牧野さんの死
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著者名:坂口安吾 

 奥さんは某との失踪が世間の問題になつたので、然し自分は潔白だから、自分の潔白を強めるためにも、今度の行動の責任を牧野信一の姦淫に負はすべきだと考へついたのであらう、益々牧野さんを憎んだ「ふり」をして小田原へ帰らなかつた。この際としては如何にも女らしい手口を用ひたわけで、恐らくそれでいいのではないかと私は考へてゐる。これだけの理由で奥さんを悪妻と言ふのは当らない。牧野さんが信じたやうに、そして、牧野さんが信じてゐたが故に、我々はむしろ彼女を良妻と呼んでいいのだらうと思ふのである。牧野さんの奥さんは小田原の牧野さんの母堂と仲がわるかつたが、これとて牧野さんが母堂と不和だつたから、仕方がなかつた。

 こんなことは実際どうでもいいことだ。これが死を早めたことにはなつても、自殺の根柢はこれではない。彼の夢が彼の「人生を殺した」のだ。
 それにしても小田原へ引上げてからの牧野さんの神経衰弱はひどかつたらしい。いつたい牧野さんは私達と話をしても、死や、況んや自殺に就て、かつて語つた例がない。牧野さんにしてみれば、生きることの難さに比べて死ほど容易な、それゆゑ厭な、妖怪じみた奴はなかつたのだらう。生きることには値打があるが、死には一文の値打もない。語る値打もなかつたのだ。私達が死を云々すると彼はあらはに不興な渋面をつくつたのである。
 その牧野さんが小田原へ引上げてからは(三月の終りだ)毎日死に就てのみ語つたといふ。牧野さんの小田原の住宅の隣りに古い馴染の瀬戸一弥君が住んでゐるが、毎日瀬戸君を訪ねて、死の話をする。孤独になると、死ぬ方法だけしか頭に浮んでこないといふ。突然手拭で自分の首をしめ、これでも死ねると独白を洩らしてゐる――すべてが普段の牧野さんに想像もできぬ錯乱だつた。彼は小田原へ越したことを誰にも知らさなかつた。小田原の友人達にすら、瀬戸君以外には絶対に知らさなかつた。そのくせ孤独が最も苦しく、なんとかして孤独をまぎらすために毎日瀬戸君を訪ね、いつたん家へ帰つたと思ふと忽ち又話し込みに戻つてくる、さういふことを日に何度となく繰返してゐたさうだ。
 何分神経衰弱がひどく原稿が書けないので催眠薬を買ふ小遣ひがない。母堂に催眠薬を買つてくれと再々頼んだが、もしものことがあるのを怖れて(牧野さんの設計した人生流に言へば、ひどいけちで)買つてくれない。これには参つたらしい。もう三日一睡もできないと瀬戸君に言つたこともあると言ふ。
 東京へ行つてぜひ奥さんを連れてきてくれと瀬戸君に懇願し、突然母堂の肩に手をかけて、たのむからあれを呼び寄せてくれと叫んだりしたといふ。死の一週間前英雄君も暁星が休みになつたので小田原へ遊びに来た。その時の親父の喜びやうといつたらなかつたさうだ。そのくせ奥さんへの気兼ねからか、突然翌日東京へ戻してしまつた――
 死ぬ前日梅焼酎を一升のんだ。
 自殺の日、生憎瀬戸君が留守だつた。もし瀬戸君がゐたら、気がまぎれて死ななかつたらう。小田原へ来て以来、牧野さんは一番たまらないのが黄昏だと言つてゐたさうだ。夜になればいくらか落ちつくといふ。それは私も思ひ当る。ボードレエルにもさういふ詩があつたやうだ。黄昏の狂気のやうな寂寥は孤独人の最も堪えられぬ地獄の入口のやうな気がする。牧野さんは又、こんなことも瀬戸君に語つた。自分の今一番欲しいのは素直な若い女の友達だ、と。女中であつてすらいい。然し商売女ではいけない、と。
 五時が来た。例の黄昏が近づいたのだ。母堂が海岸へ散歩にでかけやうとした。その二時間ほど前、牧野さんはピンポン台に紐を張り首を入れて自殺の真似をやつてゐたさうだ。牧野さんは突然母堂に縋りついて、どうか出かけないでくれ、俺を一人にしないでくれと懇願した。然し母堂は海岸へ散歩にでかけた。
 帰つてきたのが五時半頃で、牧野さんの姿が見えない。台所で女中が夕飯の仕度をしてゐたのだが、牧野さんが納戸へはいつた姿は気附かなかつたのである。女中が部屋々々を探したあげく、納戸で英雄君のへこ帯を張り縊死した彼を見出した。

 誰の責任でもなかつたのだ。牧野さん自身すら。「夢が人生を殺した」のだ。それがほんとの真相なのだ。よしんば死を早めた多少の事件があるにしても、彼の如き純粋な死に限つてそれは全く問題にならぬ。彼の死は暗い事件ですらない。彼の文学と死の必然的なそして純粋な関係を見るなら、自殺は牧野さんの祭典だつたかも知れない。私はさう思つた。なぜつて彼の死ほど物欲しさうでない死はないのだ。死ぬことは彼にはどうでもよかつたのだ。すべてはただ生きることに尽されてゐた。彼の「生」は「死」の暗さがいささかも隠されてゐない明るさによつて、却つて余りにも強く死の裏打ちを受けてゐた。生きることはただ生きることであるために、却つて死にみいられてゐたのだ。だから彼の死は自然で、劇的でなく、芝居気がなく、物欲しさうでないのだ。純粋な魂があくまでも生きつづけ、死をも尚生きつづけたのではないか! 生きたいための自殺は世の多くの自殺がさうであるが、牧野さんは自殺をも生きつづけたと言ふべきである。彼はつひに死をもなほ夢と共に生きつづけたのだ。明るい自殺よ! とても憂鬱な顔附をしてお通夜なぞしてゐられたものではなかつたので、私は谷丹三をそそのかし、通夜をぬけでて小田原の飲み屋へいつた。私達は泥酔した。

 牧野さんは私達と酒をのむと、自分一人まつさきに酔つたあげく、(前にも述べたが彼は酒に弱かつた。そしてある時はてんで酔へず、ある時は又へべれけに酔つ払ふのが常だつた。そのへべれけに酔つた時にはきまつたやうに――)「おい、お前達はぬれ藁のやうにしめつぽく黙りこんでゐるぢやないか」と一夜に数回となくきめつける癖があつた。これはファウストの科白ださうだ。私達はお通夜をしりめに杯の数をあげながら、つまり今夜俺達は例のファウストの科白に復讐してゐるやうなものだなと言ひあつて呵々大笑したものである。そして翌朝まで帰らなかつた。

「ええ、ままよ」恐らく彼はさう呟いたに違ひない。「牧野さんもこれだけの仕事をしたんだから、死んだつていいぢやないか!」
 へこ帯の中へ首をつき込む時、もし何か呟いたことがあるとすれば、それだけの呟きしか私には考へられない。彼は自分に憑かれ通して死んだのだ。私にはその明るさしか分らない。
 私はお通夜の夜、小田原の街で酔ひながら谷丹三に向つて牧野さんの悪たれ口をたたいた。「死んだつて驚くもんか! 然しあいつを死に易くした一つの理由は、彼の最近のインポテンツの傾向だよ」谷丹三も賛成した。そして私は敬愛する詩人の一生の祝典のために乾杯することのほかに考へられるものがなかつた。それは私の強がりではない。私は彼の純粋さには徹頭徹尾敗北だ。とても私は死ねないのだ。

(附記) しんみりと重々しく書きつらねる気持にならないので、(なんべんも書きだしたのをみんな破つて)少し呑み一気に書きまくつた。文章が非常に雑なことだけ分る。然し言つてゐることは、私の今のほんとのものだけ思ひつく通り書きなぐつたのだ。もつと書かなければならないのだ。然し今はそれにふさはしくない私の状態だ(これは牧野さんの死に関係がない)。もつと気持が落附いたら、牧野さんに関するそして私の思想生活にからみつき生きてゐるあらゆることをみんな書かう。だいたい私は夫婦関係のことを書きすぎた。こんなことはどうでもいいのだ。彼の死と文学(夢)との結びつく部分に一番多く語らなければならないものがあるのだが、今は私の状態がそれを語るにふさはしくないこと、及びゴシップ的な世評で彼の死がけがされてはいけないといふ思ひがあつてか、つひそのことを喋りすぎずにゐられなかつたやうである。




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