南風譜
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著者名:坂口安吾 

 しかし私は彼が幾分私の眼から隠すやうにしてゐたところに――木像の脾腹のあたりに、たしか刃物でゑぐつたやうなまだ生々しい傷あとを認めてゐました。傷口から脾腹のあたりに、まるく滲んだ血糊のあとを、たしかこの眼に認めたやうに思はれたのです。
「さあ出ようよ」と、そのとき友達が言つてゐました。
 翌日私はひとり海辺へ散歩にでました。浜で偶然言葉を交した漁師の小舟で、やがて私は海へ薄明(うすあかり)が落ちかけるまでぐぢを釣つてゐたのです。赤々と沈む夕陽を見ると、私は可愛い魔物の視線をよみがへらせてゐたのでした。
「君はあの家の仏像を知つてゐるのかね」私は漁師に訊ねました。
「仏像と――?」
 漁師はやがて笑ひだしてゐたのです。「なるほど、あれは仏像だ。あの混血(あいのこ)の父(てて)なし娘は白痴で唖でつんぼだよ」
 そして私は漁師から友達の妻が白痴で唖であることを知らされてゐました。混血児のみがもつやうな光沢の深い銅色をした美しい娘であつたさうです。友達は自ら激しく懇望して、やがて妻としたのださうです。
「おや/\、虎でもなくて白痴だつたか」けれども私は、ぼんやりと自然に海をながめてゐました。
 釣りあげたぐぢをさげて、私は家(うち)へ帰りました。一日の潮風を洗ひ流して浴室をでるとき、私は廊下の角(すみ)の方をみたのですが、もはや夜も落ちてゐたし、誰の視線もなかつたのです。
 ――あの傷口にあつた血は……私は眠りに落ちるとき、ひとりごとを言つてゐました。やつぱりほんとの血だつたな。気のまよひではなかつたのだ。
 あの仏像を書斎へ置いたら、白痴の妻ではないにしても恐らく嫉妬をいだかずにゐられないのが至当なのでした。白痴の妻がつひに刃物を揮つたのでせう。自らの手が傷ついて血潮が仏像の傷口をそめたのでせう。
 けれども白痴の嫉妬よりも――私はふと重い思ひに沈んでゐました。あの男のあこがれが、現実の美女達よりも白痴の女をもとめさせてしまつたやうに、結局白痴の女よりも、あやしい快楽の数々に富んだあの木像が、いつそう彼の心をみだしてゐたかも知れない。……
 私は苦しくなるのでした。白痴の女の憎しみが、あまり生々しく私の胸すら刺したからにほかなりません。そして私はなほいつそうの生々しさで、仏像の秘密の深い肉体を思ひ、うねうねと絡みついてくるやうな鞭に似たその弾力の苦しさに驚かずにはゐられぬのでした。
 木像のみづみづしい脾腹のふくらみにまるく滲んだ血糊は、ほかでもない、やつぱりあの快楽の深い肉の中からどく/\と流れでてきた血潮なのでした。
「とにかく――」私はすでに眠りのなかで決意をかためてゐたのです。「あの人々の静かな生活をみださぬために、私はあした出発しよう」
 そして翌日友達が孤独に疲れた人のみのもつ静かさで頻りにとめる言葉もきかず、私は出発してゐたのです。そして私は浜木綿のさわぐ海辺の径(みち)を、できるだけ太陽をふり仰ぎながら、歩いてゐました。




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