レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「祭壇の下の。」
 フォーシュルヴァンはぞっとした。
「祭壇の下の窖。」
「祭壇の下の。」
「けれども……。」
「鉄の棒があるでしょう。」
「ございます。けれども……。」
「お前は鉄の輪に棒を差し入れてその石を起こすのです。」
「けれども……。」
「死んだ方のお望みには従わなければなりません。礼拝堂の祭壇の下の窖(あなぐら)の中へ葬られること、汚れた土地の中へ行かないこと、生きてる間祈りをしていた場所に死んでもとどまりたいこと、それがクリュシフィクシオン長老の最後の御希望でありました。あの方はそれを私どもに願われました、云いかえれば、おいいつけなさいました。」
「けれども、それは禁じられてあります。」
「人間によって禁じられていますが、神によって命ぜられているのです。」
「もし知れましたら?」
「私たちはお前を信じています。」
「おお私は、この壁の石と同様口外はいたしません。」
「集会が催されています。私は声の母たちになお相談したのですが、皆評議の上で、クリュシフィクシオン長老は御希望どおりにその柩(ひつぎ)に納めて祭壇の下に葬ることに、きまったのです。まあ考えてごらん、もしここで奇蹟が行なわれたらどうでしょう! 組合のものにとっては何という神の栄光でしょう! 奇蹟というものは墓から現われて来るものです。」
「けれども、長老様、もし衛生係りの役人が……。」
「聖ベネディクト二世は、墓の事でコンスタンチヌス・ポゴナチウス皇帝と争われました。」
「それでも警察の人が……。」
「コンスタンス皇帝の時に、ゴールにはいってこられた七人のドイツの王様の一人であったコノデメールは、宗門の規定で葬られること、すなわち祭壇の下に葬られることを、修道士たちの権利として特に認可されました。」
「けれども警視庁の検察官が……。」
「世俗のことは十字架に対しては何でもありません。シャルトルーズ派の十一番目の会長であったマルタンは次の箴言(しんげん)をその派に与えられました。世の変転を通じて十字架は立つなり。」
「アーメン。」とフォーシュルヴァンは終わりのラテン語に対して言った。彼はラテン語を聞くごとに、いつもそうしてごまかすのだった。
 長く沈黙を守っていた者にとっては、だれか一人聞き手があればそれで足りるものである。ある時、ジムナストラスという修辞学の教師が牢獄から出たが、多くの両刀論法や三段論法などが全身にいっぱいつまっていて、立ち木に出会うとたちまちその前に立ち止まり、それに弁論をしかけ、それを説服するために大変な努力をしたという話がある。修道院長は、平素は厳格な緘黙(かんもく)の規則に縛られていたので、言葉の袋がはちきれそうにいっぱいふくらんでいた。それで立ち上がって、水門を切って放ったがように滔々(とうとう)と弁じ立てた。
「私は右にベネディクトと左にベルナールとを味方に持っています。ベルナールといえば、クレールヴォーの最初の修道院長でありました。ブールゴーニュのフォンテーヌは、彼を生んだ祝福された土地です。父をテスランといい、母をアレートと申しました。彼はクレールヴォーに至るまでにまずシトーに止まっていました。シャーロン・スュール・ソーヌの司教ギーヨーム・ド・シャンポーから修道院長の位を授かりました。彼に導かれた修練士が七百人ありまして、彼の建てた修道院が百六十あります。一一四〇年にはサンスの会議でアベーラールを説き伏せ、また、ピエール・ド・ブリュイやその弟子のアンリや、その他アポストリックといわれていた邪教徒の一種を説き伏せました。それから、アルノー・ド・ブレスをうちひしぎ、ユダヤ人殺戮者(さつりくしゃ)のラウール修道士をうち破り、一一四八年にはランスの会議を統べ、ポアティエの司教ジルベール・ド・ラ・ポレーを罪し、エオン・ド・レトアールを罪し、諸侯の軋轢(あつれき)をやめさせ、ルイ・ル・ジューヌ王の目を開かせ、法王ウーゼニウス三世に助言し、タンプル騎士団を整え、十字軍を説き回り、生涯(しょうがい)に二百五十の奇蹟を行ない、一日に三十九の奇蹟を行なったこともあります。それからベネディクトと言えば、モンテ・カシノの総主教であり、神聖修道院の基を定めた第二の人であり、西方のバジリオスであります(訳者注 四世紀ギリシャ教会の神父にしてキリスト教修道院の創設者)。彼の派からは、四十人の法王がいで、二百人の枢機官がいで、五十人の総主教と、千六百人の大司教と、四千六百人の司教と、四人の皇帝と、十二人の皇后と、四十六人の国王と、四十一人の王妃と、三千六百人の列聖者とが出ました。一四〇〇年来、連綿と続いています。一方に聖ベルナール、他方に衛生の役人、一方に聖ベネディクト、他方に風紀監督官! 国家や、風紀や、葬儀や、規則や、行政や、そんなものを私たちは一々知ってるものですか。まあどんなふうに私たちが扱われてるかを見たら、だれだって憤慨するでしょう。私たちには、自分の塵(ちり)をイエス・キリストにささげるの権利さえも許されていません。衛生などは革命が発明したものです。神が警察に属するようになったのです。そういうのが今の時代です。おだまりなさい、フォーヴァン!」
 フォーシュルヴァンはその折檻(せっかん)の下にあって、気が気でなかった。修道院長は続けた。
「埋葬地に対する修道院の権利は、だれにもわかりきったことです。それを否定するのは、狂信者か迷いの者かばかりです。私たちは今恐ろしい混乱の時代に生きています。人は皆、知るべきことを知らず、知るべからざることを知っています。皆汚れており、信仰を失っています。至大なる聖ベルナールと、十三世紀のある坊さんで、いわゆるポーヴル・カトリックのベルナールといわれた人とを、皆混同してしまってるような時代です。また、ルイ十六世の断頭台とイエス・キリストの十字架とをいっしょにするほど神を恐れない者もいます。ルイ十六世は一人の国王にすぎなかったのです。ただ神にのみ心を向くべきです。そうすればもはや、正しい人も不正な人もなくなります。今の人はヴォルテールという名前を知って、セザール・ド・ブュスという名前を知りません。けれどもセザール・ド・ブュスは至福を得た人で、ヴォルテールは不幸な人です。この前の大司教ペリゴール枢機官は、シャール・ド・ゴンドランがベリュールのあとを継ぎ、フランソア・ブールゴアンがゴンドランのあとを継ぎ、ジャン・フランソア・スノールがブールゴアンのあとを継ぎ、サント・マルト長老がジャン・フランソア・スノールのあとを継いだこと、そういうことも知らなかったのです。人がコトン長老の名前を知ってるのは、オラトアール派の創立に力を尽した三人のうちの一人であったからではなく、新教派の国王アンリ四世のために自分の名を提供して誓言の材料に供したからです。サン・フランソア・ド・サールが世俗の人に好まれるのは、カルタ遊びにごまかしをしたからです。それにまた人は宗教を攻撃します。それもただ、悪い牧師たちがいたからです。ガプの司教サジテールがアンブロンの司教サローヌの兄弟であり、二人ともモンモルの衣鉢(いはつ)を継いだからです。しかし、そういうことも結局どれだけの影響がありましょう。そういうことがあってもやはり、マルタン・ド・トゥールは聖者でありまして、自分のマントの半分を貧しい人に与えたではありませんか。人は聖者たちを迫害します。人は真実に対しては目をふさぎます。暗黒が普通のこととなっています。が、盲目な獣こそ最も猛悪な獣です。だれもまじめに地獄のことを考えていないのです。何という恥知らずの人民どもでしょう! 国王の名によってということは今日、革命の名によってという意味になっています。もう人は、生者に負うところのものも知らず、死者に負うところのものも知りません。聖者のように死ぬことは禁じられています。墳墓は俗事となっています。これは恐ろしいことです。法王聖レオ二世は、特別な宸翰(しんかん)を二つ書かれました、一つはピエール・ノテールに、一つはヴィジゴートの王に。それは、死者に関する問題について、太守の権力と皇帝の主権とに反抗し、それをしりぞけんためのものでした。シャーロンの司教ゴーティエは、その問題についてブールゴーニュ公オトンに対抗されました。昔の役人はその点については同意しました。昔は私たちは、世事に関しても勢力を持っていました。この会派の会長シトーの修道院長は、ブールゴーニュの議会の世襲の評議員でありました。私たちは私たちの死者について欲するとおりに行なうのです。聖ベネディクトは五四三年三月二十一日土曜日にイタリーのモンテ・カシノで死なれましたが、そのお身体は、フランスのサン・ブノア・スュール・ロアールといわれるフルーリー修道院にあるではありませんか。これは確かな事実です。私は邪道の聖歌者を忌み、修道院長をきらい、信徒を憎むのですが、だれでも私が言ったことに反対を唱える者をなおいっそう軽蔑するでしょう。アルヌール・ヴィオンやガブリエル・ブュスランやトリテームやモーロリキュスやリュク・ダシュリー師などの書いたものを読めばわかることです。」
 院長は息をついた。それからフォーシュルヴァンの方へ向いて言った。
「フォーヴァン爺(じい)さん、わかりましたか。」
「わかりました、長老様。」
「お前をあてにしてよいでしょうね。」
「御命令どおりにいたします。」
「そうです。」
「私はこの修道院に身をささげています。」
「ではそうきめます。お前は柩(ひつぎ)の蓋(ふた)をするのです。修道女たちがそれを礼拝堂に持ってゆきます。死の祭式を唱えます。それからみな修道院の方へ帰ります。夜の十一時から十二時までの間に、お前は鉄の棒を持って来るのですよ。万事ごく秘密に行なうのです。礼拝堂の中には四人の歌唱の長老とアッサンシオン長老とお前とのほかはだれもいませんでしょう。」
「それと柱に就(つ)かれてる修道女が。」
「それは決してふり向きません。」
「けれども音は聞くでございましょう。」
「いいえ聞こうとはしますまい。それに、修道院の中で知れることも、世間には知れません。」
 またちょっと言葉がとぎれた。院長は続けた。
「お前はその鈴をはずすがよい。柱に就いてる修道女にお前のきたことを知らせるには及ばないから。」
「長老様。」
「なに? フォーヴァン爺(じい)さん。」
「検死のお医者はもうこられましたか。」
「今日の四時にこられるでしょう。お医者を呼びにゆく鐘はもう鳴らされました。お前はそれを少しもききませんでしたか。」
「自分の鐘の音ばかりにしか注意しておりませんので。」
「それでよいのです、フォーヴァン爺さん。」
「長老様、少なくとも六尺くらいの槓桿(てこ)がいりますでしょう。」
「どこから持ってきます?」
「鉄格子(てつごうし)のある所には必ず鉄の棒がございます。庭のすみにも鉄の切れが山ほどございます。」
「十二時より四五十分前がよい。忘れてはなりませんよ。」
「長老様?」
「何です?」
「まだほかにこんな御用がございましたら、ちょうど私の弟が強い力を持っておりますので。トルコ人のように強うございます。」
「できるだけ早くやらなければいけませんよ。」
「そう早くはできませんのです。私は身体がよくききません。それで一人の手助けがいるのでございます。第一跛者でございます。」
「跛者なのは罪ではありません。天のお恵みかも知れません。にせの法王グレゴリウスと戦ってベネディクト八世を立てられた皇帝ハインリッヒ二世も、聖者と跛者という二つの綽名(あだな)を持っていられます。」
「二つの外套(がいとう)は悪くはございません。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。彼の耳は実際いくらか聞き違いをすることがあった。
「フォーヴァン爺(じい)さん、一時間くらいはかかるつもりでいます。それくらいはみておかなければなりますまい。十一時には鉄の棒を持って、主祭壇の所へきますようにね。十二時には祭式が初まります。それより十五分くらい前にはすっかり済ましておかなければなりません。」
「何事でも組合の方々のためには一生懸命にいたします。確かにいたします。私は柩(ひつぎ)に釘(くぎ)を打ちます。十一時きっかりに礼拝堂へ参ります。歌唱の長老たちとアブサンシオン長老とがきていられるのでございますな。なるべくなら男二人の方がよろしゅうございますが、なにかまいません。槓桿(てこ)を持って参ります。窖(あなぐら)を開きまして、柩をおろしまして、そしてまた窖を閉じます。そういたせば何の跡も残りますまい。政府も気づきはしますまい。長老様、それですっかりよろしいんでございますな。」
「いいえ。」
「まだ何かございますか。」
「空(から)の棺が残っています。」
 それでちょっと行き止まった。フォーシュルヴァンは考え込んだ。院長も考え込んだ。
「フォーヴァン爺さん、棺をどうしたらいいでしょうかね。」
「それは地の中へ埋めましょう。」
「空(から)のままで?」
 また沈黙が落ちてきた。フォーシュルヴァンは左の手で、困難な問題を解決したかのような身振りをした。
「長老様、私が会堂の低い室(へや)で棺に釘(くぎ)を打つのでございます。そして私のほかにはだれもそこへははいれません。そして私が棺に喪布を掛けるのでございましょう。」
「そうです。けれども人夫たちは、それを車にのせ、そしてまた墓穴の中にそれをおろすので、中に何もはいっていないことに気づくでしょう。」
「なるほど、畜……」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 院長は十字を切って、じっと庭番の顔をながめた。生(しょう)という、あとの一語は彼の喉(のど)につかえて出なかった。
 彼は急いで、その悪い言葉を忘れさすために一つの方法を考えついた。
「長老様、私は棺の中に土を入れて置きましょう。そういたせば人がはいっているようになりますでしょう。」
「なるほどね。土は人間と同じものです。ではそうしてお前はからの棺を処分してくれますね。」
「お引き受けいたします。」
 その時まで心配そうで曇っていた修道院長の顔は、再び晴れ晴れとなった。彼女は庭番に、上役が下級の者をさがらする時のような合い図をした。フォーシュルヴァンは扉(とびら)の方へさがって行った。彼がまさに出ようとする時、院長は静かに声を高めて言った。
「フォーヴァン爺(じい)さん、私はお前を満足に思いますよ。あした葬式がすんだら、お前の弟を連れておいでなさい。そして、その娘も連れて来るように言っておやりなさい。」

     四 ジャン・ヴァルジャンとアウスティン・カスティーレホーの記事

 跛者の急ぎ足は片目の者の色目と同じで、中々目的物に届かないものである。その上、フォーシュルヴァンはまったく途方にくれていた。彼は庭のすみの小屋に帰りつくまでに、かれこれ十五分もかかった。コゼットはもう目をさましていた。ジャン・ヴァルジャンは彼女を火のそばにすわらしていた。フォーシュルヴァンがはいってきた時、ジャン・ヴァルジャンは壁にかかってる庭番の負(お)い籠(かご)をコゼットに示しながら言っていた。
「よく私の言うことをお聞き、コゼット。私たちはこの家から出なければなりません。けれどもまた帰ってきて、楽しく暮らせるんです。ここのお爺(じい)さんが、お前をあの中に入れてかついで行ってくれます。そしてあるお上(かみ)さんの家で私を待っているんですよ。私がすぐに連れにやってきます。とりわけ、テナルディエの上(かみ)さんにつかまりたくないから、よく言うことを聞いて、何にも言ってはいけませんよ。」
 コゼットはまじめな様子でうなずいた。
 フォーシュルヴァンが扉(とびら)を開く音に、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
「どうだったね?」
「すっかりうまくいきました、もう何も残っていません。」とフォーシュルヴァンは言った。「私はあなたがはいれるように許可を受けてきました。しかしあなたを入れる前に、あなたを出さなければなりません。困まるのはそのことです。娘さんの方はわけはありません。」
「お前さんが連れ出してくれるんだね。」
「黙っていてくれましょうね。」
「それは受け合うよ。」
「ですがあなたの方は? マドレーヌさん。」
 そして心配しきってちょっと口をつぐんだ後、フォーシュルヴァンは叫んだ。
「どうか、はいってこられた所から出ていって下さい。」
 ジャン・ヴァルジャンは最初そう言われた時と同じように、ただ一言答えた。「できない。」
 フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンに向かってというより、むしろ独語するようにつぶやいた。
「も一つ困まったことがある。土を入れるとは言ったが、ただ身体の代わりに土を入れたんでは、どうも本物と思えないだろう。うまくはゆくまい。ぐらぐらして、動くだろう。人夫どもは感づくだろう。ねえマドレーヌさん、政府に気づかれるでしょうな。」
 ジャン・ヴァルジャンは彼の顔をまともにじっとながめた、そして気でも狂ったんではないかと思った。
 フォーシュルヴァンはまた言った。
「どうして畜(ちく)……あなたは出られますか。明日までにはやってしまわなければなりません。明日あなたを連れてくることになっています。院長さんはあなたを待っているんです。」
 その時フォーシュルヴァンは、ジャン・ヴァルジャンがはいることを許されたのは、自分が組合のために尽す仕事の報酬であることを、説明してきかした。葬儀に参与するのは自分の職務の一つであること、自分は棺に釘(くぎ)を打ち墓地で墓掘り人に立ち会わねばならぬこと。今朝死んだ修道女は、長い間寝床にしていた柩(ひつぎ)に納めてもらいたいと願い、礼拝堂の祭壇の下にある窖(あなぐら)のうちに葬ってもらいたいと願ったこと。それは警察の規則で禁じられてることだが、何事もこばめないほどの聖(きよ)い修道女の願いであったこと。修道院長と声の母たちとは相談して、死者の希望どおりにしてやろうときめたこと。政府に対しては済まないが仕方ないこと。自分が室の中で柩に釘を打ち、礼拝堂の中で石の蓋(ふた)を起こし、窖の中に死人をおろすのであること。そしてそのお礼として、弟を庭番に姪(めい)を寄宿生に、二人とも家に入れることを院長が許したこと。弟というのはマドレーヌ氏であり姪というのはコゼットであること。明晩墓地で表面上の埋葬をした後、弟をつれて来るようにと、院長が彼に言ったこと。しかしマドレーヌ氏は外に出ていなければ、外から連れ込むことができないこと。そこに第一の困難があること。それからまた第二の困難があること、すなわち空棺が。
「その空棺とは何かね。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
 フォーシュルヴァンは答えた。
「役所の棺ですよ。」
「どういう棺で、またどういう役所かね。」
「修道女が死にますと、役所の医者がきて、修道女が死んだと言うんです。すると政府から棺を送ってきます。そして翌日、その棺を墓地に運ぶために、車と人夫とをよこします。ところが人夫がやってきて棺を持ち上げてみると、中には何もはいっていないということになるんです。」
「何か入れたらいいだろう。」
「死人をですか。そんなものはありません。」
「いいや。」
「では何を入れます。」
「生きた人をさ。」
「どんな人をですか。」
「私をさ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 腰掛けていたフォーシュルヴァンは、自分の椅子(いす)の下に爆烈弾が破裂したかのように飛び上がった。
「あなたを!」
「なぜいけないんだ。」
 ジャン・ヴァルジャンは冬空の中の光のように珍しくほほえんだ。
「ねえ、クリュシフィクシオン長老が死なれたとお前さんが言った時、私はつけ加えて言ったではないか、そしてマドレーヌさんも葬られたと。それはこのことなんだよ。」
「あああなたは笑っていらっしゃる。本気でおっしゃってはいなさらないんですね。」
「本気だとも、ここから出なければならないんだろう。」
「そうですよ。」
「私にもまた負(お)い籠(かご)と覆いとを見つけてくれと、言ったじゃないか。」
「それで?」
「その籠(かご)は樅(もみ)の板でできていて、覆(おお)いは黒いラシャなんだ。」
「いや第一それは白いラシャですよ。修道女たちは白くして葬られるんです。」
「では白いラシャにするさ。」
「あなたは、マドレーヌさん、ほんとに変わった人です。」
 まるで徒刑場の荒々しい大胆な策略ででもあるようなそんな考案が、あたりの平穏な事物から浮かんできて、彼のいわゆる「修道院の杓子定規(しゃくしじょうぎ)」の中に入り込んでくるのを見ることは、フォーシュルヴァンにとってはいかにも意外で、サン・ドゥニ街の溝(みぞ)の中に鴎(かもめ)が魚をあさってるのを見つけた通行人にも似た驚きの情を、感じたのである。
 ジャン・ヴァルジャンは続けて言った。
「人に見つからずにここから出ることが要件なんだ。その一つの方法さ。しかしまず私に様子を知らしてくれ。いったいどういうぐあいにされるのかね。その棺はどこにあるのかね。」
「空(から)の方ですか。」
「そうだ。」
「死人の室(へや)と呼ばれてます下の室です。二つの台の上にのっていまして、とむらいのラシャがかぶせてあります。」
「棺の長さはどれくらいある?」
「六尺ばかりです。」
「その死人の室というのはどういう所だ?」
「一階にある室(へや)で、庭の方に格子窓(こうしまど)がありますが、それは外から板戸でしめてあります。戸口が二つありまして、一つは修道院に、一つは会堂に続いています。」
「会堂というのは?」
「表に続いてる会堂で、だれでもはいれる会堂です。」
「君はその死人の室の二つの戸口の鍵(かぎ)を持ってるかね。」
「いいえ。私はただ修道院へ続いてる戸口の鍵きり持っていません。会堂へ続いてる方の鍵は門番が持っています。」
「門番はいつその戸口を開くのかね。」
「棺を取りにきた人夫どもを通させる時だけしか開きません。棺が出てゆくと、戸はまたしまるんです。」
「棺に釘(くぎ)を打つのはだれだね。」
「私です。」
「棺にラシャをかけるのは?」
「私です。」
「君一人だけで?」
「警察の医者のほかは、だれも死人の室にはいることはできません。壁にもちゃんと書いてあります。」
「今晩、修道院の人たちが寝静まったころ、私をその室に隠してもらえまいかね。」
「それはできません。けれどその死人の室に続いてる小さな暗い物置きにならあなたを隠しておけます。そこは私の埋葬の道具を入れて置く所で、私がその番人で鍵(かぎ)を持っています。」
「明日何時ごろ棺車は棺を迎えに来るのかね。」
「午後の三時ごろです。埋葬はヴォージラールの墓地で行なわれますが、日が暮れる少し前です。すぐ近くじゃありません。」
「では私は君の道具部屋に、夜と朝の間隠れていよう。それから食物は? 腹がすくだろう。」
「私が何か持っていってあげましょう。」
「君は二時には、私を棺の中に釘(くぎ)づけにしにやって来るんだね。」
 フォーシュルヴァンはしり込みして、指の節を鳴らした。
「それはどうも、できませんな。」
「なに、金槌(かなづち)を取って板に四五本釘を打つだけだ。」
 繰り返して言うが、フォーシュルヴァンにとって異常なことも、ジャン・ヴァルジャンにとっては何でもないことだった。ジャン・ヴァルジャンは最も危険な瀬戸ぎわをも幾度か通ってきたのである。だれでも監獄にはいったことのある者は、脱走の場所の広狭に応じて身を縮めるの術を知っている。病人が生きるか死ぬかの危機にとらわれてるように、囚人も逃走の念にとらわれている。脱走は回復である。回復せんがためには人は何事をも辞せない。行李(こうり)のような四角なものの中に釘づけにされて運び出され、長い間箱の中に生きており、空気もない所に空気を見い出し、幾時間もの間呼吸を倹約し、死なないくらいに息をつめる、そんなことはジャン・ヴァルジャンの恐ろしい能力の一つだった。
 そのうえ、棺の中に生きた人間を入れること、囚徒のやるようなその手段は、また皇帝の手段だった。アウスティン・カスティーレホーという牧師の書いたものによれば、それはカール大帝の用いた方法だった。彼は退位の後、最後に、も一度プロンベスという婦人に会わんために、棺の中に彼女を入れて、自分のはいってるユステの修道院を出入さしたということである。
 フォーシュルヴァンは少し心を落ち着けて叫んだ。
「それでも、どうして息ができましょう。」
「息はできるだろう。」
「あの箱の中で! 私なんか思っただけで息がつまるようです。」
「きりがあるだろう。口のあたりに方々小さな穴をあけておいてくれ、そしてまた上の板も、あまりきっかりしまらないように釘(くぎ)を打ってもらおう。」
「よろしゅうござんす。そしてもし咳(せき)が出たり、嚔(くしゃみ)が出たりしましたら。」
「一心に逃げようとする者は、咳や嚔はしないものだ。」
 そしてジャン・ヴァルジャンはつけ加えた。
「フォーシュルヴァンさん、決心しなければならないんだ、ここでつかまるか、棺車で出るか、二つに一つを。」
 少し開きかけてる扉(とびら)の間に猫(ねこ)が止まって躊躇(ちゅうちょ)する癖のあるのを、だれでも認めることがあるだろう。早くおはいりよ! とだれでも言わない者はあるまい。それと同じく人間のうちにも、前に一事件が半ば口を開いている時、運命のため突然その口が閉ざされて身をつぶされる危険をも顧みずに、二つの決断の間に迷ってたたずむ傾向を持った人がいるものである。あまりに用心深い者は、猫のようであるにかかわらず、また猫のようであるがために、時とすると大胆な者よりかえって多くの危険に身をさらすに至る。フォーシュルヴァンはそういう狐疑的(こぎてき)な性質であった。けれどもジャン・ヴァルジャンの冷静は、ついに彼を納得さした。彼はつぶやいた。
「実のところ、ほかに方法もありませんからな。」
 ジャン・ヴァルジャンは言った。
「ただ心配なのは、墓地でどういうことになるかだ。」
「そのことなら私が心得ています。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。「棺から出ることをあなたが受け合いなさるなら、あなたを墓穴から引き出すことは私が受け合います。墓掘りの男は、私の知ってる者のうちでの大酒飲みです。メティエンヌ爺(じい)さんといって、もう老耄(おいぼれ)です。その墓掘りは墓穴の中に死人を入れますが、私は彼を自分のポケットの中にまるめ込んでやります。こういうふうにいたしましょう。薄暗くなる前に、墓地の門がしまる四五十分前に、向こうに行きつくでしょう。棺車は墓穴の所まで進んでゆきます。私がついてゆきます。私の仕事ですから、ポケットの中に金槌(かなづち)と鑿(たがね)と釘抜(くぎぬ)きとを入れて置きます。棺車が止まって、人夫どもがあなたの棺を繩でゆわえて、穴におろします。牧師が祈祷(きとう)をとなえ、十字を切り、聖水をまき、そして行ってしまいます。私はメティエンヌ爺さんと二人きりになります。まったく私とは懇意なんです。彼は酔っぱらってるか、いないか、どちらかです。もし酔っぱらっていなかったら、言ってやりましょう、ボン・コアンの家がしまらないうちに一杯引っかけてこようや。私は彼を引っ張っていって酔っぱらわせます。メティエンヌ爺さんを酔っぱらわすには造作はありません。いつでもいいかげん酔っていますから。私は彼をテーブルの下に寝かし、墓地にはいる札を取り上げてしまって、一人で帰ってきます。そうすればもう私一人きりいないというわけになるんです。もし彼が初めから酔っぱらっていたら言ってやります。もう帰っていいや、私がお前の分もしてやるから。そう言えば彼は帰っていきます。そして私はあなたを穴から引き出してあげましょう。」
 ジャン・ヴァルジャンは彼に手を差し出した。フォーシュルヴァンはいかにも質朴な田舎者(いなかもの)の感動をもって急いでそれを握りしめた。
「それできまった、フォーシュルヴァンさん。万事うまくゆくだろう。」
「何かくい違いさえしなければ。」とフォーシュルヴァンは考えた。「もし大変なことにでもなったら!」

     五 大酒のみにては不死の霊薬たらず

 翌日太陽が西に傾いたころ、メーヌ大通りのまばらな行ききの者は、頭蓋骨(ずがいこつ)や脛骨(けいこつ)や涙などの描いてある古風な棺車の通行に対して、みな帽子をぬいだ。棺車の中には、白いラシャに覆われた柩(ひつぎ)があって、両腕をひろげた大きな死人のような黒い太い十字架が上に横たえてあった。喪布を張った幌馬車(ほろばしゃ)が一つそのあとに続いて、白い法衣を着た一人の牧師と、赤い帽子をかぶった歌唱の一人の子供とが乗ってるのが見えた。黒い袖口(そでぐち)のついた鼠色(ねずみいろ)の制服を着ている二人の葬儀人夫が、棺車の左右に従っていた。その後ろに、労働者のような服装をした跛者の老人がついていた。その行列はヴォージラールの墓地の方へ進んでいった。
 老人のポケットから、金槌(かなづち)の柄や鋭利な鑿(たがね)の刃や釘抜(くぎぬ)きの二つの角などがはみ出ていた。
 ヴォージラールの墓地は、パリーの墓地のうちで例外のものとなっていた。それは特別の用に供されていて、したがって正門と中門とがあり、その一郭で古い言葉を守ってる老人どもはそれを、騎馬門と徒歩門(かちもん)と呼んでいた。前に述べたとおり、プティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクト修道女らは、昔彼女らの組合の所有地だったその墓地の特別な片隅(かたすみ)に夕方埋葬さるることが許されていた。それで墓掘り人らは、夏には日暮れに冬には夜に墓地の仕事を持っていたので、特殊な規則が設けられていた。パリーの墓地の門は、当時、日没と共にとざされることになっていて、それが市の制度の一つとなっていたので、ヴォージラールの墓地もそれに従っていた。騎馬門と徒歩門とはその鉄格子(てつごうし)が続いていて、そばに一つの小屋があった。ペロンネという建築者が建てたもので、墓地の門番が住んでいた。でそれらの鉄格子の門は、癈兵院の丸屋根の向こうに太陽が沈む時に必ずしめられた。もしその時墓地の中におくれた墓掘り人がいても、葬儀係りの役人から交付された墓掘り人の札によって出ることができた。郵便箱のようなものが、門番の窓の板戸の中についていた。墓掘り人がその箱の中に自分の札を投げ込むと、門番はその音をきいて、綱を引き、徒歩門を開いてくれた。もし札を持っていない時には、墓掘り人は自分の名を名乗ると、もう床(とこ)について眠ってることがよくある門番は、起きてきて、顔をよく見定めて、それから鍵(かぎ)で門を開いてくれた。そして墓掘り人は出られたが、十五フランの罰金を払わねばならなかった。
 このヴォージラールの墓地は、規則外のその特殊な点で、取り締まり上の統一を乱していた。そして一八三〇年後、間もなく廃せられてしまった。東の墓地といわれるモンパルナスの墓地がそのあとを継いで、それからまたその墓地に半ば属していた有名な居酒屋をも承(う)け継いだ。その居酒屋の上には木瓜(ぼけ)の実を描いた板が出ていて、ボン・コアン屋(上等木瓜屋)という看板で、酒場の食卓と墓石との間を仕切っていた。
 ヴォージラールの墓地は、しおれた墓地ともいえるような趣があって、もう衰微していた。苔(こけ)がいっぱいはえて、花はなくなっていた。中流人はそこに埋めらるることをあまり好まなかった。貧民のような気がしたからである。ペール・ラシェーズの墓地の方は上等だった。ペール・ラシェーズに埋まることは、マホガニーの道具を備えるようなもので、高雅に思われたのである。ヴォージラールの墓地はものさびた場所で、フランス式の古い庭園のようなふうに木が植わっていた。まっすぐな道、黄楊樹、柏(かしわ)、柊(ひいらぎ)、水松(いちい)の古木の下の古墳、高い雑草。夕方などはいかにも物寂しく、きわめてわびしい物の輪郭が見られた。
 白いラシャと黒い十字架との棺車がヴォージラールの墓地の並み木道にさしかかってきた時、太陽はまだ没していなかった。棺車の後に従ってる跛者の老人は、フォーシュルヴァンにほかならなかった。
 祭壇の下の窖(あなぐら)へクリュシフィクシオン長老を葬ること、コゼットを連れ出すこと、ジャン・ヴァルジャンを死人の室(へや)に導くこと、それらはみな無事に行なわれて、何の故障も起こらなかった。
 ついでに一言するが、修道院の祭壇の下にクリュシフィクシオン長老を葬ったことは、われわれに言わすればきわめて軽微な罪にすぎない。それは一種の務めともいうべきたぐいの過ちである。修道女らは何らの不安なしにばかりでなく、また本心の満足をもってそれを行なったのである。修道院にとっては、「政府」と称するところのものは権威に対する一干渉にすぎず、常に議論の余地ある干渉にすぎない。第一は教規である。法典などはどうでもよろしい。人間よ、欲するままに法律を定むるがよい、しかしそれは汝ら自身のためにのみとどめよ。シーザーへの貢物(みつぎもの)は、常に神への貢物の残りに過ぎない。王侯といえども教義の前には何らの力をも持たないのである。
 フォーシュルヴァンは跛を引きながら、いたって満足げに棺車のあとについていった。彼の二つの秘密、彼の二重の策略、一つは修道女らとはかったこと、他はマドレーヌ氏とはかったこと、一つは修道院のためのもの、他は修道院に反するもの、その二つは同時に成功したのである。ジャン・ヴァルジャンの落ち着きは、周囲の者をも巻き込むほど力強いものだった。フォーシュルヴァンはもう成功を疑わなかった。残りの仕事は何でもないものだった。人のいい肥(ふと)っ面(つら)の墓掘り爺(じい)メティエンヌを、彼はこの二年ばかりの間に十ぺんくらいは酔っぱらわしたことがあった。彼はメティエンヌをもてあそび、掌中にまるめこみ、自分の欲するままに取り扱った。メティエンヌの頭はいつもフォーシュルヴァンのかぶせる帽子のとおりになった。それで今フォーシュルヴァンはまったく安心しきっていた。
 墓地へ通ずる並み木道に行列がさしかかった時、うれしげなフォーシュルヴァンは棺車をながめ、大きな両手をもみ合わせながら半ば口の中で言った。
「なんという狂言だ!」
 突然棺車は止まった。門のところについたのである。埋葬認可書を示さなければならなかった。葬儀人は墓地の門番に会った。その相談はたいてい一、二分の手間をとるのだったが、その間に、一人の見なれない男がやってきて、棺車のうしろにフォーシュルヴァンと並んだ。労働者らしい男で、大きなポケットのついた上衣を着て、小脇(こわき)に鶴嘴(つるはし)を持っていた。
 フォーシュルヴァンはその見知らぬ男をながめた。
「お前さんは何だね。」と彼は尋ねた。
 男は答えた。
「墓掘りだよ。」
 胸のまんなかを大砲の弾(たま)で貫かれてなお生きてる者があるとしたら、おそらくその時のフォーシュルヴァンのような顔つきをするだろう。
「墓掘り人だと!」
「そうだ。」
「お前さんが!」
「俺(おれ)がよ。」
「墓掘り人はメティエンヌ爺(じい)さんだ。」
「そうだった。」
「なに、そうだったって?」
「爺さんは死んだよ。」
 フォーシュルヴァンは何でも期待してはいたが、これはまた意外で、墓掘り人が死のうなどとは思いもよらなかった。しかしそれはほんとうである。墓掘り人だからとて死なないとは限らない。他人の墓穴を掘ることによって人はまた自分の墓穴をも掘る。
 フォーシュルヴァンはぽかんとしてしまった。ようやくにして、これだけのことを口ごもった。
「そんなことがあるだろうか。」
「そうなんだよ。」
「だが、」と彼は弱々しく言った、「墓掘り人はメティエンヌ爺(じい)さんだがな。」
「ナポレオンの後にはルイ十八世が出で、メティエンヌの後にはグリビエが出る。おい、俺(おれ)の名はグリビエというんだ。」
 フォーシュルヴァンはまっさおになって、そのグリビエをながめた。
 背の高いやせた色の青い男で、まったく葬儀にふさわしい男だった。あたかも医者に失敗して墓掘り人となった形だった。
 フォーシュルヴァンは笑い出した。
「ああ、何て変なことが起こるもんかな! メティエンヌ爺さんが死んだって! メティエンヌじいさんは死んだが、小ちゃなルノアール爺さんは生きてる。お前さんは小ちゃなルノアール爺さんを知ってるかね。一杯六スーのまっかな葡萄酒(やつ)がはいってる壜(びん)だよ。スュレーヌの壜だ。ほんとうによ、パリーの本物のスュレーヌだ。ああメティエンヌ爺さんが死んだって。かわいそうなことをした。おもしろい爺さんだったよ。だがお前さんも、おもしろい人だね。おいそうじゃないかい。一杯飲みにゆこうじゃないかね、これからすぐに。」
 男は答えた。「俺は学問をしたんだ。第四級まで卒(お)えたんだ。酒は飲まない。」
 棺車は動き出して、墓地の大きな道を進んでいった。
 フォーシュルヴァンは足をゆるめた。その跛は、今では不具のためよりも心配のための方が多かった。
 墓掘り人は彼の先に立って歩いていた。
 フォーシュルヴァンは、も一度その待ち設けないグリビエの様子をながめた。
 若いが非常に老(ふ)けて見え、やせてはいるがごく強い、そういう種類の男だった。
「おい。」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 男はふり返った。
「私は修道院の墓掘り人だよ。」
「仲間だね。」と男は言った。
 学問はないがごく機敏なフォーシュルヴァンは、話の上手な恐るべき相手であることを見てとった。
 彼はつぶやいた。
「それではメティエンヌ爺(じい)さんは死んだんだね。」
 男は答えた。
「そうだとも。神様はその満期の手帳をくってみられたんだ。するとメティエンヌ爺さんの番だった。で爺さんは死んだのさ。」
 フォーシュルヴァンは機械的にくり返した。
「神様が……。」
「神様だ。」と男はきっぱり言い放った。「哲学者に言わせると永劫(えいごう)の父で、ジャコバン党に言わせると最高の存在だ。」
「ひとつ近づきになろうじゃないかね。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「もう近づきになってるよ。君は田舎者(いなかもの)で、俺(おれ)はパリーっ児だ。」
「だがいっしょに酌(く)みかわさないうちはへだてが取れないからな。杯をあける者は心を打ち明けるというものだ。いっしょに飲みにこないかね。断わるもんじゃないよ。」
「仕事が先だ。」
 これはとうていだめだ、とフォーシュルヴァンは考えた。
 修道女らの埋まる片すみにゆく小道にはいるには、もう数回車輪が回るだけだった。
 墓掘り人は言った。
「おい君、俺(おれ)は七人の子供を養わなけりゃならないんだ。奴(やつ)らが食わなけりゃならないからして、俺は酒を飲んじゃおれないんだ。」
 そして彼は、まじめな男が名句を吐く時のような満足さでつけ加えた。
「子供らの空腹は俺の渇(かわ)きの敵さ。」
 棺車は一群の糸杉の木立ちを回って、大きな道を去り、小道をたどり、荒地にはいり、茂みの中に進んでいった。それはもうすぐに埋葬地に着くことを示すものだった。フォーシュルヴァンは足をゆるめた。しかし棺車の進みを遅らすことはできなかった。幸いにも地面は柔らかで、かつ冬の雨にぬれていたので、車の輪にからんでその進みを重くした。
 彼は墓掘り人に近寄った。
「アルジャントゥイュの素敵な酒があるんだがな。」とフォーシュルヴァンはつぶやいた。
「君、」と男は言った、「俺はいったい墓掘り人なんかになる身分ではないんだ。親父(おやじ)は幼年学校の門衛だった。そして俺に文学をやらせようとした。ところが運が悪かった。親父は相場で損をした。そこで俺は文人たることをやめなければならなかったんだ。それでもまだ代書人はしてるよ。」
「ではお前さんは墓掘り人ではないんだね。」とフォーシュルヴァンは言った。弱くはあったがその一枝を頼りとしてつかまえたのである。
「両方できないことはないさ。兼任してるんだ。」
 フォーシュルヴァンはその終わりの一語がわからなかった。
「飲みにゆこうじゃないか。」と彼は言った。
 ここに一言注意しておく必要がある。フォーシュルヴァンは気が気ではなかったが、とにかく酒を飲もうと言い出したのである。しかしだれが金を払うかという一点については、はっきりさしてはいなかった。いつもはフォーシュルヴァンが言い出して、メティエンヌ爺(じい)さんが金を払った。一杯やろうという提議は、新しい墓掘り人がきたという新たな事情から自然に出て来ることで、当然のことではあったが、しかし老庭番は、下心(したごころ)なしにでもなかったが、いわゆるラブレーの十五分間(訳者注 飲食の払いをしなければならない不愉快な時)をあいまいにしておいた。ひどく心配はしていたが、進んで金を払おうという気にはなっていなかった。
 墓掘り人は優者らしい微笑を浮かべながら言い進んだ。
「食わなければならないからね。それで俺はメティエンヌ爺さんのあとを引き受けたのさ。まあ一通り学問をすれば、もう哲学者だ。手の働きをしてる上に俺は頭の働きをもしてるんだ。セーヴル街の市場に代書人の店を持っている。君はパラプリュイの市場を知ってるかね。クロア・ルージュの料理女どもは皆俺の所へ頼みに来る。俺はその色男どもへ贈る手紙を書いてやるんだ。朝にはやさしい恋文を書き、夕になれば墓穴を掘る。ねえ、そういうのが世の中さ。」
 棺車は進んでいた。フォーシュルヴァンは心痛の頂上に達して四方を見回した。汗の大きな玉が額から流れた。
「だが、」と墓掘り人はなお続けた、「二人の主人には仕えることができないものだ。俺(おれ)もペンと鶴嘴(つるはし)といずれかを選ぶべきだ。鶴嘴は物を書く手を痛めるからね。」
 棺車は止まった。
 歌唱の子供が喪の馬車からおり、次に牧師もおりた。
 棺車の小さな前の車輪の一つは、うずたかい土の上に少し上がっていた。その向こうに口を開いてる墓穴が見えていた。
「なんて狂言だ!」とフォーシュルヴァンは唖然(あぜん)としてくり返した。

     六 四枚の板の中

 棺の中にいたのはだれであるか? 読者の知るとおり、ジャン・ヴァルジャンであった。
 ジャン・ヴァルジャンはその中で生きておれるだけの準備をしておいた、そしてわずかに呼吸をしていた。
 本心の安静がいかにその他のいっさいのものの安静をもたらすかは、実に不思議なほどである。ジャン・ヴァルジャンが考えた計画は、前日来着々としてつごうよく進んでいた。そして彼はフォーシュルヴァンと同じくメティエンヌ爺(じい)さんを当(あて)にしていた。彼は最後の成功を疑わなかった。これほど危険な状態でしかもこれほど完全な安心は、かつて見られないことだった。
 柩(ひつぎ)の四方の板からは、恐ろしい平安の気が発していた。死人の休息に似たある物が、ジャン・ヴァルジャンの落ち着きのうちにはいって来るかのようだった。
 棺の底から彼は、死と戯れてる恐るべき芝居の各部分をたどることができ、また実際たどっていた。
 フォーシュルヴァンが上の板に釘(くぎ)を打ち終わってから間もなく、ジャン・ヴァルジャンは持ち出されるのを感じ、次に馬車で運ばれるのを感じた。動揺の少なくなったことで、舗石(しきいし)から堅い地面へ出たことを、すなわち街路を通りすぎて大通りにさしかかったことを感じた。重々しい響きで、オーステルリッツ橋を渡ったことを察した。初めちょっと止まったことで、墓地にはいったことを知った。二度目に止まった時、もう墓穴だなと彼は思った。
 突然人の手が棺をとらえたことを彼は感じた。それから棺板の上をこするがさがさした音を感じた。棺を穴の中におろすためにまわりを繩(なわ)でゆわえてるのだと彼は察した。
 それから彼は目が廻るような気がした。
 たぶん人夫どもと墓掘り人とが棺をぐらつかして足より頭を先にしておろしたのであろう。そして程なくまた水平になって動かなくなった時、彼は初めてすっかり我に返ることができた。穴の底に達したのである。
 彼はさすがに一種の戦慄(せんりつ)を覚えた。
 冷ややかでおごそかな一つの声が上の方で起こった。自分にわからないラテン語の言葉が、その一語一語とらえらるるくらいゆっくりと響いて来るのを彼は聞いた。
「塵(ちり)のうちに眠る者ら、やがて目ざむるに至らん、ある者は永遠の生命に、またある者は汚辱に。常に(訳者補 まことを)見んがためなればなり。」
 一つの子供の声が言った。
「深き淵より。(訳者補 主よ我は爾を呼ばわりぬ)」
 重々しい声がまた初めた。
「主よ彼に永遠の休息(やすらい)を与えたまえ。」
 子供の声が答えた。
「恒(つね)なる光は彼に輝かんことを。」
 その時彼は身をおおうている板の上に、雨だれのような静かな音を聞いた。たぶんそれは聖水だったのだろう。
 彼は考えた。「もうすぐに終わるだろう。も少しの[#「も少しの」は底本では「もし少しの」]辛抱だ。牧師が立ち去る、フォーシュルヴァンはメティエンヌを飲みに引っ張ってゆく、自分は一人になる。それからフォーシュルヴァンが一人で帰ってくる。そして自分は穴から出る。も少しの間だ。」
 重々しい声が言った。
「安らかに憩(いこ)わんことを。」
 そして子供の声が言った。
「アーメン。」
 ジャン・ヴァルジャンは耳をそばだてながら、人の足音らしいものが遠ざかってゆくのを知った。
「皆立ち去ってゆくのだな。」と彼は考えた。「もう自分一人だ。」
 するとたちまち頭の上に、雷が落ちたかと思われるような音が聞こえた。
 それは一すくいの土が棺の上に落ちた音だった。
 次にまた一すくいの土が落ちてきた。
 彼が息をしていた穴の一つは、そのためにふさがってしまった。
 第三の士が落ちてきた。
 次に第四の土が。
 いかに強い男にとっても、それはあまりにもひどすぎた。ジャン・ヴァルジャンは気を失った。

     七 札をなくすなという言葉の起原

 ジャン・ヴァルジャンがはいっていた棺の上の方では次のようなことが起こったのである。
 棺車が立ち去った時、そして牧師と歌唱の子供とがまた馬車に乗って帰って行った時、墓掘り人から目を離さなかったフォーシュルヴァンは、墓掘り人が身をかがめて、うずたかい土の中にまっすぐにつきさしてある□(くわ)を手に取るのを見た。
 その時フォーシュルヴァンは最後の決心をした。
 彼は墓穴と墓掘り人との間につっ立ち、両腕を組んで、そして言った。
「金は私(わし)が払う。」
 墓掘り人は驚いて彼をながめ、そして答えた。
「何のことだよ?」
 フォーシュルヴァンは繰り返した。
「金は私が払う。」
「何さ?」
「酒だよ。」
「何の酒だ?」
「アルジャントゥイュだ。」
「アルジャントゥイュってどこにあるんだ。」
「ボン・コアンの家(うち)にある。」
「なんだばかにするない!」と墓掘り人は言った。
 そして彼は一すくいの土を棺の上にほうり込んだ。
 棺はうつろな音を返した。フォーシュルヴァンはよろめいて、自分も墓穴の中にころげ落ちそうな気がした。喉(のど)をしめられたようなしわがれ声を交じえて彼は叫んだ。
「おい、ボン・コアンの戸がしまらないうちにさ!」
 墓掘り人はまた□(くわ)で土をすくった。フォーシュルヴァンは言い続けた。
「私が払う。」
 そして彼は墓掘り人の腕をつかんだ。
「まあきいてくれ。私は修道院の墓掘りだ。お前さんの手助けにきてるんだ。仕事は晩にすればいい。まあ一杯飲みに行ってからにしようじゃないか。」
 そう言いながらも、絶望的にしつこく言い張りながらも、彼は悲しい考えを心のうちに浮かべていた。「そして酒は飲むとしても、果して酔っ払うかしら?」
「なあに、」と墓掘り人は言った、「どうしても飲もうというんなら、飲んでもいいさ。飲もうよ。だが仕事のあとだ、前はいけない。」
 そして彼は□(くわ)を動かした。フォーシュルヴァンはそれを引き止めた。
「六スーのアルジャントゥイュだよ。」
「またか、」と墓掘り人は言った、「鐘撞(かねつ)きみたいな奴(やつ)だな。いつも同じことばかりぐずってやがる。いいかげんにしろよ。」
 そして彼は第二の一すくいをほうり込んだ。
 フォーシュルヴァンはもう自分で自分の言ってることがわからないほどになっていた。
「まあ一杯やりにこいったら、」と彼は叫んだ、「金は私が払うんだから。」
「赤ん坊を寝かしてからさ。」と墓掘り人は言った。
 彼は第三の一すくいをほうり込んだ。
 それから彼はまた□を土の中に突き入れてつけ加えた。
「おい今夜は冷えるぞ。何もかぶせないでゆくと、死骸が泣き出して追っかけて来るぜ。」
 その時墓掘り人は□で土をすくいながら身をかがめた、そして上衣のポケットの口が大きく開いた。
 フォーシュルヴァンの茫然(ぼうぜん)とした目つきは機械的にその中に止まって、そこにすえられた。
 太陽はまだ地平線の向こうに落ちていなかった。そしてまだかなり明るかったので、その口を開いたポケットの底に何やら白いものが見て取られた。
 ピカルディーの田舎者(いなかもの)の目が有し得るすべての輝きが、フォーシュルヴァンの瞳(ひとみ)をよぎった。ある考えが彼に浮かんできたのである。
 墓掘り人が□(くわ)で土をすくうのに一心になって気づかないうちに、彼はうしろからそのポケットの中に手を差し入れて、底にある白いものを引き出した。
 墓掘り人は第四の一すくいの土を墓穴の中に送った。
 彼が第五にまた一すくいするためふり返った時、フォーシュルヴァンは落ち着き払ってその顔をながめ、そして言った。
「時にお前さんは、札を持ってるかね。」
 墓掘り人はちょっと手を休めた。
「何の札だ?」
「日が入りかかってるよ。」
「いいさ、おはいんなさいとして置くさ。」
「墓地の門がしまるよ。」
「だから?」
「札は持ってるかと言うんだ。」
「ああ俺(おれ)の札か!」と墓掘り人は言った。
 そしてポケットをさぐった。
 一つのポケットをさぐって、またも一つのをさぐった。それからズボンの内隠しを、一方をさがし一方を裏返した。
「ないぞ。」と彼は言った。「札がない。忘れてきたのかな。」
「十五フランの罰金だ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は草色になった。青白い男が更に青くなると、草色になるものだ。
「何ということだ!」と彼は叫んだ。「十五フランの罰金!」
「五フラン銀貨三つだ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は□(くわ)を取り落とした。
 こんどこそはフォーシュルヴァンの番になった。
「なにお前さん、」とフォーシュルヴァンは言った、「そう心配することはないさ。首でもくくって墓を肥やそうというわけじゃあるまいしね。十五フランは十五フランだ。それにまた払わないですむ方法もあるさ。お前さんは新参だが、私は古狸(ふるだぬき)だ。何もかもよく承知してるよ。うまいことを教えてやろう。ただこれだけはどうにもならない、日が入りかかってることだけは。向こうの丸屋根に落ちかかってる。もう五分とたたないうちに墓地はしまるだろう。」
「そうだ。」と墓掘り人は答えた。
「これから五分間では、この墓穴をいっぱいにするだけの時間はない、ずいぶん深い穴だからな。そして門がしまらないうちに出るだけの時間はない。」
「そのとおりだ。」
「そうすれば十五フランの罰金だ。」
「十五フラン。」
「だがまだ時間はある……。いったいお前さんはどこに住んでるんだ。」
「市門のすぐそばだ。ここから十五分ぐらいかかる。ヴォージラール街八十九番地だ。」
「急げばすぐに門を出るだけの時間はある。」
「そうだ。」
「門を出たら、家に駆けて行って、札を持って帰って来るさ。墓地の門番があけてくれる。札さえあれば、一文も払わなくてすむ。そして死骸(しがい)を埋めればいいわけだ。死骸が逃げ出さないように、その間私が番をしていてあげよう。」
「それで俺(おれ)は助かる。」
「早く行けよ。」とフォーシュルヴァンは言った。
 墓掘り人は夢中に感謝して、彼の手を取って振り動かし、そして駆け出していった。
 墓掘り人が茂みの中に見えなくなると、フォーシュルヴァンはその足音が聞こえなくなるまで耳をすまし、それから墓穴の方へ身をかがめて、低い声で言った。
「マドレーヌさん!」
 何の答えもなかった。
 フォーシュルヴァンはぞっとした。彼は墓穴の中におりるというよりも、むしろころげ込んで、棺の頭の方に身をなげかけ、そして叫んだ。
「そこにおいでですか。」
 棺の中はひっそりとしていた。
 フォーシュルヴァンは震え上がって息もつけなかったが、それでも鋭利な鑿(たがね)と金槌(かなづち)とを取って、上の板をはねのけた。ジャン・ヴァルジャンの顔がほの暗い中に見えたが、目は閉じ、色は青ざめていた。
 フォーシュルヴァンの髪の毛は逆立った。彼はまっすぐに立ち上がり、それから穴の壁にもたれかかり、気を失って棺の上に倒れんばかりになった。彼はじっとジャン・ヴァルジャンをながめた。
 ジャン・ヴァルジャンは色を失って身動きもしないで、そこに横たわっていた。
 フォーシュルヴァンは息ばかりのような弱い声でつぶやいた。
「死んでいなさる!」
 それから立ち直って、両の拳(こぶし)が肩に激しくぶっつかったほど急に両腕を組んで、叫んだ。
「助けてあげたのがこんなことに!」
 そしてあわれな老人はむせび泣きながら、独語をはじめた。独語は自然のうちにないものだと思うのは誤りである、心の激しい動乱はしばしば高い声で語り出す。
「メティエンヌ爺(じい)さんが悪いんだ。あの爺(じじい)め、なぜ死んだんだ。思いも寄らない時にくたばるなんてことがあるものか。マドレーヌさんを殺したのは奴(やつ)だ。マドレーヌさん! ああ棺の中にはいっていなさる。もう逝(い)ってしまわれた。もうだめだ。――いったいこれは何て訳のわからないことだ。ああ、どうしよう! 死んでしまわれた! ところであの娘さん、あれをどうしたもんだろう。果物屋(くだものや)の上(かみ)さんは何と言うだろう。こんな方がこんなふうに死なれる、そんなことがあるもんだろうか。私の車の下に身を投げ入れて下さった時のことを思うと! マドレーヌさん、マドレーヌさん! 息がつまったんだ。私の言ったとおりだ。私の言うことを聞きなさらなかったからだ。まあ何という悪戯(いたずら)だ! 死になすった、あのりっぱな方が、善人のうちでも一番善人の方が! そしてあの娘さん! 第一私はもうあそこへは帰られん。ここにこのままいよう。こんなことをしでかしてさ! 年寄りが二人いてこんなばかをやるって法があるもんか。だが第一、あの方はどうして修道院の中へはいりなすったんだろう。それがそもそも事の初まりだ。あんなことはするもんじゃない。マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌさん、マドレーヌ、マドレーヌ様、市長様! 私の言うことも聞こえないんだ。さあ何とかして下さらなけりゃ!」
 そして彼は髪の毛をかきむしった。
 遠く木立ちの中に、物のきしる鋭い音が聞こえた。墓地の鉄門がしまる音だった。
 フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンの上に身をかがめた。そして突然、彼ははね上がって、墓穴の中でできるだけあとにしざった。ジャン・ヴァルジャンは目を開いて、彼をじっと見つめていた。
 死を見るのは恐ろしいことであるが、蘇生を見るのも同じくらい恐ろしいことである。フォーシュルヴァンはその極度の感動に、度を失い、荒々しくなり、まっさおになり、石のようになって、生者に対してるのか死人に対してるのかも自らわからず、自分の方を見つめてるジャン・ヴァルジャンの顔を見入った。
「私は眠ってしまった。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 そして彼は半身を起こした。
 フォーシュルヴァンはひざまずいた。
「あああ! ほんとにたまげてしまった。」
 それから彼は立ち上がって叫んだ。
「ありがたい! マドレーヌさん。」
 ジャン・ヴァルジャンは気絶していたにすぎなかった。外の空気が彼をさましたのである。
 喜悦は恐怖の裏である。フォーシュルヴァンはジャン・ヴァルジャンと同じくらいに我に返るのには骨が折れた。
「死になすったのではなかったんだな! ほんとにあなたは人が悪い。生き返ってきなさるようにどんなにか呼んだんですよ。あなたが目を閉じていなさるのを見て、ああ息がつまったんだなと思いましたよ。私はほんとに気が気でなかった。まったくの気違いになりそうでしたよ。ビセートルの癲狂院(てんきょういん)にでも入れられたかも知れませんよ。あなたが死なれたら、私はどうなると思います? そしてあなたの娘さんは! 果物屋(くだものや)の上さんは訳がわからなくなるでしょう。子供を預けておいて、そして祖父(おじい)さんが死んでしまう。まあなんて話なんでしょう。ほんとになんてことでしょう。ああ、あなたは生きていなさる! ほんとにありがたいことだ。」
「私は寒い。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
 その一言でフォーシュルヴァンはすっかり現実に呼び戻された。事情は切迫していた。二人の者は我に返ってからも、なぜともわからず心が乱れていた。そして彼らのうちには、その陰惨な場所のためにある言い知れぬ感情が起こっていた。

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