レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 四、五歳の青い目の子供が聞いた次の話が、六歳の薔薇色(ばらいろ)の口から即席に作られたのも、この庭の芝生(しばふ)の上においてである。
「三羽の小さな鶏が、花のたくさん咲いた国を持っていました。鶏は花を摘んで隠しに入れました。それから葉を摘んで玩具(おもちゃ)の中に入れました。その国に一匹の狼(おおかみ)がおりました。森がたくさんありました。狼(おおかみ)は森の中にいました。そして狼は小さな鶏たちを食べてしまいました。」
 それからなお次のような詩も作られたのである。

棒で一つたたきました。
猫(ねこ)をたたいたのはポリシネルでした。
そのため善(よ)いことは起こらず悪いことが起こりました。
そこで奥様がポリシネルを牢屋(ろうや)に入れました。

 修道院で引き取って慈善のために育てていた一人の捨て児の口から、次のようなやさしいまた痛ましい言葉が発せられたのも、ここにおいてである。彼女は他の子供たちが母親のことを話すのをきいて、片すみでつぶやいたのである。
「私が生まれた時はお母様はいらっしゃらなかった。」
 いつも鍵(かぎ)の束を持って廊下を歩き回ってる肥った受付の女が一人いた。アガト修道女という名前であった。十歳から上の大姉さまたちは、彼女のことをアガトクレス(訳者注 シラキューズの暴君)と呼んでいた。
 食堂は長方形の大きな室で、迫持□形(せりもちくりがた)のついた庭と同じ高さの大歩廊から明りがはいるのみで、薄暗くじめじめしていて、子供らが言ってるとおりに、虫がいっぱいいた。周囲から虫が集まってきていた。それで寄宿生らの間では、そのすみずみに特別なおもしろい名前をつけていた。蜘蛛(くも)の隅(すみ)、青虫の隅、草鞋虫(わらじむし)の隅、蟋蟀(こおろぎ)の隅などがあった。蟋蟀の隅は料理場のそばで、ごくとうとばれていた。他の隅(すみ)ほどそこは寒くなかった。それらの名前は食堂から寄宿舎の方まで持ってこられて、昔のマザランの四国民大学のように、それで区別されていた。各生徒は食事の時にすわる食堂のすみずみに従って、四国民の何れか一つに属していた。ある日大司教が巡視にきて、ちょうど見回っていた室(へや)に、みごとな金髪を持った顔色の美しいきれいな小娘がはいって来るのを見て、自分のそばにいるみずみずしい頬(ほお)をした美しい褐色(かっしょく)の髪の寄宿生に尋ねた。
「あの子は何ですか。」
「蜘蛛(くも)でございます。」
「なあに! ではあちらのは?」
「蟋蟀(こおろぎ)でございます。」
「では向こうのは?」
「青虫でございます。」
「なるほど、そしてお前さんは?」
「私は草鞋虫(わらじむし)でございます。」
 この種の家にはそれぞれ特殊なことがあるものである。十九世紀の初めにはエクーアン市もまた、ほとんど尊い影のうちに少女らが育ってゆく優しい厳重な場所の一つであった。エクーアンでは、聖体祭の行列に並ぶのに、処女派と花派とを区別していた。それからまた「天蓋派(てんがいは)」と「香炉派」というのもあって、前者は天蓋のひもを持ち、後者は聖体の香をたくのだった。花はまさしく花派の受け持ちだった。四人の「処女」が一番先に進んだ。その晴れの日の朝になると、しばしば寝室でこんなふうに尋ねる声が聞かれた。
「どなたが処女でございましょう。」
 カンパン夫人は七歳の「妹」が十六歳の「姉」に言った次の言葉を引用している。その時妹の方は行列の後ろの方にいたが、姉の方は行列の先頭にいたのである。「あなたは処女でございますわね。私は処女でございませんのよ。」

     五 気晴らし

 食堂の扉(とびら)の上の方に、人をまっすぐに天国に導くためのものであって純白なる主の祈りと称せらるる次の祈祷(きとう)が、黒い大字で書かれていた。
「いみじき純白なる主の祈り、神自ら作りたまい、神自ら唱えたまい、神自ら天国に置きたまいしもの。夕に床に就(つ)かんとする時、三人の天使わが床に寝(やす)みいたり。一人は裾(すそ)に二人は枕辺(まくらべ)にありて、中央に聖母マリアありぬ。マリアわれに曰(のたま)いけるは、寝(い)ねよ、ためろうなかれと。恵み深き神はわが父、恵み深き聖母はわが母、三人の使徒はわが兄弟、三人の童貞女(おとめ)はわが姉妹。神の産衣(うぶぎ)にわが身体は包まれてあり、聖マルグリットの十字はわが胸に書かれたり。聖母は神を嘆きて野に出で、聖ヨハネに会いぬ。聖ヨハネよいずこよりきたれるか? われはアヴェ・サルスよりきたりぬ。さらば爾(なんじ)は神を見ざりしか? 神は十字の木の上に居たまいぬ、足をたれ手を釘(つ)けられ、白き荊棘(いばら)の小さき冠を頭にかぶりて居たまいぬ。夕に之を三度唱え朝にこれを三度唱うる者は、終(つい)に天国に至らん。」
 この特殊な祈祷は一八二七年には、三度重ねて塗られた胡粉(ごふん)のために壁から消えてしまっていた。当時の若い娘らも今はもはや年老いて、それを忘れてしまっていることだろう。
 壁に釘付(くぎづ)けにされた大きな十字架像が、食堂の装飾を補っていた。食堂のただ一つの扉(とびら)は前に述べたと思うが、庭の方に開いていた。木の腰掛けが両側についてる狭いテーブルが二つ、食堂の一方から他の端まで二列の長い平行線に置かれていた。壁は白く、テーブルは黒かった。それらの二つの喪色のみが、修道院に許される唯一の色彩である。食事は粗末なもので、子供の食べるものでさえ厳重だった。肉と野菜を交ぜたものかまたは塩肴(さかな)かの一皿、それでさえ御馳走(ごちそう)だった。そして寄宿生だけのその簡単な常食も、実は例外なものだった。子供らは週番の長老の監視の下に黙って食事をした。もしだれか規則に反して口を開こうものなら、長老は木の書物を開いたり閉じたりして大きな音を立てた。けれどもそういう沈黙は、十字架像の足下に設けてある小さな机の講壇で聖者らの伝記が大声に読まれることで、いくらか助かるのだった。それを読む者は、その週の当番の大きい生徒であった。むき出しのテーブルの上に所々陶器の鉢(はち)が置いてあって、その中で生徒らは自ら自分の皿や食器を洗った。時とすると、堅い肉やいたんだ肴など食い残しのものをそれに投げ込むこともあった。そうするといつも罰せられた。それらの鉢は水盤と言われていた。
 沈黙を破って口をきいた者は「舌の苦業」をなすのであった。床(ゆか)になすのであって、すなわち舗石(しきいし)をなめるのである。あらゆる喜悦の最後のものたる埃(ほこり)は、薔薇(ばら)のあわれな小さな花弁にして囀(さえず)りの罪を犯したものを、懲らしむるの役目を帯びていたのである。
 修道院のうちには、ただ一部だけ印刷されていて読むことを禁じられてる書物が一つあった。それは聖ベネディクトの規則の本である。俗人の目がのぞいてはいけない奥殿である。われらの規則(おきて)あるいは制度(さだめ)を他国の人に通ぜんとする者あらざるべし。
 寄宿生らはある日ようやくにしてその書物を盗み出した。そして皆で熱心に読み初めた。けれども見つけられることを恐れては急にそれを閉じたりして、何度も途中でとぎらした。生徒らはその非常な冒険からただつまらない楽しみを得たのみだった。若い男の子の罪に関するよく意味のわからない数ページが「一番おもしろかった」くらいのものである。
 生徒らはやせた数本の果樹の立ち並んだ庭の道の中で遊んだ。監視がきびしく罰が重かったにもかかわらず、果樹が風に揺られるような時には、青い林檎(りんご)や腐った杏子(あんず)や虫の食った梨(なし)などを、ひそかに拾い取ることがあった。ここに私は、今自分の目の前にある一つの手紙に語らしてみよう。この手紙は、今日ではパリーの最も優美な婦人の一人たる某公爵夫人が、以前そこの寄宿生であった時、二十五年前に書いたものである。私は原文どおりに書き写してみよう。――「梨や林檎をできる限り隠しておきます。夕食をする前に面紗(かおぎぬ)を寝床に置きに行く時、枕の下にそっと押し込んでおき、晩になって寝床の中で食べます。もしそれができない時は、厠(かわや)の中で食べます。」――そういうことが彼女らの最も強い楽しみであった。
 ある時、それもやはり大司教がこの修道院を訪れた時のことであったが、有名なモンモランシー家に多少縁故のあるブーシャール嬢という若い娘が、一日の休暇を大司教に願ってみるから賭(かけ)をしようと言い出した。かくも厳格な会派ではそれは異常なことだった。賭は成り立った。そして賭に加わった者一人として、そんなことができようとは思っていなかった。ところがいよいよその時になって、大司教が寄宿生らの前を通る時に、仲間の者が名状すべからざるほど恐れてるなかをブーシャール嬢は列から離れて、そして言った。「閣下、一日休みを下さいませ。」ブーシャール嬢は背が高く生々(いきいき)とした姿でこの上もなくかわいい薔薇色(ばらいろ)の顔つきをしていた。大司教のケラン氏はほほえんで言った。「一日とはまたどうしてです。三日でもいいでしょう。三日休みを上げましょう。」院長も差し出る力はなかった、大司教が言われたことであるから。修道院にとっては困まることであったが、寄宿舎にとっては愉快なことだった。その印象は想像してみてもわかるだろう。
 このむずかしい修道院にも、外部の情熱の生活、芝居や小説めいたことまでが、いくらかはいり込むくらいの壁のすき間はあった。それを証明するために、次の確かな事実を一つ持ち出して簡単に述べてみよう。もとよりその事実は、本書の物語とは何らの関係もなく何らの連絡もないものである。それを語るのもただこの修道院のありさまを読者の頭によく映ぜしめんがためにほかならない。
 そこで、この時代に、一人の不思議な女が修道院にいた。修道女ではなかったが、皆にごく尊敬されていて、アルベルティーヌ夫人と言われていた。多少気が変であること、世間には死んだことになってること、その二つを除いてはだれも彼女の身の上を知ってる者はなかった。またそれだけの話のうちには、あるりっぱな結婚のために必要な財産を整理するためだという意味があるんだとも、人は言っていた。
 彼女は三十歳になるかならずで、髪は褐色(かっしょく)で、かなりの美貌(びぼう)で、大きな黒い目でぼんやり物をながめた。そしてほんとに見てるのかどうか疑わしかった。足で歩くというよりもむしろすべり歩いてるというありさまだった。決して口はきかなかった。息をしてるかさえよくはわからなかった。その小鼻は最期の息を引き取ったあとのように狭まって蒼白(そうはく)だった。その手に触れると雪に触れるかのような感じがした。幽霊的な不思議な優美さをそなえていた。彼女がはいってくると皆寒さを感じた。ある日、彼女が通るのを見て一人の修道女が言った。「あの人は死んでることになってるそうですよ。」すると、も一人のが答えた。「もう本当に死んでるのかも知れませんわ。」
 アルベルティーヌ夫人については、種々な話があった。彼女は寄宿生らの絶えざる好奇心の的であった。礼拝堂に丸窓と言われる一つの座席があった。一つの丸い壁口、すなわち一つの丸窓のついたその座席に、いつもアルベルティーヌ夫人はすわって祭式に列した。彼女はたいていそこに一人ですわっていた。なぜなら、二階にあるその座席からは男の説教師や祭司などが見えるからだった。男の牧師を見ることは修道女らには禁じられていたのである。ある日演壇には、高位の若い牧師が立っていた。それはローアン公爵であって、貴族院議員であり、またレオン大侯と言っていた一八一五年には近衛騎兵の将校をしてたことがあり、後に枢機官となりブザンソンの大司教となって一八三〇年に死んだ人である。そのローアン氏が初めてプティー・ピクプュスの修道院で説教をした時のことであった。アルベルティーヌ夫人は、平素は全く身動きもしないで深い落ち着きをもって説教や祭式に列するのだったが、その日ローアン氏を見るや半ば身を起こして、礼拝堂のひっそりした中で大声に言った「まあ、オーギュスト!」会衆はみな驚いてふり返り、その説教師も目を上げて見た。しかしアルベルティーヌ夫人はもう不動の姿に返っていた。外部の世界の息吹(いぶ)き、生命の輝き、その一つが一瞬間、火も消えて凍りついてる彼女の顔の上を通ったのである、そして次にまたすべては消え失せ、狂女はまた死骸(しがい)となってしまった。
 けれども右の二語は、修道院の中で口をきき得るすべての人たちの噂(うわさ)の種となった。そのまあオーギュストという言葉のうちには、いかに多くのことがこもっていたことか、いかに多くの秘密がもらされたことか。ローアン氏の名は実際オーギュストであった。ローアン氏を知ってるところを見ると、アルベルティーヌ夫人はごく上流の社会からきたに違いなかった。かくも高貴な人をあれほど親しく呼ぶところを見ると、彼女もまた上流の社会の高い地位にあったに違いなかった。またローアン氏の「呼び名」を知ってるところを見ると、彼女は彼とある関係が、あるいは親戚関係かも知れないが、しかし確かに密接な関係があるに違いなかった。
 ショアズールとセランという二人の至って厳格な公爵夫人が、しばしばこの会を訪れてきた。きっと上流婦人の特権ではいって来るのであろうが、それをまた寄宿舎では非常に恐れていた。二人の老夫人が通る時には、あわれな若い娘らは皆震え上がって目を伏せていた。
 ローアン氏はまた自ら知らずして、寄宿生らの注意の的となっていた。その頃彼は、司教職につく前にまず、パリー大司教の大助祭となっていた。そしてプティー・ピクプュスの修道女らの礼拝堂の祭式を唱えにやって来ることは、彼の仕事の一つとなっていた。若い幽閉の女らはだれも、セルの幕が掛かってるために彼の姿を見ることはできなかったけれど、彼はやや細いやさしい声を持っていたので、彼女らはそれをやがて聞き覚えて、他の者の声と聞き分けることができるようになった。彼は近衛(このえ)にはいっていたことがあるし、それからまた人の言うところによると、非常なおめかしやで、美しい栗色(くりいろ)の髪を頭のまわりにみごとに縮らしているそうであるし、広い黒いりっぱなバンドをしめており、その教服は世に最も優雅にたたれているそうである。そして彼は十六、七歳の娘のあらゆる想像の的となっていた。
 何ら外部の物音は、修道院の中まで達してこなかった。けれどもある年、笛の音が聞こえてきた。それは一事件だった。当時の寄宿生らは今もなおそれを思い起こすだろう。
 それはだれかが付近で奏する笛の音であった。今日ではもう遠く忘られている一つの歌曲をいつも奏していた。「わがゼチュルベよ、わが魂の上にきたり臨め。」そして日に二三回もそれが聞こえた。
 若い娘たちは数時間それに聞きほれてることがあった。声の母たちは狼狽(ろうばい)した。神経は過敏になって、むやみと罰が課せられた。そういうことが数カ月続いた。寄宿生らは皆多少その見知らぬ音楽家に心を動かしていた。各自に自分をゼチュルベと夢想していた。笛の音はドロア・ムュール街の方から響いていた。笛をあれほど美妙に奏しているその「青年」、自ら気づかずにこれらすべての娘の魂を同時に奏しているその「青年」、彼の姿をたとい一瞬間でもながむることができ、垣間(かいま)見ることができ、瞥見(べっけん)することができるならば、彼女らはすべてを捨てて顧みず、すべてを冒し、すべてを試みたであろう。中には通用門からぬけ出して、ドロア・ムュール街に臨んだ四階の方まで上ってゆき、高窓からのぞこうとした者もあった。けれども、見ることはできなかった。そのうちの一人は、頭の上に手を差し伸ばして窓の格子(こうし)から外に出し、白いハンカチを打ち振りまでした。またもっと大胆なまねをした者が二人あった。彼女らは屋根の上までよじのぼり、危険を冒して、ついに首尾よく「青年」を見ることができた。ところがそれは、零落した盲目の老亡命者であって、屋根裏の部屋で退屈まぎれに笛を吹いてるのだった。

     六 小修道院

 このプティー・ピクプュスの構内には、全く異なった三つの建物があった。修道女らが住んでいる大きな修道院、生徒らが泊まっている寄宿舎、それから小修道院と言われていたところのもの。小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残(なご)りのものであった。黒や灰色や白やあらゆる色の混合であって、あらゆる組合あらゆる種類のものの会合であった。もしこういう言葉の組み合わせが許されるならば、雑色修道院とも呼び得べきものであった。
 既に帝政の頃から、革命のために散乱して途方にくれてるあわれな修道女らは、ベネディクト・ベルナール派の建物のうちに身を置くことを許されたのである。政府は彼女らにも少しの年金を与えた。プティー・ピクプュスの女たちは前から年金を喜んで受けていたのである。それは実におかしな混合体で、各自に自派の規則を守っていた。時とすると寄宿舎の生徒らは、大休みとして、彼女らを訪問することが許された。若い生徒らが、サン・バジル長老やサント・スコラスティック長老やジャコブ長老などのことを特に覚えていたのは、この訪問の結果である。
 それらの避難修道女のうちの一人は、ほとんど自分の家に帰ってきたような観があった。それはサント・オール派の修道女で、その一派からただ一人生き残っていた者である。サント・オール派の昔の修道院は、十八世紀の初めには、後にマルタン・ヴェルガのベネディクト修道女らのものとなったプティー・ピクプュスの家にあったのである。この聖(きよ)き童貞女はごく貧しくて、自派のりっぱな服、緋(ひ)色の肩衣のついた白の長衣を、ふだんに着られなかったので、それを大事そうに小さな像に着せておいた。彼女はその像を慇懃(いんぎん)に人に見せていたが、死ぬ時にそれを建物に遺贈した。かくて一八二四年には、このサント・オール派のものは一人の修道女きり残っていなかったが、今日ではもう一つの人形きり残っていない。
 それらのりっぱな長老たちのほかに、たとえばアルベルティーヌ夫人のような世俗の老女も数人、小修道院に隠退することを院長から許されていた。その中には、ボーフォール・ドープール夫人だの、デュフレーヌ侯爵夫人などもいた。また一人の女は、身分が少しもわからなくて、鼻をかむ時に恐ろしい音を立てることだけ知られていた。寄宿舎の生徒らは彼女をヴァカルミニ夫人(訳者注 とどろき夫人の意)と呼んでいた。
 一八二〇年か二一年ごろ、アントレピードという小さな定期編纂物(へんさんぶつ)を当時編集していたジャンリー夫人が、プティー・ピクプュスの修道院の一室にはいりたいと願ってきた。オルレアン公の推薦があった。蜂(はち)の巣をつっついたような騒ぎになった。声の母たちは震え上がった。ジャンリー夫人は小説を書いたことがあったのである。けれども、自分はだれよりも小説をきらう者であると彼女は公言した。そしてまた自分は熱烈な信仰の境地に到達したのだと言った。神の助けと、またオルレアン公の助けとによって、彼女はそこにはいることができた。ところが七、八カ月たつと、庭に木陰がないという理由で出て行ってしまった。修道女らは大喜びをした。老年ではあったが彼女は、なお竪琴(ハープ)をいつも弾じていて、それもきわめて巧みに弾じた。
 出て行く時彼女は自分の分房に痕(あと)を残していった。ジャンリー夫人は迷信家でまたラテン語学者であった。その二つのことは彼女の人がらにかなりいい趣を添えた。彼女が金銭や宝石などを入れていた分房の小さな引き出しの内部に、次の五行のラテン語の詩がはりつけてあるのが今から数年前まで残っていた。それは黄色い紙に赤インキで彼女が自らしたためたもので、彼女に言わせると盗人を恐がらせる威力を持ってるものだそうである。

値異なる三つの身体、十字架の枝にかかる、
ディスマス、ジェスマス、中央にイエス・キリスト。
ディスマスは高きを求め、あわれジェスマスは低きを求む。
願わくは神よ、われらの生命(いのち)と財とを護(まも)りたまえ。
この詩を誦(しょう)する者は、その財を盗まるることなからむ。

 六世紀頃のラテン語のその詩は、あのカルヴェールの丘でキリストとともに十字架につけられた二人の盗賊の名が、一般に信ぜられてるようにディマスおよびジェスタスと言うのであるか、あるいはこの詩のとおりディスマスおよびジェスマスというのであるかについて、問題をひき起こした。この詩の方の名前は、十八世紀にジェスタス子爵が自分はある悪党の後裔(こうえい)であると言った主張を裏切るものだった。それからまたこの詩にあるとせられた有利なまじないの威力は、オスピタリエ派の女らの信仰の一個条となっている。
 ここの会堂は、大きい方の修道院と寄宿舎とを切り離すようなふうに建てられていたが、もとより寄宿舎と大きい修道院と小修道院とに共通のものであった。それからまた、街路に開いている検疫所みたいな一種の入り口から、一般の人もはいることが許されていた。けれども修道院の中に住んでる人たちには、決して外部の人の顔が見えないようにしつらえてあった。その会堂の歌唱の間(ま)は、ある大きな手につかまれてるようで、普通の会堂に見るように祭壇の続きとはなっていないで、祭司の右手の方に一種の広間あるいは一種の薄暗い窖(あなぐら)をなすようなふうに折れ曲がっていた。またその広間は、前に述べたとおり高さ七尺の幕で閉ざされていた。幕の陰に木の椅子(いす)の上に、歌唱の修道女らは左に寄宿生らは右に、助修道女や修練女らは奥に控えていた。それだけのことを想像しても、聖務に列するプティー・ピクプュスの修道女らのありさまは多少わかるであろう。歌唱の間と呼ばるるその窖は、一つの廊下で修道院に通じていた。会堂内の明りは庭から採られていた。規則上沈黙を守らなければならないような祭式に修道女らが列する時は、立てたりねかしたりする椅子の腰木がぶつかる音で、一般の人はようやく彼女らの列席を知るのであった。

     七 影の中の数人の映像

 一八一九年から二五年まで六年の間、プティー・ピクプュスの修道院長は、教名をイノサント長老というブルムール嬢であった。聖ベネディクト会の聖者伝の著者であるマルグリット・ド・ブルムールの家の出であった。院長に再選されたのである。六十歳ばかりの背の低いふとった女で、前に引用した一寄宿生の手紙の言葉によれば「破甕(やれがめ)のような声を出す」女だった。けれどすぐれた婦人で、修道院中でただ一人快活な女であって、そのために人から敬愛されていた。
 イノサント長老は、会の大立者だった先祖のマルグリットの気質を受け継いでいた。文才があり、博識で、学者で、鑑識家で、歴史を愛好し、ラテン語を学んでおり、ギリシャ語をつめ込んでおり、ヘブライ語に達者で、ベネディクト修道女というよりもむしろベネディクト修道士と言ったふうな型(タイプ)だった。
 副修道院長は、シヌレス長老と言って、ほとんど盲目なスペイン人の老修道女だった。
 声の母たちのうちで重立ったのは次のような人たちだった。会計係りのサント・オノリーヌ長老、修練女長のサント・ジェルトリュード長老、副長のサント・アンジュ長老、御納室係りのアンノンシアシオン長老、修道院中でただ一人の意地悪で看護係りのサン・トーギュスタン長老、なお次には、みごとな声を持ったまだ若いサント・メチルド長老(ゴーヴァン嬢)、フィーユ・ディユー修道院やジゾールとマンニーとの間にあるトレゾール修道院にいたことのあるデ・ザンジュ長老(ド・ルーエ嬢)、サン・ジョゼフ長老(ド・コゴリュード嬢)、サント・アデライド長老(ドーヴェルネー嬢)、ミゼリコルド長老(苦業にたえ得なかったシファント嬢)、コンパッシオン長老(規則に反して六十歳ではいってきたきわめて金持ちのド・ラ・ミルティエール嬢)、プロヴィダンス長老(ド・ローディニエール嬢)、一八四七年に院長になったプレザンタシオン長老(ド・シガンザ嬢)、それからまた、気狂(きちが)いになったサント・セリーニュ長老(彫刻家セラッキの妹)、気狂いになったサント・シャンタル長老(ド・スューゾン嬢)。
 それからなお、最も美しい人たちの一人には、二十三歳の美人があった。ブールボン島の生まれで、ローズ騎士の後裔(こうえい)で、俗世ではローズ嬢と言われ、修道院ではアッソンプシオン長老と言われていた。
 サント・メチルド長老は、歌と歌唱隊とを統べる役目を持っていて、好んで寄宿生を採用した。採用される者は、普通は一音階すなわち七人であって、声と身体とのよく整った十歳から十六歳までの者で、小さい者から大きい者と年齢の順に並べられて、立ちながら歌わせられた。それを見ると、若い娘らでできた野笛のようなありさまで、パン神の天使らでできてる生きた笛のような観があった。
 寄宿生らに最も好かれていた助修道女には次のような人々がいた。サント・ウーフラジー姉(し)、サント・マルグリット姉、まだ幼いサント・マルト姉、いつも皆を笑わせる長い鼻を持ったサン・ミシェル姉。
 修道女らは皆幼い生徒らにやさしかった。彼女らが厳格であるのは、ただ自分自身に対してのみだった。火がたかれるのはただ寄宿舎の方だけだった。それから食物も、修道院の方に比べると寄宿舎の方が上等だった。その上に生徒らは種々な世話を受けた。ただ、生徒が修道女のそばを通って話しかけてみても、修道女は決して返事をしなかった。
 そういう沈黙の規律は次のような結果をきたしていた。すなわち、修道院中において、言葉は人間から奪われて無生物に与えられていた。あるいは会堂の鐘が口をきき、あるいは庭番の鈴が口をきいた。受付の女のそばに置かれていて家中に響き渡る大きな音の出る鐘は、その種々の音で、一種の音響電信のような仕方で、しなければならない実際的の仕事を知らせたり、必要に応じて某々の人を応接室に呼んだりした。各人および各仕事は、皆それぞれきまった音を持っていた。修道院長は一つと一つ、副院長は一つと二つ。六つと五つは課業。それで生徒らは決して教室にはいるということを言わないで、六つと五つに行くと言っていた。四つと四つはジャンリー夫人の音であった。その音はごくしばしば聞かれた。好意を持たない者らはそれを四つの悪魔と言っていた(訳者注 四つの悪魔とは大騒ぎという意味にもなる)。十と九つは大事件の合い図だった。大事件というのは壁の門の開くことであって、その鋲(びょう)のいっぱいついた恐ろしい鉄の扉(とびら)は大司教の前にしか決して開かれなかったのである。
 大司教と庭番とのほかは、前に言ったとおり、男はだれも修道院の内部にははいられなかった。けれど寄宿生らはその他に二人の男を見たことがあった。一人はバネス師という年老いた醜い教誨師(きょうかいし)であって、それを皆は会堂の歌唱の間(ま)で格子(こうし)越しに見ることを許されていた。も一人は図画の教師のアンシオー氏で、前に数行引用した一寄宿生の手紙の中ではアンシオ氏と呼ばれていて、恐ろしい佝僂(せむし)の老人だと書かれている。
 男の人選がすべていかにうまく行なわれてるかは、これでわかるであろう。
 そういうのがこの不思議な家のありさまであった。

     八 心の次に石

 精神的の方面を大略述べた後に、その物質的方面の象(すがた)を少しく指摘することはむだではないだろう。また既に読者にはそれが多少わかってるはずである。
 プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌの修道院は、ポロンソー街とドロア・ムュール街とピクプュス小路と、今はつぶれているが古い地図にはオーマレー街とのっていた小路とが、互いに交差して切り取った広い四角形のほとんど全部を占めていた。四つの街路はその四角形を溝(みぞ)のように取り巻いていた。修道院は数個の建物と一つの庭とから成っていた。中心の建物はこれを全体として見れば、雑多な様式をつみ重ねたもので、上から見おろせば、地上に倒した絞首台とほとんど同じ形になっていた。絞首台の大柱は、ピクプュス小路とポロンソー街との中に含まるるドロア・ムュール街の辺全体を占めており、その腕木は、鉄格子(てつごうし)のある灰色の高いいかめしい正面であって、ピクプュス小路を見おろしていた。六十二番地という標札のある正門はその端になっていた。この正面の約中央に、ほこりと灰とに白くなった穹窿形(きゅうりゅうけい)の低い古門があって、蜘蛛(くも)が巣を張っており、開かれるのはただ日曜日ごとに一、二時間と、修道女の柩(ひつぎ)が修道院から出るまれな場合だけだった。それが会堂への一般人の入り口であった。絞首台の肱(ひじ)に当たる所に、祭式の行なわれる四角な広間があって、それを修道女らは特別室と呼んでいた。大柱に当たる所に、長老やその他の修道女の分房と修練女の室とがあった。腕木に当たる所に、料理場と食堂とがあって、それと背中合わせに大歩廊と会堂とがあった。六十二番地の門をはいると、閉ざされてるオーマレー小路の角(かど)に寄宿舎があって、それは外からは見えなかった。四角形の残りの部分は庭になっていて、庭の地面にポロンソー街の地面よりもずっと低かった。そのために壁は外部よりも内側の方がはるかに高かった。庭は軽く中高になっていて、中央に一つの築山(つきやま)があり、その上に円錐形をなして梢(こずえ)のとがったりっぱな樅(もみ)の木が一本あって、ちょうど円楯(まるたて)の槍受(やりう)けの丸い中心から溝(みぞ)が出てるように、そこから四つの大径が出ていた。そして八つの小径が各大径の間に二つずつ通っていた。それで庭がもし円形だったら、道の幾何学的配置の図形は、ちょうど輪の上に十字形が置かれたようなありさまになったに違いない。道はみな庭の不規則な壁の所まで達しているので、その長さは一様でなかった。道の両側にはすぐりの木が立ち並んでいた。庭の奥には、大きな白楊樹の並んだ一筋の道が、ドロア・ムュール街の角にある古い修道院の廃屋から、オーマレー小路の角(かど)にある小修道院まで通じていた。小修道院の前方には、小庭と言われてるものがあった。それらの全体に加うるに、一つの中庭、中部の住家がこしらえてる種々な角、監獄の壁、ポロンソー街の向こう側にあって近くにずっと見渡せる黒い長い屋根並みの一列、などをもってする時には、今から四十五年前のプティー・ピクプュスのベルナール修道女らの住居のありさまが、だいたいわかるであろう。この聖(きよ)い住居はまさしく、十四世紀から十六世紀へかけて有名だった一万一千の悪魔の庭球場と呼ばれるテニスコートの跡に、建てられていたのである。
 なおそれらの街路は、パリーのうちでは最も古いものだった。ドロア・ムュールとかオーマレーとかいう名前はきわめて古いものである。がそういう名前を持ってる街路はなおずっと古いものである。オーマレー小路はもとモーグー小路と言われていた。そしてドロア・ムュール街(訳者注 垂直壁街の意)はエグランティエ街(訳者注 野薔薇街の意)と言われていた、それは人が石を切る前に神は花を咲かせられたからである。

     九 僧衣に包まれし一世紀

 われわれはプティー・ピクプュスの古(いにしえ)のありさまを詳しく述べているのであるから、そして既にこの秘密な隠れ家(が)の窓を一つ開いて中をのぞいたことであるから、なおここにも一つ枝葉の点を述べることを許していただきたい。これは本書の内容とは没交渉のものではあるけれども、この修道院が独特な点を有することを了解せんがためには、きわめて特異な有効なものである。
 小修道院に、フォントヴローの修道院からやってきた百歳ばかりの女が一人いた。彼女は革命以前には上流社会の人だった。ルイ十四世の下に掌璽官(しょうじかん)だったミロメニル氏のことや、親しく知っていたというあるデュプラーという議長夫人のことなぞを、いつもよく話していた。あらゆる場合に右の二つの名前を持ち出すことは、彼女の楽しみでもあり見栄(みえ)でもあった。またフォントヴローの修道院に関して種々大げさなことを話していた、フォントヴローは大都市であるとか、修道院の中に多くの街路があるとかいうようなことを。
 彼女にはピカルディーのなまりがあった。寄宿生らはそれをおもしろがっていた。毎年彼女はおごそかに誓願をくり返した。そして誓言をなす時にはいつも牧師にこう言った。「サン・フランソア閣下はそれをサン・ジュリアン閣下にささげたまい、サン・ジュリアン閣下はそれをサン・ウーゼーブ閣下にささげたまい、サン・ウーゼーブ閣下はそれをサン・プロコープ閣下にささげたまい、云々云々、そして私はそれを、わが父よ、なんじにささげまする。」それで寄宿生らは、頭巾(ずきん)の下で(訳者注 ひそかに)ではないが、面紗(かおぎぬ)の下で笑うのであった。かわいい小さな忍び笑いであって、いつも声の母たちの眉(まゆ)をしかめさした。
 またある時は、この百歳の女は種々な話をしてきかした。私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった、というようなことを言った。そういう口をきくのは一世紀で、しかも十八世紀だったのである。またシャンパーニュとブールゴーニュとの四つの葡萄酒(ぶどうしゅ)の風習のことも話した。革命以前には、ある高貴の人、たとえばフランス元帥だの、大侯だの、枢密院公爵だの、そういう人々がシャンパーニュやブールゴーニュのある町を通らるる時には、その町の団体の者がごきげん伺いにまかり出て、四種の葡萄酒をついだ四つの銀の盞(さかずき)を献ずるのであった。第一の盞には猿(さる)の葡萄酒という銘が刻んであり、第二のには獅子(しし)の葡萄酒、第三のには羊の葡萄酒、第四のには豚の葡萄酒という銘が刻んであった。その四つの銘は酩酊(めいてい)の四段階を示したものであった。第一段の酩酊は人を愉快になし、第二段は人を怒りっぽくなし、第三段は人を遅鈍になし、第四段は人を愚昧(ぐまい)にする。
 彼女は何か一つの秘密な物を引き出しの中に入れて、鍵(かぎ)をかってごく大事にしまっていた。フォントヴローの規則はそういうことを禁じなかったのである。彼女はその品をだれにも見せようとしなかった。自分でそれをながめようとする時には、室(へや)に閉じこもって、それも規則に許されていたので、そして人の目にふれないようにした。もし廊下に足音が聞こえると、その年取った手でできるだけ大急ぎで引き出しをしめた。そのことを言い出そうものなら、ごくおしゃべりな彼女も口をつぐんでしまった。いかにものずきな者も彼女の沈黙にはどうすることもできず、いかに執拗(しつよう)な者も彼女の頑固(がんこ)にはどうすることもできなかった。かくてその不思議な品物は、修道院中のひまで退屈しきってる人たちの問題の的となった。百歳の老婆の宝となってるそのとうとい秘密な物は、いったいどういうものだろう。きっと何かの聖書かも知れない、またとない何かの念珠かも知れない。折り紙のついた何かの遺品かも知れない。人々はあれかこれかと推測に迷った。そのあわれな老婆が死ぬと、人々はあられもなく大急ぎで引き出しの所にかけつけて、それを開いてみた。するとその品物は、祭典の聖皿のように三重の布(きれ)に包まれていた。大きな注射器を持った薬局生たちに追われて飛び去ってゆく愛の神たちの絵があるファエンツァの皿であった。追跡者の方は種々な渋面をしたり種々なおかしな姿勢をしていた。かわいい小さな愛の神たちの一人は、既に注射器で貫かれていた。彼は身をもがき小さな翼を動かしてなお飛ぼうとしていたが、道化者の方は悪魔のような笑いを浮かべていた。絵の意味は、腹痛にうち負けた愛というのである。その皿は至って珍しいもので、たぶんモリエールにあの喜劇の思いつきを一つ与えるの光栄を有したことであろう。一八四五年の九月にはなお残っていた。ボーマルシェー大通りのある古物商の店に売り物に出ていた。
 このお婆さんは、外部からの訪問を受けるのを好まなかった。応接室があまり陰気だから、と彼女は言っていた。

     十 常住礼拝の起原

 おおよそのありさまを前に述べておいたこの墓場のような応接室は、全く独特なもので、他の修道院においてもこれほど厳重には作られていなかった。実際これとは別な会派に属するものであるが、タンプル街の修道院においては特に、黒い板戸は褐色(かっしょく)の幕に代えられていた。そして床(ゆか)には木が舗(し)いてあった。窓わくには白モスリンの布がやさしくかぶせてあり、壁には種々な額縁がかかっていて、面紗(かおぎぬ)をかぶらないベネディクト修道女の肖像が一つ、花束の絵が数個、それからまたトルコ人の顔までがあった。
 タンブル街の修道院の庭には、有名な七葉樹があった。それはフランス第一の美しい大きなものとされていた。十八世紀の人たちは、王国のすべての七葉樹の父であると言って評判していた。
 前に言ったとおりこのタンプルの修道院には、シトーから出てきたベネディクト修道女とは全く別なものではあるが、やはり常住礼拝をしているベネディクト修道女らがいた。この常住礼拝の一派はそう古いものではなく、二百年以上にさかのぼるものではない。一六四九年に、パリーの二つの会堂サン・スュルピスとサン・ジャン・アン・グレーヴとで、数日へだてて、聖サクラメントがけがされた。あまり例のない恐ろしい冒涜(ぼうとく)で、全市をわき立たせたものだった。サン・ジェルマン・デ・プレの修道院長大助祭はその全聖職者に命じて荘厳な行列をなさしめ、そこで法王の特使が祭式を上げた。けれどもその贖罪(しょくざい)の祭式をも、二人のりっぱな婦人、ブーク侯爵夫人であるクールタン夫人とシャトーヴィユー伯爵夫人とは、なお足りないように思った。「祭壇のきわめておごそかなる秘蹟」に対してなされた冒涜は、たとい一時的のものではあったとしても、二人の聖(きよ)い魂から去らないで、ある童貞女らの修道院において「常住礼拝」をしなければ贖(あがな)われるものではないように思われた。それで一人は一六五二年に、一人は一六五三年に、ベネディクト修道女でサン・サクルマンという教名を持ってるカトリーヌ・ド・バール長老に莫大(ばくだい)な金額を寄贈して、その敬虔(けいけん)な目的のために聖ベネディクト派の一修道院を設立させようとした。その設立に対する第一の許可は、サン・ジェルマンの修道院長メース氏によってカトリーヌ・ド・バール長老へ交付された。「現金六千フランにして年三百フランの定期納金を有せざる娘は入会せしめざるの規約において」であった。サン・ジェルマンの修道院長の後に、国王は特許の宸翰(しんかん)を下した。そして修道院長の許可状と国王の宸翰との全体は会計院と議政府とにおいて一六五四年に認可された。
 以上が、パリーのサン・サクルマンの常任礼拝ベネディクト修道女会が設立された起原であり、また法律上に認可された経過である。その最初の修道院は、カセット街に、ブークおよびシャトーヴィユー両夫人の金によって「新しく建て」られた。
 この会派はかくのごとくして、いわゆるシトーのベネディクト修道女会とは別なものであった。これはサン・ジェルマン・デ・プレの修道院長から起こったもので、サクレ・クールの修道女会がセジュー派の管長から起こされ、シャリテの修道女会がラザール派の管長から起こされたのと同じである。
 われわれがその内部を述べてきたあのプティー・ピクプュスのベルナール修道女会も同じく、このサン・サクルマン派とは全く別なものであった。一六五七年に、法王アレキサンドル七世は特別の宸翰(しんかん)をもって、サン・サクルマンのベネディクト修道女らのように常住礼拝を行なうことを、プティー・ピクプュスのベルナール修道女らにも許可した。しかし両派は依然として別なものであった。

     十一 プティー・ピクプュスの終わり

 王政復古の初め頃から、プティー・ピクプュスの修道院は衰微してきた。十八世紀の後には、すべての宗教的団体とともに一般に秩序の終滅をきたしたのであって、これもその一部分にすぎなかった。静観は祈祷(きとう)とともに人間に必要なものの一つである。しかし革命の手に触れられたすべてのものと同じく、静観もやがてその形を変じて、社会の進歩をはばむことから脱して、かえってそれを助けるものとなるだろう。
 プティー・ピクプュスの家に住む者は、にわかにその数を減じてきた。一八四〇年には、小修道院はなくなり、寄宿舎もなくなっていた。年老いた女らも、若い娘らも、もはやそこにいなかった。老いたる者は死に、若き者は立ちのいていた。彼女らは飛び去りぬ。
 常住礼拝の規則は、人に怖気(おじけ)を震わせるほど苛酷(かこく)なものである。帰依する者は少なくなり、新たにはいって来る者はなくなった。一八四五年には、なお多少の助修道女らが散在していた。しかし歌唱の修道女はもはや一人もいなかった。今から四十年前には、修道女の数は約百人ばかりだった。十五年前には、もはや二十八人に過ぎなかった。そして今日は幾人になってることであろう? 一八四七年には、院長はまだ若い人だった。これは選挙の範囲がせばまったしるしである。院長は四十歳にもなっていなかった。また人員の減少につれて労苦は増してくる。各人の仕事はますます激しいものとなってくる。聖ベネディクトの重い規則をになうべき肩も、やがては前にかがんだ痛ましいもののみ十指を屈するにすぎなくなることが見えていた。しかもその重荷は絶対的のものであって、それをになうべき人員の多少にかかわらず常に同一なのである。それは人を圧迫し人を押しつぶす。かくて修道女らは死んでいった。本書の著者がなおパリーにいた頃、死んだ者が二人まである。一人は二十五歳で、一人は二十三歳だった。二十三歳の彼女は、おそらくユリア・アルピヌラのようにこう言ったであろう。「二十三年を生きて今妾(わらわ)ここに横たわる。」修道院が若い娘の教育をよしたのも、かかる衰微のゆえにである。
 この異常な未知の薄暗い家の前を通るや、われわれはその中にはいってみざるを得なかったのである。あるいは何人(なにびと)かのためになるべきを思ってわれわれがジャン・ヴァルジャンの憂うつな物語をなすのに耳を傾けてくれる人々、われわれのあとに従ってきてくれる人々を、その中に導かざるを得なかったのである。今日ではいかにも新奇に見える古い常習に満ちたこの修道院の内部に、われわれは既に一瞥(いちべつ)を与えた。それは実に閉ざされたる庭である。禁園である。この不思議な場所のことを、詳細にしかも敬意をもって、少なくとも敬意と詳細とが相一致し得る限りにおいて、われわれは述べきたった。われわれはその全部を理解することはできないが、しかしその何物をも軽侮しはしない。死刑執行人を神聖視するまでに至ったジョゼフ・ド・メーストルの賛嘆と、十字架像をあざ笑うまでに至ったヴォルテールの冷笑と、両者からわれわれは同じ距離に立つ者である。
 ヴォルテールの没論理、という一語をついでに加えよう。なぜならば、ヴォルテールはカラス(訳者注 十八世紀フランスの商人で寃罪を受けて残酷な死刑に処せられた人、ヴォルテールは彼を熱心に弁護したのである)を弁護したと同様に、キリストをも弁護すべきはずだったからである。超人間的な化身説を否定する人々の前にも、十字架像は何を示すのであるか。殺害された賢者の姿をではないか。
 十九世紀において、宗教的観念は危機を閲している。人はある種のことを学んでいない。けれども、一を学ばずとも他を学びさえするならば、それも別にさしつかえはない。ただ人の心のうちに空虚を存してはいけない。またある種の破壊がなされている。ただ、破壊の後に建設がきさえするならば、それも至極いいことである。
 まずそれまでは、もはや存在しない事物をも研究しようではないか。それを知ることは必要である、それを避けんがためにでも。過去の偽物は偽名を取って好んで未来と自称する。この幽霊は、過去は、しばしばその通行券を偽造する。われわれはその詭計(きけい)を見破ろうではないか。疑念をはさもうではないか。過去は迷信という顔を持ち、虚偽という仮面をかぶる。その顔を摘発し、その仮面を引きはごうではないか。
 修道院については、複雑なる問題が起こってくる。文明の問題は修道院をしりぞけ、自由の問題は修道院を保護する。
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   第七編 余談



     一 抽象的観念としての修道院

 本書は一つのドラマであって、その第一の人物は無窮なる者である。
 人間は第二の人物である。
 かかるがゆえに、途中に一修道院を見いだすや、吾人はその中にはいってみざるを得なかった。何ゆえかなれば、修道院というものは、東洋と西洋とを問わず、古代と近代とを問わず、偶像教と仏教とマホメット教とキリスト教とを問わず、皆それに固有のものであって、人間によって無窮なるものの上に適用された幻燈器械の一つだからである。
 今はある何かの観念を過度に敷衍(ふえん)すべき折りではない。けれども、絶対に遠慮と制限とを守り、かつ憤懣(ふんまん)の情を覚えながらも、吾人は一言せざるを得ない。すなわち、人間のうちに無窮なるものを見いだす時は、たといそれが正当につかまれていると否とを問わず、吾人は常に尊敬の念に打たれる。ユダヤの会堂やマホメットの教堂やインドの寺院や黒人の聖堂などのうちにも、擯斥(ひんせき)すべき醜悪なる一面と賛嘆すべき荘厳なる一面とが存する。人間という壁の上への神の反映こそ、いかに人を静観せしめ、いかに深き夢想のうちに陥らしむることか!

     二 歴史的事実としての修道院

 歴史、理性、および真理の見地よりすれば、修道院制はしりぞけらるべきものである。
 一国のうちに数多の修道院がある時には、それは交通の障害となり、邪魔な建物となり、活動の中心たるべき所に怠惰の中心を出現するに至る。修道組合が大なる社会組織に対する関係は、あたかも寄生木(やどりぎ)の樫(かし)の木におけるがごとく、疣(いぼ)の人体におけるがごときものである。その繁栄と肥満とは、国の衰弱となる。修道院の制度は、文明の初期においては有益であって、精神的のものによって獣性を減殺するに役立つのであるが、しかし民衆の活動力には悪い結果を及ぼすものである。なおまた、その制度が弛緩(しかん)して退廃期に入る時には、それでもやはり範例となるがゆえに、その純潔なる時代において有益であったと同じ理由によって、かえって有害なるものとなる。
 修道院内にこもるには、特殊な時期があった。修道院生活は、近代文明の初期の教育には有効であったが、文明の成長には妨げとなったし、その発展には有害なものとなっている。制度としてまた人間に対する教養の方式として修道院は、十世紀には有益なものであったが、十五世紀には問題にすべきものとなったし、十九世紀には排斥すべきものとなっている。修道院制の病根は、二つのみごとなる国民、数世紀の間欧州の光明たりしイタリーとその光輝たりしスペインとを、ほとんどその骨までしゃぶりつくした。そして現代においてこの二国民がようやくその病根から平癒(へいゆ)し初めたのは一七八九年(訳者注 フランス大革命)の勇健なる衛生法のお陰によってである。
 なお十九世紀の初めにイタリーやオーストリアやスペインなどに残っていた修道院は、ことに古い女修道院は、中世の最も薄暗い投影の一つである。その内部は、それらの修道院の内部は、あらゆる恐怖すべきものの交差点である。本来のカトリックの修道院内部は、死の暗黒なる輝きに充(み)ち満ちている。
 スペインの修道院は特に陰惨である。そこでは、暗黒のうちにつっ立って、靄(もや)のこめた穹窿(きゅうりゅう)の下に、影のためにおぼろな丸天井の下に、大会堂のように高く、バベルの塔のようにおごそかな祭壇がそびえている。大きな白い十字架像がやみのうちに鎖に下がっている。黒檀(こくたん)の台の上に大きな象牙のキリスト像が裸のまま並んでいる。血にまみれてるというよりも血を流してるような趣である。恐ろしいがしかし荘厳な趣である。両肱(りょうひじ)は骨立ち、両膝(りょうひざ)は皮膜があらわで、傷口からは肉が見えており、銀の荊棘(いばら)の冠をかぶり、金の釘(くぎ)でつけられ、額には紅玉(ルビー)の血がしたたり、目には金剛石(ダイヤ)の涙が宿っている。その金剛石と紅玉とはぬれてるようで、その下の影の中に面紗(かおぎぬ)をかぶった人たちを泣かせる。彼女らは鉄のついた鞭(むち)と毛帯とで脇腹を傷つけ、柳蓆(やなぎこも)で胸を押しつぶし、祈祷のために膝の皮をすりむいている。めとりし者と自らを想像してる女ども、天使と自らを想像してる幽霊ども。それらの女は考えているのか、否。欲しているのか、否。愛しているのか、否。生きているのか、否。その神経は骨となり、その骨は石となっている。その面紗は編まれたる暗夜である。面紗の下のその呼吸は、言い知れぬ悲壮なる死の息にも似寄っている。一個の悪鬼たる院長が、彼女らをきよめ彼女らを恐怖さしている。生々しい無垢(むく)がそこにある。かくのごときすなわちスペインの古い修道院のありさまである。恐るべき帰依の巣窟(そうくつ)、童貞女らの洞穴(どうけつ)、残忍の場所である。
 カトリック教のスペインは、ローマ自身よりももっとローマ的であった。スペインの修道院は、特にカトリック教的なものであった。そしてあたかもトルコ宮殿のごときものであった。大司教すなわち天のキスラル・アガは、神にささげられた魂の宮殿を閉鎖し監視していた。修道女は宮女であり、牧師は宦官(かんがん)であった。信仰熱き女らは、夢のうちに選まれてキリストを所有している。夜になると、その裸体の美しい青年は十字架からおりてきて、分房の歓喜の的となった。十字架につけられし彼を皇帝(サルタン)として守っている奥深い皇后(サルタナ)は、あらゆる現世の楽しみから高い壁でへだてられていた。外界に向ける一瞥(いちべつ)も既に不貞となるのであった。寂滅牢(訳者注 修道院において罪人を死に至るまで幽閉する地牢)は皮の袋の代わりとなっていた。東方において海に投ずるところのものを、西洋にては地下に投じていた。しかしいずれにおいても、投ぜられた女らは腕をねじ合わして苦しんだ。一方には波濤(はとう)があり、一方には墓穴があった。一つは溺死(できし)、一つは埋没。おぞましき類似である。
 今日、過去に味方する者らは、これらのことを否定し得ずして、それを微笑にまぎらさんとつとめた。歴史の摘発を止め、哲学の注釈を弱め、あらゆる不利な事実やいやな問題を省略せんがために、不思議な便利な方法を流行さした。大言壮語の題目だと巧みなる者らはいう。大言壮語だとその尻馬(しりうま)に乗った者らは繰り返す。かくて、ジャン・ジャック・ルーソーも壮語家となり、ディドローも壮語家となり、カラスやラバールやシルヴァン(訳者注 皆寃罪のために極刑に処せられし人)などを弁護するヴォルテールも壮語家となる。また最近だれかがかかることまで言った、タキツスは一つの壮語家であり、ネロ皇帝はその犠牲である、そして「このあわれなるホロフェルネス」(ネロ)こそまさしく同情すべきであると。
 しかしながら事実は曲げ難いものであり、頑強(がんきょう)なるものである。ブラッセルから八里ばかりの所、だれにもわかる中世のひな形のある所、すなわちヴィレルの修道院において、その中庭の牧場の中央に終身囚の穴と、ディール川の岸に半ばは地下に半ばは水の下になってる四つの石牢(ろう)とを、本書の著者は親しく見たのである。それこそまさしく寂滅牢の跡である。それらの地牢の各には、一つの鉄の扉(とびら)のなごりと、一つの厠(かわや)と、格子(こうし)のはまった一つの軒窓とが残っている。その軒窓は、外部では川の水面上二尺の所になっており、内部では地上六尺の所になっている。四尺の厚さの川水が壁の外を流れているわけである。地面はいつも湿っている。寂滅牢にはいった者は、その湿った地面の上に寝ていたのである。地牢のうちの一つには、壁にはめ込んである鉄鎖の一片が残っている。またあるものの中には、四枚の花崗岩(かこうがん)でできてる四角な箱のようなものが見られる。それは中に寝るにはあまりに短く、中に立つにはあまりに低い。昔その中に人を入れて上から石の蓋(ふた)をしたものである。それが残っている。目で見、手でさわることができる。それらの寂滅牢、それらの地牢、それらの鉄の扉の肱金(ひじがね)、それらの鉄鎖、川の水がすれすれに流されているその高い軒窓、墓穴のように花崗岩の蓋がされて中の者に死者と生者との違いがあるのみのその石の箱、泥深いその地面、その厠(かわや)の穴、水のしたたるその壁、それらを云々することが何で大言壮語家であるか!

     三 いかなる条件にて過去を尊重すべきか

 スペインまたはチベットにあったような修道院制度は、文明にとっては一種の結核である。それは生命の根を断つ。一言にして言えば人口を減ずる。閉居であり、去勢である。ヨーロッパにおいては天の罰であった。それに加うるに、しばしば人の本心に対してなされた暴行、強制的な加入、修道院生活に立脚する封建制、家庭の冗員を修道院のうちに送り込む父兄、前に述べたような残虐、寂滅牢、緘黙(かんもく)、閉鎖されたる頭脳、永久誓願の牢獄に入れられたる多くの不幸なる知力、僧服の着用、魂の生きながらの埋没。かくて、国民的衰退に加うるに個人の苦悩。それを思う時にはいかなる人も、人間の発明になった二つの経帷子(きょうかたびら)たるその道服と面紗(かおぎぬ)との前に、必ずや戦慄(せんりつ)を覚ゆるであろう。
 けれども、ある方面にはそしてある場所には、哲学や世の進歩にかかわらず、修道院的精神は十九世紀のさなかに残存している、そして禁慾主義のおかしな再興が今や文明社会を驚かしている。古き制度のなお永続せんとする頑固(がんこ)さは、臭き油のなお人の頭髪につけられんことを求むる頑強さにも似、腐った魚肉のなお食せられんことを求むる主張にも似、子供の衣服のなお大人にまとわれんことを求むる執拗(しつよう)さにも似、埋もれる死骸(しがい)のなお生きたる人々を抱擁しに戻りきたらんとする情愛にも似ている。
 恩知らずめ、天気の悪い時には汝を保護してやったではないか、それなのになぜもうわれを欲しないのか、と衣服は言う。われは海の底からやってきたのだ、と魚肉は言う。かつてわれは薔薇(ばら)だったのだ、と香油は言う。われは汝を愛したのだ、と死骸は言う。そしてわれは汝を文明に導いてやったのだ、と修道院は言う。
 それらに対してはただ一つの答えがあるばかりである、なるほど昔は、と。
 死亡したる事物の無限の延長を夢想し、木乃伊(ミイラ)によって人類の統治せらるるを夢想すること、退廃したる信条を復興すること、遺物櫃(ひつ)に再び金箔(きんぱく)をきせること、修道院を再び塗り立てること、遺骨匣(ばこ)を再び祝福すること、迷信を再び興すこと、狂言を再び盛んにすること、灌水器(かんすいき)と剣とに再び柄をすげること、修道院制と軍国主義とを再び建てること、寄食者の増加によって社会の幸福を信ずること、現在に過去を押し付けること、それは実に常規を逸したことと思われるではないか。けれど世にはかかる理論を主張する者がある。それらの理論家は、もとより才人であって、きわめて簡単な方法を持っていて、社会の秩序、天の正義、道徳、家庭、祖先崇拝、古き権威、神聖なる伝統、正法、宗教、などと彼らが称するところの塗料を過去の上に塗る。そして彼らは叫び回る。「いざ、善良なる人々よ、これを執れ。」そういう理論は、古人の間によく知られたものであった。ローマの卜占者(ぼくせんしゃ)らはそれを実行していた。彼らは黒牛に白堊(はくあ)を塗りつけて言った、「この牛は白である。」それこそ白塗りの牛である。
 吾人は、過去がただ死者たることを自認しさえするならば、過去をも部分的にはこれを尊び全体としてはこれをいたわってやるであろう。しかしもし生者たることを欲するならば、これを攻撃しこれを殺さんとつとむるであろう。
 迷信、頑迷(がんめい)、欺瞞(ぎまん)、偏見など、それらの悪霊は、悪霊でありながらもなお生命に執着し、その妖気(ようき)の中に歯と爪とを持っている。それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない。なぜならば、亡霊らと絶えざる戦いをなすことは、定められたる人類の運命の一つだからである。しかしながら影は、その喉(のど)をつかみ難くうち倒し難いものである。
 十九世紀のさなかに、フランスに、一修道院があるとすれば、それは日に向かってる梟(ふくろう)の学校に過ぎない。一七八九年と一八三〇年と一八四八年との三度の革命を経た都市の中央に禁慾主義を実行しながら、パリーのうちにローマを建てながら、一修道生活があるとすれば、それは時代錯誤である。普通の時にあっては、時代錯誤を解放させ消滅さするには、それができ上がった年号を呼ばすればそれで足りる。しかしながら今は普通の時ではない。
 戦おうではないか。
 戦おうではないか、しかしまた敵をよく弁別しようではないか。真理の特性は、決して過度ならずということである。真理は何ら誇張の必要を持っていない。破壊すべきものもあり、また単に光に照らして研究すべきものもある。好意あるまじめなる審査、それはいかに力強いことであるか。光の十分にある所には、炎を持ち行くことをやめようではないか。
 ゆえに、十九世紀の世にあって吾人は、一般的の問題として、またあらゆる民衆のうちにおいて、アジアとヨーロッパとを問わず、インドとトルコとを問わず、禁慾的閉居に反対する者である。修道院を説くは沼沢を説くに等しい。その腐敗性は明らかであり、その澱(よど)みは不健全であり、その毒気は民衆に熱を病ましめ民衆を衰弱せしむる。その数が増せばやがてエジプトの災厄となる。インド托鉢僧(たくはつそう)、仏教僧、マホメット教行者、ギリシャ修道者、マホメット教隠者、シャム仏僧、マホメット教僧侶、彼らが増加して蛆虫(うじむし)のごとく群がってる国を考える時、吾人は身震いせざるを得ない。

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