次郎物語
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著者名:下村湖人 

     *

 次郎の天性――くわしくいうと、彼が生れ落ちたときに、天から授かった生命の生地のままのすがた――が、どのようなものであったかは、むろん誰にもわかるはずがない。それは、おそらく、神様だけの胸に納まっていることであろう。およそわれわれが個々の人間の性質について知りうることは、その人間が、この世の空気を多少とも呼吸したあとのことなのである。そして人間は空気とともに運命をも呼吸するものだが、その運命は、人間の天性を決して生地のままにはしておかないものなのだ。
 とりわけ、次郎はかなりきびしい運命の持主であった。しかもその運命は、生れてすぐの子供にとってはほとんどその生活の全部だともいうべき母乳が、母の乳房に十分めぐまれていなかったという事実にはじまったのである。もっとも、母乳の欠乏というようなことは、何も取立てて言うほど珍しいことではなく、世間には母の思慮深い処置によって、それを運命というほどの運命と感じないで育って行く子供も、ずいぶん多いのである。だから、次郎の場合、もし母の無思慮、というよりは、その生半可な教育意識が、乳の欠乏ということをきっかけに、つぎからつぎへと母としての不自然さの罪を犯してさえいなかったら、次郎の運命はあるいは全くちがったものになっていたのかも知れない。そう考えると、彼のきびしい運命は、母の乳房からはじまったと言うよりは、その乳房の二三寸奥の方からはじまったと言う方がおそらく正しいであろう。
 ともかくも、お民のような母をもった子供が、生れ落ちた時に授かった天性をそのまま伸ばしていけるものかどうかは、すこぶる疑わしいのである。われわれは、これまで、次郎がしばしば怒り、悲しみ、あざ笑い、歎き、そしてさからうのを見て来た。また、時としては、疑い、悶え、省み、恥じ、そして考えこむ姿にも接して来た。彼は、勇敢であると同時に怯懦(きょうだ)であり、正直を愛すると同時に策謀を好む少年であるかにさえ思われたのである。あるいは、そういうのが彼の本来の面目であったかもしれぬ。そして運命がたえずそれに糧を与え、彼という人間を一層彼らしく育てあげていたとも言えるであろう。しかし、また、彼が天から授かった性質はもっと純粋でなごやかなものであったのに、運命がそれをゆがめ、こねまわして、遂に彼ならぬ彼を作りあげてしまった、と言えないこともないのである。だが、そうしたことの判断は、所詮(しょせん)、神様だけにおまかせするより仕方がない。かりにその判断が我々に下せたとしても、過去の運命というものが我々の手で帳消しできない以上、また、かりに帳消し出来たとしても、帳消しにすることによって次郎が現在以上の人間になれると請合(うけあ)えない以上、今さらとやかく詮議(せんぎ)立てしてみても、はじまらないことなのである。
 次郎について、われわれの知っておかなければならないもっと大事なことは、神のみが知る彼の天性が、彼のきびしい運命と取っ組みあって行くうちに、彼が一個の生命としての健全さを失いはしなかったか、ということである。彼の天性が、天性のまま伸びたかどうかは、「永遠」に向かって流れて行く生命の立場からは、元来大した問題ではない。生命の流れは「運命」の高低によって、あるいは泡立ちもしようし、あるいは迂回(うかい)もしよう。また、時としては、真暗な洞穴(ほらあな)をくぐる水ともなろう。かりに、最初東に向かって流れ出したのが西に向きをかえたとしても、途中で滞(とどこう)りも涸(か)れもせず、そして、運命の岩盤の底からでさえも新しい水を誘い出して流れに力を加え、たゆむことなく「永遠」の海に向かって流れることをやめないならば、それは一個の生命として健全さを失ったものとは言えないであろう。大事なのは、次郎が果してそうした健全な生命の持主であったかどうかということであるが、その点では、われわれは彼をある程度信用してもよかったようである。
 次郎は、よかれあしかれ、3たえす何かの喜びを求める少年であった。そして求めるためには、決して立ちどまることを肯(がえ)んじない生命の持主であった。彼は、彼の幼年時代を、すべての健康な子供がそうであるように、ひとびとに愛せられる喜びを求めて戦って来た。そして求めた愛が拒(こば)まれると、彼の戦いは相手に対する反抗や、虚偽の言動となり、また第三者に対する嫉妬ともなって現れたのであるが、それはむしろ、求むる心の熾烈(しれつ)さを示すものに外ならなかったのである。――求むる心は水の流れと何様、その流れが急であればあるほど、障碍にぶつかって激するものだが、このことは、幼い子供をもつ母親にとって忘れられてはならないことなのである。それは、幼い子供が何よりも烈しく求めるものは母の愛だからである。次郎の母が、次郎が十一歳になるまで、このことに気がつかなかったということは、次郎にとっても、母自身にとっても、何という不幸なことであったろう。しかし、回時に、その不幸が次郎の求むる心を打ちひしぐほどのものでなかったということは、彼の生命の健全さにとって、何という仕合わせなことであったろう。
 次郎が、ついに母の至純な愛をかち得たときの喜びは、それが久しく拒まれていたものだっただけに、限りなく大きいものであった。この時の彼の喜びこそ、彼を「永遠」への門に近づける第一歩だったとも言えるであろう。彼の愛を求むる心の態度は、それを一転機として飛躍的に深まっていった。彼は、それ以来、もう完全に一箇の自然児ではなくなったのである。そして、間もなく、母の死という悲しい運命によって、無限に尊いその愛が失われた時でさえも、彼は、その死を乗りこえて母の愛を信ずることが出来たのである。
 むろん、彼がこうした戦いを戦いぬく力は、彼自身の内部だけにあったとは言えない。もし、彼を里子として育ててくれた乳母のお浜の、ほとんど盲目的だとも思われるほどの芳醇(ほうじゅん)な愛や、彼の父俊亮の、聰明(そうめい)で、しかも素朴(そぼく)さを失わない奥深い愛が、いつも彼の背後から彼を支えていてくれなかったならば、そして、また、彼が物心づくころから、しばしば入りびたりになり、あとでは、生家の没落のために、ただ一人その家に預けられさえした正木一家――母の実家――ののびのびとした温い空気が、彼を包んでいてくれなかったならば、彼の求めてやまない魂も、あるいは何かの機会にひしゃげてしまっていたのかもしれない。人間は、全然食物のないところでは生きることが出来ず、全然光のない世界では物を見ることが出来ないと同様、全然愛のない世界では希望をつなぐことが出来ないものなのである。彼が、怒り、泣き、悲しみ、そして疑いつつも、ともかくも内なる生命の火をかきたてて生きる望みを失わなかったのは、そうした愛の支えがあったればこそである。そしてその点では、彼は恵まれすぎるほど恵まれた子供であったともいえるであろう。世には、もっときびしい運命のもとに育っている子供がざらにある。われわれは、あてのない隣人愛だけを唯一の支えにして生きなければならない子供が、ここかしこにうろついていることを忘れてはならないのだ。
 亡くなった母の遠い世界からの愛を信じ、それを清澄な暁の星のようにさえ感じていた次郎が、間もなく継母を迎えなければならなくなったときの惑乱(わくらん)、しかもその継母が、彼を愛するためにのみ迎えられると知った時の狼狽(ろうばい)は、あわれにもまたほほえましいものであった。彼は、そうした惑乱と狼狽との後で、亡くなった母への思慕を胸深く秘めつつも、結局、すなおに新しい母の愛に抱かれる喜びを味わうことが出来たのであるが、それは、彼が、彼を愛しようとする人に顔をそむけてまで暗いところを見つめるほど、ひねくれた心の持主ではなかったことを証明するものであった。彼のこのすなおさは、やがて大巻一家――継母の実家の人々――とりわけ、彼のためには、新しい祖父であった運平老の仙骨によって、いよいよ拍車をかけられることになり、彼の生命の健康さは、継母を迎えたためにかえって増進して行くかにさえ思われたのである。
 運命は、しかし、そのすなおな生命を、間もなく裏切りはじめた。彼の運命の最も冷酷な代弁者は、いつも本田のお祖母さんだったが、この時もまたそうであった。お祖母さんは、彼に対する愛の欠乏から、彼をして中学の入学試験に失敗せしめる原因を作り、また継母の彼に対する愛を他の子供に向けかえさせるためにあらゆる手段を用いた。こうして彼は、ふたたび新しい形での里子に押しもどされようとしたのである。彼も、さすがにその時には、喜びに対する一切の望みを絶つかとさえ思われた。彼は、彼がこれまで求めて来た人々の愛を強いて拒みはじめた。愛を求める彼自らの心を、恥じ、おそれさげすみはじめた。そして十四歳の少年にしては、あまりにもむごたらしい自己嫌悪にさえ陥りかけたのである。こうしたことが若い生命にとっての大きな危機でなくて何であろう。
 だが、こうした危機ですらも、彼の場合においては、決して彼の生命の不健全さを示すものではなかった。むしろ、それは、彼が彼の運命に打克(うちか)つ新たな道への曲り角に立ったことを意味したのである。彼の眼はそれ以来次第に内に向かっていった。そして、彼は彼がこれまで求めて来たものが、いつも彼自身の外にあったのを知った。外なるものはいつも動く。内に不動なるものを確立しないかぎり、その求むる喜びは泡沫(ほうまつ)のごときものに過ぎない。彼は、そうした真理におぼろげながら気づきはじめた。そして、いよいよ、自分の弱さと醜(みにく)さとを恥じ、自己嫌悪に拍車をかけていった。この自己嫌悪は、しかし、同時に彼の自己鍛錬であり、彼が真の意味で彼自身の生命を開拓して行くための大きな転機だったのである。彼は沈默がちになり、心から笑うことも怒ることも出来なくなった。それは彼の内省による心の分裂を示すものであった。また彼は、時として思いきった言動にも出た。それは、むろん、彼自身では、ある確信をもってやっていたことではあったが、はたから見ると必ずしも正しかったとばかりはいえなかった。むしろ、周囲の人々をして眉をひそめしめるようなことが多かったのである。だが、もし「考える」ということが人間を人間らしくする最も大切な条件の一つであるならば、彼がその間に人間として伸びつつあったことだけは、たしかである。われわれは、青年期に近づいた少年が、沈默がちになったり、すなおでなくなったり、そのほか、大人の常識では理解の出来ない言動に出たりするのを見て、直ちにその少年が生命の健全さを失いつつあるものと速断してはならないのだ。飛行機でも船でも、その方向を転ずるためには、必ずその胴体を傾ける。そしてその方向転換が急角度であればあるほど、その傾きも大きいのである。次郎が、これまで外に求めていたものを内に求めるようになるために、甚しく心の平衡(へいこう)を失ったのは、むしろ当然だったといわなければはるまい。その意味で、私は、彼の自己嫌悪が自己嫌悪に終らず、その失われた心の平衡が、彼自身を転覆(てんぷく)させるほど甚しいものでなかったことを、むしろ彼のために祝福してやりたいとさえ思うのである。
 だが、この場合にも、われわれは、彼が彼自身の力のみで彼の生命を健全に保つことが出来たと思ってはならない。愛の支えは、いかほど独立不羈(き)になろうとする生命にとっても必要なのである。愛は、愛を拒もうとするものにこそ、最も聰明(そうめい)に与えられなければならないのだ。
 では、次郎に対してこの役割を果したものは誰だったか。それは、もはや、乳母や、父や、正木老夫婦ではなかった。というのは、彼らのうちのあるものは、それに堪えうるだけの聰明さを十分に持ちあわせていたとはいえ、次郎にとっては、あまりにも身近な相手であり、そして、彼らの愛に溺(おぼ)れることを、彼自身強いて拒もうとしていた相手だったからである。
 この場合、次郎が、権田原先生の教えをうけていたということは、何という仕合わせなことであったろう。権田原先生の教え子に対する愛には、深い思想があり、寛厚で、しかも枯淡な人格のひらめきがあった。そしてその愛の表現には、次郎が強いて拒もうとする、色の濃い、血液的な表現とは、かなりちがったものがあった。次郎にとっては、それは愛というよりは、何かもっと質のちがった、高貴なもののようにさえ感じられていたのである。かような種類の、身近にいてしかも高く遠いところから与えるといったような、迫らない、思慮ある愛こそ、次郎のように「考える」ことをはじめた少年にとっては、何よりも大切な愛だったのである。
 大巻運平老の仙骨と、その息徹太郎の明敏で快活な性格も、また権田原先生に劣らず重要な役割を果していた。この二人は、共に、何か第一義的なものを心の底につかんでおり、しかも、二人の間柄は、親子というよりはむしろ友達といった方が適当なほど、愉快なものであった。気のまわることでは本能的でさえあった次郎が、継母の父であり弟であるこの二人に、何のこだわりもなく近づき得たのも、そうした二人の間柄が、おのずと彼にまで延長されていたからであろう。次郎は、二人に近づくことによって、愉快な空気を呼吸し、いつとはなしに、彼自身の生命を健康に保つ力を汲みとっていたのである。もっとも、二人の彼に対する愛は義理ある関係から生じたものであり、従って、最初はいくぶん作為されたものであった。しかし二人がつかんでいた第一義的なものは、その愛の表現を決してぎごちないものにはしなかったのである。
 兄の恭一が次郎を支えていた力も、決して小さいものではなかった。恭一の胸には、青年期の初期にありがちな鋭い正義感が燃えていたが、それが彼の次郎に対する愛の表現を特異なものにした。青年や、青年期に近づいた少年の動揺する心を最も有效に支えうるのは、多くの場合、同年輩か、あるいは、あまり年齢のへだたりのない年長者の、こうした種類の愛である。次郎がその頃、乳母の愛とともに、彼にとって至上のものであった父の愛すら拒もうとしながら、兄との親しみを日ごとに深めていった秘密は、そこにあったのである。
 幼年期から少年期の初期にかけては、たいていの人間は、よき親を恵まれることによって、自分の生命の健全さを保つことが出来るものである。だが、そろそろと青年期に近づくにしたがって、よき師と、よき兄弟と、よき友とは、時として、よき親以上に大切になって来るものだ。それは決して次郎の場合だけには限られないであろう。
 次郎の危機は、おおかた一年近くもつづいた。しかし彼は、こうして、彼自身の内からの力と、周囲の人々の外からの力とによって、ともかくもそれを切り抜けることが出来た。そして間もなく待望の中学にはいることになったが、その第一日に上級生からうけた無法な暴行は、幼年時代から彼の心に芽ぐみつつあった正義感を一挙に目ざめさせた。同時に彼の関心の中心は家庭から学校に移り、小さいながらも、一つの「社会」が、彼の前にそろそろとその姿を現わしはじめたのである。
 彼の正義感は、葉隠四誓願の一つであり、そのまま校訓の一つともなっていた「大慈悲」の精神と結びついて、彼をして、半ば無意識のうちに「愛せられる喜び」から「愛する喜び」へと、その求むる心を転ぜしめていた。そして、彼が、兄の親友で、「親爺」の綽名(あだな)で生徒間に敬愛されていた大沢と相識ることを得たことは、正義と慈悲への彼の歩みを、一層強健なものにしたのである。
 そのうちに、彼は、ある日、はしなくも、卑劣な一上級生によって、忍びがたい侮辱を加えられ、ついに敢然(かんぜん)として立ちあがることになった。この時、彼は、彼の手に小さな兇器(きょうき)をさえ握っていた。そして、彼の唇からほとばしり出た正義と公憤の言葉は、卑劣な暴力においてはひけをとらないさすがのその上級生を、ぐいぐいと窮地に追いこんでいったのである。
 この思いきった闘争のあとで、彼が朝倉先生の「澄んだ眼」を発見し、その唇をとおして「見事に死ぬことによって見事に生きる」大慈悲の道を聴き得たことは、彼がはじめて肉親の母の愛を感じた時にも劣らないほどの大きな感激であった。
 彼は、あとで、この大きな感激の原因となったものを、つぎつぎにさかのぼって考えていったが、その直接の原因が、かの卑劣な上級生であったことに気がついて、因縁の不思議さに先ず驚いた。しかも、原因は無限につらなっていた。乳兄弟のお鶴、乳母、そうして亡くなった母、とそこまで考えていって、彼は、人間相互のつながりの深さと広さとに思いいたり、ついに、ある神秘的なものにさえふれていったのである。これが彼の宗教心の芽生えでなかったと、誰が言い得よう。
 この時の彼の深い感激は、彼をして「愛せられる喜び」を求むる心から「愛する喜び」を求むる心への転向を、はっきりと彼自身の心に誓わせ、さらに、その誓いによって、父と、祖母と、継母と、兄と、乳母との前で、彼の過去を懺悔せしむるまでに、彼の心を清純にし、勇気づけたのである。
 彼のこの道心が生み出した周囲への結果も、またすばらしいものであった。彼は、乳母の彼に対するこれまでの盲目的な愛を一夜にして道義的、理性的ならしめた。そして翌日には、家族がうちそろって、――彼の運命の最も冷酷な手先であったお祖母さんをさえ加えて、――乳母とともに、継母の実家である大巻の家をいかにも楽しげに訪問するという、本田家はじまって以来の奇蹟を生み出したのである。
 その日の彼は限りなく幸福であった。そして、彼の胸は、運命に打克つ自信で張りきっていた。彼の生命は、全く健康そのものだったのである。
 だが、彼の幼年時代からの運命によって、彼の心の奥深く巣食って来た暗いものや、ゆがんだものが、それで果して全く影を消してしまったであろうか。彼の自信と幸福とが、そのまぼろしによっておびやかされるようなことが、このさき絶対にないといえるであろうか。そしてまた、彼の将来の運命の波は、彼の生命の健全さをあざけるほどに高いものでないと、はたして保証されうるのであろうか。私は読者とともに、これから注意ぶかく彼の生活を見まもって行きたいと思うのである。

    二 無計画の計画(□)

「大丈夫かい、次郎君。」
 大沢がうしろをふり向いてにっこり笑った。恭一もちらと次郎の顔をのぞいたが、その眼は寒く淋しそうだった。
 日はもう暮れかかって、崖下を流れる深い谷川の音がいやに三人の耳につき出していた。水際に沿って細長く張っている白い氷の上に落葉が点々と凍(し)みついていたが、それが次郎の眼には、さっきから、大きな蛇の背紋のように見えていたのである。
「大丈夫です。」
 次郎は、力んでそうは答えたものの、さすがに泣出したい気持だった。
「ひもじいだろう。」
 大沢は彼と肩をならべながら、またたずねた。
「ううん。」
「あかぎれが痛むんかい。」
「ううん。」
「寒かあないだろうね。」
「ううん。」
 次郎は、じっさい、寒いとは少しも感じていなかった。外套なしの制服で、下にはシャツ一枚だったが、坂道を歩くには、それでちょうどよかったのである。しかし、ひもじくないというのも、あかぎれが痛くないというのも、たしかに嘘だった。何しろ、今朝歩き出してから、弁当の握飯の外には水を飲んだだけだったし、足は足袋なしの下駄ばきだったのだから。
「もう少し行ったらきっと家が見つかるだろう。このぐらいの路がついていて、三里も五里も人が住んでいないはずはないんだよ。」
 大沢は励ますように言った。次郎は答えなかった。すると恭一が急に立ちどまって、
「引きかえした方がよかあないかなあ。」
「さっきの村までかい。」
 と、大沢も立ちどまって、
「しかし、あれからもう二里はたしかに歩いたんだぜ。」
 次郎は、もうその時には、路ばたの木の根に腰をおろし、二人の顔を食い入るように見つめていた。
 三人が、この冬の真最中(まっさいちゅう)に、「筑後川上流探検」――彼らはそう呼んでいた――をはじめてから、すでに四日目である。探検とはいっても、べつに周到な計画のもとにやりはじめたのではなく、三人とも地図一枚も持っていなかった。久留米までは汽車で来たが、それからは川に沿って路のあるところを、本流だか支流だかの見境もなく、ただやたらに奥へ奥へと歩き、そして、日が暮れそうになると、行当りばったりに、寺があれば寺、それがなければ農家に頼んで泊めてもらい、翌朝弁当を作ってもらって、一人あたりなにがしかのお礼を置いて来るといったやり方だった。何でも、第二学期の試験がすんだ日、大沢がたずねて来て雑談しているうちに、誰かが「背水の陣」という言葉をつかったのがもとらしく、自分で自分を窮地(きゅうち)に陥(おとしい)れて苦労をしてみるのも面白いではないか、という意見が出、更にそれが、「無計画の計画」という大沢の哲学めいた言葉にまで発展して、翌日から、さっそくそれを実行に移そうということになり、これも大沢の発案で、「筑後川上流探検」ということに決まったわけなのである。
 旅費も、むろん、そんなわけで、十分には用意していなかった。もっとも、恭一や次郎にしてみると、許しも得ないで家を飛び出すわけにはいかず、だいいち一文なしではどうにもならなかったので、大沢の帰ったあとで、二人が父の俊亮におずおずその計画を語すと、俊亮は、
「次郎も行くのか。」
 と、笑いながら、わけなく二十円ほどの金を出してくれた。それに、はたで聞いていたお祖母さんも、心配しいしい、恭一の財布にいくらかの小銭を入れてくれたので、汽車に乗る前には、大沢の懐にしていた分まで合わせると、三十円近くにはなっていたのだった。それを大沢が全部一まとめにして預かることになり、今日まで何もかも賄って来たというわけだが、それも、しかし、恭一の胸算用では、もう半分以下に減っており、そろそろ引きかえす方が安全だと思えていたのである。
 大沢は、恭一がいつまでたっても返事をしないので、今度は次郎の方を向いて言った。
「どうだい、次郎君、進むか、退くか、今度は君にきめてもらおう。」
 次郎は、今から二里の路を引きかえすのは大変だ、という気がした。それに、大沢の言った「進むか、退くか」という言葉が、いやに強く彼の耳に響いた。また、一軒家ぐらいは、もう間もなく見つかりそうだ、という気休めも手伝って、
「進みます。」
 と、彼は元気よく立ちあがり、真先にあるき出した。
「多数決だ。」
 大沢は恭一を見て微笑した。すると恭一も淋しく微笑をかえして、うなずいた。
「これからが、いよいよ無計画の計画だよ。」
 歩き出すと間もなく、大沢がそう言って大きく笑ったが、恭一も次郎もそれには返事をしなかった。
 それから十五六分も歩いたが、人家はむろんのこと、人一人にも出逢わなかった。そして、水音は白い泡だけを残して、しだいに闇をくぐりはじめた。路と川との間に、ところどころ杉木立があったが、その陰をとおると、大きな羽根をもった魔物にでも襲われているような気持だった。
「方角はどうなっているんだろう。」
 恭一は心細そうにたずねた。
「さあ。」
 と、大沢は、せまい空を仰いだが、二つ三つ淡い星が見えただけで、方角の見当は彼にもまるでつかなかった。
「とにかく、上流に向かっていることだけは、間違いないよ。」
 彼は、のんきそうにそう言ってから、すぐ、どら声で校歌をうたい出した。すると山彦が方々からきこえ、急に賑やかになったようでもあり、かえって物すごいようにも感じられた。
「本田、歌えっ。次郎君も歌えよ。」
 校歌の一節を一人で歌い終ると、彼はどなった。次郎は、しかし、歌う代りに、急に立ちどまって叫んだ。
「ああっ、見つかった、見つかった。……ほら。」
 路は、その時、川から二三町ほど遠ざかっていたが、路と川との間には刈田がめずらしく段々になってひらけており、そのずっと向こうの、次郎が指ざした山の根には、小さな藁屋根が一つ、夕闇の中にぼんやりと見えていたのである。
「あれ、家かな。」
 と、大沢も立ちどまって、じっとその方を見ていが、
「人の住む家にしちゃ小さいぞ。それに燈(あかり)もついていない。」
「僕、行ってみましょうか。」
 次郎はもう路をおりかけた。
「よせ、よせ。」
 と、大沢は、いったんとめたが、
「そうだなあ、いよいよ家がこの近くに見つからなかったら、肥料小舎(ごや)でも何でもいいから、そこに泊ることにしよう。……とにかく探検しておくんだ。」
 三人は畦(あぜ)道の枯草をふんで急いだ。行きつくまでには五分とはかからなかった。大沢の想像どおり、それは小舎だったが、真暗な三坪ほどの土間の半分には、藁がいっぱい屋根裏に届くほどつんであり、入口には戸も立てられるようになっていた。
「寝るぶんには、これだけ藁があれば十分だね。」
 と、大沢は、しばらく考えていたが、
「しかし、ひもじいだろう。僕、もう少し歩いて家を見つけるから、それまで藁の中にもぐって寝ていたまえ。」
 そう言って、彼は、さっさと一人で出て行ってしまった。
 彼の姿が見えなくなると、恭一と次郎とは、急に寒さを覚えた。
「僕、そこいらから枯枝を拾って来ようか。兄さん、マッチある?」
「ないよ。大沢君が一つ持ってるきりなんだ。」
「チェッ。」
 次郎は思わず舌打をした。
「マッチがあったって、こんなところで火を焚(た)くと危いよ。」
 恭一はたしなめるように言った。しかし、彼も飢えと寒さとで、もうがちがちふるえ出していた。
「寝っちまえ。」
 次郎は、だしぬけに積藁にとびつき、すばしこくそれをよじ上った。そして一人でごそごそ音を立てていたが、
「兄さん、ここ温かいよ。」
 と、もう一尺ほども藁をかぶっているような声だった。
「寝っちまっては大沢君にすまないなあ。」
 そうは言いながら、恭一もたまりかねたと見えて、すぐ上って来た。
「ここだよ、兄さん。……二人いっしょの方がはやく温まるよ。」
 次郎が藁の底から呼んだ。二人は抱きあうようにして寝た。すると、寒いどころか、しだいにむれるような温かさが藁の匂いといっしょに二人を包んだ。
「こんな旅行、面白いかい。」
 恭一がしばらくしてたずねた。
「うむ、面白いよ。……だけどひもじいなあ。」
「僕もひもじい。こんなひもじい目にあったこと、これまでにないね。」
 次郎には、しかし、ひもじいということに二通りの記憶があった。その一つは普遍のひもじさで、もう一つは、自分だけがおやつを貰わなかった時のひもじさだった。彼は、今でも、何かにつけ後の意味のひもじさを思い出す。「愛せられる喜びから愛する喜びへ」と心を向けかえたとはいっても、それはまだ十分に彼の血にはなりきっていなかったのである。で、つい、(僕は、もっとひもじい目にあったことがあるんだぜ)と、そんな皮肉を言ってみたい衝動にかられた。彼は、しかし、すぐそれを後悔した。そして、
「大沢さんどこまで行ったんだろう。」
 と、べつのことを言った。
 二人は、寝床が変り過ぎているのと、ひもじいのとで、しばらくは眠れそうにもなかったが、体が温まるにつれて、ついうとうととなっていた。すると、
「本田、本田――」
 と呼ぶ声が、どこからかきこえて来た。恭一は、びっくりしてはね起きたが、その時には、大沢は、もう藁の上にのぼっており、真晴な中をごそごそと手さぐりしているのだった。
「すまんかったなあ、つい寝ちゃって。」
 恭一が闇をすかしながらそう言うと、大沢はその声の方にはって来ながら、
「十五六分も行くと、小さな村があったんだ。しかし、とても泊めてくれそうにないよ。どうも僕の人相が悪いらしいんだ。しかし、やっと駄菓子だけは手に入れて来た。今夜はこれでがまんするんだな。」
 それから、ばさばさと紙の音をさせていたが、
「次郎君は、ねちゃったのか。――起こしちゃかわいそうかね。」
 次郎も、しかし、その時には眼をさましていたのである。彼は、
「僕、おきています。」
 と、恭一の肩につかまりながら、起きあがった。
 三人は、それから、大沢のもって来た新聞紙の袋に、かわるがわる手をつっこんでは駄菓子を食った。円いのや、四角いのや、棒みたいなのがあったが、色はむろんまるで見えなかった。たいていはぼろぼろのものだったが、その中に、固くて黒砂糖の味のするのがわずかばかりまじっていた。しかし、どれもこれもうまかった。三人とも、ものも言わないでむさぼり食った。袋がからになると、大沢が、
「水もあるよ。」
 と、次郎の手に水筒を握らせた。次郎はぐっぐっと息がきれるまで飲んで、それを大沢にかえした。すると大沢は今度は恭一の手にそれを渡した。
「うんと飲めよ、僕はもうたらふく飲んで来たんだから。」
 それでも、恭一の飲み終ったあとを、彼はからになるまで飲んだ。そしてそれがすむとすぐ、三人はかたまって藁の中にもぐりこんだ。
「僕一人で行ったのが、どうもいけなかったらしいんだ。」
 と、大沢は藁束の落ちつきの悪いところをもぞもぞと直しながら、
「僕の人相では、やはり次郎君のような可憐(かれん)な感じがしないんだね。年をとっていると損だよ。こんな時には。」
 恭一が吹き出した。次郎は、これまで三晩とも、大沢が宿の交渉をはじめると、女の人がきまったように自分の方を見ながら、何かと同情するようなことを言ってくれたのを思い出し、くすぐったいような、恥ずかしいような、そして何かみじめなような気持になるのだった。
「本田だと、僕よりはいくらか可憐に見えるかもしれんが、それでも、中学も四年になると、やはり物騒視されるね。」
 と、大沢は、やっと体が藁の中に落ちついたらしく、静かになって、
「僕たちが、三晩とも無事に泊れたのは、恐らく次郎君のおかげだったんだよ。僕の交渉が成功したとばかり思っていたんだが。」
 恭一が、ふふふと笑った。
「考えてみると、やはりそれも無計画の計画だったんだ。人生って妙なもんだね。」
 大沢はしんみりした調子でそう言って、急に口をつぐんだ。
「そりゃあ、どういう意味なんだい。」
 恭一が、しばらくして、思い出したようにたずねた。
「人生を動かして行くほんとうの力は、案外僕たちの知らないところにあるっていう気がするんだよ。」
「ふうむ。しかし、そうだからって、無計画の計画ばかりでもいけないだろう。」
「そりゃあ、むろんだ。今度の旅行はべつとして、何事にも計画の必要なことは、いうまでもないさ。しかし、計画には限度があるよ。いや、人間が頭でやった計画なんてものは、もっと大きな力、自然というか、神というか、そうした大きな力の発動に、あるきっかけを与えるに過ぎないんだ。それを忘れて傲慢になっちゃあいかんと思うね。」
 恭一は藁の中でうなずいた。そして、いくらか冗談のように、
「君がそんなことを言い出すようになったのも、やはり無計画の計画の一つだろう。」
「たしかにそうだ。その意味でも次郎君に感謝していいね。」
 次郎は、二人の言っていることが、まだはっきりのみこめなかったところへ、だしぬけに自分の名前が出たので、何か変な気がしながら、
「どうしてです。」
「つまり、君の可憐さが、僕たちのこの三四日の生命をささえて来たことになっているからさ。」
 次郎は、不平を言っていいのか、喜んでいいのかわからなかった。すると恭一が言った。
「しかし、自分の可憐さを自覚したら、おしまいだね。」
「そりゃあ、そうだ。」
 と、大沢は何か考えているらしかったが、
「じゃあ、この話はもうよそう。」
 次郎は、何かいやなあと味を残されたような気持だった。しかし、大沢も恭一も、それっきり静かになってしまったので、いつの間にか自分も眠りに落ちていった。

    三 無計画の計画(□)

 それからどのくらいの時間がたったのか、次郎は、小屋のそとから誰かしきりにどなっているような声をきいて、はっと眼をさました。
「起きろっ。」
「出て来いっ。」
「ぐずぐずすると、身のためにならんぞっ。」
 それは一人や二人の声ではないらしかった。次郎は、さすがに胸がどきついて、息づかいが荒くなるのをどうすることも出来なかった。彼はそっと恭一をゆすぶってみた。すると恭一は、もうとうに眼をさましていたらしく、次郎の手を握って静かにせい、と合図をした。同時に、
「僕に任しとけ。」
 と、大沢の囁(ささや)く声がきこえた。
 そとの人声は、しばらく戸口のところにかたまって、がやがや騒いでいたが、
「きっと、ここじゃよ。路をこっちにおりたとこまで、おらあ見届けておいたんじゃよ。あけてみい。」
 と誰かが命ずるように言った。
 戸ががらりとあくと、提灯の灯らしい、黄色い明りが、屋根うらの煤けた竹をうっすらと光らした。それが、闇に慣れた三人の眼には、眩ゆいように感じられた。
「おや、一人ではねえぞ。あいつは靴じゃったが、下駄もある。」
「靴が二足あるでねえか。すると三人じゃよ。」
「そうじゃ、たしかに三人じゃ。ようし、のがすなっ。一人ものがすなっ。」
 誰かが変に力んだ声で言った。
「おい、書生、にせ学生、出て来いっ。」
「出て来んと火をつけるぞっ。」
 大沢が、その時、途方もない大きなあくびをして起きあがった。すると、下の騒ぎは急にぴたりとしずまった。次郎は、その瞬間、何か最後の決意といったようなものを感じて、全身が熱くなるのを覚えた。
「兄さん、起きよう。」
 言うなり、彼ははね起きた。大沢は、しかし、すぐ彼の肩を押さえ、低い声で、
「待て、待て、僕が会ってみるから。」
 次郎は何か叱られたような、それでいて、ほっとした気持だった。
 間もなく、大沢は積藁の端のところまではって行ったが、
「どうもすみません。しかし、僕たちは中学生です。決して怪しい者ではありません。今夜一晩ここに寝せてくれませんか。」
 と、いやにていねいな調子だった。
「ばかこけっ。」
 と、下の声がどなった。
「怪しいものでのうて、こんなところに寝る奴があるけい。」
「泊(と)めてくれる家がなかったもんですから。……」
「理窟はどうでもええ。とにかくおらたちと村までついてくるんじゃ。」
「そうですか、じゃあ行きましょう。」
 大沢は、いきなりどしんと土間に飛びおりた。恭一と次郎とは、思わず手を握りあって、息をはずませた。
「一人じゃねえだろう。三人とも行くんじゃよ。」
 村の人たちの声には、どこかおずおずしたところがあった。
「かわいそうですよ、今から起してつれて行くのは。ことに一人はまだ小さい一年生ですから。」
「何でもええから、つれてゆくんじゃよ。つれてゆかねえじゃ、おらたちの務めが果たせねえでな。」
 しばらく沈默がつづいた。その沈默を破って、次郎が藁の中から叫んだ。
「大沢さん、僕たちも行きますよ。」
「そうか。……じゃあ、すまんが起きてくれ。どうも仕方がなさそうだ。」
 大沢が、あきらめたように答えた。
 二人が起きて行くと、村の人たちは、めいめいに大きな棒を握って、大沢をとりまいていた。三十歳前後から十五六歳までの青年がおよそ十四五人である。しかし、恭一の品のいい顔と、次郎の小さい体とを見ると、案外だという顔をして、少し構えをゆるめた。
 年長者らしいのが、提灯で恭一と次郎の顔をてらすようにしながら、
「おらたち、村の見張りを受持っているんでな。気の毒じゃが仕方がねえ。」
 と、言訳らしく言って、
「じゃあ、ええか。」
 と、みんなは目くばせした。
 外に出ると、青年たちは、三人の前後に二手にわかれて、ものものしく警戒しながら歩き出した。畦道を一列になって歩いたが、かなり長い列だった。提灯が先頭と後尾にゆらゆらとゆれた。次郎は三人のうちでは先頭だったが、自分のすぐ前に、大きな男が棒をどしんどしんとわざとらしくついて行くのを、皮肉な気持で仰いだ。そして歩いて行くうちに、しだいに寒さが身にしみ、踵のあかぎれがつきあげるように痛み出すと、もう「人を愛する」といったような気持とは、まるでべつな気持になっていた。
 つれて行かれたのは、この辺の山村にしては不似合なほど大きな門のある家で、玄関には一畳ほどの古風な式台(しきだい)さえついていた。
 次郎たちを玄関の近くに待たして、二三人の青年が勝手の方にまわった。しばらくすると、
「ほう、三人、……そうか、そうか。」
 と、奥の方からさびた男の声がして、やがて玄関の板戸ががらりと開いた。
「さあ、お上り。」
 そう言ったのは、もう八十にも近いかと思われる、髪の真白な、面長の老人だった。
 次郎は、山奥に隠栖(いんせい)している剣道の達人をでも見るような気がした。彼は、何かの本で、宮本武蔵が敦賀の山中に伊藤一刀斉を訪ねて行った時のことを読んだことがあったが、それを思い出しながら、おずおず大沢と恭一のあとについて玄関をあがった。
 通されたのは、大きな炉(ろ)の切ってある十畳ほどの広い部屋だった。老人は、
「さあ、あぐらをかいておあたり。寒かったろうな。……何でも、今きくと、藁小屋に寝ていたそうじゃが、あんなところで眠れるかの。」
 と、自分も炉のはたに坐って、茶をいれ出した。
「ふとんより温かいです。」
 大沢が朴訥(ぼくとつ)に答えた。
「ほう。そんなもんかの。で、飯はどうした、まだたべんじゃろ。」
 と、老人は柱時計を見て、
「今から炊(た)かしてもええが、もうみんな寝てしもうたで、今夜は芋でがまんするかの。芋なら炉にほうりこんどくと、すぐじゃが。」
 時計は、もう十二時をまわっていた。大沢は微笑しながら、
「芋をいただきます。」
「そうしてくれるかの。」
 と、老人は自分で立ち上って台所の方に行った。三人は顔を見合わせた。大沢は笑ってうなずいてみせたが、恭一と次郎とは、まだ硬(こわ)ばった顔をしている。
 間もなく老人は小さな笊(ざる)を抱えて来たが、それには里芋がいっぱい盛られていた。
「小さいのがええ。これをこうして灰にいけて置くとすぐじゃ。」
 と、老人は自分で三つ四つ里芋を灰にいけて見せ、
「さあさ、自分たちで勝手におやんなさい。遠慮はいらんからの。」
「有りがとうございます。」
 と、大沢は、すぐ笊を自分の方に引きよせた、すると、老人は、
「なかなか活発じゃ。」
 と、三人を見くらべながら、茶をついでくれた。
 里芋が焼けるまでに、老人は、三人の学校、姓名、年齢、旅行の目的といったようなことをいろいろたずねた。しかし、べつに取調べをしているというふうは少しもなく、ただいたわってやるといったたずねかたであった。恭一も次郎も、しだいに気が楽になって、たずねられるままに素直に返事をした。
「ここの村の若い衆はな、――」
 と老人は言った。
「そりゃあ真面目じゃよ。じゃが、真面目すぎて、おりおりこの老人をびっくりさせることもあるんじゃ。今夜も旅の泥棒が村にはいりこんだ、と言って騒いでな。わしもそれで今まで起きて待っていたわけじゃが、その泥棒というのがあんた方だったんじゃ。はっはっはっ。」
 三人はしきりに頭をかいた。
 やがて里芋が焼け、話がいよいよはずんだ。
 老人は、「若いうちは無茶もええが、筋金(すじがね)の通らん無茶は困るな。」と言った。「あすはわしが案内してええところを見せてやる。」とも言った。また、「そろそろ引きかえして、日田町に一晩泊り、そこから頼山陽を学んで筑水下りをやってみてはどうじゃな。」とも言った。
 時計はとうとう一時を二十分ほどもまわってしまった。それに気づくと、老人は、
「さあ、もう今夜はこのくらいにして、おやすみ。寝床はめいめいでのべてな。……夜具はこの中に沢山はいっているから、すきなだけ重ねるがええ。」
 と、うしろの押入の戸をあけて見せ、
「炉の中に夜具を落したり、足をつっこんだりしないように、気をつけてな。……便所はこちらじゃよ。」
 と、障子をあけて縁側を案内してくれ、しまいに炉火に十分灰をかぶせて部屋を出て行った。
 三人は、床についてからも、老人は何者だろう、とか、自分たちは藁小屋の中で夢を見ているんではないだろうか、とか、そんなことをくすくす笑いながら、かなり永いこと囁き合っていたが、次郎はその間に、ふと、正木のお祖父さんと大巻のお祖父さんのことを思い出し、三人の老人を心の中で比較していた。
 翌朝眼をさますと、もう縁障子には日があかるくさしていた。起きあがってみて、彼らが驚いたことには、畳の上にも、ふとんの中にも、藁屑(わらくず)がさんざんに散らかっていた。彼らは、幸い縁側の突きあたりの壁に箒が一本かかっているのを見つけて、大急ぎでその始末をした。家はずいぶん広いらしく、近くに人のけはいがほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]しなかったが、掃除をどうなりすました頃、三十四五歳ぐらいの女の人が十能に炭火をいれて運んで来た。
「おやおや、お掃除までしてもらいましたかな。ゆうべは、よう寝られませんでしたろ。」
 と、彼女はきちんと坐りこんで、三人のあいさつをうけ、それから、まじまじと次郎を見ていたが、
「お母さんが、心配していなさりませんかな。早う帰って安心させてお上げ。」
 次郎はただ顔を赧(あか)らめただけだった。
 朝飯は、茶の間で家の人たちといっしょによばれた。広い土間の隅の井戸端で洗面を終ると、そのまま食卓に案内されたが、ゆうべにひきかえて、そこにはもうたくさんの顔がならんでいた。
「さあ、さあ。」
 と、七十ぐらいの、品のいい、小作りなお婆さんがまず三人に声をかけた。お婆さんと同じちゃぶ台には、三人の男の子がならんでいて、めずらしそうに次郎たちを見た。昨夜の老人の顔はそこには見えなかった。
 次郎たちのためには。べつのちゃぶ台が用意されていた。大沢がお婆さんにあいさつをしてそのそばに坐ると、恭一と次郎とがつぎつぎにその通りをまねた。さっきの女の人がちゃぶ台にのせてある飯櫃(びつ)と汁鍋の蓋をとって、
「さあさ、めいめいで勝手に盛ってな。」
 と、自分は子供たちのちゃぶ台にお婆さんに向きあって坐った。
 次郎たちには、葱の味噌汁がたまらなくおいしかった。何杯もかえているうちに、顔がほてって汗をかきそうだった。
 食事中に、お婆さんが一人でいろんなことを訊(たず)ね、いろんなことを話した。その話で、三人はおおよそ家の様子も想像がついた。昨夜の老人は村長で、今朝も早く何か特別の用があって出かけたらしい。子供たちの父になる人は、五六里も離れたところの小学校の校長だが、土曜日に帰って来るのだそうである。
「お爺さんは、今日はな、十時頃までに役場の用をすまして帰って来るけに、それまであんたたちに待ってもろたら、と言うとりましたが。……また滝にでも案内しようと思うとりますじゃろ。」
 お婆さんは、そう言って、歯のぬけた口をつぼめ、ほっほっほっと笑った。
 食事がすむと、子供たちは、いかにも次郎たちに気をひかれているような様子で、学校に行った。老人は、それから間もなく帰って来たが、すぐ三人のために弁当の用意を命じ、自分は炉のはたで一通の手紙をしたためた。
「滝まで行って来るでな。」
 お婆さんにそう言って、老人が三人をつれ出したのは、ちょうど十時頃だった。三人はいつものようにお礼の金を置くことも忘れてしまい、渡された竹の皮包みの弁当をぶらさげて、老人のあとについた。
 老人の足は矍鑠(かくしゃく)たるものだったが、それでも三人の足にくらべるとさすがにのろかった。しかし、滝までは三十分とはかからなかった。滝は、老人がみちみち自慢したとおり、世に知られないわりには頗る豪壮[#「豪壮」は底本では「豪荘」]なもので、幅数間の、二尺ほどの深さの水が、十丈もあろうかと思われるほどの断崖を、あちらこちらに大しぶきをあげて落下していた。滝壺に虹があらわれ、岩角の氷柱がさまざまな色に光っていたのが、いよいよ眺めを荘厳にした。名を半田の滝というのだった。
 寒さも忘れて三十分ほども滝を眺めたあと、三人が老人にわかれを告げると、老人は、懐(ふところ)からさっき書いたらしい手紙を出して、
「たいがいにして日田まで下るんじゃ。日田に行ったら、この宛名の人をたずねて行けばええ。中にくわしく書いておいたでな。」
 と、それを大沢にわたした。大沢は、手紙を押しいただいたまま、いつものとおりには言葉がすらすらと出なかったらしく、何かしきりにどもっていた。手紙の宛名には日田町○○番地田添みつ子殿とあり、裏面には白野正時とあった。
 三人は、それから、その日とその翌日とを、やはり無計画のまま、やたらに歩きまわった。その間に、竜門の滝という古典的な感じのする滝を見たり、何度も小さな温泉にひたったりした。そしてふところもいよいよ心細くなったので、白野老人のすすめに従って、それからは、まっすぐに日田町に下ることにした。
 日田町までは一日がかりだった。町について田添ときくと、すぐわかった。りっぱな医者のうちだった。一晩厄介になっているうちにわかったことだが、みつ子というのはその医者の奥さんで、白野老人の末女に当るのだった。この人がまた非常に親切で、歳はもう四十に近かったが、まるで専門学校程度の、聰明で快活な女学生のようだった。筑水下りの船も、前晩からちゃんと約束しておいてくれたらしく、朝の八時頃には、家のすぐ裏の河岸に、日田米をつんだ荷船がつながれていた。船賃も夫人が払ってくれた。
 三人はまるでお伽噺の世界の人のような気持になって船に乗った。船が下り出すと、みつ子夫人は河岸からしきりに手巾(ハンカチ)をふった。
「無計画の計画も、こううまく行くと、かえって恐ろしい気がするね。」
 大沢は船が川曲をまわって手巾が見えなくなると、二人に言った。
 次郎も恭一も、急流を下る爽快さを味うよりも、何か深い感慨にふけっているというふうだった。川幅の広いところには、鴨が群をなして浮いていたが、次郎はそれにもほとんど興味をひかれないらしかった。大沢が、
「鉄砲があるといいなあ。」
 と言うと、彼は妙に悲しい気にさえなるのだった。そして船が巖の間をすれすれに急湍(たん)を下る時にも、叫び声一つあげず、じっと船頭の巧みな櫂(かい)のつかい方に見入り、かつて何かで読んだことのある話を思い出していた。それは、水に溺れかかったある偉大な宗教家が救助者に身を任せきって、もがきもしがみつきもしなかったという話だった。
 船が久留米に近づいて、水の流れがゆるやかになったころ、彼はこっそり恭一に向かって言った。
「無計画の計画ってこと、僕も少しわかったような気がするよ。」

    四 宝鏡先生

 筑後川上流探検旅行が次郎に与えた影響は、決して小さなものではなかった。「無計画の計画」というのは、最初大沢が半ば冗談めいて言い出したことだったが、それは、次郎にとっては、彼がこれまで子供ながら抱いて来たおぼろげな運命観や人生観に、ある拠(よ)りどころを与えることになった。彼は、それ以来、身辺のほんのちょっとした出来事にも、その奥に、何か眼に見えない大きな力が動いているように感じて、ともすると瞑想的になるのだった。それが、著しく彼を無口にし、非活動的にした。学校での一番にぎやかな昼休みの時間にも、よく、校庭の隅っこに、一人でぽつねんと立っている彼の姿が見られた。家で、恭一と二人、机にむかっている時、どうかすると、だしぬけに立ちあがって、恭一の本箱から詩集や修養書などを引き出して来ることがあったが、それは、いつも何かに考えふけったあとのことだった。そして、詩集や修養書を自分の机の上にひろげても、べつにそれを読みいそぐというのではなく、同じ頁にいつまでも眼を据えているといったふうであった。教科書の方の勉強は、こんなふうで、自然いくらかおろそかになりがちだったが、次郎自身それを気にしているような様子もなかった。
 彼のこうした変化が、周囲の人々の眼に映らないわけはなかった。しかし、彼を見る眼は、人々によってかなりちがっていた。俊亮は、「少し元気がなさすぎるようだ。体でも悪くしたんではないか」と言い、お祖母さんは、「次郎もいよいよ落ちついて来たようだね」と言った。お芳は、そのいずれにもあいづちをうっただけだったが、お祖母さんの態度がいくらかずつ次郎に対して柔(やわ)らいで行くのを見て、内心喜んでいるようなふうだった。
 次郎のほんとうの気持を多少でもわかっていたのは、恭一だけだったが、彼自身がどちらかというと非活動的であり、内面的な傾向をもっているだけに、次郎のそうした変化によって、お互いの親しみが一層増してゆくような気さえしていた。
 次郎のことを、最も真面目に心配し出したのは、あるいは大沢だったかもしれない。彼はある日、恭一に向かって言った。
「次郎君が考えこんでばかりいるのを、ぼんやり眺めているのは、いけないよ。あんなふうでは、次郎君の特長は駄目になってしまう。」
「しかし、どうすれはいいんだい。」
 恭一は、大して気乗りのしない調子でたずねた。
「たまには、喧嘩の相手になってやるさ。」
「次郎は、しかし、もう喧嘩はしないよ。しないって誓っているんだから。」
「それがいけないんだ。子供のくせにひねこびた聖人君子になってしまっちゃあ、おしまいじゃないか。」
「でも、うちじゃあ、やっと喧嘩をしなくなったって、みんな喜んでいるんだからなあ。」
「そりゃあ、お祖母さん相手の喧嘩なんか、しない方がいいさ。しかし、兄弟喧嘩ぐらいは、たまにはいいよ。ことに、室崎をやっつけた時のような喧嘩なら、大いにやるがいいと思うね。」
「ふうむ。……しかしあんな喧嘩なら、今でも機会があればやるだろう。」
「どうだかね、今の様子じゃあ。……僕が一つ相手になって試(ため)してみるかね。」
「試すって、どうするんだい。」
「思いきり無茶な事を言って、怒らしてみるんだ。」
「君が何を言ったって、それを本気にはしないよ。」
「本気にするまでやってみるさ。」
「しかし、そんなにしてまで喧嘩をさせる必要があるかね。」
「あるよ。僕は、あると思うね。今のままじゃあ、妙に考えが固まってしまって、どんな不正に対しても怒らなくなるかも知れんよ。」
 大沢は頗るまじめだった。そして、次郎を怒らす機会の来るのを、本気でねらっているらしかった。しかし、その機会が来るまえに、思いがけない事件が次郎を待伏せていて、大沢の苦心を無用にしてしまったのである。

     *

 次郎たちの数学の受持に、宝鏡方俊というむずかしい名前の先生がいた。七尺に近いと思われる堂々たる体躯(たいく)の持主で、顔の作りもそれに応じていかにも壮大な感じを与えたが、気は人一倍小さい方だった。この先生は、はじめての教室に出ると、きまって、先す自分の姓名を黒板に書き、それに仮名をふった。それによると「トミテル・ミチトシ」というのが、正しい読方だった。しかし、生徒たちの間では、誰一人としてそんなややこしい読方をするものがなく、陰ではいつまでたっても「ホウキョウ・ホウシュン」としか呼ばなかった。先生にしてみると、「ホウキョウ」でもいいから、せめて姓だけにしてもらうと、それでいくぶん我慢が出来るのだったが、生徒たちの方では、その下に「ホウシュン」をつけないと、感じがぴったりしないらしく、面倒をいとわないで「ホウキョウ・ホウシュンが……」「ホウキョウ・ホウシュンが……」と言うのだった。
 しかし、何よりも宝鏡先生を神経質にさせたのは、自分に「彦山(ひこさん)山伏」という綽名があるのを知ったことだった。先生の郷里が大分県の英彦山(えひこさん)の附近であることはたしかだったし、また、前身が山伏(やまぶし)だったとか、少くも父の代までは山伏稼業だったとかいうことが、どこからかまことしやかに伝えられていたので、先生は、山伏という言葉がちょっとでも耳に這入ろうものなら、その日じゅう怒りっぽくなるのだった。
 こんな種類の先生については、とかく、生徒間に、あることないこと、いろんな逸話が流布されるものだが、宝鏡先生についてもそれは例外ではなかった。中でも、最も奇抜なのは、――これは小使がたしかに事実だと証言したことだったが――ある雨の晩、先生が校内巡視をして宿直室にかえって来ると、その入口の近くの壁がぼんやり明るくなっており、その前に真黒な怪物が突っ立っている。先生はいきなり「何者だ!」と叫び、巨大な拳でその怪物をなぐりつけたが、怪物というのは、じつは雨合羽を着た電報配達夫だった、というのである。小使がとりわけ念入りに説明したことが真実だとすれば、配達夫は非常に腹を立て、先生を警察に引ぱって行こうとした。すると、先生は土下座をして平あやまりにあやまり、おまけに金一円を紙に包んで配達夫の手に握らせ、やっと内済にしてもらったとのことである。その頃の中学校の無資格教師にとって、一円という金が相当のねうちものであったことはいうまでもない。
 この先生が板書する文字は、その巨大な体躯に似ず繊細(せんさい)で、いかにも綿密そうであり、算術や代数の式が黒板いっぱいに並んだところは、見た目も非常に美しかった。しかし、数学そのものの知識がすぐれているとは、決して言えなかった。というのは、その美しい文字の前で、先生が立往生することはしばしばだったからである。立往生する前には、先生は、きまって、「あの何じゃ」という言葉を何度もくりかえした。生徒たちはよく心得たもので、先生の「あの何じゃ」が頻繁になって来ると、もう黒板から眼をそらし、お互いに鉛筆でつつきあいながら、くすくす笑い出すのだった。そうなると、先生は、いよいよ行詰りの打開が出来なくなるわけだが、しかし時として、先生に、その場合に拠する臨機の妙案が浮かんで来ないこともなかった。それは、くるりと生徒の方を向いて、その大きな掌を、腰の両側に蛙のようにひろげ、
「誰じゃ、笑ったのは。はじめからよく見とらんと、わからんはずじゃが、もう一度最初からやってみせる。ええか、今度はよく注意して見とるんじゃぞ。」
 と、さっさと黒板の文字を消してしまうことだった。
 次郎は入学の当時、はじめてこの先生が教室に現れて来た時には、その容貌体躯の偉大さに気圧されて、息づまるような気持だった。彼は、先生が出欠をとる間、坂上田村麿をさえ連想していたのである。しかし、その印象は、十分、二十分とたつうちに、次第にうすらいで行き、時間の終りごろには、もう失望と軽蔑(けいべつ)の念が彼を支配していた。もっとも、彼が、そうした気持を、教室で言葉や動作に現したことなど、これまで一度だってなかった。ことに、この夏以来、彼の心境に大きな変化が生じてからは、ほかの生徒たちが、わざと先生を怒らすような真似をしたりすると、変になさけない気持になり、何とかして先生に応援してやりたいと思うことがあった。
 ところが、実は、彼のこうした同情が、かえって彼を飛んでもない羽目に追いこむことになってしまったのである。
 それは、三学期も、もう終りに近いころのことだった。宝鏡先生は、まだ寒いのに、額に汗を浮かせながら、代数の問題を解いていた。黒板は三枚つづきで、その問題は真中の黒板から始まって、もうそろそろ右の黒板にうつらなければならなくなっていたが、何だか八幡の藪知らずに迷いこんだといった形になり、答が出るまでには、まだなかなか手数がかかりそうであった。生徒たちの頭もぼうっとなって来たが、先生の頭も、それに劣らずぼうっとなっているらしかった。次郎は、「あの何じゃ」がまた出なければいいが、と心配になって来た。で、それまで先生の白墨について動かしていた視線をそらし、最初からの一行一行を念入りに見直した。すると三行目から四行目にうつるところで、マイナスとあるべき符号(ふごう)が、プラスになっているのを発見したのである。彼は、自分の思いちがいではないかと、二度ほど見直したが、やはりそうにちがいなかった。
「先生!」
 と、彼は、我知らず叫んだ。先生はもうその時には、右の黒板に二行ほど書き進んでいたところだったが、次郎の声で、びくっとしたようにふり向きながら、
「何じゃ、質問か。質問なら、あとでせい。」
「質問じゃありません。あすこに符号が間違っています。」
 次郎は、先生を安心させるつもりでそう答えた。
「何? 間違っている? どこが間違ってるんじゃ。」
 先生のふだんのあから顔は、もうその時までにいくぶん蒼(あお)ざめかかっていたが、それで一層蒼くなった。掌は例によって腰の両側に蛙のように拡がっていた。
「三行目から四行目にうつるところです。」
 先生の眼は、犯人の眼のように、三行目と四行目との間を往復した。そしてその時には、もう方々からくすくすと笑い声が聞え出していたのである。
 先生は、大急ぎで黒板を消した。しかし、今度は、
「もう一度、はじめからやってみせるんじゃ。」
 とは言わなかった。その代りに、――それは生徒たちの全く予期しなかったことだったが――いきなり教壇をおりてつかつかと次郎の席に近づいて来た。次郎の席は、廊下に近い方から二列目の一番まえだったのである。
 次郎の席のまえに立った先生は、精いっぱいの落着きと威厳とをもって言った。
「お前は教室を騒がすけしからん生徒じゃ。」
 次郎には何のことだかわからなかった。彼は驚きと怪しみとで、眼をまんまるにして先生の顔を仰いだ。
「教室を騒がす生徒は、教室に置くわけにはいかん。出て行くんじゃ。」
 先生は、そう言って、むずと次郎の右腕をつかんだ。
「僕が、どうして教室を騒がしたんです。わけを言って下さい。」
 次郎は、このごろにない烈しい声で叫んだ。同時に、彼の左の腕は、しっかりと机の脚に巻きついた。

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