レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

   第一編 歴史の数ページ


     一 善(よ)き截断(さいだん)

 一八三一年と一八三二年とは、七月革命に直接関係ある年で、史上最も特殊な最も驚くべき時期の一つである。この二年は、その前後の時期の間にあたかも二つの山のごとくそびえている。革命の壮観があり、断崖(だんがい)が見えている。社会的集団、文明の地層、重畳し粘着せる権利関係の強固な団結、古きフランスを形成する年経たる相貌(そうぼう)、それらが各瞬間ごとに、種々の体系や熱情や理論の乱雲のうちに、そこに明滅している。それらの出現や消滅は、抵抗または運動と名づけられた。そして間欠的に、真理が、人類の魂の日光が、そこに輝き出すのを見ることができる。
 この顕著なる時期は、かなり短く、またかなりわれわれから遠ざかり始めているので、現在でも既にその主要な輪郭をつかむことができる。
 われわれはここにそれを試みてみよう。
 王政復古は、一定の批判を下すに困難な中間的局面の一つであった。かかる中間的局面には、疲労と喧騒(けんそう)と耳語と睡眠と雑踏とがあって、大国民が一宿場に到着したものにほかならない。それらの時期は特殊なものであり、それを利用せんとする為政家を欺くことが多い。最初に該国民が求むるところのものは休息のみであり、その渇望するところは平和のみであり、その欲求するところは小国民たらんとすることである。換言すれば平安でいたいということである。大なる事件、大なる事変、大なる冒険、偉大なる人物、それらももはや神よ、十分にながめ十分に得たのである。シーザーよりもむしろ無力のプルシアスが望ましく、ナポレオンよりもむしろ小国イヴトーの王が望ましい。「それはいかに善良なるかわいき王なりしよ!」夜明けより歩行を続け、長き困難なる一日を経て夕に至ったのである。第一の道程をミラボーと共にし、第二の道程をロベスピエールと共にし、第三の道程をボナパルトと共にして、今は疲れ果てている。だれも寝床を求めているのである。
 疲れたる献身と、老いたる勇壮と、遂げられたる野心と、得られたる幸運とが、さがし求め願い欲するところのものは何であるか。それは身を休むべき場所である。そして今やそれが得られている。平和と静穏と閑暇とが得られている。欠けたものは更にない。けれどもまたそれと同時に、他のある若干の事実が現われてきて、承認を求め、扉(とびら)をたたく。それらの事実は革命と戦役とから生まれ、存在し、生存し、社会のうちに地位を占むる権利を有し、また実際地位を占めている。それはおおむね住居と給養とをつかさどるものであって、ただすべての主義をして安住せしむるの準備をなすのみである。
 かくして政治的思索家の目に現われ来るものは次のことである。
 疲れたる人間が休息を求むると同時に、遂げられたる事実は保証を求むる。事実の保証は、人間の休息と同一事である。
 摂政(クロンウェル)の後にイギリスがスチェアート家に求めたところのものはそれであり、帝政の後にフランスがブールボン家に求めたところのものはそれである。
 それらの保証は時代が必要とするところのものである。りっぱに与えてやらなければならないものである。君主たる者がそれらを「欽定(きんてい)する」。しかし実際それらを与うる者は事物必然の力である。これは深き真理であり、知って有益なる真理である。しかしこの真理を一六六〇年にスチェアート家は寸毫(すんごう)だも知らず、一八一四年にブールボン家は念頭に浮かべだにしなかった。
 ナポレオンが覆滅した時フランスに帰ってきた宿命的なブールボン家は、嘆くべき単純な考えをしか持っていなかった。すなわち、与うる者は自分である、そして自分が与えた所のものはこれを再び取り戻すことを得ると。ブールボン家は神法を持っている、しかしフランスは何物をも持たない。ルイ十八世の憲法の中で国民に譲り与えた政治上の法律は、神法の一分枝に過ぎなくて、ブールボン家自らそれを折り取って、王が再び手にせんと欲する日まで人民に許し与えたものであると。しかしながら、人民へのその贈り物は実はブールボン家から贈ったものでないということを、それがたとい不快であろうともブールボン家自身感ずべきはずだったのである。
 ブールボン家は十九世紀には至って神経質であった。そして国民が翼をひろげるごとに悪い顔つきをした、平凡なる、すなわち通俗で真実なる言葉を使えば、渋面を作った。民衆はそれを見たのである。
 ブールボン家は、自分の前に帝政が劇場の大道具のごとく運び去られてしまったゆえに、自ら力を持っているものと信じた。しかし、ブールボン家自身も同じようにして持ちきたされたものであることに気づかなかった。自分もまたナポレオンを奪い去った同じ手の中にあることを知らなかった。
 ブールボン家は、自分は過去であるゆえに確固たる根を持っていると信じた。しかしそれは誤解であった。ブールボン家は過去の一部分のみであって、全過去はフランス自身であった。フランス社会の根はブールボン家の中にはなくて、国民のうちにあった。その人知れぬ頑丈(がんじょう)なる根は、一王家の権利を組織するものではなくて、一民衆の歴史を組み立てるものであった。その根は至る所にあって、ただ国王の座の下にのみ欠けていたのである。
 ブールボン家は、フランスにとってはその歴史の血にまみれたる顕著なる結び目であった。しかしもはや、その運命の主要なる要素ではなく、その政治の必要なる柱石ではなかった。ブールボン家なくとも事は足りた。実に二十二年間はブールボン家なくして済まされたのである。そこに連続は中断されていた。しかしブールボン家はそれを毫(ごう)も知らなかった。実際、ルイ十七世はなお共和熱月九日(一七九四年七月二十七日)にも君臨しルイ十八世はマレンゴーの戦いの日にも君臨していたのであると想像したブールボン家は、いかにしてそれを知る術(すべ)があったであろうか。有史以来かつて、事実の現前に対して、事実が含有し公布する神聖なる権力の配当の現前に対して、かくまで盲目なる君主は存しなかった。かつて、国君の権利と称せらるる地上の主張によって、かくまで天上の権利が拒まれたことはなかった。
 ブールボン家をして、一八一四年に「欽定(きんてい)された」保証の上に、彼らのいわゆる譲与の上に、再び手をつけしむるに至ったことは、いかに重大な誤謬(ごびゅう)であったか。痛むべきかな、彼らが譲与と名づけたところのものは、実は吾人のなした征服であり、彼らが吾人の簒奪(さんだつ)と呼んだところのものは、実は吾人の権利だったのである。
 復古政府は、時期至ったと思われた時に、ボナパルトに打ち勝ち国内に根をおろしたと想像して、換言すれば自らを強固なる根深きものと信じて、にわかに決心の臍(ほぞ)を固めてあえて事を行なわんとした。ある朝彼はフランスの面前につっ立ち声を張り上げて、その集団的資格と個人の資格とを否認し、国民には大権を拒み公民には自由を拒んだ。他の言葉をもって言えば、国民に対してはよってもって国民たるべきものを否認し、公民に対してはよってもって公民たるべきものを否認した。
 七月の勅令(一八三〇年)と称せらるるあの有名なる法令の根本は、実にそこにあったのである。
 かくて復古政府は没落した。
 その没落は至当であった。しかしながらあえて言わんに、復古政府とてあらゆる進歩の形式に絶対的敵意を有するものではなかった。すなわちそのかたわらにおいてある大事業もなされたのである。
 復古政府の下において、国民は静穏なる談論に親しむに至った、そしてそれはまさしく共和時代に欠けていたものである。また国民は平和の偉大さに親しむに至った、そしてそれはまさしく帝政時代に欠けていたものである。自由にして強大なるフランスはヨーロッパの各民衆に対しては心強い光景であった。ロベスピエールの下にあっては革命が口をきき、ボナパルトの下にあっては大砲が口をきいていた。しかるにルイ十八世およびシャール十世の下においては知力が口をきく順番となった。もはや風はやんで、炬火(たいまつ)は再びともされた。清朗なる高峰の上には純なる精神の光明がひらめくのが見られた。それこそ壮大なる有益なるかつ魅力ある光景であった。十五年の間、平和のうちに、戸外の巷(ちまた)に、偉大なる主義が働くのが見られた。それらの主義は、思想家にとってはいかにも陳腐であったが、為政家にとってはいかにも斬新(ざんしん)であった。すなわち、法律の前における平等、信仰の自由、言論の自由、印刷出版の自由、人材に対して職業の開放。そういう状態は一八三〇年まで続いた。ブールボン家は文明の一道具であって、ついに神の手のうちに握りつぶされたまでである。
 ブールボン家の没落は、彼らの方ではなく国民の方において、壮観をきわめた。彼らは粛然としかし何らの権威もなく王位を去った。彼らの滅落は、史上に陰惨なる感動を残す壮大な消滅の一つではなかった。シャール一世の幽鬼のごとき静穏でもなく、ナポレオンの鷲(わし)の叫びでもなかった。ブールボン家はただ立ち去った、それだけのことである。彼らは王冠をそこに置いた、そして自ら円光を保有しもしなかった。彼らはりっぱであった、しかしおごそかではなかった。彼らにはある程度まで不幸の壮大さが欠けていた。シャール十世はシェルブールへの旅行中、丸いテーブルを四角に切らした、そして崩壊しかけた王政よりも乱れかけた儀礼の方にいっそう心を痛めてるらしかった。かかる低落は、ブールボン家の者を愛する忠誠な人々を悲しましめ、その家がらをとうとぶまじめな人々を悲しました。しかるに民衆の方はいかにもみごとであった。ある朝、武装した王党の暴動とも言うべきものに国民は襲われた、しかし国民は自ら力あることを感じて、別に憤りもしなかった。国民はそれを防ぎ、自らおさえて、事物をその本来の場所に、すなわち政府を法律のうちに戻しブールボン家を悲しくも追放のうちに戻し、そしてそれでやめた。ルイ十四世が身を置いた天蓋(てんがい)の下から老王シャール十世を取り出し、それを静かに地に置いた。王家の人々に手を触るることを、国民はただ悲しみと用心とをもってしたのである。防障の役(一五八八年五月)の後ギーヨーム・デュ・ヴェールが発した荘重な言葉を、今更に思い起こさしめ、全世界の眼前に実行したものは、それはひとりの者ではなく、また数人の者ではなく、実にフランス自身であり、フランス全体であり、勝利を得、自らその勝利に酔ったるフランスであった。ギーヨームの言葉に曰く、「貴顕の愛顧を求むるになれ枝より枝へと飛び移る小鳥のごとくに、悲運より幸運へと向背するになれたる者どもにとりては、逆境にある君主に対して不敵なる態度を取るはいとやすきことなり。さあれ吾人にとりては、わが王の運命は常に尊重すべく、いわんや悲境にある王の運命をや。」
 ブールボン家は尊敬をにない去った、しかし愛惜をにない去りはしなかった。前に述べたとおり、彼らの不幸は彼らよりもいっそう大であった。彼らは地平の彼方に消えうせてしまった。
 七月革命は直ちに、全世界に味方と敵とを得た。味方は心酔と歓喜とをもってその方へ押し寄せ、敵は各その性質に従ってそれに背を向けた。ヨーロッパの諸君主は、まず初めに、その曙(あけぼの)における梟(ふくろう)のごとくに、おびえ驚いて目を閉じた、そして再びその眼を開いたのはただ威嚇(いかく)せんがためのみであった。それは道理ある恐怖であり、宥恕(ゆうじょ)すべき憤怒である。この不思議なる革命はほとんど突撃の手を振るわなかった。敗亡したる王位に、敵対して血を流すだけの名誉をさえ与えなかった。自由が身自らそこなわんことを常に喜ぶ専制政府の目から見れば、恐るべきものでありながら、しかも静かに手を拱(こまぬ)いてるということが七月革命の錯誤であった。その上、七月革命に対抗して試みられ計画されたところのものは何もなかった。最も不満なる者、最もいら立てる者、最も戦慄(せんりつ)を覚えてる者でさえ、皆それに対して頭を下げたのである。人の利己心と怨恨(えんこん)とがいかに強かろうとも、人間以上の高き手が共に働いてるのを感ぜらるる事件に対しては、ある神秘なる敬意が生ずるものである。
 七月革命は、事実を打ち倒す正義の勝利である。光輝に満ちた事柄である。
 事実を打ち倒す正義。そこにこそ、一八三〇年の革命の光輝があり、またその温和さがある。勝利ある正義は、少しも暴戻(ぼうれい)たることを要しない。
 正義は即ち正であり真である。
 正義の特質は、永久に美しく純なることである。事実は、たとい表面上きわめて必然的なものであろうとも、たといその時代の人々から最もよく承認されたものであろうとも、もし単に事実としてのみ存在するならば、もし正義をあまりに少ししか含有しないかあるいはまったく含有しないかするならば、ついには時を経るとともに、必ず畸形(きけい)となり廃物となりまたおそらくは怪物となるの運命を有している。もし事実がいかなる点まで醜くなり得るかを直ちに実見せんと望むならば、何世紀かをへだててマキアヴェリをながめてみるがいい。マキアヴェリは決して悪き天才ではなく、悪魔でもなく、卑劣なみじめな著述家でもなかった。彼はただ事実のみであった。しかも単にイタリーの事実のみではなく、ヨーロッパの事実であり、十六世紀の事実であった。しかし十九世紀の道徳観念の前に立たする時、彼はいかにも嫌忌(けんき)すべきものらしく思われ、また実際嫌忌すべきものである。
 この正義と事実との争いは、社会の初めより続いている。その闘争を絶滅せしめ、純なる観念と人間の現実とを混合せしめ、穏かに正義を事実のうちに浸透せしめ事実を正義のうちに浸透せしむること、それこそまさしく賢者の仕事である。

     二 悪き縫合

 しかしながら、賢者の仕事があるとともにまた巧者の仕事がある。
 一八三〇年の革命は早くその歩を止めた。
 革命が擱坐(かくざ)するや、巧者らはその蹉跌(さてつ)を寸断する。
 巧者らは十九世紀においては、自ら為政家という称号を取った。かくてこの為政家なる言葉は、ついに多少隠語の趣を有するに至った。実際人の知るとおり、巧妙のみしか存しないところには必然に卑小が存する。「巧者」というは「凡人」というに等しくなる。
 同様にまた、「為政家」というは時として「反逆人」というに等しい。
 それゆえに巧者らの言うところによれば、七月革命のごとき革命は、断ち切られたる動脈であって、すみやかに縫合するを要する。あまりに堂々と宣言されたる正義は他を動揺させる。ゆえに一度正義が確認さるるや、こんどは国家を再び固むるを要する。自由が確保さるるや、こんどは権力を考えなければならない。
 その点まではなお賢者は巧者を離れない、しかし既に互いに軽侮し始める。権力もよし、しかし第一に権力とは何ぞや、第二に権力はどこから来るか?
 そうつぶやかれる異議に巧者は耳を貸さないがようである、そしてなおおのれの仕事を続ける。
 おのれに有利な虚構の上に必要の仮面を着せるに巧みなそれら政治家の言によれば、一民衆が君主政の大陸に属する以上は、それが革命の後に第一に要するところのものは、すなわち一王朝をいただくことである。彼らは言う、かくして該民衆は革命の後に平和を得ることができる、換言すれば、傷を包帯し家を修復するの暇を得ることができる。王家は家の足場を隠し負傷者の病院を庇護(ひご)してくれる。
 しかるに、一王朝を迎えることは常に容易の業(わざ)ではない。
 厳密に言えば、だれにても天才ある者は、あるいはだれにても幸運なる者は、王たるに足りる。第一例にはボナパルトがあり、第二の例にはイツルビデ(訳者注 メキシコの将軍にて一八二二年に自ら皇帝となりし人)がある。
 しかしながら、いずれの家系といえども皆一王朝となるに足りるということはない。一民族中におけるある点までの年功が必要である。そして数世紀にわたる甲羅(こうら)は即座に得らるるものではない。
 もし「為政家」の見地に身を置くならば、そしてもとよりあらゆる保留をなして仮りにではあるが、およそ革命の後に現われきたる王たる者の資格は何であるか? その第一に有効なることができまた実際有効なる資格は、彼が自ら革命派であること、換言すれば、親しくその革命に関与し、自ら手を下し、あるいは危地に陥るか、あるいは名を現わし、あるいは斧(おの)にきらるるか、あるいは剣をふるうかした者であることである。
 また王朝たる家柄の資格は何であるか? その家は国民的でなければならない、換言すれば、ある距離をへだてたる革命派で、なしたる行為によってではなく受け入れたる観念によって革命派でなければならない。過去より成っていて歴史的であり、未来より成っていて同感的でなければならない。
 第一の諸革命がなぜにひとりの人物たとえばクロンウェルもしくはナポレオンを見いだすのみで満足したか、また第二の諸革命がなぜに一家系たとえばブルンスウィク家もしくはオルレアン家を見いださずんばやまなかったか、その理由は以上のことによって説明さるる。
 王家なるものは、各枝が地にたれ根をおろして一本の木になるというあのインドの蛸(たこ)の木にも似ている。各枝は一王朝となることができる。しかしそれはただ、民衆までたれ下がるという条件においてである。
 そういうのがすなわち巧者の理論である。
 それゆえ次のような大なる技能を要する。成功に災厄の色調を与えて、成功を利用する者どもをも慄然(りつぜん)たらしむること、踏み出す一歩に恐怖の味を添えること、推移の曲線を大きくして進歩をおくらすこと、その曙(あけぼの)の色を鈍くすること、熱狂の酷烈さを公布し減退させること、圭角(けいかく)を削り爪牙(そうが)を切ること、勝利を微温的たらしむること、正義に衣を被(き)せること、巨人たる民衆にすみやかに寝間着をきせ床につかせること、過度の健康者を断食させること、ヘラクレスのごとき勇者に病後の人のごとき待遇を与えること、事変を術数のうちに丸め込むこと、理想に渇してる精神に麦湯を割った酒を与うること、あまりみごとな成功を得ないよう注意すること、革命に日除幕(ひよけ)を施すこと。
 一八三〇年は、既に一六八八年にイギリスにおいて適用されたこの理論を実行した。
 一八三〇年は、中途にして止まった革命である。半端(はんぱ)の進歩であり、準の正義である。しかしながら理論は「ほとんど」ということを認めない、あたかも太陽が蝋燭(ろうそく)の光を認めないと同様に。
 およそ革命を中途にして止めさせるものはだれであるか? 中流民である。
 なぜであるか?
 中流民とは満足の域に達してる利益にほかならないからである。昨日は欲望を有していた、今日ははや満ち足っている、明日は既に飽満するであろう。
 ナポレオンの後一八一四年に起こった現象は、シャール十世の後一八三〇年に再び現われた。
 中流民を社会の一階級となさんとしたのは誤りである。中流民とは単に民衆のうちの満足してる部分にすぎない。中流民とは今や腰をおろす暇を持ってる者を言う。椅子(いす)は一つの門族を作るものではない。
 しかしあまりに早く腰をおろそうと欲するために、人類の進行をも止めさせることがある。それがしばしば中流民の誤りであった。
 けれど一つの誤りをなすからと言って一階級を作るものではない。利己心は社会の部門の一つを作りはしない。
 その上、たとい利己心に対してさえ人は正当であらなければならない。一八三〇年の動揺の後に、中流民と称せらるる一部分の国民が切望していた状態は、無関心と怠惰とを交じえ多少不名誉を含む無為の状態ではなかった。夢に近い一時の忘却を思わする微睡ではなかった。それは実に停止だったのである。
 停止とは、不思議なほとんど矛盾せる二重の意味から成ってる言葉である、進軍すなわち運動と、駐軍すなわち休息と、二重の意味から。
 停止とは、力の回復である。武装し目ざめた休息である。歩哨(ほしょう)を出し警戒を怠らないでき上がった事実である。それは昨日の戦いと明日の戦いとを前提とする。
 それは、一八三〇年と一八四八年と(七月革命と二月革命と)の中間の時期である。
 ここに吾人が戦いと言うところのものは、また進歩と呼んでもさしつかえない。
 ゆえに中流民にとっては、為政家にとってと同じく、この「停止」という言葉を発する者がひとり必要であった。「だけどまあ」のひとりが、革命を意味するとともに安定を意味する混合式のひとりが、換言すれば、明瞭に過去と未来とを両立させることによって現在を固むるひとりが。
 そういう男がひとり「ちょうど見当たった」。その名をルイ・フィリップ・ドルレアンと言った。
 二百二十一人の者がルイ・フィリップを王とした。ラファイエットがその即位式をつかさどった。彼はそれを最上の共和政と呼んだ。パリーの市庁はランスの大会堂(訳者注 以前歴代の国王が即位式を上げし場所)の代わりとなった。
 この半王位を全王位に置換したことが、すなわち「一八三〇年の事業」であった。
 巧者らがその業を終えた時、彼らの解決の大なる欠陥が現われてきた。すべてそれらは絶対の正義を外にしてなされたものであった。絶対の正義は叫んだ、「予は抗議す!」と。そして恐るべきことは、彼は影のうちに再びはいっていったのである。

     三 ルイ・フィリップ

 およそ革命なるものは、恐ろしき腕と堪能なる手とを有している。その打撃は的確であり、その選択は巧妙である。そして一八三〇年の革命のごとく、たとい不完全であり、変性で雑種であり、幼稚なる状態になされたるものであろうとも、なお常にかなりの天意的清明さをそなえているものであって、悲しき終末をきたすものではない。その消滅も決して廃棄とはならない。
 けれどもあまりに高い自負を有してはいけない。革命とてもまた誤りを犯すことがあり、重大なる錯誤が見らるることもある。
 一八三〇年に立ち戻ってみよう。一八三〇年は、本道からはずれながらも仕合わせであった。中途に歩を止めた革命の後にいわゆる秩序と称せられた建設のうちにあって、王は王位そのものよりもよほどすぐれていた。ルイ・フィリップはまれな人物だったのである。
 歴史的見地よりすれば確かに酌量(しゃくりょう)すべき情状のある父親を持っていたが、しかし父親が非難に相当するとともに、彼は尊敬に相当する人物だった。あらゆる私の徳を有し、多くの公の徳を有していた。自分の健康と財産と身体と仕事とによく意を用いていた。一瞬間の価をよく知っており、常にとは言えないが一年の価も知っていた。節制で快暢(かいちょう)で温和で忍耐強かった。善良な人であり、善良な君主であった。常に正妻とともに寝ね、宮廷内の従僕らに命じて市民に正しい臥床(がしょう)を見さした。それは規律ある奥殿を誇示せんがためであったが、本家(訳者注 ルイ・フィリップ以前の諸王の系統)の古来のふしだらな逸楽の後にあってはごく有効であった。またヨーロッパの各国語に通じ、ことに珍しいことには、あらゆる階級の言葉に通じ、それを常に話していた。最もよく「中流社会」を代表した人物であったが、また一方にそれより抜きん出て万事にそれよりもすぐれていた。自分の血統を自負しながらも、自分自身の価値を特に重んずるだけのすぐれた精神を持っていた。そして自分のごくまれなる家柄のことについても、自らオルレアン家と称してブールボン家とは称さなかった。まだ殿下というに過ぎなかった頃は、一流の血統の王侯であったが、陛下となるにおよんでは磊落(らいらく)な市民となった。公の間では不得要領であったが、親しい個人間では簡明であった。有名な吝嗇家(りんしょくか)であったが、しかししっぽをつかまれるような吝嗇家ではなかった。根本においては、自分のでき心や義務のためには容易に浪費者となる底(てい)の蓄財家だった。文学に通じていたが、文芸に心動かされることは少なかった。りっぱな紳士であったが、騎士型の人ではなかった。単純で静平でしっかりしていた。家族の者らや一門の者らから敬愛されていた。人の心をひくほどの話し上手であった。悟り澄ました為政家であり、内心は冷ややかであり、目前の利害に強く支配され、常に手近な政策を施し、怨恨(えんこん)または感謝の念を知らず、平然として下級者に対し上長の権を振るい、議会の大多数を操縦して王位の下にひそかにつぶやいてる輿論(よろん)を圧迫させるに巧みだった。時としては不謹慎となるまでに快濶(かいかつ)だったが、その不謹慎のうちにも驚くべき巧妙さがあった。術数と真顔と仮面とに豊富だった。フランスに全ヨーロッパを恐れさし、全ヨーロッパにフランスを恐れさした。確かに自分の国を愛していた。しかし自分の一家をなお愛していた。主権よりもいっそう支配権を尊び、威厳よりもいっそう主権を尊んでいたが、そういう性情は、すべて成功をのみ計りながら猾手段(かつしゅだん)をも許し卑劣さをも意に介しないという短所を有するとともに、政治を激動から免れさせ、国家を破砕から免れさせ、社会を覆滅から免れさせるという長所を有するものだった。また細心で、正確で、用心深く、注意深く、怜悧(れいり)で、疲労を知らなかった。時としては矛盾し撞着(どうちゃく)することもあった。アンコナにおいてはオーストリアに対抗して豪胆であり、スペインにおいてはイギリスに対抗して強情であり、アントワープを砲撃し、プリチャールを弁償し、確信をもってマルセイエーズ(フランス国歌)を高唱した。落胆や倦怠(けんたい)や美と理想との趣味や無謀な寛大や理想郷や空想や憤怒や虚栄や恐怖などを少しも知らなかった。個人的のあらゆる勇敢さをそなえていた。ヴァルミーにては将軍であり、ジュマップにては兵卒であった。(訳者注 両地とも一七九二年フランス軍がオーストリア軍を破りし地)。八度弑逆(しいぎゃく)が試みられ、そして常にほほえんでいた。擲弾兵(てきだんへい)のごとく毅然(きぜん)として、思想家のごとく勇壮であった。ただ全ヨーロッパ動揺の機会に対しては不安を覚え、政治的大冒険には不適当であった。常に身を犠牲にするだけの覚悟は持っていたが、決して自分の事業を危うくすることを欲しなかった。国王としてよりも知者として人を従わせるために、好んで自分の意志に感化の仮面を被(き)せた。察知の能力は持たなかったが、観察眼をそなえていた。人の精神にはあまり注意を向けなかったが、人の性格にはよく通じていた、換言すれば、裁かんがために見る必要があったのである。鋭敏な良識と、実際的な怜悧(れいり)さと、軽快な弁舌と、異常な記憶力とを持っていた。絶えずその記憶のうちから物を汲み出すことは、シーザーやアレクサンデルやナポレオンに似ている唯一の点だった。多くの事実や些事(さじ)や日付や固有名詞などを知っていた。しかし、群集の種々の傾向や熱情や才能などを知らず、人の心の内部の熱望や隠れたひそかな高揚などを知らなかった、すなわち一言にして言えば、人の本心の目に見えざる流れとも称すべきものをまったく知らなかった。表層からは受け入れられていたが、下層のフランスとは一致してるところがあまりなかった。それを巧みな才できりぬけていた。あまりに多く統治してはいたが、十分に君臨してはいなかった。その首相は自分自身であった。微小な現実をもって広大な思想の障害たらしむるに巧みだった。文明や秩序や組織の真の創造的能力に一種定規的訴訟的精神を交じえていた。一王朝の創設者であり代弁人であった。多少のシャールマーニュらしいところと多少の代言人らしいところとを持っていた。要するに、高き独特な性格であり、フランス全体の不安にも反して権力を作ることができ、ヨーロッパ全体の嫉妬(しっと)にも反して勢力を作ることができる君主だった。かくしてルイ・フィリップは、もし少しく名誉を好むの念を有し、もし有効なるものに対する感情と同じくらいに偉大なるものに対する感情を有していたならば、その世紀の卓越せる人物のうちに加えられたであろう、そして史上で最も有名なる統治者のうちに列せられたかも知れない。
 ルイ・フィリップは好男子であって、老いてもなお優雅だった。常に国民から喜ばれたとは言えないが、群集からは常に喜ばれた。彼は人の気に入った。天賦の魅力を持っていた。ただ尊厳さは欠けていた。王ではあったが王冠をいただいてはいなかった。老人ではあったが白髪ではなかった。そのやり方は旧制的だったが、その性癖は新制的であって、一八三〇年にふさわしい貴族と市民との混合だった。彼は当時珍しくない過渡人であった。古い発音と古い綴(つづ)り方(かた)とを守りながら、そこで新しい意見を発表していた。ポーランドを好みハンガリーを好んでいたが、波蘭人だの匈牙利人だのという古めかしい文字使いをしていた。シャール十世のように国民軍の服をつけ、ナポレオンのようにレジオン・ドンヌール勲章の大綬をつけていた。
 彼は礼拝堂に行くことはきわめてまれであり、狩猟に行くことは決してなく、オペラに行くことはかつてなかった。教会堂の納室係りや猟犬番人や踊り娘(こ)などにとっては、彼はまったく救われない人物だった。そしてそれは市民間に彼の評判をひろげる一助となった。彼は少しもお取り巻きを持っていなかった。いつも腕の下に雨傘(あまがさ)を抱えて出かけた。そしてその雨傘は長く彼の円光の一部となった。左官や庭師や医者などの心得も多少あった。馬から落ちた御者に刺□(しらく)をしてやったこともある。それからはいつも、アンリ三世が必ず短刀を持って外出したように、必ず手術針を持って外出した。患者を回復させんためにその血を流出さしてやった最初の人であるそのおかしな王を、王党の者らはあざ笑っていた。
 ルイ・フィリップに対して歴史が加える非難のうちには、実は控除しなければならないものがはいっている。およそ王位そのものに帰すべきものがあり、国政そのものに帰すべきものがあり、王自身に帰すべきものがある。その三つの桁(けた)は各異なった総額を与うるものである。民主権を没収したこと、進歩をして第二義的たらしめたこと、巷(ちまた)の抗議を暴力で抑圧したこと、反乱に対して武力で干渉したこと、騒擾(そうじょう)を武器で鎮圧したこと、トランスノナン街の事件、軍法会議、現実の一国を法律の一国たらしめたこと、三十万の特権者をもって立てられた半端(はんぱ)な政府、それらは王位がなした仕事である。ベルギーの提議を拒絶したこと、アルゼリーをあまりに酷薄に征略し、イギリス人がインドに対して行なったように、文明的手段よりもむしろ多くの野蛮的手段を用いたこと、アブデルカデルに信用をなくしたこと、ブライの事件、ドイッツ町を買収したこと、プリチャールを弁償したこと、それらは国政がなした仕事である。国民的というよりもなおいっそう家族的な政治をしたこと、それは王がなした仕事である。
 かく差し引をなす時には、王の負うところは明らかに減少する。
 彼の大なる過ちは、フランスの名において謙譲だったことである。
 その過ちはどこから来るか?
 それを少しく述べてみよう。
 ルイ・フィリップはあまりに家父的な王であった。やがて一王朝たらしめんと静かに孵化(ふか)されつつあったその一家は、あらゆるものを恐れ、静安を乱されることを欲しなかった。そこから過度の臆病(おくびょう)さが生まれたのであって民事的伝統としては七月十四日(一七八九年)を有し軍事的伝統としてはアウステルリッツを有する人民にとっては、それはかえってわずらいとなるものだった。
 その上、まず最初に尽すべき公の義務を除いて考うるならば、ルイ・フィリップが自分の家族に対して持っていた深い温情は、家族の方でもまたそれに価するだけのものがあった。その一群の人々はきわめてすぐれた者ばかりだった。徳と才能とが兼ねそなえられていた。ルイ・フィリップの娘のひとりであるマリー・ドルレアンは、あたかもシャール・ドルレアンが一家の名前を詩人のうちに加えさしたと同じように、一家の名前を美術家の中に加えさした。彼女は自分の魂を一つの大理石像に作り上げ、それをジャンヌ・ダルクと名づけた。またルイ・フィリップの息子のうちのふたりは、メッテルニッヒをして次の平民的賛辞を発せさした。「彼らは、類(たぐ)いまれなる青年であり、類いなき王侯である。」
 そして右の言葉はまた、一字をも削りもしくは加えないでそのままに、ルイ・フィリップにあてはまるものである。
 平等の王侯であり、おのれのうちに王政復古と革命との矛盾をいだき、革命党の不安な一面を有するとともにそれがかえって統治者としての安定となる、そういう点にこそ一八三〇年におけるルイ・フィリップの幸運はあった。事変に対してかくばかり完全に順応した人物はかつて存しなかった。人物と事変とが互いに入り込んで、そこに一つの具体化が成された。ルイ・フィリップは実に一八三〇年の化身である。その上彼は王位につくに大なる便宜を持っていた、すなわち亡命ということを。彼はかつて追放されて、放浪の貧しい日々を送った。自ら働いて食を得た。フランスの最も富裕な采地(さいち)の領主であった彼は、スウィスにおいては食に代えるために古い馬を売り払った。ライヘナウにおいては、自ら数学の教授をし、一方妹のアデライドは刺繍(ししゅう)をし裁縫をした。国王たる身分にそういう思い出が伴うことは、中流民らを心酔せしむるものだった。また彼はかつて、ルイ十一世によって建てられルイ十五世によって利用されたモン・サン・ミシェルの最後の鉄の檻(おり)(訳者注 サン・ミシェル騎士団の城)を、自ら手を下して破壊した。彼はまたデュムーリエの戦友であり、ラファイエットの友であった。ジャコバン党のクラブ員であった。ミラボーは親しく彼の肩をたたき、ダントンは彼を「おい若者」と呼んだ。一七九三年二十四歳の時、まだシャルトル氏とのみ称していて、国約議会の薄暗い小房の奥から彼は、このあわれなる暴君と呼ばれたルイ十六世の裁判に出席した。王において王位を破砕し王位とともに王を破砕し、思想の荒々しい圧倒のうちにほとんど人間を見分けることをしなかった、革命の向こう見ずの明知、また裁判会議の広大なる暴風、尋問を行なう公衆の激昂(げっこう)、いかに答うべきかを知らなかったカペ(ルイ十六世)、その陰惨なる息吹(いぶき)の下にある王の頭の呆然(ぼうぜん)たる恐ろしい揺らぎ、その覆滅のうちにおいて刑する者と刑せらるる者とを問わずすべての者の相対的潔白、それらのことを、それらの異変を、彼は目のあたりながめた。国約議会の法廷に過去の各世紀が召喚さるるのを、彼は見た。責任を負わせられた不幸なルイ十六世の背後に、恐るべき被告の王政が闇(やみ)のうちにつっ立つのを、彼は見た。そして、ほとんど神の裁きほどに超個人的なる民衆の広大な裁きに対する畏敬の念が、彼の心の底に残されたのである。
 大革命が彼のうちに残した感銘は非常に大なるものであった。彼の思い出は、それらの偉大な年月の一分時をも余さない生きた刻印のごときものであった。ある日彼は、確かな一目撃者の前において、立憲議会員のアルファベット順の名簿中のAの部全体をただ記憶だけで正誤したことがあった。
 ルイ・フィリップは白日の王であった。彼の治世中は、印刷出版は自由であり、弁論は自由であり、信仰と言語とは自由であった。九月(一八三五年)の法律は明るみにさらされている。光は特権をついばむの力を持ってると知りつつも、彼はなお自分の王位を光にさらして顧みなかった。歴史は彼にその公正さを認めてやるべきである。
 ルイ・フィリップも、舞台を去ったあらゆる史上の人物の例にもれず、今日では既に人類の本心によって裁かれ始めている。しかし彼の裁判はまだ第一審に止まっている。
 歴史がその敬すべき自由な音調をもって語る時期は、彼に対してはまだ到来してはいない。この王に対して最後の判決を下すべき時はまだきたっていない。謹厳高名なる歴史家ルイ・ブランも、最初の判定を最近自ら緩和している。ルイ・フィリップはいわゆる二百二十一人および一八三〇年と称せられるところのものによって、すなわち半端議会(はんぱぎかい)と半端革命とによって、ほとんど両者から選出されたのである。そして結局、哲理が身を置くべき高き見地よりするならば、吾人は上(かみ)に暗示しておいたごとく、多少の控え目をもってするでなければ絶対の民主主義の名においてここに判定を与うることはできないであろう。絶対の目よりすれば、二つの権利を、すなわち第一に人間の権利を第二に民衆の権利を外にしては、すべては簒奪(さんだつ)となる。しかしそれらのことを控えておいて、今日吾人が言い得るのは次のことである。すなわち、要するにまたいかなる方面よりながめてもルイ・フィリップは、彼自身だけを引き離しかつ人間的善良さの見地よりするならば、ここに古き歴史の古き言葉を使って言えば、王位に上った君主のうちの最上なるもののひとりとなるであろう。
 ところで、彼の価値を落とすものは何であるか? 王位である。しかしルイ・フィリップより王を差し引けば、彼は一個の人間となる。そしてその人間は善良である。時としては嘆賞すべきまでに善良である。しばしば、重大な心痛のうちに、大陸の各外交術数と戦った一日の後に、彼は夕方自分の部屋に退いた。そして疲労と睡魔とに襲われながらも、彼はそこで何をなしたか? 訴訟記録を取り上げ、重罪裁判事件を検査しつつ夜を過ごした。全ヨーロッパに対抗するも一事ではあるが、しかし死刑執行人の手よりひとりの男を救い出すのはなおいっそう重大なことであると、彼は思っていたのである。彼は司法卿に執拗(しつよう)に対抗し、法の饒舌者らと彼が呼んでいた検事らと絞首台について仔細(しさい)に議論を戦わした。時としてはつみ重なった訴訟記録でテーブルがいっぱいになることもあったが、彼はそれを皆一々調べた。それらのみじめなる刑人らを見捨てるのは彼の苦痛とするところだった。ある日、前に上げたのと同じ目撃者に彼は言った、「今晩自分は七人を救った。」その治世の初めの頃は、死刑はほとんど廃せられたかの観があり、絞首台を立てることは非常に王の心をそこなった。グレーヴの刑場は本家の王位とともに消滅し、市井の一グレーヴがバリエール・サン・ジャックの名の下に設けられた。「実際家ら」はせめて準定法の一絞首台の必要を感じた。そしてこの点は、中流民の狭量な方面を代表するカジミール・ペリエがその自由な方面を代表するルイ・フィリップに対して得た勝利の一つだった。ルイ・フィリップは自らベッカリア(訳者注 刑法の緩和改進を主義とするイタリーの学者)の著書に注釈を施した。フィエスキーの機械(訳者注 ルイ・フィリップを倒さんとしてフィエスキーが使用した特別の機械)の事件の後、彼は叫んだ。「自分が負傷だもしなかったことは実に遺憾である、負傷したならば特赦を施してやることができたであろうに。」またある時、彼は大臣らの反対を風諭して、近代の最も秀(ひい)でた人物の一であるある国事犯人のことに関してしたためた。「彼の赦免は既に与えられている、今はただ自分がそれを手に入れることだけである。」ルイ・フィリップはルイ九世のごとく温和でありアンリ四世のごとく善良であった。
 そして吾人に言わすれば、歴史中においては善良さはまれなる宝石とも言い得るがゆえに、善良であった者は偉大であった者よりもほとんどまさると言ってもさしつかえない。
 ルイ・フィリップは、ある者からは厳重に評価され、またある者からはおそらく苛酷に評価されたために、彼を知っていた一人の者(訳者注 本書の著者)が、それもはや今日では幽界の身に等しい者ではあるが、歴史に対して彼のために弁護の陳述をなしに来るのは、きわめて至当なことである。その陳述はいかなる内容であろうと、何よりもまず私念なきものであることは明らかである。死者によって書かれた碑文はまじめなものである。一つの霊魂は他の霊魂を慰めることも得よう。同じ暗黒を分有することは賞讃するの権利を与えてくれるだろう。そして亡命せる二つの墓について、「これは彼に媚(こ)びている」と人に言われる懸念は、ほとんどないのである。

     四 根底の罅隙(かげき)

 本書の物語が、ルイ・フィリップの治世の初期をおおう悲壮なる暗雲の深みのうちに、まさにはいり込まんとする時に当たって、まず事情を明らかにしておかなければならないし、この王に関して多少説明を加えておく必要がある。
 ルイ・フィリップは、明らかに革命の真の目的とは異なったものであるが、しかしオルレアン公としての彼が自ら進んで手を出したこともない革命の自然の推移によって、自ら何ら直接の行動にいずることもなくごく穏やかに、王権を掌握したのであった。彼は王侯に生まれ、そして国王に選出されたと思っただけである。統治の委任権を彼は決して自ら自分に与えはしなかった。それを自ら取りはしなかった。ただ人から提出されてそれを受納したまでである。その提出は正義に反しないものでありその受納は義務に反しないものであると、確かに謬見(びゅうけん)ではあったが、とにかく確信したのである。そこに彼の善意的な所有がある。ところで、吾人をして真底から言わしむれば、ルイ・フィリップはその所有に誠心であり、民主政はその攻撃に誠心であるがゆえに、社会的闘争から発する非常な恐慌の責は、これを王に帰すべきものでもなく、また民主政に帰すべきものでもない。主義の衝突は自然要素の衝突にも似ている。大洋は水をまもり、旋風(つむじかぜ)は空気をまもる。王は王位をまもり、民主政は民衆をまもる。王政たる相対は、共和政たる絶対に対抗する。社会はその闘争の下に血を搾(しぼ)る。しかし今日、社会の苦悩となるものは、後日その福祉となるであろう。そしていずれにしても、闘争する者をここに難ずべき理由は一つもない。両派の一方は明らかに誤っているであろう。正義なるものは、ロデスの巨像のように、片足を共和政の中に入れ、片足を王政の中に入れて同時に両岸にまたがるものではない。正義は不可分のものであり、ただ一方にのみ立つべきものである。しかしながら、誤りを犯している方の人々も、その誤りはまじめなものである。ヴァンデの王党の者を盗賊だとは言えないように、盲人を罪ある者だとは言えない。ゆえにその恐るべき闘争は、これを事物必然の勢いだとしようではないか。その擾乱(じょうらん)がいかなるものであろうとも、人間の責任はそこに交じってはいない。
 右の論を更に完説してみたい。
 一八三〇年の政府はすぐに困難な生活に陥った。昨日生まれたばかりで今日ははや奮闘しなければならなかった。
 ようやく腰をおろすとすぐに政府は、新しく据えられたばかりでまだ堅固でない七月(七月革命)の機関に対して、それを引き倒そうとする漠然(ばくぜん)たる牽引運動(けんいんうんどう)を四方に感じた。
 翌日ははや反抗が生じた、否それはもう前日から生じていたかも知れない。
 月を重ぬるに従って敵対は大となり、影のうちにあったものもあらわに姿を現わしてきた。
 七月革命は、前に言ったとおり、フランス以外の諸国王からはあまり受け入れられず、またフランスにおいては種々の解釈を施された。
 神はおのれの意志を事変のうちに現わして人間に伝える。しかしそれは神秘な言葉によって書かれた難解な文章である。人間は即座にその種々の翻訳をこしらえる。しかしそれらは皆、錯誤と脱落と矛盾とに満ちた速成の不正確なものばかりである。神の言葉を解する者ははなはだ少ない。最も鋭敏なる者、静平なる者、深き者らは、徐々に読み解いてその正文をもたらすが、その時はもう疾(と)くに仕事はなされてしまっている。公衆の巷(ちまた)には既に多くの翻訳ができている。その各翻訳から一党派が生まれ、各誤訳から一徒党が生まれている。そして各党派はおのれのみが唯一の正文を有していると信じ、各徒党はおのれのみが光明を有していると信じている。
 しばしば権力それ自身も一つの徒党にすぎないことが多い。
 革命のうちには流れにさかのぼって泳ぐ者がいる。それは旧党の者らである。
 神の恵みによって世襲権に執着してる旧党の者らに言わすれば、革命は背反の権利から生ずるものであるから、人はまた革命に背反するの権利をも持っていることになる。しかしそれは誤りである。なぜなれば革命のうちにあっては、背反する者は人民ではなくして王だからである。革命はまさしく背反の反対である。あらゆる革命は皆順当なる遂行であるゆえに、そのうちには正法が含まっている。その正法は、時として似而非(えせ)革命家らによって汚名を負わせらるることもあるが、しかしたとい汚されようとも存続するものであり、たとい血にまみれようとも生きながらえるものである。革命は一事変より発生するものではなく、必然より生ずるものである。革命は虚を実に還(かえ)すことである。革命は存在せざるべからざるがゆえに存在する。
 古い正統派ら(訳者注 ブールボン本家を奉ずるもの)は、誤れる理論より生ずるあらゆる暴虐をもって一八三〇年の革命に襲いかかった。錯誤は秀でたる弾丸である。彼らはこの革命を打つに、その傷つけ得べき所を、その鎧(よろい)のない所を、その論理の欠けてる所を、賢くも選んだ。彼らは王位の点をもってこの革命を攻撃した。彼らは叫んだ。「革命よ、この王は何ゆえのものぞや?」それらの徒党は正しき狙(ねら)いを有する盲人である。
 その叫びを、共和党らもまた同じく発する。しかし彼らから来ればそれも合理的である。正統派のうちにおいて盲目となるところのものは、民主派のうちにおいては明知となる。一八三〇年は民衆に破産をさした。憤怒した民主政はそれを非難したのである。
 過去から来る攻撃と未来から来る攻撃との間にあって、七月の建物は奮闘した。一方では数世紀来の王政と争い、他方では永遠の正義と争う一瞬間を、それは現わしたものであった。
 その上国外に対しては、一八三〇年はもはや革命ではなく王政となったために、全ヨーロッパと歩調を合わせなければならなかった。平和を保全することはいっそうの複雑さをきたすことである。矛盾せるものと調和を保たんとすることは、それと戦うよりもいっそうの厄介事であることが多い。常に嵌口(かんこう)されながら常に囂々(ごうごう)たるその暗黙の闘争から、武装せる平和が、本来既に疑わしい文明の更に自ら身をそこなうべき術数が、生まれたのである。七月の王位は、ヨーロッパの各政府に繋駕(けいが)されながら後足で立ち上がってたけり立った。メッテルニッヒは進んでこの王位に臀革(しりかわ)を施さんとした。フランスにおいては進歩から鞭(むち)打たれたこの王位は、全ヨーロッパにおいては足の緩(ゆる)い各王政を鞭(むち)打った。自ら駆り立てられてまた他を駆り立てんとした。
 そのうちにも国内においては、恐るべき斜面があった。困窮者、下層民、賃金、教育、刑罰、醜業、婦人の地位、富、貧、生産、消費、分配、交易、貨幣、信用、資本家の権利、労働者の権利、すべてそれらの問題が社会の上に輻湊(ふくそう)していた。
 本来の政治的党派のほかにまた、他の運動も現われていた。民主上の機運は思想上の機運と相応じていた。秀(ひい)でたる者も群集と同様に不安を感じていた。意味は異なっていたが程度は同じであった。
 土台が、換言すれば民衆が、革命の潮に浸されて一種漠然(ばくぜん)たる癲癇的(てんかんてき)動揺をなしてるとともに、その上に立って思想家らは瞑想(めいそう)していた。それらの思索家らは、ある者は孤立しある者はほとんど一組合のごとく一団となって、平和にしかし底深く社会問題を動かしていた。それらは実に虚心平静なる坑夫であって、火山の底まで静かにその坑道を開いてゆき、かすかな震動とほのかな熔岩の光とによって心乱されることもほとんどなかった。
 その静平なる様は、この動揺せる時代の一美観とも言えるものであった。
 それらの人々は、各権利の問題を政党者らにうち任して、自らは幸福の問題に没頭していた。
 人間の安らかな生活、それこそ彼らが社会から掘り出さんと望んでいたものである。
 彼らは物質的問題を、農工商の問題を、ほとんど宗教の高さにまで引き上げていた。少しは神によって多くは人間によって作られてる現在のごとき文明においては、各利害関係は、政治上の地質学者たる経済学者らから気長に研究された力学的法則に従って、互いに結合し凝結し化合して真の強固なる巌(いわお)を形成している。
 種々異なった名称の下に集まってはいるがこれを一括して社会主義者という通称で指示し得らるるそれらの人々は、右の巌(いわお)を貫かんとつとめ、人の幸福の生きた泉をそれよりほとばしり出させんとつとめていた。
 絞首台の問題から戦争の問題に至るまで、彼らの仕事はすべてを包含していた。フランス大革命によって宣言された男子の権利に、婦人の権利と子供の権利とを彼らはつけ加えていた。
 もとより吾人はここに、種々の理由から、社会主義によって起こされた問題をすべて理論上の見地から根本的に考究せんとするものではない。吾人はただそれらの問題を指示するに止めよう。
 宇宙開闢(かいびゃく)論的見解や夢想や神秘説などを外にして、社会主義者らが提起する問題のすべては、二つの主要なる題目に帰結することができる。
 第一――富を作り出すこと。
 第二――富を分配すること。
 第一の題目には労働問題が含まれる。
 第二の題目には賃金問題が含まれる。
 第一の題目においては労力の使用が問題である。
 第二の題目においては享有の分配が問題である。
 労力の適宜なる使用から、公衆の勢力が生じてくる。
 享有の適宜なる分配から、個人の幸福が生じてくる。
 適宜なる分配とは、平等なる分配の謂(いい)ではなくて、公平なる分配の謂である。最上の平等とはすなわち公平のことである。
 外に現われては公衆の勢力と、内にあっては個人の幸福と、その二つが結びつく時に、社会の繁栄が生じてくる。
 社会の繁栄とは、幸福なる人間、自由なる公民、偉大なる国民、をさす言葉である。
 イギリスは右の二つの題目のうち第一だけを解決している。巧みに富を作ってはいるが、その分配は適宜でない。ただ一方だけが完成したにすぎないその解決は、イギリスを必然に二つの極端に導いている、すなわち、恐るべき富裕と恐るべき困窮とに。ある者らにはあらゆる享有、他の者らすなわち民衆にはあらゆる欠乏。特権、除外例、独占、封建制、などは労働からも生ずる。それは誤れる危険な状態であって、個々の困苦の上に公衆の勢力をうち立て、個人の苦悩のうちに国家の偉大さの根を置くものである。それは不完全に組み立てられた偉大さであって、そこにはあらゆる物質的要素は結合しているが、何ら精神的要素は加えられていない。
 共産主義と土地均分法とは、第二の題目を解決するものと自ら信じている。しかしそれは誤った見解である。それらの分配は生産を殺すものである。平等な分有はついに競争を絶滅させ、その結果また労働を絶滅させる。それは分配物を殺す屠殺者(とさつしゃ)によってなさるる分配である。ゆえにそれらのいわゆる解決に止まることは不可能である。富を殺すことは決して富を分配することではない。
 二つの題目は、これをよく解決せんがためには両者同時に解決するを要する。両者の解決は、これをともに結合して一体となすを要する。
 二つの題目の第一をのみ解決すれば、ヴェニスとなりイギリスとなるであろう。ヴェニスのごとく人為的の強勢をきたし、もしくはイギリスのごとく物質的の強勢をきたすであろう。悪き富者となるであろう。ついには、ヴェニスが死滅したごとく暴挙によって滅び、あるいはイギリスが将来失墜するであろうごとく破産によって滅ぶるであろう。そして世界は、その死滅と失墜とをただ傍観するのみであろう。なぜなれば、すべて利己心のみに過ぎないところのものは、すべて人類に対して一つの徳操をも、または一つの観念をも表示しないところのものは、世界はこれをただ失墜し死滅するに任して顧みないからである。
 もとよりここに吾人は、ヴェニスあるいはイギリスなどの言葉をもって、ある民衆をさすのではなくて、ある社会制度をさすのである。国民の上に置かれた寡頭政治(かとうせいじ)をさすのであって、国民そのものをさすのではない。あらゆる国民に対して吾人は常に尊敬と同情とを持つ。民衆としてのヴェニスは他日復活するであろう。貴族としてのイギリスは没落するであろうが、国民としてのイギリスは永久に生きるであろう。以上のことを一言ことわって、更に言を進めよう。
 二つの題目を解決せよ。富者を励まし、貧者を保護せよ。困窮を絶滅せよ。強者が弱者を不正に利用することをやめさせよ。既に到達せる者に対する途半ばなる者の不正な嫉視(しっし)を抑圧せよ。労働の貸金を数理的にかつ友愛的に正せよ。子供の成長に無料の義務教育を添加し、学問をもって壮年の基礎とせよ。手を休めずに知力を啓発せよ。強勢な民衆たるとともに幸福な家族たれ。所有権を廃することなくそれを普遍的ならしめて、各公民は皆ひとり残らず所有者となるように、所有権を民主的たらしめよ。これは人の考うるごとく難事ではない。要するに二言につづむれば、富を作り出すことを知り富を分配することを知れ。かくした暁には、物質的偉大さと精神的偉大さとを共に得るであろう。そして自らフランスと呼ぶに恥ずかしからざるに至るであろう。
 以上のごときがすなわち、本道をはずれたる二、三の学派を外にし、またその上に立って、社会主義が唱えたところのことである。社会主義が事実のうちにさがし出したところのものはそれであり、人の精神のうちに描き出したところのものはそれである。
 嘆賞すべき努力、神聖なる試みであった。
 それらの主義、それらの理論、それらの障害、為政家にとっては意外にも思想家らと協調しなければならない必要、かすかに見ゆる紛糾せる事理、新たに立てなければならない政治、一方に革命の理想とあまり離れないままで他方に古き世界との一致、ポリニャクと対立さしてラファイエットを用いなければならない事情、反乱の下に明らかに察知さるる進歩、上下両院と下層民衆、平均させなければならない周囲の競争、革命に対する信念、決定的の至高なる正義を漠然(ばくぜん)と懐抱したがために生じた、おそらくある一時のあきらめ、身分を保たんとする意志、家庭的精神、民衆に対するまじめな敬意、正直なる性質、それらのことがほとんど痛ましいまでにルイ・フィリップの頭を満たし、いかに強くまた勇敢であったとは言え、時としては国王たる困難の下に彼は圧倒されんとした。
 恐るべき分裂を、しかもフランスはかつて見ないほど真にフランス的であったから、微塵(みじん)になることではない分裂を、彼は自分の足下に感じた。
 重畳した闇(やみ)は地平をおおうていた。異常な影はしだいに近く迫ってきて、人と事物と思想との上に徐々にひろがっていった。あらゆる激情と思想とから来る影であった。早急に息をふさがれたすべてのものは、静かにうごめき発酵しつつあった。時としてはこの正直なる男(ルイ・フィリップ)の本心は息を止めた。詭弁(きべん)と真理とが相交じってる空気の中にはそれほど悪気がこもっていた。人の精神は、あたかも嵐の前の木の葉のごとく、社会の焦躁(しょうそう)のうちに震えていた。電圧はきわめて高く、時々に異常なあらゆる光がひらめき出した。その次にはまた薄闇(うすやみ)が落ちてきた。間を置いては深い遠いとどろきが聞こえて、雲のうちにある多量の雷電を思わした。
 七月革命からようやく二十カ月をも経ないうちに、一八三二年は恐ろしい切迫せる姿をして現われてきた。民衆の窮迫、パンなき労働者、闇のうちに消えた最後のコンデ侯、パリーがブールボン家を追い出したようにナッソー家を追い出したブラッセル、フランスの一王族を望みながらイギリスの一王族に与えられたベルギー、ロシアのニコラス一世の恨み、背後には南方の二人の悪魔、すなわちスペインのフェルヂナンドとポルトガルのミグエル、イタリーの動揺せる土地ボロニャに手を伸ばしたメッテルニッヒ、アンコナにおいてにわかにオーストリアに対抗して立ったフランス、北方においてはポーランドをその柩(ひつぎ)のうちに釘(くぎ)づけにする金槌(かなづち)の名状すべからざる凄惨(せいさん)な響き、全ヨーロッパ中にはフランスをうかがってるいら立った目つき、身をかがむる者はつき倒し、倒るる者の上には飛びかからんと待ち構えてる、不信なる同盟者イギリス、法律に対して四人の死刑を拒まんためにベッカリアの背後に潜んでる上院、王の馬車から塗抹(とまつ)された百合(ゆり)の花、ノートル・ダーム寺院からもぎ取られた十字架、衰運になったファイエット、零落したラフィット、窮乏のうちに死んだバンジャマン・コンスタン、権力失墜のうちに死んだカジミール・ペリエ、思想の都と労働の都との王国の両首府に同時に発生した政治的病気と社会的病気、すなわちパリーにおける内乱とリオンにおける暴動、両都市のうちに見える同じ烈火の光、民衆の額に見える噴火口の火炎、熱狂せる南部、混乱せる西部、ヴァンデ地方に潜んでるベリーの公妃、密計、陰謀、反乱、コレラ病、すべてそれらの事変の陰惨な騒擾(そうじょう)が思想の陰惨な動揺の上になお加わっていたのである。

     五 歴史の知らざる根源の事実

 四月の末にはすべてが重大になっていた。発酵は沸騰となっていた。一八三〇年以来、ここかしこに小さな局部的暴動が起こっていた。それらは直ちに鎮定されたがいつも再び起こってきて、下層の広大なる大火を示すものであった。何か恐るべきものが孵化(ふか)されつつあった。可能なる革命の輪郭がまだおぼろげにではあったがほの見えていた。全フランスはパリーをながめ、全パリーはサン・タントアーヌ郭外をながめていた。
 サン・タントアーヌ郭外はひそかに熱せられて、沸騰しはじめていた。
 シャロンヌ街の各居酒屋はまじめで喧騒(けんそう)であった。こう二つの形容詞を並べて居酒屋につけるのは少し変に思われるかも知れないが、それは実際であった。
 政府はそこで、純然とまた事もなげに問題とされていた。
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