街はふるさと
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著者名:坂口安吾 

       六

 せつ子は放二と記代子に新しくおこすはずの出版事業の抱負をきかせた。
 宇賀神の噂は明日にも二人の耳にとどくだろうが、わざとそれを隠して、
「金主のことではいろいろのデマがとぶでしょうけど、デマを利用する方が賢明なのよ。あなた方も、当分はデマを信用してちょうだい。ただね、私には数千万円うごかす力があるのよ。これだけは、真実。ひょッとすると、一億ぐらいまで、ジャン/\資金がおろせるのよ。すばらしい記念日でしょう」
 これだけはカケネなしの本音であった。全身から歓喜があふれでるほど、快感がたかまっているのだ。
「さア、のんで。放二さん。記代子さんもよ。なんとか祝辞おッしゃいよ。あなた方」
 せつ子の浮きたつ様を放二はまぶしそうにうけとめて笑った。
「あんまり幸福そうですから、不安になるんです」
「幸福すぎちゃアいけないの?」
「それに越したことはないのですけど、マサカの時を考えて、程々にしておくことが大切だろうと思うのです」
「ずいぶんジミだわね。あなた、いくつになったの」
「ぼくは無邪気になれないのです」
「からかわれてるみたいね。坊やにませたことを云われるのは、変なものだわよ」
 目で同意をもとめると、記代子も笑って、こたえた。そのキッカケを捉えて、せつ子は話題を変えて、
「わが社の出版計画の一つに大庭先生の全集を考えてるのですけど、どうかしら。放二さんが引きうけて下さるなら、出版部長におむかえしたいのよ。記代子さんにもよ。お力添え、おたのみするわ。お二人をわが社の幹部社員におむかえするつもりよ」
 放二はしばらく返事につまっていたが、
「先生と出版書肆とのツナガリには古い来歴があるらしくて、ぼくなどにはその片鱗も分っておりません。ぼくの力では、先生に原稿をお依頼するのも容易ではないのですから、全集出版のことなどは、とても力が及びかねると思います」
 すると記代子がさえぎって、
「でも私たちから、お願いしてみることはできてよ。お願いもしないうちから、そうときめてしまうのは、弱気すぎやしないこと。私、断然、お願いしてあげるわ」
「素敵だこと。放二さんには、あなたのような明朗なリーダアが必要なのね。さもないとハムレットになりかねないわ。記代子さんが現れて下さったから、大安心よ」
 放二は深く澄んだ目で、せつ子を見つめていたが、
「ぼくたちには本当のことを教えて下さい。青木さんも金主の一人ではないのでしょうか。共同経営のようにうかがってましたが」
「ちがいます」
 せつ子はきびしく否定して、
「あの方の話は止しましょう。私がまちがっていたのです。あの方の境遇に同情したことが。事業に同情は禁物なの。心を鬼にしなければいけないのね。忘れたいことを思いださせてはいけませんよ」
「そのために青木さんは自殺なさるかも知れません」
「事業に同情は禁物なのです」
 せつ子の目に断乎たる命令の火焔がもえ狂った。放二はそれを正視して、素直にうなずいた。

       七

 せつ子はただちに反省した。放二に威圧を加える様を記代子に見せるのは得策ではない。心のひろいオ姉サンぶりを見せて、小娘の信頼をかちうることが大切である。
 せつ子はニッコリ笑って、
「私はね。この事業にイノチをうちこむのよ。私はそんなふうに生れついた女ですから。記代子さんは良妻賢母に生れついた方。結婚までの社会見学に働いてみる程度の軽い気持でなければいけないのよ。人はそれぞれの持ち前によって生き方を変えなければならないのね。私のように、世間並の奥さんにおさまるには、鼻ッ柱が強すぎるし、芸術家の素質はなし、中途半端なのよ。女としては、中途半端はこまるものだわね。女らしさを殺さなければ、生きぬけないらしいからよ」
 実際はその反対だ。男に伍して生きぬくためには、最大限に女の素質を生かすことが必要なものだ。
 男というものは、自分の生活の足場のために必要なものであるから、己れは常に男たちには魅惑的な存在でなければならず、秘密のヴェールにつつまれていなければならぬ。
 己れに近づく男は、己れの主人の如くであるか、己れが主人の如くであるか、そのいずれかで、対等のものは近づくことを許されない。
 それがせつ子の生き方であった。恋愛というムダで病的な感傷を自分の人生から切りすてていた。女の魅力というものは、恋愛のような初歩的なものではないし、女の生きがいも、そのように初歩的なものではない。
 せつ子は二人の小鹿に、慈母のようなやさしい眼差しをおくって、
「私はね。たとえば、大庭長平全集を計画するでしょう。こうときめたら、コンリンザイ、しりぞかないわ。賭というものはね、たいがい損するときまったものですよ。でも、誰かしら、賭に勝ってる人がいるのよ。きわめて限られた少数の人だけがね。算数的には、やらない方が無難なものよ。無難といえば、サラリーマンの生活にかぎるわね。事業というものは、賭なんです。こうときめたら、おりてはダメよ。算数的には不可能きわまるものなんです。それを承知でやりぬくのが、賭というものです。一か八かじゃないのね。いつも、一。最後の時まで、一にはったら、一だけ」
 大庭長平全集ぐらい、あなた方がダメだと思っても、私はやってみせる。恋愛はふられた以上ひきさがらなくてはならないが、事業にふられることはない。こっちが、おりさえしなければ。土足にかけられ、ふみにじられても、最後にモノにすれば勝つのである。
 せつ子の慈母の眼差しには、そんな決意は毛筋ほどもうかがえなかった。
「大庭長平全集にはった以上は、おりませんからね」
 と、せつ子はニッコリして、
「私、出版社長の肩書で、あなた方の次には大庭先生を御招待したいと思うのよ。その機会をつくってちょうだいね。功を急いでるわけではないのです。私は何年間でもおりないから。ただ記念日の第二日目の宴会までにね」
 せつ子の慈母の眼差しに変化はなかったが、二人に拒絶を許さなかった。
「ねえ。大庭先生の滞在日程をのばしても、私の宴会に出席して下さるようにお願いして下さいね」
 二人は、あかるく、うなずいた。


     第二の宴


       一

 翌朝、放二と記代子は新宿駅で待ち合せて、社へでる前に、長平の宿を訪ねた。せつ子の依頼を果すためであった。
「梶女史、数千万円を握るに至ったかね」
 長平は自分でも意外なほどの好奇心を起した。
 昨夜、長平のもとへ、呉竹しのぶと穂積らが遊びにきたのである。彼らは東海道の汽事の中から、ひきつゞいて酔っ払っていた。そして、車中で見かけた宇賀神とせつ子の話をきかせた。
 それをきいた時には、なんだ、そんな女なのか、と、長平は梶せつ子を軽く見くびっただけであった。まだしも、宇賀神という人物の方に興をかられたほどである。戦争という御時世中にも金に縁のなかった右翼策師が、敗戦後に至って巨億の富をにぎり、民主政府の裏側に君臨しているというのが皮肉である。
 しかし、放二の話から、思い合してみると、宇賀神のフトコロからなら数千万円はでるかも知れぬ。まんざら架空の駄ボラではないようだから、長平は数千万円という金額の大きさに驚いて、せつ子を見直した。
 むらむらと好奇心が頭をもたげたが、
「青木がにわかに数千万もうけたわけじゃアなかろうね」
 わざと、こう、きいてみる。
「ええ。青木さんではないそうです」
「すると、青木の立場はどうなるのだろう」
「たぶんクビだろうと、御自身が仰有ってました」
「御自身て、青木がかい」
「そうです」
「クビになる金主もあるのかね」
 金主の男は電車賃にも事欠いてドタ靴の若者にたかっているというのに、被護者の女は他の男からやすやすと数千万せしめるに至ったという。是非善悪はとにかくとして、ちょッと痛快なエネルギーを感じさせられる。
 長平はせつ子に会ってみたいと思った。そこで、
「よろしい。梶さんの招待にはよろこんで応じましょう。しかし、ひとつ注文があるのだが、君たちは遠慮してくれないかな。ぼく一人だけの招待にしてもらいたいのさ。人前ではきけないような質問もするだろうから」
 放二はうなずいて、
「梶さんも先生だけの招待をむしろ喜ばれるだろうと思います。ですが」
 放二は長平を正視して、
「先生。先入主をおもちになっては、いけないと思います」
「先入主って? どんな?」
「たとえば、梶さんが、俗で、世間師で、性格の強い人だというような」
「むろん、会ってみなければ、わからないさ。正体が知りたいから、会ってみたいのさ」
 放二は目に肯定をあらわしたが、まだそれだけでは充分でないというように、
「青木さんは梶さんに見すてられると自殺なさるかと思われます。そんな予感がするのです。それを梶さんに伝えましたら、事業に同情は禁物だと仰有ったのです」
 澄みきった少年の目が冷たく生死を語っているので妙だった。
「青木さんは、まだ、なにか、甘えてるんじゃないでしょうか。梶さんは、甘えることも、甘やかすことも、できない人です。最も弱い動物は他の動物を信じることができません。自分を信じることもできませんが、しかし、自殺もできません。ただ、生きるだけで必死だろうと思います」
 長平は、もう分ったと手をふる代りに、鉛色の目玉をむいて、ソッポをむいた。

       二

 長平がせつ子の招待を承諾したので、二人は安心して辞去した。記代子はそこから出勤し、放二は報告のために、せつ子の社へ立ちよった。
 もしや青木が待ち伏せていてはと、放二はビルの裏口からはいった。そんな配慮を忘れなかったが、放二は裏をかかれたことを知らなかった。
 青木は戦後の出版景気に当てこんで、最近まで雑誌社もやってきたので、編集者の生態については知るところがあった。彼らは社へでる前に作家を廻って用をたし午すぎるころ顔をだす。一二時間ブラブラして、又、原稿の依頼や催促にでかけてしもう。それは朝寝と早びけの言訳にも便利である。
 放二は要心しているし、口が堅いから、彼をつかまえて、たのんでみても、長平の宿を教えてくれる見込みはない。
 そこで早朝から放二のアパートの陰に身を隠して待ちぶせた。出勤前に長平を訪ねて用をたす公算大なりと見たからである。
 果して放二は新宿で記代子と待ち合して、社へは行かずに、とある屋敷の門をくぐった。旅館ではない。ちょッとした閑静な小庭があって、妾宅か、隠居家のような構えだ。
 これを長平の住居と見てとったから、しばらくたって放二と記代子が立ち帰るのには目もくれず、やりすごして、門をくぐった。
「大庭長平先生にお目にかかりたいのですが」
 と当てずッぽうに言ってみると、
「大庭さんは茶室におすまいですよ。庭から廻って下さい」
 やっぱり、そうだ。青木はホッと、目がくらんだが、こうまでして、なんのための努力だか、わけが分らない。長平が金を貸してくれるとは思っていないのだ。ただ、意地だ。なんの意地だか、それも分らない。長平は自分にからかわれていると思うかも知れないが、オレがオレをからかっているだけなのさ。待望の隠れ家をつきとめて、こみあげてくるのは絶望だけである。
 しかし、青木は威勢よく庭をまわって、わざと窓から首を突ッこんで、
「ヤ。いる、いる。こんちは。長平さん」
「ヤ。君か」
「不意打ち、御容赦。天をかけ、地をくぐり、習い覚えた忍術が種切れになるところで、ようやく、つきとめました、ハイ」
「ま、あがりたまえ」
「なんでもないような顔をして、こまった人だね。歓迎はしていないかも知れないが、イマイマしいというお顔には見えないのだからな。意地のわるい人さ」
 青木は部屋へあがって、しきりに汗をふきながら、
「初夏の汗だか、冷汗だか、分らないやね。ときに、ここが、東京の別荘ですか」
「なんでも、いいや」
「妾宅かな」
「君にききたいと思っていたが」と、長平は好奇心にはずんだ顔で青木を見つめた。
「君と梶せつ子との関係は、金銭上のものだけかい。それとも、男女の関係もあるのかい?」
 青木はせせら笑って、
「曰くあるらしき質問だね。聞き捨てならぬ語気ありと見ましたが、いかが?」
 言葉はふざけているが、青木の目に真剣なものがこもった。

       三

「君の神経は何製てんだろう。鉄筋コンクリート製かも知れないな。ねえ、長平さん。そうだろう。それで小説も書くんだからな。まんざらコンクリート出来でもないらしき、センサイなる悲劇をね」
 青木は苦笑して、喋りづづけた。
「梶せつ子とオレの関係がどうだって? あんた、他の中へ石を投げて遊んでいるんじゃあるまいね。オレの身にもなってくれよ。石が当りゃ他の蛙は気絶ぐらいしまさあね。イヤ、そうでもないらしいぞ。あんた、薪割りで蛙をザックと斬ろうッてのか。ザックと」
 青木の目が光った。しかし、やがて悲しげに目をふせて、苦笑をうかべて、
「イヤ、よそう。コンクリートを押してみたって、はじまらねえや。ときに、長平さん。池の蛙に二百万両かさねえかな」
 青木はヤケ気味に、相手を小馬鹿にした風であった。長平は返事をしなかった。
「そうだろうな。蛙の顔には小便ときまってらア。小判を投げちゃアくれねえな」
 青木は茶室の隅に水道の蛇口のあるのを認めて、ウガイをして顔を洗った。
「失恋? ふざけちゃ、いけませんや。女房に逃げられたって? チェッ。埒もない。お金か! 笑わせるよ。まったく。梶せつ子がオレの何者だって? 知ったことか! ねえ。そうだろう。お金も、女も、つまらないね。ツラツラ観ずれば、そうなんだ。わきまえてるんだよ。わたしは」
 しかし顔色をひきしめて、
「だが、長平さんや。さッきのセリフにはたしかに、曰くがあるね。そうだろう。それを聞かせてもらいましょう。蛙の横ッ面に石が当ったんだとさ。白いアゴをつきだして、ひっくりかえるだけが能じゃないんだってさ。池の蛙でもさ。さ、おききしましょう」
 ひらき直った凄味はなかった。言葉のとぎれ目から、身のこなしの節々から、内心の苦悩が、傷口からの血のように、ふきでている。
 長平は無関心に、
「ぼくはね。今夜、梶せつ子に会うよ。まったく、池の中へ石を投げているのだろうよ」
「フン。どこの池にでも石を投げてくる人だよ。ルミ子さんの池にも石を投げてきたんだってね」
「君は素人の山登りなんだな。天候を見て、下山することを忘れているんだ。アッサリ遭難しちゃア、つまらない話だな」
「往生際はわるいらしいがね」
 青木は帽子をつかんで立ち上った。
「可愛い、虫も殺さぬ面相をしてさ。食えないねえ、ちかごろの子供は。あの北川少年のことさ。梶せつ子が帰京してるなんて、鵜(う)の毛ほども覗かせやしねえや。お仕込みがよろしいからな」
 苦笑して、ふりむいて、
「じゃア、失敬。今日は退散するが、又、会うぜ。往生際がわるいんだから。京都で、門前払いは罪でしょう。ねえ、長平さん」
 長平は答えなかった。青木が靴をはき終るころ、
「梶せつ子に会っても、ムダだな」
「え? なぜ?」
「ふ。そうかい。是が非でもかい」
 長平はにわかに肚をきめたらしく、
「よろしい。梶せつ子に会えるようにしてあげよう」
「え? なんだって?」
 長平は委細かまわず居室へもどって、名刺に書いた。
 ――名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。梶せつ子様。
「利くか、どうか。関所のニセ手形だよ」
 と、青木に渡した。

       四

 せつ子は応接室へ現れて、青木を認めると目を光らしたが、すぐふりむいて、受付の小女をよんで、
「この名刺の人は、どの方?」
 応接室には幾組もの人々が立錐の余地もないほどつめこんで、モウモウたる紫煙をふいている。受付の少女が指したのは、意外にも、青木その人であった。
 せつ子はすぐさま肚をきめて、驚いた風もなかった。
「出ましょう」
 青木を外へ連れだした。
「大阪旅行が、とても、うまくいったのよ。後援して下さる方が現れてね。独立できることになったの。その代り、大阪へ移住することになるらしいのよ。関西の実業家は太ッ腹で、話がわかって、たのもしいわ。でもね。個人的な後援者がハッキリしてるんじゃなくって、ある事業団体が後楯というわけなのよ。青木さんにはお気の毒ですけど、相手が事業団体でしょう。行きがかりがどうあろうとも、他人の共同出資を認めてはくれないのね」
 せつ子はデタラメをまくしたてた。無感情に。そして青木を刺し殺すように言葉をきった。
 青木などは頭になかった。この名刺持参の者、と、わざと無記名の紹介状を青木に持たしてよこした大庭長平が憎いのである。御引見の栄をたまわりたし、と皮肉な敬語の裏に、おごりたかぶったキザなウヌボレが見えすいている。長平への戦闘意識で、頭の中はモウモウといっぱいだった。
「成功すれば後援者から独立できるのよ。きっと、成功するわ。なぜって、莫大な援助なのよ。事業の成功率なんて、出だしの資金次第だと思うの。事業の実質的な主権を私が握れたらね。それは夢じゃないでしょう。いいえ、必ず実現してみせる。それも、遠くないうちに。そしたら、あなたにも、どんな約束だって、果してあげられるわ。あなたが私のためにして下さった何十倍の物もね」
 思いやりを含めたような言い方をしながら、侮蔑、嘲笑が露骨であった。
 青木の癇は鋭どすぎて、弱すぎる。関所のニセ手形がゲキリンにふれるのも仕方がないな、と、あきらめて、
「大阪の事業団体て、だれ?」
「極秘よ。まだ、いえない。御想像にまかせるわ。銀行屋さんでも、紙屋さんでも、印刷屋さんでも、高利貸でも」
「すると、その中のどれでもないわけだ」
 青木のそんな利いた風な言い方ぐらい、厭気ざしたら、我慢のならぬものはない。
「どこかで、休もうよ」
 と、青木が云うのに耳もかさず、颯々(さっさっ)と歩きつづけて、
「大阪と東京を股にかけて、女手ひとつでしょう。身体をもたせるのが、たいへん。でも、死ぬまで、やるの。ほら、ごらんなさい。毎日、ブドウ糖を」
 腕の静脈をだして見せた。青木は物欲しさをそそられる代りに、苦笑を返して、
「今からそれじゃア、大成おぼつかないぜ」
「私の雑誌はね。創刊号に七十万刷ります。三号には、百万にして見せるわ。私の欲しいのは、時間だけ。ただ、忙しいの。十分間が一日の休養の全部だわ。これじゃア、大成おぼつかないわね。じやア、失礼させていただくわ。いずれ、又、ゆっくりね」
 せつ子は自動車をとめた。そして、悠々とのりこんだ。他の誰とも人種の違う人のように。

       五

「ちょっとドライヴしてちょうだい。そう。海の香のするあたり。聖路加病院の河岸がいいわ」
 そう運転手に命じて、せつ子はクッションにもたれた。長平の名刺をとりだして見た。名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。見れば見るほど、底意地のわるさが伝わってくる。破り捨てようとしかけたが、大切に、ハンドバッグへしまいこんだ。名刺を破りすてるぐらい、いつでも、誰でもできることだ。小さな腹いせは、その小さな満足によって、敗北のシルシにすぎない。そして名刺をしまいこむと、いつからか、あるいは、たぶん昨日からかも知れないが、雄大な新たな自己が生れつゝあることを知って、満足した。
「山手を走って。議事堂へんね」
 そして放二の社へ辿りついたときには、晴れ晴れとした自分を見出すことができた。
「御招待の席を変えたのよ」
 せつ子は放二にささやいた。
「築地の疑雨亭という料亭。待合かしら。古風で、渋くッて、それで堂々としていてね。大庭先生がお好きになりそうなウチなのよ。そこへお連れしてちょうだいな。ここに地図があります」
「ハア」
「大庭先生は、どんな芸者が、お好き」
「わかりません」
「美人で、娼婦型で、虫も殺さぬ顔で悪いことをしているような人?」
「どうでしょうか」
「案外、あたりまえの、つまらない美人がお好きなのね」
「さア。見当がつかないのです」
「芸者遊びはなさらないの」
「なさるでしょうが、ぼくはその方面の先生の生活にタッチしたことはありません」
「放二さんはオバカサンね。先輩に接触したら、裏面の生活を見る方が勉強になるわ」
「ぼくは反対だと思うのです」
「どうして?」
「遊ぶときは、誰でも、同じぐらい利巧で、同じぐらいバカだと思うのです」
「マジメの時は?」
「ぼくは、まだ、人生で何が尊いものだか、わからないのです」
「せいぜい、長生きなさい」
 せつ子はバカらしくなったが、気持を変えて、
「大庭先生は短気の方?」
「いいえ。むしろ、寛大です」
「しかし、皮肉家ね」
「いいえ。いたわりの心が特に先生の長所だと思います」
「私のこと、どんな風に考えてらッしゃるらしいの?」
「今のところ白紙だろうと思いますが」
 放二は考えて、
「ありのままのあなたは、先生の一番近い距離にいる女の方だと思うのですが」
「一番近い距離って、なんのこと」
「魂のふれあう位置です」
 別れて去ろうとすると、放二がよびとめた。
「小さな反撥や身構えはいけないと思います。ほんとうの奥底に通じあう道をはばみます」
「なんのこと?」
 せつ子の目が光った。名刺の件を知っているのかと思ったのだ。せつ子の鋭い目の色を見ると、放二は、あきらめたように、目をふせた。
 せつ子は車をひろって、招待の手筈のために駈けまわった。爽快な闘志がたかぶり、身がひきしまるようである。

       六

 長平は放二の案内で招待の席へ送りこまれた。通されたのは大広間だが、外はまだ明るいのに、雨戸がしめきってある。テーブルに面して床の間を背に大きな座布団がたった一枚、主待ち顔にしかれているのは、今夜の客が一人であることを示しているから、長平はドッカとすわる。
 はこばれた蒸しタオルで顔をふいているうちに、多くの女たちが出入して、広間のナゲシにはガンドウのような燭台をぶらさげてローソクをともし、テーブルの両側には笠のないスタンドのような燭台をたててクリスマスの大ローソクをともした。それが終ると電燈を消してしまった。
 奇妙に思った長平が何を女たちに問いかけても返事をしてくれない。いそがしく出入している女同志も、言葉を発する者がない。
 広間がローソクの明りだけになると、ひきつづいて酒肴がはこばれる。セキを切って落したようにキリもなく渋滞もない。女たちの出入に一段落がついたときには、長平は多くの芸者にかこまれて、酒をさされていた。一時にワッと、無言の酒肴に襲われたような有様であった。
「先生は洋酒がお好きとうけたまわりましたが、どれがお気に召しましょうか」
 芸者はテーブルのかたえから用意の洋酒をとりだして見せる。ジョニーウォーカア。ナポレオンのコニャック。その他、シャンパン、アブサン、ジン。いずれも然るべき品物らしく、敗戦国で拝まれるのがフシギの品々である。
「コニャックは珍しいな。十何年ぶりの再会になるだろう。これを、もらいましょう」
「ハイ」
「時に、ローソクは、どうしたわけですか。今日は東京の停電日ですか」
「いいえ。なんのオモテナシもできませんので、趣向したのですけど、先生のお気に召しますか、どうか。開店二日目の記念日なんです」
「このお店は今まで休業ですか」
「いいえ、私自身の開店記念日。大庭先生を招待させていただくのは、身にあまる光栄でございます」
 長平は驚いて芸者を見つめた。芸者か、店の女将かと見ちがえたのは道理である。洋髪ではあるが、場所柄では素人とはうけとれぬ和服。五尺五寸にちかいかと思われる長身が一きわ目立っていたから、この女の出入には特に目をひかれていたが、これが梶せつ子とは。言葉の様子では、どうも、そうらしい。
「あなたが梶さんでしたか」
「ハイ。どうぞ」
 と、せつ子はコニャックをつぐ。つぎ終ると、
「お気に召すほどのオモテナシはとてもと存じますが、どうぞ、ごゆっくり」
 軽く、しかし、丁重に一礼して、すぐ立ち去った。管々(くだくだ)しいことは一切ぬき。ただ存分に遊んでくれという神妙な風情である。そして、軽快な、行き届いたゆかしさがしのばれるような風情である。
 せつ子に代って他の芸者たちが交々(こもごも)さす。酒もあれば、ビールもある。
「いろいろと、そうは、のめないよ」
「これは酔心の生一本だそうですけど」
「ほう。日本酒まで珍しいな」
 芸者の人数が多すぎて、一々個別的な応対はしていられない。ローソクの明りが薄暗いせいもあるが、多勢に無勢、一々の美醜を念頭にとめるヒマもない。半玉が一人。若い美人も、婆さんも、年増もいるし、洋装も三人いる。

       七

 長平は酔った。彼はほとんど用心を忘れていた。ニセ手形の件も、それほど気にかけてはいない。何かの反響はあるはずだし、この一風変った趣向も根はそこにあるのかも知れないが、何がとびだしても、成行にまかせて、ただ見ていればよろしいという考えである。
 やがて少女が座布団をひきずるように現れて、広間の下座正面へ置きすてて去ると、ヤブニラミの妙な男がチョコ/\とローソクの影をくぐるようにとびだしてきた。キチンと坐って、オジギをする。落語なのである。
 詩のようなものの朗読にはじまって、ランランラン、ラララと唄って、賑やかなこと、満座は抱腹絶倒、長平も例外ではない。涙がにじむほど笑い痴れた。しかし、
「こんな顔は珍らしいですなア」
 と云って、落語家が目玉をクルクルやると、薄暗がりというものは、演技と現実が分離して見える。おかしさに変りはないが、この顔で苦労しました、という因果物的なイタマシサが、見物人の笑いのあとに残るのである。明るい電燈の下とは違う。
 落語家が去ると、いつのまに来ていたのか、せつ子が長平に寄りそうように坐っていて、
「御多忙の先生はアプレゲールの寄席など御立寄りの機会もあるまいと思いまして、よんでみましたが、ガサツで、おきき苦しかったでしょう」
「いいえ。ごらんの通り、抱腹絶倒、戦後これほど笑ったことはありません」
「そうですか。では、ほかに二三用意がございますけど、やらせましょうかしら」
「どうぞ。見せて下さい」
「それじゃア、ちイさん」
 せつ子に指名されて立ち上ったのは、洋装のうちの一人であった。
 女は十歩ほど歩いて立ちどまり、正面を向くと、体操の予備運動か深呼吸のようなことをやっている。ハハア。これがポーズなのか、と、長平は気がついて、手品だな、と思った。しかし、ちがう。降霊術らしい。
 苦悶しつつ身もだえるようにしながら、静かに一とまわり、二まわり。すると着ているものが肩と腰の上下二ヶ所からスル/\おちはじめた。バラリと落ちきる。シュミーズをきていない。ストッキングだけはいているが、モモから上は一糸まとわぬ裸体のようである。はなれているし、薄ぐらいから、ハッキリしないが、そうらしい。
 女はこれから沐浴するように、かがみこんで、一方のストッキングをぬぎはじめた。ぬぎおわるとき、軽く片足を後に蹴って、股をチラとのぞかせる。
 次には正面を向いて、腰を下す。股をひらいて一方のストッキングもとりはじめた。股をひらいているが、片手がその前後を滑るように動きつづけているから、全裸かどうかは、まだ見分けがつかない。
 ストッキングもぬいでしまうと寝たり起きたりデンマーク体操のようなことをやって、一反転、立った。それから、唄をくちずさみながら、踊りはじめたのである。
「ありふれたストリップですけど」
 と、せつ子がささやいた。
 低い変な声。腰のうごき。人マネではあるが、かなり調和がとれて、因果物の域を脱している。
 日本人には珍しく柔軟な、程よいふくらみをもった裸体のせいで、相当のエロチシズムであった。
 助平根性をかきたてて、ひどい目にあわせようという魂胆かな、と長平は思った。

       八

 ストリップの女は踊りながら、燭台を一つ一つ手にとって、吹き消しはじめた。壁面のローソクを消し終ると、テーブルの左右の燭台を吹き消すために長平の後をすりぬけた。片足がゆるやかに長平の頭上をまたいだのである。まごう方もない全裸であった。そして、次の灯も消え、長平の視界からは、すべてが一瞬にはなれてしまった。広間は真の暗闇。一語を発する者もいない。
 正面下座からパッと光った。又、ひとつ。誰かが、懐中電燈をつけたのである。誰だか分らない。懐中電燈は客席の天井をてらしている。二本の光がいりみだれて天井をさわいでいるが、下の方へは降りてこない。照らす人も見えないが、客席の様子も知ることができない。
 二本の光は天井を交錯しながら、ジリジリと客席の方にすすんでくる。誰かが両手に懐中電燈を握りしめて、こっちへ歩いてくるらしい。
 長平の左腕に誰かの手がふれた。軽くさするように這い降りる。そして、長平の手がやわらかい女手に握られた。せつ子の手だ。
 長平はされるままになっていた。光の主は客席の前にせまっている。二本の光芒は客席の真上をクルクル狂いみだれている。
 客席には微かな音もなく、長平の四囲からなんの気配も感じることができなかった。ただ左手が、かるく、あつく、女の手に握られているだけであった。
 色仕掛かな。ローソクの趣向もそのせいかな、と、長平は思った。これから何事が起るのだろう。何かが起るに相違ないが、ただ成行を見ていることだ。握られた手のくすぐったい感触は彼の酔心持をなまめかしく掻きたてた。
 光源は客席の前まで迫ったが、何事も起らない。光はいたずらに天井を駈けめぐり、光源はすでに後退をはじめた。ついに下座のドンヅマリへ後退した。光の動きがゆるやかになり、のろのろと天井を這い、光源の真上で止まる。すると、消えた。再び、真の闇。
 女の指に力がこもった。三秒。五秒。グッと握りしめた。いよいよ。長平はつづくものを期待したが、握力はにわかに弛んだ。とけたのだ。何秒かの空白ののち、長平は自分の手がすでに誰にも握られていないことをさとった。
 ポッと光った。下座がてらされている。新しい光源はアベコベに客席にあった。
 下座の奥手に、何かポーズしているらしい女の素足がてらされている。膝から下しか見えない。光が徐々に上へうごく。股。下腹部。全裸である。さっきの女ではないらしい。のびのびと、上背があるようだ。円錐形にもりあがる乳房。胸から肩の肉づきが豊かである。アゴ。女は両手を後にくみ、仰向けにポーズしていた。全身が光の中にうかんだ。女の手が静かに後をはなれて、同時に顔が正面をむいた。梶せつ子! せつ子の裸だ! せつ子の目に微笑がこもった。とたんに光が掻き消えて、せつ子の裸体は暗闇に没してしまった。
 数秒後に、皎々(こうこう)と電燈がついた。しかし下座の奥手には誰の姿もなかった。
「額縁ショーというんでしょうか」
 彼にささやく声がある。せつ子である。彼によりそって、さっきと同じ和服姿で。
 長平がおどろくヒマもなく三たび電燈が消えた。再び下座の奥手をてらす者がある。女の脚がてらされている。股へ。下腹部へ。全裸である。小柄で、ふとった女。せつ子でもストリップの女でもない。全身がうつった。肩と腕に数匹の蛇がまきついていた。

       九

 蛇姫のショウが終って、皎々と電燈がついた。蛇姫も洋装の一人であったらしい。ストリップの女と蛇姫が居なくなって、洋装は一人になっている。
「皆さん、お酌よ」
 せつ子は一同に命じた。
「これからは無礼講よ」
 と、せつ子は一同に笑いかけて、
「先生。あとに残ったのは、みんな芸なし猿なんです」
「あら、ひどいわねえ。芸者はあんな柄のわるい、ストリップなんて、できないわよ」
 と、婆さん芸者がシナをつくって長平にナガシ目をくれると、
「お蝶ちゃん。芸者のストリップおやり。浅い川よ。私、三味線ひくわよ、お姐ちゃアん! 三味線、もっといでえ!」
 年増芸者が、たいへんなシャガレ声。
 それをきくと、芸者たちの目が光った。たちまち一同がひしめくように、
「そうよ。お蝶ちゃん。浅い川よ。いいわねえ。すごいわねえ。可愛いわねえ。色ッぽいわねえ」
 お蝶ちゃんとよばれた可愛い半玉は長平の隣に座をしめていたが、真ッ赤になって、うつむいた。誰に助けをもとめようかと迷ったすえ、おずおずと長平によりそって、訴えるように顔を見あげた。絵からぬけでたような顔。羞恥に真ッ赤に燃えている。切れの長い目に熱気がこもり、感情にうるんでいるのである。
「アラ、色ッぽいわねえ。お蝶ちゃん」
「旦那ア。やけるわよう」
「あの目。たまらないわねえ。男殺しイ。子供のくせに。すえが思いやられるわよう」
 キャッ、キャッ、と大変なさわぎ。お蝶は耳の附根まで真ッ赤にそまり、コチコチに身動きができなくなって、長平によりそったまま、なやましい目を伏せたり、上げたりしている。
「いいわよ。お蝶ちゃん。覚えといで」
 と、婆さん芸者はお蝶をにらんでおいて、年増たちに、
「じゃ、あんた方、芸をだしなさい。踊りがいいわ。槍さびがいいわね」
 四人の年増が立ちあがる。婆さんが三味をひこうとすると、洋装の若いのがツと立って、
「私がひくわ」
 と三味線をうけとる。すると年増の一人が、
「そう、そう。夢ちゃんの糸がいいわ」
「ひどいわねえ」
 婆さん芸者は怒って睨む。夢子の糸で、婆さんが唄う。四人は踊りはじめた。
 すでに長平は感づいていた。踊っている四人の年増は男なのだ。声でも分るし、電燈の下では扮装がハッキリしている。しかし踊りはたしかなものだ。所作がやわらかい。
 婆さん芸者は本物の女らしいが、カツラ頭で男らしいところもある。洋装の美人芸者と半玉だけは本物の女であろう。
「あの四人は男娼ですか」
 長平がきくと、せつ子はうなずいて、
「ええ。この席には女は一人もおりません」
「え? 洋装の人は髪の毛が本物でしょう」
「ええ。ですけど、男なんです。お蝶ちゃん」
 せつ子は半玉を自分の方に向けさせた。お蝶はうるんだ目でジッと見あげる。せつ子はカツラに手をかける。お蝶は真ッ赤になった。せつ子はスッポリ、カツラをぬいだ。少年であった。
「別室へ参りましょう」
 せつ子は長平の手をとって立った。

       十

 そこは数寄屋造りの別棟であった。温泉風に浴室も附属している。居間に食卓の用意ができて、長平の好きなコニャックも、ほかの洋酒も、酔心も、とりそろえてあった。
「お風呂はいかが?」
「それには及びません」
「お寝床もしいてございますから、どうぞ、ごゆっくり」
 せつ子は長平にコニャックをついで、
「先生。のみほして。私にちょうだい」
 長平のグラスをうけとり、ついでもらって、一息にのむ。さしては、もらい、数回つづけて一息にのんだ。せつ子の目の縁はバラ色にそまった。
「悪趣味の女とお思いでしょう。因果物ばかりお見せして」
「いいえ。たいへん有りがたく思いましたよ。珍らしいものを見せてもらって。ところで、あなたは、どっちのあなた? 裸のお方かな? 暗闇で手を握ったお方?」
「どっちが、おすき?」
「梶せつ子さんは、どっちかな」
「二人ともよ。そして、お好きなほうよ。どっちも私ですもの。先生。手を握りましょうか」
 せつ子は膝をよせて、長平の手をとった。
「どう? 覚えてらッしゃる。おんなじ?」
「わからないね」
「じゃア、こう」
 グッと力をこめてみせた。
「なるほど。それで、わかった」
 せつ子は笑って、
「でも、先生。不安を感じませんでしたか」
「どうして?」
「私ね。あとで、男娼の手にすりかえさせようかと思ったんです。はじめの計画は、そうだったの。男娼はよろこぶわ。暗闇で先生に頬ずりしてよ。甜(な)めるわよ」
「どうして、そんなことがしたいんです」
「ひどい方」
 せつ子は媚をためて睨んだ。
「なぜ青木さんに変な名刺もたせてよこしたんです。イタズラッ児。もっと悪意にとったわ。でもね。イタズラッ児の仕業と思って我慢してあげたんです」
「悪意にとっても、かまわんのさ」
「先生は私を悪い女とお思いなんでしょうね」
「そうきめてかかれば、わざわざあなたを見物に来やしないさ」
「私は同情はキライなんです。そして、ジメジメした人情も」
「キライと好きは生涯ハッキリしませんよ」
 せつ子は長平の手を両手でとって、グイとにじりよって、大胆に見つめた。
「先生は私のどこがお好きなの」
「今日のあなたは一流だよ」
「ヒョッと思いついただけよ」
 せつ子は静かに唇をよせて、
「先生は一流ね。なんでも、ヘイチャラなのね。一流でなければダメだわ。青木さんなんか、ダメ」
「一流の人間は三流四流を好むものかも知れないよ」
「じゃア、私は四流のパンパンよ」
 せつ子は長平のクビにまいた腕にグイと力をこめて、下へ倒れた。泣声をたてて、唇を押しあて、せつ子は理性を失った別人であった。唇をはなして、
「さっきの裸体は踊子よ。私の裸体は、もっとキレイ。もっとステキだわ」
 情熱にふるえて、ウワゴトのようだった。

       十一

 長平の離京は一週間ほどのびた。せつ子に全集の発行を許すについて、他の出版社との行きがかりから、いろいろ雑用があったからである。
 放二と記代子もせつ子の社で働くことに話がきまったが、ちょうど放二たちの社は経営難で、売れない雑誌を廃刊し、事業を縮小する必要にせまられていたから、この方は面倒がない。渡りに舟と編集長の穂積までせつ子の方へ譲り渡す始末であった。
 いよいよ明日は離京という晩、長平がおそく宿へもどると、茶室に青木が待っていた。
「明日はお帰りだってね。べつに大した用もないんだが、お名残りおしいから、ゴキゲン伺いにきたのさ」
 相変らずの皮肉な口調であった。
「一週間、君にも、梶女史にも、北川少年にもお目通りしなかったから、奴め自殺しやがったかとお考えかも知れないが、ナニ、ぼくのことなんか爪の垢ほども考えてやしないだろうがさ。ハハ。しかし、お名残り惜しいんだ。純粋にそれだけだよ。恨みを述べればキリがないがね」
 青木は笑って、
「知ってるんだよ。あの晩、君と梶女史が待合に泊ったことを。ハハ。つけたんだよ。梶女史に会いたくってさ。なにも、あなた、ぼくがどれほど落ちぶれたって、あなた方がシッポリなんとやら、それを突きとめるためにつけるほどケチな根性はもたないさ。ねえ。そうだろう。女房があなたが好きで先刻逃げられたぼくだもの、今更ねえ。だがさ。待合の陰にかくれて一夜をあかして、あなた方がついに御帰館なきことを知らざるを得なかったぼくの胸中というものは、甚だ俗ではあるが、万感コモゴモでしたよ」
 それを言ってしまうと、青木はかえって晴れ晴れしたようであった。彼は明るく笑って、
「それから、ぼくが、どうして生きていたと思う? いやさ。恨みを述べるわけじゃア、ないですよ。アベコベなんだ。その一夜が、転機なんだよ。万感コモゴモの次に、ホンゼンとして心機一転。それほどでもないが、なんとかしたと思いたまえ。ここ一週間、ミミズみたいに、どこか暗いところを這いずりまわり、のたくりまわってきたがね。実はね。今日は又、君の一筆が所望なんだ」
 彼は益々明るく笑いたてて、
「実はね。梶せつ子の新社へ一介のサラリーマンとして採用してもらいたいんだ。恨みも迷いも、すてたんだ。それを捨てるのに、一週間、かかったんだよ。ねえ、君。考えてみれば、ほかに、オレみたいな老骨を拾ってくれる会社はないじゃないか。誇りなんぞ、持ってやしませんよ。生きるには、食わねばならず、食うには、どこかで拾ってもらわざるを得なくなったからですよ。枝葉末節を語ればキリがないが、荒筋はそれだけさ」
「働くポストは」
「門番でも、事務員でも、編集でも。長と名のつくものを望まないよ。女房に逃げられた男が、ふった情婦の店で働くのに御慈悲の長は所を得ていませんよ。まア、当分、考えることを探すわけさ。もし人生に考える価値のあるものが在ったとしたらね」
 長平はせつ子に当てて手紙を書いた。青木を使ってくれという依頼の。なぜなら、そのことに不賛成ではなかったから。
「ありがとう。女房が、イヤ、前女房が、銀座のバーで働きだしたよ。今度上京したら寄ってくれよ。たのまれたんだ」
 そして青木は立ち去った。
 翌朝、長平は東京を去った。


     娘ごころ


       一

「たまには、つきあえよ」
 と、青木が放二をさそったが、
「でも、校正を急がなければなりませんから」
 放二は明るい微笑で応じたが、額や頸には脂汗がういていた。
「残業、又、残業か。ジミな人だな。顔色が悪いぜ。お嬢さんが淋しがっていらッしゃるじゃないか。よく働き、よく遊べ、さ。ねえ、記代子さん」
 記代子は帰り仕度にかかりきって、顔もあげず、放二をさそいもしなかった。
「じゃ、お先きに」
 二人はそろって先にでた。
 せつ子の新社は多忙であった。けれども雑誌編輯部にくらべれば、出版部は大きにヒマな方だ。放二も、記代子も、青木も、出版部をまかされていた。そして、もと放二たちの編集長の穂積が出版部長であった。
 せつ子はお義理で入社させた連中をみんな出版部へ集めたのである。それは雑誌の編集に特に抱負があったからで、編集上の見識や才腕を特に見込んだ者でなければ、雑誌部へは入れなかった。
「青木さん。ビール、のませる?」
「やむをえん」
「たびたび、相すみません」
 青木と記代子は、ちかごろ、たいがい、一しょであった。青木は、そのことで、ほろにがい思いをしていたのである。
 記代子は放二を怒っているのだ。なるべく残業するようにして、一しょに遊ぶのを避ける様子があるからである。青木はそれを見かねて、若い二人を仲よく遊ばせてやるために、時々二人をさそったが、放二はそこからも身をひくようにして、青木と記代子二人だけで一しょに歩くのが自然になった。青木はつとめて放二を誘うようにしたが、記代子は放二を誘わなくなった。
 暑気が加わってから、放二のからだは、めっきり衰えていた。二度、軽く血をはいたことがあったが、それを誰にも悟られぬようにしていた。
 少年時代から病弱で、寝たり起きたりの生活はウンザリするほど重ねてきたが、養父母の仁愛ふかい看護の下で、彼が体得したことは忍耐であった。
 あるとき、放二はオリムピック・マラソン選手の戦記をよんだ。彼らは時々ある地点に於ては、激痛のあまり知覚を失ってしまうのだ。手も足も動かなくなる。放置すれば、倒れる一瞬である。天水桶をみつけて、すがりつく。頭から、かぶっているのだ。又、歩きだす。知覚がもどり、彼は走りだしている。苦痛を超える、よろこび。坂がある。果して、駈けあがる力があるだろうか。疑いに負けてはならない。あらゆる苦痛をのりこして、走りつづけなければ勝つことができないのである。
 一番健康な人のマラソンと、病人と、よく似ている、と放二は思った。マラソン選手は高熱のウワゴトの状態で走りつづけるのだ。苦痛に耐えて、生きぬき、走りつづけているのは病人だけではないのだ。人生が、そういうものなのである。凡人は途中でおりたり、落伍してしもう。まだしも病弱な自分は、その宿命として、おりては負けることをさとっている。そして、選ばれた優勝選手の心境を理解することもできるし、ややそれに似た日々を体験もしている。
 少年の日、放二は病床で、そんなことを考えたことがあった。

       二

 この夏の暑気いらい、急速に衰えはじめた放二は、養父母の慈愛の手にみとられていたころとちがって、仕事もあったが、休息すべき部屋がなかった。
 早めに戻って休息するのが何よりだったが、寝ていると、彼の部屋をたよりにしている女たちに暗い気持を植えてしもう。病気と闘っていることを、彼女たちに悟らせてはいけないのである。
 最良の方法として選んだのは、ねる時間まで残業していることだった。仕事もたしかに忙しかったが、それを残業にのばしてやると、仕事を半ば休養に中和することもできるのである。
 こまるのは、記代子と青木の誘いを拒絶しなければならないことだ。
 せつ子は放二と記代子に、二人が当然結婚すべく定められているかのような言い方をした。それが記代子に現れる反応は敏速であったし、確信的であった。せつ子の認定を得ていることは、内々叫びをあげなければならないような馴れ馴れしい表現をしても、顔すらも赧(あか)らめさせない支えになるのであった。
 しかし、放二が彼女の誘いに応じる度数は、三日に一度に、五日に一度になる。そして、青木は好二を誘うが、記代子はもう誘うこともやめてしまい、話しかけることも、なくなってしまった。
 それでいいのだ、と放二は思うのである。病弱な自分は、結婚には不適な人間だ。相手を不幸にするだけだから。記代子が積極的になるほど、放二は身をひく。ぼくなんか、忘れて下さい。それを説明することはできるが、人生は説明では解決がつかない。放二は説明の代りに身をひいた。そして記代子が離れて行くのを、静かに、しかし、愛情をこめて見送りたかった。ごきげんよう! ボン・ボアイヤージュ! というように。
「若い者は、手間をかけたがるものさ。曲った方へ、曲った方へ、歩きたがるんだ」
 青木は記代子をひやかした。しかし、若い者だけのことじゃない。自分にしろ、礼子にしろ、もっと、ひどいようなものだ。
 記代子はなぜか顔色を変えた。一息にグラスをのみほして、
「もっと、ちょうだい」
「あんまりハデな飲み方をしないでくれよ。お嬢さんがのびちゃうのは、御当人は太平楽かも知れないが、連れの男は、憎まれたり疑られたり、楽じゃないからな」
 記代子は、又、一息にほした。
「お代り、ちょうだい」
「よせよ。もう、あんたは六パイだ」
「でましょう」
 道へでると、記代子は腕をくみ、肩をよせた。グイグイ押しつける。足はシッカリして、酔ってるようにも思われないから、青木は小娘の大胆さに当惑して、
「もう、お帰り。駅まで送るよ」
「イヤ」
「もう、のめやしないよ」
「話があるのよ」
「じゃア、喫茶店で休むか」
「いいえ。歩きながらが、いいの」
 記代子は暗い道へ曲りこんだ。
「なぜ、いじめるのよ。なぜ、意地わるするのよ、毎日」
「え? どんな意地わるしたろうね」
「してるわ。なぜ、放二さんを誘うのよ。毎日、きまったように」

       三

 やっぱり子供だな――と青木は思った。放二を思いつめているのだ。それは分りきったところだが、それをこんな見えすいた言いがかりで表すところが幼い。
 青木は笑って、
「お嬢さんや。こまった人だな。あなたの気持はわかるが、ぼくがいたわってあげる気持も察してくれなくちゃアいけませんよ」
「だから、私をいじめてるじゃないの」
「どうして?」
「男は男同志って、そんなことなの?」
「妙なことを云うね」
「放二さんをいたわって、私をいじめてるのよ。私なんかは、いたわる価値がないのね」
「やれやれ。そうか。お嬢さんを説得するには、言葉の厳密な選択と行き届いた表現が必要なんだな。いいかい。記代子さん。ぼくがいたわってあげているのは、あなたと放二君の、御二方だよ。二人の恋人の一方をいたわることは、他の一方をもいたわることにきまってるじゃないか」
「私は、どうなっても、かまわないのね」
「やれやれ。どう云ったら、表現が行き届くことになるのだろう」
 二人は小さなバアの前を通りかかった。記代子は青木を取りおさえでもするように、腕に力をこめて、押した。
「ここで、休むのよ」
「え?」
 そこは礼子の働いているバアだ。記代子に教えたはずはなかったが、知っている様子である。
「こゝに、ぼくの昔の奥さん、働いてるの、知ってるんだね」
 記代子は睨んで、答えない。
「誰が教えたの?」
「休みましょうッたら」
 記代子は身体ごと押した。
「ま、待ってくれ。ぼくの立場を考えてくれよ。修学旅行の女学生が色町をひやかすような気分で、ぼくをオモチャにしてくれるなよ」
「女学生じゃなくッてよ」
「すまん。しかし、な。別れた奥さんがお客さんにサービスするのを見るだけだって悲しいんだ。あれがふられた亭主だなんて、そんな哀れな顔を見たがっちゃ、いけないよ。それに、今日は、持合せがないのさ。別れた奥さんにたかって飲むほど、みじめな思いをしたくないんだ。それぐらいなら、泥棒がマシさ。なア、記代子さん。あんた、ぼくが泥棒なみに生きてきたこと、見て、知ってるじゃないか。しかし、別れた奥さんに、たかりたかアないんだよ」
 記代子の目にあらわれたのは、軽蔑の色だけだった。
「私がおごるわ」
 記代子は強い力で、青木を地下の酒場へひきずりこんだ。客はかなりたてこんでいた。記代子はあいてるソファーへかけて、
「カクテル、二つ。ジン台の辛いカクテル。それから、礼子さん、よんでね。こちら、礼子さんの昔の旦那様。意気地なしよ」
 記代子の態度は、なれていた。そして、見ちがえるほど、大人びていた。
「あなた、この店へ来たことがあるね。前に」
「穂積さんと飲むとき、いつも、ここよ」
 そうか、と青木は思った。そして、それを今まで黙っていた記代子、突然それをあばきだした記代子の心を考えた。

       四

 礼子がカクテルを持って現れた。記代子は軽く会釈して、
「つれてきてあげたの。意気地なしを。入口でふるえてたわ。ほら、蒼ざめてるでしょう」
「ヤ。こんちは。ぼくの昔の奥さん。まさか、ふるえもしないがね。しかし、貧ゆえには、ふるえもするさ。今日は持ち合せがないんでね。まさか昔の奥さんに飲ませてもらいたかないからさ。それで、ふるえましたよ。すると、お嬢さんが、おごるというんでね」
 青木は笑いながら、懐時計をはずして、
「明日、うけだしに、くるよ」
「もう、こないで」
 礼子は懐時計を押しかえした。そして、記代子に、
「お嬢さんも、バアへいらッしゃるの、よくないわ。女のくるところじゃありませんわ。大庭先生に叱られますよ」
 記代子は別れた夫婦の再会を、好奇の眼差で凝視していた。グラスに手をふれることも忘れて。
 礼子の言葉に短い観劇をさえぎられて、いさゝか苦笑してグラスをとりあげたが、
「礼子さん。新しい恋人、みつかって?」
 礼子は興ざめた顔をそむけた。それを見ると、記代子の目は興にもえて、
「女がきちゃいけないって、なぜ? 礼子さんだけは、大人だから?」
「まア、そうよ」
「大人って、どういうこと?」
 礼子は顔をそむけて、答えなかった。
「たぶん、恋愛の冒険者だから? そうでしょう。旦那様をすてたから? 家庭の殻をとびでたから? そうでしょう」
「そうよ」
 礼子はうるさそうだった。すると記代子の目に生き生きと微笑がこもった。
「子供だわ。礼子さんは。十いくつのお姉さんと思われない。女学生のよう」
「あら、そう」
「長平叔父さんのどこがお好きなの? 有名だから? 才能があるから? 芸術家だから? お金持ちだから? 威張ってるから? そのほかに、何か、あって? 平凡。少女趣味ね」
 礼子の目は怒りに燃えたが、記代子は冷静に見返して、目にこもる微笑は微動もしなかった。
「英雄気どりの偉い人、偉い人を崇拝する人、どっちも、きらい。子供たちと同じように、お人よしで、ウヌボレが強いのよ。欠点を見せたがったり、欠点を美点のように見せたがったり、みんな、きらい。偉くない人はウヌボレ屋じゃないから、欠点は隠さなければいけないと思うのよ。それで、いつもお化粧しなければいけないと思うのよ」
 記代子はいくらか亢奮して口をつぐんだ。それは言葉の表現が思うようにできないためのようにも見えた。グラスをほして、
「でましょう」
 青木をさそって、立ち上った。
「いかほどですの」
「ここは、いいの」
 記代子は笑って、
「そんなこと、なんにもならないことよ」
「まア、いいさ。ぼくの昔の奥さんの思うようにさせてあげたまえ」
「そのワケがあるの?」
「物事の本当のワケは誰にも分りゃしないのさ」
 今度は青木が記代子を押して外へでた。

       五

「どうして、お金払わせなかったの? なぜよ」
 外へでても、記代子はきいた。ただごとならぬ面持に、青木は苦笑して、
「つまり、ぼくの昔の奥さん、ぼくをあわれんだのさ。たまに会ったんだ。あわれまれてやらなきゃ、昔の奥さんのお顔が立たんじゃないか。今晩だけのことだから、あなたも我慢して、つきあってくれたまえよ」
「あわれんでもらいたいの」
「彼女があわれみたいのさ。だから、あわれまれてあげなきゃいかんじゃないか」
「うそよ」
 記代子の否定は激しかった。
「うそだの本当だのと争うほどのことじゃアないやね。あなたのお気にさわったとすれば、ぼくがナイトの作法に未熟だったというだけのことさ」
「うそです。私が礼子さんをやりこめたから、あなたは礼子さんをかばってあげたのよ」
「こまったな。どうも、インネンをつけたがるお方だ。なア。記代子さんや。やりこめるッて、あなた、別にやりこめやしないじゃないか」
「いいえ、やりこめたわ」
「どんなふうに?」
「礼子さんは少女趣味よ」
「それは、たぶん、当っていますよ」
「だから、やりこめたじゃないの」
 この少女のチグハグな論理の底に、何物があるのだか、青木には見当がつかなかった。記代子はまだ幼くて平凡な娘だ。しかし彼女なりに礼子を一応観察してはいる。だが、観察の根底にどれだけの心棒があるのか。いったい、なんのために礼子の酒場へ自分をさそいこんだのか、それが青木にはわからなかった。
 青木は不キゲンな記代子の肩に手をあてて、慰め顔に、
「なア。記代子さんや。あなた、なぜ、昔の奥さんの店へぼくをつれこんだのさ。ぼくが、あなたをいじめたからかい。あなた、本当に、ぼくがいじめたと思っているの?」
 記代子は答えなかった。
 あまり沈黙が長いので、ふとその顔をみると、たしかに涙にぬれているのだ。夜の灯のせいではなかった。
 青木は放二を思い描いた。それがこの少女の胸をいかに惑乱せしめているであろうか、と。いたましい思いがした。しばらく言葉をかけるのも控えていたが、
「なア。お嬢さんや。ぼくが毎日きまったように放二さんを誘うのはだね。あなたと放二さんが昔のようにむつまじい一対であれかしと願っているからだよ。あなた方は銀座でも人目をひく一対だった。そのような美術品をまもるのは側近の年寄の義務というものさ。ぼくの善意を素直にうけてくれなくちゃアいけませんよ」
「ひどいわ」
「なぜだろうな。ぼくには、あなたの云うことが分らないよ」
「放二さんは知ってるわ。だから、あなたが誘っても、ついてこないわ」
「なぜ、ついてこないの?」
「私にきらわれてること、知ってるから」
 青木が言葉に窮していると、記代子は彼をさえぎるように立ち止って、
「私、子供は、きらいよ。子供なんか、つまんない。私、青木さん、好き。なぜ、察して下さらないの」
 記代子は青木を見つめていたが、にわかに振りむいて、駈け去った。

       六

 記代子の気まぐれな感傷だろうと青木は思った。放二によせる胸の思いが、迷路をさまよって出口をふさがれているせいだ。
 翌日、青木は深くこだわらず、出社した。記代子の様子にも、ふだんと変りは見えなかった。
 午後になると、どの部屋も暑くなる。青木はトイレットへ顔を洗いに行く。いつもの彼の習慣だ。ゆっくり顔を洗って、ふと隣りをみると、水を流して、手を洗うフリをしながら、こッちを見ているのは記代子であった。
「ヤ」
 顔をぬらしているから、物を云うことができない。タオルで顔をおさえる。ふき終ると、視線がかちあった。記代子の目は、食いこむようであった。
「今日、放二さんをさそったら、承知しない」
 言いすてると、すぐふりむいて、立ち去った。昨夜のように駈け去りはしない。もっと確信にみちて、落ちついた態度であった。
 偶然の出会ではない。青木がトイレットへ立つとき、記代子は部屋にいたのだから。記代子は追ってきたのだ。
 青木が部屋へもどると、記代子の姿は見えなかった。
 記代子が戻ってきた。
「ライターかして」
 笑いながら、青木に云った。ライターをかりて、自分のデスクへもどり、タバコに火をつけた。イスにもたれて、タバコをふかしている。まもなく、むせびはじめた。タバコをすったことがないのである。苦笑して、火をもみつぶした。
「ハイ。あげましょう」
 ピースの箱とライターを青木の方へ投げてよこした。
 青木はかなり窮屈な思いにさせられた。記代子の言葉にこだわったのだ。そして、放二によけいなことを話しかけた。
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