次郎物語
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著者名:下村湖人 

 彼は、われ知らず、もう半年以上も忘れていた皮肉な微笑をもらした。そして、靴のかかとで二三回強く枯草をふみつけたあと、思いきったように教室の方に足を運んだ。足を運びながら、彼は、小学校三年のころ、亡くなった母に、お祖父さんの算盤(そろばん)をこわしたのはお前だろう、とおっかぶせられて、そのまま無実の罪を被てしまった時のことを思い出し、さすがにいやな気持になった。しかし、それは彼の決心をにぶらすどころか、かえって彼を興奮させるに役立つだけだったのである。
 教室にはいると、彼は、
「おくれました。」
 と、ただそれだけ言って、自分の席についた。彼の机は、もうあたりまえに並べてあり、筆入も、中身といっしょに、きちんとその上にのせてあった。
 その時間は、ちょうど学級主任の小田という若い国語の先生の時間だったが、次郎の顔を見てちょっとうなずいたきり、おくれた理由を問いただしてみようともしなかった。次郎は、もう先生は何もかも知ってるんだ、と思った。
 時間は、あと二十分ばかりだったが、授業には、むろんよく身が入らなかった。そして、その時間がすむとちょうど午前の授業が終りになるので、次郎は、早引を願って帰ろうかとも考えていた。ところが、いよいよ鐘が鳴ると、小田先生は次郎の机のそばにやって来て言った。
「飯をすましたら、すぐ私の所に来るんだ。それから、朝倉先生も、君に話があると言っていられる。」
 次郎は、朝倉先生ときいて、急に胸がどきついた。それはこわいともうれしいともつかぬ、そして妙にひきしまるような愛情の鼓動だった。

    五 誤解する人

 小田先生の姿が教室から消えると、生徒たちは、くちぐちに、次郎に同情の言葉をなげかけた。とりわけ新賀は、次郎の机のそばにやって来て、真剣に彼を励ました。
「ホウキョウ・ホウシュンが、きっと自分勝手な理窟をつけて、朝倉先生に言いつけたんだよ。かまうもんか、君にちっとも悪いことなんかないんだから。……朝倉先生にだって誰にだって、びくびくするな。先生の方で君が悪いと言ったら、僕きっと君に応援するよ。」
 次郎は默ってうなずいた。そしてすぐ弁当をひらいたが、彼の気持はかなり複雑だった。
 朝倉先生には、室崎との事件以来、めったに会ったことがない。言葉を交す機会など、まるでなかった。それでも、彼の心に生きている先生は、いつも新鮮だった。たまたま廊下などですれちがったりすると、彼は処女のように顔をあからめて敬礼した。先生は、それに対して、ただうなずくだけだったが、その微笑をふくんで澄みきっている眼が、何かとくべつの意味をもって彼を見ているように彼には感じられるのだった。彼が学校にいるかぎり、彼の意識の底には、いつもその眼があり、古ぼけた校舎もそれで光っていたし、彼の教室に出て来る凡庸(ぼんよう)な先生たちにも、それでいくらか我慢が出来ていたのである。
 それにもかかわらず、きょうは不思議に、今までその眼を思い出さなかった。騒ぎの最中はとにかくとして、室崎との事件のあった銃器庫の裏に、あんなに永いこと一人でいながら、どうしてそれが思い出せなかったのか、彼自身にもわからなかった。彼は、何か罪でも犯したように思って、気がとがめるのだった。
 しかし、一方では、間もなく朝倉先生の前に出て、事実をはっきりさせることが出来るんだと思うと、何か昂然たる気持にさえなった。彼は、いつの間にか、朝倉先生の前で、宝鏡先生を言い伏せている自分を想像して、一人で力んでいた。
(先生は自分から進んで、僕に話したいことがあると言われた。それは、きっと僕を信じていて下さるからだ。)
 彼は、そんなふうに考えた。
 だが、また一方では、変に怖いような気がしないでもなかった。室崎との事件のあとで、先生に「自分より強いと思っていたものに一度勝つと、そのあと善くなる人もあるが、かえって悪くなる人もある。」と言われたことが、ふと思い出された。彼は、あまり図に乗って喋(しゃべ)るようなことはすまい、と自分の心に言いきかせた。
 弁当をすますと、彼は、はやるような、それでいて変に重たいような気持で廊下を歩いた。教員室の戸をあけると、炭火のガスでむっとする空気が、部屋中にこもっているのを顔に感じた。
 彼は、その空気の中を小田先生の机のそばまで歩いて行った。
 小田先生は、次郎を見ると、待っていたように立ち上って、彼を別室へつれこんだ。その室は、生徒監室のすぐ隣で、何か問題の起った時に、生徒を取調べたり、訓戒したりする室だった。次郎は、この室にはいるのははじめてだったが、さすがに身がひきしまるのを覚えた。
 ところどころ虫の食った青毛氈のかけてある卓を中にして腰をおろすと、先生はすぐたずねた。
「宝鏡先生が、非常に怒っていられるが、いったい、どうしたんだ。」
「僕には、わかんないです。」
 次郎は、そっけなく答えた。が、すぐ、言い直すように、
「ほかの生徒にきいて下されば、わかるんです。」
「それは訊いてみたんだがね。宝鏡先生の言われるのとは、ちがっているんだ。」
「どうちがっているんですか。」
 次郎は、あべこべに詰問(きつもん)するような調子だった。
「宝鏡先生は、君には、いつも先生の揚足をとって面白がる癖がある、と言われるんだ。」
「揚足をとるって何ですか。」
「先生のちょっとした言い損いや書き損いをつかまえて、とやかく言うことだよ。」
 まるで、国語の質問にでも答えているような言い方だった。
「すると、先生にどんな誤りがあっても、生徒は默っている方がいいんですか。」
 次郎は、もうすっかり意地わるくなっていた。彼には、小田先生が、宝鏡先生の方に非があるのを知っていながら、強いてそれを弁護しようとしているとしか思えなかったのである。
「うむ――」
 と、先生は行きづまって、変な笑いをもらした。すると、次郎は、その笑いに食いつくように言った。
「先生、僕たちにそれをはっきり教えて下さい。僕たちは、先生が間違いをなさるのを面白がるなんて、そんなことちっともないんです。僕たちはただ困るだけです。だから、それを見つけたらすぐそれを言うんです。それが悪いんですか。」
「それは悪くないさ。しかし、わざと教室をさわがすために、それを言うのはいかんよ。」
「僕には、さわがすつもりなんかなかったんです。僕はホウキョウ先生が気の毒だったんです。」
「しかし、トミテル先生は――」
 と「トミテル」に力をいれて、
「君に騒がすつもりがあった、と信じていられるんだ。先生は君にいつもそんな癖があると言われる。」
 次郎は、急に默りこんだ。そして、それっきり、先生の顔をまともに見つめたまま、何を言われても返事をしなくなった。先生の方では、
「宝鏡先生は、君に教室をさわがすつもりがあったと言われるし、君はそうでないと言うし、私もどちらを信じていいか、実はわからないでいるんだ。」
 とか、
「君に実際やましいところがなければ、自分で宝鏡先生に礼をつくしてお話したら、先生もきっとわかって下さるだろう。」
 とか、いろいろ次郎の気持に妥協(だきょう)するようなことを言ってみたが、次郎の沈默は頑としてやぶれなかった。
 小田先生は、すっかり手こずってしまった。もともとこの先生は、次郎という人間をよく知っていたわけでもなく、学級主任として、この問題に自分で一応の解決をつける責任があり、それには、次郎はまだ一年生のことだし、よく言って聞かせて、ともかくも謝罪させ、その上で生徒監である朝倉先生に訓戒でもしてもらえば、それ以上のことはないぐらいにしか考えていなかったのである。しかし、こうなると、もう解決どころのさわぎではなく、自分の立場までがどうやらあやしくなって来た。浅い良心で、お座なりの形式をふんで行くことを健全な教育法だと心得がちな、温良型の先生がよく味わう悲哀なのである。
「本田!」
 と、先生の温良な声は、もうすっかり悲痛な調子に変っていた。
「先生が、これほど事をわけて話しているのに、なぜ返事をしないんだ。」
 次郎は、しかし、その程度の悲痛さに動かされるほど、単純な生徒ではなかった。彼は依然として先生を見つめたまま沈默を守っている。
「じゃあ、私はもう知らんぞ。生徒監室に引渡すが、それでいいのか。」
 先生は、早くもその取っときの奥の手を出すことを余儀なくされた。次郎は、それで、やっと口をきくにはきいたが、その答えは、先生の予期に反して、あまりにも簡単明瞭だった。
「いいです。」
 これは、しかし、彼のやけくそから出た青葉でもなく、さればといって、朝倉先生に一刻も早く会いたいための言葉でもなかった。彼は、実際、生徒監室がどんなところか、そしてそこにはどんな先生がいるのか、上級生たちが知っているほど、くわしく知っていたわけではなかったのである。ただ、彼は、彼にとって全く無意味だとしか思われない言葉を、いつまでも聴(き)いているのがばかばかしかった。で、与えられた機会を無造作につかんで、対談をぶち切ってしまったまでのことで、それが相手にとってどんな迷惑になるかは、むろん、彼の知るところではなかったのである。
「生徒監に引き渡した以上、学級主任としては、あとがどうなっても知らんぞ。それでいいのかね。」
 小田先生は、未練らしく、もう一度駄目を押した。
「いいです。」
 次郎の答えは、あくまで簡単で、はっきりしていた。こうなっては、小田先生もいよいよ立ち上らざるを得なかったらしく、
「しばらく、ここで待っているんだ。」
 と、捨ぜりふのように言って、隣室に消えた。
 次郎は、一人になると、さすがに変な気重さを感じた。彼は、それをまぎらすように、室内を見まわしたが、正面に額が一つかかっているきりで、ほかには何の飾りもなかった。額には「思無邪」とあった。次郎は、しかし、それをどう読んでいいのかわからなかった。無邪気という言葉と何か関係があるんだろう、と思ったきり、それ以上考えてみようともしなかった。
 隣室からは、おりおり笑い声がきこえた。次郎は、最初のうち、その笑い声をきくと腹が立った。しかし、何度もきいているうちに、その声に聴き覚えがあるような気がして、じっと耳をすました。
(そうだ、朝倉先生の声だ。)
 彼は、そう思うと、朝倉先生が生徒監の一人であり、自分に話すことがある、と言われたのもそのためだったということが、はっきり意識されて来たのである。
 彼は、もう、隣室とのあいだの戸がひらくのが、待遠しくてならなくなった。
 しかし、戸は容易にひらかなかった。やっとそれが開いたのは、午後の時間の用意の鐘が間もなく鳴ろうという頃だった。
 はいって来たのは、小田先生と朝倉先生の二人だった。次郎は、うろたえたように立上って、朝倉先生に敬礼した。すると、朝倉先生はにこにこしながら、
「本田は、よくいろんな変った事件を起すんだね。」
 と、無造作に椅子をひいて、腰をおろした。それから、
「まあ、かけたまえ。」
 と、次郎にも腰をおろさせ、
「しかし、今度は、室崎の時とはちがって、君の方が机もろともかかえ出されたそうじゃないか。さすがに、君も面喰らったろう。」
 朝倉先生は、そう言って大きく笑った。それは、まるで取調べをするとか、訓戒をするとかいった調子ではなかった。が、先生はそれからしばらく窓の方を見たあと、急にまじめな顔をして、
「小田先生は、学級主任として君のことを非常に心配していられるんだ。」
 次郎は、ちらと小田先生を見たが、すぐ冷やかに眼をそらした。
「実はね――」
 と、朝倉先生は、しばらく間をおいて、
「小田先生は、君に悪気があったなんて、ちっとも思ってはいられないんだ。私も、むろん、そうは思っていない。校長先生にはまだお話してないんだが、お話しても、たぶん、そうは思われないだろう。だから、学校としては、君の正しさを疑ってはいないんだ。君はそれを信じてもよい。」
 次郎は、心が躍るようだった。しかし、ついさっきまで自分を疑っていた小田先生が、朝倉先生のそんな言葉を默って聞いているのが不思議でならなかった。
「しかし、――」
 と、朝倉先生は、次郎の顔を注意ぶかく見まもりながら、
「人間の世の中には、誤解ということがある。これは、時と場合によって免れがたいことだ。君だって、これまでに、人を誤解したことが何度もあるだろう。」
 次郎の頭には、幼いころからの自分の生活が、一瞬、走馬燈のようにまわった。
「どうだね。」
 朝倉先生はやさしく返事をうながした。
「あります。」
 次郎は素直(すなお)に答えて、少しうなだれた。
「誤解された人は気の毒だ。だから、そういう人があったら、みんなでその人のために弁護をしてやらなければならん。これはあたりまえのことだ。」
 次郎は、小田先生の顔をそっとのぞいて見たいような気がしたが、視線はわずかに青い毛氈の上をはっただけだった。
「しかし、気の毒なのは、誤解された人だけではない。誤解する人も、やっぱり気の毒だよ。どうかすると、誤解された人以上に、その人をいたわってやらなければならないこともある。君は、自分で、そんなふうに考えたことはないかね。」
 次郎には、急には返事が出来なかった。朝倉先生は、毛氈の上に組んでいた手を、そのまま顎の下にもっていって、数でも読むように指を動かしていたが、
「君が、自分で人を誤解した時のことを、よく考えてみたら、わかるだろう。」
 次郎は、もう一度、自分の過去につきもどされた。いろんな人の顔が彼の前にちらついた。その中には、亡くなった母の観音様に似た顔もあった。彼の頭からは、その時、宝鏡先生のことなどすっかり拭い去られてしまっていた。
「わかるはずだと思うがね。」
 朝倉先生は、組んだ手をもう一度毛氈の上にもどして、少し顔をつき出した。
「わかります。」
 次郎の顔は、もうその時には、毛氈にくっつくように垂れていた。
「うむ――」
 と、朝倉先生はうなずいて、また手を顎の下にやった。そして、しばらく考えていたが、
「そこで、宝鏡先生の君に対する誤解だが、むろん、小田先生をはじめ、私も、出来るだけ君に悪気がなかったことをお伝えはする。しかし、一番の早道は、君が自分で直接君の気持をお話しすることだと思うが、どうだね。」
 次郎は、しかしぴったりしない気持だった。宝鏡先生の方から呼び出しがあればとにかく、自分から進んで弁解に行く必要はない、そんなことをするのは屈辱だ、という気がしてならなかったのである。彼は答えなかった。
「いやかね。」
 と、朝倉先生は、組んだ手を解(と)いて、代る代るもみながら、
「いやなら、仕方がない。いやなものを無理強いされても、かえって誤解を深めるはかりだろうからね。……どうです、小田先生、本田の気持がもう少し落ちついてからにしちゃあ。」
「しかし……いいでしょうか。」
 小田先生は、何か言いにくそうに、言葉の途中をにごした。
「仕方がありませんよ。無理をして、取返しのつかん結果になるより、当分このままの方がいいでしょう。」
「はあ……」
 小田先生の返事はやはり煮えきらなかった。次郎には、しかし、その煮えきらない理由が小田先生の宝鏡先生に対する立場にあるということが、もうはっきりわかっていた。
「じゃあ、もう本田は引きとらしていいでしょう。」
 朝倉先生はおさえつけるような調子でそう言って、半ば腰をうかした。
「ええ。」
 と、小田先生も、あきらめたように、
「じゃあ、本田、用があったらまた呼ぶから、今日はこれで引きとっていいよ。」
 次郎は、朝倉先生に対して済まないような、それでいて何か物足りないような気がしながら、立ち上った。朝倉先生は、腰をうかしたまま、いつもの澄んだ眼でじっと彼の様子を見つめていたが、また腰をおちつけて、
「うむ、そう。念のために言っておくがね。」
 と、手で合図をして、もう一度次郎にも腰をおろさせ、
「君は、今では、宝鏡先生の誤解を解く必要はない、と思っているかもしれん。しかしそれは何といっても君の誤りだ。誤解は解けるものなら、解いた方がいいよ。人間と人間との間に誤解があっていいはずはないからね。それだけは、私からはっきり言っておく。しかし、道理はそうだとしても、君の気持がそうならなければ、どうにも仕方がない。それはさっきも言ったとおり、いやいやながら誤解を解こうとすれば、却って悪い結果になるからだ。そこで、私は、小田先生といっしょに、君の気持がそうなるのを、陰ながら祈ろうと思っている。それだけは覚えておいてくれ。もっとも、私たちが祈っているからって、それを気にして、あせってはいかん。鶏が卵をあたためるように、ゆっくり落ちついて考えるんだ。いいかね。」
 次郎は室崎の事件の折の朝倉先生をやっと取りもどしたような気がした。そして、すぐにも宝鏡先生に会わして貰おうかと思った。しかし、先生はつづけて言った。
「それと、もう一つ言っておくことがある。それは、誤解はどうしたら解けるか、ということだ。かりに、君が宝鏡先生の誤解を進んで解きたいという気持になったとして、君はどうしようと思うんだい。」
「………?」
 次郎には、質問の急所がつかめなかった。
「誤解にもいろいろあってね。……」
 と、朝倉先生は、少し声を低め、
「相手を説き伏せて解ける誤解もあるし、証拠や証人を出して解ける誤解もある。しかし、それだけではどうにもならない誤解があるんだ。いや、説き伏せたり、証拠や証人をつきつけたりすると、結果がかえって悪い場合さえある。」
 次郎には、全くわけがわからなかった。
「変なことを言う先生だと君は思うだろうね。しかし、世の中は、君らが考えているように、一本筋のものではないんだ。ことがらによっては、一言の弁解もしないで、ただ私が悪うございましたと言えば、それでかえって誤解がとけることもある。むろん、普通なら誤解した方が誤解された方にあやまるのがあたりまえさ。しかし、それがあべこべになっても、そのために、ほんとうに誤解がとけて、双方の気持が晴れやかになるんだったら、そうして悪いわけはない。こんなことを言うと、それでは正しいことが闇に葬られてしまうではないか、と君は言うかもしれん。しかし、正しいことは天知る、地知るだ。決して葬られてしまうものではない。実は、誤解した人だって、……」
 と、朝倉先生は、言いかけて急に口をつぐんだ。
 次郎の頭にその時ひらめいたのは、宝鏡先生ではなくて、お祖母さんだった。彼はもう何もかもわかったような気がした。しかし、彼は、やはり首をたれたまま、朝倉先生のつぎの言葉を待った。
「いや、こんなことを今あんまり言うと、無理強いになるかもしれん。私は、決して、是が非でも宝鏡先生に君をあやまらせようとしているんではないんだ。人間はどんな場合にも、心にもないことをやってはいかん。自分で、あくまでもあやまる必要がないと信じているなら、あやまらない方が却っていいんだ。ただ十分考えてだけはみなければならんね。それで、私は、君が考える時の参考に、誤解を解くには、ただあやまる方がいい場合もあるってことを話したまでだ。要するに、みんなが晴れやかになるには、どうするのが一番いいかそれを考えてもらいたいんだ。それも、校長先生のいつも言われる大慈悲さ。おたがい意地を張る代りに、大慈悲を競う気で物事を考えれば間違いはない。……そう、そう孔子の教えの中に、いい言葉がある。仁に当っては師に譲らず、というんだ。わかるかね。」
 次郎には、むろん、わからなかった。朝倉先生は、小田先生の方を見て、ちょっと微笑しながら、
「国漢の先生を前に置いて、こんなことを言うと、笑われるかもしれんが、仁というのは、つまり大慈悲だ。何事にも先生にゆずるのが弟子の道だが、仁を行うことにかけては遠慮はいらぬ。宝鏡先生とでも誰とでも競争せよ、という意味なんだ。どうだい、大ていわかったろう。」
 朝倉先生は、そう言って、だしぬけに椅子から立上り、
「じゃあ、もういいから、帰ってゆっくり考えてみるんだ。」
 と、さっさと生徒監室の方に歩き出した。次郎は、あわててそのうしろ姿に敬礼したが、まだじっと自分の様子を見つめている小田先生の眼に出会すと、彼はわざとのようにたずねた。
「もういいんですか。」
「朝倉先生がいいと言われたら、いいだろう。」
 小田先生の答は、どぎまぎしているようでもあり、くさっているようでもあった。次郎はそれをきくとすぐ、きちんと敬礼をして室を出たが、廊下を歩いて行く彼の胸の中には、勝ち誇った気持と、重い荷を負わされた気持とが交錯していた。
 彼の姿を見つけた組の生徒たちが、すぐ彼を取りまいて、くちぐちにいろいろのことをたずねた。しかし、真実のこもった声と、そうでない声とを聞きわけるに敏感な彼は、「大丈夫さ」と答えるだけで、何もくわしいことを言わなかった。ただ、新賀に対してだけは、あとで自分から近づいて行って、あらましの成行を話し、
「僕、どうしていいかわからなくなっちゃったよ。」
 と、いかにも思いあぐんだように言った。
 午後の授業には、ほとんど身が入らなかった。いっそ今日のうちに眼をつぶって宝鏡先生にあやまってしまうか、とも考えてみたが、それには先ず、小田先生に対する気持からして清算してかからなければならなかった。それに、「心にもないことはやるな」と朝倉先生に言われたことが、戒めとしてというよりは、むしろ気休めとして彼の心に仂いていた。彼は、とうとう授業が終るまでに決心しかねて、帰り支度をしていた。すると新賀が彼の肩をたたいて言った。
「今日、帰りに君のうちに寄ってもいいかい。」
 次郎は喜んで彼といっしょに校門を出た。

    六 迷宮

 次郎は、歩きながら、二人の先生との対談の様子を、あらためてくわしく新賀に話した。話しているうちに、小田先生のあいまいな態度に対する不満の言葉も、自然、幾度となく彼の唇を洩(も)れた。しかし、今は、そうした不満をならべるのが彼の目的ではなかった。彼には、もう、どの先生に対しても、朝倉先生の心に背いてまで反抗的な態度に出る気持は残っていなかった。宝鏡先生に対してこれからどうすればいいか、ということについても、いつの間にか決心がつきかけていたのである。ただ、心の底には、まだ何といっても、いくらかの無念さが残っていた。それに彼くらいの年頃では恐らく誰しもそうだと思うが、そした殊勝な決意をすることが友達に対して何となく気恥かしく感じられるのだった。で、彼は、表面、どうしていいかわからない、といった顔をして、それとなく、朝倉先生の言葉や、その言葉から受けた感銘やを、強く新賀の心に印象づけ、新賀の方から、励ましてもらいたい気持でいたのである。
 しかし、彼のそうした複雑な気持は、新賀には、まるで通じなかった。新賀は、ただ一途に、数学の時間の出来事について、次郎に同情していた。それに、彼はまだ一度も朝倉先生に接したことがなかったので、次郎の口をとおして間接に聞かされた先生の言葉には、さほど感銘を覚えなかった。それは、むしろ、変にややこしい理窟だとしか彼には思えなかったのである。彼は、だから、次郎が率直にもらした不満の言葉には一も二もなく合鎚(あいづち)をうったが、朝倉先生の言葉に対しては、共鳴どころか、かえって、先生が小田先生とぐるになって、いい加減に次郎をごまかそうとしているのではないか、とさえ疑い、次郎が苦心して説明するたびに、
「ほっとけよ、誰が何と言ったって、平気さ。」
 と、次郎の期待とは、まるであべこべの方向に彼を励ますだけだったのである。
 次郎は、新賀にそんなふうに言われると、ますます自分の本心をはっきり言うことが出来なかった。そして家に帰りついて、新賀と二人、机のはたに坐りこんでからの彼は、とかく沈默がちになり、新賀に来てもらったことをいくらか後悔さえしていた。
 新賀は、そうなると、いよいよはげしい言葉をつかって、彼を元気づけることにつとめた。そして、「なあに、処罰ぐらい、屁でもないよ。」とか、「頑張るさ。君さえ頑張りゃ、みんなできっと応援するよ。」とか、成行次第では自分が主になって、一騒動起しかねないようなことまで言うのだった。
 そんなふうで、おおかた小一時間も話しているうちに、恭一が帰って来た。大沢をつれて来たらしく、階段で二人の話声がきこえた。次郎はそれを聞くと、急に救われたような気になった。
 大沢は、部屋にはいると、
「やあ。」
 と二人に声をかけて、すぐあぐらになりながら、新賀にたずねた。
「次郎君と同じ組かい。名は何というんだい。」
 新賀の方では、大沢は上級生でもあり、「親爺(おやじ)」の綽名(あだな)で有名でもあったので、もうとうから顔を見知っていた。しかし、言葉を交わすのははじめてだった。彼は、自分の名を答え終ると、いかにも「親爺」らしい大沢の顔を無遠慮に眺めていたが、急に次郎の方をふり向いて、
「どうだい、今の話、兄さんや大沢さんにも話してみないか。」
 次郎は、むろん、新賀に言われなくとも話すつもりだった。で、さっそく、今日の一件が四人の話題に上ることになった。
 次郎と宝鏡先生との教室での活劇については、新賀が殆んど一人で話してしまった。しかし、小田先生に呼び出されてからあとの事は、次郎が自分で話すより仕方がなかった。新賀の憤慨した調子にひきかえて、次郎はいやに用心深く話した。そして、今度は小田先生に対する不満の言葉など出来るだけ洩(も)らさないようにつとめた。新賀はそれが物足りなかったらしく、何度も口をはさんで、小田先生のあいまいな態度を攻撃した。
 恭一は、話の最初から、ひどく心配そうに聞いていた。しかし、大沢の方は、次郎が机もろとも宝鏡先生にかかえ出されるあたりになると、手をたたいて喜んだ。そして、
「机にしがみついてはなれなかったのは大出来だよ。さすが次郎君だ。かかえ出されても、勝負にはたしかに勝っているね。」
 と、わざとおだてるようなことを言ったりした。そして、次郎が最後に、
「僕、どうしたらいいかわからないので、新賀君の考えをきいてたところです。」
 といくらかきまり悪そうに首をたれると、大沢は、
「ふうむ、なるほど。仁に当っては師に譲らずか。朝倉先生そんなことを言ったんかな。ふうむ。――」
 と、何度も首をふり、それから、恭一に向かって、
「どうだい、本田、君、兄さんとして次郎君に何とか言ってやれよ。」
 恭一は、しかし、次郎の顔を見つめているだけだった。すると、新賀が横から、突っかかるように言った。
「大沢さんは、朝倉先生の言ったこと、いいと思うんですか。」
 大沢は微笑した。そして、ちょっと考えていたが、すぐあべこべに問いかえした。
「君は、いけないと思うかい。」
「いけないと思うんです。」
「どうして?」
「悪くない者にあやまれなんて、そんなこと無茶です。」
「しかし、是非あやまれとは言わなかったんだろう。ねえ、次郎君。」
「ええ。考えろって言われたんです。」
「じゃあ、あやまらなくてもいいんですね。」
 と、新賀の調子は、少し皮肉だった。
「さあ、それは次郎君が自分で考えるだろう。」
「僕は、朝倉先生が考えろなんて言ったのが、ペテンだと思うんです。」
「ペテンだか、ペテンでないかは、朝倉先生自身のほかには誰にもわからんよ。しかし、次郎君はペテンでないと思ってるらしい。ねえ、そうだろう。次郎君。」
「ええ。――」
 次郎は、新賀に多少気を兼ねながら答えた。すると新賀は憤然として言った。
「卑怯だよ、君は。生徒監がそんなに怖いんか。正しいことが突きとおせないような人は、僕、大嫌いだ。」
 彼は、もう立ち上って帰ろうとしていた。大沢も、それを見ると、さすがにあわてたように彼のまえに立ちふさがった。そして、
「おい、おい、そう簡単に友達を見捨てるのはいけないことだぜ。まあ坐れ。」
 と、彼の肩をおさえてむりに坐らせ、
「君はずいぶん短気だな。しかし、そんな短気は必ずしも悪くない。実際、次郎君はこのごろ大人になり過ぎているんだ。少し怒りつけてやる方がいいよ。」
 次郎は、新賀の態度でかなり気持が混乱していたところへ、大沢にそう言われたので、いよいよまごついた。しかし、そのまごつきも、ほんのわずかの間だった。彼は、幼いころから、相手が自分に同情する立場に立っていることが明らかであるかぎり、その相手に対しては、人一倍弱かったが、いったん相手が多少でも反対の側に立ったと見ると、もう少しも遠慮はしなかった。愛の渇(かわ)きによって自然に築き上げられて来た彼のこうした意地強さは、まだ決してなくなってはいなかったのである。彼は、新賀と大沢とを等分に見くらべながら、ずけずけと言った。
「僕は、僕の思うとおりにするんだから、もう誰にも構ってもらわなくてもいいんです。」
 それを聞いて、誰よりもにがい顔をしたのは恭一だった。彼は、これまでほとんど一言も出さないでいたが、やにわに神経質な声をふりしぼって言った。
「次郎! 何を言ってるんだ。失敬じゃないか。大沢君だって、新賀君だって、お前のことを心配しているから、いろんなことを言うんだよ。」
「じゃあ、兄さんも、大沢さんや新賀君の言うことに賛成ですか。」
 次郎は、今度は恭一に突っかかって行った。恭一は、ちらと新賀の方に眼をやって、答えに躊躇(ちゅうちょ)したが、
「僕が賛成だか、賛成でないか、そりゃ別さ。僕はただ、お前があんまり失敬だから、言ったんだよ。」
「だけど……」
 と、次郎はせきこんで何か言おうとした。すると、大沢が急に笑い出した。そして、
「今日は、兄弟喧嘩はその程度でよしとけよ。ついでに、次郎君の問題も、ここいらで打切りにしたら、どうだい。」
 みんなは、ちょっと拍子ぬけがしたような顔をして、大沢を見た。大沢はにこにこしながら、
「次郎君が、自分で思う通りにするから誰も構ってくれなくてもいい、と言ったのは、失敬でも何でもないんだ。実は、僕、それでいいと思うんだよ。いや、それがほんとうなんだ。朝倉先生だって、多分そのつもりなんだろう。だから、僕らは、次郎君がこれからどうするか、見ていりゃあいいんだ。」
 次郎には、それが非常に皮肉にきこえた。彼は「くそっ」という顔をして、大沢をにらんだ。大沢は、しかし、相変らずにこにこしながら、
「だが、次郎君、朝倉先生が、心にもないことはやるなって言われたことを忘れんようにせいよ。先生は、君に是が非でも聖人君子の真似ごとをやらせようとしていられるんではないんだ。その証拠には、ゆっくり考えろと言われたんだろう。むろん、先生に最初言われたとおりのことが、君に出来ればすばらしいさ。しかし、どうだい、君は、山伏先生のまえに、自分で悪いとも考えていないことを、ほんとうに心からあやまることが出来るんかい。あやまるからには、山伏先生が今度どんな無茶を言っても、腹を立ててはならないんだよ。それが果して君に出来るんかい。」
 次郎にはさすがに返事が出来なかった。恭一は不安な顔をして、
「しかし、次郎が自分であやまるつもりなら、あやまらしてもいいんじゃないかね。」
「むろん、僕はそれをとめはせん。次郎君に自信があれば、やるがいいさ。やった結果がどうなるか、それを見るのも面白いかも知れんね。」
 次郎は追いつめられるような気がして、すっかり落ちつきを失った。恭一も、そう言われると、べつの意味で不安を感じ出した。新賀はそれまで默りこんで仏頂(ぶっちょう)づらをしていたが、急に、
「僕、もう失敬します。」
 と立ち上りかけた。
「まてよ。どうも君は気が短かくていかん。」
 と、大沢は彼を手で制して、
「どうだい、今夜は、僕、朝倉先生を訪ねてみたいと思うが、君らもよかったらいっしょに行かないか。」
 大沢のこのだしぬけな提議は、三人にとって、全く意想外だった。同時に、それは、今までの部屋の空気をいっぺんに明るくした。
「うむ、それはいい。そうすれば安心だ。次郎、行ってみようや。……新賀君もどうだい。」
 と、恭一が、いつもにない、はしゃいだ声で言った。
 新賀は、朝倉先生にはまだ近づきがなかったせいか、ちょっと躊躇するふうだったが、好奇心とも、まじめな期待ともつかぬ、一種の興味に刺戟されて、すぐ賛成した。誰よりも喜んだのは次郎だった。彼は、迷宮からでも救い出されたような、ほっとした気持になって、もう、賛成するもしないもなかったのである。
 先生を訪ねる時間の打合わせを終ると、大沢は新賀の肩をたたいて言った。
「さあ、もうこれで、失敬してもいいんだ。じゃあ、さよなら。」
 新賀は、頭をかきながら、大沢のあとについて、階段をおりた。

    七 心境の問題

 朝倉先生の住居は、家賃十何円かの、だだっ広い、古い士族屋敷で、柱も天井も黒ずんだ十二畳の座敷が、書斎兼客間になっていた。
 ちょうど先生が入浴中だったので、四人は十分あまりも、その部屋に待たされた。そのあいだ、大沢と恭一とは、勝手に座蒲団をならべたり、本棚から本を引き出して見たりしていたが、先生の自宅を訪ねた経験のない次郎と新賀とは、いかにも窮屈そうにかしこまっていた。
「やあ、待たせて済まんかったなあ。」
 と、先生は湯あがりの顔をほてらせながら、襖をあけて這入って来た。そして次郎と新賀とが小さくなって坐っているのを見ると、
「おや、今日はめずらしい顔だね。私は、また例の連中かと思っていたが。」
「はあ、実は、これから下級生も少しずつ加えていただきたいと思って、つれて来たんです。」
 大沢が、持っていた本を棚にかえし、自分の席にもどりながら答えた。
 次郎と新賀とは、さっきからお辞儀をする機会を待って、もじもじしていたが、先生は、
「うむ、そうか。」
 と、まだ立ったままで、羽織の紐をかけていた。
「こちらが新賀君、むこうは僕の弟です。」
 恭一が先生の顔を下からのぞきながら紹介した。
「ほう。」
 と、先生は、まだ二人の方を見ない。そして、やはり羽織の紐をいじくっていたが、やっとそれがかかったらしく、
「やあ、いらっしゃい。」
 と、自分の座蒲団に尻をおろし、はじめてみんなとお辞儀をかわした。
 次郎は、今日のことで、さっそく先生に何とか言葉をかけられるだろうと予期して、固くなって待っていた。しかし、先生は、ちょっと彼の顔を見て、
「おお、そうそう、君は本田の弟だったな。」
 と、言ったきり、すぐ新賀の方に話しかけた。新賀は例によって問われることをはきはきと答えた。
「ほう海軍か。そりゃいい。一年の時からちゃんと志望をきめて、まっしぐらに進むのはいいことだ。」
 先生は、それから、海軍の名高い人たちの逸話などを例にひいて、新賀を励ましたり、戒めたりした。新賀は眼をかがやかしてそれに聴き入った。次郎は、かんじんの自分の問題に、いつまでたってもふれて来そうにないので、少しいらいらして来たが、大沢も恭一もいっこう話題を転じてくれそうにない。彼は催促するように何度も恭一の顔をのぞいた。
 恭一も、やっとそれに気がついたらしく、先生の話が一段落ついた機会をとらえて言い出した。
「今日は、弟が数学の時間に、変な事件を起しましたそうで――」
「うむ。」
 と、先生は軽くうなずいた。それから、次郎の方を見て微笑しながら、
「兄さんにも話したのか。そりゃあよかった。何もいそいで決めるには及ばんから、いろんな人の考えをきいてみるんだね。さっそく大沢や新賀にも話してみたら、どうだ。」
「実は、もう、この四人で話しあったんです。」
 と、大沢が答えた。
「はう。それで、どうだった。」
「新賀君は、生徒監がこわくて正しいことを曲げるような人間とは絶交すると言うんです。」
「なるほど。それで君は?」
「僕は、次郎君にひねこびた聖人君子の真似をさせたくないという考えです。第一、まだ、そんなことの出来るほど偉い人間でもなさそうです。」
「はっはっ。すいぶん手きびしいね。」
「ところが、次郎君自身は、僕らにそんなことを言われたのが非常に不服らしいんです。」
「すると、宝鏡先生にあやまろうというのか。」
「ええ、僕らが反対すれば、絶交でもしかねない見幕でした。」
「絶交が大ばやりなんだな。……で本田は、兄さんとしてどういう考えだ。」
「僕は――」
 と、恭一は、少し顔を赧(あか)らめて、
「次郎が進んであやまると言うなら、あやまらした方がいいと思っていました。しかし、大沢君の考えをきいているうちに、それも不安なような気がして来たんです。」
「うむ。――」
 と、朝倉先生は、しばらく考えていたが、
「次郎君のことは、学校の問題としては、校長にもお話して、もう済んだ事になっているから別に心配せんでもいい。しかし、よく考えてみると、こういうことは学校だけに起る問題ではないんだ。形はちがっても、世間にはそうしたことがざらにある。君らも、将来、次郎君のような羽目に陥(おちい)ることがないとは限らん。これを機会にみんなで真面目に考えてみることだね。」
 その時、奥さんが、
「どうも、おそくなりまして。」
 と、煎餅(せんべい)を袋ごと盆にのせて、茶道具といっしょに運んで来た。そして、次郎のすぐそばに尻を落ちつけ、みんなに茶を注ぎはじめた。そのきりっとした横顔が、次郎には、どことなく亡くなった母に似ているように思えた。
 先生は、奥さんが差出した湯呑を受取りながら、
「考えるったって、一つ一つの事がらをばらばらにつかまえて来て、あれは正しい、これは間違っている、と考えるだけでは、しようがない。それじゃあ、次郎君のような場合の解決にはならないんだ。君らに考えてもらいたいと思うのは、どうせ人間の世の中にはいろいろの間違いがあるんだから、その間違いの多い世の中をどうして秩序立て、調和して行くかという問題だよ。君らは恐らく、その一番の早道は遠慮なく間違いを正すことだと言うだろう。なるほどそれが完全に出来れば、たしかにそれが早道だ。しかし間違いはあとからあとからと新しく生じて来る。いつまでたっても完全に間違いのない世の中になる見込みはないんだ。汚ない譬(たと)えだが、われわれの体にたえず糞尿がたまるようなものさ。さあ、そうなると、間違いは間違いなりで、全体の調和を保ち、秩序を立てていくという工夫をしなければならん。そういう努力をしないで、一つ一つの事がらの正邪善悪にばかりこだわっていると、かんじんの全体が破壊されて、元も子もなくなってしまうからね。かりに君らが、君らの体の中の糞尿のことばかり気にかけて、朝から晩まで便所通いをしているとしたら、いったいどうだ。それよりは、お茶が出たらお茶を飲み、煎餅が出たら煎餅をかじって、糞尿のことなんか忘れている方が遙かに健全だろう。」
 みんなが、一度に吹き出した。奥さんも声を立てて笑った。そして煎餅の袋をみんなの方へ押しやりながら、
「さあ、さあ、みなさん、先生にみなさんの健全なところを見せてあげて下さい。」
 大沢から、恭一、新賀、次郎と、順々に袋がまわった。しばらくは煎餅を噛む音でさわがしかった。大沢は、茶を一ぱい飲み干すと、
「しかし先生、糞尿の溜めっ放しでも困るでしょう。」
「そりゃあ、むろんさ。臓腑(ぞうふ)の中が糞尿だらけになっては、たまらんよ。」
「不正を不正と知りながら、それと妥協するのは、糞尿を溜めっ放しにするのと同じではありませんか。僕は、新賀君の言う所にも道理があると思うんです。」
 新賀は眼をかがやかして、先生を見た。
「むろん道理がある。だから、新賀が、良心的にどうしてもそうでなくちゃならんと考えるなら、新賀にとっては、それが最善の道だ。」
「新賀君以外の人にとっては、最善の道ではないんですか。」
「最善の道であることもあれば、そうでないこともあるだろう。全体の調和とか秩序とかいうことを強く念頭に置いている人なら、新賀の考えている以上の道理を考えんとも限らんからね。」
 大沢は考えこんだ。恭一は、一人でかすかにうなずいていた。誰も口を出すものがない。次郎は自分の問題が中心になっていることなどもう忘れてしまって、大沢の顔を一心に見つめた。彼の眼には、真剣に考えこんでいる大沢の顔が、これまでの彼とはまるで別人のように映ったのである。
「先生、要するに心境の問題ではないでしょうか。」
 恭一が、しばらくして、めずらしく口をきいた。
「そうだよ。心境の問題だよ。」
 と先生は、大きくうなずいて、
「一つ一つの事がらの正邪善悪にこだわるのでもなく、さればといって、それに無頓着だったり、良心にそむいて邪悪に妥協したり、また、大沢の言うように、ひねこびた聖人君子の真似をしたりするのでもなく、全体の調和と秩序とのために、ごく自然に行動するというようなことは、心境を練らなくては出来ないことだ。心境を練ることを忘れて、たゞ頭で考えるだけでは、道理以上の道理は決してつかめない。つかめたようでも、いざとなると、やはり一つ一つの事がらの正邪善悪にこだわりたくなったり、自分を偽って聖人君子の真似をしたり、或はいい加減に妥協してしまったりしたくなるんだ。」
「わかりました。」
 と、大沢は、膝の上に立てていた両腕に力を入れて、まるでどなるように言ったが、すぐ、にやりと微笑して、
「しかし、先生もずいぶん残酷ですね。」
「何が?」
「そんなどえらいことを、先生は、今日、学校で次郎君に要求されたんじゃありませんか。」
「要求なんかしていないよ。」
「でも、次郎君は、先生の言われたことを一所懸命で気にしていましたよ。」
「そりゃあ、気にするはずだ。気にするように言ったんだから。次郎君が気にせんような生徒なら、私もあんなことを言やあしない。」
「じゃあ、気にするだけでいいんですか。」
「いいか、わるいか、それも次郎君が自分で考えるだろう。」
 次郎は、すっかり興奮して二人の対話を聞いていた。
「どうだい、次郎君、君、どうする? 宝鏡先生にあやまるんかい。」
 大沢がたずねた。次郎は、ちょっと返事にまごついたようだったが、
「僕、もっと考えます。」
 と、はっきり答えて、先生の顔を見た。先生は、
「そうだ。うんと考えるがいい。気持がほんとうに練れるまでは、五年でも十年でも考えるがいい。私は君の心の中でそれが練れるのをいつまでも待っている。一方では宝鏡先生にあやまる気になり、もう一方では大沢や新賀と絶交したい気になるような、ちぐはぐの心境では、全く剣呑(けんのん)だからね。」
 みんなが笑った。朝倉先生は凉しい眼をして次郎を見ていた。が、しばらくして、
「苦しむのはいいことだよ。」
 と、しんみりした声で、ぽつりと言った。それから、今度は、じっと新賀の方を見ていたが、
「君も、少し苦しんでみるがいい。ここでは、大沢や本田のような、苦しみたい連中がちょいちょい集って話しあいをすることになっているが、君もよかったら、これから次郎君といっしょにやって来たまえ。今のところ、三年以上の生徒ばかりだが、君らの仲間もこれから少しずつふえるだろう。」
 煎餅を平らげて四人がおいとましたのは、十時に近かった。奥さんが、門をしめかたがた、みんなを送って出て来たが、別れぎわに、次郎に言った。
「きょうはいじめられましたわね。……でも面白いでしょう。これにこりないで、またいらっしゃいね。」
 次郎は、なぜか、亡くなった母と、日田町の田添夫人との顔を同時に思い浮かべながら、默ってお辞儀をした。そして、暗い通りに出ると、新賀とならんで、沈默がちに歩いた。歩きながら今朝からのことを心の中でくりかえしているうちに、ふと「無計画の計画」という言葉が、新たに彼の頭に甦(よみがえ)って来た。彼は、思わず歩度をゆるめた。そして、闇をすかして、大沢の大きな体をうしろから見上げた。ちょうどその時、大沢は、
「おい、新賀君、どうやら次郎君と絶交しなくてもすみそうだね。わっはっはっ。」
 と、あたりに響きわたるような大声で笑った。

    八 白鳥会

 朝倉先生を中心にした生徒たちの集りを「白鳥会」といった。会員はこれまで十五名で、みんな三年以上の生徒ばかりだったが、今度、あらたに二年から三名、それに次郎と新賀とが一年から加わって、ちょうど二十名になった。たまには、日曜とか祭日とかに、そろって遠足をしたり登山をしたりすることもあったが、普通は、毎月第一土曜と第三土曜の二回、夕食後、先生の宅に集まって、代りばんこに何か話題を提供し、それについてお互いに感想や意見を述べあい、そのあと時間があれば、先生に何か簡単な話をしてもらって、十時ごろには解散する、といったふうであった。
 集まりには、いつも先生の書斎兼座敷と、その次の間とが使われたが、そのほかに、二階の八畳が、会員の図書室として年中開放されていた。玄関のつきあたりの階段をのぼったところがその部屋で、そこには、一間ものの本箱が一つと、うるしのはげた大きな卓が一脚すえてあった。本箱には、先生の読みふるしの本がいっぱいつまっており、たいていは、歴史や、伝記や、古典の評釈や、定評のある文芸物などで、新しい作家のものはほとんど見当らなかった。なお、会員が持ちよったらしい青少年向のいろんな読物が、一番下の段に三十冊あまりならんでいたが、それらは、先生の読みふるしの本とちがって、かなり装幀がくずれており、どの頁にも色鉛筆で、線や圏点(けんてん)が入れてあった。――集会の折の話題の半分以上は、この部屋での読書から生れるらしかった。
 次郎は、会員になってから、ほとんど一日おきぐらいには、学校の帰りにこの部屋に立ち寄った。すると、たいてい誰かが来合わせていた。たまには五六人もいっしょになることがあった。誰もがそれぞれ特色を持ちながら、どこかに何か共通な気持が流れているのが、次郎にもよく感じられた。時おり、誰かが奥さんに呼ばれて、力のいる仕事の手伝いをさせられたり、買物に行く間の留守居を頼まれたりすることがあったが、呼ぶものも、呼ばれるものも、まるで家族同様の気軽さだった。次郎には、そうした空気が、何か珍らしくもあり、嬉しくもあった。
 奥さんには子供がなかった。女中もつかわず、全く先生と二人きりだったが、用がない時には、ちょいちょいこの部屋にやって来て、「今、何を読んでいらっしゃるの?」とか、「あたしこの本、面白いと思うわ」とか、みんなの邪魔にならない程度に簡単な言葉をかけ、自分もいっしょになって何か読み出すといったふうだった。小床には、いつも何か花が活(い)けてあり、また卓の上にも一輪差が置いてあって、花がしおれないうちに必ず新しいのと取りかえられていたが、そうしたことは、すべて奥さんの心づくしであった。
 いつ来て見ても変っていないのは、掛軸と額だった。掛軸には、和歌らしいのが、むずかしい万葉仮名で、どこからどう読んでいいかわからないように書いてあり、額には漢字が五字ほど、これも読みにくい草書体で書いてあった。次郎には、むろん、何が書いてあるのやらさっぱりわからなかった。また、それを判読してみようという気にもならなかった。彼の眼には、どこの家にもある掛軸や額以上のものには、それが映らなかったのである。もっとも、何度もこの部屋に出入りしているうちに、額にある最初の二字だけは、いつの間にか彼の眼にとまるようになった。それは、「白鳥」と書いてあるらしく、会の名称と深い関係があるように思えて来たからであった。
「あれは、白鳥と読むんでしょう。」
 と、ある日、彼はちょうど来合せていた佐野という四年の生徒にたずねた。
「そうだよ。君、今まで知らんかったのか。」
 次郎は頭をかきながら、
「こないだから、そうじゃないかと思ってたんですが……」
「なあんだ、僕たちの会の名は、あの字にちなんでつけてあるんじゃないか。」
「僕、そう思ったから、きいてみたんです。」
「すると、君の兄さん、まだそれを君に教えてなかったんだね。」
「教わりません。」
「案外、君の兄さんものんきだなあ。今日、帰ったら、よく教わっとけよ、あの意味を。」
 佐野は、そう言って、読みかけていた本の頁をめくった。
 次郎は、しかし、もう帰るまで辛抱が出来なかった。彼は一心に額を見つめて判読しようとつとめた。「白鳥」の次の字は「入」という字にちがいないと思ったが、しかしそのあとの二字がどうしても読めなかった。
「おしまいの二字は何という字です。」
 彼は、とうとうまたたずねた。
「芦花だよ。あしの花さ。」
「すると、白鳥……芦花に入る、と読むんですね。」
「そうだ。白鳥芦花に入る。……しかし芦という字は実際変な字だねえ。誰だって教わらなきゃ、わからんよ。」
「誰が書いたんでしょう。」
 額は無落款(らっかん)だったのである。
「先生だそうだ。」
「先生が? どうして、誰にもわかるように楷書で書かれなかったんでしょう。」
「楷書で書くと、生徒より下手だから、みんなが有りがたがらないだろうって、冗談言っていられたよ。」
 佐野はそう言って笑った。次郎も笑ったが、すぐ真顔になって、
「どうして会の名をこの文句にちなんでつけたんでしょう。」
「それは、この文句に深い意味があるからさ。」
「そんなに深い意味があるんですか。」
「あるとも、大いにあるよ。」
「どういう意味です。」
「それはね。――」
 と、佐野は本を伏せて、次郎の方に体をねじむけたが、急に、
「あっ、そうだ。いけない。めったに教えちゃいけなかったんだ。君の兄さんも、それで教えなかったんだな。僕、うっかりしていた。」
 次郎は、変な顔をして、
「どうして教えてはいけないんです。」
「ついこないだ、先生にそう言われたんだ。はじめての人には、文字だけは教えてやってもいいが、意味は、一応めいめいに考えさしてみるがいいって。……僕たちが会員になった時には、真っ先に先生にそれを説明してもらったもんだがね。」
 次郎は、そう言われると、もう強いて教わろうという気がしなかった。彼は、もう一度額の字を見つめた。そして、何度も、口の中で「白鳥芦花に入る」をくりかえしていた。
 佐野は、次郎の様子をにこにこして眺めていたが、
「そうせっかちに考えたってわからんよ。すいぶんむずかしいんだから。それよりか、どうだい、あの掛軸の方は。あの方なら、字が読めさえすれば、意味はだいたいわかるよ。」
 次郎は、返事をしないで、そろそろと掛軸の方に眼を転じた。しかし、心はまだ額の字に未練を残しているらしかった。
「読めるかい。」
「読めません。どこから読むんです。」
「あのまん中の大きく書いたところから読むんだよ。」
 佐野は立ちあがって掛軸のそばに行き、一字一字、指で文字をたどりながら読んでやった。それによると、
「いかにして まことのみちに かなはなむ ちとせのなかの ひとひなりとも」
 というのであった。これには落款があり、左下の隅っこに変った形の朱印が一つ押してあった。
「意味はわかるだろう、だいたい。」
「ええ、わかります。」
 恭一の感化もあって、次郎にもこの程度の和歌なら、字づらだけの意味はどうなりわからないこともなかったのである。
「良寛の歌だってさ。」
「良寛?」
「知らないかい。面白い坊さんだよ。その本箱の中にも、良寛のことを書いたのが何冊かあるんだがね。」
 二人はすぐ本箱の前に立って、それをさがしはじめた。
「これがいい、これが一等面白いんだ。」
 佐野が、そう言って次郎の手に渡したのは、「良寛上人」という、四六判の、あっさりした装幀の本だった。
 次郎はすぐそれを読み出した。そのうちに、会員が五六名も部屋を出たりはいったりしたが、それが誰だったかもわからなかったほど、彼は熱心にそれに読みふけった。佐野もいつの間にかいなくなっていた。もううす暗くなっている部屋の中にたった一人坐っている自分を見出して、彼はやっと未練らしく立ち上り、本を本箱にかえした。まだ半分も読み終ってはいなかったが、本は一切室外には持出さない約束になっていたのである。
 翌日も、彼はさっそくこの部屋にやって来た。その日は、めずらしく彼一人だった。彼は昨日読みのこした部分を一気に読み終った。そしてほっと大きなため息をもらし、あらためて掛軸に見入った。昨日以来、「良寛上人」を読んでいるうちに、何か不思議な世界につれこまれていたといった気持だったのである。彼は、子供たちを相手に隠れん坊をして遊んでいるうちに、おいてきぼりを食った良寛の姿を、夢を追うような気持で心に描いた。それは、まるで合点(がてん)の行かない、それでいて否定してしまうには惜しくてならない、なつかしい姿だった。「焚くほどは風がもて来る落葉かな」――そんな句も、妙に彼の心にこびりついていた。本に説明してあることだけでその意味がはっきりつかめたというのではむろんなかったが、なぜか、良寛とは切りはなせない句のような気がしてならなかったのである。
 彼は、いつの間にか、掛軸にある「まこと」という言葉は、これまで修身の時間などで教わった「まこと」とは意味がちがうのではないか、という気がし出した。しかし、ただぼんやりそんな気がするだけで、どうちがうのか、それをはっきりさせる手がかりはまるでつかめなかった。彼は、ただ、何度も何度も、掛軸の文字に眼を光らせるだけだった。
「おや、きょうはたったお一人?」
 奥さんが、いつの間にはいって来たのか、次郎のすぐうしろから、声をかけた。次郎はびっくりしたようにふりむき、体を横にねじってお辞儀をした。
「なに読んでいらしたの?」
「これです。」
「ああ、良寛上人、――それ、あたしもついこないだ読みましたわ。いい本ね。面白かったでしょう。」
「ええ。」
「あの掛軸、良寛の歌ですわ。読めて?」
「昨日、佐野さんに教わりました。」
「そう? あの額の方は?」
「字の読方だけ教わったんです。」
「意味は自分で考えてみるんだって、言われたんでしょう。」
「ええ。」
「考えてごらんになって?」
「まだ、あまり考えていません。」
「考えようにも、ちょっと、どう考えていいかわかりませんわね。白い鳥が芦の花の中にはいるって、ただそれだけなんですもの。禅の文句なんて、まるで謎(なぞ)みたいなものですわ。」
 次郎は、世間で、わけのわからぬ言葉を禅問答みたいだ、というのを、これまでよく聞いたことがあったが、こんなのが禅の言葉かな、と思った。
「だけど――」
 と、奥さんは、にっこりして、
「意味はわからなくても、いい気持のする文句でしょう?」
 次郎は、ふと、自分の生れ故郷の、あの沢辺の晴れた秋景色を想像した。そこには芦が密生していて、銀色の穂波がまばゆいように陽に光っている。一羽の真白な鳥が、ふわりと青空を舞いおりて、その穂波に姿をかくした光景は、何ともいえない美しさだった。
「どう? 次郎さんは何とも感じません?」
「美しいと思います。」
「美しいというよりか、すがすがしいといった方がぴったりしなくって?」
「ええ。」
 次郎は、彼がこれまでに接したいかなる女性にも――亡くなった母にさえも――見出せなかったものが、この奥さんの言葉の中からしみ出て来るのを感じた。
「先生はね、――」
 と、奥さんは、今度は掛軸の方に眼をやりながら、
「良寛のあの歌にある“まこと”というのは、この額の文句と同じような気持だろうって、よくそう仰しゃっていますの。」
 次郎には、しかし、その二つがどんな点で結びつくのか、まるでわからなかった。彼は、けげんそうな眼をして奥さんの顔を見ながら、
「すると、白鳥芦花に入るっていうのは、誠という意味ですか。」
「そう言ってしまっても、いけないでしょうけれど、煎(せん)じつめると、そうなるかも知れませんわ。」
「どうして、そうなるんです。」
「そこを次郎さんが自分で考えてみるといいわ。」
 奥さんは、そう言って微笑した。が、しばらくして、
「でも、このままじゃ、あんまり手がかりがなさ過ぎるわね。……あたし、先生に叱られるかも知れないけれど、その手がかりだけ教えてあげますわ。」
 次郎は、それをきくのがちょっと卑怯なような気がしないでもなかった。しかし、その気持は奥さんの好意に甘えてみたい気持をおしつぶすほどに強くはなかった。彼は、いくぶん顔をあからめて、奥さんの言葉を待った。
「芦の花って真白でしょう。その真白な花が一面に咲いている中に真白な鳥が舞い込んだっていうのですわ。」
 奥さんは、それだけ言うと、また微笑した。そして、
「もうこれでおしまい。ほほほ。」
 と、謎のような笑い声を残して、階下におりて行ってしまった。
 次郎は、それから小半時も、掛軸と額とを見くらべながら、ひとりで考えこんだ。しかし、いくら考えても、彼の頭では、「白鳥入芦花」と「まこと」とを結びつけることが出来なかった。彼は、芦原の中に、きょとんとして立っている良寛の姿を想像したりして、何だか馬鹿にされているような気がするのだった。

    九 自己を掘る

 次郎が「白鳥入芦花」の意味をどうなりつかみ得たように思ったのは、それからふた月以上もたって、彼が二年に進級したあと、はじめて白鳥会が開かれた晩のことだった。

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