安吾巷談
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著者名:坂口安吾 

あるいは、芸者をよんで、泊める。ちょッと散歩してくると、芸者を部屋にのこして、ドテラのままフラリとでる。そして、たてこんでいる一級旅館へお客のフリをしてあがりこんで、仕事をするのである。自分の泊っている旅館では決してやらない。ここが、この男の頭のよいところだ。
 旅客のフリをして廊下かなんか歩いていて、浴客の留守の部屋へあがりこんで、金品を盗みとって、素知らぬフリをして戻ってくるのである。
 自分の部屋には芸者が待たしてあるから、いわばアリバイがあるようなもので、さすがの探偵たちも、この男が犯人だということは、他のキッカケがなければ、なお相当期間発見されなかったろう。
 伊東の暖香園へ泊った浜本浩氏もカバンをやられた。その同じとき、伊東在住の文士のところへ税額を報らせに来た文芸家協会の計理士某氏が伊東市中を自動車でグルグル乗りまわしていて、第一級の容疑者として睨まれたそうだ。してみると、私も陰ながらツナガリがあったのである。私はそのとき、前回の巷談のために、小田原競輪へ泊りがけで調査にでむいていて、留守であった。
 この男がつかまったのは、いつもの奥の手をちょッと出し惜んだせいだったそうだ。ドテラの温泉客のフリを忘れて、洋服のまま、伊東温泉の地下鉄寮というところへ忍びこんだ。見破られて逃走したが、襟クビをつかまれ、上衣を脱ぎすててのがれたが、洋服のポケットに自分の写真を入れていたのが運の尽き、指名手配となったのである。
 伊東暑の刑事は情報を追うて長岡、修善寺と飛んだが、逃げるとき連れて行った伊東の芸者のことから、湯河原の天野屋旅館にいることが分った。時に三月三日、桃の節句の真夜中で、五名の刑事は一夜腕を撫し、四日の一番列車で伊東を出発して、湯河原の目ざす旅館へついたのが六時半、寝こみを襲って、つかまえたという。
 そのとき、この男は革のカバンに、十一万三千円の現金と、外国製時計七個(うち四個金側)、ダイヤ指輪二ツ、写真機、万年筆四本、等をもっていた。私の全財産よりも、だいぶ多い。万年筆まで、文筆業の私よりもタクサン持っていたのである。ほかに雨戸や錠前をこじあけるためのペンチその他七ツ道具一式持っていたが、七ツ道具を使って夜陰に忍びこむのは女をつれていない時で、機にのぞみ、変に応じて、手口を使い分けていたが、結局七ツ道具の有りふれた方法などを弄んだために失敗するに至ったのである。
 思うに、この先生は、ほかの泥棒のように、セッパつまった稼ぎ方はしていなかったのである。主として芸者をつれて豪遊し、そうすることによって容疑をまぬがれ、当分の遊興費には事欠かないが、ちょッとまア、食後の運動に、趣味を行う、という程度の余裕綽々たるものであった。天職を行うには、常にこれぐらいの余裕が必要なものである。セッパつまって徹夜の原稿を書いている私などとは雲泥の差があるようだ。
 説教強盗などのように、強盗強姦などゝ刃物三昧や猫ナデ声のミミッチイ悪どさもないし、世帯やつれしたところもない。芸者をつれて豪遊し、それがアリバイを構成し、食後の運動、又、時にはコソ泥式の忍び込みもするところなども通算して一つの風流をなしている。惚れ惚れする武者ぶりだ。どこかバルザックの武者ぶりに似ている。大芸術というものは、これぐらいの武者ブリと綽々たる余裕がないと完成できない性質のものだ。
 しかし、ここまでは序の段で、話の本筋はこの後にあるのである。
 彼が捕えられて伊東署へ留置されると、芸者、料理屋、置屋などからゴッソリ差入れがあった。ところがこの先生、山とつまれた凄い御馳走には目もくれず、ハンストをやりだしたのである。警察も仕方なく栄養剤の注射をうって、持久戦に入った。
 私はわが身の拙さを考えたのである。まず第一に、私が警察につかまっても、芸者や、料理屋や、待合や、置屋などからゴッソリ差入れがあるという見込みがない。第二に、ゴッソリ差入れがあったとしても、それには目もくれずハンストをやるなどというフルマイができるとは信ぜられないからであった。
 ハンストなどというものは、甚しく毅然たる精神を必要とするものに相違ない。集団ハンストとか、銀座街頭のハンストなどは、下の下である。
 孤独なるハンストに至っては、奥深くして光芒を放ち、神秘にして毅然、とうてい凡夫の手のとどく境地ではない。一つの高く孤独なる魂の運動を直線とする。俗物どもの低俗な社会契約が、この直線を切るのである。その切点は一瞬に火をふく。高い孤独な魂の苦悶が一瞬に鋭い慟哭と化したからである。それは流星が空気にふれて火をふきその形を失うのに似ている。――こう考えて、私はことごとく敬服した。
 折から文藝春秋新社の鈴木貢が遊びにきたので、私は温泉荒しの敬服すべき武者ブリについて、説明した。
「バルザックの武者ブリは、当代の文士の生活にはその片鱗も見られないね。たまたま温泉荒しの先生の余裕綽々たる仕事ぶりに、豪華な制作意欲がうかがわれるだけだ。芸道地に墜ちたり矣」
 鈴木貢は社へ戻って、温泉荒しの武者ブリを一同に吹聴した。
 膝をたたいたのが、池島信平である。
「巷談の五は、それでいこうよ。グッと趣きを変えてね」
 ただちに私のところへ使者がきた。池島信平という居士の房々と漆黒な頭髪の奥には、ここにも閃光を放つ切点があるらしいので、私はニヤニヤせざるを得ない。
「なるほどね。温泉風俗を通して世相の縮図をさぐり、湯泉荒しの武者ブリを通して戦後風俗の一断面をあばく、とね。これも閃光を放つ切点か」
 私は使者に言った。
「どうも、巷談の原料になるかどうか、新聞だけじゃ分らないよ。いったい、なんのためにハンストやってるのだろう? いろいろ、きいてみないとね」
「それは、もう、手筈がととのっています」
 伊東に住んでいる車谷弘が総指揮に当って、カナリヤ書店と「新丁」という鰻屋の主人を参謀に、警察や芸者や料理屋の主人や旅館の番頭女中などにワタリをつけて、一席でも二席でも設けて話をききだす手筈がととのっているというのだ。
 私は、たしかに、興味があった。なぜ、ハンストをやっているのだろう? どうして、そんなに差入れがあるのだろう? と。

          ★

 最も卑俗なところを忘れてはいけないな、と私は自戒した。とかくそれを忘れがちだからである。窓の土台を押してみるのを忘れて推理しているたぐいだ。
 そこで私は考えた。ハンストというのはマユツバモノだ。先生、豪遊がすぎて、腹をこわしているのじゃないか、と。
 警察の人にきいてみると、私の考えた通りで、
「あれには騙されましたよ。ナニ、連日の飲みすぎで、下痢してたんですな。相当に胃がただれているようですよ」
 しかし、これも真相ではなかった。その数日後も、彼はまだハンストをやっていた。しかし、流動物はとる。そして、日に日に痩せている。すでに十七日目であった。
「ええ、まだハンストをやっていますよ」
 と、別の警察の人が言った。
「そして、犯行についても、全然喋りませんな。上衣の襟クビを捉えられた地下鉄寮と、もう一軒物的証拠を残してきた旅館の犯行のほかは否認して、口をつぐんでいます」
 なるほど、否認するためのハンストかと私は思ったが、これも真相ではなかった。真相というものは、まことに卑俗なものである。
「あれはですな。ハンストをやって流動物だけ摂っていると、衰弱して、保釈ということになります。前科何犯という連中、特に裕福な連中、二号三号をかこっているという連中がこれをやります。常習の手ですよ。あの先生も、二号というほどのものはないでしょうが、金は持っていますからな。保釈になって、それをモトデに、見残した夢を見ようというわけです」
 狸御殿の殿様などは、この手の名人だということである。保釈で出ては新しい仕事をしている。
 温泉荒しの泥棒といっても、たしかに、彼の場合は、完全な智能犯だ。狸御殿の殿様よりも、チミツなところがあるかも知れない。彼の編みだした温泉荒しの方法は、勝負が詐欺よりも手ッとり早いし、ある意味では、安全率が高い。なぜなら、誰にも姿を見られていないからである。見た人はあっても、疑われてはいない。
 かくの如くに頭脳優秀な彼が、もてる金を有効適切に活用するために、ハンスト、保釈を計画したのは当然で、保釈ということを知らなかった私がトンマということになる。
 ところが、智能犯は彼一人ではない。犯と云っては悪いけれども、まことに、どうも、生き馬の目をぬくこと、神速、頭脳優秀なのは彼一人ではなかったのである。
 芸者、料理屋、待合などから、なぜゴッソリ差入れがあるかというと、これが又、彼の持てる金故であるという。つまり、彼に貸金のある連中が、それを払って貰うために、せッせと差入れしているのである。
 私はこれをきいてアッと驚き、しばしは二の句のつげない状態であった。まことに、どうも、真相は卑俗なものだ。
 彼が湯河原で寝込みを襲われて捕えられたとき一しょにいた芸者は、弁当や菓子など差入れていたが、ハンストと知って、チリ紙などの日用品を差入れることにした。一念通じて、彼女が先ず一万五千円の玉代をもらいうけ、かくて、彼の所持金は九万八千円になったが、それ以下には減っていないということだから、ほかの差入れは未だにケンが見えないのである。
 泥棒とは云っても彼ぐらいの智能犯になると、兇器などというものは所持してもいないし、使ったこともない。温泉旅館というものの宴会、酔っ払い、混雑という性格を見ぬき、万人の盲点をついて、悠々風の如くに去来していたにすぎない。どの芸者とくらべても、彼の方が小さかったというほどの五尺に足らない小男で、女形のようなナデ肩の優男であるというから、兇器をふりまわしても威勢が見えないという宿命によるのかも知れないが、同じ泥棒をやるなら、彼ぐらい頭をはたらかして、一流を編みだしてもらいたいものだ。
 私は探偵小説を愛読することによって思い至ったのであるが、人間には、騙されたい、という本能があるようだ。騙される快感があるのである。我々が手品を愛すのもその本能であり、ヘタな手品に反撥するのもその本能だ。つまり、巧妙に、完璧に、だまされたいのである。
 この快感は、男女関係に於ても見られる。妖婦の魅力は、男に騙される快感があることによって、成立つ部分が多いのだろうと思う。嘘とは知っても、完璧に騙されることの快感だ。この快感はまったく個人的な秘密であり、万人に明々白々な嘘であっても、当人だけが騙される妙味、快感を知ることによって、益々孤絶して深間におちこむ性質のものだ。水戸の怪僧のインチキ性がいかに世人に一目瞭然であっても、騙される快感はむしろ個人の特権として、益々身にしみることになるのかも知れない。
 温泉荒しのハンスト先生の手口も、どうにも憎みきれないところがある。その独創的な工夫に対して若干の敬意を払わずにはいられないし、風の如くに去来する妙味に至ってはいさゝか爽快を覚えるのである。
 敗戦後はまことにどうも無意味な兇悪事件がむらがり起っている。意味もなく人を殺す。静岡県の小さな町では、十八の少年が麻雀の金が欲しさに、四人殺して、たった千円盗んだ。無芸無能で、こういう愚劣な例は全国にマンエンしている。戦国乱世の風潮である。
 同じ乱世の泥棒でも、石川五右衛門が愛されるのは、彼の大義名分によることではなくて、忍術のせいだ。猿飛佐助も霧隠才蔵も人を殺す必要がないのである。彼らは人をねむらせて頭の毛を剃るようなイタズラをやるが、いつでも睡らせることができるから、殺す必要はない。殺さなければならないのは、敵方の大将だけだが、因果なことに、殺すべき相手に限って身に威厳がそなわり、術が破れて、近づくことが出来ないのである。
 人間の空想にも限界があるから面白い。天を駈ける忍術も、万能ではあり得ないのである。自ら善なるもののみしか、万能ではあり得ない。サタンが万能では、悪きわまるところなく、物語に必要な救いというものがないからである。
 しかし、忍術物語というものが万人に愛されてきた理由の大いなるものは、人間の胸底にひそむ「無邪気なる悪」に対する憧憬だ。それは又、だまされる快感と一脈通じるものであり、あるいは表裏をなすものでもある。
 人間がみんな聖人になり、この世に悪というものがなくなったら幸福だろうと思うのは、茶飲み話しの空想としては結構であるが、大マジメな論議としては、正当なものではないだろう。人間のよろこびは俗なもので、苦楽相半ばするところに、あるものだ。悪というものがなくなれば、おのずから善もない。人生は水の如くに無色透明なものがあるだけで、まことにハリアイもなく、生きガイもない。眠るに如かずである。
 人間は本来善悪の混血児であり、悪に対するブレーキと同時に、憧憬をも持っているのだ。そして、憧憬のあらわれとして忍術を空想しても、おのずから限界を与えずにはいられないのである。これが人間の良識であり、這般(しゃはん)の限界に遊ぶことを風流と称するのである。
 忍術にも限界があるということ、この大きな風流を人々は忘れているようだ。
 大マジメな人々は、真理の追求に急であるが、真理にも限界があるということ、この大切な「風流」を忘れているから、殺気立ってしまう。すぐさまプラカードを立てて押し歩き、共産主義社会になると人間に絶対の幸福がくるようなことを口走る。
 人間社会というものは、一方的には片付かない仕組みのものだ。善悪は共存し、幸不幸は共存する。もっと悪いことには、生死が共存し、人は必ず死ぬのである。人が死ななくなった時、人生も地球も終りである。
 いくら大マジメでも、一方的な追求に急なことは賀すべきことではない。大マジメな社会改良家も、大マジメな殺人犯も、同じようなものだ。いずれも良識の敵であり、ひらたく云えば、風流に反しているのである。
 敗戦後の日本は、乱世の群盗時代でもあるが、反面大マジメな社会改良家の時代でもあり、ともに風流を失した時代でもあるのである。
 私がハンスト先生に一陣の涼風を覚えたのは、泰平の風流心をマザマザと味得させられたからで、私は大マジメな社会改良家には一向に親愛を覚えないが、この先生には親愛の念を禁じ得ないのである。
 泥棒をやるぐらいなら、これぐらい手際よくやってもらいたい。何事にも手際というものが大切だ。仕事には手際が身上だ。それが人間の値打でもある。
 手際の良さということには、救いがあるのである。騙される快感というものを、万人が持っているからだ。帝銀事件の犯人がほかに居ればよいという考えは、平沢氏に対する同情からのことではなくて、手際よき忍術使いへの憧憬だ。警察にはお気の毒だが、人間にはそういう感情があり、風流は、そういうところに根ざしているものなのである。
 私がハンスト先生に憎悪の念がもてない理由の一つには、温泉町の特性から来ているものがある。ドテラの着流しで夜の街をゾロゾロ歩いている温泉客というものは、銀座の酔ッ払いとは違っている。
 二人は同じ人かも知れないが、銀座で酔ッ払っている時と、ドテラの着流しで温泉街を歩いている時は、人種が違うのである。温泉客というものには個性がない。銀座の酔っ払いは女を見るに恋人という考えを忘れていないが、温泉客は十把一とからげにパンパンがあるばかりで、恋人を探すような誠意はない。完全に生活圏を出外れて、一種の痴呆状態であり、無誠意の状態でもある。生活圏内の人間から盗みをするのは気の毒であるが、生活圏外の人間から盗みをするのは気の毒ではないような感情が、温泉地に住んでいると、生れてくるようである。
 これは温泉客の性格であると同時に、日本人が団体的になった場合の悲しむべき性格でもあるようだ。どうにも、人間という感じがしない。生活圏にいる人の同族の哀れさというものが感じられないのだ。
 温泉地と温泉客との関係は、日本占領地と日本軍のような血のツナガリのない関係だ。温泉の団体客というものは、マニラ占領の日本兵隊を感じさせるのである。
 温泉街を土足で蹴っているのである。私が温泉商店街のオヤジだったら、ずいぶんボリたくなるような気持だが、オヤジ連はその割にボラないのである。ジッと我慢しているのかも知れない。
 だからハンストの先生は、温泉地の悪童からは、あんまり憎まれていないようである。




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