レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてながら、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのを知った。
「皆立ち去ってゆくのだな。」と彼は考えた。「もう自分一人だ。」
 するとたちまち頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音が聞こえた。
 それは一すくいの土が棺の上に落ちた音だった。
 次にまた一すくいの土が落ちてきた。
 彼が息をしていた穴の一つは、そのためにふさがってしまった。
 第三の士が落ちてきた。
 次に第四の土が。
 いかに強い男にとっても、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。

     七 札をなくすなという言葉の起原

 ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。
 棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある□(くわ)を手に取るのを見た。
 その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。
 彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。
「金は私(わし)が払う。」
 墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。
「何のことだよ?」
 フォーシュルヴァンは繰り返した。
「金は私が払う。」
「何さ?」
「酒だよ。」
「何の酒だ?」
「アルジャントゥイュだ。」
「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」
「ボン・コアンの家(うち)にある。」
「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。
 そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。
 棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉(のど)をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。
「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」
 墓掘り人はまた□(くわ)で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。
「私が払う。」
 そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」
 そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」
「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」
 そして彼は□(くわ)を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。
「六スーのアルジャントゥイュだよ。」
「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞(かねつ)きみたいな奴(やつ)だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」
 そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。
 フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。
「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」
「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。
 彼は第三の一すくいをほうり込んだ。
 それから彼はまた□を土の中に突き入れてつけ加えた。
「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」
 その時墓掘り人は□で土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。
 フォーシュルヴァンの茫然(ぼうぜん)とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。
 太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。
 ピカルディーの田舎者(いなかもの)の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳(ひとみ)をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
 墓掘り人が□(くわ)で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。
 墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。
 彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。
「時にお前さんは、札を持ってるかね。」
 墓掘り人はちょっと手を休めた。
「何の札だ?」
「日が入りかかってるよ。」
「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」
「墓地の門がしまるよ。」
「だから?」
「札は持ってるかと言うんだ。」
「ああ俺(おれ)の札か!」と墓掘り人は言った。
 そしてポケットをさぐった。
 一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。
「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」
「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。
「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」
「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は□(くわ)を取り落とした。
 こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。
「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸(ふるだぬき)だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」
「そうだ。」と墓掘り人は答えた。
「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」
「そのとおりだ。」
「そうすれば十五フランの罰金だ。」
「十五フラン。」
「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」
「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」
「そうだ。」
「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸(しがい)を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」
「それで俺(おれ)は助かる。」
「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。
 墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴の方へ身をかがめて、低い声で言った。
「マドレーヌさん!」
 何の答えもなかった。
 フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴の中におりるというよりも、むしろころげ込んで、棺の頭の方に身をなげかけ、そして叫んだ。
「そこにおいでですか。」
 棺の中はひっそりとしていた。
 フォーシュルヴァンは震え上がって息もつけなかったが、それでも鋭利な鑿(たがね)と金槌(かなづち)とを取って、上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗い中に見えたが、目は閉じ、色は青ざめていた。
 フォーシュルヴァンの髪の毛は逆立った。彼はまっすぐに立ち上がり、それから穴の壁にもたれかかり、気を失って棺の上に倒れんばかりになった。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。
 ジャン・ヴァルジャンは色を失って身動きもしないで、そこに横たわっていた。
 フォーシュルヴァンは息ばかりのような弱い声でつぶやいた。
「死んでいなさる!」
 それから立ち直って、両の拳(こぶし)が肩に激しくぶっつかったほど急に両腕を組んで、叫んだ。
「助けてあげたのがこんなことに!」
 そしてあわれな老人はむせび泣きながら、独語をはじめた。独語は自然のうちにないものだと思うのは誤りである、心の激しい動乱はしばしば高い声で語り出す。
「メティエンヌ爺(じい)さんが悪いんだ。あの爺(じじい)め、なぜ死んだんだ。思いも寄らない時にくたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴(やつ)だ。マドレーヌさん! ああ棺の中にはいっていなさる。もう逝(い)ってしまわれた。もうだめだ。――いったいこれは何て訳のわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さん、あれをどうしたもんだろう。果物屋(くだものや)の上(かみ)さんは何と言うだろう。こんな方がこんなふうに死なれる、そんなことがあるもんだろうか。私の車の下に身を投げ入れて下さった時のことを思うと! マドレーヌさん、マドレーヌさん! 息がつまったんだ。私の言ったとおりだ。私の言うことを聞きなさらなかったからだ。まあ何という悪戯(いたずら)だ! 死になすった、あのりっぱな方が、善人のうちでも一番善人の方が! そしてあの娘さん! 第一私はもうあそこへは帰られん。ここにこのままいよう。こんなことをしでかしてさ! 年寄りが二人いてこんなばかをやるって法があるもんか。だが第一、あの方はどうして修道院の中へはいりなすったんだろう。それがそもそも事の初まりだ。あんなことはするもんじゃない。マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌ、マドレーヌ様、市長様! 私の言うことも聞こえないんだ。さあ何とかして下さらなけりゃ!」
 そして彼は髪の毛をかきむしった。
 遠く木立ちの中に、物のきしる鋭い音が聞こえた。墓地の鉄門がしまる音だった。
 フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははね上がって、墓穴の中でできるだけあとにしざった。ジャン・ヴァルジャンは目を開いて、彼をじっと見つめていた。
 死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生を見るのも同じくらい恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはその極度の感動に、度を失い、荒々しくなり、まっさおになり、石のようになって、生者に対してるのか死人に対してるのかも自らわからず、自分の方を見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔を見入った。
「私は眠ってしまった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 そして彼は半身を起こした。
 フォーシュルヴァンはひざまずいた。
「あああ! ほんとにたまげてしまった。」
 それから彼は立ち上がって叫んだ。
「ありがたい! マドレーヌさん。」
 ジャン・ヴァルジャンは気絶していたにすぎなかった。外の空気が彼をさましたのである。
 喜悦は恐怖の裏である。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンと同じくらいに我に返るのには骨が折れた。
「死になすったのではなかったんだな! ほんとにあなたは人が悪い。生き返ってきなさるようにどんなにか呼んだんですよ。あなたが目を閉じていなさるのを見て、ああ息がつまったんだなと思いましたよ。私はほんとに気が気でなかった。まったくの気違いになりそうでしたよ。ビセートルの癲狂院(てんきょういん)にでも入れられたかも知れませんよ。あなたが死なれたら、私はどうなると思います? そしてあなたの娘さんは! 果物屋(くだものや)の上さんは訳がわからなくなるでしょう。子供を預けておいて、そして祖父(おじい)さんが死んでしまう。まあなんて話なんでしょう。ほんとになんてことでしょう。ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたいことだ。」
「私は寒い。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 その一言でフォーシュルヴァンはすっかり現実に呼び戻された。事情は切迫していた。二人の者は我に返ってからも、なぜともわからず心が乱れていた。そして彼らのうちには、その陰惨な場所のためにある言い知れぬ感情が起こっていた。
「早くここを出ましょう。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 彼はポケットの中をさぐって、用意していた壜(びん)を取り出した。
「だがまあ一口おやりなさい。」と彼は言った。
 外気に次いでその壜(びん)がすべてをよくなした。ジャン・ヴァルジャンは火酒を一口のんで、すっかり元気になった。
 彼は棺から出た。そしてフォーシュルヴァンに手伝って再びその蓋(ふた)を打ちつけた。
 二、三分後には、二人とも墓穴の外に出ていた。
 それにまたフォーシュルヴァンも落ち着いていた。彼はゆっくり構えた。墓地はしまっている。墓掘り人グリビエが来る気づかいはない。その「新参者」は家にいて札をさがし回ってる。そして札はフォーシュルヴァンのポケットの中にあるから、家で見つかるわけはない。札がなければ墓地の中に戻って来ることはできないのだ。
 フォーシュルヴァンは□(くわ)を取り、ジャン・ヴァルジャンは鶴嘴(つるはし)を取り、二人して空棺を埋めた。
 墓穴がいっぱいになった時、フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに言った。
「さあ行きましょう。私は□を持ちますから、あなたは鶴嘴をお持ちなさい。」
 日は暮れていた。
 ジャン・ヴァルジャンは動き回ったり歩いたりするのに少し苦しかった。棺の中で彼は身体を硬(こわ)ばらし、いくらか死体のようになっていた。その四枚の板の中で、死の関節不随にとらわれていた。いわば墓の中から脱け出さなければならなかった。
「あなたはしびれていなさる。」とフォーシュルヴァンは言った。「それに私まで跛者ときています。そうでなけりゃもっと早く歩けますがな。」
「なあに、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「少しゆけば私の足はよくなるよ。」
 彼らは棺車の通った道から立ち去っていった。しまった鉄門と門番の小屋との前まできた時、墓掘り人の札を手に持っていたフォーシュルヴァンは、その札を箱の中に投げ込んだ。すると門番は綱を引き、門が開き、二人は外に出た。
「すっかりうまくいった!」とフォーシュルヴァンは言った。「あなたの考えは実にえらいもんだ、マドレーヌさん。」
 彼らはヴォージラールの市門を、ごく平気で通りすぎた。墓地の付近では、□(くわ)と鶴嘴(つるはし)とはいずれも通行券と同様である。
 ヴォージラール街には人影もなかった。
「マドレーヌさん、」とフォーシュルヴァンは歩きながら人家の方を見上げて言った、「あなたは私より目がいい。八十七番地というのを見て下さい。」
「ちょうどここがそうだよ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「往来にはだれもいません。」とフォーシュルヴァンは言った。「鶴嘴を私に下さい、そしてちょっと待っていて下さい。」
 フォーシュルヴァンは八十七番地の家にはいってゆき、いつも貧乏のために屋根裏にばかり行く本能から、ずっと上まで上っていって、ある屋根部屋の扉(とびら)を暗闇(くらやみ)の中にたたいた。中からだれか答えた。
「おはいり。」
 それはグリビエの声だった。
 フォーシュルヴァンは扉を押し開いた。墓掘り人の住居は、あわれな人たちの住居にいつも見るように、道具がなくてしかも取り散らかした屋根裏だった。荷造り用の箱みたいなものが――おそらく棺かも知れないが――戸棚(とだな)の代わりになっており、バタの壺(つぼ)が水桶(みずおけ)の代わりとなり、一枚の藁蒲団(わらぶとん)が寝床となり、床板(ゆかいた)がそのまま椅子(いす)ともテーブルともなっていた。片すみには、古い一片の絨毯(じゅうたん)のぼろの上に、やせた一人の女と大勢の子供とが一かたまりになっていた。そのあわれな部屋の中には、すべてかき回された跡が残っていて、一挙に地震でもきたようなありさまだった。物の蓋(ふた)は取りのけられ、ぼろはまき散らされ、壜(びん)はこわされ、母親は泣いた様子であり、子供らはたぶんなぐられたのであろう。すべて、いら立ち熱中した穿鑿(せんさく)の跡が見えていた。言うまでもなく、墓掘り人は狂気のようになって札をさがし回り、そして女房から壜に至るまで室の中のあらゆるものに紛失の責を負わしたのである。彼はもう自暴自棄の様子をしていた。
 しかしフォーシュルヴァンは早く事件の結末ばかりを急いでいて、成功のその悲しい半面を目にも止めなかった。
 彼は中にはいって言った。
「お前さんの鶴嘴(つるはし)と□(くわ)を持ってきたよ。」
 グリビエは呆然(ぼうぜん)として彼をながめた。
「ああ君か。」
「そして明日(あす)の朝、墓地の門番の所へ行ってみなさい、お前さんの札があるから。」
 彼は□と鶴嘴とを下に置いた。
「いったいどうしたと言うんだ。」とグリビエは尋ねた。
「なあに、お前さんはポケットから札を落としたのさ。お前さんが行ってしまってから、地面に落ちてるのを私は見つけたんだ。死骸(しがい)は埋めるし、墓穴はいっぱいにするし、お前さんの仕事はすっかりしておいた。札は門番が返してくれるだろう。十五フラン払わんでもいいよ。わかったかね。」
「そいつあありがたい!」とおどり上がってグリビエは叫んだ。「こんどは、俺(おれ)が酒の代を払うよ。」(訳者注 章題の札をなくすなとは狼狽するなという意味にもなる)

     八 審問の及第

 それから一時間の後、まっくらな夜の中を、二人の男と一人の子供とが、ピクプュス小路の六十二番地に現われた。年取った方の男が槌(つち)を取り上げて、呼鐘をたたいた。
 その三人は、フォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットであった。
 二人の老人は、前日フォーシュルヴァンがコゼットを預けておいたシュマン・ヴェール街の果物屋(くだものや)へ行って、コゼットを連れてきたのである。その二十四時間の間を、コゼットは訳がわからず、黙って震えながら過ごした。恐れおののいて、涙さえも出なかった。物も食べなければ、眠りもしなかった。正直なお上さんはいろいろ尋ねてみたが、ただいつも同じような陰鬱(いんうつ)な目つきで見返されるだけで、何の答えも得られなかった。コゼットは二日間に見たり聞いたりしたことについては、何一つもらさなかった。今は大事な場合であることを彼女は察していた。「おとなしくして」いなければならないと深く感じていた。恐怖に駆られている小さい者の耳に、一種特別の調子で言われた「何にも言ってはいけない」という短い言葉の絶大な力は、だれしもみな経験したところであろう。恐怖は一つの沈黙である。その上、子供ほどよく秘密を守る者はない。
 けれどもただ、その悲しい二十四時間がすぎ去って、再びジャン・ヴァルジャンの姿を見た時、彼女は非常な喜びの声を上げたので、もし考え深い者がそれを聞いたら、ある深淵(しんえん)から出てきたものであることを察知したかも知れない。
 フォーシュルヴァンは修道院の者で、通行の合い言葉を知っていた。それによってどの扉(とびら)も開かれた。
 そういうふうにして、出てまたはいるという二重の困難な問題は解決された。
 前から旨を含められていた門番は、中庭から外庭に通ずる小さな通用門をあけてくれた。その門は今から二十年前までなお、正門と向かい合った中庭の奥の壁の中に、街路から見えていた。門番は三人をその門から導き入れた。そこから彼らは、前日フォーシュルヴァンが院長の命令を受けた特別の中の応接室にはいっていった。
 院長は手に大念珠を持って、彼らを待っていた。一人の声の母が、面紗(かおぎぬ)を深く引き下げて、そのそばに立っていた。かすかな蝋燭(ろうそく)の火が一つともっていて、ほとんど申しわけだけに応接室を照らしていた。
 修道院長はジャン・ヴァルジャンの様子を検閲した。目を伏せて見調べるくらいよくわかることはないとみえる。
 それから彼女は彼に尋ねた。
「弟というのはお前ですか。」
「はい長老様。」とフォーシュルヴァンが答えた。
「何という名前ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「ユルティム・フォーシュルヴァンと申します。」
 彼は実際、既に死んではいたがユルティムという弟を持っていた。
「生まれはどこですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「アミアンの近くのピキニーでございます。」
「年は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「五十歳でございます。」
「職業は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「園丁でございます。」
「りっぱなキリスト信者ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「家族の者残らずがそうでございます。」
「この娘はお前のですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「はい長老様。」
「お前がその父親ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「祖父でございます。」
 声の母は院長に低い声で言った。
「りっぱに答えますね。」
 ジャン・ヴァルジャンはひとことも口をきかなかったのである。
 院長は注意深くコゼットをながめた。そして声の母に低い声で言った。
「醜い娘になるでしょう。」
 二人の長老は、応接室の隅(すみ)でしばらくごく低い声で話し合った。それから院長はふり向いて言った。
「フォーヴァン爺(じい)さん、鈴のついた膝当(ひざあて)をも一つこしらえなさい。これから二ついりますからね。」
 果してその翌日、庭には二つの鈴の音が聞こえた。修道女たちは我慢しきれないで、面紗(かおぎぬ)の一端を上げてみた。見ると庭の奥の木立ちの下に、フォーシュルヴァンとも一人、二人の男が並んで地を耘(うな)っていた。一大事件だった。緘黙(かんもく)の規則も破られて、互いにささやきかわした。「庭番の手伝いですよ。」
 声の母たちは言い添えた。「フォーヴァン爺さんの弟です。」
 実際ジャン・ヴァルジャンは正規に任用されたのである。彼は皮の膝当と鈴とをつけていた。それいらい彼は公の身となった。名をユルティム・フォーシュルヴァンと言っていた。
 そういうふうにはいることを許さるるに至った最も有力な決定的な原因は、「醜い娘になるでしょう」というコゼットに対する院長の観察だった。
 そういう予言をした院長は、すぐにコゼットを好きになって、給費生として彼女を寄宿舎に入れてくれた。
 これはいかにも当然なことである。修道院では鏡は決して用いられないとは言え、女は自分の顔について自覚を持ってるものである。ところで、自分をきれいだと思ってる娘は、容易に修道女などになるものではない。帰依の心は多くは美貌(びぼう)と反比例するものであるから、美しい娘よりも醜い娘の方が望ましい。したがって醜い娘が非常に好まれるに至るのである。
 さてこの事件は善良なフォーシュルヴァン老人の男を上げた。彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさしてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩(ひつぎ)を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足さしてやった。プティー・ピクプュスには死体のはいった棺があり、ヴォージラールの墓地には空(から)の棺があることになった。公規はそのためにはなはだしく乱されたには相違ないが、それに気づきはしなかった。修道院の方では、フォーシュルヴァンに対する感謝の念は大なるものだった。フォーシュルヴァンは最良の下僕(しもべ)となり、最も大切な庭番となった。大司教が次回にやってきた時、院長は少しの懺悔(ざんげ)とまた少しの自慢とをもって、閣下にそのことを物語った。修道院を出る時大司教は、王弟の聴罪師であって後にランスの大司教となり枢機官となったド・ラティル氏に、ないしょで感心の調子でそのことをささやいた。フォーシュルヴァンに対する称賛はしだいに広まっていって、ついにローマにまで伝わった。われわれも実際一つの書簡を見たことがある。それは当時位に上っていた法王レオ十二世が、親戚の者でパリーの特派公使閣下で彼と同じくデルラ・ジェンガという名前の者に送ったものである。その中には次の数行があった。「パリーのある修道院にすぐれた庭番がいるらしい。実に聖者であって、名をフォーシュルヴァンというそうである。」けれどもそういう成功は、小屋の中のフォーシュルヴァンの耳にはまったく達しなかった。彼は相変わらず接木(つぎき)をしたり、草を取ったり、瓜畑(うりばたけ)に覆(おお)いをしてやったりして、自分のすぐれたことや聖(きよ)いことは少しも知らなかった。彼は自分の光栄については夢にも気づかなかった。あたかもダーハムやサレーの牛が、絵入りロンドン・ニュースに写真を掲げられ、有角家畜共進会において賞金を得たる牛と記入されながら、それを少しも知らないのと同じだった。

     九 隠棲(いんせい)

 コゼットは修道院でもなお沈黙を守っていた。
 コゼットはごく自然に、自分をジャン・ヴァルジャンの娘であると思い込んでいた。その上彼女は何事も知らないので何も言うことはできなかった。またよし知っていたところで、おそらく何も言わなかったであろう。前に注意しておいたとおり、不幸ほど子供を無口になすものはない。コゼットは非常に苦しんできたので、何事でも恐れていた、口をきくことや息をすることさえも恐れていた。一言口をきいたために自分の上に恐ろしい雪崩(なだれ)を招いたこともしばしばあった。そしてジャン・ヴァルジャンに引き取られてからようやく安心しだしたに過ぎなかった。彼女はじきに修道院になれてきた。ただ人形のカトリーヌを惜しんだが、あえて口に出しては言わなかった。けれども、一度彼女はジャン・ヴァルジャンに言った。「お父さん、こうなるとわかってたら、あれを持って来るんだった。」
 コゼットは修道院の寄宿生になるについて、そこの生徒服を着なければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは[#「ジャン・ヴァルジャンは」は底本では「ジャンン・ヴァルジャンは」]彼女が脱ぎ捨てた着物をもらうことができた。それはテナルディエの飲食店を出る時彼が着せてやったあの喪服だった。まだそういたんではいなかった。ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にまで、たくさんの樟脳(しょうのう)や修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、どうにか手に入れた小さな鞄(かばん)の中に納めた。そしてそれを寝台のそばの椅子(いす)の上に置いて、いつもその鍵(かぎ)を身につけていた。コゼットはある日彼に尋ねた。「お父さん、あんなにいいにおいのするあの箱は、ほんとに何なの?」
 フォーシュルヴァン爺(じい)さんは、前に述べてきたとおりの自ら知らない光栄のほかに、なおいろいろその善行の報いを得た。第一には、心に喜びを感じていた。次には、仕事が二つに分けられるのでよほど楽になった。最後に、彼は非常に煙草(たばこ)が好きだったが、マドレーヌ氏がいるために、以前よりは三倍も多く吸うことができ、しかもマドレーヌ氏が金を払ってくれるので非常にうまく味わうことができた。
 修道女らは少しもユルティムという名前を使わず、ジャン・ヴァルジャンをいつもも一人のフォーヴァンと呼んでいた。
 もしその聖(きよ)い処女たちが、多少なりとジャヴェルのような目を持っていたならば、何か庭の手入れのために用達にゆくような場合に外に出かけるのは、年取って身体がきかなくて跛者である兄のフォーシュルヴァンの方であって、決して弟の方でないことを、ついには気づくに至ったであろう。しかし、あるいは絶えず神の方へばかり目を向けていて、他のことをさぐる暇がなかったのか、あるいはお互いの身の上にのみ目をつけることに特に忙しかったのか、いずれにしても彼女らはそのことに何らの注意も払わなかった。
 その上、いつも黙っていて引っ込んでいたことは、ジャン・ヴァルジャンにはいいことだった。ジャヴェルはその一郭を一カ月以上も見張っていたのである。
 その修道院は、ジャン・ヴァルジャンにとっては深淵(しんえん)にとりまかれた小島のようなものだった。その四壁の中だけが以後彼の世界だった。そこで彼は、気をさわやかにするくらいにはじゅうぶん空を見ることができ、心を楽しませるくらいにはじゅうぶんコゼットを見ることができた。
 きわめて穏やかな生活が再び彼に初まった。
 彼はフォーシュルヴァン老人とともに庭の奥の小屋に住んでいた。その陋屋(ろうおく)は土蔵造りであって、一八四五年にはなお残っていたが、読者の既に知るとおり、三つの室(へや)から成っていて、どの室もみな裸のままの露(あら)わな壁があるばかりだった。その一番いい室は、ジャン・ヴァルジャンがこばむにもかかわらず、マドレーヌ氏へとしてフォーシュルヴァンがむりに与えてしまった。その室の壁には、膝当(ひざあて)と負籠(おいかご)とをかける二つの釘(くぎ)のほかに、飾りとして一七九三年の王家の紙幣が、暖炉の上の方に壁にはってあった。その模写は次のとおりである。(訳者注 図中の文字も念のために訳出す)
[#王家の紙幣の図、図省略]
[#ここから紙幣の文字の訳文]
  国王の名において
十リーヴル兌換券
 軍需品代として交付す
 平和確立とともに償還す
第三部 第一〇三九〇号
   ストフレー
  正教王党軍(欄外に)
[#ここで訳文終わり]
 このヴァンデアン党(訳者注 王党の一派にしてストフレーはその将軍)の紙幣は、この前の庭番が壁に鋲(びょう)で留めたものだった。彼はもと王党のものであって、修道院で死に、その後にフォーシュルヴァンがきたのだった。
 ジャン・ヴァルジャンは毎日庭で働き、大変役に立った。彼は昔枝切り人だったので、今また喜んで園丁になったのである。読者はたぶん思い起こすであろうが、彼は栽培に関するあらゆる方法と奥義とに通じていた。彼はそれを役立たした。果樹園のほとんどすべての樹木は野生のままだったが、彼はそれに接芽(つぎめ)してりっぱな果実をならした。
 コゼットは毎日一時間ずつ彼のそばで過ごすことを許されていた。修道女らは陰気であり、彼は親切であったから、子供の彼女は両方を比べてみて彼をなつかしんでいた。きまった時間がくると、彼女は小屋の方へ走ってきた。そして彼女がはいって来ると、その破家(あばらや)も楽園となるのだった。ジャン・ヴァルジャンも喜びに輝き、コゼットに与える幸福によってまた自分の幸福も増してくるのを感じた。人に与える喜悦こそは微妙なもので、すべての反映のように弱まりゆくどころか、かえっていっそう強い輝きをもってまた自分に返ってくるものである。休憩の時間になると、コゼットが遊び駆け回るのをジャン・ヴァルジャンは遠くからながめた、そして他の子供らの笑い声のうちにも彼女の笑い声を聞き分けることができた。
 というのは、今ではもうコゼットも笑い戯れるようになっていた。
 それとともに、コゼットの顔つきもある点まで変わってきた。陰鬱(いんうつ)な影もその顔から消えうせた。笑いは太陽のようなもので、人の顔から冬を追い払うものである。
 コゼットはやはりまだきれいではなかったが、それでもきわめてかわいくなってきた。そのやさしい幼い声でもっともらしい口をきいていた。
 休憩が終わって、コゼットがまた向こうにはいってゆく時、ジャン・ヴァルジャンはその教室の窓をながめ、また夜になると、立ち上がってその寝室の窓をながめた。
 もとより神は自己の道を進む。修道院はコゼットがしたように、ジャン・ヴァルジャンのうちにまかれたミリエル司教の仕事を維持し完成していった。およそ徳の一面が傲慢(ごうまん)に接することは確かである。そこに悪魔の渡した橋がある。ジャン・ヴァルジャンはおそらく自ら知らずしてその方面に、その橋に、かなり近づいていた。その時天は彼をプティー・ピクプュスの修道院に投じたのである。自分を司教にだけ比較していた間は、彼は自分の足りないのを知って謙譲であった。しかし最近になって、彼は自分を一般の人に比べはじめて、傲慢の念がきざしかかっていた。おそらくついには、漸次と人を憎む心に戻ってしまうかもわからなかったのである。
 しかるに修道院はその坂の上に彼を引き止めた。
 修道院は彼が見た第二の幽囚の場所であった。青年時代に、彼にとっては人生の初めに当たる時代に、そしてその後またつい最近に、彼はも一つの幽囚の場所を見たのだった。恐るべき場所、戦慄(せんりつ)すべき場所であった。そしてその苛酷(かこく)さは、裁判の不正と法律の罪悪とであるようにいつも彼には思えたのである。ところが今や彼は、徒刑場の次に修道院を見た。そしてかつては徒刑場の中にあったことを思い、今はいわば修道院の傍観者であることを思って、その両者を頭のうちで不安ながらも対照さしてみた。
 時としては耡(すき)の柄を杖にたのみながら、底なき夢想の螺旋(らせん)を徐々に下ってゆくこともあった。
 彼は昔の仲間を思い起こした。彼らはいかにみじめな者らであったか。夜明けに起き上がって夜まで働いていた。眠ることもろくろくできなかった。畳寝台(たたみねだい)の上に寝かされ、許されてるものはただ厚さ二寸のふとんだけで、室は大寒の候にだけしかあたためられていなかった。恐ろしい赤い獄衣を着ていた。ただ恩典としては、酷暑の折りに麻のズボンをつけ、酷寒の折りに毛織の短衣を背中に引っ掛けることだけだった。「労役」に行く時のほかは、酒も飲めず肉も食えなかった。もはや名前も持たず、ただ番号でばかり呼ばれ、言わば数字に化せられてしまって、目を伏せ、声を低め、髪を短く刈られ、棍棒(こんぼう)の下に、汚辱のうちに、彼らは生きていたのである。
 それから彼の考えは、眼前の人々の上に戻ってきた。
 それらの人々もまた、髪を短く刈られ、目を伏せ、声を低め、汚辱のうちにではないが、世間の嘲笑(ちょうしょう)のうちに、背中を棍棒によって傷つけらるることはないが、肩を苦業のために引き裂いて、生きていたのである。彼らに取ってもまた、世俗の名前はなくなっていた。おごそかな呼び名の下にしか彼らはもはや存在していなかった。決して肉を食わず、決して酒を飲まなかった。晩まで食物を取らないでいることもしばしばだった。赤い上衣は着ていないが、毛織の黒い法衣をつけ、夏は重く冬は軽いその着のままで、何物をも脱ぎ何物をも重ぬることができなかった。季節によってあるいは麻の服を着、あるいは毛の外套(がいとう)をまとう手段はもとよりなかった。毎年六カ月の間セルのシャツを着て、熱を出す者もあった。酷寒の候のみあたためる広間にではないが、決して火をたくことのない分房に住んでいた。厚さ二寸のふとんにではないが、藁(わら)の蒲団(ふとん)に寝ていた。それからよく眠ることもできなかった。毎夜、終日の労苦の後、まだ疲労の休まらぬうちに、眠ってまだ身体もよくあたたまらない頃に、目をさまし、起き上がり、凍るような暗い礼拝堂に行って、石の上に両膝(りょうひざ)をついて祈祷(きとう)するのであった。
 またある日には、それらの人々は各自順番に、十二時間引き続いて、床石(ゆかいし)の上にひざまずき、あるいは顔を床につけ腕を十字に組んで平伏しなければならなかった。
 彼方(あちら)は男たちであった。此方(こちら)は女たちであった。
 その男らは何をしてきたのであったか? 窃盗を働き、暴行を行ない、略奪し、殺害し、謀殺したのである。盗賊、詐欺師、毒殺者、放火人、殺害者、大逆人らであった。そしてその女らは何をしてきたのであったか? 何もしたのではなかった。
 一方には、強盗、密売、詐欺、暴行、猥褻(わいせつ)、殺人、あらゆる種類の冒涜(ぼうとく)、あらゆる種類の加害。そして他方には、潔白のただ一事。
 完全なる潔白! 徳によってなお地上に結ばれ、聖(きよ)さによって既に天に結ばれて、ほとんどある神秘なる昇天の域にまで高められたるもの。
 一方においては、声を潜めて互いに罪悪を語り合い、他方においては、高い声で過失を懺悔(ざんげ)する。そしてしかも、いかなる罪悪であり、またいかなる過失であることか!
 一方には毒気、他方には言うべからざる香気。一方には、世の視線をへだてられ大砲の下に閉じこめられて徐々に患者を食い荒しつつある精神的疫病。他方には、同じ竈(かまど)の中のすべての魂の清浄なる焔。彼方には暗黒、此方には影。しかも明るみに満ちた影であり、光輝に満ちた明るみである。
 いずれも奴隷制度(どれいせいど)の場所。しかし前者には、解放の可能、常に見えている法律上の限界、そしてまた脱走。後者には、終身。そして唯一の希望としては、未来の遠き末端にあって、人が死と称するあの自由の輝き。
 前者にあっては、人々は鎖によってつながれてるのみであり、後者にあっては、人々は自分の信仰によってつながれている。
 前者から出て来るものは何であるか? 大なる呪詛(じゅそ)、切歯、憎悪、自暴自棄の悪念、人類の団結に対する憤怒の叫び、天に対する嘲笑。
 後者からは何が出て来るか? 天の恵みと愛。
 しかも、かくも似寄りまたかくも異なれるそれら二つの場所において、かくも相違せる二種の人々は、同じ一事をなしているのである、すなわち贖罪(しょくざい)を。
 ジャン・ヴァルジャンは、第一の人々の贖罪、個人的贖罪、自分自身のための贖罪を、よく了解していた。しかし第二の人々の贖罪、何らの難点もなく何らの汚点もない婦人らの贖罪を、了解しなかった。そして彼は一種の戦慄(せんりつ)をもって自ら尋ねた。「何についての贖罪であるか? いかなる贖罪であるか?」
 一つの声が彼の内心で答えた。「人間の仁慈のうちで最も神聖なるもの、すなわち他人のための贖罪である。」
 ここにはすべて私見的理論を差し控えよう。われわれはただ叙述者に過ぎない。われわれはジャン・ヴァルジャンの立脚地に身を置き、彼の印象を紹介するに止めよう。
 自我脱却の崇高なる頂、およそあり得べき最高なる徳の峰を、彼は眼前にながめた。人々にその罪を許し彼らに代わってそれを贖(あがな)うの潔白。自ら罪を犯さない魂によって、つまずける魂を罪より免れしめんがために、甘んじて受けられたる奉仕と呵責(かしゃく)と苦業。神に対する愛のうちに巻き込まれたる人類愛、しかも明らかに区別されて常に哀願せる人類愛。罰せられたる者のごとき惨(みじ)めさと報いられたる者のごときほほえみとを持てるやさしき弱き女性ら。
 そして彼は、自らあえて不平をいだいたことがあったのを思い出した。
 しばしば真夜中に起き上がって彼は、苛酷なる重荷を負える潔白なる婦人らの感謝の歌に耳を傾けた。そして、正当に罰せられたる人々が天に向かって声を上ぐるのはただ呪(のろ)わんがためのみであったことを思い、惨(みじ)めにも自分もまた神に対してこぶしを差し向けたことを思って、全身の血が凍る思いをした。
 特に心を刺す一事で、あたかも親しく天のささやく告戒を聞いたかのように彼を深く夢想に沈めさした一事があった。すなわち、壁を乗り越したこと、墻壁(しょうへき)を脱したこと、生命をもとして冒険を演じたこと、困難な苦しい登攀(とはん)をやったこと、かつて他の贖罪(しょくざい)の場所から脱せんがためになしたのと同様なあらゆる努力、それを彼はこの贖罪の場所にはいらんがためになしたのであった。それは彼の運命の象徴であったのであろうか。
 この家もまた一つの牢獄であった。そして彼がのがれてきたも一つの住居と痛ましくもごく似寄っていた。それでも彼は両者同じようだとは決して思わなかった。
 彼は再び鉄門と閂(かんぬき)と鉄格子とを見た。しかもそれらはだれを守衛するためであったか? 天使たちをであった。
 かつて虎(とら)のまわりにめぐらされてるのを見た高い壁が、今は羊のまわりにめぐらされてるのを、彼は再び見た。
 それは贖罪の場所であって、懲罰の場所ではなかった。でもその場所は、より厳格であり、より陰鬱(いんうつ)であり、より無慈悲であった。童貞女らは囚人らよりもいっそうひどく身をかがめていた。寒いきびしい風、彼の青春の時代を凍らしてしまったあの風は、鉄格子(てつごうし)と手錠とで禿鷹(はげたか)の幽閉されてる墓穴の中を吹き過ぎていたが、なおいっそう酷烈悲壮なる朔風(きたかぜ)は、これらの鳩(はと)のはいってるかごの中を吹いていた。
 何ゆえに?
 それらのことを考える時に、彼のうちにあったすべてのものは、その崇厳なる神秘の前に消散してしまった。
 かかる瞑想(めいそう)のうちに、傲慢(ごうまん)の念は消えうせた。彼はあらゆる方面から自分を検覈(けんかく)してみた。彼は身の微弱なるを感じて、幾度か涙を流した。最近六カ月の間に彼の生涯(しょうがい)のうちに入りきたったすべてのものは、あの司教の聖なる命令の方へ彼を導いていった、コゼットは愛によって、修道院は謙譲によって。
 時として夕方、薄暮のころ、庭に人影もなくなったおり、礼拝堂に沿ってる道のまんなかに、はいってきたあの夜にのぞき込んだ窓の前に、贖罪(しょくざい)をなしてるあの修道女が平伏し祈祷(きとう)していた覚えの場所の方へ向いて、じっとひざまずいている彼の姿が見られた。そのようにしてあの修道女の前にひざまずきながら、彼は祈念をこらしていたのである。
 彼は直接に神の前には、あえてひざまずき得なかったかのようである。
 彼を取り巻いていたいっさいのもの、その平和なる庭、そのかおり高き草花、楽しい叫び声を上げるその子供ら、まじめな単純なその婦人ら、黙々たるその修道院、それらは徐々に彼のうちにしみ込んできた。そしてしだいに、その修道院のような沈黙と、その花のような香(かお)りと、その庭のような平和と、その婦人らのような単純さと、その子供らのような喜悦とで、彼の心は作らるるに至った。それからまた彼は、生涯の二つの危機に際して相次いで自分を迎え取ってくれたものは、二つの神の住居であったことを考えた。第一のものは、すべての戸がとざされ人間社会から拒まれた時に彼を迎えてくれ、第二のものは、人間社会から再び追跡され徒刑場が再び口を開いた時に彼を迎えてくれた。第一のものがなかったならば、彼は再び罪悪のうちに陥っていたであろう。また第二のものがなかったならば、彼は再び苦難のうちに陥っていたであろう。
 彼の全心は感謝のうちに溶け去り、そして彼はますます愛の念を深くした。
 幾年かがかくして過ぎ去った。コゼットもしだいに生長していた。




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