街はふるさと
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著者名:坂口安吾 

       九

 放二はその二三日いくらか元気をとりもどしたように見えた。せつ子と穂積が訪ねた日は、夜になっても、人々が心配したほど疲れを見せなかった。
 ルミ子が遊びに行くと、
「梶さんに会いましたか」
 と、放二がきいた。
「ええ。私の部屋へいらしたわ。ハンドバッグいただいたの」
「話をした?」
「ええ」
「どんな話?」
「そうねえ。面白い話じゃないわ。お世辞の多い方ですもの」
「フフ」
 放二は笑った。
 放二には、梶せつ子という女の像が、いつも目にしみて映じていた。放二の目に映じているせつ子の像を、人々は、せつ子には似ても似つかぬウソの像だと云うかも知れない。それは放二には問題ではなかった。
 せつ子は女らしい女でありすぎるのだ。女のもつ性質の一つ一つを、あまりに豊かに持ちすぎている。特に一つに恵まれるということがなく、全てに平均して恵まれているために、彼女は常に平凡であるが、同時に、停止することも、退くこともできないのである。家庭的でもないし、娼婦的でもない。浮気でもないが、中性でもなかった。特に何物でもない。ただ非常に平均しすぎた女。平均という畸型児であった。
 彼女は家庭婦人となるにしては、男性への洞察力が鋭すぎたし、虚栄心も、名誉慾も高すぎた。しかし、事業家として成功するには、あべこべに、潔癖でありすぎたし、好き嫌いが強すぎる。人を信頼するに過不足でありすぎる。
 彼女の事業も、すでにかなり衰運に傾いているのではないかと放二は思っていた。彼女は、どこへ行くだろうか? それを思うと、放二は暗い。
「お世辞を使わずに、思うことをハッキリ言える人は、強い人ですよ」放二はルミ子に語った。
「梶さんは、お世辞を使いすぎるし、無愛想でもありすぎるし、憎みすぎもするし、愛しすぎもするのです。一ツ一ツが強すぎて、めいめい、ひッぱりッこしているから、あの人の中心には、いつも穴があいているのです。一ツ一ツひッぱる糸が生きているけど、あの方には、中心がないのです。女というものを象徴した人形にすぎないのです」
 ルミ子はビックリして放二を見つめた。にわかにウワゴトを言いだしたのかと思ったのである。放二の言葉は、てんで意味がわからなかった。こんなにワケのわからないことは、今まで言ったことのない放二であった。
 放二はやつれて、目が大きく、頬がこけていたので、安らかな顔ではなかった。微笑しようとしても、吐く息が大きくて、思うようにはできない様子である。しかし、ウワゴトではないのであった。
「ルミちゃんは、梶さんの妹なんです」
「え?」
「気質のちがう姉妹があるでしょう。ルミちゃんは、気質のちがう妹なんです」
「そうですか」
「そうです。ですが、女らしい女ということでは、二人とも、似ています。ルミちゃんは、はじめから不幸を選んだのは、賢明だったかも知れません」
「そうですか」
「不幸を選ぶ事のできない人は」
 そう言いかけると、放二の目から一滴の涙がこぼれた。

       十

 放二の部屋には、五人の女たちが、まだ寝泊りしていた。
 重病人の部屋であるから、静粛、清潔ということを医師や看護婦にくどく言い渡されていたし、時々見舞い客もあることだから、万年床をしきッ放してヒルネもしていられない。シュミーズ一つ、ネマキ姿というわけにもいかない。
 以上のことを封じられると、彼女らの自由の大半は失われたようなものであるが、彼女らはこの部屋から立ち去ろうともしなかったし、日中もほとんど部屋にゴロゴロしていた。
 彼女らが泊りの客をつかまえるのは、困難な事業に属するものになっていた。五百円ぐらいでも外泊の客がひろえればよろしい方だ。すると宿へ二百円おいて手取りは三百円である。ママヨと思えば三百円でも客をひろった。すると翌朝手に残るのは百円であった。
「アア! 自分の部屋が欲しい!」
 五人の誰かが毎日そう呟いていたが、誰も真剣に部屋をもつための努力をしているものはなかった。
 五人はめいめい疑り合っていた。誰かが秘密に貯金しているのではないか、と。なぜなら、彼女らは貯金を持ちたいということが、何よりの念願だったからである。
「アア! お金がほしい!」
 毎日誰かが血を吐くような叫びをあげたが、すると一同ゲタゲタ笑ってしまうのである。
「いくら、たまった? 畜生!」
 ヤエ子は病人の枕元であるのもかまわず、自嘲の苦笑をうかべて、憎らしげにルミ子によびかけた。
「あの女が、ハンドバッグ、くれたんだって? 畜生! オレにくれろよ」
 ルミ子は答えなかったが、病人の足もとをゆっくり一と回りすると、ねそべっているヤエ子のクビをおしつけて、おしかぶさって、
「お前には、アドルムあげるよ。ねな!」
「畜生!」
 ヤエ子は牛のように跳ね起きた。ふりむきざま、右の拳に力いっぱいルミ子の顔に一撃をくれた。ルミ子は一枚の紙のようにフッとんだが、倒れた上へヤエ子がとびついたのは殆ど同時であった。馬乗りになってクビをしめたが、ウッと声をあげたのは、押しつけているヤエ子である。頬をつねった。目のフチをつねった。あとはメッタヤタラに顔面をなぐった。狂気のようである。
 他の女たちがようやくヤエ子を距てたが、ルミ子の唇がきれて血が流れている。
「殺せ! はやく、殺せ!」
 とり押えられたヤエ子は足をバタバタさせて叫んでいる。
「なにが、殺せ、さ。ルミちゃんを殺しかねないのは、あんたじゃないか」
「ヘッ。それが、どうした。お前だって、ルミ子が死んじまえばいいと思ってやがるくせに。アタイはアイツが憎いんだ。自分だけ、部屋をもって、羞しくないのかよ! アタイたちが宿なしで、うれしいだろう! 畜生!」
 ルミ子の顔色が変った。
「ここを、どこだと思うのよ」
「チェッ! なんだと。どこだって、かまうかい。お前が、ここの、何なのさ」
 ルミ子は語るにも叫ぶにも窮して、涙があふれた。ヤエ子はそれを憎々しげに見すくめた。
「フン。結構な御身分さ。自分だけがこの部屋のヤッカイ者じゃないと思ってやがる。オレたちは貧乏だよ。金がないんだよう。金がありゃ、誰だって、思うことができるんだ」

       十一

「思うことができるなら、静かにしたら、どうなのね」
 と、一人がたまりかねて、たしなめたが、
「よせやい。アタイ一人が悪いのかい。わるかったネ。お前たち、お金あるのかい。ヘソクリがあるなら、正直に言いなよ。アタイだけが、一文なしの、宿なしだと笑いたいのかよ。叩ッ殺してやるから、笑ってみやがれ。オイ。笑えよ!」
「勝手におしよ」
 一同はウンザリしてヤエ子を突き放した。部屋にいて喚きたてられては困るから、
「オフロへ行こうよ」
「そうしましょう」
 と、一同は仕度をはじめる。ヤエ子は腕ぐみをしてジロリと一同を見上げて、
「フン。アタイにオフロ銭もないのが、うれしいのか。見せつけたいのかよ」
「うるさいね。オフロ銭ぐらい、だしてやるよ。いつだって、そうしてもらッてるじゃないか」
「いつも、そうで、わるかったな」
「だまって、ついてくるがいいや」
「バカヤロー。オフロ銭ぐらいで、大きなツラしやがるな」
 一同はヤエ子にかまわず、オフロへでかけた。ヤエ子は目をなきはらして便所へとびこんだが、実は便所の窓から、道を行く彼女らの後姿をうかがっていた。
 ルミ子が自分の部屋へもどって、オフロ道具をかかえて、彼女らを追うて去る姿を見ると、ヤエ子はようやくホッとした。彼女らの姿が見えなくなり、しばらくしても戻ってこないのを認めて、ヤエ子は便所をでた。そしてルミ子の部屋の戸をあけた。
「ルミちゃんの着代え、とりにきたのよ。オフロ屋の前のドブへはまっちゃッたのさ。トンマなヤツなのさ」
 ヤエ子は長平の存在などは、眼中になかった。パンパン宿へ一週間も泊りこんでいるジジイに利巧な奴がいる筈はない。助平の甘チョロにきまっているのである。
 ヤエ子は押入をかきまわした。行李が一つある。彼女はそれを、ゆっくりと、五分ぐらいも、中身をしらべていた。
「なにをしてるんだ。早く着代えを持って行ったらどうだ」
 長平がジロリとふりむいて言っても、ヤエ子は平気であった。
「ちょッと中身を見ているのさ。あんまり、たくさん持ってるから、目がくらまア。コチトラは着たきり雀だから、ビックリすらアね。へ。ずいぶん派手に、買いこんでやがら。パジャマ三枚もってやがら。人をバカにしてやがるよ。コチトラ、シュミーズの着代えもありゃしないよ。ズロースもね。エッヘ」
 最後のワイセツな言葉と笑いは、長平にあびせかけたものである。
 とうとう虎の子のありかを探しだした。銀行の通帳と一万円余の現金であった。彼女は行李の中のものを片づけて、
「これがキモノか。これがジュバンだ。このフロシキに包んでやれ。ヘッ。ズロースと、お腰も持ってッてやろうかな」
 と、又、長平に嘲笑をあびせかけて、包みをかかえて悠々と消えてしまった。
 風呂から戻った一同は、これを知って、被害者のルミ子よりも顔色を失った。
 ヤエ子の宿命と自分たちの宿命が、遠く離れたものでないことを、彼女らは身にしみて知っていたからである。ヤエ子は追われて立ち去ったのだ。追われる圧力を彼女らも身にしみている。まだしもルミ子の物を盗んだヤエ子は賢明だ。彼女らの心にうごいたものは、羨しさであった。

       十二

 長平はヤエ子の泥棒ぶりに感心した。よほど天分があるようだ。痛快になめられたものであるが、腹をたてる余地がない。
 彼の存在を眼中になく、行李をあけて十分ちかく金品を物色した落付きというものは、水際立っている。このとき彼の存在というものは、地上で最もマヌケ野郎に相違ない。おまけに、ズロースや腰巻などゝ適切なカイギャクを弄して、マヌケの上に怪(け)しからぬ根性に至るまで心ゆくまで飜弄しつくして退散しているのである。
 しかし、考えてみると、今までにこういうことが起らなかったのがフシギなのだ。ろくに稼ぎもないくせに、ムダ食いやムダ使いがやめられない五人の宿なしパンパンが、今まで泥棒しなかったのが珍しい。
 放二をめぐる生活の雰囲気が、彼女らの情操を正しく優しくさせていたと見るのは当らないようだ。盗みをしない方が、確実に生活安定の近道だったからである。雰囲気などゝいうものは、その安定を見定めた上で現れてくるセンチな遊びにすぎない。
 盗みをはたらく条件をそなえている人間が、雰囲気の中で妙にセンチにひたっているよりも、盗みをした方が清潔かも知れない。ヤエ子の大胆不敵な盗みッぷりから判断しても、こう判定せざるを得ないのである。雰囲気などというものは、実際は無力なものだ。
 しかし、ついに雰囲気がくずれたこと、つまりは生活安定の見透しがくずれたということについては、それが人生の当然ではあるが、無常を感ぜずにもいられない。
 放二の息のあるうちに、それが行われるというのは、まことに皮肉でもあるし、滑稽でもあるが、これが放二の善意に対する当然な報酬かと考えると、悲痛な思いにうたれもした。
 彼の冷たい判断からでも、放二の善意を若気のアヤマチと言いきれはしない。感傷とは言いきれない。しかし、たとえば彼の善意が神につぐものであったにしても、その報酬がこんな結果に終るというのは、人間の世界では当然すぎるのだろう。そして、放二は、それにおどろくような男ではなかろう。彼はほぼ全てのことを知っていた。
 長平は放二のとこへイトマを告げにでかけた。
「どうだい。いっそ、御一統に自由に解散を願ったら。一葉落ちて、秋来れりさ。一葉ずつ、妙な落ち方をさせない方が、サッパリしてよかろう」
 こうズケズケ言うと、放二は笑って、
「先生は貧乏人の心境をお忘れですね」
「そうかい」
「宿がないということと、タヨリがないということは、やりきれないことなんです。ギリギリのところへきてしまえば、自然に何とかなるものですが、さもなければ、解散しても、結局ここを当てにすると思います」
「なるほど」
「人間は、すすんで乞食にはなれないのですね。三日やればやめられないと分っていても」
「なるほど。秋がきても、気にかからなければ結構さ。じゃア、帰るよ」
「御元気で。長らく有りがとうございました」
 長平が離京するとき、ルミ子が送ってきた。
「いい加減で帰りたまえ。別れ際の時間は短いほどよろしいものだよ」
 長平が彼女を帰らせようとすると、
「セッカチね。私の方が大人だなア。一度、手紙を差しあげるから、忘れないでね」
 ノンビリ手をふって、二人は別れた。


     新しい風

       一

 せつ子は退院後の記代子をひとまず自宅へひきとった。甚だ好ましくなかったけれども、隙あらばと記代子の病室をうかがっている青木を見ると、他に安全な保管所が見当らないから、仕方がなかった。
 記代子の顔を見ることが他にたぐいる物がないほど不快なことだということを、ひきとってから気がついた。
 記代子の入院中、ウワゴトの中で叫んだ言葉は「エンジェル!」という名にからむものばかりであった。
 せつ子に何より不快なのは、それだった。記代子が居ると、その背後に、エンゼルという動物めいた悪者がいつも一しょに影を重ねて居るようで、動物の匂いがプンプン漂ってくる気がする。記代子が住みこんだばっかりに、わが家に動物小屋の悪臭がしみついてしまったようであった。
 記代子を見ると、目をそむけたくなるのをこらえようとすると、冷めたくジッと見つめてしまうことになる。ある日、記代子が言った。
「憎んでらッしゃるのね」
 記代子は、退院の日、なんとなく希望がわきかけたような喜びを感じた。希望というものが全て失われたように、前後左右たちふさがれた切なさに苦しめられたアゲクであった。はじめて小さな爽やかなものに、すがりつくような喜びで、退院したが、それも再びどこかへ没してしまったようだ。この明け暮れ、人生の希望を知るのに骨が折れた。人々が、だんだん憎く見えるのである。
「私、憎まれるのは平気なんです。それが当然ですものね。ですけど、矛盾がイヤなんです。憎みながら、保護して下さるのは、なぜ? その『なぜ』にもっと早く気がつけば、私もマシな生き方ができたでしょうに」
 バカな人間に、尤も千万な言いがかりをつけられるぐらい、興ざめることはない。せつ子は自分の人生が、いつもそのことで悩まされているような気がするのである。結果の事実としては尤も千万であるけれどもツラツラ元をたずねれば当人がバカのせいだということを、全然忘れているのである。
 記代子の背に青木の影が重なっているだけでもイヤだったのに、エンゼルの影も重なっている。動物臭がプンプン匂っている。それはみんなバカのせいだ。
「あなた、今になって気がついたのは、そんなことなの? そのほかに、気づかなければならないことが、ないのかしら?」
「でも、憎んでらッしゃるでしょう。それに答えてよ」
「さア。憎んでいますか。あなたが憎まれてるンじゃないでしょうか」
「おんなじことよ」
「あなたの場合、憎まれているか、いないか、そんなことを考えるのが問題ではないのよ。人々に憎まれる原因について、考えなければならないのよ。あなたも散々苦労なさッたでしょう。そのアゲク、私に憎まれているか、いないか、ようやくそんなことだけ気がつくようになったとしたら、ずいぶん悲しいじゃありませんか。人々はあなたに期待しています。あの大きな試錬の中から、あなたが何をつかみとってきたでしょうか、と。あなたの場合、私という存在は、とるにも足らぬ問題よ。あなたは男性というものに、どんな新しい考えを、つけ加えるようになりましたか。青木さんについて、エンゼルについて、あなたが新しく知り得たことは、どんなことでしたか。それについて、真剣に考えたことがありましたか」

       二

 せつ子の言葉は利巧ではなかった。
 人は誰しも忘れたいことがあるものである。特に記代子の場合などは、悪夢のたぐいで、遺恨は骨髄ふかく血みどろに絡みついているのだ。遺恨の深さというものは、バカと利巧にかかわりなく、差のあるものではない。
 その経験を生かせ、というのは、理窟はそういうものではあるが、人間の実状に即したものではない。利巧でも、そうはいかない。
 まして男女関係というものは、ハタの目からは割りきれても、当人にとっては永久に謎という性質のものである。人間関係というものは合理化しきれるものではない。常に個々独特である。
 悪夢は忘れるにかぎる。バカは死ななきゃ治らない、というのはその人間の墓碑銘としては、よく生きた、という意味に当っているかも知れない。バカでなかった人間よりは、精いっぱい生きているのだ。精いっぱい生きて利巧であったという奴はまずいない。
 しかし、人間は、人のバカさ加減まで、いたわってやるほど、親切である必要もないにきまっているだろう。
 記代子はエンゼルを忘れようと思っていた。それはエンゼルを悪党と断定した意味でもないし、エンゼルを愛せなくなったという意味でもない。理論や感情を超えた一ツの気配がわかるからだ。エンゼルが自分を愛していないという気配、いくらエンゼルを思ってもムダだという気配がわかるからである。
 記代子が経験から得た結論はそれだけであった。彼女の考えも感情も、そこに突き当って、引き返す。つまり、その壁にぶつかって、新しく出発するのである。
 そして、壁にぶつかって引き返してきた新しい感情は、青木か、あるいは、そのほかの新しい何か、そう考えがちであった。それは逞しく、強い考えではない。ややヤケ気味の、絶望的なものでもあった。
 しかし、絶望的な考え方は、むしろ地道なものであった。彼女は時々空想的なことを考えた。人に使われる身から離れて、独立した職業についてみたい、という考えだ。会社員とか、ダンサーとかいうのではなく、自分がその店の主人公、というような空想であった。そのへんまでは、まだ地道かも知れなかったが、すると記代子はその次にこう考えている。お金持になりたい。そして、誰に気兼もなく、自由奔放に生きたい。
 その空想には、極めて現実的な限界があった。彼女の最も近い身辺に、そういう女が実在しているのである。あまり身近かなために、感情的にせつ子を過少評価することは容易であったが、彼女と自分との身にそなわった位の差というものを実感的に脱けだすことは、まず不可能なことであった。
 しかし、無理ムタイに脱出できるたった一つの口があった。それは、怒り、逆上である。
 記代子は半死半生の経験によっても、冒険や危険に怯える心を植えつけられはしなかった。むしろ、なつかしみさえした。彼女があの怖しい経験から教訓を得たとすれば、あのようなことを再びしたくないことではなくて、あのような場合に処する技法に対する期待であった。それも空想の一つである。かすかな期待はあっても、勇気はないし、自信もない。
 記代子はせつ子と睨み合った。彼女を言い負かす言葉はない。しかし、もうこんな家にいるのはイヤだ。今日かぎり、とびだすのだ、と考えた。むしろ閉じこめられていた陰気な空に青空がのぞけたような気がした。
 彼女は覚悟をきめると、だまって自分の部屋へゆっくり戻って、カギをかけた。

       三

 記代子はさっそく家出の仕度にとりかかった。子女の家出に熟慮断行などということは、めったにない。激情的であるから、当人は一時的に悲愴であるが、同時に冷静でもある。時間を失せず、今のうちに飛びださなければ、ということを充分に知りすぎているのである。今でなければ、家出の理由がないし、大義名分がない。今を失すると、再び踏み切るときがないかも知れない。平静の時には自信がないことを知っており、激情にまかせなければ実行不可能であることを知っているのである。
 それは家に甘えているせいではない。誰しも家をでれば、寄るべないのは当り前のことである。
 記代子は二度目のことであるから、なれているようであるが、こういうことは馴れるというものではないようである。必需品はなんであるか、それぐらいのことには気がつくが、特にこの際に必要な、そこまで冷静な計算ができない。血迷ってもいるし、先の目算がたたないせいもある。
 夜の家出というものはグアイがわるい。夜中トランクをぶらさげてブラ/\しているのは都合のわるいことが多いものだ。翌日せつ子の出勤をまって、ゆっくり脱出した方が万事によろしいけれどもそれまで待っている余裕が怖しかった。そこで記代子は、何も持たずに家をでることにきめた。
 せつ子はさすがに大人であった。家出癖のついた小娘を怒らせっぱなしに放ッとくのは穏当ではない。折れたり、なだめたりするのは愉快なことではないが、対等にみたてて意地をはるのは大人げない話である。折れてみせて優しい言葉の一つもかけてやれば、その場では打ちとける色をみせなくとも、内々鋭鋒はくじけているものだ。
 そこで、せつ子は程を見はからって記代子の部屋をノックして、
「どうしてらッしゃるの? あら、カギがかかってるのね。はいっちゃいけないこと?」
「もう、ねています」
「そう。じゃ、私も戻ってねましょう。さきほどは、ごめんなさいね。でも、あれぐらいのことで血相変えて怒るなんて、オコリンボね。もう、仲直りしましょうね。おやすみなさい」
 せつ子はそれで安心して自分の部屋へひッこんだ。これだけ手を打っておけば、記代子は安心して、ねて忘れてしまうだろう。
 しかし、こんな動物の匂いのプンプンする因果物のような小娘を、今後どう処置したらいいのだろうかと考えると、ウンザリしてしまう。放二も悪い時にねこんでしまった。記代子から必要以上の動物臭をかぎたてるのも、こういう間の悪るさのせいもある。
「男の方が利巧らしい」
 せつ子は苦笑した。吾関せずの長平が、憎らしいが、なつかしまれる。彼の冷淡さに理があるように思われるからであった。
「あんなことを言って、子供だましのようなお世辞なんか使ったって、だまされやしないわ。まるで悪るがしこい狐のよう」
 記代子の鋭鋒はくじけなかった。記代子はすでに覚悟がついてしまっていた。否、家出後の暫時の目鼻がほぼリンカクをなしていたのである。せつ子は程を見はからいすぎて、時を失したのである。
 せつ子の訪れは、却って落付きと、かたい決意を与えたようであった。まだ九時ちょッとすぎたばかりだ。記代子は人々の気配に耳をすまして、せつ子の家から忍びでた。

       四

 社がひけてから、二三ヒマをつぶして、青木はゆっくり宿へ戻ってきた。すると、一足おくれて訪ねてきたのが記代子であった。
 記代子は彼に笑顔すら見せなかった。突ッ立ったまま、
「ここにはいられないのよ。てもなく発見されてしまうわ。どこか、社の人たちに気づかれない旅館へ案内して」
 頭上から噛みつくようにイライラと命令する。
「慌てることはないでしょう。お茶でも召しあがれ。アッ。なるほど。どなたか、お連れの方が表に待たしてあるんですね。遠慮なく、よんでらッしゃい」
 青木はバカに察しがよい。敗北精神が骨身に徹しているのである。心にうちしおれたりとは言え、表には益々明るいホホエミをたたえて敵をもてなそうという志であった。
「連れなんか、ないわ」
「ヤ。失礼。すみません。ぼくは、ダメなんだ。すべての栄耀(えいよう)は人に具わるもの、そねむなかれ、という呪文を朝晩唱えるようになったからね。しかし、あなたが丈夫になって、ぼくも嬉しいです。世の大人物はあげてぼくを虐待するからね。陰ながら、病室の外まで見舞いに行っていたのを知っていますか」
 青木がなれなれしく話しはじめたので、記代子は苦々しくふりきって、
「つまらない話は、よして。見舞いにきたのが、どうしたッていうの。見舞いに来てほしいなんて、思ってもいなかったわ。私、こゝにグズグズしていられないわ。梶さんのおウチから、とびだしてきたんです」
「なアンだ。社長殿の邸宅にかくまわれていたのですか」
 記代子は舌うちした。
「卑しいわね。そんな興味を、いつも持っているのね。人の私生活に興味をもつなんて、卑しいわ。グズグズしないで、旅館へ案内しては、どう?」
「そうガミガミ云うことはないですよ。さッそく支度をしますけどね。人にはガミガミお金にはピイピイ、あわれなる宿命だね。しかし、あなた、社長邸をとびだして、旅館へ泊って、いかがなさるのですか」
「うるさい!」
 記代子はカンシャク玉をハレツさせて、一喝した。妙齢の女子が、かりそめにも男子に一喝をくらわせるとは、由々しいことである。女中や下男に向ってそんなことをするかも知れないが、同輩に対する習慣にはないことである。
 しかし、青木は怒らなかった。むしろ記代子をあわれと思った。その墓碑銘に「多難なる生涯を終りたる娘」と書くに価する悲しい人生を経てきた娘が数多くいるはずのものではない。記代子などは例外だった。
「カンシャクを起したくもなるだろうさ」
 青木は深い愛情をもって記代子を見ていた。それは同族に対するあわれみの念でもある。記代子のようなアワレな娘には、踏んだり蹴ったりされても、トコトンまでイタワリを果すユトリを彼は身につけていたのである。
「さ。では、旅館へ御案内いたしましょう」
「あなたが泊るのではありません。案内したら、帰っていただきます」
「御意のままですよ」
「昔のことは、もう、すんだことだわ。親しい名前や言葉で話しかけるんだって、失礼だわ」
「わかりました」
「私の旅館、知ってるのは、あなただけよ。ですから、あなたにしていただく用があるから、明日の朝、来て下さるのよ」
「承知しました」

       五

 翌朝、青木は早めに出勤の支度をして、旅館の記代子を訪問した。
 早く目をさましたものとみえ、朝食もすませ、服装も化粧もキチンとして、所在なさそうにしている。
「よく眠れましたかね」
 記代子は目をけわしく光らせて、
「私を探してきた人はなかった?」
「まだ、きません。で、御用というのは、何でしょうね」
 複雑なかげりが記代子の顔を走った。まだ思案がついていないのではないか、と青木は思った。しかし、記代子が漠然と志向しているものは何だろう? それを思うと、青木は背筋を冷いもので触られたような不安を感じた。
「ねえ、記代子さん。あなたが再度の失踪に当って、ぼくを下僕として選んで下さったことを、しみじみ感謝していますよ。昨夜御命令によってお約束した通り、ぼくは最良の下僕としてあなたに奉仕いたしますよ。決して下僕以上の位をのぞみやしません。ですから、あなたが予定していらッしゃること、あるいは、まだ思案がきまらないようなことでも、みんな打ちあけて下さいませんか。むろん下僕ですから、御相談のない限り、こうなさい、ああなさい、などと差出口はいたしません。ただ御言い付けに従うだけです。ですが、下僕といえども味方の一人ですから、たった一人の味方として、予定の内容をもらしていただきたいというわけです」
「あなたの前夫人に会いたいの。ここへ来ていただいてもいいわ」
「え? 礼子ですか」
「礼子さんとおッしゃい。もうあなたの奥さんじゃないでしょう」
「すみません。ですが、こまったなあ。礼子さんの住所を知りませんのでね。夕方、仕事場へでてからじゃア、おそいでしょうな」
「バーできいてごらんなさい」
「なるほど。ですが、銀座のバーというものは、たいがい留守番の住む場所もないのが普通なんですよ。礼子さんのバーは、特に地下室のウナギの寝床のようなところで、便所以外に付属室はないだろうと思いますね」
「行って、たしかめてみてからになさい」
 記代子はいらだって叫んだが、彼女の顔には、地下室ゆえに泊り部屋がないことを確認した狼狽がかすめて流れたのを、青木は見ている。それをムリに押しつけて、いらだって青木を怒鳴りつけているのは、彼女のワガママである。
 順境にあれば礼節をわきまえ、逆境ゆえにむしろワガママになりがちなものではあるが、おのずから限度がなければならない。逆境の人が、甘やかされて、いい気になっているなどとは、哀れサンタンたる戯画である。そこまで、悲しく無知な姿を捨てておくのは、見るに忍びないから、
「なア、記代子さんや。下僕はいかなる命令にも従うべきではありますがね。しかし、銀座のバアへ行く。扉を叩く。鍵がかかっている。むろん無人にきまっています。あなたも無人だということが分っていらッしゃると思いますよ。ぼくがムダ足をふむのが、何かあなたのお役に立ちますかね。かかる命令が可能であると信じる人は、すでに人間の仲間ではありません。失礼ながら、記代子さん、あなたは逆境の人ですよ。ぼくが下僕の役を奉仕するのも、その逆境に対するきわまりない共感ですよ。逆境の人は、まさに人間中の人間でなければなりませんね」
 逆境のネロ皇帝なんて、道化芝居にもありませんや、と云うところをグッとおさえた。

       六

 青木は持ちまえのカンの良さで、いろいろのことを察しとった。
 礼子に会いたいという記代子の希望は、それか彼女の本当の希望ではないのである。彼女の希望はいろいろあるが、いずれも不可能にちかいことばかりで、実際に望むものには手をだすことができないのである。
 礼子に会いたいというのは窮余の策で、たまたま青木がいるために思いついた程度の、彼女自身きわめて気乗りのしない希望であるに相違ない。彼女が益々不キゲンなのは、そのためであろう。
 記代子のような暗い過去をもった人間が、そして、暗い過去を生かす才能に欠けている人間が、今後の身の振り方をいかに定めるべきであるか、ハタの目からも途方にくれる問題である。
 まず青木の頭にひらめくのは自分自身のことであるが、記代子はすでに物の見方がよほど変化している。結婚によって青木が記代子を幸福にする条件は、すでに失われているようであった。
 しかし、下僕として犬馬の労をつくしてやることによって、哀れサンタンたるこの娘を多少とも安全地帯へ誘導することができるなら、一文の得にならなくとも、思い出として決して不快なものではないだろう。
「なア、記代子さんや。何用で礼子さんに会いたいのか、ぼくには分らないが、あの人自身が全然迷っている子羊で、あなたに貸す智恵は持ち合せッこないですよ。あなたとは性格もちがいすぎる。いいですか、記代子さん。礼子さんの今いる位置は、人がもって範とすべき位置ではないです。彼女自身が、それを良く知っていまさアね。やむを得ず、あんなことをしているだけで、当人は足を洗いたくて仕様がないのですよ。あそこまで落ちて行くのは、誰だってできまさアね。なんの苦労もなく、誰でも、なれる。礼子さんに相談することはないですよ。ね。もしもあなたが、今後いかに生くべきかという問題で、誰かに相談したかったら、礼子さんは相談相手として、まず第一の失格者です。もっとも、消極的な意味では、よき相談相手かも知れません。なぜなら、彼女はあなたをいさめるに相違ないからです」
 いさめたって、どうにもなりやしない。記代子のような平凡な女には、身の程を知らせることが何よりだろうと青木は思った。
 思わぬ多難な経験によって、彼女は凡そふさわしからぬ異常世界を身近かに感じ、自らの生活をもそこに投入しつつあるが、この食い違いが本人自身で気付かなければ、彼女の本当の生活は生れやしない。
 言葉で言ってきかせてもダメ。短期に功をねらってもダメだ。長期の時間を覚悟して、ある特定の環境の中で、身の程を思い知るまでジリジリ待つことである。平凡な男と平凡な結婚生活をねがうようになるまで――それが彼女の性格や智能に最も適合した生活なのである。
「なア。記代子さん。京都へ帰ろうよ。ぼくがお供しますよ。なに、社長邸をとびだしたって、家出でもなんでもありゃしないよ。あなたの家は京都にあるのさ。ね。長平さんは怖いオッツァンのようでも、人間の本心にふれてくれるよ。今まではあなたに分らなかったが、ぼくと一しょにこれから帰ってみると、よく分るです。ね。すぐ京都へ行こう。一分一秒も早く。こんな東京なんか、すてちまうのさ。ぼくは京都まで安全にお送りして、すぐ戻りますよ。旅行の支度をしてくるから、三十分だけ待ってて下さい」
 記代子を承諾させて、青木は大急ぎで宿へ戻った。

       七

 青木が宿の前までくると、せつ子の自家用車がとまっている。シマッタと思ったが、もうこうなったら、逃げ隠れはしない方がよかろうと覚悟をきめた。
 玄関をはいると、せつ子が宿の人たちから色々何かきいているところであったが、青木を認めてサッと面色を改めて詰問にかかろうとするのを、そのヒマを与えず、
「ヤ。わかっています。まさしく記代子さんは、昨夜ぼくを訪ねてきました。そして、たしかに、ぼくが保護いたしております。全部お話いたしますから、ぼくの部屋へきていただきましょう。実に、三人目。いやはや、目も当てられねえや。三方損の三人目。ね。あなたは分って下さらないかも知れないねえ」
 穂積もせつ子と一しょであった。せつ子は青木の部屋を見まわして、記代子の残した動物臭をかぎわけているらしい様子である。いかにも重大決意を蔵するかのような静寂な態度に、青木はウンザリして、
「ねえ、社長さん。嵐の前の静けさですか。しかしですよ。もしもあなたが、今度のことで、ぼくに向って何かの遺恨があるとしたら、そして大いにぼくを面責なさろうというお考えなら、天下の、イヤ、東京の、ハッハ、だんだん小さくなりやがら。とにかく、奇怪事であるですよ。たまたま記代子さんが僕をたよって逃げて来た、ね、ぼくたるや、大過去のインネンはとにかくとして、さしあたって何の責任がありますか。むしろ、逃げられたあなたは、あなた自身の責任を感じ、あわせて、彼女を無事保管の任を完(まっと)うせるぼくに向って感謝の意を表して然るべきではないですか。あなたの態度は常にあなた自身の感情に即してはいるが、物の当然しかるべき理に即してはいませんな。けだし、記代子嬢があなたの邸宅を逃げだしたのも、直接の原因は、そのへんにありと見たのはヒガメですか。どうもね、とかく御婦人は暖冷ただならぬものではあるが、あなたは格別だね。その冷たるや、冷血動物以下、ぼくがツラツラ案ずるに、大そう水ムシによく似ているです。足にできる水ムシのことですよ。あいつは痛くもカユくもないが、実に無残に肉にくいこみ、一生涯、なんとしても治らんです。実に、一生涯ですよ。死ぬまでですよ。死んでからでも、足の指のマタにハッキリくいこんでまだ生きているのですよ。見たわけじゃアないがね。そうに、きまッてらア。実に、人生に最も酷薄なるものは、水ムシの如くに、痛くもカユくもないです。そして生涯、死んでからでも、肉にくいこんで、かみついているです。けだし、あなたは、水ムシだね。実に酷薄ムザンだね。小娘はジタバタするのが当然さ。痛くもカユくもないという生涯ムザンの酷薄なるものに、ジッとこらえていられるのは、拙者、つまり蛙、イケシャアシャアね。それあるのみさね」
 せつ子はちっとも騒がず、
「そう。記代子さんを無事保管していただいて、ありがとう。いま、どこにいますか、記代子さんは」
「その御返事はハッキリおことわり致しますよ。彼女は、あなたとは縁なき衆生です。たぶん、ぼくと彼女とも、多かれ少なかれ縁なき間柄であるらしいようですがね。念のために、それだけはお伝えしておきます。ぼくは彼女を路傍の一人として保護いたしておるにすぎません。今や、なんの親密なる関係もありませんや。ぼくは只今より彼女を京都の叔父なる人のもとへ送りとどけてきます。その旅装のために戻ってきたのです。彼女は今夜は京都の叔父のもとに無事安着するに相違ありませんから、だまって引きとっていただきましょう。言語無用。だまったり。だまったり」

       八

 せつ子は事の判断に於ては、感情に走ることはなかった。青木の意向が、記代子を無事長平のもとへ送りとどけることに専一であると見てとったから、
「わかりました。本当にお世話様ですね。では、御手数でも、おねがい致しますよ。大庭先生に、よろしくね」
 青木は思わずホッとして、のぼせた頭に、血がクラクラと離合集散、彼は冷汗をふいて、冷茶をグッと一パイのみほした。
「ヤ。どうも、ありがとう。理解していただいて、幸福です。そういっていただくと、穴があれば、はいりたいですよ。なに、それほどでもないですか。ハッハ。あなたは処世の達人さ。女ながらもアッパレさね。ぼくもね。三方損の三人目とか、覆水盆にかえらずとか、近代イソップ物語の原理についてウンチクをかたむけたいところがあるですが、今日は急ぎますから、失礼します。御無礼の段、平に御容赦」
 青木がこう言い残して別れようとすると、せつ子はよびとめた。
「お待ちなさい。車がありますから、東京駅まで送ってあげるわ」
「ヤヤ。それは、いけませんね。無茶なことをおッしゃるなア。後で八ツ当りにやられるのが、ぼくですよ。八ツ当りならよろしいが、三たび姿がかき消えまさアね」
「その心配はありません。第一、東京生活をきりあげて帰郷なさるのに、オミヤゲも買ってあげなければいけないでしょう。その機会がなければとにかく、機会があって、手ブラで帰せると思いますか」
 一々もっともである。自分の家から失踪したまま京都へ戻ってしまうのを黙って見過すということは、後味の悪い話である。せつ子に、記代子の帰郷をひきとめる意志のないのが分っているから、青木は彼女の気持も尊重してやる必要があると思った。
「わかりました。おッしゃることは、ごもっともです。ですが、くれぐれも御手ヤワラカにねがいますよ」
 記代子の宿へ案内した。二人をどんなふうにひきあわしたものかと青木が思案していると、せつ子は委細かまわずズカズカと先頭に部屋へ通って、
「アラ。記代子さん。御無事でよかったわ。京都へお帰りですッてね。ほんとに、それが何よりよ。何をプレゼントしましょうね。銀座の商店は、ちょッと開店に間があるから、デパートから廻りましょうよ」
 デパートをまわり、銀座を廻り、出来合いではあるが最新型の高級服を買って、着代えさせる。帽子、靴、ハンドバッグに、その中の品々まで一式。トランクも買いこんで、身の廻りの品々。フランスの香水に至るまで。右往左往、ひきずりまわされる青木は、アア、大変な買物だ、この支払いだけでも、わが社の会計係は月末に一苦労だなア、桑原々々、とついて行く。
 最後に二人を大阪行特急の二等車へ送りこんで、
「じゃア、お気をつけて。大庭先生によろしくね」
 こうして二人は京都へたった。
「ねえ、記代子さん。彼女は敬服すべき手腕家だよ。しかし、金のかかる手腕だなア」
 記代子もつりこまれてニッコリして、
「ほんとね。私のようなチンピラにまでこんなことして、叔父様なんかにはどんなプレゼントするのかしら」
「ナニ、長平さんにはお金いらずのプレゼントがあるのさ」
 と青木が皮肉ると、
「ヤキモチヤキね」
 横目で睨んだ。記代子のキゲンは直っていた。

       九

 青木は半日の汽車旅行で、女の一生ということを変にシミジミと考えさせられた。子供をもたない彼は、そういうことを身にしみて考えたことがなかったのである。
 記代子の多難な経験は、彼女に多少の悪変化を与えたが、三文の得にもならなかったようである。目立った変化といえば、彼女は頑固になっていた。過去のアヤマチを後悔せず、むしろアヤマチとして見ていなかった。自分の過去を客観的に省察してその結論を得たのではなく、人々への敵意によってアヤマチと見ることをテンから拒否しているのである。人の批判もうけつけない。人の言葉を感情的に反ぱつする完全な城壁をかまえたが考えることを失ってしまったのである。過去のいかなる経験も、生きるはずがないのである。一そうバカになったようなものだ。
 しかし、記代子一人のことではないだろう。日本の多くの娘たちが、似たり寄ったりに相違ない。要するに、日本の女というものは、家庭の虫のようなものだ。物質的、精神的にも、義理人情を食餌にして一生を終るように仕込まれている。義理人情にとっては、批判というものは無用の長物、あっては困るものである。記代子のように、一見、義理人情にも突き放され、世間から孤立させられた立場に立たされたようでも、義理人情から解放されたわけではない。義理人情を省察し、自己を省察することを知ったわけではない。むしろ、義理人情に縋ることしか知らない魂が、その義理人情にも見放されたことに対する咒咀(じゅそ)と、益々依怙地な敵意と、自己保存慾があるだけのことである。
 こういう女でも、男に愛される資格はある。青木が悲しく結論し得たことは、それだけであった。経済的に独立し得たところで、彼女の幸福はあり得ないだろう。なぜなら、彼女は義理人情の外には安住できない女だからである。
 男の愛情を当にするということは、まったく偶然相手である。競輪以上のバクチである。男に当ればいいけれども、外れれば、それまでだ。日本の女には、そのアトがない。外れれば、一生が外れたことになるのである。不幸に忍従し、それが日本の自然であり、同情もしてくれないし、ほめてもくれない。そして、男に当るか当らないか、ということは、親がしらべたぐらいで分るものではないのである。サラブレッドと同じように、血統や教育の道程などを調べたあげく、外れればそれまで。復を買うわけにもいかないし、二度目三度目の勝負でとりかえすわけにもいかない。
 しかし、記代子の場合には、とにかく、男に愛される資格はある、ということを頼む以外に仕方がなかろうと青木は思った。どんな男が彼女を愛してくれるだろうか。時間的に彼女を愛す男は少くなくとも、彼女の一生を、ともかく大過なく安泰にすごさせてくれる男が多くあろうとは思われなかった。なぜなら、彼女は可憐さを失いながら、それに相応する知性を得ていないからである。むしろ愚を得ているからである。
 京都へつくと、記代子は疲れきっていたので、はやくねた。青木と長平はおそくまで酒をくみ交したが、長平は相変らず、一向に親身の心配をしなかった。
「なに人間は似たものさ。特に幸福な人間も、特に不幸な人間も、いるものか。境遇なんざ、どう変っていたって、根は同じことだよ。ほッとくのが、いちばん、いいのだ。しかし、本当に、ほッとく奴が、いないだけのことなのさ」

       十

「本当にほッとくなんてことが、できるものかね」
 青木がいささか色をなして長平の無責任な放言を問いつめると、長平は笑って、
「そりゃア、できないな。しかし、大まかに、要点をつかんで、やるのだね。家出本能のようなものもあれば、帰巣本能のようなものもあるんだね。飛びだす方をほッとく以上は、戻ってくるのも自由にほッとく必要があるだろう。要は、それだけだね。何べん飛びだして、何べん戻ってきたって、かまわねえや。それで人間が不幸だってことは、ありゃしねえな。人間は、それ以上に幸福ではあり得ないものなんだね」
 至極要領をつくしている。一人の男を選んで与えて、それで片づけてしまうのに比べると、この方が理にかなってはいる。この方が本質的に、あたたかい方法ではある。帰る家があるというのは一生の救いかも知れない。二度と帰らぬ覚悟で嫁ぐという精神は、そもそも幸福を約束する出発ではない。特にそれを強いられでは、特攻隊のようなものだ。
 長平の言葉にも一理はあるが、チョイチョイ戻られては、困るであろう。青木は苦笑して、
「君のは、禅問答だね。一般家庭じゃ、禅坊主にはなりきれないさ」
「君まで、そんな風に思うかね。オレはハッキリしていると思うな。女には、家が二つあるんだね。生れた家と、子供を生んだ家とだね。子供を生まなくッてもかまわないが、とにかく、この二ツのうち、どッちかを選ぶ自由を与えておくのさ。娘の親は、それだけ覚悟しておくんだね。生んだ義務だよ。オレは記代子に愛情なんぞもってやしない。義務をもってるだけだね。義務というほどでもないが、勝手にしやがれということさ。戻ってきたら、仕方がない。こりゃア、奴めに権利があるのさ。そう心得ておきゃアいいと思うんだね」
 長平流の筋は立っていた。おまけに、彼のしたことは、まったく言葉の通りであった。青木自身、身にしみている。彼自身、勝手にしやがれ、という対象だったことがあるからである。理からいえば甚だあたたかいようなことではあるが、その時、彼が身にしみたのは、長平の冷めたさである。それは、今となっても、理によってあたたかく生れ変って感ぜられる底の底のものではなかった。理窟だけでは納得できない性質のものである。
「君の云うことは、ツジツマが合いすぎて、気味が悪いね。そうツジツマが合いすぎちゃア、いけねえな」
「なに、ツジツマが合うもんかよ。大要をつかんで、要領だけを云ってるんだよ。要所要所は、いつもツジツマの合ったものさ。枝葉末節に至ると、必ずツジツマが合わなくなるのさ。人生は大方枝葉末節で暮しているから、万事ツジツマが合わねえや。こりゃア、仕方がないじゃないか」
「そういうもんかね。しかし、要所要所に於て、君は大そうあたたかいようだが、実はひどく冷めたいのも、枝葉末節のせいかね」
「そうだろう」
「なア、長さんや。思うに、君も水ムシだね。むしろ、君こそ水ムシの張本人だね。生涯人をむしばんで痛くもカユくもねえや。実に酷薄ムザンですよ。最も酷薄なるものは、痛くもカユくもないものだ。それは、君に於て、まさに最も適切だね」
 長平はてんでとりあわなかった。それは全く水ムシと同じ呪わしいものに見えたが、水ムシに悩む自分の方を考えると、青木はクサらざるを得なかった。

       十一

 記代子は京都の土をふむと、新しい気持が生れた。東京では四囲がみな敵地のような気持で、どこにいても気持が荒(すさ)み、息苦しく、安息もできなかったが、京都へ着くと、自然に気持がおだやかになっていた。誰がむかえてくれたわけでもなく、古い都の街や自然が彼女によびかけているわけでもなかった。いつも傷口にさわられているようなイライラしたものから、遠く離れた安心を覚えた。なにかキレイにぬぐわれたような清爽感をも覚えた。
 東京にいたって、あの広い東京のことだもの、彼女の傷口にふれる人間にめったにぶつかるものではない。京都に来たからって、傷口にふれる男にどこでぶつかるか分ったものではないのである。しかし、京都へ来たという実感の中には、そういう理窟を超越した安心感があった。
「旅をすると気持が変るというのは、こんなことを云うのかしら」
 自分でも異様な思いがするのであった。なぜだか分らない。たった五百キロの距離。傷口の現場からそれだけ離れたというだけのことで、傷口が治ったわけではないのに。
 しかし、このホッとした安らぎ。久しく忘れていた、このなつかしい安らぎ。フシギではあるが、まぎれもない現実であった。
「こゝが生れ故郷でもないのに」
 記代子は笑いたくなるのであった。
 そして、記代子の胸に吹きつけてくるのは、新しい風だ。東京にいた時は、無性に腹が立ち、身をかきむしって投げ捨てたいような息苦しさで、未来の希望などは人がそれをくれるといっても欲しくないような気持であったが、こゝではまるで生れ変ったようだった。
 記代子の胸は未来の希望にふくらんでいた。いかにすべきかという未来の設計を考えているわけではない。今までは、未来を思うと暗さと絶望があるだけであったが、こゝでは未来が明るいものに感じられた。唐突で新鮮な感動だった。記代子はそれに酔った。
「京都へ戻ってきて、よかったわ。なんてすばらしいことだう! まるで世界の景色が変ってしまったように見えるわ」
 もうマチガイを起さないようにしよう、と記代子は自ら誓った。身にあまることを夢想したり、行きすぎたりしないように。自分は平凡な女なんだ、とふと考えた。その考えすら、素直にシミジミと心を傾けてききいれることができた。すると心は洗われて、過去を消し去ることができたようなサッパリした気持にもなれた。
 過去の姿を今に伝えていることがイノチのようなこの古都へきて、過去を忘れた気持になれるなんて、フシギなものだ、と記代子は思った。覇気のない古い都。乙女心には、灰色の街のように魅力のない土地であったが、今はただ生き生きと明るい。新鮮だ。
 そして、青木に対しても、その親切に感謝する素直な気持が生れていた。彼女は家路を走る自動車の中で青木に云った。
「京都はすばらしいわ。もう東京へ行きたいと思わないわ」
 ウットリと甘い夢を見ているようだ。青木は夜気が一そう身にしむような膚寒い思いがした。肚の中で、こまった子供だと舌打ちした。
「京都は落付いた町ですよ。しかし」
「しかし、なによ」
「京都に甘えてもいけないし、東京を怖れてもいけませんや。そして……」
 青木は悲しくなった。自分だって、記代子と同じことじゃないか。五十にもなって。
「そして、私は生れ変ったと思うのよ」
 記代子の独語は生き生きとしていた。

       十二

 翌朝、新たな第一日の目ざめをむかえても、記代子の胸のふくらみはつづいていた。冷静な考え方も、かなりチミツな計算力もとりもどしたが、希望の明るさを消す力にはならなかった。むろん、いろいろな不安がないことはない。しかし、それをムリに押し殺す必要はなかった。希望がそれにたちまさっていたからである。
「ホウ。顔色がさえているね」
 朝の第一の挨拶に、青木はすかさずこう呼びかけた。青木はそれを喜びもしたが、それがいつまで続くことか、という暗い思いが、同時にひらめいているのであった。
 こうして記代子の顔色がにわかに安直に冴えるのを見ると、青木がつくづく感じるのは自分と記代子の距離であった。ひところ二人がママゴトめいた関係をもったこと、記代子がニンシンしたこと。夢のようだ。
「ひどいことをしたもんだなア」
 青木はいくらか羞じて、間のわるい気持になるのであった。なぜなら、二人の距離の距たりがひどすぎるからだ。今になって、どうしてこんなに目立つのだろう、青木はそれをフシギに思った。
「なア。記代子さん。ぼくの云った通りだろう。京都へ戻って、よかったろうがね」
「そうよ。だけど、どうして今朝になって、そう云うのよ。ゆうべ、京都へ戻って良かったと云ったとき、あなた、なんと云った?」
「そうか。魔が掠めたんだね」
「あら、おもしろい。ゆうべは私に魔がついていたの」
「いいえ。ワタシにさ」
「なんだ。つまんない。いつもじゃないの」
「ホウ。ぼくにいつも魔がついていますか」
「そうよ」
「見えますか」
「見えるわ。貧乏神がついているのよ。それも変に見栄坊で気位の高い貧乏神なのよ。自分の貧乏性もよく分るけど、ほかの人の方がもっと貧乏性に見えるらしいのね。で、いたわったり、同情したり、泣いてあげたりするのよ。気位が高くッて、センチなのね。あなたの貧乏神は」
「やれやれ」
 青木はガッカリした。当らずといえども遠からずである。
 しかし、貧乏性とは、この際、適切な言葉だと青木は思った。これを気取って云えば、知性と云えないこともない。彼の場合は、そうなのである。彼の性格をめぐる理が、そうなのだから。
 それに対して、記代子は貧乏性ではないのかも知れない。そうだとすれば、そのことは彼女の無智をおぎなって余りある美徳なのかも知れない。それが二人の大きな距離の一つかも知れなかった。
「ぼくは貧乏性だとさ。このお嬢さんがそう仰有ったのさ。見栄坊でセンチな貧乏神がついてるのだそうですよ」
 三人集った席で青木が云うと、長平は笑いもしないで、
「で、記代子は、どうなんだ?」
「あら、私は……」
「ぼくは、こう思うよ。英雄、帝王のAクラスにも貧乏性はあるもんだよ。秀吉だの、ヒットラアでも、そう見えないかね。そして、誰だって、そうじゃないかね。それに気がつくと、みんなそうなのさ。知らない奴が一番幸福なんだ。だから幸福なんてものは願う必要がないし、それにも拘らず、知らない奴はたしかに幸福に相違ないよ」
 そして、記代子に云った。
「お前さんは進んで不幸を愛すな。苦しいことには背中をむけなよ。そうこうするうちに、なんとか、ならア」

       十三

 放二が死んだという報らせがきたのは、青木がまだ京都にいるうちだった。せつ子からの電話であった。長平は葬儀万端彼女に託して、上京を見合せた。青木が京都にいてくれたのは便利であった。電話では足りない用を彼に託して帰京してもらうことにした。
「彼は若年にして陋巷(ろうこう)に窮死するのが、むしろ幸福なのさ」
 と、青木は放二の死を批評した。彼は元来、放二の生き方を高く評価していなかった。
「彼はアプレゲールの逆説派にすぎんですよ。ロシヤ的ストイシズム、特にドストエフスキーの安直な申し子さ。白痴的善意主義の亡魂、悪霊というもんですよ。彼の夢とセンチメンタリズムに安直に合致するような現実が、焼跡の日本にはやたらに有りやがったんだね。それがそもそも、マチガイのもとさ。彼をして安直に英雄的自尊心を満足せしめるに至ったのですよ。それにしても、チンピラ、アンチャンの英雄主義にはまさるけれども、戦後続出のイミテーションの一つには相違ないですよ」
 彼の評価は残酷であった。
「あんまり、口はばッたいことは言えないがね。ぼくとて何かしらのイミテーションかも知れないが、とにかく、長さんや、ぼくは迸(はし)ったですよ。時に停滞しても、時に迸ったです。北川君の一生は迸ったことがないね。激発をひそめた静寂でもなかったね。読書と、読書の裏返しの静かさにすぎないやね。彼にくらべれば、ぼくの生涯はマシですよ。彼は幸福に死んだ。これをぼくはこの上もない道化芝居(ファルス)と見るが、いかがですか」
 青木は放二がキライではなかった。心あたたかく、あくまでマジメな青年であった。珍らしい好青年と云えるであろう。
 しかし彼の生き方の甘さにはついて行けない。それを許容することは、わが生き方の必死なものを、自らヤユするようなものだ。青木はてんから反撥せずにいられなかった。
 記代子は青木に千円渡して、
「放二さんにお花あげて下さいね」
「ヤ。ありがとう。どんな花?」
「なんでもいいわ。花束なら」
 記代子は長平のいないとき、青木にささやいた。
「私、ホッとしたわ」
「なにが、ですか」
「放二さんが死んだから。私のために死んでくれたような気がするのよ」
 青木はちょッと呑みこめなくて、いぶかしげに彼女の顔色をさぐった。
「え? なんだって?」
「私はね。放二さんの生きているのが、何よりイヤだったの。願いごとをかなえてくれる魔物がいるなら、私の未来の時間を半分わけてやっても、放二さんを殺してもらいたかったわ」
「なぜさ」
「目の上のタンコブなの。なぜだか分らないけど、タンコブなのよ。まだ生きてる、まだ生きてるッて、いつも私を苦しめていたのよ」
「そうかい。それは、おめでとう」
 そして、いよいよ別れるときに、青木は記代子にささやいた。
「なア、記代子さん。オレはタンコブじゃアないだろうな?」
「フフ。あなたなんか、空気みたい。ゼロだわ」
「そうだろう。祈り殺されちゃ困るからな」
「カメのように長生きなさい」
「平凡に。幸福に。ね」
 そして握手して別れを告げた。


     よく晴れた日に


       一

 数日すぎて、長平はルミ子から速達の手紙をもらった。ひらいてみると、遺書であった。長平はおどろいて、東京へ電話をかけて問い合してみると、ルミ子はやっぱり自殺していた。放二の葬儀が終えてのち、自分の部屋には一行の遺書も残さず、アッサリ自殺していたのである。
 長平は電話口で青木に云った。
「すぐ上京するから、あの子の屍体が行路病人みたいに扱われないように、かけあっておいてもらいたいね」
「え? 上京する?」
「左様。半日後には東京につく」
「オイ。笑わせるな。オレは今、ムシ歯が痛んでいるんだよ。今朝から下痢もしているぜ。何大公殿下の気まぐれか知れないが、いい加減にしてくれろよ。行路病人なみに扱わないようにしろッて、そもそもルミ子なるものは大公殿下の妃殿下ですかね」
「北川放二の女房だと云っとけばいいのさ。そのつもりで葬儀の支度をしといてもらいたいね。ナニ、葬儀たって、誰に来てもらう必要もないが、形だけのことをしてやりたいのさ」
「ハイ。ハイ。かしこまりました。ぼくも多少は縁につながる意味があるから、因果とあきらめて、やりますよ。どうだい。親類一同に焼香をねがったら。親類一同の住所姓名がわがらないから、新聞広告はいかがですか。親類代表、大庭長平。ルミ子儀かねて博愛の精神をもって、男子一切同胞の悲願をたて、よくその重責の一端を果し候も、身に限りあり……」
 長平は上京した。東京と京都は遠いようだが、青木と穂積が警察でゴテついている時間の方が、東海道の距離に負けない長さであった。まだ棺桶の用意もできてやしない。二人は屍体と差しむかいで、ヤケ酒をのみながら、ションボリお通夜をしていた。
「ヤ。おいでなすッたな。大公殿下。二人の哀れな葬儀人夫の悲しき様を、とくと見てくれよ。
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