次郎物語
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著者名:下村湖人 

 それにしても、自分の最も愛していない相手に同情を求め、自分の最も讃めたくない相手を強いて讃めて、どうなり自分を慰めていなければならない人間ほど、みじめな存在はないだろう。
 僕は、そうしたみじめさから祖母を救うことが、僕自身の正しい道だと考えないことはない。しかし、また一方では、みじめさをみじめさのままにして、少しもそれにふれないで置くことが、祖母のような性格と年齢の人を、かえって幸福にするのではないかとも考える。」

 この日記を書いてから数日たって白鳥会があり、その席で「妥協」ということが問題になったらしく、彼はそれについていろいろと自分の感想を日記につらねているが、最後に次のようなことを書いている。

「祖母の問題についても、僕はもっと深く考えてみなければならない。これまで、僕はいい加減に現実と妥協して来たようだ。祖母のみじめさをみじめさのままにしてふれないでおき、それを祖母自身の幸福のためだ、などと考えるのが妥協でなくて何であろう。妥協は、おたがいに真実の愛を感じないものの間にのみ常に成立つ。その意味で、妥協はたしかに虚偽だ。……だが、真実の愛はどうすれば湧いて来るのか、僕にはそれがわからない。僕はただそれを「摂理」に祈る外はないのだ。そして、真実の愛がまだ湧いていないとすれば、それが湧くまでは、妥協の外に道はないのではないか。なぜなら、真実の愛もなく妥協もないところには、ただ破壊のみが残されているからだ。白鳥会では、妥協よりもむしろ破壊を選ぶといった意見の方が多かった。しかし、僕はそれが単に痛快だからとか、虚偽でないからとかいうだけで賛成するわけにはいかない。少くとも、僕と祖母とに関する限り、破壊が妥協よりもまさっているとは決していえないようだ。それは、破壊がはっきりと建設を約束してくれないばかりでなく、僕自身の気持において何か忍びないものを感ずるからだ。……これは、僕の心のどこかに卑怯の虫が巣食っているせいだろうか。或はそうかも知れない。しかし僕としては、今はほかに行く道はないようだ。考えてみると、祖母もみじめだが、僕もそれに劣らずみじめなのだ。呪われたる運命よ。」

 次郎の日記は、かように、お祖母さんとの問題になると、とかく同じところをぐるぐるまわって、落ちつきのない感傷に終り、運命を呪ってみたりする。それだけに、お祖母さんが依然として彼の心に一つのしみを与えていたことはたしかである。しかし、それも、今では彼の生活そのもののしみというよりは、もっと現実をはなれた、いわば思索の祭壇に捧げられた黒い花束みたようなものだったのである。事実、彼の日々の生活は、お祖母さんに愚痴を聞かされるわずかの時間をのぞけば、「呪われた運命」などとはおよそ縁の遠い、のびのびとしたものであった。お祖母さんとの関係について日記に感傷的な文句をつらねている時でさえ、彼は、それに悩まされて暗い気持になっているというよりは、むしろ道義の世界における探検者としてのある喜びを感じていたかのようであった。
 こうして、彼は、父の鶏舎や畑を手伝いながら、身も心も張りきって、中学三年から四年にかけての約一年半を過ごしたが、その一年半こそは、彼のこれまでの生活の中で最も永続きのした明るい生活であった。そして、一生のこの時期に、そうした生活を恵まれたということは、ただちに彼の身長にまで影響を及ぼした。彼が幼年時代に自分のちびであるのをひどく恥じていたことは、多分まだ読者の記憶にも残っていることだと思うが、この羞恥感は、その後の彼の内面生活の変化と共に、いくらかずつうすらいで行ったとはいえ、中学三年の二学期頃までは、完全にぬぐい去られていたとはいえなかった。というのは、体操の時間にいつも一番びりに並ばされたり、友達に「君は弟より背が低いのではないか」と言われたりすることは、この年頃の青年としては、全く無関心ではあり得ないからである。ところが、その二学期も終りに近づくころから、――言いかえると、父が養鶏事業をはじめて三月ほどもたったころから、――彼の身長は急にのび出し、間もなく俊三をぬいたばかりか、三年から四年に進級したころには、組の生徒を十人ほどもぬいてしまい、四年の夏休みがすんだあとの身体検査では、ちょうど組の真中ぐらいのところまで進んでしまったのである。このことについては、次郎は彼の日記に一言もかいていない。しかし、彼にとってはそれは決してどうでもいいことではなかった。というのは、先す第一に、俊亮やお芳や大巻一家がそれを非常に喜んでくれたし、家主である栴檀橋の茶屋の小母さんが、それでやっと彼を俊三の兄だと確認するようになったし、そして彼自身としては、物ごとが何もかも自然で正常の状態に帰りつつあるように感じ、いよいよ「摂理」の詩を書いてみたい衝動にかられて来たからである。
 だが、次郎はまだやはり「摂理」の詩を書くには若すぎていた。「摂理」は、次郎をして真に「摂理」を礼讃(らいさん)せしめるために、なおいろいろと彼のために準備してやらなければならないことがあったのである。その準備の一つは、すでに彼の一家が今度の家に引っこして間もなくからはじまっていたが、それは大巻の徹太郎叔父の結婚を機縁にしたものであった。
 徹太郎の結婚式は、俊亮の鶏舎が完成して、ひととおりの落ちつきを見せるのを待ちかねていたかのように、歳暮にせまって行われた。迎えられたのは隣村の重田という旧家の娘で、名を敏子といった。敏子には父母のほかに、兄が一人と妹が一人あり、二人とも結婚式にはむろんつらなっていたが、次郎が、式場にならんだ花嫁方の親類の顔の中で、真先に覚えたのは、この二人の顔だったのである。それは、兄の方は大学の制服をつけていたからにちがいなかった。しかし、妹の方については、なぜだか次郎自身にもはっきりしなかった。同じ年頃――十五、六歳――の着飾った娘はほかにも二三人いたし、顔立にしても、その中で特に目立っていたというのでもなかったが、次郎の眼にはふしぎに彼女の顔だけがはっきり映ったのである。ただ、これは次郎があとになってそんな気がしたのであるが彼女の顔はどこかで見たことのあるような顔だった。少くとも、どこかで見たことのある顔に似ている顔だった。それが一眼で彼女の顔を次郎に印象づけた理由だったかも知れない。次郎自身でも、式がすんだあと、数日の間、たびたび彼女の顔を思いうかべているうちに、そういうことにきめてしまったらしいのである。
 さて、それはそれでいいとして、次郎はなぜそうたびたび彼女の顔を思い出さなければならなかったのか。それについては[#「それについては」は底本では「それついては」]、彼自身少しも考えてみようとはしなかった。そしてそこに運命のいたずらな、――或は摂理の不可思議な――奥の手があったのかも知れない。
 道江――それが彼女の名であった――は、女学校の二年に通っていた。彼女は姉の結婚式後、しばらく大巻の家に顔を見せなかったが、正月をむかえてからはたびたび一人で来るようになり、ことに、学校がはじまると、その帰りには、よく寄り道をして、ちょっとでも姉に会って行くといった工合であった。そして大巻に来ると、三度に一度は本田にも寄り、時には母に言いつかったと言って、卵をゆずってもらったりすることもあった。そんなふうで、次郎や俊三も、いつの間にか彼女と親しく言葉を交わすようになり、大巻の家でいっしょにご飯をよばれたりすることも、まれではなかった。
 彼女には、これといって目立った特徴はなかった。「すなおな子」というのが、彼女に対する本田や大巻の人たちの一致したほめ言葉であった。それにはお祖母さんも心から同意していたらしく、俊亮にむかって、おりおり「年頃も恭一にちょうどいいようだね。」などと言ったりした。
 次郎は、お祖母さんのそんな言葉を耳にしても、はじめのうちは、べつにどうという感じも起らなかった。ただ、ぼんやり、彼女を家族の一員として迎えることにある喜びを感ずる、という程度でしかなかった。そして、彼が彼女を知ってから、およそ一年ばかりもたったころには、彼は現実にも、また夢の中でも、彼女に自分の好きな本を貸してやったり、またその内容について話しあったりするほどに彼女との親しさを加えていたとはいえ、もし彼が、彼女の身辺につきまとっている一人の青年のいまわしい眼を発見しなかったとすれば、彼の彼女に対する感情は、彼の日記の中で、「聰明で静かな少女」という文字を書いたり消したりした程度にとどまっていたのかも知れない。そして、かりに何年かの後に、お祖母さんの希望どおり、彼女と恭一との結婚が事実となってあらわれたとしても、もし彼がどこかの上級学校にでもはいっていれば、そこから彼は、過去の思い出からしみ出る言いしれぬ淋しさを胸に抱きつつも、恭一にあてて心をこめた祝賀の手紙を書くことが出来たであろう。
 だが、「運命」と「愛」と「永遠」とは、おたがいに完全な握手が出来るまでは、決して中途半端な握手はしないものである。「運命」の手は、まだ容易に次郎を「永遠」の手に渡したがらない。「愛」もまた彼のまえにさまざまの迷路を用意している。次郎が、一青年のいまわしい眼を道江の身辺に発見したということは、それがあとになって彼自身に「無計画の計画」と感じられようと、あるいは「摂理」の至妙な計画と感じられようと、彼が「永遠」の門をくぐるために、一度は耐えなければならない試煉だったのである。私は、これから、次郎がどんな工合にその試煉にたえていったかを物語りたいと思う。
 しかし、次郎がたえて行かなければならない試煉は、ただそれだけではなかった、実は、彼の前には、すでに、そうしたわたくし事とはくらべものにならない、大きな試煉が待ちかまえていたのである。それは「時代」の試煉であった。次郎という個人にだけでなく、国家と民族とにおもおもしくのしかかって来る「時代」の試煉であった。私は、これまで、次郎が、家庭や、学校や、せまい範囲の師友の間に生活する姿だけを記録して来たが、彼がそうした大きな時代を迎えることになったとすれば、そして、とりわけ、時代というものに最も敏感であり、情熱的であるべき年齢において、それを迎えることになったとすれば、私は、もはや、時代をぬきにして彼を描くわけにはいかない。かりに、道江を中心とした問題が、本来、時代とはかかわりのない大きな浪であったとしても、それが、事実、一層大きな、ほとんど無限ともいうべき大きな時代の浪の中での一波瀾(はらん)であったとすれば、単にそれだけを切りはなして描いただけでは、彼のほんとうの生活を描いたことにならないであろう。私は、だから、この二つの浪を同時に描かなければならない。いや、一つの浪をもう一つの浪の中にとらえ、その浪がしらに漂う次郎の眼と、唇と、呼吸と心臓と、手足の動きとをつぶさに記録して行かなければならないのである。しかし、それにはまだかなりの時間と紙とがいる。で、私は、読者が次郎を気遣うあまり、気短かすぎる読者にならないことを切に希望して、一先ず次郎の青年前記の記録をここで終りたいと思うのである。
(昭和十九年十一月)



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