次郎物語
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著者名:下村湖人 

 彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
 と、いかにも思いあぐんだように言った。
 午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
 次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。

    六 迷宮

 次郎は、歩きながら、二人の先生との対談の様子を、あらためてくわしく新賀に話した。話しているうちに、小田先生のあいまいな態度に対する不満の言葉も、自然、幾度となく彼の唇を洩(も)れた。しかし、今は、そうした不満をならべるのが彼の目的ではなかった。彼には、もう、どの先生に対しても、朝倉先生の心に背いてまで反抗的な態度に出る気持は残っていなかった。宝鏡先生に対してこれからどうすればいいか、ということについても、いつの間にか決心がつきかけていたのである。ただ、心の底には、まだ何といっても、いくらかの無念さが残っていた。それに彼くらいの年頃では恐らく誰しもそうだと思うが、そした殊勝な決意をすることが友達に対して何となく気恥かしく感じられるのだった。で、彼は、表面、どうしていいかわからない、といった顔をして、それとなく、朝倉先生の言葉や、その言葉から受けた感銘やを、強く新賀の心に印象づけ、新賀の方から、励ましてもらいたい気持でいたのである。
 しかし、彼のそうした複雑な気持は、新賀には、まるで通じなかった。新賀は、ただ一途に、数学の時間の出来事について、次郎に同情していた。それに、彼はまだ一度も朝倉先生に接したことがなかったので、次郎の口をとおして間接に聞かされた先生の言葉には、さほど感銘を覚えなかった。それは、むしろ、変にややこしい理窟だとしか彼には思えなかったのである。彼は、だから、次郎が率直にもらした不満の言葉には一も二もなく合鎚(あいづち)をうったが、朝倉先生の言葉に対しては、共鳴どころか、かえって、先生が小田先生とぐるになって、いい加減に次郎をごまかそうとしているのではないか、とさえ疑い、次郎が苦心して説明するたびに、
「ほっとけよ、誰が何と言ったって、平気さ。」
 と、次郎の期待とは、まるであべこべの方向に彼を励ますだけだったのである。
 次郎は、新賀にそんなふうに言われると、ますます自分の本心をはっきり言うことが出来なかった。そして家に帰りついて、新賀と二人、机のはたに坐りこんでからの彼は、とかく沈默がちになり、新賀に来てもらったことをいくらか後悔さえしていた。
 新賀は、そうなると、いよいよはげしい言葉をつかって、彼を元気づけることにつとめた。そして、「なあに、処罰ぐらい、屁でもないよ。」とか、「頑張るさ。君さえ頑張りゃ、みんなできっと応援するよ。」とか、成行次第では自分が主になって、一騒動起しかねないようなことまで言うのだった。
 そんなふうで、おおかた小一時間も話しているうちに、恭一が帰って来た。大沢をつれて来たらしく、階段で二人の話声がきこえた。次郎はそれを聞くと、急に救われたような気になった。
 大沢は、部屋にはいると、
「やあ。」
 と二人に声をかけて、すぐあぐらになりながら、新賀にたずねた。
「次郎君と同じ組かい。名は何というんだい。」
 新賀の方では、大沢は上級生でもあり、「親爺(おやじ)」の綽名(あだな)で有名でもあったので、もうとうから顔を見知っていた。しかし、言葉を交わすのははじめてだった。彼は、自分の名を答え終ると、いかにも「親爺」らしい大沢の顔を無遠慮に眺めていたが、急に次郎の方をふり向いて、
「どうだい、今の話、兄さんや大沢さんにも話してみないか。」
 次郎は、むろん、新賀に言われなくとも話すつもりだった。で、さっそく、今日の一件が四人の話題に上ることになった。
 次郎と宝鏡先生との教室での活劇については、新賀が殆んど一人で話してしまった。しかし、小田先生に呼び出されてからあとの事は、次郎が自分で話すより仕方がなかった。新賀の憤慨した調子にひきかえて、次郎はいやに用心深く話した。そして、今度は小田先生に対する不満の言葉など出来るだけ洩(も)らさないようにつとめた。新賀はそれが物足りなかったらしく、何度も口をはさんで、小田先生のあいまいな態度を攻撃した。
 恭一は、話の最初から、ひどく心配そうに聞いていた。しかし、大沢の方は、次郎が机もろとも宝鏡先生にかかえ出されるあたりになると、手をたたいて喜んだ。そして、
「机にしがみついてはなれなかったのは大出来だよ。さすが次郎君だ。かかえ出されても、勝負にはたしかに勝っているね。」
 と、わざとおだてるようなことを言ったりした。そして、次郎が最後に、
「僕、どうしたらいいかわからないので、新賀君の考えをきいてたところです。」
 といくらかきまり悪そうに首をたれると、大沢は、
「ふうむ、なるほど。仁に当っては師に譲らずか。朝倉先生そんなことを言ったんかな。ふうむ。――」
 と、何度も首をふり、それから、恭一に向かって、
「どうだい、本田、君、兄さんとして次郎君に何とか言ってやれよ。」
 恭一は、しかし、次郎の顔を見つめているだけだった。すると、新賀が横から、突っかかるように言った。
「大沢さんは、朝倉先生の言ったこと、いいと思うんですか。」
 大沢は微笑した。そして、ちょっと考えていたが、すぐあべこべに問いかえした。
「君は、いけないと思うかい。」
「いけないと思うんです。」
「どうして?」
「悪くない者にあやまれなんて、そんなこと無茶です。」
「しかし、是非あやまれとは言わなかったんだろう。ねえ、次郎君。」
「ええ。考えろって言われたんです。」
「じゃあ、あやまらなくてもいいんですね。」
 と、新賀の調子は、少し皮肉だった。
「さあ、それは次郎君が自分で考えるだろう。」
「僕は、朝倉先生が考えろなんて言ったのが、ペテンだと思うんです。」
「ペテンだか、ペテンでないかは、朝倉先生自身のほかには誰にもわからんよ。しかし、次郎君はペテンでないと思ってるらしい。ねえ、そうだろう。次郎君。」
「ええ。――」
 次郎は、新賀に多少気を兼ねながら答えた。すると新賀は憤然として言った。
「卑怯だよ、君は。生徒監がそんなに怖いんか。正しいことが突きとおせないような人は、僕、大嫌いだ。」
 彼は、もう立ち上って帰ろうとしていた。大沢も、それを見ると、さすがにあわてたように彼のまえに立ちふさがった。そして、
「おい、おい、そう簡単に友達を見捨てるのはいけないことだぜ。まあ坐れ。」
 と、彼の肩をおさえてむりに坐らせ、
「君はずいぶん短気だな。しかし、そんな短気は必ずしも悪くない。実際、次郎君はこのごろ大人になり過ぎているんだ。少し怒りつけてやる方がいいよ。」
 次郎は、新賀の態度でかなり気持が混乱していたところへ、大沢にそう言われたので、いよいよまごついた。しかし、そのまごつきも、ほんのわずかの間だった。彼は、幼いころから、相手が自分に同情する立場に立っていることが明らかであるかぎり、その相手に対しては、人一倍弱かったが、いったん相手が多少でも反対の側に立ったと見ると、もう少しも遠慮はしなかった。愛の渇(かわ)きによって自然に築き上げられて来た彼のこうした意地強さは、まだ決してなくなってはいなかったのである。彼は、新賀と大沢とを等分に見くらべながら、ずけずけと言った。
「僕は、僕の思うとおりにするんだから、もう誰にも構ってもらわなくてもいいんです。」
 それを聞いて、誰よりもにがい顔をしたのは恭一だった。彼は、これまでほとんど一言も出さないでいたが、やにわに神経質な声をふりしぼって言った。
「次郎! 何を言ってるんだ。失敬じゃないか。大沢君だって、新賀君だって、お前のことを心配しているから、いろんなことを言うんだよ。」
「じゃあ、兄さんも、大沢さんや新賀君の言うことに賛成ですか。」
 次郎は、今度は恭一に突っかかって行った。恭一は、ちらと新賀の方に眼をやって、答えに躊躇(ちゅうちょ)したが、
「僕が賛成だか、賛成でないか、そりゃ別さ。僕はただ、お前があんまり失敬だから、言ったんだよ。」
「だけど……」
 と、次郎はせきこんで何か言おうとした。すると、大沢が急に笑い出した。そして、
「今日は、兄弟喧嘩はその程度でよしとけよ。ついでに、次郎君の問題も、ここいらで打切りにしたら、どうだい。」
 みんなは、ちょっと拍子ぬけがしたような顔をして、大沢を見た。大沢はにこにこしながら、
「次郎君が、自分で思う通りにするから誰も構ってくれなくてもいい、と言ったのは、失敬でも何でもないんだ。実は、僕、それでいいと思うんだよ。いや、それがほんとうなんだ。朝倉先生だって、多分そのつもりなんだろう。だから、僕らは、次郎君がこれからどうするか、見ていりゃあいいんだ。」
 次郎には、それが非常に皮肉にきこえた。彼は「くそっ」という顔をして、大沢をにらんだ。大沢は、しかし、相変らずにこにこしながら、
「だが、次郎君、朝倉先生が、心にもないことはやるなって言われたことを忘れんようにせいよ。先生は、君に是が非でも聖人君子の真似ごとをやらせようとしていられるんではないんだ。その証拠には、ゆっくり考えろと言われたんだろう。むろん、先生に最初言われたとおりのことが、君に出来ればすばらしいさ。しかし、どうだい、君は、山伏先生のまえに、自分で悪いとも考えていないことを、ほんとうに心からあやまることが出来るんかい。あやまるからには、山伏先生が今度どんな無茶を言っても、腹を立ててはならないんだよ。それが果して君に出来るんかい。」
 次郎にはさすがに返事が出来なかった。恭一は不安な顔をして、
「しかし、次郎が自分であやまるつもりなら、あやまらしてもいいんじゃないかね。」
「むろん、僕はそれをとめはせん。次郎君に自信があれば、やるがいいさ。やった結果がどうなるか、それを見るのも面白いかも知れんね。」
 次郎は追いつめられるような気がして、すっかり落ちつきを失った。恭一も、そう言われると、べつの意味で不安を感じ出した。新賀はそれまで默りこんで仏頂(ぶっちょう)づらをしていたが、急に、
「僕、もう失敬します。」
 と立ち上りかけた。
「まてよ。どうも君は気が短かくていかん。」
 と、大沢は彼を手で制して、
「どうだい、今夜は、僕、朝倉先生を訪ねてみたいと思うが、君らもよかったらいっしょに行かないか。」
 大沢のこのだしぬけな提議は、三人にとって、全く意想外だった。同時に、それは、今までの部屋の空気をいっぺんに明るくした。
「うむ、それはいい。そうすれば安心だ。次郎、行ってみようや。……新賀君もどうだい。」
 と、恭一が、いつもにない、はしゃいだ声で言った。
 新賀は、朝倉先生にはまだ近づきがなかったせいか、ちょっと躊躇するふうだったが、好奇心とも、まじめな期待ともつかぬ、一種の興味に刺戟されて、すぐ賛成した。誰よりも喜んだのは次郎だった。彼は、迷宮からでも救い出されたような、ほっとした気持になって、もう、賛成するもしないもなかったのである。
 先生を訪ねる時間の打合わせを終ると、大沢は新賀の肩をたたいて言った。
「さあ、もうこれで、失敬してもいいんだ。じゃあ、さよなら。」
 新賀は、頭をかきながら、大沢のあとについて、階段をおりた。

    七 心境の問題

 朝倉先生の住居は、家賃十何円かの、だだっ広い、古い士族屋敷で、柱も天井も黒ずんだ十二畳の座敷が、書斎兼客間になっていた。
 ちょうど先生が入浴中だったので、四人は十分あまりも、その部屋に待たされた。そのあいだ、大沢と恭一とは、勝手に座蒲団をならべたり、本棚から本を引き出して見たりしていたが、先生の自宅を訪ねた経験のない次郎と新賀とは、いかにも窮屈そうにかしこまっていた。
「やあ、待たせて済まんかったなあ。」
 と、先生は湯あがりの顔をほてらせながら、襖をあけて這入って来た。そして次郎と新賀とが小さくなって坐っているのを見ると、
「おや、今日はめずらしい顔だね。私は、また例の連中かと思っていたが。」
「はあ、実は、これから下級生も少しずつ加えていただきたいと思って、つれて来たんです。」
 大沢が、持っていた本を棚にかえし、自分の席にもどりながら答えた。
 次郎と新賀とは、さっきからお辞儀をする機会を待って、もじもじしていたが、先生は、
「うむ、そうか。」
 と、まだ立ったままで、羽織の紐をかけていた。
「こちらが新賀君、むこうは僕の弟です。」
 恭一が先生の顔を下からのぞきながら紹介した。
「ほう。」
 と、先生は、まだ二人の方を見ない。そして、やはり羽織の紐をいじくっていたが、やっとそれがかかったらしく、
「やあ、いらっしゃい。」
 と、自分の座蒲団に尻をおろし、はじめてみんなとお辞儀をかわした。
 次郎は、今日のことで、さっそく先生に何とか言葉をかけられるだろうと予期して、固くなって待っていた。しかし、先生は、ちょっと彼の顔を見て、
「おお、そうそう、君は本田の弟だったな。」
 と、言ったきり、すぐ新賀の方に話しかけた。新賀は例によって問われることをはきはきと答えた。
「ほう海軍か。そりゃいい。一年の時からちゃんと志望をきめて、まっしぐらに進むのはいいことだ。」
 先生は、それから、海軍の名高い人たちの逸話などを例にひいて、新賀を励ましたり、戒めたりした。新賀は眼をかがやかしてそれに聴き入った。次郎は、かんじんの自分の問題に、いつまでたってもふれて来そうにないので、少しいらいらして来たが、大沢も恭一もいっこう話題を転じてくれそうにない。彼は催促するように何度も恭一の顔をのぞいた。
 恭一も、やっとそれに気がついたらしく、先生の話が一段落ついた機会をとらえて言い出した。
「今日は、弟が数学の時間に、変な事件を起しましたそうで――」
「うむ。」
 と、先生は軽くうなずいた。それから、次郎の方を見て微笑しながら、
「兄さんにも話したのか。そりゃあよかった。何もいそいで決めるには及ばんから、いろんな人の考えをきいてみるんだね。さっそく大沢や新賀にも話してみたら、どうだ。」
「実は、もう、この四人で話しあったんです。」
 と、大沢が答えた。
「はう。それで、どうだった。」
「新賀君は、生徒監がこわくて正しいことを曲げるような人間とは絶交すると言うんです。」
「なるほど。それで君は?」
「僕は、次郎君にひねこびた聖人君子の真似をさせたくないという考えです。第一、まだ、そんなことの出来るほど偉い人間でもなさそうです。」
「はっはっ。すいぶん手きびしいね。」
「ところが、次郎君自身は、僕らにそんなことを言われたのが非常に不服らしいんです。」
「すると、宝鏡先生にあやまろうというのか。」
「ええ、僕らが反対すれば、絶交でもしかねない見幕でした。」
「絶交が大ばやりなんだな。……で本田は、兄さんとしてどういう考えだ。」
「僕は――」
 と、恭一は、少し顔を赧(あか)らめて、
「次郎が進んであやまると言うなら、あやまらした方がいいと思っていました。しかし、大沢君の考えをきいているうちに、それも不安なような気がして来たんです。」
「うむ。――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えていたが、
「次郎君のことは、学校の問題としては、校長にもお話して、もう済んだ事になっているから別に心配せんでもいい。しかし、よく考えてみると、こういうことは学校だけに起る問題ではないんだ。形はちがっても、世間にはそうしたことがざらにある。君らも、将来、次郎君のような羽目に陥(おちい)ることがないとは限らん。これを機会にみんなで真面目に考えてみることだね。」
 その時、奥さんが、
「どうも、おそくなりまして。」
 と、煎餅(せんべい)を袋ごと盆にのせて、茶道具といっしょに運んで来た。そして、次郎のすぐそばに尻を落ちつけ、みんなに茶を注ぎはじめた。そのきりっとした横顔が、次郎には、どことなく亡くなった母に似ているように思えた。
 先生は、奥さんが差出した湯呑を受取りながら、
「考えるったって、一つ一つの事がらをばらばらにつかまえて来て、あれは正しい、これは間違っている、と考えるだけでは、しようがない。それじゃあ、次郎君のような場合の解決にはならないんだ。君らに考えてもらいたいと思うのは、どうせ人間の世の中にはいろいろの間違いがあるんだから、その間違いの多い世の中をどうして秩序立て、調和して行くかという問題だよ。君らは恐らく、その一番の早道は遠慮なく間違いを正すことだと言うだろう。なるほどそれが完全に出来れば、たしかにそれが早道だ。しかし間違いはあとからあとからと新しく生じて来る。いつまでたっても完全に間違いのない世の中になる見込みはないんだ。汚ない譬(たと)えだが、われわれの体にたえず糞尿がたまるようなものさ。さあ、そうなると、間違いは間違いなりで、全体の調和を保ち、秩序を立てていくという工夫をしなければならん。そういう努力をしないで、一つ一つの事がらの正邪善悪にばかりこだわっていると、かんじんの全体が破壊されて、元も子もなくなってしまうからね。かりに君らが、君らの体の中の糞尿のことばかり気にかけて、朝から晩まで便所通いをしているとしたら、いったいどうだ。それよりは、お茶が出たらお茶を飲み、煎餅が出たら煎餅をかじって、糞尿のことなんか忘れている方が遙かに健全だろう。」
 みんなが、一度に吹き出した。奥さんも声を立てて笑った。そして煎餅の袋をみんなの方へ押しやりながら、
「さあ、さあ、みなさん、先生にみなさんの健全なところを見せてあげて下さい。」
 大沢から、恭一、新賀、次郎と、順々に袋がまわった。しばらくは煎餅を噛む音でさわがしかった。大沢は、茶を一ぱい飲み干すと、
「しかし先生、糞尿の溜めっ放しでも困るでしょう。」
「そりゃあ、むろんさ。臓腑(ぞうふ)の中が糞尿だらけになっては、たまらんよ。」
「不正を不正と知りながら、それと妥協するのは、糞尿を溜めっ放しにするのと同じではありませんか。僕は、新賀君の言う所にも道理があると思うんです。」
 新賀は眼をかがやかして、先生を見た。
「むろん道理がある。だから、新賀が、良心的にどうしてもそうでなくちゃならんと考えるなら、新賀にとっては、それが最善の道だ。」
「新賀君以外の人にとっては、最善の道ではないんですか。」
「最善の道であることもあれば、そうでないこともあるだろう。全体の調和とか秩序とかいうことを強く念頭に置いている人なら、新賀の考えている以上の道理を考えんとも限らんからね。」
 大沢は考えこんだ。恭一は、一人でかすかにうなずいていた。誰も口を出すものがない。次郎は自分の問題が中心になっていることなどもう忘れてしまって、大沢の顔を一心に見つめた。彼の眼には、真剣に考えこんでいる大沢の顔が、これまでの彼とはまるで別人のように映ったのである。
「先生、要するに心境の問題ではないでしょうか。」
 恭一が、しばらくして、めずらしく口をきいた。
「そうだよ。心境の問題だよ。」
 と先生は、大きくうなずいて、
「一つ一つの事がらの正邪善悪にこだわるのでもなく、さればといって、それに無頓着だったり、良心にそむいて邪悪に妥協したり、また、大沢の言うように、ひねこびた聖人君子の真似をしたりするのでもなく、全体の調和と秩序とのために、ごく自然に行動するというようなことは、心境を練らなくては出来ないことだ。心境を練ることを忘れて、たゞ頭で考えるだけでは、道理以上の道理は決してつかめない。つかめたようでも、いざとなると、やはり一つ一つの事がらの正邪善悪にこだわりたくなったり、自分を偽って聖人君子の真似をしたり、或はいい加減に妥協してしまったりしたくなるんだ。」
「わかりました。」
 と、大沢は、膝の上に立てていた両腕に力を入れて、まるでどなるように言ったが、すぐ、にやりと微笑して、
「しかし、先生もずいぶん残酷ですね。」
「何が?」
「そんなどえらいことを、先生は、今日、学校で次郎君に要求されたんじゃありませんか。」
「要求なんかしていないよ。」
「でも、次郎君は、先生の言われたことを一所懸命で気にしていましたよ。」
「そりゃあ、気にするはずだ。気にするように言ったんだから。次郎君が気にせんような生徒なら、私もあんなことを言やあしない。」
「じゃあ、気にするだけでいいんですか。」
「いいか、わるいか、それも次郎君が自分で考えるだろう。」
 次郎は、すっかり興奮して二人の対話を聞いていた。
「どうだい、次郎君、君、どうする? 宝鏡先生にあやまるんかい。」
 大沢がたずねた。次郎は、ちょっと返事にまごついたようだったが、
「僕、もっと考えます。」
 と、はっきり答えて、先生の顔を見た。先生は、
「そうだ。うんと考えるがいい。気持がほんとうに練れるまでは、五年でも十年でも考えるがいい。私は君の心の中でそれが練れるのをいつまでも待っている。一方では宝鏡先生にあやまる気になり、もう一方では大沢や新賀と絶交したい気になるような、ちぐはぐの心境では、全く剣呑(けんのん)だからね。」
 みんなが笑った。朝倉先生は凉しい眼をして次郎を見ていた。が、しばらくして、
「苦しむのはいいことだよ。」
 と、しんみりした声で、ぽつりと言った。それから、今度は、じっと新賀の方を見ていたが、
「君も、少し苦しんでみるがいい。ここでは、大沢や本田のような、苦しみたい連中がちょいちょい集って話しあいをすることになっているが、君もよかったら、これから次郎君といっしょにやって来たまえ。今のところ、三年以上の生徒ばかりだが、君らの仲間もこれから少しずつふえるだろう。」
 煎餅を平らげて四人がおいとましたのは、十時に近かった。奥さんが、門をしめかたがた、みんなを送って出て来たが、別れぎわに、次郎に言った。
「きょうはいじめられましたわね。……でも面白いでしょう。これにこりないで、またいらっしゃいね。」
 次郎は、なぜか、亡くなった母と、日田町の田添夫人との顔を同時に思い浮かべながら、默ってお辞儀をした。そして、暗い通りに出ると、新賀とならんで、沈默がちに歩いた。歩きながら今朝からのことを心の中でくりかえしているうちに、ふと「無計画の計画」という言葉が、新たに彼の頭に甦(よみがえ)って来た。彼は、思わず歩度をゆるめた。そして、闇をすかして、大沢の大きな体をうしろから見上げた。ちょうどその時、大沢は、
「おい、新賀君、どうやら次郎君と絶交しなくてもすみそうだね。わっはっはっ。」
 と、あたりに響きわたるような大声で笑った。

    八 白鳥会

 朝倉先生を中心にした生徒たちの集りを「白鳥会」といった。会員はこれまで十五名で、みんな三年以上の生徒ばかりだったが、今度、あらたに二年から三名、それに次郎と新賀とが一年から加わって、ちょうど二十名になった。たまには、日曜とか祭日とかに、そろって遠足をしたり登山をしたりすることもあったが、普通は、毎月第一土曜と第三土曜の二回、夕食後、先生の宅に集まって、代りばんこに何か話題を提供し、それについてお互いに感想や意見を述べあい、そのあと時間があれば、先生に何か簡単な話をしてもらって、十時ごろには解散する、といったふうであった。
 集まりには、いつも先生の書斎兼座敷と、その次の間とが使われたが、そのほかに、二階の八畳が、会員の図書室として年中開放されていた。玄関のつきあたりの階段をのぼったところがその部屋で、そこには、一間ものの本箱が一つと、うるしのはげた大きな卓が一脚すえてあった。本箱には、先生の読みふるしの本がいっぱいつまっており、たいていは、歴史や、伝記や、古典の評釈や、定評のある文芸物などで、新しい作家のものはほとんど見当らなかった。なお、会員が持ちよったらしい青少年向のいろんな読物が、一番下の段に三十冊あまりならんでいたが、それらは、先生の読みふるしの本とちがって、かなり装幀がくずれており、どの頁にも色鉛筆で、線や圏点(けんてん)が入れてあった。――集会の折の話題の半分以上は、この部屋での読書から生れるらしかった。
 次郎は、会員になってから、ほとんど一日おきぐらいには、学校の帰りにこの部屋に立ち寄った。すると、たいてい誰かが来合わせていた。たまには五六人もいっしょになることがあった。誰もがそれぞれ特色を持ちながら、どこかに何か共通な気持が流れているのが、次郎にもよく感じられた。時おり、誰かが奥さんに呼ばれて、力のいる仕事の手伝いをさせられたり、買物に行く間の留守居を頼まれたりすることがあったが、呼ぶものも、呼ばれるものも、まるで家族同様の気軽さだった。次郎には、そうした空気が、何か珍らしくもあり、嬉しくもあった。
 奥さんには子供がなかった。女中もつかわず、全く先生と二人きりだったが、用がない時には、ちょいちょいこの部屋にやって来て、「今、何を読んでいらっしゃるの?」とか、「あたしこの本、面白いと思うわ」とか、みんなの邪魔にならない程度に簡単な言葉をかけ、自分もいっしょになって何か読み出すといったふうだった。小床には、いつも何か花が活(い)けてあり、また卓の上にも一輪差が置いてあって、花がしおれないうちに必ず新しいのと取りかえられていたが、そうしたことは、すべて奥さんの心づくしであった。
 いつ来て見ても変っていないのは、掛軸と額だった。掛軸には、和歌らしいのが、むずかしい万葉仮名で、どこからどう読んでいいかわからないように書いてあり、額には漢字が五字ほど、これも読みにくい草書体で書いてあった。次郎には、むろん、何が書いてあるのやらさっぱりわからなかった。また、それを判読してみようという気にもならなかった。彼の眼には、どこの家にもある掛軸や額以上のものには、それが映らなかったのである。もっとも、何度もこの部屋に出入りしているうちに、額にある最初の二字だけは、いつの間にか彼の眼にとまるようになった。それは、「白鳥」と書いてあるらしく、会の名称と深い関係があるように思えて来たからであった。
「あれは、白鳥と読むんでしょう。」
 と、ある日、彼はちょうど来合せていた佐野という四年の生徒にたずねた。
「そうだよ。君、今まで知らんかったのか。」
 次郎は頭をかきながら、
「こないだから、そうじゃないかと思ってたんですが……」
「なあんだ、僕たちの会の名は、あの字にちなんでつけてあるんじゃないか。」
「僕、そう思ったから、きいてみたんです。」
「すると、君の兄さん、まだそれを君に教えてなかったんだね。」
「教わりません。」
「案外、君の兄さんものんきだなあ。今日、帰ったら、よく教わっとけよ、あの意味を。」
 佐野は、そう言って、読みかけていた本の頁をめくった。
 次郎は、しかし、もう帰るまで辛抱が出来なかった。彼は一心に額を見つめて判読しようとつとめた。「白鳥」の次の字は「入」という字にちがいないと思ったが、しかしそのあとの二字がどうしても読めなかった。
「おしまいの二字は何という字です。」
 彼は、とうとうまたたずねた。
「芦花だよ。あしの花さ。」
「すると、白鳥……芦花に入る、と読むんですね。」
「そうだ。白鳥芦花に入る。……しかし芦という字は実際変な字だねえ。誰だって教わらなきゃ、わからんよ。」
「誰が書いたんでしょう。」
 額は無落款(らっかん)だったのである。
「先生だそうだ。」
「先生が? どうして、誰にもわかるように楷書で書かれなかったんでしょう。」
「楷書で書くと、生徒より下手だから、みんなが有りがたがらないだろうって、冗談言っていられたよ。」
 佐野はそう言って笑った。次郎も笑ったが、すぐ真顔になって、
「どうして会の名をこの文句にちなんでつけたんでしょう。」
「それは、この文句に深い意味があるからさ。」
「そんなに深い意味があるんですか。」
「あるとも、大いにあるよ。」
「どういう意味です。」
「それはね。――」
 と、佐野は本を伏せて、次郎の方に体をねじむけたが、急に、
「あっ、そうだ。いけない。めったに教えちゃいけなかったんだ。君の兄さんも、それで教えなかったんだな。僕、うっかりしていた。」
 次郎は、変な顔をして、
「どうして教えてはいけないんです。」
「ついこないだ、先生にそう言われたんだ。はじめての人には、文字だけは教えてやってもいいが、意味は、一応めいめいに考えさしてみるがいいって。……僕たちが会員になった時には、真っ先に先生にそれを説明してもらったもんだがね。」
 次郎は、そう言われると、もう強いて教わろうという気がしなかった。彼は、もう一度額の字を見つめた。そして、何度も、口の中で「白鳥芦花に入る」をくりかえしていた。
 佐野は、次郎の様子をにこにこして眺めていたが、
「そうせっかちに考えたってわからんよ。すいぶんむずかしいんだから。それよりか、どうだい、あの掛軸の方は。あの方なら、字が読めさえすれば、意味はだいたいわかるよ。」
 次郎は、返事をしないで、そろそろと掛軸の方に眼を転じた。しかし、心はまだ額の字に未練を残しているらしかった。
「読めるかい。」
「読めません。どこから読むんです。」
「あのまん中の大きく書いたところから読むんだよ。」
 佐野は立ちあがって掛軸のそばに行き、一字一字、指で文字をたどりながら読んでやった。それによると、
「いかにして まことのみちに かなはなむ ちとせのなかの ひとひなりとも」
 というのであった。これには落款があり、左下の隅っこに変った形の朱印が一つ押してあった。
「意味はわかるだろう、だいたい。」
「ええ、わかります。」
 恭一の感化もあって、次郎にもこの程度の和歌なら、字づらだけの意味はどうなりわからないこともなかったのである。
「良寛の歌だってさ。」
「良寛?」
「知らないかい。面白い坊さんだよ。その本箱の中にも、良寛のことを書いたのが何冊かあるんだがね。」
 二人はすぐ本箱の前に立って、それをさがしはじめた。
「これがいい、これが一等面白いんだ。」
 佐野が、そう言って次郎の手に渡したのは、「良寛上人」という、四六判の、あっさりした装幀の本だった。
 次郎はすぐそれを読み出した。そのうちに、会員が五六名も部屋を出たりはいったりしたが、それが誰だったかもわからなかったほど、彼は熱心にそれに読みふけった。佐野もいつの間にかいなくなっていた。もううす暗くなっている部屋の中にたった一人坐っている自分を見出して、彼はやっと未練らしく立ち上り、本を本箱にかえした。まだ半分も読み終ってはいなかったが、本は一切室外には持出さない約束になっていたのである。
 翌日も、彼はさっそくこの部屋にやって来た。その日は、めずらしく彼一人だった。彼は昨日読みのこした部分を一気に読み終った。そしてほっと大きなため息をもらし、あらためて掛軸に見入った。昨日以来、「良寛上人」を読んでいるうちに、何か不思議な世界につれこまれていたといった気持だったのである。彼は、子供たちを相手に隠れん坊をして遊んでいるうちに、おいてきぼりを食った良寛の姿を、夢を追うような気持で心に描いた。それは、まるで合点(がてん)の行かない、それでいて否定してしまうには惜しくてならない、なつかしい姿だった。「焚くほどは風がもて来る落葉かな」――そんな句も、妙に彼の心にこびりついていた。本に説明してあることだけでその意味がはっきりつかめたというのではむろんなかったが、なぜか、良寛とは切りはなせない句のような気がしてならなかったのである。
 彼は、いつの間にか、掛軸にある「まこと」という言葉は、これまで修身の時間などで教わった「まこと」とは意味がちがうのではないか、という気がし出した。しかし、ただぼんやりそんな気がするだけで、どうちがうのか、それをはっきりさせる手がかりはまるでつかめなかった。彼は、ただ、何度も何度も、掛軸の文字に眼を光らせるだけだった。
「おや、きょうはたったお一人?」
 奥さんが、いつの間にはいって来たのか、次郎のすぐうしろから、声をかけた。次郎はびっくりしたようにふりむき、体を横にねじってお辞儀をした。
「なに読んでいらしたの?」
「これです。」
「ああ、良寛上人、――それ、あたしもついこないだ読みましたわ。いい本ね。面白かったでしょう。」
「ええ。」
「あの掛軸、良寛の歌ですわ。読めて?」
「昨日、佐野さんに教わりました。」
「そう? あの額の方は?」
「字の読方だけ教わったんです。」
「意味は自分で考えてみるんだって、言われたんでしょう。」
「ええ。」
「考えてごらんになって?」
「まだ、あまり考えていません。」
「考えようにも、ちょっと、どう考えていいかわかりませんわね。白い鳥が芦の花の中にはいるって、ただそれだけなんですもの。禅の文句なんて、まるで謎(なぞ)みたいなものですわ。」
 次郎は、世間で、わけのわからぬ言葉を禅問答みたいだ、というのを、これまでよく聞いたことがあったが、こんなのが禅の言葉かな、と思った。
「だけど――」
 と、奥さんは、にっこりして、
「意味はわからなくても、いい気持のする文句でしょう?」
 次郎は、ふと、自分の生れ故郷の、あの沢辺の晴れた秋景色を想像した。そこには芦が密生していて、銀色の穂波がまばゆいように陽に光っている。一羽の真白な鳥が、ふわりと青空を舞いおりて、その穂波に姿をかくした光景は、何ともいえない美しさだった。
「どう? 次郎さんは何とも感じません?」
「美しいと思います。」
「美しいというよりか、すがすがしいといった方がぴったりしなくって?」
「ええ。」
 次郎は、彼がこれまでに接したいかなる女性にも――亡くなった母にさえも――見出せなかったものが、この奥さんの言葉の中からしみ出て来るのを感じた。
「先生はね、――」
 と、奥さんは、今度は掛軸の方に眼をやりながら、
「良寛のあの歌にある“まこと”というのは、この額の文句と同じような気持だろうって、よくそう仰しゃっていますの。」
 次郎には、しかし、その二つがどんな点で結びつくのか、まるでわからなかった。彼は、けげんそうな眼をして奥さんの顔を見ながら、
「すると、白鳥芦花に入るっていうのは、誠という意味ですか。」
「そう言ってしまっても、いけないでしょうけれど、煎(せん)じつめると、そうなるかも知れませんわ。」
「どうして、そうなるんです。」
「そこを次郎さんが自分で考えてみるといいわ。」
 奥さんは、そう言って微笑した。が、しばらくして、
「でも、このままじゃ、あんまり手がかりがなさ過ぎるわね。……あたし、先生に叱られるかも知れないけれど、その手がかりだけ教えてあげますわ。」
 次郎は、それをきくのがちょっと卑怯なような気がしないでもなかった。しかし、その気持は奥さんの好意に甘えてみたい気持をおしつぶすほどに強くはなかった。彼は、いくぶん顔をあからめて、奥さんの言葉を待った。
「芦の花って真白でしょう。その真白な花が一面に咲いている中に真白な鳥が舞い込んだっていうのですわ。」
 奥さんは、それだけ言うと、また微笑した。そして、
「もうこれでおしまい。ほほほ。」
 と、謎のような笑い声を残して、階下におりて行ってしまった。
 次郎は、それから小半時も、掛軸と額とを見くらべながら、ひとりで考えこんだ。しかし、いくら考えても、彼の頭では、「白鳥入芦花」と「まこと」とを結びつけることが出来なかった。彼は、芦原の中に、きょとんとして立っている良寛の姿を想像したりして、何だか馬鹿にされているような気がするのだった。

    九 自己を掘る

 次郎が「白鳥入芦花」の意味をどうなりつかみ得たように思ったのは、それからふた月以上もたって、彼が二年に進級したあと、はじめて白鳥会が開かれた晩のことだった。
 その晩の話題は、期せずして、新五年生の下級生に対する態度に関係したことに集中され、とりわけ、大沢が級会において、多数の五年生を相手に猛烈な論争をやったことが、興奮と感激とをもって語られた。
「じっさい、大沢君の論鋒(ろんぽう)は鋭かったよ。痛快だったね。」
「やつらがいきり立てばいきり立つはど、大沢君、落ちつくんだからね。すっかり感心しちゃったよ。」
「しかし、汝ら罪なき者彼らを打て、という文句を引き出して、やつらを睨みまわした時には、大沢君もさすがにちょっと興奮していたようだったね。」
「あの時、誰か隅っこの方から、アーメンなんて野次った奴がいたぜ。」
「あんなのが一番下劣だね。真正面からぶっつかって来る奴は、まだ脈があるんだが……」
「しかし、大沢君が、おしまいに、大の字なりに寝ころんで、下級生を鉄拳制裁する代りに、おれを踏むなり蹴るなりしろ、と呶鳴った時には、どうなることかと心配したよ。」
「あの時は、さすがに奴らもしいんとなってしまったね。」
 佐野や恭一や、そのほかの新しい五年生たちが、代る代るそんなことを言った。大沢はただにやにや笑って聞いていた。朝倉先生も、腕組をしたまま、默々として聞き入っていたが、急に、大沢に向って、
「で、結局、どう落ちついたんだ。」
「お流れです。しかし、僕、最初っから僕たちの考えにまとまるとは考えていなかったんです。お流れになれば成功でしょう。」
「うむ――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えて、
「しかし、このままではいけないね。このままでは、どうせ鉄拳制裁の悪風はやまんよ。」
「しかし、そういうことを五年生全体の特権のように考えていたことだけは、これで破ることが出来たと思います。」
「その代り、病気を深部(しんぶ)に追いこんだことになるかも知れんね。」
「はあ?」
 と、大沢はその大きな眼をぱちぱちさした。すると、先生の澄んだ眼が、かすかに笑って、
「君もまだ、案外、形式主義者のようだね。」
 大沢は、すっかりあわてて、膝を立て直した。ほかの生徒たちも、これは案外だという顔をしている。
「むろん、五年生全体の名において、下級生に鉄拳制裁を加えることが、これまで当然のことのように考えられていたのは、この学校の一番の悪風だ。だから、君が、今度五年生になったのを機会に、それを打破しようとしたのは、決して間違いではない。ただその方法に問題があるんだ。何だか、いま聞いたところでは、化膿(かのう)した盲腸を叩きつぶして、腹膜の原因を作った、といった恰好ではないかね。」
「そんなことになるんでしょうか。」
「どうも、そうなりそうだね、鉄拳制裁の好きな連中は、これから、こそこそ勝手な行動に出るよ。ちょうど盲腸からとび出した膿(うみ)のように。」
 大沢は、少し眼を伏せて考えこんだ。
「なるほど、五年全体の名において大っぴらにそれがやれなくなれば、形式としては前よりはよくなるわけだ。しかし、実質的には一層始末に終(お)えないものになるかも知れん。実は、学校として、そのことで、これまで五年生に強圧を加えなかったのも、そうなるのを恐れたからなんだ。」
「すると、いつまでもこのままにして放って置かれるつもりだったんですか。」
「そうではない。君らの眼にはどう映っていたか知らないが、大垣校長が、赴任されて以来、内々最も苦心されて来たのは、そのことなんだ。幸い、葉隠の四誓願が、そのまま校訓同様のものになっていたし、校長は、あの大慈悲という言葉を強調して、じりじりと辛抱づよく今日まで努力してこられたんだ。もうそろそろまる四年になるね。校長が赴任されたのは今の五年生が一年の二学期をむかえたときだったんだろう。」
 朝倉先生は、そう言って、感慨深そうに、みんなの顔を見まわしていたが、
「吉田松陰の言葉に、天下は大物だ、一朝の奮激では決して動くものではない、それを動かそうと思えば、誠を積まなければならない、といったような意味のことがあるが、一つの学校を動かすにも、やはり同様だね。校長が辛抱強く誠を積んで来られたればこそ、君らのように、進んで校風刷新のために戦おうという生徒も何人かあらわれて来たんだ。君らほどの熱意はなくても、心の中では、君らに味方したいと思っていた生徒が、きっとほかにも沢山あるだろう。四五年前とはたしかに全体の空気が変って来ているよ。この分で、もう二三年も努力すれば、自然に悪風もなくなるだろうと、いつも校長とお話していたところだったがね。」
 大沢は、いつになく、首を垂れて聴いていたが、
「すると、僕、校長先生のお考えをぶちこわすようなことをしてしまったんでしょうか。」
「ぶちこわしたというほどでもないだろう。しかし、校長は、五年が二派にわかれて争うようなことになってはならないって、いつもそれを心配していられたんだ。生徒には、もともと善玉も悪玉もない。それが、はっきり善玉と悪玉とにわかれてしまって、学校が、やむを得ず善玉のあと押しをしなければならんようになっては、教育もおしまいだ、というのが校長のお考えでね。実は、私も、そのお言葉をきいた時には、はっとしたよ。わざわざあんな下手な字なんか書いて、この会の名をそれに因(ちな)んでつけることにしたのも、そのためだったんだ。」
 次郎は眼をかがやかした。
「とにかくはっきりした対立的な情勢を作ったのは、君の失敗だったよ。白鳥芦花に入る気持がほんとにわかっていたら、もっとほかに方法が見出せそうなものだったがね。」
 大沢は、しきりに首をふった。ほかの生徒たちも、お互いに顔を見合わせて默りこんでいる。朝倉先生は、にこにこして、しばらくその様子を眺めていたが、
「こないだ、ある本を読んでいたら、こんな話が書いてあった。それは、支那の何とかいう禅宗の坊さんの話だがね。その坊さんが自分の弟子をほかのお寺にしばらく修行に出してやった。何年かたって、その弟子が帰って来たので、何か得るところがあったのか、とたずねると、弟子は默って地べたに円を描いて見せたそうだ。円が何を意味するのか、われわれ素人にはわからんが、とにかく何か悟りを開いたという意味なんだろう。ところで、そのあとが面白い。その円を見た師匠の坊さんは、たったそれっきりか、と呶鳴りつけたんだ。すると弟子は、今度はその円をさっさと消してしまった、というのだ。どうだい、大沢、円を消してしまったところが非常に面白いではないかね。」
「はあ――」
 大沢は少しも面白そうな顔をしていない。
「君も、どうなり、五年生相当な円を描くことは出来るようになったらしいが、まだその円を消すところまでは行っていないようだね。」
「はあ――」
 大沢は、また「はあ」と答えた。今度は、しかし、何か思いあたるところがあるといったような返事の仕方だった。朝倉先生は、たたみかけて、
「君が、大の字なりに寝転んで、たんかを切ったところなんか、まるで円の上を三角で上塗りしたようなものだったね。それじゃ、せっかくの円も台なしだよ。」
「すみません。」
 大沢は、その大きな肩をすぼめて、右手で後頭部をおさえた。
 次郎は、さっきから、二人の対話に一心に耳を傾けていたが、大沢がすっかり弱りきっているのが、ふしぎでならなかった。彼は七つ八つの子供のころ、「饅頭虎」と「指無し権(ごん)」という二人のならず者が、酒の座で喧嘩をはじめ、父の俊亮がその仲裁にはいったときの光景を思い起していた。父は、その時、両肌をぬいで二人の間に割って入り、「それほど喧嘩がしたけりゃ、おれを片づけてからにせい。おれの眼玉の黒いうちはお互いに指一本ささせないぞ。」といったようなことを大声でどなり、すぐ二人を平身低頭させたが、その時の感激は今に忘れられない。大沢のやったことも、それと同じではないか。自分の身をなげ出して不正を防ごうとしたことが何で悪いのだろう。次郎には、そんな気がしてならなかったのである。で、彼はいきなり先生にたずねた。
「大沢さんのやったこと、どうして悪いんですか。」
 先生は、しばらく返事をしないで、まじまじと次郎の顔を見ていたが、
「君には、ちょっとむずかしいかな。」
 と、またしばらく言葉を切って、
「君は、あの額の意味を考えてみたのかい。」
「考えてみました。しかし、わかんないです。」
「ふむ――じゃあ、今日はいい機会だから、ひととおり話しておこう。はじめての人はよくきいておくんだ。」
 そう言って、朝倉先生は説明をはじめた。しかし、その説明は、最初のうち、額に書いてある文字には少しもふれなかった。話は、先ず、先生がこのごろよく座談会などに出かけて行く近在の村の事から始まった。
 その村には、三十台ぐらいの若い人たちが、二十数名集まって、一つの団体を作り、いつも村のことを研究し、熱心に村生活の調和と革新とを図(はか)っている。しかし、世間普通のそうした団体のように、正面切って改革を叫んだり、集団行動に出たりするようなことはほとんどない。団員は、月に何回となく集まって、意見を出しあい、議をねり、計画を定め、その実現を誓いあうが、それをその団体の決議だなどといって、大ぴらに発表したりすることは決してない。彼らは、それがめいめいに出来ることだったら、默って率先躬行するし、村全体でやらなければならないことだったら、めいめい自分の近しい人から、茶飲み話の間に角立てないで説き伏せて行く。そんなふうで、いつの間にやら、村の気風を改め、世論を指導して行くので、大ていの人は、そんな団体の存在をはっきり知らないし、知っても気にとめない。いわば村の地下水となって村民の生活の根をうるおしているようなものだ。こういうのが、ほんとうの意味で公共に仕える道ではないか。――
 次郎も、話がそこまで進むと、「白鳥芦花に入る」が、何だかぼんやりわかって来たような気がした。
「それにくらべると――」
 と、先生は、ちらと大沢を見た眼を次郎の方に転じながら、
「大沢のやりかたには、やはり足りないところがある。むろん、自分を売るといったような不純な気持が大沢に少しでもあったとは私は思わない。大沢も、もうそこいらはとうに突きぬけているよ。しかし、とにかく大沢という人間が、けばけばしく出過ぎて、古い型の英雄になってしまった事はたしかだ。いわば、真黒な鳥が白い芦の花の中に飛込んだようなものだね。」
 みんなが思わず笑い出した。大沢は、顔をまっかにしながら、
「わあっ、今日は、僕、台なしだな、次郎君も、もう僕を弁護するのはよしてくれよ。」
 それで、また、一しきり笑い声が賑やかだった。その笑い声がしずまるのを待って、先生は次郎に言った。
「どうだ、もうたいてい意味だけはわかったろう。真白な鳥が、真白な芦原の中に舞いこむ、すると、その姿は見えなくなる。しかし、その羽風のために、今まで眠っていた芦原が一面にそよぎ出す、というのだ。お互いに、この白鳥の真似がしてみたいものだね。しかし、なかなかむずかしいぞ。それがほんとうに出来るまでには、よほど心を練らなくちゃならん。自分の正しさに捉われて、けちな勝利を夢みているようでは、とても白鳥の真似は出来るものでない。良寛のような人でも、「千とせのなかの一日なりとも」と歌っているくらいだからね。」
 次郎は、頭に蔽(おお)いかぶさっていたものを、一時にとり去られて、青い空を仰ぐような気持だった。が、同時に、朝倉先生が、いつの間に自分の心をこれほど深く見ぬいたのだろう、と、何か恐ろしい気もした。彼は、思わず部屋じゅうの人たちの顔を、そっと見まわした。すると、いつの間にはいって来たのか、部屋の入口の、円座から少しさがったところに、奥さんがつつましく坐って、こちらを見ていた。その眼は、次郎の眼をとらえると、にっこり笑ったが、
「ね、わかったでしょう。」
 と、そう言っているような眼だった。
 次郎は、これまで、白鳥会というものを、ただ、真面目な生徒たちの集まりだ、というふうに、ぼんやり考えていたが、この晩の集まりで、先生の心のなかには、もっとはっきりしたねらいがあるということに気がついた。しかも、そのねらいは、誰に向けられているよりも、より多く彼自身に向けられているような気さえしたのである。彼は、それ以来、本を読むにも、人に接するにも、何かこれまでとはちがった角度に立って、ものを見るようになった。ことに、伝記物などを読んでいて、以前なら感心したであろうと思われるところに、あまり感心しなかったり、大して注意をひかなかったであろうと思われるところに、かえって深い興味を覚えたりした。また、おおかた一年近くも、彼の幼い思想の、唯一の拠りどころとなっていた「無計画の計画」という言葉にも、彼は自分で知らない間に、新しい意味をつけ加えていた。それは、もはや彼にとって、単に彼をとり囲む運命の神秘を意味するだけではなく、彼自身の心を、もっと自然な、作為のないものにするための指標として役立つようになっていたのである。
 次郎の幼年時代をくわしく知っている読者なら、誰でも気づいたであろうように、そのころ彼は、精力の半ば以上を、周囲の人々の彼に対する気持を推しはかることに費していた。かつて、私は、「次郎にとって何の自制心も警戒心も必要としないただ一人の相手、嘘であろうと、誇張であろうと、そのままにうけ入れてくれるただ一人の相手、そして、かりに腹を立てあうにしても、腹を立てあうことそのことが愛のしるしでさえあるようなただ一人の相手、それは乳母のお浜だけであった。」というような意味のことを書いたが、じっさい彼は、お浜以外の人のいるまえで、作為のない自然な行動に出たことは、めったになかった。彼は、人目をぬすんで火薬を弄(もてあそ)び、大怪我をして苦しんでいた時ですら、周囲の人々の驚きや、心配や、同情の程度をひそかに測定することを忘れず、彼の過失に対する非難がどうやら彼のうめき声で帳消しになったらしいのを知って喜んだくらいである。彼の悪行も、善行も、純粋に彼自身のものであることは極めてまれであった。それを刺戟したものは、たいていの場合、周囲の人々の思わくだったのである。彼が、「愛せられる喜び」から「愛する喜び」へ心を向けかえようと努力したのも、そうした自分の弱さや醜さに嫌悪を覚えたからであったが、しかし、それとても、まだほんとうに純粋なものだったとはいえなかった。やはり、彼の心のどこかには、病床にあった母のために、自分の小遣いから、少しばかりの牛肉を買って戻ったころのほめられたい気持が、まだしみついていたのである。彼は、白鳥会の仲間、とりわけ大沢や新賀の、物ごとに渋滞(じゅうたい)しない、率直な態度を見るにつけ、それがはっきり自覚されて来た。「無計画の計画」という言葉が、彼にとって新しい意味をもつようになったのも、そのためだったのである。
 はた目にはいかにもあれ、彼が白鳥会の一員となってからの内面的闘争には、涙ぐましいものがあった。「円を描いて円を消す」――「白鳥芦花に入る」「無計画の計画」――「誠」――そうした言葉は、会の集まりの席ではむろんのこと、家庭でも、学校でも、そのほかどんは場所ででも、彼の心を往復した。彼の一言一行は、そうした言葉のどれかを思い起すことによって、用心ぶかく選まれ、そして省みられたといっても、言いすぎではなかったのである。しかも、それで彼の言動の自然さがいくらかでも取りもどせたかというと、決してそうではなかった。それどころか、それらの言葉がいつも彼の頭にこびりついていることが、却って彼の心を束縛し、彼の言動の自然さをぶちこわすことにさえなるのだった。彼は作為すまいとする作為によって、手も足も出ないことがあった。それは、彼にとって大きな矛盾(むじゅん)であったにちがいない。しかし、彼自身では、少しもその矛盾には気がついていなかったのである。
 だが、彼がこの矛盾に気がつかなかったということは、彼の前途にとって、必ずしも不幸なことではなかったであろう。というのは、円を消すには先ず円を描かなければならないし、無計画の計画は、計画をつきぬけた人だけにしか出来ないことだからである。次郎は青年期に入ってまだ間もない人間だ。幼年時代にうけた心のきずは、そう早く枯れてしまうものではない。そのきずが深ければなおさらのことだ。なるほどそれにこだわるのは、見た目に決していいものではない。本人も、むろん苦しかろう。だがこだわりにこだわって、こだわりぬいたところに、ほんとうにこだわらない道がひらけるのだ。私たちは、そう思って、朝倉先生と共にゆっくり彼の将来を見まもって行きたいのである。

    一〇 淋しき別離

 それから約一年が過ぎた。次郎も、もう三年生である。
 大沢と恭一とは、卒業後そろって高等学校の文科にはいった。大沢は政治に志し、恭一は文学に志していたのである。
 白鳥会も、その間に少しずつ人数を増して行って、三十数名になったが、みな、それぞれの学年で粒よりのものばかりだった。一般の生徒からは、少し変り者扱いにされ、かげでは、「鵞鳥」とか、「あほう鳥」とか、「孔子の枯糞」とか呼ばれることもあったが、それでいて、何とはなしにみんなに尊敬されているといったふうであった。それには大沢の在校中の言動があずかって力があったことはいうまでもない。ことに、彼が鉄拳制裁問題で闘って以来、彼の下級生からうけた信望は大したものであった。それがやがて五年生の大部分にも反映して、朝倉先生が心配したように、彼らが二派にわかれて争うというようなことにもならないですんだ。こうして彼の存在が生徒たちの眼に大きく映るにつれて、白鳥会員全体が、何か犯しがたい力をもっているもののように思われて釆たのである。
 次郎の心境も、この一年あまりの間に、たしかにいくらかの進歩を見せた。周囲の思わくにこだわるくせからは、まだすっかりぬけ切ってはいなかったが、こだわったあとで、それを取り繕ったりするような二重のこだわりは、よほど少くなっていた。それだけに、彼自身の気持もいくらか軽くなり、周囲の人々も、彼が次第に快活になって行くのを喜んだ。
「本田も、このごろ、いくらかすべりがよくなったようだね。しかし、上滑りは禁物だ。」
 朝倉先生は、白鳥会の集まりの時に、一度そんな事を彼に言った。――白鳥会では、恭一がまだ在校していたころは、恭一を「本田」と呼び、次郎を「次郎君」と呼ぶならわしだったが、恭一の卒業後は、いつとはなしに次郎が「本田」と呼ばれるようになっていたのである。
 宝鏡先生と彼との関係は、それ以来少しも発展しなかった。一年級の終りまでは、――といっても、事件後僅か一ヵ月あまりだったが、――教室でおたがいに多少気まずい思いをしながらも、事なくすんだ。次郎の学年成績の通信表に記された数学の点は七十五点で、彼の出来栄え相当であった。ただ、彼は内心いくらか不満に思ったのは、第一、第二学期とも甲であった操行評点が乙にさがっていたことであった。しかし、彼は、それを宝鏡先生のせいにする気には不思議になれなかった。操行評点は学級主任が原案を作ってそれを職員会議にかけて決定する、ということをかねて聞いていた彼は、罪は小田先生にあるような気がしていたのである。
 二年に進級すると、数学の受持の先生が変って、次郎は、宝鏡先生とはほとんど顔をあわせる機会がなくなった。彼はそれでほっとした気にもなったが、また一方では、先生が二年級について来なかったということが、全く自分のせいででもあるような気がして、何かすまない気持だった。そして、式や何かの場合には、彼はいつも、講堂の隅っこの席に行儀よくかしこまっている先生の姿を、遠くから注意ぶかく眺めていた。彼の眼には、先生の姿がいつもしょんぼりしているように見えた。人なみはずれた巨大な体躯であるだけに、それが一層淋しく思えるのだった。そんな時、彼がきまって思い出すのは、朝倉先生の「課題」だったが、それは時として彼を物悲しくさえさせるのだった。
 こうして、とうとう彼は三年に進んだが、その第一学期の試験も明日で終るという日の朝、彼が校門をはいると、すぐ右手にある掲示場の前に、十四五名の生徒がたかって、やんやと何かはやし立てていた。中には、遠方にいる生徒たちを大声で呼んだり、手招きしたりしているものもあった。彼も、ついそれに誘われて、急いで近づいてみると、そこには黒塗の掲示板が二枚かかっており、まだ十分に乾ききれない白堊の毛筆書きで、その一方には、「教諭心得宝鏡方俊、願ニ依リ本職ヲ免ズ」とあり、もう一方には、「明○○日第一学期終業式後宝鏡先生ノ送別式ヲ行ウ」とあった。次郎は、それを見た瞬間、妙に胸をしぼられるような気がした。そして、しばらくは白堊の文字を見つめたまま、ほかの生徒たちの騒ぎの中に、じっと突っ立っていた。
「とうとうやめたのか。」
「しかし、よく辞職したね。」
「論旨(ゆし)さ、むろん。」
「論旨って何だい。」
「論旨退学の論旨だよ。」
「先生にもそんなことがあるんだね。」

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