レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 精神的の方面を大略述べた後に、その物質的方面の象(すがた)を少しく指摘することはむだではないだろう。また既に読者にはそれが多少わかってるはずである。
 プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌの修道院は、ポロンソー街とドロア・ムュール街とピクプュス小路と、今はつぶれているが古い地図にはオーマレー街とのっていた小路とが、互いに交差して切り取った広い四角形のほとんど全部を占めていた。四つの街路はその四角形を溝(みぞ)のように取り巻いていた。修道院は数個の建物と一つの庭とから成っていた。中心の建物はこれを全体として見れば、雑多な様式をつみ重ねたもので、上から見おろせば、地上に倒した絞首台とほとんど同じ形になっていた。絞首台の大柱は、ピクプュス小路とポロンソー街との中に含まるるドロア・ムュール街の辺全体を占めており、その腕木は、鉄格子(てつごうし)のある灰色の高いいかめしい正面であって、ピクプュス小路を見おろしていた。六十二番地という標札のある正門はその端になっていた。この正面の約中央に、ほこりと灰とに白くなった穹窿形(きゅうりゅうけい)の低い古門があって、蜘蛛(くも)が巣を張っており、開かれるのはただ日曜日ごとに一、二時間と、修道女の柩(ひつぎ)が修道院から出るまれな場合だけだった。それが会堂への一般人の入り口であった。絞首台の肱(ひじ)に当たる所に、祭式の行なわれる四角な広間があって、それを修道女らは特別室と呼んでいた。大柱に当たる所に、長老やその他の修道女の分房と修練女の室とがあった。腕木に当たる所に、料理場と食堂とがあって、それと背中合わせに大歩廊と会堂とがあった。六十二番地の門をはいると、閉ざされてるオーマレー小路の角(かど)に寄宿舎があって、それは外からは見えなかった。四角形の残りの部分は庭になっていて、庭の地面にポロンソー街の地面よりもずっと低かった。そのために壁は外部よりも内側の方がはるかに高かった。庭は軽く中高になっていて、中央に一つの築山(つきやま)があり、その上に円錐形をなして梢(こずえ)のとがったりっぱな樅(もみ)の木が一本あって、ちょうど円楯(まるたて)の槍受(やりう)けの丸い中心から溝(みぞ)が出てるように、そこから四つの大径が出ていた。そして八つの小径が各大径の間に二つずつ通っていた。それで庭がもし円形だったら、道の幾何学的配置の図形は、ちょうど輪の上に十字形が置かれたようなありさまになったに違いない。道はみな庭の不規則な壁の所まで達しているので、その長さは一様でなかった。道の両側にはすぐりの木が立ち並んでいた。庭の奥には、大きな白楊樹の並んだ一筋の道が、ドロア・ムュール街の角にある古い修道院の廃屋から、オーマレー小路の角(かど)にある小修道院まで通じていた。小修道院の前方には、小庭と言われてるものがあった。それらの全体に加うるに、一つの中庭、中部の住家がこしらえてる種々な角、監獄の壁、ポロンソー街の向こう側にあって近くにずっと見渡せる黒い長い屋根並みの一列、などをもってする時には、今から四十五年前のプティー・ピクプュスのベルナール修道女らの住居のありさまが、だいたいわかるであろう。この聖(きよ)い住居はまさしく、十四世紀から十六世紀へかけて有名だった一万一千の悪魔の庭球場と呼ばれるテニスコートの跡に、建てられていたのである。
 なおそれらの街路は、パリーのうちでは最も古いものだった。ドロア・ムュールとかオーマレーとかいう名前はきわめて古いものである。がそういう名前を持ってる街路はなおずっと古いものである。オーマレー小路はもとモーグー小路と言われていた。そしてドロア・ムュール街(訳者注 垂直壁街の意)はエグランティエ街(訳者注 野薔薇街の意)と言われていた、それは人が石を切る前に神は花を咲かせられたからである。

     九 僧衣に包まれし一世紀

 われわれはプティー・ピクプュスの古(いにしえ)のありさまを詳しく述べているのであるから、そして既にこの秘密な隠れ家(が)の窓を一つ開いて中をのぞいたことであるから、なおここにも一つ枝葉の点を述べることを許していただきたい。これは本書の内容とは没交渉のものではあるけれども、この修道院が独特な点を有することを了解せんがためには、きわめて特異な有効なものである。
 小修道院に、フォントヴローの修道院からやってきた百歳ばかりの女が一人いた。彼女は革命以前には上流社会の人だった。ルイ十四世の下に掌璽官(しょうじかん)だったミロメニル氏のことや、親しく知っていたというあるデュプラーという議長夫人のことなぞを、いつもよく話していた。あらゆる場合に右の二つの名前を持ち出すことは、彼女の楽しみでもあり見栄(みえ)でもあった。またフォントヴローの修道院に関して種々大げさなことを話していた、フォントヴローは大都市であるとか、修道院の中に多くの街路があるとかいうようなことを。
 彼女にはピカルディーのなまりがあった。寄宿生らはそれをおもしろがっていた。毎年彼女はおごそかに誓願をくり返した。そして誓言をなす時にはいつも牧師にこう言った。「サン・フランソア閣下はそれをサン・ジュリアン閣下にささげたまい、サン・ジュリアン閣下はそれをサン・ウーゼーブ閣下にささげたまい、サン・ウーゼーブ閣下はそれをサン・プロコープ閣下にささげたまい、云々云々、そして私はそれを、わが父よ、なんじにささげまする。」それで寄宿生らは、頭巾(ずきん)の下で(訳者注 ひそかに)ではないが、面紗(かおぎぬ)の下で笑うのであった。かわいい小さな忍び笑いであって、いつも声の母たちの眉(まゆ)をしかめさした。
 またある時は、この百歳の女は種々な話をしてきかした。私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった、というようなことを言った。そういう口をきくのは一世紀で、しかも十八世紀だったのである。またシャンパーニュとブールゴーニュとの四つの葡萄酒(ぶどうしゅ)の風習のことも話した。革命以前には、ある高貴の人、たとえばフランス元帥だの、大侯だの、枢密院公爵だの、そういう人々がシャンパーニュやブールゴーニュのある町を通らるる時には、その町の団体の者がごきげん伺いにまかり出て、四種の葡萄酒をついだ四つの銀の盞(さかずき)を献ずるのであった。第一の盞には猿(さる)の葡萄酒という銘が刻んであり、第二のには獅子(しし)の葡萄酒、第三のには羊の葡萄酒、第四のには豚の葡萄酒という銘が刻んであった。その四つの銘は酩酊(めいてい)の四段階を示したものであった。第一段の酩酊は人を愉快になし、第二段は人を怒りっぽくなし、第三段は人を遅鈍になし、第四段は人を愚昧(ぐまい)にする。
 彼女は何か一つの秘密な物を引き出しの中に入れて、鍵(かぎ)をかってごく大事にしまっていた。フォントヴローの規則はそういうことを禁じなかったのである。彼女はその品をだれにも見せようとしなかった。自分でそれをながめようとする時には、室(へや)に閉じこもって、それも規則に許されていたので、そして人の目にふれないようにした。もし廊下に足音が聞こえると、その年取った手でできるだけ大急ぎで引き出しをしめた。そのことを言い出そうものなら、ごくおしゃべりな彼女も口をつぐんでしまった。いかにものずきな者も彼女の沈黙にはどうすることもできず、いかに執拗(しつよう)な者も彼女の頑固(がんこ)にはどうすることもできなかった。かくてその不思議な品物は、修道院中のひまで退屈しきってる人たちの問題の的となった。百歳の老婆の宝となってるそのとうとい秘密な物は、いったいどういうものだろう。きっと何かの聖書かも知れない、またとない何かの念珠かも知れない。折り紙のついた何かの遺品かも知れない。人々はあれかこれかと推測に迷った。そのあわれな老婆が死ぬと、人々はあられもなく大急ぎで引き出しの所にかけつけて、それを開いてみた。するとその品物は、祭典の聖皿のように三重の布(きれ)に包まれていた。大きな注射器を持った薬局生たちに追われて飛び去ってゆく愛の神たちの絵があるファエンツァの皿であった。追跡者の方は種々な渋面をしたり種々なおかしな姿勢をしていた。かわいい小さな愛の神たちの一人は、既に注射器で貫かれていた。彼は身をもがき小さな翼を動かしてなお飛ぼうとしていたが、道化者の方は悪魔のような笑いを浮かべていた。絵の意味は、腹痛にうち負けた愛というのである。その皿は至って珍しいもので、たぶんモリエールにあの喜劇の思いつきを一つ与えるの光栄を有したことであろう。一八四五年の九月にはなお残っていた。ボーマルシェー大通りのある古物商の店に売り物に出ていた。
 このお婆さんは、外部からの訪問を受けるのを好まなかった。応接室があまり陰気だから、と彼女は言っていた。

     十 常住礼拝の起原

 おおよそのありさまを前に述べておいたこの墓場のような応接室は、全く独特なもので、他の修道院においてもこれほど厳重には作られていなかった。実際これとは別な会派に属するものであるが、タンプル街の修道院においては特に、黒い板戸は褐色(かっしょく)の幕に代えられていた。そして床(ゆか)には木が舗(し)いてあった。窓わくには白モスリンの布がやさしくかぶせてあり、壁には種々な額縁がかかっていて、面紗(かおぎぬ)をかぶらないベネディクト修道女の肖像が一つ、花束の絵が数個、それからまたトルコ人の顔までがあった。
 タンブル街の修道院の庭には、有名な七葉樹があった。それはフランス第一の美しい大きなものとされていた。十八世紀の人たちは、王国のすべての七葉樹の父であると言って評判していた。
 前に言ったとおりこのタンプルの修道院には、シトーから出てきたベネディクト修道女とは全く別なものではあるが、やはり常住礼拝をしているベネディクト修道女らがいた。この常住礼拝の一派はそう古いものではなく、二百年以上にさかのぼるものではない。一六四九年に、パリーの二つの会堂サン・スュルピスとサン・ジャン・アン・グレーヴとで、数日へだてて、聖サクラメントがけがされた。あまり例のない恐ろしい冒涜(ぼうとく)で、全市をわき立たせたものだった。サン・ジェルマン・デ・プレの修道院長大助祭はその全聖職者に命じて荘厳な行列をなさしめ、そこで法王の特使が祭式を上げた。けれどもその贖罪(しょくざい)の祭式をも、二人のりっぱな婦人、ブーク侯爵夫人であるクールタン夫人とシャトーヴィユー伯爵夫人とは、なお足りないように思った。「祭壇のきわめておごそかなる秘蹟」に対してなされた冒涜は、たとい一時的のものではあったとしても、二人の聖(きよ)い魂から去らないで、ある童貞女らの修道院において「常住礼拝」をしなければ贖(あがな)われるものではないように思われた。それで一人は一六五二年に、一人は一六五三年に、ベネディクト修道女でサン・サクルマンという教名を持ってるカトリーヌ・ド・バール長老に莫大(ばくだい)な金額を寄贈して、その敬虔(けいけん)な目的のために聖ベネディクト派の一修道院を設立させようとした。その設立に対する第一の許可は、サン・ジェルマンの修道院長メース氏によってカトリーヌ・ド・バール長老へ交付された。「現金六千フランにして年三百フランの定期納金を有せざる娘は入会せしめざるの規約において」であった。サン・ジェルマンの修道院長の後に、国王は特許の宸翰(しんかん)を下した。そして修道院長の許可状と国王の宸翰との全体は会計院と議政府とにおいて一六五四年に認可された。
 以上が、パリーのサン・サクルマンの常任礼拝ベネディクト修道女会が設立された起原であり、また法律上に認可された経過である。その最初の修道院は、カセット街に、ブークおよびシャトーヴィユー両夫人の金によって「新しく建て」られた。
 この会派はかくのごとくして、いわゆるシトーのベネディクト修道女会とは別なものであった。これはサン・ジェルマン・デ・プレの修道院長から起こったもので、サクレ・クールの修道女会がセジュー派の管長から起こされ、シャリテの修道女会がラザール派の管長から起こされたのと同じである。
 われわれがその内部を述べてきたあのプティー・ピクプュスのベルナール修道女会も同じく、このサン・サクルマン派とは全く別なものであった。一六五七年に、法王アレキサンドル七世は特別の宸翰(しんかん)をもって、サン・サクルマンのベネディクト修道女らのように常住礼拝を行なうことを、プティー・ピクプュスのベルナール修道女らにも許可した。しかし両派は依然として別なものであった。

     十一 プティー・ピクプュスの終わり

 王政復古の初め頃から、プティー・ピクプュスの修道院は衰微してきた。十八世紀の後には、すべての宗教的団体とともに一般に秩序の終滅をきたしたのであって、これもその一部分にすぎなかった。静観は祈祷(きとう)とともに人間に必要なものの一つである。しかし革命の手に触れられたすべてのものと同じく、静観もやがてその形を変じて、社会の進歩をはばむことから脱して、かえってそれを助けるものとなるだろう。
 プティー・ピクプュスの家に住む者は、にわかにその数を減じてきた。一八四〇年には、小修道院はなくなり、寄宿舎もなくなっていた。年老いた女らも、若い娘らも、もはやそこにいなかった。老いたる者は死に、若き者は立ちのいていた。彼女らは飛び去りぬ。
 常住礼拝の規則は、人に怖気(おじけ)を震わせるほど苛酷(かこく)なものである。帰依する者は少なくなり、新たにはいって来る者はなくなった。一八四五年には、なお多少の助修道女らが散在していた。しかし歌唱の修道女はもはや一人もいなかった。今から四十年前には、修道女の数は約百人ばかりだった。十五年前には、もはや二十八人に過ぎなかった。そして今日は幾人になってることであろう? 一八四七年には、院長はまだ若い人だった。これは選挙の範囲がせばまったしるしである。院長は四十歳にもなっていなかった。また人員の減少につれて労苦は増してくる。各人の仕事はますます激しいものとなってくる。聖ベネディクトの重い規則をになうべき肩も、やがては前にかがんだ痛ましいもののみ十指を屈するにすぎなくなることが見えていた。しかもその重荷は絶対的のものであって、それをになうべき人員の多少にかかわらず常に同一なのである。それは人を圧迫し人を押しつぶす。かくて修道女らは死んでいった。本書の著者がなおパリーにいた頃、死んだ者が二人まである。一人は二十五歳で、一人は二十三歳だった。二十三歳の彼女は、おそらくユリア・アルピヌラのようにこう言ったであろう。「二十三年を生きて今妾(わらわ)ここに横たわる。」修道院が若い娘の教育をよしたのも、かかる衰微のゆえにである。
 この異常な未知の薄暗い家の前を通るや、われわれはその中にはいってみざるを得なかったのである。あるいは何人(なにびと)かのためになるべきを思ってわれわれがジャン・ヴァルジャンの憂うつな物語をなすのに耳を傾けてくれる人々、われわれのあとに従ってきてくれる人々を、その中に導かざるを得なかったのである。今日ではいかにも新奇に見える古い常習に満ちたこの修道院の内部に、われわれは既に一瞥(いちべつ)を与えた。それは実に閉ざされたる庭である。禁園である。この不思議な場所のことを、詳細にしかも敬意をもって、少なくとも敬意と詳細とが相一致し得る限りにおいて、われわれは述べきたった。われわれはその全部を理解することはできないが、しかしその何物をも軽侮しはしない。死刑執行人を神聖視するまでに至ったジョゼフ・ド・メーストルの賛嘆と、十字架像をあざ笑うまでに至ったヴォルテールの冷笑と、両者からわれわれは同じ距離に立つ者である。
 ヴォルテールの没論理、という一語をついでに加えよう。なぜならば、ヴォルテールはカラス(訳者注 十八世紀フランスの商人で寃罪を受けて残酷な死刑に処せられた人、ヴォルテールは彼を熱心に弁護したのである)を弁護したと同様に、キリストをも弁護すべきはずだったからである。超人間的な化身説を否定する人々の前にも、十字架像は何を示すのであるか。殺害された賢者の姿をではないか。
 十九世紀において、宗教的観念は危機を閲している。人はある種のことを学んでいない。けれども、一を学ばずとも他を学びさえするならば、それも別にさしつかえはない。ただ人の心のうちに空虚を存してはいけない。またある種の破壊がなされている。ただ、破壊の後に建設がきさえするならば、それも至極いいことである。
 まずそれまでは、もはや存在しない事物をも研究しようではないか。それを知ることは必要である、それを避けんがためにでも。過去の偽物は偽名を取って好んで未来と自称する。この幽霊は、過去は、しばしばその通行券を偽造する。われわれはその詭計(きけい)を見破ろうではないか。疑念をはさもうではないか。過去は迷信という顔を持ち、虚偽という仮面をかぶる。その顔を摘発し、その仮面を引きはごうではないか。
 修道院については、複雑なる問題が起こってくる。文明の問題は修道院をしりぞけ、自由の問題は修道院を保護する。
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   第七編 余談



     一 抽象的観念としての修道院

 本書は一つのドラマであって、その第一の人物は無窮なる者である。
 人間は第二の人物である。
 かかるがゆえに、途中に一修道院を見いだすや、吾人はその中にはいってみざるを得なかった。何ゆえかなれば、修道院というものは、東洋と西洋とを問わず、古代と近代とを問わず、偶像教と仏教とマホメット教とキリスト教とを問わず、皆それに固有のものであって、人間によって無窮なるものの上に適用された幻燈器械の一つだからである。
 今はある何かの観念を過度に敷衍(ふえん)すべき折りではない。けれども、絶対に遠慮と制限とを守り、かつ憤懣(ふんまん)の情を覚えながらも、吾人は一言せざるを得ない。すなわち、人間のうちに無窮なるものを見いだす時は、たといそれが正当につかまれていると否とを問わず、吾人は常に尊敬の念に打たれる。ユダヤの会堂やマホメットの教堂やインドの寺院や黒人の聖堂などのうちにも、擯斥(ひんせき)すべき醜悪なる一面と賛嘆すべき荘厳なる一面とが存する。人間という壁の上への神の反映こそ、いかに人を静観せしめ、いかに深き夢想のうちに陥らしむることか!

     二 歴史的事実としての修道院

 歴史、理性、および真理の見地よりすれば、修道院制はしりぞけらるべきものである。
 一国のうちに数多の修道院がある時には、それは交通の障害となり、邪魔な建物となり、活動の中心たるべき所に怠惰の中心を出現するに至る。修道組合が大なる社会組織に対する関係は、あたかも寄生木(やどりぎ)の樫(かし)の木におけるがごとく、疣(いぼ)の人体におけるがごときものである。その繁栄と肥満とは、国の衰弱となる。修道院の制度は、文明の初期においては有益であって、精神的のものによって獣性を減殺するに役立つのであるが、しかし民衆の活動力には悪い結果を及ぼすものである。なおまた、その制度が弛緩(しかん)して退廃期に入る時には、それでもやはり範例となるがゆえに、その純潔なる時代において有益であったと同じ理由によって、かえって有害なるものとなる。
 修道院内にこもるには、特殊な時期があった。修道院生活は、近代文明の初期の教育には有効であったが、文明の成長には妨げとなったし、その発展には有害なものとなっている。制度としてまた人間に対する教養の方式として修道院は、十世紀には有益なものであったが、十五世紀には問題にすべきものとなったし、十九世紀には排斥すべきものとなっている。修道院制の病根は、二つのみごとなる国民、数世紀の間欧州の光明たりしイタリーとその光輝たりしスペインとを、ほとんどその骨までしゃぶりつくした。そして現代においてこの二国民がようやくその病根から平癒(へいゆ)し初めたのは一七八九年(訳者注 フランス大革命)の勇健なる衛生法のお陰によってである。
 なお十九世紀の初めにイタリーやオーストリアやスペインなどに残っていた修道院は、ことに古い女修道院は、中世の最も薄暗い投影の一つである。その内部は、それらの修道院の内部は、あらゆる恐怖すべきものの交差点である。本来のカトリックの修道院内部は、死の暗黒なる輝きに充(み)ち満ちている。
 スペインの修道院は特に陰惨である。そこでは、暗黒のうちにつっ立って、靄(もや)のこめた穹窿(きゅうりゅう)の下に、影のためにおぼろな丸天井の下に、大会堂のように高く、バベルの塔のようにおごそかな祭壇がそびえている。大きな白い十字架像がやみのうちに鎖に下がっている。黒檀(こくたん)の台の上に大きな象牙のキリスト像が裸のまま並んでいる。血にまみれてるというよりも血を流してるような趣である。恐ろしいがしかし荘厳な趣である。両肱(りょうひじ)は骨立ち、両膝(りょうひざ)は皮膜があらわで、傷口からは肉が見えており、銀の荊棘(いばら)の冠をかぶり、金の釘(くぎ)でつけられ、額には紅玉(ルビー)の血がしたたり、目には金剛石(ダイヤ)の涙が宿っている。その金剛石と紅玉とはぬれてるようで、その下の影の中に面紗(かおぎぬ)をかぶった人たちを泣かせる。彼女らは鉄のついた鞭(むち)と毛帯とで脇腹を傷つけ、柳蓆(やなぎこも)で胸を押しつぶし、祈祷のために膝の皮をすりむいている。めとりし者と自らを想像してる女ども、天使と自らを想像してる幽霊ども。それらの女は考えているのか、否。欲しているのか、否。愛しているのか、否。生きているのか、否。その神経は骨となり、その骨は石となっている。その面紗は編まれたる暗夜である。面紗の下のその呼吸は、言い知れぬ悲壮なる死の息にも似寄っている。一個の悪鬼たる院長が、彼女らをきよめ彼女らを恐怖さしている。生々しい無垢(むく)がそこにある。かくのごときすなわちスペインの古い修道院のありさまである。恐るべき帰依の巣窟(そうくつ)、童貞女らの洞穴(どうけつ)、残忍の場所である。
 カトリック教のスペインは、ローマ自身よりももっとローマ的であった。スペインの修道院は、特にカトリック教的なものであった。そしてあたかもトルコ宮殿のごときものであった。大司教すなわち天のキスラル・アガは、神にささげられた魂の宮殿を閉鎖し監視していた。修道女は宮女であり、牧師は宦官(かんがん)であった。信仰熱き女らは、夢のうちに選まれてキリストを所有している。夜になると、その裸体の美しい青年は十字架からおりてきて、分房の歓喜の的となった。十字架につけられし彼を皇帝(サルタン)として守っている奥深い皇后(サルタナ)は、あらゆる現世の楽しみから高い壁でへだてられていた。外界に向ける一瞥(いちべつ)も既に不貞となるのであった。寂滅牢(訳者注 修道院において罪人を死に至るまで幽閉する地牢)は皮の袋の代わりとなっていた。東方において海に投ずるところのものを、西洋にては地下に投じていた。しかしいずれにおいても、投ぜられた女らは腕をねじ合わして苦しんだ。一方には波濤(はとう)があり、一方には墓穴があった。一つは溺死(できし)、一つは埋没。おぞましき類似である。
 今日、過去に味方する者らは、これらのことを否定し得ずして、それを微笑にまぎらさんとつとめた。歴史の摘発を止め、哲学の注釈を弱め、あらゆる不利な事実やいやな問題を省略せんがために、不思議な便利な方法を流行さした。大言壮語の題目だと巧みなる者らはいう。大言壮語だとその尻馬(しりうま)に乗った者らは繰り返す。かくて、ジャン・ジャック・ルーソーも壮語家となり、ディドローも壮語家となり、カラスやラバールやシルヴァン(訳者注 皆寃罪のために極刑に処せられし人)などを弁護するヴォルテールも壮語家となる。また最近だれかがかかることまで言った、タキツスは一つの壮語家であり、ネロ皇帝はその犠牲である、そして「このあわれなるホロフェルネス」(ネロ)こそまさしく同情すべきであると。
 しかしながら事実は曲げ難いものであり、頑強(がんきょう)なるものである。ブラッセルから八里ばかりの所、だれにもわかる中世のひな形のある所、すなわちヴィレルの修道院において、その中庭の牧場の中央に終身囚の穴と、ディール川の岸に半ばは地下に半ばは水の下になってる四つの石牢(ろう)とを、本書の著者は親しく見たのである。それこそまさしく寂滅牢の跡である。それらの地牢の各には、一つの鉄の扉(とびら)のなごりと、一つの厠(かわや)と、格子(こうし)のはまった一つの軒窓とが残っている。その軒窓は、外部では川の水面上二尺の所になっており、内部では地上六尺の所になっている。四尺の厚さの川水が壁の外を流れているわけである。地面はいつも湿っている。寂滅牢にはいった者は、その湿った地面の上に寝ていたのである。地牢のうちの一つには、壁にはめ込んである鉄鎖の一片が残っている。またあるものの中には、四枚の花崗岩(かこうがん)でできてる四角な箱のようなものが見られる。それは中に寝るにはあまりに短く、中に立つにはあまりに低い。昔その中に人を入れて上から石の蓋(ふた)をしたものである。それが残っている。目で見、手でさわることができる。それらの寂滅牢、それらの地牢、それらの鉄の扉の肱金(ひじがね)、それらの鉄鎖、川の水がすれすれに流されているその高い軒窓、墓穴のように花崗岩の蓋がされて中の者に死者と生者との違いがあるのみのその石の箱、泥深いその地面、その厠(かわや)の穴、水のしたたるその壁、それらを云々することが何で大言壮語家であるか!

     三 いかなる条件にて過去を尊重すべきか

 スペインまたはチベットにあったような修道院制度は、文明にとっては一種の結核である。それは生命の根を断つ。一言にして言えば人口を減ずる。閉居であり、去勢である。ヨーロッパにおいては天の罰であった。それに加うるに、しばしば人の本心に対してなされた暴行、強制的な加入、修道院生活に立脚する封建制、家庭の冗員を修道院のうちに送り込む父兄、前に述べたような残虐、寂滅牢、緘黙(かんもく)、閉鎖されたる頭脳、永久誓願の牢獄に入れられたる多くの不幸なる知力、僧服の着用、魂の生きながらの埋没。かくて、国民的衰退に加うるに個人の苦悩。それを思う時にはいかなる人も、人間の発明になった二つの経帷子(きょうかたびら)たるその道服と面紗(かおぎぬ)との前に、必ずや戦慄(せんりつ)を覚ゆるであろう。
 けれども、ある方面にはそしてある場所には、哲学や世の進歩にかかわらず、修道院的精神は十九世紀のさなかに残存している、そして禁慾主義のおかしな再興が今や文明社会を驚かしている。古き制度のなお永続せんとする頑固(がんこ)さは、臭き油のなお人の頭髪につけられんことを求むる頑強さにも似、腐った魚肉のなお食せられんことを求むる主張にも似、子供の衣服のなお大人にまとわれんことを求むる執拗(しつよう)さにも似、埋もれる死骸(しがい)のなお生きたる人々を抱擁しに戻りきたらんとする情愛にも似ている。
 恩知らずめ、天気の悪い時には汝を保護してやったではないか、それなのになぜもうわれを欲しないのか、と衣服は言う。われは海の底からやってきたのだ、と魚肉は言う。かつてわれは薔薇(ばら)だったのだ、と香油は言う。われは汝を愛したのだ、と死骸は言う。そしてわれは汝を文明に導いてやったのだ、と修道院は言う。
 それらに対してはただ一つの答えがあるばかりである、なるほど昔は、と。
 死亡したる事物の無限の延長を夢想し、木乃伊(ミイラ)によって人類の統治せらるるを夢想すること、退廃したる信条を復興すること、遺物櫃(ひつ)に再び金箔(きんぱく)をきせること、修道院を再び塗り立てること、遺骨匣(ばこ)を再び祝福すること、迷信を再び興すこと、狂言を再び盛んにすること、灌水器(かんすいき)と剣とに再び柄をすげること、修道院制と軍国主義とを再び建てること、寄食者の増加によって社会の幸福を信ずること、現在に過去を押し付けること、それは実に常規を逸したことと思われるではないか。けれど世にはかかる理論を主張する者がある。それらの理論家は、もとより才人であって、きわめて簡単な方法を持っていて、社会の秩序、天の正義、道徳、家庭、祖先崇拝、古き権威、神聖なる伝統、正法、宗教、などと彼らが称するところの塗料を過去の上に塗る。そして彼らは叫び回る。「いざ、善良なる人々よ、これを執れ。」そういう理論は、古人の間によく知られたものであった。ローマの卜占者(ぼくせんしゃ)らはそれを実行していた。彼らは黒牛に白堊(はくあ)を塗りつけて言った、「この牛は白である。」それこそ白塗りの牛である。
 吾人は、過去がただ死者たることを自認しさえするならば、過去をも部分的にはこれを尊び全体としてはこれをいたわってやるであろう。しかしもし生者たることを欲するならば、これを攻撃しこれを殺さんとつとむるであろう。
 迷信、頑迷(がんめい)、欺瞞(ぎまん)、偏見など、それらの悪霊は、悪霊でありながらもなお生命に執着し、その妖気(ようき)の中に歯と爪とを持っている。それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない。なぜならば、亡霊らと絶えざる戦いをなすことは、定められたる人類の運命の一つだからである。しかしながら影は、その喉(のど)をつかみ難くうち倒し難いものである。
 十九世紀のさなかに、フランスに、一修道院があるとすれば、それは日に向かってる梟(ふくろう)の学校に過ぎない。一七八九年と一八三〇年と一八四八年との三度の革命を経た都市の中央に禁慾主義を実行しながら、パリーのうちにローマを建てながら、一修道生活があるとすれば、それは時代錯誤である。普通の時にあっては、時代錯誤を解放させ消滅さするには、それができ上がった年号を呼ばすればそれで足りる。しかしながら今は普通の時ではない。
 戦おうではないか。
 戦おうではないか、しかしまた敵をよく弁別しようではないか。真理の特性は、決して過度ならずということである。真理は何ら誇張の必要を持っていない。破壊すべきものもあり、また単に光に照らして研究すべきものもある。好意あるまじめなる審査、それはいかに力強いことであるか。光の十分にある所には、炎を持ち行くことをやめようではないか。
 ゆえに、十九世紀の世にあって吾人は、一般的の問題として、またあらゆる民衆のうちにおいて、アジアとヨーロッパとを問わず、インドとトルコとを問わず、禁慾的閉居に反対する者である。修道院を説くは沼沢を説くに等しい。その腐敗性は明らかであり、その澱(よど)みは不健全であり、その毒気は民衆に熱を病ましめ民衆を衰弱せしむる。その数が増せばやがてエジプトの災厄となる。インド托鉢僧(たくはつそう)、仏教僧、マホメット教行者、ギリシャ修道者、マホメット教隠者、シャム仏僧、マホメット教僧侶、彼らが増加して蛆虫(うじむし)のごとく群がってる国を考える時、吾人は身震いせざるを得ない。
 かく言っても、宗教的問題はなお残っている。その問題は、神秘的なほとんど恐るべき方面を有している。ここに吾人をしてそれを凝視することを許していただきたい。

     四 原則の見地より見たる修道院

 多くの人が相集まって共同の家に住む。それはいかなる権利によってであるか? 団結の権利によってである。
 彼らはその家に閉じこもる。いかなる権利によってか? おのれの戸を開きもしくは閉ざすは各人の任意であるという権利によって。
 彼らは外出をしない。いかなる権利によってか? 自家にこもるのを権利をも含みたる行ききするの権利によって。
 そこで、家の中で、彼らは何をなすか?
 彼らは低い声で話している。目を伏せている。働いている。世間を、町を、肉欲を、快楽を、虚栄を、傲慢(ごうまん)を、利益を、すべて見捨てている。荒い毛か麻かの着物をつけている。一人としていかなるものをも所有権によって所有していない。そこにはいれば、富んでいた者も貧しくなる。おのれの持っているものは、これを皆の者に与える。貴族と言われ紳士と言われ王侯と言われていた者も、百姓であった者と同等になる。分房はだれのも同一である。皆同じ剃髪(ていはつ)式を受け、同じ道服をつけ、同じ黒パンを食し、同じ藁(わら)の寝床の上に眠り、同じ灰の上に死んでゆく。同じ行衣を背につけ、同じ繩(なわ)を腰にしめている。もしはだしで歩くことが規則ならば、みなはだしで歩く。もしそこに一人の王侯がいるとしても、もはや他の者らと等しく一つの影にすぎない。もはや何らの称号もない。姓さえも消えてしまっている。彼らは呼び名だけしか持っていない。皆平等な洗礼名の下に頭をたれている。彼らは肉親の家庭を解除して、その会派のうちに精神的の家庭を立てている。彼らの親戚はただすべての人である。彼らは貧しい人々を助け、病める人々を看護する。彼らはおのれが服従すべき人を自ら選む。互いに彼らは「わが兄弟姉妹」と呼ぶ。
 かく言えば人は私をさえぎって叫ぶであろう、「しかしそれは理想の修道院だ!」
 しかしそれを考察するには、ただそれがあり得べきものでさえあればいい。
 かくて私は前編において、一つの修道院のことを敬意をこめた調子で語ったのである。そして中世を外にし、アジアを外にし、歴史的政治的問題を差し控え、純然たる哲学的見地に立ち、攻撃的論議の道具を捨てて、修道生活は絶対に自発的なもので同意をしか含んでいないという条件において、注意深い真剣さとある点に関しては謙遜なる真剣さとをもって、修道会をなお続けて考察していってみよう。一つの組合がある所には自治区があり、一の自治区がある所には権利がある。修道院も平等と友愛という規範から生じたものである。ああいかに自由とは大なるものであるか、そしていかに光輝ある変容であることか! 修道院を共和国に変容せしむるためには、ただ自由ということで足りる。
 なお言葉を進めてみよう。
 あの四方の壁の背後にいるそれらの男や女は、荒布をまとい、みな平等で、互いに兄弟姉妹と呼んでいる。それはよろしい。しかし彼らはなお他の事をもなすか?
 しかり。
 何を?
 彼らは影を見つめ、ひざまずき、手を合わしている。
 それはいったいいかなる意味であるか?

     五 祈祷(きとう)

 彼らは祈る。
 だれを?
 神を。
 神を祈る、この語は何を意味するか?
 われわれの外部にある無窮なるものがあるのではあるまいか? その無窮なるものは、単一のものであり恒久不易なるものではあるまいか。無窮なるがゆえに、また、もし実体が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に実体的のものではあるまいか、そして、無窮なるがゆえに、また、もし霊が欠くればその点で限られたるものとなるがゆえに、それは必然に霊的のものではあるまいか。われわれは自身に存在の観念しか与え得ないが、その無窮なるものはわれわれのうちに本質の観念を覚(さま)させるのではあるまいか。言葉を換えて言えば、それはわれわれの対称たる絶対ではないだろうか。
 われわれの外部に無窮なるものがあると同時に、われわれの内部にも無窮なるものがないだろうか。その二つの無窮なるものが(何という恐るべき複数であるか!)互いに重なり合ってるのではないだろうか。第二の無窮なるものは、いわば第一のものの下層ではないだろうか。それは第一のものの鏡であり、反映であり、反響であり、第一の深淵(しんえん)と同中心の深淵ではないだろうか。この第二の無窮なるものもまた霊的のものではあるまいか。それは考え愛し意欲するのではあるまいか。もし二つの無窮なるものが霊的のものであるならば、その各は一つの意欲的本体を有し、そして上なるものに一つの自我があるとともに、下なるものにも一つの自我があるに違いない。この下なる自我がすなわち人の魂であり、上なる自我がすなわち神である。
 思念によって、下なる無窮のものを上なる無窮のものと接触させること、それを称して祈るという。
 人の精神から何物をも取り去らないようにしようではないか。除去することは悪いことである。ただ改革し進化させなければいけない。人間のある種の能力は、未知なるものの方へ向けられている、すなわち、思想と夢想と祈祷(きとう)とが。未知なるものは一つの大洋である。人の本心とは何か? それは未知なるものに対する羅針盤(らしんばん)である。思想、夢想、祈祷、そこにこそ大なる神秘的光輝がある。それらを尊敬しようではないか。人の魂のおごそかなるそれらの発光はどこへ向かって進むか。それは影へ向かってである。換言すれば光明へ向かってである。
 民主主義の偉大さは、何物をも否定しないことであり、人類の何物をも否認しないことである。人間の権利の側に、少なくともその横手に、魂の権利がある。
 狂言を押しつぶし、無窮なるものを跪拝(きはい)すること、それが法則である。創造の木の下にひれ伏し星辰(せいしん)に満ちたその広大なる枝葉をうち眺めることのみに、止まらないようにしようではないか。われわれは一つの義務を持っている。人の魂を培(つちか)い、奇蹟に対抗して神秘を護(まも)り、不可解を尊んで不条理を排し、説明し難いものについてはただ必要なるもののみを許容し、信仰を健全にし、宗教の上より迷信を除くこと、すなわち神より害虫を駆除することである。

     六 祈祷(きとう)の絶対善

 祈祷の方法は、ただそれがまじめでさえあるならばすべてよろしい。汝の書物を伏せよ、そして無窮なるもののうちにあれ。
 吾人の知るところによれば、無窮なるものを否定する一つの哲学がある。また病理学上一つの哲学となし得るもので太陽を否定するのがある。その哲学を盲目と称する。
 われわれに欠けたる一知覚を真理の基となすことは、盲者の虚勢である。
 おもしろいことには、神を見る哲学に対して、その手探りの哲学は、優者らしいあわれむような尊大な態度を取る。あたかも土竜(もぐらもち)が叫ぶがような声を出す、「奴(やつ)らの太陽ときたら気の毒なものだ!」
 吾人の知るところによれば、有名な強力な無神論者らが世にはいる。彼らは自分自らの力によって真の方へつれ戻されて、根本では確かな無神論者ではない。彼らにとってはただ定義の問題だけである。そして彼らは偉大なる精神の者らであるから神を信じはしないにしても、多くの場合にかえって神を証明している。
 吾人は彼らの哲学を厳正に弁別しながらも、彼らの精神のうちに哲学者があることを慶するものである。
 なお言を進めよう。
 同じくみごとなる一事は、言葉をもって満足するの容易さである。多少濃霧に感染している北方の一形而上学派は、力という語を意志という語で置き換えて、それで人間の悟性のうちに一革命をきたすものと信じた。
 植物は生長する、と言う代わりに、植物は意欲する、と言うことも、万有は意欲するということをそれにつけ加えるならばなるほど意味深いことであろう。なぜならばそれから次のことが出て来るであろうから。すなわち、植物は意欲す、ゆえに植物は一つの自我を有す、万有は意欲す、ゆえに万有は一つの神を有す。
 この学派と反対であって、何物をも先入主的にしりぞけない吾人に言わしむれば、この派の容認する植物のうちにある意志は、この派の否定する万有のうちにある意志よりも、いっそう容認し難いもののように思われる。
 無窮なるものの意志を、換言すれば神を否定することは、無窮なるものを否定するのでなければでき得ないことである。これは前に論証したところである。
 無窮なるものの否定は、直ちに虚無主義に陥ってゆく。すべては「人の精神の一概念」となってしまう。
 虚無主義に対しては議論は不可能である。なぜなれば、合理的な虚無主義者は、相手の者が存在しているかを疑い、また自分自身が存在していることをも確信してはいないからである。
 彼の見地よりすれば、彼自身も彼自身に対しては「自分の精神の一概念」にすぎない、ということになり得る。
 ただ彼は一事を気づかないでいる、精神という言葉を発することによって、否定したすべてのものを一括して自ら肯定しているということを。
 要するに、否という一語にすべてを到達せしむる哲学によっては、何らの思索の道も開かれない。
「否」という一語に対しては、ただ「しかり」という一つの答えがあるのみである。
 虚無主義は領域を有しない。
 虚無なるものは存しない。零(ゼロ)は存しない。すべては何かである。無は何物でもない。
 人はパンによってよりもなお多く肯定によって生きている。
 見ることと示すこと、それだけでも十分ではない。哲学は一つのエネルギーでなければならない。人間を進化せしむることをその目的とし結果として有しなければならない。ソクラテスはアダムのうちにはいってマルクス・アウレリウスを製造しなければならない。換言すれば、至福の人間から知恵の人間を生まれさせなければならない。エデンの園をリセオムの園に変えなければならない。学問は一つの興奮剤でなければならない。享楽するということ、それはいかにつまらない目的であり、いかに弱々しい野心であるか。禽獣(きんじゅう)のみが享楽する。思考すること、そこにこそ人の魂の真の勝利がある。人々の飢渇に思想を差し出し、すべての者に強壮剤として神の観念を与え、彼らのうちに本心と学問とを親和せしめ、その神秘なる面接によって彼らを正しき人たらしむること、それが真の哲学の使命である。倫理は多くの真理の開花である。静観することはやがて行動することになる。絶対的なるものは実際的なるものでなければならない。理想なるものは、人の精神にとっては呼吸し飲み食し得るものでなければならない。「取れよ、これこそわが肉、これこそわが血なり、」というの権利を有するものは、実に理想である。知恵は一つの神聖なる聖体拝受(コンミュニオン)である。かかる条件においてこそ、知恵は単に無益なる好学心たることを止めて、人類組合の唯一にして最高なる方法とはなるのである。そしてかかる条件においてこそ、知恵は哲学より宗教へまで上りゆくのである。
 哲学というものは、神秘を自由にながめんがために、そして好奇心を満足させるに便利なというだけの、あの神秘の上に建てられたる単なる張り出し建築のみであってはならない。
 吾人は、おのれの思想の詳説はこれを他の機会に譲って、ここにはただ一言を述べるに止めよう。すなわち、信仰と愛という原動力たる二つの力なしには、人間を出発点として考えることもできず、進歩を目的として考えることもできないと。
 進歩は目的である。理想はその典型である。
 理想とは何であるか。それは神である。
 理想、絶対、完全、無窮、皆同一意義の言葉である。

     七 非難のうちになすべき注意

 歴史と哲学とは、永久のそしてまた同時に単純なる義務を有している。すなわち、司教カイアファス、法官ドラコ、立法者トリマルキオン、皇帝チベリウス、などと戦うことである(訳者注 キリストを定罪せしめしユダヤの僧侶、酷薄なるアテネの法官、苛酷なるローマの立法官、残忍なるローマ皇帝)。それは明瞭(めいりょう)で直截(ちょくせつ)で公明であって、何らの疑雲をも起こさせないことである。しかしながら、隔離生活の権利は、その障害と弊害とをもってしてもなお、確認され許容されんことを欲するものである。修道生活は人間の一問題である。
 修道院、その誤謬(ごびゅう)のしかも無垢(むく)の場所、謬迷(びゅうめい)のしかも善良なる意志の場所、無知のしかも献身の場所、苦難のしかも殉教の場所、それについて語る時には、ほとんど常に然(しか)りと否とを言わざるを得ない。
 修道院、それは一つの矛盾である。その目的は至福、その方法は犠牲。修道院は実に、結果として極度の自己棄却を持つ極度の自我主義である。
 君臨せんがために王位を捨つる、それが修道院制の箴言(しんげん)であるように思われる。
 修道院のうちにおいては、人は享楽せんがために苦業する。死を書き入れた手形を振り出す。天の光明を地上のやみに振り換える。修道院のうちにおいては、天国を相続するの前金として地獄が受け入れられている。
 面紗(かおぎぬ)や道服などの着用は、永遠をもって報いられる自殺である。
 かくのごとき問題を取り扱うには、嘲笑(ちょうしょう)はその場所を得ないように吾人には思われる。善も悪も、すべてが真剣なのである。
 正しき人も眉(まゆ)をしかめることはある、しかし決して悪意ある微笑はもらさない。吾人は憤怒を知っている、しかし悪念を知らないものである。

     八 信仰、法則

 なお数言を試みたい。
 教会が策略に満たさるる時、吾人はそれを非難し、求道者が利欲に貪婪(どんらん)なる時、吾人はそれを侮蔑(ぶべつ)する。しかし吾人は常に考える人を皆尊敬する。
 吾人はひざまずく者を祝する。
 一つの信仰、それこそ人間にとって必要なるものである。何をも信ぜざる者は不幸なるかな!
 人は沈思しているゆえに無為であるとは言えない。目に見ゆる労役があり、また目に見えぬ労役がある。
 静観することは耕作することであり、思考することは行動することである。組み合わしたる両腕も働き、合掌したる両手も仕事をなす。目を天に向けることも一つの仕事である。
 タレスは四年間静坐していた。そして彼は哲学を築いた。
 吾人に言わしむれば、修道者も閑人ではなく、隠遁者も無為の人ではない。
 影を思うことは、一つのまじめなる仕事である。
 墳墓に対する絶えざる思念は生ける者に適したものであることを、前に述べた事がらと撞着(どうちゃく)なしに吾人は信ずるのである。この点については、牧師と哲学者とは一致する。死ななければならない。トラップの修道院長は、ホラチウスに言葉を合わせる。
 自己の生活に墳墓の現前を多少交じえること、それは賢者の法則である、そしてまた苦行者の法則である。この関係においては、苦行者と賢者とは一堂に会する。
 物質的の生成がある。吾人はそれを欲する。また精神的の偉大さがある。吾人はそれに執着する。
 考えなき躁急(そうきゅう)な精神は言う。
「神秘の傍に並んで動かないそれらの人々が何になるか。何の役に立つか。いったい何を為しているのか?」
 悲しいかな、吾人を取り巻き吾人を待ち受けている暗黒を前において、広大なる寂滅の手が吾人をいかになすかを知らないで、吾人はただ答えよう。「それらの人々の魂がなす仕事ほど崇高なものはおそらくないであろう。」そしてなお吾人はつけ加えよう。「おそらくそれ以上に有益なる仕事はないであろう。」
 決して祈祷(きとう)をしない人々のために、常に祈祷をする人がまさしく必要である。
 吾人の見るところでは、すべて問題は、祈祷に交じえられたる思想の量にある。
 祈祷するライプニッツ、それこそ偉大なものである。礼拝するヴォルテール、それこそみごとなものである。ヴォルテールは(訳者補 この堂を)神に建てぬ。
 吾人はもろもろの宗教には反対であるが、真の一つの宗教の味方である。
 吾人は説教の惨(みじ)めさを信ずるものであり、祈祷の崇厳さを信ずるものである。
 その上、今吾人が過ぎつつあるこの瞬間において、仕合わせにも十九世紀に跡を印しないであろうこの瞬間において、また、多くの現代人が享楽的な道徳を奉じ一時的な不完全な物質的事物をのみ念頭にしている中にあって、なお多くの人は下げた額と高くもたげぬ魂とを持っているこの時において、自ら俗世をのがれる者は皆吾人には尊むべき者のように思われる。修道院生活は一つの脱俗である。犠牲は誤った道を進もうともやはり犠牲たることは一である。厳酷なる誤謬を義務として取ること、そこには一種の偉大さがある。
 それ自身について言えば、理想的に言えば、そしてすべての外部を公平に見きわめるまで真理のまわりを回らんがために言えば、修道院は、ことに女の修道院は――なぜならば、現社会において最も苦しむものは女であり、そしてこの修道院への遁世(とんせい)のうちには一の抗議が潜んでいるからして――女の修道院は、確かにある荘厳さを有している。
 前に多少の輪郭を示しておいた厳格陰鬱(いんうつ)なる修道生活、それは生命ではない、なぜならば自由ではないから。それは墳墓ではない、なぜならば完成ではないから。それは不思議なる一つの場所である。高山の頂から見るように人はそこから、一方には現世の深淵(しんえん)をながめ、他方には彼世の深淵をながめる。それは二つの世界を分かってる狭い霧深い一つの境界で、両世界のために明るくされるとともにまた暗くされ、生の弱い光と死の茫漠(ぼうばく)たる光とが入り交じっている。それは墳墓の薄明である。
 それらの女の信ずるところを信じてはいないがしかし彼女らのごとく信仰によって生きている吾人をして言わしむれば、吾人は一種の宗教的なやさしい恐怖の情なしには、羨望(せんぼう)の念に満ちた一種の憐憫(れんびん)の情なしには、彼女らをながむることができないのである。震え戦(おのの)きながらしかも信じ切っているそれらの身をささげたる女性、謙遜なるしかも尊大なるそれらの魂、既に閉ざされたる現世と未だ開かれざる天との間に待ちながら、あえて神秘の縁に住み、目に見えざる光明の方へ顔を向け、唯一の幸福としてはその光明のある場所を知っていると考えることであり、深淵と未知とを待ち望み、揺るぎなき暗黒の上に目を定め、ひざまずき、我を忘れ、震え戦き、永遠の深き息吹(いぶ)きによって時々に半ば援(たす)け起こされるそれらの女性よ。
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   第八編 墓地は与えらるるものを受納す



     一 修道院へはいる手段

 ジャン・ヴァルジャンがフォーシュルヴァンのいわゆる「天から落ち」こんできたのは、前述のような家の中へであった。
 彼はポロンソー街の角(かど)をなしてる庭の壁を乗り越えたのだった。ま夜中に彼が聞いた天使たちの賛美歌は、修道女らが歌う朝の祈りであった。彼が暗闇(くらやみ)のうちにのぞき見た広間は、礼拝堂であった。彼が床(ゆか)の上に横たわってるのを見た幽霊は、贖罪(しょくざい)をなしてる修道女であった。彼がいぶかり驚いた音をたててた鈴は、フォーシュルヴァン爺(じい)さんの膝についてる庭番の鈴であった。
 コゼットを寝かすと、前に言ったとおりジャン・ヴァルジャンとフォーシュルヴァンとは、一杯の葡萄酒(ぶどうしゅ)と一片のチーズとを、よく燃える薪(まき)の火にあたりながら味わった。それから、その小屋の中にあるただ一つの寝台にはコゼットが寝ていたので、彼らはそれぞれ藁束(わらたば)の上に横になった。目をふさぐ前にジャン・ヴァルジャンは言った、「これから私はここに置いてもらわなくてはならない。」その言葉が、終夜フォーシュルヴァンの頭の中から去らなかった。
 実を言えば、二人とも眠れはしなかったのである。
 ジャン・ヴァルジャンは、見破られてジャヴェルから跡をつけられてることを感じていて、もしパリーの中へ出ていったら自分とコゼットとの破滅をきたすということがわかっていた。新たに吹きつけてきた一陣の風によってその修道院に投げ込まれたことであるから、もはやそこに止まろうという一つの考えしか持っていなかった。しかるに、彼のような地位にある不幸な者にとっては、その修道院は同時に最も危険なまた最も安全な場所だった。最も危険だというのは、いかなる男もそこへははいることができないので、もし見付かったら現行犯となり、しかもジャン・ヴァルジャンにとってはその修道院から牢獄まではただ一歩を余すのみだったからである。最も安全だというのは、もしそこに許されて止まることができたら、だれからもさがしにこられる憂いがなかったからである。不可能の場所に住むこと、それが安全の策であった。
 フォーシュルヴァンの方では、しきりに頭を悩ましていた。彼はまず、少しも訳がわからぬことを自ら認めた。あの高い壁にかこまれているのに、どうしてマドレーヌ氏がはいってきたのだろう。この修道院の壁は乗り越せるものではない。それにどうして子供を連れてはいってきたのだろう。腕に子供をかかえてつき立った壁を攀(よじ)登れるものではない。またあの子供は何者だろう。二人はいったいどこからきたのだろう。フォーシュルヴァンはその修道院にはいっていらい、モントルイュ・スュール・メールのことについては何の噂(うわさ)も聞かず、そこに起こったことを少しも知っていなかった。と言って、マドレーヌ氏の様子は事情を尋ねるのも気の毒なほどだった。その上フォーシュルヴァンは自ら言った、「聖者に何かと尋ねるものではない。」マドレーヌ氏は彼の目から見れば、まだりっぱな人であった。ただ、ジャン・ヴァルジャンの口からもれた数語によって、庭番は次のことが推察できるように思った。すなわち、マドレーヌ氏はおそらくこの困難な時勢のために破産に陥ったのであろう、そして債権者どもから追い回されてるのであろう、あるいはまた、何か政治上の事件に関係して、身を隠そうとしてるのかも知れない。そしてこの考えはフォーシュルヴァンの気に入った。彼は北方の多くの農民と同じく、古くからのボナパルト派だったからである。身を隠そうとして、マドレーヌ氏はこの修道院を避難所と定めたのであろう、そして彼がここにとどまりたいというのは当然なことである。けれども、フォーシュルヴァンが絶えず思い出して頭を悩ました不可解なことは、マドレーヌ氏が庭の中にいたこと、しかも子供といっしょにいたことであった。フォーシュルヴァンは二人を目で見、二人を手でさわり、二人に話しかけたのだが、それでもなお夢のような気がしていた。その不可解事は、今や彼の小屋の中まではいり込んできた。彼は種々想像をめぐらしてみた。そしてただ「マドレーヌ氏は自分の生命の親である」ということきり何もはっきりしたことはわからなかった。けれどもその確かな一事で十分だった。それで彼は心を定めた。彼はひそかに考えた、「こんどは自分の番だ。」そして心のうちでつけ加えた、「私を引き出すため車の下にはいり込むのにマドレーヌ氏は種々考えてみはしなかったんだ。」彼はマドレーヌ氏を助けようと決心した。
 それでもなお彼は、いろいろと自問自答した。「私にあれだけのことをしてくれたが、もし盗人だったとしても助けるべきものだろうか? やはり同じことだ。もし人殺しだったとしても助けるべきものだろうか? やはり同じことだ。聖者だからというので助けるべきだろうか? やはり同じことだ。」
 しかし彼を修道院にとどめるというのは、いかに困難な問題であったか! それでもほとんど夢にみるようなその仕事の前にも、フォーシュルヴァンはたじろぎはしなかった。ピカルディーのあわれな一百姓である彼は、献身と善意とまたこんどは任侠(にんきょう)な目的のためにめぐらされる古い田舎者(いなかもの)の多少の知恵とのほか、何らの梯子(はしご)も持たずに、修道院の難関と聖ベネディクトの規則の荒い懸崖(けんがい)とを、乗り越してみようと企てたのである。フォーシュルヴァン爺(じい)さんは生涯(しょうがい)の間利己主義者であったが、晩年になると跛者にはなるし身体はきかなくなるし、もう世間に何の興味もなくなり、恩を感ずることが楽しくなり、また何かいい行ないをなすべき場合に出会うと、あたかも、かつて味わったこともない上等の一杯の葡萄酒(ぶどうしゅ)に死ぬ間ぎわになって手を触れて、それを貪(むさぼ)り飲む人のように、そこに飛びついてゆくのであった。その上、修道院の中で既に数年間呼吸してきた空気は、彼の個性を滅却さして、ついに何らかのいい行ないをせざるを得ないようにしてしまったのである。
 で彼は決心をした、マドレーヌ氏に身をささげようと。
 われわれは今彼をピカルディーのあわれな百姓と呼んだ。この形容詞は正当なものではあるが、しかしそれだけでは不十分である。この物語もここまで進んでくると、フォーシュルヴァン爺さんの人がらを少しく述べることも有益になってくる。いったい彼は百姓であったが、公証人書記をしていたことがあった。そのために、彼の知恵には多少の訴訟癖が加わり、彼の素朴さには多少の洞察力(どうさつりょく)が加わった。ところが種々な理由で仕事に失敗して、公証人書記から荷車屋となり人夫とまでなり下がった。けれども、必要だと思えば馬をののしったり鞭(むち)を食わしたりしてはいたものの、なお彼のうちには公証人書記の性質が残っていた。彼は生まれながらの機知を持っていた。仮名づかいをも知っていた。田舎には珍しいほど話も上手だった。他の百姓どもは彼のことを、「あの男は旦那方のような言葉つきをする」と言っていた。フォーシュルヴァンは実際、十八世紀の煩雑(はんざつ)軽薄な言葉でいわゆる半都会人半田舎者というあの階級、お邸(やしき)から百姓家の方までひろがっていって平民どもの取って置きのたとえ言葉となってるものでいわゆる半平民半市民、胡椒(こしょう)と塩というあの階級、それに属していたのである。彼は運命にひどく苦しめられ弱らされており、すり切れたあわれな老耄(おいぼれ)の魂とはなっていたけれども、まだやはりきびきびした自発的な人間であった。これは人を決して悪人となさない尊い性質である。彼は欠点や悪徳も持ってはいたが、それは表面的なものだった。要するに彼の人相は、よく見るとはなはだ愛すべきものであった。その年老いた顔には、悪質か愚昧(ぐまい)かを示すあの上額のいやな皺(しわ)は少しもついていなかった。
 夜明け頃に、フォーシュルヴァンは途方もない夢をみて目をさました。見ると、マドレーヌ氏は藁束(わらたば)の上にすわって、眠ってるコゼットをながめていた。フォーシュルヴァンは半身を起こして言った。
「さて、あなたは今ここにいなさるが、どうして改めてはいる工夫をしたものでしょうかな。」
 その言葉は一言にして事情を言い尽したもので、ジャン・ヴァルジャンを夢想から呼びさました。
 二人の老人は相談をはじめた。
「まず、」とフォーシュルヴァンは言った、「この室から外に出ないようにしなければいけません。
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