次郎物語
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著者名:下村湖人 

 俊亮は、その時、柱にもたれて向こうむきに坐り、しずかに団扇をつかっていたが、次郎が、自分の横にくずれるように坐ったのを見ると、少し体をねじ向けて、いかにも落ちついた声で言った。
「泣くことはない。自分でいいことをしたとさえ思っていなけりゃ、それでいいんだ。」
 次郎は、しかし、そう言われると、いよいよ涙がとまらなかった。彼は、何か言おうとしては、しゃくりあげ、縁板に突っぱった両手をかわるがわるあげては、眼をこするだけだった。
「父さんは、お前があんなことをして得意になってやしないかと、それだけが心配だったんだよ。しかし、どっかに出ていったきり、いつまでも帰って来ないというので、そうでなかったことがわかって、実は、ほっとしていたところなんだ。お前も子供のころとはだいぶちがって来たようだね。」
 俊亮は、そう言って、さびしく微笑した。それからちょっと考えたあと、
「父さんも、しかし、今日はいろいろ考えたよ。考えているうちに、世の中というものは、自分だけが貧乏に負けなけりゃあ、それでいいというものではない、ということがよくわかった。それに、もう一つ、――これはもっと大事なことだが、――父さんには、これまで非常に弱いところが一つあったということに気がついたんだ。それは、他人に対する義理人情にばかり気をとられて、かんじんの自分の親子に対する義理人情を忘れていたということだ。」
「父さん!」
 と、次郎はしぼるような声で叫んで、涙にぬれた顔をあげた。
「いや、忘れていたと言っちゃあ、言いすぎるかも知れん。実際忘れちゃいなかったんだからね。しかし、忘れたような顔はたしかにしていた。忘れたような顔をしていりゃあ、みんな自分と同じようにのんきになってくれるだろうぐらいの考えが、どっかにあったんだ。今から考えると、それがいけなかった。それが私の間違いだった。自分では強いつもりで、実はそれが私の非常に弱いところだったんだ。」
 俊亮がそんな調子でものを言うのは珍しかった。次郎は、いくぶんかわきかけた眼を見張って、俊亮を見つめた。
「しかし、今日からは父さんも考え直す。考え直してみたところで、貧乏が急にどうにもなるものではないが、これまでのように、お前たちの苦労を忘れているような顔はしないつもりだ。日除の必要のある草木には、やはり日除をしてやる方がいいんだからね。」
 次郎は、何か痛いものを胸に感じて、思わず首をたれた。
 彼は、しかし、それよりも、さっきからの俊亮の言葉に、ある不安を感じ、それを問いただしてみたくなっていた。不安というのは、父が他人のことよりも家族のことを大切に思ってくれるのはいいとして、それを実際の態度にどうあらわして行くだろうかということだった。次郎の頭には、さしあたって春月亭の問題がひっかかっていたのである。
(まさかとは思うが、父さんは悪いと知りつつ、あれをあのままにして置くつもりではなかろうか。もしそうだとすると、父さんは自分がこれまで尊敬して来た父さんではなくなってしまうのだ。)
 そう思って、多少だしぬけだったが、彼は思いきってたずねた。
「父さん、春月亭の方はどうしたらいいんでしょう。」
「春月亭か。そりゃあ、私がいいようにするよ。」
「いいようにって?」
「そんなことは、もうお前が心配せんでもいい。お前は、なるだけ早く日除のいらない人間になる工夫をすることだよ。」
 俊亮は笑って答えた。次郎は、しかし、やはり不安だった。
「僕、あやまりに行って来ようかと思ってます。」
「お前が? 春月亭に? 春月亭は料埋屋だよ。」
「料理屋にだって、あやまりに行くんならいいでしょう。僕、向こうから来ないうちがいいと思うんです。」
「うむ……」
 と、俊亮は、穴のあくほど次郎の顔を見つめていたが、
「次郎、お前はほんとうに心からそう思っているのか。」
 次郎は、そう念を押されて、ちょっとたじろいだふうだったが、少し眼を伏せて、
「僕、あやまらなきゃならないと思っているんです。春月亭も悪いんですが、僕のやったことも悪いんです。あんなこと卑怯です。卑怯なことをして知らん顔をするのは、なお卑怯です。」
「うむ、その通りだ。お前もそこまで考えるようになれば、もう日除もいらんよ。じゃあ行って来るか。」
「ええ、行って来ます。」
 次郎は、父の本心がわかったうえに、ほめてまでもらったので、初陣(ういじん)にでも臨むような、わくわくする気持で立ち上りかけた。俊亮は、しかし、彼を手で制(せい)しながら、
「まあ、まて。そう急いで行かなくてもいい。さっき仙吉をやって、あの酒はそのまま使わないで置いてもらうように頼んであるんだから。実は、あすの朝、向こうの忙しくない時に、私が行ってあやまるつもりでいたんだ。」
「僕は、父さんにあやまって貰いたくないんです。」
「どうして?」
「悪かったのは僕です。それに、父さんが、あんな女に――」
 次郎はうつむいて言葉をとぎらした。俊亮も、むろん、すぐ次郎の気持を察して、ちょっとしんみりしたが、わざと、とぼけたように、
「あんな女って、お内儀だろう。父さんがあの人にあやまってはいけないのかい。」
「だって――」
 次郎は適当な言葉が見つからなかった。俊亮は、しばらく答をまつように次郎の顔を見ていたが、
「次郎。」
 と、あまり高くはない、しかし、おさえつけるような声で、言った。
「自分に落度があったら、相手が誰であろうと、あやまるのが道だ。相手次第で、あやまったり、あやまらなかったりするようでは、まだほんとうに自分の非を知っているとはいえない。そりゃあ、お前が父さんにあやまらせたくない気持は、よくわかる。だが、あんな女だからあやまらせたくないというんだと、少し変だぞ。」
 次郎は、俊亮の言った意味はよくわかった。しかし、春月亭のお内儀に父を謝罪させる気にはまだどうしてもなれなかった。
「でも――」
 と、彼は少し口をとがらして、
「父さんには、ちっとも悪いことないんです。」
「うむ。……しかし、それはお前の考えることだ。むろん、お前はそう考えてもいい。だが、店のことは何もかも私の責任だからね。」
「だって、あれは肥田がつかった金の代りだっていうんじゃありませんか。」
「肥田は私の番頭だったんだ。それは、お前が私の息子であるのと同じさ。」
 次郎の感情は戸惑(とまど)いした。彼は、父のそんな言葉に、父らしい父を見出して、いつも頭がさがり、そのために一層懐かしくも思うのだったが、春月亭のお内儀にあやまらせたくない気持をそれで引っこめてしまう気にはなれなかったのである。
 俊亮は、次郎のまごついている顔を見て微笑した。それから庭下駄をつっかけて、狭い庭を二三度往きかえりしていたが、
「次郎には、やはりまだ当分日除の必要があるようだ。お前ひとりで春月亭に行くのは、ちょっと危ないね。あすは父さんと二人であやまりに行こう。」
 次郎は、もう何も言うことが出来なかった。
 その晩、床についてから、次郎の頭に浮かんで来たのは、やはり、例の「無計画の計画」という言葉だった。そして「運命」と「愛」と「永遠」とは、この言葉の意味の生長と共に、そろそろと彼の心の中で接近しつつあったかのようであった。

    一四 幻滅

 翌日、俊亮と次郎とが春月亭をたずねたのは午前十時ごろだった。
 白い襦袢(じゅばん)と赤い湯巻だけを身につけて、玄関で拭き掃除をしている女がいたので、俊亮がお内儀さんに取りつぐように頼むと、女は、中学の制服をつけた次郎をけげんそうに見ながら、
「お内儀さんにご用でしたら、帳場の方におまわり下さいね。」
 と、いやに「ね」に力をいれ、ここはお前さんたちの出はいりするところではありませんよ、と言わぬばかりの冷たい調子でこたえ、そのまま雑巾(ぞうきん)をバケツの中でざぶざぶ洗い出した。
 俊亮が、当惑したような顔をして、
「帳場の方は、どこから這入るんかね。」
 と、玄関の横の格子窓に眼をやりながら、たずねると、
「門を出て左っ側ですよ。」
 と、女はもう雑巾を廊下にひろげて、四つんばいになっていた。
 俊亮は、苦笑しながら、門を出た。次郎もそのあとについて行ったが、何かを蹴とばしたいような、それでいて心細いような気持だった。
 帳場の入口は、路地をちょっと曲ったところにあった。戸は開けっ放しになっていたが、中にはいると、なまぐさい匂いがむっと鼻をついた。
 森閑としてどこにも人気がない。蠅が一しきり大鍋の上にまい立ったが、またすぐ静かになった。
「ごめん!」
 俊亮が、奥の方に向かって大声でどなると、
「だあれ。」
 と、少し甘ったるい声がして、十四五の女の子が、これも白い襦袢と赤い湯巻だけで出て来た。頸から上に濃く白粉をぬったのが、まだらにはげている。次郎は、ひとりでに顔をそむけてしまった。
「お内儀さんは? ――いるのかい。」
「ええ、――でも、今、ねているの。」
「本田が来たって言っておくれ。」
「本田さん?」
「そう、酒屋の本田って言えば、わかるよ。」
「ああ、あの酒屋さん――」
 女の子は急にとんきょうな声を出して、二人を見くらべていたが、最後に、次郎を尻目にかけるようにして、奥に走りこんだ。
 二人が間もなく案内されたのは、帳場からちょっと廊下をあるいた、茶の間とも座敷ともつかない部屋だった。
「いらっしゃいまし。」
 お内儀さんは、変にかしこまった調子で二人を迎えた。浴衣に伊達巻をしめたまま、畳のうえに横になっていたものらしく、朱塗の木枕だけが、部屋の隅っこに押しやってある。
「せっかくおやすみのところをお邪魔でした。」
 俊亮も、いくぶん切口上で言って、敷かれていた座蒲団の上に坐った。次郎は座蒲団を前にして坐っている。
「坊ちゃんもお敷きなさいまし、どうぞ。」
 と、お内儀さんは、いよいよ冷たい丁寧さである。次郎は、しかし座蒲団をしかなかった。
 しばらく沈默がつづいたあと、俊亮が口をきった。いかにも無造作な調子である。
「昨日は、私の留守中、申訳ないことをいたしました。今日はそのおわびに上ったんです。」
「それは、わざわざ、どうも。」
 お内儀さんは、そう言ったきり、にこりともしない。そのあと相手がどう出るか、それがわかったうえでなければ、迂濶(うかつ)に笑顔は見せられない、といった態度である。
「この子も大変後悔していまして、自分でもおわびしたいと言うものですから、いっしょにつれて来ましたようなわけで。」
「それは感心でございますね。今どきの書生さんにはお珍らしい。」
 次郎には、「書生さん」という言葉が聞きなれない言葉だった。彼は、わけもなく、それに侮辱を感じたが、あやまる機会を失ってはならない、という気もして、膝の上にのせた両手をもぞもぞ動かしながら、思いきって口をきこうとした。しかし、お内儀さんは、次郎のそんな様子には無頓着なように、ひょいとうしろ向きになって、茶棚の袋戸をあけ、中から一本の燗徳利を出して、それを畳の上に置いた。そしてあらためて俊亮の方に向きなおったが、その顔にはうす笑いが浮かんでいた。次郎の張りきった気持は、それで針を刺(さ)された風船球のようにしぼんでしまった。
「おわびしたら、どうだ。」
 俊亮が微笑をふくんだ眼で次郎を見た。次郎は、しかし、もうつめたい眼をしてお内儀を見ているだけである。すると、お内儀さんは、
「ほっほっほっ。」
 と、急にわざとらしい空っぽな笑声を立て、
「私は、こんな小っちゃな坊ちゃんに、何もお芝居めいてあやまって貰いたくはありませんよ。それよりか、このお酒のおかげで台なしになった春月亭の暖簾(のれん)を、どうして下さるおつもりなのか、それがお伺いしたいんです。」
「あの酒を、もうおつかいでしたか。」
「つかいましたとも。まさか酒屋さんがつかって悪いお酒をお売りになろうとは思っていませんからね。」
「おつかいにならんように、そう言ってあげたはずですが。」
「私の方のお客は、日が暮れてからばかりみえるとは限りませんよ。」
「それは、いよいよ、すまないことでした。」
 俊亮はそう言って、ちょっと眼を落した。お内儀さんは、「それでどうしてくれるんだ」というような眼付をして、俊亮をまともに見つめていたが、俊亮が、そのあと、いっこう口をきかないので、たまりかねたように、
「ねえ、本田さん。」
 と、燗徳利を自分の膝のまえに引きよせ、
「あたしがこのためにどんな赤恥をかいたか、ひととおりお耳に入れて置きますから、ようくきいて置いて下さいよ。昨日は、永年ごひいきのお客が見えましてね、それも久しぶりのお友達と御夕食をめしあがろうというのですよ。あたし、まだお吸物も差上げないうちにお呼びだものですから、何事かと思ってお座敷に出てみますと、そのお客さん、すました顔で私にお盃を下すって、わざわざご自分でついで下さりながら、仰しゃることが変じゃありませんか。お前もこのごろ少し焼きがまわったようだねって。あたし、何のことだかわからなくって、盃を手にもったままご挨拶に困っていますと、今度は、盃はさっさとのんで返すもんだよ、と仰しゃる。そこで、あたしがぐっと飲みほしたっていうわけでございますがね。」
 俊亮は、しかし、いっこうに驚いたようなふうがない。
「なるほど。」
 と、彼は二度ほど軽くうなずいて見せたきりである。お内儀さんは、それがぐっと癪にさわったらしく、
「本田さん!」
 と、燗徳利をわしづかみにして膝を乗り出しながら、
「そのお酒というのがこの銚子のお酒なんですよ。この中にはあんたのお店からいただいたお酒がはいっているんですよ。おわかりでしょうね。」
「ええ、多分そうだろうと思っていました。とんだご災難でしたね。……お気の毒です。」
 俊亮は、まじめくさってそう言ったが、それでお内儀さんの機嫌はいよいよ険悪になった。
「あんた、わざわざ、あたしをばかにしにお出でになったんではありますまいね。」
「むろん、そんなことはありません。」
「じゃあ、いったい、災難とか、お気の毒とかで済ましていられますかね。あたしにこんな赤恥をかかしたそもそものおこりは、どなたなんでしょうね。」
「それは、この子がつい間違ったことをし出かしたからですよ。それも、もとをただせば店の不始末からですがね。それで、実は、二人そろっておわびに上ったわけなんですが……」
 次郎は、父はどうして番頭の肥田のことを言い出さないのだろう、肥田のことを言い出せば、お内儀はぐうの音も出ないだろうのに、と思った。ところが、次郎の驚いたことには、肥田のことは、あべこべにお内儀の方から言い出したのだった。
「ふん、店の不始末だなんて、それで遠まわしに肥田さんのことが仰しゃりたいんでしょう。ようくわかっていますよ。だけど、ねえ、本田さん、もともと肥田さんはこちらからお願いして遊んでいただいたわけではありませんよ。お酒の預証なんかで遊んでもらっちゃあ、だいいち、こちらが迷惑しますし、およしになったらいかがですかって、あたし何度もにがいことを申しあげたくらいですからね。これだけはご承知願っておきますよ。」
「いや、肥田のやったことは、私のやったことも同然ですから、今さら、そんなことをとやかく言ってみたところで仕方のないことです。それよりか、どうでしょう、済んだことは済んだこととして、この子もせっかくあやまりたいと言っているのですから、一応あやまらしてお気持をさっぱりなすって下すっちゃあ。」
「そんなにご丁寧にしていただくには及びませんよ。わるうございましたっていうお言葉だけを、何べん承ったところで、それで水が酒になるものでもなし、きずのついた暖簾がもとどおりになるものでもありませんからね。それに第一、あたしは泣きおとしの手っていうのが大きらいでございましてね。世間様には、よくそんな手をおつかいになる方がありますけれど。ほほほ。」
 俊亮もさすがにちょっと不愉快な顔をしたが、しいて笑いにまぎらして窓のそとを見た。お内儀さんは、その様子を、睨みつけるように見ていたが、
「本田さん――」
 と、いやに調子をおとして、
「そうすると、今日わざわざおいで下すったのは、それだけのご用だったんですね。」
「ええ、実はこの子が、ひとりであやまりにあがりたいと言ったのですが、それじゃあ私も心細い気がしたもんですから……」
「ふふふ。」
 お内儀さんは、鼻の先で笑って、そっぽを向いた。そして長煙管にたばこをつめて手荒にマッチをすり、一服吸ってぷうっと吹き出したあと、
「そりゃあ、この坊ちゃんがどうあってもあやまりたいと仰しゃるのを、あたし、むりにおとめはいたしませんよ。それでこの家の根太(ねだ)にまさかひびも入りますまいからね。ご随意にせりふの一つぐらい言ってご覧になるのも結構でしょうよ。だけど、お芝居はお芝居、ほんとうの世間はほんとうの世間と、ちゃんとけじめだけはつけていただきたいものでございますね。」
 次郎は、もうさっきから、あやまるどころか、座蒲団をつかんでなげつけたいような気になり、何度も父の横顔をのぞいては、その機会をつかもうとしていた。しかし、父が、たまに苦笑するだけでまるで怒りというものを忘れたような顔をしていたので、そのたびに、彼はふるえる膝を懸命に両手でおさえて、我慢していたのである。ところが、今度は、もう父の横顔をのぞいて見る余裕さえ彼にはなかった。彼は思わず右手で座蒲団の端をつかみ、半ば腰をうかして唇をふるわせながら、お内儀さんをにらんだ。
 お内儀さんは、しかし、もうその時に存分に毒づいたあとの小気味よさを見せびらかすかのように、窓の方を向いて、煙管をくわえていた。そして、俊亮が、瞬間、次郎の方に手を突き出して彼を制したのさえ、気がついていないかのようであった。
 俊亮は、今までとはすっかり調子の変った、底力のある声で言った。
「お内儀さん、私は、この子に人間の道だけはふませたいと思って、せっかく自分でもあやまりたいと言うものですから、いっしょにつれて来たんですが、その気持がわかって下さらなきゃあ、いたし方ありません。勘定ずくの取引だけのことなら、何もこの子をつれて来るには及ばなかったんです。いや、私がわざわざ足を運ぶにも及ばなかったんです。あんたの方から何とかお話があるまで待っていりゃあ、それでよかったはずですからね。とにかく、この子は帰すことにしましょう。……じゃあ、次郎、さきにお帰り。」
「父さんは、まだいるんですか。」
 と、次郎は、喰ってかかるように、少し涙のたまった眼をしばたたきながら、言った。
「ああ、父さんには、もう少し用がある。」
 次郎は、しかし、動こうとしない。
「どうしたんだ、さっさとお帰り。」
「僕、父さんといっしょに帰るんです。」
「どうして?……用のないものは、さっさと帰る方がいいんだ。」
 次郎は返事をしないで、じっとお内儀さんの方を見た。お内儀さんは、何か自分に解(げ)せないものを二人の対話の中に感じて、注意ぶかく二人を見くらべている。
「ぐずぐずしないで、さっさと帰るんだ。」
 俊亮が叱るように言った。
「父さんも、もうここには用はないんでしょう。」
「あるんだ。あると言っているんじゃないか。」
「だって、それは、家で待ってたっていいような用じゃありませんか。」
 俊亮は苦笑した。苦笑しながら、ちらっとお内儀さんの顔を見ると、お内儀さんはすごい眼をして次郎をねめつけていた。俊亮はすぐ真顔になって、
「そんなことをお前が言うものじゃない。お前は父さんが言うとおりに、だまって帰ればいいんだ。世の中は右でなけりゃ、すぐ左というものではないからな。……さあ、お帰り。」
 次郎はぷいと立ち上り、お内儀さんには眼もくれないで、あらあらしく廊下に出て行った。
 人気のない、いやな匂いのする土間をとおって外に出ると、道心をふみにじられた憤りと、けがらわしさの感じとが、焼きつくような日光の中で、急に奔騰するのを覚えた。それは、ゆうべ天神の杜を出た時のあのしみじみとした気持とは、あまりにもへだたりのある気持だった。彼は、春月亭の門の前を通る時ペッと唾を吐いたが、お内儀の部屋でお茶一杯ものまされず、からからになっていた口からは、ほとんど何もとび出さなかった。
 歩いて行くうちに、白鳥会で上級生たちの口からおりおり聞かされた「幻滅」という言葉が、ふと頭に浮かんで来た。彼は、その言葉の意味が今はじめてはっきりわかったような気がした。そして大人の作っているいわゆる「実社会」というものが、急に自分たちではどうにもならない、不真面目な世界のように思われて来たのである。
(春月亭のお内儀なんて、特別の人間だ。)
 彼は、一応そうも思ってみた。しかし、その考えは、なぜか、彼の意識の表面を軽く素通りするだけだった。彼の心ほ、すぐそのあとから、ひとりでにお内儀をとおして「実社会」の姿を見ていた。実利のまえには、人間の誠実をむざんにふみにじって顧みない、その冷酷な姿を見ていたのである。
 しかも、彼の疑惑は、――それはさほどに深刻ではなかったかも知れないが、――いつの間にか、父に対してすら向けられていた。彼にとっては、父が彼といっしょに帰らなかったのは、不正と妥協するためだ、とよりほかには考えられなかったのである。
「世の中は、右でなければ、すぐ左というものではないからな。」
 父が最後に言ったそんな言葉が、その時彼には思い出されていた。
(幻滅だ、何もかも幻滅だ。)
 彼は家に帰りつくと、すぐ二階の自分の机のまえにひっくりかえって、心の中で、何度もそうくりかえした。そして、昨日天神の杜の樟(くす)の洞穴の中であれほど苦しんだ自分が、みじめにも腹立たしくも感じられた。この感じは、やがて彼を過去へとさそいこみ、彼自身の永い間の努力の味気なさを感ぜしめた。
 いつの間にか、彼の眼には、春月亭のお内儀といっしょに、お祖母さんの顔がうかんでいた。そして、その二つの顔をとおして、彼は誠実のとおらない「実社会」の姿を、いよいよはっきり見るような気がしたのである。
(白鳥会が何だ。どうせ人間の誠実なんて、泡みたようなものではないか。)
 彼は、しまいには、そんな考えにさえなって行くのだった。しかし、彼は、その考えだけは急いで打消した。というのは、その考えの奥から、朝倉先生の深く澄んだ眼が、誠実そのもののように彼をのぞいていたからである。
 彼は、ふみこんではならない神聖な祭壇に土足をかけたような気がして、われ知らずはね起き、きちんと机の前に坐った。と、ちょうどその時、俊亮が帰って来たらしく、すぐ下の店で仙吉と何か話すのがきこえて来た。次郎は耳をそばだてた。
「へえ、そうですか。私なら、せいぜい半金ぐらいでぶちきって来ましたのに。」
「そうも行くまい。どうせあの酒は役に立つまいからね。」
「しかし、向こうじゃ、煮物のさし酒ぐらいには役に立てるでしょうよ。」
「そりゃそうかも知れんが、そこまでこまかく考えんでもいいさ。」
「じゃあ、こちらに引きとったらどうでしょう。」
「引きとるって、あの酒をかい。」
「ええ。」
「引きとってどうする。」
「どうするってこともありませんが……」
「こちらで捨てるぐらいなら、向こうで役に立ててもらった方がいいよ。」
「でも、それじゃあ癪(しゃく)ですねえ。」
「ふっふっふっ、そんなけちな腹は立てん方がいい。次郎に、世の中にはあんな人間もいるっていうことを教えてもらったと思やあ、ありがたいくらいなもんだよ。」
 次郎は、はっとしたように、首をもたげた。
「で、どうでした。やっぱり次郎さんがあやまりなすったんですか。」
「あやまろうにも向こうがてんで相手にしないんだ。芝居だっていうんだよ。尤も、最初にこちらの肚を話してやりゃあ、お内儀も安心して、あいそよく次郎を相手にしてくれたかも知れないがね。しかし、それで次郎をごまかしてしまっちゃせっかくのあいつの真心が恥をかくよ。」
「なあるほど。しかし、次郎さんがあやまらなくてすんだのはよかったですね。実際、あんな奴にあやまるのは、もったいないですよ。」
「はっはっはっ。まあ、しかし、とにかくこれですんだんだ。ついでに店も、ここいらでおしまいにしようかね。お前にいつまでもいやな苦労をかけてもすまないし。」
「店を?……そうですか。」
 と、仙吉の声は、急に低くなった。
「いずれしまうからには、一日も早い方がいい。仕入の方も一つ二つ話をかけていたところだが、今日にも断っておこう。店の方は、ご苦労ついでに、お前の手でしめくくりをつけてみてくれ。どうせ大したこともあるまいが。」
「承知しました。」
「じゃあ、私は、この足で一二相談したいところをまわってくるから、頼むよ。」
 そう言って、俊亮は表の方に行きかけたらしかったが、
「うちの者には、私から話すから、そのつもりでね。それから、次郎はどうした、帰って来たのかね。」
「ええ、二階においででしょう。」
「そうか。……じゃあ、行って来る。」
 次郎は、その時、父のあとを追いかけて、何ということなしにわびたい気持だった。さっき父を疑ってみた気持などもうどこにも残っていなかった。そして、自分はやっぱり素直でない、素直でない頭で、物ごとをひねりまわして考え過ぎるんだ、という気がした。
 だが、それにもかかわらず、彼が「実社会」というものに対してさっき抱いた感じは、まだ決して消えてはいなかった。「幻滅」という言葉の意味も、やはりある力をもって彼にせまっていた。ただ、彼には、もういくらかの心のゆとりが出ていた。春月亭の門のまえで、唾を吐いた時の、あの興奮した気持が、今は、幾日かまえのことのように省みられるのだった。そして、そのゆとりのある気持が、彼に、例の「無計画の計画」という言葉を、ひとりでに思い起させた。
(やっぱり、これも無計画の計画の一つではないだろうか。)
 彼は、今日の事件を、いろいろとその言葉に結びつけて考えてみようとした。しかし、彼の頭ではどう考えても、それがうまく結びつかなかった。無計画の計画どころか、あべこべに、せっかくの計画が無計画の結果に終ったとしか考えられなかったのである。
 こうして、彼の考えのいつものよりどころであったこの言葉も、彼の幻滅感をやわらげ、実社会に対する彼の疑惑を消し去るには、何の役にも立たず、かえって、そんな言葉をよりどころにしていた自分に、ある不安を感ずるような結果にさえなって行くのだった。
 彼は、父が家にいないのを、これまでになく淋しく感じた。父と今日のことをもっと語りあってみたら、きっとこんないやな思いから救ってもらえるだろう、という気がしてならなかったのである。そして、机のまえに坐ったまま、昼飯時になってお芳に階下から呼ばれても、なかなかおりて行こうとしなかった。
 しかし、しぶしぶお膳について飯をかきこんでいるうちに、彼は、ふと朝倉先生をたずねてみょうという気になり、箸をおろすと大急ぎでそとに飛び出した。

    一五 鑿

 次郎が、朝倉先生の玄関の前に立つと、すっかり建具をはずして見透しになっている茶の間から、奥さんが小走りに出て来て、
「あら本田さん、お珍らしいわね。お休みになってから、ちっともお見えにならないものだから、どうなすったのかと思っていましたわ。」
 次郎は、胸の奥に、急に凉しいものを感じた。しかし、顔付は相変らずむっつりして、
「僕、先生にお目にかかりたいんですけれど。」
「そう? 先生は、いま、畑ですの。しばらく二階で本でも読んでいらっしゃい。あたし、先生にすぐそう申して置きますから。」
 次郎は、しかしそう聞くと、
「じゃあ、僕、畑の方に行きます。」
 と、すぐ中門から庭を横ぎって畑に行った。畑は庭つづきで、間を低い生垣で仕切ってあったのである。
 胡瓜や、茄子や、トマトなどのかなりよく生長している中に、朝倉先生は、猿股一つの素っ裸でしゃがみこみ、しきりに草をむしっていたが、次郎が挨拶をすると、かんかん帽をかぶった頭をちょっとねじむけて、
「やあ、本田か。」
 と、言ったきり、また草をむしり出した。
 次郎の張りきって来た気持は、それでちょっと出鼻をくじかれた恰好だったが、先生は、むしった草をかきよせながら、間もなくたずねた。
「ひとりで来たんかい。兄さんは。」
「まだ帰って来ないんです。」
「まだ? ……高等学校はもうとうに休みのはずだがね。」
「今度の休みには帰らないかも知れないって、手紙でいって来ました。」
「帰らない? そうかね。どこかに旅行でもするのかい。」
「そうじゃないと思います。」
「ふうむ?」
 と、先生は、今まで地べたばかり見ていた眼をあげて、次郎を見た。
 次郎は、今日自分がたずねて来たわけを話し出すには、いいきっかけだと思ったが、いざとなると、切り出すのがいやにむずかしくなった。で、
「大沢さんも帰らないそうです。」
 と、つい遠まわしにそんなことを言ってみた。
「大沢も? そうか、じゃあ、二人で大いに頑張って勉強でもする気なんだろう。」
 次郎は、期待に反して、そんなふうにごく無造作に話を片付けられてしまったので、いよいよ切り出しにくくなり、しばらく默って突っ立っていたが、とうとう思いきったように、言った。
「先生、僕……今日は先生に聞いていただきたいことがあるんですが……」
 朝倉先生は、すると、やにわに立ち上った。そして次郎の顔をじっと見おろしたあと、
「そうか。……じゃあ、凉しいところに行こう。」
 二人は、畑と風呂小屋との間に大きく枝を張っている柿の木の陰に腰をおろした。
 次郎は、先生と二人で、こうして腰をおろしてみると、これまで胸につまっていたものが自然に溶けて行くような気がして、話し出すのが何か気恥しく感じられた。しかし、今更默っているわけにも行かず、先す恭一と大沢のことから店の事情、自分が店で仂いてみる決心をしたこと、昨日から今日にいたるまでの春月亭のいきさつ、と、ひととおり彼相応に順序を立てて話して行った。
 話して行くうちに、彼はさすがに自分の感情がひとりでに興奮して来るのを覚えた。そのために、言葉がもつれたり、とぎれたりすることも、しばしばだった。朝倉先生は、しかし、はじめからしまいまで、ほとんど無言に近い静けさできいていた。めったに合槌さえうたなかった。次郎の言葉が、もつれたり、とぎれたりしても、彼の方に顔をふりむけることさえしなかった。その眼は、いつも地べたの一点を凝視しているかのようであった。次郎は、興奮しつつも、先生のその静けさが変に気になった。むろん先生は、ふだんからそう口数の多い方ではない。よほどのことでないかぎり、生徒が話し終らないうちに、中途で口を出すようなことをしないのが、先生の一つの特徴にさえなっていたのである。しかし、それにしても、今日の沈默ぶりはまた格別である。いつものそれとはまるで意味がちがっているらしい。次郎にはそんな気がしてならなかった。そして、それが、彼の興奮する感情をおさえおさえして、話の筋道をみだすことから、どうなり彼を救っていたのである。
 次郎の話が終ってからも、朝倉先生は、
「そうか。……ふむ。」
 と、返事とも、ひとりでうなずいたともつかない言葉を発したきり、しばらくは姿勢もくずさなかった。次郎は、最初手持無沙汰の感じだったが、沈默が永びくにつれて、それが、しだいに気味わるくさえ感じられて来た。彼は何度も先生の横顔をのぞいたり、足もとの草をむしったりした。風呂小屋と背中合わせになっている鶏小屋で、昼寝からさめたらしい鶏の声が、くっくっときこえて来たが、それで沈默がいくらかでも破れたのが、彼には、何かほっとする気持だった。
 鶏の声がきこえ出すと、朝倉先生も、急にいましめを解かれた人のように、手足の姿勢をくずして、顔を次郎の方にねじむけた。その澄んだ眼には、次郎の全く予期しなかった微笑がうかんでいた。同時に、その奥に、あるきびしい光が沈んでいたことも見のがせなかった。
 先生は、ごく静かな、しかし感情のこもった声で言った。
「本田、君は、ちょっとの間に、すばらしい経験をしたものだね。」
 次郎には、しかし、先生の言った意味がすぐにはのみこめなかった。酒甕に水をぶっこんで自分の短慮と卑劣さを暴露し、春月亭をたずねて自分の良心的行為に侮辱を与えられ、いわゆる「実社会」が幻滅の世界以外の何ものでもない、ということを学んだことは、彼にとって、実際、たえがたいほどのみじめな経験でこそあれ、すばらしいなどとは少しも思えないことだったのである。
 彼は、先生に冷やかされているのではないかという気がして、何か憤りに似たものさえ感じた。そして、じっと先生の顔を見あげていると、先生の眼からはしだいに微笑が消え、今まで底に沈んでいたきびしい光がその代りに表面に浮かんで来た。
「だが――」
 と、先生は、その眼で次郎の眼を射返すように見ながら、
「君のさっきからの話しぶりでは、せっかくのすばらしい経験も、まるで台なしになりそうだね。」
 次郎には、この言葉の意味も、よくは通じなかった。しかし、「すばらしい経験」と言われたのが、決して先生の冷やかしではなかった、ということがわかって、意味はわからぬながらも、何か心強い気もした。同時に、それが「台なしになりそうだ」と言われたのが、新しい不安となって、彼の頭を困惑させたのである。
「私の言っていることがわかるかね。」
「わかりません。」
 二人は、眼を見あったまま、ぽつんとそんな問答をとりかわした。そして、それからしばらくは、鶏のくっくっと鳴く声だけが聞えていた。
「君は、いま、狭い崖道を歩いているんだよ。」
 次郎にとって、そんな言葉は、むろんもう少しも珍らしい言葉ではなかった。彼は、しかし、先生の語気や顔付にただならぬものを感じて、汗ばんだ額の下に、大きく眼を見張った。
「君は、これまで、永いあいだ苦労をして険(けわ)しい道をのぼって来たようだが、その道は、これからの踏み出しよう一つで、君をもつと高いところに導いてくれる道にもなるし、君を見る間に破滅させる道にもなるんだ。そして、その大事な踏み出しは、――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えてから、
「一口に言うと、信か不信かでそのよしあしがきまるんだ。わかるかね。」
 次郎にはさっぱりわからなかった。彼は眼を地べたにおとして考えるふうだった。先生は、無理もない、という顔をして、
「信というのは、悪魔の足でも、洗ってやればそれだけきれいになる、と信ずることだ。その反対に、どうせ悪魔の足だ、きれいになるはずがない、と思うのが不信だ。君は、どうやらその不信の仲間入りをしようとしているようだが、そうではないかね。」
 次郎は、やっと、先生の言っている意味がぼんやりながらわかったような気がした。そしてそういう意味でなら、自分が不信の仲間入りをしようとしていると言われても仕方がない、と思った。しかし、悪魔の泥だらけの足が、あまりにも大きく彼の前にのさばっているような気がして、それを洗わないからといって、自分が非難される道理がない、という気も同時にしたのである。彼は返事をしなかった。
 朝倉先生は、彼の気持を見すかすように、
「むろん、世の中には無駄な努力ということもある。また、無駄な努力はしない方が賢明だ、というのもあながち間違いではない。しかし、人間の世の中をてんから疑ってかかって、何をするのも無駄だと考えるようになると、もうその人は崖をふみはずした人間だ。そして、そういう人間になるのも、もともとその人が卑怯だからだ。」
 次郎は、またわけがわからなくなった。七つ八つのころから、自分の最も嫌いだった「卑怯」という言葉が、こんな場合にもあてはまるなどとは、彼の夢にも思っていなかったことなのである。彼は伏せていた眼をあげて先生を見た。
「卑怯というのは、言葉をかえて言うと、自信が足りない、ということだ。一滴の水にも一粒の砂を洗い落す力はあるんだから、それを信ずる人間なら、悪魔の足がどんなに汚れていようと、あとへは引かないはずだ。砂一粒でも落せば、それだけ悪魔の足がきれいになるはずだからね。」
 次郎の頭には、その時、ふと、昨日天満宮のまえで人間の弱さということについて考え、何か眼に見えないものにへり下りたい気持になったことを思いおこした。そして、その気持と、今先生が言った自信という言葉との間に、何かそぐわないものを感じたが、それをどう言いあらわしていいかわからないままに、先生の言うことに耳を傾けていた。
「とにかく人間は絶望するのが一番悪い。料理屋のお内儀に相手にされなかったぐらいのことで、幻滅を感じるなんて、もってのほかだ。」
 朝倉先生の言葉は、これまでになく烈(はげ)しかった。が、すぐ、もとの静かな調子にかえって、
「もっとも、君ぐらいの年頃では、真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。私にも、そんな経験がある。だが、そこを切りぬけるのが、ほんとうの真面目さなんだよ。いつかも白鳥会でみんなに話したとおり、誠は積まなきゃならない。一滴の水の力を信じて、次から次に辛抱づよく一滴を傾ける。そしてそういう人が二人になり、三人になり、十人になり、百人になる。そこに人生の創造があるんだ。」
 次郎は、「真面目であればあるほど、そんな気持になりたがるものだ。」と言った先生の言葉を、決して聞きのがしてはいなかった。それが「もっての外だ」と叱られたあとだけに、一層つよく彼の胸にひびいたのである。そして、そのせいか、そのあとの先生の言葉が、割合にすらすらと、胸に収まるような気がした。
「ミケランゼロという伊太利の彫刻家がね、――」
 と、先生は、いくぶんゆったりした調子になって、
「ある日、友人と二人で散歩をしていた時に、路ばたの草っ原に大理石がころがっているのを見つけた。彼は、しばらくその黒ずんだ膚(はだ)を見つめていたが、急に友人をふりかえって、この石の中に女神が擒(とりこ)にされている、私はそれを救い出さなければならない、と言った。そして、その大理石を自分のアトリエに運びこませ、それから毎日丹念に鑿(のみ)をふるっていたが、とうとう、それを見事な女神の像に刻みあげてしまったそうだ。この話は、何でもないと言ってしまえば、何でもない話だ。彫刻家が自分の気に入った大理石を見つけ出して、それを彫刻するのは、何も珍らしいことではないからね。しかし、考えようでは、人生のすばらしい真理がその中に含まれているとも言えるんだ。どうだい、この話をきいて何か感ずることはないかね。」
 次郎は、ちょっと首をかしげていたが、
「女神が擒(とりこ)にされている、と言ったのが面白いと思います。」
「面白いって、どう面白いんだ。」
 次郎には、説明は出来なかった。彼は、ただ、何とはなしにその言葉が面白く感じられただけだったのである。朝倉先生は微笑しながら、
「その擒にされた女神を救い出さなければならない、と言ったのも、面白いだろう。」
「はい。」
「さすがはミケランゼロだね。」
 そう言われても、ミケランゼロを知らない次郎には、返事のしようがなかった。
「千古の大芸術家だけあって、そんな簡単な言葉の中に、人生の真理を言い破っているんだ。」
 次郎はただ先生の顔を見つめているだけであった。
「わからないかね。」
 と、朝倉先生は、柿の木の根もとに投げ出してあったかんかん帽をかぶり、猿股の塵を払いながら、のっそり立ち上った。そして、
「じゃあ、これは宿題だ。君自身の問題と結びつけて、よく考えてみることだね。」
 次郎は、しかし、そう言われると、何もかも一ぺんにわかったような気がした。彼はやにわに立ち上って、先生のまえに立ちふさがるようにしながら、
「先生、わかりました。」
「どうわかったんだ。」
「人間の世の中は、草っ原にころがっている大理石のようなものです。」
「うむ。」
「その中には、女神のような美しいものが、ちゃんと具わっているんです。」
「うむ、それで?」
「僕たちがそれを刻み出すんです。」
「君が春月亭に行ったのもそのためだったんだね。」
「そうです。」
「しかし、君の鑿はすぐつぶれてしまったんじゃないか。」
「僕、もう一度研(と)ぎます。」
「研いでもまたつぶれるよ。」
「つぶれたら、また研ぎます。」
 次郎は意気込んでそう答えた。
「そうか。しかし、そう何度もつぶしては研ぎ、つぶしては研ぎしていたんでは、かんじんの鑿がすりきれてしまいはせんかね。」
 朝倉先生は、そう言いながら、笑っていた。次郎はちょっとまごついたふうだったが、すぐ、決然となって、
「僕、間違っていました。僕は決してつぶれない鑿になるんです。」
「しかし、つぶれない鑿なんて、あるかね。」
「あります。」
「どんな鑿だい。」
「それは、先生がさっき仰しゃったように、信ずることです。自分が努力さえすれば、それだけ世の中がよくなると信ずることです。」
「うむ、その通りだ。人間の心の鑿は、彫刻家の鑿とはちがって、そうした信の力さえ失わなければ、決してつぶれるものではない。いや、堅いものにぶっつかればぶっつかるほど、かえって鋭くなって行くのが、人間の心の鑿だ。むろん、人間には過ちというものがある。また、自分のせっかくの真心が通らないで、かえってそのために侮辱をうけることもある。それは君が現に春月亭で経験したとおりだ。過ちを犯せば悔みたくもなるだろうし、侮辱をうけたら腹もたとう。しかし、それはそれでいいんだ。そのために信の力がくじけさえしなければ、後悔の涙も怒りの炎も、そのまますばらしい力となって生きて来るんだ。」
 朝倉先生は、そう言って、両手を次郎の肩にかけ、強くゆすぶりながら、
「いいかね。……あぶないところだったよ。」
 と、いかにも慈愛にみちた眼で次郎の眼に見入った。
 次郎の眼も、しばらくは先生の眼を見つめたまま動かなかった。しかし、その視線はそろそろと先生の裸の胸をすべり、しまいにがくりと地べたに落ちていった。そして、もうその時には、彼の汗ばんだ制服の腕が、その眼からこぼれ落ちるものを拭きとろうとして、急いで顔におしあてられていた。
 朝倉先生は、かなり永いこと同じ姿勢(しせい)で立っていたが、やがて次郎の背をなでるようにして両手をはなし、「君がこれから真剣に考えなけりゃならん問題は――」と、いかにも考えぶかい調子で、
「もしお父さんの事情がそんなふうだとすると、君自身の将来をどうするか、という実際問題だ。さっきからの君の話では、兄さんはもう自分で何とか考えているらしいね。兄さんには大沢という友達もいるから、きっとうまく切りぬけて行くだろう。君も、自分でしっかり考えてみるんだよ。」
 次郎はいそいで涙をふいた。そして、いくぶん恥しそうに顔をあげたが、ただ、
「はい。」
 と答えたきり、また顔をふせた。
「むろん、中学を出るぐらいのことは、何とかなるさ。しかし、そのあとは、そう簡単にはいかんからね。兄さんだって、大沢がついていなけりゃ、ちょっと心配だよ。」
「僕。まだ志望をきめてないんですから、これからよく考えます。」
「うむ、何もいそぐことはない。しかし、あまりぐずぐずもしておれんね。それに、自分の一生に関する実際問題をじっくり考えてみるのは、いい修行だ。春月亭のお内儀なんかと取っくむよりゃ、ずっと取っくみ甲斐があるよ。はっはっはっ。」
 次郎は思わず頭をかいた。朝倉先生は、かんかん帽をとりあげて、
「じゃあ、そろそろまた畑の手入をはじめるかな。どうだい、本田、君も少し手伝わないか。畑にだって、女神が擒にされているかも知れんよ。」
「はい、手伝います。」
 と、次郎は、急いで上衣をぬいだが、下には膚着も何も着ていなかった。色の浅黒い、あまら肉附のよくない胸が、じっくり汗ばんで、柿の葉の濃いみどりの陰にあらわだった。
「しかし、少し喉が乾くね。麦湯のひやしたのがあるはずだから、君、とって来てくれないか。」
「はい。」
 次郎は、風呂小屋をまわって台所の方に走って行ったが、間もなく奥さんと二人で何か楽しそうに話しながら帰って来た。奥さんは手製らしい寒天菓子を盛った小鉢と、コップ二つとを盆にのせて持っており、次郎は、一升入りのガラスびんを抱くようにして持っていた。ガラスびんからは冷たい雫がたれていたが、その中にいっぱいつまった琥珀(こはく)色の液体をすかして、次郎の胸がぼやけて見えた。
「ここの方がよっぽど凉しゅうございますわ。やっぱり木陰ですわね。」
 と、奥さんは、盆を柿の木の根元におろすと、ちょっと梢を仰ぎ、鼻の下の汗を手巾でふいた。
「そりゃあ、家の中より凉しいさ。しかし、今日はここで本田と少し熱っくるしい話をしたんで、案外喉が喝いてしまったよ。」
 朝倉先生は、次郎がなみなみとついでくれたコップに手をやりながら、そう言って笑った。
「そう?」
 と、奥さんは、うなずくとも、たずねるともつかない眼付をして、次郎を見た。次郎は、自分のコップに、ちょうど麦湯をつぎ終ったところだったが、ちらと奥さんの顔をのぞいたきり、きまり悪そうに視線をおとした。
「いかが、本田さん。これ、おいしいのよ。」
 と、奥さんは菓子を盛った鉢を次郎の方にちょっとずらしながら、
「いずれ、そのお話、あたしも白鳥会の時に伺わせていただきますわ。」
「ううむ――」
 と、朝倉先生は、考えていたが、
「白鳥会の話題にするには少し工合がわるいね。問題としては実にいい問題なんだが、本田の家の内輪の事情にも関係があるんだから。」
「そう? じゃあ、あたしも伺わない方がようございますわね。」
 奥さんは、そう言って、いかにも心配そうに次郎を見た。
「いや、お前には知っていて貰った方がいいだろう。これからは、私がいなくても、急に本田の相談相手になって貰わなきゃならん場合もあるだろうからね。」
「あたしがご相談相手に?……どんなことでしょう。あたしに出来ますことか知ら。」
「くわしいことはあとで話すよ。……本田、どうだい、小母さんにだけは話してもいいだろう。」
「ええ。」
 次郎は、少し顔を赧(あか)らめて答えた。彼は、朝倉先生がどんなつもりで奥さんだけに今日の話をしようというのか、その真意は少しもわからなかった。しかし、とにかく、自分のことを何もかも奥さんに知ってもらうことに少しも異存はなかったし、むしろそれにある悦(よろこ)びをさえ感じているのだった。
 朝倉先生は、コップをのみほして、その底を手のひらで撫(な)でながら、奥さんに向かって、
「それはそうと、こないだお前と話していたミケランゼロの話ね。」
「ええ。」
「あの話を今日本田にもきかしてやったんだよ。ちょうどぴったりするものだからね。」
「まあそうでしたの? そんなにぴったりしたんですの?」
 奥さんは、少しはずんだ調子で、どちらにたずねるともなくたずねた。しかし、答えはどちらからもなかった。二人はただ微笑しているだけだった。
「それで、本田さんは、あの意味、ご自分でお解きになりましたの?」
「そりゃあ解いたとも、さすがに苦しんだだけあって、お前なんかのように二日も三日もひねりまわしてはいないよ。そこが遊びと血の出るような体験とのちがいでね。」
「まあ、遊びだなんて。」
 と、奥さんは、心からの不平でもなさそうに笑いながら言ったが、急に眉根をよせて、
「でも、本田さん、そんなにお苦しみになりまして?」
「そりゃあ、本田の年頃にしちゃあ相当の苦しみだったろうよ。とにかく料理屋のお内儀を相手に鑿をふるおうというんだからね。」
「鑿を?」
 奥さんは眼を円くして次郎を見た。
「はっはっはっ。鑿って、さっきのミケランゼロの話だよ。本田は、つまり、そのお内儀を女神に刻みあげてやろうというわけだったんだ。」
「あら、そう。あたし、すっかりほんとうの鑿かと思って、どきりとしましたわ。ほほほ。」
「まさか、ごろつきではあるまいし、ねえ本田。」
 と、朝倉先生は、また大きく笑った。
 次郎は、しかし、少しも笑わなかった。彼は、むしろ、いくぶん暗い顔をして二人の話に耳を傾けていたが、先生の笑い声がしずまると、だしぬけに言った。
「先生、僕は春月亭のお内儀を女神にしようなんて、そんなことちっとも考えていなかったんです。僕は、ただ、僕の悪かったことをあやまろうと思っただけなんです。」
「ふむ――」
 と、朝倉先生は、空になったコップの底を見入るように、しばらく眼をふせていたが、
「そりゃそうかも知れん。しかし、それでいいんだ。いや、それがいいんだ。そんなふうに自分を反省して、へり下る気持になることが、相手を清めることになるんだ。自分の力を信ずるといっても、自分が一段高いところに立って、人を救ってやるというような気持になったんでは、人を救うどころか、却って世の中をみだすだけだ。要するに人間はめいめいに真剣になって自分を磨けばいいんだよ。もともと、自信というのは、決して自分を偉いと思いこむことではなくて、自分を磨きあげる力が自分に備わっていると信ずることなんだからね。」
 次郎は、かつて「葉隠」の中で読んだことのある、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」という剣道の達人の言葉を思いおこした。しかし、自分が自分をどんなに磨いても、その結果、春月亭のお内儀のような人間を少しでも美しくすることが出来ようとは、どうしても思えなかった。
「しかし、先生――」
 と、彼は、いくぶん口籠(くちごも)りながら、
「世の中には、どんなに真心をつくしても、それの通じない人間もあるんじゃありませんか。」
「例えば春月亭のお内儀のように、と言うんだね。」
「はい。僕は、あんな女にも女神が擒にされているなんて、とても思えないんです。」
「そんなことを言えば、話はまた逆もどりするだけだ。」
「しかし、例外ということもあるんでしょう。」
「人間に例外はない。人間の本心はみな美しいんだ。」
 朝倉先生の言葉はきっぱりしていた。次郎がびっくりしたように眼を見張っていると、
「人間の心に例外があると思うのは、そう思う人自身の心がまだ十分に磨かれていないからだ。同じ大理石を見ても、ミケランゼロにはその中に女神が見出せたし、彼の友達にはそれが苔だらけの石にしか見えなかったんだからね。」
 しばらく沈默がつづいた。次郎は地べたを、朝倉先生は次郎の横顔を見つめていた。奥さんはうしろから、二人を等分に見くらべていたが、心から次郎をいたわるように言った。
「ほんとうに大事なことですけれど、あたしたちにはむずかしいことですわね。」
「そりゃあ、誰にだってむずかしいことだよ。こんなことを言っている私自身にも、毎日、人間の汚ないところばかりが眼について、いいところはなかなか見えないんだ。学校にいても、どうかすると、生徒がみんな駄目なような気がして、逃げ出したい気持になることがあるよ。」
 次郎は、おずおずと先生の顔を見上げた。先生はちょっと笑って見せたが、すぐ真顔になって、
「しかし、私は決して逃げ出しはしない。逃げ出すまえに自分を省みるんだ。そして生徒の心に神を見ることが出来ないのは、自分の心に神が育っていないからだと思うんだ。そう思うと、ひとりでに謙遜にならざるを得ない、教えるとか、導くとかいう傲慢(ごうまん)な心は、いっぺんに消しとんで、ただ生徒のために祈りたい気持になって来る。何か大きなものに、祈って、祈って、祈りぬいて、自分を捧げきってしまいたい気持になって来る。ところが、そうなると、不思議に胸の奥から何とも知れない力が湧いて来るんだ。そりゃあ、自分ながら変な気がするよ。しかし考えてみると、私が、これまでどうなり学校というものに絶望しないで勤めて来たのは、そうした、反省というか、へり下るというか、或は祈るというか、とにかく自分というものを何とかしようと骨を折って来たおかげなんだ。」
 次郎は、昨日天満宮のまえで味った気持をもう一度思いおこした。そして、それが先生の言っているのと同じ気持ではないだろうか、という気がして、異様(いよう)な興奮を覚えたが、やはり、口に出しては何とも言いかねた。すると、先生は、急に笑い出し、
「いや、話がつい自分のことになってしまって、ますかったね。熱っくるしい話は、今日はもうこれで打切りだ。」
 と、コップを置いて立ち上りかけた。
「貴方、お菓子はいかが。」
「そうか、お菓子があったんだね。どうだい、本田さっさと平らげて畑をやろうじゃないか。」
 次郎は、それでやっと麦湯をのみ、菓子をつまんだ。
 その日、奥さんは、畑をしまって帰ろうとする次郎に、夕飯を振舞おうとしたが、次郎は、なぜか逃げるようにして帰った。そして、家に帰りつくまでに、彼は、自分にとってはやはり何もかもが「無計画の計画」だったと思った。しかし、この言葉は、最近彼が何かで覚えた「摂理」という言葉と結びついて、一層彼の胸に深まりつつあったようであった。
「運命」――「無計画の計画」――「摂理」――この三つの言葉が、彼の心の中で、殆んど同義語と思われるまでに近づいて来たということは、同時に彼の対人生の態度が、我執と反抗から一歩一歩と謙抑と調和への道を辿りつつあった証拠だといえないだろうか。

    一六 新しい出発

 次郎は、中学校にはいってから、恭一にすすめられて、ずっと日記をつけて来た。日記帳はべつにきまっていなかった。最初の一年は小形の当用日記をつかったが、かえって不便な気がして、あとでは、普通のノートをつかうことにしたのである。彼の日記には、かなりむらがあり、書きたいことがあれば、何枚でも夜ふかしをして書く代りに、日によっては一行か二行かですますこともあった。また、他人が見ては何のことだか想像もつかないほど主観的な感想をならべたところがあるかと思うと、皮肉なほど冷たい客観的描写をやっているところもあった。それに、二年の半ばごろからは、和歌や、詩などを記した頁も、しだいに多くなって来たのである。
 彼の詩心については、「次郎物語第二部」のなかでちょっとふれておいたが、それは、運命的に彼の胸の底を流れている哀愁の感情が、恭一に対する、これも運命的な競争意識に刺戟されて、最初芽を出したものであった。それだけに、彼の書いたものには、恭一のそれのような素直さや温かさはなかった。しかし、どこかに、人の心をつく感情の鋭さと、機智のひらめきとがあった。そして、年三回刊行される校友会の文苑欄(ぶんえんらん)には、きまって彼の名が見出されるようになり、たいていの生徒は、「本田白光」という彼の筆名を覚え、文芸に興味をもっている上級生の一部では、彼を天才視するものさえあったのである。
 彼の日記のなかで、分量からいっても、内容からいっても、最も目立っている部分は、何といっても白鳥会を中心とするものであった。彼の白鳥会に対する心酔ぶりは――それは朝倉先生に対する心酔ぶりといった方が、一層適切であるかも知れないが、――ほとんど無条件的で、実は彼の筆名も、最初は「白鳥」の二字をそのまま使っていたのであるが、恭一に、それではあまりあからさま過ぎると言われ、すいぶん考えた末、やっと「白光」とあらためたくらいだったのである。また彼は、自分の手で、心ゆくまで白鳥会を礼讃(らいさん)した詩を書き上げたいという野心をさえ、人知れず抱いているのである。
 しかし、ごく最近の彼の日記は、さすがに、閉店にからんだ家庭のことが大部分をしめている。そしてその記述は、どちらかというと客観的であり、彼が、自分の周囲の現実を、出来るだけ落ちついて見究(みきわ)めようとする態度が、その中にかなり鮮明にあらわれて居り、同時に、彼が主としてどういう点で自分を反省しているかも、おおよそそれでうかがえるように思える。で、私は、これから、閉店後十日あまりの彼の日記を抜書きすることによって、しばらく私自身の記述の労を省きたいと思う。これは、彼が中学三年――あたりまえだと四年の年齢だが――の青年にしては、多少ませ過ぎていることを、彼自身をして証明させるためにも、実は必要なことなのである。

     *

 八月二十一日
 父は起きるとすぐ、自分で、閉店の貼紙(はりがみ)を店のガラス戸に貼りつけた。貼りつけてしまって笑っている。こんな時になぜ父が笑ったのか、僕にはよくわかるような気がした。しかし、僕はべつに笑ってもらいたくはなかった。笑ってもらったために、かえって淋しい気さえしたのである。
 貼紙を出したあと、僕はいやにその貼紙が気になった。半紙一枚に、候文でかなりながい文句が書いてあるので、あまり人目をひくものではなかったが、それでも気になってしようがなかった。この暑いのに、店戸をおろしたままにしてあったためかも知れない。僕は午前中、思い出しては格子の中から外をのぞいて、道行く人たちの顔に注意した。自分でつまらないことだと思いながら、どうしてもそれを制しきれなかったのである。子供のころの自分が思い出されて、つくづくいやになった。
 道行く人は、誰も小さな閉店の貼紙なんかには気をひかれないらしかった。たいていは見向きもしないで通って行った。たまに店戸がおりているのに気がついて、ふり向く人もあったが、貼紙を読むために立ちどまった人はほとんどなかったようだ。ただ、近所の人たちだけが、ちょっと眼を見はって貼紙を読んだ。しかし、それも大して驚いた様子はなく、中には変な微笑さえもらしたものがあった。

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