安吾巷談
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著者名:坂口安吾 

 私は以前、取手(とりで)という利根川べりの小さな町に住んだことがあった。ここは阪東三十三ヵ所だか八十八ヵ所だかの札所で、お大師参りの講中というものがくるのである。先達に引率された婆さん連などであるが、宿屋でドンチャン騒ぎの狂態といったらない。しかし、そういうものを見て感じるのは、日本の家庭の暗さということで、婆さん連が浩然の気を養うのを咎めたいような気持は起らなかった。もっとも、ちょッと目をそむけずにはいられない、因果物的ではあった。
 もう一つ、巷談に扱いたいと思っていて、できなかったのは、いわゆるアプレゲールなるものの生態である。果してアプレゲールという特殊な新人が誕生しているかどうか、小学、中学、高校、大学、山際的アンチャン連に至るまで、生態をしらべて御披露したいという大志をもっていた。これには先ず学校生活をつぶさに見て廻る必要がある。生徒たちの多くについて個々に知る必要もある。家庭の生活も知る必要がある。大志はいだいていたけれども、調査の面倒は大変だ。
 第一、私には子供がない。全然手がかりがないわけであるから、その方が観察に新鮮味をそえる一利はあっても、調査の労力、時間というものが何倍となく要する。学校の教科書だって見る必要があるが、それについてもなんの知識もない。
 これを巷談にあつかいたい気持は、今でも多分にあるけれども、課題が大きすぎて、一朝一夕で、まとめる見込みがないのである。簡単にやってやれないことはないが、手をぬきたくない課題である。そのうちポツポツ見聞をひろめ、一通り見聞して後に筆を執るべき性質のものだろう。
 私は然し目下のところ、アプレゲールという言葉を好まないのである。そういう新人が現れているとは思っていないからである。山際青年や左文の事件について考えても、むしろ私には、山際にナイフを突きつけられて金を強奪された三人の旦那の方が、戦後派的ではないかと思うのである。
 大の男が三人もいる自動車の中へ、ナイフを持って乗りこんで二百万円奪うつもりの山際はトンマな犯人で、どう考えても、未遂に終るのが当然だ。東京のマンナカで二人降し、一人降しして、降された旦那方に捕える処置ができないのもフシギ。まるで捕えて下さいと頼んでいるようなトンマな犯人をまんまと逃しているのである。
 すくなくとも、戦争に負けるまでは、こういうノンキな旦那の存在は珍しかったろうと思う。職務に対する責任というものを持っていた筈だからである。
 しかし、自分の金ならとにかく、人の金をまもって負傷するのはバカバカしいという考えは、新しいものではない。バカなケガをしたくないのはお互様で、人間の本音は昔からそういうものだ。
 けれども、敗戦前までは、責任というような気分があって、本音を押えつけるような働きをしたものだ。あの三人の旦那方から聯想されることは、日本人が精神的にも完璧に武装解除したらしいナということで、志願兵はとにかくとして、徴兵でもして戦争をやろうたってムリな話、降参ぶりがずいぶん見事だろうと思う。日本と戦う国は日本の兵隊の数だけの捕虜を養う覚悟がいる。戦争しないという憲法を定めたのは、洞察力の明、神の如しというべしである。
 もっとも、私も、戦争には降参組の先鋒で戦争しないという憲法には何より賛成なのである。しかし、三人の旦那方の在り方は、平和主義とは又違って、なんとなく臓腑がぬかれてしまったような悲しさを感じるが、どうだろうか。戦争ばかりじゃなしに、正義も人道も思慮も機転もみんなホーキしてしまったように思われる。昔ながらの人間ではあるが、戦争に負けるまでは、かなり日本に珍しい存在でもあったと思う。山際君よりもこッちの旦那方がアプレゲール的に見えるのである。
 アプレゲール的なものは、子供に多く見るよりも、相当の旦那方に多いのではないですか。なんとなくウロウロしているように見えるのは大人の方で、子供はむしろシッカリと、自分というものを持ちはじめているのではないかな。これは私の空想だが、小学校へ参観に行ってみると、精神的にテンヤワンヤなのは先生方で、子供の方が大地をシッカとふみしめてガサツではあるが老成しているような珍事を見るのではないかと、ひそかに心細い思いをしているのである。
 しかし、空想や、結論を急いだりは、つつしまなければいけない。いずれ閑々にゆっくりと子供の世界を見物して、御披露したいと思っているが、調査に大足労を要するから、いつのことだか分らない。そのうちにアプレゲールなどという言葉も忘れ去られて、巷談にとりあげる意味も失せてしまうかも知れぬが、それはそれで結構、特に間に合わせようというコンタンはない。
 私の巷談なるものは、世間にはこんなこともある、こんな見方もあるということを、お慰みまでに申上げているにすぎないのだが、時に読者から、おほめの書信などいただいて身にあまることでした。一々御返事も差上げませんでしたが、巷談師は一そう責任を感じております。巷談は私のオモチャですから、折にふれ機にのぞんで一生やめないつもりですが、まず連載はこれをもって終ることと致します。長々御退屈さま。




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