レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 それで彼はやや迷って、その謎(なぞ)のような人物に種々の疑問をかけながら、なおあとをつけていった。
 ところがかなり時期おくれてではあったが、ポントアーズ街を通りかかった時、ある居酒屋からさしていた明るい光によって、彼はまさしくジャン・ヴァルジャンの姿を見て取った。
 世には最も深い喜びにおどり上がる者が二つある。自分の子にめぐり会った母親と、餌食(えじき)に再会した虎(とら)とである。ジャヴェルはそういう深い喜びにおどり上がった。
 彼は恐るべき囚徒ジャン・ヴァルジャンの姿を確実に見て取るや、自分の方は三人にすぎないことを気づいた。そして、ポントアーズ街の警察派出所に助力を求めた。刺(とげ)ある棒をつかむ者はまず手袋をはめる。
 その間の遅延と、警官らと相談するためにロランの四つ辻(つじ)に立ち止まった時間とで、彼は危うく獲物の足跡を見失いかけた。けれども、ジャン・ヴァルジャンは追跡者を川でへだてようとするに違いないと、彼はすぐに推察した。あたかも猟犬が鼻を地につけて道をかぎわけるように、彼は頭を傾けて考えた。そしてまっすぐな本能の力によって、すぐにオーステルリッツ橋の方へ行った。橋番へ一言尋ねてみて事実をとらえた。「小さい娘を連れた男を見なかったか。」「その男に二スー払わしてやりましたよ、」と橋番は答えた。橋の上にさしかかると、ちょうどジャン・ヴァルジャンがコゼットの手を引いて月に照らされた空地(あきち)を通るのが、川の向こう側に見えた。そしてシュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街へはいってゆく姿も見えた。彼はそこに罠(わな)を張ったようになってるあつらえ向きのジャンロー袋町のことを考え、ピクプュス小路へ通ずるドロア・ムュール街のただ一つの出口のことを考えた。猟人らの言うように彼は取り巻いた。その出口を見張るために警官の一人を他の道から急いでつかわした。造兵廠(ぞうへいしょう)の屯所(とんしょ)にもどる一隊の巡邏兵(じゅんらへい)が通ったので、それを頼んで引きつれた。そういうカルタ遊びには兵士は切札(きりふだ)なのである。その上、野猪(いのしし)をやっつけるには猟人の知力と猟犬の力とを要するのが原則である。それだけの準備をしておけば、もうジャン・ヴァルジャンも袋の鼠(ねずみ)で、右へ行けばジャンローの行き止まりであり、左へ行けば手下の警官がおり、後ろには自分が控えている、そう思ってジャヴェルはかぎ煙草を一服した。
 それから彼は狩り出しにかかった。それは残虐な狂喜の時間であった。彼は獲物を進むままにさしておいた。もう自分の手中のものであることを知っていた。しかし捕獲の時間をできるだけ長引かしたかった。自分の捕えたものがなお自由に動き回ってるのを見ることがおもしろかった。巣にかかった蠅(はえ)の飛ぶのを見て喜ぶ蜘蛛(くも)のような目つきで、また捕えた鼠(ねずみ)を走らして喜ぶ猫(ねこ)のような目つきで、彼は獲物をうかがっていた。獲物をつかむ爪牙(そうが)は奇怪な快感を持っている。それはつかんだ獲物の盲目的な運動を感ずることである。そのなぶり殺しはいかにおもしろいことであるか!
 ジャヴェルは楽しんでいた。網の目は堅固に結んであった。彼は成功を信じていた。今はもう手を握りしめることだけであった。
 彼の方には大丈夫な手下がついているので、ジャン・ヴァルジャンがいかに勇気あり力あり死にもの狂いになったとて、抵抗しようなどとは思いもよらぬことだった。
 ジャヴェルは徐々に進んで行った。あたかも盗人のポケットを一々探るように、その街路のすみずみを隈(くま)なく探りながら進んだ。
 ところがその蜘蛛(くも)の巣のまんなかまで行くと、そこにはもう蠅(はえ)はかかっていなかった。
 彼の憤激は察するに余りある。
 彼はドロア・ムュール街とピクプュス小路との角(かど)を番していた警官に尋ねてみた。警官は泰然自若としてその場所に立っていたが、あの男が通るのは見かけもしなかったのである。
 時としては鹿(しか)もその包まれた頭をふりもぎることがある、言いかえれば、一群の猟犬に追いつめられても逃げてしまうことがある。そういう時には最も老巧な猟人といえども一言もない。デュヴィヴィエやリニヴィールやデプレスのごとき名人でさえ、いかんともすることができない。そういう失敗のおりにアルトンジュは叫んだのである、「あれは鹿ではない、魔法使いだ。」
 ジャヴェルも同様な嘆声をもらしたかも知れない。
 彼は落胆の余り一時は絶望と狂暴とに駆られたほどであった。
 確かに、ナポレオンはロシアの戦いに違算をし、アレクサンデルはインドの戦いに違算をし、シーザーはアフリカの戦いに違算をし、キルスはシチアの戦いに違算をし、そして、ジャヴェルはこのジャン・ヴァルジャンに対する戦いに違算をした。おそらくその前徒刑囚を認定するに躊躇(ちゅうちょ)したのが誤りであったろう。一目見ただけで彼には十分ではなかったろうか。それからまた、ゴルボー屋敷でごく簡単に捕縛しなかったのが誤りだった。ポントアーズ街で確実にそれと認めた時すぐに逮捕しなかったのが誤りだった。ロラン四つ辻(つじ)の月光の中で助力の者らと相談をしたのが誤りだった。もちろん種々の意見は助けになる、そして信用の置ける犬どもの意見を尋ねてそれを知るのはいいことである。しかし狼(おおかみ)だの囚人などという落ち着かない動物を狩り立てる場合には、猟人たる者は注意の上にも注意をしなければいけない。ジャヴェルは一群の猟犬に方向を教えることばかり注意して、獲物に様子を気取られ逃げられてしまった。それからことに、オーステルリッツ橋で足跡を見いだすや、そういう男を一筋の糸の先につけてばかげた他愛ない戯れなどをしたのが誤りだった。彼は自分の力を過信して、獅子(しし)に向って鼠(ねずみ)に対するような戯れをし得ると思った。同時にまた彼は自分の力をあまり過小視して、援兵を引きつれることが必要だと思った。その用心こそ破綻(はたん)の基で、そのために大切な時間を失ったのである。ジャヴェルは以上の種々な違算をした。しかしそれでもなお、世に最も賢明確実な探偵(たんてい)の一人たることを失わない。最も深い意味において彼は、狩猟にいわゆる賢い犬であった。しかしおよそ完全なるものは何があろうぞ。
 偉大なる戦略家といえども策を誤ることがある。
 大失策も、大きな綱のように、多くの小片から成り立ってることがしばしばである。錨綱(いかりづな)をもこれを一筋一筋の糸に分かち、大事をもこれを小さな成分成分に分かつ時には、その一つ一つを切ってゆくことは容易であって、なんだこれだけのものか! という感じを与える。しかるにそれを組み合わせ、それをいっしょにねじ合わせると、巨大なものができ上がる。かくして、アッチラは東方マルキアヌス皇帝と西方バレンチニアヌス皇帝との間に躊躇(ちゅうちょ)し、ハンニバルはカプュアに足を止め、ダントンはアルシ・スュール・オーブに眠ったのである。
 それはともかくとして、ジャン・ヴァルジャンが自分の手中からもれたことを知った時にも、ジャヴェルは錯乱しはしなかった。網を破って逃げたその囚徒はまだ遠くに行ってるはずはないと信じて、彼は番人を置き、罠(わな)と伏兵とを設け、終夜その一郭を狩り立てた。第一に彼の目についたものは、綱を切られて街燈が乱れてることであった。それは大切な手がかりだった。しかしそのために彼はかえって誤られて、すべての捜索をジャンロー袋町の方へそらした。その袋町にはかなり低い壁が幾つもあって、庭に接しており、庭の囲いは広い荒地に接していた。ジャン・ヴァルジャンは確かにそこから逃げ出したに違いないと思われた。そして実際、彼もも少しジャンロー袋町のうちにはいり込んで行ったら、きっとそのとおりにして、ついに[#「ついに」は底本では「つい」]捕えられたであろう。ジャヴェルはそれらの庭と荒地とを、針でもさがすように隈(くま)なく探索した。
 夜が明くるにおよんで、彼は怜悧(れいり)な二人の手下を残して見張りをさせ、あたかも盗人に捕えられた間諜(かんちょう)のように恥じ入って、警視庁へ引き上げた。
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   第六編 プティー・ピクプュス



     一 ピクプュス小路六十二番地

 ピクプュス小路六十二番地にある正門は、約半世紀以前には最も普通なものであった。その門はいつも人の心を誘うように半ば開かれていて、さほど陰気でない二つのものがそこから見えていた、すなわち、葡萄蔓(ぶどうづる)のからみついた壁に取り巻かれてる中庭と、ぶらついてる門番の顔とが。奥の壁の上方には大きな樹木が見えていた。太陽の光が中庭を輝やかし、酒の気が門番の顔を輝やかしてる時には、このピクプュス小路六十二番地の前を通る者は、快い感銘を受けざるを得なかった。しかもそこは読者が既に瞥見(べっけん)したとおり実は陰鬱(いんうつ)な場所であった。
 入り口はほほえんでいた。しかし中は祈っており泣いていた。
 うまく策略をめぐらして――それは容易なことではないが――門番の所を通りすぎて――それには例の胡麻よ開け! の合い言葉(訳者注 アラビアのアリー・ババの物語参照)を知らなければならないのでほとんど不可能のことではあるが――それから、一度に二人とは通れないくらいの壁の間の狭い階段に通じてる右手の小さな玄関にはいり、その階段の暗褐色(あんかっしょく)の下壁と淡黄色の壁色とを気味悪がらず上ってゆき、階段の広段を二度過ぎると、二階の廊下に出るのであった。そこは黄色い塗り壁と暗褐色(あんかっしょく)の腰板とで深い静けさを作っていた。階段と廊下とは二つのりっぱな窓から明りがとってあった。廊下は折れ曲がって、先の方は薄暗くなっていた。その角(かど)を曲がって数歩行くと、一つの扉(とびら)があった。扉はしめ切ってないだけにいっそう不思議な感を与えていた。扉を押し開いてはいると、約六尺ばかりの四角な小さな室(へや)に出られた。室には下に石が敷いてあり、よく洗われていて、清潔で、冷ややかで、青い花のついた一巻十五スーの南京紙が壁に張ってあった。鈍いほの白い光が左手の大きな窓からはいっていた。窓は室と同じ幅で、小さなガラスがいくつもはまっていた。室の中には見回してもだれもいなかった。耳を澄ましても足音もしなければ人声もしなかった。壁には何も掛かってはいず、家具も備えてなく、椅子一つさえ置いてなかった。
 なおよく見回すと、扉と向き合った壁に一尺ばかりの四角な穴があった。真っ黒な節くれ立って丈夫な鉄の棒が縦横にはまっていて、小さなガラス枠(わく)、というよりもむしろ対角線の長さ一寸五分ばかりの網目をこしらえていた。壁に張ってある南京紙(なんきんし)の小さな花模様が、その鉄格子(てつごうし)に静かに整然と接していたが、それでも花模様のなごやかな様子は少しも乱されてはいなかった。鉄格子の目からはどんな小さな生物もあえて出はいりできそうにも思えなかった。何だか物体の出入を許さないような趣があった。しかし目ならば、すなわち精神ならば、自由に出入を許すらしかった。また恐らくそういうつもりでこしらえられたのであろう。鉄格子の少し先にブリキ板が壁にはめ込んであって、泡匙の穴よりもっと小さな穴が無数にあけられていた。そのブリキ板の下の方には、郵便箱の口にそっくりの穴が開いていた。呼び鈴のついた平ひもが、鉄格子口の右の方に下がっていた。
 そのひもを動かすと、鈴が鳴って、びっくりするほどすぐそばに人の声がする。
「どなたですか?」とその声は尋ねる。
 それは静かな女の声で、あまり静かなので悲しげに響くほどだった。
 そこでなお、魔法的な合い言葉を一つ知っていなければならなかった。もしそれを知らないと、声は黙ってしまって、壁の向こうには墓場のすごい暗黒がたたえてるかと思われるほどひっそりしてしまうのである。
 もしその合い言葉を知っていると、向こうの声が答える。
「右の方へおはいりなさい。」
 窓と向い合って右手の方に、ガラスのはまった天窓がついてる灰色塗りのガラス戸があった。□(かきがね)をあげて扉(とびら)を開き、中にはいると、まだ格子戸(こうしど)がおろされず大ランプがともされてない劇場の箱桟敷(はこさじき)にはいったのと同じ印象を受けるのだった。それは実際一種の劇場の桟敷で、ガラス戸から弱い明るみがほのかにさしており、二つの古椅子(ふるいす)と編み目の解けた一枚の蓆(こも)とが狭い中に置いてあり、肱(ひじ)の高さの前の口には黒木の板がついていた。そしてまた格子もあったが、ただそれだけはオペラ座のように金ぴかの木の格子ではなく、握り拳(こぶし)のような漆喰(しっくい)で壁に止めてある恐ろしい鉄格子だった。
 ややあって、その窖(あなぐら)のような薄明りに目がなれてきて、格子の向こうを透かして見ようとしても、五、六寸より先は見えなかった。五、六寸先に、茶っぽい黄色に塗られた横木で固められてる黒い板戸の垣(かき)があった。薄い長片をなしてるそれらの板戸はきっかり合わさっていて、格子の幅だけを全部おおい隠していた。それはいつも立て切ってあった。
 しばらくすると、その板戸の後ろから呼びかけてくる声が聞こえる。
「私はここにおります。何の御用でございますか。」
 それはかわいい女の声、時とすると愛する女の声であった。けれどもだれの姿も見えなかった。息の音さえもほとんど聞こえなかった。墳墓のような仕切りを通して話しかける天の声かとも思われるのだった。
 もし先方の望みどおりの身分の人である時には、そういう身分の人はきわめてまれではあるが、正面に板戸の狭い一枚が開いて、その天啓は本体の出現となるのであった。格子(こうし)の向こうに、更に板戸の向こうに、格子の目からようやくに一つの顔が見えてくる。それもただ脣(くちびる)と□(あご)とだけで、残りは黒い面紗(かおぎぬ)におおわれている。それから黒い胸当てと、黒い衣に包まれたぼんやりした姿とが見て取られる。その顔が話しかけてるのであった。しかしこちらを見もしなければ、また決して微笑(ほほえ)みもしなかった。
 後ろからさして来る明るみは、向こうの姿を白く見せ、こちらの姿を向こうに黒く見せるようにしつらえてあった。その明るみは一つの象徴(シンボル)であった。
 そのうちに目は、前に開かれた窓口から、すべての人の目に閉ざされてるその場所の中へ熱心にのぞき込んでゆく。ある朦朧(もうろう)とした深さが黒服の女の姿を包んでいる。目はその朦朧とした中をさがし求めて、出現した女のまわりにあるものを見きわめようとする。すると間もなく、実は何も見ていなかったことに気づくのであった。見ていたものは、夜であり、空虚であり、暗黒であり、墓地の空気に交じった冬の靄(もや)であり、恐るべき一種の平安さであり、何ものをも呼吸(いき)の音(ね)をさえも聞き得ない静謐(せいひつ)であり、何物をも幻の姿をさえも見得ない暗黒であった。
 見ていたところのものは、修道院の内部だったのである。
 それは実に、常住礼拝のベルナール派修道女の修道院と言われる陰惨厳格なる家の内部だったのである。今いるその室(へや)は、応接室だった。先刻初めに話しかけてくれたあの声は、受付の女の声だった。彼女は壁の向こうに、四角な穴のそばに、二重の面をかぶったように鉄の格子(こうし)とたくさんの穴のあるブリキ板とにへだてられて、黙って身動きもしないでいつもすわってるのだった。
 表の方に窓が一つあって、修道院の内部の方には窓がなかったので、格子のついたその室は薄暗い後ろ明りだった。その聖(きよ)い場所の中にあるものは、何物も俗人の目から見られてはいけなかった。
 けれども、その影の向こうには何かがあったのである。一つの光明があったのである。その死の影の中には一つの生命があったのである。その女修道院は最も世人を避けたものではあったけれども、われわれはこれからその中にはいり込み、読者をもその中に導いて、まだかつていかなる物語作者も見たことのないものを、従ってまだかつて語られたことのないものを、度を越えない範囲において語ってみようと思う。

     二 マルタン・ヴェルガの末院

 ずっと以前から引き続いて一八二四年までなおピクプュス小路にあったその修道院は、マルタン・ヴェルガの分派であるベルナール派修道女らのものであった。
 従ってそれらのベルナール派修道女らは、ベルナール派修道士らのごとくクレールヴォーへ属してるのではなく、ベネディクト派修道士らのごとくシトーに属していた。いい換えれば、彼女らは聖ベルナールへではなく、聖ベネディクトへ帰依してるのであった。
 少しく古文書を読んだことのある者はだれでも知ってるとおり、一四二五年にマルタン・ヴェルガは、ベルナール派修道女とベネディクト派修道女とのために一つの修道会を興し、本院をサラマンカに置き、支院をアルカラに立てた。
 その修道会は、欧州の各カトリック教国内に末院を立てていた。
 かく一派を他派につぎ合わしたものは、ローマ教会においては珍しいものではない。ここに言う聖ベネディクトの一派だけを取ってみても、それに関係のあるものは、マルタン・ヴェルガの分派のほかになお四つの修道会があった。イタリーにモンテ・カシノとパデュアのサンタ・ジォスティナとの二つ、フランスにクリュニーとサン・モールとの二つ。それからまた九つの宗派があった、すなわち、ヴァロンブロザ、グラモン、セレスタン団、カマルデュール団、シャルトルー団、ユミリエ団、オリヴァトール団、シルヴェストラン団、およびシトー。なぜならシトーもまた、他の宗派の基でありながら、聖ベネディクトに対しては一つの分枝にすぎなかったのである。シトー派は、一〇九八年にラングル教区のモレーム修道院長であった聖ロベールから起こったものである。しかるに、あのスビアコの沙漠(さばく)に隠退していた悪魔が(実際年老いていたので、隠者となったのかも知れない)古(いにしえ)のアポロンの寺院の住居から、当時十七歳の聖ベネディクトに追い払われたのは、五二九年のことであった。
 いつも跣足(はだし)で歩いて首に柳籠(やなぎかご)をつけ決してすわることをしないカルメル山の修道女らの規則に次いで、最も厳格な規則は、マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らのそれである。彼女らは黒い着物をつけて、胸当てをしているが、その胸は聖ベネディクトの特別な命によって、□(あご)の所まで上せてある。広袖(ひろそで)のセルの上衣、毛糸の大きな面紗(かおぎぬ)、胸の上に四角に截(た)たれて□まできてる胸当て、目の所まで下ってる頭被、そういうのが彼女らの服装である。すべて黒であるがただ頭被だけは白である。修練女は同じ着物のまっ白なのをつけている。誓願修道女はなおそのほかに大念珠を脇(わき)につけている。
 マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らは、いわゆるサン・サクルマンの女たちというベネディクト修道女らのように、常住礼拝を実行するのである。後者は今世紀の初めに、タンプルに一つとヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街に一つとの二つの建物をパリーに持っていた。けれどもここに述べるプティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクトの女たちは、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街やタンプルなどの修道院にはいってるサン・サクルマンの女たちとは、全く別な一派であった。規則にも多くの違いがあり、服装にも多くの違いがあった。前者は黒い胸当てをつけていた。後者は白の胸当てをつけた上になお、鍍金(めっき)の銀か鍍金の銅かの高さ三寸ばかりの聖体を胸につけていた。前者はその聖体をつけていなかった。常住礼拝は両者共通であったが、それでも両者は全く別々のものだった。サン・サクルマンの女たちとマルタン・ヴェルガの女たちとの間の似たところは、ただ常住礼拝を実行してるという点のみだった。あたかも、フィリップ・ド・ネリによってフロレンスに建てられたイタリーのオラトアール派と、ピエール・ド・ベリュールによってパリーに建てられたフランスのオラトアール派とが、イエス・キリストの降誕と生涯(しょうがい)と死と聖母とに関するすべての神秘の研究崇拝において似寄っていながら、なお非常に違っていて、時としては敵とまでなるのと同じであった。フィリップ・ド・ネリは一個の聖者のみであり、ベリュールは枢機官であったから、パリーのオラトアール派はいつも上位を主張していた。
 さてマルタン・ヴェルガのスペインふうの厳重な規則に立ち戻ってみよう。
 この分院のベルナール・ベネディクト修道女らは、一年中少しの粗食しか取らず、四旬節および彼女らに特別な他の多くの日に断食をし、毎日寸眠の後に午前の一時から三時まで起き上がって日課の祈祷書(きとうしょ)をよみ朝の祈祷を歌い、四季ともに藁(わら)のふとんの上にセルの毛布にくるまって寝、決して湯にはいらず、決して火をたかず、毎金曜日には苦行をし、沈黙の規定を守り、ごく短い休息の間にしか口をきかず、十字架闡揚(せんよう)記念日である九月十四日から復活祭まで六カ月の間荒毛のシャツを着る。その六カ月間というのは一つの軽減であって、規則には一年中となっている。けれども、荒毛のシャツは夏の炎熱にはとうていたえられないものであって、熱病や神経痛などを起こすことがあったので、その使用に少し制限を加えねばならなかったのである。しかしその軽減をもってしても、修道女らが九月十四日にそのシャツを着る時には、三、四日は熱を出すのが常である。服従、困窮、貞節、囲壁中の永住、それが彼女らの誓いであって、またそれは規則によっていっそう重くなされている。
 修道院長は、集会で発言権を有するので声の母と言われる長老らによって、三年間の期限で選挙される。院長は二度の再選を受け得るのみであって、そのために一院長の最長年限は九年となるのである。
 彼女らは決して男の祭司の姿を見ない。男の祭司はいつも、七尺の高さに張られてるセルの幕で隠されている。説教の時に、その礼拝堂の中に男の説教師がいる時には、彼女らは面紗(かおぎぬ)を顔の上に引き下げる。それからいつも低い声で話し、目を伏せ頭をたれて歩かなければならない。その修道院の中に自由にはいり得るただ一人の男性は、教区の長の大司教ばかりである。
 否そのほかにも一人いる。すなわち庭番である。けれどもそれは常に老人であって、また絶えず庭に一人きりでいるために、そして修道女らがそれと知って避けるようにするために、膝(ひざ)に一つの鈴がつけられている。
 彼女らは絶対的盲従をもって院長の命に服する。それはあらゆる克己をもってする聖典的服従である。すなわち、キリストの声に対するがごとく、その身振りその最初の合い図において、直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって、職人の手のうちにある鑪(ろ)のごとく、であり、またいかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり、である。
 彼女らは各自順番に、彼女らのいわゆる贖罪をなす。贖罪(しょくざい)というのは、あらゆる悪、あらゆる過失、あらゆる放肆(ほうし)、あらゆる違犯、あらゆる不正、あらゆる罪悪、すべて地上において犯さるるものに対する祈りである。午後の四時から午前の四時まで、あるいは午前の四時から午後の四時まで、引き続いて十二時間の間、贖罪を行なう修道女は両手を合わせ、繩を首にかけ、聖体の前に石の上にひざまずいている。疲労にたえなくなる時には、腕を十字に組み顔を床(ゆか)につけて、腹ばいに平伏する。それが唯一の緩和である。そういう姿勢で、世のあらゆる罪人のために彼女は祈る。それは実に荘厳とも言えるほどに偉大である。
 かかることが、上に大蝋燭(ろうそく)の一本ともっている柱の前で行なわれる時、全く区別なくあるいは贖罪をなすとも言われあるいは柱に就(つ)くとも言われる。けれども第二の言い方は、苦行と卑下との意味を多く含んでいるので、修道女らが謙譲の心からして好んで口にするところのものである。
 贖罪をなすことは、全心をこめた一つの勤めである。柱に就いた修道女は、背後に雷が落ちようともふり返りもしない。
 そのほかになお、聖体の前には常にひざまずいている修道女が一人いる。その時間は一時間としてある。彼女らは上番する兵士のように規律正しく交代する。そこに常住礼拝がある。
 院長や長老たちは、たいていきまって特に重々しい響きの名前を持っている。それは聖者や殉教者らに関連した名前ではないが、イエス・キリストの生涯(しょうがい)の各時期に関連したもので、たとえば、ナティヴィテ長老(降誕)、コンセプシオン長老(受胎)、プレザンタシオン長老(奉献)、パッシオン長老(受難)などのように。けれども、聖者にちなんだ名前も禁じられてるのではない。
 修道女らに会う時には、ただその口だけしか見られない。皆黄色い歯をしている。決して楊枝(ようじ)はこの修道院に入れられない。歯を磨くことは滅落の淵に臨むことである。
 彼女らは何物に対しても私のという言葉を使わない。自分のものというのは何もなく、また何物にも執着してはいけないのである。彼女らはすべてを私どものという。私どもの面紗(かおぎぬ)、私どもの念珠。自分の着ているシャツのことでも私どものシャツと言うに違いない。時としては、祈祷(きとう)書だの遺物だの聖牌(せいはい)だの何かちょっとしたものに愛着することがある。けれどもそれに愛着し初めたことを気づいた時には、直ちにそれを捨てなければならない。彼女らは聖テレサの言葉を記憶していた。ある貴婦人が聖テレサの修道会にはいる時に、「私がごく大事にしています聖書を家に取りにやることを許して下さいませ、」と言った時、聖テレサは答えた。「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか。それならば私どもの仲間におはいり下さいますな。」
 閉じこもること、そして自分の所を持ち自分の室を持つこと、それはすべての者に禁じられている。彼女らはうち開いた分房にはいっている。互いに出会う時には、一人が言う「祭壇の聖体に頌讃(しょうさん)と礼拝とがありまするよう。」すると、も一人は答える、「永遠に。」また一人が他の者の分房を訪れる時にも、同じようなあいさつをする。扉(とびら)に人の手が触れると、向こうから急いで言われるやさしい声が聞こえる、「永遠に!」。あらゆる実際的仕事と同じく、それも習慣のために機械的になっている。そして一人がかなり長い「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう」を言ってしまわぬうちに、も一人のが「永遠に」を言うことも時々ある。
 訪問会の修道女の間では、訪れて来る者は「アヴェ・マリア」と言い、訪れを受ける者は「グラティア・プレナ」と言う(訳者注 両者合して、めでたしマリアよ恵まるる者よ云々の祈祷)。それが彼女らの「今日は」であって、実際「恵まれたる」今日はである。
 各時間には、修道院の会堂の時の鐘に加えて三つ補助の鐘が鳴らされる。それを合い図にして、院長も、声の母も、誓願女も、助修道女も、修練女も、志願女も、一様に話をやめ仕事をやめ考えをやめて、皆同時にきまりの祈りを言う。たとえば五時であると「五時にまたそれぞれの時間に、祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう!」八時であると「八時にまたそれぞれの時間に云々。」そういうふうに各時間に従って言うのである。
 自分の考えをやめて常に神を思わせるのを目的としたこの習慣は、他の多くの修道会にもある。ただその言葉は種々違っている。たとえばアンファン・ゼジュ会では言う、「ただ今の時間にまたそれぞれの時間に、イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう!」
 今より五十年前にプティー・ピクプュスの修道院にいたマルタン・ヴェルガのベネディクト・ベルナールの修道女らは、重々しい聖詩唱歌の調子で、純粋な平音楽で、そしていつも勤めの間引き続いたいっぱいの声で、すべての祭式を歌っていた。弥撒(ミサ)の書に星印がある所では、ちょっと歌をやめて「イエス・マリア・ヨセフ」と低音に言う。死人の祭式には、女声の最低の音で歌うので、いかにも悲痛な効果をきたす。
 プティー・ピクプュスの修道女らは、会員の墓として主祭壇の下に窖(あなぐら)を持っていた。けれども彼女らのいわゆる政府は、その窖へ柩(ひつぎ)を入れることを禁じていた。それゆえ死ぬ時には寺から出て行かねばならないので、彼女らはそれを苦にし、罪悪のようにそれを恐れていた。
 彼女らは、それもつまらぬ慰安ではあるが、昔彼女らの会の所有地であった古いヴォージラールの墓地に、一定の時間に一定の片すみに埋められることを許されていた。
 木曜日に彼女らは、日曜日と同じに大弥撒や夕祷(ゆうとう)やいろんな祭式を聞くようになっている。なおその他に、教会が昔フランスにふりまき今日でもスペインやイタリーにふりまいてるあらゆる小さな祭典で、世間の人のほとんど知らぬようなものまで、彼女らは注意深く実行する。また彼女らが礼拝堂に列する間の時間は非常に長いものである。その祈祷の数と時間とについては、ここに彼女らの一人の無邪気な言葉を引用したら最もよくわかるだろう。「志願女の祈祷は恐ろしいもので、修練女の祈祷はなお大変なもので、誓願女の祈祷はいっそう大変なものです。」
 一週に一度集会が催される。院長が会長となり、声の母たちがそれに立ち会う。各修道女は順次に石の上に行ってひざまずき、その週間のうちに犯した過失や罪を皆の前で高い声で懺悔(ざんげ)する。各懺悔の後に声の母たちは相談をして、公然と苦業を課する。
 少し重い過失は皆それを高声の懺悔に取っておくが、なおそのほかに軽い過失に対しては、彼女らのいわゆる報罪というのがある。報罪をなすには、祭式の間院長の前に腹ばいに平伏して、いつもわれらの母と呼ばれるその院長が、自分の椅子(いす)の板を軽くたたいて、もう立ち上がってもよいと知らせるまでそうしていなければならない。ごく些細(ささい)なことにも報罪をなすのである。コップをこわしたこと、面紗(かおぎぬ)を破いたこと、ふと祭式に数秒おくれたこと、会堂でちょっと音符をまちがえたことなど、それだけでも報罪をしなければならない。報罪は全く自発的のもので罪ある者自ら自分を裁(さば)き自分にそれを課するのである(報罪の coulpe と罪ある者の coupable は同じ語原である)。祭典の日や日曜には、四人の歌唱の母たちが、四つの譜面台のついてる大きな机の前で祭式を歌う。ある日一人の歌唱の長老が、エッケ(ここに)の語で初まってる賛歌を、エッケの代わりにド、シ、ソという三つの音符を大声に言って、その不注意のために祭式の間じゅう報罪を受けたことがある。その過失を特に大きくしたわけは、会衆がそれを笑ったからであった。
 修道女が応接室に呼ばれる時には、それがたとい院長であろうと、前に述べたとおり、口だけしか見えないように面紗(かおぎぬ)を顔の上に引き下げる。
 院長だけが他人に言葉を交じうることを許されている。他の者はごく近親の者にしか会うことができなくて、それもまたきわめてまれにしか許されない。もしふいに俗世の者がやってきて、俗世において知り合いであったかまたは愛したかした一人の修道女に会うことを求める時には種々の交渉が必要である。それが女である場合には、時としては許可されることもある。修道女はやってきて板戸越しに話をする。板戸は母かまたは姉妹にしか開かれない。男には決して面会を許されないのは言うまでもないことである。
 上のようなのがすなわち、マルタン・ヴェルガによっていっそうおごそかにされた聖ベネディクトの規則である。
 それらの修道女は、他の会派の人たちが往々あるように、快活で健やかで顔色がいいなどということは決してない。彼女らは青白くまた重々しい。一八二五年から一八三〇年までのうちに、狂人になった者が三人ある。

     三 謹厳

 この会にはいった女は、少なくとも二年間は、多くは四年間、志願女であって、それからまた四年間は修練女の地位にとどまる。最後の誓願が、二十三、四年たたないうちになさるることはきわめてまれである。マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道会は、決して寡婦を加入せしめない。
 彼女らは各自の分房の中で多くのひそかな苦業を行なう。それは決して人に語ってはいけないものである。
 修練女が誓願式を行なう日には、皆で最も美しい服をつけてやり、白薔薇(しろばら)の帽をかぶらせ、髪をつや出しして束ねてやり、それから彼女は平伏する。皆は彼女の上に大きな黒い面紗(かおぎぬ)を広げて、死者の祭式を歌う。その時修道女らは二列に分かれる。一つの列は彼女のすぐそばを通って、「われらの姉妹は死せり」と悲しい調子で言い、他の列は激しい声で、「イエス・キリストに生きぬ」と答える。
 本書の物語が起こった頃には、一つの寄宿舎がこの修道院に付属していた。大体金持ちの貴族の若い娘らの寄宿舎であって、そのうちには、サント・オーレール嬢やベリサン嬢や、タルボーというカトリックで有名な名前を持ってるイギリス娘などがいた。それらの若い娘らは、四方を壁に護(まも)られて修道女らから育てられ、俗世と時勢とを恐れつつ大きくなっていた。その一人はある日こんなことを言った、「街路の舗石を見ますと、頭から足先まで震えます。」彼女らは青い服をつけ、白い帽子をかぶり、鍍金(めっき)銀か銅かの聖霊メダルを胸につけていた。大祭典の日には、特に聖マルタの日には、修道女の服装をして、終日聖ベネディクトの祭式と勤行(ごんぎょう)とをなすことが、非常な恩恵としてまた最上の幸福として許されていた。初めのうちは、修道女らがその黒服を彼女らに貸し与えていた。けれどもそれは神を涜(けが)すように思われたので、院長の禁ずるところとなった。その貸与は修練女にしか許されなかった。注意すべきことには、それらの仮装は修道院の中でひそかな布教心によって特に許され奨励されたものであって、聖衣に対するある予備趣味を娘らに与えるためのものだったが、寄宿生らにとっては現実の幸福であり実際の楽しみであった。彼女らはごく単純にそれを喜んでいた。それは新奇なものであって、彼女らの心を変えさした。子供心のいかにも無邪気な理由ではないか。それにしても、手に灌水器(かんすいき)を持ち、譜面机の前に四人ずつ立って、数時間歌を歌うという幸福は、われわれ俗人の容易に理解し難いものである。
 生徒らは苦業を除いて修道院のすべての勤めを守っていた。中には、世に還(かえ)って結婚した数年後まで、だれかが扉(とびら)をたたくたびごとに急いで「永遠に」と言う習慣を脱し得なかったような、そういう女もいた。修道女らのように、寄宿生らも近親の者に応接室でしか会えなかった。母親でさえ、彼女らを抱擁することは許されなかった。いかに厳格な規律が守られていたかは次のことを見てもわかる。ある日一人の若い寄宿生は、三歳の妹を連れた母親から訪れてこられた。彼女は泣いた。なぜなら、妹を抱擁したくてたまらなかったがそれもできなかったからである。せめて子供に格子(こうし)から手を出さしてそれに脣(くちびる)をつけることだけは許してもらえるように願った。がそれもほとんどしかるようにして拒絶された。

     四 快活

 それらの若い娘らは、それでもなおこの荘重な家のうちに多くのおもしろい思い出を残していった。
 ある時には、この修道生活のうちに子供心がほとばしり出ることもあった。休憩の鐘が鳴る。扉(とびら)はいっぱいに開かれる。鳥は言っている「うれしいこと、娘さんたちが来る!」喪布のように十字の道がついてるその庭には、突然青春の気が満ちあふれる。輝かしい顔、白い額、楽しい光に満ちた潔(きよ)い目、あらゆる曙(あけぼの)がその暗黒の中にひらめく。賛美歌の後、鐘の鳴った後、鈴の鳴らされた後、喪鐘の後、祭式の後、そこに突然蜜蜂(みつばち)の羽音よりもなおやさしい娘らの声がわき上がってくる。喜びの巣は開かれて、各自に蜜をもたらしてくる。嬉戯(きぎ)し、呼びかわし、いっしょにかたまり、走り出す。きれいなまっ白な小さな歯並みの脣(くちびる)が方々でさえずる。遠くから面紗(かおぎぬ)がそれらの笑いを監視し、影がそれらの輝きをにらんでいるが、それにもかまわず皆輝き皆笑う。四方の陰鬱(いんうつ)な壁もしばしは光り輝く。壁はそれら多くの喜悦を反映してほのかに白み、それらのやさしい蜜蜂の群れをながめている。それはあたかも喪中に降り注ぐ薔薇(ばら)の花である。娘らは修道女の眼前で嬉戯する。森厳なる目つきも無邪気をわずらわすことはできない。それらの娘によっていかめしい時間の間にも無邪気な一瞬が現われる。小さい者は飛び、大きい者は踊る。この修道院のうちにあっては、嬉戯(きぎ)に天国が交じっている。それらの咲き誇ったみずみずしい魂ほど喜ばしくまた尊いものはない。ホメロスもペローとともにここに微笑(ほほえ)むであろう。この暗黒の庭のうちには、あらゆる老婆の顔のしわをも伸ばすまでに青春と健康と騒ぎと叫びと忘我と快活と幸福とがあって、叙事詩中の老婆も物語中の老婆も、宮廷のそれも茅屋(ぼうおく)のそれも、ヘクーバから鵞鳥婆(がちょうばあ)さんまで(訳者注 イリヤッドと千一夜物語の中の老婆)をほほえませるものである。
 常に多くの優美を持ちうっとりとした微笑を人に起こさせるあの子供の言葉は、おそらく他の所でよりも多くこの家の中で発せられる。この陰気な四壁の中で、五歳の女の児がある日叫んだのである。「お母様、私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ。ほんとにうれしいこと!」
 次の記憶すべき対話が行なわれたのもここである。
 声の母――なぜあなたは泣いています。
 子供(六歳、泣きながら)――私はアリクスさんにフランスの歴史を知っていると申しましたの。するとアリクスさんは私がそれを知らないとおっしゃるんですもの、知っていますのに。
 アリクス(大きい児、九歳)――いいえ、お知りになりませんわ。
 声の母――なぜです?
 アリクス――どこでも御本を開いて、中に書いてあることを尋ねてごらん遊ばせ、答えてあげますから、っておっしゃいましたの?
 ――そして?
 ――お答えなさらなかったのです。
 ――であなたは何を尋ねました。
 ――おっしゃったとおりにある所を開きました。そして目についた第一番目の問いを尋ねました。
 ――どういう問いでした?
 ――それからどうなったか、っていうのでした。
 また、ある寄宿生の持ってる多少美食家の鸚鵡(おうむ)について、次の深い観察がなされたのもここである。
「かわいいこと! 大人のようにジャミパンの上皮だけを食べてるわ!」
 七歳の娘の手で忘れないためにあらかじめ書き止められた次の罪の告白が拾われたのも、この修道院の舗石(しきいし)の上においてである。

天の父よ、私は貪欲(どんよく)でありましたことを自ら咎(とが)めまする。
天の父よ、私は姦淫(かんいん)でありましたことを自ら咎めまする。
天の父よ、私は男の方へ目を上げましたことを自ら咎めまする。

 四、五歳の青い目の子供が聞いた次の話が、六歳の薔薇色(ばらいろ)の口から即席に作られたのも、この庭の芝生(しばふ)の上においてである。
「三羽の小さな鶏が、花のたくさん咲いた国を持っていました。鶏は花を摘んで隠しに入れました。それから葉を摘んで玩具(おもちゃ)の中に入れました。その国に一匹の狼(おおかみ)がおりました。森がたくさんありました。狼(おおかみ)は森の中にいました。そして狼は小さな鶏たちを食べてしまいました。」
 それからなお次のような詩も作られたのである。

棒で一つたたきました。
猫(ねこ)をたたいたのはポリシネルでした。
そのため善(よ)いことは起こらず悪いことが起こりました。
そこで奥様がポリシネルを牢屋(ろうや)に入れました。

 修道院で引き取って慈善のために育てていた一人の捨て児の口から、次のようなやさしいまた痛ましい言葉が発せられたのも、ここにおいてである。彼女は他の子供たちが母親のことを話すのをきいて、片すみでつぶやいたのである。
「私が生まれた時はお母様はいらっしゃらなかった。」
 いつも鍵(かぎ)の束を持って廊下を歩き回ってる肥った受付の女が一人いた。アガト修道女という名前であった。十歳から上の大姉さまたちは、彼女のことをアガトクレス(訳者注 シラキューズの暴君)と呼んでいた。
 食堂は長方形の大きな室で、迫持□形(せりもちくりがた)のついた庭と同じ高さの大歩廊から明りがはいるのみで、薄暗くじめじめしていて、子供らが言ってるとおりに、虫がいっぱいいた。周囲から虫が集まってきていた。それで寄宿生らの間では、そのすみずみに特別なおもしろい名前をつけていた。蜘蛛(くも)の隅(すみ)、青虫の隅、草鞋虫(わらじむし)の隅、蟋蟀(こおろぎ)の隅などがあった。蟋蟀の隅は料理場のそばで、ごくとうとばれていた。他の隅(すみ)ほどそこは寒くなかった。それらの名前は食堂から寄宿舎の方まで持ってこられて、昔のマザランの四国民大学のように、それで区別されていた。各生徒は食事の時にすわる食堂のすみずみに従って、四国民の何れか一つに属していた。ある日大司教が巡視にきて、ちょうど見回っていた室(へや)に、みごとな金髪を持った顔色の美しいきれいな小娘がはいって来るのを見て、自分のそばにいるみずみずしい頬(ほお)をした美しい褐色(かっしょく)の髪の寄宿生に尋ねた。
「あの子は何ですか。」
「蜘蛛(くも)でございます。」
「なあに! ではあちらのは?」
「蟋蟀(こおろぎ)でございます。」
「では向こうのは?」
「青虫でございます。」
「なるほど、そしてお前さんは?」
「私は草鞋虫(わらじむし)でございます。」
 この種の家にはそれぞれ特殊なことがあるものである。十九世紀の初めにはエクーアン市もまた、ほとんど尊い影のうちに少女らが育ってゆく優しい厳重な場所の一つであった。エクーアンでは、聖体祭の行列に並ぶのに、処女派と花派とを区別していた。それからまた「天蓋派(てんがいは)」と「香炉派」というのもあって、前者は天蓋のひもを持ち、後者は聖体の香をたくのだった。花はまさしく花派の受け持ちだった。四人の「処女」が一番先に進んだ。その晴れの日の朝になると、しばしば寝室でこんなふうに尋ねる声が聞かれた。
「どなたが処女でございましょう。」
 カンパン夫人は七歳の「妹」が十六歳の「姉」に言った次の言葉を引用している。その時妹の方は行列の後ろの方にいたが、姉の方は行列の先頭にいたのである。「あなたは処女でございますわね。私は処女でございませんのよ。」

     五 気晴らし

 食堂の扉(とびら)の上の方に、人をまっすぐに天国に導くためのものであって純白なる主の祈りと称せらるる次の祈祷(きとう)が、黒い大字で書かれていた。
「いみじき純白なる主の祈り、神自ら作りたまい、神自ら唱えたまい、神自ら天国に置きたまいしもの。夕に床に就(つ)かんとする時、三人の天使わが床に寝(やす)みいたり。一人は裾(すそ)に二人は枕辺(まくらべ)にありて、中央に聖母マリアありぬ。マリアわれに曰(のたま)いけるは、寝(い)ねよ、ためろうなかれと。恵み深き神はわが父、恵み深き聖母はわが母、三人の使徒はわが兄弟、三人の童貞女(おとめ)はわが姉妹。神の産衣(うぶぎ)にわが身体は包まれてあり、聖マルグリットの十字はわが胸に書かれたり。聖母は神を嘆きて野に出で、聖ヨハネに会いぬ。聖ヨハネよいずこよりきたれるか? われはアヴェ・サルスよりきたりぬ。さらば爾(なんじ)は神を見ざりしか? 神は十字の木の上に居たまいぬ、足をたれ手を釘(つ)けられ、白き荊棘(いばら)の小さき冠を頭にかぶりて居たまいぬ。夕に之を三度唱え朝にこれを三度唱うる者は、終(つい)に天国に至らん。」
 この特殊な祈祷は一八二七年には、三度重ねて塗られた胡粉(ごふん)のために壁から消えてしまっていた。当時の若い娘らも今はもはや年老いて、それを忘れてしまっていることだろう。
 壁に釘付(くぎづ)けにされた大きな十字架像が、食堂の装飾を補っていた。食堂のただ一つの扉(とびら)は前に述べたと思うが、庭の方に開いていた。木の腰掛けが両側についてる狭いテーブルが二つ、食堂の一方から他の端まで二列の長い平行線に置かれていた。壁は白く、テーブルは黒かった。それらの二つの喪色のみが、修道院に許される唯一の色彩である。食事は粗末なもので、子供の食べるものでさえ厳重だった。肉と野菜を交ぜたものかまたは塩肴(さかな)かの一皿、それでさえ御馳走(ごちそう)だった。そして寄宿生だけのその簡単な常食も、実は例外なものだった。子供らは週番の長老の監視の下に黙って食事をした。もしだれか規則に反して口を開こうものなら、長老は木の書物を開いたり閉じたりして大きな音を立てた。けれどもそういう沈黙は、十字架像の足下に設けてある小さな机の講壇で聖者らの伝記が大声に読まれることで、いくらか助かるのだった。それを読む者は、その週の当番の大きい生徒であった。むき出しのテーブルの上に所々陶器の鉢(はち)が置いてあって、その中で生徒らは自ら自分の皿や食器を洗った。時とすると、堅い肉やいたんだ肴など食い残しのものをそれに投げ込むこともあった。そうするといつも罰せられた。それらの鉢は水盤と言われていた。
 沈黙を破って口をきいた者は「舌の苦業」をなすのであった。床(ゆか)になすのであって、すなわち舗石(しきいし)をなめるのである。あらゆる喜悦の最後のものたる埃(ほこり)は、薔薇(ばら)のあわれな小さな花弁にして囀(さえず)りの罪を犯したものを、懲らしむるの役目を帯びていたのである。
 修道院のうちには、ただ一部だけ印刷されていて読むことを禁じられてる書物が一つあった。それは聖ベネディクトの規則の本である。俗人の目がのぞいてはいけない奥殿である。われらの規則(おきて)あるいは制度(さだめ)を他国の人に通ぜんとする者あらざるべし。
 寄宿生らはある日ようやくにしてその書物を盗み出した。そして皆で熱心に読み初めた。けれども見つけられることを恐れては急にそれを閉じたりして、何度も途中でとぎらした。生徒らはその非常な冒険からただつまらない楽しみを得たのみだった。若い男の子の罪に関するよく意味のわからない数ページが「一番おもしろかった」くらいのものである。
 生徒らはやせた数本の果樹の立ち並んだ庭の道の中で遊んだ。監視がきびしく罰が重かったにもかかわらず、果樹が風に揺られるような時には、青い林檎(りんご)や腐った杏子(あんず)や虫の食った梨(なし)などを、ひそかに拾い取ることがあった。ここに私は、今自分の目の前にある一つの手紙に語らしてみよう。この手紙は、今日ではパリーの最も優美な婦人の一人たる某公爵夫人が、以前そこの寄宿生であった時、二十五年前に書いたものである。私は原文どおりに書き写してみよう。――「梨や林檎をできる限り隠しておきます。夕食をする前に面紗(かおぎぬ)を寝床に置きに行く時、枕の下にそっと押し込んでおき、晩になって寝床の中で食べます。もしそれができない時は、厠(かわや)の中で食べます。」――そういうことが彼女らの最も強い楽しみであった。
 ある時、それもやはり大司教がこの修道院を訪れた時のことであったが、有名なモンモランシー家に多少縁故のあるブーシャール嬢という若い娘が、一日の休暇を大司教に願ってみるから賭(かけ)をしようと言い出した。かくも厳格な会派ではそれは異常なことだった。賭は成り立った。そして賭に加わった者一人として、そんなことができようとは思っていなかった。ところがいよいよその時になって、大司教が寄宿生らの前を通る時に、仲間の者が名状すべからざるほど恐れてるなかをブーシャール嬢は列から離れて、そして言った。「閣下、一日休みを下さいませ。」ブーシャール嬢は背が高く生々(いきいき)とした姿でこの上もなくかわいい薔薇色(ばらいろ)の顔つきをしていた。大司教のケラン氏はほほえんで言った。「一日とはまたどうしてです。三日でもいいでしょう。三日休みを上げましょう。」院長も差し出る力はなかった、大司教が言われたことであるから。修道院にとっては困まることであったが、寄宿舎にとっては愉快なことだった。その印象は想像してみてもわかるだろう。
 このむずかしい修道院にも、外部の情熱の生活、芝居や小説めいたことまでが、いくらかはいり込むくらいの壁のすき間はあった。それを証明するために、次の確かな事実を一つ持ち出して簡単に述べてみよう。もとよりその事実は、本書の物語とは何らの関係もなく何らの連絡もないものである。それを語るのもただこの修道院のありさまを読者の頭によく映ぜしめんがためにほかならない。
 そこで、この時代に、一人の不思議な女が修道院にいた。修道女ではなかったが、皆にごく尊敬されていて、アルベルティーヌ夫人と言われていた。多少気が変であること、世間には死んだことになってること、その二つを除いてはだれも彼女の身の上を知ってる者はなかった。またそれだけの話のうちには、あるりっぱな結婚のために必要な財産を整理するためだという意味があるんだとも、人は言っていた。
 彼女は三十歳になるかならずで、髪は褐色(かっしょく)で、かなりの美貌(びぼう)で、大きな黒い目でぼんやり物をながめた。そしてほんとに見てるのかどうか疑わしかった。足で歩くというよりもむしろすべり歩いてるというありさまだった。決して口はきかなかった。息をしてるかさえよくはわからなかった。その小鼻は最期の息を引き取ったあとのように狭まって蒼白(そうはく)だった。その手に触れると雪に触れるかのような感じがした。幽霊的な不思議な優美さをそなえていた。彼女がはいってくると皆寒さを感じた。ある日、彼女が通るのを見て一人の修道女が言った。「あの人は死んでることになってるそうですよ。」すると、も一人のが答えた。「もう本当に死んでるのかも知れませんわ。」
 アルベルティーヌ夫人については、種々な話があった。彼女は寄宿生らの絶えざる好奇心の的であった。礼拝堂に丸窓と言われる一つの座席があった。一つの丸い壁口、すなわち一つの丸窓のついたその座席に、いつもアルベルティーヌ夫人はすわって祭式に列した。彼女はたいていそこに一人ですわっていた。なぜなら、二階にあるその座席からは男の説教師や祭司などが見えるからだった。男の牧師を見ることは修道女らには禁じられていたのである。ある日演壇には、高位の若い牧師が立っていた。それはローアン公爵であって、貴族院議員であり、またレオン大侯と言っていた一八一五年には近衛騎兵の将校をしてたことがあり、後に枢機官となりブザンソンの大司教となって一八三〇年に死んだ人である。そのローアン氏が初めてプティー・ピクプュスの修道院で説教をした時のことであった。アルベルティーヌ夫人は、平素は全く身動きもしないで深い落ち着きをもって説教や祭式に列するのだったが、その日ローアン氏を見るや半ば身を起こして、礼拝堂のひっそりした中で大声に言った「まあ、オーギュスト!」会衆はみな驚いてふり返り、その説教師も目を上げて見た。しかしアルベルティーヌ夫人はもう不動の姿に返っていた。外部の世界の息吹(いぶ)き、生命の輝き、その一つが一瞬間、火も消えて凍りついてる彼女の顔の上を通ったのである、そして次にまたすべては消え失せ、狂女はまた死骸(しがい)となってしまった。
 けれども右の二語は、修道院の中で口をきき得るすべての人たちの噂(うわさ)の種となった。そのまあオーギュストという言葉のうちには、いかに多くのことがこもっていたことか、いかに多くの秘密がもらされたことか。ローアン氏の名は実際オーギュストであった。ローアン氏を知ってるところを見ると、アルベルティーヌ夫人はごく上流の社会からきたに違いなかった。かくも高貴な人をあれほど親しく呼ぶところを見ると、彼女もまた上流の社会の高い地位にあったに違いなかった。またローアン氏の「呼び名」を知ってるところを見ると、彼女は彼とある関係が、あるいは親戚関係かも知れないが、しかし確かに密接な関係があるに違いなかった。
 ショアズールとセランという二人の至って厳格な公爵夫人が、しばしばこの会を訪れてきた。きっと上流婦人の特権ではいって来るのであろうが、それをまた寄宿舎では非常に恐れていた。二人の老夫人が通る時には、あわれな若い娘らは皆震え上がって目を伏せていた。
 ローアン氏はまた自ら知らずして、寄宿生らの注意の的となっていた。その頃彼は、司教職につく前にまず、パリー大司教の大助祭となっていた。そしてプティー・ピクプュスの修道女らの礼拝堂の祭式を唱えにやって来ることは、彼の仕事の一つとなっていた。若い幽閉の女らはだれも、セルの幕が掛かってるために彼の姿を見ることはできなかったけれど、彼はやや細いやさしい声を持っていたので、彼女らはそれをやがて聞き覚えて、他の者の声と聞き分けることができるようになった。彼は近衛(このえ)にはいっていたことがあるし、それからまた人の言うところによると、非常なおめかしやで、美しい栗色(くりいろ)の髪を頭のまわりにみごとに縮らしているそうであるし、広い黒いりっぱなバンドをしめており、その教服は世に最も優雅にたたれているそうである。そして彼は十六、七歳の娘のあらゆる想像の的となっていた。
 何ら外部の物音は、修道院の中まで達してこなかった。けれどもある年、笛の音が聞こえてきた。それは一事件だった。当時の寄宿生らは今もなおそれを思い起こすだろう。
 それはだれかが付近で奏する笛の音であった。今日ではもう遠く忘られている一つの歌曲をいつも奏していた。「わがゼチュルベよ、わが魂の上にきたり臨め。」そして日に二三回もそれが聞こえた。
 若い娘たちは数時間それに聞きほれてることがあった。声の母たちは狼狽(ろうばい)した。神経は過敏になって、むやみと罰が課せられた。そういうことが数カ月続いた。寄宿生らは皆多少その見知らぬ音楽家に心を動かしていた。各自に自分をゼチュルベと夢想していた。笛の音はドロア・ムュール街の方から響いていた。笛をあれほど美妙に奏しているその「青年」、自ら気づかずにこれらすべての娘の魂を同時に奏しているその「青年」、彼の姿をたとい一瞬間でもながむることができ、垣間(かいま)見ることができ、瞥見(べっけん)することができるならば、彼女らはすべてを捨てて顧みず、すべてを冒し、すべてを試みたであろう。中には通用門からぬけ出して、ドロア・ムュール街に臨んだ四階の方まで上ってゆき、高窓からのぞこうとした者もあった。けれども、見ることはできなかった。そのうちの一人は、頭の上に手を差し伸ばして窓の格子(こうし)から外に出し、白いハンカチを打ち振りまでした。またもっと大胆なまねをした者が二人あった。彼女らは屋根の上までよじのぼり、危険を冒して、ついに首尾よく「青年」を見ることができた。ところがそれは、零落した盲目の老亡命者であって、屋根裏の部屋で退屈まぎれに笛を吹いてるのだった。

     六 小修道院

 このプティー・ピクプュスの構内には、全く異なった三つの建物があった。修道女らが住んでいる大きな修道院、生徒らが泊まっている寄宿舎、それから小修道院と言われていたところのもの。小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残(なご)りのものであった。黒や灰色や白やあらゆる色の混合であって、あらゆる組合あらゆる種類のものの会合であった。もしこういう言葉の組み合わせが許されるならば、雑色修道院とも呼び得べきものであった。
 既に帝政の頃から、革命のために散乱して途方にくれてるあわれな修道女らは、ベネディクト・ベルナール派の建物のうちに身を置くことを許されたのである。政府は彼女らにも少しの年金を与えた。プティー・ピクプュスの女たちは前から年金を喜んで受けていたのである。それは実におかしな混合体で、各自に自派の規則を守っていた。時とすると寄宿舎の生徒らは、大休みとして、彼女らを訪問することが許された。若い生徒らが、サン・バジル長老やサント・スコラスティック長老やジャコブ長老などのことを特に覚えていたのは、この訪問の結果である。
 それらの避難修道女のうちの一人は、ほとんど自分の家に帰ってきたような観があった。それはサント・オール派の修道女で、その一派からただ一人生き残っていた者である。サント・オール派の昔の修道院は、十八世紀の初めには、後にマルタン・ヴェルガのベネディクト修道女らのものとなったプティー・ピクプュスの家にあったのである。この聖(きよ)き童貞女はごく貧しくて、自派のりっぱな服、緋(ひ)色の肩衣のついた白の長衣を、ふだんに着られなかったので、それを大事そうに小さな像に着せておいた。彼女はその像を慇懃(いんぎん)に人に見せていたが、死ぬ時にそれを建物に遺贈した。かくて一八二四年には、このサント・オール派のものは一人の修道女きり残っていなかったが、今日ではもう一つの人形きり残っていない。
 それらのりっぱな長老たちのほかに、たとえばアルベルティーヌ夫人のような世俗の老女も数人、小修道院に隠退することを院長から許されていた。その中には、ボーフォール・ドープール夫人だの、デュフレーヌ侯爵夫人などもいた。また一人の女は、身分が少しもわからなくて、鼻をかむ時に恐ろしい音を立てることだけ知られていた。寄宿舎の生徒らは彼女をヴァカルミニ夫人(訳者注 とどろき夫人の意)と呼んでいた。
 一八二〇年か二一年ごろ、アントレピードという小さな定期編纂物(へんさんぶつ)を当時編集していたジャンリー夫人が、プティー・ピクプュスの修道院の一室にはいりたいと願ってきた。オルレアン公の推薦があった。蜂(はち)の巣をつっついたような騒ぎになった。声の母たちは震え上がった。ジャンリー夫人は小説を書いたことがあったのである。けれども、自分はだれよりも小説をきらう者であると彼女は公言した。
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