次郎物語
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著者名:下村湖人 

 彼は、思いきって父に恭一の手紙を見せ、事情をたずねてみようかと考えた。しかし子供のくせにさし出がましいと思われそうな気もし、また、たずねたためにかえって父にいやな思いをさせそうにも思えたので、つい言い出しそびれてしまった。そして、恭一には、それから五六日もたってから、自分の見たままのことを書いて、一先ず返事を出しておいたのである。
 そうこうするうちに、一学期も押しつまり、試験の準備に時間をとられたり、宝鏡先生の転任で気をつかったりして、とうとう夏休みを迎えたわけだったが、その間、ともかくも、店の仕事はつづけられ、また、たまには罎詰の数がいくらかふえたり、新しい四斗樽が何本か運びこまれたりしたのを見たので、彼も当初ほどには店のことを気にかけなくなり、何もかも恭一が帰って来た上でのことだという気になっていた。
 ところが、恭一は、八月の五六日頃になっても帰って来なかった。それを心配していろいろ言い出したのは、まずお祖母さんだった。次郎もむろん内々心配はしていたが、俊亮の顔色をうかがうだけで、口に出してはそれと言わなかった。俊亮は、ただ、
「どこか、山登りでもして来るんでしょう。」
 と、いかにも無造作に言って、なるべくお祖母さんの相手にならない工夫をしているらしかった。
 お祖母さんがやいやい言い出してから二日目の夕方、ちょうどみんなが食事をしている時に、恭一から次郎にあてたはがきがついた。それにはこうあった。
「今度の休みは、はじめてのことでもあり、帰ってお土産話をしてみたい気もするが、結局帰らないことに決心した。大沢君も僕と行動を共にしてくれるそうだ。有りがたいと思っている。くわしい事は、お父さんにこないだ手紙を出しておいた。お父さんからの返事はまだもらわないが、むろん許して下さるだろうと思う。……君は、これまでに、強くなる修業をすでに十分つんで来たが、僕はこれからはじめるのだ。いずれ、また近いうちに便りをする。」
 次郎は読み終ると、ちらと父の顔を見たが、すぐそ知らぬ顔をして、はがきをズボンのかくしに突っこんだ。しかしお祖母さんの方が、もうさっきから、ちゃぶ台ごしに、そのはがきに眼をつけていたのである。
「恭一からじゃないのかい。」
「ええ。――」
 と、次郎はなま返事をして、また父を見た。
「何といって来たんだえ。はがきなんかよこして、まだ帰らないつもりなのかね。」
「今度の休みには、帰らないんですって。」
「なに、帰らない? どうしてだえ。」
「大沢さんも帰らないんですって。」
 次郎の返事はとんちんかんだった。
「大沢さんは大沢さんだよ。恭一はどうして帰らないんだね。……どれお見せ、そのはがきを。」
 次郎は、父の顔をうかがいながら、気まずそうに、少し皺(しわ)になったはがきをちゃぶ台の上に置いた。
 そのあと、俊亮とお祖母さんとの間に、どんな会話がとりかわされ、どんな感情の波をうったかは、省いておく。とにかく、次郎は、二人の言葉で、彼が想像していた以上に店の運転がきかなくなっていることや、恭一が学資の足しを得るために、新聞配達だか、家庭教師だかの仕事を見つけようとしていること、或いはすでに見つけたかも知れないということなどを、あらまし知ることが出来たのである。
 その晩、彼は、蚊にさされながら、恭一に長い手紙を書いた。それには、彼が観察したかぎりの家の事情を述べ、恭一の決心と大沢の友情をたたえ、最後に、自分もこの夏休中は店の小僧になって仂いてみるつもりだ、という意味を書きそえた。
 彼は、実際、翌日からそのとおりに実行しはじめた。今では番頭格の、徴兵検査を二三年まえにすました仙吉という小僧に教わって、客足のない朝のうちに、彼はまず酒の量(はか)り方を熱心に稽古した。また元桶の酒を売場の甕(かめ)に移すやり方や、水の割りかたなども一通り教わった。そして、午後になると、自分と同い年の文六というもう一人の小僧といっしょに、襯衣(シャツ)一枚になって、徳利を洗ったり、得意先に酒を届けたり、そのほかいろいろの雑用に立ち仂いた。
 俊亮も、お祖母さんも、それを見て、いいとも悪いとも言わなかった。しかし二人とも内心喜んでいる様子は少しもなかった。俊亮は、「正木のお祖父さんも、大巻のお祖父さんも、お前の夏休みを楽しんで待っておいでだったがね」と言い、お祖母さんは、俊亮のそんな言葉にも、ただにがりきっているだけだった。
 お芳は、例によって、どんな気持で次郎を見ているのか、さっぱりわからなかった。番頭の肥田がいなくなって以来、俊亮の留守のおりには、ちょいちょい店の見張りに出て、何かと店のことも心得ていたせいか、わざわざ次郎の仂いているところにやって来て、自分の気のついたことを教えてやったりするのだったが、それにとくべつの意味があるとも思えなかった。
 弟の俊三も、もうそのころは中学の二年だった。――彼は入学試験に次郎のようなしくじりがなかったため、年は二つちがいでも、学校は一年しかちがっていなかったのである。――頭もよく、学校の成績などは、兄弟のうち誰よりもすぐれていたが、末っ子の気持はまだぬけていず、次郎にすすめられても、白鳥会にもはいらなかったぐらいで、家の事情などには、まるで無頓着(むとんちゃく)でいるらしかった。で、次郎が急に店で仂き出しても、「あんなこと面白いんかなあ」といったぐらいの感想をもらすだけだった。
 次郎が店の手伝いをやろうと思い立った直接の動機は、むろん恭一の決意に対する同感だった。何だかじっとして居れないというのが、彼が恭一にあてた長い手紙を書いた時の気持だったのである。しかし、理由はただそれだけではなかった。彼には、店の事情をもっとはっきり知りたい、という考えがあった。また、自分が手伝ったために、店がいくらかでもよくなるのではないか、という希望もあった。そうした考えや希望の底に、彼の幼年時代からの好奇心と功名心が全くひそんでいなかったとはいえなかったかも知れない。しかし、彼としては、自分でめったに経験したことのないほど懸命な気持だったのである。
 だが、ほんの五六日も仂いているうちに、彼はもう絶望に似たものを感じはじめた。というのは、売場の酒は、特上、上、中、下と、四階段にもわけてあるのに、もとになる酒はほんの一種で、ただ水の割りかたをちがえてあるばかりだったし、それに、そのもとになる酒というのが、必ずしも一定した酒ではなく、始終銘が変っている、ということを発見したからである。彼は、それでも、最初それを知った時には、酒というものはそんなものかしら、とも思い、そっと仙吉にたずねてみたのだった。すると仙吉は、にやにや笑いながら、
「以前にはこんなことはなかったんですよ。何しろこの頃のように仕入れがうまく行かなくなっちゃ、こうでもするより仕方がないでしょう。」
 そしていかにも皮肉な調子で、
「しかし、酒の味のわからない家では、今でも買いに来てくれるんですから、ありがたいものですよ。」
 次郎は、そうきくと顔から火の出るような気持だった。そして、もうそれで何もかも見透しがついたように思い、仂く元気もなくなったのであるが、さればといって、僅か五六日でよしてしまう気にもなれず、朝倉先生に話してみたらどう言われるだろうか、とか、正木や大巻ではもう知っているだろうか、とか、いろんなことを考えながら、相変らず手伝うことだけはやめずにいた。
 すると、それからなお一週間ほどたったある日のこと、変にしゃがれた声で、
「今日は。」
 とあいさつして、やけに喉のあたりを扇であおぎながら、店に這入って来た女があった。でっぷり肥った五十前後の白あばたのある女で、小さなまげを結(ゆ)っていた。
 ちょうど午過ぎの、暑いさかりで、ひっそりした店では、仙吉が帳場の机のそばで居眠りをして居り、文六の姿は見えず、次郎が、空樽に腰かけて雑誌を読んでいるところだった。次郎は、顔をあげてその女を見ると、すぐ、どこかで見たことのあるような女だと思った。
「まあ暑いこと。」
 女はそう言って、無遠慮に店先に腰をおろした。そしてじろじろとあたりを見まわしていたが、仙吉がねぼけた眼を自分の方に向けたのを見ると、
「ほほほ、のんきそうだこと。結構なお身分だわ。」
 仙吉の顔はやにわに緊張した。そして、
「いらっしゃいまし。」
 と、いかにも冷淡に言って、膝を立て直した。すると、女は、扇をたたんでそれを帯にはさみ、その代りに何か書付けみたようなものをひっぱり出しながら、
「今日は、こないだの次のぶんを頂戴にあがったんですがね。もうあれから半月以上にもなるし、こちらのご都合もちょうどいい頃かと思って。」
「今日は、あいにく、旦那が留守で、私じゃどうにもなりませんがね。」
 と仙吉は、うわべは恐縮しながら、その中にどこか突っぱなすような調子をこめて答えた。――俊亮は実際留守だったのである。
「旦那がお留守でも、お酒はあるんでしょう。」
「そりゃ、あるにはありますが、何しろ――」
「何しろ、どうなんですの。お酒があれば下さりゃいいじゃありませんか。」
「それが実は……」
「ふふ。この暑いのに、何しろ、と実はを聞きに来たんじゃありませんよ。上酒一斗正に預り候也、――ほれ、この通りちゃんと預証をもって来ているんじゃありませんか。私は、お預けしたお酒を受取りに来たまでなんですがね。」
 女は、帯の間から引き出した書付をひろげて、仙吉のまえに突き出した。
 仙吉はちらとそれに眼をやったが、すぐそっぽを向いてしまった。
「おや。」
 と、女は、その大きな腹を突き出すようにして、少しのけぞりながら、じっと仙吉の横顔を見すえていたが、
「お前さん、まさか、知らん顔をしようというのではないでしょうね。これはお酒の預証なんですよ。上酒一斗を、こちらのお店で預り下すったその証拠なんですよ。」
「わかっていますよ。」
 と、仙吉は相変らず、そっぽを向いて、
「しかし、それじゃあ、旦那があんまりお気の毒じゃありませんか。肥田さんの尻ぬぐいも、もう沢山だと私は思いますがね。」
「じゃあ、この預証は、お店には関係がないというわけですね。」
「そうじゃありません。そりゃこちらの店の判が捺してある以上、知らないとは言いませんよ。それだからこそ、旦那もこれまで苦しいのを我慢して、泥棒に追銭みたいなことをして来たんじゃありませんか。しかし、正直のところ、あんたの方でもそうとことんまで搾(しぼ)りあげなくったってよさそうに思いますよ。あたりまえにお金をいただいての預証と、肥田さんの遊興費とは、だい一わけがちがいますし、それにこちらの事情もまるでおわかりにならんことはないでしょうからね。」
 仙吉は次第に雄弁になって来た。彼は、もうとうに店には見切りをつけているらしかったが、俊亮の人柄には心から敬服して居り、そのために、強いては暇ももらわず、これまで何かと心をつかって、店のやりくりをして来ただけあって、こうした場合、おとなしくばかりはしていなかったのである。
 しかし、相手の女は、仙吉などにやりこめられるほど、なまやさしい女ではないらしかった。彼女は、仙吉に言わせるだけ言わせてしまうと、
「あんたも、若いに似ず、理詰めで来たり、人情にからんだり、なかなか隅に置けないわね。旦那もさぞ心丈夫でしょう、ほほほ。……だけど、どう? 預証はもうこれでおしまいなんだから、いっそさっぱりなすっちゃ。そりゃあ、こちらの旦那としちゃあ、すいぶんご迷惑でしょうともさ。私だって重々お察しはしていますよ。お察ししていればこそ、こうして十日おきとか、半月おきとかに、ぼつぼつお願いして来たんじゃありませんか。それがおしまいの一枚になって、お預けしたものをお返し下さらんということになれば、私の方はとにかくとして、第一、旦那の名折れじゃありませんかね。」
 その声色めいた調子が、ねっとりと仙吉の耳にからみついて行った。仙吉は急にうまい言葉が出て来ないらしく、相手を見つめて、変に口を尖(とが)らした。
 次郎は、さっきから、まばたきもしないで二人の対話をきいていたが、だしぬけに仙吉に言った。
「仙さん、さっさとやっちまったらどうだい。」
 仙吉は、しかし、何か眼で合図(あいず)したきり、返事をしなかった。すると、女が次郎の方を向いて、
「そう、そう。小さい小僧さんの方がよっぽど物わかりがいいわ。じゃあ、あんた、すぐお酒を量って下さいね。」
 と、いかにもおだてるように言って、腰を浮かした。
「お内儀(かみ)さん――」
 と、仙吉は、妙に沈んだ声で、
「それは小僧じゃないんです。こちらの坊ちゃんで、何もご存じないんですがね。」
「坊ちゃん?」
 と、女はちょっといぶかるような顔をしたが、
「坊ちゃんなら、なおいいじゃありませんか。旦那に代って、ああ言って下さるんだから。」
「ところが、実はね。お内儀さん――」
 と仙吉は、いよいよ沈んだ調子で、
「差上げようにも、上洒の方は一斗なんてはいっちゃいませんがね。」
 女は、ぎろりと眼を光らして、売場の甕(かめ)から、土間につんだ四斗樽までを一巡見まわした。そして、
「空(から)なんですね、あれは。」
 と、四斗樽の方にあごをしゃくった。
「実は、そうなんで。」
 女は、立っていって樽をたたいてみるまでのことはしなかった。さればといって、べつに同情するようなふうもなく、何かしばらく考えていたが、
「上酒が足りなきゃあ、足りない分は悪い方で我慢しますよ。とにかく、今日は、さっぱりしてもらおうじゃありませんか。」
「その悪い方も、実は――」
 仙吉は、そう言って首をたれた。すると女は、急に居丈高(いたけだか)になって、
「馬鹿におしでないよ。なんぼなんでも、一斗やそこいらの酒がなくて、お店があけて置かれますかい。」
 とどなりつけた。
 次郎は、もうその時には、すっかりふだんの落ちつきを失っていた。彼はいきなり立ち上り、仙吉に向って罵(ののし)るように言った。
「酒はあるんじゃないか。裏の納屋(なや)にいくらでもあるんだ。僕とって来てやるよ。」
 彼は、仙吉があっけにとられて、まだ返事をしないうちに、もう売場の横の棚にふせてあった汲桶(ため)をおろし、それをさげて、いっさんに台所の方に走って行った。そして、井戸端でそれに水を七分ほども汲むと、それを手のひらで肩のところにかつぎ、定まらない足をふみしめ、ふみしめ、店に帰って来た。
 店では、女が恐ろしい権幕(けんまく)で仙吉に何か食ってかかっているところだった。次郎はしかし、それには頓着せず、上酒の甕の蓋をとって、汲桶の水をその中にざあざあ流しこんだ。
 次郎の顔は、その時、すっかり蒼ざめていた。彼は、しかし、甕の蓋をかぶせ終ると、いくらか血の気をとりもどして、女の方を見た。女は、まだその時まで、仙吉を罵りやめないでいたが、次郎が自分の方を見ているのに気づくと、急ににっこりして、
「坊ちゃん、どうもご苦労さま。おかげでこの人に馬鹿にされないですみましたよ。……じゃあ、量ってもらいましょうかね。今日は容れものを拝借するのもどうかと思って、私の方で持参しましたよ。」
 と、いったん表の方に出て、誰かを手招きした、すると、間もなく、襟に春月亭と染めぬいてある法被(はっぴ)を着た男が、リヤカーに沢山の空罎をのせてやって来た。
 次郎はその空罎が売場に並べられると、甕の栓をひねって、片っぱしから、それに酒をつめて行った。彼の手はいくぶんふるえていた。ただでさえまだ不慣れな手だったので、桝からこほれる酒がやけにあたりに散らばった。
「もったいないわね。」
 女は、そばに立って、次郎の手つきを見ながら、何度もそうつぶやいた。また、
「いやに色がうすいようだね。色だけは灘酒みたいじゃないの。」
 とも言った。次郎は、しかし、一言も口をきかなかった。そして、量り終って、女の手から預証を受取ると、それをその場でずたすたに裂(さ)いた。彼の眼には久方ぶりで涙がにじんでいたのである。
「まあ、この坊ちゃん、恐いこと。でも、あんたのお蔭ですっかり用がすみましたわ。もうこの婆さんも二度とはお伺いしませんから、安心して下さいね。さようなら。」
 女は、それから仙吉の方を見て、
「あんたにも、用さえすめば文句なしだわ。ほほほ。旦那にもよろしくね。」
 仙吉は、その時まで、すっかり肚胆(どぎも)をぬかれたような恰好で、店の上り框に突っ立ち、次郎の方をぽかんと眺めていたが、女にそう言われると、まるでからくり人形のように、ぴょこり頭をさげた。
 次郎は、女が店を出るとすぐ、なるほど学校の通り道に春月亭という料理屋があり、今のはその門口あたりでよく見かける女だった、ということに気がついたのである。

    一二 天神の杜

 さて、さっきから、簾戸(すだれど)一重へだてた茶の間に坐りこんで、聞き耳を立てていたお祖母さんに、店の話声が逐一(ちくいち)聞えていないはずはなかった。お祖母さんは、事の成行しだいでは、自分で店に出て打って、春月亭のお内儀(かみ)と一太刀交える肚になり、半ば腰を浮かしてさえいたのである。ところが、次郎がだしぬけに「酒はいくらでもあるんだ」と叫んで、汲桶(ため)をさげて井戸端の方に走って行ったのを見ると、さすがにちょっと驚いたふうでもあったが、そのまま腰を落ちつけてしまい、それからは、横目でじろじろ店の方を睨んだり、何かひとりでうなずいたりするだけだった。そして、春月亭のお内儀がいよいよ店を出て行ったのがわかると、いかにも皮肉な笑いをうかべて、仕切りの簾をあけ、
「次郎うまくやったね。いい気味だったよ。」
 と、何度も二人にうなずいて見せた。仙吉が、
「しかし、このままではおさまりますまい。かえって藪蛇(やぶへび)になるかも知れませんぜ。」
 と、心配そうに言うと、
「そんな気の弱いことでどうするんだね。渡したものに、まるで酒の気がないというのではあるまいし、文句を言って来たら、こちらの上酒はそんなのでございますって答えてやるまでさ。ねえ、次郎。」
 と、仙吉をたしなめる一方、いかにもそれが次郎の最初からの肚(はら)だったと言わぬはかりの調子だった。
 次郎は、その時までまだ土間に突っ立ったまま、春月亭のお内儀が去った表通りを睨んでいたが、お祖母さんにそう言われると、急にこれまでの興奮からさめてしまった。彼の耳には、お祖母さんの言葉がたまらなく下劣(げれつ)にきこえ、その下劣さが、そのまま自分の行為の下劣さを説明しているということに気がついて、ひやりとするものを感じたのである。
 彼は、何かに驚いたようにお祖母さんの顔を見上げた。それから、そろそろと視線を売場の酒甕の方に転じたが、その眼はしだいに冷たい悲しげな光を帯び、最後に、さっき自分がひねった栓(せん)口に釘付けにされたまま、人形の眼のように動かなくなってしまった。
「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。それに、だいいち思いきりがいいんだよ。仙吉も、こんな時には、少し見習ったらどうだえ。」
 お祖母さんは、次郎の気持にはまるで無頓着らしく、仙吉にそう言うと、すっと頭をひっこめて簾戸をしめた。
 次郎の眼は、その瞬間、稲妻のように動いてお祖母さんのうしろ姿を逐ったが、そのあと、また栓口に釘付けにされてしまい、暑いさかりの土間の空気に、ぴんと氷のように冷たい線を張った。
 彼の動かない眼にひきかえ、彼の頭の中には、たえがたい羞恥(しゅうち)の感情が旋風(せんぷう)のように渦巻いていた。その旋風の中を、朝倉先生夫妻をはじめ、白鳥会で彼が尊敬している生徒たちの顔が、つぎつぎに流れていた。大沢や恭一の顔も、むろんその中にあった。しかし、どの顔よりも彼の心を惑乱させたのは、父俊亮の顔だった。俊亮の顔が浮かんで来たのは、時間からいうとずっと後のことだったが、それは忽ちのうちに他の顔を押しのけ、悲痛なまなざしをもって彼にせまって来るのだった。
(自分は、さっき自分のやったことで、自分自身を辱(はず)かしめただけでなく、父さんをも辱かしめていたのだ。いや、父さんこそは誰よりも大きな辱かしめをうけた人だったのだ。)
 彼の心は、そう気がつくと今までとはちがった意味でうずきはじめた。先生や友人に対する自分の面目、そんなものは、自分が父に与えた恥辱にくらべると物の数ではなかった。春月亭のお内儀のまえに手をついて、陳弁(ちんべん)し謝罪しなければならない父、――思っただけで、彼は身ぶるいした。
「次郎さん、こうなったからには、もう、お祖母さんの仰(おっ)しゃるように、押しづよく出るより手はありませんよ。……しかし、旦那が帰っておいでたら、何と仰しゃいますかね。」
 さっきから、店のあがり框に腰かけて、首をふったり、額を掌で叩いたりして考えこんでいた仙吉は、いかにもなげやった調子で、そう言いながら、ひょいと立ちあがって、売場の方に歩いて行った。そして、酒甕と酒甕との間にさしこんであった物尺(ものさし)をとって上酒の方の甕に突きこみ、中身の分量をはかっていたが、
「あと二升あまり這入っていますが、これはこのままじゃあ、下酒の方にもまわせませんね。かといって、新しい樽がはいるまでには腐ってしまいましょうし、……いっそ捨ててしまいましょうか。」
 次郎は、しかし、それに受け答えする余裕もなかった。彼は妙に気ちがいじみた眼を仙吉になげたあと、がくりと首をたれた。それから、よろけるような足どりで、ふらふらと表通りに出て行った。
 彼の足は、ひとりでに町はずれの方に向かっていた。旧藩時代、城下の第一防禦線をなしていた、幅七八間の川に擬宝珠(ぎぼしゅ)のついた古風な橋がかかって居り、その向こうは一面の青田である。次郎は、橋の袂まで来て、青田の中を真直に貫いている国道の乾(かわ)き切った色を、まぶしそうに眺めていたが、そのまま橋を渡らないで、川沿いに路を左にとった。二丁ほど行くと、樟の大木に囲まれた天神の杜がある。彼はその境内にはいったが、社殿にはぬかずこうともせず、日陰を二三間あるいては立ちどまり、また二三間あるいては立ちどまりした。そのうちに、ふと何か思いついたように、本殿のうしろの、境内で最も大きい樟の木に向かってまっすぐに歩き出した。
 この大樟の根元は、らくに蓆一枚ぐらい敷けるほどの楕円形な空洞になっている。近所の子供たちが、その中で、ままごと遊びなどをしているのを、彼はこれまでによく見かけていたのである。のぞいて見ると、いくぶんしめっぽそうに見えたが、十分ふみならされた枯葉が、ぴったり重なりあって、つやつや光っていた。彼は、その中にはいり、すぐごろりと仰向きにねころんで、両掌(りょうて)を枕にした。
 内部の朽ちた木膚が不規則な円錐形をなして、すぐ顔の上に蔽いかぶさっている。下の方は、すれて滑らかなつやさえ出ているが、上に行くに従って、きめが荒く、さわったらぼろぼろとくずれそうに思える。円錐形の頂上にあたるところは渦巻くようにねじれていて、その奥から、闇が大きな蜘蛛の足のように影をなげている。次郎の眼が、そうした光景を観察したのも、しかし、ほんの一瞬だった。彼は、ねころぶとすぐ、ふかいため息をついて瞼をとじた。そして、心のうずきが、ぴくぴくと眉根を伝わって来るのをじっと我慢した。
「次郎は、そりゃあ、小さい時から頭の仂く子でね。それに、だいいち、思いきりがいいんだよ。」
 お祖母さんがさっき言ったそんな言葉が、そのうちに、彼の記憶を否応(いやおう)なしに遠い過去にねじ向けて行った。今の彼にとっては、そんな言葉にふさわしい彼の過去は、思い出しても身の縮むようなことばかりだった。とりわけ、お祖母さんが大事にかくしていた羊羹の折箱を盗み出して、下駄でふみにじった時の記憶が、膚寒いほどの思いで蘇って来た。彼は、もう仰向けにねていることさえ出来ず、空洞の奥の方に、横向きに身をちぢめ、頭を膝にくっつけるほどに抱えこんだ。
 しんとした境内に、いつから鳴き出したのか、じいじいと蝉の声がきこえていたが、それが彼の耳には、いやな耳鳴のように思えた。
 彼は、とうとう日が暮れるころまでそこを動かなかった。しかし、猛烈な蚊の襲来には、さすがにいたたまれず、全身をかきむしりながら、やっとそこを出て、またあたりをぶらつき出した。見ると、拝殿の近くには、涼みがてらの参詣者らしい浴衣がけの人が、ちらほら動いている。おりおり鈴の音もきこえて来た。彼は、なぜということもなしに、自分も鈴を鳴らしてみたい気になり、石燈籠の近くから参道の石畳をふんで、拝殿のまえに進んだ。
 拝殿は、もう真暗だった。奥の本殿からうすぼんやりと光が流れて、眼のまえの賽銭箱のふちをあるかなきかに浮かしている。次郎はじっとそれに眼をこらした。そのうちに、なぜか涙がひとりでにこみあげて来た。それは、しかし、悔悟の涙といえるようなきびしい涙ではなかった。むしろ、乳母のお浜や、亡くなった母やの思い出にもつながっている、人なつかしい、甘い涙といった方が適当だったのである。彼は、ついさっきまで、胸いっぱい、乾き切った栗のいがでもつめこんでいるような気持でいたのだが、その涙と同時に、何か知ら、胸のうちが温かくぬれて行くような感じになって来たのだった。
 彼は涙をふいて、もう一度本殿の方にじっと瞳をこらした。それから静かに鈴をふり、拍手(かしわで)をして、つつましく頭をたれた。その瞬間、どうしたわけか、ふと、はっきり彼の眼に浮かんで来た人の顔があった。それは宝鏡先生の顔だった。巨大なおどおどしたその顔が、次郎には、今はふしぎになつかしまれた。生徒の見送りをさけて、というよりは、見送る生徒が皆無でありはしないかを恐れて、こっそり駅を立ったであろう先生の淋しい心が、何かしみじみとした気持に彼をさそいこむのだった。
 参拝を終えて参道を鳥居の方に歩きながら、彼は、ふと、人間の弱さということを考えた。それは、彼がこれまでに、まるで考えたことのない問題ではなかった。しかし、この時ほど真実味をもって彼の胸をうったこともなかったのである。これまでに彼が考えて来た人間の弱さというのは、普通に謂ゆる意志薄弱とか、臆病とかいったような意味以上のものではなかった。従って彼は、自分をさほどに弱い人間だとは思っていず、たとえば白鳥会などで、自分が自分に捉われていることに気がついたり、自分を制しきれないでつい荒っぽい言動に出たりしても、それを自分が弱いせいだとは少しも考えていなかったのである。彼は、弱い人間の標本として、よく宝鏡先生を思いうかべていた。そのために、あとでは、却ってある意味で先生に心をひかれるようにさえなったくらいなのである。しかし、今の彼の気持は、全くべつだった。
(人間は弱い。宝鏡先生も弱いが、自分もそれに劣らず弱い。もともと強い人間なんて、この世の中には一人もいないのではないか。かりに強い人間がいるとしても、それはその人間が強いのではなくて、何かもっと大きな力がその奥に仂いているからにちがいない。)
 彼の考えは、いつの間にか神というものにぶっつかっていた。それは、彼がたった今拝んだ天神様とは限らない、眼に見えぬ秘密な力だった。むろん、それが彼の胸深く信仰という形をとるまでには、まだ非常に距離があるらしかった。しかし、それは決して概念の戯(たわむ)れではなかった。彼は少くとも真に彼自身の弱さを知り、心からへり下りたい気持になっていたのである。それは、彼が中学に入学して間もないころ、「人に愛される喜び」から「人を愛する喜び」への転機において経験したものよりも、はるかに純粋な経験だった。前の経験では、それが彼の健気な道心の発露であったとはいえ、その中にはまだ作為の跡があり、自負や功名心がいくぶん手伝っていなかったとはいえなかった。今の次郎には、そうしたまじり気は少しもなかった。彼はただひしひしと自分の弱さを感じていた。そして宝鏡先生は、もはや一段高い立場から同情される人ではなくて、同じ弱い人間として、心から親しんで行きたい人になっていたのである。そこには、もう、「愛されたい」とか「愛したい」とかいうような、自分自身を価値づけた立場は少しも残されていなかった。在るものはただ大いなるものにへり下る心だけであり、そのへり下る心から、宝鏡先生のような弱い心の人が、悲しいまでに彼に親しまれて来たのである。
 この純粋な気持は、彼の胸をふしぎに爽(さわ)やかにした。同時に彼は、一刻も早く父のまえに身をなげ出して謝りたい気持になった。その気持には、もう何のはからいもなかったのである。
(そうだ。父さんは、もうとうに帰って来ておいでだろう。ぐずぐずしては居れない。)
 彼は、急いで鳥居をくぐり、ふたたび川沿いの路に出たが、向う岸の暗い青田から水を渡って吹いて来る風は彼の額に凉しかった。彼は、いくぶんはずむような足どりで家に急いだ。

    一三 日よけ

 帰ってみると、俊亮は默然として茶の間に坐っていた。二三冊の帳簿をまえにひろげ、団扇も使わないで、じっと何か考えているふうだったが、次郎を見ると、すぐ台所の方を向いて言った。
「お芳、次郎が帰って来たよ。」
 台所では、お芳がもう食事のあと片づけをしているところだったが、
「あら、そう。……次郎ちゃん、ひもじかったでしょう。どこへ行ってたの。」
 次郎は、二人の言葉から、自分のいなかった間の家の様子を直感して、うれしいような悲しいような気持になった。彼は、しかし、すぐ台所に行く気にはなれず、そのまま俊亮のまえにかしこまって首をたれた。
「次郎ちゃん、ご飯は?」
 お芳が台所から声をかけた。
「あとでいいです。」
 次郎は首をたれたまま答えた。
「どうしたんだ。早くたべたらどうだ。」
 俊亮は、そう言って、ひろげていた帳簿をばたばたとたたんだが、すぐ団扇をもって座敷の方に立って行った。
 次郎は、ひとり取残されて、もじもじしながら、台所の方を見た。するとお芳が妙に意味ありげな眼付をしてうなずいて見せたので、思いきって、ちゃぶ台のそばに坐ることにした。
「お祖母さんは?」
 次郎は、お芳に飯を盛ってもらいながら、たずねた。
「さっき、次郎ちゃんを探して来るって、俊ちゃんと二人でお出かけになったんだよ。たぶん橋の方だと思うけれど。……次郎ちゃんは、どちらからお帰り。」
「僕、橋の方から帰って来たんです。天神様にいたんですけれど。」
「じゃあ、お祖母さんは橋を渡って向こうにいらしったのかも知れないわ。」
 それからしばらく、どちらからも口をきかなかった。次郎は、たべかけた飯椀を急に下に置き、箸を持った手を膝にのせ、何か思案していたが、
「僕、今日はお父さんに済まないことをしちまったんです。」
「ええ……」
 と、お芳は、あいまいな返事をしたが、しばらく間を置いて、
「実はお父さんも、仙吉にその話をおききになって、そりゃあびっくりなすったの。それに、お祖母さんが、今日はめずらしく次郎ちゃんの肩をもって、かえってお父さんが気がきかないように仰しゃるものだから、よけいいけなかったわ。お父さんは、そんなことをいいことのように次郎ちゃんに思わせるのが恐ろしいことだと仰しゃってね。あたし、今日は、ほんとにどうなることかと思ったわ。お父さんが、あんなに真青な顔をしてお祖母さんと言いあいをなさるなんて、全くはじめてですものね。でも、もう大丈夫だわ。お祖母さんも、あとでは、自分が悪かったって、折れていらっしったようだから。」
 次郎は、じっと考えこんだ。それから、思い出したように飯をかきこみ、すぐ茶にしたが、
「しかし、春月亭は、まだあれっきりでしょう。」
「ええ、でも、その方はお父さんがご自分で何とかなさるおつもりらしいわ。ひょっとしたら、今夜にでもお出かけになるんじゃないか知ら。」
 次郎は、また考えこんだ。すると、お芳はめずらしく感情のこもった声で、
「次郎ちゃんは、もうちっとも心配することないわ。お父さんは、こんなことになるのも、全く自分が悪いからだって仰しゃっているんだから。」
 次郎の小鼻がぴくぴくと動き、ちゃぶ台のふちに、大きな涙がはねた。それから、しばらくして。
「僕……僕……」
 と、どもるように言って立ち上ったが、両腕で眼をこすり、こすり、座敷に走りこんで行った。
 俊亮は、その時、柱にもたれて向こうむきに坐り、しずかに団扇をつかっていたが、次郎が、自分の横にくずれるように坐ったのを見ると、少し体をねじ向けて、いかにも落ちついた声で言った。
「泣くことはない。自分でいいことをしたとさえ思っていなけりゃ、それでいいんだ。」
 次郎は、しかし、そう言われると、いよいよ涙がとまらなかった。彼は、何か言おうとしては、しゃくりあげ、縁板に突っぱった両手をかわるがわるあげては、眼をこするだけだった。
「父さんは、お前があんなことをして得意になってやしないかと、それだけが心配だったんだよ。しかし、どっかに出ていったきり、いつまでも帰って来ないというので、そうでなかったことがわかって、実は、ほっとしていたところなんだ。お前も子供のころとはだいぶちがって来たようだね。」
 俊亮は、そう言って、さびしく微笑した。それからちょっと考えたあと、
「父さんも、しかし、今日はいろいろ考えたよ。考えているうちに、世の中というものは、自分だけが貧乏に負けなけりゃあ、それでいいというものではない、ということがよくわかった。それに、もう一つ、――これはもっと大事なことだが、――父さんには、これまで非常に弱いところが一つあったということに気がついたんだ。それは、他人に対する義理人情にばかり気をとられて、かんじんの自分の親子に対する義理人情を忘れていたということだ。」
「父さん!」
 と、次郎はしぼるような声で叫んで、涙にぬれた顔をあげた。
「いや、忘れていたと言っちゃあ、言いすぎるかも知れん。実際忘れちゃいなかったんだからね。しかし、忘れたような顔はたしかにしていた。忘れたような顔をしていりゃあ、みんな自分と同じようにのんきになってくれるだろうぐらいの考えが、どっかにあったんだ。今から考えると、それがいけなかった。それが私の間違いだった。自分では強いつもりで、実はそれが私の非常に弱いところだったんだ。」
 俊亮がそんな調子でものを言うのは珍しかった。次郎は、いくぶんかわきかけた眼を見張って、俊亮を見つめた。
「しかし、今日からは父さんも考え直す。考え直してみたところで、貧乏が急にどうにもなるものではないが、これまでのように、お前たちの苦労を忘れているような顔はしないつもりだ。日除の必要のある草木には、やはり日除をしてやる方がいいんだからね。」
 次郎は、何か痛いものを胸に感じて、思わず首をたれた。
 彼は、しかし、それよりも、さっきからの俊亮の言葉に、ある不安を感じ、それを問いただしてみたくなっていた。不安というのは、父が他人のことよりも家族のことを大切に思ってくれるのはいいとして、それを実際の態度にどうあらわして行くだろうかということだった。次郎の頭には、さしあたって春月亭の問題がひっかかっていたのである。
(まさかとは思うが、父さんは悪いと知りつつ、あれをあのままにして置くつもりではなかろうか。もしそうだとすると、父さんは自分がこれまで尊敬して来た父さんではなくなってしまうのだ。)
 そう思って、多少だしぬけだったが、彼は思いきってたずねた。
「父さん、春月亭の方はどうしたらいいんでしょう。」
「春月亭か。そりゃあ、私がいいようにするよ。」
「いいようにって?」
「そんなことは、もうお前が心配せんでもいい。お前は、なるだけ早く日除のいらない人間になる工夫をすることだよ。」
 俊亮は笑って答えた。次郎は、しかし、やはり不安だった。
「僕、あやまりに行って来ようかと思ってます。」
「お前が? 春月亭に? 春月亭は料埋屋だよ。」
「料理屋にだって、あやまりに行くんならいいでしょう。僕、向こうから来ないうちがいいと思うんです。」
「うむ……」
 と、俊亮は、穴のあくほど次郎の顔を見つめていたが、
「次郎、お前はほんとうに心からそう思っているのか。」
 次郎は、そう念を押されて、ちょっとたじろいだふうだったが、少し眼を伏せて、
「僕、あやまらなきゃならないと思っているんです。春月亭も悪いんですが、僕のやったことも悪いんです。あんなこと卑怯です。卑怯なことをして知らん顔をするのは、なお卑怯です。」
「うむ、その通りだ。お前もそこまで考えるようになれば、もう日除もいらんよ。じゃあ行って来るか。」
「ええ、行って来ます。」
 次郎は、父の本心がわかったうえに、ほめてまでもらったので、初陣(ういじん)にでも臨むような、わくわくする気持で立ち上りかけた。俊亮は、しかし、彼を手で制(せい)しながら、
「まあ、まて。そう急いで行かなくてもいい。さっき仙吉をやって、あの酒はそのまま使わないで置いてもらうように頼んであるんだから。実は、あすの朝、向こうの忙しくない時に、私が行ってあやまるつもりでいたんだ。」
「僕は、父さんにあやまって貰いたくないんです。」
「どうして?」
「悪かったのは僕です。それに、父さんが、あんな女に――」
 次郎はうつむいて言葉をとぎらした。俊亮も、むろん、すぐ次郎の気持を察して、ちょっとしんみりしたが、わざと、とぼけたように、
「あんな女って、お内儀だろう。父さんがあの人にあやまってはいけないのかい。」
「だって――」
 次郎は適当な言葉が見つからなかった。俊亮は、しばらく答をまつように次郎の顔を見ていたが、
「次郎。」
 と、あまり高くはない、しかし、おさえつけるような声で、言った。
「自分に落度があったら、相手が誰であろうと、あやまるのが道だ。相手次第で、あやまったり、あやまらなかったりするようでは、まだほんとうに自分の非を知っているとはいえない。そりゃあ、お前が父さんにあやまらせたくない気持は、よくわかる。だが、あんな女だからあやまらせたくないというんだと、少し変だぞ。」
 次郎は、俊亮の言った意味はよくわかった。しかし、春月亭のお内儀に父を謝罪させる気にはまだどうしてもなれなかった。
「でも――」
 と、彼は少し口をとがらして、
「父さんには、ちっとも悪いことないんです。」
「うむ。……しかし、それはお前の考えることだ。むろん、お前はそう考えてもいい。だが、店のことは何もかも私の責任だからね。」
「だって、あれは肥田がつかった金の代りだっていうんじゃありませんか。」
「肥田は私の番頭だったんだ。それは、お前が私の息子であるのと同じさ。」
 次郎の感情は戸惑(とまど)いした。彼は、父のそんな言葉に、父らしい父を見出して、いつも頭がさがり、そのために一層懐かしくも思うのだったが、春月亭のお内儀にあやまらせたくない気持をそれで引っこめてしまう気にはなれなかったのである。
 俊亮は、次郎のまごついている顔を見て微笑した。それから庭下駄をつっかけて、狭い庭を二三度往きかえりしていたが、
「次郎には、やはりまだ当分日除の必要があるようだ。お前ひとりで春月亭に行くのは、ちょっと危ないね。あすは父さんと二人であやまりに行こう。」
 次郎は、もう何も言うことが出来なかった。
 その晩、床についてから、次郎の頭に浮かんで来たのは、やはり、例の「無計画の計画」という言葉だった。そして「運命」と「愛」と「永遠」とは、この言葉の意味の生長と共に、そろそろと彼の心の中で接近しつつあったかのようであった。

    一四 幻滅

 翌日、俊亮と次郎とが春月亭をたずねたのは午前十時ごろだった。
 白い襦袢(じゅばん)と赤い湯巻だけを身につけて、玄関で拭き掃除をしている女がいたので、俊亮がお内儀さんに取りつぐように頼むと、女は、中学の制服をつけた次郎をけげんそうに見ながら、
「お内儀さんにご用でしたら、帳場の方におまわり下さいね。」
 と、いやに「ね」に力をいれ、ここはお前さんたちの出はいりするところではありませんよ、と言わぬばかりの冷たい調子でこたえ、そのまま雑巾(ぞうきん)をバケツの中でざぶざぶ洗い出した。
 俊亮が、当惑したような顔をして、
「帳場の方は、どこから這入るんかね。」
 と、玄関の横の格子窓に眼をやりながら、たずねると、
「門を出て左っ側ですよ。」
 と、女はもう雑巾を廊下にひろげて、四つんばいになっていた。
 俊亮は、苦笑しながら、門を出た。次郎もそのあとについて行ったが、何かを蹴とばしたいような、それでいて心細いような気持だった。
 帳場の入口は、路地をちょっと曲ったところにあった。戸は開けっ放しになっていたが、中にはいると、なまぐさい匂いがむっと鼻をついた。
 森閑としてどこにも人気がない。蠅が一しきり大鍋の上にまい立ったが、またすぐ静かになった。
「ごめん!」
 俊亮が、奥の方に向かって大声でどなると、
「だあれ。」
 と、少し甘ったるい声がして、十四五の女の子が、これも白い襦袢と赤い湯巻だけで出て来た。頸から上に濃く白粉をぬったのが、まだらにはげている。次郎は、ひとりでに顔をそむけてしまった。
「お内儀さんは? ――いるのかい。」
「ええ、――でも、今、ねているの。」
「本田が来たって言っておくれ。」
「本田さん?」
「そう、酒屋の本田って言えば、わかるよ。」
「ああ、あの酒屋さん――」
 女の子は急にとんきょうな声を出して、二人を見くらべていたが、最後に、次郎を尻目にかけるようにして、奥に走りこんだ。
 二人が間もなく案内されたのは、帳場からちょっと廊下をあるいた、茶の間とも座敷ともつかない部屋だった。
「いらっしゃいまし。」
 お内儀さんは、変にかしこまった調子で二人を迎えた。浴衣に伊達巻をしめたまま、畳のうえに横になっていたものらしく、朱塗の木枕だけが、部屋の隅っこに押しやってある。
「せっかくおやすみのところをお邪魔でした。」
 俊亮も、いくぶん切口上で言って、敷かれていた座蒲団の上に坐った。次郎は座蒲団を前にして坐っている。
「坊ちゃんもお敷きなさいまし、どうぞ。」
 と、お内儀さんは、いよいよ冷たい丁寧さである。次郎は、しかし座蒲団をしかなかった。
 しばらく沈默がつづいたあと、俊亮が口をきった。いかにも無造作な調子である。
「昨日は、私の留守中、申訳ないことをいたしました。今日はそのおわびに上ったんです。」
「それは、わざわざ、どうも。」
 お内儀さんは、そう言ったきり、にこりともしない。そのあと相手がどう出るか、それがわかったうえでなければ、迂濶(うかつ)に笑顔は見せられない、といった態度である。
「この子も大変後悔していまして、自分でもおわびしたいと言うものですから、いっしょにつれて来ましたようなわけで。」
「それは感心でございますね。今どきの書生さんにはお珍らしい。」
 次郎には、「書生さん」という言葉が聞きなれない言葉だった。彼は、わけもなく、それに侮辱を感じたが、あやまる機会を失ってはならない、という気もして、膝の上にのせた両手をもぞもぞ動かしながら、思いきって口をきこうとした。しかし、お内儀さんは、次郎のそんな様子には無頓着なように、ひょいとうしろ向きになって、茶棚の袋戸をあけ、中から一本の燗徳利を出して、それを畳の上に置いた。そしてあらためて俊亮の方に向きなおったが、その顔にはうす笑いが浮かんでいた。次郎の張りきった気持は、それで針を刺(さ)された風船球のようにしぼんでしまった。
「おわびしたら、どうだ。」
 俊亮が微笑をふくんだ眼で次郎を見た。次郎は、しかし、もうつめたい眼をしてお内儀を見ているだけである。すると、お内儀さんは、
「ほっほっほっ。」
 と、急にわざとらしい空っぽな笑声を立て、
「私は、こんな小っちゃな坊ちゃんに、何もお芝居めいてあやまって貰いたくはありませんよ。それよりか、このお酒のおかげで台なしになった春月亭の暖簾(のれん)を、どうして下さるおつもりなのか、それがお伺いしたいんです。」
「あの酒を、もうおつかいでしたか。」
「つかいましたとも。まさか酒屋さんがつかって悪いお酒をお売りになろうとは思っていませんからね。」
「おつかいにならんように、そう言ってあげたはずですが。」
「私の方のお客は、日が暮れてからばかりみえるとは限りませんよ。」
「それは、いよいよ、すまないことでした。」
 俊亮はそう言って、ちょっと眼を落した。お内儀さんは、「それでどうしてくれるんだ」というような眼付をして、俊亮をまともに見つめていたが、俊亮が、そのあと、いっこう口をきかないので、たまりかねたように、
「ねえ、本田さん。」
 と、燗徳利を自分の膝のまえに引きよせ、
「あたしがこのためにどんな赤恥をかいたか、ひととおりお耳に入れて置きますから、ようくきいて置いて下さいよ。昨日は、永年ごひいきのお客が見えましてね、それも久しぶりのお友達と御夕食をめしあがろうというのですよ。あたし、まだお吸物も差上げないうちにお呼びだものですから、何事かと思ってお座敷に出てみますと、そのお客さん、すました顔で私にお盃を下すって、わざわざご自分でついで下さりながら、仰しゃることが変じゃありませんか。お前もこのごろ少し焼きがまわったようだねって。あたし、何のことだかわからなくって、盃を手にもったままご挨拶に困っていますと、今度は、盃はさっさとのんで返すもんだよ、と仰しゃる。そこで、あたしがぐっと飲みほしたっていうわけでございますがね。」
 俊亮は、しかし、いっこうに驚いたようなふうがない。
「なるほど。」
 と、彼は二度ほど軽くうなずいて見せたきりである。お内儀さんは、それがぐっと癪にさわったらしく、
「本田さん!」
 と、燗徳利をわしづかみにして膝を乗り出しながら、
「そのお酒というのがこの銚子のお酒なんですよ。この中にはあんたのお店からいただいたお酒がはいっているんですよ。おわかりでしょうね。」
「ええ、多分そうだろうと思っていました。とんだご災難でしたね。……お気の毒です。」
 俊亮は、まじめくさってそう言ったが、それでお内儀さんの機嫌はいよいよ険悪になった。
「あんた、わざわざ、あたしをばかにしにお出でになったんではありますまいね。」
「むろん、そんなことはありません。」
「じゃあ、いったい、災難とか、お気の毒とかで済ましていられますかね。あたしにこんな赤恥をかかしたそもそものおこりは、どなたなんでしょうね。」
「それは、この子がつい間違ったことをし出かしたからですよ。それも、もとをただせば店の不始末からですがね。それで、実は、二人そろっておわびに上ったわけなんですが……」
 次郎は、父はどうして番頭の肥田のことを言い出さないのだろう、肥田のことを言い出せば、お内儀はぐうの音も出ないだろうのに、と思った。ところが、次郎の驚いたことには、肥田のことは、あべこべにお内儀の方から言い出したのだった。
「ふん、店の不始末だなんて、それで遠まわしに肥田さんのことが仰しゃりたいんでしょう。ようくわかっていますよ。だけど、ねえ、本田さん、もともと肥田さんはこちらからお願いして遊んでいただいたわけではありませんよ。お酒の預証なんかで遊んでもらっちゃあ、だいいち、こちらが迷惑しますし、およしになったらいかがですかって、あたし何度もにがいことを申しあげたくらいですからね。これだけはご承知願っておきますよ。」
「いや、肥田のやったことは、私のやったことも同然ですから、今さら、そんなことをとやかく言ってみたところで仕方のないことです。それよりか、どうでしょう、済んだことは済んだこととして、この子もせっかくあやまりたいと言っているのですから、一応あやまらしてお気持をさっぱりなすって下すっちゃあ。」
「そんなにご丁寧にしていただくには及びませんよ。わるうございましたっていうお言葉だけを、何べん承ったところで、それで水が酒になるものでもなし、きずのついた暖簾がもとどおりになるものでもありませんからね。それに第一、あたしは泣きおとしの手っていうのが大きらいでございましてね。世間様には、よくそんな手をおつかいになる方がありますけれど。ほほほ。」
 俊亮もさすがにちょっと不愉快な顔をしたが、しいて笑いにまぎらして窓のそとを見た。お内儀さんは、その様子を、睨みつけるように見ていたが、
「本田さん――」
 と、いやに調子をおとして、
「そうすると、今日わざわざおいで下すったのは、それだけのご用だったんですね。」
「ええ、実はこの子が、ひとりであやまりにあがりたいと言ったのですが、それじゃあ私も心細い気がしたもんですから……」
「ふふふ。」
 お内儀さんは、鼻の先で笑って、そっぽを向いた。そして長煙管にたばこをつめて手荒にマッチをすり、一服吸ってぷうっと吹き出したあと、
「そりゃあ、この坊ちゃんがどうあってもあやまりたいと仰しゃるのを、あたし、むりにおとめはいたしませんよ。それでこの家の根太(ねだ)にまさかひびも入りますまいからね。ご随意にせりふの一つぐらい言ってご覧になるのも結構でしょうよ。だけど、お芝居はお芝居、ほんとうの世間はほんとうの世間と、ちゃんとけじめだけはつけていただきたいものでございますね。」
 次郎は、もうさっきから、あやまるどころか、座蒲団をつかんでなげつけたいような気になり、何度も父の横顔をのぞいては、その機会をつかもうとしていた。しかし、父が、たまに苦笑するだけでまるで怒りというものを忘れたような顔をしていたので、そのたびに、彼はふるえる膝を懸命に両手でおさえて、我慢していたのである。ところが、今度は、もう父の横顔をのぞいて見る余裕さえ彼にはなかった。彼は思わず右手で座蒲団の端をつかみ、半ば腰をうかして唇をふるわせながら、お内儀さんをにらんだ。
 お内儀さんは、しかし、もうその時に存分に毒づいたあとの小気味よさを見せびらかすかのように、窓の方を向いて、煙管をくわえていた。そして、俊亮が、瞬間、次郎の方に手を突き出して彼を制したのさえ、気がついていないかのようであった。
 俊亮は、今までとはすっかり調子の変った、底力のある声で言った。
「お内儀さん、私は、この子に人間の道だけはふませたいと思って、せっかく自分でもあやまりたいと言うものですから、いっしょにつれて来たんですが、その気持がわかって下さらなきゃあ、いたし方ありません。勘定ずくの取引だけのことなら、何もこの子をつれて来るには及ばなかったんです。いや、私がわざわざ足を運ぶにも及ばなかったんです。あんたの方から何とかお話があるまで待っていりゃあ、それでよかったはずですからね。とにかく、この子は帰すことにしましょう。……じゃあ、次郎、さきにお帰り。」
「父さんは、まだいるんですか。」
 と、次郎は、喰ってかかるように、少し涙のたまった眼をしばたたきながら、言った。
「ああ、父さんには、もう少し用がある。」
 次郎は、しかし、動こうとしない。
「どうしたんだ、さっさとお帰り。」
「僕、父さんといっしょに帰るんです。」
「どうして?……用のないものは、さっさと帰る方がいいんだ。」
 次郎は返事をしないで、じっとお内儀さんの方を見た。お内儀さんは、何か自分に解(げ)せないものを二人の対話の中に感じて、注意ぶかく二人を見くらべている。
「ぐずぐずしないで、さっさと帰るんだ。」
 俊亮が叱るように言った。
「父さんも、もうここには用はないんでしょう。」
「あるんだ。あると言っているんじゃないか。」
「だって、それは、家で待ってたっていいような用じゃありませんか。」
 俊亮は苦笑した。苦笑しながら、ちらっとお内儀さんの顔を見ると、お内儀さんはすごい眼をして次郎をねめつけていた。俊亮はすぐ真顔になって、
「そんなことをお前が言うものじゃない。お前は父さんが言うとおりに、だまって帰ればいいんだ。世の中は右でなけりゃ、すぐ左というものではないからな。……さあ、お帰り。」
 次郎はぷいと立ち上り、お内儀さんには眼もくれないで、あらあらしく廊下に出て行った。
 人気のない、いやな匂いのする土間をとおって外に出ると、道心をふみにじられた憤りと、けがらわしさの感じとが、焼きつくような日光の中で、急に奔騰するのを覚えた。それは、ゆうべ天神の杜を出た時のあのしみじみとした気持とは、あまりにもへだたりのある気持だった。彼は、春月亭の門の前を通る時ペッと唾を吐いたが、お内儀の部屋でお茶一杯ものまされず、からからになっていた口からは、ほとんど何もとび出さなかった。
 歩いて行くうちに、白鳥会で上級生たちの口からおりおり聞かされた「幻滅」という言葉が、ふと頭に浮かんで来た。彼は、その言葉の意味が今はじめてはっきりわかったような気がした。そして大人の作っているいわゆる「実社会」というものが、急に自分たちではどうにもならない、不真面目な世界のように思われて来たのである。
(春月亭のお内儀なんて、特別の人間だ。)
 彼は、一応そうも思ってみた。しかし、その考えは、なぜか、彼の意識の表面を軽く素通りするだけだった。彼の心ほ、すぐそのあとから、ひとりでにお内儀をとおして「実社会」の姿を見ていた。実利のまえには、人間の誠実をむざんにふみにじって顧みない、その冷酷な姿を見ていたのである。
 しかも、彼の疑惑は、――それはさほどに深刻ではなかったかも知れないが、――いつの間にか、父に対してすら向けられていた。彼にとっては、父が彼といっしょに帰らなかったのは、不正と妥協するためだ、とよりほかには考えられなかったのである。
「世の中は、右でなければ、すぐ左というものではないからな。」
 父が最後に言ったそんな言葉が、その時彼には思い出されていた。
(幻滅だ、何もかも幻滅だ。)
 彼は家に帰りつくと、すぐ二階の自分の机のまえにひっくりかえって、心の中で、何度もそうくりかえした。そして、昨日天神の杜の樟(くす)の洞穴の中であれほど苦しんだ自分が、みじめにも腹立たしくも感じられた。この感じは、やがて彼を過去へとさそいこみ、彼自身の永い間の努力の味気なさを感ぜしめた。
 いつの間にか、彼の眼には、春月亭のお内儀といっしょに、お祖母さんの顔がうかんでいた。そして、その二つの顔をとおして、彼は誠実のとおらない「実社会」の姿を、いよいよはっきり見るような気がしたのである。
(白鳥会が何だ。どうせ人間の誠実なんて、泡みたようなものではないか。)
 彼は、しまいには、そんな考えにさえなって行くのだった。しかし、彼は、その考えだけは急いで打消した。というのは、その考えの奥から、朝倉先生の深く澄んだ眼が、誠実そのもののように彼をのぞいていたからである。
 彼は、ふみこんではならない神聖な祭壇に土足をかけたような気がして、われ知らずはね起き、きちんと机の前に坐った。と、ちょうどその時、俊亮が帰って来たらしく、すぐ下の店で仙吉と何か話すのがきこえて来た。次郎は耳をそばだてた。
「へえ、そうですか。私なら、せいぜい半金ぐらいでぶちきって来ましたのに。」
「そうも行くまい。どうせあの酒は役に立つまいからね。」
「しかし、向こうじゃ、煮物のさし酒ぐらいには役に立てるでしょうよ。」
「そりゃそうかも知れんが、そこまでこまかく考えんでもいいさ。」
「じゃあ、こちらに引きとったらどうでしょう。」
「引きとるって、あの酒をかい。」
「ええ。」
「引きとってどうする。」
「どうするってこともありませんが……」
「こちらで捨てるぐらいなら、向こうで役に立ててもらった方がいいよ。」
「でも、それじゃあ癪(しゃく)ですねえ。」
「ふっふっふっ、そんなけちな腹は立てん方がいい。次郎に、世の中にはあんな人間もいるっていうことを教えてもらったと思やあ、ありがたいくらいなもんだよ。」
 次郎は、はっとしたように、首をもたげた。
「で、どうでした。やっぱり次郎さんがあやまりなすったんですか。」
「あやまろうにも向こうがてんで相手にしないんだ。芝居だっていうんだよ。尤も、最初にこちらの肚を話してやりゃあ、お内儀も安心して、あいそよく次郎を相手にしてくれたかも知れないがね。しかし、それで次郎をごまかしてしまっちゃせっかくのあいつの真心が恥をかくよ。」
「なあるほど。しかし、次郎さんがあやまらなくてすんだのはよかったですね。実際、あんな奴にあやまるのは、もったいないですよ。」
「はっはっはっ。まあ、しかし、とにかくこれですんだんだ。ついでに店も、ここいらでおしまいにしようかね。お前にいつまでもいやな苦労をかけてもすまないし。」
「店を?……そうですか。」
 と、仙吉の声は、急に低くなった。
「いずれしまうからには、一日も早い方がいい。仕入の方も一つ二つ話をかけていたところだが、今日にも断っておこう。店の方は、ご苦労ついでに、お前の手でしめくくりをつけてみてくれ。どうせ大したこともあるまいが。」
「承知しました。」
「じゃあ、私は、この足で一二相談したいところをまわってくるから、頼むよ。」
 そう言って、俊亮は表の方に行きかけたらしかったが、
「うちの者には、私から話すから、そのつもりでね。それから、次郎はどうした、帰って来たのかね。」
「ええ、二階においででしょう。」
「そうか。……じゃあ、行って来る。」
 次郎は、その時、父のあとを追いかけて、何ということなしにわびたい気持だった。さっき父を疑ってみた気持などもうどこにも残っていなかった。そして、自分はやっぱり素直でない、素直でない頭で、物ごとをひねりまわして考え過ぎるんだ、という気がした。

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