次郎物語
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著者名:下村湖人 

 彼の日記のなかで、分量からいっても、内容からいっても、最も目立っている部分は、何といっても白鳥会を中心とするものであった。彼の白鳥会に対する心酔ぶりは――それは朝倉先生に対する心酔ぶりといった方が、一層適切であるかも知れないが、――ほとんど無条件的で、実は彼の筆名も、最初は「白鳥」の二字をそのまま使っていたのであるが、恭一に、それではあまりあからさま過ぎると言われ、すいぶん考えた末、やっと「白光」とあらためたくらいだったのである。また彼は、自分の手で、心ゆくまで白鳥会を礼讃(らいさん)した詩を書き上げたいという野心をさえ、人知れず抱いているのである。
 しかし、ごく最近の彼の日記は、さすがに、閉店にからんだ家庭のことが大部分をしめている。そしてその記述は、どちらかというと客観的であり、彼が、自分の周囲の現実を、出来るだけ落ちついて見究(みきわ)めようとする態度が、その中にかなり鮮明にあらわれて居り、同時に、彼が主としてどういう点で自分を反省しているかも、おおよそそれでうかがえるように思える。で、私は、これから、閉店後十日あまりの彼の日記を抜書きすることによって、しばらく私自身の記述の労を省きたいと思う。これは、彼が中学三年――あたりまえだと四年の年齢だが――の青年にしては、多少ませ過ぎていることを、彼自身をして証明させるためにも、実は必要なことなのである。

     *

 八月二十一日
 父は起きるとすぐ、自分で、閉店の貼紙(はりがみ)を店のガラス戸に貼りつけた。貼りつけてしまって笑っている。こんな時になぜ父が笑ったのか、僕にはよくわかるような気がした。しかし、僕はべつに笑ってもらいたくはなかった。笑ってもらったために、かえって淋しい気さえしたのである。
 貼紙を出したあと、僕はいやにその貼紙が気になった。半紙一枚に、候文でかなりながい文句が書いてあるので、あまり人目をひくものではなかったが、それでも気になってしようがなかった。この暑いのに、店戸をおろしたままにしてあったためかも知れない。僕は午前中、思い出しては格子の中から外をのぞいて、道行く人たちの顔に注意した。自分でつまらないことだと思いながら、どうしてもそれを制しきれなかったのである。子供のころの自分が思い出されて、つくづくいやになった。
 道行く人は、誰も小さな閉店の貼紙なんかには気をひかれないらしかった。たいていは見向きもしないで通って行った。たまに店戸がおりているのに気がついて、ふり向く人もあったが、貼紙を読むために立ちどまった人はほとんどなかったようだ。ただ、近所の人たちだけが、ちょっと眼を見はって貼紙を読んだ。しかし、それも大して驚いた様子はなく、中には変な微笑さえもらしたものがあった。
 僕は、この冷淡さに、最初はかえってほっとする気持だった。しかし、あとではたまらない腹立たしさを感じて来たので、午後からは一度ものぞいて見なかった。
 仙吉も文六も、奉公先が見つかったらしい。或は、もうとうに見つかっていたのかも知れない。父は、給料のほかに金一封ずつを包んで二人に暇をやった。夕飯には、二人の送別会をかねて、何か御馳走があるはずだったが、二人共それを断って、午飯をすますとすぐおいとまをした。僕は、しかし、この二人が道行く人達のように冷淡であったとは思いたくない。
 父が家のものみんなに閉店の決心を話してから、もう今日で四日になるが、昨日まで飯時にさえなると泣いたり怒ったりしていた祖母が、今日はふしぎに静かだった。疲れたのか、あきらめたのか、僕にはわからない。しかし、考えてみると、誰よりも打撃をうけたのは祖母だろう。祖母はもう間もなく七十だ、いたわってやらなければならないと思う。だが、僕の胸のどこかに、過去の思い出を清算しきれない[#「きれない」は底本では「きれいな」]気持がまだいくらか残っていはしないか。
 兄に手紙を書く。祖母は、兄に閉店のことを知らせてはいけない、と言った。しかし、僕はこれには絶対不賛成だ。今はお互いに事実をかくすことが何よりもいけないことなのだ。

 八月二十二日
 父は朝早くからどこかに出かけた。父が出かけると間もなく母も出かけた。父は夜になって帰って来たが、母は三時頃にはもう帰っていた。
 二人の留守中、祖母は僕と俊三とを呼んで、「母さんが今日出かけたことは、父さんに默っておいで。」と言った。
 それから、さんざん父をけなしたあと、「こんなふうではどうせ学校どころのさわぎではないよ。どうだえ、次郎、早く思いきって一本立ちになる気はないのかえ。」と言った。聞いていてあまり愉快ではなかったが、さほどに腹も立たなかった。僕はただ、「考えてみます」と答えただけだった。俊三はべつに問われもしなかったので、答えもしなかった。
 僕はまだ祖母をほんとうには愛しきれないようだ。以前のように、そう憎いとは思わないが、愛しているとは絶対にいえない。僕は、昨日、道行く人々の冷淡さに腹を立てたが、僕自身、祖母に対して冷淡でないといえるだろうか。それを思うと、僕はまだ十分に運命に打克ってはいないのだ。
 夜、頭のはげた老人が父をたずねて来た。店の道具一切をそのまま譲りうけて、この家で酒屋を引きついで行く人がきまったということは、こないだ父にきかされていたが、この老人がその人だったのだ。ちょっと見るとやさしいようで、実はずるそうな人だった。
「お引越先がおきまりまでは、私の方はいつまでもお待ちします。」と言うかと思うと、「こちらの家主さんとも、じきじきお会いして、話はもう何もかもつけてありますので、へへへ。」と手をもみながら変な笑い方をした。春月亭のお内儀さんなんかより、こんな人の方がほんとうにいけない人なのかも知れない。それは、こんな人にはどこから「鑿」をあてていいのかわからないからだ。
 この老人のような人間が、世の中にはかなり多いのではあるまいか。いや、どうかすると、たいていの人間がそうであるかも知れない。そう思うといやになる。――しかし、僕はこんなことを考えてはいけなかったのだ。朝倉先生は、「人間に例外はない、人の本心はみんな美しいのだ」とはっきり言われたのではなかったか。

 八月二十三日
 今日は珍しく父も外出しなかった。しかし、家の中にいなければならない用事もなかったらしく、一日中、おちつきはらって何か本を読んでいた。祖母にはその落ちつきが気に入らなかったらしい。口では何とも言わなかったが、父を見る眼はいつも光っていた。
 母のほがらかな顔と無口とは、いつものことだが、今日はそのほがらかな顔がとくべつ祖母には目立ったらしい。祖母の母を見る眼は。父を見る眼よりも一層とがっていた。しかし、口に出しては、やはり何とも言わなかった。
 家中のものが、こんな時に、一日中ほとんど口をききあわないというのは、いやなものだ。僕は母が無口であることを、今日ほど物足りなく思ったことはない。
 僕は、その沈默を破りたいと思って、夕方俊三と二人で二階で歌を歌い出したが、すぐ祖母に「やかましい」と言って叱られた。

 八月二十四日
 昨夜は寝てから前途のことを考えてみたが、ちっとも考えがまとまらなかった。ほんとうに行き詰ったら、祖母の言うとおり、学校をよしてどんな仕事でもするんだ、と強いて考えてみたが、気持は少しも落ちつかなかった。そして、なぜか、お浜のことが思い出されてならなかった。
 今日は起きるとすぐ、お浜に手紙を書いた。やはり店のことを知らした方がいいと思ったからだ。お浜はびっくりするかも知れない。しかし、僕がいよいよ学校をやめなければならないようになってから知らせたら、なおびっくりするだろう。
 今日も父は在宅。朝から寝ころんで、やはり本を読んでいる。何の本かと思ってのぞいて見たら、養鶏の本だった。どうしてそんな本を読むのか、たずねてみたかったが、父が一日にこりともしないので、その機会がなかった。みんなが口をききあわないこと昨日に同じ。祖母は何度も父の枕元をとおって仏間に行き、鉦をならして念仏を唱えたりした。
 祖母が仏間に行く気持は決して純粋なものではない。しかし、それだけに、かえってあわれに思える。そうは思えるが、僕自身から進んで慰める気にはならない。強いて慰めてみても僕の言葉はきっと嘘になるだろう。
 愛から出た嘘ならいい。しかし嘘の愛は僕にはもうたえがたい苦痛だ。真実の愛よ、わが胸に甦(よみがえ)れ。
 家に居ると息苦しいので、午飯をすますとすぐ、俊三と二人で鮒(ふな)釣りに行くことにした。中学校に入ってから、一度も釣をやらないので、道具からそろえねばならなかったが、針だけ買って、あとは何とか間に合わせた。どこがいいのか、場所の見当もつかなかったが、俊三が、天神裏の池が涼しいと言うので、すぐそこに行った。
 餌をつけて針を沈め、うきを見つめているうちに、正木にいたころの記憶が楽しく甦(よみがえ)って来た。間もなくうきが動き出したが、それを見て胸がわくわくした気持も、以前と少しも変っていなかった。釣りあげた鮒はかなり大きかった。
 それから三十分ばかりの間に、僕は大小五尾ほど釣りあげたが、俊三には一尾もつれなかった。うきもほとんど動かなかったらしい。俊三はそれで何度も場所をかえたりしていたが。やはり駄目だったらしく、また戻って来て、釣竿を投げ出し、日蔭にねころんでしまった。
 寝ころんだまま、俊三は、何と思ったか、だしぬけに言った。
「お祖母さんのいけないこと、僕にはよくわかったよ。」
 僕は何と返事をしていいのかわからなくて、默っていた。すると、俊三は、
「一昨日、母さんがどこに行ったのか、知っている?」
 と、急に起きあがって、僕のそばによって来た。僕が、知らない、と答えると、俊三はいかにも大きな秘密でもうちあけるように、
「大巻のお祖父さんとこさ。お祖母さんに言いつかって行ったんだよ。」
 僕は一昨日のことが何もかもわかったような気がして、祖母のことを話すのがいやになった。僕は、だから、
「お祖母さんはかわいそうな人だよ。」
 とだけ言って、じっとうきを見つめていた。俊三も、すると、それっきり何とも言わなかった。
 祖母は、父には秘密で、母を利用して大巻に何か無心を言わせている。母は、言われるままにそれに従っているのだ。きっと、大巻には、それが祖母の意志であることも、言うのを禁じられているだろう。母はそれにも従っているのかも知れない。――僕は、そんなことを考えてうきを見つめていたが、今度は、そんなことを考える自分がいやになって来た。そして、うきももう動かなくなったので、すぐ帰り支度をした。
 帰りがけに、ふと、いつも朝倉先生が、「自分をごまかすのが一番いけないことだ」と言われていたことを思い出した。さっき、祖母をかわいそうだと言ったのが、胸にひっかかっていたからだろう。僕は、それを言い直すつもりで、歩き出すとすぐ俊三に言った。
「しかし、お祖母さんよりも、母さんの方がもっとかわいそうだね。」
 俊三は「うん」と強くうなずいた。俊三がうなずくと、僕は、なぜか、やっぱり祖母もかわいそうだという気がしみじみした。祖母はほんとうに一人ぼっちなのである。
 家に帰ってみると、正木の祖父と青木さんが来ていて、座敷で父と何かひそひそ話をしていた。僕たちがお辞儀をしに行くと、祖父は默ってお辞儀をかえしただけだったが、青木さんは、僕に、
「竜一が、夏休みになってから、相手がなくて淋しがっているよ。ちと遊びにやって来たまえ。」
 と言った。竜一君のことはこのごろあまり思い出しもしなくなっていたが、何だかすまない気がした。
 座敷の話はいつまでもつづいて、夕飯時になり、酒が出た。店に残っていたわずかばかりの酒を、びんにつめて台所にしまってあったが、その一本があけられたのである。僕たちの釣って来た鮒も、すぐ酢味噌になって役に立った。何だか家の中が久方ぶりに明るくなったように感じられた。
 酒が運ばれるにつれて、青木さんの声がしだいに大きくなったが、時々、「村長」と言っているような声がきこえた。
 そのうちに、大巻の祖父が徹太郎叔父と二人づれでやって来た。多分打合わせてあったのだろう。二人が来ると座敷は一層にぎやかになった。大巻の祖父の高声につりこまれて、青木さんの声が一層高くなり、いつもしずかな正木の祖父の声までがいくらか高くなった。それで注意してきいていると、あらましの話の筋がわかった。
 青木さんは、父に村に帰って来て村長をやってもらいたいと言っていた。それに対して、正本の祖父は、今では村の人も父を歓迎はしているが、いったん家まで売って立退いた村だから、将来何かと都合の悪いこともあるだろう、と心配しており、大巻の祖父と徹太郎叔父とは、村長なんかうるさい、それに村長の収入だけでは子供たちがかわいそうだ、とあからさまに反対して、その代りに養鶏をやれ、とすすめていた。
 大巻の祖父の言うことをきいていると、母は漬物が上手なばかりでなく、養鶏の経験もあるらしい。僕たちの母になる前には、独身でとおすつもりで、ぼつぼつそれをやりはじめて、五六十羽は飼っていたそうだ。僕はそれをきいて、母には案外偉いところがあるような気がした。そして、話が養鶏の方にきまるのを心ひそかに望んでいたが、とうとうどちらともきまらないままにみんな帰っていってしまった。
 あとで、祖母と父との間に、こんな問答があった。
「どうおきめだえ。」
「二三日考えることにしました。」
「村長さんになるのはいいけれど、今さら村に帰るのはどういうものかね。」
「それで、私も養鶏の方にしようかと思ってるんです。」
「でも、それには資金がいるんじゃないのかい。」
「養鶏ときまれば、青木だって、正木だって、資本の相談には乗ってくれるでしょう。」
「大巻さんはどうだえ。」
「大巻の方では、土地を使ってくれと言うんです。お芳がもと養鶏をやっていたところを拡げても、相当使えるらしいのです。」
「その土地というのは、どこにあるんだえ。」
「大巻の家とすぐ地つづきだそうです。」
「すると、住居の方はどうなるんだえ。」
「大巻の家が広すぎるから、当分いっしょでもいいし、それで都合が悪ければ、仕切ってもいい、と言うんです。」
「すると、住居まで大巻さんのお世話になるわけだね。」
「当分仕方がありませんね。」
「それでお前はいいのかえ。厚かましいとは思わないのかえ。」
「今さら痩(やせ)我慢を出してみたところで仕方のないことですから、思いきって好意に甘えてみるのもよくはないかと考えているところです。しかし、お母さんがおいやなら、むろん止します。」
 祖母は默りこんでしまった。母は、そばでこの問答をきいていたが、相変らずほがらかな顔をしていた。僕はいよいよ母を尊敬したい気持になって来た。――しかし、僕自身、何と母に似ていないことだろう。そして何と祖母にばかり似ていることだろう。

 八月二十五日
 父は、朝飯をすますと、すぐ外出した。僕も、そのあと、朝倉先生をたずねた。村長になるのと養鶏をやるのと、先生はどちらに賛成されるか、訊ねてみたかったからである。
 先生は、しかし、「村長も理想をもってやれば面白いだろうね。」と言ったり、「養鶏のことはよくわからんが、家族みんなで仂けて面白いかも知れんよ。」と言ったりするだけで、どちらに賛成だかわからなかった。
 午後は、俊三と天神裏にまた鮒釣りに行った。今日は俊三も二尾釣った。僕は五尾。
 釣をしながら、俊三に、村長と養鶏とどちらがいいか、とたずねてみたら、俊三は、「父さんが村長さんになるなんて可笑しいや。」と、ほんとうに可笑しそうに笑った。
 父が帰ったのは、夜十時過ぎだった。父は、帰るとすぐ、祖母に、「話はあすにしましょう。」と言って、ねてしまった。

 八月二十六日
 朝食後、父は、
「お母さんさえおいやでなければ、やはり養鶏の方にきめようかと思いますが、……」
 と切り出した。祖母は、
「あたし一人で反対してもなりますまいしね。」
 と、変に皮肉な返事をしたが、心から反対しているようには見えなかった。しかし、すぐそのあとで、
「やっぱり住居は大巻さんの方かえ。」
 と、それがあくまで不服らしかった。父は、
「実はそのことで、昨日は篤(とく)と大巻にも相談したんですが、ちょうど工合よく川っぷちに空家がありましたので、そこを借りたらということになりました。古い百姓家ですが、相当広いうちです。」
 すると母が、
「あっ、そうそう。あの家がまだあいていましたわね。ちょうどあの裏に父の地所が少しばかりありますから、じゃあ、養鶏場もそこにしたらいいと思いますわ。」
 と、めずらしくはしゃいだ口をきいた。
 そのあと、相談はなめらかに進み、さっそく引越しの準備にとりかかることになった。僕は、急に気持が軽くなった。
 しかし、いよいよ家財道具の始末をやり出すと、六年まえに村の家が没落した時の光景がまざまざと思い出されて、妙に悲しくなって来た。あの時の売立には、今から考えると、美しい鍔(つば)のついた刀やら、蒔絵(まきえ)の箱やら、掛軸やら、宝物らしいものが沢山あったようだ。それにくらべると、今は何という貧弱さだろう。
 そういえば、僕が正木の家に預けられたのは、あの売立のあった晩だった。正本の祖父が、だしぬけに僕を預ると言った時のことは、今に忘れられない。その時には、なぜ祖父が僕を預ると言い出したのかわからなかったが、今になってみると、よくわかる。――僕には、僕の気づかない危機が何度あったか知れないが、そのたびに僕を救ってくれた人があったのだ。
 危機に誘いこまれるのも運命、危機から救われるのも運命。そして、人間の運命の大部分を支配するものは愛憎の波だ。僕は、すべての人間の運命のために、このことを忘れてはならない。しかし、その愛憎そのものもまた運命だとすると、僕はどう考えていいかわからなくなる。
 僕は、がらくたばかりのような家具を祖母に指図されて棚からおろしながら、そんなことを考えた。

 八月二十七日
 今日も朝から家具の始末で忙しかった。仏壇の取片付けにも手伝ったが、亡くなった母の位牌(いはい)はもうかなり古びいていた。淋しい色だった。僕は、汗ばんだシャツの上から、それをちょっと胸に押しあててみた。その時、縁側で書類をよりわけていた父が僕の方を見たが、すぐ眼をそらして、何とも言わなかった。
 母は午後から、今度引越す家の掃除をしておくと言って、出かけていった。
 あすはいよいよ引越である。夜、父は近所に挨拶してまわった。

 八月二十八日
 荷物は馬力三台で十分だった。昼まえにその積み込みを終り、人夫たちといっしょに握り飯を食った。父は、祖母に、俊三をつれて一足先に行くようにすすめたが、祖母はなぜか自分は一番あとから行くと言ってきかなかった。それで父が俊三といっしょに先に行き、僕は祖母と二人であとに残ることになった。
 二人が出て行くと、祖母はがらんとした家の中を一わたり見てまわり、それから僕に戸じまりを命じた。
 荷馬車が動き出したのは一時過ぎだった。いよいよ二度目の没落行だ。むろん家に未練はない。ただ兄弟三人が机をならべていた二階にかすかな愛着があるだけだ。その点では気が楽だった。しかし、祖母と二人、照りつける日の中を、荷馬車のあとから、汗と埃(ほこり)になって歩く姿は、あまりにもみじめな没落行ではなかったろうか。
照りかわく
ほこり路(じ)に
七十路(ななそじ)の
人の影
いともちいさし
ちさきまま
消えやらぬ
そのかげよ
愛憎は
げにも果てなし

 僕は、歩きながら、こんな詩を作った。自分ながらいやな詩である。
 こんどの家は、なるほど古い百姓家だ。しかし、すぐそばに北山から流れて来る水のきれいな小川がある。小川の土手には松の並木もある。近くに土橋がかかっており、その袂には栴檀(せんだん)の古い木があるので、その橋を栴檀橋というのだそうだ。僕にはその名称も気に入った。それに家が古いといっても、建てかたは頑丈で、土間は馬鹿に広いし、おまけに総二階だ。二階に天井がなく、煤(すす)けた藁屋根の裏がまる見えなのが欠点だが、その代り、松並木や青田が広々と見渡せる。町の店屋なんかよりいくら気持がいいか知れない。
 大巻の祖母と徹太郎叔父が手伝ってくれたので、道具は日のくれないうちにあらまし片づいた。夕食も大巻から運んでくれた。大巻の家までは、ほんの二三分である。

 八月二十九日
 大巻の祖父が村の大工をつれて来て、父と養鶏場設計の相談をはじめた。母もそれにはめずらしく進んで自分の考えをのべた。父はこないだから読んでいた養鶏の本をひろげて、鶏舎の図面などを見ていたが、あまり意見をのべず、たいていは母の考えに従った。そして、「何事も経験だからな」と言った。祖母もそばで相談をきいていたが、あまり機嫌はよくなかった。

 八月三十日
 朝、俊三と二人で土手をあるき、栴檀(せんだん)の古木を見に行った。思ったほど大きな木ではなかった。木の陰に茶店があったが、中から女の人が出て来て、
「あんた達は本田さんの坊ちゃんでしょう。」
 と言った。そうだと答えると、
「まあおはいりなさい。」
 と言って、駄菓子などを盆にのせてくれた。横の壁に「栴檀茶屋」という額がかかっている。奥の方にはかなりりっぱな座敷があるらしい。僕には、その女が何だか料理屋なんかにいる女のように見え、変なうちだという気がしたので、すぐ帰ろうとした。すると、
「昨日は主人が留守だったものですから、お手伝いもしませんですみませんでした。お母さんによろしく言って下さいね。」
 と、駄菓子を袋に入れて、無理に俊三の手に握らせた。
 帰ってから、母にその話をすると、その茶店の主人が僕たちの家主だということだった。夫婦とも百姓ぎらい、それに子供がないので、あんなところに茶店だか別荘だかわからない家を建てて、気楽に暮らしているのだそうだ。
「あの小母さんは慾がなくて面白い人だよ。だけど、気に障(さわ)ると誰にでもくってかかる人だから、用心してね。」
 と母は言った。
 兄とお浜とに引越をした報せを書く。まだ安心してはならないという気もしていたが、僕の手紙の文句はひとりでに明るくなってしまった。
 夜はみんな大巻におよばれ。鰻(うなぎ)[#「鰻」は底本では「饅」]の蒲焼が沢山出た。

 八月三十一日
 今日でいよいよ夏休みも終る。休みのうちに家のことが一先ず片づいたのは大いによかった。学校がかなり遠くなったが、一時間ぐらい歩くのは何でもない、行きかえりには詩でも作ろうと思う。白鳥会の日に帰りが晩(おそ)くなるのがちょっと不便だが、それも大したことではない。
 新しい出発だ。学校も、家庭も、そして僕自身の心も。
 だが、この新しい出発にきっかけを作ってくれたものは何だろう。僕はそれを考えて今さらのように驚いた。春月亭のお内儀が、いや、番頭の肥田が、間もなく鶏に新しい卵を生ませようとしているではないか!
「世に悪しきものなし」――僕は何かで見たそんな言葉を思い起した。そして「摂理」のふしぎさについて詩を書いてみたいと思ったが、急にまとまりそうにもなかった。

    一七 すべてよし

 日記の抜書きはこの程度で終る。次郎は、ともかくもこうして、かなり明るい希望を抱いて新学期を迎えることが出来た。そして、彼のこの希望は、少くとも父の新しい事業に関するかぎり裏切られたとはいえなかったようである。
 ぽつぽつとではあったが、鶏舎はしだいに拡張され、その年の暮までには、だいたい当初のもくろみどおりのものが完成した。そして翌年の春には、どの鶏舎にも白色レグホンやミノルカがさわがしく走りまわるようになり、生まれる卵の数も日に日に多少ずつ殖(ふ)えて行った。また養鶏のほかに、菜園も耕され、その一部には草花の種も蒔かれた。そして、おいおいには、広い土間や二階を利用して、養蚕もやってみたい、という話さえ出るようになったのである。
 俊亮とお芳とは、ほとんど朝から夕方までいっしょになって仂いた。お芳は最初のうち、自分で煮炊きまでやっていたが、鶏舎の増築につれて次第に手がまわらなくなり、とうとう、お金ちゃんという近所の小娘を雇い入れて、台所のことを手伝わせることにしたのだった。俊亮は、お芳といっしょに仂きながら、彼女にふしぎな能力があるのを発見して、驚くことがしばしばだった。彼女は何事にもとくべつに頭をつかって考えたりするふうはなかった。また、どんなに忙しい時でも決して急ぐことがなく、足どりさえいつものとおりだった。それでいて、同じ鶏舎の仕事をやっても、俊亮よりは無駄がなく速いし、急所をはずしたことなどめったにない。彼女がいつも無口でほがらかな顔をしているだけに、俊亮にはそれが一層ふしぎに思えたのである。
(経験というものは恐ろしいものだ。)
 俊亮は、はじめのうち、そんなふうに思っていた。しかし、よくよく考えてみると、お芳のそうした能力は養鶏のことばかりにあらわれているのではない。これまでだってべつに気をつかって整理しているようなふうでもないのに、箪笥の中にせよ、戸棚の中にせよ、いつもきちんと片づいており、お芳に任かされた限りは、どんな小さいものでもその在りかがすぐわかった。気のきかない女だと他人にも思われ自分でもそう信じているらしい彼女のどこに、そうした能力がひそんでいるのだろうか。俊亮はおりおりそんなことを考えて首をふった。そしてこの頃になって、彼はやっとそれを彼女の正直さに帰するようになったのである。
 お芳は、実際、腹のどん底まで正直な女だった。その正直さが彼女の顔に無表情なほがらかさ――それはなみはずれて大きな笑くぼのせいでもあったが――を与え、彼女の唇から自己弁護のための饒舌さを奪い、彼女を一見気のきかない女にしてしまったらしい。そして、もし彼女自身でも、自分を気のきかない女だと信じていたとすれば、それもやはり彼女の正直さのゆえだったにちがいないのである。
 明敏という言葉と、愚鈍(ぐどん)という言葉とは、それぞれ二つの意味をもっており、その一つの意味では、神の国において同義語であり、もう一つの意味では、悪魔の国において同義語であるが、お芳が世間の眼から見て愚鈍な女だったことに間違いはないとしても、それはたしかに前者の意味においてであったのである。俊亮には、このごろはっきりとそれがわかって来た。
 そして、もし次郎が、将来、愚鈍という言葉に二つの意味があるということを知る機会があるとしたら、彼は、彼の第二の母を、彼が現在尊敬しはじめている以上に、――或は恐らく朝倉先生を尊敬するのと同じ程度に、尊敬せずにはいられなくなるかも知れない。そして、そうした尊敬の念が彼の心に湧いた時こそ、彼は、朝倉先生に学び得た「白鳥芦花に入る」精神や、「誠」や、「円を描いて円を消す」心構えやらを、真に会得することが出来るであろう。
 筆がつい横にそれてしまったが、俊亮のお芳に対する信頼は、そんなわけで、養鶏をはじめてから急に深まって行き、信頼が深まるにつれ、事業はいよいよ調子づいて来た。そして心配されていた恭一の学資も、最初の二三ヵ月こそ多少やりくりを必要としたが、とにかく送るには送ったし、その後まったく問題ではなくなって来た。恭一は、それでも不安だったのか、或は他に何か考えがあったのか、やはり家庭教師をつづけていたらしかった。しかし、年末の休みに予告もなくひょっくり帰って来て、二三日家の様子を見ているうちに、すっかり安心したらしく、自分から次郎に言った。
「もう学資のために仂くのは止すよ。これからは大沢君とも相談して、べつの意味で仂いてみたいと思っている。」
 こんなふうで、次郎には何もかもが楽しくなって来た。そして、恭一のそうした言葉からの刺戟もあって、毎日学校から帰って来て鶏舎や畑の手伝いをするにしても、それを単なる手伝いとは考えす、自分自身の仕事として、その仕事の中から出来るだけ多くの意味をくみとろうとつとめた。それが、白鳥会における彼の存在を、徐々にこれまでとはちがったものにしはじめたことはいうまでもない。彼は、鶏や野菜の話から、しばしば、生命についての彼のいろいろの感想を述べた。その中には、生命とその環境とか、生命の自律性と調和性とか、或は自然と道徳とかいったような問題にふれることも稀ではなかった。ある時、彼は、「鶏でも野菜でもはじめにいじけさすと、たいていは取りかえしがつかないものだ。」と言って、彼の経験した実例をいろいろと話していたが、ふと、これは自分のことを言っているのではないか、という気がして、急に口をつぐんでしまったことがあった。しかし、そんな時のいやな気持も、あとに尾を引くというようなことは、この頃ではもう全くなくなっていた。そして、その理由を彼自身で反省してみて、やっぱりこれも環境のせいだ、というふうに考え、人知れず微笑したくらいだったのである。
 みんなが明るく、生き生きとなるにつれて、ただひとり、不機嫌になるように思われたのは、お祖母さんだった。それは、いうまでもなく、お芳の家庭におけるこれまでのぼやけた存在が、日に日に鮮明なものになって来たからにちがいなかった。お芳としては、ただ正直に真心こめて仂くだけのことだったが、その仂きが効果をあらわせばあらわすほど、そしてそれが俊亮に認められれば認められるほど、お祖母さんとしては自分の影がうすくなるような気がするのだった。恭一の学資の心配がなくなったのは、うれしいことにはちがいなかったが、それが恭一のことであるだけに、そのかげにお芳の力、ひいては大巻の力を認めないではいられないのが、たまらなくくやしかった。それも、大巻の家が遠方にでもあればまだしも、すぐ目と鼻の間にあって、日に何回となく双方から行き来するので、いかにも自分ひとりが人質にでもとられているような気がしてならなかったのである。
 お祖母さんのそうしたひがみは、何かにつけ、遠まわしの皮肉となってお芳の耳に刺さった。しかし、その痛みを感じたものは、お芳ではなくて、むしろ俊亮だった。しかもその俊亮でさえ、何もかも肚(はら)にのみこんで、表面では何ごともなかったような顔をしているので、お祖母さんとしてはいよいよもどかしくなり、その結果が、次郎と俊亮を相手に愚痴(ぐち)をこぼし、口ぎたなくお芳のかげ口を言うばかりか、俊亮を大の親不孝者とさえ呼ぶようになって来たのである。
 次郎にとって、お祖母さんのそんな愚痴が愉快なものでなかったことは、いうまでもない。しかし、それも今では、彼の日々の生活に大して暗い影をなげるというほどのものではなかった。どうせお祖母さんはこんな人だ、という諦めに、いくぶんのあわれみの情をまじえて、不愉快ながらもその愚痴を辛抱し聞いてるといったふうであった。そのことでは、俊三の方がいつもお祖母さんの機嫌を損じた。俊三は、お祖母さんの愚痴がはじまると、てんからあざ笑ったり、正面から反対したり、途中から逃げ出したりすることが多かった。お祖母さんはそんな時には、次郎に向って、「まだ俊三には何もわからないんだよ。」と嘆息するのだったが、次郎は、もし自分が俊三のような態度に出たら、お祖母さんはどんなふうに言うだろう、などと考え、心の中で苦笑しながら、やはりおしまいまで相手になってやるのだった。そして、そういうことから、お祖母さんは、何かにつけ次郎を身近に引きつけておきたがり、はた目には、お祖母さんの愛が次第に次郎に移って行くのではないかとさえ思えるのだった。
 その間の消息について、次郎は、ある日の日記――それは、もう彼が四年に進級してからかなりたったころの日記であるが、――の中にこんなことを書いている。

「今日も、学校から帰ると、祖母が待ちかねていたように愚痴をこぼしはじめた。何でも大巻の祖父がやって来て、今月は先月にくらべ、卵の収穫が三百あまりも殖えたそうで結構だ、と喜びを言ったのがいけなかったらしい。祖母は、みんなが卵の数を自分には知らさないで、大巻にだけ知らしているんだ、というのである。あまりばかばかしいので、つい笑い出したくなったが、やはりがまんしてきいてやることにした。しかし、そのために、夕飯の時にみんなのまえで、“次郎は小さいとき里子に行って苦労しただけに兄弟のうちで誰よりも物の道理がわかっている。”などと言われたのには、僕もさすがに冷汗が出た。
 それにしても、自分の最も愛していない相手に同情を求め、自分の最も讃めたくない相手を強いて讃めて、どうなり自分を慰めていなければならない人間ほど、みじめな存在はないだろう。
 僕は、そうしたみじめさから祖母を救うことが、僕自身の正しい道だと考えないことはない。しかし、また一方では、みじめさをみじめさのままにして、少しもそれにふれないで置くことが、祖母のような性格と年齢の人を、かえって幸福にするのではないかとも考える。」

 この日記を書いてから数日たって白鳥会があり、その席で「妥協」ということが問題になったらしく、彼はそれについていろいろと自分の感想を日記につらねているが、最後に次のようなことを書いている。

「祖母の問題についても、僕はもっと深く考えてみなければならない。これまで、僕はいい加減に現実と妥協して来たようだ。祖母のみじめさをみじめさのままにしてふれないでおき、それを祖母自身の幸福のためだ、などと考えるのが妥協でなくて何であろう。妥協は、おたがいに真実の愛を感じないものの間にのみ常に成立つ。その意味で、妥協はたしかに虚偽だ。……だが、真実の愛はどうすれば湧いて来るのか、僕にはそれがわからない。僕はただそれを「摂理」に祈る外はないのだ。そして、真実の愛がまだ湧いていないとすれば、それが湧くまでは、妥協の外に道はないのではないか。なぜなら、真実の愛もなく妥協もないところには、ただ破壊のみが残されているからだ。白鳥会では、妥協よりもむしろ破壊を選ぶといった意見の方が多かった。しかし、僕はそれが単に痛快だからとか、虚偽でないからとかいうだけで賛成するわけにはいかない。少くとも、僕と祖母とに関する限り、破壊が妥協よりもまさっているとは決していえないようだ。それは、破壊がはっきりと建設を約束してくれないばかりでなく、僕自身の気持において何か忍びないものを感ずるからだ。……これは、僕の心のどこかに卑怯の虫が巣食っているせいだろうか。或はそうかも知れない。しかし僕としては、今はほかに行く道はないようだ。考えてみると、祖母もみじめだが、僕もそれに劣らずみじめなのだ。呪われたる運命よ。」

 次郎の日記は、かように、お祖母さんとの問題になると、とかく同じところをぐるぐるまわって、落ちつきのない感傷に終り、運命を呪ってみたりする。それだけに、お祖母さんが依然として彼の心に一つのしみを与えていたことはたしかである。しかし、それも、今では彼の生活そのもののしみというよりは、もっと現実をはなれた、いわば思索の祭壇に捧げられた黒い花束みたようなものだったのである。事実、彼の日々の生活は、お祖母さんに愚痴を聞かされるわずかの時間をのぞけば、「呪われた運命」などとはおよそ縁の遠い、のびのびとしたものであった。お祖母さんとの関係について日記に感傷的な文句をつらねている時でさえ、彼は、それに悩まされて暗い気持になっているというよりは、むしろ道義の世界における探検者としてのある喜びを感じていたかのようであった。
 こうして、彼は、父の鶏舎や畑を手伝いながら、身も心も張りきって、中学三年から四年にかけての約一年半を過ごしたが、その一年半こそは、彼のこれまでの生活の中で最も永続きのした明るい生活であった。そして、一生のこの時期に、そうした生活を恵まれたということは、ただちに彼の身長にまで影響を及ぼした。彼が幼年時代に自分のちびであるのをひどく恥じていたことは、多分まだ読者の記憶にも残っていることだと思うが、この羞恥感は、その後の彼の内面生活の変化と共に、いくらかずつうすらいで行ったとはいえ、中学三年の二学期頃までは、完全にぬぐい去られていたとはいえなかった。というのは、体操の時間にいつも一番びりに並ばされたり、友達に「君は弟より背が低いのではないか」と言われたりすることは、この年頃の青年としては、全く無関心ではあり得ないからである。ところが、その二学期も終りに近づくころから、――言いかえると、父が養鶏事業をはじめて三月ほどもたったころから、――彼の身長は急にのび出し、間もなく俊三をぬいたばかりか、三年から四年に進級したころには、組の生徒を十人ほどもぬいてしまい、四年の夏休みがすんだあとの身体検査では、ちょうど組の真中ぐらいのところまで進んでしまったのである。このことについては、次郎は彼の日記に一言もかいていない。しかし、彼にとってはそれは決してどうでもいいことではなかった。というのは、先す第一に、俊亮やお芳や大巻一家がそれを非常に喜んでくれたし、家主である栴檀橋の茶屋の小母さんが、それでやっと彼を俊三の兄だと確認するようになったし、そして彼自身としては、物ごとが何もかも自然で正常の状態に帰りつつあるように感じ、いよいよ「摂理」の詩を書いてみたい衝動にかられて来たからである。
 だが、次郎はまだやはり「摂理」の詩を書くには若すぎていた。「摂理」は、次郎をして真に「摂理」を礼讃(らいさん)せしめるために、なおいろいろと彼のために準備してやらなければならないことがあったのである。その準備の一つは、すでに彼の一家が今度の家に引っこして間もなくからはじまっていたが、それは大巻の徹太郎叔父の結婚を機縁にしたものであった。
 徹太郎の結婚式は、俊亮の鶏舎が完成して、ひととおりの落ちつきを見せるのを待ちかねていたかのように、歳暮にせまって行われた。迎えられたのは隣村の重田という旧家の娘で、名を敏子といった。敏子には父母のほかに、兄が一人と妹が一人あり、二人とも結婚式にはむろんつらなっていたが、次郎が、式場にならんだ花嫁方の親類の顔の中で、真先に覚えたのは、この二人の顔だったのである。それは、兄の方は大学の制服をつけていたからにちがいなかった。しかし、妹の方については、なぜだか次郎自身にもはっきりしなかった。同じ年頃――十五、六歳――の着飾った娘はほかにも二三人いたし、顔立にしても、その中で特に目立っていたというのでもなかったが、次郎の眼にはふしぎに彼女の顔だけがはっきり映ったのである。ただ、これは次郎があとになってそんな気がしたのであるが彼女の顔はどこかで見たことのあるような顔だった。少くとも、どこかで見たことのある顔に似ている顔だった。それが一眼で彼女の顔を次郎に印象づけた理由だったかも知れない。次郎自身でも、式がすんだあと、数日の間、たびたび彼女の顔を思いうかべているうちに、そういうことにきめてしまったらしいのである。
 さて、それはそれでいいとして、次郎はなぜそうたびたび彼女の顔を思い出さなければならなかったのか。それについては[#「それについては」は底本では「それついては」]、彼自身少しも考えてみようとはしなかった。そしてそこに運命のいたずらな、――或は摂理の不可思議な――奥の手があったのかも知れない。
 道江――それが彼女の名であった――は、女学校の二年に通っていた。彼女は姉の結婚式後、しばらく大巻の家に顔を見せなかったが、正月をむかえてからはたびたび一人で来るようになり、ことに、学校がはじまると、その帰りには、よく寄り道をして、ちょっとでも姉に会って行くといった工合であった。そして大巻に来ると、三度に一度は本田にも寄り、時には母に言いつかったと言って、卵をゆずってもらったりすることもあった。そんなふうで、次郎や俊三も、いつの間にか彼女と親しく言葉を交わすようになり、大巻の家でいっしょにご飯をよばれたりすることも、まれではなかった。
 彼女には、これといって目立った特徴はなかった。「すなおな子」というのが、彼女に対する本田や大巻の人たちの一致したほめ言葉であった。それにはお祖母さんも心から同意していたらしく、俊亮にむかって、おりおり「年頃も恭一にちょうどいいようだね。」などと言ったりした。
 次郎は、お祖母さんのそんな言葉を耳にしても、はじめのうちは、べつにどうという感じも起らなかった。ただ、ぼんやり、彼女を家族の一員として迎えることにある喜びを感ずる、という程度でしかなかった。そして、彼が彼女を知ってから、およそ一年ばかりもたったころには、彼は現実にも、また夢の中でも、彼女に自分の好きな本を貸してやったり、またその内容について話しあったりするほどに彼女との親しさを加えていたとはいえ、もし彼が、彼女の身辺につきまとっている一人の青年のいまわしい眼を発見しなかったとすれば、彼の彼女に対する感情は、彼の日記の中で、「聰明で静かな少女」という文字を書いたり消したりした程度にとどまっていたのかも知れない。そして、かりに何年かの後に、お祖母さんの希望どおり、彼女と恭一との結婚が事実となってあらわれたとしても、もし彼がどこかの上級学校にでもはいっていれば、そこから彼は、過去の思い出からしみ出る言いしれぬ淋しさを胸に抱きつつも、恭一にあてて心をこめた祝賀の手紙を書くことが出来たであろう。
 だが、「運命」と「愛」と「永遠」とは、おたがいに完全な握手が出来るまでは、決して中途半端な握手はしないものである。「運命」の手は、まだ容易に次郎を「永遠」の手に渡したがらない。「愛」もまた彼のまえにさまざまの迷路を用意している。次郎が、一青年のいまわしい眼を道江の身辺に発見したということは、それがあとになって彼自身に「無計画の計画」と感じられようと、あるいは「摂理」の至妙な計画と感じられようと、彼が「永遠」の門をくぐるために、一度は耐えなければならない試煉だったのである。私は、これから、次郎がどんな工合にその試煉にたえていったかを物語りたいと思う。
 しかし、次郎がたえて行かなければならない試煉は、ただそれだけではなかった、実は、彼の前には、すでに、そうしたわたくし事とはくらべものにならない、大きな試煉が待ちかまえていたのである。それは「時代」の試煉であった。次郎という個人にだけでなく、国家と民族とにおもおもしくのしかかって来る「時代」の試煉であった。私は、これまで、次郎が、家庭や、学校や、せまい範囲の師友の間に生活する姿だけを記録して来たが、彼がそうした大きな時代を迎えることになったとすれば、そして、とりわけ、時代というものに最も敏感であり、情熱的であるべき年齢において、それを迎えることになったとすれば、私は、もはや、時代をぬきにして彼を描くわけにはいかない。かりに、道江を中心とした問題が、本来、時代とはかかわりのない大きな浪であったとしても、それが、事実、一層大きな、ほとんど無限ともいうべき大きな時代の浪の中での一波瀾(はらん)であったとすれば、単にそれだけを切りはなして描いただけでは、彼のほんとうの生活を描いたことにならないであろう。私は、だから、この二つの浪を同時に描かなければならない。いや、一つの浪をもう一つの浪の中にとらえ、その浪がしらに漂う次郎の眼と、唇と、呼吸と心臓と、手足の動きとをつぶさに記録して行かなければならないのである。しかし、それにはまだかなりの時間と紙とがいる。で、私は、読者が次郎を気遣うあまり、気短かすぎる読者にならないことを切に希望して、一先ず次郎の青年前記の記録をここで終りたいと思うのである。
(昭和十九年十一月)



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