街はふるさと
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著者名:坂口安吾 

       八

「エンゼルに手下が多いたって、監禁してやしないでしょう。監禁されているにしても、逃げられないことないはずだわ。ポッとでの田舎娘じゃないもの。都会のオフィスで働く女性だものね」
 ルミ子は表現の言葉を選ぶのに苦しんだ。
 記代子をバカな女だと思うけれども、自分や自分の周囲の女と同じようにバカなだけだ。彼女らがこんな暮しをしているのも、バカのせい。それを悔いてもいないし、世間体よく暮す人を羨んでもいないが、記代子をハッキリとパンパンなみだと言いきって、寝ざめが良くもない。
「その気持があれば逃げだせるのに、逃げないとしたら。……世間で思うのと、当人が思うのと、ちがうんじゃないかなア。泥沼から助けられて、迷惑する人もいないかなア。泥沼なんて、心境の問題だ。お金をウントコサもって鬼のように生きている人もいるし、働くよりも乞食がいいという人もいるし」
「男を死なせて、増長してるパンパンもいるし」
「奥さんになりたいパンパンもいるしね」
「フン」
 ヤエ子は半身を起して、ルミ子を睨みつけた。
「余計なお世話だよ。利いたふうなことを言いなさんな。今さら、弱音をはこうッてのかい。きッと見つけてきますッて、大きなタンカをきったのは、どこのドイツさ。探しておいでよ、エンゼルのウチをさ。色仕掛でも、腕ッ節でも、キッピイにかなわないというんだろう。チェッ! ハッキリ言えよ。さもなきゃ、エンゼルのウチをつきとめてきやがれ」
 ルミ子はニヤリと笑って、
「すみませんね。色仕掛でも、腕ッ節でも、とてもキッピイにかなわないのよ。助けてちょうだい。姐さん。ワアーン」
 掌に顔をおおい膝にうつぶして泣きマネをした。
「えイ。コイツ」
 ヤエ子はルミ子の髪の毛へ指を突ッこんでゴシャ/\やったが、あきらめて、ゴロンとひッくりかえった。
 ルミ子の言葉にも一理はあった。人間はどこで何をしている方が幸福だという定まった場所があるわけではない。同じ場所にいて幸福な人も、そうでない人も、無限の個人差があるだけのものだ。
 しかし、記代子が逃げだしてこないから、というだけの理由で、場所の適合性を信じるわけにはいかない。エンゼルの住居をつきとめて、記代子に会うことが何よりの急務であろう。
「ルミちゃん、ありがとう。おかげで、記代子さんの行方が知れて、ひと安心しました。エンゼルの住居をつきとめるのは、男の方が適していますね。女だけがエンゼルの手下と仲良くなれるわけじゃないから」
 放二は笑った。なんでもないことだ。今までの雲をつかむような捜査のマヌケさ加減にくらべれば。ホシはハッキリしたのだから。気がかりなのは、いつまで持つか分らない健康だけだが、愚連隊の一撃を避けることができれば、記代子と会うまで持たせる見込みはあるだろう。
「そう」
 ルミ子はなんでもない風にうなずいた。しかし心中では、明日中には是が非でも自分がつきとめなければ、と思った。放二を捜しにやることが気がかりでたまらなかったからである。

       九

 放二は新宿の街に出ている靴ミガキの中から、知り合いのジイサンをさがしだした。このジイサンは放二の付近から通っているらしく、例のオデン屋で時々一しょになる仲間であった。
「私ゃ愚連隊のことは知らないが、仲間にきいてみたら分るでしょう。なんてましたッけ? エンゼル。へ。ちょッと、お待ちなさい」
 ジイサンは靴ミガキ仲間のいかにもアンチャンらしいのとヒソヒソ話し合っていたが、やがて、雑沓の中へ消えてしまった。
 四五人分も靴をみがけるぐらいの時間をかけて汗をふきふき戻ってきた。
「ヘエ。これなんです」
 なんでもないように渡された紙片に、二ツの所番地と、野中幸吉という姓名が記されていた。
「この野中がエンゼルの本名なんです。百万円もかけて普請した立派なウチに住んでるそうですぜ。千坪からの花園をもってるそうでさア。花束を卸してるんだそうですなア。商魂抜群のアンチャンだそうで」
 甚だ意外な話であった。
「それじゃア、愚連隊どころか、立派な商人じゃありませんか」
「私だって、そう思いましたよ。きいてみると、そうでもないねえ。屋敷や花園の敷地だって、焼跡を勝手に拝借したもの、花売りだって因業な商売してるんだそうです。商魂があって、金ができるし、隆々と、いい顔だそうですよ」
 ジイサンは他の所番地を示した。そこはアパートであった。
「このアパートがね。新築するまで住んでたとこで、今でもここにいくつか部屋を持ってるンだそうですがね」
 住所はいたって簡単にわかってしまった。百万もかけて新築して、千坪からの花園をつくって商売しているからには、世を忍ぶ必要はないのだろう。
 放二はジイサンにムリにお金をにぎらせて別れた。記代子の居るのはアパートだろうと思ったが、先ず本宅へ伺うのが礼義であるから、そう遠くないお屋敷町の焼跡へでかけた。
 誰の屋敷跡だか、二千坪ぐらいの焼跡をそっくり拝借したものらしい。表側だけコンクリートの塀が焼け残っているが、三方には二間ぐらいの厚板の高塀をめぐらしている。木材だけでも相当の金がかかったであろう。しかし、そのほかには、家をのぞいて、金のかかったものがない。一本の樹木もなかった。裏は一面の花園らしい。門をはいると、隅の方で犬が吠えた。見ると、吠えている一匹のほかに、シェパードが二匹、雑種の猛犬らしいのが一匹、こっちを睨んでいた。家は花園の片隅に、小さな一隅を占めているにすぎなかった。二階屋の七八間ぐらいの小ザッパリした普請であった。
 取次にでたのは、若いアンチャンであった。そんなのが、幾人もゴロゴロしているようであった。
 放二はいっさい隠さなかった。名刺を渡して、
「大庭先生と社長の言いつけで、大庭記代子とおッしゃる方を探している者ですが、当家にかくまっていただいてるとききましたので、お目にかからせていただきに上りました。御主人にお目にかかって、くわしい事情を申上げたく存じますが、野中さんは御在宅でしょうか」
 アンチャンは黙ってスッとひッこんだ。

       十

 別のアンチャンがでてきたが、返事にきたのかと思うと、下駄を突っかけて、放二をすりぬけて、門に鍵をかけに行った。戻ってきて、凄い笑いをチラリと見せて、
「いつも、こうして鍵をかけておくんだけど、今日はどうしたことか、あんたが迷いこんできたから、泡をくったのさ」
 そう言いすてて姿を消した。それから、実に卅分間ぐらい、音沙汰がなかった。
 記代子が現にここに居たのを移動させているのだろうか、と放二は想像をめぐらした。あるいは放二を料理するための準備中かも知れない。そして、こんな場合に彼が蒙りそうないろんな料理のされ方を考えて、ジタバタしてもはじまらないから、とにかく身にふりかかる宿命をそっくりうけることにしようと心を決めた。身にふりかかる危険を払いおとす器用な才覚もなければ、鵞鳥の半分ぐらいの早さで逃げる体力もなかった。
 三人のアンチャンが彼の目の前を素通りした。隣室でガタガタ何かやっていたが、また、素通りして姿を消した。彼が返事をうけたのは、ようやく、その後であった。
 彼は、さっき四人がガタガタやった隣室へ招じられた。大きな丸テーブルに四ツの肱掛イスという応接間だが、造りは和風で、格子戸がはまっている。
「ちょッと、待って、チョーダイナア」
 アンチャンは変テコな女の声色で、目の玉をギロリとむいて笑いながらひッこんだ。
 入れ代って、無造作に現れたのは、色のまッしろな好男子である。ギリシャ型の鼻筋が通り、目は深く、すんでいる。水もしたたるような、西洋型の明るい美貌で、どこにも凄味というものがない。ただ肩幅ひろく、胸は厚く張り、腕は逞しく隆々としていた。年は二十四五であろう。
「ぼくが野中です。どうぞ、お楽に」
 と、気楽に言ってイスにかけたが、その顔は明るい。青木のなぐられたのも好男子の愚連隊だというが、この男たは、そんなことをしそうな風が見うけられなかった。
「あなたは、どこの戦地へいらしたのですか」
 エンゼルは、卓上のタバコをとって火をつけて、そんなことから話しはじめた。
「ぼくは病弱ですから、兵隊にとられなかったのです」
「ぼくは四国にいたのですが、隊長の命令で、花キチガイのオジイサンのところへ調査に行ったことがありました。このジイサンはお花畑の一部分をどうしても野菜畑にしないのです。二段歩ぐらいでしたが、当時二段の畑と言えば、財宝ですよ。土地で大問題となっていたんですが、ジイサン、頑固でどうしても承知しないんです。そのうちに、お花畑の赤い色が敵機を誘導する目標だ、スパイだという密告です。すてておけませんからぼくが調査に行ったんですが、場合によっては、花をひっこぬいて掘りかえしてしまえ、というような命令だったんです。ところがキチガイジイサンのお説教をくらいましてね。コンコンと一時間、アベコベですよ。花にうちこむ愛情は至高なものです。そこで、ぼくは隊長に復命しましたよ。ジイサンがあんまり頑固だから不満の住民からスパイの噂がでただけで、ジイサンの花に対する無垢の愛情は、天を感動せしむるものあり、とですね。あのお花畑はカンベンしてやって下さい、とたのんでやったんです。終戦後、このジイサンに十日間ほどもてなされて、花つくりの要領を教えてもらいました」
 エンゼルの話しッぷりには、なんの下心もないようだった。

       十一

 放二は自分からきりだした。
「なんの紹介もなしに、とつぜんあがりましたのに、お会いさせていただけて、ありがたく存じております。ぼくと同じ社で、同じ部に勤めていらッしゃる大庭記代子さんという方が、先週の金曜以来、行方不明なのです。この方は大庭長平先生の姪で、ぼくは社で先生の係りですから、大庭先生と社長から、記代子さんの行方を捜すようにと命令をうけたのです。記代子さんは大庭先生のお友だちで、青木とおッしゃる方と恋仲で、ニンシンしていらしたそうです。青木さんは大庭先生と同年配のお年寄のことですし、それまでに、ちょッとした行きがかりがありまして、先生も社長もこの恋愛には御賛成でなかったようです。で、煩悶されたようですが、会社での態度は明朗で、家出後に、社外の方からお話をうけたまわるまでは、我々一同不覚にも記代子さんの御心中を察することができなかったのです。自殺の怖れもありますが、世間に知れて記代子さんに傷のつかぬようにとの社長の配慮で、密々にぼくが捜査を一任されたのでした。方々をききまわるうちに、記代子さんが、こちらのお世話を受けているらしい、という噂をきいたのです。このことは、大庭先生にも社長にも、まだ申上げておりません。ぼくの一存で、真疑をたしかめに伺ったのですが、記代子さんについて御心当りがありましたら、教えていただきたいのです」
 エンゼルはちょッと間をもたせたが、いとも簡単に答えた。
「ええ、よく知っております」
 彼は無邪気な笑顔を見せた。
「しかし、このように御返事すべきか、どうか。まだその時期ではないんじゃないか、ということで、あなたを大そうお待たせしましたが、ぼくたちは相談していたのですよ」
「記代予さんは二階にいらッしゃるんですか」
「そうです。そして、この家の主婦ですよ。野中の妻、記代子なんです。ぼくたちは、愛し合っています。ぼくが花を愛すように、記代子も花を愛します。しかし、ぼくたち同志は、花以上に愛しあっているのです。四国のジイサンに面目ない話ですが」
 そして、エンゼルは高笑いした。
 放二はうなずいた。
「そうなることに、フシギはありません。記代子さんは、御元気でしょうか」
「むろん、大変、元気です。そして、毎日、好キゲンですよ。もっとも、あなたの来訪で、ちょッと憂鬱でしたがね。実は、二三日中に、お腹の子をおろすはずです。記代子は、ぼくの子が生みたいのです。そして、ぼくも、記代子とぼくの子が欲しいのです」
 キッピイがエンゼルにすすめたという企みの話を思いだして、放二はちょッと警戒したが、エンゼルの顔色から何も読みだすことができなかった。
 顔だちから、人を判断することはできないものだ。澄んだ目や、無邪気な明るい顔から、額面通りの素行をうけとるのは考えものである。どんな人間も根は同じものだ。自分も人も変りがないというのが放二の考え方である。世の中に悪党はいないし、みんな悪党でもある。そして、放二は、人間の裏の心を考えずに、表に見せているものを信用すればタクサンだと思うようにしていた。どんなに裏切られてもかまわない。警戒しても、裏切られるものである。
「命令をうけておりますので、記代子さんに会わせていただけませんか」
 こう、たのむと、
「ええ。彼女の返事をきいてきます」
 エンゼルはあっさり立去った。

       十二

 エンゼルは記代子をつれて現れた。
 記代子の顔は晴れていた。一礼して、
「いらッしゃいませ」
 と言ったが、それは主婦が来客に対する態度であり、言葉であった。
「ごらんの通りですよ。どうぞ御安心下さいと叔父さんや社長におつたえ下さい。記代子はぼくに同席してくれと言いますが、ぼくは遠慮しますよ。どうぞ、御二人で腹蔵なく話し合って下さい」
 そして、記代子に、
「話がすんだら、知らせてね」
 と、やさしく言いかけて、姿を消した。
 エンゼルが去ると、記代子の態度は硬化した。
「私、幸福よ」
 まるで宣言であった。
「ハア。ぼくも、野中さんからのお話で、だいたい、そのように思っていました」
 放二はやわらかく受けて、
「ですが、先生も社長も御心配ですから、一度、戻っていただけませんか」
 記代子は苦笑した。
「誰も私のことなんか心配してやしないわ」
 放二はうなずいて、
「そうお思いになるのも当然です。利己的な場合のほかに、本当に心配している関係は、有りえないかと思います」
「野中はエンジェルと言うのよ。そして、私の本当のエンジェルだわ。本当に私を心配してくれるのはあの人だけ」
「そうです。恋愛は利己的ですから。そして、青木さんも本当に心配しています」
 記代子は苦笑した。
「あなた、私の居場所つきとめて、どうするツモリなの?」
「いちど戻ってきて、先生や社長に会っていただきたいのです。ぼくの報告だけでは、納得して下さらないでしょうから。そのとき、御意志に反するようなことは決していたしません。もしも先生方がそのような処置をおとりの際には、ぼくが責任をもって、あなたの意志をまもります」
 記代子は軽蔑しきって、白い目をした。
「責任をとるッて、どんなこと? できもしないこと、おッしゃるわね。あなたは何も実行したことないじゃないの。あなたは人をだますのが商売でしょう」
「ぼくの誠意が足らなかったのです。努力も足らなかったと思います。ですが、今度は、約束を裏切るようなことは致しません。ここへ戻りたいと仰有るのに、先生方が戻さないと仰有ったら、命に賭けて、おつれ戻しいたします」
「命に賭けて、なんて、そんなに安ッぽく、生意気なことを言うから、人格ゼロなのよ。エンジェルは若い人がそんな軽薄なことを云うと、怒るわ。できもしないこと、言うな、ッて。千万人の若者が戦地で苦労してるとき、たった一人、戦争もできなかったあなたは、そのことだけでも人間失格よ。口はばったいこと、言えない義理よ」
 記代子の言葉にこもっているのはエンゼル家の思想であった。それは記代子がエンゼル家に同化しつつあることを示していた。放二が捜査しはじめて、ちょうど一週間。彼女が失踪してたった十日間のうちに。
 放二は感動した。
「ぼくの生涯は至らないことばかりです。目をすましても、いつも曇っていました。精いっぱいやって、それだけでした」
「そう。無能者。あなたはそれよ」

       十三

 記代子にくらべれば、自分の生涯などは、まったく無内容なものだったと放二は思った。
 記代子は彼と語らっていたころは、彼に同化していたし、いわば彼を食事のように摂取していたと言えるかも知れない。青木と共にあるときも、そうだった。青木に同化し、青木の中に移り住んでいた。そして、今は、エンゼルと共に、そうなのである。
 放二から、青木へ、エンゼルへ。彼女の遍歴は孤独者の足跡そのものだ。彼女のために、誰一人、本当に親切な友だちはいなかった。親切な肉親もいなかった。彼女はいつも、自分の全部のものを投げだして訴えていたのだが、それをうけとめるに足る男がいなかったのだ。放二がそうであったし、青木もたぶん、そうだったのだろう。そして、エンゼルが、そうであるのか、そうでないのかは分らないが、記代子の辿った今までの遍歴が、誰の手にも縋らず、彼女の必死の全力で為しとげられていることだけは、変りがなかった。せつ子がいつもそうであったのと同じことだと放二は思った。
 自分が記代子に見すてられたのは、当り前だと放二は思った。記代子に、どのように罵られても仕方がない。自分の生涯は、ただ至らない生涯にすぎなかったのだから。
「ぼくの至らなかった生涯については、一言の言訳の余地がありません。そして、まったく、無能力そのものでした。ですが、先生や社長は、ぼくのようなバカな人間とは違った方々です。ぼくにとっても、ひそかに師とたのむ方々です。先生方は、孤独者の人生の遍歴について、誰よりも理解の深い方々です。あなたが会って話をされて、理解して下さらぬはずはありません。もしも理解なさらぬとすれば、それはちょッとした俗な誤解によって、先生方の目に曇りができているせいなんです。どんな傑れた人の目もつまらない世俗的な感情で曇りをおびることはあるものです。ですが、その曇りは、先生方の場合には、長くつづくものではないのです。あの方々の内に曇りを払うすぐれた力が具っているのですから」
 記代子は言葉をさえぎった。
「私は叔父さまや社長に理解していただく必要はないのです。あなたは、変ね。叔父さまや社長の許しを乞わなければ、何をしてもいけない私だと仰有るようね。叔父さまや社長にそんな権利があるのですか。私に、カリがあるとでも仰有るの?」
「カリではないのです。人生にカリがあることは有りうべきことではないと思います。ただ、心にツナガリのある人々同志は、そのツナガリを尊敬する義務があると思うのです。一般人は博愛や慈悲に身をささげる有徳の行者とはちがいます。人間を愛し、生まれたことを愛する表現としては、ツナガリを尊敬するという義務を果すぐらいで充分なのではないでしょうか」
「理窟屋! 無能力者は、そうなのよ。いつも言葉で考えてるわ。私は、考えるのは、イエスとノオをきめる時だけだわ」
 そこに再びエンゼル家の個有の思想を放二は見た。
「わかりました。それでは、私の申上げたことを、野中さんとお二人で相談して、御返事をきめて下さい。イエスとノオのどちらかで、結構です。野中さんには、ぼくが説明いたします。およびしていただけませんか」
 記代子は放二の執念深さに愛想をつかして、立ち上った。

       十四

 エンゼルをつれて現れた記代子には、トゲトゲしさが失われていた。エンゼルに甘え、もたれきっている安心が、包みきれぬ喜びの姿で現れているようだ。
 放二は記代子にたのんだと同じ言葉で、記代子を長平とせつ子に会わせてくれるようにエンゼルにたのんだ。
「これ、また、難問だな」
 エンゼルは手を後頭に組んで、イスにもたれて、微笑した。
「あなたに会うべきか否かについて、さっきあれほど相談の時間を要したのだから、今度も、タダではすむまいて」
「あなたは、どう思うのよ。おッしゃいよ。イエス、ノオ、どちらか一つでいいのよ」
「二つ一しょに言ってもいいと思ってるらしいな」
 記代子はクックッ笑った。
 エンゼルは、ちょッと改まって、
「北川さん。ぼくはこう思いますよ。これは時期の問題ではないか、とですね。ある時期には、記代子もすすんでお会いしたいと云うでしょうし、ぼくも大庭先生にはお目にかかりたいのです。しかし、今はその時期ではないようです。あなたは先生のところへ戻って、記代子のことを、ありのまま、あなたの目に映じたままに、報告して下さい。世間の噂にせよ、何にせよ、あなたの見聞はそっくり報告なさってかまいません。そして、その時期がくるまでは、あなたを両者のカケ橋にして、ぼくたちを当分そッと放っといていただきたいと思うのです。あなたのように心あたたかく、目のひろい方を、両者のカケ橋にもつことができたのは、ぼくたちの幸せというものです。どれぐらい感謝しても、感謝しきれないほどの喜びなんです。ぼくはあなたの善良な心を、全的に信じて疑いませんよ」
 エンゼルの表現は大ゲサであった。往々、大ゲサな表現には、アベコベの意志がギマンされているものだ。エンゼルの言葉にも、それがないとは云えなかった。
 ある時期とは? 自然にまかせて、ある時期などというものが有りうるだろうか。疑えばキリがなかった。
 放二は、疑うよりも、信じることが大切なのだと思った。人の意志というものは、不変でもなく、性格的なものでもない。自分の悪意や善意に応じて、相手の覚悟もネジ曲るものだ。人をとやかく思うよりも、結局、大切なのは、自分自身の善意だけだ、と放二は思った。そして、人間というものは、所詮、他人の心をどうしうるものでもない。自分にできることは、自分の心だけであり、自分の善意を心棒として、それに全的に頼る以外に法はないと考えた。
「わかりました。では、ぼくの目に映じたありのままを帰って報告いたします。そして、その結果、こちらへ御報告すべきことがありましたら、また、参上させていただきます」
 エンゼルは安堵と感謝を端的にあらわした。
「あなたという人を得たことは、ぼくらには千万の味方にまさるよろこびですよ。記代子のために、力になってあげて下さい」
 放二はうなずいた。そして、立上って、記代子に言った。
「下宿の荷物をこちらへ運びましょうか。さしあたって、必要なものがありましたら、なんなりと命じて下さい」
「ええ、こんどいらッしゃる時までに、必要なものを書きだしとくわ」
 淋しそうなカゲはなかった。もう、ここの人になりきって、いるようであった。


     裏と表


       一

 放二はせつ子に報告した。
 予想していたことにくらべて、あまり意外千万なので、せつ子はいぶかしそうに、
「そう……」
 と答えただけで、ほかに言うべき言葉すらないようであった。
 せつ子は長平の宿に電話して訪問をつげ、放二をともなって、自家用車にのった。
 二ヶ月前までは電車にもまれ、靴下のいたむのを気にしながら訪問記事をとって歩いていたせつ子であるが、自家用の高級車も板につき、衆目の指すところ、日本に於て最も傑出した女性の一人になりきっている。
 戦争の最中には、時間感覚の奇妙な崩壊が起ったものだ。勝っている時もそうであるし、負けている時もそうであった。シンガポールを占領したのは三四年前の出来事のように思われるのに、算えてみると、実は二ヶ月半ぐらいしか過ぎ去っていないのだ。ラバウルの危機、ラバウルへ飛行機を! そんなことを新聞が叫んでいたのは五年も前の遠いことのような気がする。サイパンが敵に占領されたのも去年の話のようだ、が、実は算えてみると、サイパンが陥ちてからまだ一ヶ月を経過せず、ラバウルの危機も今年の正月ごろの話なのだ。
 そういう時間感覚の喪失状態は空襲後は特に極端であった。下町がやられたのは三四年昔の出来事のようだが、まだ三ヶ月しか経っていず、山の手が灰になって一年も二年もの年月がたったように思うのに、実は十日ぐらいしか過ぎてやしない。
 自分の住む隣の町内がやられて三日もたつと、一年前から、隣り町はそんな焼け野原であったような気持になるのであった。
 駅前の繁華な商店街を、疎開で叩きつぶす。そこは三日前までは一パイの半ジョッキのビールのために毎日行列していたところだ。日毎の生活に何よりも親しかった街の姿がコツネンと消えて三日目には、遠い昔から、そこが今のような空地でしかなかったような気持になっているのだ。
 戦争が始まるまでは夢にも考えていなかった時間感覚の狂った喪失状態があらゆる人々に襲いかかったのである。
 戦争が終ってからは、尋常な感覚をとり戻したけれども、感覚異変は、まだ多少は残っている。
 そして、せつ子が自家用高級車を乗りまわして二ヶ月にしかならないのに、二年も前から、いや、もっと遠くて物の始まった昔から、せつ子がそうであったような気がしているのだ。
 戦争が人間感覚を麻痺させた詐術なのだが、うっかりすると、当人までそうとは気づかず、十年も廿年も前から自家用高級車をのりまわしていたと思いこんでいるような詐術にかかっているのじゃないかと放二は思った。常の世の成金の思いあがりとは違う。戦争という魔物のはたらいた詐術であり、時間の感覚の奇怪な喪失なのである。
 記代子も、たった十日間で、エンゼル家の主婦になりきっているようだ。
 それを自分自身に当てはめると、どうなるのだろう? たった十日のうちに、記代子もせつ子も、一年も二年も時間をかけたような変化を示しているが、彼はそれを見ているだけのことだ。
 それが自分の役割なのだ、と放二は思った。変るといえば、やがて死ぬだけのことだろう。そして、変る人も、変らざる人も、すべてが彼には、いとしく見えた。

       二

 長平はエンゼルに興を覚えた。乱世というものは何が現れるか分らない。貯蓄精神と礼節に富む愚連隊の出現も乱世なればこそ。出現してみれば、ありそうなことで、怪しむに足らない。
 堅気の庶民が乱世の荒波にもみまくられて、体裁ととのわず、投機的になり、その日ぐらしのヤケな気持になっているとき、裏街道で悪銭のもうかる愚連隊の中のちょッと頭のきく連中が、悪銭身につかずという古来のモラルをくつがえして、せッせと貯金し、家屋敷をかまえ、身に礼服をまとい、ヤブレカブレの堅気連中に道義も仁義もないのを嘆いているかも知れないのである。ヨタモノもモラルをくつがえす。
 それにしては、選ばれた花嫁が、どうも頭がよくないようだ。エンゼルの審美眼も、当にならない。
「それほどの覚悟なら、こッちで何もすることはなかろう。当人が幸福なら、それに越したことはないさ。ただ、エンゼル家からお払い箱というときに、行き場に窮するということがなく、こッちへ戻ってくる才覚をつけておいたら、よろしかろう。北川君がその才覚をつけてやるのだね」
 長平はこう簡単に結論したが、単純明快に合理的でありすぎて、肉親的な感情が、どこにもなかった。
 せつ子は反対した。
「算術みたいにおッしゃるものじゃありません。もっと、ムリヤリ、してあげなければならないものです」
「当人が幸福なら、こッちでムリヤリしてやることは何もないさ」
「第一、何もしてあげなかったら、世間では、大庭長平は鬼のようだ、と言いますよ」
「遠慮なく言ってもらうさ」
「記代子さんのお姿が見えませんが、どうなさいましたか、と訊かれた時に、こまりますよ」
「こまりませんね。エンゼルという屋敷もちの花づくりのアンチャンと結婚して、花を造り、悪銭をもうけて、内助の功を果し、大そう幸福にくらしているそうだ、と答えて、不名誉なところは一つもない」
「勝手におッしゃい。あなたは、もう、京都へお帰りなさるといいわ」
「左様。記代子のことで滞在がのびてしまったが、明日の特急にでも、帰りたいものですよ」
 せつ子は笑った。
「あとは私が一存で致します」
「何をなさるつもりですね?」
「何ッて、相手はヨタモノですもの。記代子さんの身にシアワセのはずはありません」
「その考えは軽率すぎるようだ。世渡りと男女のことは別問題ですよ。体面のために古い恋女房を離婚して、新しい恋愛を実現した代議士もあるしね。女房を大事にするヨタモノがいてもフシギではない。男女のことは、誰にも分りゃしません。銘々に独特の型があるものです」
「いいえ、世間体を怖れないヨタモノは、女房への誠意もありません。世間体を怖れない男には、それに相応する女がいて、女房になるものです。記代子さんはそれに相応した女ではありません」
「なに、結構、間に合う場合が多いものさ」
 せつ子はふきだしたが、こう結論した。
「記代子さんのことは、私が一切ひきうけます。あなたは京都へ、ひッこんでらッしゃい」

       三

 せつ子は街のヨタモノに善意があるとは思わなかった。虫けらのようなものである。そうときまった人間だけが、ヨタモノ稼業がつとまるのである。
 彼女は記代子をとりもどすことにきめていたが、円満に返してもらうことも、金を払ってとりもどすことも考えなかった。金というものは、ヨタモノや乞食やパンパンなどに呉れてやる性質のものではない。どんなバカげた浪費をしてもかまわないが、それは仕事に関聯しての話である。
 エンゼルから記代子を奪い返すだけのことだ。そういう権利があるからである。理窟はどうでもかまわないのだ。ヨタモノを相手に論争するバカはないのだ。記代子がエンゼルにほれていようが、よしんば、正式に結婚の手続をしていようが、そんなことも問題ではない。
 理論的にはエンゼルに勝身があっても、ヨタモノには、良家の娘を女房にする権利などはないのである。それがせつ子の考えであった。社会秩序に反し、不正を稼業としている人間が、たまたま一事に関して正当な理論をふりまわし、権利を要求しようたって、そんな虫のいいことがとおるものではない。
 しかし、警察の力をかりず、法律の名をかりず、極秘裡に記代子をとりもどすには、どういう手段があるだろうか、と、せつ子もこれには考えこんだ。
 彼女は放二と相談して、智恵をかりようなどゝは考えていなかった。放二のようなお人好しに、まともに相談しかけても、埒があくものではない。こういう人間には、ただ、命令するのが何よりなのだ。
「ずいぶん苦心したでしょう。でも、あなただから、捜しだせたのです。青木さんをごらんなさい。煩悶の様子は深刻そのものですけど、埒があかないじゃありませんか。ずいぶん疲れてらッしゃるようね。しばらく涼しい土地へ行って、ゆっくり休養してらッしゃい。十日でも、二週間でも、もっと長くてもかまいません。その間に、記代子さんのことは、ハッキリ話をつけておきます」
 こう云って、せつ子は放二に多額の賞与を与えた。
「話をつけるッて、どんなふうに、でしょうか」
「それはあなたに用のないことです。あとは私が致します。秋口に、あなたが涼しい土地から戻ってきたとき、記代子さんも戻ってきています。ですが、記代子さんは、先からズッとそこにいたのですよ。あなたが、涼しい土地へ旅行していたので、しばらく会えなかっただけなのです」
 放二は考えた。せつ子は行動的である。ためらわないのだ。言った言葉は必ず実現するだろう。たとえ、街のボスが相手でも。
 せつ子の手腕は非凡であるが、彼女が往々相手の力を見あやまるのも事実なのである。ヨタモノ相手にその手腕を正当にふるいうるかどうかは疑問であるし、記代子のことを考えると、せつ子の考えているらしいことが、一そう妥当でないように見える。
 しかし彼がどう言ってみても、せつ子の決意をかえさせるのは不可能なのだ。
「旅行の前に、四五日東京で休養してみるつもりですが、何か御用はありませんか」
「いいえ。ひとつも」
 早く山の温泉へ行けとせきたてるように、せつ子は放二をきびしく見つめた。まさかムホン人と見破った目ではないだろう。放二は心にさびしく笑った。怒られてもかまわない。エンゼルをせつ子の敵にまわさぬように、彼はひそかに暗躍する覚悟をかためていた。

       四

 放二は必ず面倒が起ると予期していたが、自分の力で、どうする才覚があるでもなかった。
 まず出来そうなことゝ云えば、エンゼルに、自分という人間を信じてもらうことだけである。しかし、マゴコロの袋のようなものがあって、それを開いてみせると人が信用してくれるという便利な手段はないのである。
 自分を知ってもらうという手段があるだけだ。信じてくれるとは限らないが、自分の生活を見てもらって、ありのままの自分を知ってもらうことである。
 放二は夜の新宿の仕事場へエンゼルを訪ねて二度目であった。エンゼルを自宅へ誘い、オデン屋でビールとツマミモノを買って、アパートで酒宴をひらいた。
 連日雨もよいの悪天候で、女たちはアブレがちであった。
 新宿から飲みつゞけで、エンゼルは酔っぱらった。
「ちょッと、お忍びのアパート住い。結構ですねえ。ハッハ」
 エンゼルは醜い女たちには目もくれず、ルミ子の顔から視線をはなさず追いまわしていた。
「ぼくなんか、こうは、できませんや。腕がちがうんですな。ぼくは商売の都合で、野郎どもの面倒をみていますが、あなたは風流の志で、パンスケを養って、かしずかれていらッしゃる。貴族は女中が好き。ねえ。汚いアパートに身を落して、パンスケにかしずかれて、結構ですねえ。お金なんざア、左ウチワでころがりこむんだ。大金持の女社長に可愛がられてね。家なんざ、わざと買ってもらわないね、この人は。この汚いパンスケ・アパートへお忍びぐらし、乙な人だなア」
 エンゼルの視線は、喋りながらも、ルミ子から、はなれなかった。
 ルミ子には、エンゼルの薄ッペラな正体がアリアリ見えた。ただのヨタモノにすぎないのだ。記代子にほれているわけでもない。ヨタモノのチャチな下心があってのことだ。
 およそヨタモノという連中が常にそうであるように、酔っぱらって、そこにちょッとした女がいて、タダでモノになりそうな事情があるから、モノにしようとしているだけのことである。
 エンゼルは、放二を眼中に入れていないのである。また、放二によって代表された長平やせつ子のことも。成行きで、バツを合せているだけのことで、こんな青二才とつきあってやるからには、酒をおごらせて、女の世話をさせるのが当り前だと思いこんでいるだけなのである。
 穏便に事が運ばなければ、放二を殴り倒しても、ルミ子とタダで遊んで、青二才にこんなところまでつきあってやった駄賃をかせいで帰るであろう。酔わないうちはそうでもないが、酔ったが最後、これがヨタモノの本性であり、駄賃をかせぐまでは、血を見たぐらいじゃひるまない。
「あんた、好男子ね。もてるわけね。私と遊ぶ?」
 ルミ子はツマミモノを食いながら、エンゼルにナガシ目をくれた。
「お嫁さんを貰いたてだって、浮気ぐらいはするもんよ。ビールを飲むだけならいいでしょう。ちょッと、つきあってよ。ねえ。私、このビール二三本、もらって、いいでしょう?」
 ルミ子は遠慮なくビールをぶらさげて立ち上った。エンゼルはニヤニヤ笑いながら、彼は有るッたけのビールを軽く両手にぶらさげて、立上って、だまって、ついてきた。

       五

 ルミ子はフトンを片隅へよせて、酒もりの場所をつくった。
「ヌキ忘れちゃった。あんた、歯でぬけるでしょう」
「バカ言え。とってこいよ」
「歩くの、ヤだなア。損しちゃった」
 ルミ子はヌキをとりに放二の部屋へもどって、
「カギかけて、電燈消して、早く寝ちゃった方がいいわ。出てきちゃダメよ。インネンつけられると、いけないから。親分らしいとこなんて、ありゃしないよ。タダのヨタモンだわ」
 ルミ子は苦笑をもらした。人殺し、強殺犯、そんなお客は見なれてきた。男にドスやピストルを突きつけられたこともあった。ヤブレカブレの男は何をするか分らない。しかし、屋敷もちのエンゼルは、たかがパンスケ相手に手が後へまわるようなことはしっこない。
 ルミ子はヌキをぶらさげて部屋へもどった。
「あんた、レッキとした顔でしょう。ビールぐらい、歯でぬくもんよ。この部屋のお客さまはみんなそうするのよ。前科十二犯のオジサンは堅い物が噛めないほどボロッ歯だけど、ビールの栓は器用にぬいたわね。ヌキがなくッちゃ栓がぬけないようじゃ、悪い事はできないものね。泥棒に忍びこんで、ビールをみつけて、ヌキ探してちゃア、フンヅカマるでしょう」
「オレを泥棒あつかいに、しようッてのか」
「似たようなもんじゃない」
「フ。相当なことを云やアがる。落ちついて、ませたことを云うじゃないか。オレの女になれよ。ジュクでいゝ顔にしてやらアな」
「荒っぽいこと、きらいだもの。パンパンに生れついてるのさ。ノンキでグズな商売が好きなのさ」
「顔がきいて、楽にくらせたら、この上なしだろう」
「威勢のいいのがキライなのさ。威張りたくもなし。パンパンがいっとう楽で、面白いや。泥棒だの、人殺しの実話物きかせてもらッてさ。兄さん、人を殺したこと、ある?」
「フ。それが、どうした」
「私はね、目の前で人が死ぬの、一人で見てたことがあるよ。三べんだか、四へんだかね。たくさんの数じゃないけど、忘れちゃった。いろんなことが、こんがらかるから」
「フ、そんなパンスケがこのへんに居るッて話はきいたことがあったが、それがお前か」
「強殺だの喧嘩傷害だの、すごい人が話きかせてくれるでしょう。案外なもんね。どんなふうに死ぬもんだか、見てる人、ないわね。私はみんな見てたわ。ちょッと見落しても悪いような気持だもの。なんでもないもんよ。呆気なく、死んでるものよ。ほんとかな、と疑ったのもあったわ」
 エンゼルはつまらなそうにビールを呷っていたが、
「自殺なんてものは、つまらんものにきまってらアな」
 ちょッと凄んでみせた。
「返り血をあびて真ッ赤にそまる果し合いのようなものは、オレがやっても、目がくらんだ気持にならアな。ひどく冷静でもあるし、泡もくらってるものよ」
「どんな悪いこと、してきたの? ずいぶん、お金持ちだってことじゃないの。なんで、もうけたのさ」

       六

 ルミ子は職業的に、男について階級的な区別を持たなかった。社長と社員、ボスとチンピラ、どっちがどうという区別はない。
 彼女は男を大別して、金放れのいい人とそうでない人、ウヌボレの強い男とそうでない男、執念深いのとそうでないのと、だいたいそれぐらいに区劃していた。
 金銭について、金に汚い男というものは論外である。パンパンに払った金が惜しくなって、ビールをのんだり物をたべて女に支払わせていくらかでもモトをとろうとするのなどはよい方で、脅迫し、時には本当にクビをしめても金をとり返して行こうとする。それが愚連隊などでなくて、表通りに店をもった商人だの、工場主だの、若いサラリーマンだの、世間では虫も殺さぬ善人で通った連中がそうなのである。
 あなたが好き、だとか、又遊びにきてね、というのは、この社会で当り前の挨拶だが、通り一ぺんの挨拶をかけられただけで、恋人のように思いこみ、二度目からは刃物で追いまわすような嫉妬深いウヌボレ屋もいる。そして、刃物をおさめる代償としては、一文も使わずに、遊んで飲んで食って帰ろうというのである。
 世間では堅気の善人で通った人がこんなだから、遊びなれた悪党は弱い者にはオトコ気もあり立派な遊びをするかというと、とんでもない話なのだ。
 小悪党というものは階級意識の強いものだ。パンパンのような社会的地位がゼロ以下の合法的でない存在に対しては、彼らはいたわりをもつどころか、全人格を無視してかかるのが共通の考え方である。パンパンとはタダで遊んで、おごらせて、バクチのモトデをまきあげる道具にすぎないと心得て、一文も置いて行きはしないものだ。一度でもスキを見せると、つけこんできて、情婦のつもりで食い物にし、着物や装身具や鏡台や茶のみ道具まで質に入れてバクチに使い果して、それが当然だと心得ている。狡猾、卑怯、折あらば、つけこむ虫であるから、これに対するパンパンの心構えとしては、柳に風、剣術の極意に似ている。
 エンゼルは片手にコップをにぎりながら、ルミ子の首をかかえて抱きよせたが、ルミ子は、ゆっくりとスリぬけて、
「しつこいこと、しちゃダメよ。暑くって。ウチワであおいであげるから、ビールのんで、お帰り」
「約束のお客があるのか」
「お客は道にゴロゴロいるよ」
「ふざけるな。オレと遊ばないというのか」
「お金、ちょうだい。私、お客様と遊ぶのが商売よ」
 エンゼルは単純に殺気立った。満座の中ででも、一人の女を暴力で意にしたがわせるぐらいのことには、場数をふんでいるという様子であった。
 ルミ子は、しかし、落付きはらっていた。
「いい兄さんが、金で買えるパンパンを手ごめにしたら、物笑いよ。そうじゃなくッて。もっと気のきいた女を相手にするもんよ」
 なんの激するところも見えない小娘の様子であった。四方山話をしているような、屈託のない薄笑いをうかべていた。
「金次第で、どうにでもなるというんだな」
「そうよ」
「どんな男とでも、な」
 ルミ子はニッと笑った。
「パンパンだって、選り好みはあってよ。そうじゃないと思うの」
 明るくて、邪気のない答えであった。

       七

 エンゼルは娘をだまして一稼ぎするには妙を得ていた。終戦後の二三年はそれで食いつないでいたのである。美貌が第一の資本であったが、女の心理にも通じており、演技者としての才能が抜群であった。
 しかし、パンパンなどに対して演技の必要はなかった。同じ裏街道の同志で、生地をさらけだして、不都合がある筈はない。顔の貫禄と美貌は彼女らの身にあまる偶像で、エンゼルの逞しい腕に、ムンズとひきよせられたパンパンは、あまりの羞しさに、泣きそうになり、もがいて逃げようとするのであったが、有無を云わさず引き寄せられて厚い胸に押しつけられると、力はつき、ただ夢を見るようにウットリしているだけであった。
 そうでないような女に対しては、そうでないように、エンゼルは対策にこまるということは、めったになかった。
 エンゼルは酔っていても、ヨタモノの本能は鋭敏であった。
 放二の部屋で、ルミ子が彼に遊びましょうよと誘った言葉を、いつもと同じように、当然なことと真にうけたのが軽率だったのである。
「すると、この女は……」
 と、エンゼルは思った。
 みんな、グルだ。あの若い奴は、好男子の坊ッちゃん然と、まるで世間知らずの顔をしているが、実は町内のパンパンどもをみんな情婦にしているのである。そして、この女が、情婦筆頭というわけだ。
 何組のなにがしというヤクザでもない青白いインテリに、時々こういう教祖めいたヤサ男がいるものであるが、悪事の型がきまっているヤクザとちがって、こういう奴らは何をしているか分らない。しでかすことの筋が見当がつかないのである。エンゼルは、こういう奴が苦手であった。彼の仕事と同じ性質のことを、特別の筋と才能で楽々果しているように思われたからである。彼は対等の敵として、放二に対して激しい闘争心をもやした。
 この女が自分を別室へひきたてたのは、自分が放二にからむのを避けるためだ。しかし、腕力に自信がないからインネンをつけられるのを避けたと見るのは当らない。先方にはピストルのようなものがあって、ただ軽率に血を見ることを好まなかったのかも知れない。あのヤサ男の静かな落付きは尋常ではない。エンゼルはそれを軽視することができなかった。世間知らずの記代子などには、あのヤサ男の正体が分るはずはないのである。
 そう気がついてみると、ルミ子という女も、さすがに、ただのパンパンとはちがう。邪教の一味は、小娘のパンスケまで、ミコだか狐つきだか分らないが、老成ぶって、得体が知れないのである。
「お前は、いくつだ」
「十九」
「フ。どうだい。オレが北川を殺したら、どうする? お前、オレの女になるか」
 エンゼルはビールをなめて、面白くもなさそうに、せせら笑った。
 ルミ子の顔色は変らなかった。
「なぜ殺すのさ」
「なに、下駄につかえた石ころをはじくようなものだアな。誰かが、ちょッと、どこかの街角で、あの兄さんを眠らしてくれらア」
「全然、タダのチンピラだ」
 ルミ子はガッカリして、ねころんで、片肱を枕にエンゼルを見つめて、つぶやいた。
「屋敷もちの花つくりのアンチャンも案外だなア。よくお金モウケができたわね」

       八

「誰か殺せば、女がウンと云うとでも思っているの?」
 ルミ子は起き上って、坐り直した。彼女は次第に亢奮していた。
 たかがヨタモノの脅迫ぐらい、気にするほどのこともない。それも女を口説いての凄文句にすぎないのだから、ムキになるのは、相手の術中におちこむようなものである。
 しかし、放二が殺されるという事柄について考えると、凄みを並べたてるだけのコケおどしかも知れないけれども、我慢ができなくなり、全身が熱くなってしまうのだ。
 ルミ子の目が吊った。ふだんと、まるで人相がちがって、赤いホッペタの童女が、怒って、白くなったように見えた。
「誰が殺されたって、お前なんかに、ウンと云うもんか。嘘か、どうか、ためしてごらんよ。私を殺してごらん。ウンと云うか、どうか。今、やってごらんよ」
 自分がここで殺されれば、エンゼルは捕まるし、放二に迷惑はかからない、ということが、誰に知られなくとも、ルミ子には悔いはなかった。
 彼女はムチャクチャにエンゼルが憎かった。放二をヨタモノなみにしか見ることができないような男、たかがパンパンとの一夜のために放二を虫ケラのようにヒネリつぶそうと思うような男。彼女はどんな男にでも、金で肌をゆるしてきた。それを悔いてはいなかったが、殺されてもこの男には許してやらないということが、最後の償いのように思われた。
 ルミ子はむしろ殺されることを望むような気持であった。すすんで獅子の前へ進みでる勇気がわき起っていた。
 ルミ子は立って、ネマキをぬいで、着物にきかえた。シゴキを一本、エンゼルの前へ投げだして、坐った。
「殺してごらん。私のクビを、しめてごらんよ。人殺し、なんて、叫びたてやしないから。音をたてずに、死んでみせるから、安心して、しめてよ。ちょッとした呻きぐらい、でるかも知れないけど、ウンと言ったわけじゃないから、まちがえないでおくれ」
「フ」
 エンゼルは口にふくんだビールを、いきなりルミ子の顔へふきつけた。ルミ子の顔は、うしろへ一分ひく様子もなかった。
 エンゼルはビンタをくらわせた。ルミ子の上体がふらついたが、倒れなかった。そこで、つづけさまに往復ビンタをくらわせた。左へふらつくと、右へ叩き返され、右へ傾くと、左へ叩き返された。
 しかしルミ子は痛さというものを全然感じなかった。彼女の全身にみちあふれているものは、決意だけであった。
 エンゼルは手をやすめたので、
「卑怯者。ぶって、ごまかすつもり」
「どうしても、死にたいか」
「やってごらん」
 エンゼルはシゴキをひろって横へすてて、
「よし。殺してやる。言い残すことはないか」
 両手でルミ子の首のまわりを握りしめた。ルミ子はアゴを上へあげて、握りいいようにしてやった。そして、エンゼルの腕にすがったり、もがいたりしないように、両手で自分の両腕を握りしめた。エンゼルは三度、首を持ち上げたり下したり、演習した。そして、とつぜん上へひっぱりあげられたと思うと、全身がチョウチンのようにフラフラふりまわされたように思った。そして、わけが分らなくなってしまった。

       九

 ふとルミ子が気がついたとき、誰かがそこにいる様な気がした。目をあけて見定めようとすると、扉が閉じて、誰かが部屋の外へ立ち去ったようであった。
 ルミ子は又目をとじて、できるだけ我慢して、ジッとしていた。自分が、どこで、どんな風になっているのだか、それを知りたいと思った。
 そして、目をあけて起きてみると、部屋の中には誰もいなくて、彼女は全裸でフトンの上へねかされている自分を見出した。
 着物は部屋の片隅に、まるめて捨てられていた。顔をなでてみた。洟(はな)もでていない。
 ルミ子は暴行されたことを知った。
 彼女がフトンの上へねかされていたことや、全裸にされて身体の汚物をキレイにふきとられていたことは、エンゼルの仏心でもなければ、人工呼吸のためでもない。心ゆくまで暴行をたのしむためであったにすぎない。
 ルミ子は全身の力がぬけ落ちるような落胆を感じた。彼女が敢てしたことは、すべて徒労だったのだ。ルミ子は性戯ということに特別の感情をもたなくなっていたが、自分の知らないうちにエンゼルのいろいろの侮辱を蒙ったことを思うと、救われようもない悲しい思いに沈んだ。
「なぜ生き返ったのだろう!」
 彼女は泣きだした。はりつめていたものが、際限もなくゆるんで行くようであった。小学校の初年生のころ歩いた道々の野原の橋や、その小川のほとりのレンゲ草の咲いている河原が見える。そこに花をつんでいるのは、たしかに自分だ。小学校の一年生の自分なのである。一方はあかるい青空だし、一方の空は燃えるような夕焼だ。そして橋のタモトから、自分のすぐ手のとどくところから、一米(メートル)ぐらいの階段のような虹が、まっすぐ夕焼の空へかかっているのである。いつのまに、こんな虹がかかったのだろうと考える。さッき橋を渡るときまでは、あそこに、なにもなかったのに。……
 気を失ったのか、眠って夢を見ていたのか、わけの分らないような状態から、ルミ子はふと我にかえった。
 誰かが扉をノックしている。
「だれ?」
「私。カズ子よ。ちょッと、いい?」
「ちょッと、待って」
 ルミ子は立って、ネマキをきて、扉をあけた。
 カズ子は中をのぞいて、
「もう、あの人、帰ったの?」
 それをきくと、廊下の曲り角に隠れて様子をうかがっていたヤエ子も姿を現した。
「ちょッと、心配だから、来てみたのよ。おとなしく帰ったのね」
「うん。とっくに帰ったわ」
「チェッ。じゃア、あッちの部屋へくればいいのに」
 ヤエ子は苦笑して、
「色男をみると逃がしゃしないんだから。オタノシミのことですよ」
「兄さんは、ねた?」
「いいえ、起きてる」
 ルミ子はふと身にしむような懐しさを覚えてクラクラした。

       十

 その翌日、放二はエンゼルの自宅を訪ねて行った。
 酒を飲みすぎれば、誰しも妙な風になるものだ。しかし、それが当人の本心というわけではない。たとえ本心にしたところで、誰の本心も汚いものだが、理性の働いている時には抑制されているのだから、酔わない時を人間の常態とみるのが当り前だ。
 エンゼルは放二の生活に甚しい見当ちがいの判断を下したけれども、そう疑っている気持が酔って現れただけのことで、放二の正体を疑っているというのも、放二の本当の心を知りたがる気持があるからに相違ない。
 たぶん記代子が放二の生活について疑っていることを、事実としてエンゼルにきかせたのだろう。それをエンゼルが真にうけるのは当り前で、疑う理由は十分である。
 しかし、こッちが誠意をもってつきあううちに、やがて分ってくれるときがくるだろう。そういうものだと思いこんで、やりぬく以外には適当な手段がないようだ。放二は、あきらめなかった。
 エンゼル家の表門は堅く閉されているので、呼鈴をおして案内を乞うと、アンチャンが戸の小窓をあけて、来意をきいた。
 相変らず、長時間待たせたあげく、四人ものアンチャンが小窓から代り番こに隙見して、放二の服装や、その背後に人はいないかと点検しているようである。
 ようやく戸が開いたので、一足はいると、放二の後足は危く閉じる戸にはさまれて、つぶされそうであった。ピシャリと閉じる。二人のアンチャンが戸に躍りかかって、桟を下し、鍵をかけてしまった。
 四人どころじゃない。一目では算えきれないぐらい、ざッと十人ちかいアンチャンが勢ぞろいしている。四匹の猛犬を檻からだして、めいめい一匹ずつの綱をとって、スワといえば犬を放そうと身構えているアンチャンもいる。
 アンチャンの重鎮らしいのが進みでゝ、大そうニコニコと歓迎の意を表して、握手をもとめ、口上をのべているうちに、誰かが、腰、ズボン、胸のポケットを点検したようである。
 放二は応接間へ通された。窓から見ると、四匹の犬が綱から放されて、庭を行ったり来たりしている。アンチャン連も四人ばかり、要所々々に張りこんでいるが、樹木が一本もないから、折からの日でりで、大そう暑さにヘキエキしている様子であった。
 放二はエンゼルとルミ子の昨夜の真相を知らなかった。しかし、もてなかったのだろうという想像はつく。
 酔っ払いは前後忘却して、ところどころ明滅的な記憶しかなかったりするから、それを想像できなかったりして、益々誤解しているのかも知れないと放二は思った。
 エンゼルはニコニコと現れたが、顔色がすぐれなかった。
「どこをのたくって呑んで歩いたか、気がついたら屋台の土間にねていましたよ。白々と夜の明けるころにね。土間にねてごらんなさい。目をさますと、カゼをひいてますぜ。体温がなくなってるね。骨のシンまで冷えきってまさア」
 目が濁っていた。当人もそれが分るらしく、汚い目を見せないためか、しきりにパチパチやっている。

       十一

「昨夜は失礼いたしました」
 と、放二が言った。どっちの挨拶だか、わからない。さてはインネンをつけなさるか、と、エンゼルは返事をせずに、内々せゝら笑って待ちかまえていると、
「自分で酒をのまないものですから、酒席の気分がわからないのです。アパートの女たちも、言い合したように酒をのまないものですから、変なところへ御案内して、至らなかったと思っています」
 彼はこれから何を言うつもりなのか、エンゼルにはまったく見当がつかない。しかし、どうも、普通じゃない。エンゼルはソッポをむくのをやめて、放二の顔を観察することにした。
「ぼくは野中さんには、ぼくのすべてを知っていただきたかったのです。ありのままの生活を見ていただきたかったのです。なぜかと申しますと、ぼくが野中さんに対して偽る気持をもたないこと、野中さん御夫妻へのぼくの偽りない友情を信頼していただきたかったからです。かりに、ぼくの周囲の方々が、お二方のお気にさわる態度を示す場合にも、ぼくの友情は信じていただきたいと思ったからです」
 エンゼルは苦笑した。この男を買いかぶっていたようだ。酔っ払ってもいたし、パンパンアパートの雰囲気が一風変って異様でもあるから、買いかぶってしまったが、この男の底が知れてみると、あの雰囲気も別に異様ではないようだ。つまり一番グズな人間どもが、グズ同志よりあつまって、センチなママゴトみたいなことをしているのだろう。記代子はバカそのものであるが、この男はそれに輪をかけたウスノロかも知れない。
 エンゼルは大庭長平について、計算ちがいをしていた。記代子はニンシンしているし、知名人の姪であり、愚連隊と結婚させるはずはない。取り戻しにきて、なんとか挨拶があるだろうと期しているから、なんの取柄もないバカ娘をおだてあげて、本宅に鎮座させ、女房然とつけあがらせておくのである。
 放二の伝えるところによると、大庭長平は全然平静で、好いた同志なら何者と一しょになってもかまわないという考えだそうだ。そして、一安心して、京都へ帰ってしまったという。
 エンゼルは事の意外に驚いたばかりでなく、大庭という奴が海千山千の強(したた)か者で、記代子のバカさかげんに手を焼いており、これを拾いあげたエンゼルをいいカモだと笑っているのじゃないかとヒガンだほどであった。
 エンゼルは、にわかにバカらしくなっていた。奥様然とのさばっている記代子のバカ面を見るのも胸クソがわるい。
 戦法を変えて、芝居気なしに、露骨な取引をすべきじゃないかと考えはじめたから、放二に対しても、演技者の気持を多分に失っている。さもなければ、酔いすぎても昨夜のようなことはやらない。
 放二という男は、見る通りこれだけの、掛け値なしのグズのウスノロと見極めをつけたから、即坐に新体勢をととのえた。
「実はですね。諸事金づまりの世の中。仕事を手びろくやりすぎたものですから、費用はかさむばかりですが、回収する金が十分の一もありません。流行のコゲツキという奴、どこも同じ風ですなア。花屋だけでは、損するばかり、食って行かれませんから、記代子にも働いてもらわなければならないのです。まさか女給にだすわけにもいきませんが」
 エンゼルは気をもたせて、しかし、恐縮したように笑ってみせた。

       十二

 エンゼルは放二をなめてしまった。もはや、こんな小物は相手ではない。記代子というバカ娘が格下げだから、それと対等にも当らないウスノロは問題ではなかった。仮面の必要がなくなったのだ。彼がケツをまくってみせる相手は、大庭長平と、せつ子という女社長である。
 彼はシャア/\と放二の顔をうちながめて、
「どうです。あなたも、一口、やりませんか。ちょッとした商売ですよ。あのルミ子さんを女主人公にしてね。あの子は若くて、可愛いらしいですな。万人むきで、特に大学生むきだなア。記代子がちょッとそうですが、これがこの商売のコツですなア」
 エンゼルは宿酔(ふつかよい)で頭が重くて、やりきれない。宿酔というものは、宿酔の相手をめぐって不快に思いがこもっているものだが、それはエンゼルでも同じことで、その相手が目の前にいると思えば、不快で邪魔っけなウスノロだが、いくらか気がまぎれないこともなかった。
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