次郎物語
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:下村湖人 

 と、駄菓子を袋に入れて、無理に俊三の手に握らせた。
 帰ってから、母にその話をすると、その茶店の主人が僕たちの家主だということだった。夫婦とも百姓ぎらい、それに子供がないので、あんなところに茶店だか別荘だかわからない家を建てて、気楽に暮らしているのだそうだ。
「あの小母さんは慾がなくて面白い人だよ。だけど、気に障(さわ)ると誰にでもくってかかる人だから、用心してね。」
 と母は言った。
 兄とお浜とに引越をした報せを書く。まだ安心してはならないという気もしていたが、僕の手紙の文句はひとりでに明るくなってしまった。
 夜はみんな大巻におよばれ。鰻(うなぎ)[#「鰻」は底本では「饅」]の蒲焼が沢山出た。

 八月三十一日
 今日でいよいよ夏休みも終る。休みのうちに家のことが一先ず片づいたのは大いによかった。学校がかなり遠くなったが、一時間ぐらい歩くのは何でもない、行きかえりには詩でも作ろうと思う。白鳥会の日に帰りが晩(おそ)くなるのがちょっと不便だが、それも大したことではない。
 新しい出発だ。学校も、家庭も、そして僕自身の心も。
 だが、この新しい出発にきっかけを作ってくれたものは何だろう。僕はそれを考えて今さらのように驚いた。春月亭のお内儀が、いや、番頭の肥田が、間もなく鶏に新しい卵を生ませようとしているではないか!
「世に悪しきものなし」――僕は何かで見たそんな言葉を思い起した。そして「摂理」のふしぎさについて詩を書いてみたいと思ったが、急にまとまりそうにもなかった。

    一七 すべてよし

 日記の抜書きはこの程度で終る。次郎は、ともかくもこうして、かなり明るい希望を抱いて新学期を迎えることが出来た。そして、彼のこの希望は、少くとも父の新しい事業に関するかぎり裏切られたとはいえなかったようである。
 ぽつぽつとではあったが、鶏舎はしだいに拡張され、その年の暮までには、だいたい当初のもくろみどおりのものが完成した。そして翌年の春には、どの鶏舎にも白色レグホンやミノルカがさわがしく走りまわるようになり、生まれる卵の数も日に日に多少ずつ殖(ふ)えて行った。また養鶏のほかに、菜園も耕され、その一部には草花の種も蒔かれた。そして、おいおいには、広い土間や二階を利用して、養蚕もやってみたい、という話さえ出るようになったのである。
 俊亮とお芳とは、ほとんど朝から夕方までいっしょになって仂いた。お芳は最初のうち、自分で煮炊きまでやっていたが、鶏舎の増築につれて次第に手がまわらなくなり、とうとう、お金ちゃんという近所の小娘を雇い入れて、台所のことを手伝わせることにしたのだった。俊亮は、お芳といっしょに仂きながら、彼女にふしぎな能力があるのを発見して、驚くことがしばしばだった。彼女は何事にもとくべつに頭をつかって考えたりするふうはなかった。また、どんなに忙しい時でも決して急ぐことがなく、足どりさえいつものとおりだった。それでいて、同じ鶏舎の仕事をやっても、俊亮よりは無駄がなく速いし、急所をはずしたことなどめったにない。彼女がいつも無口でほがらかな顔をしているだけに、俊亮にはそれが一層ふしぎに思えたのである。
(経験というものは恐ろしいものだ。)
 俊亮は、はじめのうち、そんなふうに思っていた。しかし、よくよく考えてみると、お芳のそうした能力は養鶏のことばかりにあらわれているのではない。これまでだってべつに気をつかって整理しているようなふうでもないのに、箪笥の中にせよ、戸棚の中にせよ、いつもきちんと片づいており、お芳に任かされた限りは、どんな小さいものでもその在りかがすぐわかった。気のきかない女だと他人にも思われ自分でもそう信じているらしい彼女のどこに、そうした能力がひそんでいるのだろうか。俊亮はおりおりそんなことを考えて首をふった。そしてこの頃になって、彼はやっとそれを彼女の正直さに帰するようになったのである。
 お芳は、実際、腹のどん底まで正直な女だった。その正直さが彼女の顔に無表情なほがらかさ――それはなみはずれて大きな笑くぼのせいでもあったが――を与え、彼女の唇から自己弁護のための饒舌さを奪い、彼女を一見気のきかない女にしてしまったらしい。そして、もし彼女自身でも、自分を気のきかない女だと信じていたとすれば、それもやはり彼女の正直さのゆえだったにちがいないのである。
 明敏という言葉と、愚鈍(ぐどん)という言葉とは、それぞれ二つの意味をもっており、その一つの意味では、神の国において同義語であり、もう一つの意味では、悪魔の国において同義語であるが、お芳が世間の眼から見て愚鈍な女だったことに間違いはないとしても、それはたしかに前者の意味においてであったのである。俊亮には、このごろはっきりとそれがわかって来た。
 そして、もし次郎が、将来、愚鈍という言葉に二つの意味があるということを知る機会があるとしたら、彼は、彼の第二の母を、彼が現在尊敬しはじめている以上に、――或は恐らく朝倉先生を尊敬するのと同じ程度に、尊敬せずにはいられなくなるかも知れない。そして、そうした尊敬の念が彼の心に湧いた時こそ、彼は、朝倉先生に学び得た「白鳥芦花に入る」精神や、「誠」や、「円を描いて円を消す」心構えやらを、真に会得することが出来るであろう。
 筆がつい横にそれてしまったが、俊亮のお芳に対する信頼は、そんなわけで、養鶏をはじめてから急に深まって行き、信頼が深まるにつれ、事業はいよいよ調子づいて来た。そして心配されていた恭一の学資も、最初の二三ヵ月こそ多少やりくりを必要としたが、とにかく送るには送ったし、その後まったく問題ではなくなって来た。恭一は、それでも不安だったのか、或は他に何か考えがあったのか、やはり家庭教師をつづけていたらしかった。しかし、年末の休みに予告もなくひょっくり帰って来て、二三日家の様子を見ているうちに、すっかり安心したらしく、自分から次郎に言った。
「もう学資のために仂くのは止すよ。これからは大沢君とも相談して、べつの意味で仂いてみたいと思っている。」
 こんなふうで、次郎には何もかもが楽しくなって来た。そして、恭一のそうした言葉からの刺戟もあって、毎日学校から帰って来て鶏舎や畑の手伝いをするにしても、それを単なる手伝いとは考えす、自分自身の仕事として、その仕事の中から出来るだけ多くの意味をくみとろうとつとめた。それが、白鳥会における彼の存在を、徐々にこれまでとはちがったものにしはじめたことはいうまでもない。彼は、鶏や野菜の話から、しばしば、生命についての彼のいろいろの感想を述べた。その中には、生命とその環境とか、生命の自律性と調和性とか、或は自然と道徳とかいったような問題にふれることも稀ではなかった。ある時、彼は、「鶏でも野菜でもはじめにいじけさすと、たいていは取りかえしがつかないものだ。」と言って、彼の経験した実例をいろいろと話していたが、ふと、これは自分のことを言っているのではないか、という気がして、急に口をつぐんでしまったことがあった。しかし、そんな時のいやな気持も、あとに尾を引くというようなことは、この頃ではもう全くなくなっていた。そして、その理由を彼自身で反省してみて、やっぱりこれも環境のせいだ、というふうに考え、人知れず微笑したくらいだったのである。
 みんなが明るく、生き生きとなるにつれて、ただひとり、不機嫌になるように思われたのは、お祖母さんだった。それは、いうまでもなく、お芳の家庭におけるこれまでのぼやけた存在が、日に日に鮮明なものになって来たからにちがいなかった。お芳としては、ただ正直に真心こめて仂くだけのことだったが、その仂きが効果をあらわせばあらわすほど、そしてそれが俊亮に認められれば認められるほど、お祖母さんとしては自分の影がうすくなるような気がするのだった。恭一の学資の心配がなくなったのは、うれしいことにはちがいなかったが、それが恭一のことであるだけに、そのかげにお芳の力、ひいては大巻の力を認めないではいられないのが、たまらなくくやしかった。それも、大巻の家が遠方にでもあればまだしも、すぐ目と鼻の間にあって、日に何回となく双方から行き来するので、いかにも自分ひとりが人質にでもとられているような気がしてならなかったのである。
 お祖母さんのそうしたひがみは、何かにつけ、遠まわしの皮肉となってお芳の耳に刺さった。しかし、その痛みを感じたものは、お芳ではなくて、むしろ俊亮だった。しかもその俊亮でさえ、何もかも肚(はら)にのみこんで、表面では何ごともなかったような顔をしているので、お祖母さんとしてはいよいよもどかしくなり、その結果が、次郎と俊亮を相手に愚痴(ぐち)をこぼし、口ぎたなくお芳のかげ口を言うばかりか、俊亮を大の親不孝者とさえ呼ぶようになって来たのである。
 次郎にとって、お祖母さんのそんな愚痴が愉快なものでなかったことは、いうまでもない。しかし、それも今では、彼の日々の生活に大して暗い影をなげるというほどのものではなかった。どうせお祖母さんはこんな人だ、という諦めに、いくぶんのあわれみの情をまじえて、不愉快ながらもその愚痴を辛抱し聞いてるといったふうであった。そのことでは、俊三の方がいつもお祖母さんの機嫌を損じた。俊三は、お祖母さんの愚痴がはじまると、てんからあざ笑ったり、正面から反対したり、途中から逃げ出したりすることが多かった。お祖母さんはそんな時には、次郎に向って、「まだ俊三には何もわからないんだよ。」と嘆息するのだったが、次郎は、もし自分が俊三のような態度に出たら、お祖母さんはどんなふうに言うだろう、などと考え、心の中で苦笑しながら、やはりおしまいまで相手になってやるのだった。そして、そういうことから、お祖母さんは、何かにつけ次郎を身近に引きつけておきたがり、はた目には、お祖母さんの愛が次第に次郎に移って行くのではないかとさえ思えるのだった。
 その間の消息について、次郎は、ある日の日記――それは、もう彼が四年に進級してからかなりたったころの日記であるが、――の中にこんなことを書いている。

「今日も、学校から帰ると、祖母が待ちかねていたように愚痴をこぼしはじめた。何でも大巻の祖父がやって来て、今月は先月にくらべ、卵の収穫が三百あまりも殖えたそうで結構だ、と喜びを言ったのがいけなかったらしい。祖母は、みんなが卵の数を自分には知らさないで、大巻にだけ知らしているんだ、というのである。あまりばかばかしいので、つい笑い出したくなったが、やはりがまんしてきいてやることにした。しかし、そのために、夕飯の時にみんなのまえで、“次郎は小さいとき里子に行って苦労しただけに兄弟のうちで誰よりも物の道理がわかっている。”などと言われたのには、僕もさすがに冷汗が出た。
 それにしても、自分の最も愛していない相手に同情を求め、自分の最も讃めたくない相手を強いて讃めて、どうなり自分を慰めていなければならない人間ほど、みじめな存在はないだろう。
 僕は、そうしたみじめさから祖母を救うことが、僕自身の正しい道だと考えないことはない。しかし、また一方では、みじめさをみじめさのままにして、少しもそれにふれないで置くことが、祖母のような性格と年齢の人を、かえって幸福にするのではないかとも考える。」

 この日記を書いてから数日たって白鳥会があり、その席で「妥協」ということが問題になったらしく、彼はそれについていろいろと自分の感想を日記につらねているが、最後に次のようなことを書いている。

「祖母の問題についても、僕はもっと深く考えてみなければならない。これまで、僕はいい加減に現実と妥協して来たようだ。祖母のみじめさをみじめさのままにしてふれないでおき、それを祖母自身の幸福のためだ、などと考えるのが妥協でなくて何であろう。妥協は、おたがいに真実の愛を感じないものの間にのみ常に成立つ。その意味で、妥協はたしかに虚偽だ。……だが、真実の愛はどうすれば湧いて来るのか、僕にはそれがわからない。僕はただそれを「摂理」に祈る外はないのだ。そして、真実の愛がまだ湧いていないとすれば、それが湧くまでは、妥協の外に道はないのではないか。なぜなら、真実の愛もなく妥協もないところには、ただ破壊のみが残されているからだ。白鳥会では、妥協よりもむしろ破壊を選ぶといった意見の方が多かった。しかし、僕はそれが単に痛快だからとか、虚偽でないからとかいうだけで賛成するわけにはいかない。少くとも、僕と祖母とに関する限り、破壊が妥協よりもまさっているとは決していえないようだ。それは、破壊がはっきりと建設を約束してくれないばかりでなく、僕自身の気持において何か忍びないものを感ずるからだ。……これは、僕の心のどこかに卑怯の虫が巣食っているせいだろうか。或はそうかも知れない。しかし僕としては、今はほかに行く道はないようだ。考えてみると、祖母もみじめだが、僕もそれに劣らずみじめなのだ。呪われたる運命よ。」

 次郎の日記は、かように、お祖母さんとの問題になると、とかく同じところをぐるぐるまわって、落ちつきのない感傷に終り、運命を呪ってみたりする。それだけに、お祖母さんが依然として彼の心に一つのしみを与えていたことはたしかである。しかし、それも、今では彼の生活そのもののしみというよりは、もっと現実をはなれた、いわば思索の祭壇に捧げられた黒い花束みたようなものだったのである。事実、彼の日々の生活は、お祖母さんに愚痴を聞かされるわずかの時間をのぞけば、「呪われた運命」などとはおよそ縁の遠い、のびのびとしたものであった。お祖母さんとの関係について日記に感傷的な文句をつらねている時でさえ、彼は、それに悩まされて暗い気持になっているというよりは、むしろ道義の世界における探検者としてのある喜びを感じていたかのようであった。
 こうして、彼は、父の鶏舎や畑を手伝いながら、身も心も張りきって、中学三年から四年にかけての約一年半を過ごしたが、その一年半こそは、彼のこれまでの生活の中で最も永続きのした明るい生活であった。そして、一生のこの時期に、そうした生活を恵まれたということは、ただちに彼の身長にまで影響を及ぼした。彼が幼年時代に自分のちびであるのをひどく恥じていたことは、多分まだ読者の記憶にも残っていることだと思うが、この羞恥感は、その後の彼の内面生活の変化と共に、いくらかずつうすらいで行ったとはいえ、中学三年の二学期頃までは、完全にぬぐい去られていたとはいえなかった。というのは、体操の時間にいつも一番びりに並ばされたり、友達に「君は弟より背が低いのではないか」と言われたりすることは、この年頃の青年としては、全く無関心ではあり得ないからである。ところが、その二学期も終りに近づくころから、――言いかえると、父が養鶏事業をはじめて三月ほどもたったころから、――彼の身長は急にのび出し、間もなく俊三をぬいたばかりか、三年から四年に進級したころには、組の生徒を十人ほどもぬいてしまい、四年の夏休みがすんだあとの身体検査では、ちょうど組の真中ぐらいのところまで進んでしまったのである。このことについては、次郎は彼の日記に一言もかいていない。しかし、彼にとってはそれは決してどうでもいいことではなかった。というのは、先す第一に、俊亮やお芳や大巻一家がそれを非常に喜んでくれたし、家主である栴檀橋の茶屋の小母さんが、それでやっと彼を俊三の兄だと確認するようになったし、そして彼自身としては、物ごとが何もかも自然で正常の状態に帰りつつあるように感じ、いよいよ「摂理」の詩を書いてみたい衝動にかられて来たからである。
 だが、次郎はまだやはり「摂理」の詩を書くには若すぎていた。「摂理」は、次郎をして真に「摂理」を礼讃(らいさん)せしめるために、なおいろいろと彼のために準備してやらなければならないことがあったのである。その準備の一つは、すでに彼の一家が今度の家に引っこして間もなくからはじまっていたが、それは大巻の徹太郎叔父の結婚を機縁にしたものであった。
 徹太郎の結婚式は、俊亮の鶏舎が完成して、ひととおりの落ちつきを見せるのを待ちかねていたかのように、歳暮にせまって行われた。迎えられたのは隣村の重田という旧家の娘で、名を敏子といった。敏子には父母のほかに、兄が一人と妹が一人あり、二人とも結婚式にはむろんつらなっていたが、次郎が、式場にならんだ花嫁方の親類の顔の中で、真先に覚えたのは、この二人の顔だったのである。それは、兄の方は大学の制服をつけていたからにちがいなかった。しかし、妹の方については、なぜだか次郎自身にもはっきりしなかった。同じ年頃――十五、六歳――の着飾った娘はほかにも二三人いたし、顔立にしても、その中で特に目立っていたというのでもなかったが、次郎の眼にはふしぎに彼女の顔だけがはっきり映ったのである。ただ、これは次郎があとになってそんな気がしたのであるが彼女の顔はどこかで見たことのあるような顔だった。少くとも、どこかで見たことのある顔に似ている顔だった。それが一眼で彼女の顔を次郎に印象づけた理由だったかも知れない。次郎自身でも、式がすんだあと、数日の間、たびたび彼女の顔を思いうかべているうちに、そういうことにきめてしまったらしいのである。
 さて、それはそれでいいとして、次郎はなぜそうたびたび彼女の顔を思い出さなければならなかったのか。それについては[#「それについては」は底本では「それついては」]、彼自身少しも考えてみようとはしなかった。そしてそこに運命のいたずらな、――或は摂理の不可思議な――奥の手があったのかも知れない。
 道江――それが彼女の名であった――は、女学校の二年に通っていた。彼女は姉の結婚式後、しばらく大巻の家に顔を見せなかったが、正月をむかえてからはたびたび一人で来るようになり、ことに、学校がはじまると、その帰りには、よく寄り道をして、ちょっとでも姉に会って行くといった工合であった。そして大巻に来ると、三度に一度は本田にも寄り、時には母に言いつかったと言って、卵をゆずってもらったりすることもあった。そんなふうで、次郎や俊三も、いつの間にか彼女と親しく言葉を交わすようになり、大巻の家でいっしょにご飯をよばれたりすることも、まれではなかった。
 彼女には、これといって目立った特徴はなかった。「すなおな子」というのが、彼女に対する本田や大巻の人たちの一致したほめ言葉であった。それにはお祖母さんも心から同意していたらしく、俊亮にむかって、おりおり「年頃も恭一にちょうどいいようだね。」などと言ったりした。
 次郎は、お祖母さんのそんな言葉を耳にしても、はじめのうちは、べつにどうという感じも起らなかった。ただ、ぼんやり、彼女を家族の一員として迎えることにある喜びを感ずる、という程度でしかなかった。そして、彼が彼女を知ってから、およそ一年ばかりもたったころには、彼は現実にも、また夢の中でも、彼女に自分の好きな本を貸してやったり、またその内容について話しあったりするほどに彼女との親しさを加えていたとはいえ、もし彼が、彼女の身辺につきまとっている一人の青年のいまわしい眼を発見しなかったとすれば、彼の彼女に対する感情は、彼の日記の中で、「聰明で静かな少女」という文字を書いたり消したりした程度にとどまっていたのかも知れない。そして、かりに何年かの後に、お祖母さんの希望どおり、彼女と恭一との結婚が事実となってあらわれたとしても、もし彼がどこかの上級学校にでもはいっていれば、そこから彼は、過去の思い出からしみ出る言いしれぬ淋しさを胸に抱きつつも、恭一にあてて心をこめた祝賀の手紙を書くことが出来たであろう。
 だが、「運命」と「愛」と「永遠」とは、おたがいに完全な握手が出来るまでは、決して中途半端な握手はしないものである。「運命」の手は、まだ容易に次郎を「永遠」の手に渡したがらない。「愛」もまた彼のまえにさまざまの迷路を用意している。次郎が、一青年のいまわしい眼を道江の身辺に発見したということは、それがあとになって彼自身に「無計画の計画」と感じられようと、あるいは「摂理」の至妙な計画と感じられようと、彼が「永遠」の門をくぐるために、一度は耐えなければならない試煉だったのである。私は、これから、次郎がどんな工合にその試煉にたえていったかを物語りたいと思う。
 しかし、次郎がたえて行かなければならない試煉は、ただそれだけではなかった、実は、彼の前には、すでに、そうしたわたくし事とはくらべものにならない、大きな試煉が待ちかまえていたのである。それは「時代」の試煉であった。次郎という個人にだけでなく、国家と民族とにおもおもしくのしかかって来る「時代」の試煉であった。私は、これまで、次郎が、家庭や、学校や、せまい範囲の師友の間に生活する姿だけを記録して来たが、彼がそうした大きな時代を迎えることになったとすれば、そして、とりわけ、時代というものに最も敏感であり、情熱的であるべき年齢において、それを迎えることになったとすれば、私は、もはや、時代をぬきにして彼を描くわけにはいかない。かりに、道江を中心とした問題が、本来、時代とはかかわりのない大きな浪であったとしても、それが、事実、一層大きな、ほとんど無限ともいうべき大きな時代の浪の中での一波瀾(はらん)であったとすれば、単にそれだけを切りはなして描いただけでは、彼のほんとうの生活を描いたことにならないであろう。私は、だから、この二つの浪を同時に描かなければならない。いや、一つの浪をもう一つの浪の中にとらえ、その浪がしらに漂う次郎の眼と、唇と、呼吸と心臓と、手足の動きとをつぶさに記録して行かなければならないのである。しかし、それにはまだかなりの時間と紙とがいる。で、私は、読者が次郎を気遣うあまり、気短かすぎる読者にならないことを切に希望して、一先ず次郎の青年前記の記録をここで終りたいと思うのである。
(昭和十九年十一月)



ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:242 KB

担当:undef