街はふるさと
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著者名:坂口安吾 

 しかし、この青年に敵意はもてなかった。
「君はやさしい心をもってるんだ。そして、ぼくをいたわってくれたんだ。な、そうだろう。ついでに、甘えさせてくれよ」
 青木は泣きたいような気持だった。
「長平さんはオレに百万かさないかな。君、たのんでくれよ。二百万でも、三百万でも、五百万でも、多いほど。なア、君。ぼくのノドからは手がでているんだよ」
 冗談めかしても、気持は必死になる。それが顔をゆがめた。
「君がもうけさせてくれゝば割り前をだす。もうけの半分君にやる。百万なら五十万。二百万なら百万。なア、君。半分だぜ。こんな割前をだしてもとは、金欲しやの一念きわまれり。鬼の心境さ」
 襖が静かに開いた。姿を現したのは礼子であった。
 顔の冷めたさは、すべてをきいたと語っていた。

       二

 青木は礼子のひややかな顔にもおじけなかった。
「ま、お坐りなさい。ぼくの昔の奥さん」
 彼はかえってふてぶてしく笑って、
「あんたも、ぼくも、見事にふられたよ。長平さんに。彼氏は来てくれないッてさ」
 悪党じみて見せるほかに手がなかった。
「ま、一献いきましょう。なに、お会計は心配しなさんな。北川さんが、ひきうけてくれるとさ。こちらの奥さん、ぼくのフトコロにコーヒーをのむ金もないの御存知なのさ。奥さんだって、帰りの電車賃しかないんだからね。ぼくの方じゃ、車代も長平さんからタカルつもりだったんだが、身代りだから、北川さん、覚悟してくれよ」
「大庭さんはお見えにならないんですか」
「あんたほどの麗人の口説も空しく終りけりというわけさ」
 青木の意志ではなかったのに、目に憎しみがこもる。心の窓はかくしきれない。それをまぎらして笑ってみても、悲しさがしみのこるばかりである。
「なア、北川さん。人間は一手狂うと妙なことをやるものさ。この奥さんが大庭君を思いつめて離婚すると云いだす。折しもぼくは八方金づまりで大庭君に救援をもとめようという時さ。二つは別個の行きがかりだが、これが重なると変な話さ。ぼくも考えて、変だと思いましたよ。まるで女房売るから金よこせみたいじゃないか。けれども、そう思いつくと、妙なものさ。変なグアイだから、やりぬけ、やりぬけ、とね。なんとなく悪党らしい血もたかぶるし、負けじ魂もたかぶるしね。いつのまにやら、女房の代金をとる計算にきめているのだ。今だって、そうだぜ。女房はごらんの通りふられてくるし、大庭君は買わないつもりらしいが、ぼくは今でも売りつけるハラさ。是が非でも取引しようというわけさ」
「悪党ぶるのは、よして。私まで気が変になりそうよ。お金の必要なのは分っていますが、誤解をうけるような言い方は慎しむ方がよろしいのです」
「誰が誤解するだろう? どう誤解したって、ぼくの本心より汚く考えようはないじゃないか。ぼくは金の餓鬼なんだ。これが人間のギリ/\の最低線さ。借りられるものは、みんな借りまくッてやる。なに、ひッたくるんだ。かたるんだよ。かたるだけ、かたりつくして、残ったのが、大庭君だけさ」
「私も大庭さんにあなたの窮状を訴えてさしあげたいと思っております」
「奥さんや。ぼくたちの心の持ち方は、どうも、変だ。不自然ですよ。本心にピッタリしないところがあると思うな。ぼくたちは味方ぶりすぎやしないか。不当に憐れみたがってるよ。ねえ、奥さんや。ぼくは君を売る。君もぼくを売りたまえ。めいめいが自分だけの血路をひらいて逃げ落ちようや」
 しかし青木は目に憐れみをこめて、
「なア、奥さんや。あんたは大庭君にふられちゃこまるじゃないか。しッかりやッとくれよ。君自身の血路のためにさ」
 すると礼子に生き生きと色気がこもった。
「大庭さんは私を愛しています。盲目的に。あの方は私のトリコなのよ」
 あんまり自信に溢れているので、放二は目を疑ったが、青木は多くの物思いに混乱した。礼子はさらに生き生きと断言した。
「大庭さんは、もう、私から逃げることはできないのよ。クモの巣にかかったのです」

       三

「あなたの梶せつ子さんは、どう? うまく、いってますか」
 礼子が、かわって、青木を見下していた。青木が威勢を見せたときは、ありあり虚勢が見えすいていたが、礼子には、それがなかった。心底から落ちつきはらっているようである。
「そう。実は、そのことでね」
 青木は素直にうけて、
「長平さんから百万ふんだくってやろうというのも、そのことなんだ。築港の金もいる。選挙費もいる。鉱山の経費もいる。これは開店休業中だがね。金のいることばッかりさ。とても一とまとめには出来ッこないから、まず金のなる木を植えようというわけさ。梶せつ子と共同事業をやる手筈なのだ。銀座裏にかりる店の交渉もついてる。階下が小さなバアで、二階が事務室さ。事務室では、出版とアチラ製品のヤミ売買などやる予定でね。実は、長平さんには、本の出版もさせてもらいたいと思ってるのさ。夜はバーテンもやりますよ。そのために、是が非でも金がいる」
 礼子は放二に向って、
「梶さんから、それらしい話おききですか」
「ぼく三週間ほどお目にかかっていませんので、何もおききしておりません」
 放二は青木の存在すら初耳だから、まったく知らなかった。
「ですが、あすお会いする約束ですので、そのお話をうけたまわるかも知れません」
「え? 君が、あす、梶さんに会うって?」
 青木はおどろいて、顔色を改めて、
「君は、どうして、あの人と……」
「北川さんと梶さんは、親同志親戚以上に親しくしていらした方」
 礼子の言葉は信じられないという青木の顔色であった。
「君、いつ、その約束したの」
 詰問はするどい。放二の静かな態度はいさゝかも乱れなかった。
「速達をいただいたのです」
「いつ?」
「昨日の午前中でした」
「発信は、どこ?」
「そこまで調べませんでした」
「その速達、見せてくれない?」
「いま持っておりません」
 放二は静かに答えたが、実は胸のポケットに在るのである。
 青木は解せないらしく、思い沈んでいたが、
「社用で大阪へ行ってるはずだ。五日前にたったんだが、まだ二三日は戻らぬ予定ときいていたが」
「たぶん旅先からだろうと思います」
「あす、どこで会うの」
「ぼくの社へ来て下さるのです。いつとは云えないが、夕方までに必ず行くから、外出中は行先を書残して出るように、と。そんな文面からも、旅先からの便りのような気がします」
 みんな放二のデマカセであったが、誰がこの高潔な、気品あふるる青年が嘘をつくと信じられよう。
 ところが、青木は疑った。
「君はぼくを警戒してるね」
「なぜでしょうか」
「君はぼくの信じていたことを信じさせるように努力してるじゃないか。余はナレをスパイと見たり」
 こう叫んで、カラカラ笑った。冷めたい汗がしたたるような蒼ざめた顔で。
「君は梶さんのチゴサンかい」
 青木のカンは鋭い。

       四

「じゃア、明日一日中、ぼくを君の社へ詰めさせてくれよ。梶さんの訪れを待つために」
「ええ。どうぞ」
 梶せつ子は放二の社へは訪ねて来ない。別の所で会う約束だから、放二はこだわらなかった。
「それから、大庭君にも会わせてもらいたいのだ。是が非でも、たのむよ。拝みます。この通り」
「お気持はおつたえしますが、先生の御返事はぼくには分りかねます」
「大庭君はいつまで東京にいるの」
「あと三四日で、お帰りです」
「なア、北川さん。ぼくは、もう、今夜は君のソバから離れないぜ。君のうちへ泊めてくれたまえ。それがいけなかったら、ぼくの宿へ泊ってくれたまえ。もう、こうなったら、はなすものか。君こそは、わがイノチの綱ですよ。君またワレに憐れみを寄せたまえ」
 青木は必死であった。
 放二はうなずいて、
「ぼくのアパートでよろしかったら。おかまいはできませんが」
「ありがたい。実に、君は心のやさしい人ですよ。君の善良な魂すらも疑るような、ぼくの泥まみれの根性をあわれんでくれたまえ。ぼくは容赦なく君にあまえるよ。君あるによって今夕の勘定を救われ、君あるによって明日に希望を託し得。いつもギリギリの戦場、最後の線に立てられてさ。敗残兵の自覚がもてないところが哀れでもあり、ミソでもあるというわけらしいな」
 青木は安心したらしく、酒をたてつづけに呷りだした。
「北川さん。ちょッと」
 礼子は放二を廊下へよびだして、
「大庭さんのお宿は、どこ」
 きびしくせまる態度である。
「定宿はありますけれど、そこへお泊りとは限りません」
「定宿はどこですか」
「ぼくの一存で申上げるわけにいかないのです。先生のお仕事をまもるのが、ぼくの任務ですから」
 礼子の全身に媚があふれたち、そして、礼子はとりすまして笑った。
「私は、何者? あなたは、ご存じ? あまりに激しすぎる愛は否定的に現れます。なぜなら、罪の意識をともなうから。大庭さんは十年間、私を思いつづけていらしたのです。そして、あまりにも激しすぎた愛でした」
 勝利に酔った人のようだ。同じ人が、同じ日のうちに、うちひしがれた姿で長平に向い、生死をきめる返答を与えよと叫んでいたとは、あまり距りすぎた現実である。
 この女は、何者? 言われなくとも、この場の当然な疑問であった。狂人? 色情狂かな、と思わざるを得なかったほどである。
「私は十年間、大庭さんにとっては、心の太陽でした。しかし、罪の意識は太陽に叛かせもするのです。その歪みをただすためには、私が身を落してさしあげなければなりません。使徒は受難しなければならないのです。福音と真理のために」
 大袈裟すぎるので、放二はふきだすところであった。
「大庭さんのお宿おッしゃい!」
「それも受難の宿命かと思いますが」
 と、放二は思わずクスリと笑って答えると、礼子は澄んだ静かな声で、
「私というものを失っては、大庭さんがお気の毒とは思いませんか」
 その自信は、使徒の安定を示しているようにも思われた。

       五

 放二は廊下で礼子に別れて部屋へ戻った。青木はそれと察したらしく、
「あの奥さんは?」
「いまお帰りになりました」
「君をよびだしたのは、お金を貸してくれというのだろう」
「いゝえ、そんな話はありませんでした」
「え? ほんとかい?」
 青木は慌てて立ち上って、
「君、すまないが、千円かしてくれ。あの奥さんはお金を持っちゃいないんだ。鎌倉へ帰るぐらいの電車賃はあるらしいが、明日のお小遣いも、生活費だって、持っちゃいないんだから。君、助けてやってくれよ。たのむ」
 青木は放二から千円札をうけとると、酔顔をいかめしくこわばらして、足もとをふみしめながら、急ぎ去った。
 異様な関係にある夫婦らしいが、前後を通算して、放二は悪い感情をうけなかった。
 青木の別れた妻によせるいたわりは、目を覆いたいほど、いたましい。金の泥沼に落ちこめば、誰しも餓鬼であり、憑かれた妄者になるものだ。そのような妄者にとっては、夫婦関係も、愛情も、支離メツレツになるだろう。泥沼のフチに立ちかけて踏みとどまっている放二には、その切なさが他人のものではなかった。
 それにしても、得体の知れないのは、大庭に対する礼子の感情であった。どこまでが本当だか見当のつけようがなかった。
 虚栄、又は、うぬぼれというのだろうか。それとも本心からの信念だろうか。
「私というものを失って、大庭さんがお気の毒とは思いませんか」
 と、心安らかに言い放った礼子は、天使のように邪念ないものに見えたのである。
 しかし放二の責任感はそれ以上に安定しており、礼子の数々の執拗な努力も、長平の宿をききだすことは不可能であった。
 礼子はついにあきらめると、
「いまにお分りになってよ」
 ニッコリ笑って言いすて、いとアッサリと立ち去ってしまった。去るにのぞんで、にわかに風に舞い去る花びらのように軽かったので、放二はわが目をいぶかる思いにうたれもしたが、そこから解答をひき出すことは不可能であった。
 青木は二十分ちかい時間をかけて戻ってきて、
「駅の近くまで追っかけて、それでも姿をつかまえることができたよ。今夜はしみるように酒が恋しい。もう三十分ほど、つきあってくれたまえ」
 と、残った酒を独酌で呷った。やがてポケットから包みをとりだして、
「奥さん、お金をうけとらないんだ。無理にすすめたら、君に差上げてくれといって、これを買ってしまったんだよ。ネクタイと靴下だがね。奥さん、一文の収入もないくせに。お金に詰っていることでは、ぼくと変りがないはずなんだ。それでも虚勢をはるという根拠が分らないな。金銭は恋の比にあらず」
 青木は考えこんだが、
「君をよびだして何をたのんだの? 長平さんに会わせてくれろッて?」
「宿をおききでした。お教えできませんでしたけど」
 青木は思いあまった様子で、呟いた。
「女は現実派でありすぎるから、きわどい時ほど夢を弄ぶことができるのさ。オレだったら、恋人に云うよ。金をくれッて。金で買ってくれッて。ぼくは決意をかため、覚悟して、そう切りだすんだ。女ときたら、決意しなくともそれが本心だから、ギリギリのとき、夢みたいなこと、やらかすんだよ。女は全然嘘つきなのさ」

       六

 放二のアパートでは、ヤエ子が熱をだして寝こんでいた。
 ゆうべの酒の残りをとりだして青木にのませていると、昨夜のカズ子に代って、フジ子という娘が顔をだして、
「こんばんは。兄さん、泊めてね。私だけ、アブレちゃッたのよ」
「私もさ」
 そう云って、その後から姿を現したのは、ルミ子であった。
「嘘つきね。いま、お客を送りだしたとこなのよ。ほら、なアさんという人」
「アッ。あの人、まだきてるの?」
 それまで無言で寝たままのヤエ子がモックリ首をもたげて、
「すごいわねえ。ルミちゃん。あんた、また、殺しちゃうのね。ああ、四人目だ」
「人ぎきの悪いこと言うわね。熱病やみの幻覚だ」
 ルミ子は面白くもなさそうに薄笑いした。
「だって、あの人、死んだ人の片割れじゃないの。あんなことのあとで、また来るなんて、死神がついてるわよ。ヤミ屋も食えなくなったし、強盗でもやってんだろ」
「幻想がよくつづくわねえ」
「ピストルぶッ放すんなら、私の居ない日にしておくれ」
 ヤエ子は叫んで、にわかにフトンをひッかぶったが、ルミ子は薄笑いをうかべながらフトンをまくってのぞきこみ、
「アドルム、おのみ」
「うるさいッ」
 フトンをひッたくって、もぐりこんでしまった。
 青木はここへくる道々、放二から彼のアパートのあらましのことをきいてきたので、彼女らの素姓については察しがついたが、放二とのツナガリについては、雲をつかむようである。したたか酔ってもいた。
「君の奥さんは、どの人なんだい」
 青木の声が高かったので、ヤエ子が再びモックリとフトンから首を起して、
「あの人よ」
 ルミ子を指して、イライラと叫んだ。
「怒るわよ」
 ルミ子はちょッと鋭い目でにらんだ。
 放二は頃合と察して、
「ルミちゃん。今夜、この方を泊めてあげられる?」
「ええ。どうぞ」
 ルミ子は苦笑して、
「昨日も、今日も、か。なんだか、変ね。フジちゃんに悪くないの」
「アタイは浮浪者だもん」
 フジ子はアッサリ辞退した。
 放二が二千円さしだすと、ルミ子はためらって、
「あら。兄さんからなの」
「この方のお金、お預りしてるんです」
「そう」
「君の奥さんじゃないんだね」
 と、青木は念を押して、
「不倫も怖るるところにあらずだがね。ルミちゃんか。よろしく、たのむ。可愛がっておくれ。オレにも死神がついてるのかも知れねえや。しかし、君は美人だなア、ほんとに、奥さんじゃないんだね」
「アイ・アム・パンパン」
「メルベエイヤン!」
 青木はフラフラ立上って、オイデ、オイデをしているルミ子を追いながら、
「北川さんや。梶せつ子女史にナイショ、ナイショだよ。そうでもないか。地獄の門は、とッくに通りこしていたんだっけな。こんどくぐる門、どこの門」
 ルミ子の目が光った。

       七

「あんた、梶せつ子さんの旦那さんなの」
 まずルミ子は問いただした。
 男を送りだしたままのフトンが敷きっ放してある。青木は服のままその上へひッくりかえって、頭をかかえて、
「え? なに? 君、異様な質問を発したようだね。なんだって?」
「アンタノオクサン、カジ・セツコ!」
 ルミ子は節をつけた。
「君よ知るや梶せつ子」
 青木も唄の文句で起き上って、
「え? なぜ知ってるの。梶せつ子を」
「あんたの方が変だわね。梶せつ子にナイショ、ナイショって、なんのことなの。それがハッキリしなければ、この門は通行止め」
「ハッハ。はからざりけり。とんだシャレだったね。しかし、ぼくはシャレたわけじゃなかったのさ。ぼくのくぐったのは、地獄の門。こんどくぐる門、どこの門。地獄の次の門てのがあるのだろうかと悲しくって呟いたんだが、地獄の次の門てのは、ここのうちに在ったのかね」
「ここすぎて悲しみの門か」
「え? 君はダンテを読んだの」
「喫茶店の広告文さ。門という店のね」
「なるほど。君には人のイノチをとるものが、そなわっているのかも知れないな」
 青木はしみじみ呟いた。
「仲よくしようよ。オレもイノチをすてる時は、ここへくるかも知れないぜ。そのときは、どこの門もふさがってるんだ。ここの門だけ開いてるような気がするな」
 礼子の門も、梶せつ子の門も、みんな閉じているだろう。地獄の門も、悲しみの門も、とじている。ここは何で門だろう?
 死の門? イノチの門? イヤ、もっと茫漠としたものだ。雑沓の跫音(あしおと)だけのような、いつもザワザワと跫音だけがくぐる門。無関心、無の門。
 せつない思いがこみあげた。
「オレが何者かッてことを、君がきくことはないだろうがね。君だけが、誰より知ってるはずじゃないか、オレが誰かということをさ。跫音にすぎないですよ。ザワザワと群れて通りすぎて行くその一つの跫音にすぎんじゃないですか」
 ルミ子は青木のニヒリズムの相手にはならず、ネマキに着代えながら、詩集を朗読するように、
「跫音に戸籍を問えば、跫音の答えて曰く……それから?」
「ここだけは戸籍のいらないところだろう」
「ここで死んでごらん。警察が私にきくのは、跫音の戸籍だけ。ほかのことは何もきかない」
「なるほどね。わかった。君こそは、全世界の、全人類の、検視人かね。戸籍の総元締めというわけかい」
「エンマ様の出店らしいわね」
「跫音の答えて曰く、か」
 青木は、また、ねころんで頭をかかえた。
「梶せつ子女史は、ぼくと共同事業の相棒さ。ぼくと共に出資者の一人でもあり、事業経営の最高首脳者でもあるわけさ。ところがね。ぼくの集金がうまくいかないのでね、ぼくはクビになりそうなんだ。すッぽかして行方をくらまし、ぼくに会ってくれなかったり」
 青木は切なくなって言葉をきったが、気持をとりなおして、
「さ。跫音の戸籍はすんだよ。なぜ君が梶せつ子を知ってるのか、それを答えてくれる番だぜ」

       八

「あんた、兄さんのお友だち? でも、なさそうね。会社の人? 社長さん? 文士? 画家? お医者さん? 悲劇俳優?」
 矢つぎばやに列挙して、ルミ子は苦笑をもらした。
「みんな当らなかったようだわね。あんた、なんなのよ」
「さッき申上げた通りの者さ」
「兄さんの、なんなのよ」
「今日はじめて会った親友さ。梶せつ子に会えるように手引きをたのんだ次第でね」
「どこで会ったの? 飲み屋?」
「街頭でタバコの火をかりて、モシモシあなた梶せつ子さん知ってますか、なんてことはないでしょう」
「じゃア、飲み屋で、酔っ払って、泣いてたのね。あんたぐらいの年配の人、酔っ払うと、ムヤミに大きなことを言ってバカ笑いするもんね。あんたみたいに、メソメソするのは例外よ」
「葬式の跫音なんだな」
 ルミ子はタバコを一本ぬいて火をつけた。
「なんだい。煙を吹いてるんじゃないか。すうもんだぜ、タバコは」
「すうのはキライ。むせるから。ぼんやり考えごとをするとき、タバコふかすのよ」
「一本おくれ」
「あんた、立派なミナリしてるけど、お金ないのね。さっきの二千円も、あんたのお金じゃないでしょう」
「御説の通りさ。礼装乞食というんだな。電車賃まで北川君にオンブしているのさ」
「酔ッ払い!」
 ルミ子は小さく吐きすてるように叫んだが、顔にはなんの表情もなく、悠々とタバコをふかしていたが、
「梶せつ子って、兄さんの世界中でたッた一人の女なのよ。十年昔から、思いつめて成人したのよ。凄腕の大姐御らしいけどね。兄さんには、小鳩か天使のようにしか見えないらしいわね」
 しばらく無心に煙の行方を見つめてから、
「毛皮やウールの最高級の流行服を身につけてね。首輪、耳輪、腕輪もつけてるのよ。四、五十万のものを身につけてるらしいわね。それでいて兄さんの乏しいサラリーからお小遣いたかるのよ。兄さんのドタ靴とボロボロの靴下見たでしょう。姐御にたかられてしまうから、靴下一足買うことができないのよ。あんたも、似てるわよ。どうも、ミナリのパリッとしたのは、変な世渡りしてるらしいわね」
 こう言ったが、咎める表情が浮かんだ様子も見えない。のんびり、チビチビとタバコをふかしている。
「君たちにとって、兄さんはなんに当る人なんだい」
「私たちは人間の屑というのかも知れないな。でも、あんたたちほど変な世渡りしていないよ。兄さんにタカルような根性だけはないわね。すがっているのよ。屑だもの。すがらずに生きられないわ。兄さんは私たちの大きな大きなママ。心のふるさとよ」
 なんの変った様子もなく、静かに立ち上って、二千円をぶら下げて、
「ひとりで、おやすみ。泊めてあげるから。兄さんのお金じゃ、私たちのからだは買えなくッてよ」
 立ち去ろうとするのを、青木はよびかけて、
「許してくれ。兄さんにも、あやまってくれよ。一晩ほッといてもらうと、ぼくも助かるよ。泣いて、泣きあかしたいのだ」
「例外中の例外」
 ルミ子は軽くギョという顔をして、扉の外へ消えた。


     記念日


       一

 午後二時半。小田原から、東京行急行にのりこむ。
 熱海、湯河原、小田原のあたりは、温泉へ執筆旅行の文士と、それを追っかける編集者がきりもなく往復しているところで、危険地帯であった。
 文士も編集者もたいがい秘密のアイビキぐらいやってる人種であるから、平気のようなものであるが、見られた者だけが噂にのぼるから、見られるとバカをみる。だからアベックで出かけるようなことはなく、別の汽車で出て、別々に帰るというやり方である。
 せつ子もその手を用いて大過なくやってきたが、今度だけは勝手がちがう。
 宇賀神(うがじん)芳則は右翼団体の顧問格の策士で、陰謀にかけては天才的な男であるが、一面、大変な露出狂で、どんな秘密も洗いざらいペラペラ喋りまくっているように見える。
 実際は、喋りまくっているのは、どうでもいいようなことで、大事の陰謀は決して喋っていないのである。小事について露出狂的であるところが、大事な秘密をさとられない秘訣であるのかも知れない。
 宇賀神のところへは各党の政治家が出入りしてゴキゲンをとりむすび、金をもらっている。彼の手からバラまかれる金は、門外漢には想像もつかないほどの巨額であるが、どんな方法で、どれくらいの収入があるのだか、誰も見当がつかないのである。いろんな臆測はとんでいるが、正体をつかんだものはいない。
 せつ子は宇賀神の寵を得て、これが二度目のアイビキだから、時日も浅いが、その収入の内幕については、てんで見当がつかなかった。しかし変に気を回すと、彼の鋭い直感にふれて、せっかくの寵を失うから、その方面には風馬牛にもしているのである。
 ところが、情事のこととなると、全然露出狂である。人前でも戯れかねない有様であるから、別々にアイビキの地へ赴くような配慮などは念頭においたこともない。
 せつ子もこれには困ったが、この金の蔓は放せない。是が非でもと今生の決意をかためて乗りだした仕事だから、今までの名が醜聞によって汚されるのを怖れてはいられなかった。
 それでも一応の配慮はこらして、長崎始発の東京行急行を選んだ。
 湘南電車というのができて、新装置の二等車がつき、同時に二等運賃も安くなったから、文士はみんなこれにのる。編集者も過労を怖れてこの二等を利用するものが少くないから、二等車も安心はできない。
 しかし長崎始発の急行といえば、東海道の急行の中ではローカルに属するもので、温泉帰りの利用すべき性質のものではなかろう。こう考えて選んだのである。
 せっかくの胸算用は大当外れ、大失敗に終ってしまった。
 小田原で二等車にのりこむ。ヨウ、と立ち上った男が酔顔を真ッ赤にそめて近づいて、
「おせッちゃん。箱根に雲隠れの巻か。ヤ、これは失礼」
 ペコンと宇賀神に挨拶して、ひッこんだ。せつ子の雑誌の編集次長の河内であった。宇賀神のもとへ一しょに訪問記事をとりにでかけた男で、ソモソモのナレソメを一挙に見ぬく唯一の人物だから始末がわるい。悪い車に乗りあわしたと後姿を目で追うと、ヤ、居る、居る。
 女流作家の呉竹しのぶ。このお喋りにかかっては、一夜のうちにジャーナリズムへ筒抜けとなろう。も一人は放二の雑誌の編集長の穂積であった。悪いのばかりが乗り合わせていた。

       二

「え? そうか。あんときの、あんたの同僚かア。覚えてる」
 宇賀神は河内を思い出して、膝をうって、
「退屈しのぎに、いいなあ。よんでこいよ」
「ダメ。ジャーナリストはうるさいから。すぐ評判がたってしまうわ」
「オ。やってる。オバアチャンも飲んでるわ。オ。キュッと一息にやりおったなア。ワア、酔っ払ってる。面白れえな。あのオバアチャンは、どなたかいな」
「呉竹しのぶ」
「ワア、面白れえ。よんでこいよ。あッちへ行こうか」
「いけません。私は面白くないんです。文士だのジャーナリストって、酔っ払うとダラシがなくッて、礼義知らずなのよ」
「オレとおんなじだなア」
「ダメですよ。こちら側へお座んなさいね。ききわけがなくッちゃ、いけないのよ。私のお酌で、お酒めしあがれ」
 箱根まで迎えにきたカバン持ちが気をきかせて、ウイスキーをとりだす。
 宇賀神は素直に座席をかえて、キゲンよくウイスキーをなめている。気まぐれな思いつきを言いたてるが、実際は言いたてるのが面白いだけで、やる気はない。神経は鋭利で、見かけと反対に、こまかく気のまわる男だから、無意味なツキアイは神経が疲れるばかりで、退屈しのぎにはならないのである。
 宇賀神はウイスキーはちょッとでやめて、すぐ居眠りをはじめた。
 午後四時に東京駅へつく。宇賀神は迎えの車でいずれへか立ち去り、せつ子も車をひろって、銀座の社へ六日ぶりに戻った。
 せつ子が箱根へ行ったのと前後して、大庭長平が上京している。長平の出版は某社に独占されているが、せつ子は新しく自分がやるはずの出版社で、この出版権をそッくり握ってしまいたいのである。
 速達で云ってあるから、せつ子の社で放二が待っているはずだ。先に河内が帰っているから、社内にはすでに噂がとんでるだろうが、せつ子はハラをきめたから、平静を失わなかった。
 何も怖れることはない。むしろ晴れがましいガイセンだった。銀座がせつ子を迎えている。
 せつ子のカバンの中には、現金と小切手とで五百万円はいっているのだ。数日中に、もう五百万円もらえることになっていた。思いがけない大成功であった。にわかに全てがトントン拍子に、思いのまま自由自在に延びて行くような気持がする。
 せつ子が編集室へ戻ると、もう、室内には殆ど居残った人影がない。酔っ払って寄り道してるのか、河内の姿も見えなかった。
 見廻したが、放二の姿が見当らない。フシギだ。彼女の命令を忘れることはないはずなのだ。
 自分のデスクの前へくると、ゴチャ/\つみあげた本の陰から、明るい笑顔の娘がスッと立って、
「梶さんでいらッしゃいますか」
「ええ。そう。あなたは?」
「私、北川放二さんの代りに、お待ちしていました。大庭記代子でございます」
「ア。あなたなの。大庭先生の姪御さんは」
「ええ。この御手紙に用件が書いてあるそうです。御返事をいたゞいてくるように仰有ってましたの」
 と、手紙を渡した。

       三

 放二からの手紙は、青木のことであった。せつ子が来るものと思って、朝からズッと放二の社に詰めきっていることが書かれていた。
 せつ子は忘れていた男のことを思いだして、ちょッと不快を覚えたが、気にかけるほどのことではない。
 せつ子はこれまでに青木から八十万円ほど出させている。自分で二百万都合するから、青木には三百万都合して、と頼んだ。五百万耳がそろわなくとも仕事に着手できるが、八十万じゃ、着手どころか、事務室もかりられない。
 宇賀神の方がトントン拍子にいってるから、青木はもう用のない存在であった。ただ苛立たしいのは、忘れた男、用のない男が、なんの因果か、放二と仲よくしていることだ。
 せつ子は手紙をよみおえて、
「青木さんには私が帰京したことナイショにしてほしいわ。二三日帰京がおくれるッて電話があったことにして」
「小ッちゃな雑誌社でしょう。応接室も社長室もないんですの。編集も業務も小ッちゃな一室にゴチャまぜ。青木さんの目の前に電話があるんですから、こんな電話がありましたッて、ちょッと云いかねると思います」
 なかなか、こまかく気がつくな、と、記代子を見るせつ子の目に微笑がこもった。
 いかにも当りまえなお嬢さんタイプの娘である。難もないが、目を惹く特長もない。社会見学に働いてみるのも悪くはないが、当りまえの奥さんに落ちつく以外に手のなさそうな娘である。
 さッきから、せつ子の頭にひらめいているのは、記代子を放二のお嫁さんに、ということだった。悪くない方法だ。
 出版事業をやることになれば、放二にはイの一番に手伝ってもらう必要があるが、すると、宇賀神のことも当然放二に知れてしまう。知られて困ることもないのだが、放二に家庭のある方が無難には相違ない。
「じゃア、あなたが社へ戻って十分ぐらいすぎたころ、誰かに電話かけさせましょうね。旅先から知らせがきて、放二さんに伝言があったから、と、そう云ってもらったら、よろしいでしょう」
「ええ。じゃア、五時か、五時ちょッとすぎたころ」
「ええ。それでね、青木さんをまいちゃッて、あなたと放二さんとお二人で、マルセイユへきてちょうだい。スペシャルのフランス料理ごちそうするわ」
 せつ子は一目で、記代子が自分に好感をいだいたことを見ぬいていた。万事都合よくいっているのだ。
「今日は私の記念日なのよ。とても嬉しいことがあったのよ。たぶん、私の生涯の記念日になると思うわ。第一回の記念日に、あなた方と祝杯をあげるのは、因縁ね。きっと、重大な意味があるのよ。お食事のとき、記念日のわけ、話しましょうね。飛びきりのフランス料理たべながら」
「まあ、素敵ね」
「青木さんは、うまくまいてちょうだいね。そんなこと、できそう?」
「ええ、カンタンよ。私たちアベックで散歩したいんですからと云ったら、その場で退散しちゃうでしょう」
 記代子はクスクス笑って、あからんだ。
 せつ子は記代子を送りだして、あれでも女は女なんだと、バカバカしい気持になるのであった。

       四

 記代子はかなり巧みに芝居を演じた。小娘としては出来すぎたほど過不足なくやったつもりであったが、青木の鋭いカンをごまかすことは不可能であった。
 青木は記代子の想定どおり、アベック戦法に撃退されて二人に別れを告げたが、ただちに尾行をはじめた。
 青木のカンは鋭かったが、しかしカン違いもやっていた。せつ子の帰京がおくれたことは真にうけたのである。
「この娘は長平さんの姪だというからな」
 と、彼は内心せせら笑った。
「オレをまいて、長平さんと会いに行こうという寸法か。笑わせちゃアいけないよ。オレの目の黒いうちは、どんなに落ちぶれても、お前さん方若い者に」
 二人がマルセイユへはいったのを見とどけると、青木は三十分、店の傍に見張っていた。大庭長平が先にきているはずはない。おくれて来ると見てとって、待ちかまえていたのである。これが失敗のもと。二人のあとからすぐはいれば、せつ子の姿を認めることができたかも知れなかった。
 三十分待ってもこないので、扉を排して、はいる。敬々(うやうや)しく近づくボーイに目もくれず、まずサロンをゆっくり見廻したが、二人の姿も、長平の姿も見えない。スペシャル・ルームにひッこんでいるのだ。
「小説家の大庭長平さんのお部屋へ案内していただきたい」
「大庭さんとおッしゃる方ですか」
「そう。五十がらみのデップリした西郷さんのような大男だよ」
「ちょッと分りかねますが」
「三人づれだよ。はじめ西郷さんが待ってるところへ、美青年と美少女がアベックで訪ねてきたはずさ。しらべてみたまえ」
 ボーイは他の数人の同僚たちに訊いてまわったのち、
「大庭さんとおッしゃるお客様は本日はお見えになっておりません」
 インギン丁重である。さてはボーイにいたるまで堅く口どめに及んでいるのかと、青木は察しがよすぎて、
「ヤ。失敬。デップリした洋服の西郷さんに、よろしく」
 と、ひきさがった。こう警戒厳重では、単身では手が廻らない。明日はカバン持ちの戸田を助手に使って、放二の社に張りこませてやろう。放二のアパートも分っているのだし、今、あせることはない。
 青木は自分の宿屋へ戻ってきた。戸田は彼の指令をうけて別方面の金策にとび廻ったはずだが、その戦果はどうだろうかと、部屋へはいると、待っていたのは、戸田ではなくて、礼子であった。
「やア。あなたか。戸田君は?」
 礼子は答えずに、チラと目を部屋の隅の机の方へやった。青木がそこを目で追うと、彼のカバンにいれておく書類が、机の上につみあげてある。戸田がそれを掻きまわす必要はなかったはずだが、と、近よって見ると、鉛筆で走り書の紙片がのっかっていた。
 青木はそれを執りあげた。
「しばらく月給もいただきませんので、代りにいただいて行きます」
 しらべて見ると、カバンと、身の廻りのものがなくなっていた。いまや、着のみ着のままだ。急場をしのぐものと云えば、腕にまいたロンジンぐらいのものであった。

       五

 青木は泣き顔をかみほぐすのに長い手間はかからなかった。貧乏もここまでくると、気も強くなる。不意打ちの意外さをのぞけば、さしたる被害でもなかった。
「刀おれ矢つきたり、かね。しかしゲンコと竹槍はあるらしいや。今や追いつめられたる日本軍ですよ。しかし、原子バクダンにしては、小さすぎたな」
 と、せせら笑った。
「でも、こまるでしょう」
「こまっているのは、いつもの話さ。今さら、こまることはないやね」
「いいえ。こまる、とおッしゃい」
「ハッハ。あなたも貧乏人だから、この心境はわかるはずだがなア。焼石に水ッて云うでしょうがね。アレですよ。今のぼくには、十円から百万円までは同じゼロですよ。貧乏人にとっては、必要とする金額まではゼロなんだね。お金持みたいに、借金を貯金するわけにはいかないらしいよ」
「でも、あるものが、なくなれば、こまるでしょう」
「焼石に水はマイナスの場合にも当てはまるらしいね」
「こまるとおッしゃい。おッしゃらなければダメなんです」
 礼子の顔は怒りにひきしまった。
「あなたは虚勢のために自滅しているのよ。虚勢のために、真実を見ることができないのです」
「ハッハ。それは、あなたも同じことでしょう」
 青木はくすぐったそうに笑って、
「あなたは貧乏すらも自覚しようとしないようだね。それは、そもそも虚勢以外の何ものですか」
 礼子はあきらめた。そして、涙がにじんだ。憎しみがあふれて、たえがたくなった涙であった。
 礼子のハンドバッグには九万五千円ほどの金があった。持ち物の殆ど全部を売り払って得た金である。どう使うという目的は定まっていないが、最後の軍資金である。戦うための金だ。そして、これを使い果しても戦果がなければ、最後の覚悟を定める時であった。
 礼子は青木の不在の部屋を訪れて、戸田の置き残した手紙をよみ、青木のあまりの窮状に、自分の窮状を忘れた。彼を窮地から救うために、最後の軍資金の半分をさいてやろうと考えていたのである。
 その思いが切なすぎて、礼子の怒りがかりたてられた。
「北川さんから千円おかりしなかったのが虚勢だとおッしゃるのですか。虚勢ではありません。覚悟です。覚悟があるからです。でも、どんな覚悟だか、私も知らないのですけど、ね。誰だって、本当に覚悟をきめたときは、どんな覚悟だか知らないものなのよ。あなたには覚悟の切なさもお分りでないのよ」
 礼子はハンドバッグをかかえて立ちあがった。
 青木はその激しさに見とれていたが、
「それはいけないよ。覚悟ほど人生をあやまらしめるものはないからな」
「あやまるのが人生なのです」
 礼子は言いすてて、立ち去った。
 しばらくして、青木は後を追うために、フッと立ちかけたが、ためらって、坐りこんだ。しばしボンヤリしていたが、
「その覚悟なら、オレの無二の友だちなのさ。お前さんも、とうとう、そうなのかな」
 彼は顔をおうて、泣いていた。

       六

 せつ子は放二と記代子に新しくおこすはずの出版事業の抱負をきかせた。
 宇賀神の噂は明日にも二人の耳にとどくだろうが、わざとそれを隠して、
「金主のことではいろいろのデマがとぶでしょうけど、デマを利用する方が賢明なのよ。あなた方も、当分はデマを信用してちょうだい。ただね、私には数千万円うごかす力があるのよ。これだけは、真実。ひょッとすると、一億ぐらいまで、ジャン/\資金がおろせるのよ。すばらしい記念日でしょう」
 これだけはカケネなしの本音であった。全身から歓喜があふれでるほど、快感がたかまっているのだ。
「さア、のんで。放二さん。記代子さんもよ。なんとか祝辞おッしゃいよ。あなた方」
 せつ子の浮きたつ様を放二はまぶしそうにうけとめて笑った。
「あんまり幸福そうですから、不安になるんです」
「幸福すぎちゃアいけないの?」
「それに越したことはないのですけど、マサカの時を考えて、程々にしておくことが大切だろうと思うのです」
「ずいぶんジミだわね。あなた、いくつになったの」
「ぼくは無邪気になれないのです」
「からかわれてるみたいね。坊やにませたことを云われるのは、変なものだわよ」
 目で同意をもとめると、記代子も笑って、こたえた。そのキッカケを捉えて、せつ子は話題を変えて、
「わが社の出版計画の一つに大庭先生の全集を考えてるのですけど、どうかしら。放二さんが引きうけて下さるなら、出版部長におむかえしたいのよ。記代子さんにもよ。お力添え、おたのみするわ。お二人をわが社の幹部社員におむかえするつもりよ」
 放二はしばらく返事につまっていたが、
「先生と出版書肆とのツナガリには古い来歴があるらしくて、ぼくなどにはその片鱗も分っておりません。ぼくの力では、先生に原稿をお依頼するのも容易ではないのですから、全集出版のことなどは、とても力が及びかねると思います」
 すると記代子がさえぎって、
「でも私たちから、お願いしてみることはできてよ。お願いもしないうちから、そうときめてしまうのは、弱気すぎやしないこと。私、断然、お願いしてあげるわ」
「素敵だこと。放二さんには、あなたのような明朗なリーダアが必要なのね。さもないとハムレットになりかねないわ。記代子さんが現れて下さったから、大安心よ」
 放二は深く澄んだ目で、せつ子を見つめていたが、
「ぼくたちには本当のことを教えて下さい。青木さんも金主の一人ではないのでしょうか。共同経営のようにうかがってましたが」
「ちがいます」
 せつ子はきびしく否定して、
「あの方の話は止しましょう。私がまちがっていたのです。あの方の境遇に同情したことが。事業に同情は禁物なの。心を鬼にしなければいけないのね。忘れたいことを思いださせてはいけませんよ」
「そのために青木さんは自殺なさるかも知れません」
「事業に同情は禁物なのです」
 せつ子の目に断乎たる命令の火焔がもえ狂った。放二はそれを正視して、素直にうなずいた。

       七

 せつ子はただちに反省した。放二に威圧を加える様を記代子に見せるのは得策ではない。心のひろいオ姉サンぶりを見せて、小娘の信頼をかちうることが大切である。
 せつ子はニッコリ笑って、
「私はね。この事業にイノチをうちこむのよ。私はそんなふうに生れついた女ですから。記代子さんは良妻賢母に生れついた方。結婚までの社会見学に働いてみる程度の軽い気持でなければいけないのよ。人はそれぞれの持ち前によって生き方を変えなければならないのね。私のように、世間並の奥さんにおさまるには、鼻ッ柱が強すぎるし、芸術家の素質はなし、中途半端なのよ。女としては、中途半端はこまるものだわね。女らしさを殺さなければ、生きぬけないらしいからよ」
 実際はその反対だ。男に伍して生きぬくためには、最大限に女の素質を生かすことが必要なものだ。
 男というものは、自分の生活の足場のために必要なものであるから、己れは常に男たちには魅惑的な存在でなければならず、秘密のヴェールにつつまれていなければならぬ。
 己れに近づく男は、己れの主人の如くであるか、己れが主人の如くであるか、そのいずれかで、対等のものは近づくことを許されない。
 それがせつ子の生き方であった。恋愛というムダで病的な感傷を自分の人生から切りすてていた。女の魅力というものは、恋愛のような初歩的なものではないし、女の生きがいも、そのように初歩的なものではない。
 せつ子は二人の小鹿に、慈母のようなやさしい眼差しをおくって、
「私はね。たとえば、大庭長平全集を計画するでしょう。こうときめたら、コンリンザイ、しりぞかないわ。賭というものはね、たいがい損するときまったものですよ。でも、誰かしら、賭に勝ってる人がいるのよ。きわめて限られた少数の人だけがね。算数的には、やらない方が無難なものよ。無難といえば、サラリーマンの生活にかぎるわね。事業というものは、賭なんです。こうときめたら、おりてはダメよ。算数的には不可能きわまるものなんです。それを承知でやりぬくのが、賭というものです。一か八かじゃないのね。いつも、一。最後の時まで、一にはったら、一だけ」
 大庭長平全集ぐらい、あなた方がダメだと思っても、私はやってみせる。恋愛はふられた以上ひきさがらなくてはならないが、事業にふられることはない。こっちが、おりさえしなければ。土足にかけられ、ふみにじられても、最後にモノにすれば勝つのである。
 せつ子の慈母の眼差しには、そんな決意は毛筋ほどもうかがえなかった。
「大庭長平全集にはった以上は、おりませんからね」
 と、せつ子はニッコリして、
「私、出版社長の肩書で、あなた方の次には大庭先生を御招待したいと思うのよ。その機会をつくってちょうだいね。功を急いでるわけではないのです。私は何年間でもおりないから。ただ記念日の第二日目の宴会までにね」
 せつ子の慈母の眼差しに変化はなかったが、二人に拒絶を許さなかった。
「ねえ。大庭先生の滞在日程をのばしても、私の宴会に出席して下さるようにお願いして下さいね」
 二人は、あかるく、うなずいた。


     第二の宴


       一

 翌朝、放二と記代子は新宿駅で待ち合せて、社へでる前に、長平の宿を訪ねた。せつ子の依頼を果すためであった。
「梶女史、数千万円を握るに至ったかね」
 長平は自分でも意外なほどの好奇心を起した。
 昨夜、長平のもとへ、呉竹しのぶと穂積らが遊びにきたのである。彼らは東海道の汽事の中から、ひきつゞいて酔っ払っていた。そして、車中で見かけた宇賀神とせつ子の話をきかせた。
 それをきいた時には、なんだ、そんな女なのか、と、長平は梶せつ子を軽く見くびっただけであった。まだしも、宇賀神という人物の方に興をかられたほどである。戦争という御時世中にも金に縁のなかった右翼策師が、敗戦後に至って巨億の富をにぎり、民主政府の裏側に君臨しているというのが皮肉である。
 しかし、放二の話から、思い合してみると、宇賀神のフトコロからなら数千万円はでるかも知れぬ。まんざら架空の駄ボラではないようだから、長平は数千万円という金額の大きさに驚いて、せつ子を見直した。
 むらむらと好奇心が頭をもたげたが、
「青木がにわかに数千万もうけたわけじゃアなかろうね」
 わざと、こう、きいてみる。
「ええ。青木さんではないそうです」
「すると、青木の立場はどうなるのだろう」
「たぶんクビだろうと、御自身が仰有ってました」
「御自身て、青木がかい」
「そうです」
「クビになる金主もあるのかね」
 金主の男は電車賃にも事欠いてドタ靴の若者にたかっているというのに、被護者の女は他の男からやすやすと数千万せしめるに至ったという。是非善悪はとにかくとして、ちょッと痛快なエネルギーを感じさせられる。
 長平はせつ子に会ってみたいと思った。そこで、
「よろしい。梶さんの招待にはよろこんで応じましょう。しかし、ひとつ注文があるのだが、君たちは遠慮してくれないかな。ぼく一人だけの招待にしてもらいたいのさ。人前ではきけないような質問もするだろうから」
 放二はうなずいて、
「梶さんも先生だけの招待をむしろ喜ばれるだろうと思います。ですが」
 放二は長平を正視して、
「先生。先入主をおもちになっては、いけないと思います」
「先入主って? どんな?」
「たとえば、梶さんが、俗で、世間師で、性格の強い人だというような」
「むろん、会ってみなければ、わからないさ。正体が知りたいから、会ってみたいのさ」
 放二は目に肯定をあらわしたが、まだそれだけでは充分でないというように、
「青木さんは梶さんに見すてられると自殺なさるかと思われます。そんな予感がするのです。それを梶さんに伝えましたら、事業に同情は禁物だと仰有ったのです」
 澄みきった少年の目が冷たく生死を語っているので妙だった。
「青木さんは、まだ、なにか、甘えてるんじゃないでしょうか。梶さんは、甘えることも、甘やかすことも、できない人です。最も弱い動物は他の動物を信じることができません。自分を信じることもできませんが、しかし、自殺もできません。ただ、生きるだけで必死だろうと思います」
 長平は、もう分ったと手をふる代りに、鉛色の目玉をむいて、ソッポをむいた。

       二

 長平がせつ子の招待を承諾したので、二人は安心して辞去した。記代子はそこから出勤し、放二は報告のために、せつ子の社へ立ちよった。
 もしや青木が待ち伏せていてはと、放二はビルの裏口からはいった。そんな配慮を忘れなかったが、放二は裏をかかれたことを知らなかった。
 青木は戦後の出版景気に当てこんで、最近まで雑誌社もやってきたので、編集者の生態については知るところがあった。彼らは社へでる前に作家を廻って用をたし午すぎるころ顔をだす。一二時間ブラブラして、又、原稿の依頼や催促にでかけてしもう。それは朝寝と早びけの言訳にも便利である。
 放二は要心しているし、口が堅いから、彼をつかまえて、たのんでみても、長平の宿を教えてくれる見込みはない。
 そこで早朝から放二のアパートの陰に身を隠して待ちぶせた。出勤前に長平を訪ねて用をたす公算大なりと見たからである。
 果して放二は新宿で記代子と待ち合して、社へは行かずに、とある屋敷の門をくぐった。旅館ではない。ちょッとした閑静な小庭があって、妾宅か、隠居家のような構えだ。
 これを長平の住居と見てとったから、しばらくたって放二と記代子が立ち帰るのには目もくれず、やりすごして、門をくぐった。
「大庭長平先生にお目にかかりたいのですが」
 と当てずッぽうに言ってみると、
「大庭さんは茶室におすまいですよ。庭から廻って下さい」
 やっぱり、そうだ。青木はホッと、目がくらんだが、こうまでして、なんのための努力だか、わけが分らない。長平が金を貸してくれるとは思っていないのだ。ただ、意地だ。なんの意地だか、それも分らない。長平は自分にからかわれていると思うかも知れないが、オレがオレをからかっているだけなのさ。待望の隠れ家をつきとめて、こみあげてくるのは絶望だけである。
 しかし、青木は威勢よく庭をまわって、わざと窓から首を突ッこんで、
「ヤ。いる、いる。こんちは。長平さん」
「ヤ。君か」
「不意打ち、御容赦。天をかけ、地をくぐり、習い覚えた忍術が種切れになるところで、ようやく、つきとめました、ハイ」
「ま、あがりたまえ」
「なんでもないような顔をして、こまった人だね。歓迎はしていないかも知れないが、イマイマしいというお顔には見えないのだからな。意地のわるい人さ」
 青木は部屋へあがって、しきりに汗をふきながら、
「初夏の汗だか、冷汗だか、分らないやね。ときに、ここが、東京の別荘ですか」
「なんでも、いいや」
「妾宅かな」
「君にききたいと思っていたが」と、長平は好奇心にはずんだ顔で青木を見つめた。
「君と梶せつ子との関係は、金銭上のものだけかい。それとも、男女の関係もあるのかい?」
 青木はせせら笑って、
「曰くあるらしき質問だね。聞き捨てならぬ語気ありと見ましたが、いかが?」
 言葉はふざけているが、青木の目に真剣なものがこもった。

       三

「君の神経は何製てんだろう。鉄筋コンクリート製かも知れないな。ねえ、長平さん。そうだろう。それで小説も書くんだからな。まんざらコンクリート出来でもないらしき、センサイなる悲劇をね」
 青木は苦笑して、喋りづづけた。
「梶せつ子とオレの関係がどうだって? あんた、他の中へ石を投げて遊んでいるんじゃあるまいね。オレの身にもなってくれよ。石が当りゃ他の蛙は気絶ぐらいしまさあね。イヤ、そうでもないらしいぞ。あんた、薪割りで蛙をザックと斬ろうッてのか。ザックと」
 青木の目が光った。しかし、やがて悲しげに目をふせて、苦笑をうかべて、
「イヤ、よそう。コンクリートを押してみたって、はじまらねえや。ときに、長平さん。池の蛙に二百万両かさねえかな」
 青木はヤケ気味に、相手を小馬鹿にした風であった。長平は返事をしなかった。
「そうだろうな。蛙の顔には小便ときまってらア。小判を投げちゃアくれねえな」
 青木は茶室の隅に水道の蛇口のあるのを認めて、ウガイをして顔を洗った。
「失恋? ふざけちゃ、いけませんや。女房に逃げられたって? チェッ。埒もない。お金か! 笑わせるよ。まったく。梶せつ子がオレの何者だって? 知ったことか! ねえ。そうだろう。お金も、女も、つまらないね。ツラツラ観ずれば、そうなんだ。わきまえてるんだよ。わたしは」
 しかし顔色をひきしめて、
「だが、長平さんや。さッきのセリフにはたしかに、曰くがあるね。そうだろう。それを聞かせてもらいましょう。蛙の横ッ面に石が当ったんだとさ。白いアゴをつきだして、ひっくりかえるだけが能じゃないんだってさ。池の蛙でもさ。さ、おききしましょう」
 ひらき直った凄味はなかった。言葉のとぎれ目から、身のこなしの節々から、内心の苦悩が、傷口からの血のように、ふきでている。
 長平は無関心に、
「ぼくはね。今夜、梶せつ子に会うよ。まったく、池の中へ石を投げているのだろうよ」
「フン。どこの池にでも石を投げてくる人だよ。ルミ子さんの池にも石を投げてきたんだってね」
「君は素人の山登りなんだな。天候を見て、下山することを忘れているんだ。アッサリ遭難しちゃア、つまらない話だな」
「往生際はわるいらしいがね」
 青木は帽子をつかんで立ち上った。
「可愛い、虫も殺さぬ面相をしてさ。食えないねえ、ちかごろの子供は。あの北川少年のことさ。梶せつ子が帰京してるなんて、鵜(う)の毛ほども覗かせやしねえや。お仕込みがよろしいからな」
 苦笑して、ふりむいて、
「じゃア、失敬。今日は退散するが、又、会うぜ。往生際がわるいんだから。京都で、門前払いは罪でしょう。ねえ、長平さん」
 長平は答えなかった。青木が靴をはき終るころ、
「梶せつ子に会っても、ムダだな」
「え? なぜ?」
「ふ。そうかい。是が非でもかい」
 長平はにわかに肚をきめたらしく、
「よろしい。梶せつ子に会えるようにしてあげよう」
「え? なんだって?」
 長平は委細かまわず居室へもどって、名刺に書いた。
 ――名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。梶せつ子様。
「利くか、どうか。関所のニセ手形だよ」
 と、青木に渡した。

       四

 せつ子は応接室へ現れて、青木を認めると目を光らしたが、すぐふりむいて、受付の小女をよんで、
「この名刺の人は、どの方?」
 応接室には幾組もの人々が立錐の余地もないほどつめこんで、モウモウたる紫煙をふいている。受付の少女が指したのは、意外にも、青木その人であった。
 せつ子はすぐさま肚をきめて、驚いた風もなかった。
「出ましょう」
 青木を外へ連れだした。
「大阪旅行が、とても、うまくいったのよ。後援して下さる方が現れてね。独立できることになったの。その代り、大阪へ移住することになるらしいのよ。関西の実業家は太ッ腹で、話がわかって、たのもしいわ。でもね。個人的な後援者がハッキリしてるんじゃなくって、ある事業団体が後楯というわけなのよ。青木さんにはお気の毒ですけど、相手が事業団体でしょう。行きがかりがどうあろうとも、他人の共同出資を認めてはくれないのね」
 せつ子はデタラメをまくしたてた。無感情に。そして青木を刺し殺すように言葉をきった。
 青木などは頭になかった。この名刺持参の者、と、わざと無記名の紹介状を青木に持たしてよこした大庭長平が憎いのである。御引見の栄をたまわりたし、と皮肉な敬語の裏に、おごりたかぶったキザなウヌボレが見えすいている。長平への戦闘意識で、頭の中はモウモウといっぱいだった。
「成功すれば後援者から独立できるのよ。きっと、成功するわ。なぜって、莫大な援助なのよ。事業の成功率なんて、出だしの資金次第だと思うの。事業の実質的な主権を私が握れたらね。それは夢じゃないでしょう。いいえ、必ず実現してみせる。それも、遠くないうちに。そしたら、あなたにも、どんな約束だって、果してあげられるわ。あなたが私のためにして下さった何十倍の物もね」
 思いやりを含めたような言い方をしながら、侮蔑、嘲笑が露骨であった。
 青木の癇は鋭どすぎて、弱すぎる。関所のニセ手形がゲキリンにふれるのも仕方がないな、と、あきらめて、
「大阪の事業団体て、だれ?」
「極秘よ。まだ、いえない。御想像にまかせるわ。銀行屋さんでも、紙屋さんでも、印刷屋さんでも、高利貸でも」
「すると、その中のどれでもないわけだ」
 青木のそんな利いた風な言い方ぐらい、厭気ざしたら、我慢のならぬものはない。
「どこかで、休もうよ」
 と、青木が云うのに耳もかさず、颯々(さっさっ)と歩きつづけて、
「大阪と東京を股にかけて、女手ひとつでしょう。身体をもたせるのが、たいへん。でも、死ぬまで、やるの。ほら、ごらんなさい。毎日、ブドウ糖を」
 腕の静脈をだして見せた。青木は物欲しさをそそられる代りに、苦笑を返して、
「今からそれじゃア、大成おぼつかないぜ」
「私の雑誌はね。創刊号に七十万刷ります。三号には、百万にして見せるわ。私の欲しいのは、時間だけ。ただ、忙しいの。十分間が一日の休養の全部だわ。これじゃア、大成おぼつかないわね。じやア、失礼させていただくわ。いずれ、又、ゆっくりね」
 せつ子は自動車をとめた。そして、悠々とのりこんだ。他の誰とも人種の違う人のように。

       五

「ちょっとドライヴしてちょうだい。そう。海の香のするあたり。聖路加病院の河岸がいいわ」
 そう運転手に命じて、せつ子はクッションにもたれた。長平の名刺をとりだして見た。名刺持参の者に御引見の栄をたまわりたし。見れば見るほど、底意地のわるさが伝わってくる。破り捨てようとしかけたが、大切に、ハンドバッグへしまいこんだ。名刺を破りすてるぐらい、いつでも、誰でもできることだ。小さな腹いせは、その小さな満足によって、敗北のシルシにすぎない。そして名刺をしまいこむと、いつからか、あるいは、たぶん昨日からかも知れないが、雄大な新たな自己が生れつゝあることを知って、満足した。

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