レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「一心に逃げようとする者は、咳や嚔はしないものだ。」
 そしてジャン・ヴァルジャンはつけ加えた。
「フォーシュルヴァンさん、決心しなければならないんだ、ここでつかまるか、棺車で出るか、二つに一つを。」
 少し開きかけてる扉(とびら)の間に猫(ねこ)が止まって躊躇(ちゅうちょ)する癖のあるのを、だれでも認めることがあるだろう。早くおはいりよ! とだれでも言わない者はあるまい。それと同じく人間のうちにも、前に一事件が半ば口を開いている時、運命のため突然その口が閉ざされて身をつぶされる危険をも顧みずに、二つの決断の間に迷ってたたずむ傾向を持った人がいるものである。あまりに用心深い者は、猫のようであるにかかわらず、また猫のようであるがために、時とすると大胆な者よりかえって多くの危険に身をさらすに至る。フォーシュルヴァンはそういう狐疑的(こぎてき)な性質であった。けれどもジャン・ヴァルジャンの冷静は、ついに彼を納得さした。彼はつぶやいた。
「実のところ、ほかに方法もありませんからな。」
 ジャン・ヴァルジャンは言った。
「ただ心配なのは、墓地でどういうことになるかだ。」
「そのことなら私が心得ています。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。「棺から出ることをあなたが受け合いなさるなら、あなたを墓穴から引き出すことは私が受け合います。墓掘りの男は、私の知ってる者のうちでの大酒飲みです。メティエンヌ爺(じい)さんといって、もう老耄(おいぼれ)です。その墓掘りは墓穴の中に死人を入れますが、私は彼を自分のポケットの中にまるめ込んでやります。こういうふうにいたしましょう。薄暗くなる前に、墓地の門がしまる四五十分前に、向こうに行きつくでしょう。棺車は墓穴の所まで進んでゆきます。私がついてゆきます。私の仕事ですから、ポケットの中に金槌(かなづち)と鑿(たがね)と釘抜(くぎぬ)きとを入れて置きます。棺車が止まって、人夫どもがあなたの棺を繩でゆわえて、穴におろします。牧師が祈祷(きとう)をとなえ、十字を切り、聖水をまき、そして行ってしまいます。私はメティエンヌ爺さんと二人きりになります。まったく私とは懇意なんです。彼は酔っぱらってるか、いないか、どちらかです。もし酔っぱらっていなかったら、言ってやりましょう、ボン・コアンの家がしまらないうちに一杯引っかけてこようや。私は彼を引っ張っていって酔っぱらわせます。メティエンヌ爺さんを酔っぱらわすには造作はありません。いつでもいいかげん酔っていますから。私は彼をテーブルの下に寝かし、墓地にはいる札を取り上げてしまって、一人で帰ってきます。そうすればもう私一人きりいないというわけになるんです。もし彼が初めから酔っぱらっていたら言ってやります。もう帰っていいや、私がお前の分もしてやるから。そう言えば彼は帰っていきます。そして私はあなたを穴から引き出してあげましょう。」
 ジャン・ヴァルジャンは彼に手を差し出した。フォーシュルヴァンはいかにも質朴な田舎者(いなかもの)の感動をもって急いでそれを握りしめた。
「それできまった、フォーシュルヴァンさん。万事うまくゆくだろう。」
「何かくい違いさえしなければ。」とフォーシュルヴァンは考えた。「もし大変なことにでもなったら!」

     五 大酒のみにては不死の霊薬たらず

 翌日太陽が西に傾いたころ、メーヌ大通りのまばらな行ききの者は、頭蓋骨(ずがいこつ)や脛骨(けいこつ)や涙などの描いてある古風な棺車の通行に対して、みな帽子をぬいだ。棺車の中には、白いラシャに覆われた柩(ひつぎ)があって、両腕をひろげた大きな死人のような黒い太い十字架が上に横たえてあった。喪布を張った幌馬車(ほろばしゃ)が一つそのあとに続いて、白い法衣を着た一人の牧師と、赤い帽子をかぶった歌唱の一人の子供とが乗ってるのが見えた。黒い袖口(そでぐち)のついた鼠色(ねずみいろ)の制服を着ている二人の葬儀人夫が、棺車の左右に従っていた。その後ろに、労働者のような服装をした跛者の老人がついていた。その行列はヴォージラールの墓地の方へ進んでいった。
 老人のポケットから、金槌(かなづち)の柄や鋭利な鑿(たがね)の刃や釘抜(くぎぬ)きの二つの角などがはみ出ていた。
 ヴォージラールの墓地は、パリーの墓地のうちで例外のものとなっていた。それは特別の用に供されていて、したがって正門と中門とがあり、その一郭で古い言葉を守ってる老人どもはそれを、騎馬門と徒歩門(かちもん)と呼んでいた。前に述べたとおり、プティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクト修道女らは、昔彼女らの組合の所有地だったその墓地の特別な片隅(かたすみ)に夕方埋葬さるることが許されていた。それで墓掘り人らは、夏には日暮れに冬には夜に墓地の仕事を持っていたので、特殊な規則が設けられていた。パリーの墓地の門は、当時、日没と共にとざされることになっていて、それが市の制度の一つとなっていたので、ヴォージラールの墓地もそれに従っていた。騎馬門と徒歩門とはその鉄格子(てつごうし)が続いていて、そばに一つの小屋があった。ペロンネという建築者が建てたもので、墓地の門番が住んでいた。でそれらの鉄格子の門は、癈兵院の丸屋根の向こうに太陽が沈む時に必ずしめられた。もしその時墓地の中におくれた墓掘り人がいても、葬儀係りの役人から交付された墓掘り人の札によって出ることができた。郵便箱のようなものが、門番の窓の板戸の中についていた。墓掘り人がその箱の中に自分の札を投げ込むと、門番はその音をきいて、綱を引き、徒歩門を開いてくれた。もし札を持っていない時には、墓掘り人は自分の名を名乗ると、もう床(とこ)について眠ってることがよくある門番は、起きてきて、顔をよく見定めて、それから鍵(かぎ)で門を開いてくれた。そして墓掘り人は出られたが、十五フランの罰金を払わねばならなかった。
 このヴォージラールの墓地は、規則外のその特殊な点で、取り締まり上の統一を乱していた。そして一八三〇年後、間もなく廃せられてしまった。東の墓地といわれるモンパルナスの墓地がそのあとを継いで、それからまたその墓地に半ば属していた有名な居酒屋をも承(う)け継いだ。その居酒屋の上には木瓜(ぼけ)の実を描いた板が出ていて、ボン・コアン屋(上等木瓜屋)という看板で、酒場の食卓と墓石との間を仕切っていた。
 ヴォージラールの墓地は、しおれた墓地ともいえるような趣があって、もう衰微していた。苔(こけ)がいっぱいはえて、花はなくなっていた。中流人はそこに埋めらるることをあまり好まなかった。貧民のような気がしたからである。ペール・ラシェーズの墓地の方は上等だった。ペール・ラシェーズに埋まることは、マホガニーの道具を備えるようなもので、高雅に思われたのである。ヴォージラールの墓地はものさびた場所で、フランス式の古い庭園のようなふうに木が植わっていた。まっすぐな道、黄楊樹、柏(かしわ)、柊(ひいらぎ)、水松(いちい)の古木の下の古墳、高い雑草。夕方などはいかにも物寂しく、きわめてわびしい物の輪郭が見られた。
 白いラシャと黒い十字架との棺車がヴォージラールの墓地の並み木道にさしかかってきた時、太陽はまだ没していなかった。棺車の後に従ってる跛者の老人は、フォーシュルヴァンにほかならなかった。
 祭壇の下の窖(あなぐら)へクリュシフィクシオン長老を葬ること、コゼットを連れ出すこと、ジャン・ヴァルジャンを死人の室(へや)に導くこと、それらはみな無事に行なわれて、何の故障も起こらなかった。
 ついでに一言するが、修道院の祭壇の下にクリュシフィクシオン長老を葬ったことは、われわれに言わすればきわめて軽微な罪にすぎない。それは一種の務めともいうべきたぐいの過ちである。修道女らは何らの不安なしにばかりでなく、また本心の満足をもってそれを行なったのである。修道院にとっては、「政府」と称するところのものは権威に対する一干渉にすぎず、常に議論の余地ある干渉にすぎない。第一は教規である。法典などはどうでもよろしい。人間よ、欲するままに法律を定むるがよい、しかしそれは汝ら自身のためにのみとどめよ。シーザーへの貢物(みつぎもの)は、常に神への貢物の残りに過ぎない。王侯といえども教義の前には何らの力をも持たないのである。
 フォーシュルヴァンは跛を引きながら、いたって満足げに棺車のあとについていった。彼の二つの秘密、彼の二重の策略、一つは修道女らとはかったこと、他はマドレーヌ氏とはかったこと、一つは修道院のためのもの、他は修道院に反するもの、その二つは同時に成功したのである。ジャン・ヴァルジャンの落ち着きは、周囲の者をも巻き込むほど力強いものだった。フォーシュルヴァンはもう成功を疑わなかった。残りの仕事は何でもないものだった。人のいい肥(ふと)っ面(つら)の墓掘り爺(じい)メティエンヌを、彼はこの二年ばかりの間に十ぺんくらいは酔っぱらわしたことがあった。彼はメティエンヌをもてあそび、掌中にまるめこみ、自分の欲するままに取り扱った。メティエンヌの頭はいつもフォーシュルヴァンのかぶせる帽子のとおりになった。それで今フォーシュルヴァンはまったく安心しきっていた。
 墓地へ通ずる並み木道に行列がさしかかった時、うれしげなフォーシュルヴァンは棺車をながめ、大きな両手をもみ合わせながら半ば口の中で言った。
「なんという狂言だ!」
 突然棺車は止まった。門のところについたのである。埋葬認可書を示さなければならなかった。葬儀人は墓地の門番に会った。その相談はたいてい一、二分の手間をとるのだったが、その間に、一人の見なれない男がやってきて、棺車のうしろにフォーシュルヴァンと並んだ。労働者らしい男で、大きなポケットのついた上衣を着て、小脇(こわき)に鶴嘴(つるはし)を持っていた。
 フォーシュルヴァンはその見知らぬ男をながめた。
「お前さんは何だね。」と彼は尋ねた。
 男は答えた。
「墓掘りだよ。」
 胸のまんなかを大砲の弾(たま)で貫かれてなお生きてる者があるとしたら、おそらくその時のフォーシュルヴァンのような顔つきをするだろう。
「墓掘り人だと!」
「そうだ。」
「お前さんが!」
「俺(おれ)がよ。」
「墓掘り人はメティエンヌ爺(じい)さんだ。」
「そうだった。」
「なに、そうだったって?」
「爺さんは死んだよ。」
 フォーシュルヴァンは何でも期待してはいたが、これはまた意外で、墓掘り人が死のうなどとは思いもよらなかった。しかしそれはほんとうである。墓掘り人だからとて死なないとは限らない。他人の墓穴を掘ることによって人はまた自分の墓穴をも掘る。
 フォーシュルヴァンはぽかんとしてしまった。ようやくにして、これだけのことを口ごもった。
「そんなことがあるだろうか。」
「そうなんだよ。」
「だが、」と彼は弱々しく言った、「墓掘り人はメティエンヌ爺(じい)さんだがな。」
「ナポレオンの後にはルイ十八世が出で、メティエンヌの後にはグリビエが出る。おい、俺(おれ)の名はグリビエというんだ。」
 フォーシュルヴァンはまっさおになって、そのグリビエをながめた。
 背の高いやせた色の青い男で、まったく葬儀にふさわしい男だった。あたかも医者に失敗して墓掘り人となった形だった。
 フォーシュルヴァンは笑い出した。
「ああ、何て変なことが起こるもんかな! メティエンヌ爺さんが死んだって! メティエンヌじいさんは死んだが、小ちゃなルノアール爺さんは生きてる。お前さんは小ちゃなルノアール爺さんを知ってるかね。一杯六スーのまっかな葡萄酒(やつ)がはいってる壜(びん)だよ。スュレーヌの壜だ。ほんとうによ、パリーの本物のスュレーヌだ。ああメティエンヌ爺さんが死んだって。かわいそうなことをした。おもしろい爺さんだったよ。だがお前さんも、おもしろい人だね。おいそうじゃないかい。一杯飲みにゆこうじゃないかね、これからすぐに。」
 男は答えた。「俺は学問をしたんだ。第四級まで卒(お)えたんだ。酒は飲まない。」
 棺車は動き出して、墓地の大きな道を進んでいった。
 フォーシュルヴァンは足をゆるめた。その跛は、今では不具のためよりも心配のための方が多かった。
 墓掘り人は彼の先に立って歩いていた。
 フォーシュルヴァンは、も一度その待ち設けないグリビエの様子をながめた。
 若いが非常に老(ふ)けて見え、やせてはいるがごく強い、そういう種類の男だった。
「おい。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 男はふり返った。
「私は修道院の墓掘り人だよ。」
「仲間だね。」と男は言った。
 学問はないがごく機敏なフォーシュルヴァンは、話の上手な恐るべき相手であることを見てとった。
 彼はつぶやいた。
「それではメティエンヌ爺(じい)さんは死んだんだね。」
 男は答えた。
「そうだとも。神様はその満期の手帳をくってみられたんだ。するとメティエンヌ爺さんの番だった。で爺さんは死んだのさ。」
 フォーシュルヴァンは機械的にくり返した。
「神様が……。」
「神様だ。」と男はきっぱり言い放った。「哲学者に言わせると永劫(えいごう)の父で、ジャコバン党に言わせると最高の存在だ。」
「ひとつ近づきになろうじゃないかね。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「もう近づきになってるよ。君は田舎者(いなかもの)で、俺(おれ)はパリーっ児だ。」
「だがいっしょに酌(く)みかわさないうちはへだてが取れないからな。杯をあける者は心を打ち明けるというものだ。いっしょに飲みにこないかね。断わるもんじゃないよ。」
「仕事が先だ。」
 これはとうていだめだ、とフォーシュルヴァンは考えた。
 修道女らの埋まる片すみにゆく小道にはいるには、もう数回車輪が回るだけだった。
 墓掘り人は言った。
「おい君、俺(おれ)は七人の子供を養わなけりゃならないんだ。奴(やつ)らが食わなけりゃならないからして、俺は酒を飲んじゃおれないんだ。」
 そして彼は、まじめな男が名句を吐く時のような満足さでつけ加えた。
「子供らの空腹は俺の渇(かわ)きの敵さ。」
 棺車は一群の糸杉の木立ちを回って、大きな道を去り、小道をたどり、荒地にはいり、茂みの中に進んでいった。それはもうすぐに埋葬地に着くことを示すものだった。フォーシュルヴァンは足をゆるめた。しかし棺車の進みを遅らすことはできなかった。幸いにも地面は柔らかで、かつ冬の雨にぬれていたので、車の輪にからんでその進みを重くした。
 彼は墓掘り人に近寄った。
「アルジャントゥイュの素敵な酒があるんだがな。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「君、」と男は言った、「俺はいったい墓掘り人なんかになる身分ではないんだ。親父(おやじ)は幼年学校の門衛だった。そして俺に文学をやらせようとした。ところが運が悪かった。親父は相場で損をした。そこで俺は文人たることをやめなければならなかったんだ。それでもまだ代書人はしてるよ。」
「ではお前さんは墓掘り人ではないんだね。」とフォーシュルヴァンは言った。弱くはあったがその一枝を頼りとしてつかまえたのである。
「両方できないことはないさ。兼任してるんだ。」
 フォーシュルヴァンはその終わりの一語がわからなかった。
「飲みにゆこうじゃないか。」と彼は言った。
 ここに一言注意しておく必要がある。フォーシュルヴァンは気が気ではなかったが、とにかく酒を飲もうと言い出したのである。しかしだれが金を払うかという一点については、はっきりさしてはいなかった。いつもはフォーシュルヴァンが言い出して、メティエンヌ爺(じい)さんが金を払った。一杯やろうという提議は、新しい墓掘り人がきたという新たな事情から自然に出て来ることで、当然のことではあったが、しかし老庭番は、下心(したごころ)なしにでもなかったが、いわゆるラブレーの十五分間(訳者注 飲食の払いをしなければならない不愉快な時)をあいまいにしておいた。ひどく心配はしていたが、進んで金を払おうという気にはなっていなかった。
 墓掘り人は優者らしい微笑を浮かべながら言い進んだ。
「食わなければならないからね。それで俺はメティエンヌ爺さんのあとを引き受けたのさ。まあ一通り学問をすれば、もう哲学者だ。手の働きをしてる上に俺は頭の働きをもしてるんだ。セーヴル街の市場に代書人の店を持っている。君はパラプリュイの市場を知ってるかね。クロア・ルージュの料理女どもは皆俺の所へ頼みに来る。俺はその色男どもへ贈る手紙を書いてやるんだ。朝にはやさしい恋文を書き、夕になれば墓穴を掘る。ねえ、そういうのが世の中さ。」
 棺車は進んでいた。フォーシュルヴァンは心痛の頂上に達して四方を見回した。汗の大きな玉が額から流れた。
「だが、」と墓掘り人はなお続けた、「二人の主人には仕えることができないものだ。俺(おれ)もペンと鶴嘴(つるはし)といずれかを選ぶべきだ。鶴嘴は物を書く手を痛めるからね。」
 棺車は止まった。
 歌唱の子供が喪の馬車からおり、次に牧師もおりた。
 棺車の小さな前の車輪の一つは、うずたかい土の上に少し上がっていた。その向こうに口を開いてる墓穴が見えていた。
「なんて狂言だ!」とフォーシュルヴァンは唖然(あぜん)としてくり返した。

     六 四枚の板の中

 棺の中にいたのはだれであるか? 読者の知るとおり、ジャン・ヴァルジャンであった。
 ジャン・ヴァルジャンはその中で生きておれるだけの準備をしておいた、そしてわずかに呼吸をしていた。
 本心の安静がいかにその他のいっさいのものの安静をもたらすかは、実に不思議なほどである。ジャン・ヴァルジャンが考えた計画は、前日来着々としてつごうよく進んでいた。そして彼はフォーシュルヴァンと同じくメティエンヌ爺(じい)さんを当(あて)にしていた。彼は最後の成功を疑わなかった。これほど危険な状態でしかもこれほど完全な安心は、かつて見られないことだった。
 柩(ひつぎ)の四方の板からは、恐ろしい平安の気が発していた。死人の休息に似たある物が、ジャン・ヴァルジャンの落ち着きのうちにはいって来るかのようだった。
 棺の底から彼は、死と戯れてる恐るべき芝居の各部分をたどることができ、また実際たどっていた。
 フォーシュルヴァンが上の板に釘(くぎ)を打ち終わってから間もなく、ジャン・ヴァルジャンは持ち出されるのを感じ、次に馬車で運ばれるのを感じた。動揺の少なくなったことで、舗石(しきいし)から堅い地面へ出たことを、すなわち街路を通りすぎて大通りにさしかかったことを感じた。重々しい響きで、オーステルリッツ橋を渡ったことを察した。初めちょっと止まったことで、墓地にはいったことを知った。二度目に止まった時、もう墓穴だなと彼は思った。
 突然人の手が棺をとらえたことを彼は感じた。それから棺板の上をこするがさがさした音を感じた。棺を穴の中におろすためにまわりを繩(なわ)でゆわえてるのだと彼は察した。
 それから彼は目が廻るような気がした。
 たぶん人夫どもと墓掘り人とが棺をぐらつかして足より頭を先にしておろしたのであろう。そして程なくまた水平になって動かなくなった時、彼は初めてすっかり我に返ることができた。穴の底に達したのである。
 彼はさすがに一種の戦慄(せんりつ)を覚えた。
 冷ややかでおごそかな一つの声が上の方で起こった。自分にわからないラテン語の言葉が、その一語一語とらえらるるくらいゆっくりと響いて来るのを彼は聞いた。
「塵(ちり)のうちに眠る者ら、やがて目ざむるに至らん、ある者は永遠の生命に、またある者は汚辱に。常に(訳者補 まことを)見んがためなればなり。」
 一つの子供の声が言った。
「深き淵より。(訳者補 主よ我は爾を呼ばわりぬ)」
 重々しい声がまた初めた。
「主よ彼に永遠の休息(やすらい)を与えたまえ。」
 子供の声が答えた。
「恒(つね)なる光は彼に輝かんことを。」
 その時彼は身をおおうている板の上に、雨だれのような静かな音を聞いた。たぶんそれは聖水だったのだろう。
 彼は考えた。「もうすぐに終わるだろう。も少しの[#「も少しの」は底本では「もし少しの」]辛抱だ。牧師が立ち去る、フォーシュルヴァンはメティエンヌを飲みに引っ張ってゆく、自分は一人になる。それからフォーシュルヴァンが一人で帰ってくる。そして自分は穴から出る。も少しの間だ。」
 重々しい声が言った。
「安らかに憩(いこ)わんことを。」
 そして子供の声が言った。
「アーメン。」
 ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてながら、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのを知った。
「皆立ち去ってゆくのだな。」と彼は考えた。「もう自分一人だ。」
 するとたちまち頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音が聞こえた。
 それは一すくいの土が棺の上に落ちた音だった。
 次にまた一すくいの土が落ちてきた。
 彼が息をしていた穴の一つは、そのためにふさがってしまった。
 第三の士が落ちてきた。
 次に第四の土が。
 いかに強い男にとっても、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。

     七 札をなくすなという言葉の起原

 ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。
 棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある□(くわ)を手に取るのを見た。
 その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。
 彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。
「金は私(わし)が払う。」
 墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。
「何のことだよ?」
 フォーシュルヴァンは繰り返した。
「金は私が払う。」
「何さ?」
「酒だよ。」
「何の酒だ?」
「アルジャントゥイュだ。」
「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」
「ボン・コアンの家(うち)にある。」
「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。
 そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。
 棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉(のど)をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。
「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」
 墓掘り人はまた□(くわ)で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。
「私が払う。」
 そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」
 そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」
「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」
 そして彼は□(くわ)を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。
「六スーのアルジャントゥイュだよ。」
「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞(かねつ)きみたいな奴(やつ)だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」
 そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。
 フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。
「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」
「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。
 彼は第三の一すくいをほうり込んだ。
 それから彼はまた□を土の中に突き入れてつけ加えた。
「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」
 その時墓掘り人は□で土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。
 フォーシュルヴァンの茫然(ぼうぜん)とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。
 太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。
 ピカルディーの田舎者(いなかもの)の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳(ひとみ)をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
 墓掘り人が□(くわ)で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。
 墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。
 彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。
「時にお前さんは、札を持ってるかね。」
 墓掘り人はちょっと手を休めた。
「何の札だ?」
「日が入りかかってるよ。」
「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」
「墓地の門がしまるよ。」
「だから?」
「札は持ってるかと言うんだ。」
「ああ俺(おれ)の札か!」と墓掘り人は言った。
 そしてポケットをさぐった。
 一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。
「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」
「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。
「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」
「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は□(くわ)を取り落とした。
 こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。
「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸(ふるだぬき)だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」
「そうだ。」と墓掘り人は答えた。
「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」
「そのとおりだ。」
「そうすれば十五フランの罰金だ。」
「十五フラン。」
「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」
「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」
「そうだ。」
「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸(しがい)を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」
「それで俺(おれ)は助かる。」
「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。
 墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴の方へ身をかがめて、低い声で言った。
「マドレーヌさん!」
 何の答えもなかった。
 フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴の中におりるというよりも、むしろころげ込んで、棺の頭の方に身をなげかけ、そして叫んだ。
「そこにおいでですか。」
 棺の中はひっそりとしていた。
 フォーシュルヴァンは震え上がって息もつけなかったが、それでも鋭利な鑿(たがね)と金槌(かなづち)とを取って、上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗い中に見えたが、目は閉じ、色は青ざめていた。
 フォーシュルヴァンの髪の毛は逆立った。彼はまっすぐに立ち上がり、それから穴の壁にもたれかかり、気を失って棺の上に倒れんばかりになった。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。
 ジャン・ヴァルジャンは色を失って身動きもしないで、そこに横たわっていた。
 フォーシュルヴァンは息ばかりのような弱い声でつぶやいた。
「死んでいなさる!」
 それから立ち直って、両の拳(こぶし)が肩に激しくぶっつかったほど急に両腕を組んで、叫んだ。
「助けてあげたのがこんなことに!」
 そしてあわれな老人はむせび泣きながら、独語をはじめた。独語は自然のうちにないものだと思うのは誤りである、心の激しい動乱はしばしば高い声で語り出す。
「メティエンヌ爺(じい)さんが悪いんだ。あの爺(じじい)め、なぜ死んだんだ。思いも寄らない時にくたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴(やつ)だ。マドレーヌさん! ああ棺の中にはいっていなさる。もう逝(い)ってしまわれた。もうだめだ。――いったいこれは何て訳のわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さん、あれをどうしたもんだろう。果物屋(くだものや)の上(かみ)さんは何と言うだろう。こんな方がこんなふうに死なれる、そんなことがあるもんだろうか。私の車の下に身を投げ入れて下さった時のことを思うと! マドレーヌさん、マドレーヌさん! 息がつまったんだ。私の言ったとおりだ。私の言うことを聞きなさらなかったからだ。まあ何という悪戯(いたずら)だ! 死になすった、あのりっぱな方が、善人のうちでも一番善人の方が! そしてあの娘さん! 第一私はもうあそこへは帰られん。ここにこのままいよう。こんなことをしでかしてさ! 年寄りが二人いてこんなばかをやるって法があるもんか。だが第一、あの方はどうして修道院の中へはいりなすったんだろう。それがそもそも事の初まりだ。あんなことはするもんじゃない。マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌ、マドレーヌ様、市長様! 私の言うことも聞こえないんだ。さあ何とかして下さらなけりゃ!」
 そして彼は髪の毛をかきむしった。
 遠く木立ちの中に、物のきしる鋭い音が聞こえた。墓地の鉄門がしまる音だった。
 フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははね上がって、墓穴の中でできるだけあとにしざった。ジャン・ヴァルジャンは目を開いて、彼をじっと見つめていた。
 死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生を見るのも同じくらい恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはその極度の感動に、度を失い、荒々しくなり、まっさおになり、石のようになって、生者に対してるのか死人に対してるのかも自らわからず、自分の方を見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔を見入った。
「私は眠ってしまった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 そして彼は半身を起こした。
 フォーシュルヴァンはひざまずいた。
「あああ! ほんとにたまげてしまった。」
 それから彼は立ち上がって叫んだ。
「ありがたい! マドレーヌさん。」
 ジャン・ヴァルジャンは気絶していたにすぎなかった。外の空気が彼をさましたのである。
 喜悦は恐怖の裏である。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンと同じくらいに我に返るのには骨が折れた。
「死になすったのではなかったんだな! ほんとにあなたは人が悪い。生き返ってきなさるようにどんなにか呼んだんですよ。あなたが目を閉じていなさるのを見て、ああ息がつまったんだなと思いましたよ。私はほんとに気が気でなかった。まったくの気違いになりそうでしたよ。ビセートルの癲狂院(てんきょういん)にでも入れられたかも知れませんよ。あなたが死なれたら、私はどうなると思います? そしてあなたの娘さんは! 果物屋(くだものや)の上さんは訳がわからなくなるでしょう。子供を預けておいて、そして祖父(おじい)さんが死んでしまう。まあなんて話なんでしょう。ほんとになんてことでしょう。ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたいことだ。」
「私は寒い。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 その一言でフォーシュルヴァンはすっかり現実に呼び戻された。事情は切迫していた。二人の者は我に返ってからも、なぜともわからず心が乱れていた。そして彼らのうちには、その陰惨な場所のためにある言い知れぬ感情が起こっていた。
「早くここを出ましょう。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 彼はポケットの中をさぐって、用意していた壜(びん)を取り出した。
「だがまあ一口おやりなさい。」と彼は言った。
 外気に次いでその壜(びん)がすべてをよくなした。ジャン・ヴァルジャンは火酒を一口のんで、すっかり元気になった。
 彼は棺から出た。そしてフォーシュルヴァンに手伝って再びその蓋(ふた)を打ちつけた。
 二、三分後には、二人とも墓穴の外に出ていた。
 それにまたフォーシュルヴァンも落ち着いていた。彼はゆっくり構えた。墓地はしまっている。墓掘り人グリビエが来る気づかいはない。その「新参者」は家にいて札をさがし回ってる。そして札はフォーシュルヴァンのポケットの中にあるから、家で見つかるわけはない。札がなければ墓地の中に戻って来ることはできないのだ。
 フォーシュルヴァンは□(くわ)を取り、ジャン・ヴァルジャンは鶴嘴(つるはし)を取り、二人して空棺を埋めた。
 墓穴がいっぱいになった時、フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに言った。
「さあ行きましょう。私は□を持ちますから、あなたは鶴嘴をお持ちなさい。」
 日は暮れていた。
 ジャン・ヴァルジャンは動き回ったり歩いたりするのに少し苦しかった。棺の中で彼は身体を硬(こわ)ばらし、いくらか死体のようになっていた。その四枚の板の中で、死の関節不随にとらわれていた。いわば墓の中から脱け出さなければならなかった。
「あなたはしびれていなさる。」とフォーシュルヴァンは言った。「それに私まで跛者ときています。そうでなけりゃもっと早く歩けますがな。」
「なあに、」とジャン・ヴァルジャンは答えた、「少しゆけば私の足はよくなるよ。」
 彼らは棺車の通った道から立ち去っていった。しまった鉄門と門番の小屋との前まできた時、墓掘り人の札を手に持っていたフォーシュルヴァンは、その札を箱の中に投げ込んだ。すると門番は綱を引き、門が開き、二人は外に出た。
「すっかりうまくいった!」とフォーシュルヴァンは言った。「あなたの考えは実にえらいもんだ、マドレーヌさん。」
 彼らはヴォージラールの市門を、ごく平気で通りすぎた。墓地の付近では、□(くわ)と鶴嘴(つるはし)とはいずれも通行券と同様である。
 ヴォージラール街には人影もなかった。
「マドレーヌさん、」とフォーシュルヴァンは歩きながら人家の方を見上げて言った、「あなたは私より目がいい。八十七番地というのを見て下さい。」
「ちょうどここがそうだよ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「往来にはだれもいません。」とフォーシュルヴァンは言った。「鶴嘴を私に下さい、そしてちょっと待っていて下さい。」
 フォーシュルヴァンは八十七番地の家にはいってゆき、いつも貧乏のために屋根裏にばかり行く本能から、ずっと上まで上っていって、ある屋根部屋の扉(とびら)を暗闇(くらやみ)の中にたたいた。中からだれか答えた。
「おはいり。」
 それはグリビエの声だった。
 フォーシュルヴァンは扉を押し開いた。墓掘り人の住居は、あわれな人たちの住居にいつも見るように、道具がなくてしかも取り散らかした屋根裏だった。荷造り用の箱みたいなものが――おそらく棺かも知れないが――戸棚(とだな)の代わりになっており、バタの壺(つぼ)が水桶(みずおけ)の代わりとなり、一枚の藁蒲団(わらぶとん)が寝床となり、床板(ゆかいた)がそのまま椅子(いす)ともテーブルともなっていた。片すみには、古い一片の絨毯(じゅうたん)のぼろの上に、やせた一人の女と大勢の子供とが一かたまりになっていた。そのあわれな部屋の中には、すべてかき回された跡が残っていて、一挙に地震でもきたようなありさまだった。物の蓋(ふた)は取りのけられ、ぼろはまき散らされ、壜(びん)はこわされ、母親は泣いた様子であり、子供らはたぶんなぐられたのであろう。すべて、いら立ち熱中した穿鑿(せんさく)の跡が見えていた。言うまでもなく、墓掘り人は狂気のようになって札をさがし回り、そして女房から壜に至るまで室の中のあらゆるものに紛失の責を負わしたのである。彼はもう自暴自棄の様子をしていた。
 しかしフォーシュルヴァンは早く事件の結末ばかりを急いでいて、成功のその悲しい半面を目にも止めなかった。
 彼は中にはいって言った。
「お前さんの鶴嘴(つるはし)と□(くわ)を持ってきたよ。」
 グリビエは呆然(ぼうぜん)として彼をながめた。
「ああ君か。」
「そして明日(あす)の朝、墓地の門番の所へ行ってみなさい、お前さんの札があるから。」
 彼は□と鶴嘴とを下に置いた。
「いったいどうしたと言うんだ。」とグリビエは尋ねた。
「なあに、お前さんはポケットから札を落としたのさ。お前さんが行ってしまってから、地面に落ちてるのを私は見つけたんだ。死骸(しがい)は埋めるし、墓穴はいっぱいにするし、お前さんの仕事はすっかりしておいた。札は門番が返してくれるだろう。十五フラン払わんでもいいよ。わかったかね。」
「そいつあありがたい!」とおどり上がってグリビエは叫んだ。「こんどは、俺(おれ)が酒の代を払うよ。」(訳者注 章題の札をなくすなとは狼狽するなという意味にもなる)

     八 審問の及第

 それから一時間の後、まっくらな夜の中を、二人の男と一人の子供とが、ピクプュス小路の六十二番地に現われた。年取った方の男が槌(つち)を取り上げて、呼鐘をたたいた。
 その三人は、フォーシュルヴァンとジャン・ヴァルジャンとコゼットであった。
 二人の老人は、前日フォーシュルヴァンがコゼットを預けておいたシュマン・ヴェール街の果物屋(くだものや)へ行って、コゼットを連れてきたのである。その二十四時間の間を、コゼットは訳がわからず、黙って震えながら過ごした。恐れおののいて、涙さえも出なかった。物も食べなければ、眠りもしなかった。正直なお上さんはいろいろ尋ねてみたが、ただいつも同じような陰鬱(いんうつ)な目つきで見返されるだけで、何の答えも得られなかった。コゼットは二日間に見たり聞いたりしたことについては、何一つもらさなかった。今は大事な場合であることを彼女は察していた。「おとなしくして」いなければならないと深く感じていた。恐怖に駆られている小さい者の耳に、一種特別の調子で言われた「何にも言ってはいけない」という短い言葉の絶大な力は、だれしもみな経験したところであろう。恐怖は一つの沈黙である。その上、子供ほどよく秘密を守る者はない。
 けれどもただ、その悲しい二十四時間がすぎ去って、再びジャン・ヴァルジャンの姿を見た時、彼女は非常な喜びの声を上げたので、もし考え深い者がそれを聞いたら、ある深淵(しんえん)から出てきたものであることを察知したかも知れない。
 フォーシュルヴァンは修道院の者で、通行の合い言葉を知っていた。それによってどの扉(とびら)も開かれた。
 そういうふうにして、出てまたはいるという二重の困難な問題は解決された。
 前から旨を含められていた門番は、中庭から外庭に通ずる小さな通用門をあけてくれた。その門は今から二十年前までなお、正門と向かい合った中庭の奥の壁の中に、街路から見えていた。門番は三人をその門から導き入れた。そこから彼らは、前日フォーシュルヴァンが院長の命令を受けた特別の中の応接室にはいっていった。
 院長は手に大念珠を持って、彼らを待っていた。一人の声の母が、面紗(かおぎぬ)を深く引き下げて、そのそばに立っていた。かすかな蝋燭(ろうそく)の火が一つともっていて、ほとんど申しわけだけに応接室を照らしていた。
 修道院長はジャン・ヴァルジャンの様子を検閲した。目を伏せて見調べるくらいよくわかることはないとみえる。
 それから彼女は彼に尋ねた。
「弟というのはお前ですか。」
「はい長老様。」とフォーシュルヴァンが答えた。
「何という名前ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「ユルティム・フォーシュルヴァンと申します。」
 彼は実際、既に死んではいたがユルティムという弟を持っていた。
「生まれはどこですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「アミアンの近くのピキニーでございます。」
「年は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「五十歳でございます。」
「職業は?」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「園丁でございます。」
「りっぱなキリスト信者ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「家族の者残らずがそうでございます。」
「この娘はお前のですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「はい長老様。」
「お前がその父親ですか。」
 フォーシュルヴァンが答えた。
「祖父でございます。」
 声の母は院長に低い声で言った。
「りっぱに答えますね。」
 ジャン・ヴァルジャンはひとことも口をきかなかったのである。
 院長は注意深くコゼットをながめた。そして声の母に低い声で言った。
「醜い娘になるでしょう。」
 二人の長老は、応接室の隅(すみ)でしばらくごく低い声で話し合った。それから院長はふり向いて言った。
「フォーヴァン爺(じい)さん、鈴のついた膝当(ひざあて)をも一つこしらえなさい。これから二ついりますからね。」
 果してその翌日、庭には二つの鈴の音が聞こえた。修道女たちは我慢しきれないで、面紗(かおぎぬ)の一端を上げてみた。見ると庭の奥の木立ちの下に、フォーシュルヴァンとも一人、二人の男が並んで地を耘(うな)っていた。一大事件だった。緘黙(かんもく)の規則も破られて、互いにささやきかわした。「庭番の手伝いですよ。」
 声の母たちは言い添えた。「フォーヴァン爺さんの弟です。」
 実際ジャン・ヴァルジャンは正規に任用されたのである。彼は皮の膝当と鈴とをつけていた。それいらい彼は公の身となった。名をユルティム・フォーシュルヴァンと言っていた。
 そういうふうにはいることを許さるるに至った最も有力な決定的な原因は、「醜い娘になるでしょう」というコゼットに対する院長の観察だった。
 そういう予言をした院長は、すぐにコゼットを好きになって、給費生として彼女を寄宿舎に入れてくれた。
 これはいかにも当然なことである。修道院では鏡は決して用いられないとは言え、女は自分の顔について自覚を持ってるものである。ところで、自分をきれいだと思ってる娘は、容易に修道女などになるものではない。帰依の心は多くは美貌(びぼう)と反比例するものであるから、美しい娘よりも醜い娘の方が望ましい。したがって醜い娘が非常に好まれるに至るのである。
 さてこの事件は善良なフォーシュルヴァン老人の男を上げた。彼は三重の成功を博した。ジャン・ヴァルジャンに対しては、救ってかくまってやり、墓掘り人グリビエに対しては、罰金を免れさしてもらったと思わせ、修道院に対しては、祭壇の下にクリュシフィクシオン長老の柩(ひつぎ)を納めて、シーザーの目をくぐり神を満足さしてやった。プティー・ピクプュスには死体のはいった棺があり、ヴォージラールの墓地には空(から)の棺があることになった。公規はそのためにはなはだしく乱されたには相違ないが、それに気づきはしなかった。修道院の方では、フォーシュルヴァンに対する感謝の念は大なるものだった。フォーシュルヴァンは最良の下僕(しもべ)となり、最も大切な庭番となった。大司教が次回にやってきた時、院長は少しの懺悔(ざんげ)とまた少しの自慢とをもって、閣下にそのことを物語った。修道院を出る時大司教は、王弟の聴罪師であって後にランスの大司教となり枢機官となったド・ラティル氏に、ないしょで感心の調子でそのことをささやいた。フォーシュルヴァンに対する称賛はしだいに広まっていって、ついにローマにまで伝わった。われわれも実際一つの書簡を見たことがある。それは当時位に上っていた法王レオ十二世が、親戚の者でパリーの特派公使閣下で彼と同じくデルラ・ジェンガという名前の者に送ったものである。その中には次の数行があった。「パリーのある修道院にすぐれた庭番がいるらしい。実に聖者であって、名をフォーシュルヴァンというそうである。」けれどもそういう成功は、小屋の中のフォーシュルヴァンの耳にはまったく達しなかった。彼は相変わらず接木(つぎき)をしたり、草を取ったり、瓜畑(うりばたけ)に覆(おお)いをしてやったりして、自分のすぐれたことや聖(きよ)いことは少しも知らなかった。彼は自分の光栄については夢にも気づかなかった。あたかもダーハムやサレーの牛が、絵入りロンドン・ニュースに写真を掲げられ、有角家畜共進会において賞金を得たる牛と記入されながら、それを少しも知らないのと同じだった。

     九 隠棲(いんせい)

 コゼットは修道院でもなお沈黙を守っていた。
 コゼットはごく自然に、自分をジャン・ヴァルジャンの娘であると思い込んでいた。その上彼女は何事も知らないので何も言うことはできなかった。またよし知っていたところで、おそらく何も言わなかったであろう。前に注意しておいたとおり、不幸ほど子供を無口になすものはない。コゼットは非常に苦しんできたので、何事でも恐れていた、口をきくことや息をすることさえも恐れていた。一言口をきいたために自分の上に恐ろしい雪崩(なだれ)を招いたこともしばしばあった。そしてジャン・ヴァルジャンに引き取られてからようやく安心しだしたに過ぎなかった。彼女はじきに修道院になれてきた。ただ人形のカトリーヌを惜しんだが、あえて口に出しては言わなかった。けれども、一度彼女はジャン・ヴァルジャンに言った。「お父さん、こうなるとわかってたら、あれを持って来るんだった。」
 コゼットは修道院の寄宿生になるについて、そこの生徒服を着なければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは[#「ジャン・ヴァルジャンは」は底本では「ジャンン・ヴァルジャンは」]彼女が脱ぎ捨てた着物をもらうことができた。それはテナルディエの飲食店を出る時彼が着せてやったあの喪服だった。まだそういたんではいなかった。ジャン・ヴァルジャンはその着物や毛糸の靴下や靴にまで、たくさんの樟脳(しょうのう)や修道院にいくらもある各種の香料などをふりかけて、どうにか手に入れた小さな鞄(かばん)の中に納めた。そしてそれを寝台のそばの椅子(いす)の上に置いて、いつもその鍵(かぎ)を身につけていた。コゼットはある日彼に尋ねた。「お父さん、あんなにいいにおいのするあの箱は、ほんとに何なの?」
 フォーシュルヴァン爺(じい)さんは、前に述べてきたとおりの自ら知らない光栄のほかに、なおいろいろその善行の報いを得た。第一には、心に喜びを感じていた。次には、仕事が二つに分けられるのでよほど楽になった。最後に、彼は非常に煙草(たばこ)が好きだったが、マドレーヌ氏がいるために、以前よりは三倍も多く吸うことができ、しかもマドレーヌ氏が金を払ってくれるので非常にうまく味わうことができた。
 修道女らは少しもユルティムという名前を使わず、ジャン・ヴァルジャンをいつもも一人のフォーヴァンと呼んでいた。
 もしその聖(きよ)い処女たちが、多少なりとジャヴェルのような目を持っていたならば、何か庭の手入れのために用達にゆくような場合に外に出かけるのは、年取って身体がきかなくて跛者である兄のフォーシュルヴァンの方であって、決して弟の方でないことを、ついには気づくに至ったであろう。しかし、あるいは絶えず神の方へばかり目を向けていて、他のことをさぐる暇がなかったのか、あるいはお互いの身の上にのみ目をつけることに特に忙しかったのか、いずれにしても彼女らはそのことに何らの注意も払わなかった。
 その上、いつも黙っていて引っ込んでいたことは、ジャン・ヴァルジャンにはいいことだった。ジャヴェルはその一郭を一カ月以上も見張っていたのである。
 その修道院は、ジャン・ヴァルジャンにとっては深淵(しんえん)にとりまかれた小島のようなものだった。その四壁の中だけが以後彼の世界だった。そこで彼は、気をさわやかにするくらいにはじゅうぶん空を見ることができ、心を楽しませるくらいにはじゅうぶんコゼットを見ることができた。
 きわめて穏やかな生活が再び彼に初まった。
 彼はフォーシュルヴァン老人とともに庭の奥の小屋に住んでいた。その陋屋(ろうおく)は土蔵造りであって、一八四五年にはなお残っていたが、読者の既に知るとおり、三つの室(へや)から成っていて、どの室もみな裸のままの露(あら)わな壁があるばかりだった。その一番いい室は、ジャン・ヴァルジャンがこばむにもかかわらず、マドレーヌ氏へとしてフォーシュルヴァンがむりに与えてしまった。その室の壁には、膝当(ひざあて)と負籠(おいかご)とをかける二つの釘(くぎ)のほかに、飾りとして一七九三年の王家の紙幣が、暖炉の上の方に壁にはってあった。その模写は次のとおりである。(訳者注 図中の文字も念のために訳出す)
[#王家の紙幣の図、図省略]
[#ここから紙幣の文字の訳文]
  国王の名において
十リーヴル兌換券
 軍需品代として交付す
 平和確立とともに償還す
第三部 第一〇三九〇号
   ストフレー
  正教王党軍(欄外に)
[#ここで訳文終わり]
 このヴァンデアン党(訳者注 王党の一派にしてストフレーはその将軍)の紙幣は、この前の庭番が壁に鋲(びょう)で留めたものだった。彼はもと王党のものであって、修道院で死に、その後にフォーシュルヴァンがきたのだった。
 ジャン・ヴァルジャンは毎日庭で働き、大変役に立った。彼は昔枝切り人だったので、今また喜んで園丁になったのである。読者はたぶん思い起こすであろうが、彼は栽培に関するあらゆる方法と奥義とに通じていた。彼はそれを役立たした。果樹園のほとんどすべての樹木は野生のままだったが、彼はそれに接芽(つぎめ)してりっぱな果実をならした。
 コゼットは毎日一時間ずつ彼のそばで過ごすことを許されていた。修道女らは陰気であり、彼は親切であったから、子供の彼女は両方を比べてみて彼をなつかしんでいた。きまった時間がくると、彼女は小屋の方へ走ってきた。そして彼女がはいって来ると、その破家(あばらや)も楽園となるのだった。ジャン・ヴァルジャンも喜びに輝き、コゼットに与える幸福によってまた自分の幸福も増してくるのを感じた。人に与える喜悦こそは微妙なもので、すべての反映のように弱まりゆくどころか、かえっていっそう強い輝きをもってまた自分に返ってくるものである。休憩の時間になると、コゼットが遊び駆け回るのをジャン・ヴァルジャンは遠くからながめた、そして他の子供らの笑い声のうちにも彼女の笑い声を聞き分けることができた。
 というのは、今ではもうコゼットも笑い戯れるようになっていた。
 それとともに、コゼットの顔つきもある点まで変わってきた。陰鬱(いんうつ)な影もその顔から消えうせた。笑いは太陽のようなもので、人の顔から冬を追い払うものである。
 コゼットはやはりまだきれいではなかったが、それでもきわめてかわいくなってきた。そのやさしい幼い声でもっともらしい口をきいていた。
 休憩が終わって、コゼットがまた向こうにはいってゆく時、ジャン・ヴァルジャンはその教室の窓をながめ、また夜になると、立ち上がってその寝室の窓をながめた。
 もとより神は自己の道を進む。修道院はコゼットがしたように、ジャン・ヴァルジャンのうちにまかれたミリエル司教の仕事を維持し完成していった。およそ徳の一面が傲慢(ごうまん)に接することは確かである。そこに悪魔の渡した橋がある。ジャン・ヴァルジャンはおそらく自ら知らずしてその方面に、その橋に、かなり近づいていた。その時天は彼をプティー・ピクプュスの修道院に投じたのである。自分を司教にだけ比較していた間は、彼は自分の足りないのを知って謙譲であった。しかし最近になって、彼は自分を一般の人に比べはじめて、傲慢の念がきざしかかっていた。おそらくついには、漸次と人を憎む心に戻ってしまうかもわからなかったのである。
 しかるに修道院はその坂の上に彼を引き止めた。
 修道院は彼が見た第二の幽囚の場所であった。青年時代に、彼にとっては人生の初めに当たる時代に、そしてその後またつい最近に、彼はも一つの幽囚の場所を見たのだった。恐るべき場所、戦慄(せんりつ)すべき場所であった。そしてその苛酷(かこく)さは、裁判の不正と法律の罪悪とであるようにいつも彼には思えたのである。ところが今や彼は、徒刑場の次に修道院を見た。そしてかつては徒刑場の中にあったことを思い、今はいわば修道院の傍観者であることを思って、その両者を頭のうちで不安ながらも対照さしてみた。
 時としては耡(すき)の柄を杖にたのみながら、底なき夢想の螺旋(らせん)を徐々に下ってゆくこともあった。
 彼は昔の仲間を思い起こした。彼らはいかにみじめな者らであったか。夜明けに起き上がって夜まで働いていた。眠ることもろくろくできなかった。畳寝台(たたみねだい)の上に寝かされ、許されてるものはただ厚さ二寸のふとんだけで、室は大寒の候にだけしかあたためられていなかった。恐ろしい赤い獄衣を着ていた。ただ恩典としては、酷暑の折りに麻のズボンをつけ、酷寒の折りに毛織の短衣を背中に引っ掛けることだけだった。「労役」に行く時のほかは、酒も飲めず肉も食えなかった。もはや名前も持たず、ただ番号でばかり呼ばれ、言わば数字に化せられてしまって、目を伏せ、声を低め、髪を短く刈られ、棍棒(こんぼう)の下に、汚辱のうちに、彼らは生きていたのである。
 それから彼の考えは、眼前の人々の上に戻ってきた。
 それらの人々もまた、髪を短く刈られ、目を伏せ、声を低め、汚辱のうちにではないが、世間の嘲笑(ちょうしょう)のうちに、背中を棍棒によって傷つけらるることはないが、肩を苦業のために引き裂いて、生きていたのである。彼らに取ってもまた、世俗の名前はなくなっていた。おごそかな呼び名の下にしか彼らはもはや存在していなかった。決して肉を食わず、決して酒を飲まなかった。晩まで食物を取らないでいることもしばしばだった。赤い上衣は着ていないが、毛織の黒い法衣をつけ、夏は重く冬は軽いその着のままで、何物をも脱ぎ何物をも重ぬることができなかった。季節によってあるいは麻の服を着、あるいは毛の外套(がいとう)をまとう手段はもとよりなかった。毎年六カ月の間セルのシャツを着て、熱を出す者もあった。酷寒の候のみあたためる広間にではないが、決して火をたくことのない分房に住んでいた。厚さ二寸のふとんにではないが、藁(わら)の蒲団(ふとん)に寝ていた。それからよく眠ることもできなかった。毎夜、終日の労苦の後、まだ疲労の休まらぬうちに、眠ってまだ身体もよくあたたまらない頃に、目をさまし、起き上がり、凍るような暗い礼拝堂に行って、石の上に両膝(りょうひざ)をついて祈祷(きとう)するのであった。
 またある日には、それらの人々は各自順番に、十二時間引き続いて、床石(ゆかいし)の上にひざまずき、あるいは顔を床につけ腕を十字に組んで平伏しなければならなかった。
 彼方(あちら)は男たちであった。此方(こちら)は女たちであった。
 その男らは何をしてきたのであったか? 窃盗を働き、暴行を行ない、略奪し、殺害し、謀殺したのである。盗賊、詐欺師、毒殺者、放火人、殺害者、大逆人らであった。そしてその女らは何をしてきたのであったか? 何もしたのではなかった。
 一方には、強盗、密売、詐欺、暴行、猥褻(わいせつ)、殺人、あらゆる種類の冒涜(ぼうとく)、あらゆる種類の加害。そして他方には、潔白のただ一事。
 完全なる潔白! 徳によってなお地上に結ばれ、聖(きよ)さによって既に天に結ばれて、ほとんどある神秘なる昇天の域にまで高められたるもの。
 一方においては、声を潜めて互いに罪悪を語り合い、他方においては、高い声で過失を懺悔(ざんげ)する。そしてしかも、いかなる罪悪であり、またいかなる過失であることか!
 一方には毒気、他方には言うべからざる香気。一方には、世の視線をへだてられ大砲の下に閉じこめられて徐々に患者を食い荒しつつある精神的疫病。他方には、同じ竈(かまど)の中のすべての魂の清浄なる焔。彼方には暗黒、此方には影。しかも明るみに満ちた影であり、光輝に満ちた明るみである。
 いずれも奴隷制度(どれいせいど)の場所。しかし前者には、解放の可能、常に見えている法律上の限界、そしてまた脱走。後者には、終身。そして唯一の希望としては、未来の遠き末端にあって、人が死と称するあの自由の輝き。
 前者にあっては、人々は鎖によってつながれてるのみであり、後者にあっては、人々は自分の信仰によってつながれている。
 前者から出て来るものは何であるか? 大なる呪詛(じゅそ)、切歯、憎悪、自暴自棄の悪念、人類の団結に対する憤怒の叫び、天に対する嘲笑。
 後者からは何が出て来るか? 天の恵みと愛。

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