レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

あの平坦な芝地、あの石多い小道、あの白堊(はくあ)、あの石灰、あの石膏(せっこう)、あの荒地や休耕地のきびしい単調さ、奥深い所に突然見えてくる農園の早生(わせ)の植物、僻地(へきち)と都市との混合した景色、兵営の太鼓が騒々しく合奏して、遠く戦陣の轟(とどろ)きをもたらす片すみの人なき広い野原、昼間の寂寞(せきばく)、夜間の犯罪、風に回ってる揺らめく風車、石坑の採掘車輪、墓地のすみの居酒屋、太陽の光を浴び蝶(ちょう)の群れ飛んでる広茫(こうぼう)たる地面を四角に切り取っている大きな黒壁の神秘な魅力、それらのものに著者の心はひかれていた。
 次のような特殊な場所を知っている者が世にあるだろうか。グラシエール、キュネット、砲弾で斑点をつけられてるグルネルの恐ろしい壁、モン・パルナス、フォス・オー・ルー、マルヌ川岸のオービエ、モンスーリ、トンブ・イソアール、それからまたピエール・プラト・ド・シャーティヨン、そこには廃(すた)れた古い石坑が一つあって、今ではただ茸(きのこ)がはえるだけのことで、腐った板の引き戸で地面にふたがしてある。ローマの田舎(いなか)は人にある観念を与えるが、パリーの郊外もまた他の一つの観念を人に与える。眼前に現われてる地平線以内に、ただ野と人家と樹木とのみを見ることは、その表面にのみ止まることである。あらゆる事物の光景は、神の考えを含んでいる。平野が都市と接している場所には、人の心を貫くある言い知れぬ憂鬱(ゆううつ)が印せられている。そこでは自然と人類とが同時に口をきいている。地方的特色がそこに現われている。
 パリーの郭外に接しているそれら寂寞(せきばく)の地、パリーの縁とも称し得べきそれらの地、それをわれわれのように逍遙(しょうよう)したことのある者は、そこここに、最も寂しい場所に、意外の時に、薄い籬(まがき)のうしろやわびしい壁のすみに、泥にまみれ塵(ちり)にまみれぼろをまとい髪をぼうぼうとさした色の青い子供らが、がやがやと集まって、矢車草の花を頭にかぶって、めんこ遊びをしているのを、おそらくだれも見たことがあるだろう。それは貧しい家から飛び出してきた子供らである。市外の大通りは彼らの自由に息をつくべき場所である。郊外の地は彼らのものである。彼らはその辺をいつも遊び回る。卑賤(ひせん)な歌を無邪気に歌い回る。彼らはそこにいて、あるいはむしろそこに生存して、すべての人の目をのがれ、五月六月の柔らかな光の中で、地面に掘った穴のまわりにうずくまり、親指の先でおはじきをして一文二文を争い、何らの責任もなく放縦で放漫で幸福なのである。しかも市人の姿を認むるや、一つの仕事があることを思い出し、糧(かて)を得なければならぬことを思い出し、こがね虫のいっぱいはいった古い毛糸の靴足袋(くつたび)や一束のリラの花などを売りつけようとする。その不思議な子供らと出会うことは、同時におもしろいまた悲しいパリー付近の風致の一つである。
 時とするとそれらの男の児の群れには、女の児が交じってることもある。彼らの姉妹ででもあるのか? まだ年若い娘で、やせて、いらいらして、手の皮膚はかさかさになり、雀斑(そばかす)ができていて、裸麦や美人草の穂を頭につけ、快活で、荒っぽくて、跣足(はだし)になっている。畑の中でさくらんぼうを食べてる者もいる。夕方になると笑ってる声も聞こえる。ま昼の暑い光に照りつけられてるその群れ、あるいは夕方の薄ら明りのうちに透かし見られるその群れ、それは長く夢想散歩者の頭を占めて、夢のうちにもその幻が交じってくるであろう。
 パリーは中心で、郊外はその円周である。これらの子供にとってはそれが全土である。決して彼らはその外に出ようとしない。あたかも魚が水から出ることのできないように、彼らはもはやパリーの雰囲気(ふんいき)から出ることができない。彼らにとっては、市門から二里離るればもはや空虚である。イヴリー、ジャンティイー、アルクイュ、ベルヴィル、オーベルヴィリエ、メニルモンタン、ショアジー・ル・ロア、ビランクール、ムードン、イッシー、ヴァンヴル、セーヴル、プュトー、ヌイイー、ジャンヌヴィリエ、コロンブ、ロマンヴィル、シャトゥー、アスニエール、ブージヴァル、ナンテール、アンガン、ノアジー・ル・セク、ノジャン、グールネー、ドランシー、ゴネス、そこに彼らの世界は終わるのである。

     六 その歴史の一片

 本書の物語が起こった時代には、もとよりそれもほとんど現代ではあるが、その頃には今日のように街路の角(かど)に巡査がいはしなかった(今はそれを論ずる時でないのは仕合わせである)。浮浪の少年がパリーにいっぱいになっていた。囲いのない土地や、建築中の家や、橋の下などで、巡邏(じゅんら)の警官らから当時毎年拾い上げられた宿無しの子供は、統計によると平均二百六十人くらいはあった。それらの巣のうちで有名なのは、いわゆる「アルコル橋の燕(つばめ)」と言わるるに至った。もとよりそれは社会の最も不幸な兆候の一つであった。人間のあらゆる罪悪は子供の浮浪から初まる。
 けれどもパリーはその例外としてよろしい。われわれが今持ち出した思い出が痛ましいにもかかわらず、ある点までこの除外例は正当である。他のすべての大都市においては、浮浪の少年は沈淪(ちんりん)した人間である。ほとんどどこにおいても、孤立した少年は必ず世の不徳に巻き込まるるままに投げ出され打ち捨てられたもので、ついにはそれによって正直さと本心とを食いつくさるるに至る。しかるにパリーの浮浪少年は、あえて言うがパリーの浮浪少年は、表面いかにも磨滅(まめつ)され痛められてはいるが、内部においてはほとんど純全たるままである。思っても輝かしい一事は、そしてフランス民衆革命の燦爛(さんらん)たる誠実さのうちに光輝を放ってる一事は、実に大洋の水のうちにある塩分から生ずるように、パリーの空気のうちにある観念から生ずる、一種の非腐敗性である。パリーを呼吸することは、魂を保存することである。
 しかもわれわれがここに説くことも、分散した家族の網目を引きずってるかのように見えるこれらの少年のひとりに出会う時に、人が感ずる悲痛な感情を、少しも和らげるものではない。まだはなはだ不完全なる現今の文明においては、多くの家族の者らは暗闇(くらやみ)のうちに散り失せ、自分の子供らがいかになったかも知らず、いわば往来の上におのれの臓腑(ぞうふ)を落としてゆくのは、さほど珍しいことではない。そこから陰惨な境涯が起こってくる。この悲しき一事も一つの成句を作り出して、そのことを「パリーの舗石(しきいし)の上に投げ出される」(訳者注 家なく職なき境涯に投ぜらるるの意)と言う。
 ついでに言うが、かく子供を放棄することは、昔の王政によっても決して救済しようとはされなかった。エジプトやボヘミアの一部の下層社会は、上層の便宜にのみ供され、勢力家の意のままになっていた。下層民衆の子弟を教育することに対する嫌悪(けんお)は、一般の信条となっていた。「半可通」が何の役に立つものか? そういうのが合い言葉だった。ところで、浮浪の子供は無学な子供の必然の帰結である。
 その上、王政は時として子供の必要を生じた。そういう時には、往来から子供を拾い上げていた。
 古いことはさておいて、ルイ十四世の時であるが、王は一艦隊を造ろうとした。それは道理あることで、よい考えだった。しかしその方法はどうだったか。風のまにまに漂わされる帆船に相並んで、それを必要に応じて曳舟(えいしゅう)するために、あるいは櫂(かい)によりあるいは蒸気によって自由な方向に進み得る船を有しなければ、艦隊なるものは存在し得ない。ところが当時の海軍にとっては、帆と櫂とによる軍艦があたかも今日の蒸気による軍艦のごときものだった。それで帆と櫂との軍艦が必要となった。しかしそういう軍艦は漕刑(そうけい)囚人によってのみ動かされていたので、従って漕刑囚人が必要となった。で宰相コルベールは、地方の監察官と諸侯の議政府とに命じて、でき得る限り多くの囚人をこしらえさした。役人らは彼の歓心を求めて大いに力を尽した。歌唱行列の前に帽子をかぶったままつっ立っている男がいると、新教徒的な態度だといって、すぐに漕刑場へ投じた。往来で子供に出会うと、その子供が十五歳になっていてかつ宿所を持たない場合には、すぐに漕刑場へ送った。それが偉大なる治世であり偉大なる世紀だったのである。
 ルイ十五世の下では、浮浪の子供はパリーになくなってしまった。人知れぬある秘密な使途にあてんために、警察は子供を奪い去ってしまった。人々は王の赤血の沐浴(もくよく)について恐ろしい推測を戦慄しながらささやきかわした。バルビエはそれらのことを率直に書き留めている。時として警吏は、子供が少なくなったので父親のある子供まで捕えることがあった。父親は絶望的になって警吏につっかかっていった。そういう場合には高等法院が中にはいって、絞罪に処した。だれを? 警吏をか、否、父親を。

     七 その階級

 パリーの浮浪少年階級はほとんど一つの閥族である。だれでもはいれるものではないと言ってさしつかえないほどである。
 この Gamin(ガマン)(浮浪少年)という語は、一八三四年に初めて印刷の上に現われて、俗語の域から文学上の言葉のうちにはいってきたのである。この語が現われたのは、クロード・グー(訳者注 これも本書の作者ユーゴーの作である)と題する小冊子の中であった。激しい物議を起こした。がその語は一般に通用されるに至った。
 浮浪少年らの中で重きをなす原因にはきわめて種々なものがある。われわれが知ってるし交わりもしたひとりは、ノートル・ダームの塔の上から落ちる人を見たというので、ごく尊敬され感心されていた。ある者は、アンヴァリードの丸屋根につける彫像が一時置かれていた裏庭に忍び込んで、その鉛を少し「ちょろまかした」というので、ごく尊敬されていた。ある者は、駅馬車がひっくり返るのを見たというので、ごく尊敬されていた。またある者は、市民の目をほとんどえぐり出そうとしたひとりの兵士と「知り合いである」というので、ごく尊敬されていた。
 パリーの一浮浪少年の次の嘆声、俗人がその意味をも解しないでただ笑い去ってしまう深い文句、それを以上のことは説明するものである。「ああああ、いやになっちまう、まだ六階から落っこった者を見ないんだからな!」(この言葉は彼ら特有の発音で言われたのである)。
 確かに次のようなのは田舎者(いなかもの)式のみごとな言葉である。「父(とっつ)あん、お前のお上さんは病気で死んだじゃないか。なぜお前は医者を呼びにやらなかったんだ?」「何を言わっしゃるだ、わしら貧乏人はな、人手を借りねえで死にますだ。」ところでもし田舎者の消極的な愚弄(ぐろう)が右の言葉のうちにこもってるとするならば、郭外の小僧の無政府的な自由思想は、確かに左の言葉のうちにこもってるであろう。すなわち、死刑囚が馬車の中で教誨師(きょうかいし)の言葉に耳を傾けていると、パリーの子供は叫ぶ。「あいつ牧師めと話をしてやがる、卑怯(ひきょう)者だな!」
 宗教上のことに対するある大胆さは、浮浪少年を高めるものである。唯我独尊ということが大事である。
 死刑執行に立ち会うことは、一つの義務となっている。断頭台を互いにさし示しては笑い、種々な綽名(あだな)を浴びせかける。「飯の食い上げ――脹(ふく)れっ面(つら)――天国婆――おしまいの一口――その他。」事がらを少しも見落とすまいとしては、壁をのり越え露台によじ上り、木に登り、鉄門にぶら下がり、煙筒につかまる。浮浪少年は生まれながらの水夫であり、また生まれながらの屋根職人である。いかなる檣(マスト)をも屋根をも恐れはしない。グレーヴの刑場ほどのお祭り騒ぎはどこにも見られない。サンソンとモンテス師とは広く知られてる名前である。処刑囚を励ますために皆呼びかける。時としては賛美することさえある。浮浪少年のラスネールは、恐るべきドータンが勇ましく死に就(つ)くのを見て、行く末を思わせる次の言葉を発した、「うらやましいな。」浮浪少年の仲間には、ヴォルテールのことは知られていないが、パパヴォアーヌのことは知られている。彼らは「政治家」と殺害者とを同じ話のうちに混同してしまう。そういうすべての人々が最後に着た服装を言い伝えている。彼らは知っている、トレロンは火夫の帽子をかぶっていた、アヴリルは川獺(かわうそ)の帽子をかぶっていた、ルーヴェルは丸い帽子をかぶっていた、老ドラポルトは禿頭(はげあたま)で何もかぶっていなかった、カスタンはまっかなきれいな顔をしていた、ボリーはロマンティックな頤髯(あごひげ)をはやしていた、ジャン・マルタンはなおズボンつりをかけていた、ルクーフェは母と言い争った。「ねどこのことをぐずぐず言うなよ、」とひとりの浮浪少年はその二人に叫んだ。またあるひとりはドバッケルが通るのを見ようとしたが、群集の中で自分があまり小さかったので、川岸の街燈柱を見つけてそれに登り初めた。するとそこに立っていた憲兵が眉(まゆ)をしかめた。「登らして下さい、憲兵さん、」と少年は言った。そして彼の心を和らげるためにつけ加えた、「落ちはしませんから。」「落ちようとそんなことはかまわないさ」と憲兵は答えた(訳者注 上にある多くの人物はみな重罪によって死刑に処せられし人)。
 浮浪少年の間では、著名な事件は非常に尊ばれる。深く「骨までも」傷をした者があると、仲間の尊敬の頂上までも上りつめることができる。
 拳固(げんこ)を食わせることも、かなり尊敬さるる方法である。浮浪少年が最も好んで言う一事は、「おれはすてきに強いんだぞ、いいか!」ということである。左ききであることは、非常にうらやましがられる。やぶにらみもまた尊敬される。

     八 前国王のおもしろき言葉

 夏には、彼らは蛙(かえる)に変化する。そして夕方、まさに暮れんとする頃、オーステルリッツ橋やイエナ橋の前で、石炭の筏(いかだ)や洗濯女(せんだくおんな)の小舟などの上から、まっさかさまにセーヌ川に飛び込んで、秩序取り締まりの規則や警察の目をのがれて種々なことをやる。しかるに巡査らは見張りをしている。その結果、まったく劇的光景を演じ、親愛なる記憶すべき叫び声を生んだこともある。一八三〇年ごろ有名だったその叫び声は、仲間から仲間へ通ずる戦略的合い図である。ホメロスの詩のように句格がそろい、パナテネー祭(訳者注 ミネルヴ神の祭典)におけるエルージアの町の歌にも比ぶべき言葉に尽し難い調子がこもっていて、古代のエヴォエ(訳者注 バッカス神をたたえる巫子らの叫び)がそこに復活して来るのである。すなわち次のようなものである。「おーい、仲間、おーい! でかだぞ、いぬだぞ、用意しろ、逃げろ、下水からだ!」
 時とするとそれらの蚊どものうちには――彼らは自ら蚊と綽名(あだな)している――字の読める者もいることがあり、また字の書ける者もいることがある。しかし皆いつも楽書きすることは心得ている。いかなる不思議な相互教育によってかわからないが、彼らは皆公の役に立ち得るあらゆる才能を示す。一八一五年から三〇年までは、七面鳥の鳴き声をまねていたが、一八三〇年から四八年までは、壁の上に梨(なし)を書きつけて回っていた(訳者注 七面鳥は前の時の国王ルイ十八世の紋章、梨は後の時の国王ルイ・フィリップの紋章)。ある夏の夕方、ルイ・フィリップは徒歩で帰ってきたところが、まだ小さな取るに足らぬ浮浪少年のひとりが、ヌイイー宮殿の鉄門の柱に大きな梨を楽書きせんとして、背伸びをし汗を流してるのを見つけた。王は先祖のアンリ四世からうけついできた心よさをもってその少年の手助けをし、ついに梨(なし)を書いてしまって、それから彼にルイ金貨を一つ与えながら言った、「これにも梨がついているよ。」また浮浪少年は喧騒(けんそう)を好むものである。過激な状態は彼を喜ばせる。彼らはまた「司祭輩」をきらう。ある日ユニヴェルシテ街で、一人の小僧がその六十九番地の家の正門に向かってあかんべーをしていた。通行人が彼に尋ねた、「この門に向かってなぜそんなことをしてるんだ?」すると彼は答えた、「司祭がここに住んでるんだ。」実際そこは、法王の特派公使の住居であった。けれども、彼らのヴォルテール主義(訳者注 反教会)が何であろうと、もし歌唱の子供となれるような機会がやってくると、それを承諾することもある。そしてそういう場合には、丁重に弥撒(ミサ)の勤めに従う。それから、タンタルス(訳者注 永久の飢渇に処せられし神話中の人物)のように彼らが望んでいた二つのことがある。彼らはいつもそれを望みながら永久にそれを得ないでいる。すなわち、政府を顛覆(てんぷく)することと、ズボンを仕立て直すこと。
 完全なる浮浪少年は、パリーのすべての巡査を知悉(ちしつ)していて、そのひとりに出会えばすぐに名指(ざ)すことができる。各巡査をくわしく研究している。その平常を調べ上げて、それぞれ特殊な記録をとっている。その心の中を自由に読み取っている。彼らはすらすらと滞りなく言い得る、「某は反逆人だ、――某はごく意地悪だ、――某は偉い奴(やつ)だ、――某は滑稽な奴だ。」(これらの、反逆人、意地悪、偉い奴、滑稽な奴、などという言葉は、彼らに言われる時は特殊な意味を有するのである)「あいつは、ポン・ヌーフ橋を自分の物とでも思ってるのか。欄干の外の縁を歩くことを世間に禁じやがる。それから向こうのは、人の耳を引っ張る癖がある。云々(うんぬん)、云々。」

     九 ゴールの古き魂

 市場の児なるボクランのうちに、またボーマルシェーのうちに、この種の少年の気質があった(訳者注 二人とも著述家、次に出て来る人々も同じ)。浮浪少年気質はゴール精神の一特色である。それは妥当な常識に交わると時としてそれに力を与える。あたかも葡萄酒(ぶどうしゅ)にアルコールを加えるがごときものである。また時とすると欠点ともなる。ホメロスは無駄口(むだぐち)をたたくと言えるならば、ヴォルテールは浮浪少年気質を発揮すると言うべきであろう。カミーユ・デムーランは郭外人であった。奇蹟をけなしたシャンピオンネはパリーの舗石(しきいし)から出てきた。彼はまだごく小さい時から、サン・ジャン・ド・ボーヴェー会堂やサン・テティエンヌ・デュ・モン会堂などの回廊に侵入していた。そして彼はサント・ジュヌヴィエーヴ会堂の聖櫃(せいひつ)を不作法に取り扱って、サン・ジャンヴィエの聖壺に命令を下していた。
 パリーの浮浪少年は、敬意と皮肉と横柄さとを持っている。食を十分に与えられず胃袋が嘆いているので、がつがつした歯を持っている。また機才を持っているので、美しい目をしている。エホバの神がいるとしても、彼らは天国の階段を飛びはねて上ってゆくであろう。彼らは足蹴(あしげ)に強い。彼らはあらゆる方面に成長をなし得る。彼らは溝(どぶ)の中で遊んでいる、けれど騒動があるとすっくと立ち上がる。霰弾(さんだん)の前にもたじろがないほど豪胆である。いたずらっ児だったのが英雄となる。テバン(訳者注 偶像を廃棄して惨殺せられし古ローマの一団体)の少年のように獅子(しし)の背をもなでるであろう。鼓手のバラ(訳者注 大革命の時の勇敢な少年)はパリーの一浮浪少年であった。あたかも聖書の戦馬が「ヴァー!」とうなるように、彼らは「前へ!」と叫ぶ、そしてたちまちのうちに小童(こわっぱ)から巨人となる。
 この泥中の少年は、また理想中の少年である。モリエールからバラに至るまでのその翼の長さを計ってみるがよい。
 要するに、そして一言に概括すれば、浮浪少年とは不幸なるがゆえに嬉戯(きぎ)する一個の人物である。

     十 ここにパリーあり、ここに人あり

 なおすべてを概説せんには、今日のパリーの浮浪少年(ガマン)は、いにしえのローマのギリシャ人のように、年老いた世界の皺(しわ)を額(ひたい)に有する年少民衆である。
 浮浪少年は国民にとって一つの美であり、また同時に一つの病である。なおさなければならない病である。いかにしてなおすか? 光明をもってである。
 光明は人を健やかにする。
 光明は人を輝かす。
 あらゆる社会的の麗しい光輝は、科学、文学、美術、および教育から生ずる。人を作れ、人を作れよ。彼らをして汝に温暖を与えしめんがために、彼らに光を与えよ。いつかは普通教育の光輝ある問題は、絶対的真理の不可抗な権威をもって確立さるるに至るであろう。そしてその時におよんでこそ、フランス精神の監視の下に政事を行なう人々は、次の選択をなさなければならないだろう、すなわちフランスの少年かもしくはパリーの浮浪少年か、光明のうちに燃ゆる炎か、もしくは暗黒のうちにひらめく燐火(りんか)か。
 浮浪少年はパリーを表現し、パリーは世界を表現する。
 なぜかなれば、パリーは全部であるからである。パリーは人類の天井である。この驚くべき一大都市は、過去現在のあらゆる風習の縮図である。パリーを見るは、所々に天空と星座とを有する全歴史を見通すに等しい。カピトールとしては市庁を、パルテノンとしてはノートル・ダーム寺院を、アヴェンティノの丘としてはサン・タントアーヌの一郭を、アシナリオムとしてはソルボンヌ大学を、パンテオンとしてはパンテオンの殿堂を、ヴィア・サクラとしてはイタリアン大通りを、アテネの風楼としては輿論(よろん)を、パリーはみな有している。そしてゼモニエ(訳者注 古ローマにて処刑人の死体を陳列するカピトール山の階段)としては嘲弄(ちょうろう)がもって代えている。そのマホー(スペインの伊達者(だてしゃ))をめかしやと言い、そのトランステヴェレノ(ローマのチベル彼岸の民)を郭外人と言い、そのハンマル(インドの籠舁(かごかき))を市場人足と言い、そのラツァロネ(ナポリの乞食)を組合盗賊と言い、そのコクニー(ロンドンっ児)を洒落者(しゃれもの)と言う。世界中にあるものは皆パリーにもある。デュマルセーの描いた魚売り女はエウリピデスの草売り女と一対である。円盤投戯者のヴェジャヌスは綱渡り人フォリオゾのうちに復活している。テラポンティゴヌス・ミレスは擲弾兵(てきだんへい)ヴァドボンクールと腕を組み合って歩くであろう。骨董商(こっとうしょう)ダマジプスはパリーの古物商人のうちに納まり返るであろう。アゴラ(アテネの要塞(ようさい))はディドローを監禁するであろうが、それと同じくヴァンセヌの要塞はソクラテスをつかみ取るであろう。クルティルスが□(はりねずみ)の炙肉(あぶりにく)を考え出したように、グリモン・ド・ラ・レーニエールは油でいためたロースト・ビーフを考えついた。プラウツスの書いた鞦韆(ぶらんこ)はエトアール凱旋門(がいせんもん)の気球の下に現われている。アプレイウスが出会ったペシルの剣食い芸人はポン・ヌーフ橋の上の刃呑(の)み芸人である。ラモーの甥(おい)は寄食者クルクリオンと好一対をなすものである。エルガジルスも喜んでエーグルフイユによってカンバセレスの家に導かれるだろう。ローマの四人の遊冶郎(ゆうやろう)アルセジマルクス、フェドロムス、ディアボルス、アルジリッペは、クールティーユからラバテュの駅馬車に乗り込む。アウルス・ジュリウスはコングリオの前に長くたたずんだが、シャール・ノディエはポリシネルの前に長くたたずんだ。マルトンは虎(とら)とは言えないが、しかしパリダリスカも決して竜ではなかった。道化者パントラビュスはイギリス・カフェーで遊蕩児(ゆうとうじ)ノメンタヌスをも愚弄(ぐろう)する。ヘルモジェヌスはシャン・ゼリゼーのテノル歌手とも言い得べく、そのまわりには乞食(こじき)のトラジウスがボベーシュ流の服を着て金を集めている。チュイルリー公園にはうるさく服のボタンをつかまえて引き留むる者がいて、テスブリオンから二千年後の今日もなお同じ抗議を人に言わする、「マントを引っ張るのはだれだ、私は急ぐんだ。」スュレーヌの葡萄酒(ぶどうしゅ)はアルバの葡萄酒に肩を並べる。デゾージエの赤縁(あかぶち)のコップはバラトロンの大杯にも匹敵する。ペール・ラシェーズの墓地は夜の雨の中にエスキリエの丘と同じようなすごい光を発する。そして五年間の契約で買われた貧民の墓は、いにしえの奴隷(どれい)の借り棺と同じである。
 パリーにないものがあるかさがしてみるがいい。トロフォニウスの染甕(そめがめ)の中にあったものは皆、メスメルの桶(おけ)の中にある。エルガフィラスはカグリオストロのうちによみがえる。バラモン僧ヴァサファンタはサン・ジェルマン伯のうちに化身している。サン・メダールの墓地はダマスクスの回教寺院ウームーミエに劣らぬ奇蹟を行なっている。
 パリーはイソップとしてマイユーを有し、カニディアとしてルノルマン嬢を有する。パリーはデルフ町のように、あまり痛烈なる現実の幻に驚いている。ドドナの町で占考の椅子が震え動いたように、パリーではテーブルがひっくり返っている。ローマが娼婦(しょうふ)を玉座にのぼしたように、パリーは浮気女工(うわきじょこう)を玉座にのぼしている。そして要するに、ルイ十五世はクラウディウス皇帝より悪いとしても、デュ・バリー夫人はメッサリナよりも勝(まさ)っている。われわれはそれを排斥したのであるが、本当に生きてた異常な一典型(タイプ)のうちにパリーは、ギリシャの赤裸とヘブライの潰瘍(かいよう)とガスコーニュの悪謔(あくぎゃく)とを結合している。パリーはディオゲネスとヨブとペラースとを混合し、コンスティテュシオンネル(立憲)新聞の古い紙で一つの幽霊に着物を着せて、コドリュク・デュクロスを作り出している。
 暴君はほとんど老いることなしとプルタルコスは言っているけれど、ローマはドミチアヌス皇帝の下におけると同じくシルラの下に自らあきらめて、甘んじてその酒に水を割った。多少正理派のきらいはあるがヴァルス・ヴィビスクスがなした次の賛辞を信ずるならば、チベル川は一つのレテ川(訳者注 地獄の忘却の川)と言うべきであった。「吾人はグラックス兄弟に対してチベル川を有す、チベルの水を飲むは反乱を忘るることなり。」しかるにパリーは一日に百万リットルの水を飲む。しかしそれにもかかわらず、場合によっては非常ラッパを鳴らし警鐘を乱打する。
 それを外にしては、パリーは善良なる小児である。彼は堂々とすべてを受け入れる。彼はヴィーナスの世界においても気むずかしくはない。そのカリーピージュのヴィーナスはホッテントット式である。彼は一度笑えば、もはやすべてを許す。醜悪も彼を喜ばせ、畸形(きけい)も彼を上きげんにし、悪徳も彼の気を慰むる。滑稽(こっけい)でさえあれば、卑しむべき人たるも許されるであろう。偽善でさえも、その最上の卑劣も、彼の気をそこなわない。彼は文学者であるから、バジルの前にも鼻つまみをしない。プリアポスの「しゃくり」を気にしなかったホラチウスのごとく、タルチュフの祈祷(きとう)をも怒らない。世界の各面相はパリーの横顔のうちにある。マビーユの舞踏会はジャニクロムのポリムニア女神のダンスとは言えないが、しかし婦人服売買婦はじっと洒落女(しゃれおんな)を見張っていて、あたかも周旋婦のスタフィラが処女のプラネジオムを待ち伏せしてるようである。コンバの市門はコリゼオムの劇場とは言えないが、しかしシーザーがそこに見物しているかのように人々は勢い込んでいる。シリアの上(かみ)さんはサゲー小母(おば)さんよりも愛嬌(あいきょう)があるだろうが、しかしヴィルギリウスがローマの居酒屋に入り浸ったとするならば、ダビド・ダンジェやバルザックやシャルレなどはパリーの飲食店にはいり込んでいる。パリーは君臨する。天才はそこに燃え出し、赤リボンの道化者(どうけもの)はそこに栄える。アドナイは雷と電光との十二の車輪をそなえた車に乗ってパリーを過ぎる。シレヌスは驢馬(ろば)に乗ってパリーにはいって来る。これをパリーではランポンノー爺(じい)さんと言う。
 パリーはコスモス(宇宙)と同意義の語である。パリーは、アテネであり、ローマであり、シバリスであり、エルサレムであり、パンタンである。パリーにはあらゆる文明が概括され、またあらゆる野蛮が概括されている。パリーは一つの断頭台を欠いても気を悪くするであろう。
 グレーヴ処刑場の少しを有するはいいことである。そういう香味がなかったならば、この永久の祭典はどうなるであろう。われわれの法律は賢くもそこにそなわっている、そしてそれによって、この肉切り包丁はカルナヴァル祭最終日に血をしたたらせる。

     十一 嘲笑(ちょうしょう)し君臨す

 パリーに限界があるか、否少しもない。おのれが統御する者らをも時として愚弄(ぐろう)するほどのこの権勢を持っていた都市は、他に一つもない。「喜べ、アテネ人よ!」とアレクサンデルは常に叫んでいた。パリーは法律以上のものを、流行を作る。パリーは流行以上のものを、慣例を作る。もし気が向けばばかとなることもある。時としては自らそういう贅沢(ぜいたく)もする。すると世界はパリーとともにばかとなる。それからパリーは目をさまし、目をこすりながら言う、「ほんとに俺(おれ)はばかげてる!」そして人類の面前に向かって放笑(ふきだ)す。そういう都市は何と驚くべきものではないか。不思議にも、その偉大さとその滑稽(こっけい)さとは親しく隣合い、その威厳はその戯言(ざれごと)から少しも乱さるることなく、同じ一つの口が、今日は最後の審判のラッパを吹き、明日は蘆笛(あしぶえ)を吹き得るのである。パリーは主権的な陽気さを持っている。その快活は火薬でできており、その滑稽は帝王の笏(しゃく)を保っている。その颶風(ぐふう)は時として一の渋面から出て来る。その爆発、その戦乱、その傑作、その偉業、その叙事詩は、世界の果てまでも響き渡る、そしてその諧謔(かいぎゃく)も世界の果てにおよぶ。その笑いはすべての土をはね上げる火山の口である。その嘲弄(ちょうろう)は火炎である。彼は各民衆にその風刺と理想とを課する。人間の文明の最も高い記念塔は、彼の皮肉を受け入れ、彼の悪戯を恒久のものたらしむる。彼は壮大である。彼は世界を開放せしむる偉大なる一七八九年七月十四日を持っている。彼はあらゆる国民に憲法制定の宣誓をなさせる。一七八九年八月四日のその一夜は、わずか三時間のうちに封建制度の一千年を解決した。彼はその理論をもって、満場一致の意志の筋力とする。彼はあらゆる壮大なる形の下に仲間を増してゆく。ワシントン、コスキュースコ、ボリヴァール、ボツァリス、リエゴ、ベム、マニン、ロペス、ジョン・ブラウン、ガリバルディーなど、彼はおのれの光によって彼らを皆満たしてやる。未来が光り輝く所にはどこにも彼はいる、一七七九年にはボストンに、一八二〇年にはレオン島に、一八四八年にはペストに、一八六〇年にはパレルモに。ハーパース・フェヤリーの小舟に集まったアメリカの奴隷廃止党員(どれいはいしとういん)の耳に、またゴツィー旅館の前の海辺アルキーにひそかに集まったアンコナの愛国者らの耳に、彼は自由という力強い標榜語(ひょうぼうご)をささやく。彼はカナリスを作り出し、キロガを作り出し、ピザカーヌを作り出す。彼は偉大なるものを地上に光被する。バイロンがミソロンギーで死に、マツェットがバルセロナで死ぬのは、彼の息吹(いぶき)に吹きやられてである。彼はミラボーの足もとでは演壇となり、ロベスピエールの足もとでは噴火口となる。その書籍、その劇、その美術、その科学、その文学、その哲学などは、人類の宝鑑である。パスカル、レニエ、コルネイユ、デカルト、ジャン・ジャック・ルーソーを彼は有し、各瞬間にわたるヴォルテールを、各世紀にわたるモリエールを有している。彼はおのれの言葉を世界の人々の口に話させる、そしてその言葉は「道(ことば)」となる(訳者注 太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道は即ち神なり云々――ヨハネ伝第一章)。彼はすべての人の精神のうちに進歩の観念をうち立てる。彼が鍛える救済の信条は、各時代にとっての枕刀(まくらがたな)である。一七八九年いらい各民衆のあらゆる英雄が作られたのは、彼の思想家および詩人の魂をもってである。それでもなお彼は悪戯する。そしてパリーと称するこの巨大なる英才は、その光明によって世界の姿を変えながら、テセウスの殿堂の壁にブージニエの鼻を楽書きし、ピラミッドの上に盗人クレドヴィルと書きつける。
 パリーはいつも歯をむき出している。叱□(しった)していない時は笑っている。
 そういうのがすなわちパリーである。その屋根から立ち上る煙は、全世界の思想である。泥(どろ)と石との堆積(たいせき)であると言わば言え、特にそれは何よりも精神的一存在である。それは偉大以上であって、無限大である。そして何ゆえにそうであるか? あえてなすからである。
 あえてなす。進歩が得らるるのはそれによってである。
 あらゆる荘厳なる征服は、みな多少とも大胆の賜物である。革命が行なわれるには、モンテスキューがそれを予感し、ディドローがそれを説き、ボーマルシェーがそれを布告し、コンドルセーがそれを計画し、アルーエがそれを準備し、ルーソーがそれを予考する、などのみにては足りない。ダントンがそれを敢行しなければいけない。
 果敢! の叫びは一つの光あれ(訳者注 神光あれと言いたまいければ光ありき)である。人類の前進のためには、常に高峰の上に勇気という慢(ほこ)らかな教訓がなければならない。豪胆は歴史を輝かすものであって、人間の最も大なる光輝の一つである。曙光(しょこう)は立ち上る時に敢行する。試み、いどみ、固執し、忍耐し、自己に忠実であり、運命とつかみ合い、恐怖の過少をもってかえって破滅を驚かし、あるいは不正なる力に対抗し、あるいは酔える勝利を侮辱し、よく執(しう)しよく抗する、それがすなわち民衆の必要とする実例であり、民衆を奮起せしむる光明である。その恐るべき光こそ、プロメテウスの炬火(たいまつ)からカンブロンヌの煙管(パイプ)に伝わってゆくところのものである。

     十二 民衆のうちに潜める未来

 パリーの民衆は、たとい大人(おとな)に生長しても、常に浮浪少年(ガマン)である。その少年を描くことは、その都市を描くことである。鷲(わし)をその磊落(らいらく)なる小雀(こすずめ)のうちにわれわれが研究したのは、このゆえである。
 あえて力説するが、パリー民族が見られるのは特にその郭外においてである。そこに純粋の血があり、真の相貌(そうぼう)がある。そこにこの民衆は働きかつ苦しんでいる。苦悩と労働とは人間の二つの相である。そこに名も知られぬ無数の人々がいる。そしてその中に、ラーペの仲仕からモンフォーコンの屠獣者(とじゅうしゃ)に至るまであらゆる奇体な典型(タイプ)が群がっている。町の掃きだめとキケロは叫び、憤ったバークは愚衆と言い添える。賤民(せんみん)どもであり、群衆どもであり、平民どもである。そういう言葉は早急に発せられたものである。しかしまあおくとしよう、それが何のかかわりがあろう。彼らがはだしで歩いているとしても、それが何であろう。けれども悲しいかな、彼らは文字を知らない。そしてそのために彼らは見捨てらるべきであろうか。彼らの窮迫をののしりの一材料とすべきであろうか。光明もそれらの密層を貫くことはできないであろうか。顧みて、光明! というその叫びを聞き、それに心をとどめようではないか。光明! 光明! その混濁も透明となり得ないことがあろうか。革命は一つの変容ではないか。行け、哲人らよ、教えよ、照らせよ、燃やせよ、声高に考えよ、声高に語れよ、日の照る下に喜んで走れよ、街頭に親しめよ、よき便りをもたらせよ、ABCを豊かに与えよ、権利を宣言せよ、マルセイエーズを歌えよ、熱誠をまき散らせよ、樫(かし)の青葉を打ち落とせよ。そして思想をして旋風たらしめよ。あの群集は昇華され得るであろう。時々にひらめき激し震えるあの広大なる主義と徳との燎原(りょうげん)の火を、利用し得る道を知ろうではないか。あの露(あら)わな足、露わな腕、ぼろ、無知、卑賤(ひせん)、暗黒、それらは理想の実現のために使用し得らるるであろう。民衆を通してながめよ、さすれば真理を認め得るであろう。人が足に踏みにじり、炉のうちに投じ、溶解し、沸騰せしむる、あの賤(いや)しき石くれも、やがては燦爛(さんらん)たる結晶体となるであろう。ガリレオやニュートンが天体を発見し得るのは、実にそれによってである。

     十三 少年ガヴローシュ

 この物語の第二部に述べられた事件から八、九年たった時、タンプル大通りやシャトー・ドォーの方面において、十一、二歳のひとりの少年が人の目をひいていた。その少年は、脣(くちびる)には年齢にふさわしい笑いを持っていたが、それとともにまったく陰鬱(いんうつ)な空虚な心を持っていた。もしそういう心さえなかったならば、上に述べた浮浪少年の理想的タイプをかなり完全にそなえているとも称し得るものだった。大人(おとな)のズボンを変なふうにはいていた。しかしそれは親譲りのものではなかった。また女用の上衣をつけていた。しかしそれは母親からもらったものではなかった。だれかがかわいそうに思ってそういうぼろを着せてやったものだろう。といっても、彼は両親を持っていた。ただ、父親は彼のことを気にも止めず、母親は彼を少しも愛していなかった。彼はあらゆる子供のうちでも最もあわれむべき者のひとりだった。父と母とを持ちながらしかも孤児でもある子供のひとりだった。
 この少年は、往来にいる時が一番楽しかった。街路の舗石(しきいし)も彼にとっては、母の心ほどに冷酷ではなかった。
 彼の両親は彼を世の中に蹴(け)り捨ててしまったのである。
 彼はただ訳もなく飛び出してしまったのである。
 彼は、騒々しい、色の青い、すばしこい、敏感な、いたずら者で、根強いかつ病身らしい様子をしていた。街頭を行き来し、歌を歌い、銭投げをし、溝(どぶ)をあさり、少しは盗みをもした。しかし猫(ねこ)や雀(すずめ)のように快活に盗みをやり、悪戯者(いたずらもの)と言われれば笑い、悪者と言われれば腹を立てた。住居もなく、パンもなく、火もなく、愛も持たなかった。しかし彼は自由だったので、いつも快活だった。
 かかるあわれな者らがもし大人(おとな)である時には、たいていは社会の秩序という石臼(いしうす)がやって来て押しつぶしてしまうものである。しかし子供である間は、小さいからそれをのがれ得る。ごく小さな穴さえあればそれで身を免れることができる。
 この少年は前に述べたとおりまったく放棄されていたけれど、時とすると三カ月に一度くらいは、「どれどれひとつ阿母(おっかあ)にでも会ってこよう!」と言うことがあった。すると彼はもう、その大通りも曲馬場もサン・マルタン凱旋門も打ち捨てて、川岸に行き、橋を渡り、郭外に出で、サルペートリエール救済院のほとりに行き、それから、どこへ行くのか。それはまさしく、読者が既に知っているあの五十・五十二番地という二重番地の家、ゴルボー屋敷へである。
 いつも住む人がなく、「貸し間」という札が常にはりつけられていたその五十・五十二番地の破屋(あばらや)には、その頃珍しくも、大勢の人が住んでいた。もとよりパリーのことであるから、大勢の人と言っても互いに何らの縁故も関係も持たなかった。皆赤貧の部類に属する者たちだった。赤貧の階級は、まず困窮な下層市民から初まり、困苦から困苦へとしだいに社会のどん底の方へ沈んでゆき、物質的文明の末端である二つのものとなってしまうのである。すなわち、泥を掃き除ける溝渫(どぶさら)い人と、ぼろを集める屑屋(くずや)とである。
 ジャン・ヴァルジャンのいた頃の「借家主」の婆さんはもう死んでいて、後(あと)にはそれとちょうど同じような婆さんがきていた。だれかある哲学者が言ったことがある、「婆というものは決してなくならないものだ。」
 この新たにきた婆さんは、ビュルゴン夫人と言って、その生涯に重立ったことと言っては、ただ三羽の鸚鵡(おうむ)を飼ったくらいのもので、それらの鸚鵡が三代順次に彼女の心に君臨したのである。
 その破屋(あばらや)に住んでいた人々のうちで最も惨(みじ)めなのは、四人の一家族だった。父と母ともうかなり大きなふたりの娘とで、前に述べておいたあの屋根部屋の一つに、四人いっしょになって住んでいた。
 その一家族は、極端に貧窮であるというほかには、一見したところ別に変わった点もないようだった。父親は室(へや)を借りる時、ジョンドレットという名前だと言った。引っ越してきてから、と言っても、借家主婆さんのうまい言い方を借りれば、それはまったく身体だけの引っ越しにすぎなかったが、その後しばらくしてジョンドレットは、前の婆さんと同じく門番でまた掃除女(そうじおんな)であるその借家主婆さんに、次のように言ったことがある。「婆さん、もしだれかひょっとやってきて、ポーランド人とか、イタリア人とか、またスペイン人とかを尋ねる者があったら、それは私のことだと思っていてもらいましょう。」
 その一家族は、あの愉快なはだしの少年の家族だった。少年はそこへやってきても、見いだすものはただ貧窮と悲惨とだけで、それになおいっそう悲しいことには、何らの笑顔をも見いださなかった。竈(かまど)も冷えておれば、人の心も冷えている。彼がはいってゆくと、家の者は尋ねた、「どこからきたんだい。」彼は答えた、「おもてからさ。」また彼が出て行こうとすると、家の者は尋ねた、「どこへ行くんだい。」彼は答えた、「おもてへさ。」母親はいつも言った、「何しに帰ってきたんだい。」
 その少年は、窖(あなぐら)の中にはえた青白い草のように、まったく愛情のない中に生きていた。けれども彼はそれを少しも苦にせず、まただれをも恨まなかった。彼はいったい両親というものはどうあるべきものかということをもよくは知らなかった。
 それでも、母親は彼の姉たちをかわいがっていた。
 言うのを忘れていたが、タンプル大通りではこの少年を小僧ガヴローシュと言っていた。なぜガヴローシュと呼ばれたかというと、おそらくその父親がジョンドレットというからだったろう。
 家名を断つということは、ある種の悲惨な家族における本能らしい。
 ジョンドレット一家が住んでいたゴルボー屋敷の室(へや)は、廊下の端の一番奥だった。そしてそれと並んだ室にはマリユス君というごく貧しいひとりの青年が住んでいた。
 このマリユス君が何人(なんびと)であるかは、次に説明しよう。
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   第二編 大市民



     一 九十歳と三十二枚の歯

 ブーシュラー街やノルマンディー街やサントンジュ街などには、ジルノルマンという爺(じい)さんのことを覚えていて喜んで話してくれる昔からの住人が、今なおいくらか残っている。彼らが若い頃その人はもう老人だった。過去と称する漠然たる幻の立ちこめた曠野(こうや)を憂鬱(ゆううつ)にながめる人たちの頭には、その老人の姿がタンプル修道院に隣していた迷宮のような小路のうちにおぼろに浮かんでくる。その一郭の入り組んだ小路にはルイ十四世の頃はフランスの各地方の名前がつけられていて、あたかも今日ティヴォリの新しい街区の小路に欧州の各首都の名前がつけられてるのと同じであった。ついでに言うが、それは一つの前進であってそこに進歩が見られるではないか。
 ジルノルマン氏は一八三一年には飛び切りの長寿者だった。そしてその長く生きてきたという理由だけで滅多に見られない人となっており、昔は普通の人だったが今はまったくひとりっきりの人であるという理由で不思議な人となっていた。独特な老人で、いかにも時勢はずれの人で、十八世紀式の多少傲慢(ごうまん)な完全な真の市民であり、侯爵らが侯爵ふうを持っているようにその古い市民ふうをなお保っていた。九十歳を越えていたが、腰も曲がらず、声も大きく、目もたしかで、酒も強く、よく食い、よく眠り、鼾(いびき)までかいた。歯は三十二枚そろっていた。物を読む時だけしか眼鏡(めがね)をかけなかった。女も好きだったが、もう十年この方断然そして全然女に接しないと自ら言っていた。「もう女の気に入らない」と言っていた。しかしそれにつけ加えて、「あまり年取ったから」とは決して言わず、「あまり貧乏だから」と言っていた。そしてよく言った、「私がもし尾羽うち枯らしていなかったら……へへへ。」実際彼にはもう一万五千フランばかりの収入きり残っていなかった。彼の夢想は、何か遺産でも受け継いで、妾(めかけ)を置くために十万フランばかりの年金を得ることだった。明らかに彼は、ヴォルテール氏のように生涯中死にかかってた虚弱な八十翁の類(たぐ)いではなかった。亀裂(ひび)のはいった長生きではなかった。この元気な老人は常に健康だった。彼は浅薄で、気が早く、すぐに腹を立てた。何事にも、多くは条理もたたないのに、煮えくり返った。その意見に反対しようものなら、すぐに杖(つえ)を振り上げた。大世紀(訳者注 ルイ十四世時代)のころのようになぐりつけまでした。もう五十歳以上の未婚の娘を持っていたが、怒(おこ)った時にはそれをひどくなぐりつけ、また鞭(むち)でよくひっぱたいた。彼の目にはその老嬢も七、八歳の子供としか見えなかった。彼はまた激しく召し使いどもに平手を食わした、そして「このひきずり奴(め)が!」とよく言った。彼が口癖のののしり語の一つは、足が額にくっつこうともというのだった。ある点について彼は妙に泰然としていた。毎日ある理髪屋に顔をそらせていた。その理髪屋はかつて気が狂ったことのある男で、愛嬌者(あいきょうもの)のきれいな上(かみ)さんである自分の女房のことについてジルノルマン氏を妬(や)いていたので、従って彼をきらっていた。ジルノルマン氏は何事にも自分の鑑識に自ら感心していて、自分は至って機敏だと公言していた。次に彼の言い草を一つ紹介しよう。「実際私(わし)は洞察力(どうさつりょく)を持ってるんだ。蚤(のみ)がちくりとやる場合には、どの女からその蚤がうつってきたか、りっぱに言いあてることができる。」彼が最もしばしば口にする言葉は、多感な男というのと自然というのだった。この第二の方の言葉は、現代使われてるような広大な意味でではなかった。そして彼は炉辺のちょっとした風刺のうちに独特な仕方でそれを□入(そうにゅう)していた。彼は言った。「自然は、あらゆるものを多少文明に持たせるため、おもしろい野蛮の雛形(ひながた)までも文明に与えている。ヨーロッパはアジアやアフリカの小形の見本を持っている。猫(ねこ)は客間の虎(とら)であり、蜥蜴(とかげ)はポケットの鰐(わに)である。オペラ座の踊り子たちは薔薇(ばら)のような野蛮女である。彼女らは男を食いはしないが、男の脛(すね)をかじっている。というよりも、魔術使いだ。男を牡蠣(かき)みたいにばかにして、貪(むさぼ)り食う。カリブ人は人を食ってその骨だけしか残さない、だが彼女らはその殻だけしか残さない。そういうのがわれわれの風俗だ。われわれの方はのみ下しはしないが、かみつくのだ。屠(ほふ)りはしないが、引っかくのだ。」

     二 この主人にしてこの住居あり

 彼はマレーのフィーユ・デュ・カルヴェール街六番地に住んでいた。自分の家であった。この家はその後こわされて建て直され、パリーの各街路の番地変更の時にやはりその番地も変えられたはずである。当時彼はその二階の古い広い部屋に住んでいた。それは街路と庭とを両方に控え、ゴブランやボーヴェー製の牧羊の絵のついてる大きな布で天井までもすっかり張られていた。天井や鏡板(かがみいた)についてる画題は、小さくして肱掛椅子(ひじかけいす)にも施されていた。またその寝台は、コロマンデル製のラック塗りの大きな九枚折り屏風(びょうぶ)で囲まれていた。窓には長く広い窓掛けが下がっていて、いかにもみごとな大きな縮れ襞(ひだ)をこしらえていた。庭はすぐそれらの窓の下にあったが、愉快げに老人が上り下りする十二、三段の階段で角(かど)になってる一つの窓から、ことによく見られた。室に接している文庫のほかに、彼がごく大事にしてる納戸部屋(なんどべや)が一つあった。それはりっぱな小室(へや)で、そこに張ってある素敵な壁紙には百合(ゆり)の花模様や種々な花がついていた。その壁紙は、ルイ十四世の漕刑場(そうけいじょう)でこしらえられたもので、王の情婦のためにヴィヴォンヌ氏が囚人らに命じて作らせたものだった。ジルノルマン氏はそれを、百歳も長寿を保って死んだ母方の大変な大叔母から譲り受けたのだった。彼は二度妻を持ったことがあった。彼の様子は朝臣と法官との中間に止まっていた。しかし彼はかつて朝臣であったことはないが、法官にはなろうとすればなれないこともなかったかも知れない。彼は快活であり、気が向けば人をいたわってやった。世には、最もふきげんな夫であるとともに最もおもしろい情人であるために、いつも妻からは裏切られるが決して情婦からは欺かれることのないような男がいるものだが、彼も若い頃はそういう男のひとりだった。彼は絵画の方面に鑑識があった。彼の室にはだれかのみごとな肖像が一つあった。ヨルダンスの手に成ったもので、荒い筆触で様々な細部まで描かれていて、乱雑にでたらめに書かれたものらしかった。ジルノルマン氏の服装は、ルイ十五世式でもなければ、ルイ十六世式でもなく、執政内閣時代の軽薄才子(アンクロアイヤブル)のような服装だった。彼はそれほど自分を若いと思っていて、その流行をまねたのだった。その上衣は軽いラシャで、広い折り襟(えり)と、長い燕尾(えんび)と、大きな鉄のボタンとがついていた。それに加うるに、短いズボンと留め金つきの靴(くつ)。そしていつも両手をズボンのポケットにつっ込んでいた。彼は堂々と言っていた、「フランス大革命は無頼漢どもの寄り合いだ。」

     三 リュク・エスプリ

 十六歳の時に彼は、当時成熟していてヴォルテールから歌いはやされた有名なふたりの美形カマルゴー嬢とサレ嬢とから、同時に色目を使われるの光栄に浴した。そして両方の炎の間にはさまれて、勇ましい退却を行ない、ナアンリーという小さな踊り子の方へなびいていった。その娘は彼と同じ十六歳で、まだ子猫(こねこ)のように名も知られない者だったが、彼はそれに恋したのだった。彼はいつもその思い出をいっぱい持っていた。彼はよく叫んだ。「あのギマール・ギマルディニ・ギマルディネットは実にきれいだった。最後にロンシャンで会った時には、髪の毛を神々(こうごう)しくちぢらし、世にも珍しいトルコ玉の飾りをつけ、赤ん坊の頬(ほほ)の色のような長衣を引っかけ、ふさふさしたマッフを持っていた。」彼はまた青春の頃にナン・ロンドランのチョッキをつけてたことがあって、そのことを心ゆくばかり語っていた。「私は日の出る東(あずま)のトルコ人のような服を着ていた、」と彼はよく言った。二十歳のころ彼はふとブーフレル夫人に見られて、「ばかにかわいい人」と言われたことがあった。政治界や官界に現われてる名前は、どれもこれも皆下等で市民的であると言って憤慨していた。彼は新聞を、彼のいわゆる新報紙だの報知紙だのを、笑いをおさえながら読んでいた。彼はよく言った。「何という者どもだ、コルビエール、ユマン、カジミール・ペリエ、そういうのが大臣だって。まあ新聞に大臣ジルノルマン氏と書いてあるとしてごらん、おかしいだろうじゃないか。ところでまあ彼らときたら、結構それで通るくらいばかだからな。」彼は上品も下等もおかまいなしの言葉で何でも快活に言ってのけ、女の前であろうと少しもはばからなかった。野卑なこと、猥褻(わいせつ)なこと、不潔なこと、それを語るにも一種の落ち着きをもってし、風流の冷静さをもってした。まったく彼が属する前世紀の不作法さである。婉曲(えんきょく)なる詩の時代はまた生々(なまなま)しい散文の時代であったことは注意すべきである。彼の教父は、彼が他日天才になるだろうと予言して、次の意味深い二つの洗礼名を彼に与えていた、すなわちリュク・エスプリと(訳者注 使徒ルカ・精霊の意)。

     四 百歳の志願者

 彼は子供の時、故郷のムーランの中学校で幾つかの褒賞(ほうしょう)をもらい、彼がヌヴェール公爵と呼んでいたニヴェルネー公爵の手から親しく授かった。国約議会も、ルイ十六世の処刑も、ナポレオンも、ブールボン家の復帰も、その褒賞の思い出を彼の心から消すことはできなかった。ヌヴェール公爵は、彼にとっては時代の最も偉い大立て物だった。彼はよく言った。「何というりっぱな大貴族だったろう、あの青い大綬(たいじゅ)をつけられたところは何というみごとさだったろう!」ジルノルマン氏の目には、カテリナ二世はベステュシェフから三千ルーブルで黄金精液の秘法を買い取ったので、ポーランド分割の罪をつぐなったことになるのだった。彼は叫んだ。「黄金精液、ベステュシェフの黄色い薬、将軍ラモットの液、それは十八世紀では半オンス壜(びん)が一ルイ(二十フラン)もしたものだ。恋の災厄に対する偉大な薬で、ヴィーナスに対する万能薬だ。ルイ十五世はその二百壜を法王に贈られたものだ。」もし彼に、その黄金精液は実は鉄の過塩化物にすぎないのだと言ったら、彼は非常に絶望し狼狽(ろうばい)したに違いない。ジルノルマン氏はブールボン家を賛美し、恐怖のうちに一七八九年を過ごした。そしていかなる方法で恐怖時代をのがれていたか、いかに多くの快活と機才とが首を切られないためには必要であったかを、彼は絶えず語っていた。もしある若い者が彼の前で共和政を賛美でもしようものなら、彼は顔の色を変え息もつけないほどにいらだつのだった。時とすると彼は自分の九十歳ということに関連さして、こんなことを言った。「私は九十三という年を二度と見たくない。」(訳者注 ルイ十六世の死刑が行なわれた一七九三年にかけた言葉)しかしまたある時には、百歳までは生きるつもりだと人にもらしていた。

     五 バスクとニコレット

 彼は定説を持っていた。その一つは次のようなものだった。「もし人が熱烈に女を愛し、しかも自分には、醜い、頑固(がんこ)な、正当な、権利を有し、法律を楯(たて)にとり、場合によっては嫉妬(しっと)を起こすがような、あまり気に入らない正妻がある時には、それに処して平和なるを得る方法はただ一つあるのみである。すなわち、妻に財布のひもを任せることである。権利をすてて自由の身になるのだ。すると妻はその方に心を奪われ、貨幣の取り扱いに熱中し、指に緑青(ろくしょう)を染め、折半小作人や請作人を仕込み、代言人をよび、公証人を指揮し、弁護士をわずらわし、法官を訪れ、裁判を起こし、証書を作り、契約を書かせ、得意になり、売り、買い、計算し、命令し、約束し和解し、契約し取り消し、譲歩し譲与し還付し、整理し、混乱させ、蓄財し、浪費する。その他種々のばかなことを行ない、それが権柄的(けんぺいてき)なまた個人的な喜びとなり、それで自ら慰める。夫(おっと)から軽蔑されてる間に、夫を破産さして満足するものである。」この理論を彼は自分自身に適用し、自分の履歴とまでなっていた。彼の二番目の妻は、彼の財産をかなり賢く管理していたので、ある日彼女が死んだ時、彼には食べるだけのものが残っていた、すなわちほとんど全部を終身年金に預けて年収一万五千フランほどにはなった。がその大部分は彼とともに消え失せることになっていた。彼は別に驚きもしなかった、遺産を残すことなんかあまり考えてもいなかったから。それにまた、世襲財産はあぶなっかしいものであって、たとえば国有財産になることもあるのを、彼は見てきたのだった。整理公債の変動に立ち会ってきたのだった。そして彼は公債大帳をあまり信用しなかった。「カンカンポア街の銀行だけじゃないか、」と彼は言っていた。フィーユ・デュ・カルヴェール街の家は、前に言ったとおり自分のものであった。「牡(おす)と牝(めす)と」ふたりの雇い人がいた。新しい雇い人がやって来る時には、ジルノルマン氏は新たに洗礼名をつけてやるのを常とした。男の方にはその出生地の名前を与えた、ニモア、コントア、ポアトヴァン、ピカールなどと。最後の下男は、ふとってよぼよぼした息切れのする五十歳ばかりの男で、二十歩とは走れなかった。しかしバイヨンヌ生まれであるところから、ジルノルマン氏は彼にバスクという名前を与えていた(訳者注 ピレネー山間の剽悍なる民にバスク人というのがある)。下女の方は皆ニコレットという名前をもらっていた。(後に出てくるマニョンという女もそうであった。)ある日、門番に見るような背(せ)の高いつんとしたすてきな料理女が彼の家にやってきた。ジルノルマン氏は尋ねた。「給金は月にいくらほしいんだ。」「三十フランです。」「何という名前だ。」「オランピーと申します。」「よろしい五十フランあげよう、そしてニコレットという名前にしたがいい。」

     六 マニョンとそのふたりの子供

 ジルノルマン氏においては、心痛は憤怒となって現われた。彼は絶望すると狂猛になった。彼はあらゆる偏見を持っていて、あらゆるわがままを行なった。彼の外部の特徴を形造っていたものの一つで、また彼の内心の満足であったところのものは、前に指摘しておいたとおり、老いても血気盛んだということで、是非ともそういうふうに装うということだった。彼はそれを「りっぱな評判」を得ることと称していた。りっぱな評判は彼に時とすると、不思議な意外な獲物をもたらすことがあった。ある日、相当な産着(うぶぎ)にくるまれ泣き叫んでる生まれたばかりの大きな男の児が牡蠣籠(かきかご)みたいな籠の中に入れられて、彼の家に持ち込まれた。六カ月前に追い出されたひとりの下女が、その赤ん坊は彼の児だと言ったのである。ジルノルマン氏はその時ちょうど八十四歳いっぱいになっていた。まわりの者は大変に腹を立てわき返るような騒ぎをした。恥知らずの売女(ばいた)めが、いったいだれに赤ん坊を育てさせようと思ってるのか。何という大胆さだ。何と忌まわしい中傷だ! ところがジルノルマン氏の方は、少しも腹を立てなかった。彼は中傷によってへつらわれた好々爺(こうこうや)らしい快い微笑を浮かべて、その赤児をながめた、そして他人事(ひとごと)のように言った。
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