ジロリの女
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著者名:坂口安吾 

とかく苦労を知らない人は、そんな風に、好意とマゴコロもてかしずく人を、なぶりものにして快をむさぼるものではありますがね。私だって、腹が立ちますよ。それでも、私という人間は、そんなにまで踏みつけられても、いったんマゴコロをもって計った事の完成を見るまでは、附き添ってあげたいのです。いえ、附き添ってあげずにいられぬ性分なのです。こゝのところを、お察し下さい。ですから、踏みつけられても、私は遊びに行かずにはいられないのですよ。そこで、あなたに御同伴をお願いする。すこしでも、みじめな思いが少いように、そして、みすぼらしさを自覚せずにすむように。私はねえ、ガサツな奴ですよ、然し、至って、小心臆病なんです。私はみじめな思いを見るほど、悲しいことはないのですよ。悲しい思いほど、私の人生の敵はない。これを察して下さい、夏川さん」
 こうやって、底を割ってみせるのも、私の示威だ。どうせジロリの相手なのだから、むしろ楽屋をさらけだす。衣子や美代子には、親切気などないけれども、ヤス子は頼まれゝば、人のためにも計ろうとする気持があった。
「ヤス子さん。三船さんの新聞社などお止しあそばせ。ヤミ会社の社員なんて、人格にかゝわりますわ」
 と衣子が言う。ヤス子はすこし考えて、それから、キッと顔をあげて、
「新聞の仕事そのものはマジメな仕事なんです。私、かなり、やりがいのある仕事のつもりで、精一杯やってますわ。社長さんの編輯方針にも、時々不満はありますけれど、概して、共鳴することが多いのです」
 ヤス子は嘘がつけない。ジョークを解さぬわけではないけれども、先方の軽い言葉が、ヤス子にとって軽視できない意味があると、本当のことしか言えないという気質であった。冗談のつもりで話しかけて、居直られるようなことになりがちだから、衣子はヤス子を煙たがり、親しみをいだいていなかった。
「ヤス子さんも、可愛げのない人ね。あんなに居直るみたいに談じこまれちゃ、旦那様もオチオチくつろげやしないわね」
 と、衣子は私を意地悪くジロリと見て、言う。
「それは、あなた、話というものは、ピントが合わなきゃ、仕様がない。ヤス子さんは、奥さんとはピントが合わないかも知れないけれども、ピントの合う人にとっては、あんな可愛げのある御婦人もメッタにありゃしませんよ」
「三船さんはピントが合うつもり? でも、ヤス子さんは、ピントが合わなくて、お困りの御様子ね」
 すると美代子のチンピラまでが、私にジロリと一べつをくれて、
「社長と社員でなかったら、おそばへ寄りつくこともできない筈ね。ヤミ屋の御時世よ。インフレの終ると共に、誰かさんの三日天下も終りを告げます」
 恋は曲者(くせもの)である。あれほど崇拝の姉の君を、美代子も内々煙たがるようになっているのだ。けれども、それを意識せず、あげて私への侮蔑となって表れてくる。
 ところが、この恋が、却々うまく行かないのだ。
 大浦種則は美代子さんだけが欲しい、ビタ一文欲しいわけではないと仰有る。
 ところが、兄の博士が、ドッコイ、そうは勝手にさせられませぬ、と膝を乗り入れてきた。当節、学者の生活ほど惨めなものはない。医学部教授はまだしもヨロクがあるとは云っても、タカの知れたもの、酒タバコの段ではなく、必要のカロリーも充分にはとれぬ。本も買えぬ。火鉢の炭のカケラにまで御不自由のていたらくで、かねて多少の貯えなどもインフレと共に二束三文に下落して、明日の希望もないようなものだ。
 弟の種則には分けてやる一文の財産もなく、礼服一着こしらえてやれぬ。花嫁の然るべき持参金が頼みの綱であるから、富田病院という名題の長者の一人娘に持参金もないような、そんなベラボーな縁談には賛成するわけに参らぬ、と仰有る。もとより、美代子の思いが充分以上に種則に傾いたのを見越した上で、潮時を見はからって、膝を乗り入れてきたのである。
 だいたいが、婚姻政策というものは、政治家や官僚以上に、学者に於て甚しいものだそうであるが、大浦博士に至っては、結婚と持参金、あたりまえときめてかゝった殿様ぶり、天下泰平、オーヨーなものだ。
 かねて自分一個の赤誠をヒレキする種則のことであるし、新憲法と称し、家の解体、個人の自由時代、兄博士の横槍もヘチマもある筈がないと思うと、あにはからんや、脱兎の如き恋の情熱児が、にわかにハニカンで、ハムレットになった。
 結婚すれば、兄の家も出なければならぬ。自分はまだ研究室の副手にすぎず、独立して生計を営む自信がないから、兄の援助を断たれると、直ちに生活ができなくなる、純情や理想の問題じゃなく、現実の問題だから、と云って、暗然として面を伏せ、天を仰いで長大息、サメザメと暗涙をしぼらんばかりの御有様とある。
 あげくに美代子をそゝのかして、家出をした。
 十日あまりして、兄貴のところへ旅館の支払いの泣き手紙が来て、大浦博士が箱根へ急行して取り押えたという結末であるが、戻ってくる、こうなった以上は結婚を、という、衣子もその気持になったが、ドッコイ、大浦博士が居直った。是が非でも、財産の半分の持参金がなければ、結婚はさせられない、というのであった。動産、不動産、病院の諸設備に至るまで財産に見積って、その全額のキッチリ半分、ちゃんと金額を明示して、これだけの持参金がなければいかぬ、という。税務署の査定よりもはるかに厳しく、自分勝手で、そんな持参金を持ち出されては、病院の運営もできない。
「これは、あなた、サギですよ。まるで、男のツツモタセみたいなものだな。もちろん、種則も、兄貴の博士とグルですとも。よろしい。見ていてごらんなさい。私が泥を吐かせてみせます」
 と、種則に来てもらい、衣子と私の面前にすえて、さて、大浦君、と、私が訊問にかゝろうとすると、にわかに衣子の様子が変って、当の敵は私であるかのよう、青白く冴えた面持、キッと私を見つめて、
「この話は当家の恥ですから、内輪だけで話し合いますから、三船さんは御ひきとり下さいね」
 女中を呼びよせて、
「三船さんが、お帰りです」
 有無を言わさず、宣告を下す。ここまで踏みつけられては、私もたゞは退(ひ)き下れぬ。
 なるほど、私が種則をよんで泥を吐かせましょう、と持ちかけた時に、衣子はすゝんで賛成するようなところは無かったかも知れない。けれども、一言といえども反対の言葉は述べなかったのだから、そして、私が電話で種則を呼んでいるのを黙って見過していたのだから、これを賛成と見て怪しからぬところは有り得ない。
 ところが、種則が現れる。とつぜんガラリと、こう、くるのだから、私もにわかにムクレ上って、
「ハア、そうですか。然し、御当家の恥というのを、一から百まで承知している私ですよ。これから先をお隠しになったところで、頭かくして何とか云うイロハガルタの文句みたいじゃありませんか。私はたゞ御当家のために良かれと」
 皆まで言わせず、
「イロハガルタの文句で相済みませんことね。三船さんはカン違いしていらっしゃるわね。当家と大浦家の関係は格別のものなんです。お分りになりませんこと。親戚以上の大切なもの。当家と三船家の比較にならない格別のものですのよ。ですから」
 と言葉を切って、凜然たる一睨み、こうなっては尻尾をまいて引退るほかに仕方がない。芸人は引ッ込み方が大切なもので、気のきいたところをピリリとひとつ、それだけのユトリがあらばこそ、尻尾をまいた負け犬よりもショボ/\と、その哀れさ。
 それでも廊下を通り玄関へきた時には、急にムクムクとふてくされて、河内山の百分の一ぐらいの悪度胸で居直り、
「オヨシちゃん。私を暫時、女中部屋で休ませて下さいな」
「アラ、そんな」
 鼻薬を握らせて、
「お酒でも、買ってきて飲ませてくれると、オヨシちゃんも、女中なんかはさせておかないと言う人がアチラコチラから現れてくるだろうがな」
 と、女中を相手に、からかいながら、待っている。
 種則の帰るを待って、茶の間へヌッと推参、もとより、御不興は覚悟の上である。衣子はイマイマしげに、また、いかにもウルサげに、ジロリと一べつ、顔をそむけて、喋らない。
「いかなるテンマツとなりましたか」
「どんなテンマツがお気に召すのですか」
 ハッタと、にらむ。私はビックリ、すくみながら、その色気に目を打たれて、ひそかに満足する。
「当家と大浦家の仲たがいが、血の雨でも降ることになったら、御満足なんですか。ゴセッカイに、チョロ/\、なに企んでいるのです」
「チョロ/\何を企むったって、屋根裏の鼠がひそかにカキモチを狙うんじゃあるまいし、それは、奥さん、あんまりですよ。私だって、一人前の男、四十歳、多少の分別はありますよ。失礼ながら温室育ちの奥さんに比べりゃ、数等世情に通じているからこそ、見るに見かねて、いえ、やむにやまれぬオセッカイ。ほんとですとも。毒殺ぐらい覚悟の上で、いえ、失言ではありません。坊主と医者てえものは気が許せませんや。年中扱いなれていやがるから、トンマな赤鬼よりも冷静なもんですよ。私は何も企みません。大浦一家が何事か企んでいると申上げているにすぎません。私の場合は必死の善意あるのみです」
 衣子はプイと横を向いて答えない。
 その言葉や様子から、私の推量と同じような結論を衣子もつかむに至ったのだろう。私はそう見てとって安心したが、図にのって、こまかくせゝくるとゴカンムリをまげさせるばかり、万事は時期というものがある。
「私の公明正大な心事ばかりはお察し下さい。私のカングリがあさはかな邪推に終りました折は、見事に切腹して、御当家ならびに大浦博士にお詫びします。私は事をブッコワそうとしているわけじゃアありませんよ。事の円満なる解決に就て不肖の微力をおもとめならば、何を措いても犬馬の労をつくす所存、又、その労苦を身の光栄に感じているものであります」
 なぞと、たゞそれとなく脈をつないでおくだけで、その日はおいとまを告げた。

          ★

 あの夜、私は衣子にていよく追っ払われて、大いにヒガミ、腹を立てた。私の至らざるところで、人の気持というものが分らないのである。つまり私は一ぱし人間通ぶって、あれこれとオセッカイをやるくせに、実は一人のみこみ、その上、何かというとヒガンだり腹を立てたり、人の気持を察してやることができないのだ。
 衣子にしてみれば、娘の一生の大事であるから、真剣であり、思い決し、悲痛なものがある筈だ。だから私のオセッカイを軽くかわして、私を追払い、種則と膝ヅメ談判に及んだが、私なんかゞ三百代言よろしく一寸見(ちょっとみ)だけ凄んでみせるのと違って、猛烈に急所をついて食い下ったらしい。
 いったいが、女というものは本来そうある筈で、必死の大事となると、人まかせでは安心できず、喉笛に食いつくぐらいの意気込みで、相手怖れず乗(のり)だす性質のものである。それぐらいのことは、かねて知っている筈ながら、私はバカだから、ヒガンだり、スネたりするのである。
 新憲法の今日、一人前の男が、兄貴の気持がどうだからと云って、自分の思いを諦めるなどゝは奇妙な話、世間では、新憲法だというので、若い者が仕放題、親を泣かせている御時世である。これは大方、兄弟グルで仕組んだ逃げ口上でしょう、と、衣子に問いつめられて、種則の返答が、
「いゝえ、然し一人前の男だなんて、とんでもないことですよ。大学の副手の手当なんて、配給のタバコを買うにも足りないのです。全然、生活無能者なんです」
「ですから生活できるだけの持参金は持たせてやりますし、又、月々の面倒も見るぐらいのことは致しますと申したではありませんか。無能力のバカには、それでも、多すぎますぐらいでしょう。全財産の半分とは、あなた方兄弟の肚の中は盗人(ぬすっと)根性というものです」
 ひどいことを言う。女がドタン場で居直ると、意地悪く急所をつかんで、最大級の汚らしさで解説して下さるものだ。私のような小悪党は敵の弱所に同感もあることだから、こうは汚らしく攻めたてるわけには参らない。
 そのとき、種則先生、こう答えたということだ。
「奥さんは僕の立場、理解しておられませんね。僕は兄貴と仲違いしては、生涯破滅、浮ばれなくなるのです。僕は私大の副手ですが、これも兄貴のせいで、僕の頭は特別ダメなんです。中学のとき、数学、物理化学は丁、英語も丁、漢文と国語が丙ですが、それでも兄貴のおかげで大学へ入学もでき、副手になって、ともかく医者らしくさせてもらっているのです。医者はヒキと要領のものなんですよ。僕はそれに、愛想がよくって患者をうまくあしらうでしょう、これはコツですね。医局のツキアイをうまくやってボロのバレないうちは、患者にウケがいゝんですよ。まア、相当な、若手先生なんです。これも兄貴のおかげ、それに僕が要領を心得て、いかにも教授、先輩、同輩に好かれるように、立廻っているのです。これは、マア、僕の才能ですね。僕は人に怒られるようなことは、しないんですよ。ですけれど、この才能が物を言うのも、バックに兄貴の威光があるからで、これがなくちゃア、誤診ばっかりやらかしているものですから、本当は看護婦だって、肚の中じゃア、なめきっているわけですものね。だから、兄貴に見すてられちゃ、一気に看護婦にまで見捨てられちゃうでしょう。僕は一生、浮ぶ瀬がなくなるわけなんです」
 数学、物理化学が丁、英語も丁、漢文と国語が丙、よくぞ申したり、アッパレな奴で、どんなに仏頂ヅラで怒っていても、たいがい腰がくだけてしまう。
 衣子もさすがにウンザリして、完璧な低能なのね、とからかうと、えゝ、まア、生れつきですからねえ、と答えたそうで、色事のモメゴトのあげくの力演は、概してカケアイ漫才の要領になるものかも知れぬ。これは私も身に覚えのあるところである。
 然し、衣子が種則をハッタと睨んで、それでは、あなたは、はじめから美代子を弄ぶつもりで、私たちをダマしたのですね。今になって、低能とは、あなたは、兄さんの縁談とは別に、自分一個の意志で美代子をもらいたいと仰有った筈ではありませんか。それもこれも、はじめから兄弟グルの計画でしょう、ときめつけると、とんでもないことです、それは、つまり、恋の一念だったのです。
 何が恋の一念ですか。一文の持参金もいらないなどゝ仰有りながら、今となって、全財産の半分などゝは、兄弟グルのカラクリでなくて何ですか。世間知らずの女にも、それぐらいのことは見えすいています。
 そのとき、種則はやおら泣きだして、恨めしそうに衣子を睨み、
「ですから、僕は低能なんですというのに。こんなこと、誰にも言いたくないのです。僕は、恥は隠しておきたいのです。あなたは僕の悲しい思いを理解して下さらなければダメですよ。僕が兄貴に捨てられたら、僕はどうすればいゝのですか。それは分るじゃありませんか。僕だって、自分がそれほど能なしのバカだなんて、思いだしたくないですよ」
 ざッとこういうカケアイ漫才の調子では、もとより埒のあく筈はない。
 衣子はカンカンに立腹して、美代子に種則との絶交を申し渡し、再び会うことも文通することもいけないと宣告した。
 けれども、ものゝ十日とたたないうちに、再び二人は失踪した。今回は、美代子は前回の経験によって、ダイヤの指輪とか、金時計とか、相当の金額のものを持ちだして行ったのである。心当りを探したが、行方が知れない。
 これも機会だと思ったから、どうですか、ジッと閉じこもってクヨクヨしても仕方がないから、捜査がてら保養をかねて、温泉辺りでもいかゞですか。ヤス子さんも心配していますから、三人でブラ/\いかがです、と言ってみたが、ソッポを向いて返事もしない。
 こうなると、私も意地で、私はどうも、行きがゝりにとらわれ、押しつけがましくなって、キレイにさばくということができず、変にしつこく汚らしいモツレ方を見せてしまう結末となる。
 そこで、私は社員に三泊の慰安温泉旅行を与えることゝして、つまりヤス子と内々捜査もしてみようという、いかにも実のありそうな見せかけ、行きがゝりであるが、マズイ芝居だ。第一、失費も大変である。
 こういうマズイ芝居は忽ち報いのあるもので、こう話のきまったところへ現れたのが大浦博士である。こういう悪漢は私の肚が忽ち分る筈であるが、そうとは色にもださず、それはいゝね、僕も気がゝりで、ジッとしていられない気持のところだから、その一行に加えてくれ、費用は自弁だと言う。むろんヤス子が狙いなのである。
 私もこうなればイマイマしい。その肚ならば、こっちもママヨ、当って砕けろと、悪度胸をきめて、何食わぬ顔、衣子を訪ねた。
「実は奥さん、ウチの社で、箱根伊豆方面へ三泊の慰安旅行をやることになったんですが、これを機会に、先々で、お嬢さんの消息も調べてみようと思っています。ところがですなア。大浦博士がこれを耳にして、ちょうどよい都合だから、自分も一行に加えてくれ、という。便宜があったら捜査にでたいと内々思っていたところだと仰有るわけです。尤も、なんです、ちょうどよい都合だって、便宜がなきゃ探さない、便宜てえのは変ですなア。探したきゃア、さっそく御一人おでかけとあればよさそうなものですよ。然し、まア、それは、なんです。ところで、いかゞですか。いっそのこと、奥さんも、これこそ便宜というものでしょうから、一しょに、いらっしゃいませんか」
 と、しらっぱくれて、言った。
 色恋というものは、思案のほかのものだ。肉体というものは、まことに悲しいものなのである。美代子と種則には爾今(じこん)逢い見ることかなわぬ、などゝ厳しくオフレをだす衣子、大浦博士の魂胆を見ぬいておりながら、やっぱり、まだ二人のクサレ縁は切れずにいる。
 そこは大浦博士の巧者なところで、弟は疎んぜられ、己れの策は見ぬかれても、しらっぱくれて、からみついている。からみついている限りは、男を蔑み憎んでいても、女の方からクサレ縁を断ちきることは出来ないものだということを、ちゃんと知りぬいていらっしゃる。
 男の肉体にくらべれば、女の肉体はもっと悲しいものゝようだ。女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。そして極点まで蔑み憎んでいるものだ。そのくせ、女の肉体の弱さは、その極点の憎悪や軽蔑を抱いたまゝ、泥沼のクサレ縁からわが身をどうすることもできないという悲しさである。
 大浦博士がわが社の慰安旅行の一行に加わりたいという。ヤス子に寄せる御執心のせいである。私はしらっぱくれて、意地悪くそれを匂わしてやった。私だって、腹も立ちます。これくらいバカ扱いに扱われては、そちらにも、ちょッとぐらいは腹を立てゝもらいたいものだ。あげくに私がドジをふんでも、私だって、たまにはドジをふんでも、意地わるをしてみたいものだ。
 衣子がキリキリ柳眉をさかだてる。ハッタと私を睨みすくめる。ジロリと軽蔑の極をあそばす。それぐらいは、覚悟の上だ。
 と、あにはからんや、柳眉をさかだてる段ではなく、ちょッとマツ毛をパチパチさせるぐらいのことがあったと思うと、ニッコリと、いと爽やかに私をふりむいて、
「あなた、裏口営業というものに私をつれて行ってちょうだいよ。私、まだ、インフレの裏側とやら、浮浪児もパンパンも裏口営業も見たことがないわ」
「何を言ってますか。当病院がインフレ街道の一親分じゃありませんか」
 私はとっさに慌てふためいて、胸がわくわく、心ウキウキというヤツ、衣子の次なる言葉が怖ろしい、何やらワケの分らぬ早業で、心にもないウワズッタ返事をする。
「お巡りさんにつかまって、留置場へ投げこまれたら、却って、面白いことね」
 なんでもない顔、私をうながしている。はからざる結果となった。
 衣子は酔った。私が酔わせもしたのであるが、衣子がより以上に酔いたい気持でいたのであろう。とゞのつまり、私たちは待合をくゞった。
 私という男を衣子が愛している筈はなかった。むしろ蔑んでいる筈だ。酔っ払った衣子は、美代子なんかどうでもいゝのよ。死のうと、パンパンになろうと、もう、かまわない。私は私よ、と言った。ヤケクソである。四囲の様々な情勢がこゝまで衣子を運んできた筋道は理解がつくが、その四囲の情勢というヤツが、私が細工を施したわけでなく、その一日の運びすら私がたくらんだものではない。
 私はいさゝか浮かない思いもあった。誇りをもつことができなかったからだ。私は自分の工夫によって、こゝまで運んできたかったのだ。
 私は三人のジロリの女をモノにしたいと専念する。愛するが為よりも、彼女らに蔑まれている為である。私の気持はもっぱら攻略というもので、その難険の故に意気あがり、心もはずむというものだ。いわば三人の御婦人は私の可愛いゝ敵であるが、汝の敵を愛せという、まさしく私は全心的にわが敵を愛しもし、尊敬したいとも考える。
 私はわが敵を尊敬したいから、そのハシタナイ姿は見たくない。だから私は私の工夫によって事を運び、私の暴力によって征服したいものであり、彼女らの情慾などは見たくない。
 私はどうやらアベコベに、衣子のヤケクソに便乗して待合の門をくゞったが、もとよりそれはここをセンドと私が必死に説得してのアゲクであるが、それとは別に、私はやっぱり淋しかった。
「遊びですよ、奥さん。大浦先生と違って、私は遊びということのほかに、何ひとつ下心はないのです。私はあなたに何一つ束縛は加えませんし、第一、いつまでも、あなたと云い、奥さんとよび、遊びは二人だけのこと、死に至るまで、これっぱかしも人に秘密をもらしは致しません。私はたゞ奥さんを心底から尊敬し、また愛し、まったく私は、下僕というものですよ」
 酔い痴(し)れた衣子は、然し、もうこんな理窟は耳にきゝわけられなかった。
「どうなったって、いゝですよ。野たれ死んだって、私はいゝのよ」
 と、衣子は廻らぬロレツで、私の肩にすがりついて、よろめいている。それはまだしもであるが、
「ねえ、あなた」
 ふと酔眼に火のような情慾をこめて私を見る。もとより理知ある人間のものじゃなくて、キチガイのものだ。私はいさゝかふるえた。泣きたかった。やるせないものである。とは云いながら、私の胸は夢心持にワクワクしてもいるのである。
 衣子はネマキに着代えずにドスンとフトンの上にころがったが、私が寄りそって横になると、さすがに、にわかにキリリとして、
「三船さん、ダメ」
「だって、あなた、今さら、そんな」
 衣子は身もだえて、はゞみ、
「あなた、酔ってるのね」
「いゝえ、酔ってはおりません。私はひどく冷静なんです」
「私は酔ってる。ヨッパライよ。けれども、頭はハッキリしたわ。あなた、約束してくれる。旅行に行っちゃダメよ。私を一人にしちゃダメよ」
「えゝ、えゝ、御命令には断じて服従します。行きませんとも」
 そして私は何とも悲しく、なつかしい思いになった。そして気違いのように衣子のウナジをだいて、接吻の雨をふらしたものだ。
 私はながく眠らなかった。
 衣子が眠ったのを見すますと私は起き上って、枕元に用意させた酒をのんだ。
 何か茫々とした心の涯に、悲しさもあった。然し、あたゝかい愛情がこもっていた。いとしい女よ。私は時間について考えた。この女を口説きつゝあった時間、心に征服を決意してからの長い時間、その時間に起った様々の出来事ではなく、たゞその時間というものだけをボンヤリ意識しているだけだった。それは何か「なつかしさ」というものゝ総量のような感覚であった。ほかに思うこともない。私はボンヤリ酒をのんだ。

          ★

 その翌日は忙しい。私は衣子との約をまもって、旅行に不参しなければならないのだが、私は然し、私の行かないことは構わぬけれども、大浦博士とヤス子のことを考えると、我慢ができない。
 私は出社して局長をよび、
「私は明日の旅行には行かないよ。私の行かない方が、みんなの慰安にもなるだろうよ。ところで、大浦博士だがね、こいつを君の力でなんとかゴマカしてくれないかね。この先生はヤス子さんが狙いなのだから、私はヤス子さんにムネを含めて、これも不参ということにしていただくつもりだが、まったく君、この先生にのさばられちゃ、たまったものじゃアないからな。君たちだって、やりきれないだろう」
 そこで局長と相談して、ひとつ大浦博士をこの機会にコラシメのためナブリモノにしてやろう、というわけで、伊豆へつれだしておいてから、実は社長とヤス子さんは、おくれてくる筈、ほかに宿をとっている筈ですがね、慰安旅行の邪魔にならないように、最後の日にチョッとだけ顔をだすようなことを云ってましたぜ、昼はどことかのお嬢さんの行方を探しているそうです、と言ってもらうことにした。
 社にいると大浦博士がやってくる怖れがあるから、ヤス子を誘いだして、
「実は、ヤス子さん、お願いがあるのですが、あすの旅行に欠席してもらいたいのです」
 こう、きりだしておいて、私も意を決し、計略を立てゝきたのであるから、ヤス子を近郊の温泉旅館へ案内して、昼食をたべた。
 こういうことは、ハズミというもので、だいたい色事はそんなものだ。衣子に別れる。すぐその足で別の女を口説きたくなる。これがハズミで、変に度胸のこもった決意がかたまるものである。
 まア落付いて話しましょう。こゝはつまり、鉱泉といったって、実はアイビキ旅館ですがね、これも後学のためですよ、などゝヤス子を案内してきたが、ヤス子は平然たるものであるが、テーブルに向いあってキチンと坐って、いさゝかも油断なく、厳然古武士のような正座である。私は遠慮なくくつろいで、お酒をのんだ。
「さて、先刻の話ですが、この旅行、なぜ欠席していたゞきたいか、実は大浦先生のコンタンが癪にさわるからなんです。もちろん、おわかりのことでしょうが、大浦先生の目的は、失踪者の捜査じゃなくて、ヤス子さん、あなたがお目当なんですな」
 ヤス子は毛筋ほども表情をかえず、
「私のことは私の責任で致しますことですから、欠席は無用と存じますけど」
「いえ、そこが私のお願いなんです。これは社長の命令ではありません。お願い、つまりですな、私は大浦先生が憎らしいから、ひとつ、裏をかいてやろうというわけです」
「私は大浦先生を憎らしいとは思いません」
 ズバリと云った。私への敵意がこもって見えたけれども、私はこれを決意の激しさによるせいとして、たじろがない。
「だって、憎たらしいじゃありませんか。美代子さんの捜査だなんて、心にもないことを云って、卑怯ですよ」
「あの場合、それが自然ではないでしょうか。つまらぬことを、わざわざ正直に申す方が、私には異様に思われます」
「これは参った。まさしく仰せの通りです。それは実は私のかねての持論の筈だが、私はまったく、持論を裏切る、小人物の悲しさというものですよ」
 こういう御婦人に対してはカケヒキなしにやるに限る。
 ヤス子は初対面の博士を好ましからぬおもいで見ていた様子であるが、並々ならぬ御執心にほだされて、好意に変っているのである。ヤス子の正義と見るものは、その人の偽りなき直情であり、その人の過去の色事などは意としておらぬ。これは最もあたりまえな女の感情であるが、ヤス子はその理知と教養と凜々しい気魄をさしひくと、つまり最もあたりまえの女であり、生半可の学問で、自分の女の本能的な感情を理論的に肯定しているだけなのだ。
 もとより私は、それに相応して、想をねってきたのである。
「まったく、あさましい次第です。支離メツレツ、これ実に、あさはかな嫉妬のせいです。打開けて申せば、ヤキモチによるあさはかなカラクリ、ザンキにたえません。私はだいたい、ヤキモチが好きではないのです。私は御婦人に惚れます。私の惚れるとは犬馬の労をつくし、尊敬の限りをつくすことで、私は下僕となる喜びによってわが恋をみたすタテマエなんです。私はわが愛人と遊びたい。愛とは遊ぶことです。その代り、踏みつけられてもよろしい。踏まれるためには、やわらかな靴となって差上げたいとすら思うものです。恋の下僕にとって、愛人は常に自由の筈であり、ほかに何をしようと、恋人をつくろうと、私は目をつぶっていなければならない筈です。私はヤキモチはキライです。自分にとっても、これは不快な感情ですよ。そのくせ、やっぱり、やくんです。これは本能というヤツで、まったく、なさけない次第です」
 ヤス子の表情もその正座も微動もしない。私だって、切りだした以上は、オメズ、オクセズ、めったなことで、あとへは引かない。
「私も然し、たいがいのヤキモチはジッとこらえていられるのです。又、こらえていなければいけない筈のものなんですよ。けれども、大浦先生の場合だけは特別ですよ。先生と私との関係は、今までたゞもう私が犬馬の労をつくすに拘らず、踏みつけられ、利用され、傷けられるのみの関係ですから、ヤキモチ、いや、これはもう、男の意地というものなんです。特に、ヤス子さん、あなたの場合だけは、負けられない。大浦博士が旅行参加を申しでゝこのかた、私は殆ど、寝もやらず、遂に悲愴なる決意をかためた次第なんです。私はあなたを尊敬し、敬愛し、祈りたいほども愛し、あこがれていました。けれども、大浦先生に出鼻をくじかれて、あの先生と私との関係が今までもそういう関係なものですから、その惰性によって、たゞもう、ひそかに、ネチネチと思い屈し、恋いこがれるのみ、悲しい思いをしていたのです。こうして、今、うちあけることができて、私は清々しているのです。左様なわけですから、どうか、お願いです。旅行は不参ということにして下さいませんか。さもなければ、私は胸の切なさに、死なゝければなりません」
 ヤス子は黙然と無表情であったが、やがて始めて意志的に笑おうとつとめて、
「私、そんなお言葉を承るには馴れていないものですから、今すぐ私の本心からの御返事ができるかどうか、心もとない気持なのです。そうまで仰有います以上は、旅行に不参と致さなければいけないように思われますから、不参することに致しましょう。お言葉に逆らうことが致しにくいように思われるための御返事なのです。私の本心がそう致したいということとは無関係なことなのです」
 ひどく冷静なものである。私もいくらか戸惑いした。次の言葉に窮したという気持であったが、そんなことではいけないと、ムリに機械に油をさすようにして、
「ありがたいシアワセです。おかげで私も安心しましたが、然し、ムリヤリあなたの気持をネジ向けていたゞいた心苦しさには、当惑、むしろ、罪悪、やりきれません。私はまったく御婦人に思いをかけるということは、下僕として仕え、尊敬するというタテマエですから、何かこう、社長めいてお話するのが変テコで、まして、その関係を利用しているようなのが、やりきれないのです。社長なんかと思わずに、きいて下さい。私はあなたを尊敬し、おしたいしている下僕です。もとより私は、一介のヤミ屋、教養とても低い男です。無数に恋もしてきました。私は然しいつも恋に仕え、愛人に仕えることを喜びとしたものです。私は結婚しようの何のと、そんなウソはついたことがありません。私はいつも下僕と遊んで下さい、たゞ遊んで下さいと頼むのです。どうせ私のような者には、はじめから御気に召して下さる御婦人はありませんから、私はいつも、必死にたゞもう頼むのですよ。その代り、お気に召すよう、どのような努力も致します。仰せにしたがい、どのようにもして実を見せます。水火をいといません。どの愛人にも、そうでした。然し、ヤス子さん、地位も学もない私如き者のことですから、私のかかわりあった御婦人も御同様、学も理想も気品もない方々ばかりで、これはひとえに敗戦によるタマモノでしょう、あなたのような高貴な、また識見高い御婦人に近づき得るなどゝは、夢のような思いなのですよ。あなたから見れば、下賤、下素(げす)下郎(げろう)、卑しむべきウジムシに見えるでしょうが、恋に奉仕する私の下僕の心構えというものは、これはともかく、私がとるにも足らぬものながらこの一生を賭けているカケガエのない魂で、これだけが私の生存の意味でもあり、誇りでもあり、私の全部でもあるのです。私があなたにマゴコロこめて奉仕することを許していたゞきたいものです。如何なる仰せにも従います。犬馬の労をつくします。私はあなたの心もからだも、下僕のマゴコロの尊敬をこめて愛し仕えますから、どうか私と遊んで下さい。この願いをきゝいれて下さい」
 ヤス子の顔色は相変らず犯しがたいものがあったが、むしろいくらか、やわらかな翳がさして、
「私は肉体にこだわるものではありません。終戦後、様々な幻滅から、私の考えも変りましたが、然し、理想をすてたわけではありません。肉体の純潔などゝいうことよりも、もっと大切な何かゞある。そういう意味で、私はもはや肉体の純潔などに縛られようとは思わなくなっているのです。然し、肉体を軽々しく扱うつもりはありませず、肉慾的な快楽のみで恋をする気もありませぬ。社長はよく仰有いますね。恋は一時のもの、一時的な病的心理にすぎないのだから、と。それは私も同感致しておりますのです。然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思いだすのでございます。自然があのように静かで爽やかであるように、人の心も静かで爽やかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋心とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと、女心の感傷かも知れませぬ、けれども、私の願いなのです。夢なのです。私は現実に夢をもとめてはおりませぬけれども、その夢に似せて行きたいとは思います。私は肉体や、その遊びを軽蔑いたしてはおりませぬ。肉体を弄ぶことも、捨てることも怖れてはおりませぬ。たゞその代償をもとめています。それの代りに、ほかに高まる何かゞ欲しいと思います。女の心は、殿方の心によって高まる以外に仕方がないとも思います。私の心を高めて下さる殿方ならば、私はどなたに身をおまかせ致しても悔いませぬ」
「そうですか。すると、お言葉の意味は、私はつまり、あなたの心を高める男ではないというわけですね」
「いゝえ、今までの浅いおつきあいでは、わかりかねるというだけの意味です」
 ヤス子は一きわ顔をひきしめ、私をきびしく見つめて、言った。それは私を励ますような様子でもあった。母性愛の一変形というような、いわば不良児へのいたわりと激励というところであろう。そこで私がウマを合わせて、
「じゃア、見込みがないわけでもないのだな。そう考えて、よろしいのですね」
 ヤス子は答えない。なんとなく、侘びしそうな浮かない様子であった。冗談が嫌いなのだろう。
「ヤス子さん。あなたを高めるといったって、事実、私は全部のものを今こゝへさらけ出しているのですよ。手練手管のある人間でもなく、頭のヒキダシの中に学問をつめこんでおく男でもありません。まったく、これだけの人間です。先程も申しました通り、つまり、恋と愛人とに奉仕する、すべてを賭けて奉仕のマゴコロを致すというだけの人間なんです。それが私の身上です。イノチなのです。それが人を、高めるのか、低めるのか、それは私は知りません。たゞ、人を傷つけないことは確かです。そして高めるかどうか、その答が、実際にためしてみた後でなくて、いったい、現れてくるものでしょうか。私は私のすべてのものに賭けて、ひたすら、あなたに奉仕のマゴコロを致したいのです。ためして下さい。そして、それが意にみたぬものであったら、もともと私は下僕です、すて去り、突き放して下さればよろしいのです。あなたへの奉仕と尊敬は、その切なさにも堪えねばならぬと命じるのですよ」
 ヤス子は答えない。
「ためして下さい。私の切なる希(ねが)いをきゝとゞけて下さい。さもないと、死にます。いゝえ、ほんとですとも。この場で、今すぐにも、アッサリと、自殺します。ツラアテではないのです。私は生きているのが面倒なんですよ。私みたいなバカは、いつまで生きてみたって仕方がない。バカながら、自分のバカを感じることは、もう、タクサンという気持ですな。私は今朝、ふッと、考えたのです。一つのチャンスというものだから、この恋がダメなら、これをキッカケに、いっそ、それで死んじまえと思ったのです。そんな覚悟めいたものは、四五年前から、できていました。然し、実行の気持になったのは、今日がはじめてのことなんです。然し、もとより、死ぬことよりは、切なる思いをきゝとゞけていたゞく方が、どれだけ身にしみて有難いか知れません。どうか、私の哀願に許しを与えて下さい」
 ヤス子は再び答えなかった。
 私は胸のポケットへ右手をいれた。ある物を握りしめた。私はしばらく、目を閉じていた。私は自然、うなだれてしまった。私の心は寒々と澄んだ。むなしく、ひろく、何もなかった。こんなものか、と私は思った。なんの感動もなければ、悔いもない。
 そして私は、握りしめたものを、胸にきつく押しつけた。心臓からの血しぶきが、胸のワイシャツに赤々とあふれ出た。
 私はのめろうとする上体を起して、ヤス子をボンヤリ眺めていた。ヤス子は恐怖と驚愕にすくんだが、今にも私めがけて飛びつこうとするときに、私はガックリのめってしまった。
「三船さん、バカ、バカ」
 私を抱き起そうとしたが、にわかに私の耳に口を当てて、
「シッカリして。今、医者をよびます。そんな、そんな、子供じみたことを」
 私は顔をあげた。同時に、からだを起した。私は無言、呆気にとられるヤス子を見つめ、そして、ヤス子の手を静かにとって、ゆっくりと甲に接吻した。
「ヤス子さん。ごめんなさい。死ぬマネをしてみたのですよ。でも、ちょッと、死んだような気もしましたよ。ゴムフーセンに入れた赤インキですよ」
 ヤス子は思いのこもった鋭い視線で私を睨んでいたが、私は平然たるものである。
「ヤス子さん、事の結果が、あなたをバカにしているようですが、そんな気持じゃないのです。私は私のバカさ加減をお目にかけるつもりだったのです。私は軽蔑されようと思ったのです。その意味を御存知ですか。私の一生はピエロなんです。私はそれをハッキリ自覚しているのです。それは世間にはピエロを自認するニヒリストは有り余るほどおりますよ。然し、彼らがピエロでしょうか。ウソですよ。みんな自尊心が強くって、そのアガキの果に、マジナイみたいにピエロ気取りでいるだけですよ。私は、自尊心がないのです。ですから、ピエロ、下僕ですよ。私は尊敬し、愛するものに、すべてをあげて奉仕すれば足りるのですよ。私はあなたに軽蔑されてもよろしいのです。それでもマゴコロをさゝげています。踏んづけられても蹴られても、やっぱりマゴコロをさゝげて、かりそめにも仕返しなどは致しません。どうせ、それだけのものなんだから、ひとつ、と、私は今朝ふと思ったのです。急に自殺のマネをしてみようと思ったのです。実際、死んでもよかったのです。まったく、そうでした。私は胸のインキのタマを握りしめていたとき、死ぬマネをするなどゝは思わず、実際、短刀を握りしめているのと変りのない気持になっていたのです。よし、死のう、と思いました。おかしくもなければ、悲しくもなかったです。まったく、無意味千万でした。でも、ヤス子さん、このバカさ、これは、いつわらぬ私の姿なんですよ。恋をしても、これだけ、恋に奉仕しても、これだけ、いつも、これで、全部です」
 私はヤス子の手をとり、バカみたいに敬々(うやうや)しく、くちづけした。そして、その手を放さずに、
「まったく、わけが分りゃしませんよ。今朝目がさめて、あなたにひとつ、胸のうちを打ちあけてと思うと、たゞなんとなく、ふッと、こんなことをしてみたい気持になった始末なのですから。われながら、バカらしい次第です」
 まったく、その通りでもあったのである。然し、私は尋常では、どうせダメだと思ったから、ふと、こんなことをやる気になった。別に確たる計算はない。蛇がでるか、何がでるか知らないが、とにかくキッカケをつくって、そこから後はその場次第に、出たとこ勝負、当って砕けるというタテマエの仕事なのである。そして、それには、なまじいに、心理の筋道を考え、計算をとゝのえてやるよりも、いっそデタラメなバカゲきったことをやらかして、偶然に賭ける方がたのしみだと思っただけだ。
 この賭けは思いのほかに成功したらしい。なぜなら、ヤス子は私に手を握られて、ボンヤリしているからである。世の中のことは分らぬものだ。後日、ヤス子は私に言ったが、このときは、バカらしくなったのだそうだ。要するに、それだけであったが、なんだか、感動したということだ。
 私は、このバカバカしい成功を、信じていゝか、迷ったほどだ。そして私は信じるよりも、えゝ、どうせバカのついでだ、という居直り強盗の心境になった。
 私はそこで、すり寄って、ヤス子の肩をやわらかくだいて、静かに接吻した。ヤス子はボンヤリして、うつろな目をあいたまゝ、されるまゝになっていた。
「ヤス子さん。私の魂はあげて下僕、ドレイのマゴコロです。けれども、とにかく、邪念なく、マジリケなしに、マゴコロがすべてゞすよ。私はあなたを愛し、尊敬し、こよなく、祈るようにお慕いしています」
 とネンゴロに云って、次第にはげしくだきしめた。

          ★

 思いをとげるということは、ある意味では、むなしいことだ。けれども、私はそうは言わない。マゴコロのもえ育つ日という。私は愛する人が、いとしい。それは、私よりも、いとしくさえ思われる。否、私よりもいとしいとハッキリ言いきれるのである。
 わけてもヤス子はいとしかった。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ景色のように、人の心も、その恋も澄む筈だと云った。あのリンリンたる言葉を、美しい音楽のようにわが耳に思いだして、私の心はいとしさに澄み、そしてひろびろとあたゝまる。
 私のようなバカ者の中から何らかの高貴を見出し、高まろうとする。それはヤス子の必死の希いだ。さすれば下僕のマゴコロたるもの、何ものか自ら高貴でありたいと切に祈るのも仕方がない。さりとて、こればっかりはムリである。私は所詮高貴じゃない。
 梨の花がさいていた。それは私にとっては別に美なるものには見えなかった。こんなものが、あの食べられる梨になるのかなアと思った。
 私はいつもオシャベリだ。人に対して何か喋らずにいることが悪事のようにすら思われる幇間的な性根が具わっているのだが、アイビキのはての帰りの散歩の道などでは、どういう言葉もイヤになって、怒ったように、黙りこんでしまう。私の心がむなしくないからだ。いとしくて、そして、せつないからである。
 私は、まったく、金竜のような女と一しょにいる時でも、その悪党ぶり薄情ぶりに敬服し、私よりもはるかに偉いものだと思っていた。ヤス子には、あゝいう水際立った目ざましい特技はないが、そのあたりまえさ、あたりまえの高さ、凜々しさ、それは私の心をやすらかにして、そしてそれだけの何でもないことの中で、金竜のそれとは異質の、然しそれよりも一そうの目ざましい何かで、とびあがるほど私の心をしめつけることがあった。それは気品というものだろうか。私は自分が、下素なバカ者であることが、あさましくて、せつなかった。
 私は自分が甘ったれているのだろうかと思った。自分が下素でバカ者だ、などゝは、甘ったれていることだ。けれども、私はそれで納得できるわけでもないのである。
 私はいっそ衣子とのことを、ヤス子に白状しようかと思った。ヤス子に甘えているわけではないのである。そんなことで高まろうというわけでもない。要するに、何かしないといけないような気がし、圧倒されるからで、それ以外にどういうことでもないのである。
 何か奉仕をしなければならぬ。私は夜毎、衣子を訪れるたびに、高価なオクリモノを忘れなかった。それも奉仕だ。衣子はそれを喜ぶ女だからである。けれども、ヤス子に対しては、奉仕する物の心当りがない。はては帰りの道々で、喋る言葉の奉仕すらもできなくなっている始末である。
 昼はヤス子に逢い、夜ごとに衣子を訪れた。そして三日の慰安旅行が終って、大浦博士も戻ってきた。
 その夕方、私はシラッパクれて、東京駅へ一行を出迎えにでて、やア、私は商用で、旅行にでられませんで、残念致しましたよ、ヤス子さんにも居残って手伝いしてもらいましたよ、捜査の方はいかゞでしたか、手がゝりがありましたか、と言ってやった。先生、むくれて、返事もしない。
 大浦博士は私を見くびっているから、私と衣子のことなどは考えてみたこともない。
 その足で、博士はわが家へは帰らず、衣子を訪ねた。情炎の始末をせめてはこゝで、というわけであろうが、ところが、こゝに、さらに、はからざる痛撃をくらった。
 意外や、衣子がキリキリとマナジリを決し絶縁を言い渡す。財産横領、結婚サギ、兄弟の共同謀議、面罵をくらったものである。いかなる弁解も、哀願も、うけつける段ではない。
「あなたの腹は底の底まで分りました。いつまでもダマされてはおりません。インフレの生活難とは申せ、名誉ある学者が、市井(しせい)の無頼漢にも劣らない卑劣なことが、よくもまア、おできになったものですね。病院の出張診療ももはや御無用に願います」
 と云って、完全に縁がきれてしまった。この病院の大浦博士の出張診療は、この病院の看板であるから、衣子が博士とのクサレ縁をきることができなかった理由の一つは、その利害にもよるのである。博士はそれを見抜いているから、婆さん慾にからんでいると見くびっていた。腹を立てゝも、この病院の一枚カンバンはおろすわけにはゆくまい、とタカをくゝっている、そこをやられて驚いた。博士の方にしてみても、大学教授ではインフレがのりきれないから、これをやられると、糧道をおびやかされる。
 博士はひと先ず引きあげたが、あゝは云っても、あの病院の大切なカンバン、折れてこない筈はない、と、電話をかけて、ためしてみても、何日すぎても形勢の変る見込みがない。
 仕方がないから、私を訪れてきて、
「あの病院、僕がやめたら成立ちゃしないだろう。先方も、今さら後悔しても、行きがゝりの勢い、内々困っているのだろうから、三船君、君が行って、こだわらなくともよいから、安心させてやりたまえ」
「そうですか。先生の意志はお伝えしてもよろしいけれども、然し、どうも、実は、なんです、衣子さんから私が依頼をうけたこともあるのです」
「なんだい。じゃア、もう、先方から、僕に復帰してくれるように、君にたのんできたのかい」
「とんでもない。実はA大の久保博士ですなア。あの方は天下に先生と並び立つ隠れもないその道の大家、名医ですが、あの方に後任をたのんでくれとのことで、四五日まえ、ハッキリ話がきまって、今日あたりはもう出張診療されている筈なんですな。この先生を口説き落すには、私もずいぶん骨を折りましたよ」
 愕然、大浦博士は顔色を失い、私の言葉を、鉛色の目の玉でみつめている。
「君は、その依頼をうけて、僕に復帰をたのむ方がいゝというようなことを、言ってやらなかったのか」
「それは、もう、如才なく、申上げたものですとも。けれども、衣子さんが受付けやしませんや。物凄い見幕で、私の方が叱りとばされる始末ですもの」
 博士の目にランランたる憎しみの光がこもって、
「久保という男は、天下名題の色魔だよ」
 まるで私に食ってかゝる見幕である。私も腹にすえかねて、
「そうですか。然し、もう、あの病院には、お嬢さんは例の通り、どこかの色魔にそゝのかされて家出をあそばして、あとはもう、別に色魔にかゝるような御方もいらっしゃらないじゃありませんか」
 博士は口をひきしめジロリと私に睨みをくれてでゝ行ったが、まもなく、ヤス子がはいってきて、大浦先生が誘うから、三十分ほど外出させてくれ、と云って、立ち去った。彼がヤス子を誘いだすのは、殆ど、毎日の例なのである。平素は、ヤス子を誘いにきても、私の部屋に顔をだしはしなかった。
 私の胸は、常に嫉妬に悩んでいた。
 私は嫉妬の色をヤス子に見せないために、異常な努力を払っている。すると私の目の色は、日毎に濁り、無気味な光をたくわえて行くようである。
 そして、私は、時々、変なことをするようになった。街を歩いていると、とある家にハシゴがかゝっていて、屋根屋が屋上で仕事をしているのである。ちょうど私が通りかゝった時、屋根屋が屋根の向う側へノソノソ消えて行く時であった。私はフッとハシゴをつかんで、横に地上に倒して見向きもせず歩きだしていた。
 又、ある時、買い物して現れて自転車に乗ろうとする男が万年筆を落して知らずに走り去ろうとするから、よびとめて、万年筆を拾いあげて渡してやった。すると、男が胸のポケットへ万年筆を入れようとして、片手に買い物の包みを持ち、片手でゴソゴソ苦労している、そのジャンパーのポケットから大きな紙入れが半分ものぞけている、とッさに私はそれをスリ抜いて歩いていた。一万円ちょッと、はいっていた。
 私はヤス子に関する限り、大浦博士に勝ち誇る気持には、どうしても、なることができない。私の心は、いつも負け、嫉妬しているだけであった。
 私はいったい何者だろうと考える。私は遊びふけって尽きないだけのお金をかせいでいる。大浦博士はヤス子とお茶をのむ金にも窮しがちであるかも知れない。私は、大浦博士の知らないヤス子の肉体を知っている。
 私は然しそのほかに何一つとるに足らない人間にすぎない。大浦博士は、名医であり、教授であり、学者である。立派な風采をもっている。ひろい趣味をもっている。洗練されたマナーをもっている。
 どうして、こうも嫉妬深い私であろうか。私はヤキモチはキライなのだ。然し私はいつも嫉妬に狂っている。
 私はヤス子を誘う。今夜はダメですと云う。大浦先生と約束があると云う。又、ほかの誰かと約束があると云う。今日は家に用があると云う。一しょに夕食をとっても、それだけで帰ってしまう。
 ヤス子はハッキリと私を見つめて返事をする。それは嘘はつきません、ということではなくて、こゝまではホントです、というように私には見える。そして、そこから先は、私は訊くことができない。
「ヤス子さん、あなたは恋愛したいと思いますか?」
「えゝ」
 と、ハッキリ答えるのである。
「どんな人と?」
「一番偉い、立派な方」
「有名な人がお好きですか」
「有名な方は、ともかく才能ある方でしょう。女は有名が好きですわ。すべての方に好かれる人を、自分のものにしたがるのですわ」
「なんだか、あてつけられているようだな」
 こういう時には、ヤス子はいつも返事をしない。
「私の心は、浮気です。そして、私の浮気の心を縛りつけてくれる鎖となるような、大きな力が知りたいのです。欲しいのです」
 ヤス子の目に浮気の光は見ることができない。然し、誰よりも浮気であるかも知れないことを、私もたしかに信じていた。
 ヤス子はダンスホールの喧噪の中でも、いつもと変らぬ自若たる様子である。他に無数の踊り狂い恋い狂う人々があることに、目もくれる様子がなかった。それは、そういうことに無頓着なわけではなくて、そういうものゝ最高を見つめ、そのためには、いつ何時でも身をひるがえして飛び去る用意ができているから、という様子でもあった。
「今日は泊りにつれて行って」
 と、ヤス子はハッキリと申しでる。その目に色情の翳が宿っていないものだから、私はヤス子の無限の色情、浮気心に圧倒されてしまうのだった。
 私はヤス子が妖婦に見えた。これが本当の妖婦だと思うようになっていた。

          ★

 失踪の二人は金を費(つか)い果して帰って来た。
 美代子はわが家へ帰ることができず、先ず私の会社へヤス子を訪ねてきたが、ヤス子をみると力が尽きて、倒れてしまった。熱がある。然し、それよりも、腹部の苦痛のために、呻き、もがいた。
 生家の病院へかつぎこむ。淋毒であった。
 二人は温泉などへは行かず、種則の知人の病院の病室へ、入院の形で下宿させてもらっていたのだ。種則は時々外泊した。美代子の持ちだした品物を売って、ダンサーと遊んでいたのである。二人は争うことが多くなったが、家出の身では、美代子は種則に縋らざるを得ない。種則の外泊のうちに、美代子は種則の知人の医者に犯された。その関係を、種則は見ないフリをしていた。病院の宿泊代を払わなくても済むからと、彼はむしろ喜んでいたのだ。種則は、金がつきたので、美代子に命じて、再び家から金目の物を持ち運ばせる手筈であったが、美代子が病気になったので、追い返してしまったのである。
 泊っていた病院から、種則のもとへ宿泊料のサイソクが行った。種則は支払うことができないから、美代子に手紙を届けさせて、宿泊料はそっちで支払え、美代子は院長と関係があるのだから、宿泊料の始末は美代子がつける責任がある、という言い分である。食費がはいっているから、この金額は二万七千円になっている。
 美代子はまだ病床についていた。家人には手紙を隠していたのだが、病院からサイソクがきて、バレてしまった。
 衣子は私をよんで、大浦家へ行って、この始末をつけてくるように、なんなら、こっちから慰藉料請求の訴訟ぐらい起してもいいのだから、というキツイ御命令である。
 そこで私は大浦家を訪れて、
「あなた方御兄弟もミミッチイ悪党じゃありませんか。こんな宿泊料を小娘に押しつけようなんて、ケチもいゝけれど、あんまりミミッチイ話じゃありませんか。第一、ヤブヘビですよ。慰藉料請求というような訴訟を起されたら、どうなさる」
 種則は平然と苦笑して、
「君は、いったい、ユスリ屋かい。どこに僕の支払いの責任があるんだ。美代子は僕に隠れて院長とできているのだ。僕は裏切られているのだぜ。慰藉料を請求するんだったら、院長のところへ行くがいゝさ。それで宿泊料を帳消しにするのがよかろうよ。とっとゝ、帰りたまえ。変なユスリ方をすると、タメにならないよ」
 と云って、ヨタ者みたいなセセラ笑いをしている。私は全く腹を立てた。
「よろしい。只今の言葉をお忘れなさるな」
 私はその足で、二人の泊った病院へ行き院長に会い、
「さて、先生、私は富田病院から来た者ですが、大浦種則なる先生が、この病院の宿泊料二万七千円、これを美代子に支払いの義務があると云ってきました。その理由は、あなたと美代子に関係があるから、と、こういう次第です。関係のことはともかくとして、美代子の方に支払いの責任ありとは思われませんから、当方の意志をこちらへお伝えに参りました。宿泊料の請求は大浦種則にお願いします」
 院長は顔色ひとつ変えず、苦々しげに皺をよせて、
「なに、関係? なにを云っとる。パンパンみたいなものじゃないか。こっちは淋病をもらって、被害を蒙っているだけだ。こっちは、とにかく、誰からでもいゝさ。宿泊料だけ、もらえばいゝのさ」
 私はカンカン立腹して、立ち戻って、報告して、
「あんな悪党どもったら、ありゃしません。黙っている手はありません。これは、もう、ハッキリ訴訟を起して、慰藉料をとるべきです」
 すると、衣子の顔色が変った。
「なんですって、三船さん。あなたは美代子の恥を表向きにさせたいのですか」
「そんなバカな。然し、あなた、これだけナメられて、それでいゝのですか。種則はユスリだと云い、院長は美代子なんてパンパンじゃないか、というゴセンタクですよ。慰藉料だって請求できるんだとは、これは先刻、あなたの口からでた御意見ではありませんか」
 衣子はジロリと私を見た。
「慰藉料だって請求できる立場にあると申しましたが、慰藉料を請求すると私がいつ申しましたか。三船さん。あなたはワガママですよ。それに、なさることが卑劣ですよ。あなたのカケアイはなんですか。先方にユスリだのパンパンなどゝ言いくるめられて、ひき下ってきて、それはあなたの責任ではありませんか。御自分が勝つべきカケアイに言いくるめられて、そのハライセに、美代子の恥をさらさせてまで仇をとって、と、それはあなたが、ワガママ、卑劣ではありませんか」
「卑劣とは、何事ですか」
 私は立腹のあまり、思わず叫んだ。
 衣子は然し、冷然として、最もつめたくジロリと一ベツをくれた。そこには、怒りと憎しみが燃えたっていた。
「三船さん。卑劣とは、あなたという人、そっくり、それのことですよ。当然理のあるカケアイに、ユスリなどゝ言いがゝりをつけられるのも、あなたの人柄のせい、あなたの性根のせい、あなたがユスリのような人で、大方、ユスリでもするように談じこんだのでしょう。恥さらしではありませんか。当家の名誉はどうなるのです。まして、美代子がパンパンなどゝ、そのような無礼なことを、あなたという人が相手であればこそ、あなたが下品、粗野、無教養、礼儀知らず、卑劣であればこそ、言われるのです。美代子のような娘をパンパンなどゝ辱しめられるのも、あなたのせい、あなたの柄の悪さのために、当家の娘がパンパンなどゝ」
 衣子は血の気を失って、目は宙に吊り、うわずって、言葉をのんだが、私の怒りは、血が逆流し、コメカミの青筋が激痛をともなってフクレあがり、目がくらんだ。
「何が当家ですか。当家の娘が、笑わせるよ。まさしく、パンパンじゃないか。大浦種則みたいなウスノロにだまされて、家出をして、金品をまきあげられて、別の男と関係ができて、まさしくパンパンさ。病気になって、追んだされなきゃア、半年あとには、立派にパンパンになって、どこかの辻にたゝずんでいたに極ってらア」
「お帰り下さい。出て行きなさい。そして、もう、二度と当家のシキイをまたいではいけません。ヤミ屋、サギ師、イカサマ師のブンザイで、上流家庭へ立入るなどゝ、身の程も知らず、さがりなさい。出て行きなさい」
 最後であった。
 その裏に、一つのワケがある筈だ。久保博士の出現である。女のハラワタの汚さよ。男はたとえ人を殺し、人をだまし、盗みをしても、このように汚らしく人を裏切り傷けるものではない。女の最後の底なるものゝ醜悪さ。醜悪なるものゝ最も醜悪なるものである。

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