レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 彼!
 彼女の心のうちには再び日がさしてきた。すべてが再び現われてきた。彼女は異常な喜びと深いもだえとを感じた。それは彼であった。彼女に手紙を書いたのは彼であった。そこにいたのは彼であった。鉄門から腕を差し入れたのは彼であった。彼女が彼を忘れていた間に、彼は再び彼女を見いだしたのだった。しかし彼女は実際彼をわすれていたのだろうか? 否、決して! 彼女は愚かにも、彼を忘れたと一時思ったのだった。しかし彼女は常に彼を愛していた、常に彼を欽慕(きんぼ)していた。火はしばしおおわれてくすぶっていた。しかし彼女は今はっきりと知った。火はただいっそう深く進んでいたのみである。そして今や新たに爆発して、彼女をすべて炎で包んでしまった。その手帳は、も一つの魂から彼女の魂のうちに投げ込まれた火粉のようなものだった。彼女は再び火が燃え出すのを感じた。彼女はその手記の一語ごとに胸を貫かれた。彼女は言った。「ほんとにそうだわ。私はこれを皆覚えている。みな一度あの人の目の中に読み取ったものばかりだ。」
 彼女が三度くり返してそれを読み終えた時、中尉テオデュールは鉄門の前に戻ってきて、舗石(しきいし)の上に拍車を踏み鳴らした。コゼットは目を上げざるを得なかった。しかし今や彼は、無味乾燥な、ばかな、愚かな、無益な、自惚(うぬぼれ)の強い、いやな、無作法な、ごく醜い男としか、彼女には思われなかった。将校の方では義務とでも思ってか彼女にほほえみかけた。彼女はそれを恥じかつ怒って横を向いた。彼の頭に何か投げつけてやりたいとさえ思った。
 彼女はそこを逃げ出して、家の中にはいり、そして手記を読み返し暗唱し夢想せんがために、自分の室(へや)の中に閉じこもった。十分に読んでしまった時、彼女はそれに脣(くちびる)をつけ、それをふところにしまった。
 それが済んでコゼットは、天使のような深い恋に陥った。エデンの深淵(しんえん)は再びその口を開いた。
 終日コゼットは正気を失ったかのようだった。ほとんど物を考えることもできず、頭の中には雑多な思いが麻糸の乱れたようになり、何物もわきまえることができず、ただうち震えながらねがっていた、何を? それもただ種々な漠然(ばくぜん)たることに過ぎなかった。何事をも確言し得なかったが、何事をも自ら拒もうとはしなかった。顔は青ざめ、身体は震えていた。時としては幻のうちにはいったような気がして、自ら言った、「これは実際のことだろうか。」その時彼女は、上衣の下のいとしい紙にさわってみ、それを胸に押しつけ、自分の肉体の上にその角を感じた。そういう時もしジャン・ヴァルジャンが彼女を見たならば、その眼瞼(まぶた)のうちにあふれてるなぜともわからぬ光り輝いた喜びを見て、身を震わしたであろう。彼女は考えた。「そう、確かにあの人だわ。これは私にあててあの人から下すったのに違いない。」
 そして彼女は自ら言った、天使が中に立ち天が力を貸してあの人をまた自分の所へこさしたのであると。
 おお愛の変容よ、おお夢よ! この天の助力とは、この天使の仲介とは、フォルス監獄の屋根越しにシャールマーニュの中庭から獅子(しし)の窖(あなぐら)へ、一盗賊から他の盗賊へあてて投げられた、あの一塊のパンの球(たま)にほかならなかったのである。

     六 老人は適宜に外出するものなり

 晩になってジャン・ヴァルジャンは出かけた。コゼットは服装(みなり)を整えた。まず一番よく似合うように髪を結び、それから一つの長衣をつけたが、その襟(えり)は一鋏(はさみ)だけよけいに切ったもので、そこから首筋が見えていて、若い娘らがいわゆる「少しだらしない」と称するものだった。しかしそれは決してだらしないものではなくて、何よりもまずかわいいものであった。彼女はなぜとも自ら知らないでそういうふうに身じまいをした。
 彼女は出かけるつもりだったのか。否。
 彼女は人の訪問を待っていたのか。否。
 薄暗くなって、彼女は庭におりていった。トゥーサンは後ろの中庭に面した台所で用をしていた。
 コゼットは低い枝があるのを時々手で払いのけながら、木の下を歩き出した。
 そして彼女は腰掛けの所へ行った。
 石はまだそこにあった。
 彼女はそこに腰をおろし、やさしい白い手を石の上に置いた。あたかもそれをなでて礼を言ってるかのようだった。
 と突然彼女は、だれかが後ろに立ってるのを目には見ないでもそれと感ぜらるる、一種の言い難い感じを受けた。
 彼女はふり向いて、立ち上がった。
 それは彼であった。
 彼は帽子もかぶっていなかった。色は青ざめやせ細ってるようだった。その黒い服がようやく見分けられた。薄ら明りはその美しい額をほの白くし、その目を暗くなしていた。たとえようのないしめやかな靄(もや)の下に、何となく死と夜とを思わせる様子をしていた。その顔は暮れてゆく昼の明るみと消えてゆく魂の思いとで照らされていた。
 それはまだ幽霊ではないがもう既に人間ではないように思われた。
 その帽子は藪(やぶ)の中に数歩の所に投げ捨ててあった。
 コゼットは気を失いかけたが、声は立てなかった。そして引きつけられるような気がして、静かに後ろにさがった。彼の方は身動きもしなかった。彼を包んでるある悲しい名状し難いものによって、彼女ははっきりとは見えない彼の目つきを感じた。
 コゼットは後ろにさがりながら、一本の木に行き当たって、それによりかかった。その木がなかったら危うく倒れるところだった。
 その時彼女は彼の声を聞いた。実際彼女がまだ一度も直接に聞いたことのないその声であって、ようやく木の葉のそよぎから聞き分け得るくらいのささやくような低い声だった。
「許して下さい、私はここにきました。私は心がいっぱいになって、今までのようでは生きてゆけなくなりましたから、やってきました。あなたは私がこの腰掛けの上に置いたものを読んで下さいましたか。あなたは私をいくらか覚えておいでになりますか。私を恐(こわ)がらないで下さい。もうだいぶ前のことですが、あなたが私の方をごらんなすったあの日のことを、覚えておられますか。リュクサンブールの園で、角闘士(グラディアトール)の立像のそばのことでした。それからまた、あなたが私の前を通られたあの日のことも? それは六月の十六日と七月の二日とでした。もうやがて一年になります。それ以来長い間、私はもうあなたに会うことができませんでした。私はあすこの椅子番(いすばん)の女にも尋ねましたが、もうあなたを見かけないと言いました。あなたはウエスト街の新しい家の表に向いた四階に住んでおられました。よく知っていましょう。私はあなたの跡をつけたのです。ほかに仕方もなかったのです。それからあなたはどこかへ行かれてしまいました。一度オデオンの拱廊(きょうろう)の下で新聞を読んでいました時、あなたが通られるのを見たように思いました。私は駆けてゆきました。しかしそれは違っていました。ただあなたと同じような帽子をかぶったほかの人でした。それから、夜になると私はここへやってきます。心配しないで下さい、だれも私を見た者はありませんから。私はあなたの窓を近くからながめたいと思ってやって来るのです。あなたを驚かしては悪いと思って、足音が聞こえないようにごく静かに歩くことにしています。先夜はあなたの後ろに私は立っていました。そしてあなたがふり向かれたので、逃げ出してしまいました。一度はあなたが歌われるのを聞きました。ほんとにうれしく思いました。あなたが歌われるのを雨戸越しに聞くことが、何か邪魔になりますでしょうか。別にお邪魔になりはしませんでしょう。いいえ、そんなはずはありません。まったくあなたは私の天使(エンゼル)です。どうか時々私にこさして下さい。私はもう死ぬような気がします。ああ私がどんなにあなたをお慕いしているか、それを知ってさえいただけたら! どうか許して下さい。あなたにお話してはいますが、何を言ってるか自分でも分りません。あるいはお気にさわったかも知れません。何かお気にさわったでしょうか?」
「おおお母様!」と彼女は言った。
 そして今にも死なんとするかのように身をささえかねた。
 彼は彼女をとらえた。彼女は倒れかかった。彼はそれを腕に抱き取った。彼は何をしてるか自ら知らないで彼女をひしと抱きしめた。自らよろめきながら彼女をささえた。頭には煙がいっぱい満ちたかのようだった。閃光(せんこう)が睫毛(まつげ)の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔な行ないをしてるようにも思われ、ある冒涜(ぼうとく)なことを犯してるようにも思われた。その上彼は、自分の胸に感ずるその麗わしい婦人の身体に対して、少しの情欲をもいだいていなかった。彼はただ愛に我を忘れていた。
 彼女は彼の手を取り、それを自分の胸に押しあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながら言った。
「では私を愛して下さいますか。」
 彼女はわずかに聞き取れる息のような低い声で答えた。
「そんなことを! 御存じなのに!」
 そして彼女はそのまっかな頬(ほお)を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。
 彼は腰掛けの上に身を落とした。彼女はそのそばにすわった。彼らはもはや言うべき言葉もなかった。空の星は輝き出した。いかにしてか、二人の脣(くちびる)は合わさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、薔薇(ばら)の花は開き、五月は輝きいで、黒い木立ちのかなたうち震う丘の頂には曙(あけぼの)の色が白んでくる。
 一つの脣(くち)づけ、そしてそれはすべてであった。
 ふたりとも身をおののかした、そして暗闇(くらやみ)の中で互いに輝く目と目を見合った。
 彼らはもはや、冷ややかな夜も、冷たい石も、湿った土も、ぬれた草も、感じなかった。彼らは互いに見かわし、心は思いに満たされた。われ知らず互いに手を取り合っていた。彼女は彼に何も尋ねなかった。どこから彼がはいってきたか、どうして庭の中に忍びこんできたか、それを彼女は思ってもみなかった。彼がそこにいたのはきわめて当然なことのように思われたのだった。
 時々、マリユスの膝(ひざ)はコゼットの膝に触れた。そしてふたりは身をおののかした。
 長く間をおいては、コゼットは一、二言口ごもった。露の玉が花の上に震えるように、彼女の魂はその脣の上に震えていた。
 しだいに彼らは言葉をかわすようになった。満ち足りた沈黙に次いで溢出(いっしゅつ)がやってきた。夜は彼らの上に朗らかに輝き渡っていた。精霊のごとく潔(きよ)らかなふたりは、互いにすべてを語り合った、その夢想、その心酔、その歓喜、その空想、その銷沈(しょうちん)、遠くからいかに慕い合っていたかということ、いかに憧(あこが)れ合っていたかということ、互いに会えなくなった時、いかに絶望に陥ったかということ。彼らは既にもうこの上進むを得ない極度の親密さのうちに、最も深い最も秘密なものまでも互いに打ち明け合った。幻のうちに率直な信念をいだいて、愛や青春やまだ残っている子供心などが、彼らの頭のうちにもたらすすべてのものを、互いに語り合った。二つの心は互いにとけ合って、一時間とたつうちに、青年は若い娘の魂を得、若い娘は青年の魂を得た。彼らは互いに心の底の底にはいり込み、互いに魅せられ、互いに眩惑(げんわく)した。
 すべてすんだ時、すべてを語り合った時、彼女は彼の肩に頭をもたして、そして尋ねた。
「あなたのお名は?」
「マリユスです。」と彼は言った。「そしてあなたは?」
「コゼットといいますの。」
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   第六編 少年ガヴローシュ

     一 風の悪戯(いたずら)

 一八二三年以来、モンフェルメイュの宿屋はしだいに非運に傾いて、破産の淵(ふち)へというほどではないが、多くの小さな負債の泥水(どろみず)の中に沈んでいった。その頃テナルディエ夫婦の間には別にふたりの子供ができていた。ふたりとも男だった。それでつまり五人の子供になるわけで、ふたりは女の児で三人は男の子だった。そして五人とは少し多すぎた。
 テナルディエの女房は、末のふたりの児を、まだ年もゆかぬごく小さな時分に、妙な好機会で厄介払(やっかいばら)いをしてしまった。
 厄介払いとはそれにちょうど適当な言葉である。この女のうちにははんぱな天性しかなかった。そういう現象の実例はいくらもある。ラ・モート・ウーダンクール元帥夫人のように、テナルディエの女房はただその女の児に対してだけ母親だった。彼女の母性はそこ限りだった。人類に対する彼女の憎悪(ぞうお)は、まず自分の男の児から始まっていた。男の児に対する悪意はすこぶる峻烈(しゅんれつ)で、彼女の心はそこに恐ろしい断崖(だんがい)を作っていた。読者が前に見たとおり、彼女は既に長男を憎んでいたが、他のふたりをもまたのろっていた。なぜかと言えば、ただきらいだからだった。最も恐るべき動機であり、最もどうにもできない理由だった、すなわちただきらいだから。「ぎゃあぎゃあ泣き立てる子供の厄介物(やっかいもの)なんかはごめんだ、」とこの母親は言っていた。
 テナルディエ夫婦が、末のふたりの児をどうして厄介払いしたか、しかもどうしてそれから利益まで得たか、それをちょっと説明しておこう。
 前に一度出てきたあのマニョンという女は、自分のふたりの子供を種にうまくジルノルマン老人から金を引き出していたあのマニョンと同一人だった。彼女はセレスタン河岸の古いプティー・ムュスク街の角(かど)に住んでいて、その場所がらのために悪い評判をうまくごまかしていた。人の知るとおり、今から三十五年前に、クルプ性喉頭炎(こうとうえん)が非常に流行して、パリーのセーヌ川付近を荒したことがあった。明礬(みょうばん)吸入の効果が大規模に実験されたのもその時のことであって、今日ではそれに代えて、有効なヨードチンキが外用されるようになったのである。ところでその流行病のおりに、マニョンは同じ日の朝と晩に、まだごく幼いふたりの男の児を亡(な)くした。それは少なからぬ打撃だった。ふたりの子供はその母親にとっては大事なもので、毎月八十フランになるものだった。その八十フランは、ジルノルマン氏の名前で、ロア・ド・シシル街にいる退職執達吏で彼の執事をしてるバルジュ氏から、いつも正確に払われていた。しかるに子供がふたりとも死んだので、その収入も消えたわけだった。でマニョンは工夫を凝らした。ちょうど彼女が関係していた暗やみの悪人どもの間では、あらゆることがわかっていて、互いに秘密を守り合い、互いに助力し合っていた。マニョンにふたりの子供が必要だったが、テナルディエの上さんにふたりの子供があった。同じく男の児で、年齢も同じだった。一方では好都合であり、一方では厄介払いだった。そこでテナルディエのふたりの児はマニョンの児となった。マニョンはセレスタン河岸を去って、クロシュペルス街に移り住んだ。パリーでは住んでる町を変えさえすれば、まったく別人のようにわからなくなる。
 戸籍係りの方には何にもわからないで、少しの抗議もなく、替玉(かえだま)はきわめて容易に行なわれた。ただテナルディエは子供を貸し与えたについて月に十フランを請求したが、マニョンもそれは承知して、実際毎月支払った。ジルノルマン氏がなお続けて仕送りをしたことは無論である。彼は六カ月ごとに子供を見にやってきた。しかし子供が変わっていることには気づかなかった。「旦那様(だんなさま)、」とマニョンは彼に言った、「まあふたりともほんとによく旦那様に似ていますこと!」
 容易に姿を変え得るテナルディエは、その機会に乗じてジョンドレットとなりすました。ふたりの娘とガヴローシュとは、ふたりの小さな弟がいたことにはほとんど気づく暇もなかった。ある程度の悲惨に陥ると、人は奇怪な無関心の状態になって、人間をも幽霊のように思えてくる。最も親しい身内の者でも、ただぼんやりした影の形にすぎなくなって、人生の朦々(もうもう)とした奥の方に辛うじて認められるだけで、それもすぐに見分けのつかない靄(もや)の中に消えうせてしまう。
 永久に見捨てるつもりでふたりの子供をマニョンに渡した日の夕方、テナルディエの女房はそれでもある懸念を感じた、あるいは感じたらしい様子をした。彼女は亭主に言った、「これではまるで子供をうっちゃるようなものだね。」さすがしっかりした冷淡なテナルディエは、それを一言で押さえつけた、「ジャン・ジャック・ルーソーだってこれ以上のことをしている!」女房の懸念は不安の念に変わった。「でも警察で何とか言い出したらどうしようね。あんなことをして、お前さん、まあいいだろうかね。」テナルディエは答えた。「何をしたっていいやね。だれにもわかるもんか。その上一文なしの餓鬼どものことだ、だれも気をつける者はありゃあしねえ。」
 マニョンは悪党どもの間ではちょっと品のいい女だった。服装も整えていた。彼女はすっかりフランスふうになりきってるある利口な手癖の悪いイギリスの女と、同じ家に住んでいたが、その室(へや)は気取った卑しい飾りつけがしてあった。このパリーふうになりすましたイギリスの女は、富豪らとの関係を保ち、図書館のメダルやマルス嬢の金剛石などと親しい交渉を持っていて、後に罰金帳簿の上に名を著わした者である。普通にミス嬢と呼ばれていた。
 マニョンの手に落ちたふたりの子供は、不平を言うどころではなかった。八十フランついてるので、すべて金になるものが大事にされるとおり、ごく大切にされていた。着物も食物もいいものをあてがわれ、ほとんど「小紳士」のような待遇を受けて、実の母親のもとにいるよりも養母のもとにいる方が仕合わせだった。マニョンはりっぱな夫人らしい様子を作って、彼らの前では変な言葉は少しも使わなかった。
 かくて幾年か過ぎた。テナルディエは幸先(さいさき)がいいと思っていた。ある日マニョンがその月分の十フランを持ってきた時、彼はふとこんなことを言った、「そろそろ父親から教育もしてもらわなくちゃならん。」
 ところが突然、そのふたりのあわれな子供は、その悪い運命のゆえからでもとにかくそれまでは無事に育てられていたが、急に世の中に投げ出されて、自分で生活を始めなければならなくなった。
 あのジョンドレットの巣窟(そうくつ)でなされたように多数の悪漢が一度に捕縛さるる場合には、必ずそれに引き続いて多くの捜索と監禁とが起こってくるもので、公の社会の下に住んでる隠密(おんみつ)な嫌悪(けんお)すべき反社会の一団に対して大災害をきたすものである。その種の事件はこの陰惨な世界にあらゆる転覆を導き込むものである。テナルディエ一家の破滅はやがてマニョンの破滅ともなった。
 ある日、マニョンがプリューメ街に関する手紙をエポニーヌに渡した少し後のことだったが、突然クロシュペルス街に警察の手が下された。マニョンはミス嬢とともに捕えられ、怪しいと見られたその家全部の者が皆一網にされてしまった。そういうことの行なわれてる間、ふたりの小さな男の児は裏の中庭で遊んでいて、その捕縛を少しも知らなかった。彼らが家にはいろうとすると、戸は閉ざされ家は空(から)になっていた。ふたりは向こう側の店の靴職人(くつしょくにん)のひとりに呼ばれて、「母親」が彼らのために書き残していった紙片を渡された。紙片の上にはあて名がついていた、ロア・ド・シシル街八番地執事バルジュ殿。店の男はふたりに言った。「お前たちはもうここにはいられねえ。その番地の所へ行きな。すぐ近くだ。左手のすぐの街路(まち)だ。この書き付けを持って道をきくがいい。」
 ふたりの子供は出かけていった。兄は弟の方を連れながら、ふたりを導くべき紙片を手にしていた。寒い日で、彼の痺(しび)れた小さな指には力がなく、その紙片をしっかと握っていることができなかった。クロシュペルス街の曲がり角(かど)の所で、一陣の風が彼の手から紙片を吹き飛ばしてしまった。もう夜になりかかった頃で、子供はそれをさがし出すことができなかった。
 ふたりはあてもなく往来をさまよい始めた。

     二 少年ガヴローシュ大ナポレオンを利用す

 パリーの春には、しばしば鋭いきびしい北風が吹いて、ただに凍えるばかりでなく、実際身体まで氷結してしまうほどである。最も麗しい春の日をそこなうそれらの北風は、ちょうど建て付けの悪い窓や戸のすき間から暖い室(へや)の中に吹き込んでくる冷たいすき間風のようなものである。あたかも冬の薄暗い扉(とびら)が半ば開いたままになっていて、そこから風が吹いて来るかとも思われる。一八三二年の春は、十九世紀最初の大疫病がヨーロッパに発生した時だったが、この北風が例年にも増して荒く鋭かった。冬の扉よりももっと冷たい氷の扉が口を開いていた。墳墓の扉だった。その北風の中にはコレラの息吹(いぶき)が感ぜられた。
 気象学上から言えば、この寒風の特質は高圧の電気を少しもはばまないことだった。電光と雷鳴とを伴った驟雨(しゅうう)がその頃しばしば起こった。
 ある晩、この北風が激しく吹いて、正月がまた戻ってきたかと思われ、市民はまたマントを引っ掛けていた時、少年ガヴローシュは相変わらずぼろの下にふるえながら暢気(のんき)で、オルム・サン・ジェルヴェーの付近にある、ある理髪屋の店先に立って、我を忘れてるがようだった。どこから拾ってきたかわからないが、毛織りの女の肩掛けをして、それに顔を半分埋めていた。ちょうど蝋細工(ろうざいく)の新婦の人形があって、首筋をあらわにし橙(オレンジ)の花を頭につけ、窓ガラスの中で二つのランプの間にぐるぐる回りながら、通行人に笑顔(えがお)を見せていた。少年ガヴローシュはそれに深く見とれてるようなふうをしていた。しかし実際は、店の中をうかがっているのであって、店先にある石鹸(せっけん)の一片でも「ごまかし」て、場末の「床屋」に一スーばかりにでも買ってもらおう、というくらいのつもりだった。彼は何度もそういう一片で朝飯にありついたことがあった。彼はそういう仕事に得意で、そのことを「床屋の髯(ひげ)をそる」と称していた。
 人形を見、また一片の石鹸を偸見(ぬすみみ)しながら、彼は口の中でこうつぶやいた。「火曜日。――火曜日じゃない。――火曜日かな。――火曜日かも知れん。――そうだ、火曜日だ。」
 その独語は何のことだか人にはわからなかった。
 あるいはもしかすると、その独語は三日前に得たこの前の食事に関することだったかも知れない。なぜならちょうどその日は金曜だったから。
 理髪師は盛んな火のはいってるストーブで暖められた店の中で、客の顔をそりながら、時々じろりと敵の方へ目をやっていた。敵というのはその凍えた厚かましい浮浪少年で、彼は両手をポケットにつっ込んではいたが、その精神は明らかに鞘(さや)を払って一仕事しようとしていた。
 ガヴローシュが人形や窓ガラスやウィンゾール石鹸などをのぞいてる間に、彼より小さなかなりの服装をしたふたりの子供が、それも背たけが異なってひとりは七歳くらいでひとりは五歳くらいだったが、おずおずと戸のとっ手を回して、店にはいってゆき、おそらく慈悲か何かを願いながら、懇願というよりもむしろうめきに似た声でぶつぶつつぶやいた。ふたりは同時に口をきいたが、年下の方の声は嗚咽(おえつ)に妨げられ、年上の方の声は寒さに震える歯の音に妨げられて、言葉は聞き取れなかった。理髪師は恐ろしい顔をしてふり向き、剃刀(かみそり)を手にしたまま、左手で年上の方を押し返し、膝頭(ひざがしら)で年下の方を押しのけ、ふたりを往来につき出して、戸をしめながら言った。
「つまらないことにはいってきやがって、室(へや)が冷えっちまうじゃないか」
 ふたりの子供は泣きながらまた歩き出した。そのうちに雲が空を通って、雨が降り始めた。
 少年ガヴローシュはふたりのあとに駆けていって、それに追いついた。
「おい、お前たちはどうしたんだい。」
「寝る所がないんだもの。」と年上の方が答えた。
「そんなことか。」とガヴローシュは言った。「なんだつまらねえ。それぐらいのことに泣いてるのか。カナリヤみたいだな。」
 そして年長者らしい嘲弄(ちょうろう)半分の気持から、少しかわいそうに見下すようなまたやさしくいたわるような調子で言った。
「まあ俺(おれ)といっしょにこいよ。」
「ええ。」と年上の方が言った。
 そしてふたりの子供は、大司教のあとにでもついてゆくようにして彼のあとに従った。もう泣くのをやめていた。
 ガヴローシュは彼らを連れて、サン・タントアーヌ街をバスティーユの方へ進んでいった。
 彼は歩きながら、ふり返って理髪屋の店をじろりとにらんだ。
「不人情な奴(やつ)だ、あの床屋め。」と彼はつぶやいた。「ひどい野郎だ。」
 ガヴローシュを先頭に三人が一列になって歩くのを見て、ひとりの女が大声に笑い出した。三人に敬意を欠いた笑い方だった。
「こんちは、共同便所お嬢さん。」とガヴローシュはその女に言った。
 それからすぐにまた、理髪師のことが頭に浮かんできて、彼はつけ加えた。
「俺(おれ)は畜生を見違えちゃった。あいつは床屋じゃねえ、蛇(へび)だ。ようし、錠前屋を呼んできて、今にしっぽに鈴をつけさしてやらあ。」
 理髪師は彼の気をいら立たしていた。ブロッケン山(訳者注 ワルプルギスの魔女らの会合地と思われていた所)でファウストに現われて来るにもふさわしいようなある髯(ひげ)のある門番の女が、手に箒(ほうき)を持って立っていると、彼は溝(どぶ)をまたぎながら呼びかけた。
「お前さんは馬に乗って出て来るといいや。」
 その時、彼は一通行人のみがき立ての靴(くつ)に泥をはねかけた。
「ばか野郎!」と通行人はどなった。
 ガヴローシュは肩掛けの上に顔を出した。
「苦情ですか。」
「貴様にだ!」と通行人は言った。
「役所はひけましたよ、」とガヴローシュは言った、「もう訴えは受け付けません。」
 その街路をなお進みながらやがて彼は、十三、四歳の乞食娘(こじきむすめ)が、膝(ひざ)まで見えるような短い着物を着て、ある門の下に凍えて立ってるのを見た。小さな娘は着のみ着のままであまり大きくなり始めてるのだった。生長はそういう悪戯(いたずら)をすることがある。裸体がふしだらとなる頃には、衣裳(いしょう)は短かすぎるようになる。
「かわいそうだな!」とガヴローシュは言った。「裾着(すそぎ)もないんだな。さあ、これでもまあ着るがいい。」
 そして首に巻いていた暖かい毛織りの肩掛けをはずし、それを乞食娘(こじきむすめ)のやせた紫色の肩の上に投げてやった。それで首巻きはまた再び肩掛けに戻ったわけである。
 娘はびっくりしたようなふうで彼をながめ、黙ったまま肩掛けを受け取った。ある程度までの困苦に達すると、人は呆然(ぼうぜん)としてしまって、もはや虐待を訴えもしなければ、親切を謝しもしなくなるものである。
 それからガヴローシュは「ぶるる!」と脣(くちびる)でうなって、聖マルティヌス(訳者注 中古の聖者)よりもいっそうひどく震え上がった。聖マルティヌスは少なくとも、自分のマントの半分は残して身につけていたのである。
 その「ぶるる!」という震え声に、驟雨は一段ときげんを損じて激しくなってきた。この悪者の空はかえって善行を罰する。
「ああ何てことだ。」とガヴローシュは叫んだ。「またひどく降り出してきたな。このまま降り続こうもんなら、もう神様なんてものも御免だ。」
 そして彼はまた歩き出した。
「なあにいいや。」と彼は言いながら、肩掛けの下に身を縮めてる乞食娘の方に一瞥(いちべつ)をなげた。「あすこにだってすてきな着物を着てる女が一匹いらあ。」
 そしてこんどは雲をながめて叫んだ。
「やられた!」
 ふたりの子供は彼のあとに並んで歩いていた。
 人は通常パンを黄金のように鉄格子の中に置くものであって、密な鉄格子はパン屋の店を示すものであるが、彼らがそういう一つの窓の前を通りかかった時、ガヴローシュは後ろをふり向いた。
「おい、みんな飯を食ったか。」
「朝から何にも食べません。」と年上の子供が答えた。
「じゃあ親父(おやじ)も親母(おふくろ)もないのか。」とガヴローシュはおごそかに言った。
「いいえ、どっちもありますが、どこにいるかわからないんです。」
「それはわかってるよりわからない方がいいこともある。」と思想家であるガヴローシュは言った。
「もう二時間も歩き回ってるんです。」と年上の方は言い続けた。「町角(まちかど)でさがし物をしてたけれど、わからないんです。」
「あたりまえさ、犬がみんな食ってしまうんだ。」とガヴローシュは言った。
 そしてちょっと口をつぐんだ後、彼はまた言った。
「ああ俺たちは産んでくれた者を失ってしまったんだ。それをどうしたのかもうわからないんだ。こんなことになるべきもんじゃあねえや。こんなふうに大人(おとな)を見失うなあばかげてる。だがまあのみこんじまうさ。」
 彼はその上彼らに何も尋ねなかった。宿がない、そんなことはあたりまえのことである。
 ふたりの中の年上の方は、子供の常としてすぐにほとんど平気になって、こんなことを言い出した。
「でも変ですよ。お母さんは、枝の日曜日(復活祭前の日曜)には黄楊(つげ)の枝をもらいに連れてってくれると言っていたんだもの。」
「ふーむ。」とガヴローシュは答えた。
「お母さんはね、」と年上のは言った、「ミス嬢といっしょに住んでるんですよ。」
「へえー。」とガヴローシュは言った。
 そのうちに彼は立ち止まって、しばらくそのぼろ着物のすみずみを隈(くま)なく手を当ててさがし回った。
 ついに彼はただ満足して頭を上げたが、しかし実は昂然(こうぜん)たる様子になった。
「安心しろよ。三人分の食事ができた。」
 そして彼は一つのポケットから一スー銅貸を引き出した。
 ふたりが驚いて口を開く間もなく、彼はふたりをすぐ前のパン屋の店に押し込み、帳場に銅貨を置きながら叫んだ。
「おい、パンを一スー。」
 主人と小僧とを兼ねてるそのパン屋は、パンの切れとナイフとを取り上げた。
「三片(みきれ)にしてくれ。」とガヴローシュは言った。そしてしかつめらしくつけ加えた。
「三人だからな。」
 そしてパン屋が三人の客の様子をうかがって黒パンを取り上げたのを見て、彼は鼻の穴に深く指をつっ込み、あたかも拇指(おやゆび)の先に一摘まみのフレデリック大王の嗅煙草(かぎたばこ)でも持ってるようにおごそかに息を吸い込んで、それからパン屋にまっ正面から次の激語を浴びせかけた。
「そりゃんだ?」
 読者はガヴローシュがパン屋に浴びせかけたその一語を、ロシアかポーランドあたりの言葉だろうと思ったり、あるいは曠野(こうや)のうちに大河の一方から他方へ呼びかわすアメリカ土人の粗野な叫びだろうと思うかもしれないが、実は読者自身が日常使ってる言葉で、「それはなんだ?」という句の代わりになるものだった。パン屋はそれをよく理解して答えた。
「なにこれはパンで、中等のうちで一番いい品だよ。」
「すすけたやつとでも言うんだろう。」とガヴローシュは落ち着いて冷然と言った。「白いパンがいるんだ。洗い立てのようなやつだ。俺(おれ)がごちそうするんだからな。」
 パン屋は思わず微笑して、それから白パンを切りながら、三人をあわれむようにながめた。ガヴローシュはそれがしゃくにさわった。
「おい丁稚(でっち)、」と彼は言った、「なんだってそうじろじろ見てるんだ。」
 だが三人をつぎ合わしても、やっと一尋(ひとひろ)くらいなものだったろう。
 パンが切られると、パン屋は一スー銅貨を引き出しに投げ込み、ガヴローシュはふたりの子供に言った。
「やれよ。」
 子供はぼんやりして彼をながめた。
 ガヴローシュは笑い出した。
「あはあ、なるほど、まだわからないんだな。小(ちっ)ちゃいからな。」
 そして彼は言い直した。
「食えよ。」
 同時に彼は、ふたりにパンを一切れずつ差し出した。
 そして、年上の方はいくらか話せるやつらしいので、少し勇気をつけてやって、遠慮なく腹を満たすようにしてやるがいいと彼は思って、一番大きな切れを与えながら言い添えた。
「これをつめ込むがいい。」
 一切れは一番小さかったので、彼はそれを自分のにした。
 あわれな子供らは、ガヴローシュもいっしょにして、非常に腹がすいていた。で三人はその店先に並んで、パンをがつがつかじり出した。パン屋はもう金をもらってしまったので、しかめっ面(つら)をして彼らをながめていた。
「往来に戻っていこう。」とガヴローシュは言った。
 彼らはまたバスティーユの方へ歩き出した。
 時々、明るい店の前を通る時、年下の方は立ち止まって、紐(ひも)で首にかけてる鉛の時計を出して時間を見た。
「なるほどまだ嘴(くちばし)が黄色いんだな。」とガヴローシュは言った。
 それからふと考え込んで、口の中でつぶやいた。
「だが、俺にもし子供(がき)でもあったら、もっと大事にするかも知れねえ。」
 彼らがパンの切れを食い終わって、向こうにフォルス監獄の低いいかめしい潜門(くぐりもん)が見える陰鬱(いんうつ)なバレー街の角(かど)まで達した時、だれかが声をかけた。
「やあ、ガヴローシュか。」
「やあ、モンパルナスか。」とガヴローシュは言った。
 浮浪少年に言葉をかけた男は、モンパルナスが変装してるのにほかならなかった。青眼鏡(あおめがね)をかけて姿を変えてはいたが、ガヴローシュにはすぐにわかった。
「畜生、」とガヴローシュは言い続けた、「唐辛(とうがらし)の膏薬(こうやく)みたいなものを着て青眼鏡をかけてるところは、ちょっとお医者様だ。なるほどいいスタイルだ。」
「シッ、」とモンパルナスは言った、「高い声をするな。」
 そして彼は、すぐに店並みの光が届かない所にガヴローシュを連れ込んだ。
 ふたりの子供は手をつなぎ合って機械的にそのあとについていった。
 彼らがある大きな門の人目と雨とを避けた暗い迫持(せりもち)の下にはいった時、モンパルナスは尋ねた。
「俺が今どこへ行くのか知ってるか。」
「お陀仏堂(だぶつどう)(絞首台)へでも行くんだろう。」とガヴローシュは言った。
「ばか言うな。」
 そしてモンパルナスは言った。
「バベに会いに行くんだ。」
「ああ、」とガヴローシュは言った、「女の名はバベって言うのか。」
 モンパルナスは声を低めた。
「女じゃねえ、男だ。」
「うむ、バベか。」
「そうだ、あのバベだ。」
「あいつは上げられてると思ったが。」
「うまくはずしたんだ。」とモンパルナスは答えた。
 そして彼はこの浮浪少年に、バベはちょうどその日の朝、付属監獄へ護送されて、「審理場の廊下」で右に行く所を左に行ってうまく脱走したことを、かいつまんで話した。
 ガヴローシュはその巧みなやり口に感心した。
「上手なやつだな!」と彼は言った。
 モンパルナスはバベの脱走について二、三の詳しいことをなお言い添えて、最後に言った。
「ところがまだそればかりじゃあねえんだ。」
 ガヴローシュは話を聞きながら、モンパルナスが手に持ってたステッキを取り、そして何とはなしにその上の方を引っ張ってみた。すると刀身が現われた。
「ああ、」と彼はすぐに刀身を納めながら言った、「豪(えら)いやつを隠してるな。」
 モンパルナスは目をまたたいてみせた。
「なるほど、」とガヴローシュは言った、「いぬをやっつけるつもりだね。」
「そんなことあわかるもんか。」とモンパルナスは事もなげに答えた。「とにかく一つ持ってる方がいいからな。」
 ガヴローシュはしつこく言った。
「今晩いったい何をするつもりなんだい?」
 モンパルナスはまたまじめな問題に立ち返って、一語一語のみ込むように言った。
「いろんなことだ。」
 そして彼はにわかに話題を変えた。
「時にね。」
「何だ?」
「この間妙なことがあったよ。まあ俺(おれ)がある市民に会ったと思うがいい。するとその男が俺にお説教と財布とをくれた。俺はそれをポケットに入れた。ところがすぐあとでポケットを探ると、もう何にもねえんだ。」
「お説教だけ残ったんだな。」とガヴローシュは言った。
「だがお前は、」とモンパルナスは言った、「これからどこへ行くんだ。」
 ガヴローシュは引き連れたふたりの子供をさして言った。
「この子供どもを寝かしに行くんだ。」
「どこだ、寝かすのは。」
「俺の家(うち)だ。」
「お前の家って、どこだ。」
「俺の家だ。」
「では家があるのか。」
「うむ、ある。」
「そしてそりゃあどこだ。」
「象の中だ。」とガヴローシュは言った。
 モンパルナスは生来あまり驚かない方ではあったが、声を上げざるを得なかった。
「象の中!」
「そうだ、象の中だ。」とガヴローシュは言った。「せがどった?」
 この終わりの一語もまた、だれもそう書きはしないが、だれでも話してる言葉である。「せがどった」というのは、「それがどうした?」という意味である。
 浮浪少年のその深い見解は、ついにモンパルナスを落ち着けまじめになした。彼はガヴローシュの住居に賛成しだしたようだった。
「なるほど、」と彼は言った、「あの象か。中はどんな気持ちだ?」
「いいね、」とガヴローシュは言った、「まったくすてきだ。橋の下のように風はこないしね。」
「どうしてはいるんだ。」
「そりゃあはいれるさ。」
「穴でもあるのか。」とモンパルナスは尋ねた。
「うむ。だが人に言っちゃあいけねえよ。前足の間にあるんだ。いぬどもも気がついていないんだ。」
「でお前はそこから上ってゆくのか。なるほどな。」
「かさこそっとやればもう大丈夫、だれの目にもつかねえ。」
 そしてちょっと言葉を切って、ガヴローシュはまた言い添えた。
「この子供には、梯子(はしご)をかけてやろう。」
 モンパルナスは笑い出した。
「いったいどこからその餓鬼どもを拾ってきたんだ。」
 ガヴローシュは事もなげに答えた。
「理髪屋が俺(おれ)にくれたんだ。」
 そのうちにモンパルナスは考え込んだ。
「お前にはすぐに俺がわかったんだな。」と彼はつぶやいた。
 彼はポケットから何か二つの小さな物を取り出したが、それは綿にくるんだ二つの羽軸に外ならなかった。彼はそれを両方の鼻の穴に差し込んだ。すると鼻の形がまったく異なってしまった。
「すっかり変わったよ、」とガヴローシュは言った、「その方が男っぷりがいいや、いつもそうしてる方がいいね。」
 モンパルナスは好男子であったが、ガヴローシュはひやかしたのだった。
「冗談はぬきにして、」とモンパルナスは尋ねた、「これでどうだろう。」
 彼は声まで変わっていた。一瞬間のうちにモンパルナスは別人になってしまった。
「まったくポリシネル(道化者)だ。」とガヴローシュは叫んだ。
 ふたりの子供はそれまで彼らの言葉に耳も傾けないで、指先で鼻の穴をほじくっていたが、ポリシネルという言葉を聞いて近寄ってき、始めておもしろがり感心しだしてモンパルナスをながめた。
 ただ不幸にもモンパルナスは安心していなかった。
 彼はガヴローシュの肩に手を置き、一語一語力を入れて言った。
「いいかね。俺がもし番犬と短剣と一件とを組んで広場んでもいるんなら、そしてお前が十スーばかんふんばってでもくれるんなら、少し手を貸さんもんでもねえんだがね、今はぼんやりふんぞってもおれんからな。」
 その変な言葉を聞いて、浮浪少年は妙な態度をとった。彼は急いでふり返り、深く注意をこめてその小さな輝いた目であたりを見回し、そして数歩向こうに、こちらに背を向けて立ってるひとりの巡査を見つけた。ガヴローシュは思わず「なるほど」と言いかけたが、すぐにその言葉をのみ込んでしまって、それからモンパルナスの手を握って打ち振りながら言った。
「じゃ失敬。俺(おれ)は餓鬼どもをつれて象の所へ行こう。もし晩に用でもあったら、あすこへこいよ。中二階に住んでるから。門番もいやしねえ。ガヴローシュ君と尋ねて来りゃあすぐわかるよ。」
「よし。」とモンパルナスは言った。
 そして彼らは別れて、モンパルナスはグレーヴの方へ、ガヴローシュはバスティーユの方へ向かった。五歳の子供は兄に連れられ、兄はガヴローシュに連れられて、何度もふり返っては、「ポリシネル」が立ち去るのをながめた。
 巡査がいることをモンパルナスがガヴローシュに伝えた変な言葉には、種々の形の下に十何回となくくり返されたんという音の合い図を含んでいるのだった。この別々に発音されないで巧みに文句のうちに交じえられたんという音は、こういう意味だった、「注意しろ、うっかりしたことは言えねえ。」その上モンパルナスの言葉のうちには、ガヴローシュの気づかない文学的美点があった。それは、番犬と短剣と一件という言葉で、タンプル付近で普通に隠語として使われ、犬とナイフと女という意味であって、モリエールが喜劇を書きカローが絵を書いていたあの大世紀の道化者や手品師などの間に使い古されたものであった。
 今から二十年前までは、バスティーユの広場の南東のすみ、監獄の城砦(じょうさい)の昔の濠(ほり)に通ぜられた掘り割りにある停船場の近くに、一つの不思議な記念物が残っていた。それは今ではもうパリー人の記憶にも止まってはいないが、少しは覚えていてもいいものである、なぜなら、「学士会員エジプト軍総指揮官」(ナポレオン)の考えになったものであるから。
 もっとも記念物とは言っても、一つの粗末な作り物にすぎなかった。しかしこの作り物は、ナポレオンの考えを示す驚くべき草案であり偉大な形骸(けいがい)であって、相次いで起こった二、三の風雲のためにしだいにわれわれから遠くへ吹き去られこわされてしまったものではあるけれども、それ自身は歴史的価値を有するに至ったもので、一時作りのものであったにかかわらずある永久性をそなうるに至ったものである。それは木材と漆喰(しっくい)とで作られた高さ四十尺ばかりの象の姿で、背中の上には家のような塔が立っていて、昔はペンキ屋の手で青く塗られていたが、当時はもう長い間の風雨に黒ずんでしまっていた。そして広場の寂しい露天の一隅(いちぐう)で、その巨大な額、鼻、牙(きば)、背中の塔、大きな臀(しり)、大円柱のような四本の足などは、夜分星の輝いた空の上に、恐ろしい姿で高くそびえて浮き出していた。何とも言えない感じを人に与えた。民衆の力の象徴とも言えるものだった。謎(なぞ)のような巨大な黒い影だった。バスティーユの牢獄の目に見えない幽鬼のそばに立っている、目に見える巨大な一種の幽鬼であった。
 外国人でその建造物を見舞う者はほとんどなく、通行人でその建造物をながめる者はひとりもいなかった。そしてしだいに荒廃に帰し、時とともに漆喰が取れて横腹に醜い傷をこしらえた。上流の流行語でいわゆる「奉行(ぶぎょう)」らも、一八一四年以来それを顧みなかった。でその片すみに立ったまま、陰鬱(いんうつ)に病みこわれ、絶えず酔っ払いの馬方どもがよごしてゆく朽ちた板囲いがあり、腹部には縦横に亀裂(きれつ)ができ、尾には木の軸が見え、長い草が足の間にははえていた。そして大都会の地面を絶えず徐々に高めてゆく変化につれて、その広場の地面も三十年来高まっていったので、象は窪地(くぼち)の中に立っていて、ちょうど地面がその重みの下にへこんでいるかのようだった。もうきたなくなって、だれにも顧みられず、いやな姿で傲然(ごうぜん)と控えていて、市民の目には醜く、思索家の目には陰鬱(いんうつ)に見えていた。当然取り除かるべき不潔さをそなえ、当然打ち倒さるべき壮大さをそなえていた。
 しかし前に言ったとおり、夜になると違ったありさまになった。夜はまったく影のものの世界である。薄暗くなり始めると、その古い象も姿が変わった。深く朗らかなやみの中に、落ち着いた恐ろしい姿になった。過去のものであるがゆえに、また夜のものであった。夜の暗さはその偉大さにふさわしいものだった。
 その記念物は、荒々しく、太々しく、重々しく、粗雑で、いかめしく、ほとんどぶかっこうであったが、しかし確かに堂々たるもので、一種壮大野蛮な威厳をそなえていた。がついに消えうせてしまって、九つの塔を持った陰惨な牢獄(ろうごく)の城砦(じょうさい)の跡に立った、煙筒のついた大きなストーブみたいな記念碑を、平和にそびえさした。それはあたかも、封建制度の後に中流階級がやってきたようなものである。勢力は鍋(なべ)の中に存するという一時代の象徴がストーブであることは、至って自然なことである。しかしそういう時代もやがて過ぎ去るだろう。否既に過ぎ去りつつある。強力は釜(かま)の中にあるとしても、勢力は頭脳の中にあるのほかはないということが、既に了解され始めている。言葉を換えて言えば、世界を導いてゆくものは、機関車ではなくて思想であるということが。機関車を思想につなぐはいい、しかし馬を騎士と誤ってはいけない。
 それはとにかく、バスティーユの広場に戻って言うならば、象の建造者は漆喰(しっくい)をもって偉大を作り上げることができ、ストーブの煙筒の建造者は青銅をもって卑小を作り上げることができたのである。
 このストーブの煙筒は、七月記念塔といういかめしい名前を冠せられたものであり、流産した革命(七月革命)のはんぱな記念碑であるが、一八三二年にはまだ、惜しいことには、大きな足場構えでおおわれていて、その上象を孤立さしてしまった広い板囲いでとりまかれていた。
 今浮浪少年がふたりの「餓鬼」を連れて行ったのは、遠い街灯の光が届くか届かないくらいのその広場の片すみの方へであった。
 余事ではあるがここに一言ことわっておくのを許してもらいたい。われわれはただありのままの事実を話しているのである。そして、軽罪裁判所で、浮浪ならびに公共建築物破壊の名の下に、バスティーユの象の中に寝てるところを押さえられたひとりの子供が裁かれたのは、今から二十年前のことであった。
 これだけの事実を述べておいて、話を先に進めよう。
 大きな象の方へ近づきながらガヴローシュは、ごく大きなものがごく小さなものの上に与える感じを察して、こう言った。
「お前たち、こわがることはないんだぜ。」
 それから彼は板囲いの破れ目から象の囲いの中にはいり、ふたりの子供を助けてその入り口をまたがした。ふたりは少し驚いて、一言も口をきかずにガヴローシュのあとに従い、自分たちにパンをくれ宿所を約束してくれたそのぼろを着た小さな天の使いに万事を任した。
 そこには、そばの建築材置き場で職人らが昼間使ってる一つのはしごが、板囲いの根本に横たえてあった。ガヴローシュは非常な力を出してそれを持ち上げ、象の前足の一つにそれを立て掛けた。梯子(はしご)の先が届いてる所に、象の腹にあいてる暗い穴が見えていた。
 ガヴローシュはその梯子と穴とをふたりの客人にさし示して言った。
「上っていってはいるんだ。」
 ふたりの小さな子供は恐れて互いに顔を見合った。
「こわいんだね。」とガヴローシュは叫んだ。
 そして彼は言い添えた。
「やって見せよう。」
 彼は象の皺(しわ)のある足に手をかけ、梯子を使おうともせず、ひらりと穴の所へ飛び上がった。そして蛇が穴にはい込むようにその中にはいって、見えなくなった。けれど間もなく、青白いぼんやりした幽霊のように、まっくらな穴の縁に彼の顔がぼーっと浮かび出してくるのを、ふたりの子供は見た。
「さあお前たちも上ってこい、」と彼は叫んだ、「ごくいい気持ちだぜ。」それから年上の方に言った。「お前上れ、手を引っ張ってやるから。」
 ふたりは互いに肩をつき合って先を譲った。しかし浮浪少年は彼らをこわがらせると同時にまた安心さしていた。その上雨もひどく降っていた。で年上の方がまずやってみた。年下の方は兄が上ってゆくのを見、自分ひとり大きな動物の足の間に取り残されたのを見て、泣き出したいような心地になったが、それをじっとおさえた。
 年上の方は梯子を一段一段とよろめきながら上っていった。ガヴローシュはその間、撃剣の先生が生徒を励ますように、また馬方が騾馬(らば)を励ますように、声をかけて力づけてやった。
「こわくはない。」
「そうだ。」
「そのとおりやるんだ。」
「そこに足をかけて。」
「こっちにつかまって。」
「しっかり。」
 そして子供が手の届く所まで来ると、彼はいきなり強くその腕をつかんで引き上げた。
「よし。」と彼は言った。
 子供は穴の縁を越した。
「ちょっと待っておれ。」とガヴローシュは言った。「どうぞ席におつき下さいだ。」
 そして、はいったのと同じようにして穴からいで、猿のようにすばしこく象の足をすべりおり、草の上にすっくと飛びおりて、五歳の子供を鷲づかみにし、はしごの中ほどにそれを据え、その後から上りながら、年上の方に叫んだ。
「俺が押すから、お前は引っ張るんだぞ。」
 たちまちのうちに子供は、上げられ、押され、引きずられ、引っ張られ、知らない間に穴の中へ押し込まれてしまった。ガヴローシュはそのあとからはいってきながら、踵(かかと)で一蹴してはしごを草の上に投げ倒し、手をたたいて叫んだ。
「さあよし。ラファイエット将軍万歳!」(訳者注 常に革命に味方せる当時の将軍)
 その感興が静まると、彼はつけ加えて言った。
「お前たちは俺(おれ)の家にきたんだぜ。」
 ガヴローシュは実際自分の家に落ち着いたのだった。
 実に廃物の意外なる利用である。偉大なる事物の恵み、巨人の好意である。皇帝の思想を含有するこの大なる記念物は、一浮浪少年を入るる箱となった。小僧はその巨像から迎えられて庇護(ひご)された。日曜日の晴れ着をつけてバスティーユの象の前を通る市民らは、軽蔑(けいべつ)の様子で目を見張ってながめながら好んで言った、「あんなものが何の役に立とう?」しかしそれは、父も母もなくパンも着物も住居もない一少年を、寒気や霜や霰(あられ)や雨などから救い、冬の朔風(きたかぜ)からまもり、熱を起こさせる泥中(でいちゅう)の睡眠から防ぎ、死を招く雪中の睡眠から防ぐの用に立った。社会から拒まれた罪なき者を収容するの用に立った。公衆の罪過を減ずるの用に立った。それはすべての扉(とびら)からしめ出された者に向かって開かれた洞窟(どうくつ)であった。虫に食われ世に忘れられ、疣(いぼ)や黴(かび)や吹き出物などが一面に生じ、よろめき、腐蝕され、見捨てられ、永久に救われない、そのみじめな年老いた巨獣、四つ辻(つじ)のまんなかに立って好意の一瞥(いちべつ)をいたずらに求めてるその一種の巨大なる乞食(こじき)は、これもひとりの乞食、足には靴(くつ)もなく、頭の上には屋根もなく、凍えた指に息を吐きかけ、ぼろをまとい、人の投げ与える物で飢えをしのいでるあわれな小人に、憐愍(れんびん)の情を寄せてるかのようだった。バスティーユの象はそういう役に立ったのである。ナポレオンのその考案は、人間に軽蔑されたが、神によって受け入れられた。単に有名にすぎなかった物も、尊厳の趣を得るにいたった。皇帝にとっては、その考案したところを実現せんがためには、雲斑石(うんぱんせき)や青銅や鉄や金や大理石などが必要だったろうけれども、神にとっては、板と角材と漆喰(しっくい)との古い構造で足りたのである。皇帝は天才的夢想をいだいていた。鼻を立て、塔を負い、勇ましい生命の水を四方に噴出する、この武装せる驚くばかりの巨大なる象のうちに、民衆を具現せんと欲した。しかし神はそれをいっそう偉大なるものたらしめた、すなわちその中にひとりの少年を住まわしたのである。
 ガヴローシュがはいり込んだ入り口の穴は、前に言ったとおり象の腹の下に隠れていて、その上猫(ねこ)か子供のほかは通れないくらいに狭かったので、外からはほとんど見えなかった。
「まず初めに、」とガヴローシュは言った、「皆不在だと門番に言っておこう。」
 そしてよく案内を知った自分の部屋にでもはいるように平気で暗闇(くらやみ)の中を進んでいって、一枚の板を取り、それで入り口の穴をふさいだ。
 ガヴローシュはまた闇の中にはいり込んだ。ふたりの子供は、燐(りん)の壜(びん)の中に差し込んだ付け木に火をつける音を聞いた。化学的のマッチはまだできていなかった。フュマードの発火器も当時では進歩した方のものだった。
 突然光がきたので、子供らは目をまたたいた。ガヴローシュは樹脂の中に浸した麻糸でいわゆる窖(あなぐら)の鼠なるものの端に火をつけたのだった。光よりもむしろ煙の方を多く出すその窖の鼠は、象の内部をぼんやり明るくなした。
 ガヴローシュのふたりの客人は、まわりをながめて、一種異様な感に打たれた。ハイデルベルヒ城の大樽(たる)の中に閉じこめられでもしたような心地であり、またなおよく言えば、聖書にある鯨の腹の中にはいったというヨナが感じでもしたような心地だった。巨大な骸骨(がいこつ)が彼らの目に見えてきて、彼らを丸のみにしていた。上には、穹窿形(きゅうりゅうけい)の大きな肋骨材(ろっこつざい)が所々に出ている薄黒い長い梁(はり)が一本あって、肋骨をそなえた背骨のありさまを呈し、多くの漆喰(しっくい)の乳房が内臓のようにそこから下がっており、一面に張りつめた広い蜘蛛(くも)の巣は、塵(ちり)をかぶった横隔膜のようだった。方々のすみには黒ずんだ大きな汚点が見えていて、ちょうど生きてるようで、にわかに騒ぎ立って早く動き回った。
 象の背中から落ちた破片は、腹部の凹所(おうしょ)を満たしていたので、歩いてもちょうど床(ゆか)の上のような具合だった。
 小さい方は兄に身を寄せて、半ば口の中で言った。
「暗いんだね。」
 その言葉はガヴローシュの激語を招いた。ふたりの子供の狼狽(ろうばい)してる様子を見ると、少し押っかぶせてやる必要があった。
「何をぐずぐずぬかすんだ?」と彼は叫んだ。「おかしいというのか。いやだと言うのか。お前らはテュイルリーの御殿にでも行きてえのか。ばかになりてえのか。言ってみろ。覚えておれ、俺(おれ)はたわけ者じゃねえんだぞ。お前らはいったい、法皇の小姓みてえな奴(やつ)なのか。」
 少し手荒い言葉もこわがってる時には効果がある。それは心を落ち着かせる。ふたりの子供はガヴローシュの方へ近寄っていった。
 ガヴローシュはその信頼の様子に年長者らしく心を動かされて、「厳父から慈母に」変わり、年下の方に言葉をかけてやった。
「ばかだな。」と彼は甘やかすような調子に小言(こごと)を包んで言った。「暗いのは外だぜ。外には雨が降ってるが、ここには降っていない。外は寒いが、ここには少しの風もない。外には大勢人がいるが、ここにはだれもいない。外には月も照っていないが、ここには俺の蝋燭(ろうそく)があるんだ。」
 ふたりの子供は前ほどこわがらないで部屋(へや)の中を見回し始めた。しかしガヴローシュは彼らに長く見回してる暇を与えなかった。
「早くしろよ。」と彼は言った。
 そして彼はふたりをちょうど室(へや)の奥とでも言える方へ押しやった。
 そこに彼の寝床があった。
 ガヴローシュの寝床はすっかり整っていた。すなわち、敷き蒲団(ぶとん)と掛け蒲団とまた帷(とばり)のついた寝所とをそなえていた。
 敷き蒲団は藁(わら)の蓆(むしろ)であったが、掛け蒲団は灰色のかなり広い毛布の切れで、ごくあたたかくまたほとんど新しかった。そして寝所というのは次のようなものだった。
 かなり長い三本の柱が、漆喰(しっくい)の屑(くず)が落ち散った地面に、すなわち象の腹に、前方に二本後ろに一本、堅くつき立ててあって、その上の方を繩(なわ)で結わえられ、ちょうどピラミッド形の叉銃(さじゅう)のようになっていた。叉銃の上には金網がのっていて、それはただ上からかぶせられたばかりではあるが、巧みに押しつけて針金で結わえられていたので、三本の柱をすっかり包んでいた。網の裾(すそ)は地面にずらりと並べた大きな石で押さえられて、何物もそれをくぐることができないようになっていた。その金網は動物園の大きな鳥籠(とりかご)に用うるものの一片だった。ガヴローシュの寝床は金網の下にあって、ちょうど籠の中にあるようなものだった。その全体はエスキモー人のテントに似寄っていた。
 金網が帷(とばり)の代わりになっていたのである。
 ガヴローシュは金網を押さえてる前の方の石を少しよけた。すると重なり合っていた金網の二つの襞(ひだ)が左右にあいた。
「さあ、四(よつ)んばいになるんだ。」とガヴローシュは言った。
 彼はふたりの客を注意して籠(かご)の中に入れ、それから自分も後に続いてはい込み、石を並べ、元のとおり堅くその口を閉ざした。
 三人は蓆(むしろ)の上に横になった。
 皆まだ小さくはあったが、だれもその寝所の中では頭がつかえて立っておれなかった。ガヴローシュはなお「窖(あなぐら)の鼠(ねずみ)」を手に持っていた。
「さあねくたばれ。」と彼は言った。「灯(あかり)を消すぞ。」
「これは何ですか。」と年上の方は金網をさしながらガヴローシュに尋ねた。
「それはね、」とガヴローシュはおごそかに言った、「鼠よけだ。もうねくたばれ。」
 けれども彼は、年のゆかないふたりに少し教え込んで置くがいいように思って、続けて言った。
「それは動植物園のものだぜ。荒い獣に使うやつなんだ。倉いっぱいある。壁を乗り越え、窓にはい上り、扉(とびら)をあけさえすりゃあいいんだ。いくらでも取れる。」
 そう言いながら彼は、毛布の切れを年下の方にすっかり着せてやった。すると子供はつぶやいた。

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