街はふるさと
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著者名:坂口安吾 

       十

「本当にほッとくなんてことが、できるものかね」
 青木がいささか色をなして長平の無責任な放言を問いつめると、長平は笑って、
「そりゃア、できないな。しかし、大まかに、要点をつかんで、やるのだね。家出本能のようなものもあれば、帰巣本能のようなものもあるんだね。飛びだす方をほッとく以上は、戻ってくるのも自由にほッとく必要があるだろう。要は、それだけだね。何べん飛びだして、何べん戻ってきたって、かまわねえや。それで人間が不幸だってことは、ありゃしねえな。人間は、それ以上に幸福ではあり得ないものなんだね」
 至極要領をつくしている。一人の男を選んで与えて、それで片づけてしまうのに比べると、この方が理にかなってはいる。この方が本質的に、あたたかい方法ではある。帰る家があるというのは一生の救いかも知れない。二度と帰らぬ覚悟で嫁ぐという精神は、そもそも幸福を約束する出発ではない。特にそれを強いられでは、特攻隊のようなものだ。
 長平の言葉にも一理はあるが、チョイチョイ戻られては、困るであろう。青木は苦笑して、
「君のは、禅問答だね。一般家庭じゃ、禅坊主にはなりきれないさ」
「君まで、そんな風に思うかね。オレはハッキリしていると思うな。女には、家が二つあるんだね。生れた家と、子供を生んだ家とだね。子供を生まなくッてもかまわないが、とにかく、この二ツのうち、どッちかを選ぶ自由を与えておくのさ。娘の親は、それだけ覚悟しておくんだね。生んだ義務だよ。オレは記代子に愛情なんぞもってやしない。義務をもってるだけだね。義務というほどでもないが、勝手にしやがれということさ。戻ってきたら、仕方がない。こりゃア、奴めに権利があるのさ。そう心得ておきゃアいいと思うんだね」
 長平流の筋は立っていた。おまけに、彼のしたことは、まったく言葉の通りであった。青木自身、身にしみている。彼自身、勝手にしやがれ、という対象だったことがあるからである。理からいえば甚だあたたかいようなことではあるが、その時、彼が身にしみたのは、長平の冷めたさである。それは、今となっても、理によってあたたかく生れ変って感ぜられる底の底のものではなかった。理窟だけでは納得できない性質のものである。
「君の云うことは、ツジツマが合いすぎて、気味が悪いね。そうツジツマが合いすぎちゃア、いけねえな」
「なに、ツジツマが合うもんかよ。大要をつかんで、要領だけを云ってるんだよ。要所要所は、いつもツジツマの合ったものさ。枝葉末節に至ると、必ずツジツマが合わなくなるのさ。人生は大方枝葉末節で暮しているから、万事ツジツマが合わねえや。こりゃア、仕方がないじゃないか」
「そういうもんかね。しかし、要所要所に於て、君は大そうあたたかいようだが、実はひどく冷めたいのも、枝葉末節のせいかね」
「そうだろう」
「なア、長さんや。思うに、君も水ムシだね。むしろ、君こそ水ムシの張本人だね。生涯人をむしばんで痛くもカユくもねえや。実に酷薄ムザンですよ。最も酷薄なるものは、痛くもカユくもないものだ。それは、君に於て、まさに最も適切だね」
 長平はてんでとりあわなかった。それは全く水ムシと同じ呪わしいものに見えたが、水ムシに悩む自分の方を考えると、青木はクサらざるを得なかった。

       十一

 記代子は京都の土をふむと、新しい気持が生れた。東京では四囲がみな敵地のような気持で、どこにいても気持が荒(すさ)み、息苦しく、安息もできなかったが、京都へ着くと、自然に気持がおだやかになっていた。誰がむかえてくれたわけでもなく、古い都の街や自然が彼女によびかけているわけでもなかった。いつも傷口にさわられているようなイライラしたものから、遠く離れた安心を覚えた。なにかキレイにぬぐわれたような清爽感をも覚えた。
 東京にいたって、あの広い東京のことだもの、彼女の傷口にふれる人間にめったにぶつかるものではない。京都に来たからって、傷口にふれる男にどこでぶつかるか分ったものではないのである。しかし、京都へ来たという実感の中には、そういう理窟を超越した安心感があった。
「旅をすると気持が変るというのは、こんなことを云うのかしら」
 自分でも異様な思いがするのであった。なぜだか分らない。たった五百キロの距離。傷口の現場からそれだけ離れたというだけのことで、傷口が治ったわけではないのに。
 しかし、このホッとした安らぎ。久しく忘れていた、このなつかしい安らぎ。フシギではあるが、まぎれもない現実であった。
「こゝが生れ故郷でもないのに」
 記代子は笑いたくなるのであった。
 そして、記代子の胸に吹きつけてくるのは、新しい風だ。東京にいた時は、無性に腹が立ち、身をかきむしって投げ捨てたいような息苦しさで、未来の希望などは人がそれをくれるといっても欲しくないような気持であったが、こゝではまるで生れ変ったようだった。
 記代子の胸は未来の希望にふくらんでいた。いかにすべきかという未来の設計を考えているわけではない。今までは、未来を思うと暗さと絶望があるだけであったが、こゝでは未来が明るいものに感じられた。唐突で新鮮な感動だった。記代子はそれに酔った。
「京都へ戻ってきて、よかったわ。なんてすばらしいことだう! まるで世界の景色が変ってしまったように見えるわ」
 もうマチガイを起さないようにしよう、と記代子は自ら誓った。身にあまることを夢想したり、行きすぎたりしないように。自分は平凡な女なんだ、とふと考えた。その考えすら、素直にシミジミと心を傾けてききいれることができた。すると心は洗われて、過去を消し去ることができたようなサッパリした気持にもなれた。
 過去の姿を今に伝えていることがイノチのようなこの古都へきて、過去を忘れた気持になれるなんて、フシギなものだ、と記代子は思った。覇気のない古い都。乙女心には、灰色の街のように魅力のない土地であったが、今はただ生き生きと明るい。新鮮だ。
 そして、青木に対しても、その親切に感謝する素直な気持が生れていた。彼女は家路を走る自動車の中で青木に云った。
「京都はすばらしいわ。もう東京へ行きたいと思わないわ」
 ウットリと甘い夢を見ているようだ。青木は夜気が一そう身にしむような膚寒い思いがした。肚の中で、こまった子供だと舌打ちした。
「京都は落付いた町ですよ。しかし」
「しかし、なによ」
「京都に甘えてもいけないし、東京を怖れてもいけませんや。そして……」
 青木は悲しくなった。自分だって、記代子と同じことじゃないか。五十にもなって。
「そして、私は生れ変ったと思うのよ」
 記代子の独語は生き生きとしていた。

       十二

 翌朝、新たな第一日の目ざめをむかえても、記代子の胸のふくらみはつづいていた。冷静な考え方も、かなりチミツな計算力もとりもどしたが、希望の明るさを消す力にはならなかった。むろん、いろいろな不安がないことはない。しかし、それをムリに押し殺す必要はなかった。希望がそれにたちまさっていたからである。
「ホウ。顔色がさえているね」
 朝の第一の挨拶に、青木はすかさずこう呼びかけた。青木はそれを喜びもしたが、それがいつまで続くことか、という暗い思いが、同時にひらめいているのであった。
 こうして記代子の顔色がにわかに安直に冴えるのを見ると、青木がつくづく感じるのは自分と記代子の距離であった。ひところ二人がママゴトめいた関係をもったこと、記代子がニンシンしたこと。夢のようだ。
「ひどいことをしたもんだなア」
 青木はいくらか羞じて、間のわるい気持になるのであった。なぜなら、二人の距離の距たりがひどすぎるからだ。今になって、どうしてこんなに目立つのだろう、青木はそれをフシギに思った。
「なア。記代子さん。ぼくの云った通りだろう。京都へ戻って、よかったろうがね」
「そうよ。だけど、どうして今朝になって、そう云うのよ。ゆうべ、京都へ戻って良かったと云ったとき、あなた、なんと云った?」
「そうか。魔が掠めたんだね」
「あら、おもしろい。ゆうべは私に魔がついていたの」
「いいえ。ワタシにさ」
「なんだ。つまんない。いつもじゃないの」
「ホウ。ぼくにいつも魔がついていますか」
「そうよ」
「見えますか」
「見えるわ。貧乏神がついているのよ。それも変に見栄坊で気位の高い貧乏神なのよ。自分の貧乏性もよく分るけど、ほかの人の方がもっと貧乏性に見えるらしいのね。で、いたわったり、同情したり、泣いてあげたりするのよ。気位が高くッて、センチなのね。あなたの貧乏神は」
「やれやれ」
 青木はガッカリした。当らずといえども遠からずである。
 しかし、貧乏性とは、この際、適切な言葉だと青木は思った。これを気取って云えば、知性と云えないこともない。彼の場合は、そうなのである。彼の性格をめぐる理が、そうなのだから。
 それに対して、記代子は貧乏性ではないのかも知れない。そうだとすれば、そのことは彼女の無智をおぎなって余りある美徳なのかも知れない。それが二人の大きな距離の一つかも知れなかった。
「ぼくは貧乏性だとさ。このお嬢さんがそう仰有ったのさ。見栄坊でセンチな貧乏神がついてるのだそうですよ」
 三人集った席で青木が云うと、長平は笑いもしないで、
「で、記代子は、どうなんだ?」
「あら、私は……」
「ぼくは、こう思うよ。英雄、帝王のAクラスにも貧乏性はあるもんだよ。秀吉だの、ヒットラアでも、そう見えないかね。そして、誰だって、そうじゃないかね。それに気がつくと、みんなそうなのさ。知らない奴が一番幸福なんだ。だから幸福なんてものは願う必要がないし、それにも拘らず、知らない奴はたしかに幸福に相違ないよ」
 そして、記代子に云った。
「お前さんは進んで不幸を愛すな。苦しいことには背中をむけなよ。そうこうするうちに、なんとか、ならア」

       十三

 放二が死んだという報らせがきたのは、青木がまだ京都にいるうちだった。せつ子からの電話であった。長平は葬儀万端彼女に託して、上京を見合せた。青木が京都にいてくれたのは便利であった。電話では足りない用を彼に託して帰京してもらうことにした。
「彼は若年にして陋巷(ろうこう)に窮死するのが、むしろ幸福なのさ」
 と、青木は放二の死を批評した。彼は元来、放二の生き方を高く評価していなかった。
「彼はアプレゲールの逆説派にすぎんですよ。ロシヤ的ストイシズム、特にドストエフスキーの安直な申し子さ。白痴的善意主義の亡魂、悪霊というもんですよ。彼の夢とセンチメンタリズムに安直に合致するような現実が、焼跡の日本にはやたらに有りやがったんだね。それがそもそも、マチガイのもとさ。彼をして安直に英雄的自尊心を満足せしめるに至ったのですよ。それにしても、チンピラ、アンチャンの英雄主義にはまさるけれども、戦後続出のイミテーションの一つには相違ないですよ」
 彼の評価は残酷であった。
「あんまり、口はばッたいことは言えないがね。ぼくとて何かしらのイミテーションかも知れないが、とにかく、長さんや、ぼくは迸(はし)ったですよ。時に停滞しても、時に迸ったです。北川君の一生は迸ったことがないね。激発をひそめた静寂でもなかったね。読書と、読書の裏返しの静かさにすぎないやね。彼にくらべれば、ぼくの生涯はマシですよ。彼は幸福に死んだ。これをぼくはこの上もない道化芝居(ファルス)と見るが、いかがですか」
 青木は放二がキライではなかった。心あたたかく、あくまでマジメな青年であった。珍らしい好青年と云えるであろう。
 しかし彼の生き方の甘さにはついて行けない。それを許容することは、わが生き方の必死なものを、自らヤユするようなものだ。青木はてんから反撥せずにいられなかった。
 記代子は青木に千円渡して、
「放二さんにお花あげて下さいね」
「ヤ。ありがとう。どんな花?」
「なんでもいいわ。花束なら」
 記代子は長平のいないとき、青木にささやいた。
「私、ホッとしたわ」
「なにが、ですか」
「放二さんが死んだから。私のために死んでくれたような気がするのよ」
 青木はちょッと呑みこめなくて、いぶかしげに彼女の顔色をさぐった。
「え? なんだって?」
「私はね。放二さんの生きているのが、何よりイヤだったの。願いごとをかなえてくれる魔物がいるなら、私の未来の時間を半分わけてやっても、放二さんを殺してもらいたかったわ」
「なぜさ」
「目の上のタンコブなの。なぜだか分らないけど、タンコブなのよ。まだ生きてる、まだ生きてるッて、いつも私を苦しめていたのよ」
「そうかい。それは、おめでとう」
 そして、いよいよ別れるときに、青木は記代子にささやいた。
「なア、記代子さん。オレはタンコブじゃアないだろうな?」
「フフ。あなたなんか、空気みたい。ゼロだわ」
「そうだろう。祈り殺されちゃ困るからな」
「カメのように長生きなさい」
「平凡に。幸福に。ね」
 そして握手して別れを告げた。


     よく晴れた日に


       一

 数日すぎて、長平はルミ子から速達の手紙をもらった。ひらいてみると、遺書であった。長平はおどろいて、東京へ電話をかけて問い合してみると、ルミ子はやっぱり自殺していた。放二の葬儀が終えてのち、自分の部屋には一行の遺書も残さず、アッサリ自殺していたのである。
 長平は電話口で青木に云った。
「すぐ上京するから、あの子の屍体が行路病人みたいに扱われないように、かけあっておいてもらいたいね」
「え? 上京する?」
「左様。半日後には東京につく」
「オイ。笑わせるな。オレは今、ムシ歯が痛んでいるんだよ。今朝から下痢もしているぜ。何大公殿下の気まぐれか知れないが、いい加減にしてくれろよ。行路病人なみに扱わないようにしろッて、そもそもルミ子なるものは大公殿下の妃殿下ですかね」
「北川放二の女房だと云っとけばいいのさ。そのつもりで葬儀の支度をしといてもらいたいね。ナニ、葬儀たって、誰に来てもらう必要もないが、形だけのことをしてやりたいのさ」
「ハイ。ハイ。かしこまりました。ぼくも多少は縁につながる意味があるから、因果とあきらめて、やりますよ。どうだい。親類一同に焼香をねがったら。親類一同の住所姓名がわがらないから、新聞広告はいかがですか。親類代表、大庭長平。ルミ子儀かねて博愛の精神をもって、男子一切同胞の悲願をたて、よくその重責の一端を果し候も、身に限りあり……」
 長平は上京した。東京と京都は遠いようだが、青木と穂積が警察でゴテついている時間の方が、東海道の距離に負けない長さであった。まだ棺桶の用意もできてやしない。二人は屍体と差しむかいで、ヤケ酒をのみながら、ションボリお通夜をしていた。
「ヤ。おいでなすッたな。大公殿下。二人の哀れな葬儀人夫の悲しき様を、とくと見てくれよ。ついでに、自殺した妃殿下の太平楽な寝姿も見てやってくれ。オレたちが足すりへらして三拝九拝、ヘドモドしながら諸方を駈け歩いているのに、妃殿下は寝たッきり身うごきもしねえや。ありがとうとも言わないけど、太平楽がすぎると思うがね」
 駈け歩いて疲れきった二人は、酒の酔いがよくまわって、舌のスベリがよかった。秋の夜寒であるのに、それが癖の青木はハンカチで鼻の頭やヒタイをこすッている。いつも真白のハンカチを身につけている筈であるのに、黒々と垢にまみれているのを見ると、葬儀屋の足労というものが甚大だったと知れるのである。
「御足労をかけてすまなかったが、一刻も早く手をうってもらわないと、行路病人の墓地へ埋められても気の毒だからさ。第一、それからじゃア、尚さら手間がかかるだろうよ。しかし、御両氏が死人と差しむかいの酒モリも、沈々、ちょッと見かけないオモムキだね。酒が、うまかろう」
「まずくはないがね。ところで、君が電話で云ってきたときは、この子の自殺が発見されて二三時間直後のことだそうだよ。遺書を電報で送ったわけじゃアあるまいな」
「速達だが」
 長平はポケットからルミ子の遺書をとりだして示した。
「明日の朝にでも、読みたまえ。今夜は、ねむくなるまで、酒をのもうや」
「こんなものが、シラフで読めるかい」
 青木は無造作に遺書をひらいて、
「しかし、心ききたることをするよ。遺書を速達で届けるなんてね。屍体にだかれた遺書なんてのは、まったく下の下というもんだよ」

        二

 ルミ子の遺書は次のようであった。

 ゴキゲンいかがですか。
 先日お別れのとき、そのうちに一度だけお手紙しますとお約束しましたが、覚えていて下さいますでしょうか。これが約束のお手紙です。
 昨日、梶さんのお宅で兄さんの告別式がありましたが、先生は上京なさらないそうですね。青木さんから、おききしました。私も告別式には行きませんでした。
 野良猫のようにこの町にうろつくようになってからの短い月日は、私の一生にこの上もなく楽しい毎日でした。人のさげすむパンパンという境遇も、自分でみじめとも悲しいとも思いませんでした。むしろパンパンに安住していたのです。どこの奥さんがその家庭に安住するよりも、私はパンパンに安住していたと申せます。心にかかる小さな雲すらも、まずなかったと言いきれます。
 子供の私は、不平家で、ねたみ強くて、いつも人にたてついていましたが、この町へ辿りついて野良猫生活をはじめてからは、人が変ったように素直でした。どんな小さな不平も、忘れてしまったのです。
 先生はわかっていらッしゃると思います。私の心には、いつも兄さんがいて下さるので、私はどんな不平も忘れることができたのでした。好きになれないお客さんと枕を並べてねて目をさました朝でも、兄さんがいて下さると思うだけで、明るいキゲンになることができました。いいえ、かえッて、キライなお客さんほど大切にしてあげようと思いました。きめたお金を朝になって半分にねぎられても、我慢することができましたし、ぶんなぐられて、貰ったお金を取り戻されても、苦笑しただけで忘れることができました。くる朝も、くる日も、微笑して迎えましょうと思っていました。
 こう申し上げたとて、私は兄さんを恋していたのではありません。兄さんを恋すなんてセンエツなこと、どうしてできましょう。ヤエちゃんなどが、私がそうでもあるように皮肉なことを言うとき、兄さんに申訳なく思う気持で、そのときだけはヤエちゃんを殺したくなることがありました。私のようなものが兄さんを恋することは、兄さんを傷つけることです。兄さんを侮辱することです。私はどんな大罪人とよばれてもかまいませんが、兄さんを傷つけた罪に服すことは我慢ができません。
 兄さんは、私の心にともる灯でした。私の航路をてらして下さる燈台でした。兄さんが同じ屋根の下にいて下さると思うと、兄さんのお顔を見なくても、なんの心配もなかったのです。どんなときでも、一瞬の休みもなく、私のそばについていて下さることを信じることができました。いいえ、信じる必要などはありません。いつもいて下さいました。
 朝目をさますと、きっと私の前には、兄さんがいて下さるのです。私は兄さんにお早うを言います。私の心は晴れ晴れとします。私は明るく、働かなければなりません。パンパンという職業がどんな卑しいものであるかということも、考える必要はありません。兄さんがついていて、見まもっていて下さるのですもの、なんの不平がありましょう。私は、毎日々々が、たのしかったのです。どんなに苦しいとき悲しいときでも、自分が幸福な人間だということを疑ったことはありませんでした。

       三

 先日ヤエちゃんにお金をとられたとき、預金の方は手配をすれば人手にひきだされずにすむはずでした。いくらでもないから、私はそう云ってうッちゃらかしておきましたが、私はむしろ人に盗られてホッとした気持もあったのです。預金は卅六万円ほどありました。野良猫が預金していたことをおかしいとお思いになるでしょう。私もはずかしかったのです。
 野良猫にも、夢があったのです。ですが、どんな夢だか、おききにならないで下さい。自分でも知らないことなんです。夢というよりも、もっと実際的な不安だったかも知れません。いつまでもこうしていられないということ、いつか兄さんにお別れする時がくるだろうということ、そのときを考えてのことでしたが、兄さんとお別れしたあとでも、何やかやして生きるつもりの夢はあったのが今はフシギでございます。
 私が何より怖れていたことは、兄さんがおなくなりになる前に、私の今後の生き方について指図なさりはしないかということでした。めったになかったことですが、まれに兄さんが私の名をおよびになると、その怖しさで、私の胸はドキドキするのでした。私はいつも何食わぬ顔でニコニコと兄さんのお側についていましたが、ただその一つの怖れのためにいつも胸をいためていたのです。ですが兄さんは、やっぱり何のお指図もなさらずに、ねむるよりも安らかに、息をおひきとりでした。かすかに笑いながら――ウソではありません。きっと生きている私たちのことがおかしかったのでしょう。いつも、そうでしたもの。
 私の部屋に先生がお泊りのころから、兄さんが死んだら自殺しようと覚悟していました。自殺のフミキリに兄さんの死を使うことを咎めないで下さい。死ぬッてこと、私にはなんでもないことなんです。生きていることがなんでもなかったように。たゞ私にとっては、兄さんがいて下さること、いつもほほえんで私の生活を見守っていて下さることの喜びが全部でした。
 私はこの世になんの不平もありませんが、兄さんが生きていて下さらなければ、ムリに生きてることはないような気持なのです。兄さんが死んだから、私も死にたいのです。センエツかも知れませんが、兄さんと同じことがしたいだけです。兄さんが地の下へおはいりなら、私も地の下へ入れてもらいたいのです。けっして恋というものではありません。ただ兄さんのお側ちかくへ行かれるということ、これからも一しょに見守っていただけることを信じていたいだけです。そして、生れてきたことを胸いっぱい感謝して、一人のパンパンが死んだことを信じて下さい。
 お叱りをうけると困るんですけど、先生におねがいがあるのです。私、お線香一本たてていただきたいとも申しません。ですが、兄さんのお墓にいくらかでも近いところへ、埋めていただきたいのです。埋めていただくだけで結構です。お墓も葬式も欲しいと思いません。慾を云わせていただけば、よく晴れた日に私が背のびすると兄さんのお墓が見えるぐらいのところまで近づかせて下さいませ。怒らないで下さい。この希いをききとどけていただけたら、どんなにうれしいでしょうか。なぜって、私、これからお薬をのんで死ぬまでの短い時間、よく晴れた日に背のびして兄さんのお墓を見ていることを目に描きながら死にたいのですもの。おねがいです。
 先生の御多幸をいのります。

       四

 青木はルミ子の遺書を読み終えて、長平に返した。
「可憐だよ」
 彼はつぶやいた。しかし、すぐ苦笑して、
「あなた、これを読んで、とる物もとりあえず、上京したのかねえ。長平さんともあろう水ムシがさ。水ムシは、時に、妙なことで慌てるのかねえ。人間はたかが白骨ではないですか。なにも、こんなバカなことを云いたくはないが、相手が長さんじゃア、小人はケツをまくりたくなるんだねえ。長さんや。ぼくら小人にとっては、人間はなかなかもって白骨じゃアありませんや。だが、長さんほどの水ムシともなれば、片言隻句、人生すべてこれ白骨ではありませんか。ねえ。長さん。あなた、なんのために、なぜ、上京したのさ。え? よく晴れた日に、か。やれやれ。雨の降る日、風の吹く日は、どうしてようてんだろうなア、この幽霊は」
 その幽霊の本体はすぐそこに横たわっていた。特に正装とも思われないが、見苦しくない和服を身につけ、お化粧もし、今は解かれているが、紐で二ヶ所膝をむすんでいたそうである。流行の毒薬や催眠薬ではなくて、かなり特殊な薬を用いたらしいということであった。死に方について用意をきわめるだけの落付いた心構えがあったのである。ねているような顔だった。ふだんと変りなく、虚心で、可愛く見えた。
 湯呑みに灰を入れ線香をたてた人があったらしい。
「君たちかい。線香を供えてやったのは」
「そうはコマメにいかないねえ。センチな気分にひたるヒマがなかったほど、労働が苛烈をきわめたんだなア。二三、回向(えこう)の方々があったらしいや」
 青木は腕時計をのぞいて、
「もう十二時すぎてやがら。帰る電車がなくなったわけではないが、ひとつお通夜をしてやるか。完全なるお通夜をね。オールナイトさ。二千円、包まなきゃアいけねえや」
 しかし青木はフッと溜息でももらしそうな、ベソをかきそうに沈みこんだ。
「なア。長さんや。彼女はたしかに、可憐ですよ。だけどなア。オレは同情できねえや。オイ、長さんや。これ、本当かい? 彼女は、なぜ、死んだのさ。彼女の遺書たるや、何物ですかい。ただ、死にゃア、まだ、わかるよ。兄さんが死んだから、生きていてもツマラないッて? しかし、毎日々々が幸福で、たのしく、不平を忘れていられましたとネ。甘えてやがら。元々、自殺ぐらい甘ッたるいことはないがさ。あたりまえだ。一番人生の甘えん坊が、自殺するのさ。だから、彼女が妙テコレンな夢をえがいて、それに甘えて死ぬことはまた可なりかも知れないが、甘え方が気に食わないんだよ。ねえ、長さん。パンパンが、精神的な愛情なんて、笑わせやがるよ。それはね、パンパンが精神的な何かにすがるのは当然あって然るべきかも知れないが、こと恋愛的な雰囲気に於て、精神的とは笑わせらアね。人をバカにしてるじゃないか。ぼくはパンパンを軽蔑してやしませんよ。むしろ、尊敬してるんだ。パンパンたる者は、精神的などゝいう怪しげなものを、ハッキリ土足にかけてくれなきゃア、こまるじゃないか。彼女はぼくを、泣き男だと云いましたよ。それでこそパンパンなんだ。パンパンでなくちゃア至り得ざる境地によって、泣き男を土足にかけてくれなくちゃア、ダメじゃないか。甘ッチョイ死に方なんぞしやがって、ざまアねえや」
 青木は押入からルミ子のフトンをひッぱりだして、くるまって、ねてしまった。

       五

 郊外の墓地の一隅に二人を一しょに埋めることになった。せつ子の家へ放二の遺骨をとりに行くと、せつ子は笑って、
「なんだか、変ね。御当人たち、生きてるときには、死んでこうなるなんてこと、考えたことがないのにねえ」
「生きてるうちは、人間みんなデタラメさ。死んでからも、デタラメでも仕方がないよ。なんとなく恰好がつけば、花なのさ」
 長平は無責任なことを放言して、二ツの骨壺をぶらさげた。青木はニヤリとして、
「オレは持ってやらないぜ。長さんの心事には甚しく同情を感じていないからさ。一人で重い目をするがいいよ」
「私も同感できないのよ。お供しませんから、ごめんなさい」
 せつ子は門前まで見送って戻ってしまった。
「悪縁だなア」
 青木はつぶやいた。
「君とこうして歩いていると、しみじみ感じるのは、悪縁ということだね。まったく、人生は悪縁だけさ。だから意地ずくで生きのびてやらアね。死んじまうと負けだというのが実にハッキリしていやがるなア。今にこうして君の骨を埋葬してやる日のことを考えると、いくらか生きがいを感じるな」
 青木はうまそうにパイプをくゆらした。
 しかし、いよいよ墓地に至り、埋葬の段になると、青木は甚しく労力をおしまず、又、親切であった。長平は何もすることがなかった。青木が一人で汗水たらしているからである。かつ、遺骨にたいする取扱いのいたわりは丁重をきわめ、ミジンも手をぬくような粗略なフルマイがなかった。その人相も一途に真剣である。埋葬し終えてホッと一息、それからも、気になるところをコマメに手を加えて、外観をととのえた。
「実に親切テイネイなもんだねえ」
「これが武士道さ」
 青木は皮肉な笑いをとりもどした。
「よく晴れた日じゃないか。やっぱり、ちょッと離れたところへ埋めてやって、背延びをさせた方がよかったらしいや。しょッちゅう鼻をつきあわしてちゃア、やりきれませんやね。長さんも、不粋な人さ。過ぎたるは及ばずと云うじゃないか」
 青木は口の中でクチャ/\と経文か何かせっかちに呟いて、ペコンと頭を下げた。そして二人の埋葬は終った。
「どう? 水ムシの御感想は? 意はみたされましたか」
 青木は皮肉な目をクルクルさせた。長平は答えなかった。
「フン。勝手に黙ってるがいいや。ぼくの感想は、たった一つあるだけですがね。え。長さんや。たった一ツ。ね。オレは長さんを憎む、憎む、憎む。それだけだよ」
 青木はベッとツバをはいた。
「骨の髄から、憎んでるんだ。恨み、骨髄に徹す、かね。だんだん、それが分ってくるよ。生きるにしたがって、それが分ってくるだけなのさ。明日はもっと憎むんだ。そして、来年は、その分だけ憎さがハッキリ増してるのさ。なんて、まア、なつかしい人だろう。イヤハヤ、実に、おなつかしい」
 青木は墓地をでるとたんに、ニッコリ立ち止って握手をもとめ、強く長平の手を握りしめた。
「殺していいか、抱きついていいか、分りゃしねえや。オレは、長さんが、心から、なつかしいよ。ともかく、生きているからね」
 青木の目にこもった微笑は、素直で、善良であった。




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