レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 われわれがここに描いてるこの場所のありさまは、厳密に正確であって、この一郭に昔住んだことのある者の頭には、必ずやごくはっきりした記憶を呼び起こすであろう。
 壁の切り取られた断面は、その全部が一種の大きな見すぼらしい門みたいになっていた。それは縦に多くの板をよせ集めたぶかっこうなもので、上の方の板は下の方のものより広く、皆横に打ちつけた長い鉄の箍(たが)で止めてあった。その横の方に、普通の大きさの正門があって、こしらえられてから明らかに五十年とはたっていないらしかった。
 一本の菩提樹(ぼだいじゅ)の木がその切り取られた壁の断面の上から枝をひろげており、またポロンソー街の方では壁の上に蔦(つた)がいっぱい絡(から)みついていた。
 さし迫った危険のうちにあることを感じたジャン・ヴァルジャンは、その薄暗い長屋が何となく人気なくひっそりしているのに心ひかれた。彼は急にその長屋を見回した。もしその中にはいることができたらたぶん助かるだろうと思った。彼はまずそういう考えと希望とを得た。
 ドロア・ムュール街に面するその建物の正面の中ほどには、鉛の古い漏斗形(ろうとがた)の鉢(はち)がどの階の窓にもついていた。そして中央の管から分かれてその鉢の各へ通じてる種々な管の枝が、建物の正面に木の枝のように浮き出ていた。そのたくさんの節を持った管の枝は、昔の農家の正面によじれからんでる刈り込まれた古いぶどうの蔓(つる)をまねたものであった。
 ブリキや鉄などの枝のついたそのおかしな壁果樹が、最初にジャン・ヴァルジャンの目にとまった。彼はコゼットを車除石に背をもたしてすわらせ、黙っているように命じて、それから管が地面についてる所へ走っていった。たぶんそこから登って家の中にはいり込む方法があるだろうと思ったのである。しかし管は古くなっていて役に立たず、ほとんど壁から離れてぐらぐらになっていた。その上静まり返った建物の窓はどれも皆、屋根裏の窓でさえ、大きな鉄の格子(こうし)がはまっていた。それからまた、月の光はその正面にいっぱいさしていて、そこを乗り越えようとすれば、街路の端で見張りをしてる男に見付かる恐れがあった。それからまたコゼットをどうすればいいか? 四階の高さの家までどうして彼女を引き上げられよう。
 彼は管についてよじのぼる考えをやめて、ポロンソー街の方へ戻るために壁に身を寄せてはってきた。
 コゼットを残しておいた壁の断面の所まできた時、そこはだれからも見られないことに彼は気づいた。前に説明したとおり、そこはどちらから見ても見えないようになっていた。その上そこは影になっていた。そしてそこに二つの門があった。あるいはそれを押しあけられるかも知れなかった。壁の上から菩提樹(ぼだいじゅ)の木と蔦(つた)とが見えてるところをみると、中は明らかに庭になってるらしかった。樹木にはまだ葉は出ていなかったが、少なくともそこに身を隠して夜が明けるまで潜んでることができるかも知れなかった。
 時は過ぎ去ってゆく。早くしなければならなかった。
 彼は大門にさわってみた、そしてすぐに、その戸は内外両方からしめ切ってあることを知った。
 彼はなお多くの希望をいだいて、も一つの大きな門に近づいていった。それは恐ろしく老い朽ちていて、大きいのでいっそう弱そうで、板は腐っており、三つしかない鉄の箍(たが)は錆(さ)びきっていた。その錆び朽ちた戸を押し破ることはできそうに思えた。
 ところがよく見ると、それは実は門ではなかった。肱金(ひじがね)も蝶番(ちょうつがい)も錠前もまんなかの合わせ目もなかった。鉄の箍は一方から他方へ続けざまにうちつけてあった。板の裂け目から彼は、いい加減にセメントで固めた素石や切り石をのぞき見ることができた。今から十年前まではなお、そこを通る者はそれらのものを見ることができたのである。その戸みたいなものはただ壁の上につけられた木の覆(おお)いにすぎないことを、彼は狼狽(ろうばい)しながらも自ら認めざるを得なかった。板を引きはがすことは何でもなかったが、その先には更に壁があるのだった。

     五 ガス燈にては不可能のこと

 その時調子を取った重い響きが向こうに聞こえてきた。ジャン・ヴァルジャンはその街路のすみから少しのぞき出してみた。七、八人の兵士が列をなして、ポロンソー街に現われてきたところだった。銃剣の光るのが見えた。それが彼の方へやってきつつあった。
 その兵士らはジャヴェルの高い姿を先に立てて、徐々に注意して進んできた。しばしば立ち止まった。明らかに彼らは、壁のすみや戸や路地の入り口などをしらべつつやって来るのだった。
 それはジャヴェルが道で出会って助力を求めた巡邏(じゅんら)の兵士らであったろう。その推測はまちがいなかった。
 ジャヴェルの手下の二人が、その列のうちに加わっていた。
 彼らの歩調と時々立ち止まる時間とをはかってみると、ジャン・ヴァルジャンがいる所までやって来るには十五分ばかりはかかりそうだった。それは実に恐ろしい時間であった。三度口を開いた恐ろしい懸崖(けんがい)からジャン・ヴァルジャンはわずか十数分を距(へだ)てているのみだった。そしてこんどの徒刑場は単なる徒刑場のみではなく、コゼットをも永久に失うことであった。すなわち墳墓の中におけるような生活をしなければならなくなるのであった。
 もはや逃げ道はただ一つきりしかなかった。
 ジャン・ヴァルジャンはいわば二つの袋を持ってるとも言える特質をそなえていた。一つの袋には聖者の考えがはいっており、も一つの袋には囚徒の恐るべき才能がはいっていた。彼は場合に応じていずれかの袋を探るのであった。
 種々の技能があったうちでも、特にツーロン徒刑場をしばしば脱走した経験から彼は、読者の記憶するとおり、登攀(とうはん)の妙技に長じていた。梯子(はしご)もなく、鎹(かすがい)もなく、ただ筋力だけで、首と肩と腰と膝(ひざ)とで身をささえて、石のわずかな突起につかまって、壁のまっすぐな角(かど)を、場合によっては七階くらいの高さまでもよじのぼることができた。二十年ばかり前、パリーのコンシエルジュリー監獄の中庭の壁のすみを囚徒バトモールが乗り越えて、その壁を有名になし恐ろしくなしたあの技能である。
 ジャン・ヴァルジャンは菩提樹(ぼだいじゅ)の枝がさし出てる壁の高さを目分量で計った。約十八尺ばかりの高さだった。その壁が大きな長屋の建物の切阿(きりづま)と出会ってる角の所には、下の方に三角形の大きな築塀(ついべい)がついていた。おそらくその至って便利な引っ込んだ場所に、いわゆる通行人と称する用便人らを立たせないためのものであったらしい。そういうふうに壁のすみをふさいだものはパリーにいくらもあった。
 その築塀は高さ五尺ばかりだった。その頂から壁の上までよじ上るべき場所は、十四尺に満たないほどだった。
 壁の上には平たい石があるのみで、何の覆(おお)いもついていなかった。
 ただ困まるのはコゼットだった。コゼットの方は壁を乗り越すことができなかった。では彼女を捨ててしまうか? ジャン・ヴァルジャンはそんなことは夢にも考えなかった。といって連れてのぼることは不可能だった。その異常な登攀(とうはん)をやるには自分一人で全力をつくさなければならなかった。少しの荷があっても、重力の中心を失って下に落ちるにきまっていた。
 そこで一筋の繩(なわ)が必要になってきた。ジャン・ヴァルジャンはそれを持っていなかった。ポロンソー街のそのま夜中に、どこに繩が得られよう。もしその時にジャン・ヴァルジャンが一王国を有していたとしたら、確かに彼はそれをも一条の繩のために惜しみはしなかったろう。
 あらゆる危急な場合にはそのひらめきがあるもので、あるいは人を盲目にし、あるいは人の目を開かせる。
 ジャン・ヴァルジャンの絶望した目は、ふとジャンロー袋町の街燈の柱に落ちた。
 その当時、パリーの街路にはまだガス燈がなかった。夜になるとそこここに立てられてる反照燈をつけるのであったが、それは町の一方から他方へ引っ張られて柱の□眼(ほぞあな)にはめられてる一本の綱で、上げられたりおろされたりするのであった。その綱が巻かれる軸は、ランプの下の小さな鉄の箱の中にはめこんであって、箱の鍵(かぎ)は点燈夫が持っており、また綱の方はある高さまで金属を被(き)せてまもってあった。
 ジャン・ヴァルジャンは命がけの勢いで、街路を一飛びに飛び越し、袋町にはいり、ナイフの先で、小さな箱の閂子(かんぬき)をはずし、そしてすぐにコゼットの所へ戻ってきた。彼は一筋の綱を手にしていた。あらゆる手段を見いだすそれらの陰惨な人々は、運命と争うおり、急速に仕事をやってのけるものである。
 前に説明したとおり、その夜街燈はともされていなかった。ジャンロー袋町のランプももとよりほかのと同じく消えていた。でそのそばを通っても、ランプが普通の所についていないことに目をとめる者はなかったろう。
 そのうちにも、その時と場所と暗やみと、ジャン・ヴァルジャンが夢中になってることと、その異様な態度やあちらこちら飛び回ってることなどは、しだいにコゼットを不安ならしめていた。ほかの子供だったらもうよほど前から大声に泣き出していたろう。がコゼットはただジャン・ヴァルジャンのフロックの裾につかまっていた。しだいに近づいてくる巡邏(じゅんら)の兵士らの足音は、ますますはっきり聞こえていた。
「お父さん、」とコゼットは低く言った、「あたしこわい。向こうから来るのはだれなの?」
「しッ! テナルディエの上(かみ)さんだよ。」と不幸な男は答えた。
 コゼットは身を震わした。彼はつけ加えた。
「黙っておいで。私(わたし)のするままにしておいで。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエの上さんが待ち受けてるよ。お前を取り戻しにきてるんだよ。」
 それから、別に急ぎもせず、しかしすべてを一度でやってのけるようにして、しっかりした簡単な正確さで、それも巡邏とジャヴェルとが刻一刻に押し寄せつつある危急なおりなのでいっそう驚くべきことではあったが、彼は自分のえり飾りをはずし、それをコゼットの両腋(りょうわき)の下に身体を痛めないように注意して結わえ、海員たちが燕結(つばめむす)びと称する結び方でその襟飾(えりかざ)りを綱の一端に結わえ、綱の他の一端を口にくわえ、靴と靴足袋とをぬいで壁の向こうに投げ込み、築塀(ついべい)の上にのぼり、そして壁と切阿(きりづま)との角をよじのぼりはじめたが、あたかも踵(かかと)と肱(ひじ)とを梯子(はしご)にかけてるかと思われるほど確実自在なものだった。半分時とたたないうちに彼は壁の上にはい上がった。
 コゼットは呆気(あっけ)にとられて一言も口をきかずに彼を見守っていた。ジャン・ヴァルジャンの言いつけと、テナルディエの上さんという名前とが、彼女を氷のように冷たく縮み上がらしていた。
 たちまち彼女は、ジャン・ヴァルジャンが声を低めながら自分に呼びかけてるのを聞いた。
「壁に背を向けなさい。」
 彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 そして彼女は地面から引き上げられるのを感じた。
 自ら気がつかないうちに彼女は壁の上にきていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左の手で押さえ、腹ばいになって、壁の上を切り取られた断面の所までやって行った。そこには彼の推察どおり、一つの小屋があって、木の塀(へい)の上から屋根がさし出て、ゆるやかな勾配(こうばい)をなして地面に近くたれていて、菩提樹(ぼだいじゅ)の木とすれすれになっていた。
 仕合わせなことだった。というのは、壁はその内部の方では外の街路の方よりもずっと高くなっていた。ジャン・ヴァルジャンは自分の下の方ごく深くに地面を見とめた。
 彼が屋根の斜面の所へ達して、壁の頂から離れようとした時に、激しい音が巡邏(じゅんら)のやってきたことを示した。ジャヴェルの雷のような声が聞こえた。
「袋町をさがしてみい! ドロア・ムュール街にもピクプュス小路にも見張りがついてる。きっと袋町のうちにいるに違いない!」
 兵士らはジャンロー袋町のうちにはいり込んで行った。
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負いながら屋根をすべりおり、菩提樹に取りついて地面に飛びおりた。恐怖のためか元気を出したのか、コゼットは息をも潜めていた。両手には少し擦過傷(すりきず)がついていた。

     六 謎(なぞ)のはじめ

 ジャン・ヴァルジャンがはいった所は、ごく広い異様なありさまをした一種の庭であった。特に冬にそして夜分にながめるためにこしらえられたかと思われるほど寂しい庭であった。長方形をなしていて、奥には大きな白楊樹(はこやなぎ)の並んだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立ちがあり、まんなかはうち開けた空地になっていて、一本のごく大きな樹木、大きな藪(やぶ)のように込み合って曲がりくねった数本の果樹、四角な野菜畑、月の光に輝いてる瓜畑(うりばたけ)の鐘形覆(しょうけいおお)い、古い水溜(みずだめ)などが、それと見えていた。所々に石の腰掛けがあったが、苔(こけ)に黒くなってるようだった。道にはほの暗い小さな灌木(かんぼく)が立ち並んでまっすぐに通じていた。庭の半ばは雑草が生(お)い茂り、残りは青い苔(こけ)におおわれていた。
 ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼が屋根を伝っておりてきた小屋があり、薪(まき)がつみ重ねてあり、その後ろに壁にくっついて石の立像が一つあった。石像の欠け損じた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのうちにぼんやり見えていた。
 小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちた幾つかの室(へや)が認められ、その一つはいっぱい物がつまっていて物置きに使われてるらしかった。
 ピクプュス小路の方まで折れ曲がっているドロア・ムュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭を囲んでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気であった。窓には鉄格子(てつこうし)がはまっていて、燈火の影さえさしてはいなかった。上方の窓には監獄に見るように目隠しがついていた。その一方の正面の影は他の正面の上に落ち、更に庭に落ちて、広い黒布をひろげたようなありさまをしていた。
 そのほかには一軒の家も見当たらなかった。庭の奥は靄(もや)と夜とのうちに見えなくなっていた。けれども二、三の壁がぼんやり見分けられて、その交錯してる所を見ると向こうにはなお耕作地があるらしく、またポロンソー街の低い屋根並みも見分けられた。
 その庭はまったく想像にもおよばないほど荒涼たるものだった。人影一つなかったのは夜ふけのこととて当然ではあるが、しかしまっ昼間でさえ人の歩く所ではなさそうなありさまだった。
 ジャン・ヴァルジャンの第一の注意は、靴を拾ってはき、それからコゼットとともに物置きの中にはいりこむことだった。逃走者はいかによく身を隠してもそれで十分とは思わないものである。コゼットの方もテナルディエの上さんのことをまだ考えていて、彼と同じくできるだけ身を潜めようとしていた。
 コゼットは震えながら彼にすがりついていた。聞こえるものとては、袋町や街路をさがし回ってる巡邏(じゅんら)の騒がしい足音、石にぶつかる銃床尾の音、配置の探偵(たんてい)に呼びかけるジャヴェルの声、よく聞き取れないその言葉のののしり声。
 十五分ばかりもたつと、その騒がしい怒号の響きもしだいに遠くなってゆくように思えた。ジャン・ヴァルジャンは息を凝らしていた。
 彼はそっとコゼットの口に手をあてていた。
 けれども彼が隠れていたその場所は、不思議なほど寂然(せきぜん)と静まり返っていて、すぐそばの恐ろしい激しい騒ぎも、何ら不安の影を投じてこなかった。あたかもそれらの壁は、聖書にあるあの聾者(ろうしゃ)の石ででも造られてるかのようであった。
 突然、その深い静謐(せいひつ)のうちに、新しい音響が起こった。天来の聖(きよ)い名状すべからざる響きで、前の音が恐ろしかったのに比べて実に歓(よろこ)ばしい響きであった。暗やみのうちから伝わって来る賛美歌で、夜の暗い恐ろしい静寂のうちにおける祈祷(きとう)と和声との光耀(こうよう)であった。女の声、それも童貞女の濁りない音調と少女の無邪気な音調とがいっしょにもつれ合った声、地上のものとも思われぬ声、赤児の耳になお残っており臨終の人の耳に既に響いているあの声にも似寄ったもの。その歌声は庭にそびえている薄暗い建物からもれて来るのだった。悪魔の騒がしい声が遠ざかって、天使の合唱が影のうちに近づいてくるかのようだった。
 コゼットとジャン・ヴァルジャンとはひざまずいた。
 二人はそれが何であるかを知らず、自分らがどこにいるかを知らなかった。しかし彼らは二人とも、その老人も子供も、その改悛者(かいしゅんしゃ)も罪なき者も、ひざまずかなければならないように感じたのであった。
 それらの声は不思議にも、その建物の寂しさを少しも消さなかった。人なき住居(すまい)のうちにおける超自然的な歌であった。
 それらの声が歌っている間、ジャン・ヴァルジャンはもう何事も考えなかった。彼はもはや暗夜を見ず、青空をながめていた。人のみな心のうちに有しているあの昇天の翼が開くのを、彼ははっきり感ずるような心地がした。
 歌はやんだ。おそらくそれは長く続いたのかも知れなかったが、ジャン・ヴァルジャンにはどれくらいだったかわからなかった。恍惚(こうこつ)たる時間は常に一瞬間としか思えないものである。
 すべては再び沈黙のうちに返った。もう街路にも庭の中にも、何物もなかった。脅かすものも心を安めるものも、すべて消え失せてしまった。壁の頂にはえてる少しの枯れ草を風が吹いて、静かな悲しげな小さな音を立てていた。

     七 謎(なぞ)の続き

 夜の北風が吹き初めていた。それでみるともう夜中の一時か二時の頃に違いなかった。かわいそうにコゼットは何とも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がそばの地面にすわって自分の上に頭をもたしているので、もう眠ってるのかと思った。彼は身体をかがめてその顔をのぞいた。彼女は目を大きく開いていて何か考えてるようなふうだった。彼は痛ましく感じた。
 彼女はまだ震えていた。
「眠くはないかね。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「ひどく寒いの。」と彼女は答えた。
 それからややあって彼女は言った。
「まだ向こうにいるの?」
「だれが?」とジャン・ヴァルジャンはきいた。
「テナルディエのお上さんが。」
 ジャン・ヴァルジャンはもうコゼットを黙らせるためにとった手段のことなんか忘れていた。
「ああ、お上さんならもう行ってしまったよ。」と彼は言った。「もうこわがるものはない。」
 子供は重荷が胸から取り去られたようにため息をついた。
 地面は湿っていた。物置きは四方が開いていて、寒い風は一刻ごとに鋭くなっていた。老人は上衣をぬいで、それをコゼットにまとってやった。
「これで少しは暖いかね。」と彼は言った。
「ええ、お父さん。」
「ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。」
 彼はその廃屋から出て、もっといい隠れ場所をさがしながら、大きな建物に沿って歩き出した。幾つも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみな格子(こうし)がついていた。
 建物の内側の曲がり角(かど)を通り過ぎると、アーチ形の窓が幾つもある所に出た。光がさしていた。彼は爪先(つまさき)で伸び上がって、一つの窓からのぞいてみた。それらの窓はみなかなり広い一つの広間についていて、広間の中は大きな石が舗(し)いてあり、迫持揃(せりもちぞろい)と柱とで仕切られ、ただ一つの小さな光と大きな影とのほか、何も見分けられなかった。その光は、片すみにともされてる一つの有明(ありあけ)から来るのだった。広間の中はひっそりとして、何も動くものはなかった。けれどもじっと見ていると、床石の上に、喪布におおわれた人間の形らしいものが、ぼんやり見えるようだった。それはうつ向きになって、床石に顔をつけ、腕を十字に組み、死んだようにじっとして動かなかった。床の上に引きずっている蛇(へび)のようなもので、そのすごい形のものには首に繩(なわ)がついてるようにも思われた。
 広間のうちは薄ら明りに浮かび上がってくる一種の靄(もや)が立ちこめて、いっそう恐ろしい趣になっていた。
 ジャン・ヴァルジャンがその後しばしば言ったことであるが、彼は生涯(しょうがい)に幾度か陰惨な光景に出会ったけれども、その薄暗い場所でま夜中にのぞき見た謎(なぞ)のような人の姿が、何とも言えない不可解な神秘を行なってるありさまほどぞっとする恐ろしいものは、かつて見たことがなかった。それはたぶん死んでるのかも知れないと想像するのは恐ろしいことだったが、あるいは生きてるのかも知れないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。
 彼は勇気を鼓して額を窓ガラスに押し当て、それが動きはしないかをうかがった。だいぶ長い間そうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と突然名状し難い恐怖を感じて、彼は逃げ出した。後ろもふり返り得ないで物置きの方へ駆け出した。もしふり向いたら、後ろにはきっとその形が腕を振りながら大またに追いかけてくるのが見えるに違いないような気がした。
 彼は息を切らして小屋の所へ帰ってきた。足もまっすぐには立てなかった。腰には冷や汗が流れていた。
 いま自分はどこにいるのであろう。パリーのまんなかにこんな墓場のようなものがあろうとは、だれが想像し得られよう。この不思議な家は何だろう。夜の神秘に満ちた建物、天使のような声でやみの中に人の心を招く家、しかも近づいてゆくと突然に現わるるその恐るべき光景、輝かしい天国の門が開けるかと思うと、恐ろしい墓場の門が開いてくる。そしてそれはまさしく現実の建物である、街路の方には番地がしるしてある一軒の家である。夢ではないのだ。しかし彼は容易にそう信ずることができなかった。
 寒気、心配、不安、その夜の種々な激情、そのために彼は実際熱をも発していた。そしてあらゆる考えが頭のうちには入り乱れていた。
 彼はコゼットに近寄った。コゼットは眠っていた。

     八 謎(なぞ)はますます深くなる

 コゼットは一つの石に頭をもたして、そこに眠ってしまっていた。
 彼はそのそばにすわって、彼女をながめ初めた。そして彼女をながめてるうちにしだいに心が落ち着いてきて、頭の自由を回復した。彼は次の真実を、今後の自分の生活の基をはっきりと認めた、すなわち、コゼットがいる間は、コゼットをそばに有している間は、自分の求むるところのものはすべて彼女のためのみであり、自分の恐れるところのものもすべて彼女のためのみであるということを。彼は彼女に着せるために上衣をぬいでいたが、ひどく寒いとも感じてはいなかったのである。
 しかるに、そういう瞑想(めいそう)にふけっているうちに、少し前から変な物音が彼の耳に達していた。ちょうど鈴を振ってるような音だった。それが庭の中に聞こえていた。弱くはあるが、はっきりと聞き取れた。夜牧場で家畜の首についてる鈴から起こるかすかな小音楽にも似寄っていた。
 その音をきいて、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
 よく見ると、庭の中にだれか人がいた。
 一人の男らしい人影が、瓜畑(うりばたけ)の幾つもの鐘形覆(しょうけいおお)いの間を、規則正しく立ち上がったりかがんだり立ち止まったりして歩いていた。ちょうど何かを地面に引きずってるかまたはひろげてるようだった。その男は跛者(びっこ)らしかった。
 ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。不運な者らが絶えずやるような身震いであった。すべてに敵意がありすべてが疑わしいように彼らは思うものである。人の目につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われやすいからといっては夜をきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、先刻は庭に人影のないのを見ておののき、今は庭にだれかいるのを見ておののいた。
 彼は夢幻的恐怖から現実的恐怖へと陥っていった。考えてみると、ジャヴェルと探偵(たんてい)の者らはおそらくまだ立ち去っていないだろう、彼らは必ずや通りに見張りの者を残していったろう、あの男が自分を庭のうちに見いだしたら、泥坊と叫んで彼らの手に自分を渡してしまうだろう。彼は眠ってるコゼットを静かに腕に抱いて、物置きの一番奥のすみに、廃(すた)れた古い家具のつみ重なっている向こうに、そっと連れていった。コゼットは身動きもしなかった。
 そこから彼は、瓜畑の中にいる男の様子をうかがった。不思議なことには、鈴の音はその男の動作につれて起こっていた。男が近づくと鈴の音も近づき、男が遠くなると鈴の音も遠くなり、男が急な動作をするとそれにつれて顫音(せんおん)が聞こえ、男が立ち止まると鈴の音もやんだ。明らかに鈴はその男についてるらしかった。してみると、それはいったい何を意味するのであろう。羊か牛ででもあるように鈴を下げてるその男は、いったい何者であろう。
 そんな疑問をくり返しながら、彼はコゼットの手にさわってみた。その手は冷えきっていた。
「ああこれは!」と彼は言った。
 彼は低い声で呼んだ。
「コゼット!」
 コゼットは目を開かなかった。
 彼は激しく揺すってみた。
 彼女は目をさまさなかった。
「死んだのかしら!」と彼は言った。そして頭から足先まで震えながら立ち上がった。
 最も恐ろしい考えが混乱して彼の頭を通りすぎた。おぞましい想像が一隊の地獄の神のように襲いきたって、頭脳の壁に激しく押し寄せることもあるものである。愛する人々の身の上に関する場合には、用心深い人の心もあらゆる狂気じみたことを考え出すものである。睡眠も寒い夜戸外においては生命にかかわることがあるのを彼は思い出した。
 コゼットはまっさおになって、彼の足元の地面にぐったり横たわって、身動きもしなかった。
 彼は耳をあててその呼吸をきいてみた。
 息はまだあった。しかしそれもきわめてかすかで、すぐにも止まりそうに思えた。
 どうして彼女をあたためるか、どうして彼女をさまさせるか? その一事より以外のことはすべて彼の頭から消えてしまった。彼は我を忘れて小屋の外に飛び出した。
 十五分とたたないうちにコゼットを寝床に寝かして火のそばに置いてやることは、是非ともしなければならないことだった。

     九 鈴をつけた男

 ジャン・ヴァルジャンは庭にいる男の方へまっすぐに進んで行った。彼はチョッキの隠しにはいっていた貨幣の包みを手に握っていた。
 男は顔を下に向けて、彼がやって来るのを知らなかった。大股(おおまた)に飛んで行ってジャン・ヴァルジャンはすぐ彼の所へ達した。
 ジャン・ヴァルジャンはそのそばに行って叫んだ。
「百フラン!」
 男はびくりとして目を上げた。
「百フランあげる、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もし今夜私を泊めてくれるなら!」
 月の光はジャン・ヴァルジャンの狼狽(ろうばい)した顔をまともに照らしていた。
「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」と男は言った。
 そんな夜ふけに、不思議な場所で、その見も知らぬ男から、マドレーヌという名をふいに言われたので、ジャン・ヴァルジャンは思わずあとにさがった。
 彼は何でも予期してはいたが、そのことばかりは全く思いがけないことだった。彼にそう言った男は腰の曲がった跛の老人で、ほぼ百姓のような着物をきて、左の膝(ひざ)に皮の膝当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶら下げていた。その顔は影になっていて見分けられなかった。
 そのうちに老人は帽子をぬいで、震えながら叫んだ。
「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへきなすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってでもきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からに違いない。そしてまたその様子は! 襟飾(えりかざ)りも、帽子も、上衣も着ていなさらない。知らない人だったら魂消(たまげ)てしまいますよ。まあこの節は聖者たちも何と妙なことをなさることやら。だがまあどうしてここへおはいりなすったかね。」
 その言葉は引き続いて出てきた。田舎者(いなかもの)の早口で少しも不安を与うるものではなかった。ただ質朴な正直さと呆然(ぼうぜん)自失との入り交じった調子だった。
「君はだれですか、そしてこれはどういう家ですか。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「まあ何ということだ!」と老人は叫んだ。「私はあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたが私を入れて下さった所ですよ。ええ私がおわかりになりませんかな。」
「わからない。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「どうして君は私を知ってるんです。」
「あなたは私の生命(いのち)を助けて下さった。」と男は言った。
 男は向きを変えた。月の光が彼の横顔を照らし出した。そしてジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人を見て取った。
「ああ、君だったか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「なるほど思い出した。」
「それで安堵(あんど)しましたよ!」と老人は恨むような調子で言った。
「そしてここで何をしてるんです。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「なあに、瓜(うり)を囲ってやってるんですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンが近寄ってきた時、フォーシュルヴァン老人は実際手に防寒菰(ぼうかんこも)のはじを持っていて、それを瓜畑(うりばたけ)の上にひろげてるところだった。彼は一時間ばかり前から庭に出ていて、既に多くの菰をひろげてしまっていた。ジャン・ヴァルジャンが物置きの中からながめた彼の変な動作は、そういうことをしてるためだった。
 彼は続けて言った。
「私は考えたんですよ。月はいいし、霜はおりるだろう、どれひとつ瓜に外套(がいとう)をきせてやろうかって。」そして彼はジャン・ヴァルジャンを見て高く笑いながらつけ加えた。「あなたにもそうしてあげなければいけませんかな。だがいったいどうしてここにきなすったかね。」
 ジャン・ヴァルジャンは、今自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名前で知られている、ということを感じて、こんどは用心してしか話を進めなかった。彼は種々なことを尋ねてみた。不思議にも役割が変わってしまったかのようだった。今や尋ねかけるのは闖入者(ちんにゅうしゃ)なる彼の方であった。
「いったい君が膝(ひざ)につけてる鈴は何かね。」
「これですか、」とフォーシュルヴァンは答えた、「これは人がよけるようにつけてるんですよ。」
「なんだって、人がよけるように?」
 フォーシュルヴァン老人は妙な瞬(まばたき)をした。
「なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑(けんのん)だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。」
「これはどういう家かね。」
「ええ! 御存じでしょうがね。」
「いや、知らないんだ。」
「私をここの庭番に世話して下すってながら!」
「まあ何にも知らないものとして教えてくれ。」
「それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンは思い出した。偶然にも、言い換えれば天意によって、彼はまさしくサン・タントアーヌ街区のその修道院に投げ込まれたのだった。そこには、車から落ちて不具になったフォーシュルヴァン老人が、彼の推薦で二年前から雇われていた。ジャン・ヴァルジャンは独語(ひとりごと)のように繰り返した。
「プティー・ピクプュスの修道院!」
「そうですよ。だがいったい、」とフォーシュルヴァンは言った、「マドレーヌさん、あなたはどうしてここにおはいりなすったかね。あなたは聖者には違いないが、それでも男なんで、そしてここには男はいっさい入れないんですがね。」
「君もここにいるじゃないか。」
「私だけですよ。」
「それにしても私はここに置いてもらわなければならないんだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「それはどうも!」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 ジャン・ヴァルジャンは老人に近寄って、重々しい声で彼に言った。
「フォーシュルヴァン爺(じい)さん、私は君の生命(いのち)を助けたんだ。」
「それはもう私から最初に申したことですよ。」とフォーシュルヴァンは答えた。
「それでは、昔私が君にしてやったとおりのことを、今日は君が私のためにしてくれることができるのだ。」
 フォーシュルヴァンはそのしわよった震える手のうちにジャン・ヴァルジャンの頑丈(がんじょう)な両手を握りしめ、口もきけないようにしばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。
「おう、少しでも御恩報じができれば、それは神様のお引き合わせです。私があなたの生命を助ける! ああ市長さん、何なりとこの爺におっしゃって下さい!」
 美しい喜びが、その老人の姿を一変さしたようだった。その顔からは光がさしてるかのように思われた。
「いったい何をせよとおっしゃるんですかね。」と彼は言った。
「それは今に言う。だが君は室(へや)を持ってるかね。」
「向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。」
 なるほどその小屋は、廃屋の後ろに隠れていて、だれの目にもつかないようになっているので、ジャン・ヴァルジャンは気づかなかったのである。
「よろしい。」ジャン・ヴァルジャンは言った。「では君に二つの頼みがある。」
「何ですな、市長さん。」
「第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。」
「よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。」
「それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。」
「へえ、子供がおりますか!」とフォーシュルヴァンは言った。
 彼はそれ以上一言も言わなかった。そして犬が主人の後ろに従うようにジャン・ヴァルジャンのあとについていった。
 それから三十分とたたないうちに、コゼットは盛んな火に当たってまた血色がよくなり、老庭番の寝床の中に眠っていた。ジャン・ヴァルジャンは元どおり襟飾(えりかざ)りをつけ上衣を着ていた。壁越しに投げ込まれた帽子も見つけて拾ってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣を引っ掛けている間に、フォーシュルヴァンがはずした鈴のついた膝当(ひざあ)ては、もう負いかごのそばの釘(くぎ)に掛けられて壁を飾っていた。二人の男はテーブルに肱(ひじ)をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと黒パンとぶどう酒の一びんとコップ二つとが並べられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンの膝に手を置いて言っていた。
「ああ、マドレーヌさん、あなたは私がすぐにはわかりませんでしたな。あなたは人の生命(いのち)を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者は皆あなたを覚えています。があなたは、まあ恩知らずですな!」

     十 ジャヴェルの失敗の理由

 今までいわばその裏面を見てきたとも言える以上のでき事は、きわめて簡単な事情の下に起こったのである。
 ジャン・ヴァルジャンが、ファンティーヌの死んでいる寝台のそばでジャヴェルに捕えられたその日の夜、モントルイュ・スュール・メールの市の牢屋(ろうや)を脱走した時、警察の方では、その脱走囚徒はパリーの方へ走ったに違いないと想像した。パリーは実にすべてをのみつくす大きな渦巻きで、一度そこに陥ればすべてのものが、海の渦巻きに吸わるるごとく世の渦巻(うずま)きの中に姿を消してしまう。いかなる大森林といえども、人を隠すことその大群集に及ぶものはない。各種の逃亡人はそのことを知っている。彼らはあたかも呑噬(どんぜい)の淵(ふち)に身を投ずるがごとくにパリーへ行く。そこには彼らをかばってくれる深淵(しんえん)がある。警察の方でもそれを知っていて、他で取り逃がした者をいつもパリーでさがすのである。で警察はモントルイュー・スュール・メールの前市長をもそこでさがした。ジャヴェルはその捜索の便宜のためにパリーへ呼ばれた。果して彼は、ジャン・ヴァルジャンの捕縛に多大の力となった。彼の熱心と知力とはそのおりに、アングレー伯の下に警視総監秘書をしていたシャブーイエ氏の認むるところとなった。その上シャブーイエ氏は前からジャヴェルに目をかけてやっていたので、モントルイュ・スュール・メールの警視から彼をパリー警察付きに抜擢(ばってき)した。パリーで彼は各方面に働いて、かかる職務について言うのはいささか変ではあるが、はなはだ名誉ある技量を示した。
 彼はもうジャン・ヴァルジャンのことは忘れていた。絶えず獲物をあさっているそれらの猟犬は、今日の狼(おおかみ)のために昨日の狼を忘れるものである。ところが一八二三年十二月のある日ジャヴェルは一つの新聞を読んだ。彼は平素は少しも新聞なんか読まなかったのであるが、王党だったので、「総司令官大公」のバイヨンヌへの凱旋(がいせん)の詳細を知りたいと思ったのである。そしてその記事をおもしろく読み終わった時、ページの下の方にある一つの名前が、ジャン・ヴァルジャンという名前が、彼の注意をひいた。新聞の伝えるところによると、囚徒ジャン・ヴァルジャンは死んだというのであって、しかもその事件は明瞭な文句をもって書かれていたので、ジャヴェルも何ら疑念を起こさなかった。彼はただ一言言った、「うまくいった。」それから彼は新聞を投げすてて、再びそのことを念頭にしなかった。
 それからしばらくたって次のことが起こった。モンフェルメイュ村において不思議な事情の下に行なわれたという子供誘拐(ゆうかい)に関し、セーヌ・エ・オアーズ県からパリーの警視庁へ警察事項の報告が到来した。報告によれば、その地のある旅館主へ母親が託していった七、八歳の少女が、一人の見知らぬ男から盗まれたというのである。少女の呼び名はコゼットといい、ファンティーヌという女の児であって、ファンティーヌは病院で死んでいたが、それがいつのことで、どこであったかは不明だというのである。その報告がジャヴェルの目に触れた。そして彼は考え初めた。
 ファンティーヌという名前を彼はよく知っていた。ジャン・ヴァルジャンがその子供を連れ戻しに行くために三日の猶予を乞(こ)うて失笑せしめたことを、彼は思い出した。ジャン・ヴァルジャンがパリーでモンフェルメイュ行きの馬車に乗った所を捕えられたことを、彼は思い起こした。またある事情を考え合わしてみると、ジャン・ヴァルジャンがその馬車に乗ったのは二度目のことであって、既に彼は前日、その村には姿を現わさなかったが、その付近に、第一回の旅をしたのであることが想像されていた。彼はそのモンフェルメイュの田舎に何をしに行ったのか? それはついに不明に終わっていた。しかし今やジャヴェルはそれを了解した。ファンティーヌの娘がそこにいたのである。ジャン・ヴァルジャンはその娘をさがしに行ったのである。しかるにこんどはその娘がある見知らぬ男から盗まれたという。いったいその見知らぬ男とはだれだったのか? ジャン・ヴァルジャンであったろうか。しかしジャン・ヴァルジャンは死んでいた。――ジャヴェルはだれにも何とも言わずに、プランセット袋町のプラ・デタンの駅馬車に乗り、モンフェルメイュに行ってみた。
 そこで彼は大なる光明を得るつもりだったが、かえって大なる暗やみを得た。
 最初のうちテナルディエ夫婦は、憤慨して盛んにしゃべり回った。アルーエットがいなくなったことは村中の評判となった。すぐに種々な噂(うわさ)が立てられた。そして結局、子供が盗まれたということに帰着した。それでついに警察の報告となったのである。そのうちに、初めの憤懣(ふんまん)の情が過ぎ去ると、テナルディエはそのみごとな本能によってすぐに目を開いた。検察官をわずらわすのは決して自分の利益にはならない、それからまた、コゼット誘拐(ゆうかい)に関する苦情は、その第一の結果として、自分一身と自分の多くの後ろ暗い仕事の上に法官の慧眼(けいがん)を向けさせることになるだろう。梟(ふくろう)がきらう第一のことは、蝋燭(ろうそく)の光をさしつけられることである。それにまず、受け取った千五百フランのことをどうして言い開いたらよいか。で彼はにわかに考え直して、女房の口をもつぐませ、盗まれた子供のことを言われるとびっくりしたような様子をした。自分には何にもわからないのだ。もとより大事な娘があんなに早く「持ってゆかれた」ことを初めは苦情も言った。愛情の上からせめてもう二、三日は引きとどめても置きたかった。けれども娘を連れにきたのは、その「お祖父(じい)さん」で至って当然なことだった。彼はそのお祖父さんということをつけ加えたので、結果は至ってよかった。ジャヴェルがモンフェルメイュにきてぶっつかったのはそういう話であった。お祖父さんという一語はジャン・ヴァルジャンなる者を消滅さしたのである。
 それでもジャヴェルは、測深錘(おもり)のように二、三の質問をテナルディエの話のうちに投げ込んでみた。「そのお祖父さんというのはどんな人で、何という名前だったか?」それに対してテナルディエは無造作に答えた。「金持ちの百姓です。通行券も見ました。何でもギーヨーム・ランベールという名だったと思います。」
 ランベールというのは正直者らしい信用できそうな名前だった。ジャヴェルはパリーへ帰ってきた。
「あのジャン・ヴァルジャンはまさしく死んでいる。」と彼は自ら言った。「俺(おれ)はばかをみた。」
 彼はまたその事がらを忘れ初めた。ところが一八二四年の三月になって、サン・メダール教区内に住んでいて「施しをする乞食(こじき)」と綽名(あだな)されてる不思議な男のことを、彼は耳にした。人の話によれば、その男は年金を持っており、本当の名前はだれにもわからず、八歳ばかりの少女と二人きりで暮らしてる由で、また少女の方も、モンフェルメイュからきたというだけで、その他は何一つ知っていないそうだった。モンフェルメイュ! その名がいつも出て来るので、ジャヴェルは耳をそばだてた。そしてまた、その男からいつも施しを受けている元寺男で今は間諜(かんちょう)になってる乞食(こじき)の爺(じい)さんが、更にやや詳しい話をもたらした。「その年金所有者はきわめて不愛想である、晩にしか外に出ない、だれにも話しかけない、時々貧しい者に言葉をかけるきりである。人を身近によせつけない。なお、きたならしい黄色い古フロックを着ているが、それには紙幣がいっぱい縫い込まれていて数百万の値打ちがある。」その最後の点が強くジャヴェルの好奇心をそそった。それで、その不思議な年金所有者をひそかに間近く見るために、彼はある日、間諜(かんちょう)の老寺男が毎晩うずくまって祈祷(きとう)の文句を鼻声でくり返しながら人をうかがってる場所と、その古ぼけたぼろとを借りうけた。
 果してその「怪しい男」は、姿を変えたジャヴェルの方へやってきて施しをした。その瞬間にジャヴェルは顔を上げた。そして、ジャン・ヴァルジャンがジャヴェルの面影を認めて慄然(りつぜん)としたのと同じ気持ちを、ジャン・ヴァルジャンの面影を認めたジャヴェルも感じた。
 けれども暗がりのことではあるし、あるいは見違いかも知れなかった。ジャン・ヴァルジャンの死は公然のこととなっていた。疑問が、重大な疑問が、ジャヴェルの頭に残された。細心なジャヴェルは、疑問のままその男の首に手をかけることをしなかった。
 彼はその男のあとをゴルボー屋敷までつけて行って、それから「婆さん」に口を開かせようとした。それは別に困難なことではなかった。婆さんは彼に、百万フランの裏のついたフロックのことは本当だと断言し、千フラン紙幣の話をした。彼女はそれを実際見たのだ! 手を触れたのだ! でジャヴェルは一室を借りた。その晩からすぐにはいり込んだ。彼はその不思議な借家人の声の調子を聞き取ろうと思って、扉の所で立ち聞きをした。けれどもジャン・ヴァルジャンは鍵穴(かぎあな)から蝋燭(ろうそく)の光を見て取って、口をつぐんで探偵(たんてい)の鋒先(ほこさき)をくじいた。
 翌日ジャン・ヴァルジャンは立ちのいた。しかし彼が床に落とした五フラン銀貨の響きは婆さんの注意をひいた。婆さんは金の音をきいて、彼がそこを去るつもりでいるんだと考え、急いでジャヴェルに知らした。夜になってジャン・ヴァルジャンが出かけた時、ジャヴェルは二人の手下とともに大通りの並み木の陰に待ちうけていた。
 ジャヴェルは警視庁に助力を求めたのだが、捕縛しようと思ってる男の名前は明かさなかった。彼はそれを自分だけの秘密にしておいた。それには三つの理由があった。第一、少しでも不注意なことをすればジャン・ヴァルジャンに警戒の念を与えるかも知れなかった。第二、死んだと言われている脱走老囚徒、法廷の記録によって最も危険なる種類の悪人と前から定められている罪人、それを取り押さえることは非常な成功であって、パリー警察の古参の者らがジャヴェルのような新参者にそれを任しておくはずはなく、彼は自分の囚人が他人の手に奪われはしないかを恐れた。第三、ジャヴェルは一人の芸術家で、人に意外の感を与えることを好んだ。前から噂(うわさ)の高い新奇な味を失った成功を彼は好まなかった。暗い所で傑作を仕上げて、それから突然それを明るみに持ち出すことを欲したのである。
 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンのあとをつけて、木から木へ、街路のすみからすみを伝って、瞬時もその姿を見失わなかった。ジャン・ヴァルジャンがもう大丈夫だと思った時でさえ、ジャヴェルの目は彼の上にすえられていた。
 なぜジャヴェルはすぐにジャン・ヴァルジャンを取り押さえなかったか? それはまだ疑問があったからである。
 ここに記憶すべきは、当時警察は意のままの行動を取り得なかったことである。言論の自由のために妨げられていたのである。専断な捕縛は新聞に摘発されて議会の問題とまでなったことがあるので、警視庁の方では臆病になっていた。個人の自由を害することは重大な問題だった。警官らは見当を誤ることを恐れていた。総監は責任を彼ら自身に負わしていた。錯誤はすなわち免職をきたすのだった。次のような小記事が二十種の新聞に掲載されたとしたら、パリーのうちにいかなる反響を起こすだろうかを想像してみるがいい。「昨日、年金を有する尊重すべき白髪の老紳士が、八歳の孫を連れて散歩しつつあった際、脱走囚徒として捕縛されて留置場へ収監せられた。」
 その上になお繰り返して言えば、ジャヴェルには細心なところがあった。自分の内心の注意が総監の注意に加えられたわけである。彼は実際疑念をいだいていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ背を向けて、暗やみの中を歩いていた。
 悲しみ、不安、心配、落胆、夜中に逃げ出してコゼットと自分との隠れ家をパリーのうちに当てもなくさがさねばならないという新たな不幸、子供の歩調に自分の歩調を合わせねばならぬ必要、すべてそれらのことは、知らず知らずジャン・ヴァルジャンの歩き方を変化させ彼の様子に老衰の趣を加えていたので、ジャヴェルのうちに具現していた警察も見当を誤るほどで、また実際見当を誤ったのである。あまりそばに寄ってゆくことのできない事情、亡命老家庭教師のようなその服装、彼を娘の祖父だと断言したテナルディエの言葉、また徒刑場で死んだとされている定説、それらのことはなおいっそうジャヴェルの脳裏の疑念を深めていた。
 ある時には、突然出て行って身元証明の書類を求めてみようかとも彼は考えた。しかし、もしジャン・ヴァルジャンでなかったとしたら、あるいは年金所有の正直な老人でなかったとしたら、おそらくその男は、他の能力を隠すために特に施与をしているのであって、パリーの種々の隠密な悪事のあやのうちに深く賢く立ち交じっている悪漢であり、危険な仲間の首領であり、奸知(かんち)にたけた老人であるに違いない。手下や仲間の者があり、予備の住居があり、きっとその中に逃げ込むに違いない。方々の街路をぐるぐる回ってるところを見ても、尋常のじいさんとは思われない。あまり早く手を下すことは、「黄金の卵を生む牝鶏(めんどり)を殺す」のと同じである。しばらく待ったとて何の不都合があろう。もう取り逃がすことはないとジャヴェルは信じきっていた。
 それで彼はやや迷って、その謎(なぞ)のような人物に種々の疑問をかけながら、なおあとをつけていった。
 ところがかなり時期おくれてではあったが、ポントアーズ街を通りかかった時、ある居酒屋からさしていた明るい光によって、彼はまさしくジャン・ヴァルジャンの姿を見て取った。
 世には最も深い喜びにおどり上がる者が二つある。自分の子にめぐり会った母親と、餌食(えじき)に再会した虎(とら)とである。ジャヴェルはそういう深い喜びにおどり上がった。
 彼は恐るべき囚徒ジャン・ヴァルジャンの姿を確実に見て取るや、自分の方は三人にすぎないことを気づいた。そして、ポントアーズ街の警察派出所に助力を求めた。刺(とげ)ある棒をつかむ者はまず手袋をはめる。
 その間の遅延と、警官らと相談するためにロランの四つ辻(つじ)に立ち止まった時間とで、彼は危うく獲物の足跡を見失いかけた。けれども、ジャン・ヴァルジャンは追跡者を川でへだてようとするに違いないと、彼はすぐに推察した。あたかも猟犬が鼻を地につけて道をかぎわけるように、彼は頭を傾けて考えた。そしてまっすぐな本能の力によって、すぐにオーステルリッツ橋の方へ行った。橋番へ一言尋ねてみて事実をとらえた。「小さい娘を連れた男を見なかったか。」「その男に二スー払わしてやりましたよ、」と橋番は答えた。橋の上にさしかかると、ちょうどジャン・ヴァルジャンがコゼットの手を引いて月に照らされた空地(あきち)を通るのが、川の向こう側に見えた。そしてシュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街へはいってゆく姿も見えた。彼はそこに罠(わな)を張ったようになってるあつらえ向きのジャンロー袋町のことを考え、ピクプュス小路へ通ずるドロア・ムュール街のただ一つの出口のことを考えた。猟人らの言うように彼は取り巻いた。その出口を見張るために警官の一人を他の道から急いでつかわした。造兵廠(ぞうへいしょう)の屯所(とんしょ)にもどる一隊の巡邏兵(じゅんらへい)が通ったので、それを頼んで引きつれた。そういうカルタ遊びには兵士は切札(きりふだ)なのである。その上、野猪(いのしし)をやっつけるには猟人の知力と猟犬の力とを要するのが原則である。それだけの準備をしておけば、もうジャン・ヴァルジャンも袋の鼠(ねずみ)で、右へ行けばジャンローの行き止まりであり、左へ行けば手下の警官がおり、後ろには自分が控えている、そう思ってジャヴェルはかぎ煙草を一服した。
 それから彼は狩り出しにかかった。それは残虐な狂喜の時間であった。彼は獲物を進むままにさしておいた。もう自分の手中のものであることを知っていた。しかし捕獲の時間をできるだけ長引かしたかった。自分の捕えたものがなお自由に動き回ってるのを見ることがおもしろかった。巣にかかった蠅(はえ)の飛ぶのを見て喜ぶ蜘蛛(くも)のような目つきで、また捕えた鼠(ねずみ)を走らして喜ぶ猫(ねこ)のような目つきで、彼は獲物をうかがっていた。獲物をつかむ爪牙(そうが)は奇怪な快感を持っている。それはつかんだ獲物の盲目的な運動を感ずることである。そのなぶり殺しはいかにおもしろいことであるか!
 ジャヴェルは楽しんでいた。網の目は堅固に結んであった。彼は成功を信じていた。今はもう手を握りしめることだけであった。
 彼の方には大丈夫な手下がついているので、ジャン・ヴァルジャンがいかに勇気あり力あり死にもの狂いになったとて、抵抗しようなどとは思いもよらぬことだった。
 ジャヴェルは徐々に進んで行った。あたかも盗人のポケットを一々探るように、その街路のすみずみを隈(くま)なく探りながら進んだ。
 ところがその蜘蛛(くも)の巣のまんなかまで行くと、そこにはもう蠅(はえ)はかかっていなかった。
 彼の憤激は察するに余りある。
 彼はドロア・ムュール街とピクプュス小路との角(かど)を番していた警官に尋ねてみた。警官は泰然自若としてその場所に立っていたが、あの男が通るのは見かけもしなかったのである。
 時としては鹿(しか)もその包まれた頭をふりもぎることがある、言いかえれば、一群の猟犬に追いつめられても逃げてしまうことがある。そういう時には最も老巧な猟人といえども一言もない。デュヴィヴィエやリニヴィールやデプレスのごとき名人でさえ、いかんともすることができない。そういう失敗のおりにアルトンジュは叫んだのである、「あれは鹿ではない、魔法使いだ。」
 ジャヴェルも同様な嘆声をもらしたかも知れない。
 彼は落胆の余り一時は絶望と狂暴とに駆られたほどであった。
 確かに、ナポレオンはロシアの戦いに違算をし、アレクサンデルはインドの戦いに違算をし、シーザーはアフリカの戦いに違算をし、キルスはシチアの戦いに違算をし、そして、ジャヴェルはこのジャン・ヴァルジャンに対する戦いに違算をした。おそらくその前徒刑囚を認定するに躊躇(ちゅうちょ)したのが誤りであったろう。一目見ただけで彼には十分ではなかったろうか。それからまた、ゴルボー屋敷でごく簡単に捕縛しなかったのが誤りだった。ポントアーズ街で確実にそれと認めた時すぐに逮捕しなかったのが誤りだった。ロラン四つ辻(つじ)の月光の中で助力の者らと相談をしたのが誤りだった。もちろん種々の意見は助けになる、そして信用の置ける犬どもの意見を尋ねてそれを知るのはいいことである。しかし狼(おおかみ)だの囚人などという落ち着かない動物を狩り立てる場合には、猟人たる者は注意の上にも注意をしなければいけない。ジャヴェルは一群の猟犬に方向を教えることばかり注意して、獲物に様子を気取られ逃げられてしまった。それからことに、オーステルリッツ橋で足跡を見いだすや、そういう男を一筋の糸の先につけてばかげた他愛ない戯れなどをしたのが誤りだった。彼は自分の力を過信して、獅子(しし)に向って鼠(ねずみ)に対するような戯れをし得ると思った。同時にまた彼は自分の力をあまり過小視して、援兵を引きつれることが必要だと思った。その用心こそ破綻(はたん)の基で、そのために大切な時間を失ったのである。ジャヴェルは以上の種々な違算をした。しかしそれでもなお、世に最も賢明確実な探偵(たんてい)の一人たることを失わない。最も深い意味において彼は、狩猟にいわゆる賢い犬であった。しかしおよそ完全なるものは何があろうぞ。
 偉大なる戦略家といえども策を誤ることがある。
 大失策も、大きな綱のように、多くの小片から成り立ってることがしばしばである。錨綱(いかりづな)をもこれを一筋一筋の糸に分かち、大事をもこれを小さな成分成分に分かつ時には、その一つ一つを切ってゆくことは容易であって、なんだこれだけのものか! という感じを与える。しかるにそれを組み合わせ、それをいっしょにねじ合わせると、巨大なものができ上がる。かくして、アッチラは東方マルキアヌス皇帝と西方バレンチニアヌス皇帝との間に躊躇(ちゅうちょ)し、ハンニバルはカプュアに足を止め、ダントンはアルシ・スュール・オーブに眠ったのである。
 それはともかくとして、ジャン・ヴァルジャンが自分の手中からもれたことを知った時にも、ジャヴェルは錯乱しはしなかった。網を破って逃げたその囚徒はまだ遠くに行ってるはずはないと信じて、彼は番人を置き、罠(わな)と伏兵とを設け、終夜その一郭を狩り立てた。第一に彼の目についたものは、綱を切られて街燈が乱れてることであった。それは大切な手がかりだった。しかしそのために彼はかえって誤られて、すべての捜索をジャンロー袋町の方へそらした。その袋町にはかなり低い壁が幾つもあって、庭に接しており、庭の囲いは広い荒地に接していた。ジャン・ヴァルジャンは確かにそこから逃げ出したに違いないと思われた。そして実際、彼もも少しジャンロー袋町のうちにはいり込んで行ったら、きっとそのとおりにして、ついに[#「ついに」は底本では「つい」]捕えられたであろう。ジャヴェルはそれらの庭と荒地とを、針でもさがすように隈(くま)なく探索した。
 夜が明くるにおよんで、彼は怜悧(れいり)な二人の手下を残して見張りをさせ、あたかも盗人に捕えられた間諜(かんちょう)のように恥じ入って、警視庁へ引き上げた。
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   第六編 プティー・ピクプュス



     一 ピクプュス小路六十二番地

 ピクプュス小路六十二番地にある正門は、約半世紀以前には最も普通なものであった。その門はいつも人の心を誘うように半ば開かれていて、さほど陰気でない二つのものがそこから見えていた、すなわち、葡萄蔓(ぶどうづる)のからみついた壁に取り巻かれてる中庭と、ぶらついてる門番の顔とが。奥の壁の上方には大きな樹木が見えていた。太陽の光が中庭を輝やかし、酒の気が門番の顔を輝やかしてる時には、このピクプュス小路六十二番地の前を通る者は、快い感銘を受けざるを得なかった。しかもそこは読者が既に瞥見(べっけん)したとおり実は陰鬱(いんうつ)な場所であった。
 入り口はほほえんでいた。しかし中は祈っており泣いていた。

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