レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「それでは、昔私が君にしてやったとおりのことを、今日は君が私のためにしてくれることができるのだ。」
 フォーシュルヴァンはそのしわよった震える手のうちにジャン・ヴァルジャンの頑丈(がんじょう)な両手を握りしめ、口もきけないようにしばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。
「おう、少しでも御恩報じができれば、それは神様のお引き合わせです。私があなたの生命を助ける! ああ市長さん、何なりとこの爺におっしゃって下さい!」
 美しい喜びが、その老人の姿を一変さしたようだった。その顔からは光がさしてるかのように思われた。
「いったい何をせよとおっしゃるんですかね。」と彼は言った。
「それは今に言う。だが君は室(へや)を持ってるかね。」
「向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。」
 なるほどその小屋は、廃屋の後ろに隠れていて、だれの目にもつかないようになっているので、ジャン・ヴァルジャンは気づかなかったのである。
「よろしい。」ジャン・ヴァルジャンは言った。「では君に二つの頼みがある。」
「何ですな、市長さん。」
「第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。」
「よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。」
「それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。」
「へえ、子供がおりますか!」とフォーシュルヴァンは言った。
 彼はそれ以上一言も言わなかった。そして犬が主人の後ろに従うようにジャン・ヴァルジャンのあとについていった。
 それから三十分とたたないうちに、コゼットは盛んな火に当たってまた血色がよくなり、老庭番の寝床の中に眠っていた。ジャン・ヴァルジャンは元どおり襟飾(えりかざ)りをつけ上衣を着ていた。壁越しに投げ込まれた帽子も見つけて拾ってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣を引っ掛けている間に、フォーシュルヴァンがはずした鈴のついた膝当(ひざあ)ては、もう負いかごのそばの釘(くぎ)に掛けられて壁を飾っていた。二人の男はテーブルに肱(ひじ)をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと黒パンとぶどう酒の一びんとコップ二つとが並べられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンの膝に手を置いて言っていた。
「ああ、マドレーヌさん、あなたは私がすぐにはわかりませんでしたな。あなたは人の生命(いのち)を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者は皆あなたを覚えています。があなたは、まあ恩知らずですな!」

     十 ジャヴェルの失敗の理由

 今までいわばその裏面を見てきたとも言える以上のでき事は、きわめて簡単な事情の下に起こったのである。
 ジャン・ヴァルジャンが、ファンティーヌの死んでいる寝台のそばでジャヴェルに捕えられたその日の夜、モントルイュ・スュール・メールの市の牢屋(ろうや)を脱走した時、警察の方では、その脱走囚徒はパリーの方へ走ったに違いないと想像した。パリーは実にすべてをのみつくす大きな渦巻きで、一度そこに陥ればすべてのものが、海の渦巻きに吸わるるごとく世の渦巻(うずま)きの中に姿を消してしまう。いかなる大森林といえども、人を隠すことその大群集に及ぶものはない。各種の逃亡人はそのことを知っている。彼らはあたかも呑噬(どんぜい)の淵(ふち)に身を投ずるがごとくにパリーへ行く。そこには彼らをかばってくれる深淵(しんえん)がある。警察の方でもそれを知っていて、他で取り逃がした者をいつもパリーでさがすのである。で警察はモントルイュー・スュール・メールの前市長をもそこでさがした。ジャヴェルはその捜索の便宜のためにパリーへ呼ばれた。果して彼は、ジャン・ヴァルジャンの捕縛に多大の力となった。彼の熱心と知力とはそのおりに、アングレー伯の下に警視総監秘書をしていたシャブーイエ氏の認むるところとなった。その上シャブーイエ氏は前からジャヴェルに目をかけてやっていたので、モントルイュ・スュール・メールの警視から彼をパリー警察付きに抜擢(ばってき)した。パリーで彼は各方面に働いて、かかる職務について言うのはいささか変ではあるが、はなはだ名誉ある技量を示した。
 彼はもうジャン・ヴァルジャンのことは忘れていた。絶えず獲物をあさっているそれらの猟犬は、今日の狼(おおかみ)のために昨日の狼を忘れるものである。ところが一八二三年十二月のある日ジャヴェルは一つの新聞を読んだ。彼は平素は少しも新聞なんか読まなかったのであるが、王党だったので、「総司令官大公」のバイヨンヌへの凱旋(がいせん)の詳細を知りたいと思ったのである。そしてその記事をおもしろく読み終わった時、ページの下の方にある一つの名前が、ジャン・ヴァルジャンという名前が、彼の注意をひいた。新聞の伝えるところによると、囚徒ジャン・ヴァルジャンは死んだというのであって、しかもその事件は明瞭な文句をもって書かれていたので、ジャヴェルも何ら疑念を起こさなかった。彼はただ一言言った、「うまくいった。」それから彼は新聞を投げすてて、再びそのことを念頭にしなかった。
 それからしばらくたって次のことが起こった。モンフェルメイュ村において不思議な事情の下に行なわれたという子供誘拐(ゆうかい)に関し、セーヌ・エ・オアーズ県からパリーの警視庁へ警察事項の報告が到来した。報告によれば、その地のある旅館主へ母親が託していった七、八歳の少女が、一人の見知らぬ男から盗まれたというのである。少女の呼び名はコゼットといい、ファンティーヌという女の児であって、ファンティーヌは病院で死んでいたが、それがいつのことで、どこであったかは不明だというのである。その報告がジャヴェルの目に触れた。そして彼は考え初めた。
 ファンティーヌという名前を彼はよく知っていた。ジャン・ヴァルジャンがその子供を連れ戻しに行くために三日の猶予を乞(こ)うて失笑せしめたことを、彼は思い出した。ジャン・ヴァルジャンがパリーでモンフェルメイュ行きの馬車に乗った所を捕えられたことを、彼は思い起こした。またある事情を考え合わしてみると、ジャン・ヴァルジャンがその馬車に乗ったのは二度目のことであって、既に彼は前日、その村には姿を現わさなかったが、その付近に、第一回の旅をしたのであることが想像されていた。彼はそのモンフェルメイュの田舎に何をしに行ったのか? それはついに不明に終わっていた。しかし今やジャヴェルはそれを了解した。ファンティーヌの娘がそこにいたのである。ジャン・ヴァルジャンはその娘をさがしに行ったのである。しかるにこんどはその娘がある見知らぬ男から盗まれたという。いったいその見知らぬ男とはだれだったのか? ジャン・ヴァルジャンであったろうか。しかしジャン・ヴァルジャンは死んでいた。――ジャヴェルはだれにも何とも言わずに、プランセット袋町のプラ・デタンの駅馬車に乗り、モンフェルメイュに行ってみた。
 そこで彼は大なる光明を得るつもりだったが、かえって大なる暗やみを得た。
 最初のうちテナルディエ夫婦は、憤慨して盛んにしゃべり回った。アルーエットがいなくなったことは村中の評判となった。すぐに種々な噂(うわさ)が立てられた。そして結局、子供が盗まれたということに帰着した。それでついに警察の報告となったのである。そのうちに、初めの憤懣(ふんまん)の情が過ぎ去ると、テナルディエはそのみごとな本能によってすぐに目を開いた。検察官をわずらわすのは決して自分の利益にはならない、それからまた、コゼット誘拐(ゆうかい)に関する苦情は、その第一の結果として、自分一身と自分の多くの後ろ暗い仕事の上に法官の慧眼(けいがん)を向けさせることになるだろう。梟(ふくろう)がきらう第一のことは、蝋燭(ろうそく)の光をさしつけられることである。それにまず、受け取った千五百フランのことをどうして言い開いたらよいか。で彼はにわかに考え直して、女房の口をもつぐませ、盗まれた子供のことを言われるとびっくりしたような様子をした。自分には何にもわからないのだ。もとより大事な娘があんなに早く「持ってゆかれた」ことを初めは苦情も言った。愛情の上からせめてもう二、三日は引きとどめても置きたかった。けれども娘を連れにきたのは、その「お祖父(じい)さん」で至って当然なことだった。彼はそのお祖父さんということをつけ加えたので、結果は至ってよかった。ジャヴェルがモンフェルメイュにきてぶっつかったのはそういう話であった。お祖父さんという一語はジャン・ヴァルジャンなる者を消滅さしたのである。
 それでもジャヴェルは、測深錘(おもり)のように二、三の質問をテナルディエの話のうちに投げ込んでみた。「そのお祖父さんというのはどんな人で、何という名前だったか?」それに対してテナルディエは無造作に答えた。「金持ちの百姓です。通行券も見ました。何でもギーヨーム・ランベールという名だったと思います。」
 ランベールというのは正直者らしい信用できそうな名前だった。ジャヴェルはパリーへ帰ってきた。
「あのジャン・ヴァルジャンはまさしく死んでいる。」と彼は自ら言った。「俺(おれ)はばかをみた。」
 彼はまたその事がらを忘れ初めた。ところが一八二四年の三月になって、サン・メダール教区内に住んでいて「施しをする乞食(こじき)」と綽名(あだな)されてる不思議な男のことを、彼は耳にした。人の話によれば、その男は年金を持っており、本当の名前はだれにもわからず、八歳ばかりの少女と二人きりで暮らしてる由で、また少女の方も、モンフェルメイュからきたというだけで、その他は何一つ知っていないそうだった。モンフェルメイュ! その名がいつも出て来るので、ジャヴェルは耳をそばだてた。そしてまた、その男からいつも施しを受けている元寺男で今は間諜(かんちょう)になってる乞食(こじき)の爺(じい)さんが、更にやや詳しい話をもたらした。「その年金所有者はきわめて不愛想である、晩にしか外に出ない、だれにも話しかけない、時々貧しい者に言葉をかけるきりである。人を身近によせつけない。なお、きたならしい黄色い古フロックを着ているが、それには紙幣がいっぱい縫い込まれていて数百万の値打ちがある。」その最後の点が強くジャヴェルの好奇心をそそった。それで、その不思議な年金所有者をひそかに間近く見るために、彼はある日、間諜(かんちょう)の老寺男が毎晩うずくまって祈祷(きとう)の文句を鼻声でくり返しながら人をうかがってる場所と、その古ぼけたぼろとを借りうけた。
 果してその「怪しい男」は、姿を変えたジャヴェルの方へやってきて施しをした。その瞬間にジャヴェルは顔を上げた。そして、ジャン・ヴァルジャンがジャヴェルの面影を認めて慄然(りつぜん)としたのと同じ気持ちを、ジャン・ヴァルジャンの面影を認めたジャヴェルも感じた。
 けれども暗がりのことではあるし、あるいは見違いかも知れなかった。ジャン・ヴァルジャンの死は公然のこととなっていた。疑問が、重大な疑問が、ジャヴェルの頭に残された。細心なジャヴェルは、疑問のままその男の首に手をかけることをしなかった。
 彼はその男のあとをゴルボー屋敷までつけて行って、それから「婆さん」に口を開かせようとした。それは別に困難なことではなかった。婆さんは彼に、百万フランの裏のついたフロックのことは本当だと断言し、千フラン紙幣の話をした。彼女はそれを実際見たのだ! 手を触れたのだ! でジャヴェルは一室を借りた。その晩からすぐにはいり込んだ。彼はその不思議な借家人の声の調子を聞き取ろうと思って、扉の所で立ち聞きをした。けれどもジャン・ヴァルジャンは鍵穴(かぎあな)から蝋燭(ろうそく)の光を見て取って、口をつぐんで探偵(たんてい)の鋒先(ほこさき)をくじいた。
 翌日ジャン・ヴァルジャンは立ちのいた。しかし彼が床に落とした五フラン銀貨の響きは婆さんの注意をひいた。婆さんは金の音をきいて、彼がそこを去るつもりでいるんだと考え、急いでジャヴェルに知らした。夜になってジャン・ヴァルジャンが出かけた時、ジャヴェルは二人の手下とともに大通りの並み木の陰に待ちうけていた。
 ジャヴェルは警視庁に助力を求めたのだが、捕縛しようと思ってる男の名前は明かさなかった。彼はそれを自分だけの秘密にしておいた。それには三つの理由があった。第一、少しでも不注意なことをすればジャン・ヴァルジャンに警戒の念を与えるかも知れなかった。第二、死んだと言われている脱走老囚徒、法廷の記録によって最も危険なる種類の悪人と前から定められている罪人、それを取り押さえることは非常な成功であって、パリー警察の古参の者らがジャヴェルのような新参者にそれを任しておくはずはなく、彼は自分の囚人が他人の手に奪われはしないかを恐れた。第三、ジャヴェルは一人の芸術家で、人に意外の感を与えることを好んだ。前から噂(うわさ)の高い新奇な味を失った成功を彼は好まなかった。暗い所で傑作を仕上げて、それから突然それを明るみに持ち出すことを欲したのである。
 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとをつけて、木から木へ、街路のすみからすみを伝って、瞬時もその姿を見失わなかった。ジャン・ヴァルジャンがもう大丈夫だと思った時でさえ、ジャヴェルの目は彼の上にすえられていた。
 なぜジャヴェルはすぐにジャン・ヴァルジャンを取り押さえなかったか? それはまだ疑問があったからである。
 ここに記憶すべきは、当時警察は意のままの行動を取り得なかったことである。言論の自由のために妨げられていたのである。専断な捕縛は新聞に摘発されて議会の問題とまでなったことがあるので、警視庁の方では臆病になっていた。個人の自由を害することは重大な問題だった。警官らは見当を誤ることを恐れていた。総監は責任を彼ら自身に負わしていた。錯誤はすなわち免職をきたすのだった。次のような小記事が二十種の新聞に掲載されたとしたら、パリーのうちにいかなる反響を起こすだろうかを想像してみるがいい。「昨日、年金を有する尊重すべき白髪の老紳士が、八歳の孫を連れて散歩しつつあった際、脱走囚徒として捕縛されて留置場へ収監せられた。」
 その上になお繰り返して言えば、ジャヴェルには細心なところがあった。自分の内心の注意が総監の注意に加えられたわけである。彼は実際疑念をいだいていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ背を向けて、暗やみの中を歩いていた。
 悲しみ、不安、心配、落胆、夜中に逃げ出してコゼットと自分との隠れ家をパリーのうちに当てもなくさがさねばならないという新たな不幸、子供の歩調に自分の歩調を合わせねばならぬ必要、すべてそれらのことは、知らず知らずジャン・ヴァルジャンの歩き方を変化させ彼の様子に老衰の趣を加えていたので、ジャヴェルのうちに具現していた警察も見当を誤るほどで、また実際見当を誤ったのである。あまりそばに寄ってゆくことのできない事情、亡命老家庭教師のようなその服装、彼を娘の祖父だと断言したテナルディエの言葉、また徒刑場で死んだとされている定説、それらのことはなおいっそうジャヴェルの脳裏の疑念を深めていた。
 ある時には、突然出て行って身元証明の書類を求めてみようかとも彼は考えた。しかし、もしジャン・ヴァルジャンでなかったとしたら、あるいは年金所有の正直な老人でなかったとしたら、おそらくその男は、他の能力を隠すために特に施与をしているのであって、パリーの種々の隠密な悪事のあやのうちに深く賢く立ち交じっている悪漢であり、危険な仲間の首領であり、奸知(かんち)にたけた老人であるに違いない。手下や仲間の者があり、予備の住居があり、きっとその中に逃げ込むに違いない。方々の街路をぐるぐる回ってるところを見ても、尋常のじいさんとは思われない。あまり早く手を下すことは、「黄金の卵を生む牝鶏(めんどり)を殺す」のと同じである。しばらく待ったとて何の不都合があろう。もう取り逃がすことはないとジャヴェルは信じきっていた。
 それで彼はやや迷って、その謎(なぞ)のような人物に種々の疑問をかけながら、なおあとをつけていった。
 ところがかなり時期おくれてではあったが、ポントアーズ街を通りかかった時、ある居酒屋からさしていた明るい光によって、彼はまさしくジャン・ヴァルジャンの姿を見て取った。
 世には最も深い喜びにおどり上がる者が二つある。自分の子にめぐり会った母親と、餌食(えじき)に再会した虎(とら)とである。ジャヴェルはそういう深い喜びにおどり上がった。
 彼は恐るべき囚徒ジャン・ヴァルジャンの姿を確実に見て取るや、自分の方は三人にすぎないことを気づいた。そして、ポントアーズ街の警察派出所に助力を求めた。刺(とげ)ある棒をつかむ者はまず手袋をはめる。
 その間の遅延と、警官らと相談するためにロランの四つ辻(つじ)に立ち止まった時間とで、彼は危うく獲物の足跡を見失いかけた。けれども、ジャン・ヴァルジャンは追跡者を川でへだてようとするに違いないと、彼はすぐに推察した。あたかも猟犬が鼻を地につけて道をかぎわけるように、彼は頭を傾けて考えた。そしてまっすぐな本能の力によって、すぐにオーステルリッツ橋の方へ行った。橋番へ一言尋ねてみて事実をとらえた。「小さい娘を連れた男を見なかったか。」「その男に二スー払わしてやりましたよ、」と橋番は答えた。橋の上にさしかかると、ちょうどジャン・ヴァルジャンがコゼットの手を引いて月に照らされた空地(あきち)を通るのが、川の向こう側に見えた。そしてシュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街へはいってゆく姿も見えた。彼はそこに罠(わな)を張ったようになってるあつらえ向きのジャンロー袋町のことを考え、ピクプュス小路へ通ずるドロア・ムュール街のただ一つの出口のことを考えた。猟人らの言うように彼は取り巻いた。その出口を見張るために警官の一人を他の道から急いでつかわした。造兵廠(ぞうへいしょう)の屯所(とんしょ)にもどる一隊の巡邏兵(じゅんらへい)が通ったので、それを頼んで引きつれた。そういうカルタ遊びには兵士は切札(きりふだ)なのである。その上、野猪(いのしし)をやっつけるには猟人の知力と猟犬の力とを要するのが原則である。それだけの準備をしておけば、もうジャン・ヴァルジャンも袋の鼠(ねずみ)で、右へ行けばジャンローの行き止まりであり、左へ行けば手下の警官がおり、後ろには自分が控えている、そう思ってジャヴェルはかぎ煙草を一服した。
 それから彼は狩り出しにかかった。それは残虐な狂喜の時間であった。彼は獲物を進むままにさしておいた。もう自分の手中のものであることを知っていた。しかし捕獲の時間をできるだけ長引かしたかった。自分の捕えたものがなお自由に動き回ってるのを見ることがおもしろかった。巣にかかった蠅(はえ)の飛ぶのを見て喜ぶ蜘蛛(くも)のような目つきで、また捕えた鼠(ねずみ)を走らして喜ぶ猫(ねこ)のような目つきで、彼は獲物をうかがっていた。獲物をつかむ爪牙(そうが)は奇怪な快感を持っている。それはつかんだ獲物の盲目的な運動を感ずることである。そのなぶり殺しはいかにおもしろいことであるか!
 ジャヴェルは楽しんでいた。網の目は堅固に結んであった。彼は成功を信じていた。今はもう手を握りしめることだけであった。
 彼の方には大丈夫な手下がついているので、ジャン・ヴァルジャンがいかに勇気あり力あり死にもの狂いになったとて、抵抗しようなどとは思いもよらぬことだった。
 ジャヴェルは徐々に進んで行った。あたかも盗人のポケットを一々探るように、その街路のすみずみを隈(くま)なく探りながら進んだ。
 ところがその蜘蛛(くも)の巣のまんなかまで行くと、そこにはもう蠅(はえ)はかかっていなかった。
 彼の憤激は察するに余りある。
 彼はドロア・ムュール街とピクプュス小路との角(かど)を番していた警官に尋ねてみた。警官は泰然自若としてその場所に立っていたが、あの男が通るのは見かけもしなかったのである。
 時としては鹿(しか)もその包まれた頭をふりもぎることがある、言いかえれば、一群の猟犬に追いつめられても逃げてしまうことがある。そういう時には最も老巧な猟人といえども一言もない。デュヴィヴィエやリニヴィールやデプレスのごとき名人でさえ、いかんともすることができない。そういう失敗のおりにアルトンジュは叫んだのである、「あれは鹿ではない、魔法使いだ。」
 ジャヴェルも同様な嘆声をもらしたかも知れない。
 彼は落胆の余り一時は絶望と狂暴とに駆られたほどであった。
 確かに、ナポレオンはロシアの戦いに違算をし、アレクサンデルはインドの戦いに違算をし、シーザーはアフリカの戦いに違算をし、キルスはシチアの戦いに違算をし、そして、ジャヴェルはこのジャン・ヴァルジャンに対する戦いに違算をした。おそらくその前徒刑囚を認定するに躊躇(ちゅうちょ)したのが誤りであったろう。一目見ただけで彼には十分ではなかったろうか。それからまた、ゴルボー屋敷でごく簡単に捕縛しなかったのが誤りだった。ポントアーズ街で確実にそれと認めた時すぐに逮捕しなかったのが誤りだった。ロラン四つ辻(つじ)の月光の中で助力の者らと相談をしたのが誤りだった。もちろん種々の意見は助けになる、そして信用の置ける犬どもの意見を尋ねてそれを知るのはいいことである。しかし狼(おおかみ)だの囚人などという落ち着かない動物を狩り立てる場合には、猟人たる者は注意の上にも注意をしなければいけない。ジャヴェルは一群の猟犬に方向を教えることばかり注意して、獲物に様子を気取られ逃げられてしまった。それからことに、オーステルリッツ橋で足跡を見いだすや、そういう男を一筋の糸の先につけてばかげた他愛ない戯れなどをしたのが誤りだった。彼は自分の力を過信して、獅子(しし)に向って鼠(ねずみ)に対するような戯れをし得ると思った。同時にまた彼は自分の力をあまり過小視して、援兵を引きつれることが必要だと思った。その用心こそ破綻(はたん)の基で、そのために大切な時間を失ったのである。ジャヴェルは以上の種々な違算をした。しかしそれでもなお、世に最も賢明確実な探偵(たんてい)の一人たることを失わない。最も深い意味において彼は、狩猟にいわゆる賢い犬であった。しかしおよそ完全なるものは何があろうぞ。
 偉大なる戦略家といえども策を誤ることがある。
 大失策も、大きな綱のように、多くの小片から成り立ってることがしばしばである。錨綱(いかりづな)をもこれを一筋一筋の糸に分かち、大事をもこれを小さな成分成分に分かつ時には、その一つ一つを切ってゆくことは容易であって、なんだこれだけのものか! という感じを与える。しかるにそれを組み合わせ、それをいっしょにねじ合わせると、巨大なものができ上がる。かくして、アッチラは東方マルキアヌス皇帝と西方バレンチニアヌス皇帝との間に躊躇(ちゅうちょ)し、ハンニバルはカプュアに足を止め、ダントンはアルシ・スュール・オーブに眠ったのである。
 それはともかくとして、ジャン・ヴァルジャンが自分の手中からもれたことを知った時にも、ジャヴェルは錯乱しはしなかった。網を破って逃げたその囚徒はまだ遠くに行ってるはずはないと信じて、彼は番人を置き、罠(わな)と伏兵とを設け、終夜その一郭を狩り立てた。第一に彼の目についたものは、綱を切られて街燈が乱れてることであった。それは大切な手がかりだった。しかしそのために彼はかえって誤られて、すべての捜索をジャンロー袋町の方へそらした。その袋町にはかなり低い壁が幾つもあって、庭に接しており、庭の囲いは広い荒地に接していた。ジャン・ヴァルジャンは確かにそこから逃げ出したに違いないと思われた。そして実際、彼もも少しジャンロー袋町のうちにはいり込んで行ったら、きっとそのとおりにして、ついに[#「ついに」は底本では「つい」]捕えられたであろう。ジャヴェルはそれらの庭と荒地とを、針でもさがすように隈(くま)なく探索した。
 夜が明くるにおよんで、彼は怜悧(れいり)な二人の手下を残して見張りをさせ、あたかも盗人に捕えられた間諜(かんちょう)のように恥じ入って、警視庁へ引き上げた。
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   第六編 プティー・ピクプュス



     一 ピクプュス小路六十二番地

 ピクプュス小路六十二番地にある正門は、約半世紀以前には最も普通なものであった。その門はいつも人の心を誘うように半ば開かれていて、さほど陰気でない二つのものがそこから見えていた、すなわち、葡萄蔓(ぶどうづる)のからみついた壁に取り巻かれてる中庭と、ぶらついてる門番の顔とが。奥の壁の上方には大きな樹木が見えていた。太陽の光が中庭を輝やかし、酒の気が門番の顔を輝やかしてる時には、このピクプュス小路六十二番地の前を通る者は、快い感銘を受けざるを得なかった。しかもそこは読者が既に瞥見(べっけん)したとおり実は陰鬱(いんうつ)な場所であった。
 入り口はほほえんでいた。しかし中は祈っており泣いていた。
 うまく策略をめぐらして――それは容易なことではないが――門番の所を通りすぎて――それには例の胡麻よ開け! の合い言葉(訳者注 アラビアのアリー・ババの物語参照)を知らなければならないのでほとんど不可能のことではあるが――それから、一度に二人とは通れないくらいの壁の間の狭い階段に通じてる右手の小さな玄関にはいり、その階段の暗褐色(あんかっしょく)の下壁と淡黄色の壁色とを気味悪がらず上ってゆき、階段の広段を二度過ぎると、二階の廊下に出るのであった。そこは黄色い塗り壁と暗褐色(あんかっしょく)の腰板とで深い静けさを作っていた。階段と廊下とは二つのりっぱな窓から明りがとってあった。廊下は折れ曲がって、先の方は薄暗くなっていた。その角(かど)を曲がって数歩行くと、一つの扉(とびら)があった。扉はしめ切ってないだけにいっそう不思議な感を与えていた。扉を押し開いてはいると、約六尺ばかりの四角な小さな室(へや)に出られた。室には下に石が敷いてあり、よく洗われていて、清潔で、冷ややかで、青い花のついた一巻十五スーの南京紙が壁に張ってあった。鈍いほの白い光が左手の大きな窓からはいっていた。窓は室と同じ幅で、小さなガラスがいくつもはまっていた。室の中には見回してもだれもいなかった。耳を澄ましても足音もしなければ人声もしなかった。壁には何も掛かってはいず、家具も備えてなく、椅子一つさえ置いてなかった。
 なおよく見回すと、扉と向き合った壁に一尺ばかりの四角な穴があった。真っ黒な節くれ立って丈夫な鉄の棒が縦横にはまっていて、小さなガラス枠(わく)、というよりもむしろ対角線の長さ一寸五分ばかりの網目をこしらえていた。壁に張ってある南京紙(なんきんし)の小さな花模様が、その鉄格子(てつごうし)に静かに整然と接していたが、それでも花模様のなごやかな様子は少しも乱されてはいなかった。鉄格子の目からはどんな小さな生物もあえて出はいりできそうにも思えなかった。何だか物体の出入を許さないような趣があった。しかし目ならば、すなわち精神ならば、自由に出入を許すらしかった。また恐らくそういうつもりでこしらえられたのであろう。鉄格子の少し先にブリキ板が壁にはめ込んであって、泡匙の穴よりもっと小さな穴が無数にあけられていた。そのブリキ板の下の方には、郵便箱の口にそっくりの穴が開いていた。呼び鈴のついた平ひもが、鉄格子口の右の方に下がっていた。
 そのひもを動かすと、鈴が鳴って、びっくりするほどすぐそばに人の声がする。
「どなたですか?」とその声は尋ねる。
 それは静かな女の声で、あまり静かなので悲しげに響くほどだった。
 そこでなお、魔法的な合い言葉を一つ知っていなければならなかった。もしそれを知らないと、声は黙ってしまって、壁の向こうには墓場のすごい暗黒がたたえてるかと思われるほどひっそりしてしまうのである。
 もしその合い言葉を知っていると、向こうの声が答える。
「右の方へおはいりなさい。」
 窓と向い合って右手の方に、ガラスのはまった天窓がついてる灰色塗りのガラス戸があった。□(かきがね)をあげて扉(とびら)を開き、中にはいると、まだ格子戸(こうしど)がおろされず大ランプがともされてない劇場の箱桟敷(はこさじき)にはいったのと同じ印象を受けるのだった。それは実際一種の劇場の桟敷で、ガラス戸から弱い明るみがほのかにさしており、二つの古椅子(ふるいす)と編み目の解けた一枚の蓆(こも)とが狭い中に置いてあり、肱(ひじ)の高さの前の口には黒木の板がついていた。そしてまた格子もあったが、ただそれだけはオペラ座のように金ぴかの木の格子ではなく、握り拳(こぶし)のような漆喰(しっくい)で壁に止めてある恐ろしい鉄格子だった。
 ややあって、その窖(あなぐら)のような薄明りに目がなれてきて、格子の向こうを透かして見ようとしても、五、六寸より先は見えなかった。五、六寸先に、茶っぽい黄色に塗られた横木で固められてる黒い板戸の垣(かき)があった。薄い長片をなしてるそれらの板戸はきっかり合わさっていて、格子の幅だけを全部おおい隠していた。それはいつも立て切ってあった。
 しばらくすると、その板戸の後ろから呼びかけてくる声が聞こえる。
「私はここにおります。何の御用でございますか。」
 それはかわいい女の声、時とすると愛する女の声であった。けれどもだれの姿も見えなかった。息の音さえもほとんど聞こえなかった。墳墓のような仕切りを通して話しかける天の声かとも思われるのだった。
 もし先方の望みどおりの身分の人である時には、そういう身分の人はきわめてまれではあるが、正面に板戸の狭い一枚が開いて、その天啓は本体の出現となるのであった。格子(こうし)の向こうに、更に板戸の向こうに、格子の目からようやくに一つの顔が見えてくる。それもただ脣(くちびる)と□(あご)とだけで、残りは黒い面紗(かおぎぬ)におおわれている。それから黒い胸当てと、黒い衣に包まれたぼんやりした姿とが見て取られる。その顔が話しかけてるのであった。しかしこちらを見もしなければ、また決して微笑(ほほえ)みもしなかった。
 後ろからさして来る明るみは、向こうの姿を白く見せ、こちらの姿を向こうに黒く見せるようにしつらえてあった。その明るみは一つの象徴(シンボル)であった。
 そのうちに目は、前に開かれた窓口から、すべての人の目に閉ざされてるその場所の中へ熱心にのぞき込んでゆく。ある朦朧(もうろう)とした深さが黒服の女の姿を包んでいる。目はその朦朧とした中をさがし求めて、出現した女のまわりにあるものを見きわめようとする。すると間もなく、実は何も見ていなかったことに気づくのであった。見ていたものは、夜であり、空虚であり、暗黒であり、墓地の空気に交じった冬の靄(もや)であり、恐るべき一種の平安さであり、何ものをも呼吸(いき)の音(ね)をさえも聞き得ない静謐(せいひつ)であり、何物をも幻の姿をさえも見得ない暗黒であった。
 見ていたところのものは、修道院の内部だったのである。
 それは実に、常住礼拝のベルナール派修道女の修道院と言われる陰惨厳格なる家の内部だったのである。今いるその室(へや)は、応接室だった。先刻初めに話しかけてくれたあの声は、受付の女の声だった。彼女は壁の向こうに、四角な穴のそばに、二重の面をかぶったように鉄の格子(こうし)とたくさんの穴のあるブリキ板とにへだてられて、黙って身動きもしないでいつもすわってるのだった。
 表の方に窓が一つあって、修道院の内部の方には窓がなかったので、格子のついたその室は薄暗い後ろ明りだった。その聖(きよ)い場所の中にあるものは、何物も俗人の目から見られてはいけなかった。
 けれども、その影の向こうには何かがあったのである。一つの光明があったのである。その死の影の中には一つの生命があったのである。その女修道院は最も世人を避けたものではあったけれども、われわれはこれからその中にはいり込み、読者をもその中に導いて、まだかつていかなる物語作者も見たことのないものを、従ってまだかつて語られたことのないものを、度を越えない範囲において語ってみようと思う。

     二 マルタン・ヴェルガの末院

 ずっと以前から引き続いて一八二四年までなおピクプュス小路にあったその修道院は、マルタン・ヴェルガの分派であるベルナール派修道女らのものであった。
 従ってそれらのベルナール派修道女らは、ベルナール派修道士らのごとくクレールヴォーへ属してるのではなく、ベネディクト派修道士らのごとくシトーに属していた。いい換えれば、彼女らは聖ベルナールへではなく、聖ベネディクトへ帰依してるのであった。
 少しく古文書を読んだことのある者はだれでも知ってるとおり、一四二五年にマルタン・ヴェルガは、ベルナール派修道女とベネディクト派修道女とのために一つの修道会を興し、本院をサラマンカに置き、支院をアルカラに立てた。
 その修道会は、欧州の各カトリック教国内に末院を立てていた。
 かく一派を他派につぎ合わしたものは、ローマ教会においては珍しいものではない。ここに言う聖ベネディクトの一派だけを取ってみても、それに関係のあるものは、マルタン・ヴェルガの分派のほかになお四つの修道会があった。イタリーにモンテ・カシノとパデュアのサンタ・ジォスティナとの二つ、フランスにクリュニーとサン・モールとの二つ。それからまた九つの宗派があった、すなわち、ヴァロンブロザ、グラモン、セレスタン団、カマルデュール団、シャルトルー団、ユミリエ団、オリヴァトール団、シルヴェストラン団、およびシトー。なぜならシトーもまた、他の宗派の基でありながら、聖ベネディクトに対しては一つの分枝にすぎなかったのである。シトー派は、一〇九八年にラングル教区のモレーム修道院長であった聖ロベールから起こったものである。しかるに、あのスビアコの沙漠(さばく)に隠退していた悪魔が(実際年老いていたので、隠者となったのかも知れない)古(いにしえ)のアポロンの寺院の住居から、当時十七歳の聖ベネディクトに追い払われたのは、五二九年のことであった。
 いつも跣足(はだし)で歩いて首に柳籠(やなぎかご)をつけ決してすわることをしないカルメル山の修道女らの規則に次いで、最も厳格な規則は、マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らのそれである。彼女らは黒い着物をつけて、胸当てをしているが、その胸は聖ベネディクトの特別な命によって、□(あご)の所まで上せてある。広袖(ひろそで)のセルの上衣、毛糸の大きな面紗(かおぎぬ)、胸の上に四角に截(た)たれて□まできてる胸当て、目の所まで下ってる頭被、そういうのが彼女らの服装である。すべて黒であるがただ頭被だけは白である。修練女は同じ着物のまっ白なのをつけている。誓願修道女はなおそのほかに大念珠を脇(わき)につけている。
 マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らは、いわゆるサン・サクルマンの女たちというベネディクト修道女らのように、常住礼拝を実行するのである。後者は今世紀の初めに、タンプルに一つとヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街に一つとの二つの建物をパリーに持っていた。けれどもここに述べるプティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクトの女たちは、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街やタンプルなどの修道院にはいってるサン・サクルマンの女たちとは、全く別な一派であった。規則にも多くの違いがあり、服装にも多くの違いがあった。前者は黒い胸当てをつけていた。後者は白の胸当てをつけた上になお、鍍金(めっき)の銀か鍍金の銅かの高さ三寸ばかりの聖体を胸につけていた。前者はその聖体をつけていなかった。常住礼拝は両者共通であったが、それでも両者は全く別々のものだった。サン・サクルマンの女たちとマルタン・ヴェルガの女たちとの間の似たところは、ただ常住礼拝を実行してるという点のみだった。あたかも、フィリップ・ド・ネリによってフロレンスに建てられたイタリーのオラトアール派と、ピエール・ド・ベリュールによってパリーに建てられたフランスのオラトアール派とが、イエス・キリストの降誕と生涯(しょうがい)と死と聖母とに関するすべての神秘の研究崇拝において似寄っていながら、なお非常に違っていて、時としては敵とまでなるのと同じであった。フィリップ・ド・ネリは一個の聖者のみであり、ベリュールは枢機官であったから、パリーのオラトアール派はいつも上位を主張していた。
 さてマルタン・ヴェルガのスペインふうの厳重な規則に立ち戻ってみよう。
 この分院のベルナール・ベネディクト修道女らは、一年中少しの粗食しか取らず、四旬節および彼女らに特別な他の多くの日に断食をし、毎日寸眠の後に午前の一時から三時まで起き上がって日課の祈祷書(きとうしょ)をよみ朝の祈祷を歌い、四季ともに藁(わら)のふとんの上にセルの毛布にくるまって寝、決して湯にはいらず、決して火をたかず、毎金曜日には苦行をし、沈黙の規定を守り、ごく短い休息の間にしか口をきかず、十字架闡揚(せんよう)記念日である九月十四日から復活祭まで六カ月の間荒毛のシャツを着る。その六カ月間というのは一つの軽減であって、規則には一年中となっている。けれども、荒毛のシャツは夏の炎熱にはとうていたえられないものであって、熱病や神経痛などを起こすことがあったので、その使用に少し制限を加えねばならなかったのである。しかしその軽減をもってしても、修道女らが九月十四日にそのシャツを着る時には、三、四日は熱を出すのが常である。服従、困窮、貞節、囲壁中の永住、それが彼女らの誓いであって、またそれは規則によっていっそう重くなされている。
 修道院長は、集会で発言権を有するので声の母と言われる長老らによって、三年間の期限で選挙される。院長は二度の再選を受け得るのみであって、そのために一院長の最長年限は九年となるのである。
 彼女らは決して男の祭司の姿を見ない。男の祭司はいつも、七尺の高さに張られてるセルの幕で隠されている。説教の時に、その礼拝堂の中に男の説教師がいる時には、彼女らは面紗(かおぎぬ)を顔の上に引き下げる。それからいつも低い声で話し、目を伏せ頭をたれて歩かなければならない。その修道院の中に自由にはいり得るただ一人の男性は、教区の長の大司教ばかりである。
 否そのほかにも一人いる。すなわち庭番である。けれどもそれは常に老人であって、また絶えず庭に一人きりでいるために、そして修道女らがそれと知って避けるようにするために、膝(ひざ)に一つの鈴がつけられている。
 彼女らは絶対的盲従をもって院長の命に服する。それはあらゆる克己をもってする聖典的服従である。すなわち、キリストの声に対するがごとく、その身振りその最初の合い図において、直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって、職人の手のうちにある鑪(ろ)のごとく、であり、またいかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり、である。
 彼女らは各自順番に、彼女らのいわゆる贖罪をなす。贖罪(しょくざい)というのは、あらゆる悪、あらゆる過失、あらゆる放肆(ほうし)、あらゆる違犯、あらゆる不正、あらゆる罪悪、すべて地上において犯さるるものに対する祈りである。午後の四時から午前の四時まで、あるいは午前の四時から午後の四時まで、引き続いて十二時間の間、贖罪を行なう修道女は両手を合わせ、繩を首にかけ、聖体の前に石の上にひざまずいている。疲労にたえなくなる時には、腕を十字に組み顔を床(ゆか)につけて、腹ばいに平伏する。それが唯一の緩和である。そういう姿勢で、世のあらゆる罪人のために彼女は祈る。それは実に荘厳とも言えるほどに偉大である。
 かかることが、上に大蝋燭(ろうそく)の一本ともっている柱の前で行なわれる時、全く区別なくあるいは贖罪をなすとも言われあるいは柱に就(つ)くとも言われる。けれども第二の言い方は、苦行と卑下との意味を多く含んでいるので、修道女らが謙譲の心からして好んで口にするところのものである。
 贖罪をなすことは、全心をこめた一つの勤めである。柱に就いた修道女は、背後に雷が落ちようともふり返りもしない。
 そのほかになお、聖体の前には常にひざまずいている修道女が一人いる。その時間は一時間としてある。彼女らは上番する兵士のように規律正しく交代する。そこに常住礼拝がある。
 院長や長老たちは、たいていきまって特に重々しい響きの名前を持っている。それは聖者や殉教者らに関連した名前ではないが、イエス・キリストの生涯(しょうがい)の各時期に関連したもので、たとえば、ナティヴィテ長老(降誕)、コンセプシオン長老(受胎)、プレザンタシオン長老(奉献)、パッシオン長老(受難)などのように。けれども、聖者にちなんだ名前も禁じられてるのではない。
 修道女らに会う時には、ただその口だけしか見られない。皆黄色い歯をしている。決して楊枝(ようじ)はこの修道院に入れられない。歯を磨くことは滅落の淵に臨むことである。
 彼女らは何物に対しても私のという言葉を使わない。自分のものというのは何もなく、また何物にも執着してはいけないのである。彼女らはすべてを私どものという。私どもの面紗(かおぎぬ)、私どもの念珠。自分の着ているシャツのことでも私どものシャツと言うに違いない。時としては、祈祷(きとう)書だの遺物だの聖牌(せいはい)だの何かちょっとしたものに愛着することがある。けれどもそれに愛着し初めたことを気づいた時には、直ちにそれを捨てなければならない。彼女らは聖テレサの言葉を記憶していた。ある貴婦人が聖テレサの修道会にはいる時に、「私がごく大事にしています聖書を家に取りにやることを許して下さいませ、」と言った時、聖テレサは答えた。「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか。それならば私どもの仲間におはいり下さいますな。」
 閉じこもること、そして自分の所を持ち自分の室を持つこと、それはすべての者に禁じられている。彼女らはうち開いた分房にはいっている。互いに出会う時には、一人が言う「祭壇の聖体に頌讃(しょうさん)と礼拝とがありまするよう。」すると、も一人は答える、「永遠に。」また一人が他の者の分房を訪れる時にも、同じようなあいさつをする。扉(とびら)に人の手が触れると、向こうから急いで言われるやさしい声が聞こえる、「永遠に!」。あらゆる実際的仕事と同じく、それも習慣のために機械的になっている。そして一人がかなり長い「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう」を言ってしまわぬうちに、も一人のが「永遠に」を言うことも時々ある。
 訪問会の修道女の間では、訪れて来る者は「アヴェ・マリア」と言い、訪れを受ける者は「グラティア・プレナ」と言う(訳者注 両者合して、めでたしマリアよ恵まるる者よ云々の祈祷)。それが彼女らの「今日は」であって、実際「恵まれたる」今日はである。
 各時間には、修道院の会堂の時の鐘に加えて三つ補助の鐘が鳴らされる。それを合い図にして、院長も、声の母も、誓願女も、助修道女も、修練女も、志願女も、一様に話をやめ仕事をやめ考えをやめて、皆同時にきまりの祈りを言う。たとえば五時であると「五時にまたそれぞれの時間に、祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう!」八時であると「八時にまたそれぞれの時間に云々。」そういうふうに各時間に従って言うのである。
 自分の考えをやめて常に神を思わせるのを目的としたこの習慣は、他の多くの修道会にもある。ただその言葉は種々違っている。たとえばアンファン・ゼジュ会では言う、「ただ今の時間にまたそれぞれの時間に、イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう!」
 今より五十年前にプティー・ピクプュスの修道院にいたマルタン・ヴェルガのベネディクト・ベルナールの修道女らは、重々しい聖詩唱歌の調子で、純粋な平音楽で、そしていつも勤めの間引き続いたいっぱいの声で、すべての祭式を歌っていた。弥撒(ミサ)の書に星印がある所では、ちょっと歌をやめて「イエス・マリア・ヨセフ」と低音に言う。死人の祭式には、女声の最低の音で歌うので、いかにも悲痛な効果をきたす。
 プティー・ピクプュスの修道女らは、会員の墓として主祭壇の下に窖(あなぐら)を持っていた。けれども彼女らのいわゆる政府は、その窖へ柩(ひつぎ)を入れることを禁じていた。それゆえ死ぬ時には寺から出て行かねばならないので、彼女らはそれを苦にし、罪悪のようにそれを恐れていた。
 彼女らは、それもつまらぬ慰安ではあるが、昔彼女らの会の所有地であった古いヴォージラールの墓地に、一定の時間に一定の片すみに埋められることを許されていた。
 木曜日に彼女らは、日曜日と同じに大弥撒や夕祷(ゆうとう)やいろんな祭式を聞くようになっている。なおその他に、教会が昔フランスにふりまき今日でもスペインやイタリーにふりまいてるあらゆる小さな祭典で、世間の人のほとんど知らぬようなものまで、彼女らは注意深く実行する。また彼女らが礼拝堂に列する間の時間は非常に長いものである。その祈祷の数と時間とについては、ここに彼女らの一人の無邪気な言葉を引用したら最もよくわかるだろう。「志願女の祈祷は恐ろしいもので、修練女の祈祷はなお大変なもので、誓願女の祈祷はいっそう大変なものです。」
 一週に一度集会が催される。院長が会長となり、声の母たちがそれに立ち会う。各修道女は順次に石の上に行ってひざまずき、その週間のうちに犯した過失や罪を皆の前で高い声で懺悔(ざんげ)する。各懺悔の後に声の母たちは相談をして、公然と苦業を課する。
 少し重い過失は皆それを高声の懺悔に取っておくが、なおそのほかに軽い過失に対しては、彼女らのいわゆる報罪というのがある。報罪をなすには、祭式の間院長の前に腹ばいに平伏して、いつもわれらの母と呼ばれるその院長が、自分の椅子(いす)の板を軽くたたいて、もう立ち上がってもよいと知らせるまでそうしていなければならない。ごく些細(ささい)なことにも報罪をなすのである。コップをこわしたこと、面紗(かおぎぬ)を破いたこと、ふと祭式に数秒おくれたこと、会堂でちょっと音符をまちがえたことなど、それだけでも報罪をしなければならない。報罪は全く自発的のもので罪ある者自ら自分を裁(さば)き自分にそれを課するのである(報罪の coulpe と罪ある者の coupable は同じ語原である)。祭典の日や日曜には、四人の歌唱の母たちが、四つの譜面台のついてる大きな机の前で祭式を歌う。ある日一人の歌唱の長老が、エッケ(ここに)の語で初まってる賛歌を、エッケの代わりにド、シ、ソという三つの音符を大声に言って、その不注意のために祭式の間じゅう報罪を受けたことがある。その過失を特に大きくしたわけは、会衆がそれを笑ったからであった。
 修道女が応接室に呼ばれる時には、それがたとい院長であろうと、前に述べたとおり、口だけしか見えないように面紗(かおぎぬ)を顔の上に引き下げる。
 院長だけが他人に言葉を交じうることを許されている。他の者はごく近親の者にしか会うことができなくて、それもまたきわめてまれにしか許されない。もしふいに俗世の者がやってきて、俗世において知り合いであったかまたは愛したかした一人の修道女に会うことを求める時には種々の交渉が必要である。それが女である場合には、時としては許可されることもある。修道女はやってきて板戸越しに話をする。板戸は母かまたは姉妹にしか開かれない。男には決して面会を許されないのは言うまでもないことである。
 上のようなのがすなわち、マルタン・ヴェルガによっていっそうおごそかにされた聖ベネディクトの規則である。
 それらの修道女は、他の会派の人たちが往々あるように、快活で健やかで顔色がいいなどということは決してない。彼女らは青白くまた重々しい。一八二五年から一八三〇年までのうちに、狂人になった者が三人ある。

     三 謹厳

 この会にはいった女は、少なくとも二年間は、多くは四年間、志願女であって、それからまた四年間は修練女の地位にとどまる。最後の誓願が、二十三、四年たたないうちになさるることはきわめてまれである。マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道会は、決して寡婦を加入せしめない。
 彼女らは各自の分房の中で多くのひそかな苦業を行なう。それは決して人に語ってはいけないものである。
 修練女が誓願式を行なう日には、皆で最も美しい服をつけてやり、白薔薇(しろばら)の帽をかぶらせ、髪をつや出しして束ねてやり、それから彼女は平伏する。皆は彼女の上に大きな黒い面紗(かおぎぬ)を広げて、死者の祭式を歌う。その時修道女らは二列に分かれる。一つの列は彼女のすぐそばを通って、「われらの姉妹は死せり」と悲しい調子で言い、他の列は激しい声で、「イエス・キリストに生きぬ」と答える。
 本書の物語が起こった頃には、一つの寄宿舎がこの修道院に付属していた。大体金持ちの貴族の若い娘らの寄宿舎であって、そのうちには、サント・オーレール嬢やベリサン嬢や、タルボーというカトリックで有名な名前を持ってるイギリス娘などがいた。それらの若い娘らは、四方を壁に護(まも)られて修道女らから育てられ、俗世と時勢とを恐れつつ大きくなっていた。その一人はある日こんなことを言った、「街路の舗石を見ますと、頭から足先まで震えます。」彼女らは青い服をつけ、白い帽子をかぶり、鍍金(めっき)銀か銅かの聖霊メダルを胸につけていた。大祭典の日には、特に聖マルタの日には、修道女の服装をして、終日聖ベネディクトの祭式と勤行(ごんぎょう)とをなすことが、非常な恩恵としてまた最上の幸福として許されていた。初めのうちは、修道女らがその黒服を彼女らに貸し与えていた。けれどもそれは神を涜(けが)すように思われたので、院長の禁ずるところとなった。その貸与は修練女にしか許されなかった。注意すべきことには、それらの仮装は修道院の中でひそかな布教心によって特に許され奨励されたものであって、聖衣に対するある予備趣味を娘らに与えるためのものだったが、寄宿生らにとっては現実の幸福であり実際の楽しみであった。彼女らはごく単純にそれを喜んでいた。それは新奇なものであって、彼女らの心を変えさした。子供心のいかにも無邪気な理由ではないか。それにしても、手に灌水器(かんすいき)を持ち、譜面机の前に四人ずつ立って、数時間歌を歌うという幸福は、われわれ俗人の容易に理解し難いものである。
 生徒らは苦業を除いて修道院のすべての勤めを守っていた。中には、世に還(かえ)って結婚した数年後まで、だれかが扉(とびら)をたたくたびごとに急いで「永遠に」と言う習慣を脱し得なかったような、そういう女もいた。修道女らのように、寄宿生らも近親の者に応接室でしか会えなかった。母親でさえ、彼女らを抱擁することは許されなかった。いかに厳格な規律が守られていたかは次のことを見てもわかる。ある日一人の若い寄宿生は、三歳の妹を連れた母親から訪れてこられた。彼女は泣いた。なぜなら、妹を抱擁したくてたまらなかったがそれもできなかったからである。せめて子供に格子(こうし)から手を出さしてそれに脣(くちびる)をつけることだけは許してもらえるように願った。がそれもほとんどしかるようにして拒絶された。

     四 快活

 それらの若い娘らは、それでもなおこの荘重な家のうちに多くのおもしろい思い出を残していった。
 ある時には、この修道生活のうちに子供心がほとばしり出ることもあった。休憩の鐘が鳴る。扉(とびら)はいっぱいに開かれる。鳥は言っている「うれしいこと、娘さんたちが来る!」喪布のように十字の道がついてるその庭には、突然青春の気が満ちあふれる。輝かしい顔、白い額、楽しい光に満ちた潔(きよ)い目、あらゆる曙(あけぼの)がその暗黒の中にひらめく。賛美歌の後、鐘の鳴った後、鈴の鳴らされた後、喪鐘の後、祭式の後、そこに突然蜜蜂(みつばち)の羽音よりもなおやさしい娘らの声がわき上がってくる。喜びの巣は開かれて、各自に蜜をもたらしてくる。嬉戯(きぎ)し、呼びかわし、いっしょにかたまり、走り出す。きれいなまっ白な小さな歯並みの脣(くちびる)が方々でさえずる。遠くから面紗(かおぎぬ)がそれらの笑いを監視し、影がそれらの輝きをにらんでいるが、それにもかまわず皆輝き皆笑う。四方の陰鬱(いんうつ)な壁もしばしは光り輝く。壁はそれら多くの喜悦を反映してほのかに白み、それらのやさしい蜜蜂の群れをながめている。それはあたかも喪中に降り注ぐ薔薇(ばら)の花である。娘らは修道女の眼前で嬉戯する。森厳なる目つきも無邪気をわずらわすことはできない。それらの娘によっていかめしい時間の間にも無邪気な一瞬が現われる。小さい者は飛び、大きい者は踊る。この修道院のうちにあっては、嬉戯(きぎ)に天国が交じっている。それらの咲き誇ったみずみずしい魂ほど喜ばしくまた尊いものはない。ホメロスもペローとともにここに微笑(ほほえ)むであろう。この暗黒の庭のうちには、あらゆる老婆の顔のしわをも伸ばすまでに青春と健康と騒ぎと叫びと忘我と快活と幸福とがあって、叙事詩中の老婆も物語中の老婆も、宮廷のそれも茅屋(ぼうおく)のそれも、ヘクーバから鵞鳥婆(がちょうばあ)さんまで(訳者注 イリヤッドと千一夜物語の中の老婆)をほほえませるものである。
 常に多くの優美を持ちうっとりとした微笑を人に起こさせるあの子供の言葉は、おそらく他の所でよりも多くこの家の中で発せられる。この陰気な四壁の中で、五歳の女の児がある日叫んだのである。「お母様、私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ。ほんとにうれしいこと!」
 次の記憶すべき対話が行なわれたのもここである。
 声の母――なぜあなたは泣いています。
 子供(六歳、泣きながら)――私はアリクスさんにフランスの歴史を知っていると申しましたの。するとアリクスさんは私がそれを知らないとおっしゃるんですもの、知っていますのに。
 アリクス(大きい児、九歳)――いいえ、お知りになりませんわ。
 声の母――なぜです?
 アリクス――どこでも御本を開いて、中に書いてあることを尋ねてごらん遊ばせ、答えてあげますから、っておっしゃいましたの?
 ――そして?
 ――お答えなさらなかったのです。
 ――であなたは何を尋ねました。
 ――おっしゃったとおりにある所を開きました。そして目についた第一番目の問いを尋ねました。
 ――どういう問いでした?
 ――それからどうなったか、っていうのでした。
 また、ある寄宿生の持ってる多少美食家の鸚鵡(おうむ)について、次の深い観察がなされたのもここである。
「かわいいこと! 大人のようにジャミパンの上皮だけを食べてるわ!」
 七歳の娘の手で忘れないためにあらかじめ書き止められた次の罪の告白が拾われたのも、この修道院の舗石(しきいし)の上においてである。

天の父よ、私は貪欲(どんよく)でありましたことを自ら咎(とが)めまする。
天の父よ、私は姦淫(かんいん)でありましたことを自ら咎めまする。
天の父よ、私は男の方へ目を上げましたことを自ら咎めまする。

 四、五歳の青い目の子供が聞いた次の話が、六歳の薔薇色(ばらいろ)の口から即席に作られたのも、この庭の芝生(しばふ)の上においてである。
「三羽の小さな鶏が、花のたくさん咲いた国を持っていました。鶏は花を摘んで隠しに入れました。それから葉を摘んで玩具(おもちゃ)の中に入れました。その国に一匹の狼(おおかみ)がおりました。森がたくさんありました。狼(おおかみ)は森の中にいました。そして狼は小さな鶏たちを食べてしまいました。」
 それからなお次のような詩も作られたのである。

棒で一つたたきました。
猫(ねこ)をたたいたのはポリシネルでした。
そのため善(よ)いことは起こらず悪いことが起こりました。
そこで奥様がポリシネルを牢屋(ろうや)に入れました。

 修道院で引き取って慈善のために育てていた一人の捨て児の口から、次のようなやさしいまた痛ましい言葉が発せられたのも、ここにおいてである。彼女は他の子供たちが母親のことを話すのをきいて、片すみでつぶやいたのである。
「私が生まれた時はお母様はいらっしゃらなかった。」
 いつも鍵(かぎ)の束を持って廊下を歩き回ってる肥った受付の女が一人いた。アガト修道女という名前であった。十歳から上の大姉さまたちは、彼女のことをアガトクレス(訳者注 シラキューズの暴君)と呼んでいた。
 食堂は長方形の大きな室で、迫持□形(せりもちくりがた)のついた庭と同じ高さの大歩廊から明りがはいるのみで、薄暗くじめじめしていて、子供らが言ってるとおりに、虫がいっぱいいた。周囲から虫が集まってきていた。それで寄宿生らの間では、そのすみずみに特別なおもしろい名前をつけていた。蜘蛛(くも)の隅(すみ)、青虫の隅、草鞋虫(わらじむし)の隅、蟋蟀(こおろぎ)の隅などがあった。蟋蟀の隅は料理場のそばで、ごくとうとばれていた。他の隅(すみ)ほどそこは寒くなかった。それらの名前は食堂から寄宿舎の方まで持ってこられて、昔のマザランの四国民大学のように、それで区別されていた。各生徒は食事の時にすわる食堂のすみずみに従って、四国民の何れか一つに属していた。ある日大司教が巡視にきて、ちょうど見回っていた室(へや)に、みごとな金髪を持った顔色の美しいきれいな小娘がはいって来るのを見て、自分のそばにいるみずみずしい頬(ほお)をした美しい褐色(かっしょく)の髪の寄宿生に尋ねた。
「あの子は何ですか。」
「蜘蛛(くも)でございます。」
「なあに! ではあちらのは?」
「蟋蟀(こおろぎ)でございます。」
「では向こうのは?」
「青虫でございます。」
「なるほど、そしてお前さんは?」
「私は草鞋虫(わらじむし)でございます。
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