女占師の前にて
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著者名:坂口安吾 

これは素朴な童話のつもりで読んでいただいても乃至は趣向
の足りない落語のつもりで読んでいただいてもかまひません


 私はあるとき牧野信一の家で長谷川といふ指紋の占を業とする人に私の指紋を見せたことがありました。私は彼のもとめに応じて私の左右の掌を交互に彼の面前に差出したまででありますが、君のもともとめられた牧野信一は神経的に眉を寄せ、いくらか顫えを帯びた小声で僕はさういふことは嫌ひなんだと誰にとなく呟いたりしたのち、結局座を立つて便所へ行つたりなど細工して、たうとう彼だけは見せなかつたやうでした。感性だけで生きてゐた牧野信一は予言のもつ不吉なものを捩ぢ伏せることに不得手で、赤裸な姿を看破せられる不安にも堪えがたかつたのでありませう。
 私とて占者の前に淡白では立ち得ませんが、赤裸な心情を看破せられること、または予言のもつ宿命的な暗影をもつた圧迫感を負担とするにはいくらか理知的でありすぎるやうです。恬として迷信に耳をかさぬかの面魂をひけらかしたがる私の性分にいくらか業を□やした菱山修三が、あるとき若干の皮肉をこめて、理知人ほど迷信的なものだといふアランの言葉を引用したのですが、私は一応暗にその真実は認めてはゐても、必ずしも彼の言葉に心を動かすものではありませんでした。理知人ほどやがて野性人たらざるを得ません。それのひとつの表れとしてまた迷信的たらざるを得ないことも自然ですが、本来迷信的であることと質に於て異るゆゑ、私はむしろかやうな場合我々の言葉の単純さと、そのはたらきが単純のために却つて行はれやすい魔術的な真実らしさを疎ましく思ふものであります。
 この二月来私が放浪の身をよせてゐる京都には二人の友達がゐるのですが、その年若い一人の友が訪れてきて、近代人の悪魔的な性格にのみ興をもつ(この表現は彼のものです)異色ある映画製作者がゐるが、そのひとつの作品を見物してみないかと誘ひました。その製作者や俳優の名は忘れましたが「生きてゐるモレア」といふ映画でした。まず当代の常識的な虚無をもつて性格とした極めて知性的な主役が、私がかつて行つた言動に類似のことを行つて万やむを得ぬ重い苦笑に心をさそひ、けれどもむしろ倦怠のみの時間のうちにやがて映画は終つてゐました。然しひとつの場面のみが暗処にうごめく何物かに似た幾分不快な感触を帯びて、やや忘れえぬ濁つた印象を残したのです。
 そこは料理店の食卓らしく思はれます。以下すべて印象ですから事実との相違はあるかも知れません。出版業者であるところの虚無家が一閨秀詩人と恋に落ち、その食卓に二人が坐つてゐるのです。女占師が這入つてきました。まづ閨秀詩人の手相をみてやがて二児の母たる宿命をつげ、次に男の掌を見たときには恰(あたか)も憎むべきものを見たかのやうな敵意を視線にみなぎらし、つひに一語の予言すら語らずに、女に護身の首飾を無償で与へて立ち去るのでした。男の表情は結局微動もしなかつたことを覚えてゐます。
 私はわが身の同じ場合を想像せざるを得ないのであります。
 長谷川といふ指紋研究家もさうでしたが、彼は私の愛慾について語るべきときには、まつたく口を噤んでゐました。また私の未来について語る時にも、あなたの性格はあまのぢやくだから――さう語つて私の視線をはばかるやうに俯向き、さう言へばあなたに通じるでせうねと呟いておいて、だから色々の障礙(しようがい)がありますと言つた。勿論彼は敵意を見せはしなかつたのですが、言明をさける風が私の場合の唯一の態度であつたのです。
 私は好んで占師の前に立つたことはありませんが、一度は路上で俄雨にうたれそこが丁度ある占師の門前であつたときと、一度は酒の酔にまかせて都合二回職業占師の眼光に心身をさらしてゐるのです。結果は長谷川指紋研究家と大同小異でありました。私の愛慾生活の宿命とあまのぢやく的性格に就て語る時には言外の暗示によつて私の理会に俟(ま)たうとする用心深い眼付をみせたやうでした。私は事を神秘化して言はうとするものではありません。彼等が暗示するものに就いては、もとより私がつとに知らぬ筈がなかつたのです。
 話が偶然占者とのみ関聯しますが、私の中学時代の最も親しかつた友達が、白眼学舎なにがしと看板をかけた高名な易者の甥で、かつその家に寄食してゐました。十八歳の時のことです。一日彼を訪問しますと、白眼道人なにがしの妻女は生憎窓がないために白昼もまつくらな茶の間で長火鉢の前に坐り、薄暗い電燈の光の下で挨拶する私を見やりながら、だしぬけにお前さんは色魔だねと言つたのです。私は薄笑ひすら洩らさぬほど冷静であつたやうに記憶しますが、やがてええと答へただけにすぎませんでした。
 私は中学生のころ学校所在区の不良少年の群れに親しまれ好んで彼等と交つてもゐたが、私自身は不良少年ではなかつたのです。私はただ過剰すぎる少年の夢をもてあまし、学校の規律にはどうしても服しきれない本能的な反抗癖と怠け癖とによつて、日毎に学業を怠ることに専念し、当時からすでに実際は発狂してゐた沢辺といふ秀才や白眼道人の甥などを誘ひ、神楽坂の紅屋や護国寺門前の鈴蘭といふ当時社会主義者の群れが入り浸つたまつくらな喫茶店で学校の終る時間まで過してゐました。たまたま鈴蘭に手入れがあつてここに入り浸つた中学生は一応全部取調を受け、その大半は退学処分を受けたにも拘らず沢辺狂人や私の一派は本来の不良ならずといふ意味ですか、保護者すら知らずに許るされてゐたやうな出来事などがあつたのです。沢辺狂人と私は悟入を志して仏教を学び牛込の禅寺へ坐禅を組みにでかけたりなどしてゐた可愛気のない中学生でもありました。
 後年私の為すところが世間の常識によつてはやや色魔にも類すべき種類のものであることを私は認めてゐるのですが、中学生の私は子供にしてはひねくれた理知と大人の落付きを備へた美少年であつたとはいへ、過剰にすぎる夢のゆゑに現実を遠くはなれ、少年よりもむしろ少年であつたやうです。私の生涯に於て私を色魔と称ぶところの先駆者の栄誉を担ふ人は当然白眼道人なにがしの妻女でありませう。彼女はその花柳界育ちの眼力によつて私自身が知る以前に私の本性を看破したのでありませうが、十八歳の中学生を一眼みるや唐突にお前さんは色魔だねと浴せかけたひとりの女の実在を思ふと、この場合に限りむしろ不安であるよりも幾分失笑を禁じ得ません。
 私は然し敢て私の弁護ではなく一応世間人の大胆すぎる常識を批難せずにはゐられない。人々はその各々の愛情の始めに当つて、どうして恐れげもなくその愛情の永遠を誓ひ合ふのでありませうか。それはまつたく乱暴なことであります。そしてそのやうに乱暴な原因によつて惹き起される無数の悲劇はもとより涙には価せず、恐らく茶番に終らざるを得ないでせう。私は茶番の退屈さには堪えられません。
 私とて然し自然の声によつて何事か永遠を希はずにゐられないひとときの思ひもあるのです。さういふ声の泌(し)みるがやうな自然さに逢ふと、私もつひに本能的な恐怖をもつて、私の裡の世間を怖れるのであります。
 十八歳の私は白眼道人なにがしの妻女の言葉に冷然としてええと応じることもできたのですが、今日もなほそのやうに冷静に応じうるや否やは分かりません。恐らく応じ得ないでせう。なぜなら私は私自身の真実を信じ所信を愛すこと十八年代の比ではないが、また世間の虚偽の真実よりも甚しい真実さを余りに身をもつて知るところの悲しむべき世間人でもあるからであります。
 あの映画の中に於てもさうでした。男はその愛人に向つて私は色魔ですと言つてゐました。饒舌を性とする白人に比し言葉の無意味と退屈を感じることに慣れてゐる我々日本人の常として、私も亦もとより鼻につく厭味を犯してまで私の愛人に向つて私は色魔ですと殊更言を弄した覚えはありません。けれども私は言ひたかつた。そして心に言つてゐました。なぜなら彼女にそのことを言はれることが甚だ苦痛であつたからです。私と「生きてゐるモレア」の場合のみではないでせう。己れの愛のみの永遠を信じそして自分の場合のみの男の特殊な愛情を信じはじめた女性の前では、その愛人であるところの恐らくすべての理知人が同一の科白を各々の様式によつて表明し、あるひは表明したい意慾だけは持つでせう。
 私は然し自ら私は色魔ですと名乗ることの卑屈さに堪へがたいのも事実です。そして自らの卑屈さをいやしむ結果、その卑屈さを強ひるかに見えるところの世間、そして現にその世間の唯一にして全ての化身であるところの愛人に向つて、たゞそれだけの内攻から唐突に怒りを燃やし、また一場の気分としては絶縁を迫りたくもなるほどでした。愛情の最頂点に於て私は最も卑屈たらざるを得ないゆゑ、また愛情の最頂点に於て私は甚だ軽卒な気分に駆られて愛人を冒涜し軽蔑に耽ることを常とした記憶があります。
 紅毛人の習慣に馴れない私は本来言葉のもつ誇大性や断定性に多くの場合堪へがたいので、心中に無数の言葉を蔵してゐても、おほむねそれを語らずに終ることが多いのです。かつて暫しの生活を共にした女に向つて私が屡々(しばしば)表明し得た最大の抗弁と批難は、それは月並だよといふ言葉でした。そこには私の堪へきれぬ最大の意味が含まれてゐたのでしたが、それを激して語る術もなかつたので、女は恐らく最も屡々聞きなれた言葉の真意を聞き逃してしまつたらうと思はれます。
 私は色魔ですと臆面もなく言ひきることの厭味や卑屈さに堪へきれぬ私は、結局それにこだはることも多いわけで、彼女等にそれを言はれた瞬間の苦痛や怒りが、想像の中に於てもやや生々しい現実味を覚えさせられるほどであります。映画の中の主人公は占師の敵意の視線を浴びたときに毛筋ほどその表情を動かすこともなかつたのですが、そのことがこの印象を一層濁つた重苦しいものにするのでした。
 同じ場合を私自身に当てはめて想像して、私はこのやうに無表情でありうるでせうか。ありうるかも知れません。恐らくむしろありうることが一層確かな予想だらうと思はれます。
 然しながら無表情であり得た場合を想像しても、軽微な犯跡を隠し得たときのわづかな快味すら感じ得ぬばかりか、恐らく内心の動揺と顔面の不動との均合ひの悪さのために、無表情の裏面に於て私は更に加重された苦痛をなめねばなりますまい。映画の中の無表情を見たときに、私自身の均合ひの悪さの不快を聯想して気分を悪くしたのです。
 京都では一足街へ踏みだしてどの方角へ足を向けても、やがて宏壮な伽藍につきあたらずにはゐられません。寺院建築は単調なほど均斉といふひとつの意志にすべての重心があつめられてゐるやうに思はれます。私の住む伏見深草から近いところに東福寺といふ禅寺があり、私の散歩の足は自然この寺へ向けられがちでありましたが、この寺は宋風とかいふ建築の様式ださうで、特にまた均斉を感じさせる伽藍であります。
 私はこれらの伽藍を見るにつけ、そこに営々たる努力をこめた均斉の意志を感じるたびに、いつとはなくひとりの狂人の意志を感じ、混乱を感じ、また危なさを感じる自分に気付くやうになつてゐました。これらの建築にこめられた異常なほど単一すぎる均斉の意志の裏には、この均斉を生みだすための凡そあらゆる不均斉がややともすれば矢庭(やにわ)に崩れて乱れだす危なさとなつて感じられます。そこまで明確に言ひすぎては、いけないのかも知れません。私自身の感じだけではもつと漠然とした気分だけのことであり、畢竟するにただ狂人の意志であり、混乱であり、また危なさにすぎないのです。均斉の極めて小さな一角が崩れても忽ち血潮と共に喉から溢れて迸るやうな悲鳴が思はれぬこともないのですが、然しそこまで明瞭に言ひきることも、言ひ過ぎといへばまた言ひ過ぎにほかなりません。
 宇治の黄檗山(おうばくさん)万福寺は純支那風な伽藍ですが、京阪電車を利用すれば、私の住居から遠い距離ではありません。特殊な関心がありうる筈もないのですが、一度偶然あの寺を訪れ、門前の白雲庵といふところで精進料理を食べてから、京都の事情に暗い私は下洛の友達があるたびに主としてここで飲食にふけることが習ひのやうになつたのです。
 黄檗山万福寺は隠元の指揮によつて建築された伽藍であります。私は隠元が元来支那の人であるのを知らずにゐて、この寺の宝物を見るに及び、彼が異邦の人であるのを知ると同時に、彼が支那から帯同した椅子や洗面器の類ひを見て、彼に対する親しさを肉体的なものにまで深めるやうな稀れな感傷のひとときを持つたりしました。私は隠元の思想に就いては知りません。わづかに白雲庵発行の精進料理のパンフレットによつて彼の思想の一端にふれただけにすぎませんから、いはば仁丹の広告を読んで医学一般を論じるやうな話ですが、私は隠元が好きなのです。精進料理のパンフレットからとりあげて二つの理由を挙げますなら、人の交りは飲食によつて深められるといふ見解から日日の行事のうちで特に食事に重きを置いたといふ彼にも好意がもてますし、日本渡来の事業として布教よりも第一に万福寺の建築に心血をそそいだといふ彼も好きです。最高の内容主義はやがて最高の形式主義に至らざるを得ないからです。
 私の知る限りでは京都府内に於て黄檗山万福寺ほど均斉の意志を感じさせる伽藍はありません。渋味のうちに籠められた甚だ清潔にして華麗な思想や、色彩の趣味や、部分的には鐘楼と鼓楼の睨み合つた落付など、均斉の意志といふことは別として一面人に泌みるところの現実の安定感を思ふだけでも、恐らく隠元その人は遠く狂者と離れた人で、隠元豆の円味すら帯びた人格であつたかも知れません。私自身の思ひとしてもその想像が自然です。
 然しまた次に述べる想像も自然であります。この伽藍は熱帯のなんとかいふ特殊な材木を用ひてゐるさうですが、まづ用材にからまることは度外視して、ここに仮りに根太(ねだ)や垂木(たるき)や棟によつてぎつしりつまつたひとつの脳味噌を想像します。次にこれらの材木の組合せによつて生まれるところのありとあらゆる形々々のやや無限を思はせるところの明滅によつて脹(ふ)くれ歪み合し崩れ混乱する様を想像します。この脳味噌の内部に於ては古典的とでも言ふ以外に仕方のないほど単調なかつまたまともな均斉のみは許るされますが、破調の均斉は許るされてゐません。そして単調にまで高められた均斉の微細な一角が崩れても、この脳味噌は再び矢庭に形々々のめあてない混乱に落込みます。
 かうして私はいつからといふことなく又必ずしも右記のやうな論理を辿つてのことではなく、ある曖昧な気分のみの過程の後に、隠元といへばひとり痩せ衰へ目のみ鋭く輝き老えさらぼうた狂気の坊主を思ふことがこれも亦自然のやうになつてゐました。たとへば再び私達の眼前の幕にこの坊主の脳味噌をすえつけませう。いま脳味噌の内部ではどうやら鼓楼の全形が単調な均斉にまで高められたところであります。ところで鼓楼の階段が今脳味噌の内部に於て建物の右にあるか左にあるか中央にあるか知りませんが、かりに中央にあるものならこれを我々の独断でちよつと右へ移してみませう。単調にまで高められた均斉は一朝にして無残に崩れ恰も芋を洗ふやうな形々々の混乱が突然脳味噌の全面積に場所を占めて足掻いてゐます。そして脳味噌の所有者は恰も直接私達の苦痛から発したやうな血涙をこめた悲鳴をあげて七転八倒するでせう。然しながらこのやうに明瞭な画面を描いて私の漠然とした感じの世界に論理を与へ、かつ限定を与へることはいけないのです。これはひとつの方便であります。
 私は別に黄檗山万福寺を訪ふたびにその材木や甃(いしだたみ)や壁に隠元の血の香をかいでゐるわけではありません。むしろ直接の現実としては殆んどまつたくそのやうなことがないと言はねばならないのです。ここの食堂(じきどう)はこの寺の大部の伽藍と同様に国宝ですが、恐らく曾(かつ)てはこの場所で隠元豆を食べたであらう彼などを甚だ想像しやすいのは、私自身が例外なしにその目的によつてのみしかこの寺を訪れることがないせゐでせうか。
 理知人は却々(なかなか)に狂者たりえぬものであります。恐らく彼等は元来がすでに性格の一部に於て天賦の狂者でもあるからでせう。生来狂者と常人を二つながら具へてゐると申しませうか。今更発狂もしにくいやうです。
 私は理知人のもつ静かさの中にむしろ彼等の狂者の部分を感じ易い癖があります。いはば静かさの内蔵する均斉の意志の重さを苦痛に感じ、その裏にある不均斉の危なさにいくらか冷や冷やするのです。その当然の逆として、もともと不均斉を露出した人々には危なさの感じがありません。
 私は生前の芥川龍之介に面識はなかつたのですが、その甥の葛巻義敏と学友で、「言葉」それから「青い馬」の二つの同人雑誌をだした時は芥川龍之介の書斎が私達の編輯の徹夜のための書斎でした。
 私は芥川の芸術を殆んど愛してゐませんでした。今日とて彼の残した大部分の作品に概ね愛着を持ち得ないのは同じですが、あのころのことを思ふと然し余程意味は違つてゐるのです。そのことにはふれますまい。とにかく彼の芸術に微塵も愛情をもち得なかつた私は血気と、野望に富んだ多感な文学青年であつたにも拘らず、当時なほ自殺の記憶の生々しかつたこの高名な小説家の書斎に坐して、殆んど感慨がなかつたばかりか、むしろ敵意を感じる程度のものでした。彼の死体があつた場所で葛巻が当時のことを語るのも感興なしに聞き過してゐたやうですし、そのころぽつぽつ発見された遺稿の類を示されても終りまで読まうとせずに読んだふりをしてゐたやうな冷淡きはまる態度であつた記憶があります。
 芥川龍之介の芸術についていくらか違つた考をもちだしたのは漸く三年このかたでせうか。すでに私が変つてゐました。ある日葛巻の病床を見舞ふと、彼は芥川全集普及版の第九巻を持ちだしてきて、ただ断片とある二三頁の文章を示し、読んでみないかとすすめたのです。その文章を読んで以来、芥川に対する私の認識は歴然と変つたやうです。この断片もさうですが、だいたいが普及版の第九巻には主として死後に発見された断片の類が集められてゐて、彼の小説の大部分には依然愛情のもてない私も、この一巻に収められたいくつかの文章のみは凡らく地上の文章の最も高度のいくつかであらうと信じてゐます。この年の一月終りのことですが、一物もたづさへずに東京をでて、京都嵐山の隠岐(おき)和一の別宅にまづ落付いて以来、一切の読書に感興を失つた私が然し葛巻に乞ふてこの一巻のみ送りとどけてもらひました。その後宇野浩二氏から牧野信一全集をいただいたのが、下洛このかた約一年のうち私のふれた他人の文学のすべてであります。
 この断片の内容をかいつまんで申しますと(然しこの断片の真実の価値は恐らく理知の至高のものが変形したただ一片の感傷でありリリスムなのですが)ある日なにがしといふ農民作家が芥川龍之介を訪ねてきて、自作の原稿を示しました。その前にちかごろは農村も暮しにくいので人間もずるくなる一方だといふ話などしてゐるのです。芥川がその原稿を読んでみると、まだ若い農民夫婦に子供が生れたが、この貧乏に生れたひとつの生命が育つてみても結局育つ不幸ばかりがあるだけだといふ考から、子供を殺す話が書いてあるのです。暗さに堪へきれぬ思ひのした芥川が、いつたいこんなことが実際農村にあるのかねと訊ねました。あるね、俺がしたのですと農民作家が答えました。そして芥川が返答に窮してゐると、あんたは悪いことだと思ふかねと重ねて彼は反問したのです。芥川はその場にまとまつた思想を思ひつくことができず要するに話は中途半端に終つたのですが、農民作家が立ち去ると彼の心にただひとり突き放された孤独の思ひが流れてきました。そして彼はなんといふこともなく二階へ上つて、窓から路を眺めたのですが、青葉を通した路の上に農民作家の姿はもはやなかつたさうです。この断片の内容はさういふ意味のものでした。
 私は昨今芥川龍之介の自殺は日本に於て(世界に於てでも同じことです)稀れな悲劇的な内容をもつた自殺だと思ふやうになつてゐます。彼の文学はその博識にたよりがちなものでしたが、博識は元来教室からも得られますし、十年も読書に耽ければ一通りは身につくものです。然し教養はさういふわけに行きません。まづ自らの祖国と血と伝統に立脚した誠実無類な生活と内省がなくて教養は育たぬものです。半分ぐらゐは天分も必要でせう。芥川は晩年に至つてはじめて自らの教養の欠如に気付いたのだと思はれます。すくなくとも晩年に於てはじめてボードレエルの伝統を知りまたコクトオの伝統を知つたやうです。その伝統が彼のものではないことを知つたのでせう。彼は自分に伝統がないこと、なによりも誠実な生活がなかつたことに気付かずにゐられなかつたと思ひます。彼の聡明さをもつてすれば、その内省が甚だ悲痛な深さをもつてゐることを想像せずにゐられません。彼は祖国の伝統からもまた自らの生活からもはぐれてしまつた孤独の思ひや敗北感と戦つて改めて起き直るためにあらゆる努力をしたやうです。一農民の平凡な生活に接してもそこに誠実があるばかりに、彼はひとりとり残された孤独の歎きを異常な深さに感じなければならなかつたものでせう。彼の生活に血と誠実は欠けてゐても、彼の敗北の中にのみは知性の極地のものをかり立てた血もあり誠実さもありました。立ち直ることができずに彼は死んでしまつたのですが、そのときは死ぬよりほかに仕方がなかつた時でしたでせう。
 知性の極北まで追ひつめられたものではない自殺、つまり漠然とした敗北感や失意、また失恋や貧乏も同断ですが、それらのものは単に偶然の仕業によつて死ぬものであります。ある偶然の仕業がなければ死なずにゐるでせうし、死ななかつたとしても、死ぬ前の彼とその後の彼と殆んど生活に変りはないと思ひます。
 然しながら芥川のやうに同じ失意や敗北感も知性の極点のものを駆り立てて追ひつめられてみると、これはどうにも死なずにはゐられません。もし死なずに、立ち直ることができたとすれば、彼の生活も変つたでせうし、また芸術も変つたでせう。私は彼の残した芸術をでなく、死ななければ残したであらう芸術のために、その悲痛な死を悼む思ひがいくらかあります。
 生憎これは時代の思想がさうであつたせゐでせうが、芥川ほど誠実無類な敗北をしても、なほ自殺といふ単純な一現象に異常な意味をもたせるやうな幼稚な臭味をまぬかれてゐません。それゆゑ彼の自殺は、その内容の悲痛さにも拘らず、外見は鼻持ちならぬ衒気を漂はしてしまつたのです。これは恐らく時代の罪だと思ひます。あのころの時代の好みが自殺なぞといふことの行為自体に超人的な深さをもつた意味を持たせてゐたのでせう。コクトオですらさういふ時代の魔力からぬけだすことができてゐません。レエモン・ラディゲの「オルヂェル伯爵の舞踏会」の序文などはいささかやりきれない思ひなしでは読めないものです。
 時代の相違でありませうが、牧野信一の自殺には芥川の自殺の外見が示したやうな幼稚な衒気がありません。これは恐らく時代の好みがさうであり、牧野信一がさういふ好みに敏感だつたせゐだらうと思ひます。そして自殺の外貌に幼稚な臭気がなかつたばかりで、人々は(すくなくとも私の周囲の多くの人は)自殺の内容まで牧野信一の場合の方が芥川のそれよりも悲痛なものだと思ひがちでありました。私はまつたく反対であります。
 牧野信一の自殺の原因としては、失意、女、敗北感、貧乏、病気等々あげられませう。然しながら芥川龍之介の場合のやうに知性の極北のものを駆り立てて追ひつめられたものではなかつたやうです。もつと感性的なものであり、ひとつの気分としての失意であり敗北であり貧乏であり病気でありました。そして一九三六年三月二十四日午後五時のあの偶然がなかつたら、例へばあの日瀬戸一弥君が所用があつて他出してゐるやうな一事がなかつたら、あるひは今日もなほ健在であるかも知れませんし、それが不思議ではないのです。かりに健在であるとしても、恐らく一九三六年三月廿四日以前と殆んど生活態度にも変化はありますまいし、また芸術も多く変つてはゐないでせう。さういふ必至の厳しさで追ひつめられてゐた(むしろ追ひつめてゐたと言ふべきでせう)ものではなかつたのです。私はさう信じてゐます。いはば死ななくともよかつたのです。
 私は時折葛巻義敏の病床を訪れたりしてゐるうちに、芥川龍之介に面識はなかつたものの、かなりに彼を肉体的に知るやうになつてゐました。又アルバムの類ひなぞを見たせいか、彼の数種の表情も知り、結局彼がわが国の文人中では、江戸の戯作者を除いたなら、もつとも豊かな動きをもつた表情の所有者ではあるまいかと思つたのです。明治以降のわが文壇では、面のやうに動きのない表情の所有者が目立つやうです。これも実は気分の上の話だけです。
 ここもとある料理店の食卓であります。芥川龍之介がその愛人と対ひあつて坐つてゐます。その愛人は二人の愛の永遠を信じはじめてゐるのですが、芥川龍之介は信じてゐません。やがて女占師が這入つてきました。芥川龍之介の手相を見て敵意をみせ、一語も語らずに立ち去ります。
 芥川龍之介は女占師の敵意にみちた顔をみて、狡猾に笑つてゐるかも知れません。それとこれとてんで意味のつながりのない別の場所の表情で知らぬ顔をきめこんでゐることなども想像できます。恐らくそれに類したやうな変化の一つを示すでせう。単純な無表情を考へることはできないのです。
 たしかに芥川龍之介は、さういふ場合の無表情がもつやうな均斉の意志の狂人的な危なさに人一倍敏感で、かつまた日本人としてはいささか習性外れでもあり例外的に見えるほど、その危さを避けるための積極的な努力を労した人のやうです。内面的には恐らくすべての理知人が同じ程度に敏感でせうが、努力のあとを積極的に外面へ押しだす人は日本人には稀れであります。牧野信一の作品ではかうした際に日本人には異様なほど頻りに高笑ひが現れますが、彼の現実の生活では、最も快適な酔ひの後に、やうやくいくらかそれらしい調子の外れた笑ひがでたにすぎません。
 先日モーリス・シュバリエの映画を見て、かうした際の重い感じを、たうてい芥川龍之介が足もとへすら及ばぬ程度の巧みさで軽くかはしてしまふのを見て、彼が時代に流行する当然の理由を知つた思ひがしたのです。かうした際のチャップリンの危なさは私には堪へられません。稀れにしか映画を見ないうへに、ことに日本映画には無縁の日々を送つてゐてそれに就て語ることも奇妙なのですが、P・C・Lの写真ばかりを二三見ました。登場する俳優達の表情の重さや危なさが余りとはいへ無芸の極みで言語同断の感でしたが、北沢といふ男のひとと椿といふ女のひとがシュバリエとの比較はとにかく、さうした軽いかはしかたを恰も生来のもののやうな自然さで体得してゐる事実を知り、無縁に見えた日本映画愛好者にいくらか信頼をもちだしたのです。またエンタツ氏の映画ならなるべく見やうと思ひました。然しかやうな言種(いいぐさ)は映画を徒然のなぐさみに読む絵草紙然たるものとしての見解で(私はそのやうな意味でのみ映画を見がちなものですから)芸術としての批評の仕方ではないのです。
 江戸時代の戯作者達は主としてこの精神に生きてゐたいはば極めて人生の表情的なやりくりに彼等の思想や芸術の浮身をやつした通人であつたやうです。それゆゑ彼等の流れをくむ落語の中にもこの精神は今なほ生きてゐるのです。然しながら小勝や小さんや文楽や柳枝のやうな小数の人を除くと、この精神ももはや概ね死体の醜をさらしてゐるにすぎません。もともと伝統にとぢこもつた古典的な芸術となると、その形態がすでに現代に通じにくいものですし、細かな芸の最も底面に凝縮せしめられたその真髄を知るためには、その芸の伝統や型と他人でない特殊な愛と教養を必要とせずにゐられません。時代精神が時代と共に生きるやうな自然さや安易さでは理解されないものであります。それゆゑ落語の真髄が今日の極めて新らしい精神に通じるものをもつてゐても、いはば一方はある伝統の真髄に属するゆゑに理解されず、むしろ芸の真髄を外れた金語楼や三亀松がその真髄を外れたための安易さを土台として、今日の真に新らたな精神ともまつたく無縁な繁栄ぶりを見せるといふ皮肉な事態を生みだします。
 芥川と同様に江戸時代の戯作者達も女占師の敵意の視線をシュバリエもどきの軽快さで洒脱にかはす術にたけてゐたでせう。彼等は現実のどの一齣(ひとこま)にも才に富み、無芸大食の徒輩のやうな重さや危なさがなかつたのです。然し彼等の芸道では、彼等が現実に示したやうな多才ぶりや危なげのなさに比べると、要するにそれ以上ではありません。なぜなら女占師の敵意の視線をかはす程度の顔面神経の応接のみでは余りにもその解決に縁遠い不滅の苦悩がまた人性がそれらの奥に洋々たる流れの姿を示してゐるではありませんか。文学の問題は現実の表情の場合のやうにはいかないでせう。芥川は女占師の敵意の視線をかはすためには才に富み恐らく危なさといふものがなかつた程度に水際立つた武者振りであつたにしても、それらの表皮的な武者振りにやや軽薄な自信すら托したことの不当さが、やがて遠まはしの仕掛けの後に、彼の深奥をいためる傷のひとつともなつたことが想像されます。自らを育てるためにも、また自らを傷めるためにも、それほども苛烈なはたらきを示すところの理知の刃物に恵まれなかつた江戸の戯作者達は、芥川の場合に比べてあるひは多分に幸福であつたのでせう。ジャン・コクトオの如き人も女占師の敵意の前では、シュバリエも及びもつかない斬新な応接ぶりで、同じ場合を二度見る人には変化の妙を伝える程度の退屈させない如才のなさまで行きとどく縦横無尽変幻自在の妙技に酔はしてくれるでせうが、やがてそのことがかの解きがたい内部の世界に不運な通路と限定を与へなければ幸せです。
 アンドレ・ジイドの「オスカア・ワイルドの思ひ出」を読んでから思へば十年の歳月が過ぎたやうです。私はあれを私達の同人雑誌へ載せるためにあらかた翻訳し終つたとき、河上徹太郎が何かの雑誌に訳載しだしてしまつたので、断念したきり、原稿の行方も分らずじまひです。
 あの文献に対して、私はスクレ・プロフェッショネルな楽屋落ち以上に勝手な聯想を働かせて、ひとりで悦に入りながら読んだやうな覚えがあります。私にさういふ読み方をさせるやうな、聞きての役に適当した長島萃(あつむ)といふ相棒がそのころ健在であつたせゐです。この才人は夭折しました。
 私はあの文章の中から、ワイルドの野人ぶりを軽蔑しながらそれに敗北しつづけたジイドの一人相撲の反感を自分勝手に読みだして、あの文献の直接の興味と別な私(ひそ)かな興に面白がつてゐたのです。
 ワイルドは女占師の敵意の視線をかはすことに、コクトオとは質の違つた自由奔放な武者ぶりを見せる人です。武者ぶりどころではありません。これはもういささか野人ぶりの領域で、傍若無人な無仕放題のひとつのやうながさつなものです。ジイドのやうに地味で着実な内省一方の無芸ぶりでは、煽られ一方であつたでせう。
 アルヂェリヤか乃至はそのへんの植民地の町のことです。俺はこの町を堕落させるのだと豪語して、ワイルドは金を路上にばらまきながら、それを拾ふ人々のひしめきをしりへに街を闊歩いたしました。さういふワイルドの内省の不足さや幼稚さがジイドにはいまいましい阿呆なものに見えたでせうが、傍若無人な放出ぶりに気分の上では不安と敗北を感ぜずにゐられなかつたと思ひます。すくなくとも私には、あの文章の行間に、その種の対人関係からくるジイドの反感を読まずにはゐられなかつたのです。
 もしも作家が作品の前に自己を知つてしまふなら、彼の作品は自我のために限定され、己れの通路と限界の内部でしか小説を書き得なくなつてしまふ。さういふ意味のことをジイドは「ドストエフスキー論」に書いてゐました。すぐれた作家は作品の後に於てのみ自我を発見すべきもので、ドストエフスキーがさうであつたと言つてゐます。
 私はかやうな言葉の中に、ジイドが自らの屍体へ向つて雄々しくも捧げた挽歌のひとつを読む思ひがしました。ジイドはドストエフスキーの芸に敗れたのです。なぜならジイドは天賦の芸人ではなかつたからです。そしてジイド自身こそ常に作品の前に自己を知る悲劇に悩み、かつまた己れの通路と限界によつて限定された己れの作品にややともすればくづれ易い自信を支へてゐたのです。
 なるほどジイドは一応芸に類するものを全く別な才能からでつちあげることもできるやうな、普通人にはめつたにない聡明な智能を恵まれてゐます。そして彼は恰も作品の後に於て自己を発見するやうな真の小説の体裁だけはととのへた稀れな労作を創ることもできたのです。然しそれらが真物(ほんもの)でなく、所詮はまがひ物にすぎないことを、誰にも増して彼が知つてゐるでせう。
 芸に於てドストエフスキーに敗れたやうに、ワイルドに対してはその芸人根性に敗れたとでも申しませうか。いくらか誤解されさうな言ひ方です。机に向つたのちの芸術家ではなく、文学以前の文学の世界で、生活者としての作家の世界で、ワイルドに気分的な敗北を感じ、不安にみちびかれてゐたやうです。あるときワイルドはジイドの唇を指して、なんといふ毒々しく堅く結んだ唇だらう。まるで私は決して嘘をつきませんとしよつちう言ひ張つてゐるやうだと憎たいをつきました。私はそれを書いてゐるジイドの文章を読んだとき、さう言ふワイルドの面影が躍るやうな目覚ましさで浮かんだやうに思ひましたが、それも実はその文章の行間にひそむところのジイドの反感と軽蔑をまぜた失笑のせゐにほかならぬやうに思ひ直したのです。実際に当つて文章にさういふニュアンスがあつたものか、私の生活態度や視覚の方向がさういふことを勝手に捏造して感じたがる傾向にあつたものか、ちよつと判断がつきかねます。
 ジイドはワイルドが出獄後の別人の如く恐怖を知り内面的な地獄に堕ちた姿も書いてゐるのですが、ワイルドの様な姿に向けられたジイドの多少の共感と愛情自体が、いはばそれも復讐の結果のやうに思はれたのです。然しながらその時すら、やつぱり敗北してゐるのはひとりのジイドだけであつたと思はずにゐられなかつたのでした。ワイルドは内面的な地獄に堕ちても、その堕ち方が、畢竟するにやつぱり傍若無人でした。それはジイドの及びがたい、否ジイドには有り得ないものなのです。結局彼はその若かつた時代に、彼が当然さうでなければならなかつた自然の不安と敗北を、ワイルドを手掛りにして深めるやうなめぐりあはせになつてゐたと言ふべきでせうか。そのやうに言ひ得ることも事実でせう。
 書き忘れましたが、たしか誰かの文章に、芥川龍之介のうつる活動写真があつて、その写真の中では芥川が臆面もなく小僧のやうに木登りをしてみせるさうです。それを見て不快だつたといふ意味が洩らしてあつたと思ひました。私も甚だ同感でした。恐らく私もそれを見たら、同じやうに不快を覚えてしまふでせう。
 芥川は不均斉を露出する逆方法によつて、先手をとりながら危なさを消す術の方を採用してゐたのでしたが、日本人の生得論理と連絡のないニヒリズムの暴力の前では、映画の中で行ふ種類の木遁(もくとん)の術の手並でも、却々もつて彼等のひねくれた眼力を誤魔化し、安定感を与へてやることはできません。さらに今日の時世が、そのやうなそれ自体としても決して愉快ではない眼力を一層深めさせてもゐるのでした。
 私が縷々万言を費したことはたかが表情に就てですが、然しながら私は実は女占師の敵意の視線を前にしてその表情がどうならうとその方のことは意にしたくないつもりでゐました。物のはづみであつたわけです。私が真実書きたいと思つたところは、そのやうに顔面にすら不自由な束縛を加えるところの内部の複雑な渾沌について、いささか所信と修養の一端をひけらかしてみてはと思ひついてからのことです。然しながらそれは結局私の生涯の作品の後に、小説の形をかりて語る以外に法のないものでしたでせう。
 結局私は他人の表情の棚下しをして、自身の表情に就てはとんと語りたがらぬ風でありましたが、それも亦私の生涯の作品の後に、自由に発見していただく以外に仕方がないと思つてゐます。余言ついでにあはせてテーブルスピーチの要領で、かういふ便利な言ひまはしを教へてくれたアンドレ・ジイド氏に末筆ながら敬意を表したいと思ひます。そしてまたこの言種が江戸の戯作者の亜流にすぎないといふ御叱言と失笑がでるなら、それは新年の初笑ひのために作者が甘んじてその光栄を担つたところの余興であると思つていただかねばなりません。そしてまたこの言種が――もはや何派の亜流であるかは恐らく誰も気をまはしたくないでせうね。御退屈さま。




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