レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

     六 粗野なるマリユス、簡明なるジャヴェル

 マリユスの脳裏に起こったことを一言しておきたい。
 彼の心の状態を読者は記憶しているだろう。彼にとってすべてはもはや幻にすぎなかったとは、前に繰り返したところである。彼の識別力は乱れていた。なお言うが、瀕死(ひんし)の者の上にひろがる大きい暗い翼の影にマリユスは包まれていた。彼は墳墓の中にはいったように感じ、既に人生の壁の向こう側にいるような心地がして、もはや生きたる人々の顔をも死人の目でしかながめていなかった。
 いかにしてフォーシュルヴァン氏がここへきたのか、何ゆえにきたのか、何をしにきたのか? それらの疑問をもマリユスは起こさなかった。その上、人の絶望には特殊な性質があって、自分自身と同じく他人をも包み込んでしまうものである。すべての人が死ににきたということも、マリユスには至って当然なことに思われた。
 ただ彼は、コゼットのことを考えては心を痛めた。
 それにまたフォーシュルヴァン氏は、マリユスに言葉もかけず、マリユスの方をながめもせず、マリユスが声を上げて「僕はあの人を知っている」と言った時にも、その声を耳にしたような様子さえしなかった。
 マリユスにとっては、フォーシュルヴァン氏のそういう態度は意を安んぜさせるものであった。そしてもし言い得べくんば、ほとんど彼を喜ばせるものであった。彼にとってフォーシュルヴァン氏は怪しいとともにまたいかめしい謎(なぞ)のごとき人物であって、いつも言葉をかけることは絶対に不可能のような気がしていた。その上会ったのはよほど以前のことだったので、元来臆病で内気なマリユスはいっそう言葉をかけ難い気がした。
 選ばれた五人の男は、モンデトゥール小路の方へ防寨(ぼうさい)を出て行った。彼らはどう見ても国民兵らしく思われた。そのうちのひとりは涙を流しながら去っていった。防寨を出る前に彼らは残ってる人々を抱擁した。
 生命のうちに送り返される五人の男が出て行った時、アンジョーラは死に定められてる男のことを考えた。彼は下の広間にはいっていった。ジャヴェルは柱に括(くく)られたまま考え込んでいた。
「何か望みはないか。」と彼にアンジョーラは尋ねた。
 ジャヴェルは答えた。
「いつ俺(おれ)を殺すのか。」
「待っておれ。今は弾薬の余分がないんだ。」
「では水をくれ。」とジャヴェルは言った。
 アンジョーラは一杯の水を持ってき、彼がすっかり縛られてるので自らそれを飲ましてやった。
「それだけか。」とアンジョーラは言った。
「この柱では楽でない。」とジャヴェルは答えた。「このまま一夜を明かさせたのは薄情だ。どう縛られてもかまわんが、あの男のようにテーブルの上に寝かしてくれ。」
 そう言いながら頭を動かして彼はマブーフ氏の死体をさした。
 読者の記憶するとおり、弾を鋳たり弾薬をこしらえたりした大きなテーブルが室の奥にあった。弾薬はすべてでき上がり火薬はすべて用い尽されたので、そのテーブルはあいていた。
 アンジョーラの命令で、四人の暴徒はジャヴェルを柱から解いた。解いてる間、五番目の男はその胸に銃剣をさしつけていた。両手は背中に縛り上げたままにし、足には細い丈夫な鞭繩(むちなわ)をつけておいた。それで彼は絞首台に上る人のように、一足に一尺四、五寸しか進むことができなかった。室(へや)の奥のテーブルの所まで歩かせて、人々はその上に彼を横たえ、身体のまんなかをしっかと縛りつけた[#「しっかと縛りつけた」は底本では「しっかとり縛つけた」]。
 なおいっそう安全にするために、脱走を不可能ならしむる縛り方をした上、首につけた繩で、監獄において鞅(むながい)と呼ばるる縛り方を施した。繩を首の後ろから通して、胸の所で十字にし、それから胯(また)の間を通し、後ろの両手に結びつけるのである。
 人々がジャヴェルを縛り上げてる間、ひとりの男が室の入り口に立って、妙に注意深く彼をながめていた。ジャヴェルはその男の影を見て、頭を回(めぐ)らした。それから目をあげて、ジャン・ヴァルジャンの姿を認めた。ジャヴェルは別に驚きもしなかった。ただ傲然(ごうぜん)と目を伏せて、自ら一言言った。「ありそうなことだ。」

     七 局面の急迫

 夜は急に明けてきた。しかし窓は一つも開かれず、戸口は一つも弛(ゆる)められなかった。夜明けではあったが、目ざめではなかった。防寨(ぼうさい)に相対してるシャンヴルリー街の一端は、前に言ったとおり、軍隊の撤退したあとで、今やまったく自由になったかのように、気味悪い静けさをして人の通行を許していた。サン・ドゥニ街は、スフィンクスの控えてるテーベの大道のようにひっそりしていた。四つ辻(つじ)は太陽の反映に白く輝いていたが、生あるものは何もいなかった。寂然(せきぜん)たる街路のその明るみほど、世に陰気なものはあるまい。
 何物も目には見えなかったが、物音は聞こえていた。ある距離をへだてた所に怪しい運動が起こっていた。危機が迫ってることは明らかだった。前夜のように哨兵(しょうへい)らが退いてきた、しかし今度は哨兵の全部だった。
 防寨は第一の攻撃の時よりいっそう堅固になっていた。五人の男が立ち去ってから、人々は防寨をなお高めていた。
 市場町の方面を見張っていた哨兵の意見を聞いて、アンジョーラは後方から不意打ちされるのを気使い、一大決心を定めた。すなわちその時まで開いていたモンデトゥール小路の歯状堡(しじょうほう)をもふさがした。そのためになお数軒の人家にわたる舗石(しきいし)がめくられた。かくて防寨は、前方シャンヴルリー街と、左方シーニュ街およびプティート・トリュアンドリー街と、右方モンデトゥール街と、三方をふさいで、実際ほとんど難攻不落に思われた。彼らはまったくその中に閉じ込められた。正面は三方に向いていたが、出口は一つもなかった。「要塞(ようさい)にしてまた鼠罠(ねずみわな)か、」とクールフェーラックは笑いながら言った。
 アンジョーラは居酒屋の入り口の近くに三十ばかりの舗石(しきいし)を積ました。「よけいにめくったもんだ、」とボシュエは言った。
 攻撃が来るに違いないと思われた方面は、今やいかにも深く静まり返っていた。でアンジョーラは一同をそれぞれ戦闘位置につかした。
 ブランデーの少量が各人に分配された。
 襲撃に対する準備をしてる防寨(ぼうさい)ほど不思議なものはない。人々は芝居小屋にでもはいったかのように各自に自分の位置を選む。あるいは身体をよせかけ、あるいは肱(ひじ)をつき、あるいは肩でよりかかる。舗石を立てて特別の席をこしらえる者もある。邪魔になる壁のすみからはなるべく遠ざかる。身をまもるに便利な凸角(とつかく)があればそれにこもる。左ききの者は調法で、普通の者に不便な場所を占むる。多くの者は腰をおろして戦列につく。楽に敵を殺し気持ちよく死ぬことを欲するからである。一八四八年六月の悲惨な戦いにおいては、狙撃(そげき)の巧みなひとりの暴徒が平屋根の上で戦ったが、一個の安楽椅子を持ち出していた。そしてそれに腰掛けたまま霰弾(さんだん)にたおれた。
 指揮者が戦闘準備の命令を下すや否やすべて無秩序な運動は止む。もはや不和もなく、寄り集まりもなく、陰口もなく、離れた群れもない。人々の頭の中にあるものはみな一つに集中し、ただ敵の襲撃を待つの念だけに変わってしまう。防寨は危険が来る前までは混乱であるが、危険に陥れば規律となる。危急は秩序を生ずる。
 アンジョーラが二連発のカラビン銃を取って、自分の場所としてる一種の狭間(はざま)に身を置くや、人々は口をつぐんでしまった。多くの小さな鋭い音が舗石(しきいし)の壁に沿ってごったに起こった。それは銃を構える音だった。
 また人々の態度は、深い勇気と信念とを示していた。極度の犠牲心はかえって力を生ぜさせる。彼らはもはや希望を持たなかったが、しかし絶望を持っていた。絶望は時として勝利を与える最後の武器であるとは、ヴァージルの言ったところである。最上の手段は最後の決心から生まれてくる。死の船に乗り込むのは、往々にして難破から脱する方法となる。柩(ひつぎ)の蓋(ふた)は身をまもる板となる。
 前夜のとおり人々の注意は、今や明るくなって見えてきた街路の先端に向けられた、というよりそこに倚(よ)りかかったと言ってもよい。
 待つ間は長くなかった。どよめきの音がサン・ルーの方面にまたはっきり聞こえ始めた。しかしそれは第一回の攻撃のおりの運動とは異なっていた。鎖の音、大集団の恐ろしいざわめき、舗石の上に当たる青銅の音、一種のおごそかな響き、それらはあるすごい鉄器が近づいてくるのを示していた。多くの利害と思想とが交通するためにうがち設けられ、恐ろしい戦車を通すために作られたのではない、それらの平和な古い街路のうちに、一つの震動が起こってきた。
 街路の先端に据えられてた戦士らの瞳(ひとみ)は、ものすごくなった。
 一門の大砲が現われた。
 砲手らが砲車を押し進めてきた。大砲は発射架の中に入れられていた。前車ははずされていた。砲手の二人は砲架をささえ、四人は車輪の所に添い、他の者らはあとに続いて弾薬車を引いていた。火のついた火繩(ひなわ)の煙が見えていた。
「打て!」とアンジョーラは叫んだ。
 防寨(ぼうさい)は全部火蓋(ひぶた)を切った。その射撃は猛烈だった。雪崩(なだれ)のような煙は、砲門と兵士らとをおおい隠した。数秒ののち煙が散ると、大砲と兵士らとが再び見えた。砲手らは静かに正確に急ぎもせず、砲口を防寨の正面に向けてしまっていた。弾にあたった者は一人もいなかった。砲手長は砲口を上げるため砲尾に身体をもたせかけ、望遠鏡の度を合わせる天文学者のように落ち着き払って、照準を定め始めた。
「砲手、あっぱれ!」とボシュエは叫んだ。
 そして、防寨の者は皆拍手した。
 一瞬間の後には、大砲は街路のまんなかに溝をまたいでおごそかに据えられ、発射するばかりになっていた。恐るべき口は防寨の上に開かれていた。
「さあこい!」とクールフェラックは言った。「ひどい奴(やつ)だな、指弾(しっぺい)の後に拳骨(げんこつ)か。軍隊は俺(おれ)たちの方に大きな足を差し出したな。こんどは防寨も本当に動くぞ。小銃は掠(かすめ)るばかりだが、大砲はぶっつかる。」
「新式の青銅の八斤砲だ。」とコンブフェールはそれに続いて言った。「あの砲は、銅と錫(すず)とが百に十の割合を越すとすぐに破裂する。錫が多すぎれば弱くなって、火門の中に幾つもすき間ができる。その危険を避けしかも装薬を強くするには、十四世紀式に戻って箍(たが)をはめなくちゃいけない。すなわち砲尾から砲耳までつぎ目なしの鋼鉄の輪をたくさんはめて外から強くするんだ。さもなければどうにかして欠点を補うんだ。猫捜器で火門の中にできたすきまがわかる。しかし最もいい方法は、グリボーヴァルの発明した動星器を用いることだ。」
「十六世紀には、」とボシュエは言った、「砲身内に旋条を施していた。」
「そうだ、」とコンブフェールは答えた、「そうすれば弾道力は増すが、ねらいの正確さは減ずる。その上、短距離の射撃には、弾道は思うようにまっすぐにならず、抛物線(ほうぶつせん)は大きくなり、弾は充分まっすぐに飛ばなくて中間の物を打つことができなくなる。しかし実戦においては中間の物を打つ必要があって、敵が近くにおり発射を急ぐ場合には、ますますそれが大切となる。十六世紀の旋条砲の弾道が彎曲(わんきょく)するその欠点は、装薬の弱さからきている。そして装薬を弱くするのは、この種の武器では、たとえば砲架を痛めないようにというような発射の方の必要からきている。要するにこの専制者たる大砲も、欲することを何でもやれるわけではない。力には大なる弱点がある。砲弾は一時間に六百里しか走れないが、光線は一秒に七万里走る。それがすなわち、イエス・キリストのナポレオンに勝(まさ)るところだ。」
「弾をこめ!」とアンジョーラは言った。
 防寨の面は砲弾の下にどうなるであろうか。砲弾に穴をあけられるであろうか。それが問題であった。暴徒らが銃に再び弾をこめてる間に、砲兵らは大砲に弾をこめていた。
 角面堡(かくめんほう)内の懸念はすこぶる大きかった。
 大砲は発射された。轟然(ごうぜん)たる響きが起こった。
「ただ今!」と快活な声がした。
 砲弾が防寨(ぼうさい)の上に落ちかかると同時に、ガヴローシュが防寨の中に飛び込んできた。
 彼はシーニ街の方からやってきて、プティート・トリュアンドリー小路に向いてる補助の防寨を敏捷(びんしょう)に乗り越えてきたのだった。
 砲弾よりもガヴローシュの方が防寨(ぼうさい)の中に騒ぎを起こした。
 砲弾は雑多な破片の堆(うずたか)い中に没してしまった。せいぜい乗り合い馬車の車輪を一つこわしアンソーの古荷車を砕いたに過ぎなかった。それを見て人々は笑い出した。
「もっと打て。」とボシュエは砲兵らに叫んだ。

     八 大砲の真の偉力

 人々はガヴローシュの周囲に集まった。
 しかし彼は何も物語る暇がなかった。マリユスは駭然(がいぜん)として彼を横の方に招いた。
「何しに戻ってきたんだ。」
「なんだって!」と少年は言った。「お前の方はどうだ?」
 そして彼はおごそかな厚かましさでマリユスを見つめた。その両の目は心中にある得意の情のために一際(ひときわ)大きく輝いていた。
 マリユスはきびしい調子で続けて言った。
「戻ってこいとだれが言った! 少なくとも手紙はあて名の人に渡したのか。」
 手紙のことについてはガヴローシュも多少やましいところがないでもなかった。防寨に早く戻りたいので、手紙は渡したというよりもむしろ厄介払いをしたのだった。顔もよく見分けないで未知の男に託したのは多少軽率だったと、彼は自ら認めざるを得なかった。実際その男は帽子をかぶってはいなかったが、それだけでは弁解にならなかった。要するに彼は、手紙のことについては少し心苦しい点があって、マリユスの叱責(しっせき)を恐れていた。でその苦境をきりぬけるために、最も簡単な方法を取って、ひどい嘘(うそ)を言った。
「手紙は門番に渡してきた。女の人は眠っていたから、目がさめたら見るだろう。」
 マリユスはその手紙を贈るについて二つの目的を持っていた、コゼットに別れを告げることと、ガヴローシュを救うこと。で彼は望みの半分だけが成就したことで満足しなければならなかった。
 手紙の送達と、防寨(ぼうさい)の中にフォーシュルヴァン氏の出現と、その二つの符合が彼の頭に浮かんだ。ガヴローシュにフォーシュルヴァン氏をさし示した。
「あの人を知っているか。」
「いや。」とガヴローシュは言った。
 実際ガヴローシュは、今言ったとおり、暗夜の中でジャン・ヴァルジャンを見たに過ぎなかった。
 マリユスの頭の中に浮かんできた漠然(ばくぜん)たる不安な推測は、ガヴローシュの一語に消えうせた。フォーシュルヴァン氏の意見はわからないが、おそらくは共和派だろう。そうだとすれば、彼が防寨の中に現われたのも別に不思議はないわけだった。
 そのうちにもうガヴローシュは、防寨の他の一端で叫んでいた。「俺(おれ)の銃をくれ!」
 クールフェーラックは銃を彼に返してやった。
 ガヴローシュは彼のいわゆる「仲間の者ら」に、防寨が包囲されてることを告げた。戻って来るのは非常に困難だった。戦列歩兵の一隊がプティート・トリュアンドリーに銃を組んでシーニュ街の方を監視しており、市民兵がその反対のプレーシュール街を占領していた。そして正面には軍勢の本隊が控えていた。
 それだけのことを知らして、ガヴローシュは加えて言った。
「俺(おれ)が許すから、奴(やつ)らにどかんと一つ食わしてくれ。」
 その間、アンジョーラは自分の狭間(はざま)の所にあって、耳を澄ましながら様子をうかがっていた。
 襲撃軍の方は、砲弾の効果に不満だったのであろう、もうそれを繰り返さなかった。
 一中隊の戦列歩兵が、街路の先端に現われて砲車の後ろに陣取った。彼らは街路の舗石(しきいし)をめくり、そこに舗石の小さな低い障壁をこしらえた。それは高さ一尺八寸くらいなもので、防寨に向かって作った一種の肩墻(けんしょう)だった。肩墻の左の角(かど)には、サン・ドゥニ街に集まってる郊外国民兵の縦隊の先頭が見えていた。
 向こうの様子をうかがっていたアンジョーラは、弾薬車から霰弾(さんだん)の箱を引き出すような音を耳にし、また砲手長が照準を変えて砲口を少し左へ傾けるのを見た。それから砲手らは弾をこめ始めた。砲手長は自ら火繩桿を取って、それを火口に近づけた。
「頭を下げろ、壁に寄り沿え!」とアンジョーラは叫んだ。「皆防寨(ぼうさい)に沿ってかがめ!」
 ガヴローシュがきたので、部署を離れて居酒屋の前に散らばってた暴徒らは、入り乱れて防寨の方へ駆けつけた。しかしアンジョーラの命令が行なわれない前に、大砲は恐ろしい響きとともに発射された。果たしてそれは霰弾だった。
 弾は角面堡(かくめんほう)の切れ目に向かって発射され、その壁の上にはね返った。その恐ろしいはね返しのために、ふたりの死者と三人の負傷者とが生じた。
 もしそういうことが続いたならば、防寨はもうささえ得られない。霰弾(さんだん)は内部にはいって来る。
 狼狽(ろうばい)のささやきが起こった。
「ともかくも第二発を防ごう。」とアンジョーラは言った。
 そして彼はカラビン銃を低く下げ、砲手長をねらった。砲手長はその時、砲尾の上に身をかがめて、照準を正しく定めていた。
 その砲手長はりっぱな砲兵軍曹で、年若く、金髪の、やさしい容貌の男だったが、恐怖すべき武器として完成するとともに、ついには戦争を絶滅すべきその武器に、ちょうどふさわしい怜悧(れいり)な様子をしていた。
 アンジョーラのそばに立ってるコンブフェールは、その男をじっとながめていた。
「まったく遺憾なことだ!」とコンブフェールは言った。「こういう殺戮(さつりく)は実に恐ろしい。ああ国王がいなくなれば、戦いももうなくなるんだ。アンジョーラ、君はあの軍曹をねらっているが、どんな男かよくはわからないだろう。いいか、りっぱな青年だ、勇敢な男だ、思慮もあるらしい。若い砲兵は皆相当な教育を受けてる者どもだ。あの男には、父があり、母があり、家族があり、意中の女もあるかも知れない。多くて二十五歳より上ではない。君の兄弟かも知れないんだ。」
「僕の兄弟だ。」とアンジョーラは言った。
「そうだ、」とコンブフェールも言った、「また僕の兄弟でもある。殺すのはやめようじゃないか。」
「僕に任してくれ。なすべきことはなさなければならない。」
 そして一滴の涙が、アンジョーラの大理石のような頬(ほお)を静かに流れた。
 と同時に、彼はカラビン銃の引き金を引いた。一閃(いっせん)の光がほとばしった。砲手長は二度ぐるぐると回り、腕を前方に差し出し、空気を求めてるように顔を上にあげたが、それから砲車の上に横ざまに倒れ、そのまま身動きもしなかった。背中がこちらに見えていたが、そのまんなかからまっすぐに血がほとばしり出ていた。弾は胸を貫いたのである。彼は死んでいた。
 彼を運び去って代わりの者を呼ばなけれはならなかった。かくて実際数分間の猶予が得られたのである。

     九 昔ながらの射撃の手腕

 防寨(ぼうさい)の中では種々の意見がかわされた。大砲はまた発射されようとしていた。その霰弾(さんだん)を浴びせられては十五、六分しか支持されない。その力を殺(そ)ぐことが絶対に必要だった。
 アンジョーラは命令を下した。
「蒲団(ふとん)の蔽(おお)いをしなくちゃいけない。」
「蒲団はない、」とコンブフェールは言った、「皆負傷者が寝ている。」
 ジャン・ヴァルジャンはひとり列から離れて、居酒屋の角(かど)の標石に腰掛け、銃を膝(ひざ)の間にはさんで、その時まで周囲に起こってることには少しも立ち交わらなかった。「銃を持っていて何にもしねえのかな、」とまわりの戦士らが言う言葉をも、耳にしないがようだった。
 ところがアンジョーラの命令が下されると、彼は立ち上がった。
 読者は記憶しているだろうが、一同がシャンヴルリー街にやってきた時、ひとりの婆さんは弾の来るのを予想して、蒲団(ふとん)を窓の前につるしておいた。それは屋根裏の窓で、防寨(ぼうさい)の少し外にある七階建ての人家の屋根上になっていた。蒲団は斜めに置かれ、下部は二本の物干し竿(ざお)に掛け、上部は二本の綱でつるしてあった。綱は屋根部屋の窓縁に打ち込んだ釘(くぎ)に結わえられ、遠くから見ると二本の麻糸のように見えた。防寨からながめると、その二本の綱は髪の毛ほどの細さで空に浮き出していた。
「だれか私に二連発のカラビン銃を貸してくれ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 アンジョーラはちょうど自分のカラビン銃に弾をこめたところだったので、それを彼に渡した。
 ジャン・ヴァルジャンは屋根部屋の方をねらって、発射した。
 蒲団の綱の一方は切れた。
 蒲団はもはや一本の綱で下がってるのみだった。
 ジャン・ヴァルジャンは第二発を発射した。第二の綱ははね返って窓ガラスにあたった。蒲団は二本の竿の間をすべって街路に落ちた。
 防寨の中の者は喝采(かっさい)した。
 人々は叫んだ。
「蒲団ができた。」
「そうだ、」とコンブフェールは言った、「しかしだれが取りに行くんだ?」
 実際蒲団は防寨の外に、防御軍と攻囲軍との間に落ちたのである。しかるに砲兵軍曹の死に殺気立った兵士らは、少し以前から、立てられた舗石(しきいし)の掩蔽線(えんぺいせん)の後ろに腹ばいになり、砲手らが隊伍を整えてる間の大砲の沈黙を補うため、防寨(ぼうさい)に向かって銃火を開いていた。暴徒らの方は、弾薬をむだにしないようにそれには応戦しなかった。銃弾は防寨に当たって砕け散っていたが、街路はしきりに弾が飛んで危険だった。
 ジャン・ヴァルジャンは防寨の切れ目から出て、街路にはいり、弾丸の雨の中を横ぎり、蒲団(ふとん)の所まで行き、それを拾い上げ、背中に引っかけ、そして防寨の中に戻ってきた。
 彼は自らその蒲団を防寨の切れ目にあてた。しかも砲手らの目につかぬよう壁によせて掛けた。
 かくして一同は霰弾(さんだん)を待った。
 やがてそれはきた。
 大砲は轟然(ごうぜん)たる響きとともに一発の霰弾を吐き出した。しかしこんどは少しもはね返らなかった。弾は蒲団の上に流れた。予期の効果は得られた。防寨の人々は無事であった。
「共和政府は君に感謝する。」とアンジョーラはジャン・ヴァルジャンに言った。
 ボシュエは驚嘆しかつ笑った。彼は叫んだ。
「蒲団にこんな力があるのは怪(け)しからん。ぶつかる物に対するたわむ物の勝利だ。しかしとにかく、大砲の勢いをそぐ蒲団は光栄なるかなだ。」

     十 黎明(れいめい)

 ちょうどこの時刻に、コゼットは目をさました。
 彼女の室は狭く小ぎれいで奥まっていた。家の後庭に面して、東向きの細長い窓が一つついていた。
 コゼットはパリーにどんなことが起こってるか少しも知らなかった。彼女は前夜外に出なかったし、「騒ぎがもち上がってるようでございますよ」とトゥーサンが言った時には、もう自分の室(へや)に退いていた。
 コゼットは少しの間しか眠らなかったが、その間は深く熟睡した。彼女は麗しい夢を見た。それはおそらく小さな寝台が純白であったせいも多少あろう。マリユスらしいだれかが、光のうちに彼女に現われた。彼女は目に太陽の光がさしたので目ざめた。そして初めはそれもなお夢の続きのような気がした。
 夢から出てきたコゼットの最初の考えは、喜ばしいものだった。彼女の心はすっかり落ち着いていた。数時間前のジャン・ヴァルジャンと同じく彼女も、不幸を絶対にしりぞけようとする心的反動のうちにあった。なぜともなく全力をつくして希望をいだきはじめた。それから突然悲しい思いが起こってきた。――この前マリユスに会ってからもう三日になっていた。しかし彼女は自ら考えた。マリユスは自分の手紙を受け取ったに違いない、自分のいる所を知ったはずである、知恵のある人だから、どうにかして自分の所へきてくれるだろう。――そしてそれも確かに今日だろう、今朝かも知れない。――もうすっかり明るくなっていたが、日の光は横ざまに流れていた。まだごく早いんだろうと彼女は思った。けれどもとにかく起きなければならなかった、マリユスが来るのを迎えるために。
 彼女はマリユスなしには生きておれないような気がした。そしてそれでもう充分だった。マリユスはきっと来るだろう。こないという理由は少しも認められなかった。来ることは確かだった。三日間も苦しむのは既に恐ろしいことだった。三日もマリユスに会わせないとは神様もあまりひどすぎた。けれど今は、神の残酷な悪戯たる試練もきりぬけてきたし、マリユスはきっといい消息を持ってきつつあるに違いなかった。実に青春とはそうしたものである。青春はすぐに目の涙をかわかす。悲しみを不用なものとして、それを受け入れない。青春はある未知の者の前における未来のほほえみである、しかもその未知の者は青春自身である。それが幸福であるのは自然である。その息はあたかも希望でできてるかのようである。
 その上コゼットは、マリユスがやってこないのはただ一日だけだというそのことについて、彼がどんなことを言ったか、またどんな説明をしたか、それを少しも思い出すことができなかった。地に落とした一個の貨幣がいかに巧みに姿を隠すか、そしていかにうまく見えなくなってしまうかは、人の皆知るところである。観念のうちにもそういうふうに人をたぶらかすものがある。一度頭脳の片すみに潜んでしまえば、もうおしまいである、姿が見えなくなってしまう、記憶で取り押さえることができなくなる。コゼットも今、記憶を働かしてみたが少しも効がないのにじれていた。マリユスが言った言葉を忘れてしまったのは、不都合なことであり済まないことであると、彼女は思った。
 彼女は寝床から出て、魂と身体と両方の斎戒を、すなわち祈祷(きとう)と化粧とをした。
 やむを得ない場合には読者を婚姻の室(へや)に導くことはできるが、処女の室に導くことははばかられる。それは韻文においてもでき難いことであるが、散文においてはなおさらである。
 処女の室は、まだ開かぬ花の内部である、闇(やみ)の中の白色である、閉じたる百合(ゆり)のひそやかな房(へや)で、太陽の光がのぞかぬうちは人がのぞいてはならないものである。蕾(つぼみ)のままでいる婦人は神聖なものである。自らあらわなるその清浄な寝床、自らおのれを恐れる尊い半裸体、上靴(うわぐつ)の中に逃げ込む白い足、鏡の前にも人の瞳(ひとみ)の前かのように身を隠す喉元(のどもと)、器具の軋(きし)る音や馬車の通る音にも急いで肩の上に引き上げられるシャツ、結わえられたリボン、はめられた留め金、締められた紐(ひも)、かすかなおののき、寒さや貞節から来る小さな震え、あらゆる動きに対するそれとなき恐れ、気づかわしいもののないおりにも常に感ずる軽やかな不安、暁の雲のように麗しいそれぞれの衣服の襞(ひだ)、すべてそれらのものは語るにふさわしいものではない。それを列挙するだけで既に余りあるのである。
 人の目は、上りゆく星に対するよりも起き上がる若き娘の前に、いっそう敬虔(けいけん)でなければならない。手を触れることができるだけに、いっそうそっとしておくべきである。桃の実の絨毛(じゅうもう)、梅の実の粉毛、輻射状(ふくしゃじょう)の雪の結晶、粉羽におおわれてる蝶の翼、などさえも皆、自らそれと知らない処女の純潔さに比ぶれば、むしろ粗雑なものにすぎない。若き娘は夢にすぎなくて、まだ一つの像ではない。その寝所は理想のほの暗い部分のうちに隠れている。不注意な一瞥(いちべつ)はその漠(ばく)たる陰影を侵害する。そこにおいては観照も冒涜(ぼうとく)となる。
 それでわれわれは、コゼットが目をさましたおりのその香ばしい多少取り乱れた姿については、少しも筆を染めないでおこう。
 東方の物語が伝えるところによると、薔薇(ばら)の花は神からまっ白に作られたが、まさに開かんとする時アダムにのぞかれたので、それを羞(は)じて赤くなったという。われわれは若き娘と花とを尊むがゆえに、その前においては無作法な言を弄(ろう)し得ないのである。
 コゼットは急いで装いをし、髪を梳(す)きそれを結んだ。当時の婦人は、入れ毛や芯(しん)などを用いて髷(まげ)や鬢(びん)をふくらすことをせず、髪の中に座型を入れることはなかったので、髪を結うのもごく簡単だった。それからコゼットは窓をあけ、方々を見回して、街路の一部や家の角(かど)や舗石(しきいし)の片すみなどを見ようとし、マリユスの姿が現われるのを待とうとした。しかし窓からは表は少しも見えなかった。その後庭はかなり高い壁でとり囲まれて、幾つかの表庭が少し見えるきりだった。コゼットはそれらの庭を憎らしく思い、生まれて始めて花を醜いものに思った。四つ辻(つじ)の溝(みぞ)の一端でも今は彼女の望みにいっそう叶(かな)うものだったろう。彼女は気を取り直して、あたかもマリユスが空から来るとでも思ってるように空をながめた。
 すると、たちまち彼女は涙にくれた。変わりやすい気持ちのせいではなくて重苦しいものに希望の糸が切られたからだった。彼女はそういう地位にあった。彼女は何とも知れぬ恐怖を漠然(ばくぜん)と感じた。実際種々のことが空中に漂っていた。何事も確かなことはわからぬと思い、互いに会えないことは互いに失うことだと思った。そしてマリユスが空から戻って来るかも知れないという考えは、もはや喜ばしいものではなく悲しいもののように思われた。
 それから、かかる暗雲の常として、静穏の気が彼女の心にまた起こってき、希望の念と、無意識的なそして神に信頼した微笑とが、心に起こってきた。
 まだ家中は眠っていた。あたりは田舎(いなか)のように静かだった。窓の扉(とびら)は一つも開かれていず、門番小屋もしまっていた。トゥーサンはまだ起きていなかったし、父も眠っているのだとコゼットは自然思った。彼女は非常に苦しんだに違いない、また今もなお苦しんでいたに違いない、なぜなら、父が意地悪いことをしたと考えていたからである。しかし彼女はマリユスが必ず来ると思っていた。あれほどの光明が消えうせることは、まったくあり得べからざることだった。彼女は祈った。ある重々しい響きが時々聞こえていた。こんなに早くから大門を開けたりしめたりするのはおかしい、と彼女は言った。しかしそれは、防寨(ぼうさい)を攻撃してる大砲の響きだった。
 コゼットの室(へや)の窓から数尺下の所、壁についてるまっ黒な古い蛇腹(じゃばら)の中に、燕(つばめ)の巣が一つあった。巣のふくれた所が蛇腹から少しつき出ていて、上からのぞくとその小さな楽園の中が見られた。母親は扇のように翼をひろげて雛(ひな)をおおうていた。父親は飛び上がって出て行き、それからまた戻ってきては、嘴(くちばし)の中に餌と脣(くち)づけをもたらしていた。朝日の光はその幸福な一群を金色に輝かし、増せよ殖(ふ)えよという自然の大法はそこにおごそかにほほえんでおり、そのやさしい神秘は朝の光栄に包まれて花を開いていた。コゼットは朝日の光を髪に受け、魂を空想のうちに浸し、内部は愛に外部は曙に輝かされ、ほとんど機械的に身をかがめて、同時にマリユスのことを思ってるのだとは自ら気づきもせずに、それらの小鳥を、その家庭を、その雌雄を、その母と雛とを、小鳥の巣から乙女心を深く乱されながらうちながめ始めた。

     十一 人を殺さぬ確実なる狙撃(そげき)

 襲撃軍の射撃はなお続いていた。小銃と霰弾(さんだん)とはこもごも発射された。しかし実際は大なる損害を与えなかった。ただコラント亭の正面の上部だけはひどく害を受けた。二階の窓や屋根部屋の窓は、霰弾のために無数の穴を明けられて、しだいに形を失ってきた。そこに陣取っていた戦士らは身を隠すのやむなきに至った。けれども、それは防寨攻撃の戦術上の手段であって、長く射撃を続けるのも、暴徒らに応戦さしてその弾薬をなくすためだった。暴徒らの銃火が弱ってき、もはや弾も火薬もなくなったことがわかる時に、いよいよ襲撃をやろうというのだった。しかしアンジョーラはその罠(わな)にかからなかった。防寨(ぼうさい)は少しも応戦しなかった。
 兵士らの射撃が来るたびごとにガヴローシュは舌で頬(ほお)をふくらました。それは傲然(ごうぜん)たる軽蔑を示すものだった。
「うまいぞ、」と彼は言った、「どしどし着物を破ってくれ。俺(おれ)たちは繃帯(ほうたい)がいるんだ。」
 クールフェーラックは効果の少ない霰弾(さんだん)を嘲(あざけ)って、大砲の方へ向かって言った。
「おい、大変むだ使いをするね。」
 戦いにおいても舞踏会におけるがごとく、人は相手をほしがるものである。角面堡(かくめんほう)がかく沈黙してることは、攻撃軍に不安を与え、何か意外の変事が起こりはしないかと心配させ始めたらしい。そして彼らは、舗石(しきいし)の砦(とりで)の向こうを見届けたく思い、射撃を受けながら応戦もしないその平然たる障壁の背後には、どういうことが行なわれてるか知りたく思ったらしい。暴徒らはふいに、近くの屋根の上に日光に輝く一つの兜帽(かぶとぼう)を見いだした。ひとりの消防兵が高い煙筒に身を寄せて、偵察(ていさつ)をやってるらしかった。その視線はま上から防寨の中に落ちていた。
「あそこに困った偵察者が出てきた。」とアンジョーラは言った。
 ジャン・ヴァルジャンはアンジョーラのカラビン銃を返していたが、なお自分の小銃を持っていた。
 一言も口をきかずに彼は消防兵をねらった。そして一瞬の後には、その兜帽は一弾を受けて音を立てながら街路に落ちた。狼狽した兵士は急いで身を隠した。
 第二の観察者がその後に現われた。それは将校だった。再び小銃に弾をこめたジャン・ヴァルジャンは、その将校をもねらい、その兜帽(かぶとぼう)を兵士の兜帽と同じ所に打ち落とした。将校もたまらずにすぐ退いてしまった。そしてこんどは、ジャン・ヴァルジャンの考えが向こうに通じたらしかった。もうだれも再び屋根の上に現われなかった。防寨(ぼうさい)の中をうかがうことはやめられた。
「なぜ殺してしまわないんだ?」とボシュエはジャン・ヴァルジャンに尋ねた。
 ジャン・ヴァルジャンは返事をしなかった。

     十二 秩序の味方たる無秩序

 ボシュエはコンブフェールの耳にささやいた。
「あの男は僕の言葉に返事をしない。」
「射撃をもって好意を施す男だ。」とコンブフェールは言った。
 既に昔となってるその当時のことをまだ多少記憶してる人々は、郊外からきた国民兵らが暴動に対して勇敢であったことを知ってるであろう。彼らは特に一八三二年六月の戦いに熱烈で勇猛だった。パンタンやヴェルテュやキュネットなどの飲食店の主人のうちには、暴動のために「営業」を休まなければならなくなり、舞踏室が荒廃したのを見て憤激し、飲食店の秩序を保たんがために、ついに戦死した者もあった。かく中流市民的にしてまた勇壮なるこの時代には、種々の思想にもそれに身をささぐる騎士がいるとともに、種々の利益にもそれをまもる勇士がいた。動機の卑俗さは何ら行動の勇壮さを減殺しはしなかった。蓄積された貨幣の減少を回復せんがためには、銀行家らもマルセイエーズを高唱した。勘定場のためにも叙情詩的な血が流された。人々はスパルタ的な熱誠をもって、祖国の微小縮図たる店頭を防御した。
 根本においては、それらのものの中にこもっていた意義は皆まじめなものであったと言うべきである。すなわち社会の各要素が、平等の域にはいる前にまず、闘争の域にはいっていたのである。
 なおこの時代のも一つの特徴は、政府主義(きちょうめんな一党派に対する乱暴な名前ではあるが)のうちに交じってる無政府主義であった。人々は不規律をもって秩序の味方をしていた。国民軍の某大佐の指揮の下に勝手な召集の太鼓はふいに鳴らされた。某大尉は自分一個の感激から戦いに向かった。某国民軍は「思いつき」で勝手な戦いをした。危急の瞬間に、「騒乱」のうちに、人々は指揮官の意見よりもむしろ多く自己の本能に従った。秩序を守る軍隊の中に、真の単独行動の兵士が数多あった、しかもファンニコのごとく剣による者もあれば、アンリ・フォンフレードのごとくペンによる者もあった。
 一群の主義によってよりもむしろ一団の利益によって当時不幸にも代表されていた文明は、危険に陥っていた、あるいは陥っていると自ら信じていた。そして警戒の叫びを発していた。各人は自ら中心となり、勝手に文明をまもり助け庇(かば)っていた。だれも皆社会の救済をもっておのれの任務としていた。
 熱誠のあまり時としては鏖殺(おうさつ)を事とするに至った。国民兵の某隊は、その私権をもって軍法会議を作り、わずか五分間のうちにひとりの捕虜の暴徒を裁断して死刑に処した。ジャン・プルーヴェールが殺されたのも、かかる即席裁判によってだった。実に狂猛なるリンチ法(私刑の法)であって、それについてはいずれの党派も他を非難する権利を有しない。なぜならそれは、ヨーロッパの王政によって行なわれたとともにまたアメリカの共和政によっても行なわれたからである。そしてこのリンチ法には、また多くの誤解が含まっていた。ある日の暴動のおり、ポール・エーメ・ガルニエというひとりの若い詩人は、ロアイヤル広場で兵士に追跡されてまさに銃剣で突かれんとしたが、六番地の門の下に逃げ込んでようやく助かった。「サン・シモン派のひとりだ」と兵士らは叫んで、彼を殺そうとしたのである。彼はサン・シモン公の追想記を一冊小わきにかかえていた。ひとりの国民兵がその書物の上にサン・シモンという一語を見て、「死刑だ!」と叫んだのだった。(訳者注 サン・シモン公は社会主義者サン・シモンとは別人)
 一八三二年六月六日、郊外からきた国民兵の一隊は、上にあげたファンニコ大尉に指揮されて、自ら好んで勝手に、シャンヴルリー街で大損害を受けた。この事実はいかにも不思議に思えるが、一八三二年の反乱後に開かれた法廷の審問によって証明されたものである。ファンニコ大尉は性急無謀な中流市民で、秩序の別働者とも称すべき男で、上に述べたような種類の人々のひとりであり、熱狂的な頑強(がんきょう)な政府党であって、時機がこないのに早くも射撃をしたくてたまらなくなり、自分ひとりですなわち自分の中隊で防寨(ぼうさい)を占領しようという野心に駆られた。赤旗が上げられ、次いで古い上衣が上げられたのを黒旗だと思い、それを見てまた激昂(げっこう)した。将軍や指揮官らは会議を開いて、断然たる襲撃の時機はまだきていないと考え、そのひとりの有名な言葉を引用すれば、「反乱が自ら自分を料理する」まで待とうとした時、彼は声高にそれを非難した。彼から見れば、防寨はもう熟していたし、熟したものは落ちるべきはずだったので、彼はあえて行動したのだった。
 彼が指揮していた一隊も、彼と同じく決意の者どもであって、一実見者の言うところによると、「熱狂者ども」であった。彼の中隊は、詩人ジャン・プルーヴェールを銃殺した中隊で、街路の角(かど)に置かれてる大隊の先頭になっていた。最も意外な時機に、大尉は部下を防寨(ぼうさい)に突進さした。その行動は、戦略よりもむしろ多くほしいままな心からなされたもので、ファンニコの中隊には高価な犠牲をもたらした。街路の三分の二も進まないうちに、防寨からの一斉射撃(いっせいしゃげき)を被った。先頭に立って走っていた最も大胆な四人の兵は、角面堡(かくめんほう)の足下でねらい打ちにされた。そしてこの国民兵の勇敢な一群は、皆豪勇な者らではあったが戦いの粘着力を少しも持っていなかったので、しばらく躊躇(ちゅうちょ)した後、舗石(しきいし)の上に十五の死体を遺棄しながら、退却のやむなきに至った。その躊躇の暇は、暴徒らに再び弾をこめる余裕を与えた。そして避難所たる角に達しないうちに、第二の一斉射撃を受けてまた大なる損害を被った。一時彼らは敵味方の射撃の間にはさまれた。砲兵は何の命令も受けないのでなお発射を続けていたから、その霰弾(さんだん)をも受けたのである。大胆無謀なファンニコは、霰弾にたおれたひとりだった。彼は大砲すなわち秩序から殺されたのである。
 その激しいというよりむしろ狂乱的な攻撃は、アンジョーラを激昂(げっこう)さした。彼は言った。
「ばか野郎! 下らないことに、部下を殺し、俺(おれ)たちに弾薬を使わせやがる。」
 アンジョーラは暴動の真の将帥だったが、言葉もそれにふさわしかった。反軍と鎮定軍とは同等の武器で戦ってるのではない。反軍の方は早く力を失いやすいものであって、発射する弾薬にも限りがあり、犠牲にする戦士にも限りがある。一つの弾薬盒(だんやくごう)が空になり、ひとりの戦士がたおれても、もはやそれを補充すべき道はない。しかるに鎮定軍の方には、軍隊が控えて人員には限りがなく、ヴァンセンヌ兵機局が控えていて弾薬には限りがない。鎮定軍には、防寨の人員と同数ほどの連隊があり、防寨の弾薬嚢と同数ほどの兵器廠がある。それゆえ常に一をもって百に当たるの戦いであって、もし革命が突然現われて戦いの天使の炎の剣を秤(はかり)の一方に投ずることでもない限りは、防寨(ぼうさい)はついに粉砕さるるにきまっている。しかし一度革命となれば、すべてが立ち上がり、街路の舗石(しきいし)は沸き立ち、人民の角面堡(かくめんほう)は至る所に築かれ、パリーはおごそかに震い立ち、天意的なものが現われきたり、八月十日(一七九二年)は空中に漂い、七月二十九日(一八三〇年)は空中に漂い、驚くべき光が現われ、うち開いてる武力の顎(おとがい)はたじろぎ、獅子(しし)のごとき軍隊は、予言者フランスがつっ立って泰然と構えているのを、眼前に見るに至るのである。

     十三 過ぎゆく光

 一つの防寨を守る混沌(こんとん)たる感情と情熱とのうちには、あらゆるものがこもっている。勇気があり、青春があり、名誉の意気があり、熱誠があり、理想があり、確信があり、賭博者(とばくしゃ)の熱があり、また特に間歇的(かんけつてき)な希望がある。
 この一時の希望の漠然(ばくぜん)たる震えの一つが、最も意外な時に、シャンヴルリーの防寨を突然過(よ)ぎった。
「耳を澄まして見ろ、」となお様子をうかがっていたアンジョーラはにわかに叫んだ、「パリーが覚醒(かくせい)してきたようだ。」
 実際六月六日の朝、一、二時間の間、反乱はある程度まで増大していった。サン・メーリーの頑強(がんきょう)な警鐘の響きは、逡巡(しゅんじゅん)してる者らを多少奮い立たした。ポアリエ街とグラヴィリエ街とに防寨が作られた。サン・マルタン凱旋門(がいせんもん)の前では、カラビン銃を持ったひとりの青年が、単独で一個中隊の騎兵を攻撃した。掩蔽物(えんぺいぶつ)もない大通りのまんなかで、彼は地上にひざまずき、銃を肩にあて引き金を引いて、中隊長を射殺し、それから振り向いて言った。「これでまたひとり悪者がなくなった。」彼はサーベルで薙(な)ぎ倒された。サン・ドゥニ街では、目隠し格子の後ろからひとりの女が、市民兵に向かって射撃をした。一発ごとに、目隠し格子の板が動くのが見えた。ポケットにいっぱい弾薬を入れている十四歳の少年がひとり、コソンヌリー街で捕えられた。多くの衛舎は攻撃を受けた。ベルタン・ポアレ街の入り口では、カヴェーニャク・ド・バラーニュ将軍が先頭に立って進んでいた一個連隊の胸甲兵が、まったく不意の激しい銃火にむかえ打たれた。プランシュ・ミブレー街では、屋根の上から軍隊を目がけて、古い皿の破片や什器(じゅうき)などが投げられた。それははなはだよくない徴候で、スールト元帥にその事が報告された時、昔ナポレオンの参謀だった彼もさすがに考え込んで、サラゴサの攻囲のおりシューシェが言った言葉を思い起こした、「婆さんどもまでが溲瓶(しびん)のものをわれわれの頭上にぶちまけるようになっては、とてもだめだ。」
 暴動は一局部のことと思われていた際に突然現われてきた各所の徴候、優勢になってきた憤怒の熱、パリー郭外と呼ばるる莫大(ばくだい)な燃料の堆積の上にあちらこちら飛び移る火の粉、それらのものは軍隊の指揮官らに不安の念を与えた。彼らは急いでそれらの火災の始まりをもみ消そうとつとめた。そしてモーブュエやシャンヴルリーやサン・メーリーなどの各防寨(ぼうさい)は、最後に残して一挙に粉砕せんがために、各所の火の粉を消してしまうまで、その攻撃を延ばした。軍隊は沸き立った各街路に突進し、あるいは用心して徐々に進み、あるいは一挙に襲撃しながら、右に左に、大なるものは掃蕩(そうとう)し、小なるものは探査した。兵士らは銃を発射する人家の扉(とびら)を打ち破った。同時に騎兵も活動を始めて、大通りの群集を駆け散らした。そしてこの鎮圧はかなりの騒擾(そうじょう)を起こし、軍隊と人民との衝突に特有な騒々しい響きを立てた。砲火と銃火との響きの間々にアンジョーラが耳にしたのは、その騒ぎの音であった。その上彼は担架にのせられた負傷者らが通るのを街路の先端に認めて、クールフェーラックに言った、「あの負傷者らはわが党の者ではない。」
 しかしその希望は長く続かなかった。光明は間もなく消えてしまった。三十分とたたないうちに、空中に漂ってたものは消散しつくした。あたかも雷を伴わない電火のようなものだった。孤立しながら固執する者らの上に人民の冷淡さが投げかける鉛のような重い一種の外套(がいとう)を、暴徒らは再び身に感じた。
 漠然(ばくぜん)と輪郭だけができかかってきたらしい一般の運動は、早くも失敗に終わってしまった。今や陸軍大臣の注意と諸将軍の戦略とは、なお残ってる三、四の防寨の上に集中されることになった。
 太陽は地平線の上に上ってきた。
 ひとりの暴徒はアンジョーラを呼びかけた。
「われわれは腹がすいてる、実際こんなふうに何にも食わずに死ぬのかね。」
 自分の狭間(はざま)の所になお肱(ひじ)をついていたアンジョーラは、街路の先端から目を離さずに、頭を動かしてうなずいた。

     十四 アンジョーラの情婦の名

 クールフェーラックはアンジョーラの傍(そば)の舗石(しきいし)の上にすわって、大砲をなお罵倒(ばとう)し続けていた。霰弾(さんだん)と呼ばるる爆発の暗雲が恐ろしい響きを立てて通過するたびごとに、彼は冷笑の声を上げてそれを迎えた。
「喉(のど)を痛めるぞ、ばかな古狸(ふるだぬき)めが。気の毒だが、大声を出したってだめだ。まったく、雷鳴(かみなり)とは聞こえないや、咳(せき)くらいにしか思われない。」
 そして周囲の者は笑い出した。
 クールフェーラックとボシュエは、危険が増すとともにますます勇敢な上きげんさになって、スカロン夫人のように、冗談をもって食物の代用とし、また葡萄酒(ぶどうしゅ)がないので、人々に快活の気分を注いでまわった。
「アンジョーラは豪(えら)い奴だ。」とボシュエは言った。「あのびくともしない豪勇さはまったく僕を驚嘆させる。彼はひとり者だから、多少悲観することがあるかも知れん。豪(えら)いから女ができないんだといつもこぼしてる。ところがわれわれは皆多少なりと情婦を持っている。だからばかになる、言い換えれば勇敢になる。虎(とら)のように女に夢中になれば、少なくとも獅子(しし)のように戦えるんだ。それは女から翻弄(ほんろう)された一種の復讐(ふくしゅう)だ。ローランはアンゼリックへの面当(つらあて)に戦死をした。われわれの勇武は皆女から来る。女を持たない男は、撃鉄のないピストルと同じだ。男を勢いよく発射させる者は女だ。ところがアンジョーラは女を持っていない。恋を知らないで、それでいて勇猛だ。氷のように冷たくて火のように勇敢な男というのは、まったく前代未聞だ。」
 アンジョーラはその言葉をも耳にしないかのようだった。しかし彼の傍にいた者があったら、彼が半ば口の中でパトリア(祖国)とつぶやくのを聞き取ったであろう。
 ボシュエはなお冗談を言い続けていたが、その時クールフェーラックは叫んだ。
「またきた!」
 そして来客の名を告げる接待員のような声を出して付け加えた。
「八斤砲でございます。」
 実際新しい人物がひとり舞台に現われてきた。第二の砲門だった。
 砲兵らはすみやかに行動を開始して、第二の砲を第一の砲の近くに据えつけた。
 それによって、防寨(ぼうさい)の最後はほぼ察せられた。
 しばらくすると、急いで操縦された二個の砲は、角面堡(かくめんほう)に向かって正面から火蓋(ひぶた)を切った。戦列歩兵や郊外国民兵らの銃火も、砲兵を掩護(えんご)した。
 ある距離をへだてて他の砲声も聞こえた。二門の砲がシャンヴルリー街の角面堡に打ちかかったと同時に、他の二門の砲はサン・ドゥニ街とオーブリー・ル・ブーシュ街とに据えられて、サン・メーリーの防寨を攻撃したのである。四個の砲門は互いに恐ろしく反響をかわした。
 それら陰惨な闘犬の吠(ほ)え声は、互いに応(こた)え合ったのである。
 今やシャンヴルリー街の防寨を攻撃してる二門の砲のうち、一つは霰弾(さんだん)を発射し、一つは榴弾(りゅうだん)を発射していた。
 榴弾を発射していた砲は、少し高く照準されて、防寨の頂の先端に弾が落下するようにねらわれたので、そこを破壊して、霰弾の破裂するがような舗石(しきいし)の破片を暴徒らの上に浴びせた。
 かかる砲撃の目的は、角面堡の頂から戦士らを追いしりぞけ、その内部に集まらせようとするにあった。言い換えれば、突撃の準備だった。
 一度戦士らが、榴弾のために防寨の上から追われ霰弾のために居酒屋の窓から追わるれば、襲撃隊はねらわれることもなくまたおそらく気づかれることもなく、その街路にはいり込むことができ、前夜のようににわかに角面堡をよじ上ることもでき、不意を襲って占領し得るかも知れなかった。
「どうしてもあの邪魔な砲門を少し沈黙させなければいけない。」とアンジジョーラは言った。そして叫んだ。「砲手を射撃しろ!」
 一同は待ち構えていた。長く沈黙を守っていた防寨(ぼうさい)は、おどり立って火蓋(ひぶた)を切った。七、八回の一斉射撃(いっせいしゃげき)は、一種の憤激と喜悦とをもって相次いで行なわれた。街路は濃い硝煙(しょうえん)に満たされた。そして数分間の後、炎の線に貫かれたその靄(もや)をとおして、砲手らの三分の二は砲車の下にたおれてるのがかすかに見られた。残ってる者らはいかめしく落ち着き払って、なお砲撃に従事していたが、発射はよほどゆるやかになった。
「うまくいった。成功だ。」とボシュエはアンジョーラに言った。
 アンジョーラは頭を振って答えた。
「まだ十五、六分間しなければ成功とはいえない。しかもそうすれば、もう防寨には十個ばかりの弾薬しか残らない。」
 その言葉をガヴローシュが耳にしたらしかった。

     十五 外に出たるガヴローシュ

 クールフェーラックは防寨のすぐ下の外部に、弾丸の降り注ぐ街路に、ある者の姿を突然見いだした。
 ガヴローシュが、居酒屋の中から壜(びん)を入れる籠(かご)を取り、防寨(ぼうさい)の切れ目から外に出て、角面堡(かくめんほう)の裾(すそ)で殺された国民兵らの弾薬盒(だんやくごう)から、中にいっぱいつまってる弾薬を取っては、平然としてそれを籠の中に入れてるのだった。
「そこで何をしてるんだ!」とクールフェーラックは言った。
 ガヴロシーュは顔を上げた。
「籠をいっぱいにしてるんだ。」
「霰弾(さんだん)が見えないのか。」
 ガヴローシュは答えた。
「うん、雨のようだ。だから?」
 クールフェーラックは叫んだ。
「戻ってこい!」
「今すぐだ。」とガヴローシュは言った。
 そして一躍して街路に飛び出した。
 読者の記憶するとおり、ファンニコの中隊は退却の際に、死体を方々に遺棄していた。
 その街路の舗石(しきいし)[#ルビの「しきいし」は底本では「しきうし」]の上だけに、二十余りの死体が散らばっていた。ガヴローシュにとっては二十余りの弾薬盒であり、防寨にとっては補充の弾薬であった。
 街路の上の硝煙は霧のようだった。つき立った断崖(だんがい)の間の谷合に落ちてる雲を見たことのある者は、暗い二列の高い人家にいっそう濃くなされて立ちこめてるその煙を、おおよそ想像し得るだろう。しかも煙は静かに上ってゆき、絶えず新しくなっていた。そのために昼の明るみも薄らいで、しだいに薄暗くなってくるようだった。街路はごく短かかったけれども、その両端の戦士は互いに見分けることがほとんどできなかった。
 かく薄暗くすることは、防寨(ぼうさい)に突撃せんとする指揮官らがあらかじめ考慮し計画したことだったろうが、またガヴローシュにも便利だった。
 その煙の下に隠れ、その上身体が小さかったので、彼は敵から見つけられずに街路のかなり先まで進んでゆくことができた。まず七、八個の弾薬盒(だんやくごう)は、大した危険なしに盗んでしまった。
 彼は平たく四つばいになって、籠(かご)を口にくわえ、身をねじまげすべりゆきはい回って、死体から死体へと飛び移り、猿(さる)が胡桃(くるみ)の実をむくように、弾薬盒や弾薬嚢(だんやくのう)を開いて盗んだ。
 防寨の者らは、彼がなおかなり近くにいたにかかわらず、敵の注意をひくことを恐れて、声を立てて呼び戻すことをしかねた。
 ある上等兵の死体に、彼は火薬筒を見つけた。
「喉(のど)のかわきにもってこいだ。」と彼は言いながら、それをポケットに入れた。
 しだいに先へ進んでいって、彼はついに向こうから硝煙が見透せるぐらいの所まで達した。
 それで、舗石(しきいし)の防壁の後ろに潜んで並んでる狙撃(そげき)戦列兵や街路の角(かど)に集まってる狙撃国民兵らは、煙の中に何かが動いてるのを突然見いだした。
 ある標石の傍(そば)に横たわってる軍曹の弾薬をガヴローシュが奪っている時、弾が一発飛んできてその死体に当たった。
「ばか!」とガヴローシュは言った、「死んだ奴(やつ)をも一度殺してくれるのか。」
 第二の弾は彼のすぐ傍の舗石に当たって火花を散らした。第三の弾は彼の籠をくつがえした。
 ガヴローシュは[#「ガヴローシュは」は底本では「ガウーローシュは」]そちらをながめて、弾が郊外兵から発射されてるのを認めた。
 彼は身を起こし、まっすぐに立ち上がり、髪の毛を風になびかし、両手を腰にあて、射撃してる国民兵の方を見つめ、そして歌った。

ナンテールではどいつも醜い、
罪はヴォルテール
バレーゾーではどいつも愚か、
罪はルーソー。

 それから彼は籠(かご)を取り上げ、こぼれ落ちた弾薬を一つ残らず拾い集め、なお銃火の方へ進みながら、他の弾薬を略奪しに行った。その時第四の弾がきたが、それもまたそれた。ガヴローシュは[#「ガヴローシュは」は底本では「カヴローシュは」]歌った。

公証人じゃ俺(おれ)はないんだ、
罪はヴォルテール、
俺は小鳥だ、小さな小鳥、
罪はルーソー。

 第五の弾がまたそれて、彼になお第三齣(せつ)を歌わせた。

陽気なのは俺(おれ)の性質、
罪はヴォルテール、
みじめなのは俺の身じたく、
罪はルーソー。

 そういうことがなおしばらく続いた。
 その光景は、すさまじいとともにまた愉快なものだった。ガヴローシュは射撃されながら射撃を愚弄(ぐろう)していた。いかにもおもしろがってる様子だった。あたかも猟人を嘴(くちばし)でつっついてる雀(すずめ)のようだった。群が来るごとに彼は一連の歌で応じた。絶えず射撃はつづいたが、どれも命中しなかった。国民兵や戦列兵も彼をねらいながら笑っていた。彼は地に伏し、また立ち上がり、戸口のすみに隠れ、また飛び出し、姿を隠し、また現われ、逃げ出し、また戻ってき、嘲弄(ちょうろう)で霰弾(さんだん)に応戦し、しかもその間に弾薬を略奪し、弾薬盒(だんやくごう)を空(から)にしては自分の籠(かご)を満たしていた。暴徒らは懸念のために息をつめ、彼の姿を見送っていた。防寨(ぼうさい)は震えていたが、彼は歌っていた。それはひとりの子供でもなく、ひとりの大人(おとな)でもなく、実に不思議な浮浪少年の精であった。あたかも傷つけ得べからざる戦いの侏儒(しゅじゅ)であった。弾丸は彼を追っかけたが、彼はそれよりもなお敏捷だった。死を相手に恐ろしい隠れんぼをやってるかのようで、相手の幽鬼の顔が近づくごとに指弾(しっぺい)を食わしていた。
 しかしついに一発の弾は、他のよりねらいがよかったのかあるいは狡猾(こうかつ)だったのか、鬼火のようなその少年をとらえた。見ると、ガヴローシュはよろめいて、それからぐたりと倒れた。防寨(ぼうさい)の者らは声を立てた。しかしこの侏儒(しゅじゅ)の中には、アンテウス(訳者注 倒れて地面に触るるや再び息をふき返すという巨人)がいた。浮浪少年にとっては街路の舗石(しきいし)に触れることは、巨人が地面に触れるのと同じである。ガヴローシュは再び起き上がらんがために倒れたまでだった。彼はそこに上半身を起こした。一条の血が顔に長く伝っていた。彼は両腕を高く差し上げ、弾のきた方をながめ、そして歌い始めた。

地面の上に俺(おれ)はころんだ、
罪はヴォルテール、
溝(みぞ)の中に顔つき込んだ、
罪は……。

 彼は歌い終えることができなかった。
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