レ・ミゼラブル
◇ピンチです!◇
■暇つぶし何某■

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著者名:ユゴーヴィクトル 

   第一編 パリーの微分子



     一 小人間

 パリーは一つの子供を持ち、森は一つの小鳥を持っている。その小鳥を雀(すずめ)と言い、その子供を浮浪少年と言う。
 パリーと少年、一つは坩堝(るつぼ)であり一つは曙(あけぼの)であるこの二つの観念をこね合わし、この二つの火花をうち合わしてみると、それから一つの小さな存在がほとばしり出る。ホムンチオ(小人)とプラウツスは言うであろう。
 この小さな人間は、至って快活である。彼らは毎日の食事もしていない、しかも気が向けば毎晩興行物を見に行く。肌(はだ)にはシャツもつけず、足には靴(くつ)もはかず、身をおおう屋根もない。まったくそういうものを持たない空飛ぶ蠅(はえ)のようである。七歳から十三歳までで、隊を組んで生活し、街路を歩き回り、戸外に宿り、踵(かかと)の下までくる親譲りの古いズボンをはき、耳まで隠れてしまうほかの親父(おやじ)からの古帽子をかぶり、縁の黄色くなった一筋きりのズボンつりをつけ、駆け回り、待ち伏せし、獲物をさがし回り、時間を浪費し、パイプをくゆらし、暴言を吐き、酒場に入りびたり、盗人と知り合い、女とふざけ、隠語を用い、卑猥(ひわい)な歌を歌い、しかもその心のうちには何らの悪もないのである。その魂のうちにあるものは、一つの真珠たる潔白である。真珠は泥の中にあってもとけ去らぬ。人が年少である間は、神も彼が潔白ならんことを欲する。
 もし広大なる都市に向かって、「あれは何だ?」と尋ぬるならば、都市は答えるだろう、「あれは私の子供だ。」

     二 その特徴の若干

 パリーの浮浪少年は、小なる巨人である。
 何ら誇張もなくありのままを言えば、この溝(どぶ)の中の天使は時としてシャツを持ってることもあるが、それもただ一枚きりである。時としては靴を持ってることもあるが、それも底のすり切れたものである。時には住居を持っていて、母親がいるのでそれを愛することもあるが、しかし自由だからと言って街路の方を好む。独特の遊びがあり、独特の悪戯(いたずら)がある。そしてその根本は中流市民に対する憎悪(ぞうお)である。また独特な比喩(ひゆ)がある。死ぬことを、たんぽぽを根から食うという。また独特な仕事を持っている。辻馬車(つじばしゃ)を連れてき、馬車の踏み台をおろし、豪雨のおりに街路の一方から他方へ人を渡してやっていわゆる橋商売をなし、フランス民衆のためになされた当局者の演説をふれ回り、舗石(しきいし)の間を掃除(そうじ)する。また独特の貨幣を持っている。往来に落ちてる種々な金物でできてる不思議な貨幣で、ぼろと言われていて、その小さな浮浪少年の仲間にごく規則だった一定の流通をする。
 最後に、彼らは独特な動物を持っていて、すみずみでそれを熱心に観察する。臙脂虫(えんじむし)、油虫、足長蜘蛛(あしながぐも)、二つの角のある尾を曲げて人をおびやかす黒い昆虫(こんちゅう)の「鬼」。また物語にあるような怪物をも持っている。腹に鱗(うろこ)があるけれど、蜥蜴(とかげ)でもなく、背中に疣(いぼ)があるけれど、蟇(がま)でもなく、古い石灰竈(かまど)やかわいた水溜(みずため)などの中に住んでいて、まっ黒で毛がはえ、ねばねばして、あるいは遅くあるいは早くはい回り、声は出さないがじっと見つめ、だれもかつて見たこともないような恐ろしいものであって、彼らはその怪物を「つんぼ」と呼んでいる。石の間に「つんぼ」をさがし回ることは、身の毛のよだつような楽しみである。なお別の楽しみは、急に舗石(しきいし)を上げて草鞋虫(わらじむし)を見つけることである。またパリーの各地は、そこで見つかる種々なおもしろいもので名がとおっている。ユルシュリーヌの建築材置き場の中にははさみ虫、パンテオンには百足虫(むかで)、練兵場の溝(どぶ)の中にはおたまじゃくしがいる。
 彼らの言葉はタレーラン(訳者注 機才に富んだ弁舌で有名な当時の政治家)に匹敵する。同様に冷笑的であり、またいっそう正直である。まったく思いもかけないような快弁を持っていて、その大笑いで店屋の者を狼狽(ろうばい)させることもある。その調子は大喜劇から狂言に至るまでの間を快活にはね回る。
 葬式の行列が通る。そのうちに医者がいるとする。するとひとりの浮浪少年は叫ぶ、「おや、医者の野郎、自分の仕事の取り入れをするなんて、いつから初めやがったんだ。」
 群集の中に浮浪少年のひとりがいる。そして眼鏡(めがね)や鎖をつけたひとりの堂々たる男が怒ってふり返りながら言うとする、「やくざ者め、俺の妻の腰に手をかけたな。」
「僕が! では僕の懐(ふところ)に手をつっ込んでみたらいいだろう。」

     三 その愉快さ

 晩になると、いつもいくらかの金をどうにか手に入れて、この小人は芝居(しばい)に行く。ところがその蠱惑的(こわくてき)な閾(しきい)を一度またぐと、彼らの様子は変わってしまう。浮浪少年だったのが、小僧っ児になってしまう。芝居小屋は船を裏返したようなもので、上の方に船底がある。小僧っ児がつめ込むのはその船底へである。小僧っ子と浮浪少年との関係は、ちょうど蛾(が)と青虫との関係である。羽がはえて空中を飛び回る代物(しろもの)である。芝居小屋のその狭い、臭い、薄暗い、不潔な、不健康な、たまらない、のろうべき船底が、天国ともなるためには、彼らがそこにいさえすれば十分である、光り輝くその幸福と、その力強い心酔と喜悦と、羽音のようなその拍手とをもって。
 あるひとりの者に無用さを与え、その必要さを取り去ってしまえば、そこに一つの浮浪少年ができ上がる。
 浮浪少年は、一種の文学的直覚を持っていないこともない。その傾向は、多少遺憾ながら、決してクラシック趣味ではなさそうである。彼らは生まれながらにしてあまりアカデミックではない。その一例をあぐれば、この喧騒(けんそう)な少年らの小社会におけるマルス嬢の評判は、一味の皮肉さで加味されていた。浮浪少年は彼女のことをまるまる嬢と言っていた。
 彼らは怒鳴り、揶揄(やゆ)し、嘲弄(ちょうろう)し、喧嘩(けんか)をし、乞食(こじき)小僧のようなぼろをまとい哲人のような弊衣をつけ、下水の中をあさり、塵溜(ちりだめ)の中を狩り、汚物のうちから快活を引き出し、町の巷(ちまた)に天下の奇想をまき散らし、冷笑し風刺し、口笛を吹き歌を歌い、歓呼し罵詈(ばり)し、アレリュイアとマタンチュルリュレットと(訳者注 歓呼の賛歌とのろいの賛歌と)をあわせ用い、デ・プロフォンディスからシアンリまで(訳者注 荘重な聖歌から卑しい俗歌まで)あらゆる調子を口ずさみ、求めずして見いだし、知らないことをも知り、すりを働くほどに謹厳であり、賢者たるまでにばかであり、不潔なるまでに詩的であり、神々の上にうずくまり、糞便(ふんべん)の中に飛び込んで星を身につけて出て来る。実にパリーの浮浪少年は小ラブレー(訳者注 十六世紀の快活な風刺詩人)である。
 彼らは時計入れの内隠しがついてるズボンでなければ満足しない。
 彼らはあまり驚くことがなく、恐れることはなお更少なく、迷信を軽蔑し、誇張をへこまし、神秘を愚弄(ぐろう)し、幽霊をばかにし、架空をうち倒し、浮誇を滑稽化(こっけいか)する。それは彼らが散文的だからでは決してない。反対に彼らは、荘重な幻影を道化(どうけ)た幻と変えるまでである。もしアダマストール(訳者注 ヴァスコ・ダ・ガマの前につっ立ったという喜望峰を守っている巨人)が彼らに現われたとしても、彼らは言うであろう、「おやあ、案山子(かがし)めが!」

     四 その有用な点

 パリーは弥次馬(やじうま)に初まり、浮浪少年に終わる。この二つは他のいずれの都市にも見られないものである。一つはただながめるだけで満足する消極的なものであり、一つは進取的に限りない手段をめぐらす。プリュドンムとフーイユーとである(訳者注 無能尋常の典型と悪戯発明の典型)。パリーのみがこの二つをその博物誌のうちに持っている。各王政は弥次馬のうちにあり、各無政府は浮浪少年のうちにある。
 パリーの場末のこの青白い子供は、困苦の中に、社会の現実と人間の事がらとの前に考え深く目を開きながら、生活し生長し、熟し発達してゆく。彼らは自分をむとんちゃくだと思っている。しかし実際はそうでない。彼らはじっとながめていて、何事にも笑い出そうとしているが、しかしまた他のことをも仕出かそうとしている。いかなる種類のものであろうとも、およそ、特権、濫用(らんよう)、破廉恥、圧制、不正、専制、不法、盲信、暴虐、などと名のつくものは、このぽかんとしてる浮浪少年に用心するがいい。
 この少年はやがて大きくなるだろう。
 いかなる土で彼らはできているか? ごくありふれた泥からである。一握りの泥と一つの息吹(いぶき)、それだけでアダムができ上がる。ただ一つの神が通ればそれで足りる。そして神は一つやはりこの浮浪少年の上を通った。運命はこの少年に働きかける。ただここで運命という言葉は、多少偶然という意味をこめて用いるのである。それ自身普通のつまらぬ土の中にこね上げられ、無知で、無学で、放心で、卑俗で、微賤(びせん)であるこの侏儒(しゅじゅ)は、やがてイオニア人(哲人)となるであろうか、またはベオチア人(ばか)となるであろうか。まあ待つがいい。世は輪□(りんね)だ。パリーの精神、偶然で子供を作り宿命で人を作るその悪魔は、ラテンの壺屋(つぼや)の車を逆さに回して、新しい壺を古代の壺にしようとしている。

     五 その境界

 浮浪少年は、心のうちに知恵を持っていて、町を愛しまた静寂を愛する。フスクスのように町の愛人であり、フラックスのように田野の愛人である。
 考えながら歩くこと、すなわち逍遙(しょうよう)すること、それは哲学者にとってはいい時間つぶしである。ことに、多少私生児的な、かなり醜い、しかも奇怪な、二つの性質からできてる田舎(いなか)において、ある種の大都会なかんずくパリーを取り囲んでいる田舎において、そうである。郊外を観察することは、すなわち水陸両棲物(りょうせいぶつ)を観察することである。木立ちの終わり、軒並みの初まり、雑草の終わり、舗石(しきいし)の初まり、田圃(たんぼ)の終わり、商店の初まり、轍(わだち)の終わり、擾乱(じょうらん)の初まり、神の囁(ささや)きの終わり、人の喧騒(けんそう)の初まり、それゆえに異常な興味がある。
 それゆえに、あまり人の心をひかず常に通行人からうら寂しいという形容詞をかぶせられてるそれらの地に、表面上何らの目的もない散歩を夢想家らがなすのである。
 これらのページを書いている著者も、昔は長い間パリー郊外の散策者だった。そして著者にとってそれは深い思い出の源である。
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