にさえなった。彼は、いつの間にか、朝倉先生の前で、宝鏡先生を言い伏せている自分を想像して、一人で力んでいた。
(先生は自分から進んで、僕に話したいことがあると言われた。それは、きっと僕を信じていて下さるからだ。)
 彼は、そんなふうに考えた。
 だが、また一方では、変に怖いような気がしないでもなかった。室崎との事件のあとで、先生に「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。」と言われたことが、ふと思い出された。彼は、あまり図に乗って喋(しゃべ)るようなことはすまい、と自分の心に言いきかせた。
 弁当をすますと、彼は、はやるような、それでいて変に重たいような気持で廊下を歩いた。教員室の戸をあけると、炭火のガスでむっとする空気が、部屋中にこもっているのを顔に感じた。
 彼は、その空気の中を小田先生の机のそばまで歩いて行った。
 小田先生は、次郎を見ると、待っていたように立ち上って、彼を別室へつれこんだ。その室は、生徒監室のすぐ隣で、何か問題の起った時に、生徒を取調べたり、訓戒したりする室だった。次郎は、この室にはいるのははじめてだったが、さすがに身がひきしまるのを覚えた。
 ところどころ虫の食った青毛氈のかけてある卓を中にして腰をおろすと、先生はすぐたずねた。
「宝鏡先生が、非常に怒っていられるが、いったい、どうしたんだ。」
「僕には、わかんないです。」
 次郎は、そっけなく答えた。が、すぐ、言い直すように、
「ほかの生徒にきいて下されば、わかるんです。」
「それは訊いてみたんだがね。宝鏡先生の言われるのとは、ちがっているんだ。」
「どうちがっているんですか。」
 次郎は、あべこべに詰問(きつもん)するような調子だった。
「宝鏡先生は、君には、いつも先生の揚足をとって面白がる癖がある、と言われるんだ。」
「揚足をとるって何ですか。」
「先生のちょっとした言い損いや書き損いをつかまえて、とやかく言うことだよ。」
 まるで、国語の質問にでも答えているような言い方だった。
「すると、先生にどんな誤りがあっても、生徒は默っている方がいいんですか。」
 次郎は、もうすっかり意地わるくなっていた。彼には、小田先生が、宝鏡先生の方に非があるのを知っていながら、強いてそれを弁護しようとしているとしか思えなかったのである。
「うむ――」
 と、先生は行きづまって、変な笑いをもらした。すると、次郎は、その笑いに食いつくように言った。
「先生、僕たちにそれをはっきり教えて下さい。僕たちは、先生が間違いをなさるのを面白がるなんて、そんなことちっともないんです。僕たちはただ困るだけです。だから、それを見つけたらすぐそれを言うんです。それが悪いんですか。」
「それは悪くないさ。しかし、わざと教室をさわがすために、それを言うのはいかんよ。」
「僕には、さわがすつもりなんかなかったんです。僕はホウキョウ先生が気の毒だったんです。」
「しかし、トミテル先生は――」
 と「トミテル」に力をいれて、
「君に騒がすつもりがあった、と信じていられるんだ。先生は君にいつもそんな癖があると言われる。」
 次郎は、急に默りこんだ。そして、それっきり、先生の顔をまともに見つめたまま、何を言われても返事をしなくなった。先生の方では、
「宝鏡先生は、君に教室をさわがすつもりがあったと言われるし、君はそうでないと言うし、私もどちらを信じていいか、実はわからないでいるんだ。」
 とか、
「君に実際やましいところがなければ、自分で宝鏡先生に礼をつくしてお話したら、先生もきっとわかって下さるだろう。」
 とか、いろいろ次郎の気持に妥協(だきょう)するようなことを言ってみたが、次郎の沈默は頑としてやぶれなかった。
 小田先生は、すっかり手こずってしまった。もともとこの先生は、次郎という人間をよく知っていたわけでもなく、学級主任として、この問題に自分で一応の解決をつける責任があり、それには、次郎はまだ一年生のことだし、よく言って聞かせて、ともかくも謝罪させ、その上で生徒監である朝倉先生に訓戒でもしてもらえば、それ以上のことはないぐらいにしか考えていなかったのである。しかし、こうなると、もう解決どころのさわぎではなく、自分の立場までがどうやらあやしくなって来た。浅い良心で、お座なりの形式をふんで行くことを健全な教育法だと心得がちな、温良型の先生がよく味わう悲哀なのである。
「本田!」
 と、先生の温良な声は、もうすっかり悲痛な調子に変っていた。
「先生が、これほど事をわけて話しているのに、なぜ返事をしないんだ。」
 次郎は、しかし、その程度の悲痛さに動かされるほど、単純な生徒ではなかった。彼は依然として先生を見つめたまま沈默を守っている。
「じゃあ、私はもう知らんぞ。生徒監室に引渡すが、それでいいのか。」
 先生は、早くもその取っときの奥の手を出すことを余儀なくされた。次郎は、それで、やっと口をきくにはきいたが、その答えは、先生の予期に反して、あまりにも簡単明瞭だった。
「いいです。」
 これは、しかし、彼のやけくそから出た青葉でもなく、さればといって、朝倉先生に一刻も早く会いたいための言葉でもなかった。彼は、実際、生徒監室がどんなところか、そしてそこにはどんな先生がいるのか、上級生たちが知っているほど、くわしく知っていたわけではなかったのである。ただ、彼は、彼にとって全く無意味だとしか思われない言葉を、いつまでも聴(き)いているのがばかばかしかった。で、与えられた機会を無造作につかんで、対談をぶち切ってしまったまでのことで、それが相手にとってどんな迷惑になるかは、むろん、彼の知るところではなかったのである。
「生徒監に引き渡した以上、学級主任としては、あとがどうなっても知らんぞ。それでいいのかね。」
 小田先生は、未練らしく、もう一度駄目を押した。
「いいです。」
 次郎の答えは、あくまで簡単で、はっきりしていた。こうなっては、小田先生もいよいよ立ち上らざるを得なかったらしく、
「しばらく、ここで待っているんだ。」
 と、捨ぜりふのように言って、隣室に消えた。
 次郎は、一人になると、さすがに変な気重さを感じた。彼は、それをまぎらすように、室内を見まわしたが、正面に額が一つかかっているきりで、ほかには何の飾りもなかった。額には「思無邪」とあった。次郎は、しかし、それをどう読んでいいのかわからなかった。無邪気という言葉と何か関係があるんだろう、と思ったきり、それ以上考えてみようともしなかった。
 隣室からは、おりおり笑い声がきこえた。次郎は、最初のうち、その笑い声をきくと腹が立った。しかし、何度もきいているうちに、その声に聴き覚えがあるような気がして、じっと耳をすました。
(そうだ、朝倉先生の声だ。)
 彼は、そう思うと、朝倉先生が生徒監の一人であり、自分に話すことがある、と言われたのもそのためだったということが、はっきり意識されて来たのである。
 彼は、もう、隣室とのあいだの戸がひらくのが、待遠しくてならなくなった。
 しかし、戸は容易にひらかなかった。やっとそれが開いたのは、午後の時間の用意の鐘が間もなく鳴ろうという頃だった。
 はいって来たのは、小田先生と朝倉先生の二人だった。次郎は、うろたえたように立上って、朝倉先生に敬礼した。すると、朝倉先生はにこにこしながら、
「本田は、よくいろんな変った事件を起すんだね。」
 と、無造作に椅子をひいて、腰をおろした。それから、
「まあ、かけたまえ。」
 と、次郎にも腰をおろさせ、
「しかし、今度は、室崎の時とはちがって、君の方が机もろともかかえ出されたそうじゃないか。さすがに、君も面喰らったろう。」
 朝倉先生は、そう言って大きく笑った。それは、まるで取調べをするとか、訓戒をするとかいった調子ではなかった。が、先生はそれからしばらく窓の方を見たあと、急にまじめな顔をして、
「小田先生は、学級主任として君のことを非常に心配していられるんだ。」
 次郎は、ちらと小田先生を見たが、すぐ冷やかに眼をそらした。
「実はね――」
 と、朝倉先生は、しばらく間をおいて、
「小田先生は、君に悪気があったなんて、ちっとも思ってはいられないんだ。私も、むろん、そうは思っていない。校長先生にはまだお話してないんだが、お話しても、たぶん、そうは思われないだろう。だから、学校としては、君の正しさを疑ってはいないんだ。君はそれを信じてもよい。」
 次郎は、心が躍るようだった。しかし、ついさっきまで自分を疑っていた小田先生が、朝倉先生のそんな言葉を默って聞いているのが不思議でならなかった。
「しかし、――」
 と、朝倉先生は、次郎の顔を注意ぶかく見まもりながら、
「人間の世の中には、誤解ということがある。これは、時と場合によって免れがたいことだ。君だって、これまでに、人を誤解したことが何度もあるだろう。」
 次郎の頭には、幼いころからの自分の生活が、一瞬、走馬燈のようにまわった。
「どうだね。」
 朝倉先生はやさしく返事をうながした。
「あります。」
 次郎は素直(すなお)に答えて、少しうなだれた。
「誤解された人は気の毒だ。だから、そういう人があったら、みんなでその人のために弁護をしてやらなければならん。これはあたりまえのことだ。」
 次郎は、小田先生の顔をそっとのぞいて見たいような気がしたが、視線はわずかに青い毛氈の上をはっただけだった。
「しかし、気の毒なのは、誤解された人だけではない。誤解する人も、やっぱり気の毒だよ。どうかすると、誤解された人以上に、その人をいたわってやらなければならないこともある。君は、自分で、そんなふうに考えたことはないかね。」
 次郎には、急には返事が出来なかった。朝倉先生は、毛氈の上に組んでいた手を、そのまま顎の下にもっていって、数でも読むように指を動かしていたが、
「君が、自分で人を誤解した時のことを、よく考えてみたら、わかるだろう。」
 次郎は、もう一度、自分の過去につきもどされた。いろんな人の顔が彼の前にちらついた。その中には、亡くなった母の観音様に似た顔もあった。彼の頭からは、その時、宝鏡先生のことなどすっかり拭い去られてしまっていた。
「わかるはずだと思うがね。」
 朝倉先生は、組んだ手をもう一度毛氈の上にもどして、少し顔をつき出した。
「わかります。」
 次郎の顔は、もうその時には、毛氈にくっつくように垂れていた。
「うむ――」
 と、朝倉先生はうなずいて、また手を顎の下にやった。そして、しばらく考えていたが、
「そこで、宝鏡先生の君に対する誤解だが、むろん、小田先生をはじめ、私も、出来るだけ君に悪気がなかったことをお伝えはする。しかし、一番の早道は、君が自分で直接君の気持をお話しすることだと思うが、どうだね。」
 次郎は、しかしぴったりしない気持だった。宝鏡先生の方から呼び出しがあればとにかく、自分から進んで弁解に行く必要はない、そんなことをするのは屈辱だ、という気がしてならなかったのである。彼は答えなかった。
「いやかね。」
 と、朝倉先生は、組んだ手を解(と)いて、代る代るもみながら、
「いやなら、仕方がない。いやなものを無理強いされても、かえって誤解を深めるはかりだろうからね。……どうです、小田先生、本田の気持がもう少し落ちついてからにしちゃあ。」
「しかし……いいでしょうか。」
 小田先生は、何か言いにくそうに、言葉の途中をにごした。
「仕方がありませんよ。無理をして、取返しのつかん結果になるより、当分このままの方がいいでしょう。」
「はあ……」
 小田先生の返事はやはり煮えきらなかった。次郎には、しかし、その煮えきらない理由が小田先生の宝鏡先生に対する立場にあるということが、もうはっきりわかっていた。
「じゃあ、もう本田は引きとらしていいでしょう。」
 朝倉先生はおさえつけるような調子でそう言って、半ば腰をうかした。
「ええ。」
 と、小田先生も、あきらめたように、
「じゃあ、本田、用があったらまた呼ぶから、今日はこれで引きとっていいよ。」
 次郎は、朝倉先生に対して済まないような、それでいて何か物足りないような気がしながら、立ち上った。朝倉先生は、腰をうかしたまま、いつもの澄んだ眼でじっと彼の様子を見つめていたが、また腰をおちつけて、
「うむ、そう。念のために言っておくがね。」
 と、手で合図をして、もう一度次郎にも腰をおろさせ、
「君は、今では、宝鏡先生の誤解を解く必要はない、と思っているかもしれん。しかしそれは何といっても君の誤りだ。誤解は解けるものなら、解いた方がいいよ。人間と人間との間に誤解があっていいはずはないからね。それだけは、私からはっきり言っておく。しかし、道理はそうだとしても、君の気持がそうならなければ、どうにも仕方がない。それはさっきも言ったとおり、いやいやながら誤解を解こうとすれば、却って悪い結果になるからだ。そこで、私は、小田先生といっしょに、君の気持がそうなるのを、陰ながら祈ろうと思っている。それだけは覚えておいてくれ。もっとも、私たちが祈っているからって、それを気にして、あせってはいかん。鶏が卵をあたためるように、ゆっくり落ちついて考えるんだ。いいかね。」
 次郎は室崎の事件の折の朝倉先生をやっと取りもどしたような気がした。そして、すぐにも宝鏡先生に会わして貰おうかと思った。しかし、先生はつづけて言った。
「それと、もう一つ言っておくことがある。それは、誤解はどうしたら解けるか、ということだ。かりに、君が宝鏡先生の誤解を進んで解きたいという気持になったとして、君はどうしようと思うんだい。」
「………?」
 次郎には、質問の急所がつかめなかった。
「誤解にもいろいろあってね。……」
 と、朝倉先生は、少し声を低め、
「相手を説き伏せて解ける誤解もあるし、証拠や証人を出して解ける誤解もある。しかし、それだけではどうにもならない誤解があるんだ。いや、説き伏せたり、証拠や証人をつきつけたりすると、結果がかえって悪い場合さえある。」
 次郎には、全くわけがわからなかった。
「変なことを言う先生だと君は思うだろうね。しかし、世の中は、君らが考えているように、一本筋のものではないんだ。ことがらによっては、一言の弁解もしないで、ただ私が悪うございましたと言えば、それでかえって誤解がとけることもある。むろん、普通なら誤解した方が誤解された方にあやまるのがあたりまえさ。しかし、それがあべこべになっても、そのために、ほんとうに誤解がとけて、双方の気持が晴れやかになるんだったら、そうして悪いわけはない。こんなことを言うと、それでは正しいことが闇に葬られてしまうではないか、と君は言うかもしれん。しかし、正しいことは天知る、地知るだ。決して葬られてしまうものではない。実は、誤解した人だって、……」
 と、朝倉先生は、言いかけて急に口をつぐんだ。
 次郎の頭にその時ひらめいたのは、宝鏡先生ではなくて、お祖母さんだった。彼はもう何もかもわかったような気がした。しかし、彼は、やはり首をたれたまま、朝倉先生のつぎの言葉を待った。
「いや、こんなことを今あんまり言うと、無理強いになるかもしれん。私は、決して、是が非でも宝鏡先生に君をあやまらせようとしているんではないんだ。人間はどんな場合にも、心にもないことをやってはいかん。自分で、あくまでもあやまる必要がないと信じているなら、あやまらない方が却っていいんだ。ただ十分考えてだけはみなければならんね。それで、私は、君が考える時の参考に、誤解を解くには、ただあやまる方がいい場合もあるってことを話したまでだ。要するに、みんなが晴れやかになるには、どうするのが一番いいかそれを考えてもらいたいんだ。それも、校長先生のいつも言われる大慈悲さ。おたがい意地を張る代りに、大慈悲を競う気で物事を考えれば間違いはない。……そう、そう孔子の教えの中に、いい言葉がある。仁に当っては師に譲らず、というんだ。わかるかね。」
 次郎には、むろん、わからなかった。朝倉先生は、小田先生の方を見て、ちょっと微笑しながら、
「国漢の先生を前に置いて、こんなことを言うと、笑われるかもしれんが、仁というのは、つまり大慈悲だ。何事にも先生にゆずるのが弟子の道だが、仁を行うことにかけては遠慮はいらぬ。宝鏡先生とでも誰とでも競争せよ、という意味なんだ。どうだい、大ていわかったろう。」
 朝倉先生は、そう言って、だしぬけに椅子から立上り、
「じゃあ、もういいから、帰ってゆっくり考えてみるんだ。」
 と、さっさと生徒監室の方に歩き出した。次郎は、あわててそのうしろ姿に敬礼したが、まだじっと自分の様子を見つめている小田先生の眼に出会すと、彼はわざとのようにたずねた。
「もういいんですか。」
「朝倉先生がいいと言われたら、いいだろう。」
 小田先生の答は、どぎまぎしているようでもあり、くさっているようでもあった。次郎はそれをきくとすぐ、きちんと敬礼をして室を出たが、廊下を歩いて行く彼の胸の中には、勝ち誇った気持と、重い荷を負わされた気持とが交錯していた。
 彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
 と、いかにも思いあぐんだように言った。
 午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
 次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。

    六 迷宮

 次郎は、歩きながら、二人の先生との対談の様子を、あらためてくわしく新賀に話した。話しているうちに、小田先生のあいまいな態度に対する不満の言葉も、自然、幾度となく彼の唇を洩(も)れた。しかし、今は、そうした不満をならべるのが彼の目的ではなかった。彼には、もう、どの先生に対しても、朝倉先生の心に背いてまで反抗的な態度に出る気持は残っていなかった。宝鏡先生に対してこれからどうすればいいか、ということについても、いつの間にか決心がつきかけていたのである。ただ、心の底には、まだ何といっても、いくらかの無念さが残っていた。それに彼くらいの年頃では恐らく誰しもそうだと思うが、そした殊勝な決意をすることが友達に対して何となく気恥かしく感じられるのだった。で、彼は、表面、どうしていいかわからない、といった顔をして、それとなく、朝倉先生の言葉や、その言葉から受けた感銘やを、強く新賀の心に印象づけ、新賀の方から、励ましてもらいたい気持でいたのである。
 しかし、彼のそうした複雑な気持は、新賀には、まるで通じなかった。新賀は、ただ一途に、数学の時間の出来事について、次郎に同情していた。それに、彼はまだ一度も朝倉先生に接したことがなかったので、次郎の口をとおして間接に聞かされた先生の言葉には、さほど感銘を覚えなかった。それは、むしろ、変にややこしい理窟だとしか彼には思えなかったのである。彼は、だから、次郎が率直にもらした不満の言葉には一も二もなく合鎚(あいづち)をうったが、朝倉先生の言葉に対しては、共鳴どころか、かえって、先生が小田先生とぐるになって、いい加減に次郎をごまかそうとしているのではないか、とさえ疑い、次郎が苦心して説明するたびに、
「ほっとけよ、誰が何と言ったって、平気さ。」
 と、次郎の期待とは、まるであべこべの方向に彼を励ますだけだったのである。
 次郎は、新賀にそんなふうに言われると、ますます自分の本心をはっきり言うことが出来なかった。そして家に帰りついて、新賀と二人、机のはたに坐りこんでからの彼は、とかく沈默がちになり、新賀に来てもらったことをいくらか後悔さえしていた。
 新賀は、そうなると、いよいよはげしい言葉をつかって、彼を元気づけることにつとめた。そして、「なあに、処罰ぐらい、屁でもないよ。」とか、「頑張るさ。君さえ頑張りゃ、みんなできっと応援するよ。」とか、成行次第では自分が主になって、一騒動起しかねないようなことまで言うのだった。
 そんなふうで、おおかた小一時間も話しているうちに、恭一が帰って来た。大沢をつれて来たらしく、階段で二人の話声がきこえた。次郎はそれを聞くと、急に救われたような気になった。
 大沢は、部屋にはいると、
「やあ。」
 と二人に声をかけて、すぐあぐらになりながら、新賀にたずねた。
「次郎君と同じ組かい。名は何というんだい。」
 新賀の方では、大沢は上級生でもあり、「親爺(おやじ)」の綽名(あだな)で有名でもあったので、もうとうから顔を見知っていた。しかし、言葉を交わすのははじめてだった。彼は、自分の名を答え終ると、いかにも「親爺」らしい大沢の顔を無遠慮に眺めていたが、急に次郎の方をふり向いて、
「どうだい、今の話、兄さんや大沢さんにも話してみないか。」
 次郎は、むろん、新賀に言われなくとも話すつもりだった。で、さっそく、今日の一件が四人の話題に上ることになった。
 次郎と宝鏡先生との教室での活劇については、新賀が殆んど一人で話してしまった。しかし、小田先生に呼び出されてからあとの事は、次郎が自分で話すより仕方がなかった。新賀の憤慨した調子にひきかえて、次郎はいやに用心深く話した。そして、今度は小田先生に対する不満の言葉など出来るだけ洩(も)らさないようにつとめた。新賀はそれが物足りなかったらしく、何度も口をはさんで、小田先生のあいまいな態度を攻撃した。
 恭一は、話の最初から、ひどく心配そうに聞いていた。しかし、大沢の方は、次郎が机もろとも宝鏡先生にかかえ出されるあたりになると、手をたたいて喜んだ。そして、
「机にしがみついてはなれなかったのは大出来だよ。さすが次郎君だ。かかえ出されても、勝負にはたしかに勝っているね。」
 と、わざとおだてるようなことを言ったりした。そして、次郎が最後に、
「僕、どうしたらいいかわからないので、新賀君の考えをきいてたところです。」
 といくらかきまり悪そうに首をたれると、大沢は、
「ふうむ、なるほど。仁に当っては師に譲らずか。朝倉先生そんなことを言ったんかな。ふうむ。――」
 と、何度も首をふり、それから、恭一に向かって、
「どうだい、本田、君、兄さんとして次郎君に何とか言ってやれよ。」
 恭一は、しかし、次郎の顔を見つめているだけだった。すると、新賀が横から、突っかかるように言った。
「大沢さんは、朝倉先生の言ったこと、いいと思うんですか。」
 大沢は微笑した。そして、ちょっと考えていたが、すぐあべこべに問いかえした。
「君は、いけないと思うかい。」
「いけないと思うんです。」
「どうして?」
「悪くない者にあやまれなんて、そんなこと無茶です。」
「しかし、是非あやまれとは言わなかったんだろう。ねえ、次郎君。」
「ええ。考えろって言われたんです。」
「じゃあ、あやまらなくてもいいんですね。」
 と、新賀の調子は、少し皮肉だった。
「さあ、それは次郎君が自分で考えるだろう。」
「僕は、朝倉先生が考えろなんて言ったのが、ペテンだと思うんです。」
「ペテンだか、ペテンでないかは、朝倉先生自身のほかには誰にもわからんよ。しかし、次郎君はペテンでないと思ってるらしい。ねえ、そうだろう。次郎君。」
「ええ。――」
 次郎は、新賀に多少気を兼ねながら答えた。すると新賀は憤然として言った。
「卑怯だよ、君は。生徒監がそんなに怖いんか。正しいことが突きとおせないような人は、僕、大嫌いだ。」
 彼は、もう立ち上って帰ろうとしていた。大沢も、それを見ると、さすがにあわてたように彼のまえに立ちふさがった。そして、
「おい、おい、そう簡単に友達を見捨てるのはいけないことだぜ。まあ坐れ。」
 と、彼の肩をおさえてむりに坐らせ、
「君はずいぶん短気だな。しかし、そんな短気は必ずしも悪くない。実際、次郎君はこのごろ大人になり過ぎているんだ。少し怒りつけてやる方がいいよ。」
 次郎は、新賀の態度でかなり気持が混乱していたところへ、大沢にそう言われたので、いよいよまごついた。しかし、そのまごつきも、ほんのわずかの間だった。彼は、幼いころから、相手が自分に同情する立場に立っていることが明らかであるかぎり、その相手に対しては、人一倍弱かったが、いったん相手が多少でも反対の側に立ったと見ると、もう少しも遠慮はしなかった。愛の渇(かわ)きによって自然に築き上げられて来た彼のこうした意地強さは、まだ決してなくなってはいなかったのである。彼は、新賀と大沢とを等分に見くらべながら、ずけずけと言った。
「僕は、僕の思うとおりにするんだから、もう誰にも構ってもらわなくてもいいんです。」
 それを聞いて、誰よりもにがい顔をしたのは恭一だった。彼は、これまでほとんど一言も出さないでいたが、やにわに神経質な声をふりしぼって言った。
「次郎! 何を言ってるんだ。失敬じゃないか。大沢君だって、新賀君だって、お前のことを心配しているから、いろんなことを言うんだよ。」
「じゃあ、兄さんも、大沢さんや新賀君の言うことに賛成ですか。」
 次郎は、今度は恭一に突っかかって行った。恭一は、ちらと新賀の方に眼をやって、答えに躊躇(ちゅうちょ)したが、
「僕が賛成だか、賛成でないか、そりゃ別さ。僕はただ、お前があんまり失敬だから、言ったんだよ。」
「だけど……」
 と、次郎はせきこんで何か言おうとした。すると、大沢が急に笑い出した。そして、
「今日は、兄弟喧嘩はその程度でよしとけよ。ついでに、次郎君の問題も、ここいらで打切りにしたら、どうだい。」
 みんなは、ちょっと拍子ぬけがしたような顔をして、大沢を見た。大沢はにこにこしながら、
「次郎君が、自分で思う通りにするから誰も構ってくれなくてもいい、と言ったのは、失敬でも何でもないんだ。実は、僕、それでいいと思うんだよ。いや、それがほんとうなんだ。朝倉先生だって、多分そのつもりなんだろう。だから、僕らは、次郎君がこれからどうするか、見ていりゃあいいんだ。」
 次郎には、それが非常に皮肉にきこえた。彼は「くそっ」という顔をして、大沢をにらんだ。大沢は、しかし、相変らずにこにこしながら、
「だが、次郎君、朝倉先生が、心にもないことはやるなって言われたことを忘れんようにせいよ。先生は、君に是が非でも聖人君子の真似ごとをやらせようとしていられるんではないんだ。その証拠には、ゆっくり考えろと言われたんだろう。むろん、先生に最初言われたとおりのことが、君に出来ればすばらしいさ。しかし、どうだい、君は、山伏先生のまえに、自分で悪いとも考えていないことを、ほんとうに心からあやまることが出来るんかい。あやまるからには、山伏先生が今度どんな無茶を言っても、腹を立ててはならないんだよ。それが果して君に出来るんかい。」
 次郎にはさすがに返事が出来なかった。恭一は不安な顔をして、
「しかし、次郎が自分であやまるつもりなら、あやまらしてもいいんじゃないかね。」
「むろん、僕はそれをとめはせん。次郎君に自信があれば、やるがいいさ。やった結果がどうなるか、それを見るのも面白いかも知れんね。」
 次郎は追いつめられるような気がして、すっかり落ちつきを失った。恭一も、そう言われると、べつの意味で不安を感じ出した。新賀はそれまで默りこんで仏頂(ぶっちょう)づらをしていたが、急に、
「僕、もう失敬します。」
 と立ち上りかけた。
「まてよ。どうも君は気が短かくていかん。」
 と、大沢は彼を手で制して、
「どうだい、今夜は、僕、朝倉先生を訪ねてみたいと思うが、君らもよかったらいっしょに行かないか。」
 大沢のこのだしぬけな提議は、三人にとって、全く意想外だった。同時に、それは、今までの部屋の空気をいっぺんに明るくした。
「うむ、それはいい。そうすれば安心だ。次郎、行ってみようや。……新賀君もどうだい。」
 と、恭一が、いつもにない、はしゃいだ声で言った。
 新賀は、朝倉先生にはまだ近づきがなかったせいか、ちょっと躊躇するふうだったが、好奇心とも、まじめな期待ともつかぬ、一種の興味に刺戟されて、すぐ賛成した。誰よりも喜んだのは次郎だった。彼は、迷宮からでも救い出されたような、ほっとした気持になって、もう、賛成するもしないもなかったのである。
 先生を訪ねる時間の打合わせを終ると、大沢は新賀の肩をたたいて言った。
「さあ、もうこれで、失敬してもいいんだ。じゃあ、さよなら。」
 新賀は、頭をかきながら、大沢のあとについて、階段をおりた。

    七 心境の問題

 朝倉先生の住居は、家賃十何円かの、だだっ広い、古い士族屋敷で、柱も天井も黒ずんだ十二畳の座敷が、書斎兼客間になっていた。
 ちょうど先生が入浴中だったので、四人は十分あまりも、その部屋に待たされた。そのあいだ、大沢と恭一とは、勝手に座蒲団をならべたり、本棚から本を引き出して見たりしていたが、先生の自宅を訪ねた経験のない次郎と新賀とは、いかにも窮屈そうにかしこまっていた。

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