レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 読者がこれから読まんとするページのために、またずっと後になって読者が出会うページのために、ここにある注意をしておく必要がある。
 本書の著者が、心ならずも自分のことをここに言えば、パリーを離れていることすでに数年におよんでいる(訳者注 ユーゴーが国外に亡命してることを言う)。そして著者が去っていらいパリーはしだいに趣を変えてきた。著者には多少不明な新しい町になってきた。けれども著者がパリーを愛することは、ここにわざわざ言うまでもないことである。パリーは著者の精神の故郷である。ただ種々の破壊再築を経たので、著者の青年時代のパリー、著者が自分の記憶のうちに大切に持って行ったあのパリーは、今では昔のパリーとなっている。けれどもどうか、そのパリーが今なお存在するかのように語ることを許していただきたい。著者が読者を導いて、「かくかくの街路にはかくかくの家がある」という所にも、今日ではもはやそういう街路も家もないことがあるかも知れない。もし読者が労をいとわないならば、それを調べてみらるるもよいだろう。著者の方では、新しいパリーを知らないので、眼前に昔のパリーを浮かべつつなつかしい幻のままに筆をすすめてゆくことにする。故国にあった時に目撃したもののいくらかを後に残すことを思い、すべてが消えうせはしなかったと思うことは、著者にとってうれしいことである。故国のうちに起臥(きが)してる間は、その街路も自分に無関係なものであり、その窓も屋根も戸口もつまらぬものであり、その壁も没交渉なものであり、その樹木もありふれたものであり、自分がはいりもしないその家は何の役にも立たないものであり、踏み歩くその舗石(しきいし)は単なる石くれであると、人は思うものである。けれども後に至ってもはや故国に身を置かない時には、その街路がとうとくなり、その屋根や窓や戸口が惜しくなり、その壁がほしくなり、その樹木がなつかしくなり、はいりもしなかったその家を毎日訪れ、その舗石の中には自分の内臓や血潮や心を残してきたのであることを、人は感ずるものである。もはや見られぬそれらの場合、おそらく永久に再び見ることのないそれらの場所、しかも心のうちにだきしめているそれらの場所、それは一種のうれわしい魅力を帯び、夢幻の憂愁をもって浮かんでき、目に見得る聖地のごとき趣を呈し、言わばフランスそれ自身の形となるのである。そして人はそれらを愛し、そのあるがままのありしがままの姿を思い浮かべ、それに固執してその何物をも変ずることを欲しない。なぜならば人は、母の面影に対するがごとく祖国の姿に執着するものであるから。
 それゆえに、過去のこととして語るのを許していただきたい。それから次に、そのことを注意しておかるるよう読者に願って、そして物語の筆を続けよう。
 さてジャン・ヴァルジャンは、すぐにオピタル大通りを離れて、裏通りのうちに進み入り、できるだけ曲がりくねった方向を取り、追跡されていはしないかを確かめるために、時々急にもときた方へ戻ったりした。
 そのやり方は、狩り立てられた鹿(しか)がよくやることである。足跡が残るような場所では、種々の利益があるがなかんずく、逆行路によって狩人(かりゅうど)や犬を欺くの利益がある。猟犬をもってする狩りの方で逆逃げと称するところのものがすなわちそれである。
 ちょうど満月の夜であった。しかしジャン・ヴァルジャンはそのために少しも困まりはしなかった。まだ地平線に近い月は、影と光との大きな帯で街路を二つにくぎっていた。ジャン・ヴァルジャンは人家や壁に沿って影のうちに身を潜め、光の方を透かし見ることができた。影の方を見ることができなかったことを、彼はあまり念頭に置いていなかったらしい。ポリヴォー街に続く寂しい小路を進みながら、確かにだれも後ろからついて来る者はないと思った。
 コゼットは何も尋ねずに歩いていた。世に出て最初からの六年間の苦しみは、彼女の性質のうちにある受動的なものを注ぎ込んでしまっていた。その上、これはわれわれが何度もこれから認めることであるが、彼女は自分でもよく知らないうちに、数奇な運命とその老人の不思議な様子とになれてしまっていた。それからまた彼女は、その老人といっしょにさえいれば自分は安全だと思っていた。
 ジャン・ヴァルジャン自身も、コゼットと同じく、実はどの方面へ今進んでるかを知らなかった。コゼットが彼に身を託しているように、彼は神に身を託していた。彼もまた、自分より偉大な何者かの手にすがってるような気がしていた。だれか目に見えない者が自分を導いていてくれるように感じていた。それに彼は、何らはっきりした考えも、何らの計画も考案も持ってはいなかった。あの男がジャヴェルであったかどうかも確かでなければ、またジャヴェルであったにしろ、自分がジャン・ヴァルジャンであることを知ってたかどうかも、確かでなかった。彼は仮面をかぶっていたではないか、彼は死んだと信じられていたではないか。けれども確かに、数日来変なことが起こっていた。彼にはもうそれで十分であった。もうゴルボー屋敷へは帰るまいと彼は決心していた。あたかも巣窟(そうくつ)から狩り出された獣のように、永住し得る場所を見いだすまで一時身を隠す穴をさがしていた。
 ジャン・ヴァルジャンはムーフタールの一郭のうちにある種々な入り組んだ小路を歩き回った。その辺は中世紀の規律をまだ保って消燈規定の下にあるかのように、もうすっかり寝静まってしまっていた。彼は賢い策略をもって、サンシエ街やコポー街を、バトアール・サン・ヴィクトル街やブュイ・レルミット街を、いろんなふうにあわせ用いた。そのあたりにはいくらか木賃宿もあったが、適当なのが見当たらないので中にはいってもみなかった。よしだれか自分の跡をつけていた者があったにしても、もうその男をまいてしまったに違いないと信じていた。
 サン・テティエンヌ・デュ・モン教会堂で十一時が鳴った時、ポントアーズ街十四番地にある警察派出所の前を彼は通った。それから間もなく彼は、前に述べたような一種の本能からふり返ってみた。その時、派出所の軒燈のために照らし出された三人の男の姿がはっきり見えた。彼らはかなり近く彼のあとをつけていて、街路の影の方のその軒燈の下を次々に通って行った。その一人は派出所の門のなかへはいって行った。けれど先頭に立ってる男は明らかに疑わしいと彼には思えた。
「早くおいで。」と彼はコゼットに言った。そして急いでポントアーズ街を離れた。
 彼は円形を描いて、もう遅いのでしまってるパトリアルシュの通路を回り、エペ・ド・ボア街からアルバレート街へと進み、ポスト街へはいり込んだ。
 そこに一つの四つ辻(つじ)があった。今日ロラン中学のある所で、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街が交差してる所である。
(言うまでもなく、このヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街――新サント・ジュヌヴィエーヴ街――は古い街路であって、またポスト街――郵便街――の方は十年に一度も郵便馬車さえ通ったことのないくらい寂しい街路である。ポスト街は十三世紀に瀬戸物屋などが住んでいた所で、その本当の名前はポー街――壺街(つぼがい)――というのである。)
 月はその四つ辻に強い光を投げていた。ジャン・ヴァルジャンはそこのある戸口に身を潜めた。もしあの男らが自分のあとをまだつけているのなら、その明るみを通る時にきっとよく見えるに違いない、と推測したのだった。
 果して、三分とたたないうちに、彼らの姿が現われた。四人になっていた。皆背の高い男で、長い褐色のフロックを着て、丸い帽子をかぶり、手には太い杖を持っていた。その大きな身体と大きな拳(こぶし)とは、暗やみの中のすごい歩き方とともに気味悪いものであった。四個の怪物が市人に化けたようなありさまだった。
 彼らは四つ辻のまんなかに立ち止まって、何か相談するように一群になった。決心のつかぬ様子をしていた。彼らの首領とも思える一人の男がふり返って、ジャン・ヴァルジャンがはいりこんだ方向を右手で強くさし示した。も一人の男は頑強(がんきょう)に反対の方向をさし示したらしかった。第一の男が向き直った瞬間に、月の光がその顔をすっかり照らし出した。ジャン・ヴァルジャンは十分にジャヴェルの顔を認めた。

     二 幸運なるオーステルリッツ橋の荷車

 ジャン・ヴァルジャンにとっては、もはや疑う余地はなかった。しかし幸いにも四人の男の方にはまだ疑念があった。彼は四人が躊躇(ちゅうちょ)してるのを利用した。彼らには損失の時間だったが、彼には儲(もう)けの時間だった。彼は潜んでいた戸口から出て、ポスト街を植物園の方へ進んでいった。コゼットは疲れてきた。彼はコゼットを両腕にとり上げて、抱いて歩いた。一人の通行人もなく、月夜のために街燈もともされていなかった。
 彼は足を早めた。
 数歩進むと、瀬戸物屋ゴブレの店の所に達した。その家の前面には、次のような古い文句が月の光ではっきり読まれた。

ゴブレ息子(むすこ)の工場はここじゃ。
甕(かめ)、壜(びん)、花瓶(かびん)、管、煉瓦(れんが)、
何でも望んでおいでなされ。
お望みしだいに売りますじゃ。

 彼はクレー街を後ろにして、次にサン・ヴィクトルの泉の所を通り、植物園に沿って低い街路を進み、そして川岸まで達した。そこで彼はふり返ってみた。川岸にも街路にも人影はなかった。自分の後ろにはだれもいなかった。彼は息をついた。
 彼はオーステルリッツ橋にさしかかった。
 当時はなお橋銭の制度があった。
 彼は番人の所へ行って一スー渡した。
「二スーだよ。」と橋番の老人は言った。「歩けるくらいの子供を抱いていなさるから、二人分払いなさい。」
 彼はそこを通って手掛かりを残しはすまいかと心配しながら金を払った。逃げるには潜み行くようにしなければいけないものである。
 ちょうどその時一台の大きな荷車が、彼と同じくセーヌ川を右岸の方へ渡っていた。それは彼に利益だった。彼はその荷車の影に隠れて橋を通ることができた。
 橋の中ほどにきた時、コゼットは足が麻痺(しびれ)たから歩きたいと言った。彼はコゼットを下におろして、またその手を引いた。
 橋を渡り終えると、前方に少し右手に当たって建築材置き場が見えた。彼はそこへ進んで行った。そこまで行くには、月に照らされたうち開けた場所をかなり歩かねばならなかった。が彼は躊躇(ちゅうちょ)しなかった。追っかけてきてた者らは確かに道を迷って、自分はもう危険の外に脱していると、彼は信じていた。まださがされてはいるだろうが、もうあとをつけられてはすまい。
 小さな街路、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街が、壁に囲まれた二つの建築材置き場の間に通じていた。その街路は狭く薄暗くて、特に彼のために作られてるかのようだった。彼はそれにはいり込みながら、後ろをふり返ってながめた。
 そこから彼は、オーステルリッツ橋をすっかり見通すことができた。
 四個の人影が橋にさしかかってるところだった。
 それらの人影は植物園を背にして、右岸の方へこようとしていた。
 その四つの人影こそ、あの四人の男であった。
 ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられた獣のように身を震わした。
 ただ一つの希望が残っていた。すなわち自分がコゼットの手を引いて月に照らされた空地(あきち)を通った時には、たぶん四人の男はまだ橋にさしかかっていず、自分の姿を認めなかったであろう。
 果してそうだとすれば、前にある小路にはいり込み、建築材置き場か野菜畑か畑地か建物のない空地かに出て、逃げのびることもできるに違いない。
 今はそのひっそりした小路に身を託すことができるように彼には思えた。彼はその中に進んでいった。

     三 一七二七年のパリーの地図

 三百歩ばかり行った時、ジャン・ヴァルジャンは街路の分岐点に達した。いずれも斜めに右と左との二筋に分かれていた。彼の前にはちょうどYの二本の枝のような通りがあった。いずれを選ぶべきか?
 彼は躊躇(ちゅうちょ)しなかった、右を選んだ。
 なぜか?
 左の枝は郭外の方へ、言い換えれば人の住んでる場所の方へ通じていたが、右の枝は田舎の方へ、言い換えれば人のいない場所の方へ通じていたからである。
 けれども二人はもう早く歩いてはいなかった。コゼットの足はジャン・ヴァルジャンの歩みをおくらしていた。
 彼はまたコゼットを抱き上げた。コゼットは彼の肩の上に頭をつけて、一言も口をきかなかった。
 彼は時々ふり返ってはながめた。やはり注意して街路の薄暗い方をたどった。街路は後ろにまっすぐに見えていた。最初二、三度ふり返った時には何にも見えず、ただひっそりとしていたので、少し安心して歩行を続けた。それからまたしばらくしてふり返ってみると、今自分が通ってきたばかりの街路に、遠くやみの中に何か動いてるものが目についたような気がした。
 彼はただ前方へ、歩いて行ったというよりむしろ突進して行った。ある横丁を見付けて、そこから逃げ出し、も一度あとをくらますつもりだった。
 彼は一つの壁に行き当たった。
 けれどもその壁は行き止まりにはなっていなかった。それは、今彼が歩いてきた街路に続いてる横通りの壁だった。
 そこでまた彼は心を決めなければならなかった、右へ行くか、左へ行くかに。
 彼は右の方をながめた。小路は小屋や物置きなどの建物の間に細長く続いていて、その向こうは行き止まりになっていた。その袋町の底もはっきり見えていた、大きな白い壁が。
 彼は左の方をながめた。そちらの小路は開けていた。そして約二百歩ばかり向こうには、その小路が通じてる街路が見えていた。安全なのはその方であった。
 彼はその小路の向こうに見えてる街路に出ようと思って、左へ曲がろうとした。その時、彼が出ようとしてる街路とその小路との落ち合ってる角(かど)の所に、じっとして動かない黒い立像のようなものが見えた。
 それはだれか一人の男で、明らかにそこに見張りにやってきて、通路をふさいで待っていたのである。
 ジャン・ヴァルジャンはあとにさがった。
 ジャン・ヴァルジャンがいたパリーのその一地点は、サン・タントアーヌ郭外とラーペの一郭との間であって、その後の工事のために今は全くありさまが変わってる場所の一つである。ある者はそれを醜化だと言い、ある者はそれを面目一新だと言うが、とにかく変わってしまった。畑地や建築材置き場や古い建物はもうなくなってしまっている。今日ではそこに、新しい大通りがあり、演芸場や曲芸場や競馬場があり、停車場があり、マザスの監獄がある。その懲罰機関までそなえて、なるほど進歩である。
 翰林院(かんりんいん)を四国院と呼びオペラ・コミック座をフェードー座と呼び続ける伝統本位の普通の俗語では、ジャン・ヴァルジャンがたどりついたその場所は、半世紀前まではプティー・ピクプュスと呼ばれていた。サン・ジャック門、パリー門、セルジャン門、ポルシュロン、ガリオート、セレスタン、カプュサン、マイュ、ブールブ、アルブル・ド・クラコヴィー、プティート・ポローニュ、プティー・ピクプュス、そういうのが新しいパリーのうちに残ってる古いパリーの名前である。民衆の記憶はそれらの過去の残物の上に漂っている。
 それにプティー・ピクプュスは、単に輪郭ばかりでほとんど形をそなえたこともなかったので、スペインの町の修道院みたいな面影を持っていた。道路には舗石(しきいし)もよく敷いてなく、街路には人家もまばらであった。これから述べる二、三の街路を除いては、すべて壁ばかりで寂寞(せきばく)たるものだった。商店もなければ、馬も通らなかった。ようやく所々に窓から蝋燭(ろうそく)の光が見えてるのみで、燈火(あかり)はすべて十時には消されてしまった。庭園に修道院に建築材置き場に野菜畑、所々には低い家、それから人家と同じ高さの大きな壁。
 前世紀におけるその一郭はまずそんなありさまだった。それが革命のために既にひどくそこなわれた。共和政府の市土木課のために、破壊され貫かれ穴をあけられた。塵芥(じんかい)貯蔵所まで設けられていた。そして今から三十年前には、新しい建物のために、その一郭はほとんど塗りつぶされてしまった。今日ではもうまったくその姿がなくなってしまっている。今日ではどの地図にもその跡さえ止めていない。しかしそのプティー・ピクプュスの一郭は、一七二七年の地図にはかなり明らかに示されていた。すなわち、パリーのプラートル街と向き合ったサン・ジャック街のドゥニー・ティエリー書店と、リオンのプリュダンスのメルシエール街のジャン・ジラン書店と、両方から発売せられた地図にはのっていた。プティー・ピクプュスの一郭のうちでわれわれが街路のY形と呼んだところのものは、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街の二つの枝からできていて、左の方のをピクプュス小路といい、右の方のをポロンソー街と言っていた。Yの二本の枝はその頂がいわば一つの棒で結ばれていた。その棒をドロア・ムュール街と言っていた。ポロンソー街はそこで終わっていたが、ピクプュス小路は先まで通じていて、ルノアール市場の方へ上っていた。セーヌ川からやってきて、ポロンソー街の端まで来ると、ドロア・ムュール街が左手に当たり、それが直角に折れ曲がってるので、その街路の壁がまっ正面に見え、右手には、その街路の一片が延びていて、そこは出口がなく、ジャンロー袋町と呼ばれていた。
 ジャン・ヴァルジャンがいたのは、その所であった。
 前に言ったとおり、ドロア・ムュール街とピクプュス小路との出会った角に見張りをしてる黒い人影を認めた時、彼はあとにさがった。何ら疑う余地はなかった。彼はその男から待ち伏せされていたのである。
 どうしたらいいか?
 もうあとに引き返すだけの時間はなかった。先刻後方遠く影の中に何か動くものが見えたのは、確かにジャヴェルとその手下の者であることは疑いなかった。ジャヴェルはもう既に、ジャン・ヴァルジャンが通りすぎたその街路の入り口にきてるに違いなかった。前後の事情から察してみると、ジャヴェルはその迷宮小路の地理をよく心得ていて、手下の一人を出口の見張りにつかわすだけの注意をとったものと見える。それらの推測は的確な形をとって、突然の風に一握りのほこりがまい上がるように、ジャン・ヴァルジャンの痛ましい脳裏ににわかに渦巻き上がった。彼はジャンロー袋町をのぞいてみた。そこは行き止まりになっている。彼はピクプュス小路をのぞいてみた。そこには見張りの男がいる。月の光に白く輝いてる舗道の上に黒く浮き出してるその忌まわしい姿を彼は見た。前に進めば、その男の手に落ちる。後ろに退けば、ジャヴェルの手中に身を投ずることになる。ジャン・ヴァルジャンは徐々にはさまってくる網のうちにとらえられてるような気がした。彼は絶望して天を仰いだ。

     四 逃走の暗中模索

 次のことをよく理解せんには、ドロア・ムュール街の正確な観念を得ておかなければならない、そして特に、ポロンソー街からドロア・ムュール街へはいってゆく左手の角(かど)をよく知っておかなければならない。ドロア・ムュールの小路は、ピクプュス小路に出るまで、右側にはほとんどすべて貧しい外見の人家が並んでいた。左側には何軒にも分かれてるいかめしい線の長屋が建っていて、ピクプュス小路に近づくに従って一階二階としだいに高くなっていた。それでその長屋は、ピクプュス小路の方ではきわめて高くなっていたが、ポロンソー街の方ではかなり低かった。そして前に言ったその角の所では、ただ一つの壁だけの高さにまで低まっていた。その壁はきっかり街路に接していなくて、ごく引っ込んだ一断面をなしていたので、ポロンソー街とドロア・ムュール街と両方から見る者があっても、その二つの角にさえぎられて見えないようになっていた。
 その切り取られた断面の両方の角から出ると、ポロンソー街の方では、四十九番地という表札のある一軒の人家まで壁が続いており、ドロア・ムュール街の方では、壁はずっと短くて、前に言った薄暗い長屋の所まで行っていて、その切阿(きりづま)を切り取り、そうして街路にまた新たな引っ込んだ角をこしらえていた。その切阿は陰気なありさまをしていて、ただ一つの窓、なおよく言えばトタン板を被(き)せた二枚の雨戸きりついていないで、それも常にしめられていた。
 われわれがここに描いてるこの場所のありさまは、厳密に正確であって、この一郭に昔住んだことのある者の頭には、必ずやごくはっきりした記憶を呼び起こすであろう。
 壁の切り取られた断面は、その全部が一種の大きな見すぼらしい門みたいになっていた。それは縦に多くの板をよせ集めたぶかっこうなもので、上の方の板は下の方のものより広く、皆横に打ちつけた長い鉄の箍(たが)で止めてあった。その横の方に、普通の大きさの正門があって、こしらえられてから明らかに五十年とはたっていないらしかった。
 一本の菩提樹(ぼだいじゅ)の木がその切り取られた壁の断面の上から枝をひろげており、またポロンソー街の方では壁の上に蔦(つた)がいっぱい絡(から)みついていた。
 さし迫った危険のうちにあることを感じたジャン・ヴァルジャンは、その薄暗い長屋が何となく人気なくひっそりしているのに心ひかれた。彼は急にその長屋を見回した。もしその中にはいることができたらたぶん助かるだろうと思った。彼はまずそういう考えと希望とを得た。
 ドロア・ムュール街に面するその建物の正面の中ほどには、鉛の古い漏斗形(ろうとがた)の鉢(はち)がどの階の窓にもついていた。そして中央の管から分かれてその鉢の各へ通じてる種々な管の枝が、建物の正面に木の枝のように浮き出ていた。そのたくさんの節を持った管の枝は、昔の農家の正面によじれからんでる刈り込まれた古いぶどうの蔓(つる)をまねたものであった。
 ブリキや鉄などの枝のついたそのおかしな壁果樹が、最初にジャン・ヴァルジャンの目にとまった。彼はコゼットを車除石に背をもたしてすわらせ、黙っているように命じて、それから管が地面についてる所へ走っていった。たぶんそこから登って家の中にはいり込む方法があるだろうと思ったのである。しかし管は古くなっていて役に立たず、ほとんど壁から離れてぐらぐらになっていた。その上静まり返った建物の窓はどれも皆、屋根裏の窓でさえ、大きな鉄の格子(こうし)がはまっていた。それからまた、月の光はその正面にいっぱいさしていて、そこを乗り越えようとすれば、街路の端で見張りをしてる男に見付かる恐れがあった。それからまたコゼットをどうすればいいか? 四階の高さの家までどうして彼女を引き上げられよう。
 彼は管についてよじのぼる考えをやめて、ポロンソー街の方へ戻るために壁に身を寄せてはってきた。
 コゼットを残しておいた壁の断面の所まできた時、そこはだれからも見られないことに彼は気づいた。前に説明したとおり、そこはどちらから見ても見えないようになっていた。その上そこは影になっていた。そしてそこに二つの門があった。あるいはそれを押しあけられるかも知れなかった。壁の上から菩提樹(ぼだいじゅ)の木と蔦(つた)とが見えてるところをみると、中は明らかに庭になってるらしかった。樹木にはまだ葉は出ていなかったが、少なくともそこに身を隠して夜が明けるまで潜んでることができるかも知れなかった。
 時は過ぎ去ってゆく。早くしなければならなかった。
 彼は大門にさわってみた、そしてすぐに、その戸は内外両方からしめ切ってあることを知った。
 彼はなお多くの希望をいだいて、も一つの大きな門に近づいていった。それは恐ろしく老い朽ちていて、大きいのでいっそう弱そうで、板は腐っており、三つしかない鉄の箍(たが)は錆(さ)びきっていた。その錆び朽ちた戸を押し破ることはできそうに思えた。
 ところがよく見ると、それは実は門ではなかった。肱金(ひじがね)も蝶番(ちょうつがい)も錠前もまんなかの合わせ目もなかった。鉄の箍は一方から他方へ続けざまにうちつけてあった。板の裂け目から彼は、いい加減にセメントで固めた素石や切り石をのぞき見ることができた。今から十年前まではなお、そこを通る者はそれらのものを見ることができたのである。その戸みたいなものはただ壁の上につけられた木の覆(おお)いにすぎないことを、彼は狼狽(ろうばい)しながらも自ら認めざるを得なかった。板を引きはがすことは何でもなかったが、その先には更に壁があるのだった。

     五 ガス燈にては不可能のこと

 その時調子を取った重い響きが向こうに聞こえてきた。ジャン・ヴァルジャンはその街路のすみから少しのぞき出してみた。七、八人の兵士が列をなして、ポロンソー街に現われてきたところだった。銃剣の光るのが見えた。それが彼の方へやってきつつあった。
 その兵士らはジャヴェルの高い姿を先に立てて、徐々に注意して進んできた。しばしば立ち止まった。明らかに彼らは、壁のすみや戸や路地の入り口などをしらべつつやって来るのだった。
 それはジャヴェルが道で出会って助力を求めた巡邏(じゅんら)の兵士らであったろう。その推測はまちがいなかった。
 ジャヴェルの手下の二人が、その列のうちに加わっていた。
 彼らの歩調と時々立ち止まる時間とをはかってみると、ジャン・ヴァルジャンがいる所までやって来るには十五分ばかりはかかりそうだった。それは実に恐ろしい時間であった。三度口を開いた恐ろしい懸崖(けんがい)からジャン・ヴァルジャンはわずか十数分を距(へだ)てているのみだった。そしてこんどの徒刑場は単なる徒刑場のみではなく、コゼットをも永久に失うことであった。すなわち墳墓の中におけるような生活をしなければならなくなるのであった。
 もはや逃げ道はただ一つきりしかなかった。
 ジャン・ヴァルジャンはいわば二つの袋を持ってるとも言える特質をそなえていた。一つの袋には聖者の考えがはいっており、も一つの袋には囚徒の恐るべき才能がはいっていた。彼は場合に応じていずれかの袋を探るのであった。
 種々の技能があったうちでも、特にツーロン徒刑場をしばしば脱走した経験から彼は、読者の記憶するとおり、登攀(とうはん)の妙技に長じていた。梯子(はしご)もなく、鎹(かすがい)もなく、ただ筋力だけで、首と肩と腰と膝(ひざ)とで身をささえて、石のわずかな突起につかまって、壁のまっすぐな角(かど)を、場合によっては七階くらいの高さまでもよじのぼることができた。二十年ばかり前、パリーのコンシエルジュリー監獄の中庭の壁のすみを囚徒バトモールが乗り越えて、その壁を有名になし恐ろしくなしたあの技能である。
 ジャン・ヴァルジャンは菩提樹(ぼだいじゅ)の枝がさし出てる壁の高さを目分量で計った。約十八尺ばかりの高さだった。その壁が大きな長屋の建物の切阿(きりづま)と出会ってる角の所には、下の方に三角形の大きな築塀(ついべい)がついていた。おそらくその至って便利な引っ込んだ場所に、いわゆる通行人と称する用便人らを立たせないためのものであったらしい。そういうふうに壁のすみをふさいだものはパリーにいくらもあった。
 その築塀は高さ五尺ばかりだった。その頂から壁の上までよじ上るべき場所は、十四尺に満たないほどだった。
 壁の上には平たい石があるのみで、何の覆(おお)いもついていなかった。
 ただ困まるのはコゼットだった。コゼットの方は壁を乗り越すことができなかった。では彼女を捨ててしまうか? ジャン・ヴァルジャンはそんなことは夢にも考えなかった。といって連れてのぼることは不可能だった。その異常な登攀(とうはん)をやるには自分一人で全力をつくさなければならなかった。少しの荷があっても、重力の中心を失って下に落ちるにきまっていた。
 そこで一筋の繩(なわ)が必要になってきた。ジャン・ヴァルジャンはそれを持っていなかった。ポロンソー街のそのま夜中に、どこに繩が得られよう。もしその時にジャン・ヴァルジャンが一王国を有していたとしたら、確かに彼はそれをも一条の繩のために惜しみはしなかったろう。
 あらゆる危急な場合にはそのひらめきがあるもので、あるいは人を盲目にし、あるいは人の目を開かせる。
 ジャン・ヴァルジャンの絶望した目は、ふとジャンロー袋町の街燈の柱に落ちた。
 その当時、パリーの街路にはまだガス燈がなかった。夜になるとそこここに立てられてる反照燈をつけるのであったが、それは町の一方から他方へ引っ張られて柱の□眼(ほぞあな)にはめられてる一本の綱で、上げられたりおろされたりするのであった。その綱が巻かれる軸は、ランプの下の小さな鉄の箱の中にはめこんであって、箱の鍵(かぎ)は点燈夫が持っており、また綱の方はある高さまで金属を被(き)せてまもってあった。
 ジャン・ヴァルジャンは命がけの勢いで、街路を一飛びに飛び越し、袋町にはいり、ナイフの先で、小さな箱の閂子(かんぬき)をはずし、そしてすぐにコゼットの所へ戻ってきた。彼は一筋の綱を手にしていた。あらゆる手段を見いだすそれらの陰惨な人々は、運命と争うおり、急速に仕事をやってのけるものである。
 前に説明したとおり、その夜街燈はともされていなかった。ジャンロー袋町のランプももとよりほかのと同じく消えていた。でそのそばを通っても、ランプが普通の所についていないことに目をとめる者はなかったろう。
 そのうちにも、その時と場所と暗やみと、ジャン・ヴァルジャンが夢中になってることと、その異様な態度やあちらこちら飛び回ってることなどは、しだいにコゼットを不安ならしめていた。ほかの子供だったらもうよほど前から大声に泣き出していたろう。がコゼットはただジャン・ヴァルジャンのフロックの裾につかまっていた。しだいに近づいてくる巡邏(じゅんら)の兵士らの足音は、ますますはっきり聞こえていた。
「お父さん、」とコゼットは低く言った、「あたしこわい。向こうから来るのはだれなの?」
「しッ! テナルディエの上(かみ)さんだよ。」と不幸な男は答えた。
 コゼットは身を震わした。彼はつけ加えた。
「黙っておいで。私(わたし)のするままにしておいで。声を出したり、泣いたりすると、テナルディエの上さんが待ち受けてるよ。お前を取り戻しにきてるんだよ。」
 それから、別に急ぎもせず、しかしすべてを一度でやってのけるようにして、しっかりした簡単な正確さで、それも巡邏とジャヴェルとが刻一刻に押し寄せつつある危急なおりなのでいっそう驚くべきことではあったが、彼は自分のえり飾りをはずし、それをコゼットの両腋(りょうわき)の下に身体を痛めないように注意して結わえ、海員たちが燕結(つばめむす)びと称する結び方でその襟飾(えりかざ)りを綱の一端に結わえ、綱の他の一端を口にくわえ、靴と靴足袋とをぬいで壁の向こうに投げ込み、築塀(ついべい)の上にのぼり、そして壁と切阿(きりづま)との角をよじのぼりはじめたが、あたかも踵(かかと)と肱(ひじ)とを梯子(はしご)にかけてるかと思われるほど確実自在なものだった。半分時とたたないうちに彼は壁の上にはい上がった。
 コゼットは呆気(あっけ)にとられて一言も口をきかずに彼を見守っていた。ジャン・ヴァルジャンの言いつけと、テナルディエの上さんという名前とが、彼女を氷のように冷たく縮み上がらしていた。
 たちまち彼女は、ジャン・ヴァルジャンが声を低めながら自分に呼びかけてるのを聞いた。
「壁に背を向けなさい。」
 彼女はそのとおりにした。
「口をきいてはいけないよ、こわがってはいけないよ。」とジャン・ヴァルジャンはまた言った。
 そして彼女は地面から引き上げられるのを感じた。
 自ら気がつかないうちに彼女は壁の上にきていた。
 ジャン・ヴァルジャンは彼女をとらえて背にかつぎ、その小さな両手を左の手で押さえ、腹ばいになって、壁の上を切り取られた断面の所までやって行った。そこには彼の推察どおり、一つの小屋があって、木の塀(へい)の上から屋根がさし出て、ゆるやかな勾配(こうばい)をなして地面に近くたれていて、菩提樹(ぼだいじゅ)の木とすれすれになっていた。
 仕合わせなことだった。というのは、壁はその内部の方では外の街路の方よりもずっと高くなっていた。ジャン・ヴァルジャンは自分の下の方ごく深くに地面を見とめた。
 彼が屋根の斜面の所へ達して、壁の頂から離れようとした時に、激しい音が巡邏(じゅんら)のやってきたことを示した。ジャヴェルの雷のような声が聞こえた。
「袋町をさがしてみい! ドロア・ムュール街にもピクプュス小路にも見張りがついてる。きっと袋町のうちにいるに違いない!」
 兵士らはジャンロー袋町のうちにはいり込んで行った。
 ジャン・ヴァルジャンはコゼットを負いながら屋根をすべりおり、菩提樹に取りついて地面に飛びおりた。恐怖のためか元気を出したのか、コゼットは息をも潜めていた。両手には少し擦過傷(すりきず)がついていた。

     六 謎(なぞ)のはじめ

 ジャン・ヴァルジャンがはいった所は、ごく広い異様なありさまをした一種の庭であった。特に冬にそして夜分にながめるためにこしらえられたかと思われるほど寂しい庭であった。長方形をなしていて、奥には大きな白楊樹(はこやなぎ)の並んだ通路があり、すみずみにはかなり高い木立ちがあり、まんなかはうち開けた空地になっていて、一本のごく大きな樹木、大きな藪(やぶ)のように込み合って曲がりくねった数本の果樹、四角な野菜畑、月の光に輝いてる瓜畑(うりばたけ)の鐘形覆(しょうけいおお)い、古い水溜(みずだめ)などが、それと見えていた。所々に石の腰掛けがあったが、苔(こけ)に黒くなってるようだった。道にはほの暗い小さな灌木(かんぼく)が立ち並んでまっすぐに通じていた。庭の半ばは雑草が生(お)い茂り、残りは青い苔(こけ)におおわれていた。
 ジャン・ヴァルジャンのそばには、彼が屋根を伝っておりてきた小屋があり、薪(まき)がつみ重ねてあり、その後ろに壁にくっついて石の立像が一つあった。石像の欠け損じた顔は変な形の仮面のようになって、暗やみのうちにぼんやり見えていた。
 小屋はもう荒廃してしまっていて、壁の落ちた幾つかの室(へや)が認められ、その一つはいっぱい物がつまっていて物置きに使われてるらしかった。
 ピクプュス小路の方まで折れ曲がっているドロア・ムュール街の大きな建物は、直角をなした二つの正面で庭を囲んでいた。その内側の正面は、外部の正面よりいっそう陰気であった。窓には鉄格子(てつこうし)がはまっていて、燈火の影さえさしてはいなかった。上方の窓には監獄に見るように目隠しがついていた。その一方の正面の影は他の正面の上に落ち、更に庭に落ちて、広い黒布をひろげたようなありさまをしていた。
 そのほかには一軒の家も見当たらなかった。庭の奥は靄(もや)と夜とのうちに見えなくなっていた。けれども二、三の壁がぼんやり見分けられて、その交錯してる所を見ると向こうにはなお耕作地があるらしく、またポロンソー街の低い屋根並みも見分けられた。
 その庭はまったく想像にもおよばないほど荒涼たるものだった。人影一つなかったのは夜ふけのこととて当然ではあるが、しかしまっ昼間でさえ人の歩く所ではなさそうなありさまだった。
 ジャン・ヴァルジャンの第一の注意は、靴を拾ってはき、それからコゼットとともに物置きの中にはいりこむことだった。逃走者はいかによく身を隠してもそれで十分とは思わないものである。コゼットの方もテナルディエの上さんのことをまだ考えていて、彼と同じくできるだけ身を潜めようとしていた。
 コゼットは震えながら彼にすがりついていた。聞こえるものとては、袋町や街路をさがし回ってる巡邏(じゅんら)の騒がしい足音、石にぶつかる銃床尾の音、配置の探偵(たんてい)に呼びかけるジャヴェルの声、よく聞き取れないその言葉のののしり声。
 十五分ばかりもたつと、その騒がしい怒号の響きもしだいに遠くなってゆくように思えた。ジャン・ヴァルジャンは息を凝らしていた。
 彼はそっとコゼットの口に手をあてていた。
 けれども彼が隠れていたその場所は、不思議なほど寂然(せきぜん)と静まり返っていて、すぐそばの恐ろしい激しい騒ぎも、何ら不安の影を投じてこなかった。あたかもそれらの壁は、聖書にあるあの聾者(ろうしゃ)の石ででも造られてるかのようであった。
 突然、その深い静謐(せいひつ)のうちに、新しい音響が起こった。天来の聖(きよ)い名状すべからざる響きで、前の音が恐ろしかったのに比べて実に歓(よろこ)ばしい響きであった。暗やみのうちから伝わって来る賛美歌で、夜の暗い恐ろしい静寂のうちにおける祈祷(きとう)と和声との光耀(こうよう)であった。女の声、それも童貞女の濁りない音調と少女の無邪気な音調とがいっしょにもつれ合った声、地上のものとも思われぬ声、赤児の耳になお残っており臨終の人の耳に既に響いているあの声にも似寄ったもの。その歌声は庭にそびえている薄暗い建物からもれて来るのだった。悪魔の騒がしい声が遠ざかって、天使の合唱が影のうちに近づいてくるかのようだった。
 コゼットとジャン・ヴァルジャンとはひざまずいた。
 二人はそれが何であるかを知らず、自分らがどこにいるかを知らなかった。しかし彼らは二人とも、その老人も子供も、その改悛者(かいしゅんしゃ)も罪なき者も、ひざまずかなければならないように感じたのであった。
 それらの声は不思議にも、その建物の寂しさを少しも消さなかった。人なき住居(すまい)のうちにおける超自然的な歌であった。
 それらの声が歌っている間、ジャン・ヴァルジャンはもう何事も考えなかった。彼はもはや暗夜を見ず、青空をながめていた。人のみな心のうちに有しているあの昇天の翼が開くのを、彼ははっきり感ずるような心地がした。
 歌はやんだ。おそらくそれは長く続いたのかも知れなかったが、ジャン・ヴァルジャンにはどれくらいだったかわからなかった。恍惚(こうこつ)たる時間は常に一瞬間としか思えないものである。
 すべては再び沈黙のうちに返った。もう街路にも庭の中にも、何物もなかった。脅かすものも心を安めるものも、すべて消え失せてしまった。壁の頂にはえてる少しの枯れ草を風が吹いて、静かな悲しげな小さな音を立てていた。

     七 謎(なぞ)の続き

 夜の北風が吹き初めていた。それでみるともう夜中の一時か二時の頃に違いなかった。かわいそうにコゼットは何とも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がそばの地面にすわって自分の上に頭をもたしているので、もう眠ってるのかと思った。彼は身体をかがめてその顔をのぞいた。彼女は目を大きく開いていて何か考えてるようなふうだった。彼は痛ましく感じた。
 彼女はまだ震えていた。
「眠くはないかね。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「ひどく寒いの。」と彼女は答えた。
 それからややあって彼女は言った。
「まだ向こうにいるの?」
「だれが?」とジャン・ヴァルジャンはきいた。
「テナルディエのお上さんが。」
 ジャン・ヴァルジャンはもうコゼットを黙らせるためにとった手段のことなんか忘れていた。
「ああ、お上さんならもう行ってしまったよ。」と彼は言った。「もうこわがるものはない。」
 子供は重荷が胸から取り去られたようにため息をついた。
 地面は湿っていた。物置きは四方が開いていて、寒い風は一刻ごとに鋭くなっていた。老人は上衣をぬいで、それをコゼットにまとってやった。
「これで少しは暖いかね。」と彼は言った。
「ええ、お父さん。」
「ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。」
 彼はその廃屋から出て、もっといい隠れ場所をさがしながら、大きな建物に沿って歩き出した。幾つも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみな格子(こうし)がついていた。
 建物の内側の曲がり角(かど)を通り過ぎると、アーチ形の窓が幾つもある所に出た。光がさしていた。彼は爪先(つまさき)で伸び上がって、一つの窓からのぞいてみた。それらの窓はみなかなり広い一つの広間についていて、広間の中は大きな石が舗(し)いてあり、迫持揃(せりもちぞろい)と柱とで仕切られ、ただ一つの小さな光と大きな影とのほか、何も見分けられなかった。その光は、片すみにともされてる一つの有明(ありあけ)から来るのだった。広間の中はひっそりとして、何も動くものはなかった。けれどもじっと見ていると、床石の上に、喪布におおわれた人間の形らしいものが、ぼんやり見えるようだった。それはうつ向きになって、床石に顔をつけ、腕を十字に組み、死んだようにじっとして動かなかった。床の上に引きずっている蛇(へび)のようなもので、そのすごい形のものには首に繩(なわ)がついてるようにも思われた。
 広間のうちは薄ら明りに浮かび上がってくる一種の靄(もや)が立ちこめて、いっそう恐ろしい趣になっていた。
 ジャン・ヴァルジャンがその後しばしば言ったことであるが、彼は生涯(しょうがい)に幾度か陰惨な光景に出会ったけれども、その薄暗い場所でま夜中にのぞき見た謎(なぞ)のような人の姿が、何とも言えない不可解な神秘を行なってるありさまほどぞっとする恐ろしいものは、かつて見たことがなかった。それはたぶん死んでるのかも知れないと想像するのは恐ろしいことだったが、あるいは生きてるのかも知れないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。
 彼は勇気を鼓して額を窓ガラスに押し当て、それが動きはしないかをうかがった。だいぶ長い間そうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と突然名状し難い恐怖を感じて、彼は逃げ出した。後ろもふり返り得ないで物置きの方へ駆け出した。もしふり向いたら、後ろにはきっとその形が腕を振りながら大またに追いかけてくるのが見えるに違いないような気がした。
 彼は息を切らして小屋の所へ帰ってきた。足もまっすぐには立てなかった。腰には冷や汗が流れていた。
 いま自分はどこにいるのであろう。パリーのまんなかにこんな墓場のようなものがあろうとは、だれが想像し得られよう。この不思議な家は何だろう。夜の神秘に満ちた建物、天使のような声でやみの中に人の心を招く家、しかも近づいてゆくと突然に現わるるその恐るべき光景、輝かしい天国の門が開けるかと思うと、恐ろしい墓場の門が開いてくる。そしてそれはまさしく現実の建物である、街路の方には番地がしるしてある一軒の家である。夢ではないのだ。しかし彼は容易にそう信ずることができなかった。
 寒気、心配、不安、その夜の種々な激情、そのために彼は実際熱をも発していた。そしてあらゆる考えが頭のうちには入り乱れていた。
 彼はコゼットに近寄った。コゼットは眠っていた。

     八 謎(なぞ)はますます深くなる

 コゼットは一つの石に頭をもたして、そこに眠ってしまっていた。
 彼はそのそばにすわって、彼女をながめ初めた。そして彼女をながめてるうちにしだいに心が落ち着いてきて、頭の自由を回復した。彼は次の真実を、今後の自分の生活の基をはっきりと認めた、すなわち、コゼットがいる間は、コゼットをそばに有している間は、自分の求むるところのものはすべて彼女のためのみであり、自分の恐れるところのものもすべて彼女のためのみであるということを。彼は彼女に着せるために上衣をぬいでいたが、ひどく寒いとも感じてはいなかったのである。
 しかるに、そういう瞑想(めいそう)にふけっているうちに、少し前から変な物音が彼の耳に達していた。ちょうど鈴を振ってるような音だった。それが庭の中に聞こえていた。弱くはあるが、はっきりと聞き取れた。夜牧場で家畜の首についてる鈴から起こるかすかな小音楽にも似寄っていた。
 その音をきいて、ジャン・ヴァルジャンはふり返った。
 よく見ると、庭の中にだれか人がいた。
 一人の男らしい人影が、瓜畑(うりばたけ)の幾つもの鐘形覆(しょうけいおお)いの間を、規則正しく立ち上がったりかがんだり立ち止まったりして歩いていた。ちょうど何かを地面に引きずってるかまたはひろげてるようだった。その男は跛者(びっこ)らしかった。
 ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。不運な者らが絶えずやるような身震いであった。すべてに敵意がありすべてが疑わしいように彼らは思うものである。人の目につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われやすいからといっては夜をきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、先刻は庭に人影のないのを見ておののき、今は庭にだれかいるのを見ておののいた。
 彼は夢幻的恐怖から現実的恐怖へと陥っていった。考えてみると、ジャヴェルと探偵(たんてい)の者らはおそらくまだ立ち去っていないだろう、彼らは必ずや通りに見張りの者を残していったろう、あの男が自分を庭のうちに見いだしたら、泥坊と叫んで彼らの手に自分を渡してしまうだろう。彼は眠ってるコゼットを静かに腕に抱いて、物置きの一番奥のすみに、廃(すた)れた古い家具のつみ重なっている向こうに、そっと連れていった。コゼットは身動きもしなかった。
 そこから彼は、瓜畑の中にいる男の様子をうかがった。不思議なことには、鈴の音はその男の動作につれて起こっていた。男が近づくと鈴の音も近づき、男が遠くなると鈴の音も遠くなり、男が急な動作をするとそれにつれて顫音(せんおん)が聞こえ、男が立ち止まると鈴の音もやんだ。明らかに鈴はその男についてるらしかった。してみると、それはいったい何を意味するのであろう。羊か牛ででもあるように鈴を下げてるその男は、いったい何者であろう。
 そんな疑問をくり返しながら、彼はコゼットの手にさわってみた。その手は冷えきっていた。
「ああこれは!」と彼は言った。
 彼は低い声で呼んだ。
「コゼット!」
 コゼットは目を開かなかった。
 彼は激しく揺すってみた。
 彼女は目をさまさなかった。
「死んだのかしら!」と彼は言った。そして頭から足先まで震えながら立ち上がった。
 最も恐ろしい考えが混乱して彼の頭を通りすぎた。おぞましい想像が一隊の地獄の神のように襲いきたって、頭脳の壁に激しく押し寄せることもあるものである。愛する人々の身の上に関する場合には、用心深い人の心もあらゆる狂気じみたことを考え出すものである。睡眠も寒い夜戸外においては生命にかかわることがあるのを彼は思い出した。
 コゼットはまっさおになって、彼の足元の地面にぐったり横たわって、身動きもしなかった。
 彼は耳をあててその呼吸をきいてみた。
 息はまだあった。しかしそれもきわめてかすかで、すぐにも止まりそうに思えた。
 どうして彼女をあたためるか、どうして彼女をさまさせるか? その一事より以外のことはすべて彼の頭から消えてしまった。彼は我を忘れて小屋の外に飛び出した。
 十五分とたたないうちにコゼットを寝床に寝かして火のそばに置いてやることは、是非ともしなければならないことだった。

     九 鈴をつけた男

 ジャン・ヴァルジャンは庭にいる男の方へまっすぐに進んで行った。彼はチョッキの隠しにはいっていた貨幣の包みを手に握っていた。
 男は顔を下に向けて、彼がやって来るのを知らなかった。大股(おおまた)に飛んで行ってジャン・ヴァルジャンはすぐ彼の所へ達した。
 ジャン・ヴァルジャンはそのそばに行って叫んだ。
「百フラン!」
 男はびくりとして目を上げた。
「百フランあげる、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「もし今夜私を泊めてくれるなら!」
 月の光はジャン・ヴァルジャンの狼狽(ろうばい)した顔をまともに照らしていた。
「おや、あなたですか、マドレーヌさん!」と男は言った。
 そんな夜ふけに、不思議な場所で、その見も知らぬ男から、マドレーヌという名をふいに言われたので、ジャン・ヴァルジャンは思わずあとにさがった。
 彼は何でも予期してはいたが、そのことばかりは全く思いがけないことだった。彼にそう言った男は腰の曲がった跛の老人で、ほぼ百姓のような着物をきて、左の膝(ひざ)に皮の膝当てをつけ、そこにかなり大きな鈴をぶら下げていた。その顔は影になっていて見分けられなかった。
 そのうちに老人は帽子をぬいで、震えながら叫んだ。
「まあ、マドレーヌさん、どうしてここへきなすった? いったいどこからおはいりなすった? 天から降ってでもきなすったかね。そうそう、あなたが降ってきなさるなら、天からに違いない。そしてまたその様子は! 襟飾(えりかざ)りも、帽子も、上衣も着ていなさらない。知らない人だったら魂消(たまげ)てしまいますよ。まあこの節は聖者たちも何と妙なことをなさることやら。だがまあどうしてここへおはいりなすったかね。」
 その言葉は引き続いて出てきた。田舎者(いなかもの)の早口で少しも不安を与うるものではなかった。ただ質朴な正直さと呆然(ぼうぜん)自失との入り交じった調子だった。
「君はだれですか、そしてこれはどういう家ですか。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「まあ何ということだ!」と老人は叫んだ。「私はあなたからここに入れてもらった男で、この家はあなたが私を入れて下さった所ですよ。ええ私がおわかりになりませんかな。」
「わからない。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「どうして君は私を知ってるんです。」
「あなたは私の生命(いのち)を助けて下さった。」と男は言った。
 男は向きを変えた。月の光が彼の横顔を照らし出した。そしてジャン・ヴァルジャンはフォーシュルヴァン老人を見て取った。
「ああ、君だったか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「なるほど思い出した。」
「それで安堵(あんど)しましたよ!」と老人は恨むような調子で言った。
「そしてここで何をしてるんです。」とジャン・ヴァルジャンは尋ねた。
「なあに、瓜(うり)を囲ってやってるんですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンが近寄ってきた時、フォーシュルヴァン老人は実際手に防寒菰(ぼうかんこも)のはじを持っていて、それを瓜畑(うりばたけ)の上にひろげてるところだった。彼は一時間ばかり前から庭に出ていて、既に多くの菰をひろげてしまっていた。ジャン・ヴァルジャンが物置きの中からながめた彼の変な動作は、そういうことをしてるためだった。
 彼は続けて言った。
「私は考えたんですよ。月はいいし、霜はおりるだろう、どれひとつ瓜に外套(がいとう)をきせてやろうかって。」そして彼はジャン・ヴァルジャンを見て高く笑いながらつけ加えた。「あなたにもそうしてあげなければいけませんかな。だがいったいどうしてここにきなすったかね。」
 ジャン・ヴァルジャンは、今自分はこの男から知られている、少なくともマドレーヌという名前で知られている、ということを感じて、こんどは用心してしか話を進めなかった。彼は種々なことを尋ねてみた。不思議にも役割が変わってしまったかのようだった。今や尋ねかけるのは闖入者(ちんにゅうしゃ)なる彼の方であった。
「いったい君が膝(ひざ)につけてる鈴は何かね。」
「これですか、」とフォーシュルヴァンは答えた、「これは人がよけるようにつけてるんですよ。」
「なんだって、人がよけるように?」
 フォーシュルヴァン老人は妙な瞬(まばたき)をした。
「なにね、この家には女ばかりきりいないんです。大勢の若い娘さんたちですよ。私と顔を合わすのが険呑(けんのん)だと見えましてね、鈴で知らしてやるんですよ。私が行くと、皆逃げていきます。」
「これはどういう家かね。」
「ええ! 御存じでしょうがね。」
「いや、知らないんだ。」
「私をここの庭番に世話して下すってながら!」
「まあ何にも知らないものとして教えてくれ。」
「それじゃあね、プティー・ピクプュスの修道院ですよ。」
 ジャン・ヴァルジャンは思い出した。偶然にも、言い換えれば天意によって、彼はまさしくサン・タントアーヌ街区のその修道院に投げ込まれたのだった。そこには、車から落ちて不具になったフォーシュルヴァン老人が、彼の推薦で二年前から雇われていた。ジャン・ヴァルジャンは独語(ひとりごと)のように繰り返した。
「プティー・ピクプュスの修道院!」
「そうですよ。だがいったい、」とフォーシュルヴァンは言った、「マドレーヌさん、あなたはどうしてここにおはいりなすったかね。あなたは聖者には違いないが、それでも男なんで、そしてここには男はいっさい入れないんですがね。」
「君もここにいるじゃないか。」
「私だけですよ。」
「それにしても私はここに置いてもらわなければならないんだ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「それはどうも!」とフォーシュルヴァンは叫んだ。
 ジャン・ヴァルジャンは老人に近寄って、重々しい声で彼に言った。
「フォーシュルヴァン爺(じい)さん、私は君の生命(いのち)を助けたんだ。」
「それはもう私から最初に申したことですよ。」とフォーシュルヴァンは答えた。
「それでは、昔私が君にしてやったとおりのことを、今日は君が私のためにしてくれることができるのだ。」
 フォーシュルヴァンはそのしわよった震える手のうちにジャン・ヴァルジャンの頑丈(がんじょう)な両手を握りしめ、口もきけないようにしばらく無言で立っていた。そしてついに叫んだ。
「おう、少しでも御恩報じができれば、それは神様のお引き合わせです。私があなたの生命を助ける! ああ市長さん、何なりとこの爺におっしゃって下さい!」
 美しい喜びが、その老人の姿を一変さしたようだった。その顔からは光がさしてるかのように思われた。
「いったい何をせよとおっしゃるんですかね。」と彼は言った。
「それは今に言う。だが君は室(へや)を持ってるかね。」
「向こうに一軒建ての小屋を持っています。こわれた元の修道院の後ろで、だれの目にもかからぬ引っ込んだ所ですよ。室は三つあります。」
 なるほどその小屋は、廃屋の後ろに隠れていて、だれの目にもつかないようになっているので、ジャン・ヴァルジャンは気づかなかったのである。
「よろしい。」ジャン・ヴァルジャンは言った。「では君に二つの頼みがある。」
「何ですな、市長さん。」
「第一には、君が私の身上について知ってることをだれにも言わないということ。第二には、これ以上何も聞きただそうとしないこと。」
「よろしいですとも。私はあなたが決して間違ったことはなさらぬのを知っていますし、あなたはいつも正しい信仰の方だったのを知っています。それからまた、私をここに入れて下すったのもあなたです。あなたのお考えのままです。私は何でもします。」
「それでいい。では私といっしょにきてくれ。子供を連れに行くんだから。」
「へえ、子供がおりますか!」とフォーシュルヴァンは言った。
 彼はそれ以上一言も言わなかった。そして犬が主人の後ろに従うようにジャン・ヴァルジャンのあとについていった。
 それから三十分とたたないうちに、コゼットは盛んな火に当たってまた血色がよくなり、老庭番の寝床の中に眠っていた。ジャン・ヴァルジャンは元どおり襟飾(えりかざ)りをつけ上衣を着ていた。壁越しに投げ込まれた帽子も見つけて拾ってきた。ジャン・ヴァルジャンが上衣を引っ掛けている間に、フォーシュルヴァンがはずした鈴のついた膝当(ひざあ)ては、もう負いかごのそばの釘(くぎ)に掛けられて壁を飾っていた。二人の男はテーブルに肱(ひじ)をついて火にあたった。テーブルの上にはフォーシュルヴァンの手で、チーズの一切れと黒パンとぶどう酒の一びんとコップ二つとが並べられていた。そして老人はジャン・ヴァルジャンの膝に手を置いて言っていた。
「ああ、マドレーヌさん、あなたは私がすぐにはわかりませんでしたな。あなたは人の生命(いのち)を助けておいて、その人を忘れてしまいなさる。それはよろしくありません。助けられた者は皆あなたを覚えています。があなたは、まあ恩知らずですな!」

     十 ジャヴェルの失敗の理由

 今までいわばその裏面を見てきたとも言える以上のでき事は、きわめて簡単な事情の下に起こったのである。
 ジャン・ヴァルジャンが、ファンティーヌの死んでいる寝台のそばでジャヴェルに捕えられたその日の夜、モントルイュ・スュール・メールの市の牢屋(ろうや)を脱走した時、警察の方では、その脱走囚徒はパリーの方へ走ったに違いないと想像した。パリーは実にすべてをのみつくす大きな渦巻きで、一度そこに陥ればすべてのものが、海の渦巻きに吸わるるごとく世の渦巻(うずま)きの中に姿を消してしまう。いかなる大森林といえども、人を隠すことその大群集に及ぶものはない。各種の逃亡人はそのことを知っている。彼らはあたかも呑噬(どんぜい)の淵(ふち)に身を投ずるがごとくにパリーへ行く。そこには彼らをかばってくれる深淵(しんえん)がある。警察の方でもそれを知っていて、他で取り逃がした者をいつもパリーでさがすのである。で警察はモントルイュー・スュール・メールの前市長をもそこでさがした。ジャヴェルはその捜索の便宜のためにパリーへ呼ばれた。果して彼は、ジャン・ヴァルジャンの捕縛に多大の力となった。彼の熱心と知力とはそのおりに、アングレー伯の下に警視総監秘書をしていたシャブーイエ氏の認むるところとなった。その上シャブーイエ氏は前からジャヴェルに目をかけてやっていたので、モントルイュ・スュール・メールの警視から彼をパリー警察付きに抜擢(ばってき)した。パリーで彼は各方面に働いて、かかる職務について言うのはいささか変ではあるが、はなはだ名誉ある技量を示した。
 彼はもうジャン・ヴァルジャンのことは忘れていた。絶えず獲物をあさっているそれらの猟犬は、今日の狼(おおかみ)のために昨日の狼を忘れるものである。ところが一八二三年十二月のある日ジャヴェルは一つの新聞を読んだ。
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